屠龍之技(酒井抱一句集)第一こがねのこま(1-5)~(1-11)

1-5  かげろふや野馬(のうま)の耳の動く度(たび)

 陽炎(かげろう、かげろふ)=三春。子季語に「野馬(かげろふ・やば)・糸遊・遊糸・陽炎燃ゆ・陽焔・かげろひ・かぎろひ」。

 陽炎や柴胡(さいこ)の糸の薄曇    芭蕉「猿蓑」

かげろふに寝ても動くや虎の耳     其角「其角発句集」

野馬(かげろふ)に子共あそばす狐哉  凡兆「猿蓑」

陽炎や名もしらぬ虫の白き飛(とぶ)  蕪村「蕪村句集」

かげろふや簣(あじか)に土をめづる人 蕪村「蕪村句集」

  この二句目の「かげろふに寝ても動くや虎の耳」(其角)の「かげろふ」は、「かげろふ(陽炎)=三春」か「かげろふ(蜉蝣=初秋)・かげろふ(蜻蛉=三秋)」か、それとも、「陽炎と蜉蝣・蜻蛉」とが掛詞になっているのかと、いろいろと悩ましい、これまた「謎句」的な仕掛けのある句なのであろう。

 この句には、「四睡図」という前書が付してあり、『其角発句集(坎窩久臧考訂)』では、「豊干禅師、寒山、拾得と虎との睡りたる図」との頭注(同書p180)がある。 

 其角が、どういう「四睡図」を見たのかは定かではないが、実は、其角の師匠の芭蕉にも、次のような「四睡図」を見ての即興句が遺されている。

  月か花かとへど四睡の鼾(いびき)哉  ばせお (真蹟画賛、「奥羽の日記」)

 この芭蕉の句は、「おくの細道」の「羽黒山」での、「羽黒山五十代の別当・天宥法印の『四睡図』の画賛」なのである。

芸阿弥(室町時代)「四睡図」(部分拡大図)(「ウィキペディア」)

長沢芦雪筆(18世紀)「四睡図」(部分図)(「ウィキペディア」)

菱川師宣(1701年)「四睡図」(部分図)(「ウィキペディア」) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%9D%A1%E5%9B%B3

  其角の「かげろふに寝ても動くや虎の耳」の「虎の耳」は、芭蕉の「月か花かとへど四睡の鼾哉」の「四睡図」に描かれている「虎の耳」を背景にしているのかも知れない。と同時に、この其角の句は、同じく、芭蕉の、その『猿蓑』に収載されている「陽炎」の句の、「陽炎や柴胡(さいこ)の糸の薄曇」をも、その背景にしているように思われる。

 この「柴胡(さいこ)の糸」というのは、薬草の「セリ科の植物のミシマサイコの漢名、和名=翁草」で、その糸ような繊細な「柴胡」を、「糸遊」の別名を有する「陽炎」と「見立て」の句なのである。

 そして、其角は、芭蕉の、その「糸ような繊細な『柴胡』=「陽炎」という「見立て」を、「かげろふ」=「陽炎」=「薬草の糸のような柴胡」(芭蕉)=「蜉蝣(透明な羽の薄翅蜉蝣・薄羽蜉蝣・蚊蜻蛉)」(其角)と「見立て替え」して、「蕉風俳諧・正風俳諧」(『猿蓑』の景情融合・姿情兼備の俳風)から「洒落風俳諧」(しゃれ・奇抜・機知を主とする俳風)への脱皮を意図しているような雰囲気なのである。

 (『猿蓑』の「陽炎」の句)

 陽炎や/取つきかぬる雪の上      荷兮(かけい)

かげろふや/土もこなさぬあらおこし  百歳

かげろふや/ほろほろ落る岸の砂    土芳

いとゆふのいとあそぶ也虚木立(からきだて)  伊賀 氷固(ひょうこ)

野馬(かげろふ)に子共あそばす狐哉  凡兆

かげろふや/柴胡の糸の薄曇      芭蕉

(「洒落風」其角俳諧)

かげろふに寝ても動くや虎の耳     其角「其角発句集」

かげろふや野馬(のうま)の耳の動く度 抱一『屠龍之技』

 1-5  かげろふや野馬(のうま)の耳の動く度(たび)

  句意=「陽炎(かげろう)」が立つ野辺に、「かげろう(野馬)」の異名をもつ「野馬(のうま・やば)」が「四睡図」の虎のように寝入っていて、その耳に「かげろう(蜉蝣)」が止まるのか、時折、耳を動かしている。

 (参考)英一蝶の「風流四睡図」周辺

「風流四睡 英一蝶」(「ウィキメディア・コモンズ、フリーメディアリポジトリ」)

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E9%A2%A8%E6%B5%81%E5%9B%9B%E7%9D%A1_%E8%8B%B1%E4%B8%80%E8%9D%B6.jpg

  其角の畏友「英一蝶」は、「四睡図」の「豊干禅師」=「花魁(おいらん)」、「寒山・拾得」=「二人の禿(かむろ)」、「虎」=「猫」に「見立て替え」して、「風流四睡図」を描いている。其角が、この「風流四睡図」に画賛をすれば、次のような句になる。

       かげろふに寝ても動くや猫の耳 

 

1-6 ゆめに見し梅や障子の影ぼうし

  季語=梅(初春)。「影ぼうし」=影法師=光をさえぎったため、地上や障子、壁などにその人の形が黒く映ったもの。かげぼう。かげぼし。かげんぼし。※七十一番職人歌合(1500頃か)六三番「影法師見苦しければ辻相撲月をうしろになしてねるかな」(『精選版 日本国語大辞典』)

  この句もまた、抱一が金科玉条としている「江戸座俳諧」宗匠の元締ともいうべき、「宝井其角」(「竹下侃憲(たけした ただのり)」、別号=「螺舎(らしゃ)」「狂雷堂(きょうらいだう)」「晋子(しんし)」「宝普斎(ほうしんさい」)の、次のような、世に知られている「其角句」が、その念頭(「季語・俳語・語句」など)にあっての一句ということになろう。

  貞享四年(一六八七)、其角二十七歳、母の死にあっての服忌中の句に、

   たのみなき夢のみ見けるに

うたたねのゆめに見えたる鰹かな 其角「続虚栗」「五元集」

   初七ノ夜いねかねたりしに

夢に来る母をかへすか時鳥  其角「続虚栗」「五元集」

元禄三年(一六九〇)、其角三十歳の六月十六日の句に、

  怖(ヲソロシキ)夢を見て

切られたる夢は誠か蚤の跡   其角「花摘」

  いきげさにずてんど   うちはなされたるがさめて後

切られたる夢は誠か蚤の跡   其角「五元集」

雀子やあかり障子の笹の影   其角『五元集』

 むめの木や此一筋を蕗のたう  其角「猿蓑」

 百八のかねて迷ひや闇のむめ  其角「猿蓑」

宝井其角(『國文学名家肖像集』)(「ウィキペディア」)

※ ゆめに見し梅や障子の影ぼうし(「こがねのこま」1-6)

 句意=「ゆめ(夢)」でみた「梅(むめの木)」の「障子の影ぼうし(障子に映る影法師)」は、亡き人の面影を伝えてくる。

  雀子やあかり障子の笹の影  (其角『続虚栗』)

 「影」は、「人やものの姿が光りで、地面や壁に映し出されたもの」、「影法師」は、「影」を擬人化しての用例。「一寸法師、荒法師、起き上がり法師、てつくつく法師(蝉の一種)」などと、この種の用例はしばしば見かける。

  弱法師(よろぼうし)我門(かど)ゆるせ餅の札  (其角『猿蓑』)

 この其角の「弱法師」は、乞食のこと。「餅の札」というのは、「年末に民家に餅を所望する乞食が、餅をくれる家と、呉れない家を区分する札を貼って歩く」、その札のこと。

 抱一(宝暦十一年=一七六一年生まれ)と全く同時代の、小林一茶(宝暦十三年=一七六三年生まれ)にも、「影法師」の佳句が多い。

http://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/jsearch.cgi?dbi=20140103235455_20140104001012&s_entry=0&orSearch=1&se0=0&sf0=0&sk0=%89e%96@%8et

   影法師とまめ息才でけさの春        俳諧寺抄録 文化14

  影法師に御慶を(申す)わらじ哉    文政句帖  文政7

  行灯やぺんぺん草の影法師      文政句帖 文政8

  梅咲やせうじ(障子)に猫の影法師  七番日記 文政1

  影法師を七尺去(さり)てぼたん哉  七番日記 文政1

  影法師に恥よ夜寒のむだ歩き     おらが春 文政2

  秋風やひよろひょろ山の影法師    七番日記 文化11

  秋風や谷向(むか)ふ行(ゆく)影法師 八番日記 文政4

  我よりは若しかゞし(案山子)の影法師 八番日記 文政4

  日ぐらしや我影法師のあみだ笠     八番日記 文政4

  朝顔や横たふはたが影法師       題葉集  寛政12

  老たりな瓢(ふくべ)と我が影法師   七番日記 文化9

  ひいき目に見てさへ寒し影法師     七番日記 文政1

  影法師も祝へたゞ今とし暮(くれ)る  八番日記 文政2

(参考) 「取合せ論の史的考察―その本質と根拠―(堀切実稿)」

https://www.jstage.jst.go.jp/article/haibun1951/2008/115/2008_115_1/_article/-char/ja/

 はじめに― “取合せ” と日本文化

 「取合せ」は俳諧特有の理論ではない。絵画における色彩の配合、茶道における道具の取合せ、その他、香道の組香や狂言の衣裳の取合せなど、日本の諸芸道に相通じた手法である。  

  取合される“もの” と“もの” との異質性が要求され、しかも、そこに生じる違和感を止揚し、超克されるところに、取合せの美学が成立する。

 取合せは、取合される素材に即した感覚的、もしくは形象的な面での取合せを本質とするものではない。たとえば茶道の取合せといえば、普通、道具の取合せをいうが、個々の茶道具の取合せによって、それぞれの道具が単独にもっている美とは別の、ある微妙な調和美― 変化と調和の世界を表すものであり、これを「数寄」と称する。

 「数寄」とは「心のほかに物なし。心は万理をふくむ。時の宜に叶ふ事、皆わが心のなす事也」(『石州三百ヶ条』)と説かれるように、人の心の数寄に発するものであり、茶道を確立させた利休流の極意がここにある。単に道具の感覚的な調和美をさすのでなく、いわば茶席に臨む人たちの心の調和をめざすものであり、そこに配される道具は、要するに心の具象化として示されるのである。

 (以下略)

一、連歌における取合せ  (略)

二、談林俳諧における雅・俗配合の手法 (略)

 三、蕉風の取合せ論― その問題点

 蕉風の取合せ論について考察しようとする場合、つねに論議の対象となるのは、『去来抄』「修行」篇の次の一条である。

   先師曰く「発句は頭よりすらすらといひ下し来るを上品と

す」。洒堂曰く「先師『発句は汝がごとく二つ三つ取り集

めするものにあらず。こがねを打ちのべたるがごとくなる

べし』となり」。

先師曰く「発句は物を合あはすれば出来しゅったいせり。

その能く取合するを上手といひ、悪しきを下手といふ」。(下略)

 右の一条のうち、「こがねを打のべたるがごとく」― いわゆる「一物仕立て」の句について説かれた前半部は、去来著の『旅寝論』(元禄十二年三月稿)に師説としてみえるものと一致し、「取合せ」の句についての後半部は、許六の「自得発明弁」(元禄十一年三月稿、『俳諧問答』所収)に同じく師説としてみえるものとほぼ合致している。そして一般にこの一条は、芭蕉が門人の資質・個性に応じて、ときには全く正反対の指導をしていること― すなわち“ 対機説法” の好例として受けとめられてきたのであった。

 これに対して、「取合せ」論を、最短詩型文芸としての蕉風発句の本質的構造にかかわるものととらえ、表現論として創始された中心命題として位置づけようとする立場から、はじめて「取合せ」論を本格的な検証したのが、拙稿「取合せ論の検討」(『国語と国文学』昭46 ・2月号(4) ) であったといえる。その結論は次の二点に集約される。

A、芭蕉の説の真意は、ここでいう「能く取合する」こと

― すなわち「取合せ」て、かつ「こがねを打ちのべたる」ようになった句を理想としたものであること― したがって、「取合せ」と「こがねを打ちのべたる」句とは、相互に矛盾せず、対機説法ではなかった。

B、取合せの方法は、本質的に、感覚的な“ 描写論” ではなく、作者の心の働き

― その主体的な認知のあり方にかかわる“ 思考論” である。したがって、取合せの生命

は二物を緊密に調和させる主体的な感合としての「とりはやし」(統合) の働きにある。

 (以下略)

四、蕉風における取合せの発想法 (略)

▽雅と俗の取合せによる句

▽雅・俗の取合せ以外の句

▽心情にかかわる取合せの句

▽取合せが表面には出ていない句

五、取合せという思考法 (略)

六、取合せの句における“思考” の働き (略)

七、許六の取合せ論の変質 (略)

八、近世から近代へ― 取合せ論の継承(略)

九、誓子の写生構成説 (略)

 おわりに

 今日の俳壇でも、[取合せ」論はしばしば総合俳句誌にもとり上げられているし、俳句入門書の類でも必ず「取合せ」や「配合」の項が立てられている。ただ、近年における”.取合せの名手” と評判の高い奥坂まやの代表句、

  地下街の列柱五月来りけり

万有引力あり馬鈴薯にくぼみあり

 などからうかがうと、物と物との強烈な衝撃をねらった、いわゆる「二物衝撃」の手法が好まれているかに推察される。けれども、この「万有引力あり」「馬鈴薯にくぼみあり」のように判断を投げ出したような措辞には、蕉風の「取合せ」とはやや異質なものが感じられるのである。「取合せ」はあるが、自然な※「とりはやし」がない、作者という主体の強烈な発見と認知はあるものの、自然な「とりはやし」にはなってないという感じが拭えない。これはむしろ、許六晩年の「掛合せ」意識の発展したものという印象が強いのである。

 「取合せ」論は、支考の「姿先情後」説、「虚先実後」説とともに、短詩型文芸としての発句・発句の表現構造を考えるためには、きわめて重要な説である。現代の俳句、さらには俳句の未来を考えるためにも、さらなる解明が必要なのである。

 ※「とりはやし」=俳諧用語。二つのものを効果的に結び合わせる。→ 俳諧・青根が峯(1698)自得発明弁「発句は〈略〉二つ取合(とりあはせ)て、よくとりはやすを上手と云也」(精選版 日本国語大辞典「取囃」)

 注 (略)

 1-7 芹喰ふて翼の軽き小鴨かな

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2016

 季語=芹(三春)。子季語=根白草、根芹、田芹、芹摘む、芹の水。【解説】芹は春の七草の一つで、若菜を摘んで食する。七草粥が代表的だが、ひたし、和え物にしたり香味料として吸い物に用いたりする。

【例句】

我がためか鶴はみのこす芹の飯 芭蕉「続深川」

これきりに径尽たり芹の中 蕪村「蕪村俳句集」

古寺やほうろく捨るせりの中 蕪村「蕪村句集」

 一茶の「芹」の句

 http://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/jsearch.cgi

 せり流す雪のけぶりや門の川           梅塵八番/ 文政4

芹つみや笠の羽折に鳴(なく)蛙          句稿消息/文化10

払子(ほっす)ほど俗の引行(ひきゆく)根芹哉   五十三駅/ 天明8

田芹摘み鶴に拙(つたな)く思(おもわ)れな   文化句帖/文化2

あれこれと終に引(ひか)るゝ根芹哉       発句類題集/文政3

 其角の『虚栗』(其角編「天和三年版・上」)に次の句がある。

  何ガ故ゾ渓-辺ノ双-白-鷺

  旡(无キ)レ憂ヘ頭-上ニモ

 亦タ垂ルレ糸ヲ

髪あらふ鷺芹とかす沢辺哉

小袖着せて俤匂へうめが妻

 ※虚栗(みなしぐり)は、宝井其角編の俳諧撰集。1683年(天和3年)6月、江戸西村半兵衛・京都西村市郎右衛門刊、松尾芭蕉跋。其角の最初の撰集である。

 発句・歌仙・三つ物・二五句などを収める。作者は其角・服部嵐雪・杉山杉風・芭蕉らの芭門のほか、貞門派・談林派の俳人も含む。芭蕉の跋文に「李・杜が心酒を嘗めて」「寒山が法粥を啜る」「西行の山家をたづねて」「白氏が歌を仮名にやつして」とあるように、李白・杜甫・寒山・西行・白楽天などを理想とした。漢語の多用、字余り、破調などが特徴で、後に「虚栗調(漢詩文調)」と呼ばれた。芭蕉自身は荘子流に震動して虚実分かたぬ語の使用を讃える一方で、生鍛えな句があることを指摘している。(「ウィキペディア」)

『虚栗集 / 其角』(「愛知県立大学図書館 貴重書コレクション」)

https://opac.aichi-pu.ac.jp/kicho/kohaisyo/books/027_39-40_1/102714946/102714946_0005.html

   其角の『虚栗』の漢詩文の前書のある「鷺と芹」の句の句意の探索というのは難しい。前書を除外視して、次の一句の句意を考察して見たい。

 髪あらふ鷺芹とかす沢辺哉

  この「髪あらふ」は、「鷺芹とかす」の「鷺」が擬人化的用例で「髪あらふ」のであろうか。それとも、二句目の「小袖着せて俤匂へうめが妻」と連動させて、その「鷺」に、作者の言外にある「俤(面影)を宿している女性」をダブらせて鑑賞すべきなのかどうか、この二者択一の選択の比重が難しいのである。

 ここで、前回の(参考)で紹介した、「取合せ論の史的考察―その本質と根拠―(堀切実稿)」の、「取合せ論」の、「とりはやし・取囃」(「こがねを打のべたるがごとく」― いわゆる「一物仕立て」の句)」と「取合わせ」(「発句は物を合(あは)すれば出来(しゅったい)せり」― いわゆる「二物仕立て・二物衝撃」の句)」との問題が生じてくる。(「取合せ論の史的考察―その本質と根拠―(堀切実稿)」では、「― すなわち「取合せ」て、かつ「こがねを打ちのべたる」ようになった句を理想としたものであること― したがって、「取合せ」と「こがねを打ちのべたる」句とは、相互に矛盾せず、対機説法ではなかった。」という立場のようである。)

  しかし、これらは「発句(俳句)」論に比重をかけていて、「俳諧(連句)」論に根差すと、次のアドレス(「猫蓑通信」第42号 平成13(2001)年1月15日刊より)のものなどが参考となってくるであろう。

 http://www.neko-mino.org/renkuQA/A42.html

 「 Q42・「あなたの句は俳句だ」とは連句の座で、あなたの句は俳句だと言われることがありますが、これはどういう意味でしょうか。」

 「 A42・「俳句(発句)には一句一章のものと二句一章のものがあります」(三句一章体というものもありますが、極めて稀であるため、ここでは取り上げないことにします)。

 一句一章例   道のべの木槿は馬にくはれけり

二句一章例   草臥れて宿借る比や藤の花

 芭蕉は、一句一章体については、頭からすらすらと言い下すのが上等の発句であると言い、二句一章体については、物をよく取り合わせるのを上手と言い、悪く取り合わせるのを下手というと言って、どちらのやり方も否定しませんでしたが、後者に対しては、物を取り合わせて作る時は、句も多く出来るし、速やかに詠むことが出来ると推奨しております(『去来抄』)。

 ところで、この俳句十七字の中で物を取り合わせるという作業は、連句三十六句の中で、前句に付句を付け合わせるという作業に、甚だよく似ております。連句の前句は、それだけでは独立性がないので、これまた独立性の乏しい付句を待って、二つを付け合わせる事によって、芸術性の高い付合になろうとしているのであり、ここに連句が次々と続いてゆく力がひそんでいるのであります。

 それ故、たとえば花前の句に対して、二句一章の花の句を付けると言うことになれば、その花の句は全く花の俳句を付けるという事になります。その事自体は特に咎められる事でもないかも知れないが、往々素晴らしい花の句を付けようということに精神を集中して、前句との付味をまったく無視した花の句を付ける可能性が生まれます。このような花の句を、これは俳句と申すのです。

 これは花の句ばかりでなく、月の句の外、季語をもった長句にもおこりうる事ですから注意して下さい。

 ただ、第三だけは、丈高くという事が絶対条件となっておりますので、わざわざ、大山体・小山体・杉形の作り方が伝わっておりますが、これらははっきりした切字を用いないで、二句一章体とする方法を考えたものです。

   大山   正反合天地のリズムきはやかに

  小山   落第子口笛を吹く樹によりて

  杉形   新走り強き香の鼻うちて

 みな、体言の独立句を上五にすえる事によって、二句一章体を完成し、ことに落第子、新走りなどの句は季語を入れることにより、俳句となっておりますが、第三に限って脇との付味は問題にされないから、あなたの第三は俳句だとは言われないでしょう。」

   これらの、「取合せ論の史的考察―その本質と根拠―(堀切実稿)」と「猫蓑通信第42号)とを、鑑賞視点に据えると、次の、其角の二句は、その全体像の一部分が見えてくる。(前書は、取り合えず、除外視する。)

 髪あらふ鷺芹とかす沢辺哉(一句目=「一物仕立て(一句一章体)」の発句

小袖着せて俤匂へうめが妻(二句目=一句目に唱和しての「二物仕立て(二句一章体)」の発句)

  以上を前提にしての、この一句目の其角の句は、「一物仕立て」の句として、「二つ取合(とりあはせ)て、よくとりはやす(取囃=とりはやす)を上手と云也」のように、「髪洗う=鷺」そして「芹とかす」のも、「鷺(一物)」として鑑賞することになる 。

 そして、二句目の「小袖着せて俤匂へうめが妻」の句は、一句目(「髪あらふ鷺芹とかす沢辺哉)に唱和しての発句として鑑賞するになる。さらに、この句の「うめが妻(梅が妻)」は、次のとおり、寛文二年(一六六二)初演(江戸・勘三郎座)の「歌舞伎・浄瑠璃の外題」として取り上げられているので、それらを加味しての鑑賞ということになろう。

 ここでは、これら其角の句が、抱一の「芹喰ふて翼の軽き小鴨かな」(1-7)の、「その背景に横たわっているのではなかろうか」ということに限定して、これらの其角の句の句意などは省略したい。

[役割番付]寛政7年1月13日桐座

https://www.waseda.jp/prj-kyodo-enpaku/kuzushiji/viewer/yakuwari/ro24-00001-0183/ro24-00001-0183_004.html?id=0162#tab01

※ 芹喰ふて翼の軽き小鴨かな(「こがねのこま」1-7) 

 句意=初春を告げる芹の若菜を啄(つい)ばんで、いかにも、その翼(つばさ)が軽(かろ)やかにになったように、すいすいと水辺を泳いでいる子鴨であることよ。

◇ 十二ヶ月花鳥図之内十一月(左)→ 「水辺の鷺」

◇ 十二ヶ月花鳥図之内十二月(右)→ 「紅梅と鴛鴦」

 1-8 雛よりもかしづく人のひゐなかな

https://kigosai.sub.jp/001/archives/1934

  季語=「雛=雛祭」(仲春)。【子季語】雛、ひいな、雛飾、雛人形、雛の調度、雛道具、雛屏風、雛段、雛の膳、雛の酒、紙雛、立雛、内裏雛、享保雛、変り雛、糸雛、菜の花雛、京雛、木彫雛、官女雛、五人囃、雛箱、初雛、古雛、雛の燭、雛の宴、雛の宿、雛の客、雛椀。【関連季語】桃の節句、上巳、雛市、雛流し、雛納め

【解説】三月三日、女の子の健やかな成長を願うお祭である。雛人形を飾り、白酒や雛あられをふるまって祝う。【来歴】『俳諧通俗誌』(享保2年、1716年)に所出。

【例句】

草の戸も住み替はる代ぞ雛の家 芭蕉「奥の細道」

内裏雛人形天皇の御宇とかや  芭蕉「江戸広小路」

綿とりてねびまさりけり雛の顔 其角「其袋」

とぼし灯の用意や雛の台所   千代女「千代尼句集」

桃ありてますます白し雛の殿  太祇「新五子稿」

古雛やむかしの人の袖几帳   蕪村「蕪村句集」

箱を出る皃わすれめや雛二對  蕪村「蕪村句集」

たらちねのつまゝずありや雛の鼻 蕪村「蕪村句集」

雛祭る都はづれや桃の月    蕪村「蕪村句集」

雛の間にとられてくらきほとけかな 暁台「暁台句集」

 一茶の「雛」の句

 http://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/jsearch.cgi

 雛(ひな)の日もろくな桜はなかりけり   文化句帖/文化5

雛の日や太山(みやま)烏もうかれ鳴(なく)七番日記/文化9

かつしかや昔のまゝの雛(ひいな)哉    文化句帖/文化1

妹(いも)が家も田舎雛(びな)ではなかりけり 文化句帖/文化3

古郷は雛(ひいな)の顔も葎(むぐら)哉  文化句帖/文化3

式雛(びな)は木(こ)がくれてのみおはす也 文化句帖/文化4

角力取(すもとり)も雛(ひいな)祭に遊びけり 文化句帖/文化4

煙(けぶ)たいとおぼしめすかよ雛(ひいな)顔 文化句帖/文化5

雛祭り娘が桐も伸(のび)にけり      文化句帖/文化5

おぼろげや同じ夕(ゆうべ)をよその雛   七番日記/文化7

東風(こち)吹けよはにふの小屋も同じ雛  七番日記/文化7

むさい家(や)との給ふやうな雛(ひいな)哉 七番日記/文化7

雛(ひいな)達そこで見やしやれ吉の山    七番日記/文化9

後家雛(びな)も一ツ桜の木(こ)の間哉   七番日記/文化10

御雛(おひいな)をしやぶりたがりて這(ふ)子哉 七番日記/文化11

笹の家や雛(ひいな)の顔へ草の雨      七番日記/文化11

雛棚や花に顔出す娵(よめ)が君       七番日記/文化11

ちる花に御目(おんめ)を塞ぐ雛(ひいな)哉 七番日記/文化12

浦風に御色(おいろ)の黒い雛(ひいな)哉  八番日記/文政2

煤け雛(びな)しかも上座をめされけり    八番日記/文政2

花の世や寺もさくらの雛祭          八番日記/文政2

目(まな)じりを立(たて)て踊も雛かな   八番日記/文政4

居並んで達磨も雛(ひいな)の仲間哉     文政句帖/文政5

世が世なら世ならと雛(ひいな)かざりけり  文政句帖/文政5

明り火や市の雛(ひいな)の夜目(よめ)遠目(とおめ)文政句帖/文政7

うら店も江戸はえど也雛祭り         文政句帖/文政7

後家雛(びな)も直(すぐ)にありつくお江戸哉 文政句帖/文政7

古雛(びな)やがらくた店の日向ぼこ     文政句帖/文政7

紙雛(びな)やがらくた店の日向ぼこ     浅黄空他/文政7

豊年の雨御覧ぜよ雛(ひいな)達       七番日記/文化11

  抱一と一茶とは、抱一が二歳年上の、同時代の人なのだが、抱一は姫路藩十五万石の特権階級出身、かたや、一茶は信濃の百姓出身で、十五歳で江戸に奉公に出て、それも、その奉公先は一か所でなく、転々として、いわば、無宿人のような生活の中で、後に、「芭蕉・蕪村・一茶」の「江戸時代の三大俳人」の一人と仰がれるほどの「俳諧(連句・俳句)」の世界との出会いがあった。

 抱一の「俳諧」との出会いは、「大手門(金馬門=「こがねのこま」)」前(姫路藩酒井家の上屋敷)の、その「大手門前の大名サロン」の、いわゆる「風流韻事の遊びの俳諧」とすると、一茶のそれは、賞金稼ぎの、いわゆる「点取り俳諧(「点取に昼夜をつくし,勝負に道を見ずして走りまはる」=芭蕉「三等の文」)の「稼ぎの俳諧」)とを、そのスタートにしているということが挙げられよう。

 しかし、この二人には、抱一は、早くにして父母を失い、さらに、不本意な出家生活を余儀なくさせられるなどの、生涯に亘っての「孤独感・寂寥感」を、その根底に宿しており、この「孤独感・寂寥感」が、この二人の俳諧の原点にあるような、その意味での共通感を抱くのである。

   いかな日も鶯一人我ひとり哉 (一茶『文政句帖/文政7』)

  居候夜着の洞(ほら)出て桃のはな(抱一『屠龍之技/梅の立枝』)

  それよりも、この二人には、抱一は、句日記ともいえる『軽挙館句藻』(全十冊)を有し、一茶には、『寛政句帖・享和二年句日記・享和句帖・文化句帖・七番日記・八番日記・文政句帖』等々の膨大な句日記などを遺しており、その点の共通項は、その中身を見るまでもなく、自明のことのように思われる。

酒井抱一筆「立雛に桜図」(湯木美術館蔵)

http://www.yuki-museum.or.jp/exhibition/archives/2019_spring_sp.html

 ※ 雛よりもかしづく人のひゐなかな (「こがねのこま」1-8) 

 句意=雛(ひな)段の飾り雛(びな)よりも、この上巳の節句の雛(ひな)人形を、先祖伝来大事に保存して、それを、こうして豪華に飾り立てている、その「ひゐな(雛)=その家の御婦人達=老女達」の方に、より一層心が引かれる。

 この句意の「雛」の詠みなどは、一茶の句を参考にしている。抱一と一茶とは、何らの直接的な接点はないが、一茶の「雛(ひな・ひいな)」の、一見すると「言葉遊び」のような技法が、この抱一の「雛(ひな)よりも」と「ひゐな(雛)」の措辞に感じられる。

 そして、この句もまた、其角の「綿とりてねびまさりけり雛の顔」(嵐雪編『其袋』)が念頭にあってのもののように思われる。この「ねびまさりけり」の「ねび勝(まさる)」は、「年をとる。ますますふける。また、年をとり、成熟の度を増す。」(「精選版 日本国語大辞典」)の意で、その例句として、この其角の句が、「※俳諧・五元集(1747)元『綿とりてねびまさりけり雛の顔』」と取り上げられている。

 さらに付け加えると、これまで、其角の句を中心に据えて鑑賞してきたが、この句の「かしづく人の」の、「かしづく」は、芭蕉をして「「草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり」と称え、「両の手に桃と桜や草の餅」(『桃の実』)と詠じさせた「其・嵐二子」の「服部嵐雪」(承応3(1654)~宝永4年(1707.10.13))の、次の句も念頭にあったことであろう。

   不産(ウマズ)女の雛かしづくぞ哀なる (嵐雪『続虚栗(其角編)』)

  うまず女の雛かしづくぞ哀なる (嵐雪『玄峰集(旨言編)』)

 【 うまず女の雛かしづくぞ哀れなる

(うまずめのひなかしづくぞあはれなる)

《出典》続虚栗(ソ゛クミナシク゛リ)

《作者》嵐雪(ランセツ)

《訳》

結婚して年数がたつのに子のできない女が、古い雛人形を飾り付け、大切に扱っている。その姿はなんとも哀れである。

《季語》 雛(春)。

《語句解説》

うまず女=子のできない女。

《語句解説》

雛かしづく=雛にかしづく、の意。

《参考》

雛人形がはなやかなものだけに、子のない寂しさをまぎらす女の姿が一層哀感をさそう。

〔名句辞典〕  】(『学研古語辞典』)

  この嵐雪の句(「うまず女の雛かしづくぞ哀れなる」)の収載されている『続虚栗(其角編)』

に、抱一の「雨華庵」に近い「大音寺」に「遊大音寺」の前書(詞書)のある、其角の「梅が香や乞食の家ものぞかるゝ」が収載されている。

 この「大音寺」と「浅草寺」の中間に「新吉原」がある。芭蕉をして「門人に其角嵐雪あり」と誇らせた「其・嵐二子」も、抱一とは時代を異にするが、「新吉原」とは深い関係にある放縦な遊蕩児でもあった。

根岸-下谷-寛永寺開山堂を歩く→A図

http://saurus.coolpage.jp/Walking-Negishi.html

※下谷道(金杉通り)は、坂本門から出立した寛永寺輪王寺宮が、千住を経て日光へ赴く道として栄え、根岸地区は輪王寺宮を中心とする文化人の集うところでもあった。

※下根岸には、酒井抱一が晩年過ごした住居・雨華庵があり、その足跡は石稲荷神社に残っている。

※輪王寺宮の別宅・御隠殿跡はほとんど線路の下だ、鶯谷駅方面にかけて前田邸跡や子規庵が残る。

国立国会図書館デジタルコレクション「根岸略図」(文政三年刻)→B図 

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9369588

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-16

 【 これは(B図)、文政三年(一八二〇)版の「根岸略図である。時に、抱一は六十歳であった、抱一が、この根岸の里に引っ越して来たのは、文化六年(一八〇九)、四十九歳の時で、『本朝画人伝巻一(村松削風著)』では、次のように記述されている。

 「文化六年抱一は根岸大塚(一名鶯塚)へ移った。現今の下根岸である。居宅を新築したわけではなく、従来あった農家を購ってこれに茶席を建て増したのみであった。これぞ名高き『雨華庵』である。また、これより地名になぞられて『鶯邨(村)』とも号した。誰袖(たがそで)を入れて采箒の任をとらしめたのもこのころのことであろう。誰袖は本名おちか、号小鸞(しょうらん)女史、のちに剃髪して妙華尼と号した。彼女も抱一の画弟子であった。抱一は同時に新造禿(かむろ)まで引取って依然として廓(さと)言葉を使わせていたのである。」

 上記の地図の「抱一」の下に「其一」とある。この其一は、抱一門の筆頭格の高弟・鈴木其一(宅)であろう。其一が抱一の内弟子となったのは、文化十年(一八一三)、十八歳の時で(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収「年譜」)、この家は、当初、其一が養子となり跡継ぎとなる鈴木蠣潭(当時十八歳)が、「(酒井家)十三人扶持・中小姓」として抱一の「御用人(付人)」となっているので(同上「年譜)、抱一の最古参弟子の鈴木蠣潭が、移り住んでいた家なのかも知れない。

 この蠣潭は、文化十四年(一八一七)、二十六歳の若さで急逝し、その年の「年譜」に、「鈴木其一、抱一の媒介で、蠣潭の姉りよと結婚し、鈴木家を継ぐ。抱一の付人となり、下谷金杉石川屋敷に住む」と記載されている。

 蠣潭の急逝について、「亀田鵬斎年譜」(『亀田鵬斎(杉村英治著)』)に、「六月二十五日、鈴木蠣潭没す。年二十六、抱一に侍して執事を勤め、絵画を学ぶ。墓に、鵬斎の碑文、抱一書の辞世の句を刻む。なみ風もなくきへ行(ゆく)や雲のみね 蠣潭」と記載されている。

 この辞世の句からして、蠣潭は俳諧も抱一から薫陶を受けていたことが了知される。蠣潭は、抱一の書簡などから、抱一の代作などをしばしば依頼されており、単なる付人というよりも、抱一の代理人(「亀田鵬斎年譜」の「執事」)のような役割を担い、抱一が文化十二年(一八一五)に主宰した光琳百回忌事業などにおいても、実質的な作業の中心になっていたことであろう。

 また、この「鵬斎年譜」から、蠣潭の墓石に、鵬斎が碑文を書き、蠣潭の辞世の句(「なみ風もなくきへ行(ゆく)や雲のみね」)を書していることからすると、鵬斎と「抱一・蠣潭」とは、親しい家族ぐるみの交遊関係にあったことが了知される。

 その「鵬斎(宅)」が、冒頭の「根岸略図」の中央(抱一・其一宅の右下方向)に出ている。その左隣の「北尾」は、浮世絵や黄表紙の挿絵で活躍した北尾重政(宅)で、重政の俳号は「花覧(からん)」といい、俳諧グループに片足を入れていたのであろう(『日本史リブレット人054酒井抱一(玉蟲敏子著)』)。

  この同書(玉蟲著)の別の「下谷根岸時代関係地図」を見ていくと、冒頭の「根岸略図」

(部分図)の上部の道路は「金杉通り」で、下部の蛇行した川は「音無(おとなし)川」のようである。この「金杉通り」の中央の上部に、「吉原トオリ」というのが「〇囲みの東」の方に伸びている。この路を上っていくと「新吉原」に至るのであろう。

 また、この地図の上部の左端に「日本ツツミ」とあり、これは「新吉原」そして、隅田川に通ずる「日本堤」なのであろう。その隅田川に架橋する千住大橋を渡ると、建部巣兆らの「千住連」(俳諧グループ)の本拠地たる宿場町・千住に至るということになる。 】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-04

 【 正岡子規の『病牀六尺』に、酒井抱一に関しての記述が、下記の二か所(「六」・「二十七」)に出てくる。

 この「六」に出てくる、「抱一の画、濃艶愛すべしといえども、俳句に至っては拙劣見るに堪えず」 というのが、子規の「酒井抱一観」として、夙に知られているものである。

 すなわち、「画人・抱一」は評価するが、「俳人・抱一」は、子規の「俳句革新」の見地から、断固排斥せざるを得ないということである。

 そして、子規が目指した俳句(下記の『俳句問答』の「新俳句」)と、抱一が土壌としていた俳句(下記の『俳句問答』の「月並俳句」)との違いは、次の答(●印)の五点ということになる。

 この五点の「知識偏重(機知・滑稽・諧謔偏重)・意匠の陳腐さ・嗜好的弛み・月次俳諧・宗匠俳諧の否定」の、何れの立場においても、例えば、抱一の自撰句集『屠龍之技』に収載されている句などは、「拙劣見るに堪えず」と、一刀両断の憂き目にあうことであろう。

 しかし、下記の「二十七」の、『鶯邨画譜』や、その「糸桜」に関する、子規の記述には、子規は、その画はもとより、その俳句についても、その何たるかは熟知していたという思いを深くする。

 ○問 新俳句と月並俳句とは句作に差異あるものと考へられる。果して差異あらば新俳句は如何なる点を主眼とし月並句は如何なる点を主眼として句作するものなりや    

●答 第一は、我(注・新俳句)は直接に感情に訴へんと欲し、彼(注・月並俳句)は往々智識(注・知識)に訴へんと欲す。

●第二は、我(注・新俳句)は意匠の陳腐なるを嫌へども、彼(注・月並俳句)は意匠の陳腐を嫌ふこと我より少なし、寧ろ彼は陳腐を好み新奇を嫌ふ傾向あり。

●第三は、我(注・新俳句)は言語の懈弛(注・たるみ)を嫌ひ彼(注・月並俳句)は言語の懈弛(注・たるみ)を嫌ふこと我より少なし、寧ろ彼は懈弛(注・たるみ)を好み緊密を嫌ふ傾向あり。

●第四は、我(注・新俳句)は音調の調和する限りに於て雅語俗語漢語洋語を問はず、彼(注・月並俳句)は洋語を排斥し漢語は自己が用ゐなれたる狭き範囲を出づべからずとし雅語も多くは用ゐず。          

●第五は、我(注・」新俳句)に俳諧の系統無く又流派無し、彼(注・月並俳句)は俳諧の系統と流派とを有し且つ之があるが為に特殊の光栄ありと自信せるが如し、従って其派の開祖及び其伝統を受けたる人には特別の尊敬を表し且つ其人等の著作を無比の価値あるものとす。我(注・新俳句)はある俳人を尊敬することあれどもそは其著作の佳なるが為なり。されども尊敬を表する俳人の著作といへども佳なる者と佳ならざる者とあり。正当に言へば我(注・新俳句)は其人を尊敬せずして其著作を尊敬するなり。故に我(注・新俳句)は多くの反対せる流派に於て俳句を認め又悪句を認む。   

  六

〇今日は頭工合やや善し。虚子と共に枕許に在る画帖をそれこれとなく引き出して見る。所感二つ三つ。 

余は幼き時より画を好みしかど、人物画よりも寧ろ花鳥を好み、複雑なる画よりも寧ろ簡単なる画を好めり。今に至って尚其傾向を変ぜず、其故に画帖を見てもお姫様一人画きたるよりは椿一輪画きたるかた興深く、張飛の蛇矛を携えたらんよりは柳に鶯のとまりたらんかた快く感ぜらる。 

画に彩色あるは彩色無きより勝れり。墨書ども多き画帖の中に彩色のはっきりしたる画を見出したらんは萬緑叢中紅一点の趣あり。 

呉春はしゃれたり、応挙は真面目なり、余は応挙の真面目なるを愛す。 

『手競画譜』を見る。南岳、文鳳二人の画合せなり。南岳の画は何れも人物のみを画き、文鳳は人物の外に必ず多少の景色を帯ぶ。南岳の画は人物徒に多くして趣向無きものあり、文鳳の画は人物少くとも必ず多少の意匠あり、且つ其形容の真に逼るを見る。もとより南岳と同日に論ずべきに非ず。 

或人の画に童子一人左手に傘の畳みたるを抱え右の肩に一枝の梅を担ぐ処を画けり。或は他所にて借りたる傘を返却するに際して梅の枝を添えて贈るにやあらん。若し然らば画の簡単なる割合に趣向は非常に複雑せり。俳句的といわんか、謎的といわんか、しかも斯の如き画は稀に見るところ。 

抱一の画、濃艶愛すべしといえども、俳句に至っては拙劣見るに堪えず。その濃艶なる画にその拙劣なる句の讃あるに至っては金殿に反故張りの障子を見るが如く釣り合わぬ事甚し。 

 『公長略画』なる画あり。わずかに一草一木を画きしかも出来得るだけ筆画を省略す。略画中の略画なり。しかしてこのうちいくばくの趣味あり、いくばくの趣向あり。廬雪等の筆縦横自在なれども却ってこの趣致を存せざるが如し。或は余の性簡単を好み天然を好むに偏するに因るか。 (五月十二日)  】

1-9 花ひと木鞍置馬を蔽(かく)しけ

https://kigosai.sub.jp/001/archives/1994

 季語=花(晩春)。【子季語】花房、花の輪、花片、花盛り、花の錦、徒花、花の陰、花影、花の奥、花の雲、花明り、花の姿、花の香、花の名残、花を惜しむ、花朧、花月夜、花の露、花の山、花の庭、花の門、花便り、春の花、春花、花笠、花の粧。【関連季語】桜、初花、花曇、花見、落花、残花、余花。

【解説】

花といえば桜。しかし、花と桜は同じ言葉ではない。桜といえば植物であることに重きがおかれるが、花といえば心に映るその華やかな姿に重心が移る。いわば肉眼で見たのが桜、心の目に映るのが花である。

【来歴】

『花火草』(寛永13年、1636年)に所出。

【文学での言及】

あしひきの山さへ光り咲く花の散りぬるごとき我がおおきみかも 大伴家持『万葉集』

ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るらむ 紀友則『古今集』

年経れば よはひは老いぬしかはあれど花をし見れば 物思ひもなし 藤原良房『古今集』

花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに 小野小町『古今集』

願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ 西行『続古今集』

【例句】

これはこれはとばかり花の吉野山 貞室「一本草」

なほ見たし花に明け行く神の顔  芭蕉「笈の小文」

花の雲鐘は上野か浅草か     芭蕉「続虚栗」(※其角編)

一昨日はあの山越えつ花盛り   去来「花摘」(※其角編)

肌のよき石にねむらん花の山   路通「いつを昔」(※其角編)

花に暮れて我家遠き野道かな   蕪村「蕪村句集」

花ちるやおもたき笈のうしろより 蕪村「蕪村句集」

 (其角の句)

 日々酔如泥

花持て市の礫にあづからん    (※「続虚栗」其角編)

(袖に来て物語せよ雀の子 其角)

  肴手折てびんにさす花 其角 (※「花摘」其角編)

 酒

(いざ汲ん年の酒屋のうはだまり 其角 )

その花にあるきながらの小盞 其角) (※「いつを昔」其角編)

 (一茶の「花」の句)

 http://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/jsearch.cgi

 上記アドレスの一茶の「花」の句は「2364件」が提示される。そのうち、「(花)・梅」の句は「1216件」、「(花)・桜」の句は「468件」、「(花)・桃」は「49件」がヒットする。さらに、別な視点の「(花)・江戸」の句は「25件」、「(花)・日本」は「8件」、「(花)・元日」の句は「4件」、「(花)・元旦」の句は「0件」、「(花)・正月」の句は「10件」が提示される。

 その「(花)・正月」の句の「10件は、次のとおりである。

 1正月やよ所に咲ても梅の花(しょうがつや/よそにさいても/うめのはな)・新年/文化句帖

2正月(や)猫の塚にも梅の花(しょうがつや/ねこのつかにも/うめのはな)新年/文化句帖

3正月や村の小すみの梅の花(しょうがつや/むらのこすみの/うめのはな)新年/文化五六句記

4正月やゑたの玄関も梅の花(しょうがつや/えたのげんかんも/うめのはな)新年/七番日記

5正月や夜は夜とて梅の花 (しょうがつや/よるはよるとて/うめのはな)新年/発句鈔追加

6我~も目の正月ぞ夜の花 (われわれも/めのしょうがつぞ/よるのはな)春/七番日記

7としよりの目(の)正月ぞさくら花 (としよりの/めのしょうがつぞ/さくらばな)春/七番日記

8こちとらも目(の)正月ぞさくら花(こちとらも/めのしょうがつぞ/さくらばな)春/八番日記

9としよりも目の正月やさくら花(としよりも/めのしょうがつや/さくらばな)春/浅黄空他

10こちとらも目の正月ぞさくら花( こちとらも/めのしょうがつぞ/さくらばな)春/だん袋

(連歌・連句上の「花」の句)

http://www.yamashina-mashiro.com/m/toshi/nyumon.htm

花の座の語として認められる語を「正花」という。連歌では「花」は桜と限定せず、賞美に値する花やかさの抽象概念を指す語。

▼正花として扱う語。

  春—-花車、花衣、花筏、心の花など。

  夏—-余花、若葉の花、花茣蓙、残る花など。

  秋—-花火、花踊、花もみぢ、花相撲、花燈篭など。

  冬—-帰り花、餅花など。

  雑—-花婿、花嫁、花鰹、花莚、作り花、花塗、花かいらぎ、花形、燈火の花など。

▼花の字があるが非正花(似せものの花)とされ、正花として扱われない語。

  花野、湯の花、火花、浪の花、雪の花など。(花野については後年、窪田氏は「正花」にしたい、と主張)

▼「虚の花」として正花に扱われる語。

  花の波、花の瀧、花の雪など。

▼花の字のない単なる「桜」は正花としない。

「鞍置馬」=鞍を置いた馬。くらうま。くらおき。※平家(13C前)七「鞍をき馬十疋ばかりおひ入れたり」(「精選版 日本国語大辞典」)

※「鞍」=馬具の総称。馬に乗る装置の皆具(かいぐ)をいう。その様式により、唐鞍(からくら)、移鞍(うつしぐら)、大和鞍(やまとぐら)、水干鞍(すいかんぐら)などの種類がある。鞍具(あんぐ・くらぐ)。(「精選版 日本国語大辞典」)

「鞍置馬=『鞍』の掲載図」(「精選版 日本国語大辞典」)

 ※ 花ひと木鞍置馬を蔽(かく)しけり (「こがねのこま」1-9) 

句意(句意その一)=(爛漫と咲き誇る)「花」(桜)の「ひと木」(一木)が、(そこに繋いでとめて置いた)「鞍置馬を」、(あたかも、その乗り主の身分高い人を)「蔽(へい)」(隠ぺい=へい=覆い隠す=かく)し「けり」(「過去から現在まで継続的」且つ「詠嘆的」且つ「断定的」に覆い隠してきたことよ。)

  この括弧書きは、意訳するための修飾語で、これらの修飾語を何処まで、どういうかたちにするかというのは、こういう「花」の句になると、さぞかし、正岡子規の、「拙劣見るに堪えず。その濃艶なる画にその拙劣なる句の讃あるに至っては金殿に反故張りの障子を見るが如く釣り合わぬ事甚し」(病牀六尺』)と、その真意を探索することを放棄するということになる。

 「桜図屏風・右翼」(メトロポリタン美術館)(「ウィキペディア」)(「脚注10」= Mary Griggs Burke Collection, Gift of the Mary and Jackson Burke Foundation, 2015)

  この図は、抱一の「大塚時代 49歳から57歳 光琳学習と飛躍」として、「桜図屏風/紙本金地著色/六曲一双/メトロポリタン美術館」として紹介されている、その「右翼/六曲一双」のものである(上記の「ウィキペディア」)。

  花ひと木鞍置馬を蔽(かく)しけり (「こがねのこま」1-9)

  この句の上五の「花ひと木」は、上記の「桜図屏風・右翼」(メトロポリタン美術館)の、その子規のいう「金殿(金色の屋敷)」(抱一の「画」)の「桜のひとき図」とすると、その「反故張りの障子=銀泥の意味不明のもの」(抱一の句)を「見る如く」のような、「釣り合わぬ事甚し」と、そんな印象すら抱かせることになる。

 おそらく、この下部に描かれている「銀地墨画」は、下記のアドレス(「江戸の『金』と『銀』との空間」)で紹介した、鈴木其一の、次のようなものであったように思われる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-25

鈴木其一筆「芒野図屏風」二曲一隻 紙本銀地墨画 一四四・二×一六五cm 千葉市美術館蔵

  ここでは、これらの「桜図屏風」(メトロポリタン美術館)の「金(ゴールド)と銀(シルバー)との空間」の対比とか、それらを介在させての「絵画(「画無声詩」)と俳諧(「詩有声画」)との対比などは、この程度に止めて、「花ひと木鞍置馬を蔽(かく)しけり」 (「こがねのこま」1-9)の、先の生(なま)のままの「句意」(その周辺)の鑑賞を、甚だ未成熟の仮説的な点が多々あるが、一歩進めることにしたい。

 ※「花ひと木鞍置馬を蔽(かく)しけり」 (「こがねのこま」1-9)

「句意」(その周辺)

 この抱一の「花と鞍置馬」と取り合せの句は、抱一と関係の深い江戸の遊郭地「吉原」を背景にしている一句のように思われる。

吉原には、「廓の三雅木」として「逢初桜(あいぞめざくら)」・「駒止松」・「見返り柳」が知られている。そして、この「吉原(新吉原)」(浅草寺から北に約1キロ)への、江戸の中心地から行くルートは、「猪牙舟(ちょきぶね)で隅田川を北上→今戸橋の付近で下舟→日本堤から駕籠か徒歩」というのが、当時の通常のルートのようである(「吉原遊郭までの道のり」=下記アドレス「太田記念美術館」)。

https://otakinen-museum.note.jp/n/naadbf3f2b985

「二代広重の『東都新吉原一覧』」のうち左下の遊郭の入り口部分をアップ図」

https://otakinen-museum.note.jp/n/naadbf3f2b985

  このアップ図の下部に「日本堤」と「「見返り柳」が描かれ、これを左に曲がると「衣紋阪」と「五十間道」、その入り口に神社の鳥居があって、「逢初桜(あいぞめざくら)」・「駒止松」が描かれている。

 ここで、次のアドレスの「江戸旧蹟を歩く(吉原の道)」の記事が、貴重な示唆を投げ掛けてくれる。

 http://hotyuweb.starfree.jp/yoshiwarahenomichi/yoshiwarahenomichi.html

 「○吉原への道

 馬が吉原通いに使われたのは元禄前後で、寛文元(1661)年に馬での登楼は禁止され、駕籠と舟が主となり馬は使われなくなりました。なお、駕籠で通うことは幕府により禁じられていましたが、守られていませんでした。」

 この「吉原への道」の記事から、元禄期の「其角・嵐雪」の時代には、「駕籠・徒歩」だけでなく、「馬での登楼」というのもよく見かけたものなのであろう。しかし、それが「抱一・一茶」の時代には、いわゆる、「寛政の改革」(「天明7年(1787年)- 寛政5年(1793年)」の「老中・松平定信」の断行した「幕政改革(倹約による幕府財政再建)」)により、厳禁になったような、そんなことを背景にしている一句と解すると、やや、この抱一の、この句の正体の一部が見えてくるような感じを抱くのである。

 これらのことを背景としての一句として鑑賞すると、次のような句意となる。

(句意その二)

 今を盛りに誇っている花の、その櫻花の一樹に、鞍を付けたままの馬が留め置かれている。その鞍を付けた馬を、その櫻花が、あたかも、一切を遮蔽(しゃへい)するかのように、覆い隠している。

 思えば、時の「寛政改革」とやらで、吉原への「馬の登楼」は禁止されて、こういう光景を見るのは久しいことであるよ。

  さらに、寛政九年(一七九七)、抱一、三十七歳時の「出家」と関連しての、抱一の境涯と関連させると、次のような「吉原」関連の句ではなく、当時の「酒井家」の「嫡流体制の確立と傍流の排除」に関連させての穿った見方も浮かんでくる。

 (句意その三)

 花が今爛漫と咲き誇っている。この櫻花の一樹は、「姫路藩十五万石酒井家」を象徴しているかのようであるが、その一樹の陰には、その名跡を継続して揺るぎないものとするために、傍流の一員として、本来の武門の一族としての地位から、本意ではない出家などを余儀無くされた者を、あたかも、覆い隠すように、遮蔽している。

  これらの抱一の「出家」に関連しての句一句、和歌一首が、『句藻』「椎の木陰」に書きつけられている。

    寛政九年丁巳十月十八日、花洛文如上人の、参向

   有りしおりから御弟子となりて頭剃おとし

 遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな

いとふとてひとなとがめそうつせみの世にいとわれしこの身なりせば

  この「遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな」の句は、『屠龍之技』でも、「第四 椎の木陰」で、「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺支(文?)如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」の前書で収載されている。

 これらからすると、下記アドレスの、これまでの理解の、「『屠龍之技』の全体構成」(参考一)の「第四椎の木かげ(寛政八~十年)=抱一・三六~三八歳」収載の、抱一の「出家」関連としての句とする「句意その三」は、やはり、飛躍し過ぎということになろう。

 (参考一)

https://sakai-houitsu.blog.ss-blog.jp/2020-01-20

 【「屠龍之技」の全体構成(上記「写本」の外題「軽挙観句藻」)

 序(亀田鵬斎)(文化九=一八一二)=抱一・四五歳

第一こがねのこま(寛政二・三・四)=抱一・三〇歳~三二歳

第二かぢのおと (寛政二・三・四)=同上

第三みやこおどり(寛政五?~?)=抱一・三三歳?~

第四椎の木かげ (寛政八~十年)=抱一・三六~三八歳 

第五千づかのいね(享和三~文化二年)=抱一・四三~四五歳

第六潮のおと  (文化二)=抱一・四五歳 

第七かみきぬた (文化二~三)=抱一・四五歳~ 

第八花ぬふとり (文化七~八)=抱一・五〇~五一歳

第九うめの立枝 (文化八~九)=抱一・五一~五九歳

跋一(春来窓三)

跋二(太田南畝) (文化発酉=一八一三)=抱一・四六歳   】

 (参考二)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-09-20

酒井抱一筆「桜・楓図屏風」の右隻(「桜図屏風」)デンバー美術館蔵 六曲一双 紙本金地著色 (各隻)一七五・三×三四・0㎝ 落款(右隻)「雨庵抱一筆」 印章(各隻)「文詮」朱文円印 「抱弌」朱文方印

1-10 夜ざくらや筥(はこ)提灯の鼻の穴

https://kigosai.sub.jp/?s=%E5%A4%9C%E6%A1%9C&x=0&y=0

季語=夜ざくら

※夜桜(よざくら)= 晩春

【解説】

夜の桜花。また、夜の桜花見物のことをいう。桜の木の周囲に雪洞や燈籠をともしたり、篝火を焚いたりする。闇の中に浮かび上がる桜は、昼間とは異なる妖艶さを秘めている。

※吉原の夜桜(よしわらのよざくら/よしはらのよざくら)=晩春

【解説】

遊郭吉原の夜桜見物のこと。その日のためにわざわざ見ごろとなる桜を植え、終われば抜いて、明年、新に植えるという手の込んだものであったいう。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-04-17

 (一茶の「夜桜」の句)

 1 夜桜(や)大門出れば翌の事(よざくらや/だいもんでれば/あすのこと) 七番日記

2  夜桜や天の音楽聞し人( よざくらや/てんのおんがく/ききしひと) 八番日記

3  夜桜や親爺(が)腰の迷子札(よざくらや/おやじがこしの/まいごふだ ) 浅黄空

 ※筥(はこ)提灯=箱提灯=上下に、円形で平たい蓋(ふた)があり、たためば全部蓋の中に納まって箱のようになる大型の提灯。蓋には開閉できる孔があり、ここからろうそくを出し入れする。はこぶら。

※俳諧・花摘(1690)下「門並や箱挑燈は盆の中〈渓石〉」(「精選版 日本国語大辞典」)

https://kotobank.jp/word/%E7%AE%B1%E6%8F%90%E7%81%AF-600761

「箱提灯」(「精選版 日本国語大辞典」)

 「傾廓(けいかく)」=「傾国(けいこく)」(「君主が心を奪われて国を危うくするほどの美人。絶世の美女。傾城けいせい)」・「遊女」・「遊里。遊郭」)、「傾城けいせい)」(「美人の意,および遊女の意。漢書に美人を「一顧傾人城,再顧傾人国」と表現したのに基づき,古来君主の寵愛を受けて国 (城) を滅ぼす (傾ける) ほどの美女をさし,のちに遊女の同義語となった。浄瑠璃,歌舞伎の役柄に多く取入れられ,女方の基本の一つとされる。特に上方歌舞伎では『傾城浅間獄』『傾城壬生大念仏』など,「傾城」「契情」「けいせい」の字を外題につける習慣があった。歌舞伎舞踊では変化物に多く,立役が傾城を演じることで,意外性と芸の力を示したものと思われる。3世中村歌右衛門の『仮初 (かりそめの) 傾城』と2世中村芝翫の『恋傾城』 (『芝翫傾城』) が最も知られる。ともに長唄で,名称はうたい出しの文句からとられた。前者は文化8 (1811) 年江戸中村座の『遅桜手爾葉七字 (おそざくらてにはのななもじ) 』の七変化の一つ。作詞奈河篤助,松井幸三,作曲杵屋六左衛門。後者は文政 11 (1828) 年同座の『拙筆力七以呂波 (にじりがきななついろは) 』の七変化の一つで,作詞2世瀬川如皐,作曲4世杵屋三郎助 (10世六左衛門) 。長唄の曲としては,ほかに数曲が伝わる。<ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典>」からの、其角の造語のようである。

 http://kikaku.boo.jp/shinshi/hokku10

     傾廓

  時鳥暁傘を買わせけり (其角『五元集』)

 【*其角39歳の時の句。「ほととぎす あかつきかさを かわせけり」と読みます。『五元集』では「傾廓」と前書を付けています。「傾城」「傾国」なら城を傾けるほどの絶世の美女とか上級の遊女の意味になりますが「廓を傾けるほどの遊女」とは言いません。で、この前書よく分かりませんが「傾城のいる廓」と言う意味で「傾廓」と造語したのかも知れません。こう書いておけば、廓の朝帰りという場面だと分かるわけです。】

渓斎英泉筆「東都名所画 吉原の夜桜」(太田記念美術館蔵)

 「句意」(その周辺)

 この句の前書の「傾廓」から、この句は「吉原の夜桜」の句ということになる。この「筥(はこ)提灯の鼻の穴」の「筥(はこ)提灯」は「箱提灯」で、寛政二年(一七九〇)の頃、その「梶の音」の序文に「筥崎舟守()はこざきのふなもり」と署名しており、蠣殻町の、箱崎川に面した酒井家の中屋敷に転居していて、その中屋敷の主人の意を込めての、抱一の号の一つのようである。

 ここからは、上屋敷よりも吉原への便もよく、「筥(はこ)提灯」というのは、その号の「筥崎舟守」の「筥=箱」を利かせての、吉原の趣向を凝らした種々の箱提灯を指してのものの意であろう。「鼻の穴」というのは、その提灯の上部の蓋の「開閉できる孔」の見立て的な用例で、その提灯の明かりで浮き彫りとなっている「夜桜と見物客」の一大イベントの偉容さを指しているものと解したい。

 (句意その一)=吉原の三大景物(三大廓行事の「三月(夜ざくら)」のイベントは、まことに豪奢な偉容のもので、その一大パラダイス(「楽園」・「桜(夜桜)と人(見物客)とが作り出す楽土・浄土の世界」)が、その趣向を凝らした、さまざまな箱提灯の明かりで、浮かび上がってくる。

  この句は、先に、次のアドレス(参考一・参考二)で紹介している。その「参考一」の『史記』「周本紀」第四に載る字句「后稷生巨跡」の伝説を背景としていると、次のようになる。

 (句意その二)=吉原の三大景物(三大廓行事の「三月(夜ざくら)」のイベントは、まさに、 中国の「后稷(こうしょく)伝説」に出てくる「巨人の足跡を踏んで妊娠し生まれた后稷(「五穀の神」など)さながらに、さまざまな趣向を凝らした箱提灯の明かりが、その伝説の「巨人の足跡」のような「鼻の孔(あな)」となり、そこから浮かび上がってくる。

  なお、これらの句意は、下記の「参考二」の「吉原の三大景物(三大廓行事)」を前提としている。

 (参考一)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-04-17

 【  夜ざくらや筥てふちんの鼻の上  (抱一・「三月・夜桜」の賛)

≪ 三月の図は春の人寄せのイベントである夜桜が描かれます。画賛の一つは「夜ざくらや筥でうちんの鼻の穴」です。春の吉原は、仲之町通りに鉢植えの桜を置きます。この画賛の初案の頭註には、『史記』「周本紀」第四に載る字句「后稷生巨跡」に拠ったとあります。后稷(こうしょく)には、母親の姜原(きょうげん)が巨人の足跡を踏んで妊娠したという伝説があります。つまり、「筥でうちんの鼻の穴」という小さい穴は、后稷が生まれた巨人の足跡に見立てられています。そこからうまれたものは「夜ざくら」と、描かれない多数の見物客です。つまり、筥提灯の上部の空気穴から光が漏れる。その光に照らしだされた夜桜と多数の見物客が、后稷に見立てられます。ここでは画賛は、夜桜の賑わいを補完する機能を担わされています。≫(「抱一筆『吉原月次風俗図』の背景(井田太郎稿)」)

  どうにも、難解な、抱一の師筋に当たる、宝井其角の「謎句」仕立ての句である。この句の前書きのような賛に書かれているのだろうが、『史記』の「后稷(こうしょく)」伝説に由来している句のようである。

「后稷(こうしょく)」伝説とは、「〔「后」は君、「稷」は五穀〕 中国、周王朝の始祖とされる伝説上の人物。姓は姫(き)、名は棄(き)。母が巨人の足跡を踏んでみごもり、生まれてすぐに棄(す)てられたので棄という。舜(しゆん)につかえて人々に農業を教え、功により后稷(農官の長)の位についた」を背景にしているようである。

 ここは、余り詮索しないで、上記の、渓斎英泉筆「東都名所画 吉原の夜桜」ですると、「花魁道中を先導する男衆の持つ箱提灯の上部の穴からの光が、鮮やかに夜桜や人影を浮かび上がらせる」というようなことなのであろう。 】

 (参考二)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-04-21

 【 吉原の三大景物(三大廓行事)は、「三月(夜ざくら)・七月(玉菊灯籠)・八月(俄)」である。

     傾廓

  夜ざくらや筥提灯の鼻の穴 (抱一『屠龍之技』「第一こがねのこま」)

  桜迄つき出しに出る仲の町 (『柳多留七』)

    傾廓

  灯籠も鶍(いすか)の嘴(はし)と代りけり(抱一『屠龍之技』「第二かぢのおと」)

  玉菊の魂(たましい)軒へぶらさがり(『柳多留一』)

    俄

  獅々の坐に直るや月の音頭とり(抱一「吉原月次風俗図・八月」)

  灯籠が消へて俄にさわぐ也 (『柳多留四六』)

  祇園ばやしで京町を浮く俄 (『柳多留一三三』)

  抱一の自撰句集『屠龍之技』の前書きに出て来る「傾廓」は、其角の次の句の前書きに由来があるのであろう。

     傾廓

  時鳥暁傘を買わせけり (其角『五元集』)

  この「傾廓」は、「傾城」「傾国」と同じような意であろうか。それとも、「傾城の遊女が居る廓=吉原」の意であろうか。この其角の句は、吉原の朝帰りの句である。抱一の吉原の句は、この種の其角の句に極めて近い。

 なお、上記の「吉原月次風俗図」に出て来る季語のうち、吉原特有のものは、※印の「八月=俄」と「十二月=狐舞い」だけで、その他のものは、連歌・俳諧の主要な季語(季題)ばかりである。 】

 1-11 茅の実の四(よツ)もたら(足られ)でや暮遅し

https://kigosai.sub.jp/001/archives/1901

 季語=暮遅し(三春)。遅日(ちじつ)、遅き日、暮れかぬる、夕長し、春日遅々。

【解説】

 春の日の暮れが遅いこと。実際には夏至が一番日暮れが遅いが、冬の日暮れが早いので、春の暮れの遅さがひとしお印象深く感じられる。

【来歴】『花火草』(寛永13年、1636年)に所出。

【例句】

遅き日のつもりて遠き昔かな 蕪村「蕪村句集」

遅き日や谺聞こゆる京の隅  蕪村「夜半叟句集」

遅日を追分ゆくや馬と駕   召波「春泥発句集」

軒の雨ぽちりぽちりと暮遅き 一茶「文化句帳」

https://kigosai.sub.jp/kigo500c/778.html

 ※「茅の実」=榧の実(晩秋)。イチイ科の針葉樹で、高さ三十メートルにもなる。四月頃開花し、雌株に二、三センチの楕円形の実がつく。十月に緑色の外皮が紫褐色となり、裂けて種子が落ちる。独特の芳香があり、炒って食べる。

 「茅の実の四(よツ)もたら(足られ)でや暮遅し」の季語は「暮遅し」で、「茅の実」は、「お茶受け」などの食用の炒り榧の実の意で、季語の働きはしていない。

 ※「四(よ)ツ」=「茅の実が四つ」と時刻の「(暮れ・夜)四つ=夜十時」とが掛けられている用例。

※「たらで」=「足らで」(足りない、満たない)の意。

  この句にも、前書の「傾郭」が係り、この句は「遊郭吉原の暮れ四つ(夜四つ=吉原の大門を閉じる時刻)」の句と解したい。

「名所江戸百景 廓中東雲」絵師:広重、版者:魚栄、行年:安政4

https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail268.html?artists=utagawa-hiroshige-1

「句意」(その周辺)

「遊郭吉原の暮れ四つ(夜四つ=吉原の大門を閉じる時刻)」を背景としている句である。一見すると、どうにも、チンプンカンプンの句であるが、中七の「四もたらでや」を「四(ツ)もたらでや(足らでや)」の詠みと解すると、前書の「傾廓」とドッキングして、「遊郭吉原の暮れ四つ(夜四つ=吉原の大門を閉じる時刻)」に関連しての句であろうというのが浮かび上がってくる。            

 とすると、この下五の「暮遅し」(三春)の季語が、当時の時刻の「朝四つ(夏=09:40、冬=10:20頃)」と「夜四つ(夏=22:20、冬=21:40頃)の、「夜四つ」で、それは「暮遅し」の「暮れ」が係り、暮れ四つ=夜四つ」ということになる。

さらに、この「暮遅し」の季語が、「夏至」と「冬至」による、微妙な「時刻の動き」を暗示していて、実に巧妙な句作りということ分かってくる。

それだけではなく、この上五の「茅の実」が、季語の「榧の実」(晩秋)なのかどうか、それとも、「茅花(つばな)」(仲春)の、その「花穂」(食用となる)なのかどうかとなると、これは、この句を作った抱一その人に問う他は術は無いという雰囲気の句である。

おそらく、季語的には、「茅花(つばな)」(仲春)の穂で、「暮遅し」(三春)と齟齬はなく、その意図するものは、季語の働きをする「榧の実」(晩秋)ではなく、吉原のお茶の茶受けの「炒り榧の実」を指してのもののように思われる。 

(句意その一) 「遊郭吉原の暮れ四つ(夜四つ=吉原の大門を閉じる時刻)」、まだ、お茶受けの「かやの実」を「四つ」にも手を出していない時刻なのに、ついこの間の暮れるのが早いのに比して、もう「こんな時刻」なのかと、春めいた遅日の夜の更けるのを実感する。

  これに、「夜四つ(22:20~21:40)=鐘四つ=吉原大門を閉じる」と「暁九つ(24:00)=木四つ=引け四つ=各見世も大戸を下ろす。江戸新吉原の遊里で、遊女が張り見世から引き揚げる時刻。実際には九つ(午後12時)であるが、四つ(午後10時)とみなして拍子木を四つ打った。「木の四つ」と称して、「鐘四つ」と区別した」とを加味すると、次のような句意となる。

 (句意その二) 「遊郭吉原の暮れ四つ(夜四つ=吉原の大門を閉じる時刻)」を告げたら、まだ、お茶受けの「かやの実」を「四つ」にも手を出していないに、もう「引け四つ」の「木の四つ」の拍子木(「茅の実」と「榧の実」の「木=拍子木」を示唆している?)が聞こえてくるとは、何とも、春めいた遅日の夜の更けるのを実感するよ。

 (参考一)

 【 廓の一日

https://www.edo-yoshiwara.com/kuruwa-2/kuruwa-day/

 夏          冬          時                  廓の動き

 05:00     07:00     明六ツ   卯(う)           大門を開ける

昨日の泊まり客を見送った遊女たちがもう一眠りし始めます。朝帰りの客は中宿や茶屋で朝粥などを食べてから帰宅するのが習慣だったようです。中宿とは、前日登楼前に利用した船宿のことです。上客の場合、遊女が大門まで見送りに来ます。

