(その一) 蕪村が描いた芭蕉翁像
さまざまな俳人あるいは画人が芭蕉像を描いている。代表的なものは、芭蕉と面識のある門人の杉山杉風と森川許六、面識はないが芭蕉門に連なる彭城百川(各務支考門)、そして、画俳二道を究めた与謝蕪村(宝井其角・早野巴人門)などの作が上げられる。
杉風の描いた芭蕉像は、①端座の像(褥に端座・左向き) ②脇息の像(左向き) ③火桶にあたる像(左向き) ④竹をえがく像(左向き) ⑤馬上の像(笠をかぶり右方へ進行)などで、この①のものは「すべての芭蕉像の基盤」になっており、杉風筆像は、温雅で「おもながのおだやかな面相である」と評されている(『岡田利兵衛著作集1芭蕉の書と画』所収「画かれた芭蕉」)。
蕪村の描いた芭蕉像は、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』には十一点が収録されている。
① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九9作。金福寺蔵)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)
⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)
しかし、これらは、いわゆる「画賛形式」(画と賛が一体となっている条幅・色紙等)のもののうち、芭蕉単身像の条幅もので(上記の十一点のうち、⑦は一幅半切(紙本墨画)で、他は長さに異同はあるが一幅もので、①②⑤⑥は絹本淡彩、③と⑩は紙本淡彩、④は紙本墨画である。
これらの芭蕉単身像では無帽のものはなく、宗匠頭巾のようなものを被っているが、それぞれ制作時に関係するのか、それぞれに特徴がある。上記の①②は、円筒型(丸頭巾型)の白帽子、③④⑥が長方形型(角頭巾型)の白帽子、⑤は長方形型(角頭巾型)の黒帽子、⑥は長方形型(角頭巾型)の黒(薄墨)帽子の感じのものである。
これらの芭蕉単身像のものではなく、「俳仙群会図」などの芭蕉像を加えると次のとおりとなる。
⑫ 座像(「俳仙群会図」=十四俳仙図、絹本着色、款「朝滄」、上・中・下の三段に刷り込んだ一幅。上段に「此俳仙群会の図ハ元文のむかし余弱冠の時写したるもの」とあり、元文元年(一七三五)から同五年(一七四〇)の頃の作とされているが、「その落款・印章によれば、やはりこの丹後時代の作」(『続芭蕉・蕪村(尾形仂著)』)と、宝暦四年(一七五四)から同七年(一七五七)の頃の作ともいわれている。とにもかくにも、蕪村最古の芭蕉像、無帽で右向き、蕪村の師の早野巴人が、芭蕉の左側の園女の次に宗匠頭巾を被り左向きで描かれている。柿衛文庫蔵)
⑬ 座像(「八俳仙」画賛、淡彩、一幅。宗匠頭巾、笠を持ち正面像。「物云へは唇寒し秋の風」。印は「長庚」「春星」。『山王荘蔵品展覧図録』)
⑭ 座像(「十一俳仙」)画賛、紙本墨画、一幅。宗匠頭巾、笠・頭陀袋の正面像。「名月や池をめくりて終夜」。印は「三菓居士」。個人蔵)
⑮ 座像(版本『其雪影』挿図、明和九年(一七七二)刊、宗匠頭巾、正面像。「古いけや蛙とひ込水の音」。)
⑯ 座像(版本『時鳥』挿図、安永二年(一七七三刊)、宗匠頭巾、正面像。「旅に病て夢は枯野をかけ廻る」。)
⑰ 七分身像(版本『安永三年(一七四四)春帖)』挿図、宗匠頭巾、杖、頭陀袋、笠、正面像。)
さらに、「奥の細道」画巻(安永七年=一七七八作、京都国立博物館蔵)、「奥の細道」屏風(安永八年=一七七九)作、山形美術館蔵)、「奥の細道」画巻(安永八年=一七七九作、逸翁美術館蔵)、「奥の細道」画巻(安永七年=一七七八作、「蕪村遺芳」)、「野ざらし紀行」屏風(安永七年=一七七八作、個人蔵)などに、それぞれ特徴のある芭蕉像が描かれている。
上記のうちで、唯一、百川筆「芭蕉翁像」と類似しているのは、「⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)」である。