07:20     08:40     朝五ツ   辰(たつ)          仕事の始まり

針仕事など、吉原で商売をする人々がやってくるのがこの頃のようです。

09:40     10:20     朝四ツ   巳(み)              遊女の起床時間

物売りがさかんに行き来するのもこの時間帯のようです。座敷の掃除や花生けなどもこの時間に行われます。

12:00     12:00     昼九ツ   午(うま)          昼見世始まる

昼見世までに遊女たちは入浴・髪結い・化粧をすませます。

14:20     13:40     昼八ツ   未(ひつじ)      昼見世

昼見世はあまり賑わいがなく、遊女たちは手紙を書いたり、本を読んだりして遊び半分過ごします。

16:40     15:20     昼七ツ   申(さる)          昼見世終わる

この時間から夜見世が始まるまでに、遊女たちは食事を済ませます。

19:00     17:00     暮六ツ   酉(とり)          夜見世始まる

夜見世開始の少し前、灯りをともす頃に道中があったようです。見世清掻き(みせすががき・単に清掻きとも)という開店を知らせるお囃子とともに遊女が張り見世につきます。

20:40     19:20     夜五ツ   戌(いぬ)          床に付く

賑やかな宴会も終わり、客と遊女は床に付きます。

22:20     21:40     夜四ツ   亥(い)              大門を閉じる

鐘四ツともいいます。この後は隣の潜り戸から出入りしたようです。四ツは正規の張見世終了時間なのですが、それでは営業にさしつかえるので、この時間を四ツとは言わず、次の九ツを四ツと言い張って時間を延長していました。

24:00     24:00     暁九ツ   子(ね)              引け四ツ

正しい四ツ(鐘四ツ)に対してこちらを引け四ツといいます。各見世も大戸を下ろし、横の潜り戸から出入りします。金棒をならしながら火の番が回ります。

01:40     02:20     暁八ツ   丑(うし)          大引け

客のついた遊女も、つかなかった遊女も就寝時間となります。一般的にこの時間が大引けと言われていますが、いくつかの資料によっては明治以降の呼び方としていたり、大引け=引け四ツとしていたり、未詳の部分があるようです。

03:20     04:40     暁七ツ   寅(とら)          後朝

客と遊女との別れを後朝(きぬぎぬ)といいます。朝帰りの客を茶屋の者が迎えに来始めます。当時非人溜と呼ばれた場所から清掃の者が来て、廓内の清掃をするのもこの時刻のようです。 

※不定時法の時間は九ツから始まり四ツまで減らしていき、また九つに戻ります。

暁(あかつき)・明(あけ)・朝(あさ)・昼(ひる)・暮(くれ)・夜(よる)といった言葉が入ることも入らないこともあったようです。

また、十二支による呼び方は武家社会や改まった時に使われていたようです。】

 (参考二)

【  吉原の正月

https://www.web-nihongo.com/edo/ed_p103/

 吉原の正月は静かである。

 元日の朝は居続けの客もなく、メインストリートである仲之町(なかのちょう)通りには人影がない。ひっそりとした音のない世界でもある。時折、時を告げる金棒引(かなぼうひき)が、金棒を引きずり鐶(かん)を鳴らし歩き、時を告げる柝(き)を打つ音がするだけである。

 吉原の大晦日(おおみそか)から元旦にかけて、若い者(妓牛〈ぎゅう〉とも言う)は大忙しである。「引け四ツ」が過ぎて客がいなくなると、通りに門松を出し、妓楼に向けて門松を飾る。通りに背を向けるのは、客が入りやすくするためのスペースを作るためだという。

 この「引け四ツ」は、吉原独特の時報で、九ツ(午前零時)を告げる直前に四ツ時(午後10時頃)を触れ回ることである。明暦3年(1657)の振袖火事で元吉原(中央区堀留町付近)も全焼し、浅草日本堤千束(せんぞく)村へ移転(新吉原)させられた。遠い郊外の地となったことから、吉原遊びは夜の営業が許されるようになった。しかし、四ツ時で営業を終了して大門(おおもん)を閉め、客を帰していたのでは夜の商売にならない。

 誰か頭の切れ者がいたらしく、九ツまでは四ツ時なのだから、九ツの直前に四ツ時を告げて回ればよかろうとなって「引け四ツ」が生まれた。

 大晦日は「引け四ツ」を合図に元日には客をとらないから大門は閉めきりとなり、若い者たちが通りに門松を出し注連縄(しめなわ)を飾る。何時(いつ)もは昼の八ツ時(午後2時頃)に若い者たちが格子を洗うのだが、正月を迎えるからと、九ツ過ぎに、あらたまる春を迎えるようにと、寒さのなか格子を洗う者もいただろう。

 さて、朝を告げる烏(からす)が鳴き出すと、新年を迎える。時代によっては、三日間、庭焚火(にわたきび)をしたようだが、幕末には廃ったようでもある。着物もあらためて内証(ないしょう。主人の居間)に遊女たち家内の者が一同に集まり、揃って雑煮を祝う。

 吉原の元日の朝は遅いから、昼近くになって妓楼の花形花魁(おいらん)は、若い新造(しんぞう)と禿(かむろ)たちを大勢連れ、日頃お世話になっている引手茶屋(ひきてぢゃや)へ挨拶に出向く。どこの妓楼も同じような時刻に雑煮の祝いも終わり、一斉に馴染(なじ)みの茶屋へ挨拶に出かけるから、仲之町通りは遊女などでラッシュアワーとなる。

 落語などでは、遊んだ後にキャッシュ払いをするような感じで噺(はなし)が進むが、それは吉原の最奥にある局見世(つぼねみせ)などの最下級の遊びの世界のことで、吉原の大見世(おおみせ。総籬〈そうまがき〉とも言う)や中見世(ちゅうみせ。半籬〈はんまがき〉とも)の客は、茶屋を通して遊びの勘定を支払う。つまり遣手婆(やりてばば)や太鼓持(たいこもち)へのチップなどは別にして、遊女の揚代や芸者代、料理代などに加えて、茶屋の手数料もすべて茶屋に立替えてもらい、それを後日まとめて支払うことになっている。だから吉原遊びを「茶屋遊び」とも言うわけである。 】

 (参考三)

 【 抱一と吉原 

https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00885/

 姫路藩主の弟・酒井抱一(ほういつ、1761-1829)は、吉原の大文字屋の「香川」を身請けし、根岸(現・台東区)の雨華庵(うげあん)で創作に勤しんだ絵師である。歌舞伎の七代目市川団十郎の贔屓であり、俳諧や狂歌も得意であった抱一が、高級遊女たちと機知に富む会話を楽しんでいたことが、吉原近くの料理屋「駐春亭」の主人が聞き書きをまとめた『閑談数刻』に残されている(※2)。以下は、鶴屋の花魁・大淀とのやり取りである。

 ある人大淀かたへ馴染通ひけるに、鶯邨(おうそん、抱一の号)君も折々遊びに行給へるを、わけありての事成べしと人のうわさしけるを聞て、

  きのふけふ淀の濁や皐月雨

 と書て御めにかけたるに、鶯邨君、

 淀鯉のまだ味しらずさ月雨

 と、返しをなし給へるを聞て、大淀、

  ぬれ衣を着る身はつらし皐月雨

 といゝ訳てうち連、うなぎ舛やにて一盃のミ笑ひしと也。

大淀と馴染みになっている客が、抱一も時々遊びにくることを知って、深い仲なのではとやきもちを焼いた。そのうわさを聞いた大淀が、「このところの五月雨で、私に悪い評判が立っている(淀が濁っている)」と書いて抱一に見せたところ、「五月雨によって水が淀めば、鯉がいても見えないものさ」と詠み、自分が大淀と深い関係がないことや「大淀がまだ色恋の機微を知らない」ことにかけて返した。それに対して大淀は、「五月雨の中で着物が濡れるのはつらい」と、噂は「濡れぎぬ」であると訴える。2人は笑い合いながら、うなぎの舛屋で酒を楽しんだという。

 抱一は、神田明神や山王権現(現在の日枝神社)の天下祭りで、佐久間町(現・神田佐久間町)や魚河岸(現・日本橋)から参加する手踊(河東節)の作詞もしている。それに曲を付けたのが、吉原に住む高級ミュージシャンだった男芸者で、歌舞伎の地方(じかた)としても音楽を担当していた。出稼ぎ人らによって、江戸に持ち込まれた労働歌やざれ歌を、上品な長唄などにアレンジしたのも男芸者たちであった。 

                                   】

第一こがねのこま(1-4)

1-4  うめが香や爰(ここ)の炬燵も周防どの 

 梅=初春。「うめ(梅)が香」=梅の匂い、梅(親季語・季題)の子季語(傍題)。「梅が香や」の「上五や切り」の例句に、次のような句がある。

 梅が香やしらら落窪京太郎        芭蕉(『忘梅』)

梅がゝやひそかにおもき裘(かはごろも) 蕪村(安永六年書簡)

梅が香やどなたが来ても欠茶碗  一茶(『文化句帖』)

梅が香や乞食の家ものぞかるゝ  其角(『五元集』)

梅が香や隣りは荻生惣右衛門   其角(?『江戸名所図会」

  其角の「梅が香や乞食の家ものぞかるゝ」の句には、「遊大音寺」(大音寺ニ遊ブ)との前書きがある。この句に関連して、次のアドレスで、下記のように解説している。

http://kikaku.boo.jp/shinshi/hokku10

 『  んめがや乞食の家も覗かるゝ

 「んめがゝ」は「梅が香」。現在、大音寺は台東区下谷竜泉寺の町中にありますが、当時は吉原遊郭の裏手で、江戸郊外の田圃の中のあったという事です。其角にとっては、大音寺は読み書きなどを習うために、通いだったか寄宿してだったか分かりませんが、10歳頃に入学した「寺子屋」であったようで、久しぶりに訪れたのかも知れません。町から外れたこの付近は、乞食の住む小屋も多くあって寂しげなところかと思われますが、土地勘があっての散策だったのでしょう。野梅の馥郁な香が伝わってきます。

 この句は「梅が香」という雅な縦の題材を「乞食」と取り合わすことで、其角らしい感性で俳化しています。「雁・鹿・虫とばかり」和歌と俳諧との本質の違いに悩んだ入門から、既に八年、俳諧を自家薬籠中の物にした其角の姿が目に浮かびます。』(「詩あきんど」)

 同じく、其角(?)の句とされている「梅が香や隣りは荻生惣右衛門」は、下記のアドレスで、『江戸名所図会」に記述されている「俳仙宝晋斎其角翁の宿」に関連しての原文が紹介されている。

https://www.weblio.jp/content/%E5%BE%82%E5%BE%A0%E8%B1%86%E8%85%90

 『 「江戸名所図会」(天保年間)に「俳仙宝晋斎其角翁の宿」があり、

「茅場町薬師堂の辺なりと云い伝ふ。元禄の末ここに住す。即ち終焉の地なり。按ずるに、梅が香や隣は萩生惣右衛門という句は、其角翁のすさびなる由、あまねく人口に膾炙す。よってその可否はしらずといえども、ここに注して、その居宅の間近きをしるの一助たらしむるのみ。」

 とある。現実に、荻生惣右衛門(荻生徂徠)が、其角の住んでいた場所の隣に蘐園塾を開いたのは、其角の死後2年が経過した1709年である。其角と荻生徂徠に面識はないという。

今ではこの句は、杉山杉風の弟子である松木珪琳のものだと言われている。けれども、「隣りは荻生惣右衛門」と詠まれたあたりは、其角を意識してのものだと言えるだろう。

 其角の「梅が香や…」の句には、「梅が香や乞食の家も覗かるゝ」(一茶の句)がある。現在になってこの2句を併せて鑑賞するなら、将軍吉宗に仕えた学者の、「徂徠豆腐」で知られる倹しい一面が、面白く浮かび上がってくる。』

『江戸名所図会』所収「茅場町薬師堂」(江戸名所図会 7巻. [2]  24/49頁) (国立国会図書館デジタルオンライン)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563381/25

  この『江戸名所図会』の次頁(25/49頁)の記述文の中に、「隣りは荻生惣右衛門」の句が出て来る。この「茅場町薬師堂」(24/49頁)の句は、「夕やくし涼しき風の誓いかな」である。                                                                                      

http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/chisenin/

「 『江戸名所図会』には「薬師堂、同じく御旅所の地にあり、本尊薬師如来は、恵心僧都の作なり、山王権現の本地仏たる故、慈眼大師勧請し給ふといへり、縁日は毎月八日、十二日にして、門前二・三町の間、植木の市立てり、別当は医王山智泉院と号す」とあります。

歌人で芭蕉十哲の一人、其角が境内地に住んでおり、

夕やくし涼しき風の誓いかな

の句をよんでおります。 」(「鎧島山 智泉院(通称:茅場町のお薬師さま)」)

  この其角の「夕やくし涼しき風の誓いかな」は、百万坊旨原編の『五元集』『五元集拾遺』(『俳文俳句集(日本名著全集刊行会編)』)には収載されていず、『其角発句集(上)(坎窩久臧 考訂)(名家俳句集)』に収載されている。それには、頭注があって、「夕やくし」=「薬師には夜の参詣多きより夕薬師といふ」とある(『同書』p220)。

  ついでに、芭蕉の句の「梅が香やしらら落窪京太郎」の「しらら・落窪・京太郎」は、「浄瑠璃『十二段草子』姿見の段に「よみけるさうしはどれどれぞ、こきん(古今)・まんやう(万葉)・いせものがたり(伊勢物語)・しらら(散佚=さんいつ)物語=とりかへばや物語)・おちくも(落窪物語)・京太郎(京太郎物語)」の「とりかへばや・おちくぼ・京太郎」物語のことのようである(『松尾芭蕉集一・全発句(井本農一・堀信夫校訂)』)。

 ここで、いよいよ、抱一の、「1-4  うめが香や爰(ここ)の炬燵も周防どの」の句であるが、この句もまた、抱一が私淑して止まない「宝井(榎本)其角」の、次の句の、「本歌取り(和歌・連歌・狂歌)・本説取り(漢詩文)・本句取り(俳諧・連句・発句・俳句・狂句・川柳)」なのである。

   周防どのは才ある人にて、政事行るゝに一生非なし。

  ひなき(火無き)をめでゝ、板くら(板倉)どのと

  申とかや、この中より、やけたる銭をひろひ出て

 火燵(こたつ)から青砥(あをと)が銭を拾ひけり  (其角『五元集』)

  この「其角」の句は、百万坊旨原編の『五元集』にも、坎窩久臧考訂の『其角発句集(冬之部)』にも収載されている。この坎窩久臧考訂の『其角発句集(冬之部)p253』の、この句の頭注には、「板倉殿の冷火燵といふ諺をさせり」とある。

 この「板倉殿の冷火燵といふ諺」は、「火の気の無いこたつの洒落。板倉殿(板倉周防守)の政務には非難される点が無いことから、『非がない』と『火がない』とをかけてのもの」ということになる。

 ちなみに、この句の「青砥が銭」とは「十文の銭を五十文使って探した、という青砥藤綱の故事をふまえている」と、何とも、其角の句というのは、いわゆる「謎句(付け)」の「謎掛のような仕掛けのある句」の連続なのである。

1-4  うめが香や爰(ここ)の炬燵も周防どの 

 句意=梅の匂いが春を告げている。だが、まだ、炬燵は離せない。しかし、この家の炬燵も火のない「周防殿の冷炬燵(ひえこたつ)=板倉炬燵」だ。

 句意周辺=「周防どの」とは、「京都所司代周防守板倉重宗」のこと。その「板倉殿(板倉周防守)の政務には非難される点が無いことから、『非がない』と『火がない』とをかけてのもの」ということになる。そして、この上五の「うめが香や」と中七の「爰の炬燵も」の「も」の措辞は、やはり、其角の句として夙に名高い「梅が香や隣りは荻生惣右衛門」の「荻生徂徠」の「徂徠豆腐」などが背景にあるのであろう。

 (参考) 徂徠豆腐 (「ウィキペディア」)

https://www.weblio.jp/content/%E5%BE%82%E5%BE%A0%E8%B1%86%E8%85%90

 落語や講談・浪曲の演目で知られる『徂徠豆腐』は、将軍の御用学者となった徂徠と、貧窮時代の徂徠の恩人の豆腐屋が赤穂浪士の討ち入りを契機に再会する話である。江戸前落語では、徂徠は貧しい学者時代に空腹の為に金を持たずに豆腐を注文して食べてしまう。豆腐屋は、それを許してくれたばかりか、貧しい中で徂徠に支援してくれた。その豆腐屋が、浪士討ち入りの翌日の大火で焼けだされたことを知り、金銭と新しい店を豆腐屋に贈る。

ところが、義士を切腹に導いた徂徠からの施しは江戸っ子として受けられないと豆腐屋はつっぱねた。それに対して徂徠は、「豆腐屋殿は貧しくて豆腐を只食いした自分の行為を『出世払い』にして、盗人となることから自分を救ってくれた。

法を曲げずに情けをかけてくれたから、今の自分がある。自分も学者として法を曲げずに浪士に最大の情けをかけた、それは豆腐屋殿と同じ。」 と法の道理を説いた。さらに「武士たる者が美しく咲いた以上は、見事に散らせるのも情けのうち。武士の大刀は敵の為に、小刀は自らのためにある。」と武士の道徳について語った。

これに豆腐屋も納得して贈り物を受け取るという筋。浪士の切腹と徂徠からの贈り物をかけて「先生はあっしのために自腹をきって下さった」と豆腐屋の言葉がオチになる。

第一こがねのこま(1-3)

1-3  築山の戸奈背にをつるやなぎかな

 柳(やなぎ)=晩春。築山=庭園に山をかたどって小高く土をつみ上げた所。戸奈背=戸無瀬=戸難瀬=京都市西京区嵐山、渡月橋の上流の古地名。紅葉の名所。歌枕。※恵慶集(985‐987頃)「大井河かはべの紅葉ちらぬまはとなせの岸にながゐしぬべし」

 となせ(戸無瀬)の滝=※散木奇歌集(1128頃)冬「となせよりながす錦は大井河いかだにつめるこのはなりけり」

 句意=この築山は、歌枕の、京都市西京区嵐山、渡月橋の上流の「戸奈背=戸無背」の「となせの滝」を模して作庭されている。その「となせの滝」に、あたかも、その傍らの柳が落下するように、風に靡いている。

 句意周辺=この句の背景には、「築山殿と松平信康の悲劇」などが隠されているのかも知れない。

https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/miryoku/naotora/pr/plus/07_20160817.html

 「築山殿と松平信康の悲劇」

 築山殿は、駿府(静岡市)にて今川家の重臣・関口刑部親永(せきぐちぎょうぶちかなが)と井伊直平(井伊直虎の曽祖父)の娘との間に生まれ、直盛(直虎の父)や直親のいとこにあたるとされています。

  今川義元の政略で松平元信(のちの徳川家康)に嫁ぎ、永禄2年(1559年)には長男である松平信康を出産。しかし、生まれてすぐに信康は今川家の人質として駿府で過ごすこととなります。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、家康は混乱に乗じて岡崎城に入城。名実ともに岡崎城主となると、築山殿と人質になっていた信康も岡崎城に移り住みます。永禄5年(1562年)には織田信長と清州同盟を結び、今川家と敵対関係になります。そして永禄10年(1567年)、9歳となった信康は信長の娘・徳姫と結婚します。

 元亀元年(1570年)、家康が浜松城に移ると、信康は岡崎城主となりますが、天正7年(1579年)、信康に悲劇が襲いかかります。悲劇のきっかけは徳姫が織田信長に送った12ヶ条の訴状だったと言われています。この訴状には、「築山殿が武田勝頼と内通している」といった内容が記されていたとされていて、この内容に織田信長が激昂。築山殿と信康の処刑を要求しました。熟慮の末、信長との関係を重視し、身を切る思いで、築山殿の殺害と信康の切腹を命じました。築山殿は徳川家臣によって佐鳴湖畔で殺害され、信康は二俣城(天竜区二俣町)で自害しました。

「築山殿/瀬名姫」(つきやまどの/せなひめ)(「ウィキペディア」)

生誕       不明

死没       天正7年8月29日(1579年9月19日)

別名       築山御前、駿河御前

配偶者    徳川家康

子供       徳川信康、亀姫

親           父∶関口親永

母∶   今川義元の妹

親戚:      兄弟∶正長、道秀、

姉妹:   大谷元秀室、築山殿、北条氏規室?

第一こがねのこま(1-2)

1-2  から笠のほねのたくみも柳哉

  柳(やなぎ)=晩春。

わがせこが見らむ佐保道の青柳を手折りてだにも見むよしもがも 大伴坂上郎女『万葉集』

見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春に錦なりける 素性法師『古今集』

青柳の糸よりかくる春しもぞ乱れて花のほころびにける 紀貴之『古今集』

傘(からかさ)に押しわけみたる柳かな 芭蕉「炭俵」

傾城の賢なるはこの柳かな       其角「五元集」

梅ちりてさびしく成しやなぎ哉     蕪村「蕪村句集」

恋々として柳遠のく舟路かな      几董「井華集」

  から笠(唐笠)=江戸時代に入ってからで、白の和紙に桐油(とうゆ)を引いたのが始まりで、その粗雑なものを番傘とよんだ。のちに家紋をつけたりし、傘の周囲を紺で染めたものを蛇の目傘、それより細身で高級品のものを紅葉(もみじ)傘といい、握りには籐(とう)を巻いたり、骨を糸飾りにしたりして粋筋(いきすじ)の間で流行した。

傘にねぐらかさうやぬれ燕  其角『虚栗』

柳に風=柳が風に従ってなびくように、少しも逆らわないこと。また、巧みに受けながすこと。※雑俳・如露評万句合‐宝暦九(1759)「いつ見ても柳に風の夫婦中」

 句意=唐笠の骨の仕組みは、実に巧みに出来上がっている。それは、丁度、「柳に風」のごとく、巧みに、従順な働きをしている。抱一の句作りの要諦は、江戸座俳諧の元祖の宝井其角の句をいかに「柳(其角)に風(抱一)」ごとく、咀嚼して、さりげなく一句にしているかどうかにかかっている。

鈴木其一筆「柳図扇」一本(柄) 酒井抱一賛 太田記念美術館蔵

一六・六×四五・五㎝

【 軽やかに風に揺れる柳が描かれる。抱一による賛は「傾城の賢なるはこれやなきかな 晋子吟 抱一書」。晋子(しんし)とは、芭蕉の門弟の一人で江戸俳座の祖である其角のこと。この句は『都名所図会』(安永九年<一七八〇>刊)などで京都の遊郭、島原を形容する際に用いられており、江戸時代後期にはよく知られていたと思われる。本扇面は、当時の吉原文化の一翼を担った抱一とその弟子其一の、粋な書画合筆による。賛のあとに抱一の印章「文詮」(朱文瓢印)が捺される。画面右に其一の署名「其一」、印章「元長」(朱文方印)がある。なお、其一の弟子入りの時期と抱一没年から制作期は文化十年(一八一三)から文政十一年(一八二八)の間と考えられる。 】(『鴻池コレクション扇絵名品展(図録)』所収「作品解説(赤木美智稿)」)

 (参考) 「藤図扇子」(其一筆・抱一賛・其角句)周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-09-25

 抱一の賛の其角の句「傾城の賢なるはこれやなきかな」は、『五元集(旨原編)』では「傾城の賢なるは此柳かな」の句形で収載されている。この其角の句が何時頃の作なのかは定かではない。『都名所図会』(安永九年<一七八〇>刊)で京都の遊郭、島原を形容する際に用いられているということは、其角の京都・上方行脚などの作なのかも知れない。

  闇の夜は吉原ばかり月夜哉   (天和元年=一六八一、二十一歳)

 西行の死出路を旅のはじめ哉  (貞享元年=一六八四、二十四歳、一次上方行脚)

 夜神楽や鼻息白し面の内    (元禄元年=一六八九、二十八歳、二次上方行脚)

 なきがらを笠に隠すや枯尾花  (元禄八年=一六九四、三十四歳、三次上方行脚)

其角とその周辺

其角の『句兄弟・上』

芭蕉が没した元禄七年(一六九四)に成った、其角の『句兄弟』(上・中・下)の、其角の序(句兄弟序)の全文は次のとおりである。

(参考文献)

一 『句兄弟・上』夏見知章・大谷恵子・山尾規子・関野あや子編著

二 「句兄弟」(『蕉門俳諧集二』・古典俳文学大系七)今栄蔵校注

(句兄弟序)

点ハ転ナリ、転ハ反なりと註せしによりて案ズルに、句ごとの類作、新古混雑して、ひとりことごとくには、諳(ソラン)じがたし。然るを一句のはしりにて聞(きき)なし、作者深厚の吟慮を放狂して、一転の付墨をあやまる事、自陀(他)の悔(くやみ)且暮にあり。さればむかし今の高芳の秀逸なる句品、三十九人を手あひにして、お(を)かしくつくりやはらげ、おほやけの歌のさま、才ある詩の式にまかせて、私に反転の一躰をたてゝ、物めかしく註解を加へ侍る也。此(この)後俳諧の転換、その流俗に随ひ侍らば、一向壁に馬なる句躰なりとも、聊(いささか)の逃(にげ)道を工夫して等類の難をのがれぬべし。尤(もっとも)、古式のゆるしごとくに、貴人・少人・女子・辺鄙の作に於(おい)ては、切字ひとつの違(ちがひ)にして当座の逸興ならしめんは、祝蛇(原文は魚扁)が侫(ねい)なかるべし。此(この)道の譬喩方便なれば、諸作一智也、諸句兄弟也、とちなめるまゝ遠慮なく書の名とし侍る。

元禄七甲戌稔(年)寿星初五  晋 其角

(参考)一 「点ハ転ナリ、転ハ反なり」=点は点化の意で漢詩作法から来た語。点化は古人の詩句を換骨奪胎して自句を成す法で、転・反というも等しい。当時俳人にも読まれた明の梁公済著『氷川(ひょうせん)詩式』に作句法の一として「点化句法」が見えるが、其角は元禄七年刊『其便』に「点化句法」と表示する発句を出しており、漢詩法に学んだ作句法を試みていることが分かる(今・前掲書)。『俳文学大辞典』では「反転の法」の項目での説明あり。また、『去来抄』では、「打ち返し」の用例も見る。

二 おほやけの歌のさま=歌道における本歌取りのこと。『細川幽斎聞書全集』巻之一には「本歌可取様之事」として、次の六法がある。

① 常に取る本歌の詞にあらぬ物にとりなしてといへり

② 本歌の心をとりて風をかへたる

③ 本歌に贈答したる躰

④ 本歌の心になりかへりてしかも本歌をへつらはずして新しき心を読める躰

⑤ 詞一つをとりたる歌

⑥ 本歌二首を以て読める躰

三 壁に馬なる=諺「壁に馬を乗りかけたよう」。物事を出し抜けにやること、また無理無体にやることのたとえ。

四 祝蛇(原文は魚扁)=中国春秋時代、衛の人。『論語』に出てくる。後世、弁舌の巧みな者をたとえていう。

五 元禄七甲戌稔(年)寿星初五=元禄七甲戌年八月五日

(句合せ一)

※ 『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

※ (謎解き・五十二)http://yahantei.blogspot.com/2007/03/blog-post_24.html

一番

   兄 貞室 

 これはこれはとばかり花の吉野山 

   弟 晋子(其角) 

 これはこれはとばかり散るも桜哉 

(兄句の句意)これは、これは、まことに驚くばかりの花一色の吉野山であることよ。

(弟句の句意)これは、これは、まことに驚くばかりに落花の桜も美しいことであるよ。

(判詞の要点)兄句の「これはこれとばかり」をそのままに、それに唱和するようなスタイルで、「花の吉野山」を「散るも桜哉」と反転せている。それも、単に、「咲いた桜」に対して「散る桜」と反転させただけではなく、「これは、これはと驚くばかりに激しく散る桜の美しさ」も、花(桜)の「(物の)本性」(『徒然草』第百三十七段の「花の前後」の心に通ずる)で、その心をもって反転させたところに、ここでの弟句の句作りの要諦がある。

(参考)安原貞室(やすはらていしつ:1610年(慶長15年) – 1673年3月25日(延宝元年2月7日))は、江戸時代前期の俳人で、貞門七俳人の一人。名は正明(まさあきら)、通称は鎰屋(かぎや)彦左衛門、別号は腐俳子(ふはいし)・一嚢軒(いちのうけん)。京都の紙商。1625年(寛永2年)、松永貞徳に師事して俳諧を学び、42歳で点業を許された。貞門派では松江重頼と双璧をなす。貞室の「俳諧之註」を重頼が非難したが、重頼の「毛吹草」を貞室が「氷室守」で論破している。自分だけが貞門の正統派でその後継者であると主張するなど、同門、他門としばしば衝突した。作風は、貞門派の域を出たものもあり、蕉門から高い評価を受けている。句集は「玉海集」など。

(句合せ三)

※ 『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

※ (謎解き・五十四)http://yahantei.blogspot.com/2007/03/blog-post_24.html

三番

   兄 素堂 

 又これより青葉一見となりにけり 

   弟 (其角) 

 亦是より木屋一見のつゝし(じ)哉

兄句の句意)花が落花して、また、これからは「青葉一見」の季節になったことよ。

弟句の句意)「植木屋一見」の花の季節から、また、これからは「つつじ」の季節になったことよ。

(判詞の要点)兄句・弟句とも春の名残を惜しむことにおいては同じであるが、兄句の「青葉」を「木屋」に、「となりにけり」を「つゝし(じ)かな」と変転させることによって、句の表面の字面も句意も随分と様変わりしている。特に、この「下五の云かへにて」で、両句は「強弱の躰をわかつもの」となっている。両句の背景には、賈島「暁賦」詩中の「遊子行残月」(『和漢朗詠集』所収)がある。

(参考)山口素堂(やまぐち そどう、寛永19年(1642年) – 享保元年8月15日(1716年9月30日))は、江戸時代前期の俳人・治水家。本名は信章。通称勘兵衛。[経歴] 生れは甲斐国で、家業は甲府魚町の酒造家。20歳頃で家業の酒造業を弟に譲り、江戸に出て漢学を林鵞峰に学んだ。俳諧は1668年(寛文8年)に刊行された「伊勢踊」に句が入集しているのが初見。1674年(延宝2年)京都で北村季吟と会吟し、翌1675年(延宝3年)江戸で初めて松尾芭蕉と一座し以後互いに親しく交流した。晩年には「とくとくの句合」を撰している。また、治水にも優れ、1696年(元禄9年)には甲府代官櫻井政能に濁川の治水について依頼され、山口堤と呼ばれる堤防を築いている。

雨華庵の四季(春)その一~その五

その一「春(一)」

花鳥巻春一.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(一)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035812
【酒井抱一 四季花鳥図巻 二巻 文化十五年(一八一八) 東京国立博物館
「春夏の花鳥」「あきふゆのはなとり」の題箋に記され、二巻にわたり、四季の花鳥に描き連ねた華麗な図巻。琳派風の平面的な草花から極めて写実的に描かれる植物まで多様な表現を試みる。横長に巻き広げる巻物の特性を利用して、季節の移ろいを流れるように展開し、蔓や細かい枝を効果的に配す。燕や蝶、鈴虫など鳥や虫も描き込まれ、以前の琳派にはない新しい画風への取り組みが顕著に示されている。
絹本著色:二巻:上巻三一・二×七一二・五:下巻三一・二×七〇九・三: 文化十五年(一八一八): 東京国立博物館 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説(一五六)(岡野智子稿)」)

上記の図は、右から「福寿草・すぎな(つくし)・薺・桜草・蕨・菫・蒲公英・木瓜」(『日本の美術№186酒井抱一(千澤梯治編)』)のようである。

福寿草(新年・「元日草」)「福寿草は、花のこがね色とその名がめでたいことから新年の花とされる。元日草ともいわれるように、古くから元日に咲くように栽培されてきた。」
 小書院のこの夕ぐれや福寿草   太祗 「太祗句選」
 朝日さす弓師が見せや福寿草   蕪村 「蕪村遺稿」
 ふく寿草蓬にさまをかくしけり  大江丸 「はいかい袋」
 帳箱の上に咲きけり福寿草    一茶 「九番日記」
 ※福寿草硯にあまる水かけん   晩得 「哲阿弥句藻」
 暖炉たく部屋暖かに福寿草    子規 「子規句集」
※ https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-05-03

「佐藤晩得(さとうばんとく)=享保十六~寛政四年(一七三一~九二)、俳号=哲阿弥など、別号に朝四・堪露・北斎など。俳諧は右江渭北門のち馬場存義門」なのである。この佐藤晩得が、抱一の後見人のような大和郡山藩主を勤め、俳号・米翁として名高い「柳沢信鴻(やなぎざわのぶとき)=柳沢吉里の次男」と親交が深く、当時、酒井家部屋住みの抱一の後ろ盾のような関係にあり、この晩得が亡くなった追善句集『哲阿弥句藻』に、抱一は跋文を寄せるほど深い絆で結ばれていたのである。

つくし(仲春・「土筆・つくづくし・つくしんぼ・筆の花」)「杉菜の胞子茎をいう。三月ごろから日のあたる土手や畦道に生える。」
 佐保姫の筆かとぞみるつくづくし雪かきわくる春のけしきは 藤原為家「夫木和歌抄」
 真福田が袴よそふかつくづくし    芭蕉 「花声」
 見送りの先に立ちけりつくづくし  丈草 「射水川」
 つくづくしここらに寺の趾もあり  千代女「松の声」
 つくつくしほうけては日の影ぼうし 召波 「春泥発句集」

すぎな(晩春・「杉菜・接ぎ松・犬杉葉」)「春に胞子茎をだす。これが土筆である。胞子茎が枯れると、栄養茎が杉の葉のように伸びるが、これは茎であって、葉は退化している。」
 今まではしらで杉菜の喰ひ覚え  惟然 「鳥の道」
 杉苗に杉菜生そふあら野かな   白雄 「白雄句集」
 すさまじや杉菜ばかりの丘一つ  子規 「寒山落木」

薺(新年・「なずな・なづな・ぺんぺんくさ・三味線草」)「七種粥に入れる春の七草の一つ。」
 六日八日中に七日の齊かな    鬼貫 「鬼貫句選」
 一とせに一度摘まるゝ齊かな   芭蕉 「芭蕉句選」   
 濡縁や齊こぼるる土ながら    嵐雪 「続猿蓑」
 沢蟹の鋏もうごくなづなかな   蓼太 「蓼太句集」

桜草(晩春・「プリムラ・常盤桜・乙女桜・雛桜・一花桜・楼桜」)「江戸時代にも武士階級で流行。花は淡紅色、紅紫色。花びらは筒状の先が五つに大きく裂け、さらにそれぞれの先が二つに割れてサクラに似ている。」
 我国は草もさくらを咲きにけり  一茶 「文政版句集」
 わがまへにわが日記且桜草    万太郎「流寓抄」

蕨(仲春・「岩根草・山根草・早蕨・干蕨・蕨飯」)「山肌の日当たりの良いところにみられる春を代表する山菜。」
 石(いは)ばしる垂水のうへの早蕨の萌え出づる春になりにけるかも 志貴皇子「万葉集」
 いはそそぐ清水も春の声たてて打ちてや出づる谷の早蕨 藤原定家「拾遺愚草」
 蕨採りて筧に洗ふひとりかな   太祗 「太祗句選後篇」
 わらび野やいざ物焚ん枯つゝじ  蕪村 「蕪村句集」
 めぐる日や指の染むまでわらび折る 白雄 「白雄句集」
 折りもちて蕨煮させん晩の宿   蝶夢 「草根発句集」
 そゞろ出て蕨とるなり老夫婦   茅舎 「川端茅舍句集」 

菫(三春・「菫草・花菫・相撲花・一夜草・ふたば草・壺すみれ・姫すみれ」)「菫は春、濃い紫色の花をさかせる。花の形が、大工道具の『墨入れ』に似ていることから「すみれ」
の名がついたという。」
 春の野にすみれ摘みにと来しわれそ野をなつかしみ一夜寝にける 山部赤人「万葉集」
 山路来て何やらゆかしすみれ草   芭蕉 「のざらし紀行」
 骨拾ふ人にしたしき菫かな     蕪村 「蕪村句集」
 地車におつぴしがれし菫哉     一茶 「文化句帳」
 菫ほどな小さき人に生まれたし   漱石 「夏目漱石全集」

蒲公英(仲春・「たんぽ・たんぽぽ・鼓草・蒲公英の絮」)「蒲公英は黄色い太陽形の花。花が終わると、絮が風に飛ばされる。」
 たんぽぽや折ゝさます蝶の夢   千代女 「千代尼発句集」
 たんぽぽに東近江の日和かな   白雄  「白雄句集」
 馬借りて蒲公英多き野を過る   子規  「子規句集」

木瓜(晩春・「木瓜の花・緋木瓜・白ぼけ・花木瓜」)「開花期は十一月から四月にかけて。
十一月頃咲くものは寒木瓜と呼ばれる。瓜のような実がなることから木瓜と呼ばれる。枝には棘があり、春、葉に先立って五弁の花を咲かせる。」
 紬着る人見送るや木瓜の花    許六 「住吉物語」
 順礼の子や煩ひて木瓜の花    樗堂 「萍窓集」
 木瓜咲くや漱石拙を守るべく   漱石 「夏目漱石全集」

その二「春(二)」

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酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(二)」東京国立博物館蔵
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花鳥巻春二拡大.jpg

(同上:部分拡大図)

 上図は、「春(一)」に続いて、その「春(一)」で描いた「蒲公英・木瓜・菫・すぎな(つくし)・薺・白桜草」などに、新たに「虎杖(いたどり)」と「雉(きじ)と母子草」を描いている(『日本の美術№186酒井抱一(千澤梯治編)』)。
 この中央の雉が、小さな母子草を見ているのは、芭蕉の「父母のしきりに恋ひし雉子の声」などを想起させるような雰囲気を有している。

虎杖(仲春・「いたどり・みやまいたどり・さいたづま」)「春先、赤味を帯びた新芽が出
て節のある太い茎が一メートル程に直立し目立つ。茎は成長するにつれ木質化する。夏に白い小さな花を沢山つける。」
 春日野にまだうら若きさいたづま妻籠(ごも)るともいふ人やなき 藤原実氏「玉葉集」
 虎杖や到来過ぎて餅につく   一茶 「九番日記」
 山陰に虎杖森の如くなり    子規 「子規句集」

雉(三春・「雉子・きぎす・きぎし、雉子の声、焼野の雉子」)「雄は全体的に緑色をおびており、目の周りに赤い肉腫がある。雌は全体的に茶褐色。雌雄ともニワトリ似て尾は長い。繁殖期の雄は赤い肉腫が肥大し、なわばり争いのため攻撃的になり、ケンケンと鳴いて翼を体に打ちつける『雉のほろろ』と呼ばれる行為をする。」
 春の野にあさる雉(きぎし)の妻恋ひにおのがあたりを人に知れつつ 大友家持「万葉集」
 春の野のしげき草葉の妻恋ひに飛び立つ雉のほろろとぞ鳴く 平貞文「夫木和歌抄」
 父母のしきりに恋ひし雉子の声      芭蕉 「笈の小文」
 うつくしき顔かく雉の距(けづめ)かな  其角 「其袋」
 遅キ日や雉子の下りゐる橋の上    蕪村 「蕪村句集」
 雉啼くや暮を限りの舟渡し     几菫 「晋明集二稿」
 雉子の尾の飛さにみたる野風かな    白雄 「白雄句集」

母子草(晩春・「御形蓬(おぎょうよもぎ)・鼠麹草(ほうこぐさ)」)「ヘラ形の葉の間からのびた花茎に、小さなつぶつぶの黄色い頭頂花を球状につける。春の七草のオギョウは母子草のロゼット(根出葉)である。」
  すりこぎや父はおそろし母子草  路通 「雷盆木」
  跡訪はん塚も母子の草の時    沾峨 「吐屑庵句集」
  老いて尚なつかしき名の母子草  虚子 「虚子句集」

【 落款は上巻巻頭に署名「抱一暉真」「抱弌」(朱文重郭方印)、下巻巻末に「文化戌寅晩春 抱一暉真寫之」の隷書による署名と「雨華」(朱文内鼎外方印)「文詮」(朱文瓢印)がある。文政に改元直前の文化十五年(一八一八)三月に描かれたことが知られる。抱一の共箱で、蓋表に「四季花鳥巻物 二軸」蓋裏に「抱一暉真筆」「文詮」(朱文瓢印)がある。巻子及び箱の体裁は極めて上質で、四季が廻るという吉祥画題とともに、高位の家の吉事を祝う制作とうかがわれる。
 同時に、本図は抱一が光琳の模倣にとどまらず、新たな表現を志した記念碑的作品でもある。植物の描写は、琳派風の平面的な草花から極めて写実的に描かれる植物まで多様な表現を試みており、同一作品ながら異なる表現が混在して変化に富む。横に巻き広げる巻物の特性を利用して、季節の移ろいを流れるように展開し、蔓や細い枝は画面に対角線上に配して、視線が自然と画面の先、つまり次の季節に及ぶように誘っている。
 また本図には上下巻合わせて植物六十種、禽鳥八種、昆虫九種が描かれる。宗達や光琳は鳥や虫を草花に取り合わせることはなかったが、抱一は本図で鳥や虫を積極的に起用している。例えば枝垂桜の枝を飛び交う燕や、菊の上によじ登る蟷螂、青木の葉裏の蝉の抜け殻など、こまやかな季節の移ろいを告げるキーパーソンを彼らが務めている。
 草花図に華麗な鳥やさまざまな虫を描くことは、中国では伝統的に行われており、特に清の沈南蘋の弟子たちには鮮やかな花鳥草花図巻が多く見出される。本図の上巻「藤に蜂の巣」の部分などにはそうした清の画巻の影響が顕著である。
 一方、下巻冒頭の「萩に鈴虫、松虫」では虫を描くことによってその音色までも想起させようという、極めて日本的な導入を用意する。このように抱一は、中国の花鳥草虫図巻に構想を借りながら、日本の四季の情趣をさまざまに描いている。宗達・光琳が抑制してきた自然の趣を抱一は新たに琳派様式に取り入れ、江戸琳派がここに確立された。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「作品解説(一五六)(岡野智子稿)」)

その三「春(三)」

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酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(三)」東京国立博物館蔵
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(同上:部分拡大図)

 上図は、右から「春(二)」に続く「薺・杉菜」の次に、「菜の花」(晩春)・「大根の花」(晩春)、そして「蚕豆(そらまめ)の花」(晩春)・「蚕豆」(初夏)、さらに、その大根の花の上に「蜆蝶」(三春の「蝶」の子季語)、菜の花には「紋白蝶」(三春の「蝶」の子季語)が停まっている。
 「蝶」は「三春」(初春・仲春・晩春))の季語だが、「初蝶」(初春)、「揚羽蝶・夏の蝶」(三夏)、「秋の蝶」(三秋)、「冬の蝶」(三冬)、「凍蝶」(晩冬)と、四季にわたって詠まれている。
 上図の左端の「枝垂れ桜」は、「仲春」の季語で、全体としては「春の景」であるが、この「蝶」(蜆蝶と紋白蝶)が、これまでの「春の景」を「夏の景」へと誘っている雰囲気を有している。
 また、これまでの「春(一)」と「春(二)」が、地面上の「地の景」とすると、ここから、蝶が舞い飛ぶ「天の景」へと視点を転回させている。

蝶(三春・「蝶々・胡蝶・春の蝶・小灰蝶・蜆蝶・白蝶・緋蝶・だんだら蝶」)「蝶は彩りあざやかな大きな翅をもつ昆虫。花の蜜を求めてひらひらと舞ふ。」
 散りぬれば後はあくたになる花を思ひ知らずもまどふ蝶かな 僧正遍照「古今集」
 蝶の飛ぶばかり野中の日影かな   芭蕉 「笈日記」
 うつゝなきつまみごゝろの胡蝶哉  蕪村 「蕪村句集」
 夕風や野川を蝶の越しより     白雄 「白雄句集」
 ひらひらと蝶々黄なり水の上    子規 「子規全集」
初蝶(初春・「はつちょう・はつてふ」)「春になって初めて目にする蝶のこと。」
 たちいでて初蝶見たり朱雀門    大江丸「俳懺悔」
 初蝶来何色と問ふ黄と答ふ     虚子 「六百五十句」
揚羽蝶(三夏・「黒揚羽・烏揚羽・烏蝶」)「春はやや小さめだが夏になると一回り大きくなる。」
 黒揚羽花魁草にかけり来る     虚子「虚子全集」
 我が来たる道の終りに揚羽蝶    耕衣「驢鳴集」
夏の蝶(三夏・「夏蝶・梅雨の蝶」)「夏に見かける蝶のこと。単に蝶では春の季語となる。」
 まことちさき花の草にも夏の蝶   石鼎 「原石鼎全句集」
秋の蝶(三秋・「秋蝶・老蝶」)「立秋を過ぎてから見かける蝶のこと。春や夏の蝶にから比べるといくらか弱々しい印象を受ける。」
 薬園の花にかりねや秋の蝶     支考 「梟日記」
 山中や何をたのみに秋の蝶     蝶夢 「三夜の月の記」
 あきの蝶日の有るうちに消えうせる 暁台 「暁台日記」
 しらじらと羽に日のさすや秋の蝶  青蘿 「青蘿発句集」
 秋のてふかがしの袖にすがりけり  一茶 「七番日記」
冬の蝶(三冬・「冬蝶・越年蝶」)「冬に見かける蝶のこと。その蝶も寒さが強まるにしたがい飛ぶ力もなくなり、じっと動かなくなってしまう。」
 落つる葉に撲(う)たるる冬の胡蝶かな  几董 「晋明集二稿」
凍蝶(晩冬・蝶凍つ))「寒さのため凍てついたようになる蝶のこと。哀れさという点では「冬の蝶」より差し迫った感じがある。」
 石に蝶もぬけもやらで凍てしかな     白雄 「白雄句集」

大根の花(晩春・「菜大根の花、種大根」)「大根の種を採るために畑に残した株に薹が立ち、白い十字型の花を咲かせる。紫がかったものもある。」
 まかり出て花の三月大根かな   一茶 「題叢」  
 花大根黒猫鈴をもてあそぶ    茅舍 「川端茅舍句集」

蚕豆(そらまめ)(初夏・「空豆、はじき豆」)「お多福の形をした薄緑の大きな豆。莢(さや)が空に向かってつくためこの名がある。また、莢の形が蚕に似ていることから蚕豆という字をあてることもある。」
 そら豆やただ一色に麦のはら   白雄 「題葉集」
 假名かきうみし子にそらまめをむかせけり 久女 「杉田久女句集」
蚕豆(そらまめ)の花(晩春)「春の盛りの頃葉腋に白色又は薄紫色の蝶形花を数個ずつつける。」
 そら豆の花の黒き目数知れず   草田男 「長子」
 蚕豆の花の吹き降り母来て居り  波郷  「惜命」 

菜の花(晩春・「花菜・菜種の花・油菜」)「菜種の黄色い花。一面に広がる黄色の菜の花畑は晩春の代表的な景色。近世、菜種油が灯明として用いられるようになってから、関西を中心に栽培されるようになった。」
 菜畠に花見顔なる雀哉      芭蕉 「泊船集」
 菜の花や月は東に日は西に    蕪村 「続明烏」
 なの花の中に城あり郡山     許六 「韻塞」
 菜の花やかすみの裾に少しづつ  一茶 「七番日記」
 菜の花や淀も桂も忘れ水     言水 「珠洲之海」
 菜の花の中に小川のうねりかな  漱石 「夏目漱石全集」

枝垂桜(仲春・「糸桜・しだり桜・紅枝垂」)「薄紅色の花を、細くて垂れ下った枝につける。樹齢は長い。」
 目の星や花をねがひの糸桜   芭蕉 「千宣理記」
 糸桜則ち是か華の雨      淡々 「華の日」
 影は滝空は花なり糸桜     千代女 「千代尼句集」
 いとざくら枝も散るかと思ひけり 嘯山 「葎亭句集」
 ゆき暮れて雨もる宿やいとざくら 蕪村 「蕪村句集」

【 抱一は寛政九年(一七九七)、三十七歳で江戸下向中の西本願寺十八世文如(もんにょ)上人より得度を受け、権大僧都として僧となった。その後十二年ほどの間に転居を繰り返したが、文化六年(一八〇九)の年末、吉原にほど近い下谷金杉大塚村(台東区根岸五丁目辺り)に小鸞女史とともに庵を結ぶ。後に雨華庵と呼ばれるこの小さな庵は、その後抱一の絵画活動の拠点となるとともに、僧としての務めを果たす場所でもあった。
 弟子の田中抱二(一八一四~八四)が明治十六年(一八八三)に描いた「雨華庵図」は、七十二歳になった抱二が往年の師宅を思い出して描いたもの。それによれば雨華庵は、玄関、台所のほかは座敷、仏間、茶間、画所の四室ばかりであった。抱二のメモによれば、ここで六月二日の光琳忌には扇合(おおぎあわせ)が、十一月五日には御花講が営まれたという。
 また抱一には「二尊庵」という号があり、六十歳前後から使用されていたようだが、これは雨華庵の本尊が阿弥陀如来像二尊であったことによる。朝夕に読経も行われ、抱一は案外真面目に仏事にも励んでいたらしい。浄土真宗西本願寺派の末弟、等覚院文詮暉真(とうかくいんもんせんきしん)こと抱一上人の勤行の場であった。
 さらに、雨華庵二世を継いだ鶯蒲は大田南畝ゆかりの市ヶ谷浄栄寺の出身だが、その過去帳の抱一の項には唯信寺開祖とあり、雨華庵をして唯信寺を寺号としていた形跡が認められる。雨華庵三世の鶯一もまた浄栄寺の血縁に連なる者であった。つまり抱一は、江戸琳派の画風の継承と、仏事を営み抱一を供養する立場とを別次元で考えていたひとが明らかである。
 このように、抱一が後半生を市井の僧として暮らしたことで、画業にも新たな展開が生まれた。さまざまな仏画を積極的に手掛けるようになったのである。 】
(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一(仲町啓子監修)』所収「画僧抱一の仏画(岡野智子稿)」中「勤行の場でもあった画房『雨華庵』」)

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【 田中抱二「雨華庵図」 1883(明治16)年 紙本着色 26.5×37.8
 抱一が大塚村(現在の台東区根岸五丁目辺り)に構えた画房は、1817(文化14)年に「雨華庵」の号を掲げるようになった。抱一没後も弟子が集まり一門を呈したが、1865(慶應元)年8月21日夜、火災で焼失してしまう。これは抱一の弟子の田中抱二(1814~84)が記憶を頼りに描いた雨華庵の見取り図で、画塾としての様子をうかがう貴重な資料である。(松尾知子稿) 】
(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一(仲町啓子監修)』所収「<風>をつかまえた絵師(仲町啓子稿)」)

 この「雨華庵図」の右上に、次のような記載が書かれている。

【植木 大樹 赤松・かしは(柏)・ぬるて(白膠木)・にしき(錦木)・あちさい(紫陽花)
    艸(草)はき(萩)・すゝき(薄)・女郎花・なてしこ(撫子)・かるかや(刈萱)
    大樹 梅・ひのき(檜)・さゝさんか(山茶花)    】

 これは、抱一の晩年の弟子の田中抱二(抱一の六十四歳時に十三歳で入門)が、晩年(七
十二歳時)に往時を回顧しての覚書きのようなものなのであろう。
 この植木関係では、「艸(草)」が、秋の七草の「萩・薄・女郎花・撫子」(「葛・藤袴・桔梗又は朝顔」は書いてない)と「刈萱」が書かれており、これは、春には、春の七草の「芹・薺・御形(ごぎょう・母子草)・繁縷(はこべら)・仏の座(タビラコ)・菘(すずな・蕪)・蘿蔔(すずしろ・大根)」なども植えられていたようにも思えてくる。
 そして、それらは、この両巻合わせて十四メートル余の長大な「四季花鳥図巻」の「植物
(六十種)」の大部分が、「樹木」ではなく「草花」であることと何処かしら結びついているように思えるのである。
 それらのことは、この後に続く、「夏・秋・冬」の草花が、どのように描かれているのか
を見ていくことによって、より鮮明になってくるであろう
 ここで、「雨華庵」屋内の間取りを見ていくと、その母屋は左側から「画所(えどころ)・
茶間(居間)・仏間・座敷」の四部屋(「画所」の上部に「前室」)と、その「画所」の離
れ屋風に「茶室」がある。この「茶室」に面した庭に「赤松斗(バカ)リ」と書かれ、「座敷」
の庭に面した所に「ヒサシ(庇)アリ」と書かれている。また、庭の池には、「魚・ヒ
鯉(緋鯉)・金魚」と書かれている。
 これらを、先の「勤行の場であった画房『雨華庵』」(岡野智子稿)と重ね合わせると、
「画所と茶室」スペースが「雨華庵画房」、「仏間・座敷」スペースが「二尊庵(後に寺号の「唯信寺」)、その両者の共通スペースが「茶間(二か所の「間仕切り」あり)」と考えることも出来るであろう。
 そして、この画房「雨庵庵」と僧房「二尊庵」との、この両者を結びつけるものが、「雨華庵・二尊庵」の自然(四季の「景物=花・鳥」)ととらえることも可能であろう。

その四「春(四)」

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酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(四)」東京国立博物館蔵
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(同上:部分拡大図)

 上図の中央は、枝垂れ桜の樹間の枝の合間を二羽の燕が行き交わしている図柄である。右側には「春(三)」の続きの地上に咲く黄色の菜の花、左側には、これまた、右側の菜の花に対応して、黄色の連翹の枝が、地上と空中から枝を指し伸ばしている。
この行き交う二羽の燕が、これまでの地面・地上から空中へと視点を移動させる。さらに、枝垂れ桜のピンクの蕾とその蕾が開いた白い花、それらを右下の黄色の菜の花と、左上下の黄色の連翹、さながら色の協奏を奏でている雰囲気である。その色の協奏とともに、この二羽の燕の協奏とが重奏し、見事な春の謳歌の表現している。

燕(仲春・「乙鳥(おつどり)・つばくら・つばつくめ・つばくろ・飛燕・濡燕・川燕・群燕・夕燕・初燕」)「燕は春半ば、南方から渡ってきて、人家の軒などに巣を作り雛を育てる。初燕をみれば春たけなわも近い。」
 燕来る時になりぬと雁がねは国思ひつつ雲隠り鳴く 大伴家持「万葉集」
 盃に泥な落しそむら燕      芭蕉 「笈日記」
 海づらの虹をけしたる燕かな   其角 「続虚栗」
 蔵並ぶ裏は燕の通ひ道      凡兆 「猿蓑」
 大和路の宮もわら屋もつばめかな 蕪村 「蕪村句集」
 夕燕我にはあすのあてはなき   一茶 「文化句帖」
 滝に乙鳥突き当らんとしては返る 漱石 「夏目漱石全集」
夏燕(三夏)「夏に飛ぶ燕である。燕は、春、南方から渡ってきて繁殖活動に入る。四月下旬から七月にかけて二回産卵する。雛を育てる頃の燕は、子燕に餌を与えるため、野や町中を忙しく飛び回る。」
 山塊を雲の間にして夏つばめ   蛇笏 「家郷の霧」
 夏つばめ遠き没り日を見つつゐる 誓子 「炎昼」

連翹(仲春・「いたちぐさ・いたちはぜ」)「半つる性植物。枝が柳のように撓み、地につくとそこから根を出す。葉に先立って鮮やかな黄色の花を枝先まで付ける。その様子が鳥の長い尾に似ているのでこの名がついた。」
 連翹や黄母衣の衆の屋敷町    太祇 「新五子稿」
 連翹に一閑張の机かな      子規 「子規句集」

【 抱一は、文化十四年(一八一七)の秋、住み慣れた庵居に「雨華庵」の額を掲げた。以来、「雨華」の号を署名に印章にと多く用いるようになった。四の「雨華時代Ⅰ」の始まりである。この「雨華」の語の出典は、同じ年の六月に剃髪した小鸞女史の法名「妙華尼」と合わせて、「天雨妙華」という語句から採られたとつとにいわれている。これは「大無量寿経」上の「讃仏偈(さんぶつげ)の最後に現れる語句で、次に『浄土三部経 上』(岩波文庫)をテキストとして上段に魏(ぎ)訳、下段に梵文(ぼんぶん)和訳を上げることにする。

 応時普地、六種震動、天雨妙華  大地は震動し、花は雨と降り、
 以散其上、自然音楽、空中讃言  数百の楽器は空中に奏でられた。
             (天の甘美な栴檀の抹香は撒かれた)
 決定必成無上正悟    (声あっていう)『(かれは)来世に仏となるであろう』と。

 すべての願いが成就したときに、この大地が震動し、雨のように降り注ぐ花の歓喜のイメージこそが「雨華」なのである。「大無量寿経」は、日本人に極楽浄土の姿を伝える経典として、平安時代より重要な役割を担ってきた。極楽浄土には種々の河が流れ、宝石でかざられた花束を流し、種々の甘美な声や響きがあり、七宝でかざられた樹や花や池や砂があること。いろいろな鳥が妙なる鳴き声をあげ、四季の区別もなく、暑からず寒からず、常に和らぎ調い適すること。そうした絢爛豪華な極楽浄土の様相は、いつしか中国的な四季の揃った庭園のイメージと重なり、浄土の表象としての四季折々の自然美が日本では定着していくことになる。室町時代以降、さかんに描かれた四季花鳥図の金屏風が、きらびやかな浄土に重ね合わされた四季の景物画であることは、最近の美術史研究ではほとんど認められている。「日本の伝統的な絵画で、四季のモティーフを含まないものは少ない。私たちは、今や数少なくなった床の間に、四季の移り変わりに合わせて掛け換える。季節がそれによって部屋に持ち込まれる。日本人が心に描く浄土には四季がある」(辻惟雄氏、千葉市美術館『祝福された四季展』カタログ)のである。そして、抱一の画房でも多くの四季の花鳥、花木、草花の絵が描かれた。それは、典型的といえるほど固定した素材によって描かれている。

春は、土筆・蒲公英・蓮華草・蕨・桜草・紅梅・白梅・山桜
夏は、芍薬・白百合・紫陽花・仙翁花・撫子・沢瀉・河骨・燕子花・立葵・昼顔
秋は、龍胆・桔梗・薄・女郎花・葛・朝顔・紅菊・白菊・芙蓉・柿・藤袴・蔦・漆
冬は、雪の被った芦・檜・藪柑子・水仙

 自生植物と園芸植物の混ざった多様の花や木や草は、屏風・図巻・画帖・掛物とあらゆる画面形式に描き継がれ、優美な曲線に誘われ、鮮烈な色彩に覆い尽くされ、愛らしい宝石のような形象がちりばめられた。このような多種多様な花園を生み出す自分のアトリエに、抱一は「雨華」と名付けたのである。抱一の花鳥図・草花図が極楽浄土のイメージと無関係であるはずがないであろう。抱一にとって次々と工房で画を創り出すことは、すべての世界が歓喜して、花びらが空中に舞う姿にも重なっていたのである。(以下略)  】
(『新潮日本美術文庫18酒井抱一(玉蟲敏子著)』所収「抱一 ―江戸の精華譜(つれづれにしき)」中「雨華 ―見立ての浄土」)

その五「春(五)」

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酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(四)」東京国立博物館蔵
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(同上:部分拡大図)

 上図の右側は、「春(三)」に続く黄色の連翹の花、そこに、白い辛夷の花を対比させている。この白い辛夷の花の周囲には、白い点々の藤の花を添えている。そして、中央に紫の藤の花を三房バランスよく描いている。その紫の藤房の空間に、飛んでいる小さな足長蜂を一匹丁寧に描いて、思わず、この一点に視線が集中するような巧みな構成となっている。この小さな蜂に目を奪われていると、この図の左上の端に、蜂の巣があり、そこに留まっている一匹の足長蜂と対比になっていることに気付いてくる。そして、その蜂の巣の下に白い辛夷の花が添えられている。

蜂(三春・「足長蜂・熊蜂・地蜂・土蜂・穴蜂・似我蜂・山蜂・花蜂・蜜蜂・姫蜂・雀蜂・女王蜂・雄蜂など」)「く見られるミツバチは、女王蜂を中心に生活が営まれる。スズメバチやアシナガバチなどは、巣を守るためひとを襲うこともある。」
 腹立てて水呑む蜂や手水鉢     太祇 「太祇句選」
 土舟や蜂うち払ふみなれ棹     蕪村 「遺稿」
 木ばさみのしら刃に蜂のいかりかな 白雄 「白雄句集」
 一畠まんまと蜂に住まれけり    一茶 「七番日記」
 指輪ぬいて蜂の毒吸ふ朱唇かな   久女 「杉田久女句集」
 蜂の尻ふわふわと針をさめけり   茅舎 「川端茅舎句集」

辛夷(仲春・「木筆・山木蘭・幣辛夷・田打桜」)「早春、葉が出る前に、六弁の白い花を枝先につける。莟の形が赤子のこぶしを連想させるのでこぶしと名づけられた。」
 咲く枝を折る手もにぎりこぶしかな   重頼 「犬子集」
 雉一羽起ちてこぶしの夜明けかな    白雄 「白雄句集」
 花籠に皆蕾なる辛夷かな        子規 「子規全集」

藤(晩春・「ふじ・ふぢ・山藤・野藤・白藤・八重藤・赤花藤・藤の花・南蛮藤・ 藤波・藤棚・藤房」)「藤は晩春、房状の薄紫の花を咲かせる。芳香があり、風にゆれる姿は優雅。木から木へ蔓を掛けて咲くかかり藤は滝のようである。」
 恋しけば形見にせむと我がやどに植ゑし藤波今咲きにけり  山部赤人「万葉集」
 よそに見てかへらむ人に藤の花はひまつはれよ枝は折るとも 僧正遍照「古今集」
 くたびれて宿借るころや藤の花   芭蕉 「笈の小文」
 水影やむささびわたる藤の棚    其角 「皮籠摺」
 蓑虫のさがりはじめつ藤の花    去来 「北の山」
 しなへよく畳へ置くや藤の花    太祇 「太祇句選」
 月に遠くおぼゆる藤の色香かな   蕪村 「連句会草稿」
 しら藤や奈良は久しき宮造り    召波 「春泥発句集」
 藤の花長うして雨ふらんとす    子規 「子規全集」

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喜多川歌麿//筆、宿屋飯盛<石川雅望>//撰『画本虫ゑらみ』国立国会図書館蔵
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288345
【『画本虫撰』宿屋飯盛撰 喜多川歌麿画 二冊 天明八年(一七八八) 千葉市美術館
精細きわまる植物と虫の絵は、若き喜多川歌麿によるもの。虫の羽の透けの表現に雲母摺りを施すなど美麗な本で、虫の歌合の趣向で三十名の狂歌と競演する。蜂と毛虫の歌合に、尻焼猿人こと抱一が登場。「こハごハに とる蜂のすの あなにえや うましをとめを みつのあち(ぢ)ハひ」とある。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説(三三)(松尾知子稿)」)

 この『画本虫撰』が刊行された天明八年(一七八八)時は、抱一、二十八歳、歌麿、三十六歳の頃で、当時の狂歌名は、抱一が「尻焼猿人(しりやけのさるんど)、歌麿は「筆綾丸(ふでのあやまろ)」である。
 この二人とも、この『画本虫撰』の出版元の「蔦重」こと、蔦屋重三郎の所属する「吉原連」と深い関係にあると解して差し支えなかろう。ちなみに、蔦屋重三郎の狂歌名は「蔦唐丸(つたのからまる)」である。

【 江戸の都市の繁栄は、狂歌、黄表紙、浮世絵(錦絵)といった新しい文化を育んだが、世に天明狂歌運動とも呼ばれるムーブの担い手の多くは、下級の幕臣の大田南畝をはじめとする二、三十代の青年たちであった。才気渙発な抱一が、酒井家の屋敷の外側で繰り広げられる同世代の若者による自由闊達な活動に敏感でないはずがない。蔦屋重三郎版の狂歌絵本『吾妻曲(あずまぶり)狂歌文庫』(宿屋飯盛撰、山東京伝画、天明六(一七八六)年刊)、続編の『古今狂歌袋(宿屋飯盛撰、山東京伝画、天明七(一七八七)年刊)、『画本虫撰(えほんむしえらみ)』(宿屋飯盛撰、喜多川歌麿画、天明八(一七八九)年刊)などに、抱一は立て続けに、「 尻焼猿人」の狂歌名を名乗って登場する。大田南畝は大手門前の酒井家上屋敷で部屋住みの生活を送る抱一の下を訪ねており、天明八年正月十五日の上元の宴では、抱一の才を七言絶句の漢詩を詠んでいる。その書き出しには「金馬門(きんばもん)前白日開」とあり、中国漢代の末央宮の門を気取って、江戸城の大手門をペンダントリーに「金馬門」と呼んでいる。この謂いは、抱一と南畝らの間で交わされた暗号のようなものだったらしく、現存しないが、抱一も最初に編んだ句集の名を「金馬門」の和語から「こがねのこま」としていたようだ。
 好奇心旺盛な若き抱一が、最初期の画業として取り組んだのは浮世絵美人画で、画風の一致から、その師匠は記録のとおり歌川派の開祖のと歌川豊春であると考えられる。南畝はたびたび抱一筆の美人画に漢詩や狂歌を書き付けているが、天明五(一七八五)年初冬作の「調布の玉川図」はのちに、当時の抱一の絵が少しも古びていないことを称え、古歌をもじった賛を執筆したものである。賛の狂歌と本歌を挙げておこう。
 玉川にさらす調布(たつくり)さらさらにむかしの筆とさらに思はず
  → 玉川にさらす調布さらさらにむかしの人のこひしきやなそ
                (『拾遺和歌集』巻第十㈣恋四 よみ人しらず)  
二人の交流は晩年まで長く続き、南畝は抱一にとって最古参の友人の一人であった。 】

 太田南畝(狂歌名=四方赤良)は、寛延二年(一七四九)の生まれ、抱一よりも十二歳年長で、抱一の狂歌の師匠格に当たるというよりも、当時の天明狂歌運動の中心的な人物であった。
上記の『画本虫撰』の撰者は、宿屋飯盛(家業=宿屋、国学者=石川雅望)であるが、飯盛は南畝門であり、この『画本虫撰』の背後に南畝が控えていることは、この画本のトップに、上記の「抱一(猿人)の蜂」の狂歌に「南畝(赤良)の毛虫」の狂歌の「歌合(うたあわせ)」を持ってきていることからも明瞭であろう。この南畝(赤良)の狂歌は、次のものである。

 毛をふいてきずやもとめんさしつけて 
  きみがあたりにはひかかりなば (四方赤良)

 これらのことについては、下記のアドレスでも触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-28

 ここで特記して置きたいことは、抱一と抱一一門では、数多くの「四季花鳥図」あるいは「十二か月花鳥図」を、屏風・図巻・画帖・掛物とあらゆる画面形式に描き継がれているが、こと、「蜂と蜂の巣」が取り上げられているのは、この冒頭の、文化十五年(一八一八)、抱一、五十八歳時の作「四季花鳥図巻」のものの他、殆ど見掛けないということなのである。
 そして、この抱一五十八歳時の、抱一代表作の一つの、この「四季花鳥図巻」の「蜂と蜂の巣」は、紛れもなく、抱一二十八歳時の狂歌名・尻焼猿人の名で登場する『画本虫撰』の、上記の歌麿の描いた「蜂と蜂の巣」を、直接・間接とかを問わずモデルとしているように思えるのである。
 抱一の花鳥図の、殊に、その鳥や虫の描写には、やや年代が遡る京都画壇の写生派の元祖・円山応挙や奇想派の巨匠・伊藤若冲などの影響については夙に指摘されているところであるが、同世代且つ同土俵上の先輩絵師にして狂歌師の歌麿の影響というのも大きかったということを特記して置きたい。
 これらのことに関し、『画本虫撰』との観点は、上記アドレス(国立国会図書館蔵)で相互に検討することが出来るが、その『絵本百千鳥』などの挿絵などに関しては、次のアドレス(国立国会図書館蔵)のものとの相互検討が必要となって来る。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8943229

 上記のアドレスで紹介されているもののうち、今回の抱一の『四季花鳥図巻』で前回までに取り上げている「雉(きじ)」と「燕(つばめ)」のものを掲載して置きたい。

歌麿・雉と燕(正).jpg

赤松金鶏撰・喜多川歌麿画『絵本百千鳥(上)』の「雉子と燕」(国立国会図書館蔵)
http://www.photo-make.jp/hm_2/utamaro_momochidori.html

 上記掲載中の「燕子と雉」に関する狂歌は次のとおりである。

燕  酒月米人 つばめにも身をかへてまし下紐を ときはにながくねんとおもへば
雉子 桐一葉  あふときハけんもほろゞな返事して いひ出ん事のはねもすぼめり

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その一~二十九)

その一 西行法師

鹿下絵一.JPG

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の一「西行・定家」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

鹿下絵和歌巻・西行.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(西行法師)」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦(山種美術館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/215347

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-12↓(追記)「光悦書宗達下絵和歌巻」周辺(「メモ」その四)(再掲)

(「西行法師」周辺メモ)

1 西行法師:こころなき身にもあはしられけりしぎたつ沢の秋の夕ぐれ(山種美術館蔵)

(釈文)
西行法師
こ々路那幾身尓も哀盤しら禮介利
鴫多徒澤濃秋乃夕暮

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saigyo.html

   秋 ものへまかりける道にて
心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮(山家集470)[新古362]

【通釈】心なき我が身にも、哀れ深い趣は知られるのだった。鴫が飛び立つ沢の秋の夕暮――。
語釈】◇心なき身 種々の解釈があるが、「物の情趣を解さない身」「煩悩を去った無心の身」の二通りの解釈に大別できよう。前者と解すれば出家の身にかかわりなく謙辞の意が強くなる。下に掲げた【鑑賞】は、後者の解に立った中世歌学者による評釈である。◇鴫たつ沢 鴫が飛び立つ沢。鴫はチドリ目シギ科に分類される鳥。多種あるが、多くは秋に渡来し、沼沢や海浜などに棲む。非繁殖期には単独で行動することが多く、掲出歌の「鴫」も唯一羽である。飛び立つ時にあげる鳴き声や羽音は趣深いものとされた。例、「暁になりにけらしな我が門のかり田の鴫も鳴きて立つなり」(堀河百首、隆源)、「をしねほす伏見のくろにたつ鴫の羽音さびしき朝霜の空」(後鳥羽院)
【補記】秋の夕暮の沢、その静寂を一瞬破って飛び立つ鴫。『西行物語』では東国旅行の際、相模国で詠まれた歌としているが、制作年も精しい制作事情なども不明である。『御裳濯河歌合』で前掲の「おほかたの露にはなにの」と合わされ、判者俊成は「鴫立つ沢のといへる、心幽玄にすがたおよびがたし」と賞賛しつつも負を付けた。また俊成は千載集にこの歌を採らず、そのことを人づてに聞いた西行はいたく失望したという(『今物語』)。『西行法師家集』は題「鴫」、新古今集は「題しらず」。

(「鹿下絵新古今集和歌巻」周辺メモ )

【「鹿下絵新古今集和歌巻」は戦後小刀を入れて諸家に分藏されることになったが、もちろん本来は一巻の巻物であった。しかも全長二〇mを超える大巻であったらしい。この下絵も鹿という単一のモチーフで構成されている。鹿はたたずみ、群れる。雌雄でじゃれ合い、戯れる。跳びはね、走る。そして山の端に姿を消していく。鹿の視線や動きのベクトルは、画面内でさまざまに変化する。先に指摘した「鶴下絵和歌巻」の特異な構成は、この和歌巻と比較することによって一層はっきりするであろう。】(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭著)』)

【「西行への傾倒」 光悦が選んだのは『新古今和歌集』巻四「秋歌 上」、岩波文庫版でいえば三六二番から三八九番までにあたる。つまり西行法師の「こころなき身にもあはしられけりしぎたつ沢の秋の夕ぐれ」から藤原家隆の「鳰のうみや月のひかりにうつろへば浪の花にも秋は見えけり」まで連続する二八首である。西行法師の前後には、寂連法師の「さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮」と藤原定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ」がある。有名な三夕の和歌、これをもって秋歌の和歌巻を始めようとするのはだれでも思いつく着想であろう。
 しかし光悦は寂連をカットし、いきなり西行から書きだした。それは光悦が西行を高く評価し、西行に対する特別の感情をもっていたからである。『本阿弥行状記』には西行に関することが数条見出されるが、とくに「心なき」の一首は一七二条に取り上げられている。この一首にならって、飛鳥井雅章は「あはれさは秋ならねどもしられけり鴫立沢のあとを尋ねて」と詠んだ。ところがこの鴫立沢というのは、西行の和歌によって後人が作り出した名所であったので、このような詠吟は不埒であると勅勘を蒙ったという話である。雅章の恥となるような逸話を持ち出しつつ、西行の素晴らしさを際立たせたわけである。それにしても、並の書家であれば三夕の和歌の一つをカットすることなど、絶対にしなかったであろう。 】(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭著)』)

【『本阿弥行状記』一七二段
  心なき身にも哀れは知られけり鴫立沢の秋の夕暮 西行法師
 これを秀吟は西行東国行脚の時なり。その旧跡、相模国に鴫立沢と申て庵なども有之候由。然るに飛鳥井雅章卿
  あはれさは秋ならねともしられけり鴫立沢のあとを尋ねて
と申歌を詠給ふ事、右鴫立沢と申は後人の拵へし所なるを、かく詠吟の事不埒也と勅勘を蒙り給ひしとぞ。道を大切になし給ふ事難有御事也。 】(『本阿弥行状記と光悦(正木篤三著)』)

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥メモ(その一)

http://sakurasayori.web.fc2.com/hyaku88.html

「御裳濯河歌合」(十八番)

左:勝(山家客人)
大かたの霧にはなにの成るならん袂(たもと)に置くは涙なりけり(千載集)                           
右:(野径亭主)
心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮(新古今集)
判詞(俊成)
右歌の「鴫立つ沢の」と詠んでいるのは、心が幽玄で姿は及び難いものがある。ただし左の歌で「霧はなにの」と云っているのは、言葉は浅いようだが心はまことに深い。勝ると申すべきであろう。
参考: 右歌は西行の代表作の一つで、いわゆる「三夕(さんせき)の歌」でもある。俊成はこの寂寥感溢れる歌を「心幽玄」として認めているが、左歌の「霧にはなにの」というのを心の深さとして高く評価している。わが袂に置く涙なのだが、あたり一面に置く一粒一粒の露はいったい何がなったのか。この世に存在する、そのものの悲傷であろうか、余情の深い歌である。右の歌は、上句が説明的で下句はその材となっている、というように俊成は見たのであろうか。左歌は「千載集」に採り、右歌は外している。

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その二)

その二 藤原定家

鹿下絵一.JPG

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の一「西行・定家」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

鹿下絵和歌巻・藤原定家.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(藤原定家)」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦(個人蔵)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-13

(追記)「光悦書宗達下絵和歌巻」周辺(「メモ」その五)(再掲)

(「藤原定家」周辺メモ)

   西行法師すすめて、百首歌よませ侍りけるに
2 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮(新古363)
(釈文)西行法師須々めて百首哥よま世侍介る尓
見王多世盤華も紅葉もな可利け里浦濃とまや乃阿支乃遊ふ久連

【通釈】あたりを見渡してみると、花も紅葉もないのだった。海辺の苫屋があるばかりの秋の夕暮よ。
【語釈】◇花も紅葉も 美しい色彩の代表として列挙する。◇苫屋(とまや) 菅や萱などの草で編んだ薦で葺いた小屋。ここは漁師小屋。
【補記】文治二年(1186)、西行勧進の「二見浦百首」。今ここには現前しないもの(花と紅葉)を言うことで、今ここにあるもの(浦の苫屋の秋の夕暮)の趣意を深めるといった作歌法はしばしば定家の試みたところで、同じ頃の作では「み吉野も花見し春のけしきかは時雨るる秋の夕暮の空」(閑居百首)などがある。新古今集秋に「秋の夕暮」の結句が共通する寂蓮の「さびしさはその色としも…」、西行の「心なき身にもあはれは…」と並べられ、合せて「三夕の歌」と称する。

(「鹿下絵新古今集和歌巻」周辺メモ )

【「闇を暗示する銀泥」 「鶴下絵和歌巻」において雲や霞はもっぱら金泥で表されていたが、この和歌巻では銀泥が主要な役割を果たすようになっている。これは夕闇を暗示するものなるべく、中間の明るく金泥のみの部分を月光と解えるならば、夕暮から夜の景と見なすとも充分可能であろう。なぜなら、有名な崗本天皇の一首「夕されば小倉の山に鳴く鹿は今宵は鳴かずいねにけらしも」(『万葉集』巻八)に象徴されるように、鹿は夕暮から夜に妻を求めて鳴くものとされていたからである。朝から夕暮までの一日の情景とみることも可能だが、私は鹿の伝統的なシンボリズムを尊重したいのだ。 】(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭著)』)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jomei.html

   崗本天皇の御製歌一首
夕されば小倉の山に鳴く鹿はこよひは鳴かず寝(い)ねにけらしも(万8-1511)

【通釈】夕方になると、いつも小倉山で鳴く鹿が、今夜は鳴かないぞ。もう寝てしまったらしいなあ。
【語釈】◇小倉の山 不詳。奈良県桜井市あたりの山かと言う。平安期以後の歌枕小倉山(京都市右京区)とは別。雄略御製とする巻九巻頭歌では原文「小椋山」。◇寝(い)ねにけらしも 原文は「寐宿家良思母」。「寐(い)」は睡眠を意味する名詞。これに下二段動詞「寝」をつけたのが「いね」である。
【補記】「崗本天皇」は飛鳥の崗本宮に即位した天皇を意味し、舒明天皇(高市崗本天皇)・斉明天皇(後崗本天皇)いずれかを指す。万葉集巻九に小異歌が載り、題詞は「泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇御製歌一首」すなわち雄略天皇の作とし、第三句「臥鹿之(ふすしかは)」とある。
【他出】古今和歌六帖、五代集歌枕、古来風躰抄、雲葉集、続古今集、夫木和歌抄
【参考歌】雄略天皇「万葉集」巻九
夕されば小椋の山に臥す鹿は今夜は鳴かず寝ねにけらしも
【主な派生歌】
夕づく夜をぐらの山に鳴く鹿のこゑの内にや秋は暮るらむ(*紀貫之[古今])
鹿のねは近くすれども山田守おどろかさぬはいねにけらしも(藤原行家)

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥メモ(その二)

https://japanese.hix05.com/Saigyo/saigyo3/saigyo306.miyakawa.html

「宮河歌合」(九番)

左:勝(玉津嶋海人)
 世中を思へばなべて散る花の我身をさてもいづちかもせん
右:(三輪山老翁)
 花さへに世をうき草に成りにけり散るを惜しめばさそふ山水
判詞(定家)
 右歌、心詞にあらはれて、姿もをかしう見え侍れば、山水の花の色、心もさそはれ侍れど、左歌、世中を思へばなべてといへるより終りの区の末まで、句ごとに思ひ入て、作者の心深く悩ませる所侍れば、いかにも勝侍らん。
参考:「この御判の中にとりて、九番の左の、わが身をさてもといふ歌の判の御詞に、作者の心深くなやませる所侍ればと書かれ候。かへすがへすもおもしろく候かな。なやませるといふ御詞に、よろづ皆こもりめでたく覚え候。これ新しく出でき候ぬる判の御詞にてこそ候らめ。古はいと覚え候はねば、歌の姿に似て云ひくだされたるやうに覚え候。一々に申しあげて見参に承らまほしく候ものかな」。こう書いた上で西行は、「若し命生きて候はば、必ずわざと急ぎ参り候べし」と付け加えている。西行の感激がいかに大きかったか、よく伺われるところである。

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その三)

その三 藤原(飛鳥井)雅経

鹿下絵二.JPG

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の二「藤原雅経」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

鹿下絵和歌巻・藤原雅経.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦(サントリー美術館蔵)
紙本金銀泥画・墨書/一幅 江戸時代初期・17世紀  縦33.7cm 横122.5cm

https://www.suntory.co.jp/sma/collection/gallery/detail?id=704

【 もとは『新古今和歌集』巻四・秋歌上より抜き出した二十八首を散らし書きにした、全長二十メートルにも及ぶ長巻だったが、戦後に裁断されて諸家に分蔵されたものの一つ。全巻を通して地面や霞に刷かれた金銀泥によって、秋の一日の早朝から夕暮までの時間経過が叙情的に表されている。前半部分にあたる本作では、鹿がうずくまって右上から左下へと列をなす様子が描かれ、光悦は鹿を包み込み、空間と調和するようにゆったりと和歌を記している。(『サントリー美術館プレミアム・セレクション 新たなる美を求めて』サントリー美術館、2018年) 】

(周辺メモ・釈文など)

五十首哥た天ま徒里し時      → 五十首歌たてまつりし時
ふぢハらの雅経          → 藤原雅経(飛鳥井雅経)
た遍天や盤おも日安里共如何何勢無 → たへてやは思ひありともいかがせむ
む久ら濃宿濃阿支能夕暮      → 葎(むぐら)の宿の秋の夕ぐれ

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-10↓(追記)「光悦書宗達下絵和歌巻」周辺(「メモ」その三)(再掲)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/masatune.html

  五十首歌たてまつりし時
たへてやは思ひありともいかがせむ葎(むぐら)の宿の秋の夕ぐれ(新古364)

【通釈】耐えられるものですか。恋しい思いがあるとしても、どうにもならないわ。こんな、葎の生えた侘び住居の秋の夕暮――とてもあなたの思いを受け入れることなどできない。
【語釈】◇たへてやは 耐えていられるだろうか、いやできない。◇思ひありとも 下記本歌を踏まえて言う。
【本歌】「伊勢物語」第三段
思ひあらば葎の宿に寝もしなむひじきものには袖をしつつも
【補記】老若五十首歌合。伊勢物語の本歌は、男が懸想した女に「ひじき藻」を贈る時に「恋の思いがあるならば、葎の宿でもかまうものか。一緒に寝ましょう。敷きものには袖があれば十分ではありませんか」と言いやったもの。雅経の歌は、女が男に応答する形をとって、「いや、葎の宿であるばかりか、今は秋という季節なのだから、思いがあっても、侘しさには耐えられないだろう」と男の申し出を拒絶している。恋の思いを「秋思」によって否定しているのである。この歌が老若歌合でも新古今集でも恋歌でなく秋歌とされているのは、そのためであろう。

藤原雅経(飛鳥井雅経) 嘉応二年~承久三(1170-1221)
関白師実の玄孫。刑部卿頼輔の孫。従四位下刑部卿頼経の二男。母は権大納言源顕雅の娘。刑部卿宗長の弟。子に教雅・教定ほかがいる。飛鳥井雅有・雅縁・雅世・雅親ほか、子孫は歌道家を継いで繁栄した。飛鳥井と号し、同流蹴鞠の祖。

狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その十一) 参議雅経と二条院讃岐

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-02-02

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その十一)参議雅経と二条院讃岐

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-10

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その一)

 「光悦書宗達下絵和歌巻」は、一匹の鹿(角のある雄鹿)からスタートとする(その一「西行法師」図)。そして、次に、もう一匹の鹿(角のある雄鹿)が登場する(その二「藤原定家」図)。
それ続く、次の画面が、この鹿の群生図(その三「藤原(飛鳥井)雅経」図)である。これに続く、その四(宮内卿)、その五(鴨長明)の歌人群は、この群生図(その三)が、「新古今集」の撰進を始め、実質的な中心的な撰者の一人であった後鳥羽上皇を中心とする、それを取り巻く歌壇(「新古今集歌壇」)の面々の見立てと解しても差し支えなかろう。
 とすると、「その一」図の鹿は西行、「その二」図)の鹿は定家という見立てになる。そして、西行と定家との出会いは、文治二年(一一八六)、西行の勧進に応じた「二見浦百首」の詠草の中で、時に、西行、六十九歳、定家、二十五歳の時である。
 この「二見浦百首」の「秋二十首」に、のちに『新古今集(巻第四)』所収「秋歌上」に撰入された、世に「三夕の歌」として名高い、次の三首のうちの「定家作」が誕生する。

361 さびしさはその色としもなかりけり まき立つ山の秋の夕暮(寂連)
362 心なき身にもあはれは知られけり しぎたつ澤の秋の夕ぐれ(西行)
363 見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕ぐれ(定家)

 この定家の歌には、「西行法師のすすめて百首歌詠ませはべりけるに」の詞書が付してある。そして、光悦書・宗達(伊年)画の「鹿下絵新古今集和歌巻」(諸家分蔵)は、この「362 心なき身にもあはれは知られけり しぎたつ澤の秋の夕ぐれ(西行)」から始まり(「その一」図)、それに続く二番手が、この「363 見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕ぐれ(定家)」(「その二」図)なのである。
 ここで、この「鹿下絵新古今集和歌巻」(諸家分蔵)の末尾を飾る藤原家隆の次の一首について触れて置きたい。

389 鳰のうみや月のひかりのうつろへば浪の花にも秋は見えけり(家隆)

 千利休の秘伝書の一つとされている『南方録』(南坊宗啓著)で、その中に「紹鴎(利休の師の「竹野紹鴎」)わび茶の湯の心は、新古今集の中、定家朝臣の歌に、「見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕ぐれ」、この歌の心にてこそあれ」と、この歌こそが「わび茶の湯の心」と評している。
 それに続けて、「又宗易(利休の法名)、今一首見出したりとて、常に二首を書付、信ぜられしなり。同集家隆の歌に」と書き留められている、家隆の歌が次の一首なのである。

 花をのみ待つらん人に山ざとの雪間の草の春を見せばや(家隆「六百番歌合」)

 即ち、千利休の「侘び茶の理想」(草庵の茶)を具現するものとして、「新古今集」時代の二大歌人「定家・家隆」の、次の二首が挙げられるということであろう(『日本詩人選十一藤原定家(安藤次男著)』)。

 見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕ぐれ(定家『新古今集』)
 花をのみ待つらん人に山ざとの雪間の草の春を見せばや(家隆「六百番歌合」)

「鹿下絵新古今集和歌巻」(諸家分蔵)の末尾を飾る藤原家隆の歌(鳰のうみや月のひかりのうつろへば浪の花にも秋は見えけり)は、上記の『南方録』で紹介されている「花をのみ待つらん人に山ざとの雪間の草の春を見せばや(家隆「六百番歌合」)と、同じ響きを有していると、「鹿下絵新古今集和歌巻」の揮毫者である光悦その人は感じ取っていることであろう。
 ここに、光悦の同朋の一人である「小堀遠州」(秀忠・家光二代に仕えた近江長浜の城主・小堀遠江森政、光悦と同じく多芸のアートディレクター・茶人)が「侘び茶の理想」とした一句(「茶話指月集」の宗長の句とも宗碩の作ともいわれている)を並列して置きたい。

1 見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ(定家『新古今集』)
2 花をのみ待つらん人に山ざとの雪間の草の春を見せばや(家隆「六百番歌合」)
3 鳰のうみや月のひかりのうつろへば浪の花にも秋は見えけり(家隆『新古今集』)
4 夕月夜海すこしある木の間かな(宗長か宗碩の句「茶話指月集」=小堀遠州の「きれい寂び」を象徴する句)

 これらを、『茶の本(The Book of Tea) 岡倉天心著 千宗室跋・序 浅倉晃訳』から、その英訳(原訳)を記して置きたい。

1 見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ(定家『新古今集』)

Gazing long to the share,
There are no blossoms
Or crimson leaves;
Out at sea!s edge a rush hut
In auturmn dusk.

2 花をのみ待つらん人に山ざとの雪間の草の春を見せばや(家隆「六百番歌合」)

To one who awaits
Only the cherry!s blossoming
I would shod
Spring in the mountain village,
Its young herbs amid snow.

3 鳰のうみや月のひかりのうつろへば浪の花にも秋は見えけり(家隆『新古今集』)

4 夕月夜海すこしある木の間かな(宗長か宗碩の句「茶話指月集」=小堀遠州の「きれい寂び」を象徴する句)

A cluster of summer trees,
A bit of the sea,
A pale evening moon.

さらに、十五世千宗室の「跋文」の一節を下記に併記して置きたい。

【 茶の宗匠である紹鴎は、侘びの心を表すものとして、藤原定家卿の次の一首を選んだ。

    見わたせば
    花も紅葉もなかりけり
    浦のとまやの
    秋の夕ぐれ

 春の花のあでやかさもなければ、秋の紅葉の美しさもない。この光景から思い浮かべるのは、一種の寂しさである。おそらくこのような「不完全さ」に、人は自己本然(ほんねん)の姿をはっきりと見るのだろう。このような無一物の境涯においてのみ、私たちは自らを取り巻く事物の真の価値をみいだせるのだ。天心がいうように、「自己のなかの大いなるものの小ささを感ずることのできない人は、他人のなかの小さなものの大いさを看過(みのが)しがちなものだ。

 紹鴎が選んだ和歌の侘びには隠遁的な趣きがあるが、藤原家隆卿が詠み、利休居士が選んだ一首は、逆に明るさを待ち望んでいる。

    花をのみ
    待つらん人に
    山ざとの
    雪間の草の
    春を見せばや

 ここで、侘びは新しい意味をもってくる。私たちはそれが新しい生命力と新しい意味を持って、再びこの世に現れたと感じる。  】(『茶の本(The Book of Tea) 岡倉天心著 千宗室跋・序 浅倉晃訳』)

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その四)

その四 宮内卿

鹿下絵三.JPG

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の三「宮内卿・鴨長明」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

鹿下絵和歌巻・宮内卿.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦 (五島美術館蔵)
紙本金銀泥画・墨書/一幅 江戸時代初期・17世紀  縦34.0cm 横87.7cm 

https://www.gotoh-museum.or.jp/collection/col_03/08074_001.html

【 絵師俵屋宗達(?~1640頃)が描いたと伝える金銀泥の鹿の下絵に、『新古今和歌集』より選んだ28首の秋の和歌を本阿弥光悦(1558~1637)が書写した、もとは約22メートルに及ぶ一巻の巻物(益田鈍翁〈どんのう〉旧蔵)。現在は断簡となり、前半部は静岡・MOA美術館、東京・山種美術館他、諸家が分蔵、後半部分はアメリカ・シアトル美術館が所蔵する。本品は、雄鹿とそれを振り返る雌鹿を描いた料紙に、宮内卿の和歌(巻第四「秋歌上」365番)を書いた部分。 】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-09↓(追記)「光悦書宗達下絵和歌巻」周辺(「メモ」その二)

(周辺メモ・釈文など)

4 宮内卿:おもふ事さしてそれとはなき物を秋のゆうふべを心にぞとふ

秋濃哥と天よ見ハべ利介る   → 秋の歌とてよみ侍りける
宮内卿            → 後鳥羽院宮内卿
おもふ事左し亭曽禮とハな支物を→ 思ふことさしてそれとはなきものを
秋濃ゆふべを心尓曽ととふ   → 秋の夕べを心にぞ問ふ

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kunaikyo.html

  秋の歌とてよみ侍りける
思ふことさしてそれとはなきものを秋の夕べを心にぞとふ(新古365)

【通釈】思い悩むことはこれと言ってないのに…。なぜ秋の夕べは何とはなしに物思いがされるのか、我が心に問うてみるのだ。
(宮内卿)
後鳥羽院宮内卿とも。右京権大夫源師光の娘。泰光・具親の妹。母は後白河院女房安藝。父方の祖父は歌人としても名高い大納言師頼。母方の祖父巨勢宗茂は絵師であった。後鳥羽院に歌才を見出されて出仕し、正治二年(1200)、院二度百首(正治後度百首)に詠進。建仁元年(1201)の「老若五十首歌合」「通親亭影供歌合」「撰歌合」「仙洞句題五十首」「千五百番歌合」、同二年(1202)の「仙洞影供歌合」「水無瀬恋十五首歌合」など、院主催の歌会・歌合を中心に活躍した。

(「宮内卿」周辺メモ)

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合・その十四)宮内卿と正二位秀能(藤原秀能)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-16

狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その十四)後鳥羽院宮内卿と藤原秀能

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-02-08

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その二)

 この「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(宮内卿)」の画面で、角のない雌鹿が登場して来る。この雌鹿は、「新古今集』編纂の権化のような、時の帝王「後鳥羽院」(天皇・上皇)が見出した、二十歳前後で夭折したとされている女流歌人の「宮内卿」の見立てと解することは自然の流れであろう。
 しかし、この「鹿下絵古今和歌巻」は、西行(その一)と定家(その二)とを主題としていると仮定すると、謡曲「定家」のシテ(式子内親王の霊)で登場する、後白河法王の第三皇女且つ当代随一の女流歌人、式子内親王その人の見立てと解する方が、能・謡曲に精通している揮毫者・光悦には、より相応しいようにも思えて来る。
 とすると、この雌鹿に近づいて行く雄鹿は、若き日(二十歳代)の定家の見立てということになる。
 定家と式子内親王との出会いというのは、治承五年(一一八一)正月三日、定家二十歳の春である(式子内親王は定家より八歳年長である)。

【 仰せによって内親王(式子内親王)の御所に参上した彼(定家)は、几帳越しに薫る内親王の香に心を溶かされた。若き日の詩人の胸にときめくような思いが走ったにちがいない。定家は、その後しばしば内親王のもとに参上する。歌友であり、また、病弱であった内親王を気づかって定家は一喜一憂するのだった。が、定家とは身分違いの高貴な女性である。はたして、恋愛と呼べるような事実があったかどうかはわからない。かなわぬ恋と自覚しつつも、定家の心には、断ち切れぬ思慕の情があった。式子内親王は、定家四十歳のときに亡くなる。後世、謡曲「定家」のなかで、内親王の墓に葛となってまとわりつく定家の思いは、彼が味わった悲恋の深さを物語っている。】(『太陽№210藤原定家と百人一首・冷泉家古文書公開記念特集』)

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その五) 

その五 鴨長明

鹿下絵三.JPG

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の三「宮内卿・鴨長明」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

鹿下絵和歌巻・鴨長明.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(鴨長明)」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦(MOA美術館蔵)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-14↓(追記)「光悦書宗達下絵和歌巻」周辺(「メモ」その六)

5 鴨長明:秋かぜのいたりいたらね袖はあらじ唯我からの露のゆふぐれ(MOA美術館蔵)

(釈文)秋可勢濃い多利以多らぬ袖盤安らじ唯我可ら濃霧乃遊ふ久れ

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tyoumei.html

   秋の歌とてよみ侍りける
秋風のいたりいたらぬ袖はあらじただ我からの露の夕ぐれ(新古366)

【通釈】袖によって秋風が届いたり届かなかったりすることはあるまい。誰の袖にだって吹くのだ。この露っぽい夕暮、私の袖が露ならぬ涙に濡れるのは、ただ自分の心の悲しさゆえなのだ。
【語釈】◇秋風 「飽き」を掛け、恋人に飽きられたことを暗示。秋の夕暮の寂しさに、片恋の悲しみを重ねている。
【『方丈記』の名文家として日本文学史に不滅の名を留める鴨長明であるが、散文の名作はいずれも最晩年に執筆されたもののようで、生前はもっぱら歌人・楽人として名を馳せていたらしい。後鳥羽院の歌壇に迎えられたのは四十代半ばのことであった。当初、気鋭の新古今歌人たちの「ふつと思ひも寄らぬ事のみ人毎によまれ」ている有り様に当惑する長明であったが、その後急速に新歌風を習得していったものと見える。少年期からの長い歌作の蓄積と、俊恵の歌林苑での修練あってこその素早い会得であったろう。『無名抄』には、自己流によく噛み砕いた彼の幽玄観が窺え、興味深い。しかし、彼が文の道で己の芯の鉱脈を掘り当てたのは、家代々の禰宣職に就く希望を打ち砕かれ、いたたまれなくなって御所歌壇を去り、出家してのちのことであった。そしてそれは、歌人としてではなかったのである。】
【『無名抄(鴨長明)』→「秋の夕暮の空の景色は、色もなく、声もなし。いづくにいかなる趣あるべしとも思えねど、すずろに涙のこぼるるがごとし。これを、心なき者は、さらにいみじと思はず、ただ眼に見ゆる花・紅葉をぞめではべる。」 】

(「鹿下絵新古今集和歌巻」周辺メモ )

【「歌と『鹿』―べたづけの忌避」  鹿が妻恋いのため悲しげに鳴くのは秋である。そこから鹿は秋の季語となり、紅葉や萩とともに描かれるようにもなった。先の崗本天皇の一首も、もちろん秋の雑歌に入れられている。鹿は秋歌二八首を書写する和歌巻の下絵として、きわめてふさわしいことになる。しかも秋歌には、三夕の和歌にみるような夕暮、あるいは月や夜を詠んだものが多いからこの点でも夕暮に鳴く鹿はよく馴染む。
さらに重要なのは、この場合も二八首中に鹿を歌った和歌が一首もないという事実であろう。「心なき」の六首前には、摂政太政大臣の「萩の葉に吹けば嵐の秋なるを待ちける夜半のさおしかの声」があったわけだから、もし光悦がここから書き出したとすれば、べたづけになってしまう。ましてや『新古今和歌集』巻五「秋歌 下」の巻初から始めたとすれば、下絵は歌の絵解き、歌は下絵の説明文になってしまったであろう。「秋歌 下」の巻初から一六首は、これすべて鹿を詠んだ歌だったからである。このような匂づけ的関係にも、光悦と下絵筆者宗達との親密な交流を読み取りたいのである。 】(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭著)』)

【(参考)「連歌・連句」の付合(はこび)関連

http://www.basho.jp/ronbun/ronbun_2012_11_03.html

〇連句の付合(運び)の力学の認識について(付く・付かないということ)
「俳諧(連句)は茄子漬の如し、つき過ぎれば酢し。つかざれば生なり。つくとつかざる処に味あり」(根津芦丈)
「連句は付き合った二つの句の間に漂う何物かを各人が味わうものですから、前句と付句があまりピッタリしていては(意味的・論理的に結合されていては)それこそ味も素っ気も出て来ません。・・・発句に対する脇のようなぴったり型の付句ではなく、脇に対する第三のような飛躍型の付句が望ましいのです。」(山地春眠子)
「必然的な因果関係によって案じた句→付け過ぎ(ベタ付け)、偶然的な可能性の高さで案じた句→不即不離、偶然的な可能性の低さで案じた句→付いていない」(大畑健治)
◎要するに、付かず離れず。車間距離ならぬ句間距離の塩梅が連句の付け味の味噌。前二句(前句と打越の句)の醸成する世界から、別の新しい世界を開いていく意識(行為)が「転じ」(連句の付合)ということ。
「むめがゝに」歌仙付合評一覧
初表
1むめがゝにのつと日の出る山路かな 芭蕉(発句 初春)
  (かるみ→おおらかでさらりとした発句)
2 処どころに雉子の啼たつ     野坡(脇 三春)
  (ひびき→発句の「のっと」に「なきたつ」が音調・語感のうえでひびき合う)
3家普請を春のてすきにとり付いて   仝(第三 三春)
  (匂付→雉子の鳴きたつ勇壮で気ぜわしげな気分を、金槌や鋸の音で活気にあふれた普請はじめの心はずむさまで受ける)(変化→発句・脇の山路の景を巧みに山里の人事へと転じた第三らしい展開)
4 上のたよりにあがる米の値    芭蕉(雑(無季))
  (匂付・心付→前句、棟上げの祝いをする農家の景気がよろしきさまに上向きの米相場を付ける)
5宵のうちばらばらとせし月の雲    仝(三秋)
(匂付=移り→前句の物価騰貴の不安の余情の移り)(変化→前句の農家の立場から都会人(江戸町人)の立場へ転換) 】

(「鴨長明」周辺メモ)

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その十七)家永朝臣(源家永)と俊恵法師

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-31

「鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その二)「序」その二

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-02-22

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その三)

※①357 おしなべて思ひしことの数々になほ色まさる秋の夕暮れ(摂政太政大臣作?)
(大体において物思いしたことの数々よりもさらに悲しみの色が勝る秋の夕暮れです。)
②358 暮れかかるむなしき空の秋を見て覚えずたまる袖の露かな(摂政太政大臣作?)
(日が沈んで暗くなるころ、ただただ広がる大空の虚しくなる秋の風情を見て、知らず知らずのうちに袖に涙がたまっています。)
③359 もの思はでかかる露やは袖に置くながめてけりな秋の夕暮れ(摂政太政大臣作?)
(物思いをしないでこの様な涙が袖に置くでしょうか。知らず知らずのうちに物思いをしながら秋の夕暮れを眺めていたのですね。)
④360 み山路やいつより秋の色ならむ見ざりし雲の夕暮れの空 (前大僧正慈円)
(山路はいつから秋を感じさせる色合いになってるのでしょう。見たことのないような色合いの雲が夕暮れの空に広がってます。)
⑤361 さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮れ (寂連法師)
(寂しさは色彩的なものではない。常緑樹が並ぶ山の秋の夕暮れも寂しいと感じるのだから。目に見えてどうというわけでもないのです。)
※※⑥362 心なき身にもあわれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ (西行法師)
(世を捨てて出家したはずの我が身にも人生の無常観が身にしみます、秋の夕暮れ時、鴫が羽音を残して飛び立ったあとの静けさよ。)
⑦363 見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ (藤原定家朝臣)
(見渡すと、春の桜も秋の紅葉も何もありません。ただ海辺の苫葺(とまぶき)の小屋があるだけの秋の夕暮れのこの寂しい景色よ。)
⑧364 たへてやは思ひありともいかがせむむぐらの宿の秋の夕暮れ (藤原雅経)
(もしあの人に恋慕の思いがあったとしてもどうすることが出来るでしょうか、できません。葎が茂る荒れた庭の秋の夕暮れのもとで。)
⑨365 思ふことさしてそれとはなきものを秋の夕べを心にぞ問ふ (宮内卿)
(気に病むようなこともさしてこれがそうだというようなものはないのに、秋の夕べはどうして悲しくなるのか自分の心に問いてみます。)
※※※⑩366 秋風のいたりいたらぬ袖はあらじただわれからの露の夕暮れ (鴨長明)
(秋風がやって来る袖やって来ない袖というのはないのです。ただ自分の責任で袖に涙を置いてしまう夕暮れです。)

(上記の歌の「表記」と「歌意」などは、次のアドレスのものを参考としている。)

http://www.karuta.ca/koten/koten-kan4.html 

 上記の十首は、夕暮れ歌群の「秋の夕暮」十首一連の作として名高い(『鑑賞日本古典文学第17巻 新古今和歌集・山家集・金塊和歌集』所収「新古今和歌集(有吉保稿)」)。
 ここで、「新古今和歌集(有吉保稿)」の、上記の十首の考察について記して置きたい。

【 右の十首一連は、『新古今集』の一応の完成時点である元久二年(一二〇五)三月二十六日竟宴においては④(補入の時期=省略)・⑦(補入の時期=省略)の二首の構成であったと推定される。その場合の構成をみると①②③は三首とも良経作であり、⑤⑥⑧は、前の三首によって創られた寂寞とした心緒に映る秋の夕暮れの点景である。三首ともに、三句切の歌であり、下句はそれぞれ景を異にして、しかも末句が「秋の夕暮」で統一された一群である。⑨⑩は、夕暮れの点景が心に寂寞とした情を起こさせ、物思いに沈める二首であり、次の歌題である「秋思」三首一連に続ける世界である。
次に、④⑦を補入した理由を考えてみると、まず④は、三句切の歌であること、上句の「深山路やいつより秋の色ならん」が、⑤の「その色としもなかりけり」「槇立つ山」を連想させることにおいて、次の歌群への橋渡し役を務めている。しかし、④が補入されることにより、③と⑤⑥⑧とが末句を「秋の夕暮」で終わる統一を乱すことになった。そして、さらに、「いつより秋の色ならん」と暗に、秋の夕暮れの点景を要求することになり、⑤⑥⑧の歌群の再吟味の必要が生じたと思われる。そこで、その歌群の特徴である(イ)三句切、(ロ)下句に景物をもつこと、(ハ)末句が「秋の夕暮」で終わることなどの諸点を条件として選歌されて補入されたのが⑦であったと思われる。⑦が補入されて、⑤―⑧の歌群は、「山」「沢」「浦」という三つの対蹠的世界が輝き、⑧が目立たなくなり、三夕の歌として広く親しまれていったものと思われる。
三夕の歌は、「新古今集竟宴」後に補入されることによって生じた、構築された新古今的美の世界であると思う。竟宴後に補入されることにより、『新古今集』の構成美は磨かれてゆくのであるが、また、それなりに瑕瑾を残すものであった。例えば追加した⑦の歌は、上句において⑤⑥⑧のごとく心緒を述べる面に欠けているのである。だからこそ、元久二年の竟宴後三十余年を経て、隠岐御遷幸の身となった院御自身の手によって成った隠岐本『新古今集』においては、この「秋の夕暮」十首一連の構成は、①③⑤⑥⑧と半減しており、三夕の歌も除棄されている。秋の夕暮れという語を末尾に有し、秋の物悲しさという哀愁を湛えており、孤島生活の院の心に染みる歌ばかりが残されたと思われる。 】(『鑑賞日本古典文学第17巻 新古今和歌集・山家集・金塊和歌集』所収「新古今和歌集(有吉保稿)」)

(再掲)

鹿下絵一.JPG

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の一「西行・定家」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

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「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の二「藤原雅経」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

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「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の三「宮内卿・鴨長明」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

 「鹿下絵新古今和歌巻」のこれまでの流れ(上記の「全体図一・二・三」=「西行・定家・雅経・宮内卿・長明」)は、上記の「秋の夕暮」十首一連の作ですると、「※※⑥362(西行)・⑦363(定家)・⑧364(雅経)・⑨365(宮内卿)・※※※⑩366(長明)」ということになる。
 即ち、「鹿下絵新古今和歌巻」のこれまでの流れ(上記の「全体図一・二・三」=「西行・定家・雅経・宮内卿・長明」)の背景には、上記の十首一連の「秋の夕暮」の歌(※①357~※※※⑩366)が横たわっているということになる。
 同時に、これまでの「鹿下絵新古今和歌巻」の画面(上記の「全体図一・二・三」)は、全て「秋の夕暮」の情景となってくる。 
 そして、次の二度目の西行の歌は、「秋の夕暮の情景」から「秋の夜の情景」への「橋渡し」的な役割を有しているということになる。と同時に、この二度目の西行の歌は、「秋の景物」の歌から「秋思」の歌へと転換している歌となって来る。
 なお、上記の「秋の夕暮」十首一連の作の前の歌は、次のものである。

356 荻の葉に吹けばあらしの秋なるを待ちける夜半(は)のさを鹿の声 (摂政太政大臣)
(荻の葉に吹き始めると山風は草木をしおれさせる秋の風となるが、夜、それを待ってたように妻恋いの牡鹿の鳴き声が聞こえてくる。)

 この歌については、上記(「鹿下絵新古今集和歌巻」周辺メモ )の「歌と『鹿』―べたづけの忌避」(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭著)』)でも紹介されているが、この一首は「秋の夕暮」の歌ではなく、「秋の夜半」の歌で、この「鹿下絵新古今集和歌巻」の表には登場しないが、この歌もまた、この「鹿下絵新古今集和歌巻」の直接的な主題であることは言うまでもない。
 その上で、この「鹿下絵新古今集和歌巻」の「秋の夕暮」十首一連の末尾を飾る「※※※⑩366 秋風のいたりいたらぬ袖はあらじただわれからの露の夕暮れ」に関連して付した、 
次の鴨長明の『無名抄』の一節は、この「鹿下絵新古今集和歌巻」の揮毫者・光悦の心底に流れているものであろう。

【『無名抄(鴨長明)』→「秋の夕暮の空の景色は、色もなく、声もなし。いづくにいかなる趣あるべしとも思えねど、すずろに涙のこぼるるがごとし。これを、心なき者は、さらにいみじと思はず、ただ眼に見ゆる花・紅葉をぞめではべる。」 】

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その六)

その六 西行法師

鹿下絵四.JPG

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の四「西行法師・式子内親王」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

鹿下絵・西行二.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(西行法師)」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦(サンリツ服部美術館蔵)

6 西行法師:覚束な秋はいかなるゆへのあればすずろに物の悲しかるらん
(釈文)覚束那秋盤い可な類遊へ濃安連半須々ろ尓物濃悲可るらん

(周辺メモ)

https://open.mixi.jp/user/17423779/diary/1965923738

おぼつかな秋はいかなるゆゑのあればすずろにものの悲しかるらん
 西行法師
 秋の歌とてよみ侍(はべり)ける
 新古今和歌集 巻第三 秋歌上 367

「どうもよく分からない。秋はどういうわけがあってこうむやみに物悲しいのであろう。」『新日本古典文学大系 11』p.118

山家集[西行の家集]「秋歌中に」。西行法師歌集。
すずろに=むやみに。「秋思」の歌。

(「西行と俊成」周辺メモ)

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その十八)皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)と西行

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-05

狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その十八)入道三品釈阿と西行法師

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-02-17

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その四)

367 おぼつかな秋はいかなる故のあればすずろに物の悲しかるらむ(西行法師)
368 それながら昔にもあらぬ秋風にいとどながめをしづのをだまき(式子内親王)
369 ひぐらしのなく夕暮ぞ憂かりけるいつもつきせぬ思なれども(藤原長能)

「秋の夕暮」十首一連の作に続く、「秋思」の歌の三首である。この歌題の「秋の夕暮」に続く「秋思」三首一連の流れは、前回に続く「新古今和歌集(有吉保稿)」に因るものである。
 しかし、この「秋思」(そして「春愁」)については、より多く漢詩に由来するもので、「和歌・連歌・俳諧(連句・発句)」においては、その典型的(よく引用される)な例歌・例句は目にしない。
 漢詩には、菅原道真の「秋思詩(秋思の詩)」が名高い。

九月十日(重陽後一日) 菅原道眞
去年今夜待清涼 去年の今夜清涼に待す
 秋思詩編獨斷腸 秋思の詩編(下記=秋思詩)独り断腸
 恩賜御衣今在此 恩賜の御衣今此に在り
 捧持毎日拜餘香 捧持して毎日余香を拝す
秋思詩     ( 菅原道眞)
丞相度年幾樂思 丞相(大臣)年を度(わた)りて幾たびか楽思す
今宵觸物自然悲 今宵物に触れて自然に悲し
聲寒絡緯風吹處 声は寒し絡緯(秋の虫)風吹くの処
葉落梧桐雨打時 葉は落つ梧桐(青桐)雨打の時
君富春秋臣漸老 君(後醍醐天皇)は春秋に富ませたまい臣漸く老ゆ
恩無涯岸報猶遲 恩は涯岸無く報ゆること猶お遅し
不知此意何安慰 知らず此意何の安慰ぞ
酌酒聽琴又詠詩 酒を酌み琴を聴き又詩を詠ず

(上記の漢詩は、次のアドレスなどに因っている。)
http://shomon.livedoor.biz/archives/51879166.html

 ここで、「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の四「西行法師・式子内親王」)」を凝視すると、歌は「秋思」の「西行(367)・式子内親王(368)」の二首が揮毫されているのだが、その図柄の二匹の鹿は、「著色(銀泥)」のもの(西行・367)と「線描主体の白い鹿」(式子内親王・368)のものと、明瞭に、その図柄の描写を転回しているものと解したい。
 そして、この「著色(銀泥)」のもの(西行・367)から「線描主体の白い鹿」(式子内親王・368)への転回は、「秋の夕暮」の景(上記の「全体図一・二・三」=「西行・定家・雅経・宮内卿・長明」)から「『秋の夕暮=西行(367)』そして『秋の月光の夜=式子内親王(368)』への転回の図柄」(全体図四)と理解をしたい。
 その上で、前回の「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(鴨長明)」と、今回の「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(西行法師)」とを、並列して鑑賞して見たい。

(再掲)

鹿下絵和歌巻・鴨長明.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(鴨長明)」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦(MOA美術館蔵)

鹿下絵・西行二.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(西行法師)」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦(サンリツ服部美術館蔵)

 上記の断簡図(鴨長明))は、「鴨長明とその師・俊恵」若しくは「『秋の夕暮』」十首一連の作のスタート(摂政太政大臣)とゴール(鴨長明)」との見立てと解すると、下段の断簡図(西行法師)は、雄鹿を「西行法師」とすると、もう一匹は雌鹿のようで、とすれば、西行出家(二十三歳時)の理由の一つとされている「失恋説」の相手方(高貴なる女性=待賢門院璋子=西行より十七歳年長)のイメージでもなくはない。
 『西行(高橋英夫著)・岩波文庫』では、その「第二章武門からの出立―略伝(一)」の「悲恋―高貴なる女人」の中で、次の西行の三首を取り上げている。

知らざりき雲居のよそに見し月のかげを袂に宿すべしとは (『山家集』617)
おもかげの忘らるまじき別れかな名残を人の月にとどめて(『山家集』621)
嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな(『山家集』)628・「千載集」・「百人一首」)

 そして、この一首目と三首目は、西行が最晩年になって自作を自ら選び、二つの「歌合」を作った『御裳濯河歌合』(「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥メモ・その一)と『宮河歌合』(「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥メモ・その二)の、その『御裳濯河歌合』(二十八番の「左」と「右」、「判詞=俊成)とが紹介されている。

左(『御裳濯河歌合』二十八番)
知らざりき雲居のよそに見し月のかげを袂に宿すべしとは (『山家集』617)
右(『御裳濯河歌合』二十八番)
嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな(『山家集』)628・「千載集」・「百人一首」)
判詞(『御裳濯河歌合』二十八番=俊成)
左右両首、ともに心すがた、ゆうなり。よき持(じ)とすべし。

【 この「ゆう」は「幽」であり、左右のどちらも「心」「すがた」において深遠にして微妙なものを示している。と俊成は見た。判定は「持」、つまり勝負なしの相い子、引き分けであった。しかも単なる「持」ではなくて「よき持」だというのである。おそらく俊成は、憚りあるをもって公けには語りえない西行の心底を察したのにちがいない。西行がこの二首を自歌合に組んだ衷情を心の中にのみこんで、「よき持とすべし」といたわったのではなかったか。
父、俊成が察したものを、子・定家は『小倉百人一首』の選定において再現したかのように感じられる。「知らざりき雲居のよそに見し月の……」では「雲居」という語がすでに「宮中」を暗示しているが、これに対して「嘆けとて月やはものを思はする……」ではすべてが包み隠されている。読み取れるのは、恋に発したものであるらしい「嘆き」の「涙」であり、情景の中に浮んで見えるのは、空の「月」である。通じない月、ただそれだけである。この歌の「月」は、言外に「雲居のよそに見し月」と等しいといえるにちがいない。  】(『西行(高橋英夫著)・岩波文庫』)

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その七)

その七 式子内親王

鹿下絵四.JPG

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の四「西行法師・式子内親王」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

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本阿弥光悦書・俵屋宗達下絵「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(式子内親王・その一)」MOA美術館蔵

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本阿弥光悦書・俵屋宗達下絵「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(式子内親王・その二)」MOA美術館蔵

7 式子内親王:それながらむかしにもあらぬ秋風にいとゞ詠(ながめ)を賤のをだまき
(釈文)曽連那可ら無可し尓も安ら怒秋風尓以登(ど)詠を賤濃を多ま起

(周辺メモ)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syokusi.html#AT

それながら昔にもあらぬ月影にいとどながめをしづのをだまき〔新古368〕

【通釈】それはそれ、月は同じ月であるのに、やはり昔とは異なる月影――その光に、いよいよ物思いに耽って眺め入ってしまった、繰り返し飽きもせず。
【語釈】◇しづのをだまき 倭文(しづ)を織るのに用いた苧環。苧環を繰ると言うことから「繰り返し」の意を呼び込む。「しづ」には「(ながめを)しつ」の意を掛ける。
【補記】「前小斎院御百首」。新古今集では詞書「秋の歌とてよみ侍りける」、第三句「秋風に」とある。

(追記「周辺メモ」)

一 この歌の第三句を「秋風」(『新古今集』)とするか「月影」(「前小斎院御百首」)とするかでは、先の西行の「月」の歌の関連でイメージが様変わりしてくる。ここは、上記の絵図
(全体図の四「西行法師・式子内親王」・「式子内親王・その一」・「式子内親王・その二)」)
からして、断然に「月影」(「前小斎院御百首」)のイメージが優先されてくる。
二 上記の【通釈】は第三句が「月影」のもので、ここを「秋風」とすると、「昔と同じものでありながら、昔とちがって感じられる秋風で、いよいよ物思いを繰り返すことだ」(『新編日本古典文学全集43』)の簡潔な歌意を付記して置きたい。

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その一)後鳥羽院と式子内親王

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-23

狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その一)後鳥羽院と式子内親王

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-09

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その五)

 ここから「線描」の「秋の夜の月光」の世界での、「夢幻能」のような画面となってくる。
 先の(その四)の「雄鹿と雌鹿」を「西行と待賢門院」と見立てると、この(その五)の「雄鹿と雌鹿」は、「定家と式子内親王」との見立てが連想されてくる。
 と同時に、この「線描」の「秋の夜の月光」の二匹の鹿は、「定家と式子内親王」がそのモデルとされている「夢幻能」(能楽で主人公(シテ)を実在する人物でなく霊として登場させるもの)として名高い「三番目物」(鬘物)の「定家」のイメージが彷彿としてくる。

【 ワキ「山より出づる北時雨、山より出づる北時雨、行ゑや定めなかるらん。
ワキ「是は北國より出たる僧にて候、我未だ都を見ず候程に、此度思ひ立都に上り候。
  (略)

シテ「それは時雨の亭とて由ある所なり、
   其心をも知ろしめして立寄らせ給ふかと思へばかやうに申なり。
ワキ「げにげに是なる額を見れば、時雨の亭と書かれたり、折から面白うこそ候へ、
    是はいかなる人の立置かれたる所にて候ぞ。
シテ「是は藤原の定家卿の建て置き給へる所なり、都のうちとは申ながら、心凄く、
    時雨物哀なればとて、此亭を建て置き、時雨の比の年々は、
    爰にて歌をも詠じ給ひしとなり、
  (略)

ワキ「不思議やな是なる石塔を見れば、星霜古りたるに蔦葛這ひ纏ひ、
    形も見えず候、是は如何なる人のしるしにて候ぞ
シテ「是は式子内親王の御墓にて候、又此葛をば定家葛と申候
ワキ「荒面白や定家葛とは、いかやうなる謂れにて候ぞ御物語候へ
シテ「式子内親王始めは賀茂の齋の宮にそなはり給ひしが、
    程なく下り居させ給しを、定家卿忍び/\御契り淺からず、
    其後式子内親王ほどなく空しく成給ひしに、定家の執心葛となつて御墓に這ひ纏ひ、互ひの苦しび離れやらず、共に邪婬の妄執を、御經を読み弔ひ給はば、猶々語り參らせ候はん。
   (略)       】

 上記の「定家」は、下記のアドレスのものに因っている。

http://www5.plala.or.jp/obara123/u1123tei.htm

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その八)

その八 藤原長能

鹿下絵四.JPG

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の四「西行法師・式子内親王」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)(MOA美術館蔵)

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「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の五「藤原長能・和泉式部・曽根好忠」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)(MOA美術館蔵)

鹿下絵六の一.jpg

「鹿下絵新古今和歌巻(藤原長能)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

8 藤原長能:日暮の鳴く夕暮ぞうかりけるいつも尽きせぬおもひなれ共
(釈文)日暮濃鳴夕暮曽う可里け類い徒も盡世怒おも日奈連共

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/nagatou.html#AT

   題しらず
ひぐらしのなく夕暮ぞ憂かりけるいつも尽きせぬ思ひなれども(新古369)

【通釈】蜩が鳴いている夕暮は憂鬱だ。いつだってこの思いは消え果てることがないのだけれども。
【語釈】◇尽きせぬ思ひ 思っても思っても、消え去らない思い。
【補記】新古今集では秋歌に分類されている歌であるが、夕暮の憂鬱は、恋情にもとづくものとして詠まれることが多い。『長能集』の詞書は「八月ばかりの夕ぐれに」とあり、題詠でなく即興の歌らしい。

(「藤原長能」周辺メモ)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/nagatou.html#AT

藤原長能(ふじわらのながとう(-ながよし) )天暦三~没年未詳(949-?)

 生年は『長能集』勘物の記載年齢より逆算。父は北家長良流、藤原倫寧(ともやす)、母は源認の娘。兄弟に肥前守理能(まさとう)、姉に道綱母がいる。子には実正がいる。菅原孝標女は姪にあたる。
 天延三年(975)三月、一条中納言為光家歌合に出詠。同五年十月、右近将監。永観二年(984)八月、蔵人。花山天皇の側近として寵遇され、寛和元年(985)八月の内裏歌合、同二年六月の内裏歌合に出詠。花山天皇譲位後の永延二年(988)、図書頭。正暦二年(991)、上総介。上総介を解任された後は散位であったが、藤原道長の春日詣・賀茂詣などに陪従した。寛弘二年(1005)正月、従五位上。寛弘六年(1009)正月、伊賀守。以後の消息は不明。
 家集『長能集』がある。拾遺集初出。勅撰入集は五十一首(金葉集三奏本を除く)。『袋草紙』などによれば、能因法師の歌の師となって秘伝を授けたといい、歌道師承の初例とされる。能因撰『玄々集』では最多入集歌人。中古三十六歌仙の一人。

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その六)

 『日本文学史早わかり』(丸谷才一著・講談社)の巻末に付せられている『日本文学史早わかり』付表は、大変にユニークで、次の五区分である。

第一期 八代集以前(宮廷文化準備期)→万葉集
第二期 八代集時代(宮廷文化全盛期)→古今集・後撰集・拾遺集・後拾遺集・金葉集・詞花集・千載集・新古今集
第三期 十三代集時代(宮廷文化衰微期)→新勅撰集・続後撰集・続古今集・続拾遺集・新
後撰集・玉葉集・続千載集・続後拾遺集・風雅集・新千載集・新拾遺集・新後拾遺集・新続古今集・
第四期 七部集時代(宮廷文化普及期)→芭蕉七部集・其角七部集・蕪村七部集 他
第五期 七部集時代以後(宮廷文化絶滅期)→アララギ年刊歌集(一~十六)・ホトトギス雑詠全集(一~九) 他

 この付表に、今回の「鹿下絵新古今和歌巻」の関連歌人を付記すると次のとおりとなる。

第二期(九世紀半ば~) 八代集時代(宮廷文化全盛期)→ 古今集・後撰集・拾遺集(長能・好忠・※円融院)・後拾遺集(※三条院・頼宗・和泉式部・相模)・金葉集(※堀川院・基俊・忠通)・詞花集(頼政)・千載集(俊成・西行・重家)・新古今集(※後鳥羽院・式子内親王・慈円・有家・定家・家隆・長明・良経・雅経・通具・通光・俊成女・宮内卿)
※円融院(第六四代天皇) ※三条院(第六七代天皇) ※堀川院(第七三代天皇) ※後鳥羽院(第八二代天皇)

 今回の歌の作者(藤原長能)は、「後撰集・拾遺集(長能・好忠・※円融院)」時代の歌人で、「千載集(俊成・西行・重家)」時代以前の、「中古三十六歌仙」の一人である。
 「中古三十六歌仙」は、藤原範兼(1107-1165)による「歌仙歌合形式」の秀歌撰で、公任の『三十六人撰』を踏襲し、これに漏れた歌人と、それより後の時代の歌人から三十六人を選んだものである」。勅撰集で言えば、古今集初出の歌人から後拾遺集初出の歌人に及んでいる。
 この藤原秀能は、漂泊行脚の歌人として名高い能因法師の歌の師として知られ、歌道師承の初例とされている。
 ここで、上記(上段)の絵図では、「藤原長能」の名前のみのもので、次(中段)の、右の一行目から五行目までの、上記の「釈文」の揮毫が全てで(上記の下段の絵図のとおり)、これに対応する「鹿」は描かれていない。
 これは、前回の「式子内親王」の絵図(「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その七)で紹介した、「式子内親王と定家」をモデルにしている夢幻能の「定家」ですると、その「地謡(じうたい・ぢうたひ)」(謡曲の地の文の部分を大勢で謡う場面)や「地クセ」(地謡によってシテの舞うクセ「舞グセ」と、シテがじっと座ったまま動かぬクセ(「居グセ」)のような場面の雰囲気がイメージされてくる。

【(地クセ) 「あはれ知れ、霜より霜に朽果てて、世々に古りにし山藍の、袖の涙の身の昔、憂き戀せじと禊せし、賀茂の齋院にしも、そなはり給ふ身なれ共、神や受けずも成にけん、人の契りの、に出けるぞ悲しき、包むとすれど徒し世の、徒なる中の名は洩れて、外の聞えは大方の、空恐ろしき日の光、雲の通路絶え果てて、乙女の姿留め得ぬ、心ぞ辛きもろともに。

(地)「君葛城の峰の雲と、詠じけん心まで、思へばかかる執心の、定家葛と身は成て、此御跡にいつとなく、離れもやらで蔦紅葉の、色焦がれ纏はり、荊の髪も結ぼほれ、露霜に消えかへる、妄執を助け給へや。

(地)「この上は、われこそ式子内親王、是まで見え來れ共、まことの姿はかげろうふの、石に殘す形だに、それ共見えず蔦葛、苦しびを助け給へと、言ふかと見えて失せにけり、言ふかと見えて失せにけり

(地)「一味の御法の雨の滴り、皆潤ひて草木国土、悉皆成佛の機を得ぬれば、定家葛もかかる涙も、ほろ/\と解け広ごれば、よろ/\と足弱車の、火宅を出でたる有難さよ。この報恩にいざさらば、ありし雲井の花の袖、昔を今に返すなる、其舞姫の小忌衣。

(地)「露と消えても、つたなや蔦の葉の、葛城の神姿、恥づかしやよしなや、夜の契りの、夢のうちにと、有つる所に、歸るは葛の葉の、もとのごとく、這ひ纏はるるや、定家葛、這ひ纏はるるや、定家葛の、はかなくも、形は埋もれて、失せにけり。   】

 上記の「定家」は、下記のアドレスのものに因っている。

http://www5.plala.or.jp/obara123/u1123tei.htm

また、「能の用語」などは、下記のアドレスのものなどを参考にしている。

https://kotobank.jp/word/能の用語-1614556

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その九)

その九 和泉式部

鹿下絵六.jpg

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の五「藤原長能・和泉式部・曽根好忠」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

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本阿弥光悦書・俵屋宗達下絵「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(和泉式部)」 MOA美術館蔵

9 和泉式部:秋来れば常盤の山の松風もうつるばかりに身にぞしみける((新古370)
(釈文)秋来盤ときハ能山濃まつ可勢も宇徒流斗尓身尓曾し見ける

(歌意)秋が来ると、常盤の山の色の変わらない松風までも色が変わり、その色が移るほどに身にしみることだ。(『新編日本古典文学全集43』)

(「和泉式部」周辺メモ)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/izumi.html#AT

 生年は天延二年(974)、貞元元年(976)など諸説ある。父は越前守大江雅致(まさむね)、母は越中守平保衡(たいらのやすひら)女。父の官名から「式部」、また夫橘道貞の任国和泉から「和泉式部」と呼ばれた。
 母が仕えていた昌子内親王(冷泉天皇皇后)の宮で育ち、橘道貞と結婚して小式部内侍をもうける。やがて道貞のもとを離れ、弾正宮為尊(ためたか)親王(冷泉第三皇子。母は兼家女、超子)と関係を結ぶが、親王は長保四年(1002)六月、二十六歳で夭折。翌年、故宮の同母弟で「帥宮(そちのみや)」と呼ばれた敦道親王との恋に落ちた。この頃から式部が親王邸に入るまでの経緯を綴ったのが『和泉式部日記』である。親王との間にもうけた一子は、のち法師となって永覚を名のったという。
 しかし敦道親王も寛弘四年(1007)に二十七歳の若さで亡くなり、服喪の後、寛弘六年頃から一条天皇の中宮藤原彰子のもとに出仕を始めた。彰子周辺にはこの頃紫式部・伊勢大輔・赤染衛門などがいた。その後、宮仕えが機縁となって、藤原道長の家司藤原保昌と再婚。寛仁四年(1020)~治安三年(1023)頃、丹後守となった夫とともに任国に下った。帰京後の万寿二年(1025)、娘の小式部内侍が死去。小式部内侍が藤原教通とのあいだに残した子は、のちの権僧正静円である。
 中古三十六歌仙の一人。家集は数種伝わり、『和泉式部集』(正集)、『和泉式部続集』のほか、「宸翰本」「松井本」などと呼ばれる略本(秀歌集)がある。また『和泉式部日記』も式部の自作とするのが通説である。勅撰二十一代集に二百四十五首を入集(金葉集は二度本で数える)。名実共に王朝時代随一の女流歌人である。

「和泉式部といふ人こそ、面白う書き交しける。されど、和泉はけしからぬ方こそあれ。うちとけて文走り書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見え侍るめり。歌はいとをかしきこと、ものおぼえ、歌のことわり、まことのうたよみざまにこそ侍らざめれ。口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目とまる詠み添へ侍り。それだに人の詠みたらん歌なん、ことわりゐたらんは、いでやさまで心は得じ。口にいと歌の詠まるゝなめりとぞ、見えたるすぢに侍るかし。恥づかしげの歌よみやとは覺え侍らず」(『紫式部日記』)。

「和泉式部、紫式部、清少納言、赤染衞門、相模、などいふ當時の女性らの名を漠然とあげるとき、今に當つては、氣のとほくなるやうな旺んな時代の幻がうかぶのみである。しかし和泉式部の歌は、輩出したこれらの稀代の才女、天才の中にあつて、容易に拔き出るものであつた。當時の人々の思つた業(ごふ)のやうな美しさをヒステリツクにうたひあげ、人の心をかきみだして、美しく切なくよびさますものといへば、いくらか彼女の歌の表情の一端をいひ得るであらうか」(保田與重郎『和泉式部私抄』)。

「恋を歌い、母性を歌う和泉式部の歌には、女性の身体のあり方と結びついた女性特有の心が炸裂している。古代女性の教養や賢慮、政治・社会・宗教によってさえ差別され、自己否定を強要される女性の心性・分別とはかかわりなく、和泉式部は、女性の生理に根ざす生のあり方を純直に追求した。女性であることによって、女性であるための制約を乗りこえる精神の自由を、かの女は花咲かせた」(近藤潤一『女歌拾遺』)。

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その七)

(「百人一首」)
56 あらざらむこの世の外の思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな(和泉式部)
(歌意: もうすぐ私は死んでしまうでしょう。あの世へ持っていく思い出として、今もう一度だけお会いしたいものです。)
57 めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月かな(紫式部)
(歌意: せっかく久しぶりに逢えたのに、それが貴女だと分かるかどうかのわずかな間にあわただしく帰ってしまわれた。まるで雲間にさっと隠れてしまう夜半の月のように。)
58 有馬山猪名の笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする(大弐三位)
(歌意: 有馬山の近くにある猪名の、その笹原に生える笹の葉がそよそよと音をたてる。まったく、そうですよ、そのように、あなたのことを忘れたりするものですか。)
59 やすらはで寝なましものをさ夜ふけて 傾(かたぶ)くまでの月を見しかな (赤染衛門)
(歌意: ぐずぐずと起きていずに寝てしまえばよかったのに。あなたを待っているうちにとうとう夜が更けて、西に傾いて沈んでいこうとする月を見てしまいましたよ。)
60 大江山いく野の道の遠(とほ)ければ まだふみもみず天の橋立(小式部内侍)
(歌意: 大江山を越え、生野を通る丹後への道は遠すぎて、まだ天橋立の地を踏んだこともありませんし、母からの手紙も見てはいません。)
61 いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな(伊勢大輔)
(歌意: いにしえの昔の、奈良の都の八重桜が、今日は九重の宮中で、ひときわ美しく咲き誇っております。)
62 夜をこめて鳥の空音(そらね)は謀るとも よに逢坂の関は許さじ(清少納言)
(歌意: 夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き真似をして人をだまそうとしても、函谷関の故事ならともかく、この逢坂の関は決して許しませんよ。そのように、決して逢いませんよ。)

 上記の歌の「表記」や「歌意」は、下記のアドレスのものを参考にしている。

https://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/index.html

 藤原定家が編んだ「小倉百人一首」の五十六番(和泉式部)から六十二番(清少納言)までの、「宮廷文化全盛期((九世紀半ば~十三世紀はじめ)」(『日本文学史早わかり(丸谷才一著・講談社))』)を色濃く宿す、「かな文学=女手(おんなで)文学」を象徴する「女流歌人(作家)」群のオンパレードである。
 ここで、『百人一首(谷知子著・角川ソフィア文庫)』より、その「ポイント」(作家紹介など)を、その「エキス」(要点)のみを記すと、次のとおりである。

56和泉式部→和泉式部は、その身体的表現、官能性、豊かな表現力において、他の歌人とは一線を画する、独自の世界を形成した。
57紫式部→『源氏物語』の作者としして有名だが、歌人でもあった。
58大弐三位→紫式部の娘。
59赤染衛門→大江匡房(73番の作者)の曾祖母、文章博士大江匡衛の妻。
60小式部内侍→和泉式部の娘。後に、母を残して早世してしまう。
61伊勢大輔→伊勢神宮の祭主を代々つとめ、歌人を輩出してきた大中臣家の娘。
62清少納言→清原元輔(42番の作者)の娘、深養父(36番の作者)の曽孫。『枕草紙』を書いた。

 さて、上記の「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(和泉式部)」の絵図には、一匹の雄鹿の二匹の雌鹿が描かれている。この二匹の雌鹿の一匹を「56和泉式部」(60小式部内侍の母)と見立てると、もう一匹は「57紫式部」(58大弐三位の母)と見立てると、その「母と娘」との対比で面白い。
 そして、この一匹の雄鹿は、「百人一首」の配列順序からすると、「56和泉式部」の前の「55大納言公任(藤原公任)」の見立てのイメージが自然であろう。

55 滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ(大納言公任)
(歌意: 滝の水音は、絶えてから長い年月がたつけれども、その名声は今も世間に流れ、聞こえてくることよ。)

55大納言公任(藤原公任)→この歌は、藤原道長の大覚寺滝殿遊覧に随行したときに詠まれたもの、藤原公任は、関白太政大臣頼忠の子で、四条大納言と呼ばれる。漢詩・和歌・管弦に優れ、博学で、有職故実にも通じていた。撰集に『拾遺抄』『和漢朗詠集』、歌集に
『公任集』がある。(『百人一首(谷知子著・角川ソフィア文庫)』)

 ここで登場する「藤原道長」こそ、「娘三人(彰子・姸子・威子)を立后させて三代の天皇の外戚となり摂政として政権を独占、藤原氏の全盛時代を現出した」(『大辞林』)、その中心人物なのである。そして、それは、上記の「『かな文学=女手(おんなで)文学』を象徴する『女流歌人(作家)』」の全てを発掘し、擁護し、見届けた、その人なのかも知れない。
 そして、この「藤原道長」の側近の一人が、「藤原公任」で、この人こそ、「三十六歌仙,三十六人集の基盤となった秀歌撰『三十六人撰』を編んだ」『大辞林』)、その人で、
 今回の絵図「9和泉式部」の前の「8藤原秀能」は、この公任に歌を非難されなどたため心痛のあまり病死したとの逸話や清少納言や紫式部もその才に畏怖したと伝えられている「四納言」(一条天皇時代の賢才の誉れの高い四人の納言=公任・斉信・俊賢・行成)の筆頭格の人物である。
 この藤原公任の「百人一首」の歌(55)は、大覚寺滝殿遊覧の「大覚寺」は、嵯峨上皇の離宮があったところで、その背後の山は、定家の「百人一首」を誕生させた「小倉山」、その麓の一角に「時雨亭」(「常寂光寺・二尊院・厭離庵」周辺の山荘)がある。 

 「百人一首」にも、この「小倉山」を詠み込んだ歌が一首ある。

26 小倉山峰のもみぢ葉心あらば 今ひとたびのみゆき待たなむ(貞信公)
(歌意:小倉山の峰の紅葉よ、もしお前に心があるならば、今度は天皇の行幸があるので、それまでどうか散らずに待っていて欲しい。)

26 貞信公(藤原忠平)→宇田上皇(亭子院)が大井川を遊覧したときのこと、小倉山の紅葉が見事だったので、上皇はわが子醍醐天皇に見せたいと願った。その意を受け、眼前の紅葉に呼びかけた歌。」(『百人一首(谷知子著・角川ソフィア文庫)』)

https://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/026.html

 上記のアドレスで、次のような『大和物語』に関連した記事が掲載されている。

【「大和物語」によると、ちょうどこの歌ができた頃から、大堰川への天皇の行幸が毎年執り行われることになったそうです。「小倉山」は、大堰川(保津川)を挟んで嵐山の北に位置する標高280mの低い山です。京福電鉄北野線・嵐山駅で下車し、北東に歩くと、こんもり丸い小倉山が典雅なたたずまいを見せてくれます。この辺りは、すでに平安時代から貴族のレジャーの場所として人気がありました。秋に山道を歩けば、重なりあう紅葉の美しさが際立ち、平安時代の昔に戻ったかのような気分にしてくれます。また、藤原定家の「小倉百人一首」が屏風に書かれていたという、「小倉山荘」はこの山の東のふもと、二尊院の近くにあったとされています。 】

http://www5c.biglobe.ne.jp/n32e131/utamakura/wogurayama.html

 上記のアドレスで、「小倉山」関連の「和歌・俳句」が紹介されている。その中から「鹿」が詠みこまれているものを抜粋すると、次のとおりである。

【 貫之
夕づくよ小倉の山になく鹿のこゑのうちにや秋はくるらん
小倉山みねたちならし鳴く鹿のへにけん秋を知る人ぞなき
 兼盛
あやしくも鹿の立ちどの見えぬ哉小倉の山に我や来ぬらん
 永縁
秋深みものあはれなるたそがれに小倉の山に鹿ぞなくなる
  西行
をじか鳴く小倉の山の裾ちかみただひとりすむ我が心かな
小倉山ふもとをこむる秋霧に立もらさるるさをしかの声
 寂蓮
さびしさを誰しのべとか小倉山秋の麓にさを鹿のこゑ
 定家
小倉山秋のあはれやのこらましを鹿のつまのつれなからずば
 実朝
妻こふる鹿ぞ鳴なるをぐら山やまの夕霧たちにけむかも
夕されば霧たちくらしをぐら山やまのとかげに鹿ぞ鳴くなる
 長家
妻こふる鹿ぞ鳴くなるをぐら山みねの秋風さむく吹くらし   】