『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』の作品解説は次のとおりである。
104 「芭蕉像」画賛 一幅 一二二・一×四〇・九cm
款 「応湖南松写庵巨州需 蕪村拝写」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛 「はつしぐれ猿も小みのをほしけ也 はせを」(色紙貼付)
『大阪市青木嵩山堂入札』(昭和四・三)
その三 百川周辺と百川が描いた芭蕉像
彭城百川は、元禄十年(一六九七)の生まれ、没したのは 宝暦二年(一七五二)八月である。蕪村が上洛したのは、宝暦元年(一七五一)の八月で、蕪村と百川との京都での出会いがあったとすると、僅々一年という短い期間ということになる。
蕪村の上洛の大きな理由の一つに、画・俳両道において名を成していた百川が念頭にあったことは、先に紹介した蕪村書簡(「翁像少之内御見せ可被下」)などからして想像するに難くない。
百川の本姓は榊原、名は真淵、字が百川で、号に蓬洲、僊観、八僊、八仙堂などがある。通称は土佐屋平八郎で、彭城は自称である。俳諧は美濃派の各務支考門で、後に、麦林派の中川乙由に帰依している。
百川は町人出身の職業画家で、当時の京都の文化人ネットワークの中心人物の「売茶翁」(黄檗宗の僧で還俗後は高遊外、煎茶中興の祖)に倣い、自ら「売画自給」と称し、後に、絵師として法橋に叙せられている。
同じく日本南画の先駆者とされる武士階級の祇園南海や柳澤淇園は、職業画家ではなくより中国の士大夫階級の余技的な絵画(文人画))という異なる面を有している。また、当時舶載の中国画や画譜類に関する造詣が深く、『元明画人考』『元明清書画人名録』などの著作を有している。
南海、淇園、そして、百川が日本南画の先駆者とすると、池大雅と与謝蕪村とがその大成者として位置づけられる。そして、この両者も公家・武家階級ではなく町人階級出身で、職業画家という面においては、百川に近い画家ということになろう。
特に、画・俳両道を志している蕪村にとって、当時の百川は、格好の「プトロタイプ」(原型)という存在であったろう。
蕪村の芭蕉崇拝は夙に知られているが、百川もまた『八僊観墨なおし』(百川の第三撰集)の「墨直し」(芭蕉忌などに関連し芭蕉碑の墨直しをする儀式)を、延享二年(一七四五)に東山双林寺で修するなど、支考・乙由に連なる蕉門の一員として、やはり、芭蕉崇敬の念は人後に落ちないであろう。
そして、芭蕉忌などの句筵興行などに際しては、「芭蕉翁像」を掲げることが通例で、百川の、その種のものは、僧衣をまとった祖師形のものに類型化されているという(『蕪村の遠近法(清水孝之)』所収「百川から蕪村へ」)。
また、同著には、「芭蕉翁肖像」の図録はないが、次の三点が紹介されている。
一 芭蕉翁肖像 倣杉風画 丙寅年三月十一日八日八僊観主人模写於洛東双林寺
紙本水墨の座像一幅(佐々木昌興氏旧蔵、「南画鑑賞」八ノ四)。顔貌は杉風様式を忠実に写している。この作品は『八僊観墨なおし』の翌延享三年の「墨直し会」の席上に描かれたことに注目される。双林寺の墨直し行事は、百川筆芭蕉像の声価をも高めたものではないか。かなりな数量を描いたらしく、粗放な筆法と形式化が認められる。
二 法衣に袈裟を掛け、杖を手にする芭蕉翁立像(佐々木嘉太郎氏旧蔵、「南画鑑賞」八ノ四)
紙本水墨。前大徳大順禅師の賛があり、落款は「八僊老人写」とする。前者に比べると格段にすぐれた筆蝕に成り、草体ではあるが、百川独自の顔面描写も美しい。精魂をこめて構想し墨筆を揮ったものとして百川の芭蕉画像の佳品といえよう。(以下、略)
三 松任市の聖興寺所蔵の「八僊逸人写」すところの、僧形芭蕉像。