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その十)

その十 曾禰好忠

鹿下絵六.jpg

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の五「藤原長能・和泉式部・曽根好忠」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

鹿下絵・曽祢好忠・相模.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(曽根好忠・相模)」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦(MOA美術館蔵) 三三・五×四二七・五㎝

10 曾禰好忠:あきかぜのよそに吹きくるをとは山何のくさきかのどけかるべき
(釈文)安支可勢乃よ曽尓吹久類をとハ山何濃久左き可乃ど介可るべ幾

(「曾禰好忠」周辺メモ)

https://open.mixi.jp/user/17423779/diary/1965983342

秋風のよそにふきくるおとは山なにの草木かのどけかるべき
 曾禰好忠
 題しらず
 新古今和歌集 巻第三 秋歌上 371

「秋風の遠く彼方に吹くのが聞こえる音羽山よ。あのひびきを聞くさえどんな草木も心静かにしてはいられないであろう。」『新日本古典文学大系 11』p.119

好忠集「三百六十首和歌・七月おはり」、二句「よもにふきくる」。
本歌「秋風の吹きにし日よりおとは山峰の木末も色づきにけり」(紀貫之 古今 秋下)。
おとは山 山城国の歌枕。和歌初学抄[平安時代後期の歌人藤原清輔 1104-1177 による歌学書]「音することにそふ」。
「秋風」の歌。

曾禰好忠(そねのよしただ 生没年未詳)平安時代中期の歌人。
拾遺集初出。詞花集最多入集歌人。新古今十六首。勅撰入集計九十二首。
隠岐での後鳥羽院による『時代不同歌合』では大江匡房と番えられている。
小倉百人一首 46 「由良のとをわたる舟人かぢをたえ行方もしらぬ恋の道かな」

(「曾禰好忠=曽祢好忠=曽根好忠」・百人一首」周辺メモ)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yositada.html#LV

由良のとをわたる舟人かぢをたえ行方もしらぬ恋の道かな(百人一首46・新古1071)

【通釈】由良の門を渡る船頭が、櫂がなくなって行方も知れず漂うように、将来どうなるとも知れない恋の行方であるなあ。
【語釈】◇由良のと 紀伊国の由良海峡(和歌山県日高郡由良町)とする説と、丹後国の由良川の河口(京都府宮津市)とする説がある。古く万葉集に詠まれた「由良の岬」「由良の崎」は紀伊国であり、『八雲御抄』『歌枕名寄』『百人一首抄(細川幽斎)』など中世以来紀伊説を採る書が多かった。しかし契沖が『百人一首改観抄』で「曾丹集を見るに、丹後掾にてうづもれ居たることを述懐してよめる歌おほければ、此由良は丹後の由良にて」云々と指摘して以後、丹後説を採る論者も少なくない。その名から船がゆらゆらと揺れる様を暗示する。◇かぢをたえ 梶がなくなり。自動詞である「たえ」が助詞「を」を伴うのは、「根を絶え」(根が切れ、の意)などと同じ用法であろう。但し「梶緒絶え」と読んで「梶の緒(櫓をつなぐ綱)が切れ」の意と解する説もある。「かぢ」は櫂や櫓など、船を漕ぎ進めるための道具。
【補記】「かぢをたえ」までは「行方もしらぬ」を言い起こす序詞であるが、波のまにまに運ばれる舟のイメージによって不安な恋の行末を暗示している。

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その八)

「和泉式部」に続く「曽祢好忠」の流れは、実にスムースである。これは、揮毫者の光悦の配慮ではなく、一に掛かって、『新古今集』の配列(「後鳥羽院」の好みなどもあるのだろうか?)に因るものである。
 ここで、この両者の、「百人一首」(定家撰)の歌を並記すると、次のとおりである。

46 由良のとをわたる舟人かぢをたえ行方もしらぬ恋の道かな(曽祢好忠)
(歌意: 由良の門を渡る船頭が、櫂がなくなって行方も知れず漂うように、将来どうなるとも知れない恋の行方であるなあ。)

56 あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな(和泉式部)
(歌意: もうすぐ私は死んでしまうでしょう。あの世へ持っていく思い出として、今もう一度だけお会いしたいものです。)

 この「百人一首」の、「46(曽祢好忠)」と「56(和泉式部)」との、この絶妙のコラボ(相聞=贈答=共同=協同)的雰囲気が、本来、この二首は何らの関係をも有していないのに、あたかも、この二者が贈答歌のように伝わってくるのが、何とも不思議である。
 これは、一重に、「56 あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな(和泉式部)」の、この「いつ、だれに、なにゆえに」なのか、一切「語らんとして語らざる」ところの「個別的な恋歌」から「普遍的な恋歌」へと転回させている、その「恋歌の魔術師」のような技の冴えに因るもののように思われる。
 ここで、前回紹介した、次の「和泉式部評」(保田保田與重郎)が、その証しとなってくるであろう。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-05-19

【「和泉式部、紫式部、清少納言、赤染衞門、相模、などいふ當時の女性らの名を漠然とあげるとき、今に當つては、氣のとほくなるやうな旺んな時代の幻がうかぶのみである。しかし和泉式部の歌は、輩出したこれらの稀代の才女、天才の中にあつて、容易に拔き出るものであつた。當時の人々の思つた業(ごふ)のやうな美しさをヒステリツクにうたひあげ、人の心をかきみだして、美しく切なくよびさますものといへば、いくらか彼女の歌の表情の一端をいひ得るであらうか」(保田與重郎『和泉式部私抄』)。】

 この資質稀なる「恋歌の魔術師」の「和泉式部」に対応する、低い身分(丹後掾=丹後国の三等官)のままに、「狂惑のやつなり」(『袋草紙(上)』の藤原長能の評)と畏怖されつつも蔑視の評を受け続けた異端の歌人「曽祢好忠」の、この「46 由良のとをわたる舟人かぢをたえ行方もしらぬ恋の道かな」の、この「行方もしらぬ」というのが、絶妙に和しているということなのであろう。

かた岡の雪間にねざす若草のほのかに見てし人ぞこひしき(曽祢好忠「新古今1022」)
(歌意:片岡の雪の間に根ざして生え出てくる若草の先のように、ちらっと見ただけの人が恋しくてたまらないことだ。)

跡をだに草のはつかに見てしがな結ぶばかりのほどならずとも(和泉式部「新古今1023)
(歌意:あなたの筆跡だけでも、わずかでいいから見たいものだ。契りを結ぶというほどではなくても。)

 この二首は、『新古今集巻第十一』(恋歌一)に並列されている「曽祢好忠・和泉式部」の恋歌である。歌意は『新編日本古典文学全集43 新古今和歌集』に因っている。
 この「曽祢好忠・和泉式部」の二首は、「春日野の雪間にわけておひいでくる草のはつかに見えし君はも」(壬生忠岑「古今478」)の本歌取りの歌で、この曽祢好忠の歌は「作者独自の新鮮味がある」とし、和泉式部の歌は「本歌の『草のはつかに』を取って初々しく詠み、巧みである」と評されている(『新編日本古典文学全集43 新古今和歌集』)。
 この二人は、『古今集』から『新古今集』を結ぶ「中古三十六歌仙」の代表的な歌人で、
その後の『新古今集』の歌人群に大きな影響を与えたことが察知される。この二首が収載されている『新古今集巻第十一』(恋歌一)には、式子内親王の代表的な「百人一首89」の次の恋歌も収載されている。

玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする(式子内親王「新古1034」)
(歌意:わたしの命よ。絶えてしまうというなら絶えてしまっておくれ。生き続けていたならば、秘めている力が弱って、秘めきれなくなるかもしれないのだよ。)

 この式子内親王の恋歌には、「百首歌の中に、忍恋を」との詞書が付してある。この「百首歌」は、「百首の和歌をまとめてよんだもの。はじめたのは平安中期の曾禰好忠・源重之などで、一人で四季・恋・雑など各部類にわたって百首よむものであったが、平安末期になると、『堀河百首』『永久百首』『久安百首』などのように、数人が集まって一人百題ずつよむ『組題』が盛んに行なわれ、鎌倉時代にはいってますます流行し、形式も多岐にわたった。また、『小倉百人一首』のように、一人一首ずつ百人の歌を集めたものもある。百首の歌。百首和歌。百首。」(精選版 日本国語大辞典)と、一人で百首詠む場合と、数人で詠む場合と別れ、式子内親王の歌の詞書「百首歌の中に、忍恋を」とは、数人で詠む百首歌で、その「組題」の一つが「忍恋」と理解をして置きたい。
 その上で、この百首歌のうち、一人で百首詠む、その原形は、曽祢好忠の家集『曾丹集』(「毎月集」「百首歌」「つらね歌」などの構成)の、「百首歌(好忠百首)」(「四季・恋・沓冠・物名」などの構成)などにあると、下記のアドレスで説明されている。

https://kotobank.jp/word/百首歌-120954
https://kotobank.jp/word/曾丹集-90152

(曽祢好忠の「つらね歌」、そして、「沓冠(くつかぶり)」)

思ふつゝふるやのつまの草も木も風吹ごとに物をこそ思へ →沓=思へ 
思へ共かひなくてよを過すなるひたきの島と恋や渡らむ  →冠=思へ 沓=渡らむ
渡らむと思ひきざして藤河の今にすまぬは何の心ぞ    →冠=渡らむ

(注)これは「つらね歌」(「尻取り連歌」)の例で、「沓冠(くつかぶり)」(二重折句)については、下記のアドレスのものが参考となる。

 上記は、『現代語訳 日本の古典3 古今集・新古今集(大岡信著)』を参考としてるのだが、下記のアドレスで、「曽祢好忠の特異性について(藤岡忠美稿)」の論考を目にすることができる。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/chukobungaku/2/0/2_50/_pdf/-char/en

 さらに、下記のアドレスで、「〈毎月百首を詠む〉ということ―『毎月抄』の時代―(渡 邉裕美子稿)」の論考も目にすることができる。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/62/7/62_2/_pdf

 これらの論考では、「曽祢好忠と和泉式部」との関わりについては、直接的には触れられていないのだが、『新典社研究叢書 和泉式部の方法試論(久保木寿子著)』の中で、和泉式部が、曽祢好忠の「好忠百首」から大きな示唆を受けていたことが読み取れる(その関係する「目次」を下記に掲げて置きたい)。

https://shintensha.co.jp/product/和泉式部の方法試論/

Ⅲ 初期定数歌論
 第一章 和泉式部の詠歌環境―その始発期―
  第一節 和泉式部と河原院
  第二節 花山院の和歌
 第二章 初期定数歌の成立と展開
  第一節 初期定数歌と私家集―「好忠百首」を中心に―
  第二節 初期定数歌の神祇意識―「好忠百首」を起点に―
 第三章 男性百首から女性百首へ
  第一節 「重之女百首」論―「重之百首」からの離陸―
  第二節 『賀茂保憲女集』試論―初期百首と暦的観念―
  第三節 『相模集』「初事歌群」論―成立をめぐって―
 第四章 初期定数歌の歌ことば―その生成と展開―
  第一節 公任の和歌観と初期定数歌
  第二節 初期定数歌の歌ことば
  第三節 「弘徽殿女御生子歌合」の和歌と判詞

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その十一)

その十一 相模

鹿下絵六の三の一.jpg

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の六「曽根好忠・相模・藤原基俊」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

鹿下絵和歌巻・相模.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(相模)」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦(MOA美術館蔵)
三三・五×四二七・五㎝

11 相模:暁の露はなみだもとゞまらでうらむるかぜの声ぞのこれる
(釈文)暁濃露ハな見多もと々まら天うら無る可世濃聲曽乃こ連る

(「相模」周辺メモ)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sagami.html#AT

   題知らず
暁の露は涙もとどまらでうらむる風の声ぞのこれる(「新古今372」)

【通釈】暁の別れを悲しむ織姫の涙は少しも止まることなく流れ続け、あとには恨むような風の声が残るばかりだ。
【語釈】◇暁 一晩を共に過ごした牽牛織女が別れる暁。◇露は この「露」は「少しも」の意の副詞であると共に、涙の喩えともなっている。
【補記】『相模集』では詞書があり、七夕の翌朝、織女の嘆きを詠んだ歌であることが明らか。「ふづきの八日あかつきに風のあはれなるを、きのふの夜よりといふことを思ひいでて」。「きのふの夜より」は下記和漢朗詠集の句を指す。
【本説】大江朝綱「和漢朗詠集」
風従昨夜声弥怨 露及明朝涙不禁(風は昨夜より声いよいよ恨む 露は明朝に及びて涙禁ぜず)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-17

 この絵図について、「鹿は二、三頭を組み合わせて描く場合が多く、点在する鹿の群をいかに関係づけるかが画面展開上の課題となる。この場面では、視線の持つ力に注目し、後方を見遣る雌鹿によって、進行してきた画面の流れを受けている。この雌鹿は輪郭線で活かす彫塗りで描き、白描風に描く草を食む二頭を左右から包むように配する。いずれにも宗達特有の表現力豊かな線描が大きな効果をあげているが、ことに左右の二頭の優しい背中の線は、鹿のしなやかな姿態と動きをそのままに伝えている。宗達の金銀泥絵において、もっとも叙情性に富む作品である」(『水墨画の巨匠第六巻 宗達・光琳』所収「図版解説32(中部義隆稿)」)との評がある。
 その上で、この絵図について、「『相模』(第40図=左上の鹿の図)にみえる線描主体の一匹などを、光悦の加筆とみる興味深い説がある」(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭著)』所収「口絵第四・五図」解説)との指摘もある。

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その九)

鹿下絵・相模・拡大図.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(相模)・部分拡大図」(MOA美術館蔵)

 『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭著)』では、この鹿の図(「部分拡大図)」は「光悦の加筆とみる興味深い説がある」というのである。
この「興味深い説」は、『原色日本の美術14 宗達と光琳(山根有三著)』などでの「山根有三説」のようである。

【23 鹿図(部分)静岡 熱海美術館(注、現「MOA美術館」)
 金銀泥で鹿ばかりを描いた巻物の一部。右の三匹の鹿(注、上記の「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(相模)」図の右の三匹の鹿)は吐く息まで感じられるほど生き生きしている。左の一匹(注、上記の「部分拡大図」)は描線の質も金の光も違うように思われる。(図版解説)

(作品解説「23 鹿図」)
 (前略)空きすぎた間(ま)を埋めるためであろうか、光悦の散らし書きは、鹿の絵を避けてなされている。これを、宗達と光悦がたがいに遠慮しあったためだと考え、光悦、宗達合作の書画巻のうち、もっとも早いころ、慶長十年(一六〇五)代の前半と解する説もある。たしかに考えてみれば光悦や宗達といえども、最初から書画の渾然と一致した長い巻物を完成することは、むずかしかったはずである。
だが、この図版から明らかのように、個々の鹿の描写はじつにいきいきと躍動している。とくに右側の一匹などは、一筆で背筋の動きをはっきりと示している。慶長七年(一六〇三)の鹿図(図18=省略)が図案的なおもしろさのみに終わっていたのと比べ、飛躍的な進歩である。ただ、左の走る鹿の描線は、もっぱら運筆を楽しんでいるだけで、鹿の姿を的確につかんでいない。別人の筆であろう。この手の鹿はほかに全巻のところどころに描きくわえられている。やはり余白を埋めて連続感を出すために配されたと思われるが、光悦の書はそれらの鹿をも避けて記されているので、別筆の鹿が光悦の和歌を書く以前に描かれたのは確かである。この点と鹿の描線の運筆が光悦の書のそれと似ていることから、加筆の鹿は光悦の筆によるものではないかと私は考えている。  】(『原色日本の美術14 宗達と光琳(山根有三著)』)

光悦の絵画作品などについては、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-15

 そこでは、『もっと知りたい 本阿弥光悦(玉蟲敏子他著)』で取り上げられている下記の二点のみが、光悦の真筆ではないかとされている。

本阿弥光悦筆「扇面月兎画賛(せんめんげっとがさん)」紙本着色 一幅
一七・三×三六・八㎝ 畠山記念館蔵

本阿弥光悦作「赤楽兎文香合(あからくうさぎもんこうごう)」出光美術館蔵
重要文化財 一合 口径八・五㎝

 そのうちの、上記の「扇面月兎画賛」のみを再掲して置きたい。

(再掲)

光悦・月に兎図扇面.jpg

本阿弥光悦筆「扇面月兎画賛」紙本着色 一幅  畠山記念館蔵
【 黒文の「光悦」印を左下に捺し、実態のあまりわかからない光悦の絵画作品のなかで、書も画も唯一、真筆として支持されている作品である。このような黒文印を捺す扇面の例は、同じく「新古今集」から撰歌した十面のセットが知られている。本図のように曲線で画面分割するデザインのもあり、それらとの関係も気になるところである。 】(『もっと知りたい 本阿弥光悦(玉蟲敏子他著)』)
 この画賛の歌は、「袖の上に誰故月ハやどるぞと よそになしても人のとへかし」(『新古今・巻十二・1139)の、藤原秀能の恋の歌のようである。(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編・1972年)』所収「74扇面(本阿弥光悦)」) 】

 この「扇面月兎画賛」は、「尾形光琳誕生三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏―」の図録で、次のように紹介されている。

【 扇面を金地と濃淡二色の緑青で分割し、萩と薄そして一羽の白兎を画く。薄い緑は土坡を表し、金地は月に見立てられている。兎は、この月を見ているのであろうか。
扇面の上下を含んで、組み合わされた四本の弧のバランスは絶妙で、抽象的な空間に月に照らし出された秋の野の光景が呼び込まれている。箔を貼った金地の部分には、『新古今和歌集』巻第十二に収められた藤原秀能の恋の歌「袖の上に誰故月はやどるぞと 餘所になしても人のとへかし」一首が、萩の花を避けて、太く強調した文字と極細線を織り交ぜながら散らし書きされている。
薄は白で、萩は、葉を緑の絵具、花を白い絵具に淡く赤を重ねて描かれている。兎は細い墨線で輪郭を取って描かれ、耳と口に朱が入れられている。
単純化された空間の抽象性は、烏山光広の賛が記され「伊年」印の捺された「蔦の細道図屏風」(京都・相国寺蔵)に通じるものの、細部を意識して描いていく繊細な表現は、面的に量感を作り出していく宗達のたっぷりとした表現とはやや異なるものを感じる。
画面左隅に「光悦」の黒文方印が捺されており、光悦の手になる数少ない絵画作品と考えられている。(田沢裕賀))   】(『尾形光琳誕生三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏―』)

 光悦は、「書・作陶・蒔絵」などの分野では、多くの国宝級の作品を遺しているのだが、こと、「絵画」の分野では、「(国宝)楽焼白片身変茶碗(銘:不二山)」・「(国宝)舟橋蒔絵硯箱」
・「(重文)四季草花下絵古今集和歌巻・立正安国論」などに匹敵するものは遺していない。
 これらのことからすると、光悦は「書家(書)・工芸作家(作陶・蒔絵)」として、多くの傑作作品を遺しているが、「画家(画)」としては、この「扇面月兎画賛」程度の少数作品しか遺していないということになる。
 ここで、上記の「扇面月兎画賛」の「作品解説(田沢裕賀)」を見て行くと、「細部を意識して描いていく繊細な表現は、面的に量感を作り出していく宗達のたっぷりとした表現とはやや異なるものを感じる」という、「面=平面的に『描く』」という作家(宗達)と「細部を意識して造り上げる=造形的に『作る』」という作家(光悦)との、その因って立つ地盤の相違で、画家としての技量(デッサン力など)も、相当な力量を有していたと理解をして置きたい。それを証しするものとして、次の「群鹿蒔絵笛筒」(大和文華館蔵)を挙げて置きたい。

群鹿蒔絵笛筒一.jpg

本阿弥光悦作「群鹿蒔絵笛筒」(重文)木製漆塗 径三・七×長三九・七㎝
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/210019

【群鹿蒔絵笛筒(ぐんろくまきえふえづつ)
金地に金高蒔、金貝、螺鈿、鉛貼付の手法で群鹿を表す。筒上部に銀緒を通す。鐶を装し、底先に孔を穿ち、鉛板をきせる。附の笛は、竹管に吹口に八口を穿ち、その間に樺を巻、黒漆を… 長39.6 径3.3(㎝) 1筒 
公益財団法人大和文華館 奈良県奈良市学園南1-11-6
重文指定年月日:19591218 
光悦作と伝えられるもので、文様と技法の見事な調和を示す逸品である。 】

【群鹿蒔絵笛筒
 円筒形で、口縁を刳(えぐ)り、上部に紐通し付きの銀鐶を嵌め、底に穴をあけた銀の板を貼る。外側は金地として、さまざまなポーズの鹿を全面に配している。鹿は螺鈿・金金貝・錫平文・金と青金の高蒔絵を用いて表わし、それぞれの技法・素材が、全体にバランスよく配置される。鹿の姿態や重なり合うように群れる様子には、宗達が下絵を描き、光悦が書を表わした「鹿下絵和歌巻」に通ずるものがある。内に能管を収めており、金春家の能楽師のため、光悦が春日野に遊ぶ鹿を写し、意匠を工夫したものと伝えられる。()竹内奈美子)  】(『尾形光琳誕生三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏―』)

群鹿蒔絵笛筒二.jpg

(展開写真)

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その十二)

その十二 藤原基俊

鹿下絵六の三の一.jpg

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の六「曽根好忠・相模・藤原基俊」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

鹿和歌巻・藤原基俊.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(藤原基俊)」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦 (MOA美術館蔵)
http://www.moaart.or.jp/?collections=047

【作者:(画)俵屋宗達 (書)本阿弥光悦  時代 桃山~江戸時代(17世紀) 素材・技法 紙本金銀泥下絵・墨書 一幅  サイズ  34.1×75.5㎝
さまざまな姿態や動作を見せる鹿の群像を俵屋宗達が金銀泥で描いた料紙に、本阿弥光悦(1558~1638)が『新古今和歌集』の和歌二十八首を選んで書いた「鹿下絵和歌巻」の断簡である。もとは一巻の巻子本で、第二次大戦後二巻と数幅に分割された。鹿のみの単一な題材をフルに生かした表現法には宗達ならではの技量が感じられる。下絵に見事に調和した光悦の装飾的な書の趣致には、他の追随を許さない斬新さが窺える。現在、シアトル美術館に所蔵されている後半部の一巻の巻末に「徳友斎光悦」の款記と「伊年」の朱文円印が見られる。「徳友斎」の号は、光悦が鷹峯に移る以前に主として使用していたものと考えられている。 】

12 藤原基俊:たかまどのゝぢのしのはらすゑさはぎそゝや木枯け吹きぬ也(MOA美術館蔵)

(周辺メモ・釈文など)

法性寺入道前関白太政大臣家の哥合尓 野風 → 藤原忠通家の歌合に 野風(題)
婦知ハら能基俊              → 藤原基俊
た可まど能々知濃し乃ハら須ゑ左ハ幾 → 高円の野路の篠原末騒ぎ
曾々や木枯けふ吹ぬ也        → そそや木枯らし今日吹きぬ也

https://open.mixi.jp/user/17423779/diary/1966017010

【高円(たかまと)の野路のしのはら末さわぎそそやこがらしけふ吹きぬなり
 藤原基俊
 法性寺入道前関白太政大臣家の歌合に、野風
 新古今和歌集 巻第三 秋歌上 373

「高円の野をゆけば路傍の篠原は葉末が鳴り、あれ、木枯が今日吹きはじめたよ。」『新日本古典文学大系 11』p.120

保安二年(1121)九月十二日、関白内大臣忠通歌合、四句「そそや秋風」。
法性寺入道前関白太政大臣 藤原忠通 1097-1164。
高円の野 春日山の南に続く高円山の麓。
そそや 驚くさま。「物を聞き驚く詞なり」(顕昭・詞花集注)。そよそよと吹く風の擬声辞でもある。
こがらし 八雲御抄三[やくもみしょう 順徳天皇 1197-1242 による歌論書]「秋冬風、木枯なり」。
吹きぬなり 音を聞いての感動。
参考「荻の葉にそそや秋風吹きぬなりこぼれやしぬる露の白玉」(大江嘉言 詞花 秋)。
「秋風」の歌。
(藤原基俊)(ふじわらのもととし1060-1142)平安時代後期の公家・歌人。道長の曾孫。
金葉集初出。千載集では源俊頼・藤原俊成に次ぐ入集歌数第三位。新古今七首。勅撰入集百五首。 隠岐での後鳥羽院による『時代不同歌合』では恵慶法師と番えられている。
小倉百人一首 75 「契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり   】

(追記)「光悦書宗達下絵和歌巻」周辺(「メモ」その一)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-08

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十)

 この絵図の、一匹の雄鹿、そして、二匹の雌鹿(その一匹は、先の「式子内親王」の歌の際に登場する「白描の鹿」で、もう一匹は、雄鹿と同色の雌鹿)の、これらの鹿は、揮毫者(光悦)、そして下絵作者(宗達)は、それぞれ、どのようなイメージを託していたのであろうか。
 そういう詮索は、本来的に、この種の「下絵和歌巻」の鑑賞の場合に無用なのかも知れない。しかし、これらの「下絵和歌巻」に接しての、作者(和歌の揮毫者・下絵作者)とは別に、鑑賞者(この「下絵和歌巻」に魅かれた者)の、その魅かれたイメージ(「見立て」など)は、それは、どのようなものであれ、もはや、作者(和歌の揮毫者・下絵作者)の本来的なイメージを離れて、個々の鑑賞者(この「下絵和歌巻」に魅かれた者)に委ねられるものなのであろう。
 ここで、光悦の書の「法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)」と「婦知ハら能基俊(藤原基俊)」とに接すると、次の「百人一首」の二首の作者を思い浮かべることは、極めて自然のことであろう。

75 契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋も去(い)ぬめり(基俊『千載集』雑・1023)
(歌意: お約束してくださいました、よもぎ草の露のようなありがたい言葉を頼みにしておりましたのに、ああ、今年の秋もむなしく過ぎていくようです。)

76 わたの原漕ぎ出でて見れば久かたの 雲ゐにまがふ沖つ白波(忠通『詞花集』雑下・382)
(歌意: 大海原に船で漕ぎ出し、ずっと遠くを眺めてみれば、かなたに雲と見間違うばかりに、沖の白波が立っていたよ。)

 この忠通の歌には、「新院、位におはしましし時海上遠望ということをよませ給ひけるによめる」(『詞花集』)との詞書がある。この詞書の「新院」は、「崇徳上皇」で、「位におはしましし時海上遠望」は、「崇徳天皇の在位中の題詠・海上遠望」の意であろう。
 この忠通と崇徳上皇とは、保元元年(一一五六)の鳥羽法皇崩御を切っ掛けとして勃発した「保元の乱」で壮絶な血肉の争いの中心人物となる。これは、皇室における崇徳上皇と後白河天皇の兄弟による実権争いと、藤原摂関家の総帥・藤原忠通とその弟・藤原頼長との兄弟による家督争いが、その背景にある。
 さらに、この「崇徳上皇・藤原頼長」側に、源氏の棟梁であった源為義やその息子の源為朝、平氏からも清盛の叔父である平忠正らが加わる。一方の「後白河天皇・藤原忠通」側には、為義の長男で為朝の兄である源義朝、そして当時もっとも実権を有していた平清盛が加わり、結果としては「崇徳上皇・藤原頼長」側が敗北し、崇徳上皇は讃岐に流罪となり、八年後に死亡。頼長も戦の最中に受けた傷が元で亡くなり、藤原摂関家の力も大きく削がれていくことになる。
 「百人一首」では、この「法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)」の歌(76番)の後に、次の「崇徳院」の歌(77番)が続いている。

77 瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ(崇徳院『詞花集』恋・229)
(歌意: 川の瀬の流れが速く、岩にせき止められた急流が二に分かれる。しかしまた一つになるように、愛しい人と今は分かれても、いつかはきっと再会したいと念じている。 )

 この歌の原形は、初句が「行きなやみ」、三句が「谷川」の恋歌であったが(『久安百句』)、『詞花集』では、初句が「瀬を早み」、三句が「滝川」に改変されている。こうなると、これは、もはや、恋歌というよりも、「保元の乱」を背景にしての崇徳院の哀傷歌のような雰囲気を漂わせている。

83 世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる(皇太后宮大夫俊成『千載集』1151)
(歌意: この世の中には、悲しみや辛さを逃れる方法などないものだ。思いつめたあまりに分け入ったこの山の中にさえ、哀しげに鳴く鹿の声が聞こえてくる。)

藤原俊成の青年期(二十代後半)の歌だが、俊成が出家して法名「釈阿」を名乗る前後の歌と解しても違和感がないほど、戦乱の激動期を生き抜いた俊成の全生涯を詠じている雰囲気を漂わせている。俊成は、在俗時代、役人としては不遇であったが、歌人としては、崇徳天皇に見出されて、後に、その崇徳院を放逐していった後白河院の院宣を受けて、第七勅撰集『千載和歌集』を撰進し、名実ともに歌壇の第一人者となっていく。「皇太后宮大夫」は、俊成の最後の官位で、この「皇太后」は、後白河院の皇太后・藤原忻子に仕えた官職ということになる。

86 嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな(西行法師『千載集』929)
(歌意::嘆けと言って、月が私を物思いにふけらせようとするのだろうか。いや、そうではない。それなのに、月のせいだとばかりに流れる私の涙であることよ。)

西行は、鳥羽天皇の北面の武士(天皇を護る近衛兵)というエリート職を捨て、二十三歳の若さで出家する。「保元の乱」は、その鳥羽天皇(鳥羽上皇)が崩御した時に勃発する。  
 この鳥羽天皇の第一皇子が崇徳天皇だが、崇徳天皇は白河院(鳥羽天皇の祖父)の子ではないかということで「叔父子」として、鳥羽天皇に忌避されていた。その鳥羽天皇は、上皇になる時に、崇徳天皇を退位させ、愛妾の美福門院との間の皇子・近衛天皇を即位させ、その近衛天皇が崩御するや、今度は崇徳院の弟の後白河天皇を後継者とするのである。
 崇徳院と後白河天皇・鳥羽上皇との骨肉の争いの「保元の乱」というのは、『新古今集』、そして『百人一首』に、陰に陽に複雑に絡み合っていることを目の当たりにする。

88 難波江の芦のかりねのひとよゆゑみをつくしてや恋ひわたるべき(皇嘉門院別当『千載集』807)
(歌意:難波の入り江の芦を刈った根っこ(刈り根)の一節(ひとよ)ではないが、たった一夜(ひとよ)だけの仮寝(かりね)のために、澪標(みおつくし)のように身を尽くして生涯をかけて恋いこがれ続けなくてはならないのでしょうか。)

この歌は、「皇嘉門院(藤原聖子)」の一首ではない。「皇嘉門院別当(女官)」の作(源俊隆の娘)である。この作者が仕えた「皇嘉門院」こそ、「保元の乱」に翻弄された悲劇の女性の一人であろう。「皇嘉門院」の実父は藤原忠通(76の作者)で、夫は崇徳院(77の作者)なのである。即ち、「保元の乱」で、実父と夫とが骨肉の争いをし、夫(崇徳院)は敗北し、讃岐に流される。
 板挟さみとなった聖子は同年出家し、清浄恵と号し、長寛元年(一一六三)、髪をすべて剃る再出家をし、蓮覚と号している。父(忠通)の没後は猶子としていた異母弟の九条兼実の後見を受け、兼実の嫡男・良通を猶子として、忠通伝来の最勝金剛院領などを相続させた。これが後世における九条家家領の源流となったといわれる。この九条兼実の継嗣(二男)が藤原(九条)良経(91の作者・「新古今集(仮名序)」の執筆者)なのである。

89 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする(式子内親王『新古今集』1034)
(歌意: 我が命よ、絶えてしまうのなら絶えてしまえ。このまま生き長らえていると、堪え忍ぶ心が弱ってしまうと困るから。 )

 式子内親王は、後白河天皇の第三皇女である。生まれは久安五年(一一四九)で、「保元の乱」の後の「平治の乱」(平治元年=一一五九)の十歳前後のときに、賀茂斎院に叙せられ、以後、前斎院として、生涯独身を全うすることとなる。
 そして、式子内親王が経験した「保元の乱」・「平治の乱」は、藤原摂関家の「貴族時代」から、「源平二家」の「平家(平清盛)」の「武家時代」への移行期にあった。その生涯は、「保元の乱」の悲劇のヒロイン「皇嘉門院(藤原聖子)」と勝るとも劣らないであろう。

https://kotobank.jp/word/式子内親王-72610

【その間,伯父藤原公光の解官,同母兄以仁 (もちひと) 王の平家への謀反と戦死などの不幸を体験,建久2 (91) 年頃出家し,法然に帰依した。同7年橘兼仲夫妻の謀計に連座,都から追放されそうになるなど,その生涯は不幸であった。和歌を藤原俊成に学び,憂愁に満ち,情熱を内に秘めた気品の高い作品を残した。】

 ここで、この「和歌を藤原俊成に学び,憂愁に満ち,情熱を内に秘めた気品の高い作品を残した」に鑑み、翻って、冒頭の「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(藤原基俊)」の、その一匹の雄鹿は、この「和歌を藤原俊成に学び」の、「藤原俊成」(釈阿)とし、真ん中の「白描」の雌鹿は、先(その七)の、月光の下の白鹿の「式子内親王」をイメージしたい。そして、もう一匹の雌鹿は、式子内親王と同じく、俊成門の二大女流歌人で、俊成の養女でもある「皇太后宮大夫俊成女」(藤原俊成女)をイメージして置きたい。

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その十三)

その十三 右衛門督通具

鹿下絵・全体七の正.jpg

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の七「右衛門督通具・皇太后宮太夫俊成女」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

鹿下絵七の一.jpg

「鹿下絵新古今和歌巻(「右衛門督通具」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

13 右衛門督通具: 深草の里の月影さびしさもすみこしまゝの野辺の秋かぜ(所蔵者不明)
(釈文)   千五百番う多合尓
深草能里濃月影左日し佐も須見こしま々濃野邊濃秋可世

(「源通具」周辺メモ)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/mititomo.html

  千五百番歌合に
深草の里の月かげさびしさもすみこしままの野べの秋風(新古374)

【通釈】草深く繁った深草の里、そこを照らす月の光――久々に帰って見れば、月は昔のままで、野辺を吹く秋風の淋しさもまた、私がここにずっと住み、月も常に澄んだ光を投げかけていた、あの頃のままであったよ。
【語釈】◇深草のさと 平安京の南郊。「草深い里」の意が掛かる。◇さびしさも 月は昔のままだが、野辺の秋風のさびしさも…という気持で「も」を用いる。◇すみこしままの ずっとすんでいた頃のままの。澄み・住み、掛詞。
【補記】二句切れ。「月影のさびしさといふにはあらず、三の句は下へつけて心得べし」(宣長『美濃の家づと』)。下記本歌の主人公が、年を経て深草に帰って来た、という設定であろう。
【本歌】在原業平「古今集」、「伊勢物語」一二三段
年をへてすみこし里を出でていなばいとど深草野とやなりなむ
【参考歌】藤原俊成「久安百首」「千載集」
夕されば野べの秋風身にしみてうづら鳴くなりふか草のさと

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十一)

 前回(逍遥ノート・その十)、絵図の三匹の鹿を、「藤原俊成・俊成卿女・式子内親王」と見立てたのだが、今回の絵図では、四匹の鹿の図柄となっている。そして、今回の歌の作者・源通具(堀川大納言・堀川通具)と俊成卿女(皇太后宮大夫俊成女)とは、一男一女を儲けた夫婦の関係にあったが、後に、二人は離婚し、俊成卿女は晩年に出家し、嵯峨禅尼・越部禅尼と呼ばれていた。
 この通具にとって、藤原俊成は、妻の俊成卿女との関係で義父であったということになるが、この通具の歌は、俊成の代表作の一つとされている、上記の「参考歌」を念頭に置いてのものであろう

 夕されば野べの秋風身にしみてうづら鳴くなりふか草のさと(俊成「千載集」259)
 深草の里の月かげさびしさもすみこしままの野べの秋風(通具「新古今集」374)

 そして、この二首とも、上記の「本歌」の『伊勢物語(一二三段)』にあることは、これまた明瞭なことであろう。

『伊勢物語(一二三段)』

 むかし、男ありけり。深草に住みける女を、ようよう、あきがたにや思ひけむ、かかる歌をよみけり。
  年を経て住みこし里を出でていなば
   いとゞ深草野とやなりなむ
女、返し、
   野とならば鶉となりて鳴きをらむ
   狩にだにやは君は来ざらむ

さらに、この俊成の歌には、『無名抄(鴨長明著)』の「深草の里おもて歌俊成自賛歌のこと」が、その背景にある。

『無名抄(鴨長明著)』(「俊成自賛歌のこと」)

 俊恵(鴨長明の師)いはく、「五条三位入道(俊成)のもとにまうでたりしついでに、『御詠の中には、いづれをかすぐれたりとおぼす。よその人さまざまに定め侍れど、それをば用ゐ侍るべからず。まさしく承らんと思ふ。』と聞こえしかば、
『 ※夕されば 野辺の秋風 身にしみて うづら鳴くなり 深草の里
これをなん、身にとりてはおもて歌(面歌=代表歌)と思い給ふる。』と言はれしを、俊恵またいはく、『世にあまねく人の申し侍るは、
 ※面影に 花の姿を 先立てて 幾重越え来ぬ 峰の白雲
これを優れたるように申し侍るはいかに。』と聞こゆれば、『いさ、よそにはさもや定め侍るらん。知り給へず。なほみづからは、先の歌には言ひ比ぶべからず。』とぞ侍りし。」 と語りて、これをうちうちに申ししは、「かの歌は、『身にしみて』という腰の句(第三句)いみじう無念(残念)におぼゆるなり、これほどになりぬる歌(素晴らしい歌)は、景気(景色)を言ひ流して、ただそらに(なんとなく)身にしみけんかしと思はせたるこそ、心にくく(奥ゆかしく)も優(優美)にも侍れ。いみじう言ひもてゆきて、歌の詮(眼目)とすべきふしを、さはと言ひ表したれば、むげにこと浅くなりぬる。」とて、そのついでに、
「わが歌の中には、
 ※み吉野の 山かき曇り 雪降れば ふもとの里は うちしぐれつつ
これをなむ、かのたぐひ(代表歌)にせんと思う給ふる。もし世の末に、おぼつかなく言ふ人もあらば、『かくこそ言ひしか。』と語り給へ。」とぞ。

 ちなみに、『日本古典文学大系65 歌論集・能楽論集』 の「校注(久松潜一)」の※印の歌の「歌意」などは、次のとおりである。

※夕されば 野辺の秋風 身にしみて うづら鳴くなり 深草の里(俊成「千載集」、俊成三十七歳の詠)
(歌意:夕方になると野辺の秋風が身にしみるように感ぜられて鶉が寂しく鳴いているらしいよ。)

※面影に 花の姿を 先立てて 幾重越え来ぬ 峰の白雲(俊成「新勅撰集」、「遠尋山花」の歌)
(歌意:遠山の白雲を満開の桜の花と思って、それにひかされてつい幾つもの峰を越えてきてしまったことか。)

※み吉野の 山かき曇り 雪降れば ふもとの里は うちしぐれつつ(俊恵「新古今」588)
(歌意:吉野山の空がかき曇り雪が降ると山里の里にはおりおり時雨が過ぎてゆく。「つつ」は反復を示す接続助詞)。)

 ここで、歌道家(歌の家=宮廷和歌の指導者の家系)の三家について触れたい。

六条藤家(白河法皇の乳母子として権勢をふるった藤原顕季を祖とする歌道の家=「人麻呂影供」の創始と継承)

藤原顕輔(顕季の息子)→崇徳上皇の院宣により『詞華和歌集』を撰進。「百人一首79」
藤原清輔(顕輔の息子)→『続詞華和歌集』を撰集するも二条天皇の崩御に伴い勅撰和歌集に至らなかった。「百人一首84」

六条源家(後一条天皇から堀河天皇までの六朝に仕えた源経信を祖とする「六条藤家」に対する歌道家の名称)

源経信→漢詩文、有職故実にも通じ、詩歌管弦に優れて藤原公任と共に三船の才と称された。「百人一首71」
源俊頼(経信の息子)→堀河天皇のもとで歌壇の指導者となり、白河院の命により『金葉和歌集』を撰進。「百人一首74」
俊恵法師(俊頼の息子)→東大寺の僧、「保元の乱」時に僧坊を歌林苑と称し、歌を詠む一種の歌壇を形成し、そこから、鴨長明・寂連・小侍従・二条院讃岐・殷冨門院大輔などが輩出した。「百人一首85」

御子左家(藤原道長の第六子・長家が「御子左第」に住んでいたことによる歌道家の名称)

藤原俊成(道長の六男・長家四世の孫)→後白河院の命により『千載和歌集』を撰して歌道家「御子左家」を築く。「百人一首83」
藤原定家(俊成の息子)→後堀河天皇の命を受け『新勅撰和歌集』の単独撰者を務め、『小倉百人一首』を編んだ。「百人一首97」
寂蓮(俊成の甥・養子)→新古今集撰者の一人となったが、撰なかばで没。「百人一首87」
俊成卿女(俊成の孫・養女)→後鳥羽院に出仕して新古今時代の代表的な女流歌人。
藤原為家(定家の息子)→その子「為氏(二条家)・為教(京極家)・為相(冷泉家)」の三家に分かれる。

 宮廷文化全盛期の「八代集時代」の歌壇の主流というのは、「六条藤家」(藤原顕季・顕輔の家系)であったが、それに対抗する形で、「六条源家」(源経信・俊頼の家系)が、当時の歌道界を二分していた。その末期の「保元の乱・平治の乱」の前後に、これら旧派(伝統派)の「万葉集」・「古今集」風の歌壇に、新しい第三の風(新派)の「新古今」風の勢力が大勢を占めるようになった。その新派の中心に位置したのが、御子左家(藤原俊成・定家)ということになる。

夕されば門田の稲葉おとづれて蘆のまろやに秋風ぞ吹く(経信「百人一首71」)
憂かりける人をはつせの山おろしよはげしかれとは祈らぬものを(俊頼「百人一首74」)
秋風にたなびく雲のたえ間より漏れ出づる月の影のさやけさ(顕輔「百人一首79」)
世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる(俊成「百人一首83」)
ながらへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき(清輔「百人一首84」)
来ぬ人をまつ帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ(定家「百人一首」97)

 この「六条源家」の「経信・俊頼」に親子に、「御子左家」の「俊成」は大きな影響を受けていた。上記の『伊勢物語(一二三段)』・『無名抄(鴨長明著)』(「俊成自賛歌のこと」)に係わる「俊成」の歌は、「経信・俊頼」に親子の、次の歌が念頭にあることは明瞭であろう。

夕されば野べの秋風身にしみてうづら鳴くなりふか草のさと(俊成「千載集」259)
夕されば門田の稲葉おとづれて蘆のまろやに秋風ぞ吹く(経信「百人一首71」)
鶉鳴く眞野の入江の濱風に尾花なみよる秋の夕暮(俊頼「金葉集」239)

 これらのことに関して、『後鳥羽院御口伝』では、次のように記している。

【 大納言經信、殊にたけもあり、うるはしくして、しかも心たくみに見ゆ。又俊頼堪能の者なり。哥の姿二樣によめり。うるはしくやさしき樣も殊に多く見ゆ。又もみもみと、人はえ詠みおほせぬやうなる姿もあり。この一樣、すなはち定家卿が庶幾する姿なり。
うかりける人をはつせの山おろしよはげしかれとは祈らぬ物を
この姿なり。又、
  鶉鳴く眞野の入江の濱風に尾花なみよる秋の夕暮
うるはしき姿なり。故土御門内府亭にて影供ありし時、釋阿は、これ程の哥たやすくいできがたしと申しき。道を執したることも深かりき。難き結題を人の詠ませけるには、家中の物にその題を詠ませて、よき風情をのづからあれば、それを才學にてよくひき直して、多く秀哥ども詠みたりけり。 】(『後鳥羽院御口伝』)

ちなみに、次の三句も、相互に響き合っている雰囲気を有している。

憂かりける人をはつせの山おろしよはげしかれとは祈らぬものを(俊頼「百人一首74」)
世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる(俊成「百人一首83」)
来ぬ人をまつ帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ(定家「百人一首」97)

一首目の俊頼の歌の三句目の「山おろしよ」は、『千載集』では、「山おろし」で「よ」は表記されていない。しかし、上記の『後鳥羽院御口伝』で、この「よ」が添加されている。
この「よ」について、「『初瀬の山おろし(よ)』は呼びかけの挿入句としか読みようがないから、『よ』はむしろ精彩と力を一首に添える珍重すべき字余りというべきで、かりにこれが定家の独断に発したものとしても、賞されてよい発見である」(『別冊太陽№1 日本のこころ 百人一首』所収「百首通見(安東次男稿)」)との評がなされている。
 そして、この呼びかけの「よ」は、上記の二首目の俊成の代表歌の初句に「世の中よ」と活かされている。
 さらに、この『後鳥羽院御口伝』で、この俊頼の歌(恋歌)は、「もみもみ(巧緻な風体)と、人はえ詠みおほせぬやうなる姿もあり。この一樣、すなはち定家卿が庶幾する(理想とする)姿なり」との評を下している。
 この「定家卿が庶幾する(理想とする)姿なり」を、定家が一首の歌(恋句)に託したものこそ、上記の三首目の定家の歌(定家「百人一首」97)ということになろう。さらに、「この歌は隠岐遠島後の後鳥羽院も定家家隆両卿撰歌合五十番の中に採っている。けだし、『やさしくもみもみとあるように見ゆる歌、まことにありがたく(『後鳥羽院御口伝』)見える定家風をよく示した一首であろう』(『別冊太陽№1 日本のこころ 百人一首』所収「百首通見(安東次男稿)」)と喝破されている。
 さらに、上記の『後鳥羽院御口伝』の中に、「故土御門内府亭にて影供ありし時」の一節があり、この「土御門内府」は、今回の歌の作者・源通具(堀川大納言・堀川通具)の実父・源通親(正二位内大臣)であり、その「影供ありし時」とは、「『人丸御供』の略。人麿の像を掲げ、供物を供えて歌合又は歌会を行なわれた時」(『日本古典文学大系65 歌論集・能楽論集』 の「校注(久松潜一)」を意味する。
 即ち、この「故土御門内府亭にて影供ありし時」とは、「御子左家」(「俊成・定家」歌壇)と相対立している「六条藤家」(「顕季・顕輔・清輔」歌壇)の「歌合又は歌会」の時ということなのである。そして、この「六条藤家」の後ろ盾の中心人物が、正二位内大臣・源通親その人ということになる。
 そして、この「後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後白河院および後鳥羽天皇→後鳥羽院および土御門天皇」の「七朝にわたり奉仕し、村上源氏の全盛期を築いて、土御門通親と呼ばれた」その人「源通親」に相対立していたのが、「御子左家」(「俊成・定家」歌壇)を支えていた「九条兼実」(通親と同じく六朝に奉仕し、「五摂家の一つ、九条家の祖であり、且つ、その九条家から枝分かれした一条家と二条家の祖でもある」・「従一位・摂政・関白・太政大臣。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれた通称・後法性寺関白」)ということになる。
 その九条兼実の継嗣が、藤原(九条)良経(九条兼実の子、藤原忠通の孫、摂政太政大臣、『新古今集』の「仮名序」の起草者)で、源通親の継嗣が、源通具(右大将・源通親の次男、正二位・大納言、堀川家の祖、『新古今集』の撰者の一人、「定家」と親しく「俊成卿女」の夫で後に離別。曹洞宗の開祖・道元は異母弟といわれている)ということになる。

 さて、冒頭に戻って、今回の絵図の四匹の鹿は、前回の見立ての三匹の鹿の「雄鹿=藤原俊成」(釈阿)、「白描」の雌鹿=「式子内親王」、もう一匹の雌鹿=「皇太后宮大夫俊成女」としたが、それに加えっての一匹の「白描」の雌鹿は、先に、下記のアドレスで登場している、藤原俊成女と同じく、後鳥羽院が見出した夭逝の女流歌人「宮内卿」をイメージして置きたい。

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その十四)

その十四  皇太后宮太夫俊成女

鹿下絵・全体七の正.jpg

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の七「右衛門督通具・皇太后宮太夫俊成女」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

鹿下絵和歌巻七の四(俊成女).jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(俊成女・家隆)」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦 (MOA美術館蔵)

14 皇太后宮太夫俊成女:おほあらきのもりの木の間をもりかねて人だのめなる秋の夜の月(MOA美術館蔵)
(釈文) 五十首多天まつ利し時 林間濃月といふ事を
お保安ら支能も利濃木乃間も毛利可年天 人だ乃め那類秋濃夜濃月   

(「皇太后宮太夫俊成女」周辺メモ)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syunzejo.html#AT

   五十首歌奉りし時、杜間月といふことを
大荒木の杜の木の間をもりかねて人だのめなる秋の夜の月(新古375)

【通釈】「大粗」と名のつく大荒木の森は、月の光をよく透すはずなのに、実際には葉が茂っている。それで光はよく漏れず、秋の夜の月は人にむなしい期待をさせるばかりである。
【語釈】◇大荒木の杜 山城国の歌枕。所在不詳であるが、桂川の河川敷にあった森ともいう。古今集の本歌のように、下草を詠んで我が身の老いや落魄を歎く例が多いが、この歌では、その意味はない。「おほあら」に大粗を掛け、木の葉のまばらな森の意を掛けている。◇人だのめなる 人に空頼みをさせる。むなしい期待をさせる。
【本歌】よみ人しらず「古今集」
大荒木の森の下草老いぬれば駒もすさめず刈る人もなし

藤原俊成女  生没年未詳(1171?~1254?)

 藤原俊成の養女。実父は尾張守左近少将藤原盛頼、母は八条院三条(俊成の娘)。俊成は実の祖父にあたるが、その歌才ゆえ父の名を冠した「俊成卿女」「俊成女」の名誉ある称を得たのであろう。晩年の住居に因み嵯峨禅尼、越部禅尼などとも呼ばれる。勅撰集等の作者名表記としては「侍従具定母」とも。
 治承元年(1177)、七歳の頃、父盛頼は鹿ヶ谷の変に連座して官を解かれ、八条院三条と離婚。以後、俊成卿女は祖父俊成のもとに預けられたものらしい。建久元年(1190)頃、源通具(通親の子)と結婚し、一女と具定を産む。しかし夫は正治元年(1199)頃、幼帝土御門の乳母按察局を妻に迎え、以後の結婚生活は決して幸福なものではなかったようである。
 後鳥羽院主催の建仁元年(1201)八月十五日撰歌合が「俊成卿女」の名の初見。同年の院三度百首(千五百番歌合)にも詠進している。同二年(1202)、後鳥羽院に召され、女房として御所に出仕する。院歌壇の中心メンバーの一人として、「水無瀬恋十五首歌合」「八幡宮撰歌合」「春日社歌合」「元久詩歌合」「最勝四天王院障子和歌」などに出詠した。
 建保元年(1213)、出家。以後も旺盛な作歌活動を続け、建保三年(1215)の「内裏名所百首」をはじめ、順徳天皇の内裏歌壇を中心に活躍した。安貞元年(1227)、夫通具の死後、嵯峨に隠棲。貞永二年(1233)頃、兄定家の『新勅撰和歌集』撰進の資料として、家集『俊成卿女集』を自撰した。仁治二年(1241)の定家死後、播磨国越部庄に下り、余生を過ごした。晩年まで創作に衰えを見せず、宝治二年(1248)の後嵯峨院「宝治百首」などに健在ぶりが窺える。
 建長三年(1251)以後、甥(実の従弟)為家に続後撰集に関する評などを送った『越部禅尼消息』がある。また物語批評の書『無名草子』の著者を俊成卿女とする説がある。
 新古今集の29首をはじめ、勅撰集に計116首を入集。宮内卿と共に新古今の新世代を代表する女流歌人。新三十六歌仙。

「今の御代には、俊成卿女と聞こゆる人、宮内卿、この二人ぞ昔にも恥じぬ上手共成りける。哥のよみ様こそことの外に変りて侍れ。人の語り侍りしは、俊成卿女は晴の哥よまんとては、まづ日を兼ねてもろもろの集どもをくり返しよくよく見て、思ふばかり見終りぬれば、皆とり置きて、火かすかにともし、人音なくしてぞ案ぜられける。」(鴨長明『無名抄』)

「幽玄にして唯美な作として、俊成女ほどに象徴的な美の姿を、ことばで描き出した詩人はなかつた。俊成女のつくりあげた歌のあるものは、たゞ何となく美しいやうなもので、その美しさは限りない。かういふ文字で描かれた美しさの相をみると、普通の造形藝術といふものの低さが明白にわかるのである。音樂の美しさよりももつと淡いもので、形なく、意もなく、しかも濃かな美がそこに描かれてゐる。驚嘆すべき藝術をつくつた人たちの一人である。」(保田與重郎『日本語録』)

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十二)

 上記の絵図(俊成女・家隆)の右側の釈文は、「人だ乃め那類秋濃夜濃月」(人だのめなる秋の夜の月)で、次の釈文は「守覚法親王五十首う多よま世侍介る尓」(守覚法親王五十首歌よませ侍りけるに)・「藤原家隆朝臣」・「有明濃月待宿乃」(有明の月待つ宿の)のところである。
 この俊成女の「人だ乃め那類秋濃夜濃月」(人だのめなる秋の夜の月)の背後に描かれている二匹の雌鹿は、全図の四匹の鹿(俊成・俊成女・式子内親王・宮内卿)のうちの、「俊成女と宮内卿」とが、全体の流れとしては自然のような感じである。
 下記のアドレスで、『コレクション日本歌人選50俊成卿女と宮内卿(近藤香著)』が紹介されている。

http://estrange25.rssing.com/browser.php?indx=13415120&item=1929

 その「ブックカバー裏」に、次のように両者が紹介されている。

【 新古今時代の女流のうち、後鳥羽院に見出だされて才を誇った二人の女性歌人。伊勢や和泉式部などの女歌の伝統とは異なる題詠の世界に、新たな才能を開花させた歌人。俊成卿女は俊成の子八条院三条の娘だが俊成の養女に入り、歌人としてのデビューは遅かったものの纏綿たる恋の情緒を定家風の巧緻優艶な風にうたい、源師光の娘宮内卿は、若くして没する四年余ではあったが清新な自然詠や恋歌を切れのあるタッチでうたった。新古今和歌集を彩る対立的な二人の個性を見比べたい。 】

 ここでは、この両者については言及しない。そして、ここでは、前回に続いて、その夫であった前回の作者「右衛門督通具」(源通具)と「皇太后宮大夫俊成女」(俊成女)とに絞りたい。
 この一男一女を儲けた仲睦まじい両者を引き裂いて離婚に追いやったのは、その実父の「源通親」(「後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後白河院および後鳥羽天皇→後鳥羽院および土御門天皇」の「七朝にわたり奉仕し、村上源氏の全盛期を築いて、土御門通親と呼ばれた」)その人であろう。
 「土御門通親」の呼称は、土御門天皇の外祖父に対する呼称で、「後鳥羽天皇」の次の「土御門天皇」を支えるため、その新帝の乳母・按察局(鎌倉幕府と縁故のある故一条能保の妻であった)を嫡妻(通親の長男・通宗死亡、通親の継嗣として次男・通具が担い、その嫡妻)として迎え入れ、それまで「通具の妻」であった「俊成女」は、「室家(しっか)」(内輪の妻)の一人として遇せられることになる。
 これらのことに関して、「俊成卿女伝記考証―『名月記』を中心に―(田渕句美子稿)」(『明月記研究 6号(2001年11月): 記録と文学』)の中で、この「通具と按察局との結婚は蓋し当然であったろう」との記述がみられる(下記「抜粋」の通り)。

「俊成卿女伝記考証―『名月記』を中心に―(田渕句美子稿)」(「三 通具と按察局―建仁元年十二月二十八日条」抜粋)

按察局関連.jpg

 元久元年(一二〇四)十一月、『新古今集』を完成を待たずに、俊成卿女を薫陶し続けた俊成入道は瞑目した。この俊成の危篤に際して、「別居中でありながら通具も俊成卿女と申し合わせて共に見舞いに赴いた。その俊成が死んだのち、このふたりを相伴わせる機会はもはや絶無にひとしいのではないか」(『和歌文学講座7中世・近世の歌人』所収「俊成卿女(森本元子稿)」)との記述も見られる。
 俊成(釈阿)は、晩年には、自己の傑作歌の「鶉鳴く深草の里」で過ごして、その墓も深草(京都市伏見区)にあるという。
 ここで、「俊成・通具・俊成卿女」の三首を並記して置きたい。

夕されば野べの秋風身にしみてうづら鳴くなりふか草のさと(俊成「千載集」259)
深草の里の月かげさびしさもすみこしままの野べの秋風(通具「新古374」)
大荒木の杜の木の間をもりかねて人だのめなる秋の夜の月(俊成卿女「新古375」)

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その十五)

その十五  藤原家隆朝臣

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「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の八「藤原家隆朝臣・藤原有家」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(俊成女・家隆)」(MOA美術館蔵)

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(家隆)」(MOA美術館蔵)

15 藤原家隆朝臣:有明の月待宿の袖の上に人だのめなるよゐの稲妻(MOA美術館蔵)
(釈文)守覚法親王五十首う多よま世侍介る尓
    藤原家隆朝臣 
有明濃月待宿乃袖の上尓人多のめなるよ井乃稲妻

(「藤原家隆」周辺メモ)

   守覚法親王、五十首歌よませ侍りけるに
有明の月待つ宿の袖の上に人だのめなる宵の稲妻(「新古今」376)
(歌意:夜明けの月を待っている宿のわたしの袖の上に、光を投げかけて、月の光かとそら頼みさせる、宵の稲妻よ。)(『日本古典文学全集26新古今和歌集(校注・訳 峯村文人)』)

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藤原家隆 保元三~嘉禎三(1158-1237)

 良門流正二位権中納言清隆(白河院の近臣)の孫。正二位権中納言光隆の息子。兼輔の末裔であり、紫式部の祖父雅正の八代孫にあたる。母は太皇太后宮亮藤原実兼女(公卿補任)。但し尊卑分脈は母を参議藤原信通女とする。兄に雅隆がいる。子の隆祐・土御門院小宰相も著名歌人。寂蓮の聟となり、共に俊成の門弟になったという(井蛙抄)。
 安元元年(1175)、叙爵。同二年、侍従。阿波介・越中守を兼任したのち、建久四年(1193)正月、侍従を辞し、正五位下に叙される。同九年正月、上総介に遷る。正治三年(1201)正月、従四位下に昇り、元久二年(1205)正月、さらに従四位上に進む。同三年正月、宮内卿に任ぜられる。建保四年(1216)正月、従三位。承久二年(1220)三月、宮内卿を止め、正三位。嘉禎元年(1235)九月、従二位。同二年十二月二十三日、病により出家。法号は仏性。出家後は摂津四天王寺に入る。翌年四月九日、四天王寺別院で薨去。八十歳。

 家隆卿は、若かりし折はきこえざりしが、建久のころほひより、殊に名誉もいできたりき。哥になりかへりたるさまに、かひがひしく、秀哥ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり。たけもあり、心もめづらしく見ゆ」(後鳥羽院御口伝)。

 「風体たけたかく、やさしく艶あるさまにて、また昔おもひ出でらるるふしも侍り。末の世にありがたき程の事にや」(続歌仙落書)。

 「かの卿(引用者注:家隆のこと)、非重代の身なれども、よみくち、世のおぼえ人にすぐれて、新古今の撰者に加はり、重代の達者定家卿につがひてその名をのこせる、いみじき事なり。まことにや、後鳥羽院はじめて歌の道御沙汰ありける比、後京極殿(引用者注:九条良経を指す)に申し合せまゐらせられける時、かの殿奏せさせ給ひけるは、『家隆は末代の人丸にて候ふなり。彼が歌をまなばせ給ふべし』と申させ給ひける」(古今著聞集)。

 「家隆は詞ききて颯々としたる風骨をよまれし也。定家も執しおもはれけるにや、新勅撰には家隆の哥をおほく入れられ侍れば、家隆の集のやう也。但少し亡室の躰有て、子孫の久しかるまじき哥ざま也とて、おそれ給ひし也」(正徹物語)。

 「妖艷の彩を洗い落とした後の冷やかな覚醒、鬼拉の技の入り込む隙もない端正なしかもただならぬ詩法、それは俊成を師とした彼と、俊成を父とした定家の相肖つつ相分つ微妙な特質であった」(塚本邦雄『藤原俊成・藤原良経』)。

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十三)

 ここから、鹿が描かれていない、和歌の揮毫だけの、藤原家隆と藤原有家との二首が続く。この家隆と有家とも、『新古今和歌集』の撰者である。

 後鳥羽院は、建仁元年(一二〇一)七月二十八日、「和歌所」を設置し、「寄人(よりうど)」(職員)として、「左大臣藤原良経・内大臣源通親・天台座主慈円・釈阿入道(藤原俊成)・源通具・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経・源具親・寂連の十一名を任命し(後に、藤原隆信・鴨長明・藤原秀能と藤原清範(異説あり)が追加される)、その「開闔(かいこう)」(書記役)として、源家長が任命された。
 そして、十一月三日、その十一名の寄人のうち、「源通具・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経・寂蓮」の六名に対して、上古以来の和歌を撰進せよという院宣が下され、寂蓮は、翌、建仁二年(一二〇二)七月に没しているので、撰進は寂蓮を除いた五名の撰者によって実施された。

 ここで、十一名の寄人を寸描的な評言で見ていくと、次のとおりである。

藤原良経→「左大臣」(朝廷の最高機関、太政官の長官で、太政大臣の次、右大臣の上。)

源通親→「内大臣」(初めは名誉称号であったが、のち、左右大臣を補佐し、権限は左右大臣に準ずる。)

慈円→「天台座主」(天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する役職。)藤原忠通の子、九条兼実の弟、良経の叔父。

藤原俊成(釈阿)→九条兼実等が支援する「御子左家」の総帥。西行と双璧の大歌人。

藤原有家→「御子左家」と相対立する「六条藤家」に連なる歌人。俊成・定家とも親しい。

藤原定家→「御子左家」の俊成の子。父の指導を受けながら後鳥羽院歌壇で活躍。「新古今和歌集」「新勅撰和歌集」の撰者となり、「小倉百人一首」も撰した。

藤原家隆→藤原定家と双璧の後鳥羽院歌壇の二大歌人。後鳥羽院と定家間には、晩年大きな確執があったが、家隆は、終始、後鳥羽院側にあった。

藤原雅経→蹴鞠の名手で「飛鳥井流」の一派を開き鎌倉に招かれていたが、後鳥羽院の懇望により帰朝し、俊成門だが後鳥羽院側近の歌人。

源具親→「内大臣」源通親の継嗣。「御子左家」俊成卿女の夫であったが、後に離別し、後鳥羽院歌壇にあっては、父の「通親」の名代を引き継いでいる。

寂連→俊成の養子、定家誕生に際し家督を譲り出家。諸国を行脚、歌道に精進し、「御子左家」の中心的歌人として活躍した。

 以上(有家から寂連まで)が、『新古今和歌集』の撰者である。

源具親→後鳥羽院の秘蔵子の女流歌人「宮内卿」の兄。鎌倉幕府二代執権・北条義時の三男・北条重時の娘を妻としている後鳥羽院側近の歌人の一人。

 以下(「藤原隆信・鴨長明・藤原秀能・藤原清範」の追加寄人)は、本来は続けるべきであろうが、ここでは略し、以後、必要な個所で触れていきたい。

 そして、藤原家隆については、この「鹿下絵和歌巻」のゴール地点(最終箇所)で、「西行・俊成そして定家・家隆」のような関連で再度言及して行きたい。

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その十六)

その十六  藤原有家

鹿下絵七.JPG

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の八「藤原家隆・藤原有家」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(有家)」(個人蔵)

16 藤原有家:かぜ渡るあさぢがすゑの露にだにやどりもはてぬよゐのいなづま(個人蔵)
(釈文)摂政太政大臣家 百首哥合尓
    藤原有家朝臣
可勢渡る安左知可須ゑ濃露尓多に屋ど里も者天怒るよゐ濃い那徒満

(「藤原有家」周辺メモ)

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   摂政太政大臣家百首歌合に
風わたるあさぢがすゑの露にだにやどりもはてぬよひの稲妻(新古377)

【通釈】浅茅の生える荒野を、風が吹きわたる宵――稲妻が閃き、茅(ちがや)の葉末の露にその光を宿した……と思う間もなく、露はこぼれ落ちてしまうのだ。
【語釈】◇やどりもはてぬ 宿りおおせることができない。「やどり」は「よひ」と縁語になる。

藤原有家 久寿二~建保四(1155-1216)

 六条藤家従三位重家の子。母は中納言藤原家成女。清輔・顕昭・頼輔・季経らの甥。経家・顕家の弟。保季の兄。子には従五位下散位有季・僧公縁ら。
 仁安二年(1167)、初叙。承安二年(1172)、相模権守。治承二年(1178)、少納言。同三年、讃岐権守を兼ねる。同四年(1180)、有家と改名。元暦元年(1184)、少納言を辞し、従四位下に叙せられる。建久三年(1192)、従四位上。同七年、中務権大輔。正治元年(1199)、大輔を辞し、正四位下。建仁二年(1202)、大蔵卿。承元二年(1208)、従三位。建保三年(1215)二月、出家。法名、寂印。翌年の四月十一日、薨ず。
 文治二年(1186)の吉田経房主催の歌合、建久元年(1190)の花月百首、建久二年(1191)の若宮社歌合、建久四年(1193)頃の六百番歌合、建久九年(1198)の守覚法親王家五十首に出詠。後鳥羽院歌壇でも主要歌人の一人として遇され、建仁元年(1201)の新宮撰歌合・千五百番歌合、建仁二年(1202)の水無瀬恋十五首歌合、元久元年(1204)の春日社歌合、承元元年(1207)の最勝四天王院和歌などに出詠した。順徳天皇の建暦三年(1213)内裏歌合、建保二年(1214)の歌合などにも参加している。
 建仁元年(1201)、和歌所寄人となり、新古今集撰者となる。六条家の出身ながら御子左家(みこひだりけ)に親近した。

(六条藤家系図)

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(御子左家系図)

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「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十四)

 『新古今和歌集』の撰者(六名)の、入集歌数の多い順から見て行くと、「定家(四十六首)→家隆(四十三首)→寂蓮(三十五首)→雅経(二十二首)→有家(十九首)→通具(十七首)」の順となる。
 上記の「六条藤家系図」には、「有家(顕季→顕輔→重家→有家)」、「御子左家系図」には、「定家(俊成→定家)」が出てくる。寂蓮は俊成の養子で、上記の「御子左家系図」の定家の脇に記載されるべき歌人であろう。
 家隆は、俊成門で「御子左家」に近い歌人であるが、後鳥羽院歌壇にあっては御子左家=定家」と双璧をなす歌人と理解したい。同様に、雅経も俊成門の歌人というよりも、後鳥羽院の側近歌人で、「飛鳥井家」(蹴鞠と歌道)の祖と目されている歌人ということになろう。
 そして、通具は、時の左大臣(藤原=九条良経)と右大臣(近衛家実)とを束ねている最高実力者(土御門内大臣)源通親の継嗣(次男)で、定家が、「御子左家」総帥・藤原俊成(釈阿)の名代とすると、源通親の名代ということになろう。と同時に、道親の歌道の師は、六条(藤原)季経で、上記の「六条藤家系図」の「顕季」の子(有家の叔父)に当たり、「通親→通具」は「六条藤家」系の歌人ということになろう。
 ここで、「六条藤家」有家の、『新古今和歌集』の入集句の幾つかを挙げて置きたい。

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   土御門内大臣の家に、梅香留袖といふ事をよみ侍りけるに
ちりぬれば匂ひばかりを梅の花ありとや袖に春かぜの吹く(新古53)

【通釈】散ってしまったので、今はもう匂いが残っているばかりなのに。梅の花びらがまだここにあると思ってか、私の袖に春風が吹いてくる。
【語釈】◇梅香留袖 梅の香、袖に留まる。
【補記】飽くまでも梅の花を散らそうとする心を持っているかのように、春風を擬人化している。
【補記】建仁元年(1201)三月十六日、通親亭影供歌合。三番右負。

   千五百番歌合に
あさ日かげにほへる山の桜花つれなく消えぬ雪かとぞ見る(新古98)

【通釈】朝日があたり、まばゆく照り映えている、山の桜。それを私は、平然と消えずにいる雪かと思って見るのだ。
【語釈】◇つれなく消えぬ 形容詞「つれなし」の原義は「然るべき反応がない」。雪は陽に当たれば消えるのが当然なのに、平然と消えずにいる、ということ。
【補記】「千五百番歌合」巻三、二百二十一番左持。俊成の判詞は「『あさひかげ』とおき、『つれなくきえぬ』と見ゆらむ風情いとをかしく侍るべし」。

   摂政太政大臣家百首歌合に
風わたるあさぢがすゑの露にだにやどりもはてぬよひの稲妻(新古377)

【通釈】浅茅の生える荒野を、風が吹きわたる宵――稲妻が閃き、茅(ちがや)の葉末の露にその光を宿した……と思う間もなく、露はこぼれ落ちてしまうのだ。
【語釈】◇やどりもはてぬ 宿りおおせることができない。「やどり」は「よひ」と縁語になる。
【補記】「六百番歌合」秋上、十八番左勝。