これも水墨画の草画で、脇息によって斜め上方を見上げるポーズに動きがある。左上部に「いざ宵やまだ誰々も見えぬうち 尼素園」の賛句がある(日本経済新聞社載、谷信一氏稿)。
上記の一については、『知られざる南画家百川(名古屋市博物館 1984 3/10 – 4/8特別展)』図録所収「参考図版目録」(かつて佐々木昌與氏のコレクションであった作品で、東京国立文化財研究所提供の写真による)で、下記のとおり紹介されている。
『知られざる南画家百川(名古屋市博物館 1984 3/10 – 4/8特別展)』図録所収「参考図版目録」
⑱ 芭蕉翁像 一幅 五一・二×二九・一cm
款 「芭蕉翁肖像 倣杉風筆 丙寅年三月十八日八僊観主人摸写 於洛東双林寺」
印 「平安一酒徒」
注 丙寅年=延享三年(一七四六)
なお、この作品については、先に紹介した茨城県立歴史館で初公開された「芭蕉翁像」の「作品解説」で、「本図と同じ構図の芭蕉翁像(名古屋市博「百川」展図録⑱)は延享三年の作と明記され、百川の来丹がその前後であることも確実となった」と記されている。
この延享三年(一七四六)は、百川が五十歳の時で、百川の大作「前後赤壁図屏風」(岡山県立美術館蔵)が創作された年である。また、この八月には売茶翁を訪ね、「売茶翁煎茶図」も創作されていて、百川の頂点に達した頃であろう。
一方、この頃の蕪村は、北関東の結城に居て、延享二年(一七四五)、三十歳の時に、萩原朔太郎の『郷愁の詩人与謝蕪村』で絶賛された、類い稀なる俳詩「北寿老仙をいたむ」(「晋我追悼曲)を創作した頃である。
いずれにしろ、百川の「芭蕉翁像」というのは、この延享三年(一七四六)の洛東双林寺で描かれたものがベースになっていて、これは、「かなりな数量を描いたらしく、粗放な筆法と形式化が認められる」(『清水・前掲書』)と、それをより完成したものとした作品の一つに、茨城県立歴史館で初公開された「芭蕉翁像」が位置するという理解で差し支えなかろう。
その他に、上記の「二・三」の系統のものとか、さらに、義仲寺の『奉扇会』関連の「芭蕉翁画像」(扇子を持つ座像)とか、「知られざる百川筆の芭蕉翁像」とかが、その背後に存在しているのであろう。
その二 蕪村と百川、そして、蕪村渇望の百川筆「芭蕉翁像」
蕪村は、宝暦元年(一七五一)、三十六歳のときに、関東遊歴の生活を打ち切って、生まれ故郷とされている摂津(大阪市毛馬)ではなく、その隣の京都に移住して来る。以後、丹後時代と讃岐時代の数年間を除いて、死没(天明三年=一七八三=六十八歳)までの約三十年間を京都で過ごすことになる。
この京都に移住してからの讃岐時代というのは、宝暦四年(一七五四)から同七年(一七五七)九月頃までの足掛け四年間の頃を指す(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。この丹後時代の蕪村についての百川に関する書簡が今に遺されている(『蕪村の手紙(村松友次著)』)。
[ 被仰候八僊観の翁像(オオセラレソウロウ ハッセンカンノオキナゾウ)
少之内御見せ可被下候(スコシノウチ オミセクダサルベクソウロウ)
其儘わすれ候得共(ソノママ ワスレソウラヘドモ)
御払可被成思召候もの(オハライナサルベク オボシメサレソウロウモノ)
此のものへ御見せ可被下候(コノモノヘ オミセクダサルベクソウロウ)
他見は不仕候(タケンハ ツカマツラズソウロウ)
おりしも吐出候発句に(オリシモハキイダシソウロウ ホックニ)
萩の月うすきはものゝあわ(は)れなる
某(一字破損)屋嘉右衛門 様 蕪村 ]
この八僊観こと彭城百川の描いた芭蕉像を「少しの間見せてください」と渇望した、その幻の百川筆「芭蕉像」の真蹟が、蕪村が滞在していた丹後の宮津(京都府宮津市)で、蕪村生誕三百年(平成二十八年=二〇一六)の今に引き継がれて現存している(『宮津市史通史編下巻』所収「彭城百川の芭蕉像と宮津俳壇(横谷賢一郎稿)」)。