   同じ家にて、所の名をさぐりて冬歌よませ侍りけるに、伏見の里の雪を
夢かよふ道さへたえぬ呉竹のふしみの里の雪の下をれ(新古673)

【通釈】雪によって道が閉ざされてしまったが、その上、夢の往き来する道さえ途絶えてしまった。伏見の里で寝る夜、竹が雪の重さで折れる音に、眠りを破られて。
【語釈】◇同じ家 新古今集の一つ前の歌の詞書にある「摂政太政大臣」の家を指す。藤原(九条)良経家。◇所の名をさぐりて 籖(くじ)などで地名(歌枕)を選んで。◇ふしみ 京都の伏見。「臥し見」を掛ける。◇呉竹の 竹の節(ふし)に掛けて伏見を導く枕詞。◇雪の下をれ 雪の重みで枝が根もとの方から折れること。

   摂政太政大臣家に百首歌合し侍りけるに
さらでだに恨みんと思ふわぎも子が衣のすそに秋風ぞ吹く(新古1305)

【通釈】そうでなくても恨み言を言いたいと思っているあの子の衣の裾に、秋風が吹いて、衣の裏を見せる。私にすっかり飽きて、「裏見よ」と言っているみたいに。
【語釈】◇恨みん 衣の縁語「裏見」を掛ける。◇秋風 秋に飽きを掛ける。
【補記】「六百番歌合」恋六、寄風恋。十八番左勝。

   水無瀬の恋十五首の歌合に
物思はでただおほかたの露にだにぬるればぬるる秋のたもとを(新古1314)

【通釈】物思いをしなくても、秋は露っぽい季節なのだから、濡れるというなら、ちょっとそこいらの露にだって濡れる秋の袂なのに。まして恋をしている私の袂ときたら…。涙よ、そんなに濡らさなくてもいいだろう。
【語釈】◇ただおほかたの 単に普通の。全くありふれた。
【補記】建仁二年(1202)九月十三日、「水無瀬恋十五首歌合」。題は秋恋。十四番右勝。

   千五百番歌合に
春の雨のあまねき御代をたのむかな霜にかれゆく草葉もらすな(新古1478)

【通釈】春の雨が大地をあまねく潤すように、余すところなく恵みをたまわる御代に、おすがりしております。どうか、霜に枯れてゆく草葉のような私も、見落とすことなくご慈悲を下さい。
【語釈】◇御代 天皇の治める世。この場合、具体的には後鳥羽上皇の治世を指す。
【補記】千五百番歌合、千四百三十六番左勝。

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その十七)

その十七  左衛門督通光

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「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の九「通光・慈円」・式子内親王)」(シアトル美術館蔵)

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(通光その一)」(シアトル美術館蔵)

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(通光その二・慈円)」(シアトル美術館蔵)

http://art.seattleartmuseum.org/objects/14261/poem-scroll-with-deer?ctx=947bccb0-1f22-40c6-acef-ab7c81a74c67&idx=1

17 左衛門督通光:むさし野や行共秋のはてぞなき如何成(いかなる)風の末に吹らむ(シアトル美術館蔵)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-18↓(再掲)

上記の絵図の和歌(「通光その一」と「通光その二」)は次の一首である。

378  左衛門督通光 みなせにて十首哥たてまつりし時
むさし野やゆけとも秋のはてそなきいかなる風かすゑにふくらん
(釈文)水無瀬尓天十首濃哥多天まつ利し時 右衛門督通光
 無左し野や行共秋能ハて曾那支 如何成風濃末尓吹ら舞

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/mititeru.html

  水無瀬にて、十首歌たてまつりし時
武蔵野やゆけども秋の果てぞなきいかなる風かすゑに吹くらむ(源通光「新古378」)

【通釈】武蔵野を行けども行けども、秋の景色は果てがなく、あわれ深さも果てがない。野末には、どんな風が吹いているのだろう。
【語釈】◇武蔵野 関東平野西部の台地。薄や萱の茂る広大な原野として詠まれる。◇秋の果てぞなき 武蔵野の果てしなさに掛けて、秋のあわれ深い情趣が尽きないことを言う。◇いかなる風か… 今、風は野を蕭条と吹いているが、まして野末に至れば、どれほど…。「末」には「秋の末」の意が響き、晩秋になれば、との心を読み取ることも可能か。下句秀逸。

源通光 文冶三~宝治二(1187-1248)

 内大臣土御門通親の三男。母は刑部卿藤原範兼女、従三位範子。通宗・通具の異母弟。承明門院在子(後鳥羽院妃)の同母異父弟。内大臣定通・大納言通方の同母兄。子に大納言通忠・同雅忠・式乾門院御匣ほかがいる。
 後鳥羽天皇の文治四年(1188)、叙爵。正治元年(1199)、禁色を聴される。右少将・中将などを経て、建仁元年(1201)、従三位に叙せられる。同二年には正三位・従二位と累進。同年末、父を亡くすが、その後も後鳥羽院政下で順調に昇進し、同四年四月、権中納言。土御門天皇の元久二年(1205)、正二位に昇り、中納言に転ず。建永二年(1207)二月、権大納言。   
 建保元年(1213)、娘を雅成親王に嫁がせる。順徳天皇の建保五年(1217)正月、右大将を兼ねる。同六年十月、大納言に転ず。同七年三月、内大臣に至る。しかし承久三年(1221)の承久の乱後、幕府の要求により閉居を命ぜられ、官を辞した。安貞二年(1228)三月、朝覲行幸の際に出仕を許され、後嵯峨院院政の寛元四年(1246)十二月二十四日、辞任した西園寺実氏に代り太政大臣に任ぜられた。同日、従一位。宝治二年(1248)正月十七日、病により上表して辞職、翌十八日、薨ず。六十二歳。
 建仁元年(1201)、十五歳の時歌壇に登場し、早熟の才を発揮した。同年の「千五百番歌合」では参加歌人中最年少。同年三月の「通親亭影供歌合」、同二年(1202)五月の「仙洞影供歌合」、同三年(1203)六月の「影供歌合」、元久元年(1204)の「春日社歌合」「元久詩歌合」、建永元年(1206)七月の「卿相侍臣歌合」、同二年の「賀茂別雷社歌合」「最勝四天王院和歌」などに出詠。順徳天皇の内裏歌壇でも活躍し、建保四年(1216)閏六月の「内裏百番歌合」、建保五年(1217)十一月の「冬題歌合」、承久元年(1219)七月の「内裏百番歌合」などに詠進。 
 建保五年(1217)八月には自邸に定家・慈円・家隆らを招き、歌合を催す(「右大将家歌合」)。承久の乱後は歌壇から遠ざかるも、後鳥羽院への忠義を失わず、嘉禎二年(1236)の遠島歌合に出詠した。宝治元年(1247)には、後嵯峨院の内裏歌合に出席、俊成卿女と詠を競った。
新古今集初出(十四首)。勅撰入集計四十九首。琵琶の名手でもあったという。

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十五)

 ここから「シアトル美術館蔵」の作品(断簡絵図)が続く。今回の和歌は、「源通光→慈円→式子内親王」のもので、源通光(左衛門督通光)の背後に、一匹の雄鹿が描かれている。この雄鹿は、通光のイメージで見立てることは自然の流れであろう。
 通光は、源通親(内大臣土御門通親)の三男。「通宗(長男・後嵯峨天皇の外祖父)・通具(次男・堀川家の祖)」は異母兄。「第八十二代後鳥羽天皇の妃・第八十三代土御門天皇の国母」の承明門院在子は同母姉。「土御門定通(土御門家の祖)・中院通方(中院家の祖)」は同母弟で、通光は「久我家」の祖とされている。曹洞宗の開祖で『正法眼蔵』の著者として名高い道元禅師は、この久我家の出身とされ、通親の子とも道具の子ともいわれている。
 これまでにも、通親・通具については、俊成卿女との関連などで、しばしば触れてきたが、この通親を父とする、その子の周辺というのは、平安時代の末期から鎌倉時代初期の全ての事象に、大きな影響を与え続けていたということを実感する。
 通親は、建仁二年(一二〇二)十月二十四日、五十四歳で「内大臣正二位兼行右近衛大将東宮傅」の現役のままに急死した。以後、後鳥羽上皇を諫止できる者はいなくなり、後鳥羽院政が本格的に始まったとされている。
 建久九年(一一九八)に通親の長男・通宗は三十一歳で夭逝しており、通親の正室(藤原範子・通光の母)の関係で、通親の次男・通具は、「村上源氏久我家分流堀川家」を継ぎ、この三男・通光が通親の嫡男(久我家)扱いとなっている。
 通光は、承久三年(一二二一)の承久の乱後、幕府の要求により閉居を命ぜられ、官を辞している。安貞二年(一二二八)三月、朝覲行幸の際に出仕を許され、後嵯峨院院政の寛元四年(一二四六)十二月二十四日、辞任した西園寺実氏に代り太政大臣に任ぜられている。
 なお、通光は、承久の乱後は歌壇から遠ざかっていたが、後鳥羽院への忠義を失わず、嘉禎二年(一二三六)の遠島歌合に出詠している。また、宝治元年(一二四七)には、後嵯峨院の内裏歌合に出席し、俊成卿女と詠を競い合っている(この時の「宝治歌合」は、下記の末尾の一首である)。

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   詩をつくらせて歌に合せ侍りしに、水郷春望といふことを
三島江や霜もまだひぬ蘆の葉につのぐむほどの春風ぞ吹く(新古25)

【通釈】三島江の、その汀に生える蘆の群――霜もまだ乾かない葉に、今朝はのどかな春風が吹き付ける、若芽がめぐむばかりに。
【語釈】◇三島江 摂津国の歌枕。現在の大阪府高槻市の淀川沿岸にあたる。蘆・菰・白菅などの繁る場所として詠まれることが多い。◇霜もまだひぬ 霜は融けたが、まだ乾いていない。◇つのぐむほどの 芽ぐむばかりの。「つのぐむ」は新芽が角のように出ること。
【補記】新古今の清新な叙景歌として評価の高い作。「霜もまだひぬ」「つのぐむほどの」という描写によって、春風に吹かれる水辺の蘆が官能性を帯びてさえ感じられる。元久二年(1205)、元久詩歌合に出詠された。

   最勝四天王院の障子に、清見が関かきたる所
清見がた月はつれなき天の門を待たでもしらむ波の上かな(新古259)
【通釈】清見潟の上空、有明の月は、夜が明けかけたことなど素知らぬふうに照っていて、天の扉が開くのを待たぬ内から、波の上は早くも白んでいるのだなあ。
【語釈】◇清見がた 駿河国の歌枕。静岡市清水区興津の海辺にあたる。「かた(潟)」は遠浅の海。富士山や三保の松原を望む景勝地。平安時代に関が設けられ、柵が海まで続いていた。「関屋どもあまたありて、海まで釘貫したり」(『更級日記』)。◇月はつれなき 「有明のつれなくみえし別れより…」(壬生忠岑『古今集』)を響かせる。◇天の門 日や月が出入りする天の門扉。これが開いて夜が明ける。
【補記】承元元年(1207)十一月の最勝四天王院障子和歌。清見が関を描いた障子絵に添える歌である。短夜を詠んでいるので新古今集夏部に入っている。

   和歌所歌合に、朝草花といふ事を
明けぬとて野べより山に入る鹿のあと吹きおくる萩の下風(新古351)

【通釈】夜が明けたというので、野辺から山へ帰り入ってゆく鹿――その後を慕うように、萩を靡かせて吹き送る風。
【語釈】◇山にいる鹿 山に帰り入る鹿。「鹿と云ふものは、夜になれば山より野に出でて、明くれば山に帰るなり」(増抄)。◇萩の下風 萩が風に靡くさまを、鹿を見送っていると見立てた。万葉集から萩は鹿の妻として詠まれている。「吾が岳にさ壮鹿来鳴く初萩の花妻問ひに来鳴くさ壮鹿」(大伴旅人『万葉集』)。
【補記】建永元年(1206)七月二十五日、卿相侍臣歌合。

   題しらず
龍田山よはにあらしの松吹けば雲にはうとき峰の月かげ(新古412)

【通釈】龍田山を、夜半、越えて行くと、嵐が峰の松に吹き付けて、雲は追い払われてゆく。そうして松の木の間にあらわれる月光――雲にとってはつれない仲というわけだ。
【語釈】◇龍田山 奈良県生駒郡三郷町の龍田神社背後の山。◇雲にはうとき 「月に親しく懸かりたる雲が、吹き退けられたる体也」(増抄)。峰の松と月影は親密になった一方、雲にとっては月影が疎遠な関係となった、ということ。
【補記】宣長は「三の句、まづは先也、松とかける本はひがごとぞ」とし、「いり方の月には、よく雲のかかるものなれども、いまだかたぶかざるさきに、夜はには先(まづ)あらしの吹きはらへる故に、雲にはうとしと也」と独自の解釈をしている。

   千五百番歌合に
さらにまた暮をたのめと明けにけり月はつれなき秋の夜の空(新古434)

【通釈】長いはずの秋の夜だが、月を見飽きないうちに明けてしまった。もっと見たいのなら、また日が暮れるのを待てとでも言うような月――つれないなあ。明るくなってゆく空に、平気な顔をしてまだ残っている。
【語釈】◇暮をたのめと 月を見たいなら暮を期待しろと。続く「明けにけり」の主語は末句「秋の夜の空」であるが、「たのめ」と促しているのは月であろう。

   河霧といふことを
あけぼのや川瀬の波のたかせ舟くだすか人の袖の秋霧(新古493)

【通釈】曙、川の浅瀬に波の音が高く聞こえ、秋霧の絶え間から人の袖がほの見える。船頭が高瀬舟を下してゆくのか。
【語釈】◇たかせ舟 高瀬(浅瀬)を越えやすいように、底を平に造った川舟。◇人の袖の秋霧 人の袖を垣間見せる秋霧。下記本歌を踏まえる。

   最勝四天王院の障子に、なるみの浦かきたるところ
浦人の日もゆふぐれになるみがたかへる袖より千鳥なくなり(新古650)

【通釈】鳴海の浦に住む海人が、一日も夕暮になり、入江を帰ってゆく。塩水に濡れた袖を、冬の夕風に翻(ひるがえ)らせて…。その陰から千鳥が鳴いて立つよ。
【語釈】◇日もゆふぐれに 「紐結ふ」を掛け、袖の縁語となる。「唐衣ひもゆふぐれになる時は返す返すぞ人はこひしき」(よみ人しらず『古今集』)。◇なるみがた 鳴海潟。今の名古屋市緑区あたりにあった入江。「潟」は遠浅の海。千鳥や鴫と共に詠まれ、潮の満ち干にも着目される。◇かへる袖より 「帰る」「翻(かへ)る」を掛けるか。「袖より…」には俊恵の「花すすきしげみが中を分けゆけば袂を越えて鶉鳴くなり」、または定家の「から衣すそののいほの旅枕袖よりしぎのたつ心ちする」の影響があるか。◇千鳥鳴くなり 千鳥は飛び立つ時に鳴くものとされた。なお「なり」は、音が聞こえることに、ある感慨を催している心をあらわす。

   千五百番歌合に
かぎりあればしのぶの山のふもとにも落葉がうへの露ぞ色づく(新古1095)

【通釈】耐えることにも限度があるので、「忍ぶ」という名の信夫(しのぶ)山の麓の木々だって、紅葉し、やがて葉を落とすことには抵抗できないのだ。そうして落葉の上には露が置き、紅く色づいている。そのように、人の心も堪え忍ぶことには限度があるから、思いを外に表わしてしまって、ついには涙の色も紅く染まるのだ。
【語釈】◇しのぶの山 陸奥国信夫郡の歌枕。いまの福島市内にある山。「忍ぶ」を掛ける。◇露ぞ色づく 落葉の上に落ちた露が、葉の色に染まる。紅涙(血涙)を暗示する。
【補記】「詞ごとに其意よくかなひて、露ばかりもいたづらなることのまじらぬ歌也、すべて歌は、かやうにいたづらなる詞をまじへず、一もじといへどもよしあるやうによむべきわざぞかし」(本居宣長『美濃の家づと』)。

   千五百番歌合に
ながめ侘びそれとはなしに物ぞ思ふ雲のはたての夕暮の空(新古1106)

【通釈】むら雲の彼方の夕空をじっと眺めていた――そのうち眺める気力も失せて、「天空の人を恋する」とかいうのでなく、これといった宛もなしに、暮れてゆく空の下、ぼんやり物思いに耽っているのだ。
【語釈】◇それとはなしに 「本歌のやうに、天つ空なる人をこふとにはあらでといふ意なり」(美濃の家づと)。「たれをたのむとはなけれども」(聞書)。◇雲のはたて 雲の果て。但し『新古今集聞書』には「村々立たる雲はたをひろげたるやうなりといふ事也」とあり、雲の旗手と解している。

   寄風懐旧
浅茅生や袖にくちにし秋の霜わすれぬ夢を吹く嵐かな(新古1564)

【通釈】荒れ果て、浅茅の茂る庭よ――私の袖には涙が秋の霜として置いているが、それも袖といっしょに朽ちてしまった。もはや、昔を忘れず思い出すのは夜寝て見る夢ばかりだが、茅屋を嵐が吹いて、眠りも破られてしまう。
【語釈】◇浅茅生(あさぢふ) 浅茅は丈の低いチガヤ。それが茂った荒れた庭を言い、茅屋を暗示する。◇秋の霜 秋になって霜に変じた涙。題から明瞭なように、懐旧の涙である。◇わすれぬ夢 昔を忘れぬ夢。現実は、すべてを忘却させるかのごとく荒れ果てているのである。

   社頭祝
八幡山さかゆく峰も越えはてて君をぞ祈る身 のうれしさに(宝治歌合)

【通釈】栄えゆく八幡様の山の頂もついに越えて、大君の長久をお祈りします。かかる御代に生を享け、ここまで永らえ得た我が身の幸に感謝しつつ。
【語釈】◇八幡(やはた)山 石清水八幡宮の鎮座する山。京都府八幡市。下記本歌の「をとこ山」と同じ。
【本歌】よみ人しらず「古今集」
今こそあれ我も昔はをとこ山さかゆく時も有りこしものを
  藤原家隆「新古今集」
大かたの秋の寝覚の長き夜も君をぞ祈る身を思ふとて
【補記】宝治元年(1247)九月、後嵯峨院主催の内裏歌合。「宝治二年歌合」とも。十題百三十番、二十六名参加の、当時としては大規模な歌合であった。六十一歳の通光は、七十歳を超えていた俊成卿女と左右を分けて対戦した。当時生き残っていた新古今歌人といえば、ほかに二、三の名を数えるばかりである。
上句は八幡に参詣する状を描くと共に、古今集の「我も昔はをとこ山」を想起させ、年の盛りを超え果てた我が身に対する感慨をこめる。下句では後鳥羽院を思いやった家隆の歌を懐かしく響かせつつ「我が身のうれしさに」と賀歌に相応しく晴ばれと結んで、深い感動を禁じ得ない。
 通光はこの歌合を歌人としての最後の晴舞台とし、翌年正月、病没した。

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その十八)

その十八 前大僧正慈円

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「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の九「通光・慈円」・式子内親王)」(シアトル美術館蔵)

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(通光その二・慈円その一)」(シアトル美術館蔵)

鹿下絵・シアトル三.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(慈円その二・式子内親王その一)」(シアトル美術館蔵)

18 前大僧正慈円:いつまでか涙曇らで月は見し秋まちえても秋ぞ恋しき
(釈文)百首乃哥た天まつ利し時月能哥
    前大僧正慈円
以つ満天加涙曇ら天月盤見し秋ま知え傳も秋曽恋し幾

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(「慈円」周辺メモ)

   百首歌奉りし時、月の歌
いつまでか涙くもらで月は見し秋待ちえても秋ぞ恋しき(新古379)

【通釈】涙に目がくもらないで月を見たのは、いつ頃までのことだったろう。待望の秋を迎えても、さやかな月が見られるはずの、ほんとうの秋が恋しいのだ。
【補記】秋はただでさえ感傷的になる季節であるが、そのうえ境遇の辛さを味わうようになって以来、涙で曇らずに秋の明月を眺めたことがない、ということ。正治二年(1200)、後鳥羽院後度百首。

慈円 久寿二~嘉禄一(1155~1225) 

 摂政関白藤原忠通の子。母は藤原仲光女、加賀局(忠通家女房)。覚忠・崇徳院后聖子・基実・基房・兼実・兼房らの弟。良経・後鳥羽院后任子らの叔父にあたる。
 二歳で母を、十歳で父を失う。永万元年(1165)、覚快法親王(鳥羽天皇の皇子)に入門し、道快を名のる。仁安二年(1167)、天台座主明雲を戒師として得度する。嘉応二年(1170)、一身阿闍梨に補せられ、兄兼実の推挙により法眼に叙せられる。以後、天台僧としての修行に専心し、安元二年(1176)には比叡山の無動寺で千日入堂を果す。摂関家の子息として法界での立身は約束された身であったが、当時紛争闘乱の場と化していた延暦寺に反発したためか、治承四年(1180)、隠遁籠居の望みを兄の兼実に述べ、結局兼実に説得されて思いとどまった。養和元年(1181)十一月、師覚快の入滅に遭う。この頃慈円と名を改めたという。
 寿永元年(1182)、全玄より伝法灌頂をうける。文治二年(1186)、平氏が滅亡し、源頼朝の支持のもと、兄兼実が摂政に就く。以後慈円は平等院執印・法成寺執印など、大寺の管理を委ねられた。同五年には、後白河院御悩により初めて宮中に召され、修法をおこなう。
 この頃から歌壇での活躍も目立ちはじめ、良経を後援して九条家歌壇の中心的歌人として多くの歌会・歌合に参加した。文治四年(1188)には西行勧進の「二見浦百首」に出詠。
 建久元年(1190)、姪の任子が後鳥羽天皇に入内。同三年(1192)、天台座主に就任し、同時に権僧正に叙せられ、ついで護持僧・法務に補せられる。同年、無動寺に大乗院を建立し、ここに勧学講を開く。同六年、上洛した源頼朝と会見、意気投合し、盛んに和歌の贈答をした(『拾玉集』にこの折の頼朝詠が残る)。しかし同七年(1196)十一月、兼実の失脚により座主などの職位を辞して籠居した。
 建久九年(1198)正月、譲位した後鳥羽天皇は院政を始め、建仁元年(1201)二月、慈円は再び座主に補せられた。この前後から、院主催の歌会や歌合に頻繁に出席するようになる。同年六月、千五百番歌合に出詠。七月には後鳥羽院の和歌所寄人となる。同二年(1202)七月、座主を辞し、同三年(1203)三月、大僧正に任ぜられたが、同年六月にはこの職も辞した。以後、「前大僧正」の称で呼ばれることになる。
 九条家に代わって政界を制覇した源通親は建仁二年(1202)に急死し、兼実の子良経が摂政となったが、四年後の建永元年(1206)、良経は頓死し、翌承元元年(1207)には兄兼実が死去した。以後、慈円は兼実・良経の子弟の後見役として、九条家を背負って立つことにもなる。
 この間、元久元年(1204)十二月に自坊白川坊に大懺法院を建立し、翌年、これを祇園東方の吉水坊に移す。建永元年(1206)には吉水坊に熾盛光堂(しじょうこうどう)を造営し、大熾盛光法を修す。また建仁二年の座主辞退の後、勧学講を青蓮院に移して再興するなど、天下泰平の祈祷をおこなうと共に、仏法興隆に努めた。
 建暦二年(1212)正月、後鳥羽院の懇請により三たび座主職に就く。翌三年には一旦この職を辞したが、同年十一月には四度目の座主に復帰。建保二年(1214)六月まで在任した。
 建保七年(1219)正月、鎌倉で将軍実朝が暗殺され、九条道家の子頼経が次期将軍として鎌倉に下向。しかし後鳥羽院は統幕計画を進め、公武の融和と九条家を中心とした摂政性を匡治的理想とした慈円との間に疎隔を生じた。院はついに承久三年(1221)五月、北条義時追討の宣旨を発し、挙兵。攻め上った幕府軍に敗れて、隠岐に配流された。
 慈円はこれ以前から病のため籠居していたが、貞応元年(1222)、青蓮院に熾盛光堂・大懺法院を再興し、将軍頼経のための祈祷をするなどした。その一方、四天王寺で後鳥羽院の帰洛を念願してもいる。嘉禄元年(1225)九月二十五日、近江国小島坊にて入寂。七十一歳。無動寺に葬られた。嘉禎三年(1237)、慈鎮和尚の諡号を賜わる。
 著書には歴史書『愚管抄』(承久二年頃の成立という)ほかがある。家集『拾玉集』(尊円親王ら編)、佚名の『無名和歌集』がある。千載集初出。勅撰入集二百六十九首。新古今集には九十二首を採られ、西行に次ぐ第二位の入集数。

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十六)

久寿二年(1155)慈円誕生。摂政関白藤原忠通の子。兼実・兼房らの弟。良経らの叔父。
保元元年(1156)保元の乱(「崇徳上皇・藤原頼長」対「後白河天皇・藤原忠通」の争い)
平治元年(1159)平治の乱(「後白河院政派・源義朝」対「二条親政派・平清盛」の争い)
永万元年 (1165) 慈円、覚快法親王(鳥羽天皇の皇子)に入門、道快を名のる。十歳。
仁安二年(1167)平清盛 太政大臣就任。武家政権成立。
治承四年(1180)源頼朝挙兵し、鎌倉に入る。
文治元年(1185)壇ノ浦合戦、平氏滅亡。慈円、三十歳。
建久三年(1192)頼朝、征夷大将軍。慈円、天台座主に就任する。三十七歳。
建久七年 (1196) 建久七年の政変(兼実の失脚。慈円天台座主などの職位を辞す。)
建仁元年 (1201) 慈円は再び天台座主に補せられる(後鳥羽院院政)。
元久二年(1205)『新古今和歌集』成る。慈円、五十歳(「和歌所」寄人)。
建暦二年(1212)鴨長明『方丈記』成る。慈円、三たび天台座主に就く。五十七歳。
承久二年(1220)慈円『愚管抄』成る。六十五歳。
承久三年(1221)承久の乱。後鳥羽上皇ら配流。六十六歳。
嘉禄元年 (1225) 慈円入寂。七十歳。

  慈円は、久寿二年(一一五五)に、藤原摂関家の一員として生まれる。父・藤原忠道は、三十七年間にわたり摂政関白をつとめ、十三人の兄弟のうち、兄四人は、摂政関白や太政大臣の地位につき、六人の兄弟は出家し、そして三人の姉妹は皆、三代の天皇の皇后になっている。天皇家を除けば、当代に並ぶもののない高貴な家系の出ということになる。
 上記の年譜のとおり、慈円は、十歳前後で出家し、源頼朝が、征夷大将軍になった、建久三年(一一九二)に、三十七歳前後の若さで、「天台座主」(天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する役職)となる。
 これらは、慈円が望んでのものというより、藤原摂関家の一員であるが故に、その政治と宗教の両面から地位を磐石なものにするための、外因的な要請に因るということに外ならない。慈円の天台座主に在ったのは、建久三年(一一九二)からが建保二年(一二一四)まで、実に四たびに亘って、就任と辞任とを繰り返している。
 歌人としての慈円が、兄の兼実、そして、その子・良経の九条歌壇に登場するのは、六歳年上の兄・兼実が摂政に就いた文治二年(一一八六)、三十一歳以降の頃からである。
 しかし、その私家集『拾玉集』(五巻本=五九一七首、七巻本=流布本=四六一三首)には、安元元年(一一七五)、二十一歳の頃(当時の号=通快)の作も収録されており、二十歳前後から、百首歌(「定数歌」の一首、個人又は数人で百首詠む)などの詠作に励んでいたのであろう。
 ここで、『新々百人一首(丸谷才一著)』で、「藤原忠通(良経の祖父)~藤原良経」までの歌を掲出して置きたい(配列番号=時代順番号)。

54 限りなくうれしと思ふことよりもおろかの恋ぞなほまさりける(忠通=兼実・慈円の父)
55 かざこしを夕越えくればほととぎす麓の雲のそこに鳴くなり(藤原清輔=六条藤家)
56 花すすき茂みがなかをわけゆかば袂をこえて鶉たつなり(俊恵=源俊頼の子、長明の師)
57 七夕のとわたる舟の梶の葉にいく秋かきつ露のたまづさ(俊成=御子左家、定家の父)
58 あらし吹く峯の木の葉にさそはれていづち浮かるる心なるらん(西行=俊成と双璧)
59 朝夕に花待つころは思ひ寝の夢のうちにぞ咲きはじめける(崇徳院=保元の乱時の上皇)
60 あふさかの関の杉むら霧こめて立ちども見えぬゆふかげの駒(侍賢門院堀河)
61 ますら男がさす幣(みてぐら)は苗代の水の水上まつるなるらん(源有房=俊恵歌壇)
62 舟出する比良のみなとのあさごほり棹にくだくる音のさやけさ(顕昭=六条藤家)
63 逢ふまでの思ひはことの数ならで別れぞ恋のはじめなりける(寂蓮、俊成の甥、養子)
64 なにはがた汀の蘆は霜がれてなだの捨舟あらはれにけり(二条院讃岐)
65 ゆく春のあかぬなごりを眺めてもなほ曙やおもがはりせぬ(藤原隆信=定家の異父兄)
66 ささなみや志賀の都は荒れ西にしを昔ながらの山桜かな(平忠度=清盛の末弟、俊成門)
67 難波江の春のなごりにたへぬかなあかぬ別れはいつもせしかど(祇寿=江口の妓・遊女)
68 桜咲くたかねに風やわたるらん雲たちさわぐ小初瀬の山(兼実=慈円の兄、良経の父)
69 山おろしに散るもみぢ葉つもるらん谷のかけひの音よわるなり(長明=『方丈記』作者)
70 旅の世にまた旅寝して草まくら夢のうちにも夢を見るかな(慈円=『愚管抄』の作者)
71 秋風に野原のすすき折り敷きて庵あり顔に月を見るかな(家隆=定家と双璧の歌人)
72 わが恋は知る人もなしせく床の泪もらすなつげの小枕(式子内親王=『新古』女流代表)
73 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ(定家=『百人一首』撰者)
74 昔たれかかる桜の花を植ゑて吉野を春の山となしけん(良経=『新古』「序」の起草者)

 それにしても、「忠通→兼実→慈円→良経」の揃い踏みは圧巻である。

(再掲)

54 限りなくうれしと思ふことよりもおろかの恋ぞなほまさりける(忠通=兼実・慈円の父)
68 桜咲くたかねに風やわたるらん雲たちさわぐ小初瀬の山(兼実=慈円の兄、良経の父)
70 旅の世にまた旅寝して草まくら夢のうちにも夢を見るかな(慈円=『愚管抄』の作者)
74 昔たれかかる桜の花を植ゑて吉野を春の山となしけん(良経=『新古』「序」の起草者)

 ここで、慈円と同年齢(共に久寿二年=一一五五の生れ)の鴨長明の『方丈記』と『愚管抄』とを紹介して置きたい。また、上記の主要な歌人などと「慈円・長明」との年齢の開きも付記して置きたい。

https://nenpyou-mania.com/n/jinbutsu/11260/慈円

「藤原忠通」   →五十八歳年上
「藤原俊成」   →四十一歳年上
「西行・平清盛」 →三十七歳年上
「崇徳天皇」   →三十五歳年上
「後白河天皇」  →二十七歳年上
「藤原隆信」    →十三歳年上
「藤原(九条)兼実」 →六歳年上
「藤原家隆」     →二歳年下
「藤原定家」     →六歳年下 
「藤原(九条)良経」→十三歳年下
「後鳥羽天皇」  →二十五歳年下

『愚管抄』(出典:小学館:日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ))

 1219年(承久1)、前天台座主(ざす)大僧正慈円(じえん)(慈鎮(じちん)和尚)が著した歴史書。『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』(北畠親房(きたばたけちかふさ)著)、『読史余論(とくしよろん)』(新井白石(あらいはくせき)著)とともに、わが国の三大史論書といわれている名著である。7巻からなり、巻1~2に「漢家年代」「皇帝年代記」を置き、巻3~6で保元(ほうげん)の乱(1156)以後に重きを置いた神武(じんむ)天皇以来の政治史を説き、付録の巻7では、日本の政治史を概観して、今後の日本がとるべき政治形体と当面の政策を論じている。
 すなわち、慈円は、一方では武士の出現によって宮廷貴族の間に生まれた「近代末世の意識」を「仏教の終末論の思想」によって形而上(けいじじょう)学的に根拠づけ、一方では藤原氏の伝統的な「摂関家意識」を「祖神(天照大神(あまてらすおおみかみ)・八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と天児屋命(あめのこやねのみこと))の冥助(みょうじょ)・冥約の思想」によって形而上学的に根拠づけ、この両方の思想群を結合して彼の史論を構築した。
 その際、彼がこれら2組、四つの思想史的要素の接合剤としたのは、理想を現実にあわせて変化させるという、伝教(でんぎょう)大師最澄(さいちょう)以来比叡山(ひえいざん)の思想的伝統となって深化してきた「時処機(ときところひと)相応の思想」であった。こうした思想をよりどころとして、いまは摂関家と武家を一つにした摂録(せつろく)将軍制が、末代の道理として必然的に実現されるべき時であると論じ、後鳥羽院(ごとばいん)とその近臣による摂関家排斥の政策と幕府討伐の計画は歴史の必然、祖神の冥慮(みょうりょ)に背くものと非難した。
 彼は承久(じょうきゅう)の乱(1221)ののちもこの考えを捨てず、この書の皇帝年代記に筆を加え続けているのである。[石田一良]
『岡見正雄・赤松俊秀校注『日本古典文学大系86 愚管抄』(1967・岩波書店) ▽Delmer M. Brown and Ichiro Ishida The Future and the Past;a translation and study of the Gukansho (1979, Univ. of Calif. Press) ▽石田一良「『愚管抄』の成立とその思想」(『東北大学文学部研究年報』17所収・1966)』

『方丈記』(出典:小学館:日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ))

 鎌倉初期の随筆。一巻。鴨長明(かものちょうめい)作。1212年(建暦2)3月成立。書名は長明が晩年に居住した日野の方丈(一丈四方、すなわち約3.3メートル四方)の草庵(そうあん)にちなんだもの。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という無常観を表白する流麗な文章に始まり、五つの大きな災厄がまず記述される。京都の3分の1を焼き尽くした安元(あんげん)3年(1177)の大火、治承(じしょう)4年(1180)の旋風、同年、平清盛(きよもり)によって突如強行された福原(現在の神戸市付近)への遷都、養和(ようわ)年間(1181~82)の大飢饉(ききん)、元暦(げんりゃく)2年(1185)の大地震と打ち続く大きな災厄の前にあえなく崩壊していく平安京の光景が迫力ある筆致で描かれる。
 そして「すべて世の中のありにくく、我が身と栖(すみか)とのはかなくあだなるさま、またかくのごとし」と、この世の無常と、人の命のはかなさが強い語調で結論づけられる。続いて長明に訪れた「折り折りのたがひめ(不遇)」のため、50歳ころ出家、60歳に及び日野に方丈の庵(いおり)を構えるに至った経過が述べられる。庵の周辺は仏道の修養、管絃(かんげん)の修練には好適の地で、そこは長明に世俗の煩わしさから解放された安息を初めて与えた地であり、「仮の庵(いほり)のみのどけくしておそれなし」と賞揚される。しかし、末尾に至り、閑寂な草庵に執着する自らを突然否定し、「不請(ふしゃう)の阿弥陀仏(あみだぶつ)(人に請(こ)われなくとも救済の手を差し伸べてくれる阿弥陀仏の御名の意か)」を唱えて終わる。
 前半でこの世の無常を認識し、後半において草庵の閑居を賞美、かつ末尾ではそれらを否定するという一編の構成はきわめて緊密である。漢文訓読調を混ぜた和漢混交文は力強く、論旨を明快なものとしている。とりわけ五大災厄の描写は緊張した文体で、的確、リアルできわめて印象的である。慶滋保胤(よししげのやすたね)の『池亭記(ちていき)』(982成立)などを倣ったものと考えられるが、『平家物語』(13世紀後半成立か)をはじめ、後の中世文学に大きな影響を与えており、『徒然草(つれづれぐさ)』(1331ころ成立か)と並んで、中世の隠者文学の代表である。大福光寺本は鴨長明の自筆かといわれる写本で、その価値は高い。
 五大災厄の部分を欠く「略本方丈記」といわれるものもあり、長明の自作とも後人の偽作ともいわれ、定説をみない。[浅見和彦]
『簗瀬一雄著『方丈記全注釈』(1971・角川書店) ▽三木紀人著『鑑賞日本の古典10 方丈記・徒然草』(1980・尚学図書) ▽三木紀人・宮次男・益田宗編『図説日本の古典10 方丈記・徒然草』(1980・集英社)』

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その十九)

その十九 式子内親王

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(慈円その二・式子内親王その一)」(シアトル美術館蔵)

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(式子内親王その二)」(シアトル美術館蔵)

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「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の十「式子内親王その二・円融院その一」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

19 式子内親王:ながめわびぬ秋より外の宿もがな野にも山にも月やすむらむ
(釈文)な可め王日怒秋よ利外濃宿も可那野尓も山尓も月や須むら無

(「式子内親王」周辺メモ)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syokusi.html#AT

   百首歌たてまつりし時、月の歌
ながめわびぬ秋よりほかの宿もがな野にも山にも月やすむらん(新古380)

【通釈】つくづく眺め疲れてしまった。季節が秋でない宿はないものか。野にも山にも月は澄んでいて、どこへも遁れようはないのだろうか。
【語釈】◇ながめわびぬ 「ながむ」はじっとひとところを見たまま物思いに耽ること。「わぶ」は動詞に付いて「~するのに耐えられなくなる」「~する気力を失う」といった意味になる。◇月やすむらん 月は澄んでいるのだろうか。秋は月の光がことさら明澄になるとされた。「すむ」は「住む」と掛詞になり、「宿」の縁語。

式子内親王 久安五~建仁一(1149~1201)

 後白河天皇の皇女。母は藤原季成のむすめ成子(しげこ)。亮子内親王(殷富門院)は同母姉、守覚法親王・以仁王は同母弟。高倉天皇は異母兄。生涯独身を通した。
 平治元年(1159)、賀茂斎院に卜定され、賀茂神社に奉仕。嘉応元年(1169)、病のため退下(『兵範記』断簡によれば、この時二十一歳)。治承元年(1177)、母が死去。同四年には弟の以仁王が平氏打倒の兵を挙げて敗死した。元暦二年(1185)、准三后の宣下を受ける。建久元年(1190)頃、出家。法名は承如法。同三年(1192)、父後白河院崩御。この後、橘兼仲の妻の妖言事件に捲き込まれ、一時は洛外追放を受けるが、その後処分は沙汰やみになった。
 建久七年(1196)、失脚した九条兼実より明け渡された大炊殿に移る。正治二年(1200)、春宮守成親王(のちの順徳天皇)を猶子に迎える話が持ち上がったが、この頃すでに病に冒されており、翌年正月二十五日、薨去した。五十三歳。
 藤原俊成を和歌の師とし、俊成の歌論書『古来風躰抄』は内親王に捧げられたものという。その息子定家とも親しく、養和元年(1181)以後、たびたび御所に出入りさせている。正治二年(1200)の後鳥羽院主催初度百首の作者となったが、それ以外に歌会・歌合などの歌壇的活動は見られない。他撰の家集『式子内親王集』があり、三種の百首歌を伝える(日本古典文学大系八〇・私家集大成三・新編国歌大観四・和歌文学大系二三・私家集全釈叢書二八などに所収)。千載集初出。勅撰入集百五十七首

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十七)

 式子内親王 については、下記のアドレスなどでしばしば触れてきた。

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(その一)後鳥羽院と式子内親王
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-23

狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」その一 後鳥羽院と式子内親王
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-09

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その七) 式子内親王

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-05-14

 ここで、前回の「慈円の年譜」(『岩波新書308源頼朝(永原慶二著)などを参考))に、上記の「周辺メモ」の「式子内親王」に関する事項を付記すると次のとおりである(以下の※印)。
 この二人は、式子内親王が六歳程度年長であるが、同時代を生き、式子内親王は賀茂の斎院、慈円は天台座主と俗世と離れた環境を余儀なくされたということで、共通項を同じくする。
 そして、何よりも、歌人として、後鳥羽院が実質的に編んだ『新古今和歌集』の入集数で、慈円は、西行(九十四首)に次いでの第二位(九十二首)、そして、式子内親王は、「西行(九十四首)→慈円(九十二首)→良経(九十二首)→俊成(七十二首)」に次いで第五位(四十九首)で、この二人が、当時の後鳥羽院歌壇の両翼ということになる。
 因みに、その式子内親王に次いで、「定家(四十六首)→家隆(四十六首)→寂蓮(三十五首)→後鳥羽院(三十四首)→俊成女(二十九首)」で、『新古今和歌集』のベストテンの十人の歌人というのは、「西行→慈円→良経→俊成→式子内親王→定家→家隆→寂蓮→後鳥羽院→俊成女」ということになる。

(「慈円と式子内親王」関連年譜」)

久安五年(1149)※式子内親王誕生。後白河天皇の第三皇女。
久寿二年(1155)慈円誕生。摂政関白藤原忠通の子。兼実・兼房らの弟。良経らの叔父。
保元元年(1156)保元の乱(「崇徳上皇・藤原頼長」対「後白河天皇・藤原忠通」の争い)
平治元年(1159)平治の乱(「後白河院政派・源義朝」対「二条親政派・平清盛」の争い)
        ※ 式子内親王、内親王宣下を受け斎院に卜定、賀茂神社に奉仕。 
永万元年 (1165) 慈円、覚快法親王(鳥羽天皇の皇子)に入門、道快を名のる。十歳。
仁安二年(1167)平清盛 太政大臣就任。武家政権成立。
嘉応元年 (1169) ※式子内親王、病のため斎院を退下。        
治承四年(1180)源頼朝挙兵。※以仁王(式子内親王同母弟)敗死(平家追討)。
文治元年(1185)壇ノ浦合戦、平氏滅亡。慈円、三十歳。
建久三年(1192)頼朝、征夷大将軍。慈円、天台座主に就任する。三十七歳。
建久七年 (1196) 建久七年の政変(兼実の失脚。慈円天台座主などの職位を辞す。)
建仁元年 (1201) 慈円は再び天台座主に補せられる(後鳥羽院院政)。※式子内親王薨去。 
元久二年(1205)『新古今和歌集』成る。慈円、五十歳(「和歌所」寄人)。
建暦二年(1212)鴨長明『方丈記』成る。慈円、三たび天台座主に就く。五十七歳。
承久二年(1220)慈円『愚管抄』成る。六十五歳。
承久三年(1221)承久の乱。後鳥羽上皇ら配流。六十六歳。
嘉禄元年 (1225) 慈円入寂。七十歳。

『小倉百人一首』(藤原定家撰)と『新々百人一首』(丸谷才一撰)の二首(式子内親王)

玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることのよわりもぞする(『小倉百人一首89』 『新古今集』恋一・1034)

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   百首歌の中に、忍恋を(三首)
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする(新古1034)

【通釈】私の玉の緒よ、切れてしまうなら切れてしまえ。もし持続すれば、堪え忍ぶ力が弱ってしまうのだ。
【語釈】◇玉の緒 魂と身体を結び付けていると考えられた緒。命そのものを指して言うこともある。◇絶えなば絶えね 絶えてしまうなら絶えてしまえ。「な」「ね」は、完了の助動詞「ぬ」のそれぞれ未然形・命令形。
【補記】『式子内親王集』には補遺の部(「雖入勅撰不見家集歌」)に載せ、元来式子の家集には無かった作。制作年、制作事情などは不詳である。
【他出】定家十体(有心様)、定家八代抄、別本八代集秀逸(家隆撰)、自讃歌、百人一首、新三十六人撰、歌林良材
【参考歌】作者未詳「万葉集」
息の緒に思へば苦し玉の緒の絶えて乱れな知らば知るとも
(『古今和歌六帖』には第四句「絶えて乱るな」として載る)
  曾禰好忠『好忠集』
乱れつつ絶えなば悲し冬の夜をわがひとりぬる玉の緒よわみ

わが恋は知る人もなしせく床の泪もらすなつげの小枕(『新々百人一首72』『新古今集』恋一・1036)

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わが恋はしる人もなしせく床の涙もらすなつげのを枕(新古1036)

【通釈】私の恋心は知る人とてない。堰き止めている床の涙を洩らすな、黄楊(つげ)の枕よ。
【語釈】◇つげのを枕 黄楊で作った木枕。枕は人の心を知るものとされたが、黄楊の木で作ったものはことに霊力が強いとされたらしい。万葉集巻十一に「夕されば床の辺去らぬ黄楊枕なにしか汝が主待ちかたき」と、やはり黄楊の枕に対し呼びかけた歌がある。なお、「つげ」を「告げ」の掛詞と見れば、その名を忌んでいることになろう。
【他出】正治初度百首、定家八代抄、六華集
【本歌】平貞文「古今集」
枕よりまた知る人もなき恋を涙せきあへずもらしつるかな

式子内親王の『新古今和歌集』入集歌など

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   百首歌たてまつりし時、はるの歌
山ふかみ春ともしらぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水(新古3)
【通釈】山が深いので春が来たとも知らない我が庵の松の戸――その戸に、途絶えがちに滴りかかる雪の雫よ。
【語釈】◇松の戸 松の木で作った板戸、または松の枝を編んだ枝折戸。いずれにしても山家の粗末な戸である。「松」には「待つ」が掛かる。◇たえだえかかる 間隔を置いて掛かる。どこから落ちてくるとも言っていないが、それゆえにかえって「雪の玉水」のイメージは鮮烈である。◇雪の玉水 雪が融けてできた雫。掲出歌以前の用例は見えず、おそらく式子内親王創意の語であろう。
【補記】正治二年(1200)、すなわち内親王薨去前年、後鳥羽院に詠進した百首歌「正治初度百首歌」。

   百首歌たてまつりしに、春歌
ながめつるけふは昔になりぬとも軒端の梅はわれを忘るな(新古52)
【通釈】眺め入った今日は過去になるとしても、軒端の梅は私を忘れずにいておくれ。

   百首歌たてまつりしに
いま桜さきぬと見えてうすぐもり春にかすめる世のけしきかな(新古83)
【通釈】まさに今桜が咲いたと見えて、空はうっすらと曇り、春らしく霞んでいる世のありさまであるよ。

   百首歌に
はかなくてすぎにし方をかぞふれば花に物おもふ春ぞへにける(新古101)
【通釈】とりとめもなく過ぎてしまった年月を数えれば、桜の花を眺めながら物思いに耽る春ばかりを送ってしまった。

   家の八重桜を折らせて、惟明親王のもとにつかはしける
やへにほふ軒ばの桜うつろひぬ風よりさきにとふ人もがな(新古137)
【通釈】幾重にも美しく咲き匂っていた軒端の八重桜は、盛りの時を過ぎてしまった。風より先に訪れてくれる人がいてほしい。
【語釈】◇家の八重桜 この「家」は、式子内親王が晩年住んだ大炊御門(おおいみかど)の邸。
【補記】惟明親王は高倉天皇の皇子で式子の甥にあたる。親王の返歌は「つらきかなうつろふまでに八重桜とへともいはですぐる心は」。因みに続後撰集には同じく大炊殿の八重桜を巡って式子内親王と九条良経とが贈答した歌を載せる(「ふるさとの春を忘れぬ八重桜これや見し世にかはらざるらむ」「八重桜をりしる人のなかりせば見し世の春にいかで逢はまし」)。

花は散りてその色となくながむればむなしき空に春雨ぞふる〔新古149〕
【通釈】花は散り果てて、これというあてもなく眺めていると、空虚な空にただ春雨が降っている。

   斎院に侍りける時、神館(かんだち)にて
忘れめや葵を草に引きむすびかりねの野べの露のあけぼの(新古182)
【通釈】忘れなどしようか。葵の葉を草枕として引き結び、旅寝した野辺の一夜が明けて、露の置いたあの曙の景色を。

   百首歌たてまつりし時、夏歌
かへりこぬ昔を今と思ひ寝の夢の枕ににほふ橘(新古240)
【通釈】再び戻って来ない昔を、今のことのように思いながら寝入ると、うつらうつら夢見る枕もとに匂ってくる、橘の花の香よ。

   百首歌たてまつりしに
声はして雲路にむせぶほととぎす涙やそそく宵のむら雨(新古215)
【通釈】声は聞こえるものの姿は見えず、雲の中でむせぶように泣く時鳥よ。その涙がそそぐのか、今宵の驟雨は。

   百首歌の中に
夕立の雲もとまらぬ夏の日のかたぶく山にひぐらしの声(新古268)
【通釈】夕立を降らせた雲ももう留まっていないこの山――暑かった夏の日が傾いたこの山で、いま蜩の声が響く。

   百首の歌たてまつりし時
窓ちかき竹の葉すさぶ風の音にいとどみじかきうたたねの夢(新古256)
【通釈】窓近くの竹の葉に吹きすさぶ風の音のために、ますます短く醒めてしまった転た寝の夢よ。

   百首歌に
うたたねの朝けの袖にかはるなりならす扇の秋の初風(新古308)
【通釈】転た寝した明け方の袖に、変わったと感じる。なれ親しんだ扇の風が、今年最初の秋風に――。

   百首歌の中に
ながむれば衣手すずしひさかたの天の河原の秋の夕暮(新古321)
【通釈】じっと眺めていると、自分の袖も涼しく感じられる。川風が吹く、天の川の川原の秋の夕暮よ。

それながら昔にもあらぬ月影にいとどながめをしづのをだまき〔新古367〕
【通釈】それはそれ、月は同じ月であるのに、やはり昔とは異なる月影――その光に、いよいよ物思いに耽って眺め入ってしまった、繰り返し飽きもせず。

   百首歌たてまつりし時、月の歌
ながめわびぬ秋よりほかの宿もがな野にも山にも月やすむらん(新古380)
【通釈】つくづく眺め疲れてしまった。季節が秋でない宿はないものか。野にも山にも月は澄んでいて、どこへも遁れようはないのだろうか。

   題しらず
更くるまで眺むればこそ悲しけれ思ひも入れじ秋の夜の月(新古417)
【通釈】夜が更けるまで眺めていたからこそ悲しいのだ。もう深く心にかけることはすまい、秋の夜の月よ。

   百首歌たてまつりし秋歌に
秋の色は籬にうとくなりゆけど手枕なるる閨の月かげ(新古432)
【通釈】色々に咲いていた垣根の草花はうつろい、秋の趣は疎くなってゆくけれど、反対に、私の手枕に馴れてくる閨の月光よ。

   百首歌の中に
跡もなき庭の浅茅にむすぼほれ露の底なる松虫のこゑ(新古474)
【通釈】人の通った跡もなく生い茂る庭の浅茅――その草葉にぎっしりと絡みつかれ、露の底から聞こえてくる、人を待つような松虫の声よ。

   擣衣の心を
千たび擣(う)つきぬたの音に夢さめて物おもふ袖の露ぞくだくる(新古484)
【通釈】果てしなく擣つ砧の音に夢から醒めて、悲しい物思いに耽る私の涙が落ち、袖に砕け散る。

   百首歌たてまつりし時
更けにけり山の端ちかく月さえて十市(とをち)の里に衣うつこゑ(新古485)
【通釈】夜は更けてしまった。山の稜線近くにある月の光は冴え冴えとして、十市の里に衣を打つ音が聞こえる。

   百首歌たてまつりし秋歌
桐の葉もふみわけがたくなりにけり必ず人を待つとなけれど(新古534)
【通釈】桐の落葉も踏み分け難いほど積もってしまったなあ。必ずしも人を待つというわけではないけれど。

   題しらず
風さむみ木の葉はれゆく夜な夜なにのこるくまなき庭の月かげ(新古605)
【通釈】風が寒々と吹き、そのたびに木の葉が散ってゆく夜々を経て、もはや残る隈(くま)無く照らす庭の月光よ。

   百首歌の中に
見るままに冬は来にけり鴨のゐる入江のみぎはうす氷りつつ(新古638)
【通釈】見ている間に、もう冬は来ていたのだなあ。鴨の浮かんでいる入江の波打際が薄く氷りながら。

   百首歌に
さむしろの夜半の衣手さえさえて初雪しろし岡の辺の松(新古662)
【通釈】寝床の上の夜の袖が冷え冷えとしていたが、今朝見れば初雪が白く積もっているよ、岡のほとりの松は。

   百首歌たてまつりしに
日かずふる雪げにまさる炭竈の煙もさびし大原の里(新古690)
【通釈】何日も続く雪模様で炭竈の煙が多くなるのも寂しげである。大原の里よ。

(「賀歌・哀傷歌・離別歌・羇旅歌・雑歌・神祇歌・釈教歌」→省略 )

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その二十)

その二十 円融院御歌

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「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の十「式子内親王その二・円融院その一」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(円融院その二)」(シアトル美術館蔵)

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(円融院その三)」(シアトル美術館蔵)

20 円融院御歌:月影は初秋風と更行(ふけゆけ)ば心づくしに物をこそおも
(釈文)題しらず
    円融院御哥
月影盤初秋風登更行登心徒久し尓物をこ曽おもへ

(「円融院」周辺メモ)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/enyuu.html

    題しらず
月かげの初秋風とふけゆけば心づくしに物をこそ思へ(新古今381)

【通釈】夜が更け、初秋の風が吹きつのると共に月の光が一層明るくなってゆくと、心魂が尽きるほどに物思いをするのだ。
【語釈】◇月かげの 月の光が。◇初秋風と 初秋の風とともに ◇ふけゆけば 深くなってゆくと。月光がいっそう明るくなり、秋風が涼しさを増すことを言う。「夜が更け行けば」の意も重なる。
【本歌】よみ人しらず「古今集」
木の間よりもりくる月の影見れば心づくしの秋は来にけり

円融院  天徳三~正暦二(959-991)

村上天皇の第五皇子。母は藤原安子(師輔女)。一条天皇の父。
康保四年(967)五月、父帝が崩じ、同母兄憲平親王即位(冷泉天皇)ののち、皇太弟に立てられた。安和二年(969)八月、冷泉天皇の譲位を受け、十一歳で即位。天延元年(973)七月、藤原兼通の娘を皇后とする。貞元元年(976)五月、内裏が焼亡したため、同年七月、堀河院(顕徹大)に映る。翌年新造なった内裏に戻るが、天元水戸市(980)十一月、再び火
災に相、翌年、藤原頼忠の四条坊門大宮第(四条後院)に移った。
同年中に内裏は新造されたが、翌天元五年には三たび焼亡した。永観二年(984)八月、師貞親王(花山天皇。冷泉天皇皇子)に譲位。寛和元年(985)二月、紫野に子の日の遊びをし、平兼盛・清原元輔・源重之ら歌人を召して歌を奉らせた。この時、召しのないまま推参した曾禰好忠が追い立てられた話は名高い。同年八月出家し、以後円融院に住む。正暦二年二月十二日、崩御。三十三歳。 
『円融院御集』がある。拾遺集初出。勅撰入集二十四首

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十八)

 ここから、絵図としては後半の部となる。和歌は、「円融院→三条院→堀河院」と、天皇の御製歌が続く。その時代(御製歌)も、下記のとおり『千載集』そして『新古今和歌集』時代の前の時代ということになる。

安和(968~970) 円融天皇(「後撰集・拾遺集」時代)
寛弘(1004~1013)三条天皇(「後拾遺集」時代)
応徳 (1084~1087) 堀河天皇(「金葉集・詞花集」時代)

 歴代の天皇というのは、皆、和歌を詠み、天皇の歌は「御製(ぎょせい)」、皇后は「御歌(みうた)」と特別な用例扱いとなっている。上記の三人の天皇の、『新古今和歌集』の入集数は、円融院=七首、三条院=二首、堀河院=一首だが、三条院は、「小倉百人一首68」、堀河院は、「堀河院艶書合」「堀河百首」などで夙に知られている。
 ここでは、円融院の『新古今和歌集』入集歌(七句、上記に一句、下記に六句)を掲出して置きたい(以下の「歌意」などは、『日本古典文学全集26』を参考にしている)。

    題知らず
置き添える露やいかなる露ならん今は消えねと思ふわが身は(新古今1173)
(歌意:置きくわわる涙の露は、どういう露なのであろうか。今は消えてしまえと思っているわが身であるのに。)

    御返し
ひきかへて野べのけしきは見えしかど昔を恋ふる松はなかりき(新古今1438)
(歌意:野べのようすは、昔と変わって見えたけれど、昔を恋い慕うようすの松はなかった。)

    御返し
紫の雲にもあらで春霞たなびく山のかひはなにぞも(新古今1447)
(歌意:紫の雲でなくて、春霞がたなびく山の狭、なんの住みがいがあろう。 )
(補記:「紫の雲」は天人などの乗るめでたい雲。皇后の異称である「紫の雲」をかけている。「かひ」=「狭(かひ)」に「甲斐(かひ)」を掛けている。「狭(かひ)というのは何なのか」に「何の甲斐があろうか」を掛けている。)

   堀河院におはしましけるころ、閑院の左大臣家の桜を折らせに
   遣わすとて
垣根ごしに見るあだ人の家桜花散るばかりゆきて折らばや(新古今1450)
(歌意:垣根ごしに見る、実のない人の家の桜は、花も散るほどに、行って、折りたいものだ。)
(補記:「堀河院」=京都(中央区)の二条南・堀河東にあった藤原兼通邸。「閑院の左大将の家」=藤原兼通の子、左近衛府長官・藤原朝光邸。「あだ人」=うわき者・実のない人、桜を折ってよこすことをしなっかたので、戯れに呼ばれている。 )

   御返し
九重にあらで八重咲く山吹のいはぬ色をば知る人もなし(新古1479)
(歌意:九重ではなくて、また宮中でもなくて、八重に咲いている山吹の、くちなし色を知っている人もない。 )
(補記:山吹のくちなし色で、ご意志でないご退位のご苦悩を巧みにほのめかしていられる。)

   御返し
昔より絶えせぬ川の末なれば淀むばかりをなに嘆くらん(新古1647)
(歌意:)昔から絶えないで栄えている家筋の末であるのだから、ちょつと停滞したというだけであるのに、どうして嘆いているのであろうか。 )

 上記の『新古今和歌集』入集歌(七句)のうち四首が「御返し」(返歌)で、その「贈歌」も全て、その四首の前に入集されている。

    円融院位去り給ひて後、船岡に子日し給ひけるに
    給ひて、朝に奉りける
あはれなり昔の人を思ふには昨日の野べに御幸(みゆき)せましや(新古1437)
             一条左大臣(源雅信)
   御返し
ひきかへて野べのけしきは見えしかど昔を恋ふる松はなかりき(新古今1438)

   東三条院、女御におはしける時、円融院つねに渡り給いひけるを
   聞き侍りて、ゆげの命婦のもとに遣はしける
春霞たなびきわたる折にこそかかる山べはかひもありけれ(新古1446)
                   東三条入道前摂政太政大臣(藤原兼家)
   御返し
紫の雲にもあらで春霞たなびく山のかひはなにぞも(新古今1447)

  円融院、位去り給ひて後、実方朝臣、小馬命婦と物語し侍るける
   所に、山吹の花を屏風の上より投げこし給ひて侍りければ
八重ながら色も変らぬ山吹のなど九重に咲かずなりにし(新古1478)
                          実方朝臣(藤原実方)
   御返し
九重にあらで八重咲く山吹のいはぬ色をば知る人もなし(新古1479)

   冬ころ、大将離れて嘆くこと侍りける、明る年、右大臣になりて
   奏し侍りける
かかる瀬もありけるものを宇治川の絶えぬばかりも嘆きけるかな(新古1646)
                   東三条入道前摂政太政大臣(藤原兼家)
   御返し
昔より絶えせぬ川の末なれば淀むばかりをなに嘆くらん(新古1647)

 これらの「贈答歌」(二人、多くは男女が意中を述べ合ってやりとりする歌)は、「相聞歌・恋歌」(男女間で詠みかわされる恋の歌)を内容とするものが多いのだが、この円融院の「贈答歌」は、当時の「天皇と近臣者との述懐的な贈答歌」である同時に、当時の「天皇家と藤原摂関家との葛藤を背景としての贈答歌」のようにも解せられる。
 例えば、東三条入道前摂政太政大臣(藤原兼家)の返歌の「紫の雲にもあらで春霞たなびく山のかひはなにぞも」には、円融院の「紫の雲(皇后)ならいざ知らず女御(皇后・中宮に次ぐ女官)のままでは、何の甲斐があろうか」と、「東三条入道前摂政太政大臣(藤原兼家)」(摂関は兼家の子孫が独占し、兼家は東三条大入道殿と呼ばれて畏怖されている)に対する陰に含めた返歌のようにも詠み取れる。
 同様に、兼家の「大将離れて嘆くこと侍りける」を詞書とする歌の返歌の「昔より絶えせぬ川の末なれば淀むばかりをなに嘆くらん」の「昔より絶えせぬ川の末」に「昔から栄華を誇っている藤原北家の家筋」と兼家の歌の「宇治川の譬え」とを喝破し、それにしては一時的に大将を解かれて「淀む」(停滞する)でも、「そんなに嘆くことはあるまいに」と、兼家を突き放している感じでなくもない。
 それに対して、信任の厚い一条左大臣(源雅信)の「あはれなり昔の人を思ふには」の「返歌」の「昔を恋ふる松はなかりき」にすら、「昔を恋い慕う自分(円融院)の心を分かってくれる人は皆無なのです」と、何とも絶望感に充ちた「返歌」のように思われる。
 同様に、在位中寵愛していた実方朝臣(藤原実方)の「御返し」に、「山吹のいはぬ色をば知る人もなし」(「山吹のくちなし色」と「口に出して言わない」とを掛けている)とは、円融院の、「ご意志でないご退位の無念やる方のない気持ち」が伝わってくる。

 これらのことに関し、下記のアドレスの「栄花物語における円融天皇像(中村康夫稿)」で、その詳細な背景の一端が記述されている。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/chukobungaku/33/0/33_42/_pdf/-char/en

 その論稿の中で、円融院の『新古今和歌集』入集歌(七句)の鑑賞上参考になると思われる個所を、下記に抜粋して置きたい。

【円融朝は一六年続いたのだが、摂政または関白の交替が激しかった。そして、冷泉・円融二代のあいだに、ようやく摂関職常置の慣行がほぼかたまったことは、注目すべき政治的現象であろう。専制君主としての天皇の独自の機能が弱体化し、それを補強する後見の摂関の力が伸張してきたことを意味する。これ以後、皇嗣の決定、在位期間さえもがほとんど摂関家の意向によって左右されるという事態にまでなってゆくのである。】

【A みかどの御心いとうるはしうめでたうおはしませど、「雄雄しき方やおはしまさざらん」とぞ、世の人申し思ひたる。東三条の大臣世の中を御心のうちにしそしておぼすべかめれど、猶うちとけぬさまに御心もちゐぞ見えさせ給ふ。みかどの御心強からず、いかにぞやおはしますを見奉らせ給へればなるべし。 (花山たづぬる中納言) 】

【B みかど、太政大臣の御心に違はせ給はじとおぼしめして、「この女御后に据ゑ奉らん」との給はすれど、大臣なまつつましうて、「一の御子生れ給へる梅壷を置きてこの女御の居給はんを、世の人いかにかはいひ思ふべからん」と、「人敵はとらぬこそよけれ」などおぼしつつ過ぐし給へば、「などてか。梅壷 は今はとありともかかりとも必ずの后なり。世も定なきに、この女御の事をこそ急がれめ」と、常にの給はすれば、嬉しうて人知れずおぼし急ぐ程に、今年もたちぬれば、口惜しうおぼしめす。(花山たづぬる中納言) 】

【C かかる程に、今年は天元五年になりぬ。三月十一日中宮立ち給はんとて、太政大臣急ぎ騒かせ給ふ。これにつけても右の大臣あさましうのみよろづ聞しめさるる程に、后たたせ給ひぬ。いへばおろかにめでたし。太政大臣のし給ふもことわりなり。みかどの御心捉を、世の人目もあゃにあさましき事に申し思へり。一の御子おはする女御を置きながら、かく御子もおはせぬ 女御の后に居給ひぬる事、安からぬ事に世の人なやみ申して、「素腹の后」とぞっけ奉りたりける。されどかくて居させ給ひぬるのみこそめでたけれ。(花山たづぬる中納言) 作者 】

【D「位につきて今年十六年になりぬ。いままであベうも思はざりつれど、月日の限やあらん、かく心より外にあるを、この月は相撲の事あれば騒しかるべければ、来月ばかりにとなん思ふを、『東宮位につき給ひなば、若宮をこそ東宮には据ゑめ』と思ふに、祈所所によくせさせて、思ひの如くあベう祈らすべし。おろかならぬ心の中を知らで、誰誰も心よからぬけしきのある、いと口惜しき事なり。あまたあるをだに、人は子をばいみじき ものにとそ思ふなれ。ましていかでかおろかに思はん」など、よろづあベき事ども仰せらるる受け給はりて、かしこまりでまかで給て、…… (花山たづぬる中納言) 】

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その二十一)

その二十一 三条院御歌

鹿下絵十.JPG

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の十一「円融院・三条院・堀河院」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

鹿下絵シアトル七.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(円融院・三条院」(シアトル美術館蔵)

21 三条院御歌:あしびきの山のあなたにすむ人はまたでや秋の月をみるらむ
(釈文)安し日支能山濃安那多尓須無人盤ま多天や秋乃月を見るら無

(「三条院」周辺メモ)

あしびきの山のあなたにすむ人は待たでや秋の月をみるらん(新古382)
(歌意:山の向こうに住んでいる人は、これほどに待たないで、秋の月を見ているのであろうか。)(『日本古典文学全集26』)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sanjou.html

三条院 天延四~寛仁元(976-1017)

冷泉天皇の第二皇子。母は藤原兼家女、贈皇后宮超子。敦明親王(小一条院)・陽明門院禎子(後三条天皇の皇后)の父。
天延四年正月三日生誕。寛和二年(986)、従弟の一条天皇(当時七歳)が即位した時、皇太子に立てられる。寛弘八年(1011)六月、一条天皇の譲位を受けて即位(第六十七代天皇)。時に三十六歳。眼病と神経系慢性疾患に悩み(『大鏡』)、彰子腹の敦成親王の即位を願う藤原道長の圧迫もあって、長和五年(1016)、退位した。翌年五月九日、崩御。
後拾遺集初出。勅撰入集は八首。『新時代不同歌合』歌仙。

例ならずおはしまして、位など去らむとおぼしめしける頃、
月の明かりけるを御覧じて
心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半(よは)の月かな(後拾遺860)
【通釈】我が意に反してこの世に生き長らえたなら、いつか恋しく思い出すに違いない――そんな月夜であるなあ。
【語釈】◇例ならず 病気をいう。◇心にもあらで 心にもあらず。我が意に反して。◇恋しかるべき (生き永らえて後には)恋しく思うにちがいない。
【補記】『栄花物語』巻十二によれば、長和四年(1015)十二月、十余日の明月の晩に、清涼殿内の御局で三条天皇が中宮に詠みかけた歌。翌年正月、譲位。
【他出】栄花物語、袋草紙、古来風躰抄、定家八代抄、百人一首、新時代不同歌合

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十九)

心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな(三条院『百人一首68』)

『王朝秀歌選(樋口芳麻呂校注・岩波文庫)』所収「百人一首」の校注には、「秀54に既出。◇病いがはかばかしくなくて譲位しようと思っておられたころ、月の明るかったのを御覧になって。『栄花物語』巻十二によれば、長和四年(1015)十二月中旬に中宮藤原妍子に言われた歌」とある。
この校注「秀54」は、『百人一首(定家撰)』の前身にも当たる『百人秀歌(定家撰)54』ということで、それは「秀53」と番い(哀傷歌二首)になっている一首なのである。

(『百人秀歌(定家撰)53』)
夜もすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき(一条院皇后=藤原定子)
(『百人秀歌(定家撰)54』)
心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな(三条院)

 ここで、『百人一首(定家撰)』の前身と目せられている『百人秀歌(定家撰)』は、「じつは百一首の歌がしるされており、百人一首ではその内俊頼の歌を差し替え、さらに一条院皇后(秀53)・権中納言国信(秀73)・権中納言長方(秀90)の三首を削って、かわりに後鳥羽・順徳の歌を入れ計百首としている。したがって、この辺の合わせ最終的に定家がどう考えていたのか判断しかねる。改撰をかりに為家の手に成ったものと考えてよければ(たぶんそうであろう)、百人秀歌の合わせはそれとして見ておいてよい。この合わせもわるくない合わせである」(『別冊太陽№1百人一首』所収「百首通見(安東次男稿)」)と、その「六八(三条院)=『百人秀歌(定家撰)54』」のところで評している。
 しかし、これらのことに関して、「建長三年(一二五一)に藤原為家(定家の嫡男)が後嵯峨院に総覧した『続後撰集』に選入される後鳥羽院の「人もをし」(百99)、順徳院の「ももしきや」(百100)の歌が『百人一首』に選入されるから、定家が撰した『百人秀歌』を為家が『百人一首』に改撰したとみられそうであるが、問題はそれほど単純ではない。為家は性格温順で、父の撰した『百人秀歌』の歌を気ままに差し替えることは考えにくいし、定家が染筆したと思われる色紙形(小倉色紙)中に後鳥羽院の「人もをし」の詠も現存する。さらには、定家の撰した『新勅撰集』は成立が複雑で、鎌倉幕府の意向を気がねする摂関の要請で、当初選入していた後鳥羽院・順徳院ら承久の乱関係者の歌を百余首削除しているから、それらの中に右二首も含まれていた可能性は充分考えられる。『新勅撰集』成立二か月後の文暦二年(一二三五)五月の色紙染筆の際には、『新勅撰集』草稿本に定家は両院の歌を加え、また、歌の配列順序を改めたために配列上具合の悪くなった俊頼の歌も差し替えたのであろう(秀75を百74に差し替えたのであろう)。『百人一首』の撰は定家とみてもよかろう。ただ、遠島両院の諡号(しごう)は、定家没後の決定だから、為家などの手による補訂であろう」(『王朝秀歌選(樋口芳麻呂校注・岩波文庫)』所収「百人一首」解説)と、その見方を異なにしている。
 この『百人秀歌』は、終戦後の昭和二十六年(一九五一)に有吉保(日大名誉教授)によって初めてその存在が世に知られるようになったもので、その発見者(有吉保)による「百人一首と私(有吉保稿)」(『別冊太陽№213百人一首の招待』所収)の中で、この発見当時の「百人一首の成立説」について、簡略に次のように紹介されている。

①藤原定家が自ら撰んだという説(『宗祇抄』等に見られる伝統的に継承されてきた説)
②蓮生(宇都宮頼綱)が撰歌して、定家に書写させたという説(安藤為章の「年山紀聞」の説)
③まことは宗祇が撰んだのだが、それを定家が撰んだ如く装ったという説(いわゆる定家仮託説、吉沢義則説)

 この三説の中で、「最も有力な説は吉沢義則博士の説(京大「国語国文の研究十六号)で、(中略)、その当時(昭和二十三年から同二十五年)ほぼ定説と認められていたように思う」とし、この吉沢説に対して、書陵部蔵の『百人一首』(伝栄雅筆本)などから有吉説(定家自撰説=①)を傍証し、さらに、書陵部『百人秀歌』(嵯峨山庄色紙形 京極黄門撰)を紹介し、そこで、「百人秀歌から百人一首へと進展させた」とする有吉説を展開する。さらに、『百人秀歌』の歌を差し替えて現在の『百人一首』の形にしたのは「為家」とする説(石田吉貞説・目崎徳衛説)が主張され、上記の安東次男の見方は、この有吉説と石田説・目崎説に近いものなのであろう。
 それに対して、同じ「定家自撰説=①)」の立場でも、「建長三年(一二五一)に藤原為家(定家の嫡男)が改撰した」(安東次男などが支持している説)とすることに関しては、真っ向から、「定家自撰説=①)」を固守しているものが、樋口説((『王朝秀歌選(樋口芳麻呂校注・岩波文庫)』所収「百人一首」解説))というように解して置きたい。
 これらは、「藤原定家と百人一首―成り立ちは未だ霧の中(吉海直人稿)」・「冷泉為村が書写した『百人秀歌』の出現―冷泉家時雨文庫にて(大山和也稿)」(『別冊太陽№213百人一首の招待』所収)のとおり、これらは、その「成り立ちは未だ霧の中」のままで、未だに、現在進行形の魅力に溢れたテーマであることには、いささかの変わりがないというのが、その真相であろう。

 ここでは、これらのことに関して、二つの関心事について触れて置きたい。

 その一つは、現在の「宮中歌会始めの儀」(皇族のみならず国民からも和歌を募集し、在野の著名な歌人(選者)に委嘱して選歌の選考がなされるようになった)は、新憲法下での、昭和二十二年(一九四七)が、そのスタートで、その四年後の、昭和二十六年(一九五一)に、『百人一首』の前身と目されている『百人秀歌』が、一学徒(有吉保の「卒業論文」)により発見されたということは、何かしら、この両者に因縁があり、その因縁を探りたいという好奇心にほかならない。
そして、その好奇心は、これまた、英語学者で広範囲の評論活動を展開した渡部昇一がネーミングした「和歌の前の平等」(『日本史百人一首・扶桑社・2008年』)の「日本の歴史を貫く平等原理は和歌である」と、何かしらドッキングするような、いささか、手前勝手な関心事なのである。
さらに付け加えると、『王朝秀歌選(樋口芳麻呂校注・岩波文庫)』所収「解説」で触れられている「詩は詞華集で読むに限る」(丸谷才一説)ということと、「『百人秀歌』の歌を差し替えて現在の『百人一首』の形にしたのは為家である」(石田吉貞説・目崎徳衛説)の「石田吉貞」の別名「大月静夫」著の『若き検定学徒の手記・大同館書店・1939』(下記のアドレスの「国立国会図書館デジタルコレクション」)とを一つのアプローチの足掛かりにしたいという、これまた、甚だ手前勝手な関心事なのである。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1456924

 もう一つの関心事は、「a詞書のある歌」(「八代集」などの多くの歌)→「b詞書無・左右番いの『歌合形式』の一首」(『時代不同歌合(後鳥羽院撰)』の一首~三首ピックアップ)→「c詞書無・『歌合形式』の『左・右』の表示無の一首」(『百人秀歌(定家)』の一首又は二首ピックアップ)→「d詞書無・非『歌合形式』の一首」(『百人一首(定家撰)』の一首ピックアップ)の、この「a→b→c→d」の「相互関係」と「それぞれの一首の鑑賞視点」などについてである。

「a詞書のある歌」(「八代集」などの多くの歌)→上記の三条院の例

   例ならずおはしまして、位など去らむとおぼしめしける頃、
   月の明かりけるを御覧じて
心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半(よは)の月かな(後拾遺860)

「b詞書無・左右番いの『歌合形式』の一首」(『時代不同歌合(後鳥羽院撰)』の一首~三首ピックアップ)→『時代不同歌合(後鳥羽院撰)』には三条院の例は無

「c詞書無・『歌合形式』の『左・右』の表示無の一首」(『百人秀歌(定家撰)』の一首又は二首ピックアップ)

(c-1)番いの二首表記(二首ピックアップ)→上記の一条皇后と三条院の例

夜もすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき(「秀53」一条院皇后)
心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな(「秀54」三条院)

(c-2)番いの二首のうち一首表記(一首ピックアップ)→上記(c-1-秀54)の例

心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな(「秀54」三条院)

「d詞書無・非『歌合形式』の一首」(『百人一首(定家撰)』の一首ピックアップ)→(c-2)と同じ

心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな(三条院『百人一首68』)

 この「a→(b)→c(c-1とc-2)→d」の「鑑賞視点」は、つぎのとおりなる。

「a詞書のある歌」(「八代集」などの多くの歌)→詞書を加味して鑑賞する。

「b詞書無・左右番いの『歌合形式』の一首」(『時代不同歌合(後鳥羽院撰)』の一首~三首ピックアップ)と「(c-1)番いの二首表記(二首ピックアップ)」→「歌合」のルールを加味して鑑賞する。

「(c-2)番いの二首のうち一首表記(一首ピックアップ)」と「d詞書無・非『歌合形式』の一首」(『百人一首(定家撰)』の一首ピックアップ)→屹立した一首として鑑賞する。

 ここで、「光悦書(和歌揮毫)・宗達下絵」の「鹿下絵和歌巻」の和歌鑑賞の視点は、「a詞書のある歌」(「八代集」などの多くの歌)として、詞書を加味して鑑賞することになる。

 また、「光悦書(和歌揮毫)・宗達下絵」の「鶴下絵和歌巻」は、「(c-2)番いの二首のうち一首表記(一首ピックアップ)」又は「d詞書無・非『歌合形式』の一首」(『百人一首(定家撰)』の一首ピックアップ)として、一巻仕立ての左右の区別のない、三十六歌仙の歌として、屹立した一首として鑑賞することになる。

 さらに、狩野探幽筆「新三十六人歌合画帖」、狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」、酒井抱一筆「集外三十六歌仙図画帖」については、「b詞書無・左右番いの『歌合形式』の一首」として、「歌合」のルールを加味して鑑賞することになる。

(追記)

この「a→b→c→d」のモデルと流れは、ほぼ、「百人一首の成立」に係わる、そのプロセス(過程)と理解することも可能であろう。それは、『王朝秀歌選(樋口芳麻呂校注・岩波文庫)』所収の、『八代集秀逸(定家撰)』→『時代不同歌合(後鳥羽院撰)』→『百人秀歌(定家撰)』→『百人一首(定家撰)』の流れなどと軌を一にするものである。

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥(その二十二)

その二十二 堀川院御歌


「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の十一「円融院・三条院・堀河院」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)


「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(三条院・堀河院」(シアトル美術館蔵)

22 堀河院御歌:しきしまやたかまど山の雲間よりひかりさしそふ弓張の月(シアトル)
(釈文)雲間微月といふ事を   
    堀河院御哥
し支しまや可まど山濃雲間よ利日可利左し曽ふ弓張の月

(「堀河院」周辺メモ)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/horikawa.html

   雲間微月といふ事を
しきしまや高円山の雲間より光さしそふ弓はりの月(新古383)

【通釈】大和の国、高円山には雲がかかり、月も隠していたが、いま雲間から弓張月の光が射して、山はだんだんと明るくなってゆく。
【語釈】◇しきしまや 「大和」にかかる枕詞。ここでは「大和の国の」ほどの意。◇高円(たかまと)山 奈良市の東南郊、春日野の南に続く丘陵地帯。主峰の高円山は標高432メートル。◇弓はりの月 弓を張ったような形の月。弦月。

堀河天皇  承暦三~嘉承二(1079-1107)

白河院第二皇子。母は中宮賢子(藤原師実の養女。実父は源顕房)。鳥羽天皇の父。
応徳元年(1084)、母を亡くす。同二年、叔父の皇太子実仁親王が死去したため、翌三年(1086)十一月、立太子し、即日父帝の譲位を受けて即位した。時に八歳。寛治七年(1093)、篤子内親王を中宮とする。嘉保三年(1096)、重病に臥したがまもなく快復。康和元年(1099)、荘園整理令を発布。同五年、宗仁親王(のちの鳥羽天皇)が生れ、同年、皇太子にたてる。嘉承二年(1107)七月十九日、病により崩御。二十九歳。
幼くして漢詩を学び、成人後は和歌をきわめて好んだ。近臣の源国信・藤原仲実・藤原俊忠、および源俊頼らが中心メンバーとなって所謂堀河院歌壇を形成、活発な和歌活動が見られた。長治二年(1105)か翌年、最初の応製百首和歌とされる「堀河百首」(堀河院太郎百首・堀河院御時百首和歌などの異称がある)奏覧。同書は後世、百首和歌の典範として重んじられた。康和四年(1102)閏五月「堀河院艶書合」を主催、侍臣や女房に懸想文の歌を詠進させ、清涼殿で披講させた。なお永久四年(1116)十二月二十日成立の「堀河後度百首」(永久百首・堀河院次郎百首とも)は、堀河天皇と中宮篤子内親王の遺徳を偲び、旧臣仲実らが中心となって催した百首歌とされる。金葉集初出。勅撰入集九首

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その二十)

 堀河院(1079-1107)は、八歳で天皇に即位し、二十九歳で夭逝した、その一生は、父・白河天皇(堀河天皇崩御後は、第七十四代鳥羽天皇、更に曾孫の第七十五代崇徳天皇と三代にわたり幼主を擁し、四十三年間にわたり院政を敷き、後世「治天の君」と呼ばれた)に翻弄された、先に続く「円融院→三条院→堀河院」との、一連の「悲運の帝王」(「末代の賢王=堀河天皇の呼称」)の系譜という思いが拭えない。

64 円融天皇 安和2(969) 8 . 13~永観2(984) 8.27  →新古七首
67※三条天皇 寛弘8(1011) 6 . 13~長和5(1016) 正.29→ 同 二首
72 白河天皇 延久4(1072) 12 . 8~応徳3(1086) 11.26→後拾遺集(白河天皇)同四首
73 堀河天皇 応徳3(1086) 11 . 26~嘉承2(1107) 7.19→金葉集(白河院) 同一首
74 鳥羽天皇 嘉承2(1107) 7 . 19~保安4(1123) 正.28→ 同二首
75※崇徳天皇 保安4(1123) 正 . 28~永治元(1141) 12. 7→詞花集(崇徳院)同七首
77 後白河天皇 久寿2(1155) 7 . 24~保元3(1158) 8.11→千載集(後白河院)同三首
82※後鳥羽天皇 寿永2(1183) 8 . 20~建久9(1198) 正.11→新古今集(後鳥羽院)三四首
84※順徳天皇  承元4(1210) 11 . 25~承久3(1221) 4.20 

 上記は、第六十四代(円融天皇)から第八十四代(順徳天皇)までの、主に『新古今和歌集』に入集している天皇(上記の「新古七首」など)の一覧である。その中で※印は『百人一首』に入集している天皇、その他「八代集」の勅(院)宣を下した天皇に付記をしている。
 ここで、堀河天皇の実父の白河天皇(白河院)は、『後拾遺和歌集』(藤原通俊撰)と『金葉集』(源俊頼撰)の勅(院)宣を下した方で、この『金葉和歌集』に関して、最初の草稿の奏覧は、新味がないとし、次に改撰して奏上すると、今度は現代歌人に偏りすぎるという理由で受納せず、三度目に再々奉して成ったという逸話が今に遺っている(『今鏡』『増鏡』)。
 こういう絶大なる専制君主を後ろ盾にする堀河天皇というのは、「末代の賢王」(『続古事談』)と評されるほど賢帝であり、人望もありながら、政務、その他全般にわたり、何らの実績を示すこともなく、例えば、本来ならば、『金葉和歌集』の勅宣者(白河院)に匹敵する能力を有しているにも関わらず、その和歌の世界でも、こと白河院の後塵を拝していたということになろう。
 しかし、この第五勅撰集『金葉和歌集』のバックグラウンドとなっているのは、堀河院を中心とする『堀河(院)百首』の、「藤原公実(きんざね)、大江匡房(まさふさ)、源国信(くにざね)、源師頼(もろより)、藤原顕季(あきすえ)、藤原仲実(なかざね)、源俊頼(としより)、源師時(もろとき)、藤原顕仲(あきなか)、藤原基俊(もととし)、隆源(りゅうげん)、肥後、紀伊、河内、源顕仲(あきなか)、永縁(えいえん)」などの歌人群なのであろう。
 とした上で、上記の八人の天皇(順徳天皇は除く)の中で、『新古今和歌集』の入集数の、堀河院の一首というのは、どうにも、侘しいようにも思われるのである。
 ここで、「白河院」(父=「治天の君」)と堀河院(子=「末代の賢王」)との、それぞれの『新古今和歌集』入集歌の、「雲間の月」の歌を並列して鑑賞をしてみたい。

「a詞書のある歌」(『新古今和歌集』の二首)

    卯花如月といへる心をよませ給ひける
卯の花のむらむらさける垣根をば雲まの月のかげかとぞみる(白河院御製「新古180」)
(歌意:卯の花が所々に群がって咲いている垣根を、雲の切れ間からさとたる月の光かと見えることだ。)
    雲間微月といふ事を
しきしまや高円山の雲間より光さしそふ弓はりの月(堀河院御製「新古383」)
(大和の高円山の雲間から、光がだんだんくわわってさす、弓張の月よ。)
(鑑賞)白河院の歌は「見立ての面白さ」(群咲く卯の花を月の影と見立てている)の歌である。堀河院の歌は「題詠」(雲間の月)であるが実写的な叙景歌(光さしそふ弓張りの月)である。どちらを採るかは、鑑賞者の好みによる。

「b詞書無・左右番いの『歌合形式』の二首」(上記の二首を「歌合形式」とする)

(左)
卯の花のむらむらさける垣根をば雲まの月のかげかとぞみる(白河院)
(右)
しきしまや高円山の雲間より光さしそふ弓はりの月(堀河院)
(判詞=鑑賞)左は、「時わかず月か雪かと見るまでに垣根のままに咲ける卯の花」(後撰・夏、詠人知らず)の本歌取りの一首。卯の花(夏)が主題の歌。右は、「高円山」の「(まと)に「的」をかけ、「弓」の縁語。「さしそふ」は「だんだんくわわってさす」、この動的な把握が持ち味。「雲間の月」の歌としては、右を勝とす。(但し、左の見立ても新鮮で、持=引き分けとしても可。)

「c詞書無・『歌合形式』の『左・右』の表示無の二首」(c-1)番いの二首表記(二首ピックアップ)、「題」=雲間の月。

(雲間の月)
卯の花のむらむらさける垣根をば雲まの月のかげかとぞみる(白河院)
しきしまや高円山の雲間より光さしそふ弓はりの月(堀河院)
(鑑賞)「a詞書のある歌」と「b詞書無・左右番いの『歌合形式』の二首」の「鑑賞」に基好き、新しい視点を加味する。例えば、白河院の歌は「地上の歌」、そして、堀河院の歌」は「天空の歌」とすると、この二首の合わせ併せは面白い。

「d詞書無・非『歌合形式』の一首」(c-2)番いの二首のうち一首表記(一首ピックアップ)

(撰歌方針・鑑賞視点)

卯の花のむらむらさける垣根をば雲まの月のかげかとぞみる(白河院)
しきしまや高円山の雲間より光さしそふ弓はりの月(堀河院)

 この二首について、前回取り上げていた『百人一首』の、の三条院の、「心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな(三条院『百人一首68』)の、この歌との、この三者関係を並列(年代順)して見たいのである。

心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな(三条院)
卯の花のむらむらさける垣根をば雲まの月のかげかとぞみる(白河院)
しきしまや高円山の雲間より光さしそふ弓はりの月(堀河院)

 三条院(第六十七代天皇)は、藤原摂関(道長)の後宮政策下、失意のまま失明し、退任後一年足らずにして、三十一歳で亡くなった「悲運の帝王」である。
 白河院(第七十二代天皇)は、摂関家の権勢の弱体化に伴い、早々に退位し、若き天皇の背後で強力な院政を敷き、天皇の権能を超越した政治権力を行使し、七十七歳で崩御した「治天の君」である。
 堀河院(第七十三代天皇)は、白河天皇の後を、立太子と同時に八歳で即位し、その白河上皇の「治天の君」の下で、「末代の賢王」と仰がれつつ、その持てる力を存分に発揮できないままに、二十九歳で崩御した。
 さて、白河天皇(白河院)の勅(院)宣の『後拾遺和歌集』(藤原通俊撰)は、「実生活に即し、散文的・叙情的な歌風」、そして、『金葉和歌集』(源俊頼撰)は、「叙景歌に優れ、革新的な傾向」と、その特色を簡潔に評している(『三訂・常用国語便覧・浜島書店』)。
この「叙情的歌風」と「叙景的歌風」の区別ですると、三条院のは「叙情歌」そして、白河院と堀河院のは「叙景歌」ということになる。この「叙情歌」の「情」は、「歌論・連歌論・俳論」などの「心」(内面的なもの)というものに近く、そして、「叙景歌」の「景」は、「姿・詞」(外面的なもの)というニュアンスに近い。
この「心」は、「作歌する心=風情」に通じ、この「姿・詞」は、「作歌する装い=風姿」というニュアンスに置き換えることも出来よう。この「風情・風姿」論は、「後鳥羽院御口伝」(『日本古典文学大系53歌論集・能楽論集』所収「補注」など)に出てくるものである「1序―姿の色々」。
この「風情・風姿」論の言葉尻を借用すると、三条院の歌は、「風情をむね」とする一首で、白河院の歌は「風詞おもしろき」一首で、堀河院の歌は「風姿うるはしき」一首と解することも出来よう。
 その上で、この三首のうち一首撰ということになると、「後鳥羽院御口伝」(「4定家評」=定家と釈阿・西行を比しての評)の、「最上の秀哥は、詞(ことば)を優にやさしき上、心が殊(こと)に深く、いはれもある」歌と、己(鑑賞者自身)が感ずるものを撰ぶということになろう。
 ここで、天皇の御製ということを加味をすると、堀河院の初句の「しきしま」(「大和」に掛かる枕詞であると同時に「日本」の別称、『敷島の道』=和歌の道)を無視することは、
「いはれ(筋道・道理など)」無きものの評を受けることになろう。

(参考)

万葉集 巻十三

    柿本朝臣人麻呂の歌集の歌に曰く
3253葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙(ことあげ)せぬ国 然(しか)れども 言挙ぞ吾(あ)がする 事幸(ことさき)く 真幸(まさき)くませと恙(つつみ)なく 幸(さき)くいまさば 荒磯波 ありても見むと百重波(ももえなみ) 千重波(ちえなみ)しきに 言挙す吾は 言挙す吾は
    反歌
3254しきしまの日本(やまと)の国は言霊のさきはふ国ぞ真幸(まさき)くありこそ

歌意(参考『桜井満訳注』)
3253葦原の瑞穂の国は、神の意のままに言挙げしない国である。だが、私はあえて事挙げををする。言葉が祝福をもたらし、無事においでなさいと―。もし恙なく無事でいらっしゃれば、荒磯の波のように 後にも逢えようと―。百重波や千重波が後から寄せて来るように。しきりに言挙げするよ、私は。しきりに言挙げするよ、 私は。

歌意(参考『桜井満訳注』)
32547大和の国は、言霊が人を助ける国であるよ。私が言挙げしましたからどうぞ御無事であって欲しい。

万葉集 巻五

    山上憶良頓首謹みて上(たてまつ)る
    好去好来の歌一首 反歌二首
894神代(かみよ)より 言い傳(つ)て来らく そらみつ 倭(やまと)の国は 皇神(すめかみ)の 厳(いつか)しき国 言霊の 幸(さき)はふ国と 語り継(つ)ぎ 言い継(つ)かひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人多(さは)に 満ちてはあれども 高光る 日の朝廷(みかど) 神(かむ)ながら 愛(めで)の盛(さか)りに 天(あめ)の下(した) 奏(まを)し給(たま)ひし 家の子と 選び給ひて 勅旨(おおみこと) 戴(いただ)き持ちて 唐(もろこし)の 遠き境に 遣はされ 罷(まか)りいませ 海原(うなばら)の 邊(へ)にも沖にも 神留(かむづま)り 領(うしは)きいます 諸(もろもろ)の 大御神等 船舳(ふなのへ)に 導き申(まを)し 天地の 大御神たち 倭の 大国霊(おほくにたま) ひさかたの 天の御虚(みそら)ゆ 天(あま)がけり 見渡し給ひ 事了(をは)り 還らむ日には また更(さら)に 大御神たち 船(ふな)の舳(へ)に 御手打ち懸けて 墨縄(すみなは)を 延(は)へたるごとく あちかをし 値嘉(ちか)の岬(さき)より 大伴の 御津の濱びに 直泊(ただはて)に 御船泊(みふねは)てむ つつみなく 幸(さき)くいまして 早帰りませ

反歌
895大伴(おおとも)の御津(みつ)の松原かき掃(は)きて我(われ)立ち待たむはや帰りませ
896難波津にみ船泊(は)てぬと聞こえ来(こ)ば紐解(ひもと)き放(さ)けて立ち走(ばし)りせむ

https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/0edafede5afb44146a798ee9417ba424

万葉集 巻二十

族(うから)を喩(さと)す歌一首并せて短歌

(集歌)4465 比左加多能 安麻能刀比良伎 多可知保乃 多氣尓阿毛理之 須賣呂伎能 可未能御代欲利 波自由美乎 多尓藝利母多之 麻可胡也乎 多婆左美蘇倍弖 於保久米能 麻須良多祁乎々 佐吉尓多弖 由伎登利於保世 山河乎 伊波祢左久美弖 布美等保利 久尓麻藝之都々 知波夜夫流 神乎許等牟氣 麻都呂倍奴 比等乎母夜波之 波吉伎欲米 都可倍麻都里弖 安吉豆之萬 夜萬登能久尓乃 可之[波]良能 宇祢備乃宮尓 美也[婆]之良 布刀之利多弖氏 安米能之多 之良志賣之祁流 須賣呂伎能 安麻能日継等 都藝弖久流 伎美能御代々々 加久左波奴 安加吉許己呂乎 須賣良弊尓 伎波米都久之弖 都加倍久流 於夜能都可佐等 許等太弖氏 佐豆氣多麻敝流 宇美乃古能 伊也都藝都岐尓 美流比等乃 可多里都藝弖氏 伎久比等能 可我見尓世武乎 安多良之伎 吉用伎曽乃名曽 於煩呂加尓 己許呂於母比弖 牟奈許等母 於夜乃名多都奈 大伴乃 宇治等名尓於敝流 麻須良乎能等母
(訓読) 久方の 天の門開き 高千穂の 岳(たけ)に天降りし 皇祖(すめろぎ)の 神の御代より 櫨弓(はじゆみ)を 手握り持たし 真鹿子矢(まかこや)を 手挟み添へて 大久米の ますら健男(たけを)を 先に立て 靫(ゆき)取り負ほせ 山川を 岩根さくみて 踏み通り 国(くに)覓(ま)ぎしつつ ちはやぶる 神を言向け まつろはぬ 人をも和(やは)し 掃き清め 仕へまつりて 蜻蛉島(あきつしま) 大和の国の 橿原の 畝傍の宮に 宮柱 太知り立てて 天の下 知らしめしける 天皇(すめろぎ)の 天の日継と 継ぎてくる 大王(きみ)の御代御代 隠さはぬ 明き心を 皇辺(すめらへ)に 極め尽して 仕へくる 祖(おや)の官(つかさ)と 辞(こと)立(た)てて 授けたまへる 子孫(うみのこ)の いや継ぎ継ぎに 見る人の 語り継ぎてて 聞く人の 鏡にせむを 惜しき 清きその名ぞ おぼろかに 心思ひて 虚言(むなこと)も 祖(おや)の名絶つな 大伴の 氏と名に負へる 大夫(ますらを)の伴
(訳) 遥か彼方の天の戸を開き高千穂の岳に天降りした天皇の祖の神の御代から、櫨弓を手に握り持ち、真鹿児矢を脇にかかえて、大久米部の勇敢な男たちを先頭に立て、靫を取り背負い、山川を巖根を乗り越え踏み越えて、国土を求めて、神の岩戸を開けて現れた神を平定し、従わない人々も従え、国土を掃き清めて、天皇に奉仕して、秋津島の大和の国の橿原の畝傍の宮に、宮柱を立派に立てて、天下を統治なされた天皇の、その天皇の日嗣として継ぎて来た大王の御代御代に、隠すことのない赤心を、天皇のお側に極め尽くして、お仕えて来た祖先からの役目として、誓いを立てて、その役目をお授けになされる、われら子孫は、一層に継ぎ継ぎに、見る人が語り継ぎ、聴く人が手本にするはずのものを。惜しむべき清らかなその名であるぞ、おろそかに心に思って、かりそめにも祖先の名を絶つな。大伴の氏と名を背負う、立派な大夫たる男たちよ。

4466磯城島(しきしま)の大和の国に明らけき名に負ふ伴(とも)の男(を)心つとめよ
4467剣太刀(つるぎたち)いよよ磨ぐべし古(いにしへ)ゆさやけく負ひて来にしその名ぞ


『本居宣長(小林秀雄著・新潮社)』(「口絵」表)
「口絵」裏

本居宣長六十一歳自畫自賛像
古連(これ)は宣長六十一寛政之(の)二登(と)せと
いふ年能(の)八月尓(に)手都(づ)可(か)らう都(つ)し
多流(たる)おの可(が)ゝ(か)多(た)那(な)里(り)

筆能(の)都(つ)い天(で)尓(に)
 志(し)き嶋のやま登(と)許(ご)ゝ(こ)路(ろ)を人登とハ(は)ゞ(ば)
  朝日尓(に)ゝ(に)ほふ山佐(ざ)久(く)ら花

P12-寛政二年秋になった、宣長自畫自賛の肖像畫を言ふので、有名な「しき嶋の やまとごゝを 人とはゞ 朝日にゝほふ 山ざくら花」の歌は、その賛のうちに在る。だがこゝでは、歌の内容を問ふよりも、宣長という人が、どんなに桜が好きな人であつたか、その愛着には、何か異常なものがあつた事を書いて置く。

P13-寛政十二年の夏(七十一歳)、彼は遺言書を認めると、その秋の半ばから、冬の初めにかけて、桜の歌ばかり、三百首も詠んでいる。

P15-物ぐるほしいのは、また我が心でもあつたであらうか。彼には、塚の上の山桜が見えてゐたやうである。
  我心 やすむまもなく つかはれて 春はさくらの 奴なりけり
  此花に なぞや心の まどふらむ われは桜の おやならなくに
  桜花 ふかきいろとも 見えなくに 

P245-宣長は「新古今集」を重んじた。「此道ノ至極セル處ニテ、此上ナシ」「歌の風体ノ全備シタル處ナレバ、後世ノ歌ノ善悪劣ヲミルニ、新古今ヲ的ニシテ、此集ノ風ニ似タルホドガヨキ歌也」。

P246-「歌道ノ盛ハ、定家ニキハマルトイヘドモ、衰ハハヤ俊成ヨリ兆シアリ。タトヘバ、五月ノ中ニハ、イマダ暑気ノ盛ニハイタラザレドモ、ハヤ陰気ノキザス如ク、十二月ノ大寒ヲマタズシテ、十一月ヨリ、ハヤ一陽来復スルガ如シ」。

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥(その二十三)

その二十三 堀川右大臣

鹿下絵十一.JPG

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の十二「堀河右大臣・橘為仲・藤原忠通」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

鹿下絵シアトル九.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(堀河院・堀河右大臣」(シアトル美術館蔵)

23 堀河右大臣:人よりも心の限詠(ながめ)つる月は誰共わかじ物故
(釈文)題不知
人よ利も心濃限詠徒る月盤誰共わ可じ物故

題しらず
人よりも心のかぎりながめつる月はたれとも分かじものゆゑ(新古384)
【通釈】誰よりも深く、心を尽して月を眺めたよ。月の方では、見ているのが誰だろうと、区別などしないだろうに。

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藤原頼宗  正暦四~治暦一(993-1065) 号:堀河右大臣

道長の次男。母は源高明女、高松殿明子(盛明親王の養女)。関白頼通・上東門院彰子の弟。権大納言能信・関白教通・権大納言長家らの兄。子に右大臣俊家・内大臣能長・後朱雀天皇女御延子ほかがいる。
寛弘元年(1004)十二月、元服し従五位上に叙せられる。長和三年(1014)、権中納言。治安元年(1021)七月、権大納言。同年八月、春宮大夫を兼ねる。寛徳二年(1045)正月、後冷泉天皇の践祚により春宮大夫を止められ、同年十一月、右大将を兼ねる。永承二年(1047)八月、内大臣となり、康平元年(1058)正月、従一位に叙せられる。同三年(1060)七月、右大臣に至るが、治暦元年(1065)正月、病により出家した。同年二月三日、薨ず。七十三歳。
『続古事談』によれば公任に次ぐ歌人と自負していたという。長元八年(1035)の「関白左大臣頼通歌合」、「永承四年内裏歌合」、永承五年(1050)の「麗景殿女御延子歌絵合」などに出詠。特に長久二年(1041)の公任薨後は歌壇の指導者として活躍し、「永承五年六月五日賀陽院歌合」、「永承六年五月五日内裏根合」、天喜四年(1056)の「皇后宮寛子春秋歌合」で判者を務めた。大弐三位・小式部内侍ら女流歌人を愛人としたらしい。家集『入道右大臣集』がある。後拾遺集初出。勅撰入集は四十一首(金葉集は二度本で数える)。

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その二十一)

 堀河右大臣(藤原頼宗)は、「藤氏長者(とうしのちょうじゃ)」(藤原氏一族の全体の氏長者)として摂関政治の頂点を極めた藤原道長の次男である。藤原道長は、その外孫に当たる三代の天皇(後一条・後朱雀・後冷泉天皇)に亘り、その長男の頼通は早くして摂政・関白となり、この道長・頼道の体制は、道長死亡後も続き、実に約半世紀に亘り実権を握り続ける。その藤原氏全盛時代の象徴が、今に遺る頼通が造営した平等院鳳凰堂である。

此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたる事も無しと思へば(藤原道長「小右記」)
(歌意: 今の世は、我が一族の世であることよ。それは丁度、今宵の満月が欠けることなく満ち足りていることと同じであることよ。 )

 この歌が収載されている「小右記」は、長い詞書があって、「今日、女御藤原威子を以て、皇后に立つるの日なり」とあり、「寛仁二年(一〇一八)十月十六日の記事」で、「威子の立后は道長が三后(皇后・皇太后・太皇太后)をすべて我が娘で占めるという前代未聞の偉業の達成」の日に因んでのもののようである。この時に、道長、五十三歳の時で、その翌年に出家し、以後、持病(糖尿病)の悪化と共に、万寿四年(一〇二七) に、その六十二年の生涯を閉じることとなる。
この 「三后=一家三后=皇后(藤原威子)・皇太后(藤原妍子)・太皇太后(藤原彰子)
の、この「皇后(藤原威子)・皇太后(藤原妍子)・太皇太后(藤原彰子)」は、全てが藤原道長の娘であり、当時の天皇家は、この「天皇の母方・三后の父・藤原道長」が掌中にしたということを意味する。

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 祐子内親王家に歌合し侍りけるに、歌合などはててのち、
  人々おなじ題をよみ侍りけるに
有明の月だにあれやほととぎすただ一声のゆくかたも見む(藤原頼通「後拾遺192」)
【通釈】暁闇の中、ほととぎすが鳴いて、たちまち飛び去ってしまった。せめて空に有明の月が出ていたらなあ。たった一声鳴き捨てて去って行く方を、見送ることもできように。
【語釈】◇祐子内親王 後朱雀天皇第三皇女、高倉一宮と号す。母は中宮嫄子で、すなわち頼通の孫にあたる。◇有明の月 普通、陰暦二十日以降の月。月の出は遅く、明け方まで空に残る。
【補記】永承五年(一〇五〇)六月五日、頼通の賀陽院において、祐子内親王の名で主催された歌合のあと、「郭公(ほととぎす)」の題で詠んだ歌

 この道長の長男・頼通の歌の「永禄五年(一〇五〇)」当時には、「藤氏長者」の頂点を極めた藤原道長は既に他界(万寿四年(一〇二七))していて、その死後から三十年近い後の作ということになる。
 そして、道長の出家する寛仁三年(一〇一九)の「刀伊の入寇」(女真族(満洲民族)の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件)、さらに道長が没した万寿四年(一〇二七))の翌年に起きた東国(安房・下総・常陸)の「平忠常の叛乱」、そして、この頼通の歌が詠われた永承五年(一〇五〇)の翌年に勃発した「前九年の役」(奥州陸奥国などの戦乱)など、藤原氏を中心とする摂関政治は下降線の一途を辿り、変って、「院政」(天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治)そして「武家」の台頭へと時代は推移して行くこととなる。
 この頼通の歌には、もはや、栄華を極めた道長の「望月」は姿を消して、「有明の月だにあれや」(明け方の朝の月も姿を消して)、「ほととぎすただ一声のゆくかたも見む」(暁闇の中で、けたましく一声をあげた「ほととぎす」の影すら見られない)と、何とも、道長の「望月」の歌に比して、「姿を消して有明の月」と姿を変じていることは、実に象徴的である。
 ここで、冒頭の堀河右大臣(藤原頼宗)の「月の歌」を観賞したい。

人よりも心のかぎりながめつる月はたれとも分かじものゆゑ(藤原頼宗「新古384」)

 道長の「満月の歌」、そして、その嫡子(長男)・頼通の「有明の月」に続けて、この頼宗(道長の次男、頼通の弟)の、この「月」は、道長一族(道長の子女)の、それぞれの数奇な行く末を暗示するような、そんな陰影を色濃く宿している雰囲気を有している。
 月齢ですると、「望月」(道長=陰暦八月十五日の満月)、「有明月」(頼通=残月)、そして、「頼宗=立待月・居待月・臥待月・更待月」と「下弦の月」へと移行して行く月ということになろう。
 そして、この歌は、「月見ればちぢにものこそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど」(大江千里「古今193」)の本歌取りの歌とされ、下記のアドレスに、この歌に連なる「主な派生歌」が記されている。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tisato#AT

 その中に、藤原氏の摂関政治の後の、「院政」の最後を飾る隠岐に配流された帝王「後鳥羽院」の、次の歌も記されている。

月かげをわが身ひとつとながむれば千々にくだくる萩のうへの露(後鳥羽院)

 さらに、「道長・彰子・頼通・頼宗」などが「彰子サロン」を代表する女流作家・紫式部の『源氏物語』の中で、どのように登場しているかについて、次のアドレス(「頼宗の居る風景―『小右記』の一場面―」)に、その背景などが記述されている。

file:///C:/Users/yahan/AppData/Local/Packages/Microsoft.MicrosoftEdge_8wekyb3d8bbwe/TempState/Downloads/KJ00008913779%20(1).pdf

(参考:「藤原道長」の子女)

※藤原彰子(道長の長女)=第六六代天皇・一条天皇の皇后(中宮)。後一条天皇、後朱雀天皇の生母(国母)。
(「彰子サロン」=『源氏物語』作者の紫式部、王朝有数の歌人として知られた和泉式部、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門、続編の作者と伝えられる出羽弁、紫式部の娘で歌人の越後弁(のちの大弐三位。後冷泉天皇の乳母)、そして、「古の奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬる哉」の一首が有名な歌人の伊勢大輔などを従え、華麗な文芸サロンを形成していた。)
藤原頼通(道長の長男)=平安時代中期から後期にかけての公卿・歌人。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。道長の嫡子。
藤原頼宗(道長の次男)=平安時代中期の公卿・歌人。官位は従一位・右大臣。堀河右大臣と号す。
※藤原妍子(道長の次女)=第六七代天皇・三条天皇の皇后(中宮)。
藤原顕信(道長の三男)=平安時代中期の貴族・僧。官位は従四位下・右馬頭。
藤原能信(道長の四男)=平安時代中期の公卿・歌人。官位は正二位・権大納言、贈正一位、太政大臣。
藤原教通(道長の五男)=平安時代中期から後期にかけての公卿。官位は従一位・関白、太政大臣、贈正一位。
藤原寛子(道長の三女)=敦明親王(小一条院)妃、別名高松殿女御。
※藤原威子(道長の四女)=第六八代後一条天皇中宮、別名大中宮。
藤原尊子(道長の五女)=道長の娘で「たゞ人」(非皇族・非公卿)頼通の猶子源師房と婚姻。源師房は藤原氏と摂関の地位を争う立場にはない村上源氏の一族。
藤原長家(道長の六男)=官位は正二位・権大納言。御子左家の祖。後に道長の嫡妻源倫子の養子となる。
※藤原嬉子(道長の六女)=第六九代後朱雀天皇の東宮妃、第七十代後冷泉天皇生母。贈皇太后。
藤原長信(道長の七男)=平安時代中期の真言宗の僧侶(権僧正)。通称は池辺僧正。東寺と真言宗全体の長である第二十九代東寺長者。

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥(その二十四)

その二十四 橘為仲朝臣

鹿下絵十一.JPG

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の十二「堀河右大臣・橘為仲・藤原忠通」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』

鹿下絵・シアトル十.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(「橘為仲」シアトル美術館蔵)」)

24 橘為仲朝臣:あやなくてくもらぬよひをいとふ哉しのぶの里の秋の夜の月
(釈文)安や那久天具もならぬよひをいとふ哉し乃ぶ濃里能秋乃夜濃月

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tamenaka.html

   題しらず
あやなくもくもらぬ宵をいとふかな信夫の里の秋の夜の月(新古385)
【通釈】我ながらおかしなことだ。雲ひとつない宵を厭うなんて。秋の夜、信夫の里の月を眺めながら…。
【語釈】◇あやなくも 「あやなし」は道理に外れた・不合理な。◇信夫の里 旧陸奥国信夫郡。いまの福島市あたり。信夫山がある。「しのぶ(忍ぶ・偲ぶ)」を掛けることが多い。
【補記】普通なら「曇る宵」を厭うのだが、この作者は「曇らぬ宵」を厭うという。雲のかかった月の風情がまさるとしたか。憂鬱な心に月の光が明るすぎたのか。あるいは、晴れがましさに対する羞恥の感情であろうか。

橘為仲 生年未詳~応徳二(1085)
諸兄の裔。為義の孫。筑前守義通の子。母は信濃守挙直女。弟の資成も後拾遺集に歌を載せる歌人。
蔵人・陸奥守・左衛門権佐・太皇太后宮亮などを歴任し、正四位下に至る。
藤原範永らと共に和歌六人党の成員(『続古事談』)。後冷泉天皇皇后四条宮寛子や藤原頼通、橘俊綱のもとに出入りした。陸奥赴任の際は右大臣源師房から装束を賜わったという(『袋草紙』)。能因・相模らに師事し、源経信・良暹・四条宮下野・周防内侍ら多くの歌人と交友をもった。大弐三位との贈答歌もある。家集『橘為仲朝臣集』がある(以下「為仲集」と略)。後拾遺集初出。勅撰入集十二首。

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その二十二)

http://www2u.biglobe.ne.jp/~heian/kenkyu/waka-rokunintou/tamenaka-t.htm

(「橘為仲」年譜)

 長和3(1014)年、出生?
 長元8(1035)年5月16日、『賀陽院水閣歌合』にて方人を勤める
 長久3(1042)年閏9月晦日、高陽院で開催された歌合に参加
 永承2(1047)年12月1日、六位蔵人・式部少丞
 永承3(1048)年10月11日、五位?・駿河権守
 永承5(1050)年、淡路守赴任?
 天喜4(1056)年、これより以前  皇后宮少進
 康平2(1059)年、皇后宮大進?
 治暦2(1066)年1月14日、五位蔵人・左衛門権佐 『滝口本所歌合』出詠
 治暦3(1067)年1月5日、叙従四位下・蔵人去る
 延久元(1069)年、越後守赴任?
 延久4(1072)年、越後守任終(『朝野群載』第26)
 承保元(1074)年、これより以前に家集完成か
 承保2(1075)年秋、陸奥守赴任
 承保3(1076)年9月12日、陸奥守見任(『水左記』)
 承保4(1077)年正月、陸奥守見任(『後葉和歌集』巻九)
 承暦4(1080)年1月、陸奥守延任を許される?
 応徳2(1085)年10月21日、 没

 この年譜で顕著なのは、為仲が「駿河権守」・「淡路守」・「越後守」・「陸奥守」と「受領」(国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者、現在の「知事」)を歴任していることである。「駿河国」は「現在の静岡県中部」で「上国」の権守、「淡路国」は「現在の兵庫県淡路」で「下国」だが朝廷と関係の深い近国の守、「越後国」は「現在の「新潟県」で「上国」の守、そして、最後の任地の「陸奥国」は「現在の福島県・宮城県・岩手県・青森県」で「大国」の守である。
 そして、その時代史的な背景は、道長の出家する寛仁三年(一〇一九)の「刀伊の入寇」(女真族(満洲民族)の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件)、さらに道長が没した万寿四年(一〇二七))の翌年に起きた東国(安房・下総・常陸)の「平忠常の叛乱」、そして、永承五年(一〇五〇)の翌年に勃発した「前九年の役」(奥州陸奥国などの戦乱)など、藤原氏を中心とする摂関政治は下降線の一途を辿り、変って、「院政」(天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治)そして「武家」の台頭へと時代は推移して行くことが、その背景となっている。
 そもそも、橘為仲の「橘家」は、いわゆる、「源平藤橘」(日本における貴種名族の四つ、源氏・平氏・藤原氏・橘氏)の名家の出で、元明天皇から「橘宿禰」の氏姓を賜り、後に後に「橘朝臣」を姓としている。
 為仲の祖父・為義は藤原道長の家司であり、道長の娘・彰子の皇太后宮大進を務めた人物。また、父・義通は後一条天皇の「乳母子」であるという間柄から、天皇の近臣として仕えている。
 為仲も、道長の嫡男・頼通に近従し、頼通の実娘である寛子の太皇太后亮を務めた。祖父も父も優秀な歌人であり、為仲も、後朱雀~後冷泉天皇時代に活躍した歌人集団である「和歌六人党」の一人に数えられている。
 その「和歌六人党」のメンバーは、次のようである。

藤原範永(受領層歌人の重鎮。「摂津・紀伊守」など。「新古今」三首入集。)
藤原経衡(「大和、筑前守」など。後三条天皇の大嘗会和歌の作者。)
源頼家(「備中・筑前守」など。『袋草紙』に「頼家と為仲」との確執の記事有り。)
源兼長(「備前・讃岐守」など。『袋草紙』に「高倉一宮歌合」の記事有り。)
源頼実(五位蔵人任官、従五位下左衛門尉。叔父頼家、弟頼綱も勅撰集歌人。)
平棟仲(「因幡守・周防守」など。娘に歌人の周防内侍がいる。)
橘義清(「肥後守・勘解由次官」など。橘為仲の兄。)
橘為仲(「駿河・淡路・越後・陸奥守」を歴任。能因、相模らに師事し、経信、兼房、良暹、素意、四条宮下野、周防内侍らと親交を持った。「新古今」二首入集。)

 この「和歌六人党」の中心的な人物の「藤原範永」の『新古今和歌集』入集句のうちの「月の歌」は、次の一首である。

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin/norinaga.html

    月を見て遣はしける
見る人の袖をぞしぼる秋の夜は月にいかなる影かそふらむ(新古409)
【通釈】秋、夜空を見上げていると、袖は涙に濡れ、しぼらなければならないほどです。月にどんな面影がだぶってくるからでしょうか。貴女の面影が重なるのです。
【語釈】◇見る人 秋の夜空の月を見る人。自分のことをぼやかして言っている。
【補記】相模に贈った歌。相模の返しは、「身にそへる影とこそ見れ秋の月袖にうつらぬ折しなければ」(大意:秋の月を、身に添って離れない貴男の面影と見ているのです。いつも涙に濡れた袖には月の光が映っているので)。恋歌の贈答のように見えるが、新古今集では秋歌の部に収め、恋歌めかして秋の夜の情緒を詠み交わした歌としている。

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥(その二十五)

その二十五 法性寺前関白太政大臣

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「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の十二「堀河右大臣・橘為仲・藤原忠通」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(藤原忠通・源頼政)」(シアトル美術館蔵))

25 法性寺前関白太政大臣:風吹ばたまちるはぎのしたつゆにはかなくやどる野辺の月哉
(釈文)風吹盤たま知るハ幾能志多徒ゆ尓ハ可那久やどる野邊濃月哉

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-26

風ふけば玉ちる萩の下露にはかなく宿る野辺の月かな(藤原忠通「新古386」)

歌意は、「風が吹くと、玉となって散っていく萩の葉の下露に、かりそめにもその影を宿している野辺の月であることよ。」
(参考)法性寺入道前関白太政大臣(artwiki)
【藤原忠通。承徳元年(1097)~長寛二年(1164)藤原氏摂気相続流、関白忠実の息子で母は右大臣源顕房の娘師子。関白太政大臣従一位に至る。保元の乱の際には後白河天皇の関白として、崇徳院側であった父忠実や弟の左大臣頼長と対立した。しばしば自邸に歌合を催している。漢詩をもよくし、また法性寺流の能書で知られる。(百人一首 秀歌集) 】

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その二十三)

百人一首歌人系図(藤原氏)

http://kitagawa.la.coocan.jp/data/100keizu02.html
藤原道長系図.jpg

 上図は、藤原氏の「百人一首歌人系図」であるが、その七十六番の作者「法性寺入道前関白太政大臣」(藤原忠通)は、道長直系(道長→頼通→師実→師通→忠実→忠通)なのである。
 この忠通が「藤氏長者」となった頃には、既に「摂関政治」は形骸化し、さらに父や弟との対立を抱え、本来対抗勢力である鳥羽法皇や平氏等の「院政」勢力と巧みに結びつきながら、「保元の乱」に続く「平治の乱」でも実質的な権力者・信西(藤原通憲)とは対照的に生き延び、彼の直系子孫のみが「五摂家」(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)として、原則的に明治維新まで摂政・関白職を独占することとなる。
 この「百人一首」を編んだ定家(九十七番作者)も道長直系で、この道長直系は、忠通・定家の他に、六人(基俊・俊成・寂蓮・良経・雅経・慈円)を数える。そして、忠通の前後の作者はいずれも忠通との政争に敗れた人物(藤原基俊、崇徳天皇)である。

75契りおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋も去ぬめり(藤原基俊)
76わたの原こぎいでてみれば久方の雲いにまがふ沖つ白波(法性寺入道前関白太政大臣)
77瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ(崇徳院)

ここで、これまでの「道長→頼通・頼宗→忠通」の「月の歌」は、次のとおりである。

此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたる事も無しと思へば(藤原道長「小右記」)
(歌意: 今の世は、我が一族の世であることよ。それは丁度、今宵の満月が欠けることなく満ち足りていることと同じであることよ。 )

有明の月だにあれやほととぎすただ一声のゆくかたも見む(藤原頼通「後拾遺192」)
(歌意: 暁闇の中、ほととぎすが鳴いて、たちまち飛び去ってしまった。せめて空に有明の月が出ていたらなあ。たった一声鳴き捨てて去って行く方を、見送ることもできように。)

人よりも心のかぎりながめつる月はたれとも分かじものゆゑ(藤原頼宗「新古384」)
(歌意: 誰よりも深く、心を尽して月を眺めたよ。月の方では、見ているのが誰だろうと、区別などしないだろうに。)

風ふけば玉ちる萩の下露にはかなく宿る野辺の月かな(藤原忠通「新古386」)
(歌意: 風が吹くと、玉となって散っていく萩の葉の下露に、かりそめにもその影を宿している野辺の月であることよ。)

 これに、同じく道長・忠常直系の「寂蓮・良経」の「月の歌」を抜粋すると次のとおりである。

いつまでか涙くもらで月は見し秋待ちえても秋ぞ恋しき(慈円「新古379」)
(歌意: 涙に目がくもらないで月を見たのは、いつ頃までのことだったろう。待望の秋を迎えても、さやかな月が見られるはずの、ほんとうの秋が恋しいのだ。)

ゆくすゑは空もひとつの武蔵野に草の原よりいづる月かげ(良経「新古422」)
(歌意: ずっと先の方は夕空と一つになっている広大な武蔵野――その草の原からさしのぼる月よ。)

道長の時代(康保三年~万寿四年(九六六~一〇二八年))から良経の時代(嘉応元~建永元(一一六九~一二〇六))まで、平安時代(中期)の全盛時代から平安時代(後期)の終焉時代へと、それは、京都の平安宮を中心する「公家時代」から武蔵野の一隅の鎌倉幕府を中心する「武家時代」への変遷の流れでもあった。
 これらのことは、その他の道長直系の「基俊・俊成・寂蓮・定家・雅経」の、次の「月の歌」でも、如実に感知される。

あたら夜を伊勢の浜荻をりしきて妹恋しらに見つる月かな(基俊「千載500」)
(歌意: もったいないような月夜なのに、私は伊勢の海辺で旅寝するために葦を折り敷いて寝床に作り、都の妻を恋しがりながら、こうして月を眺めることよ。)

ひとり見る池の氷にすむ月のやがて袖にもうつりぬるかな(俊成「新古640」)
(歌意: 独り見ていた池の氷にくっきりと照っていた月が、そのまま、涙に濡れた袖にも映ったのであるよ。)

ひとめ見し野辺のけしきはうら枯れて露のよすがにやどる月かな(寂蓮「新古488」)
(歌意: このあいだ来た時は人がいて、野の花を愛でていた野辺なのだが、秋も深まった今宵来てみると、その有様といえば、草木はうら枯れて、葉の上に置いた露に身を寄せるように、月の光が宿っているばかりだ。)

ひとりぬる山鳥の尾のしだり尾に霜おきまよふ床の月影(定家「新古487」)
(歌意: 独りで寝ている山鳥の尾、その垂れ下がった尾に、霜が置いているのかと迷うばかりに、しらじらと床に射す月影よ。)

はらひかねさこそは露のしげからめ宿るか月の袖のせばきに(雅経「新古436」)
(歌意: 払っても払いきれないほど、そんなに露がたくさんおいているにしても、よくまあ月の光が宿るものだわ、こんな狭い袖の上に。)

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥(その二十六)

その二十六 従三位頼政

鹿下絵十一の二.jpg

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の十三「源頼政・藤原重家・藤原家隆」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

シアトル・頼政・重家.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(「源頼政・藤原重家」(シアトル美術館蔵))

26 従三位頼政:今宵だれすゞふく風を身にしめてよし野たけの月を見るらむ
(釈文)今宵誰須々ふ久風を身尓しめ天よし野濃多介乃月を見るら無

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yorimasa.html#AT

    題しらず
今宵たれすずふく風を身にしめて吉野の嶽に月を見るらむ(新古387)

(通釈)今宵、師の竹に吹く風を身に染みるように聞きながら、葦の野さん額の上で、誰が月を眺めているのだろう。
【語釈】◇すずふく風 篠竹を吹く風。◇吉野のたけ 吉野の山嶽。「たけ」は竹と掛詞になり、「すず」の縁語。
【補記】『頼政集』に拠れば題は「月」。「御嶽詣の修験者を思いやった歌であろう」(岩波古典大系注)。なお、『頼政集』は第四句「吉野のたけの」とする。

源頼政 長治一~治承四(1104-1180)

摂津国渡辺(現大阪市中央区)を本拠とした摂津源氏の武将。参河守頼綱の孫。従五位下兵庫頭仲正(仲政)の息子。母は勘解由次官藤原友実女。兄弟に頼行・光重・泰政・良智・乗智、姉妹に三河(忠通家女房。千載集ほか作者)・皇后宮美濃(金葉集ほか作者)がいる。藤原範兼は母方の従弟、宜秋門院丹後は姪にあたる。子には仲綱・兼綱・頼兼・二条院讃岐ほか。
永久・元永年間(1113-1120)、国守に任ぜられた父に同行し、下総国に過ごす。保延年間、父より所領を譲られる。白河院判官代となり、保延二年(1136)、蔵人となり従五位下に叙せられる。保元元年(1156)七月、保元の乱に際しては後白河院方に従い戦功を上げたが、行賞には預らなかったらしい(平家物語)。同四年十二月、平治の乱にあって平家方に参加、再び武勲を上げる。以後漸次昇進し、治承二年(1178)十二月、平清盛の奏請により武士としては異例の従三位に叙された。同三年、出家するが、平氏政権への不満が高まる中、治承四年四月、高倉宮以仁王(もちひとおう)(後白河院第二皇子)の令旨を申し請い、翌月、平氏政権に対し兵を挙げる。三井寺より王を護って南都へ向かうが、平知盛・重衡ら率いる六波羅の大軍に追撃され、同年五月二十六日、宇治川に敗れ平等院に切腹して果てた。薨年七十七。
歌人としては俊恵の歌林苑の会衆として活動したほか、藤原為忠主催の両度の百首和歌(「丹後守為忠朝臣百首」「木工権頭為忠朝臣百首」)、久安五年(1149)の右衛門督家成歌合、永万二年(1166)の中宮亮重家朝臣家歌合、嘉応二年(1170)の住吉社歌合、同年の建春門院北面歌合、承安二年(1172)の広田社歌合、治承二年(1178)の別雷社歌合、同年の右大臣兼実家百首など、多くの歌合や歌会で活躍した。藤原実定・清輔をはじめ歌人との交遊関係は広い。また小侍従を恋人としたらしい。『歌仙落書』『治承三十六人歌合』に歌仙として選入される。鴨長明『無名抄』には、藤原俊成の「今の世には頼政こそいみじき上手なれ」、俊恵の「頼政卿はいみじかりし歌仙なり」など高い評価が見える。自撰と推測される家集『源三位頼政集(げんのさんみよりまさしゅう)』(以下『頼政集』と略)がある。詞花集初出。勅撰入集五十九首。

「頼政卿はいみじかりし歌仙也。心の底まで歌になりかへりて、常にこれを忘れず心にかけつつ、鳥の一声鳴き、風のそそと吹くにも、まして花の散り、葉の落ち、月の出入り、雨雲などの降るにつけても、立居起き臥しに、風情をめぐらさずといふことなし。真に秀歌の出で来る、理(ことわり)とぞ覚え侍りし」(鴨長明『無名抄』に見える俊恵の評)

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その二十四)

「法性寺入道前関白太政大臣」(藤原忠通)の後に「従三位頼政」(源頼政)が続くのは、つくづくと、この配列順で、それぞれの「月の歌」を収載した『新古今和歌集』の実質的な編纂者の「後鳥羽院」(そして、それを取り巻く「良経・定家・家隆・雅経・有家」など)の卓抜したその冴えには驚きを禁じ得ない。
 と同時に、膨大な『新古今和歌集』の歌群の中から、「362 心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮(西行法師)」から「389 鳰の海や月の光のうつろへば波の花にも秋は見えけり(藤原家隆)」までを「鹿下絵新古今和歌巻」(光悦書・宗達画)に仕立て上げた「徳有斎光悦」(本阿弥光悦)の、その「和歌・新古今和歌集」等々の理解と、その理解を証しする用意周到なる巧みさには驚嘆以外の言辞を弄することを知らない。

風ふけば玉ちる萩の下露にはかなく宿る野辺の月かな(藤原忠通「新古386」)
今宵たれすずふく風を身にしめて吉野の嶽に月を見るらむ(源頼政「新古387」)

「大虚庵光悦」(本阿弥光悦)には「蓮下絵百人一首和歌巻」(大正十二年関東大震災などで一部焼失)がある。そこには、下記の三首のうち「76法性寺入道前関白太政大臣」と「77崇徳院」とは、どのようなものであったかは(「欠けている十九首」)定かではない。

75契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋も去ぬめり(藤原基俊)
(釈文: 契を支し左世も可露も命尓天哀今年濃秋も以怒め里 )
76わたの原こぎいでてみれば久方の雲いにまがふ沖つ白波(法性寺入道前関白太政大臣)
(釈文: 不明  )
77瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ(崇徳院)
(釈文: 不明  )

 これらの「百人一首」の三首には、いわゆる「保元の乱」(保元の乱は、平安時代末期の保元元年七月に皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変である。崇徳上皇方が敗北し、崇徳上皇は讃岐に配流された)と何らかの接点があるようなのである。
 この「保元の乱」(崇徳上皇方が敗北し、後白河天皇・藤原忠通方が勝者となる)は大きな節目の戦いであった。この「保元の乱」では、頼政は「後白河天皇・藤原忠通方」で、続く、「平治の乱」(「保元の乱」の後,後白河法皇をめぐって藤原通憲(信西)と藤原信頼とが反目し,通憲は平清盛と,信頼は源義朝と結んで対立。「平清盛」派が勝者となる)では、「通憲・平清盛」派で「反後白河」派であった。 
 そして、「治承・寿永の内乱(いわゆる「源平合戦」の幕開け)」の切っ掛けとなる「以仁王(後白河法皇第二皇子)の挙兵」では、頼政に武士としては破格の「従三位」の公卿に引き立てた清盛に対して反旗を翻し、「平氏打倒の狼煙」と「源氏の旗挙げ」を敢行するが、この戦闘で頼政は宇治の平等院で敗死(自決)する。
その頼政の宇治の平等院で敗死(自決)したときの辞世の歌が「平家物語」に記されている。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yorimasa.html

埋れ木の花さく事もなかりしに身のなる果ぞ悲しかりける(頼政「平家物語」)

これを最後の詞にて、太刀の先を腹に突立て、俯(うつぶき)様に貫(つらぬ)かつてぞ失せられける。その時に歌詠むべうは無かりしかども、若うより強(あなが)ちに好(す)いたる道なれば、最後の時も忘れ給はず。その首をば長七(ちやうじつ)唱(となふ)が取つて、石に括(くく)り合せ、宇治川の深き所に沈めてけり。

【通釈】埋れ木のような我が身は、花の咲くことなどあるはずがなかったのに、あえて行動を起こし、このような結果になってしまったことが悲しい。
【語釈】◇三位入道 頼政を指す。◇渡辺長七唱 頼政の家来。◇埋れ木 水中や土中に永く埋もれていて、変わり果ててしまった木。世間から捨てて顧みられない身の上を暗示する。◇身のなる果 おのが身の最期。「身の成る」に「実の生(な)る」を掛ける。木・花・実で縁語になる。
【補記】治承四年五月、頼政は以仁王(もちひとおう)と結んで平氏打倒を目指し挙兵したが、平知盛・重衡ら率いる六波羅の大軍に破れ、同月二十六日、宇治の平等院で自害した。その時の辞世と伝わる。

この頼政の辞世の歌なども、嘗て「法性寺入道前関白太政大臣」(藤原忠通)と共に「崇徳院」を讃岐に配流させた「保元の乱」の立役者且つ源氏の武家歌人の一人として、上記の「百人一首」の「崇徳院」の後に続けるのも一興であろう。

76わたの原こぎいでてみれば久方の雲いにまがふ沖つ白波(法性寺入道前関白太政大臣)
77瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ(崇徳院)
? 埋れ木の花さく事もなかりしに身のなる果ぞ悲しかりける(従三位頼政) 

 この頼政の宇治の平等院で敗死(自決)したとき場面は、世阿弥の「二番目物(老武者物)」の「頼政」で今に知れ渡っている。

「頼政(よりまさ)」

埋もれ木の生涯を風雅に生きた、源三位頼政。しかし彼は、その人生の最後に臨んで、歴史に名を残すことになったのだった。終焉の地・平等院で見せる、老骨の矜持。
(概要)
旅の僧(ワキ)が宇治の里に通りかかると、一人の老人(前シテ)が現れる。僧は老人に案内を請い、二人は里の名所を見てまわる。最後に老人は僧を平等院に案内すると、源平合戦の古蹟を見せ、今日がその合戦の日に当たるのだと教える。老人は、合戦で自刃した源頼政の回向を僧に頼み、姿を消してしまう。実はこの老人こそ、頼政の幽霊であった。
僧が供養していると、頼政の幽霊(後シテ)が往時の姿で現れ、僧の弔いに感謝する。頼政は、合戦へと至った経緯を語り、宇治川の合戦の緊迫した戦場の様子を再現して見せる。やがて、自らの最期までを語り終えた頼政は、供養を願いつつ消えてゆくのだった。
(ストーリーと舞台の流れ)
1 ワキが登場し、自己紹介をします。
2 前シテがワキに声を掛けつつ登場し、二人は言葉を交わします。
3 前シテはワキを平等院へと案内すると、自らの正体を明かして消え失せます(中入)。
4 間狂言が登場し、ワキに源頼政の故事を語ります。
5 ワキが弔っていると、後シテが現れます。
6 後シテはワキと言葉を交わし、弔いに感謝します。
7 後シテは、宇治川の合戦に至った経緯を語りはじめます(〔クリ・サシ・クセ〕)。
8 後シテは、宇治川の合戦のありさまを語ります(〔語リ〕)。
9 後シテは自らの最期の様子を語って消え失せ、この能が終わります。

源三位頼政.jpg

(画・月岡芳年 ボストン美術館所蔵)

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥(その二十七)

その二十七 大宰大弐重家

鹿下絵十一の二.jpg

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の十三「源頼政・藤原重家・藤原家隆」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

鹿下絵・シアトル十三.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(「藤原重家」(シアトル美術館蔵))

27 大宰大弐重家:月みればおもひぞあへぬ山高みいずれの年の雪にか有乱
(釈文)法性寺入道前関白太政大臣家尓、月哥安ま多よ見侍介る尓
月見禮半おも日曽安へぬ山高三い徒禮能年濃雪尓可有乱

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sigeie.html

   法性寺入道前関白太政大臣家に、月の歌あまたよみ侍りけるに
月見れば思ひぞあへぬ山たかみいづれの年の雪にかあるらむ(新古388)
【通釈】山に射す月の光を見れば、どうしてもそれとは思えない。高い山にあって、万年雪が積もっているので、いつの年に降った雪かと思うのだ。
【語釈】◇思ひぞあへぬ 月光だと思おうとしても、思うことができない。◇いづれの年の雪 和漢朗詠集の「天山不便何年雪 画っぽ王命給費珠」(天山は便へ図何れの年の雪ぞ。合浦には迷ひぬべし旧日の珠)を踏まえる。白じらと冴える月光を雪に見立てている。

藤原重家  大治三~治承四(1128-1180)

 もとの名は光輔。六条藤家顕輔の子。清輔の弟。季経の兄。経家・有家・保季らの父。
諸国の守・刑部卿・中宮亮などを歴任し、従三位大宰大弐に至る。安元二年(1176)、出家。法名蓮寂(または蓮家)。治承四年十二月二十一日没。五十三歳。
 左京大夫顕輔歌合・右衛門督家成歌合・太皇太后宮大進清輔歌合・太皇太后宮亮経盛歌合・左衛門督実国歌合・建春門院滋子北面歌合・広田社歌合・九条兼実家百首などに出詠。また自邸でも歌合を主催した。兼実家の歌合では判者もつとめている。兄清輔より人麿影像を譲り受けて六条藤家の歌道を継ぎ、子の経家に伝えた。詩文・管弦にも事蹟があった。
『歌仙落書』に歌仙として歌を採られる。自撰家集『大宰大弐重家集』がある。千載集初出。

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その二十五)

 「従三位頼政」に続き、「従三位大宰大弐重家」の、しかも「法性寺入道前関白太政大臣家」での一首(詞書)を採っているのも、編纂者・撰者などの趣向なのであろう。そして、この「大宰大弐」の役職は、「律令制において西海道の九国二島を管轄し、九州における外交・防衛の責任者で、実権はこの次官の大宰権帥及び大宰大弐に移っている」という、引く手あまたの重要ポストの一つである。
『新古今和歌集』の入集数は、頼政の三首に対して重家は四首であるが、この重家は、「歌の家」の「御子左家」(「俊成・定家」一門)に対する「六条藤家」(「顕季→顕輔→清輔→重家」一門)の四代目の当主である。

(「六条藤家」系図)

六条藤家.jpg

 「六条藤家」は、「六条源家」(「経信→俊頼→俊恵」一門)に対するもので、ここで、「六条源家」・「六条藤家」・「御子左家」の代表的歌人の『新古今和歌集』の入集数などを見てみると次のとおりである。

「六条源家」(俊頼は「御子左家」の俊成の師 「革新派=新風」)
源経信    正二位大納言太宰権帥 十九首
源俊頼(経信の子)従四位上木工権頭 十一首『金葉和歌集』撰者(白河院「下命」)
俊恵(俊頼の子) 東大寺の僧    十二首(「歌林苑」結成)

「六条藤家」(「御子左家(革新派=新風)」に対する「伝統派=古風」=「人麻呂影供」)
藤原顕季      正三位修理大夫    一首
藤原顕輔(顕季の子)正三位左京大夫    六首『詞花和歌集』撰者(崇徳院「下命」)
藤原清輔(顕輔の子)正四位下太皇太后宮大進十二首『続詞華集』撰者(二条院「下命」)
藤原重家(顕輔の子)従三位大宰大弐     四首
顕昭(顕輔の猶子) 法橋          二首(「御子左家」と論争)
藤原有家(重家の子)従三位大蔵卿  十九首『新古今集』撰者(後鳥羽院「下命」)

「御子左家」(「六条藤家(伝統派=旧派)」に対する「革新派=新風」)
藤原俊成  正三位皇太后宮太夫   七十二首『千載集』撰者(後白河院「下命」)
藤原定家(俊成の子)正二位権中納言 四十六首『新古今集』撰者(後鳥羽院「下命」)
寂蓮(俊成の猶子) 和歌所寄人   三十五首『新古今集』撰者(後鳥羽院「下命」)
俊成卿女(俊成の孫)後鳥羽院女房  二十九首