この経過をたどると、平成六年(一九九四)に京都府立丹後郷土資料館で特別展「与謝蕪村と丹後」が開催され、それが契機となって、宮津市在住の方から百川筆「芭蕉像」の調査依頼があり、佐々木承平京大教授らによって真筆と鑑定されたとのことである(『蕪村全集第六巻』所収「月報六・平成十年三月」)。
これらに関して、平成九年(一九九七・九・七「朝日新聞」)に下記のような「芭蕉『幻の肖像』発見」の記事で紹介されているようである(未見)。
[ 江戸期の南画(文人画)の創始者の一人、彭城百川(さかき・ひゃくせん)(1698-1753)が描いた松尾芭蕉の肖像画の掛け軸が京都府宮津市の俳壇指導者宅に保存されていたことがわかった。この絵は、与謝蕪村(1716-1783)が「ぜひ見たい」と懇願した手紙だけが後世に伝わり、絵そのものは所在がわかっていなかった。
掛け軸は、芭蕉の座像が水墨画で描かれ、「ものいへは 唇寒し 秋の風」の芭蕉の代表句が書き込まれている。佐々木丞平・京大教授(美術史)らが百川の真筆と鑑定した。
百川は名古屋に生まれ、京都を拠点に活躍した。延享4年(1747年)に天橋立を詠んだ句と絵「俳画押絵貼屏風(おしえはりびようぶ)」(名古屋市立博物館蔵)があり、今度見つかったものも同時期に丹後に滞在中、描いたらしい。
蕪村は、宝暦4年(1754年)春から3年余り宮津に滞在した間にこの掛け軸を見ることができたとみられるが、はっきりしていない。
肖像画は宮津俳壇の宗匠(指導者)に約250年間、引き継がれてきたらしい。芭蕉の流れをくむ宗匠で同市内のはきもの商、撫松堂水波(ぶしようどう・すいは、本名・花谷光次)さん(1993年死去)の遺族から、京都府立丹後郷土資料館に問い合わせがあって存在が分かった。 ]
この蕪村が渇望した百川筆「芭蕉翁像」が、平成九年(一九九七)十月十日から十一月十三日に茨城県立歴史館で開催された特別展「蕪村展」で初公開された。
その図録に、「七〇 参考 芭蕉翁像 彭城百川筆 紙本墨画 一幅 八五・一×二五・一」と収載されている。その「作品解説」(京都府立丹後郷土資料館 伊藤太稿)は次のとおりである。
[ 賛 人の短をいふことなかれ
己か長を説(とく)事なかれ
ものいへは(ば)
唇寒し
秋の風
款記 芭蕉翁肖像 倣杉風図 八僊真人写
印章 「八僊逸人」(白文方印) 「字余白百川」(手文方印)
彭(さか)城(き)百川(ひゃくせん)(一六九八~一七五二)は、名古屋に生まれ、後に京都を拠点として活躍した日本南画の創始者の一人と目される画家である。はじめ俳諧の道に入って各務支考の門にあり、俳画にも数々の傑作を残し、俳書をも手がけたその画俳両道にわたる活躍は、まさしく蕪村のプトロタイプと言えよう。蕪村が、この百川に私淑していたことは、「天(てん)橋図(きょうず)賛(さん)」はじめ丹後時代以降のいくつかの作品中に明記されており、注目されてきた。しかしながら、従来は、丹後における百川の実作が未確認のままで、両者の関係を具体的に跡づけることはできなかった。ところが最近になって、二点のきわめて興味深い作品の存在が明らかになった。一つは「天(あまの)橋立図(はしだてず)」を含む延享四年(一七四七)作の「十二ヶ月俳画押絵貼屏風」(名古屋市立博物館)であり、もう一つは初公開の本図である。本図は、宮津俳壇の守り本尊として代々の宗匠に伝えられてきたのであるが、添付された代々の譲状の写しは、百川が当地に来遊の折、真照寺で描いたという鷺(ろ)十(じゅう)の文に始まる。「三俳僧図」に描かれた鷺十は蕪村とともに歌仙を巻き、「天橋図賛」は真照寺で書されたことを想起したい。現在所在不明であるが、蕪村が本図を見せてほしいと懇望する某屋嘉右衛門宛ての書簡の存在も知られている。なお、本図と同じ構図の芭蕉翁像(名古屋市博「百川」展図録⑱)は延享三年の作と明記され、百川の来丹がその前後であることも確実となった(注=原文に「ルビ」「濁点」を付した)。 ]