 「六条源家」の歌風などについては、源俊頼が白河院の下命により撰者となった第五勅撰集『金葉和歌集』の成立の背景や評価などを見て行くと参考になる。そして、何よりも、その下命者が、「治天の君」の白河院で、三度目の奏覧を経ても白河院の意向を充たすものではなかったようである。
 六条藤家の藤原清輔の歌論書『袋草紙』では、「ひじつきあるじ」(まがい物の歌集)と揶揄されているようであるが、それは単に、撰者の俊頼の評だけではなく、和歌に関しても一家言を有していた白河院に対するニュアンスも含まれているもののように解せられる。
 白河院は、この『金葉和歌集』の前の第四勅撰集『後拾遺和歌集』(藤原通俊撰)の勅宣者であるが、この時には、俊頼の父の経信が通俊の先輩格の歌人で、この第五勅撰集の撰者を経信の子の俊頼にしたのも、その背景は複雑のようである。
 俊頼の歌論書は『俊頼髄脳』(俊頼口伝)で、これは、第三勅撰集の撰者ともされている藤原公任の『新撰髄脳』を発展させたように解せられる。
そのポイントは、「おほかた、歌の良しといふは、心をさきとして、珍しき節をもとめ、詞をかざり詠むべきなり(=およそ歌がよいと評価されるのは、まず詠む対象に対する感動が第一であり、その感動を表現するときは、どこかに新しい趣向を凝らし、しかも華やかに表現すべきである)」と、「歌の言葉と趣向の働き」ということに力点を置いていることで、これが俊頼の「新しみ」ということになろう。
 この「六条源家」の俊頼の『俊頼髄脳』に対して、「六条藤家」の清輔の歌論書『袋草紙』(四巻・遺編一巻)は、「対内的には作歌上の心得を教示するだけでなく、藤原隆経・藤原顕季・藤原顕輔・藤原清輔にわたる重代の歌人の心構えを説き、対外的には重代の家としての厳しさを強調し、その厳しさに絶えた矜持を誇示することにあった」(「『袋草紙』著述意図に関する一考察・蘆田耕一稿」)との論稿がある(下記のアドレスのとおり)。

https://ir.lib.shimane-u.ac.jp/ja/5390

 この論稿の「藤原隆経・藤原顕季・藤原顕輔・藤原清輔にわたる重代の歌人の心構え」というのは、「六条藤家」の「重代歌人の心構え」として、「人麿影供」(歌聖柿本人麿を神格化し、その肖像を掲げ、その「人麿影供」に和歌を献じることを「歌会=歌の道」の基本とする流儀)の、その「六条藤家」の歌道継承の「人麿影供伝授」のような一家相伝のようなものを内容としている。従って、当然に、「人麿崇拝」は「万葉集崇拝」が、その基調となってくる。
 これは、「人麿影供」の創始者とされている「六条藤家」初代の顕季の子、二代目・顕輔が撰者となった第六勅撰和歌集の『詞華和歌集』(崇徳院下命)、それに続く、三代目・清輔が撰者となった幻の勅撰集(実質は「私撰集」)の『続詞華和歌集』(二条天皇下命、二条天皇崩御)には、「六条源家」そして「御子左家」を「革新派=新風」(「白河院」・「後白河院」風)とするならば、「六条藤家」(「崇徳院」・「二条天皇」風)の、「伝統派=古風」という雰囲気を漂わせている。
 さて、「御子左家」については、その『新古今和歌集』の入集数が、俊成(七十二首)、定家(四十六首)、寂蓮(三十五首)、そして、俊成卿女(二十九首)と、「六条藤家」の歌人群に比して、断トツ群れを抜いている。
 これは、偏に、『新古今和歌集』の勅命の下命者が、俊成門の「後鳥羽院」の意向と見做すのも間違いではなかろうが、それ以上に、例えば、「六条藤家」の顕輔が撰者となった『詞華和歌集』の勅撰の下命者の「崇徳院」も、続く、清輔が撰者となった『続詞華和歌集』の勅撰の下命者「二条天皇」も、若くして「配流」そして「崩御」と「六条藤家」を支えるバックグランドが希薄になってしまったということが、その背景の真相であろう。
 それに引き換えて、「御子左家」の創始者・俊成は、その「六条藤家」の「顕輔・清輔」の『詞華和歌集』・『続詞華和歌集』に続き、「後白河院」の勅撰の命により、第七勅撰集『千載和歌集』の撰者となって、それが雪崩を打って、次の、「後鳥羽院」の第八勅撰集『新古今和歌集』として結実したということになろう。
 この俊成の『千載和歌集』は、俊成の継承者・定家が、その助手を務め、その最多入集歌人は『金葉和歌集』撰者の源俊頼(五十二首)で、俊成自身(三十六首)がそれに次ぎ、続いて、「保元の乱」の敗者である、藤原基俊(二十六首)・崇徳院(二十三首)が続くのである。
 この「源俊頼・藤原基俊」は、俊成の師筋の二人で、その俊頼を筆頭に置いたのは、『千載和歌集』、そして、俊成を祖とする「御子左家」の歌風の基本は、「六条源家」の俊頼の「革新派=新風」を礎にするものということであろう。それ以上に、配流された「崇徳院(二十三首)」は、俊成の、その「鎮魂」の意を込めての勅撰集ということも意味しよう。

(『千載和歌集』1162 崇徳院御製=長歌=『千載集』は『古今集』に倣い「短歌」の表示)
しきしま(敷島)や やまと(大和)のうた(歌)の 
つた(伝)はりを き(聞)けばはるかに 
ひさかた(久方)の あまつかみ(天津神)よ(世)に はじ(始)しまりて
みそもじ(三十文字)あまり ひともじ(一文字)は いづも(出雲)のみや(宮)の
やくも(八雲)より お(を)こりけりとぞ しるすなる
それよりのちは ももくさ(百草)の こと(言)のは(葉)しげく ちりぢりの 
かぜ(風)につけつつ き(聞)こゆれど
ちか(近)きためしに ほりかは(堀河)の なが(流)れをくみて 
さざなみの よ(寄)りくるひと(人)に あつらへて
つたなきこと(事)は はまちどり(浜千鳥) あと(跡)をすゑまで 
とどめじと おも(思)ひなからも
つ(津)のくにの なには(難波)のうら(浦)の なに(何)となく
ふね(舟)のさすがに このこと(事)を しの(忍)びならひし 
なごり(名残)にて よ(世)のひと(人)きき(聞)は はづかしの 
もりもやせむと おも(思)へども こころ(心)にもあらず かき(書)つらねつる

(『千載和歌集』77 白河院御製)
咲きしよりちるまで見れば木(こ)の本に花も日かずもつもりぬるかな
(花が咲きはじめてから散るまでの間眺めていると、木の下にも花も落ち積もり、日数も重なってしまったなあ。)

(『千載和歌集』78 院御製=後白河院御製)
池(いけ)水にみぎはのさくらちりしきて波の花こそさかりなりけれ
(池の水に池畔の桜が一面に散り敷いて、波の花は今がさかりだよ。)

(『千載和歌集』121 二条院御製)
我もまた春とともにやかへらましあすばかりをばこゝにくらして
(弥生尽に一日のこす今日白河殿に来たが、明日もう一日だけここに暮らして、春とともに私もまた去って行くことにしよう。)

(『千載和歌集』122 崇徳院御製)
花は根に鳥はふるすに返(かへる)なり春のとまりを知る人ぞなき
(春が終われば、花は根に、鳥は古巣に帰ると聞いているが、春の行き着く泊りを知っている人はいないことだ。)

(『千載和歌集』124 式子内親王=後白河院皇女)
ながむれば思ひやるべきかたぞなき春のかぎりのゆふぐれの空
(物思いつつ夕空をみつめていると、春の逝かんとするこの名残り惜しい思いをどこに晴らすべきかそのあてもないことだよ。)

(『千載和歌集』178 藤原基俊=俊成の師)
いとゞしくしづの庵のいぶせきに卯花(うのはな)くたしさみだれぞする
(ただでさえ鬱陶しい賎の庵が一層気づまりなのに、垣根の卯の花を腐らして五月雨が降り続くことだ。)

(『千載和歌集』179 源俊頼朝臣=俊成の師、「六条源家」、『金葉集』撰者=第五勅撰集)
おぼつかないつか晴(は)るべきわび人の思ふ心やさみだれの空
(はっきりしないことだ。いつになったら晴れるのだろうか。世を侘びて住む私の心が重苦しい五月雨の空になっていることだ。)

(『千載和歌集』181 左京大夫顕輔=顕輔、「六条藤家」、『詞華集』撰者=第六勅撰集)
さみだれの日かずへぬれば刈りつみししづ屋の小菅くちやしぬらん
(五月雨の降り続く日数が積もり重なって、刈り積んで置いた「賎屋の小菅」も朽ちてしまっただろうか。)

(『千載和歌集』183 皇太后大夫俊成=俊成、「御子左家」、『千載集』撰者=第七勅撰集)
さみだれはたく藻のけぶりうちしめりしほたれまさる須磨の浦人
(五月雨は藻塩を焚く煙まで湿らせて晴れぬ思いをつのらせるよ。日頃より一層しとどに涙の流れてやまぬ須磨の浦の侘び人よ。)

(『千載和歌集』184 藤原清輔朝臣、「六条藤家」、『続詞華集』撰者=私撰集)
ときしもあれ水のみこも刈りあげて干さでくたしつさみだれの空
(時もあろうに、水漬いた水菰を刈りあげたが、五月雨続きの空の下、干す折りもなく腐らせてしまったよ。)

(『千載和歌集』212 俊恵法師、「六条源家」、俊頼の息子)
岩間もる清水をやどにせきとめてほかより夏をすぐしつる哉
(岩間をしたたり落ちる清水を我が宿せ堰きとめて、お陰で暑さ知らずの夏を過ごしたことであった。)

(『千載和歌集』213 顕昭法師、「六条藤家」、顕輔の猶子)
さらぬだにひかり涼しき夏の夜の月を清水にやどりして見る
(それでなくてさえ光の涼しく澄んだ夏の夜の月を清水に映して賞美することだ。)

(『千載和歌集』760 二条院讃岐、源三位頼政の息女)
我が袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らぬ乾く間ぞなき
(私の袖は、引き潮の時にも見えない沖の石のように、思う人は知らないでしょうが涙に濡れて乾く間とてありませんよ。)

(『千載和歌集』762 太宰大弐重家=藤原重家、「六条藤家」、顕輔の息子)
恋ひ死なむことぞはかなき渡り河逢ふ瀬ありとは聞かぬものゆへ
(恋い死にをして何の甲斐もないことだ。三途の川には恋人との逢う瀬があるとは聞いていないから。)

(『千載和歌集』765 寂蓮法師、「御子左家」、俊成の猶子)
思ひ寝の夢だに見えて明けぬれば逢はでも鳥の音(ね)こそつらけれ
(恋しい人を思いながら寝ると夢で逢えるというが、その夢にさえ見えないで夜が明けてしまったので、恋人に逢えなくても暁の鳥の声は本当につらいものだよ。)

(『千載和歌集』1004 藤原定家、「御子左家」、俊成の息子、『新古今』撰者=第八勅撰集)
いかにせむさらで憂き世はなぐさまずたのめし月も涙落ちけり
(一体どうしたらよかろう。そうでなくてもこの憂き世は慰められない。慰められるかと期待した月も涙が落ちるばかりだ。)

(『千載和歌集』1005 藤原家隆、『新古今』撰者=第八勅撰集)
山深き松のあらしを身にしめてたれか寝覚めに月を見る覧(らん)
(深山の松に吹く烈風を、その身に深く浸み通らせて、誰かが今、寝覚めして月を見ていることか。)

(『千載和歌集』1150 円位法師=西行)
いずくにか身を隠(かく)さまし厭(いと)出(い)でゝ憂き世に深き山なかりせば
(どこに一体身を隠したらよいのだろう。憂き世を厭離しても深い山がなかったとしたらば。深山があってこそ身を隠すことができるのだ。)

(『千載和歌集』1151 皇太后大夫俊成=釋阿、「御子左家」、『新古今』撰者=第八勅撰集)
世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にね鹿ぞ鳴くなる
(世の中よ、ここには憂さから遁れ出る道は無いのだな。深く思いつめて入った山の奥にも、鹿の悲しげな鳴き声が聞こえる。)

(『千載和歌集』1154 藤原有家、「六条藤家」、重家の息子、『新古今』撰者=第八勅撰集)
初瀬山いりあひの鐘を聞くたびに昔の遠くなるぞ悲しき
(初瀬山で入相の鐘を耳にするたびに、父と過ごした昔の遠くなっていくのが悲しい。)

(追記) 『千載和歌集』における俊成の「幽玄」

 俊成が師事した藤原基俊は、その歌合の判詞において「言凡流をへだてて幽玄に入れり。まことに上科とすべし」「詞は古質の体に擬すと雖も、義は幽玄の境に通うに似たり」(「長承三年九月十三日の中宮亮顯輔家歌合」など)を今に残している。
 この基俊の「幽玄論」については、下記のアドレスの「藤原基俊の歌論の意義― 特に俊成の幽玄論成立過程における(稲田繁夫稿)」などが詳しい。

http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/31885/1/kyoikuJK00_06_05.pdf

 そこで、「基俊において意識されてみた歌心は『さびしさ』『「あはれさ」であり、『姿さび』『心細し』の境地である、それは公任以来の伝統的なる美意識の深化であり、俊成的幽玄の構造の一半をなすものとして意義があった」としている。
 また、「俊成の幽玄の基調が『もののあはれ』の美意識の深化である静寂美にあったとすると、それは経信、俊頼の系列よりも基俊などの保守派の系譜の上に醸成されて来たやうである」と指摘している。           
 さらに、「中世歌論の本道は俊頼、基俊の二支流から総合化されていったが、その 理念的なものは多く基俊の流れからであり、伝統的な歌境の上に、俊頼の「珍らしき節」ある意匠、興趣が点火された構造機構として成立したものと見ることができうるであらう。俊成の幽玄美が、静寂な、ひそやかな、哀れな情趣が象徴され、 どことなく淋しさや哀れさのこもったほのかな美しさを湛へてゐるのは基俊的なものの発展である」と続けている。
 この論稿のニュアンスからすると、俊成が判詞などで多用する「姿既に幽玄の境に入る」「幽玄にこそ聞え侍れ」「幽玄の体なり」「心幽玄」「風体は幽玄」などの、この「幽玄」のイメージは、『精選版 日本国語大辞典』の、次の記述などが、最も分かり易いように思われる。

【⑥ 日本の文学論・歌論の理念の一つ。①の深遠ではかり知れない意を転用したもので、特に、中古から中世にかけて、詩歌や連歌などの表現に求められた美的理念を表わす語。「もののあわれ」の理念を発展させたもので、はじめは、詩歌の余情のあり方の一つとして考えられ、世俗をはなれた神秘的な奥深さを言外に感じさせるような静寂な美しさをさしたものと思われる。その後、一つの芸術理念として、また、和歌の批評用語として種々の解釈を生み、優艷を基調とした、情趣の象徴的な美しさを意味したり、「艷」や「優美」「あわれ」などの種々の美を調和させた美しさをさすと考えられたりした。また、艷を去った、静寂で枯淡な美しさをさすとする考えもあり、能楽などを経て、江戸時代の芭蕉の理念である「さび」へと展開していった。 】

いとゞしくしづの庵のいぶせきに卯花くたしさみだれぞする(基俊「千載」178)
(この「基俊」の歌は、芭蕉の「髪はえて容顔蒼し五月雨」=「続虚栗」=「さび・わび」に近い。)

おぼつかないつか晴(は)るべきわび人の思ふ心やさみだれの空(俊頼「千載」179)
(この「俊頼」の歌は、芭蕉の「五月雨や桶の輪切(きる)る夜の声」=「一字幽蘭集」=「わび・あだ」に近い。)

さみだれの日かずへぬれば刈りつみししづ屋の小菅くちやしぬらん(顕輔「千載」181)
(この「顕輔」の歌は、芭蕉の「五月雨や蠶(かいこ)煩ふ桑の畑」=「続猿蓑」=「さび・しほり」に近い。)

さみだれはたく藻のけぶりうちしめりしほたれまさる須磨の浦人(俊成「千載」183)
(この「俊成」の歌は、芭蕉の「五月雨の降残してや光堂」=「奥の細道」=「さび・もののび」に近い。)

ときしもあれ水のみこも刈りあげて干さでくたしつさみだれの空(「千載」184)
(この「清輔」の歌は、芭蕉の「さみだれの空吹おとせ大井川」=「真蹟懐紙」=「さび・かるみ」に近い。)

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥(その二十八)

その二十八 藤原家隆朝臣

鹿下絵十一の二.jpg

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の十三「源頼政・藤原重家・藤原家隆」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(「藤原家隆」(シアトル美術館蔵))

28 藤原家隆朝臣:にほの海や月の光のうつろへば波の華にも秋は見えけり(シアトル)
(釈文)和哥所乃哥合尓、湖邊濃月といふ事を ふ地ハら乃家隆朝臣
尓保濃海や月乃光濃う徒ろへ盤波濃華尓も秋盤見え介利

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ietaka_t.html

    和歌所歌合に、湖辺月といふことを
にほの海や月の光のうつろへば波の花にも秋は見えけり(新古389)
【通釈】琵琶湖の水面に月の光が映れば、秋は無縁と言われた波の花にも、秋の気色は見えるのだった。
【語釈】◇にほの海 琵琶湖の古称。◇波の花 白い波頭を花に見立てた。下記本歌を踏まえる。

藤原家隆  保元三~嘉禎三(1158-1237)

良門流正二位権中納言清隆(白河院の近臣)の孫。正二位権中納言光隆の息子。兼輔の末裔であり、紫式部の祖父雅正の八代孫にあたる。母は太皇太后宮亮藤原実兼女(公卿補任)。但し尊卑分脈は母を参議藤原信通女とする。兄に雅隆がいる。子の隆祐・土御門院小宰相も著名歌人。寂蓮の聟となり、共に俊成の門弟になったという(井蛙抄)。
安元元年(1175)、叙爵。同二年、侍従。阿波介・越中守を兼任したのち、建久四年(1193)正月、侍従を辞し、正五位下に叙される。同九年正月、上総介に遷る。正治三年(1201)正月、従四位下に昇り、元久二年(1205)正月、さらに従四位上に進む。同三年正月、宮内卿に任ぜられる。建保四年(1216)正月、従三位。承久二年(1220)三月、宮内卿を止め、正三位。嘉禎元年(1235)九月、従二位。同二年十二月二十三日、病により出家。法号は仏性。出家後は摂津四天王寺に入る。翌年四月九日、四天王寺別院で薨去。八十歳。
文治二年(1186)、西行勧進の「二見浦百首」、同三年「殷富門院大輔百首」「閑居百首」を詠む。同四年の千載集には四首の歌が入集した。建久二年(1191)頃の『玄玉和歌集』には二十一首が撰入されている。建久四年(1193)の「六百番歌合」、同六年の「経房卿家歌合」、同八年の「堀河題百首」、同九年頃の「守覚法親王家五十首」などに出詠した後、後鳥羽院歌壇に迎えられ、正治二年(1200)の「後鳥羽院初度百首」「仙洞十人歌合」、建仁元年(1201)の「老若五十首歌合」「新宮撰歌合」などに出詠した。同年七月、新古今集撰修のための和歌所が設置されると寄人となり、同年十一月には撰者に任ぜられる。同二年、「三体和歌」「水無瀬恋十五首歌合」「千五百番歌合」などに出詠。元久元年(1204)の「春日社歌合」「北野宮歌合」、同二年の「元久詩歌合」、建永二年(1207)の「卿相侍臣歌合」「最勝四天王院障子和歌」を詠む。建暦二年(1212)、順徳院主催の「内裏詩歌合」、同年の「五人百首」、建保二年(1214)の「秋十五首乱歌合」、同三年の「内大臣道家家百首」「内裏名所百首」、承久元年(1219)の「内裏百番歌合」、同二年の「道助法親王家五十首歌合」に出詠。承久三年(1221)の承久の変後も後鳥羽院との間で音信を絶やさず、嘉禄二年(1226)には「家隆後鳥羽院撰歌合」の判者を務めた。寛喜元年(1229)の「女御入内屏風和歌」「為家卿家百首」を詠む。貞永元年(1232)、「光明峯寺摂政家歌合」「洞院摂政家百首」「九条前関白内大臣家百首」を詠む。嘉禎二年(1236)、隠岐の後鳥羽院主催「遠島御歌合」に詠進した。
藤原俊成を師とし、藤原定家と並び称された。後鳥羽院は「秀哥ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり」と賞讃し(御口伝)、九条良経は「末代の人丸」と称揚したと伝わる(古今著聞集)。千載集初出。新勅撰集では最多入集歌人。勅撰入集計二百八十四首。自撰の『家隆卿百番自歌合』、他撰の家集『壬二集』(『玉吟集』とも)がある。新三十六歌仙。百人一首にも歌を採られている。『京極中納言相語』などに歌論が断片的に窺える。また『古今著聞集』などに多くの逸話が伝わる。

「家隆卿は、若かりし折はきこえざりしが、建久のころほひより、殊に名誉もいできたりき。哥になりかへりたるさまに、かひがひしく、秀哥ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり。たけもあり、心もめづらしく見ゆ」(後鳥羽院御口伝)。
「かの卿(引用者注:家隆のこと)、非重代の身なれども、よみくち、世のおぼえ人にすぐれて、新古今の撰者に加はり、重代の達者定家卿につがひてその名をのこせる、いみじき事なり。まことにや、後鳥羽院はじめて歌の道御沙汰ありける比、後京極殿(引用者注:九条良経を指す)に申し合せまゐらせられける時、かの殿奏せさせ給ひけるは、『家隆は末代の人丸にて候ふなり。彼が歌をまなばせ給ふべし』と申させ給ひける」(古今著聞集)。

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その二十六)

 第八勅撰集『新古今和歌集』の二大歌人は、「今」=「当代」を代表する歌人として「藤原定家と藤原家隆」、「古」=「当代以前」を代表する歌人として「西行と藤原俊成(釈阿)」が挙げられるであろう。
 『新古今和歌集』の入集数ですると、「定家=四十六首」「家隆=四十三首」、そして、「西業=九十四首」「俊成(釈阿)=七十二首」で、「寄人(和歌所職員)」「撰者」として「俊成・定家・家隆」が、その名を列ねている。
 これが、第七勅撰集『千載和歌集』になると、撰者は「藤原俊成」一人、その入集数の多い順から記すと、「俊頼=五十二首、俊成=三十六首、基俊=二十六首、崇徳院=二十三首、俊恵=二十二首、和泉式部=二十一首、道因・清輔=二十首、円位(西行)=十八首」となり、「定家と家隆」は、「定家=八首」「家隆=四首」と一桁台となってくる。
 その「家隆=四首について、下記に列挙して置きたい。

350 さえわたるひかりを霜にまがえて月にうつろふ白菊の花(家隆「千載」)
(冴え冴えと遍満する光を霜に見間違えたか、月光に色変をしてゆく白菊の花よ。)

536 旅寝する須磨の浦路のさ夜千鳥声こそ袖の波はかけけれ(家隆「千載」)
(須磨の海辺の道に旅寝をすると、夜中に鳴く千鳥の声は、私の袖に波をかけることだよ。)

749 暮にとも契りてたれか帰るらん思ひ絶えたるあけぼの空(家隆「千載」)
(暮にまた逢おうと契って帰るのは一体誰だろうか。自分はすっかり思いあきらめてしまった、憂きかぎりのこのこの曙の空だよ。)

1005 いかにせむさらで憂き世はなぐさまずたのめし月も涙落ちけり(家隆「千載」)
(一体どうしたらよかろう。そうでなくてもこの憂き世は慰められない。慰められるかと期待した月も涙が落ちるばかりだ。)

 この家隆の四首目の前の歌は、定家の次の一首である。

1004 山深き松のあらしを身にしめてたれか寝覚めに月を見る覧(らん)
(深山の松に吹く烈風を、その身に深く浸み通らせて、誰かが今、寝覚めして月を見ていることか。)

『千載和歌集』が成ったのは、文治三年(一一八七)で、この時には、定家、二十五歳、そして、家隆、二十九歳の頃であった。定家を後継者として目している『千載和歌集』の撰者・俊成は、この若き二人に、次の時代を託していたのであろう。
 そして、それは、元久二年(一二〇五)の、『新古今和歌集』の「竟宴」(勅撰集の撰進が終わったあとで催される披露宴=天皇親撰の証)で、この二人が、この親撰の立役者・太上天皇(後鳥羽院)の両翼となって結実することになる。
 この太上天皇(後鳥羽院)が巻軸の歌となって、「俊成・西行・長明・家隆・定家」などが連なっている歌群が「巻十 羇旅歌」に収載されている。

976 世の中は憂きふししげし篠原や旅にしあれば妹(いも)夢に見ゆ(俊成「新古今」)
(世の中は辛いことがらが多い。篠原で寝る旅にいるので、妻が夢に見える。)

978 世の中をいとふまでこそ難(かた)からめ仮の宿をも惜しむ君かな(西行「新古今」)
(悩み多い世の中を嫌って出家するというまでは難しいであろうが、かりそめの宿を貸すことさえも惜しむ君であることよ。)

980 袖に吹けさぞな旅寝の夢も見じ思ふ方より通ふ浦風(定家「新古今」)
(わたしの袖を吹いてくれ。さだめし旅寝の夢を見ないであろうから。恋しく思う人の方から吹き通ってくる浦風よ。)

981 旅寝する夢路はゆるせ宇津の山関とは聞かず守(も)る人もなし(家隆「新古今」)
(旅寝して見る夢の通い路は許してくれ。宇津の山よ。ここが関だとは聞いていないし、関守もいないのだ。)

983 袖にしも月かかれとは契り置かず涙は知るや宇津の山越え(長明「新古今」)
(袖にこのように月が映れとは、月に約束していない。そのことを、涙は知っているのか。宇津の山越えよ。)

987 年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山(西行「新古今」)
(年老いて再び越えることができると思ったろうか。思いはしなかった。命があったからなのだ。佐夜の中山よ。))

988 思ひ置く人の心にしたはれて露分(わ)くる袖のかへりぬるかな(西行「新古今」)
(故郷に思いを残して来ている人が心に恋しく思われ、野の露を分けていく旅衣も、色あせ、ひるがえっては、故郷を慕い、帰る風情を見せていることよ。)

989 見るままに山嵐荒くしぐるめり都も今は夜寒なるらん(太上天皇「新古今」)
(見ているうちに、山嵐が荒くなって、しぐれてくるようだ。都も、今は、夜寒となっているのであろう。)

ここで、冒頭の家隆の「にほの海や」の一首に戻りたい。

にほの海や月の光のうつろへば波の花にも秋は見えけり(家隆「新古389」)

 『新古今和歌集』には、「にほの海」(琵琶湖)を初句とする歌は、この一首だけである。
そして、この家隆の一首は、西行の最晩年の歌境を示したと認められる、慈円の『拾玉集』の、西行と慈円との、比叡山無動寺で琵琶湖を見ながら詠んだ、次の「贈答歌」と呼応していることを、この家隆の歌の鑑賞の一端に記して置きたい。

   円位上人(西行)無動寺へ登りて大乗院の
   放出(はなちいで)に湖を見やりて
にほてるやなぎたる朝に見わたせば漕ぎゆく跡の浪だにもなし
   帰りなんとて、朝のことにてほどありしに、
  「今は歌と申すことは思ひ絶えたれど、結句
   をばこれにてこそつかうまつるべかりけれ」
   とてよみたりしかば、ただに過ぎがたくて
   和しに侍りし
ほのぼのとあふみの海を漕ぐ舟の跡なきかたにゆく心かな

「風の凪いた朝、山から鳰の海を老若二人の僧が見はるかにしている。漕ぎ去ってゆく舟の航路も見えない。浪もない。西行はたしかに「無」を見ている。がしかしそれは、風景として明鏡止水である以上に、心境として欣求浄土の浄土そのものではないか。西行の内なる『心』はふかく揺るがされている。『無』が『浄土』と一致していることに感動している。西行は慈円に言った。
―『歌というものを詠むことは今は思い絶っているのですが、わが生涯の結びの歌はここでこそ詠むべきだと感じました。これがその一首です』―
 それを受けた慈円は大先輩西行に向かって詠みかける。
―『ほのぼのと明るみかけた近江の湖(うみ)を漕ぎ去ってゆく、その舟跡は消えてなくなった方へとあなたの心は向かうのですね』― 」
                      (『岩波新書 西行(高橋秀夫著)』))

 この老若二人の僧(西行と慈円)の贈答歌は、そっくり、老若二人の歌人(西行と家隆)の次の贈答歌という雰囲気を漂わせている。

にほてるやなぎたる朝に見わたせば漕ぎゆく跡の浪だにもなし(西行「拾玉集」)
  かへし
にほの海や月の光のうつろへば波の花にも秋は見えけり(家隆「新古389」)

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥(その二十九)

その二十九 最終章(徳有斎光悦、そして「新古今和歌集」に連なる歌人たち)

鹿下絵十二.JPG

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の十四「藤原家隆・徳有斎光悦」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

シアトル・徳有斎光悦.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(「徳有斎光悦(花押)」(シアトル美術館蔵))

28 藤原家隆朝臣:にほの海や月の光のうつろへば波の華にも秋は見えけり
(釈文)和哥所乃哥合尓、湖邊濃月といふ事を ふ地ハら乃家隆朝臣
尓保濃海や月乃光濃う徒ろへ盤波濃華尓も秋盤見え介利
                      徳有斎光悦(光悦)

淡海の海夕波千鳥汝(な)が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ(柿本人麻呂『万葉集』)
にほてるや凪ぎたる朝に見わたせばこぎ行く跡の浪だにもなし(西行『拾玉集』)
ほのぼのとあふみの海を漕ぐ舟の跡なきかたにゆく心かな(慈円『拾玉集』)
鳰の海や月のひかりのうつろへば浪の花にも秋は見えけり(藤原家隆『新古今集』)
鳰のうみやけふより春にあふさかの山もかすみて浦風ぞ吹く(藤原定家「堀河院題百首」)
比良の山やま風さむきからさきのにほのみづうみ月ぞこほれる(源実朝『金槐和歌集』)
鳰の海や霞のうちにこぐ船のまほにも春のけしきなるかな(式子内親王『新勅撰集』)
鳰の海や秋の夜わたるあまを船月にのりてや浦つたふらん(俊成卿女(『玉葉集』)
四方より花吹(ふき)入(いれ)てにほの波(芭蕉「洒落堂記」)
行(ゆく)春を近江の人と惜しみけり(芭蕉『猿蓑』)
先づ頼む椎の木も有り夏木立(芭蕉『猿蓑』「幻住庵記」)
病(やむ)雁の夜寒に落ちて旅寝かな(芭蕉『猿蓑』)
海士(あま)の屋は小海老にまじるいとゞ哉(芭蕉『猿蓑』)
辛崎の松は花より朧にて(芭蕉『野ざらし紀行』)

 「鹿下絵新古今集和歌巻」の揮毫者・本阿弥光悦が、『千載和歌集』の撰者・藤原俊成に関心を寄せていたことは、「四季草花下絵千載集和歌巻」(畠山記念館蔵)や「千載和歌集序」(MIHO MUSEUM蔵)など、さらに、から、『本阿弥光悦行状記』の「三七五段 歌道の伝来は紀貫之基俊成と」などから、その一端が察知される。
 西行については、『本阿弥光悦行状記』の中に、「一三三段 西行法師行脚のとき」「三〇一段 西行法師江口の里に休らひ」「「三三二段 西行撰集抄長明発心集つれづれ草」などがあり、法華宗の信徒であると同時に、京都の王朝文化に深い関わり合いを持つ光悦にとって、浄土宗・真言密教の出家僧でもある北面武士上がりの西行は、俊成以上に親近感がある人物であったように思われる。 
 その上で、この「鹿下絵新古今集和歌巻」のスタートが、所謂「三夕の歌」(寂蓮法師=「361寂しさは―」・西行法師=「362心なき―」・定家=「363見渡せば―」)の、その二番手の西行の「362心なき―」を、巻頭に持ってきたということは、これは一に掛かって、本阿弥光悦の、『新古今和歌集』のこの西行の歌に、一入の思い入れの深かったことを示唆しているであろう。

362 心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮(西行「新古今」)

そして、そのゴールの巻軸の歌は、「後鳥羽院・俊成・定家」などの西行に匹敵する名の歌人の一首ではなく、定家が若手の一番手とすると二番手・藤原家隆の、この「389 にほの海や―」なのである。 

389 にほの海や月の光のうつろへば波の花にも秋は見えけり(家隆「新古389」)

 この家隆の一首の初句の「にほの海や」とくると、ここは、最晩年の西行と若き日の慈円との比叡山無動寺(大乗院)での「贈答歌」の、西行の「にほてるや―」の歌が想起されてくる。即ち、この「鹿下絵新古今集和歌巻」は、西行の「三夕の歌」の一首で始まり、そして、西行の最晩年の「にほの海」(近江・琵琶湖)の一首を背景とする家隆の歌をもってゴールとしているということになる。

(『拾玉集(慈円著)の「西行と慈円の「贈答歌」)

   円位上人(西行)無動寺へ登りて大乗院の
   放出(はなちいで)に湖を見やりて
にほてるやなぎたる朝に見わたせば漕ぎゆく跡の浪だにもなし
   帰りなんとて、朝のことにてほどありしに、
  「今は歌と申すことは思ひ絶えたれど、結句
   をばこれにてこそつかうまつるべかりけれ」
   とてよみたりしかば、ただに過ぎがたくて
   和しに侍りし
ほのぼのとあふみの海を漕ぐ舟の跡なきかたにゆく心かな

 「にほの海」(鳰の海・淡海の海・琵琶湖)を代表する歌は、まぎれもなく、次の人麻呂の歌ということになる。この歌の「派生歌」は多い。

淡海の海夕波千鳥汝(な)が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ(柿本人麻呂『万葉集』)

(派生歌)

風はやみとしまが崎を漕ぎゆけば夕なみ千鳥立ちゐ鳴くなり (源顕仲『金葉集』)
近江路や野嶋が崎の浜風に夕波千鳥立ちさわぐなり (藤原顕輔『風雅集』)
遠ざかる潮干のかたの浦風に夕波たかく千鳥鳴くなり (藤原為経『新後撰集』)
難波潟夕浪たかく風立ちて浦半の千鳥跡も定めず (西園寺実衡『続千載集』)
風さむみ夕波高きあら磯にむれて千鳥の浦つたふ也 (北条政村『続後拾遺集』)
和歌の浦の夕波千鳥立ちかへり心をよせしかたに鳴くなり (賢俊『新千載集』)
塩風に夕波たかく声たててみなとはるかに千鳥鳴く也 (藤原隆教『新千載集』)
鳴海潟夕波千鳥立ちかへり友よひつきの浜に鳴く也 (厳阿『新後拾遺』)

 柿本人麻呂は、「六条藤家」の「人麿影供」の儀式化の如く「歌聖(歌の神)」として崇められている。そして、「和歌→連歌→俳諧」と時代は下って、徳川幕藩体制下の「元禄時代」(江戸中期)に「俳聖・芭蕉」の時代が現出した。
 この俳聖・芭蕉は、「歌聖(歌の神)・人麻呂」ではなく、「歌の聖(ひじり)・西行」の崇拝者であった。

「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、其(その)貫道する物は一(いつ)なり。」(『笈の小文』)

 「西行・宗祇・雪舟・利休」は、「中世の諸芸道の聖(ひじり)」である。この「貫道する物」とは、芭蕉にとって、俊成の「幽玄」に通ずる「わび」「さび」の世界であった。
 芭蕉は、これらの「中世の諸芸道の聖(ひじり)」の辿った道、中でも、放浪の歌人・西行たちの足跡(歌枕)を生涯に亘って踏査し続けた。

(辛崎=近江八景→「唐崎夜雨」)

辛崎の松は花より朧にて(芭蕉『野ざらし紀行』)
唐崎の浜のまさごの尽くるまで春の名残は久しからなむ(清原元輔「新勅撰集」)
辛崎やにほてる沖にくも消えて月の氷に秋風ぞ吹く(九条=藤原良経「続後撰集」)

(堅田=近江八景→堅田落雁)

病(やむ)雁の夜寒に落ちて旅寝かな(芭蕉『猿蓑』)
海士(あま)の屋は小海老にまじるいとゞ哉(芭蕉『猿蓑』)
終(つい)にまた憂き名や立たん逢ふ事はさても堅田の浦のあだ波(高階宗成「続拾遺」)

(「大津・膳所・義仲寺」、義仲寺=木曽義仲と芭蕉の墓がある。幻住庵=曲翠の庵)

先づ頼む椎の木も有り夏木立(芭蕉『猿蓑』「幻住庵記」)
とゞこほる時もあらじな近江なる陪膳(おもの)の浜の海士のひつぎは(平兼盛「拾遺集)

(「琵琶湖=淡海(近江)の海=鳰の海=志賀の湖、「志賀の都」=「近江京・近江大津宮」
が嘗て在った所)

四方より花吹(ふき)入(いれ)てにほの波(芭蕉「洒落堂記」)
行(ゆく)春を近江の人と惜しみけり(芭蕉『猿蓑』)
淡海の海夕波千鳥汝(な)が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ(柿本人麻呂『万葉集』)
にほてるや凪ぎたる朝に見わたせばこぎ行く跡の浪だにもなし(西行『拾玉集』)
ほのぼのとあふみの海を漕ぐ舟の跡なきかたにゆく心かな(慈円『拾玉集』)
鳰の海や月のひかりのうつろへば浪の花にも秋は見えけり(藤原家隆『新古今集』)
鳰のうみやけふより春にあふさかの山もかすみて浦風ぞ吹く(藤原定家「堀河院題百首」)
比良の山やま風さむきからさきのにほのみづうみ月ぞこほれる(源実朝『金槐和歌集』)
鳰の海や霞のうちにこぐ船のまほにも春のけしきなるかな(式子内親王『新勅撰集』)
鳰の海や秋の夜わたるあまを船月にのりてや浦つたふらん(俊成卿女(『玉葉集』)
※さゞざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな(よみ人知らず=平忠度『千載集』)

 この末尾に添えた「さゞざ波や―」の一首は、平忠盛の六男で清盛の腹違いの末弟・平忠度の歌である。この歌は、寿永二年(一一八三)に木曽義仲に追い立てられた平家一門が都落ちする時に、忠度が歌の師の俊成に今生の別れを告げる、その時の一首である(『平家物語』)。
 この平忠度の歌は、文部省唱歌の「青葉の笛(参考)」(一番=「平敦盛」、二番=「平忠度」)の、その「二番=平忠度」に、「わが師(俊成)に託せし言の葉(和歌)あわれ」と歌われている。
 ここで、「志賀の都」(今の滋賀県大津市に置かれた天智天皇の都)を介して、「人麿→西行→俊成→忠度→家隆→定家→木曽義仲→芭蕉」が一線上に連なってくる。
そして、この「保元の乱→平治の乱→以仁王の乱→義仲恭兵・入京・敗死→一の谷・屋島・壇ノ浦の戦い→平氏滅亡→鎌倉幕府と源氏の抬頭」の時代と、光悦の時代の「織田信長の入京(光悦=十一歳)→本能寺の変(光悦=二十五歳)→豊臣秀吉没(光悦=四十一歳)→関ヶ原の戦い(光悦=四十三歳)→徳川家康征夷大将軍(光悦=四十六歳)→古田織部自決と光悦鷹が峰移住(光悦=五十八歳)→徳川家康没(光悦=五十九歳)→徳川秀忠・・角倉素庵没(光悦=七十五歳)→島原の乱・光悦没(光悦=八十歳)」とは、日本の歴史の大きな変革の時代であった。
それが故に、光悦筆の数ある和歌巻の中で、一際、「新古今和歌集」と「千載和歌集」との和歌巻が目立つのは、光悦の好尚に因るものだけではなく、より光悦をして、それらを制作せしめた必然的な時代史的な背景が横たわっていることを実感する。そして、同時に、この「鹿下絵新古今和歌和歌巻」こそ、それらの最も中枢に位置するもと解したい。

(参考)

文部省唱歌「青葉の笛」(作詞:大和田建樹、作曲:田村虎蔵)

1 一の谷の軍(いくさ)破れ
  討たれし平家の公達(きんだち)あわれ → 熊谷次郎直実に討たれた「平敦盛」
  暁寒き須磨(すま)の嵐に
  聞こえしはこれか 青葉の笛
2 更くる夜半に門(かど)を敲(たた)き
  わが師に託せし言(こと)の葉あわれ →「わが師」=「わが=忠度」「師=俊成」
  今わの際(きわ)まで持ちし箙(えびら)に
  残れるは「花や今宵」の歌 →「行き暮れて木の下蔭を宿とせば花や今宵の主(あるじ)ならまし」→『平家物語(巻第九)』「忠度最期」→平忠度の「辞世の歌」

(追記一)西行が死にゆく義仲に捧げた歌四首

http://www.st.rim.or.jp/~success/kisoY_ye.html

【西行の聞書集の中に、「地獄絵を見て」という一連の歌が並んでいる。どこまでが「地獄絵を見て」なのかは、不明だが、この続きに死んでゆく木曾義仲に捧げたと見られる歌が四首並んでいる。(以下、「詞書」等=略。「聞書集」は定家が西行の歌を聞き書きしたもので、西行の連歌など貴重な情報が満載している。)

1 歌  朝日にやむすぶ氷の苦はとけむ六つの輪を聞くあかつきの空
(歌意:朝日が昇ってきた。これで氷結した氷のような苦しみも氷解してゆくのだろうか。暁の空に錫杖の音がどこからともなく聞こえて来る。)

2 歌 死出の山越ゆるたえまはあらじかしなくなるひとのかずつづきつつ
(歌意:戦によって死出の山路を越えて行く人がなくなるということはないのであろうか。今日もまたそこかしこで戦で人が死んだという話を聞くにつけて。)

3 歌 しずむなる死出の山がわみなぎりて馬筏もやかなわざるらむ
(歌意:人が沈んでゆく。川が死出の山となって濁流に武者たちが次々と呑まれてゆくのだよ。馬筏もこの流れには敵わないと見えて。)

4 歌 木曾人は海のいかりをしずめかねて死出の山にも入りにけるかな
(歌意:木曾に育った武者はついに大海の怒りを静めることができず、死出の山路を越えることになったのだろうか。) 】

(追記二)光悦の庵号「大虚庵」と「徳有斎」の一つの覚書き

  世にあらじと思ひける頃、東山にて、
人々霞によせて思ひをべるけりに
そらになる心は春の霞にて世にあらじとも思ひたつかな(西行『山家集』「春歌」)

http://sanka11.sakura.ne.jp/sankasyu3/26.html

【「(そら)は空・虚の字に当たる。「世にあらじ」と遁世を思い立つ心は、霞のように茫漠として焦点の定まらない心理状態で表現されている。それは 佐藤一族の棟梁としての苦悩であり、荘園問題の重圧に疲れた虚脱状態だろう。」 (高橋庄次「西行の心月輪」より抜粋) 】

 本阿弥光悦を継承する孫の「本阿弥光甫」のの姓号は「空中(くうちゅう)軒」である。これからすると、「大虚庵(たいきょあん)=大空庵(たいくうあん)」と解して、「虚(そら)=空(くう)」が呼応してくるであろう。
 その「大虚庵」に対する「徳有斎」については、「大虚庵」が、光悦の五十八歳時の「鷹が峰移住・芸術村の経営」以後の晩年の「庵号」とすると、「徳有斎」は、それ以前の「上京区小川今出川・本阿弥辻子」の「斎(とき=斎食=精進料理)号」のようにも解せられる。

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その一~十八)

その一)後鳥羽院と式子内親王

後鳥羽院.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方一・後鳥羽院)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009394

式子内親王.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方一・式子内親王)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009412

後鳥羽院二.jpg

(左方一・後鳥羽院)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019788

(バーチャル歌合)

左方一 後鳥羽院

http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010676000.html

龍田山(姫)かぜのしらべも聲たてつ/あきや来ぬらん岡のべの松

右方一 式子内親王

http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010677000.html

 ながむれば衣手涼し久堅の/あまのかはらの秋のゆふ暮

判詞(宗偽)

 後鳥羽院と式子内親王との年齢の開きは、式子内親王が三十一歳年長である。そして、この「新三十六人歌合」(「新三十六歌仙」とも)は、後鳥羽院撰とも伝えられ、「後鳥羽院以下左方の歌人、式子内親王以下右方の歌人をまとめる二帖から成る。色紙の配置は、左方が肖像・和歌の順になっているのに対し、右方ではその逆になっている」(『歌仙絵(東京国立博物館編)』所収「作品解説№14と参考2」)。
 式子内親王の「龍田山」は「東京国立博物館蔵」、そして、「龍田姫」は「和泉市久保惣記念美術館蔵」の表記の違いに因る。
 さて、この左方の後鳥羽院の一首は、右方の式子内親王の一首を念頭に置いて、その一首に唱和しての作例のように思われる。この上の句の「龍田山(姫)かぜのしらべも聲たてつ」の「龍田山(姫)」は、『万葉集』の次の「龍田山」の歌などを踏まえてのものであろう。

0083: 海の底沖つ白波龍田山いつか越えなむ妹があたり見む
0415: 家にあらば妹が手まかむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ
0877: ひともねのうらぶれ居るに龍田山御馬近づかば忘らしなむか
0971: 白雲の龍田の山の露霜に…….(長歌)
1181: 朝霞止まずたなびく龍田山舟出せむ日は我れ恋ひむかも
1747: 白雲の龍田の山の瀧の上の…….(長歌)
1749: 白雲の龍田の山を夕暮れに…….(長歌)
2194: 雁がねの来鳴きしなへに韓衣龍田の山はもみちそめたり
2211: 妹が紐解くと結びて龍田山今こそもみちそめてありけれ
2214: 夕されば雁の越え行く龍田山しぐれに競ひ色づきにけり
2294: 秋されば雁飛び越ゆる龍田山立ちても居ても君をしぞ思ふ
3722: 大伴の御津の泊りに船泊てて龍田の山をいつか越え行かむ
3931: 君により我が名はすでに龍田山絶えたる恋の繁きころかも
4395: 龍田山見つつ越え来し桜花散りか過ぎなむ我が帰るとに

 とすると、ここは、この「新三十六人歌合」の「後鳥羽院撰」という伝承からしても、後鳥羽院が、式子内親王を当代随一の歌人と崇敬し、その意味合いから、己の歌に対峙するように右方のトップに据えた意向からしても、右方のトップに据えた「式子内親王」の一首を「勝」とすべきなのであろう。

(後鳥羽院御製)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#01

ほのぼのと春こそ空に来にけらし天のかぐ山霞たなびく
桜咲く遠山鳥のしだり尾のながながし日もあかぬ色かな
み吉野の高嶺のさくら散りにけり嵐もしろき春のあけぼの
秋の露やたもとにいたくむすぶらん長き夜あかずやどる月かな
吉野山さくらにかかるうすがすみ花もおぼろの色は見えけり
露は袖にもの思ふころはさぞな置くかならず秋のならひならねど
秋更けぬ鳴けや霜夜のきりぎりすやや影さむし蓬生の月
我が恋は真木の下葉にもる時雨ぬるとも袖の色に出でめや
たのめずは人をまつちの山なりと寝なましものをいざよひの月
袖の露もあらぬ色にぞ消えかへるうつればかはる歎きせしまに

(式子内親王御歌)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#08

山ふかみ春ともしらぬまつの戸にたえだえかかるゆきの玉水
詠めつるけふはむかしになりぬとも軒ばのむめよ我をわするな
更くるまでながむればこそかなしけれおもひもいれじ秋のよの月
桐の葉もふみ分けがたくなりにけりかならず人をまつとなけれど
玉の緒よ絶えなばたえねながらへば忍ぶることのよわりもぞする
わすれてはうちなげかるる夕かな我のみしりて過ぐる月日を
夢にても見ゆらむものをなげきつつうちぬるよひの袖のけしきは
逢ふ事を今日まつがえの手向草いくよしをるる袖とかはしる
いきてよもあすまで人はつらからじ此夕ぐれをとはばとへかし
ながめ佗びぬあきより外の宿もがな野にもやまにも月やすむらん

(式子内親王の一首)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syokusi.html#AT

百首歌の中に
ながむれば衣手すずしひさかたの天の河原の秋の夕暮(新古321)
【通釈】じっと眺めていると、自分の袖も涼しく感じられる。川風が吹く、天の川の川原の秋の夕暮よ。
【補記】まだ星は見えていない夕空を眺め、天の川に思いを馳せる。爽やかな涼感に焦点をしぼった、清新な七夕詠。「前小斎院御百首」。
【主な派生歌】
夕されば衣手すずし高円の尾上の宮の秋のはつかぜ(源実朝)

後鳥羽院(ごとばのいん) 治承四~延応一(1180~1239) 諱:尊成(たかひら)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/gotoba.html

 治承四年七月十四日(一説に十五日)、源平争乱のさなか、高倉天皇の第四皇子として生まれる。母は藤原信隆女、七条院殖子。子に昇子内親王・為仁親王(土御門天皇)・道助法親王・守成親王(順徳天皇)・覚仁親王・雅成親王・礼子内親王・道覚法親王・尊快法親王。
 寿永二年(1183)、平氏は安徳天皇を奉じて西国へ下り、玉座が空白となると、祖父後白河院の院宣により践祚。翌元暦元年(1184)七月二十八日、五歳にして即位(第八十二代後鳥羽天皇)。翌文治元年三月、安徳天皇は西海に入水し、平氏は滅亡。文治二年(1186)、九条兼実を摂政太政大臣とする。建久元年(1190)、元服。兼実の息女任子が入内し、中宮となる(のち宜秋門院を号す)。同三年三月、後白河院は崩御。七月、源頼朝は鎌倉に幕府を開いた。
 建久九年(十九歳)一月、為仁親王に譲位し、以後は院政を布く。同年八月、最初の熊野御幸。翌正治元年(1199)、源頼朝が死去すると、鎌倉の実権は北条氏に移り、幕府との関係は次第に軋轢を増してゆく。またこの頃から和歌に執心し、たびたび歌会や歌合を催す。正治二年(1200)七月、初度百首和歌を召す(作者は院のほか式子内親王・良経・俊成・慈円・寂蓮・定家・家隆ら)。同年八月以降には第二度百首和歌を召す(作者は院のほか雅経・具親・家長・長明・宮内卿ら)。
 建仁元年(1201)七月、院御所に和歌所を再興。またこれ以前に「千五百番歌合」の百首歌を召し、詠進が始まる。同年十一月、藤原定家・同有家・源通具・藤原家隆・同雅経・寂蓮を選者とし、『新古今和歌集』撰進を命ずる。同歌集の編纂には自ら深く関与し、四年後の元久二年(1205)に一応の完成をみたのちも、「切継」と呼ばれる改訂作業を続けた。同二年十二月、良経を摂政とする。
 元久二年(1205)、白河に最勝四天王院を造営する。承久元年(1219)、三代将軍源実朝が暗殺され、幕府との対立は荘園をめぐる紛争などを契機として尖鋭化し、承久三年五月、院はついに北条義時追討の兵を挙げるに至るが(承久の変)、上京した鎌倉軍に敗北、七月に出家して隠岐に配流された。
以後、崩御までの十九年間を配所に過ごす。
 この間、隠岐本新古今集を選定し、「詠五百首和歌」「遠島御百首」「時代不同歌合」などを残した。また嘉禄二年(1226)には自歌合を編み、家隆に判を請う。嘉禎二年(1236)、遠島御歌合を催し、在京の歌人の歌を召して自ら判詞を書く。延応元年(1239)二月二十二日、隠岐国海部郡刈田郷の御所にて崩御。六十歳。刈田山中で火葬に付された。御骨は藤原能茂が京都に持ち帰り、大原西林院に安置した。同年五月顕徳院の号が奉られたが、仁治三年(1242)七月、後鳥羽院に改められた。
歌論書に「後鳥羽院御口伝」がある。新古今集初出。

式子内親王(しょくしないしんのう) 久安五~建仁一(1149~1201)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syokusi.html

 式子は「しきし」とも(正しくは「のりこ」であろうという)。御所に因み、萱斎院(かやのさいいん)・大炊御門(おおいのみかど)斎院などと称された。
 後白河天皇の皇女。母は藤原季成のむすめ成子(しげこ)。亮子内親王(殷富門院)は同母姉、守覚法親王・以仁王は同母弟。高倉天皇は異母兄。生涯独身を通した。
 平治元年(1159)、賀茂斎院に卜定され、賀茂神社に奉仕。嘉応元年(1169)、病のため退下(『兵範記』断簡によれば、この時二十一歳)。治承元年(1177)、母が死去。同四年には弟の以仁王が平氏打倒の兵を挙げて敗死した。元暦二年(1185)、准三后の宣下を受ける。建久元年(1190)頃、出家。法名は承如法。同三年(1192)、父後白河院崩御。この後、橘兼仲の妻の妖言事件に捲き込まれ、一時は洛外追放を受けるが、その後処分は沙汰やみになった。
 建久七年(1196)、失脚した九条兼実より明け渡された大炊殿に移る。正治二年(1200)、春宮守成親王(のちの順徳天皇)を猶子に迎える話が持ち上がったが、この頃すでに病に冒されており、翌年正月二十五日、薨去した。五十三歳。
 藤原俊成を和歌の師とし、俊成の歌論書『古来風躰抄』は内親王に捧げられたものという。その息子定家とも親しく、養和元年(1181)以後、たびたび御所に出入りさせている。正治二年(1200)の後鳥羽院主催初度百首の作者となったが、それ以外に歌会・歌合などの歌壇的活動は見られない。他撰の家集『式子内親王集』があり、三種の百首歌を伝える(日本古典文学大系80・鹿集大成三・身辺国家大観四・和歌文学大系23・私家集前借草書28などに所収)。千載集初出。勅撰入集百五十七首。

その二)土御門院と皇太后宮大夫俊成女

土御門院.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方二・土御門院)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009395

俊成女.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方二・皇太后宮大夫俊成女)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009413

俊成女全.jpg

(右方二・皇太后宮大夫俊成女)=右・和歌:左・肖像
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019784

(バーチャル歌合)

左方二 土御門院
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010678000.html

 伊勢の海のあまの原なる朝がすみ/空にしほやく煙とぞ見る

右方二 皇太后宮大夫俊成女
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010679000.html

 下もえにおもひ消南(きえなむ)煙だに/跡なき雲のはてぞかなしき

判詞(宗偽)

右方の俊成女は、後鳥羽院と同時代の、式子内親王の後継者ともいうべき、後鳥羽院歌壇の中心メンバーの一人ということになろう。対する、左方の土御門院は、後鳥羽院の第一皇子で、俊成女は、兄の定家ともども土御門院の師範挌のような立場で、ここにも、この俊成女を据えたのも、後鳥羽院の意向のように思われる。
 『後鳥羽院-日本文學の源流と傳統(思潮社刊)』という著を有する保田與重郎は、次のように俊成女を高く評価している。

「幽玄にして唯美な作として、俊成女ほどに象徴的な美の姿を、ことばで描き出した詩人はなかつた。俊成女のつくりあげた歌のあるものは、たゞ何となく美しいやうなもので、その美しさは限りない。かういふ文字で描かれた美しさの相をみると、普通の造形藝術といふものの低さが明白にわかるのである。音樂の美しさよりももつと淡いもので、形なく、意もなく、しかも濃かな美がそこに描かれてゐる。驚嘆すべき藝術をつくつた人たちの一人である」(保田與重郎『日本語録』)

 この「新三十六人歌合」は、「後鳥羽院撰」伝承といことを考慮すると、これまた、右方の「皇太后宮大夫俊成女」の一首を「勝」とすべきなのであろう。

(土御門院御製)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#02

雪のうちに春は来ぬとも告げなくにまづ知るものは鶯のこゑ
埋れ木の春の色とやのこるらむ朝日がくれの谷のしら雪
伊勢の海のあまの原なる朝霞空にしほやく煙とぞ見る
見わたせば松もまばらになりにけり遠山桜咲きにけらしも
秋もなほ天の川原にたつ波のよるぞみじかき星合の空
おしなべて時雨るるまではつれなくて霰におつる栢木の森
逢はでふる涙の末やまさるらむ妹背の山の中の滝つせ
春のはな秋のもみぢのなさけだにうき世にとまる色ぞすくなき
白雲をそらなる物とおもひしはまだ山こえぬ都なりけり
秋の夜もやや更けにけり山鳥のをろのはつをにかかる月かげ

(俊成卿女)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#22

梅のはなあかぬ色香もむかしにておなじかたみの春の夜の月
うらみずやうき世を花のいとひつつさそふ風あらばと思ひけるかな
面影のかすめる月ぞやどりけるはるやむかしのそでのなみだに
をしむともなみだに月はこころからなれぬる袖に秋をうらみて
色かはる露をば袖におきまよひうらがれて行く野辺のあきかな
ふりにけり時雨は袖に秋かけていひしばかりを待つとせしまに
霜枯はそことも見えぬ草の原たれにとはまし秋の名残を
あだに散る露の枕にふしわびてうづら鳴くなりとこの山かぜ
夢かとよ見し面かげも契りしもわすれずながらうつつならねば
いにしへの秋の空まですみだ河月にこととふそでのつゆかな

(俊成卿女の一首)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syunzejo.html#LV

五十首歌奉りしに、寄雲恋
下もえに思ひ消えなむ煙だに跡なき雲のはてぞかなしき(新古1081)
【通釈】おもてには顕わさず、ひそかに思い焦がれるまま、我が身は燃え尽きてしまうだろう、そしてその煙さえ、跡形もなく雲の果に消えてしまうだろう、と思えば悲しい。
【補記】建仁元年(1201)の仙洞句題五十首。
【他出】自讃歌、定家十体(幽玄様)、定家八代抄、続歌仙落書、俊成卿女集、新時代不同歌合、題林愚抄、兼載雑談
【参考歌】「狭衣物語」四
消え果てて煙は空にかすむとも雲のけしきをわれと知らじな
かすめよな思ひ消えなむ煙にも立ち遅れてはくゆらざらまし

土御門院 (つちみかどのいん) 建久六~寛喜三(1195-1231) 諱:為仁
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tutimika.html

後鳥羽院の第一皇子。母は承明門院在子(源通親の養女)。大炊御門麗子を皇后とする。贈皇太后土御門通子との間に覚子内親王(正親町院)・仁助法親王・静仁法親王・邦仁王(後嵯峨天皇)をもうけた。
建久九年(1198)正月十一日、四歳で立太子し、即日受禅。三月三日、即位。承元四年(1210)十一月二十五日、皇太弟守成親王(順徳天皇)に譲位。この時十六歳。承久三年(1221)の乱には関与せず、幕府からの咎めもなかったが、父後鳥羽院が隠岐へ、弟順徳院が佐渡へ流されるに際し、自らも配流されることを望んだ。同年閏十一月、土佐に遷幸し、翌年幕府の意向により阿波に移る。寛喜三年(1231)十月、出家。法名は行源。同月十一日(または十日)、阿波にて崩御。三十七歳。陵墓は京都府長岡京市金、金原陵。徳島県鳴門市池谷に火葬塚がある。
新勅撰集などによれば内裏歌合を催したことがあったらしい。建保四年(1216)三月成立の『土御門院御百首』には定家・家隆の合点、定家の評が付されている。御製を集めた『土御門院御集』がある。続後撰集初出。勅撰入集百五十四首。新三十六歌仙。

藤原俊成女(ふじわらのとしなりのむすめ) 生没年未詳(1171?~1254?)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syunzejo.html

 藤原俊成の養女。実父は尾張守左近少将藤原盛頼、母は八条院三条(俊成の娘)。俊成は実の祖父にあたるが、その歌才ゆえ父の名を冠した「俊成卿女」「俊成女」の名誉ある称を得たのであろう。晩年の住居に因み嵯峨禅尼、越部禅尼などとも呼ばれる。勅撰集等の作者名表記としては「侍従具定母」とも。
 治承元年(1177)、七歳の頃、父盛頼は鹿ヶ谷の変に連座して官を解かれ、八条院三条と離婚。以後、俊成卿女は祖父俊成のもとに預けられたものらしい。建久元年(1190)頃、源通具(通親の子)と結婚し、一女と具定を産む。しかし夫は正治元年(1199)頃、幼帝土御門の乳母按察局を妻に迎え、以後の結婚生活は決して幸福なものではなかったようである。
 後鳥羽院主催の建仁元年(1201)八月十五日撰歌合が「俊成卿女」の名の初見。同年の院三度百首(千五百番歌合)にも詠進している。同二年(1202)、後鳥羽院に召され、女房として御所に出仕する。院歌壇の中心メンバーの一人として、「水無瀬恋十五首歌合」「八幡宮撰歌合」「春日社歌合」「元久詩歌合」「最勝四天王院障子和歌」などに出詠した。
 建保元年(1213)、出家。以後も旺盛な作歌活動を続け、建保三年(1215)の「内裏名所百首」をはじめ、順徳天皇の内裏歌壇を中心に活躍した。安貞元年(1227)、夫通具の死後、嵯峨に隠棲。貞永二年(1233)頃、兄定家の『新勅撰和歌集』撰進の資料として、家集『俊成卿女集』を自撰した。仁治二年(1241)の定家死後、播磨国越部庄に下り、余生を過ごした。晩年まで創作に衰えを見せず、宝治二年(1248)の後嵯峨院「宝治百首」などに健在ぶりが窺える。
 建長三年(1251)以後、甥(実の従弟)為家に続後撰集に関する評などを送った『越部禅尼消息』がある。また物語批評の書『無名草子』の著者を俊成卿女とする説がある。
 新古今集の29首をはじめ、勅撰集に計116首を入集。宮内卿と共に新古今の新世代を代表する女流歌人。新三十六歌仙。
(俊成女評)
「今の御代には、俊成卿女と聞こゆる人、宮内卿、この二人ぞ昔にも恥じぬ上手共成りける。哥のよみ様こそことの外に変りて侍れ。人の語り侍りしは、俊成卿女は晴の哥よまんとては、まづ日を兼ねてもろもろの集どもをくり返しよくよく見て、思ふばかり見終りぬれば、皆とり置きて、火かすかにともし、人音なくしてぞ案ぜられける」(鴨長明『無名抄』)。
「幽玄にして唯美な作として、俊成女ほどに象徴的な美の姿を、ことばで描き出した詩人はなかつた。俊成女のつくりあげた歌のあるものは、たゞ何となく美しいやうなもので、その美しさは限りない。かういふ文字で描かれた美しさの相をみると、普通の造形藝術といふものの低さが明白にわかるのである。音樂の美しさよりももつと淡いもので、形なく、意もなく、しかも濃かな美がそこに描かれてゐる。驚嘆すべき藝術をつくつた人たちの一人である」(保田與重郎『日本語録』)

(その三)順徳院と前内大臣(源通光)

順徳院.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方三・順徳院)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009396

源通光.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方四・前内大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009414

(バーチャル歌合)

左方三 順徳院
 ほのぼのと明けゆくやまのさくらばな/かつふりまさる雪かとぞ見る

右方三 前内大臣(源通光)
 雲のゐるとをやまひめの花かづら/霞をかけてにほふはる風

判詞(宗偽)

 ここで、あらためて、ここまでの左方の作者は、後鳥羽院とその皇子、即ち、三上皇の揃い踏みなのである。こういう芸当が出来る人は、後鳥羽院その人以外には考えなれないという思いがする。

左方一(後鳥羽院・第八十二代天皇)→左方二(土御門院=後鳥羽院の第一皇子・第八十三代天皇)→左方三(順徳院=後鳥羽天皇の第三皇子・第八十四代天皇)

 それに対する右方は、その「後鳥羽院歌壇」の、それぞれに対応する、この「歌合」(虚構の「歌合」)の主宰者(最終的に「後鳥羽院」その人?)の意向のように思われる。

右方一(式子内親王)→右方二(皇太后宮大夫俊成女)→右方三(後久我前太政大臣通光)

 ここで、あらためて、両首を並列してみたい。

左方三 順徳院
 ほのぼのと明けゆくやまのさくらばな/かつふりまさる雪かとぞ見る

右方三 前内大臣(源通光)
 雲のゐるとをやまひめの花かづら/霞をかけてにほふはる風

 これは、撰者との伝承のある「後鳥羽院」その人の「判詞」(判定)という観点からすると、「持」(引き分け)とするのが「可」なのかも知れないが、この「左方」の一首に『小倉百人一首』(藤原定家撰)の最終を締め括った、次の一首に思いを重ね併せて、左方の順徳院の「勝」としたい。

 ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり(順徳院『続後撰1205』)

(順徳院御製)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#03

風吹けば峰のときは木露おちて空よりきゆるはるのあは雪
花鳥の外にも春のありがほにかすみてかかる山のはの月
しら雲や花よりうへにかかるらむ桜ぞたかきみ吉野の山
難波江の潮干のかたやかすむらん蘆間にとほきあまの釣舟
あすか川ふちせもえやはわぎもこがうちたれがみの五月雨のころ
暁と思はでしもやほととぎすまだ中空の月に鳴くらむ
明石潟あまのとま屋のけぶりだにしばしぞくもる秋の夜の月
風さゆる夜はのころもの関守は寝られぬままに月や見るらむ
水ぐきの岡のあさぢのきりぎりす霜のふりはや夜寒なるらむ
一すぢに憂きになしてもたのまれずかはるにやすき人のこころは

(後久我前太政大臣通光)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#12

三島江やしももまだひぬあしのはにつのぐむほどのはる風ぞふく
まがふとていとひしみねのしら雲はちりてぞはなのかたみなりける
明けぬとて野べより山にいるしかのあとふきおくる萩の下かぜ
むさし野やゆけども秋のはてぞなきいかなるかぜの末にふくらむ
龍田山よはにあらしのまつふけばくもにはうときみねの月かげ
入日さす麓の尾ばなうちなびきたがあき風にうづらなくらむ
限あればしのぶのやまのふもとにも落ばがうへの露もいろづく
浦人のひも夕ぐれになるみ潟かへる袖より千鳥なくなり
ながめ佗びぬそれとはなしに物ぞおもふくものはたての夕ぐれの空
幾めぐり空行く月もめぐりきぬ契りしなかはよそのうき雲

(順徳院の二首)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/juntoku.html

  後鳥羽院かくれさせ給うて、御なげきの比、月を御覧じて
同じ世の別れはなほぞしのばるる空行く月のよそのかたみに(新拾遺918)

【通釈】隠岐と佐渡と、はるか遠くの国に離れていても同じこの世には生きておりましたのに、今や父帝とは今生(こんじょう)の世でもお別れすることとなり、いっそう思慕されてなりません。空をゆく月はたった一つ、それを父帝の面影と偲んでおりましたが、御身はこの世の外へ逝かれ、もはや月を形見と眺めるばかりでございます。
【語釈】◇同じ世の別れ 離れ離れではあっても、同じ世に生きていたが、その同じ世からも別れることになった、ということ。
【補記】後鳥羽院は延応元年(1239)二月二十二日、隠岐国海部郡刈田郷の御所にて崩御。
【主な派生歌】
雲ゐぢもなほ同じ世とたのみしをさてだにあらで別れぬるかな(契沖)

  題しらず
ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり(続後撰1205)

【通釈】大宮の古び荒れた軒端の忍草――いくら偲んでも、なお偲び尽くせない昔の御代なのであった。
【語釈】◇ももしき 宮廷。上代、「ももしきの」は「大宮」にかかる枕詞であったが、のち大宮そのものを指すようにもなった。◇古き軒端 古び、荒れた屋敷の軒端。百人一首の注釈の多くは、「古き軒端のしのぶ」に宮廷の衰微の象徴を見る。◇しのぶ 忍草。荒れた家の軒端に生える草とされた。偲ぶ(恋い慕う)・忍ぶ(堪え忍ぶ)両義を掛けるか。◇なほあまりある いくら偲んでも、偲び尽くせない。「堪え忍んでも、恋慕の情が外に漏れてしまう」意を掛ける。◇昔 王朝の権威が盛んだった聖代。
【補記】建保四年(1216)頃の「二百首和歌」。承久の乱の五年前である。
【他出】百人一首、紫禁和歌集、万代集、新時代不同歌合
【参考歌】源等「後撰集」
浅茅生の小野の篠原しのぶれどあまりてなどか人の恋しき
【主な派生詩歌】
秋をへてふるき軒ばのしのぶ草忍びに露のいくよ置くらむ(禅信)
小泊瀬やふるき軒端のむかしをも忍ぶの露に匂ふむめがか(源高門)
月うすくふるきのきばの梅にほひ昔しのべとなれる夜半かな(*源親子)
都にはありし忍ぶのみだれよりふるき軒ばのまれになりぬる(姉小路基綱)
いにしへをふるき軒端のしのぶ夜はもらぬ袂もうちしぐれつつ(本居宣長)
今歳水無月のなどかくは美しき。/軒端を見れば息吹のごとく/萌えいでにける釣しのぶ。/忍ぶべき昔はなくて/何をか吾の嘆きてあらむ。(伊東静雄「水中花」より)

順徳院(じゅんとくいん) 建久八年~仁治三年(1197-1242) 諱:守成

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 後鳥羽天皇の第三皇子。母は贈左大臣高倉範季女、修明門院重子。姉の昇子内親王(春華門院)を准母とする。土御門天皇・道助法親王の弟。雅成親王の同母兄。子に天台座主尊覚法親王、仲恭天皇、岩倉宮忠成王ほか。
 建久八年(1197)九月十日、誕生。正治元年(1199)十二月、親王となり、同二年四月、兄土御門天皇の皇太弟となる。承元二年(1208)十二月、元服。同三年、故九条良経の息女、立子(東一条院)を御息所とした。同四年(1210)十一月、兄帝の譲位を受けて践祚(第八十四代天皇)。父の院と共に宮廷の儀礼の復興に努め、また内裏での歌会を盛んに催した。建保六年(1218)十一月、中宮立子との間にもうけた懐成親王(即位して仲恭天皇)を皇太子とする。
 承久三年(1221)四月二十日、譲位し、翌月、後鳥羽院とともに討幕を企図して承久の変をおこしたが、敗北し、佐渡に配流される。以後、同地で二十一年を過ごし、仁治三年(1242)九月十三日(十二日とも)、崩御。四十六歳。絶食の果ての自殺と伝わる。佐渡の真野陵に葬られたが、翌寛元元年(1243)、遺骨は都に持ち帰られ、後鳥羽院の大原法華堂の側に安置された。建長元年(1249)、順徳院の諡号を贈られる(それ以前は佐渡院と通称されていた)。
 幼少期から藤原定家を和歌の師とし、詠作にはきわめて熱心であった。その息子為家も近習・歌友として深い仲であった。俊成卿女とも親しく、建保三年(1215)、俊成卿女出家の際 などに歌を贈答している。建暦二年(1212)の内裏詩歌合をはじめとして、建保二年(1214)の当座禁裏歌会、同三年の内裏名所百首、同四年の百番歌合、同五年の四十番歌合・中殿和歌御会、承久元年(1219)の内裏百番歌合など、頻繁に歌合・歌会を主催した。配流後の貞永元年(1232)には、佐渡で百首歌(「順徳院御百首」)を詠じ、定家と隠岐の後鳥羽院のもとに送って合点を請うた。嘉禎三年(1237)、定家はこの百首に評語を添えて進上している。
 著作に、宮廷故実の古典的名著『禁秘抄』、平安歌学の集大成『八雲御抄』、日記『順徳院御記』がある(建暦元年-1211-から承久三年-1221-まで残存)。続後撰集初出(十七首)、以下勅撰集に計百五十九首入集。自撰の『順徳院御集』(紫禁和歌草とも)がある。新三十六歌仙。小倉百人一首に歌を採られている。

源通光(みなもとのみちてる(みちみつ)) 文冶三~宝治二(1187-1248) 号:後久我太政大臣

 内大臣土御門通親の三男。母は刑部卿藤原範兼女、従三位範子。通宗・通具の異母弟。承明門院在子(後鳥羽院妃)の同母異父弟。内大臣定通・大納言通方の同母兄。子に大納言通忠・同雅忠・式乾門院御匣ほかがいる。
 後鳥羽天皇の文治四年(1188)、叙爵。正治元年(1199)、禁色を聴される。右少将・中将などを経て、建仁元年(1201)、従三位に叙せられる。同二年には正三位・従二位と累進。同年末、父を亡くすが、その後も後鳥羽院政下で順調に昇進し、同四年四月、権中納言。土御門天皇の元久二年(1205)、正二位に昇り、中納言に転ず。建永二年(1207)二月、権大納言。建保元年(1213)、娘を雅成親王に嫁がせる。順徳天皇の建保五年(1217)正月、右大将を兼ねる。   
 同六年十月、大納言に転ず。同七年三月、内大臣に至る。しかし承久三年(1221)の承久の乱後、幕府の要求により閉居を命ぜられ、官を辞した。安貞二年(1228)三月、朝覲行幸の際に出仕を許され、後嵯峨院院政の寛元四年(1246)十二月二十四日、辞任した西園寺実氏に代り太政大臣に任ぜられた。同日、従一位。宝治二年(1248)正月十七日、病により上表して辞職、翌十八日、薨ず。六十二歳。
建仁元年(1201)、十五歳の時歌壇に登場し、早熟の才を発揮した。同年の「千五百番歌合」では参加歌人中最年少。同年三月の「通親亭影供歌合」、同二年(1202)五月の「仙洞影供歌合」、同三年(1203)六月の「影供歌合」、元久元年(1204)の「春日社歌合」「元久詩歌合」、建永元年(1206)七月の「卿相侍臣歌合」、同二年の「賀茂別雷社歌合」「最勝四天王院和歌」などに出詠。順徳天皇の内裏歌壇でも活躍し、建保四年(1216)閏六月の「内裏百番歌合」、建保五年(1217)十一月の「冬題歌合」、承久元年(1219)七月の「内裏百番歌合」などに詠進。 
 建保五年(1217)八月には自邸に定家・慈円・家隆らを招き、歌合を催す(「右大将家歌合」)。承久の乱後は歌壇から遠ざかるも、後鳥羽院への忠義を失わず、嘉禎二年(1236)の遠島歌合に出詠した。宝治元年(1247)には、後嵯峨院の内裏歌合に出席、俊成卿女と詠を競った。
 新古今集初出(十四首)。勅撰入集計四十九首。琵琶の名手でもあったという。

(その四)※仁和寺宮(※※道助法親王)と前大納言忠良(藤原忠良)

仁和寺宮.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方四・※仁和寺宮」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009397

藤原忠良.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方四・前大納言忠良」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009415

仁和寺宮二.jpg

(左方四・※仁和寺宮)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019789

(バーチャル歌合)

左方四・※仁和寺宮(※※道助法親王)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010681000.html

 萩のはに風の音せぬ秋もあらば/なみだのほかに月はみてまし

右方四・前大納言忠良(藤原忠良)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010683000.html

 ゆふづく日さすやいほりの柴の戸に/さびしくもあるかひぐらしのこゑ

判詞(宗偽)

 藤原忠良が、判者の一人となった「千五百番歌合」(「建仁元年(1201))千五百番歌合」のトップは、次のようなものである(『日本古典文学大系74 歌合集』)。

  一番 左 勝
春立てばかはらぬ空ぞかはり行(ゆく)昨日の雲か今日の霞か  女房
     右
いつしかと雲井に春や立(たち)ぬらん雪げをこめてかすむ空哉 三宮
 左歌、心(こころ)詞はめづらしくこそ侍れ。右歌も、なだらかには侍(はべる)を、雲
井と空とは同事にや侍らん。以左為勝。

 この左方の作者の「女房」は「後鳥羽院」の筆名(戯名)で、右方の作者の「三宮」は「後鳥羽院の異母兄」の兄弟対決なのである。この「判詞」のスタイルを借用すると、「左方四・※仁和寺宮(道助法親王)」と「右方四・前大納言忠良(藤原忠良)」の対決の「判詞」は次のとおりとなる。

 左歌、心(こころ)詞(ことば)はめづらしくこそ侍れ。右歌も、なだらかには侍(はべる)を、「さびしくも」に「ひぐらしのこゑ」安易にや侍らん。以左為勝(左ヲ以ッテ勝ト為ス)。

(※※道助親王の一首)=「左方四・※仁和寺宮(※※道助法親王)」の「萩のはに風の音せぬ秋もあらば/なみだのほかに月はみてまし」の一首。

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  秋歌よみ侍りけるに
荻の葉に風の音せぬ秋もあらば涙のほかに月は見てまし(新勅撰223)

【通釈】荻の葉を風が訪れてそよがせる――その音が聞えない秋があったならば、涙に煩わされず美しい月を見ることができたろうに。
【補記】荻は薄によく似た植物。大きな葉のそよぐ音に秋の訪れを知った。「涙のほかに」は「涙とは無関係に」といった意味。
【参考歌】
藤原頼輔「千載集」
身の憂さの秋は忘るるものならば涙くもらで月は見てまし
  藤原伊通「金葉集」
稲葉吹く風の音せぬ宿ならばなににつけてか秋を知らまし
【主な派生歌】
春の月涙の外にみる人やかすめるかげのあはれしるらむ(宗尊親王)
さやかなる月さへうとくなりぬべし涙の外に見るよなければ(永福門院)

(藤原忠良の一首)

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   百首歌たてまつりし時
あふち咲く外面(そとも)の木かげ露おちて五月雨はるる風わたるなり(新古234)

【通釈】楝の花が咲く、家の外の木陰――そこから露が落ちて、五月雨の晴れる風がわたってゆくようだ。
【語釈】◇あふち 楝。栴檀。初夏に芳香のある薄紫色の花をつける。◇そとも 外面。家の外。◇五月雨(さみだれ) 陰暦五月頃に降る雨。梅雨。◇風わたるなり 「なり」は視覚以外の感覚(露の落ちる音、あるいは肌に感じる涼しさ)によって判断していることを示す助動詞。
【補記】五月雨は降り止んだかと戸外を眺めれば、楝の花咲く木蔭に露がしたたる。折しも、雨雲を追いやった風が樹々の上を渡ってゆくらしい。薄紫の花に落ちた露という微小な景から、晴れゆく空をわたる風の想像へ、大きな転換が鮮やか。
出典は老若五十首歌合。詞書の「百首」は誤り。
【他出】定家十体(見様)、新時代不同歌合、六華集
【主な派生歌】
あふち咲く山田の木蔭風すぎて見るも涼しくとる早苗かな(飛鳥井雅有)
あふち咲く梢に雨はややはれて軒のあやめにのこる玉水(*平経親[風雅])
露はらふ風ぞ涼しきあふち咲く外面のかげの夏の夕暮(二条為親)
あふち咲くそともの木陰くらき夜も聞かでや明けむ山ほととぎす(下冷泉持為)

※※道助親王(どうじょしんのう) 建久七~宝治三(1196-1249) 諱:長仁 通称:鳴滝宮・光台院御室

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 後鳥羽院の第二皇子。母は内大臣坊門信清女。土御門院の異母弟。順徳院・雅成親王の異母兄。入道二品親王。
 建久七年(1196)十月十六日、生れる。七条院の猶子となる。正治元年(1199)、親王宣下。建仁元年(1201)十一月、仁和寺に入る。建永元年(1206)、十一歳で出家、光台院に住む。承元四年(1210)十一月、叙二品。建暦二年(1212)十二月、道法法親王により伝法灌頂を受ける。建保二年(1214)十一月、第八世仁和寺御室に補せられた。寛喜三年(1231)三月、御室の地位を弟子の道深法親王に譲り、高野山に隠居。建長元年(1249)一月十六日、入滅。五十四歳。光台院御室・高野御室と称された。
 承久二年(1220)以前の「道助法親王五十首」、嘉禄元年(1225)四月に企画された「道助法親王家十首和歌」などを主催した。隠遁後、宝治二年(1248)の「宝治百首」に出詠。御集が伝わるが上巻を欠く。新勅撰集初出。勅撰入集は計三十八首。「新時代不同歌合」歌仙。新三十六歌仙。

藤原忠良(ふじわらのただよし) 長寛二~嘉禄元(1164-1225) 号:鳴滝大納言

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 法性寺殿忠通の孫。六条摂政基実の次男。母は左京大夫藤原顕輔の娘。摂政内大臣基通の弟。兼実・慈円らの甥で、良経の従兄。また清輔の甥にあたる。子の衣笠内大臣家良・大納言基良も勅撰歌人。
 永万二年(1166)、三歳の時、父を亡くす。治承四年(1180)、元服して正五位下に叙せらる。養和元年(1181)、従四位下に昇り、侍従より左中将に転ず。寿永二年(1183)、従三位。同年右兵衛督に任ぜられ、年末に右権中将に遷る。文治三年(1187)十二月、権中納言。同五年七月、中納言に転ず。建久二年(1191)三月、権大納言に進む。建仁二年(1202)、大納言に至るが、同四年三月、辞職した。承久三年(1221)、出家。嘉禄元年(1225)五月十六日、六十二歳で薨ず。最終官位は正二位。藤原定家の日記『明月記』に評して「雖非器之性、柔和心操歟」とある。
 後鳥羽院主催の「正治二年初度百首」「老若五十首歌合」「新宮撰歌合」「千五百番歌合」などに出詠。「千五百番」では判者も務めた。また建仁元年(1201)三月の「通親亭影供歌合」にも参加し、正治二年(1200)の「三百六十番歌合」に選ばれている。千載集初出。勅撰入集六十九首。

(補注)

「※仁和寺宮」は、下記の「※※※守覚法親王」の通称でもあるが、この「※※※守覚法親王」(北院御室)は、後鳥羽院撰(伝承)の「新三十六歌仙」には入集されていない。そして、「新三十六歌仙」には、「和泉市久保惣記念美術館蔵」の「入道二品親王道助(※※道助親王)」(光台院御室)が入集されており、その一首での「バーチャル歌合」としている。

※※※守覚法親王(しゅかくほっしんのう) 久安六~建仁二(1150-1202) 通称:北院御室(きたいんおむろ)・喜多院御室・仁和寺宮

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(その五)後法性寺入道前関白太政大臣(九条兼実)と土御門内大臣(源通親)

藤原忠道.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方五・後法性寺入道前関白太政大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009398

源通親.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方五・土御門内大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009416

藤原忠道二.jpg

(左方五・後法性寺入道前関白太政大臣)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019790

(バーチャル歌合)

左方五・後法性寺入道前関白太政大臣(九条兼実)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010684000.html

かすみしく春のしほぢをみわたせば/みどりをわくるおきつしらなみ

右方五・土御門内大臣(源通親)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010685000.html

おりしもあれ月はにしにも成りぬらん/雲のみなみにはつかりのこゑ

判詞(宗偽)

「千五百番歌合」(「建仁元年(1201))千五百番歌合」の七十七番(左方=左大臣、右方=俊成卿女)は、次のようなものである(『日本古典文学大系74 歌合集』)。

  七十七番  左     左大臣
妻恋の雉(きぎす)なく野の下わらび下にもえても折りをしる哉
        右 勝   俊成卿女
梅の花あかぬ色香(か)も昔にておなじかたみの春の夜の月
 左の歌がら宜(よろしく)侍れども、右「同じ形見の春の夜の月」尤よろし。可為勝

 この判詞のスタイルを借用したい。

 「左方五・後法性寺入道前関白太政大臣(九条兼実)」の歌がら宜(よろしく)侍れども、「右方五・土御門内大臣(源通親)」の「おりしもあれ月はにしにも成りぬらん」の上句の破調尤よろし。以右為勝。

(九条兼実の一首)

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   右大臣に侍りける時、家に歌合し侍りけるに、霞の歌とてよみ侍りける
霞しく春の潮路を見わたせばみどりを分くる沖つ白波(千載8)

【通釈】すみずみまで霞が広がる、春の航路を見わたせば、水の色に染まった霞と、青い海原と、ひとつに融け合ったようないちめん真っ青な景色を、沖に立つ白波だけがくっきりと分けているようだ。
【語釈】◇潮路(しほぢ) 話手が乗っている船の前に広がる海原。◇みどりをわくる 霞と海がひとつに融け合ったような景色の中で、水平線に白く立つ波が霞と海とを分けて見せている、ということ。海や空の青色を当時は「みどり」と言った。
【参考歌】藤原忠通「詞花集」
わたの原こぎ出でてみれば久方の雲居にまがふ沖つ白波

(源通親の一首)

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    百首歌たてまつりしとき
朝ごとに汀(みぎは)の氷ふみわけて君につかふる道ぞかしこき(新古1578)

【通釈】毎朝、水際に張った氷を踏み、道をつけて、宮城に通います。そのように、陛下にお仕えする臣下の道は、身も竦むように畏れ多いものです。
【語釈】◇氷ふみわけて 「ふみわけ」は踏んで道をつけることを言う。氷をよけて通ることではない。「薄氷を履(ふ)む如し」(詩経)を踏まえるとする説もある。◇道ぞかしこし この「道」は、宮廷に仕える臣下としての、然るべきあり方・生き方を言う。「かしこし」は、霊威に対し畏怖を感じる心をいうのが原義。身も心もすくむような感情。
【補記】正治二年(1200)の後鳥羽院初度百首。
【他出】定家十体(有一節様)、新時代不同歌合
【本歌】「源氏物語・浮舟」
峰の雪みぎはの氷ふみわけて君にぞまどふ道はまどはず

九条兼実(くじょうかねざね)久安五~建永二(1149-1207) 通称:月輪殿・後法性寺殿・後法性寺入道関白など

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 九条家の祖。関白藤原忠通の子。母は藤原仲光女、加賀。覚忠・崇徳院后聖子・基実・基房らの弟。兼房・慈円らの兄。子には良通・良経・良輔・良平・後鳥羽院后任子ほかがいる。
 保元元年(1156)二月、母を亡くす。同三年正月、元服し、正五位下に叙せられる。この年、兄の基実は二条天皇の関白となった。
 永暦元年(1160)二月、従三位。 同年八月、権中納言。応保元年(1161)、権大納言。長寛二年(1164)には十六歳にして内大臣に任ぜられた。同年二月、父が逝去。
 永万元年(1165)六月、六条天皇の践祚とともに兄基実は摂政に就くが、翌年七月、二十四歳で夭折したため、次兄基房が代わって摂政となった。兼実は仁安元年(1166)、右大臣に昇る。
 承安二年(1172)十二月、基房は関白に転じ、やがて反平氏政策を実行、治承三年(1179)十一月、平清盛のクーデタにより解官され備前国に流された。清盛は娘婿の基通(基実の子)を関白とし、後白河法皇の院政を停止。翌年、福原に遷都したが、兼実はこの時京都に留まった。この間、承安四年(1174)には従一位に叙されている。
 寿永二年(1183)、平氏都落ちの際、これに同行しなかった摂政基通と共に、後鳥羽天皇の擁立に動いた。木曽義仲入京の際は静観を通したが、源頼朝とは互いに接近し、連絡を取り合った。同三年、義仲誅滅と共に基通が摂政に復帰。しかし基通は文治二年(1186)三月、前年の頼朝追討宣旨の責めを負って辞任し、頼朝の支持のもと、代わって兼実が摂政に就任した。
 文治五年(1189)十二月、太政大臣。建久元年(1190)正月、娘の任子を後鳥羽天皇に入内させる。同年、大臣を辞し、翌建久二年、関白に転ずる。同三年(1192)三月、後白河法皇が崩御すると、実権を掌握し、頼朝の征夷大将軍宣下を実現した。
 しかし建久七年(1196)、源通親の策謀により関白を罷免され、任子は皇子をなさぬまま内裏を追われた。建仁二年(1202)二月、法性寺で出家し、円証を称す。同年、通親が没し、後鳥羽院が実権を握ると、良経が摂政に任ぜられ、九条家復活の兆しが見えたものの、元久三年(1206)三月にはその良経に先立たれた。翌年の承元元年(1207)四月五日、法性寺にて逝去。享年五十九。
 和歌は初め六条家の清輔を師としたが、その死後、俊成を迎えた。承安から治承にかけてさかんに歌会・歌合を開催し、九条家歌壇の基礎をつくった。この歌壇は息子の良経に引き継がれて、慈円・定家ら新風歌人たちの活躍の場となる。千載集初出。勅撰入集計六十首。長寛二年(1164)から正治二年(1200)に及ぶ日記『玉葉』がある。

源通親(みなもとのみちちか) 久安五~建仁二(1149-1202) 号:土御門内大臣・源博陸(げんはくろく)

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 村上源氏。内大臣久我(こが)雅通の長男。母は藤原行兼の息女で美福門院の女房だった女性。権大納言通資の兄。子には、通宗(藤原忠雅女所生)、通具(平道盛女所生)、通光・定通(藤原範子所生)がいる。道元(松殿基房女所生)も通親の子とする説がある。後鳥羽院后在子は養女。
 保元三年(1158)八月、従五位下に叙される。仁安二年(1167)、右近衛権少将。同三年正月、従四位下に昇叙され、加賀介を兼任する。同年二月、高倉天皇が践祚すると昇殿を許され、以後近臣として崩時まで仕えることになる。同年三月、従四位上、八月にはさらに正四位下に叙せられ、禁色宣下を受ける。嘉応元年(1169)四月、建春門院(平滋子)昇殿をゆるされる。承安元年(1171)正月、右近衛権中将。十二月、平清盛の息女徳子の入内に際し、女御家の侍所別当となる。治承二年(1178)、中宮平徳子所生の言仁(ときひと)親王(安徳天皇)の立太子に際し、東宮昇殿をゆるされる。同三年(1179)正月、蔵人頭に補される。十二月、中宮権亮を兼ねる。同四年正月、参議に任ぜられる。同年三月、高倉上皇の厳島行幸に供奉。六月には福原遷幸にも供奉し、宮都の地を点定した。
 平安京還都後の治承五年(1181)正月、従三位に叙されたが、その直後、高倉上皇が崩御(二十一歳)。上皇危篤の時から一周忌までを通親が歌日記風に綴ったのが『高倉院升遐記』である。同年閏二月には平清盛が薨じ、政治の実権は後白河法皇へ移る。以後、通親も法皇のもとで公事に精励することになる。改元して養和元年の十一月、中宮権亮を罷め、建礼門院別当に補される。同二年正月、正三位。
 寿永二年(1183)七月、平氏が安徳天皇を奉じて西下すると、通親はそれ以前に比叡山に逃れていた後白河天皇のもとに参入。ついで院御所での議定に列した。同年八月、後鳥羽天皇践祚。この後、通親は新帝の御乳母藤原範子(範兼の娘)を娶り、先夫との間の子在子を引き取って養女とした。
元暦二年(1185)正月、権中納言に昇進。文治二年(1186)三月、源頼朝の支持のもと、九条兼実が摂政に就任。この時通親は議奏公卿の一人に指名された。同三年正月、従二位。同五年正月、正二位(最終官位)。同年十二月、法皇寵愛の皇女覲子内親王(母は丹後局高階栄子)の勅別当に補される。以後、丹後局との結びつきを強固にし、内廷支配を確立してゆく。
 建久元年(1190)七月、中納言に進む。同三年三月、後白河院が崩じ、摂政兼実が実権を握るに至るが、通親は故院の旧臣グループを中心に反兼実勢力を形成した。同六年十一月、養女の在子が皇子を出産(のちの土御門天皇)。同月、権大納言に昇る。建久七年(1196)十一月、任子の内裏追放と兼実の排斥に成功。同九年(1198)には外孫土御門天皇を即位させ、後鳥羽院の執事別当として朝政の実権を掌握。「天下独歩するの体なり」と言われ、権大納言の地位ながら「源博陸」(博陸は関白の異称)と呼ばれた(兼実『玉葉』)。
 正治元年(1199)正月、右近衛大将に任ぜられる。その直後源頼朝が死去すると、通親排斥の動きがあり、院御所に隠れ籠る。結局幕府の支持を得て事なきを得、同年六月には内大臣に就任し、同二年四月、守成親王(のちの順徳天皇)立太子に際し、東宮傅を兼ねる。
 和歌は若い頃から熱心で、嘉応二年(1170)秋頃、自邸で歌合を催している。同年の住吉社歌合・建春門院滋子北面歌合、治承二年(1178)の別雷社歌合などに参加。
 殊に内大臣となって政局の安定を果したのちは、活発な和歌活動を展開し、後鳥羽院歌壇と新古今集の形成に向けて大きな役割を果すことになる。正治二年(1200)十月、初めて影供歌合を催し、以後もたびたび開催する。同年十一月には後鳥羽院百首歌会に参加(正治初度百首)。建仁元年(1201)三月、院御所の新宮撰歌合、同年六月の千五百番歌合に参加。同年七月には、二男通具と共に後鳥羽院の和歌所寄人に選ばれた。
 しかし新古今集の完成は見ることなく、建仁二年(1202)冬、病に臥し、同年十月二十日夜(または二十一日朝)、薨去。五十四歳。民百姓に至るまで死を悲しみ泣き惑ったという(源家長日記)。贈従一位を宣下される。
 著書には上記のほか『高倉院厳島御幸記』などがある。千載集初出。勅撰入集三十二首。

(その六)後京極摂政前太政大臣(藤原良経)と前大僧正慈鎮(慈円)

九条良経.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方六・後京極摂政前太政大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009399

慈円.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方六・前大僧正滋鎮」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009417

(バーチャル歌合)

左方六・後京極摂政前太政大臣(藤原良経)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010686000.html

 空はなをかすみもやらず風さえて/雪げにくもるはるの夜の月

右方六・前大僧正滋鎮(慈円)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010687000.html

 身にとまるおもひを萩のうは葉にて/このころかなし夕ぐれのそら

判詞(宗偽)

「千五百番歌合」(「建仁元年(1201))千五百番歌合」の百十九番(左方=具親、右方=釋阿)は、次のようなものである(『日本古典文学大系74 歌合集』)。

  百十九番   左 持                 具親
春風や梅のにほひを誘ふらん行衛(ゆくゑ)さためぬ鶯のこゑ
         右                   釋阿
いくとせの春に心をつくし来ぬあはれと思へ三吉野の花
 右「あはれと思へみよし野の花」、かぎりなく見え侍(はべる)に、左「ゆくゑさためぬ鶯の聲」、又心詞優に侍り。勝負難決(勝負決シ難シ)。

 この判詞のスタイルを借用したい。

 右「雪げにくもるはるの夜の月」、かぎりなく見え侍(はべる)に、左「このころかなし夕ぐれのそら」又心詞優に侍り。此の叔父(右方=慈円)と甥(左方=良経)の「勝負難決(勝負決シ難シ)」。

(『後鳥羽院御口伝』余話=宗偽)

「近き世になりては、大炊御門前斎院(式子)、故中御門の摂政(良経)、吉水前大僧正(慈円)、これら殊勝なり(特に優れている)。斎院(式子)は、殊に『もみもみ(※)』とあるやうに詠まれき。故摂政(良経)は、『たけ(※※)』をむねとして、諸方を兼ねたりき。いかにぞや見ゆる詞のなさ、哥ごとに由ある(由緒ある)さま、不可思議なりき。百首などのあまりに地哥(平凡な歌)もなく見えしこそ、かへりては難ともいひつべかりしか。秀歌のあまり多くて、両三首などは書きのせがたし。大僧正(慈円)は、おほやう『西行がふり※※※』なり。」(『後鳥羽院御口伝』)。

 この三人(式子内親王・藤原良経・慈円)は、『小倉百人一首』(藤原定家撰)に次の歌(八九・九一・九五)が撰ばれている。

八九 玉の緒よ/絶えねば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする(式子内親王)

 『後鳥羽院御口伝』の「『もみもみ(※)』とあるやうに詠まれき」の「もみもみ」とは、「あっさりと表現せず、曲折をつくすこと」(広辞苑)の意とすると、それは「『たけ(※※)』をむねとし」の「たけ(※※)」(「自ずと格調が高く品性がある」)と対立的な表現となり、「たけ」をむねとする歌の「定型性」重視に比して、「もみもみ」の歌は「多義性」重視のスタンスとなって来る。
 この「式子内親王」の「題詠」(「題」に詠む「虚構(作為)」の作品)の「忍恋」の、この一首の初句切れ(「玉の緒よ(わが命よ)」)の、この「よ」切りに、『後鳥羽院御口伝』の「『もみもみ(※)』とあるやうに詠まれき」の一端が詠み取れる。

九一 きりぎりす鳴くや/霜夜のさむしろに衣片敷きひとりかも寝む(藤原良経)

 「故摂政(良経)は、『たけ(※※)』をむねとし」と、「長(たけ)を旨とし=風格を旨とし」の代表的な歌人と後鳥羽院は指摘している。これは、この「きりぎりす(五)・鳴くや/霜夜の(七)・さむしろに(五)」の、この破調のような上の句が、実に流暢に、「もみもみと」せずに詠まれているところに、これまた、後鳥羽院の「『たけ(※※)』をむねとし」の一端が詠み取れる。

九五 おほけなくうき世の民におほふかな/わがたつ杣に墨染の袖(慈円)

 「もみもみ※」調の式子内親王、「たけ※※」調の良経に比して、後鳥羽院は、「大僧正(慈円)は、おほやう『西行がふり※※※』なり」と、「西行がふり※※※」調の慈円と評している。この「西行がふり※※※」とは「一見無技巧とも見える平明で流暢な調べ歌」と解せられている(『日本古典文学大系65 歌論集能楽論集』所収「後鳥羽院御口伝(補注)」)。
この『小倉百人一首』の歌ですると、「おほけなくうき世の民におほふかな」は「三句切れ」の「切れ字」の「哉」で、同時に「詠嘆」の「哉」であり、そして、「わがたつ杣に墨染の袖」の「墨染の袖」の「体言留め」は、まさに、「西行がふり※※※」の「無技巧の技巧」調ということになろう。
 「おほけなく」は「身の程もわきまえず、そら恐ろしい」のような意。「うき世」は「浮世(現世)」と「憂き世(はかない此の世)」、「おほふ」は「広く包む」、「わがたつ杣」(わが立つ杣)は「比叡山」の異名の意もある。こういう措辞の一つひとつに「西行がふり※※※」が満載している。

(藤原義経=九条義経の一首)
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    家に百首歌合に、余寒の心を
空はなほかすみもやらず風さえて雪げにくもる春の夜の月(新古23)

【通釈】「空は春というのにまだ霞みきらずに風は寒く、雪げの雲がかかってそのため朧な春の夜の月よ。」『新日本古典文学大系 11』p.26
【語釈】余寒=立春後の寒さ。「なほさえて」は余寒を表わす常套句。雪げにくもる=雪催いに曇る意。 
【補記】建久三年(1192)、自ら企画・主催した六百番歌合、十二番左勝。
【他出】六百番歌合、自歌合、三十六番相撲立詩歌、三百六十番歌合、定家八代抄、新三十六人撰、三五記、愚見抄、桐火桶、題林愚抄

(前大僧正滋鎮=慈円の一首)
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    題しらず
身にとまる思ひをおきのうは葉にてこの頃かなし夕暮の空(新古352)

【通釈】我が身に留まる、秋の物思い――この物思いを置くのは、荻の上葉ならぬ我が身であるのに、思いはさながら哀れ深い荻の上風のごとくして、この頃かなしいことよ、夕暮の空。
【語釈】◇身にとまる思ひ 自分の身に留まって、消えることがない、秋の物思い。◇おき 置き・荻の掛詞。荻は歴史的仮名遣いでは「をぎ」だが、当時は「おき」と書いた。
【補記】「風ともいはず、秋ともいはざるは、ことさらにはぶきて、詞の外に思はせたるたくみ也、此人の歌、かやうなる趣多し」(本居宣長『美濃の家づと』)。

後京極摂政前太政大臣(藤原良経)=九条良経(くじょうよしつね) 嘉応元~建永元(1169-1206)

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 法性寺摂政太政大臣忠通の孫。後法性寺関白兼実の二男。母は従三位中宮亮藤原季行の娘。慈円は叔父。妹任子は後鳥羽院后宜秋門院。兄に良通(内大臣)、弟に良輔(左大臣)・良平(太政大臣)がいる。一条能保(源頼朝の妹婿)の息女、松殿基房(兼実の兄)の息女などを妻とした。子には藤原道家(摂政)・教家(大納言)・基家(内大臣)・東一条院立子(順徳院后)ほかがいる。
 治承三年(1179)、十一歳で元服し、禁色昇殿。侍従・右少将・左中将を経て、元暦二年(1185)、従三位に叙され公卿に列す。その後も急速に昇進し、文治四年(1188)、正二位。この年、兄良通が死去し、九条家の跡取りとなる。同五年七月、権大納言となり、十二月、左大将を兼ねる。建久六年(1195)十一月、二十七歳にして内大臣(兼左大将)となるが、翌年父兼実が土御門通親の策謀により関白を辞し、良経も籠居を余儀なくされた。同九年正月、左大将罷免。しかし同十年六月には左大臣に昇進し、建仁二年(1202)以後は後鳥羽院の信任を得て、同年十二月、摂政に任ぜられる。同四年、従一位摂政太政大臣。元久二年(1205)四月、大臣を辞す。同三年三月、中御門京極の自邸で久しく絶えていた曲水の宴を再興する計画を立て、準備を進めていた最中の同月七日、急死した。三十八歳。
 幼少期から学才をあらわし、漢詩文にすぐれたが、和歌の創作も早熟で、千載集には十代の作が七首収められた。藤原俊成を師とし、従者の定家からも大きな影響を受ける。叔父慈円の後援のもと、建久初年頃から歌壇を統率、建久元年(1190)の『花月百首』、同二年の『十題百首』、同四年の『六百番歌合』などを主催した。やがて歌壇の中心は後鳥羽院に移るが、良経はそこでも御子左家の歌人らと共に中核的な位置を占めた。建仁元年(1201)七月、和歌所設置に際しては寄人筆頭となり、『新古今和歌集』撰進に深く関与、仮名序を執筆するなどした。建仁元年の『老若五十首』、同二年の『水無瀬殿恋十五首歌合』、元久元年の『春日社歌合』『北野宮歌合』など院主催の和歌行事に参加し、『千五百番歌合』では判者もつとめた。
 後京極摂政・中御門殿と称され、式部史生・秋篠月清・南海漁夫・西洞隠士などと号した。自撰の家集『式部史生秋篠月清集』があり(以下「秋篠月清集」あるいは「月清集」と略)、歌合形式の自撰歌集『後京極摂政御自歌合』がある(以下「自歌合」と略)。千載集初出。新古今集では西行・慈円に次ぎ第三位の収録歌数七十九首。勅撰入集計三百二十首。漢文の日記『殿記』は若干の遺文が存する。書も能くし、後世後京極様の名で伝わる。

前大僧正滋鎮(慈円)=慈円(じえん) 久寿二~嘉禄一(1155~1225) 諡号:慈鎮和尚 通称:吉水僧正

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 摂政関白藤原忠通の子。母は藤原仲光女、加賀局(忠通家女房)。覚忠・崇徳院后聖子・基実・基房・兼実・兼房らの弟。良経・後鳥羽院后任子らの叔父にあたる。
 二歳で母を、十歳で父を失う。永万元年(1165)、覚快法親王(鳥羽天皇の皇子)に入門し、道快を名のる。仁安二年(1167)、天台座主明雲を戒師として得度する。嘉応二年(1170)、一身阿闍梨に補せられ、兄兼実の推挙により法眼に叙せられる。以後、天台僧としての修行に専心し、安元二年(1176)には比叡山の無動寺で千日入堂を果す。摂関家の子息として法界での立身は約束された身であったが、当時紛争闘乱の場と化していた延暦寺に反発したためか、治承四年(1180)、隠遁籠居の望みを兄の兼実に述べ、結局兼実に説得されて思いとどまった。養和元年(1181)十一月、師覚快の入滅に遭う。この頃慈円と名を改めたという。
 寿永元年(1182)、全玄より伝法灌頂をうける。文治二年(1186)、平氏が滅亡し、源頼朝の支持のもと、兄兼実が摂政に就く。以後慈円は平等院執印・法成寺執印など、大寺の管理を委ねられた。同五年には、後白河院御悩により初めて宮中に召され、修法をおこなう。
 この頃から歌壇での活躍も目立ちはじめ、良経を後援して九条家歌壇の中心的歌人として多くの歌会・歌合に参加した。文治四年(1188)には西行勧進の「二見浦百首」に出詠。
 建久元年(1190)、姪の任子が後鳥羽天皇に入内。同三年(1192)、天台座主に就任し、同時に権僧正に叙せられ、ついで護持僧・法務に補せられる。同年、無動寺に大乗院を建立し、ここに勧学講を開く。同六年、上洛した源頼朝と会見、意気投合し、盛んに和歌の贈答をした(『拾玉集』にこの折の頼朝詠が残る)。しかし同七年(1196)十一月、兼実の失脚により座主などの職位を辞して籠居した。
 建久九年(1198)正月、譲位した後鳥羽天皇は院政を始め、建仁元年(1201)二月、慈円は再び座主に補せられた。この前後から、院主催の歌会や歌合に頻繁に出席するようになる。同年六月、千五百番歌合に出詠。七月には後鳥羽院の和歌所寄人となる。同二年(1202)七月、座主を辞し、同三年(1203)三月、大僧正に任ぜられたが、同年六月にはこの職も辞した。以後、「前大僧正」の称で呼ばれることになる。
 九条家に代わって政界を制覇した源通親は建仁二年(1202)に急死し、兼実の子良経が摂政となったが、四年後の建永元年(1206)、良経は頓死し、翌承元元年(1207)には兄兼実が死去した。以後、慈円は兼実・良経の子弟の後見役として、九条家を背負って立つことにもなる。
 この間、元久元年(1204)十二月に自坊白川坊に大懺法院を建立し、翌年、これを祇園東方の吉水坊に移す。建永元年(1206)には吉水坊に熾盛光堂(しじょうこうどう)を造営し、大熾盛光法を修す。また建仁二年の座主辞退の後、勧学講を青蓮院に移して再興するなど、天下泰平の祈祷をおこなうと共に、仏法興隆に努めた。
 建暦二年(1212)正月、後鳥羽院の懇請により三たび座主職に就く。翌三年には一旦この職を辞したが、同年十一月には四度目の座主に復帰。建保二年(1214)六月まで在任した。
 建保七年(1219)正月、鎌倉で将軍実朝が暗殺され、九条道家の子頼経が次期将軍として鎌倉に下向。しかし後鳥羽院は倒幕計画を進め、公武の融和と九条家を中心とした摂政制を政治的理想とした慈円との間に疎隔を生じた。院はついに承久三年(1221)五月、北条義時追討の宣旨を発し、挙兵。攻め上った幕府軍に敗れて、隠岐に配流された。
 慈円はこれ以前から病のため籠居していたが、貞応元年(1222)、青蓮院に熾盛光堂・大懺法院を再興し、将軍頼経のための祈祷をするなどした。その一方、四天王寺で後鳥羽院の帰洛を念願してもいる。嘉禄元年(1225)九月二十五日、近江国小島坊にて入寂。七十一歳。無動寺に葬られた。嘉禎三年(1237)、慈鎮和尚の諡号を賜わる。
 著書には歴史書『愚管抄』(承久二年頃の成立という)ほかがある。家集『拾玉集』(尊円親王ら編)、佚名の『無名和歌集』がある。千載集初出。勅撰入集二百六十九首。新古今集には九十二首を採られ、西行に次ぐ第二位の入集数。

(その七)西園寺入道前太政大臣(藤原公経)と右衛門督通貝(源通貝)

西園寺公経.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方七・西園寺入道前太政大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009400

源通具.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方七・右衛門督通具」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009418

(バーチャル歌合)

左方七・西園寺入道前太政大臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010688000.html

 桜花みねにも尾にもうへをかむ/見ぬ世のはるを人やしのぶと

右方七・右衛門督通具
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010689000.html

 磯上ふるののさくらたれうへて/はるはわすれぬかたみなるらむ

判詞(宗偽)

 『小倉百人一首』(藤原定家撰)では、慈円(九十五番)と定家(九十七番)に挟まれて出て来る「九十六番:入道前太政大臣=藤原公経=西園寺公経」が、「左方七・西園寺入道前太政大臣」である。

九五 おほけなくうき世の民におほふかな/わがたつ杣に墨染の袖(慈円)
九六 花さそふ嵐の庭の雪ならで/ふりゆくものはわが身なりけり(公経)
九七 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに/焼くや藻塩の身もこがれつつ(定家)

 この九十七番の定家の一首は、男に恋い焦がれた女性になりきって詠んだ恋歌として夙に知られているが、これを「承久の変」(「承久三年=一二二一」に、後鳥羽院天皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げ朝廷側が敗北した事変)の「後鳥羽院」と置き換えると、この三首は、当時の状況の一端を垣間見せてくれる。
 この九十五番の「慈円」は「後鳥羽院」派であり、この九十六番の「公経」は「鎌倉幕府」派ということになる。そして、九十七番の「定家」は、その後鳥羽院に見出され、その後、離反にする、その「後鳥羽院:鎌倉幕府」との中間に位置する「日和見主義」(中間)ということになろう。
 ここで、公経の二首を並列してみたい。

花さそふ嵐の庭の雪ならで/ふりゆくものはわが身なりけり(『百人一首』)
桜花みねにも尾にもうへをかむ/見ぬ世のはるを人やしのぶと(「新三十六歌仙画帖」)

 この二首に共通するものは、「ふりゆくものはわが身なりけり」(古りゆくものは己の身である)という述懐であろう。

 次の、通具の一首は、「千五百番歌合」(「建仁元年(1201))千五百番歌合」の百八十番(左方=顕昭、右方=通具)に、次のように出ている。

 百八十番  左                      顕昭
遠近(をちこち)の花見るほどに行(ゆき)やらで帰(かへ)さは暮れぬ志賀の山越
       右 勝                    通具朝臣
石(いそ)の上(かみ)ふる野の桜たれ植へて春は忘れぬ形見なるらむ
 左、志賀の山ごえにとりては、遠近、しひてあるべからずや。帰(かへ)さ暮れん事は又うたがひなかるべし。「花みるほどに」などいへることは、無下にたゞ詞にやあらん。右、心詞とがなく見え侍り。勝とすべし。
                    (『日本古典文学大系74 歌合集』)

 通具は藤原俊成女(俊成の養女)を妻とするが、後に離縁する。しかし、定家(俊成の
子)との関係は終始良好で、同年齢の公経(定家の姉の夫)ともども、後鳥羽院よりも定家
寄りの歌人のように思われる。
 ここで、公経(左)と通具(右)との二首の優劣を見ていきたい。

   左
桜花みねにも尾にもうへをかむ/見ぬ世のはるを人やしのぶと(公経)
   右
磯上ふるののさくらたれうへて/はるはわすれぬかたみなるらむ(通具)

 左の歌の「桜花みねにも尾にもうへをかむ」の「うへをかむ」のは、作者(公経)自身で
あろう。それに比して、右の歌の「磯上ふるののさくらたれうへて」の「たれうへて」は、
作者(通具)以外の「誰」ということになる。
 ここで、定家の「和歌十体」(「幽玄様」「長高様」「有心 (うしん) 様」「事可然 (ことしかるべき) 様」「麗様」「見様」「面白様」「濃様」「有一節 (ひとふしある) 様」「拉鬼様」)の、基本的な「有心 (うしん) 様」での判とすると、「以左為勝」(左ヲ以ッテ勝ト為ス)。

西園寺公経の一首
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  西園寺にて三十首歌よみ侍りける春歌
山ざくら峰にも尾にも植ゑおかむ見ぬ世の春を人やしのぶと(新勅撰1040)

【通釈】山桜の若木を、山の頂きにも尾根にも植えておこう。私は見ることが出来ないが、満開に咲き誇る春を、後の世の人々が賞美するだろうかと。
【語釈】◇西園寺 公経が北山に造営した寺。のち、足利義満が同地に北山第を建て、金閣寺となる。◇見ぬ世の春 私は見ることのない後世の春。
【補記】『増鏡』「内野の雪」で名高い歌。西園寺の豪奢な庭園や御堂の描写のあと、「めぐれる山の常磐木ども、いとふりたるに、なつかしき程の若木の桜など植ゑわたすとて、大臣うそぶき給ひける」としてこの歌を引用している。
【参考歌】慈円「堀河題百首」
我がやどに花たちばなをうゑおかむなからんあとの忘れがたみに

源通具の一首
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/mititomo.html#SP

  千五百番歌合に
いその神ふるのの桜たれ植ゑて春は忘れぬかたみなるらむ(新古96)

【通釈】布留野に咲く桜—いったい誰が植えて、春になれば昔を思い出す記念となっているのだろう。
【語釈】◇いその神 「ふる」にかかる枕詞。◇ふるの 布留野。今の奈良県天理市布留。石上神宮がある。「古」を掛ける。◇かたみ 形見。思い出のよすがとなるもの。

西園寺公経(さいおんじきんつね) 承安元~寛元二(1171-1244)通称:一条相国・西園寺入道前太政大臣など

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太政大臣公季の裔。内大臣実宗の子。母は持明院基家女(平頼盛の外孫女)。子に綸子(九条道家室)・西園寺実氏(太政大臣)・実有(権大納言)・実雄(左大臣)ほかがいる。源頼朝の妹婿一条能保のむすめ全子を娶り、鎌倉幕府と強固な絆で結ばれた。また九条良経(妻の姉妹の夫)・定家(姉の夫)とも姻戚関係にあった。家集を残す西園寺実材母(さねきのはは)は晩年の妾である。
治承三年(1179)、叙爵。養和元年(1181)十二月、侍従。左少将・左中将などを経て、建久七年(1196)、源通親による政変に際し、蔵人頭に抜擢される。同九年正月、土御門天皇が即位すると、引き続き蔵人頭に補され、また後鳥羽上皇の御厩別当となる。同月、参議に就任。同年十一月、従三位。しかし翌正治元年(1199)、頼朝が没すると出仕を停められ、院別当を罷免され籠居を命ぜられる。同年十一月には許されて復帰した。その後は順調に昇進を重ね、建仁二年(1202)七月、権中納言。建永元年(1206)三月、中納言。承元元年(1207)には正二位権大納言に、建保六年(1218)十月には大納言に進む。この間、鎌倉と密接な関係を保ち続けた。
承久元年(1219)、三代将軍実朝が暗殺されると、幕府の要望にこたえ、外孫にあたる九条道家の第三子三寅(みとら)を後継将軍として鎌倉に下らせた。同三年、院の倒幕計画を事前に察知し、弓場殿に拘禁されたが、その直前、鎌倉方に院の計画を牒報、幕府の勝利に貢献した。乱終結後は時局の収拾にあたり、後継の上皇に後高倉院を擁立。幕府の信頼を背景に、関東申次として京都政界で絶大の権勢をふるった。同年閏十月、内大臣。貞応元年(1222)八月、太政大臣に昇る。貞応二年(1223)正月、従一位。同年四月、太政大臣を辞任。寛喜三年(1231)十二月、出家。法名は覚勝。
その後も前大相国として実権を掌握し続け、女婿道家を後援して天皇外祖父の地位を与えた。仁治三年(1242)、後嵯峨天皇が即位すると孫娘を入内・立后させ、自ら皇室外戚の地位を占める。寛元二年(1244)八月二十九日、病により薨去。七十四歳。
晩年、北山にかまえた豪邸の有様は『増鏡』の「内野の雪」に詳しい。権力を恣にしたその振舞は「大相一人の任意、福原の平禅門に超過す」(『明月記』)、あるいは「世の奸臣」(『平戸記』)と評された。
多芸多才で、琵琶や書にも秀でた。歌人としては正治二年(1200)の「石清水若宮歌合」、建仁元年(1201)の「新宮撰歌合」、建仁二年(1202)の「千五百番歌合」、承久二年(1220)以前の「道助法親王家五十首」、貞永元年(1232)以前の「洞院摂政家百首」などに出詠。新古今集初出(十首)。新勅撰集には三十首を採られ、入集数第四位。新三十六歌仙。小倉百人一首に歌を採られている。

源通具(みなもとのみちとも) 承安元~安貞元(1171-1227) 号:堀川大納言

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村上源氏。内大臣土御門通親の二男。母は修理大夫平通盛女。通光・道元の異母兄。藤原俊成女を妻とし、具定と一女をもうけた。子にはほかに内大臣具実(母は法印能円女、按察局)などがいる。
元暦元年(1184)十一月、叙爵。文治元年(1185)十二月、因幡守に任ぜられる。建久八年(1197)六月、伊予守。正治元年(1199)頃、幼帝土御門の乳母按察局を妻に迎え、まもなく俊成女とは別居したらしい。正治二年(1200)三月、左中将・蔵人頭。建仁元年(1201)八月、参議に就任する。同三年十一月、右衛門督・検非違使別当を兼任。元久二年(1205)四月、正三位権中納言。建暦二年(1212)六月、権大納言に昇り、貞応元年(1222)八月、正二位大納言に至る。安貞元年(1227)九月二日、五十七歳で薨ず。
父通親・後鳥羽院主催の歌会・歌合で活躍し、正治二年(1200)の院当座歌合・石清水若宮歌合、建仁元年(1201)の新宮撰歌合・鳥羽殿影供歌合などに出詠。同年、和歌所寄人に補され、さらに新古今集撰者に任ぜられた。以後も千五百番歌合、建仁二年(1202)の仙洞影供歌合、元久元年(1204)の春日社歌合、建永元年(1206)の卿相侍臣歌合、同二年の鴨社歌合などの作者となる。順徳天皇の歌壇でも建保二年(1214)八月の内裏歌合に名を列ねている。
夫木和歌抄によれば家集があったらしいが現存しない。俊成卿女との二人歌合の古筆断簡が「通具俊成卿女歌合」として新編国歌大観にまとめて翻刻されている。新古今集初出(十七首は撰者中最少)。勅撰入集三十七首。新三十六歌仙。

(その八)後徳大寺左大臣(藤原実定)と藤原清輔朝臣

藤原実定.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方八・後徳大寺左大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009401

藤原清輔.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方八・藤原清輔朝臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009419

藤原清輔二.jpg

(右方八・藤原清輔朝臣)=右・和歌:左・肖像
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019785

(バーチャル歌合)

左方八・後徳大寺左大臣(藤原実定)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010689000.html

 なこの海の霞のまよりながむれば/入日をあらふおきつしらなみ

右方八・藤原清輔朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010691000.html

 柴の戸にいり日の影はさしながら/いかにしぐるるやまべ成らん

判詞(宗偽)

 藤原実定と藤原清輔との組み合わせというよりも、実定の「入日」の歌に清輔の「いり日」の歌との、これぞまさしく「歌合」そのものということになろう。
 このお二人は、『小倉百人一首』(藤原定家撰)では、八十一番(実定)と八十四番(清輔)で登場する。

八一 ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる(実定)
八四 ながらへばまたこの頃やしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき(清輔) 

 実定は、『平家物語』に登場する源平争乱時代を生き抜いた、定家とは従兄弟(実定の母は定家の父・俊成の妹、定家より二十三歳年長)にあたる歌人である。この一首は、聴覚(ほととぎすの声)から視覚(有明の月)への転換の鮮やかな「郭公の歌の随一」の秀歌として名高い。
 次の清輔は、定家の父・俊成(清輔より十歳年下、『小倉百人一首』では清輔の前の八十三番の作者)と平安時代末期の歌壇をリードした好敵手(ライバル)ということになる。
 ここで、実定の「入日」の歌と清輔の「いり日」の歌とを、あらためて並列してみたい。

なこの海の霞のまよりながむれば/入日をあらふおきつしらなみ(左方・実定)
柴の戸にいり日の影はさしながら/いかにしぐるるやまべ成らん(右方・清輔)

 共に、「なこの海」(左)に「柴の戸」(右)、「霞」(左)に「時雨」(右)、「白波」(左)に「山辺」と、「定家十体」の「見様」(子規の『俳人蕪村』での「景気といい景曲といい見様体という、皆わが謂う客観的な句=歌」)の歌として、「持」(引き分け)といたしたい。

徳大寺(藤原)実定の二首

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   晩霞といふことをよめる
なごの海の霞の間よりながむれば入日(いるひ)をあらふ沖つ白波(新古35)

【通釈】なごの海にたなびく霞の切れ間をとおして眺めると、水平線に沈んでゆく太陽を洗っているよ、沖の白波が。
【語釈】◇なごの海 越中などにも同名の歌枕があるが、ここのは摂津国とするのが通説。本歌(下記参照)との関係からしても、住吉あたりの海を想定して詠んだにちがいない。
【補記】治承三年(1179)成立の歌合形式秀歌撰『治承三十六人歌合』に二番「晩霞」の題で掲載。鴨長明の『無名抄』では俊恵が「上句思ふやうならぬ」歌の例として挙げられている。「入日をあらふ」は素晴らしい表現であるが、第二・三句が釣り合っていないと批判しているのである。
【他出】治承三十六人歌合、林下集、無名抄、和漢兼作集、歌枕名寄、六華集、題林愚抄
【本歌】源経信「後拾遺集」
沖つ風吹きにけらしな住吉の松のしづ枝をあらふ白波
【参考歌】大伴家持「万葉集」巻十七
奈呉の海の沖つ白波しくしくに思ほえむかも立ち別れなば
【主な派生歌】
なごの海のいる日をあらふ浪のうへに春の別れの色をそへつつ(後鳥羽院)
見渡せば空のかぎりもなごの海の霞にかかる沖つしら波(頓阿)

   暁聞時鳥といへる心をよみ侍りける
ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞのこれる(千載161)

【通釈】暁になって、やっとほととぎすが鳴いた。その声のした方を眺めると、鳥のすがたは跡形も無くてただ有明の月が空に残っているばかりだ。
【語釈】◇暁聞時鳥 暁に時鳥(ほととぎす)を聞く。◇有明の月 明け方まで空に残る月。ふつう、陰暦二十日以降の月。
【補記】「初学云、郭公のそなたに鳴つるはとて見やれば、名残あとなき空に、有明の月のみあると也、といへり。実にけしきみえて、郭公にとりては、当時最第一の御歌といふべし」(香川景樹『百首異見』)。『素然抄』『幽斎抄』にも「郭公の歌には第一ともいふべきにや」とあり、古来郭公を詠んだ秀歌中の秀歌とされた。現代の注釈書でも評価は高いが、聴覚(ほととぎすの声)から視覚(有明の月)への転換の鮮やかさがよく指摘される。
【他出】林下集、歌仙落書、治承三十六人歌合、定家八代抄、時代不同歌合、百人一首
【参考】「和漢朗詠集・郭公」(→資料編)
一声山鳥曙雲外
【主な派生歌】
時鳥過ぎつる方の雲まより猶ながめよといづる月かげ(*宜秋門院丹後[玉葉])
ほととぎす鳴きつる雲をかたみにてやがてながむる有明の空(式子内親王[玉葉])
袖の香を花橘におどろけば空に在明の月ぞのこれる(藤原定家)
時鳥いま一こゑを待ちえてや鳴きつるかたを思ひさだめむ(長舜[新後撰])
ほととぎす鳴きて過ぎ行く山の端に今一声と月ぞのこれる(浄弁[新拾遺])
一声の行方いかにとほととぎす月も有明の名残をぞおもふ(冷泉為村)
時鳥なきつるあとにあきれたる後徳大寺の有明の顔(蜀山人)

藤原清輔の二首

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   題しらず
柴の戸に入日の影はさしながらいかに時雨(しぐ)るる山べなるらむ(新古572)

【通釈】柴の戸に入日の影は射しているのに、どうしてこの山では時雨が降っているのだろう。
【語釈】◇柴の戸 柴を編んで作った戸。山住いの粗末な庵の戸。隙間が多く、そこから夕日の光が射し込むのである。◇山べ 山。山のほとりではなく、山の中である。
【補記】『清輔集』では詞書「山居時雨」。
【他出】清輔集、定家十体(見様)、三十六人歌合、六華集

   題しらず
ながらへばまたこの頃やしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき(新古1843)〔百)

【通釈】生き長らえれば、今この時も懐かしく思われるのだろうか。昔、辛いと思った頃のことが、今では恋しく思われるから。
【補記】『清輔集』の詞書は「いにしへ思ひ出でられけるころ、三条大納言いまだ中将にておはしける時、つかはしける」とあり、「三条大納言」が中将であった頃に贈った歌とする(「三条大納言」を「内大臣」とする本も)。「三条大納言」は藤原実房を指すと見る説がある(香川景樹)。三条内大臣藤原公教(大治五年-1130-左中将)とも。
【他出】歌仙落書、清輔集、治承三十六人歌合、定家十体(有心様)、定家八代抄、近代秀歌、別本八代集秀逸(家隆撰)、三五記、桐火桶、井蛙抄
【参考歌】三条院「後拾遺集」
心にもあらで憂き世にながらへば恋しかるべき夜はの月かな
【主な派生歌】
月みても雲井へだつと恨みこしその世の秋ぞ今は恋しき(惟宗光吉)
おのづからつてに通ひし言の葉につらかりし世ぞ今は恋しき(千種有光)
数しらぬ昔をきけば見しほどもすたれたる世の今は恋しき(正徹)
忘れずよ憂しと見しよの春をさへ又このごろの花にしのびて(有賀長伯)
ともすれば君がみけしきそこなひて叱られし世ぞ今は恋しき(*野村望東尼)

徳大寺実定(とくだいじさねさだ) 保延五~建久二(1139-1191)通称:後徳大寺左大臣

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 右大臣公能の一男。母は藤原俊忠女、従三位豪子。忻子(後白河天皇中宮)・多子(近衛天皇・二条天皇后)の同母弟。大納言実家・権中納言実守・左近中将公衡の同母兄。子に公継がいる。俊成の甥。定家の従兄。
 永治元年(1141)、三歳で従五位下に叙される。左兵衛佐・左近衛少将・同中将などを歴任し、保元元年(1156)、十八歳で従三位。同三年、正三位に叙され、権中納言となる。永暦元年(1160)、中納言。同二年、父を亡くす。応保二年(1162)、従二位。長寛二年(1164)、権大納言に昇ったが、翌永万元年(1165)、辞職した(平氏に官職を先んじられたことが原因という)。同年、正二位。以後十二年間沈淪した後、安元三年(1177)三月、大納言として復帰。  
 同年十二月には左大将に任ぜられた。寿永三年(1184)、内大臣に昇り、文治二年(1186)には右大臣、同五年には左大臣に至る。摂政九条兼実の補佐役として活躍したが、建久元年(1190)七月、左大臣を辞し、同二年(1191)六月、病により出家。法名は如円。同年十二月十六日、薨ず。五十三歳。祖父の実能(さねよし)を徳大寺左大臣と呼んだのに対し、後徳大寺左大臣と称された。
 非常な蔵書家で、才学に富み、管弦や今様にもすぐれた。俊恵の歌林苑歌人たちをはじめ、小侍従・上西門院兵衛・西行・俊成・源頼政ら多くの歌人との交流が窺える。住吉社歌合・広田社歌合・建春門院滋子北面歌合・右大臣兼実百首などに出詠。『歌仙落書』には「風情けだかく、また面白く艶なる様も具したるにや」と評されている。『平家物語』『徒然草』『今物語』ほかに、多くの逸話を残す。日記『槐林記』(散佚)、家集『林下集』がある。千載集初出。代々の勅撰集には計79首入集

藤原清輔( ふじわらのきよすけ) 長治一~治承一(1104-1177)

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 六条藤家顕輔の次男。母は能登守高階能遠女。初め隆長と名のった。顕方は同母兄、顕昭・重家・季経は異母弟。父顕輔は崇徳院の命をうけ、天養元年(1144)より『詞花集』の撰集に着手。この時清輔は父より助力を請われたが、かねて父とは不和が続き、結局清輔の意見は採られなかったという(『袋草紙』)。四十代後半に至るまで従五位下の地位に留まったのも、父からの後援を得られなかったためと推測されている(『和歌文学辞典』)。
 しかし歌人としての名声は次第に高まり、久安六年、崇徳院主催の『久安百首』に参加。同じ頃、歌学書『奥義抄』を崇徳院に献上した。また仁平三年(1153)頃、『人丸勘文』を著し、類題和歌集『和歌一字抄』を編集。久寿二年(1155)、父より人麿影と破子硯を授けられ、歌道師範家六条家を引き継ぐ。
 保元元年(1156)、従四位下。保元三年、和歌の百科全書とも云うべき『袋草紙』を完成する。翌年、これを二条天皇に献上。天皇の信任は篤く、太皇太后宮大進の地位を得る。この頃から自邸で歌合を催したり、歌合の判者に招かれたりするようになり、歌壇の中心的存在となってゆく。二条天皇からは、かねて私的に編纂していた歌集を召され、補正を進めていたが、永万元年(1165)、天皇は崩御。同年、清輔による撰集は、私撰集『続詞花和歌集』として完成された。やがて九条兼実の師範となり、歌道家としての勢威は、対立する藤原俊成の御子左家を凌いだ。
 治承元年(1177)六月二十日、七十四歳で死去。最終官位は正四位下。著書にはほかに『和歌現在書目録』『和歌初学抄』などがある。自撰と推測される家集『清輔朝臣集』がある(以下『清輔集』と略)。千載集初出。勅撰入集九十六首。

(その九)権代納言基家(藤原基家)と宣秋門院丹後

藤原基家.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方九・権代納言基家」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009402

藤原基家二.jpg

(左方九・権代納言基家)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019791

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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方九・宣秋門院丹後」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009420

丹後二.jpg

(右方九・宣秋門院丹後)=右・和歌:左・肖像
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019786

(バーチャル歌合)

左方九・権代納言基家
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010692000.html

 秋ふかきもみぢのそこのまつの戸は/たがすむみねのいほりなるらむ

右方九・宣秋門院丹後
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010693000.html

 吹はらふあらしの後の高根より/木の葉くもらで月やいづらん

判詞(宗偽)

 藤原定家よりも後鳥羽院寄りの歌人二人の歌合である。『後鳥羽院御口伝』に、この丹後の歌の「木の葉くもらで」が取り上げられている。この「木の葉くもらで」(静)と初句の「吹はらふ」(動)との取り合わせを佳とし、以右為勝。

『後鳥羽院御口伝』余話(宗偽)

「女房哥詠みには、丹後、やさしき哥あまた詠めりき。
苔の袂に通ふ松風※
木の葉雲らで※※
浦漕ぐ舟は跡もなし※※※
忘れじの言の葉※※※※
殊の他なる峯の嵐に※※※※※
この他にも多くやさしき哥どもありき。人の存知よりも、愚意に殊に殊によくおぼえき。
故攝政は、かくよろしき由仰せ下さるゝ故に、老の後にかさ上がりたる由、たびたび申されき。」
※『新古今』巻第十八 雑歌下 丹後 1794  春日の社の歌合に松風といふことを
なにとなく聞けばなみだぞこぼれぬる苔の袂に通ふ松風
※※『新古今』巻第五  秋歌上 丹後 593  題しらず
吹きはらふ嵐の後の高峰より木の葉くもらで月や出づらむ
※※※『新古今』巻第十六 雑歌上 丹後 1505  和歌所の歌合に湖上月明といふことを
夜もすがら浦こぐ舟はあともなし月ぞのこれる志賀の辛崎
※※※※『新古今』巻第十四 恋歌四 丹後 1303  建仁元年三月歌合に逢不會戀のこころを
忘れじの言の葉いかになりにけむたのめし暮は秋風ぞ吹く
※※※※※『新古今』巻第十七 雑歌中 丹後 1621 鳥羽にて歌合し侍りしに山家嵐といふことを
山里は世の憂きよりも住みわびぬことのほかなる峯の嵐に

宜秋門院丹後の一首

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   題しらず
吹きはらふ嵐ののちの高嶺より木の葉くもらで月や出づらむ(新古6-593)

【通釈】激しい風が吹き、木々を揺すって葉を残らず散らした。この嵐の後にあって、あの高嶺から木の葉に遮られることなく月が昇ることだろうか。
【語釈】◇木の葉くもらで 木の葉で月の光が霞むことなく。
【補記】正治二年(1200)の後鳥羽院初度百首。
【他出】定家十体(長高様・見様)、三十六人歌合(元暦)、三五記、三百六十首和歌、六華集、題林愚抄
【主な派生歌】
ふけゆけば木の葉くもらで出でにけりたかつの山の秋の夜の月(覚助法親王)
月ぞ猶木の葉くもらで残りける秋のかたみはとめぬ嵐に(頓阿)

藤原基家(ふじわらのもといえ) 建仁三~弘安三(1203-1280) 号:鶴殿(たづどの)・後九条内大臣

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 後京極摂政良経の三男(公卿補任)。母は松殿関白基房女。藤原道家・東一条院立子(順徳天皇中宮)の異母弟。子に経家・良基がいる。
 建保三年(1215)正月、叙爵。右中将・権中納言・権大納言などを歴任し、承久三年(1221)、正二位に至る(最終官位)。寛喜三年(1231)四月、西園寺実氏が権大納言から内大臣に昇進すると、家格の低い実氏に官位を超えられたことに不満を抱いて籠居。その後再出仕し、嘉禎三年(1237)十二月、内大臣に就任。翌四年六月、辞職引退。弘安三年(1280)七月十一日、薨。七十八歳。
 歌人としては、貞永元年(1232)の石清水若宮歌合・光明峯寺摂政家歌合・洞院摂政家百首に参加するなど九条家歌壇を中心に活動するが、文暦二年(1235)に完成した藤原定家撰『新勅撰集』には一首も採られなかった。嘉禎二年(1236)、後鳥羽院主催の遠島御歌合に献歌。 
 建長三年(1251)奏覧の為家撰『続後撰集』でようやく勅撰集初入撰を果たす(8首)。定家亡きあと御子左家を引き継いだ為家には反発し、知家・真観ら反御子左派を庇護して、建長八年(1256)九月十三日百首歌合を主催、真観らと共に自ら判者を務めた。弘長元年(1261)に鎌倉で催された宗尊親王百五十番歌合でも判者を務める(京に在って加判)。弘長二年(1262)、『続古今集』の撰者の一人に加えられる。後嵯峨院歌壇でも活躍し、宝治二年(1248)の宝治百首、弘長元年(1261)以後の弘長百首に出詠している。ほかに建長三年(1251)九月影供歌合、文永二年(1265)八月十五夜歌合、弘安元年(1278)頃の弘安百首などに参加。
 建長五年(1253)または翌年頃、私撰集『雲葉集』を編集。また『新撰歌仙』『新時代不同歌合』などの編者とみる説がある。続後撰集初出。勅撰集入集は計七十九首。新三十六歌仙。『新時代不同歌合』にも歌仙として撰入。

宜秋門院丹後(ぎしゅうもんいんのたんご) 生没年不詳 別称:摂政家丹後

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 清和源氏。仲正の孫。蔵人大夫源頼行(保元の乱に連座して自殺)の娘。母は不詳。武将・歌人として名高い頼政は伯父、源仲綱は従弟、二条院讃岐は従妹にあたる。
 はじめ摂政九条兼実に仕え、摂政家丹後と呼ばれた。のち兼実の息女で後鳥羽院の中宮任子(宜秋門院)に仕えた。建仁元年(1201)、出家。安元元年(1175)七月の「兼実家百首」、建久元年(1190)の「花月百首」、正治二年(1200)の「後鳥羽院初度百首」、建仁元年(1201)頃の「千五百番歌合」、建仁元年(1201)八月の「撰歌合」、元久元年(1204)十一月の「春日社歌合」、建永元年(1206)七月の「卿相侍臣歌合」など、九条家・後鳥羽院主催の歌合の多くに出詠。 
 「後鳥羽院御口伝」に「女房歌詠みには、丹後、やさしき歌あまた詠めりき」とある。承元二年(1208)の「住吉社歌合」に参加したことが知れ(新続古今集)、以後の消息は不明。
 千載集初出。勅撰入集計四十二首。女房三十六歌仙。後鳥羽院の「時代不同歌合」にも歌仙として撰入されている。
 丹後は新古今歌風の確立を準備した歌人の一人として高い評価を得ている。歌風は上の後鳥羽院の一語「やさしき」に尽きるが、幽玄な情景に、おのれの心を染み込ませるように反映させている。そこには、自己の孤独や命のはかなさへの謙虚な凝視とともに、花鳥風月への暖かい共感が籠もる。

(その十)前中納言定家(藤原定家)と従二位家隆(藤原家隆)

定家.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十・前中納言定家」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009403

定家二.jpg

(左方十・前中納言定家)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019792

家隆.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十・従二位家隆)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009421

家隆二.jpg

(右方十・従二位家隆)=右・和歌:左・肖像
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019787

(バーチャル歌合)

左方十・前中納言定家
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010694000.html

 しら玉の緒絶のはしの名もつらし/くだけておつる袖のなみだぞ

右方十・従二位家隆
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010695000.html

 かぎりあれば明なむとするかねの音に/猶ながき夜の月ぞのこれる

(判詞=宗偽)

 『新古今和歌集』は後鳥羽院の命によって編纂された勅撰和歌集である。その撰者は「源通具・六条有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮」の六人(寂連は撰集作業中に没しており、実質的には五人)である。この撰者のうち中心になったのが、藤原定家と藤原家隆の二人であろう。
 ここで、「新三十六人歌合」(「新三十六歌仙」とも)の撰者は「後鳥羽院(撰)」と伝えられているが(『歌仙絵(東京国立博物館)』所収「作品解説(土屋貴裕)」)、実際に撰集作業に携わったのは、後鳥羽院との関係からすると、承久三年(一二二一)の承久の変後も後鳥羽院との間で音信を絶やさず、嘉禄二年(一二二六)に、「家隆後鳥羽院撰歌合」の判者を務めている「藤原家隆」その人のように思われる。
 そして、この「新三十六人歌合」での「藤原定家と藤原家隆」との組み合わせは、これはやはり「後鳥羽院」その人という思いがどうしても捨て難い。そして、この二人の歌合の歌が、『新古今集』などの勅撰和歌集ではなく、定家の歌は私家集『拾遺愚草』所収のもので、家隆の歌は、どういう時に詠作されたのか不明なのである(藤原基家が編纂した『壬二(みに)集』、別名『玉吟集』などに収録されているのかも知れない)。
 さて、ここで、この二人の歌を並列してみたい。そして、その表記は、「和泉市久保惣記念美術館蔵」のもので、上の句(短歌の前半の五・七・五の三句)と下の句(短歌の後半の七・七の二句)の二行の表記に因っている。この二行の表記は、「連歌・連句」の「長句」(五・七・五の句)と「短句」(七・七句)に対応し、判詞の判定の分析作業などに便利という単純な理由に因る。

   左
 しら玉の緒絶のはしの名もつらし/くだけておつる袖のなみだぞ(定家)
   右
 かぎりあれば明なむとするかねの音に/猶ながき夜の月ぞのこれる(家隆)

 定家の歌の「緒絶のはし(橋)」は、下記の「歌枕:緒絶橋」(参考)のとおり、『万葉集』にも出て来る「歌枕」で、芭蕉の『おくの細道』にも「松島から平泉」へ向かう途中で「道を誤って辿り着けなかったこと」が記されている。そして、その「緒絶橋」は、「嵯峨天皇の皇子が東征のために陸奥国へ赴いた折り、その恋人であった白玉姫が命を絶った」という伝承に基づいており、「姫が命(玉の緒)を絶った川」の「橋」の由来で、「悲恋」や「叶わぬ恋」を暗示するものである。
 即ち、この定家の歌は「悲恋」の歌なのである。それにしては、この歌の下の句の「くだけておつる袖のなみだぞ」は、どうにも大げさな感じで無くもない。芭蕉が其角を評して、「しかり。かれ(其角)は定家の卿也。さしてもなき事を(蚤の喰ひつきたる事を)、ことごとしくいひつらね侍る」(『去来抄』)の評と同じく何とも空々しい感じを受けるのである。
 それに比して、家隆の「かぎりあれば明なむとするかねの音に」の「かぎりあれば」(命の限りがあれば)も「かねの音(夜明けを告げる時の鐘)」にも、後鳥羽院が言う「たけもあり(格調があり)、心もめづらしく見ゆ(新鮮な何とも言えない余情がある)」(下記の『後鳥羽院』余話)の感じが大である。さらに、家隆の「猶ながき夜の月ぞのこれる」の「ながき夜」の「後朝の別れ」の暗示と、「月ぞのこれる」の、この「余韻・余情」は見事の一言に尽きる。
 それに付加して、『後鳥羽院御口伝』の、赤裸々な後鳥羽院の「定家評」を目の当たりにすると(下記の『後鳥羽院』余話)、この二首は、右(家隆)の「勝」とせざるを得ない。

(追記)

 とした上で、もう一度、スタートの時点に戻って、この二首をじっくりと反芻しているうちに、この家隆の「かぎりあれば明なむとするかねの音に/猶ながき夜の月ぞのこれる」は、定家の「しら玉の緒絶のはしの名もつらし/くだけておつる袖のなみだぞ」に接して、それに誘発されて、丁度、その定家の歌に「唱和」(他の歌に和して生まれる歌)して生まれた一首のような印象を深くしたのである。
 それは、定家の一首が、大げさな「伊達(派手)・晴(ハレ)」風の「もみもみ(技巧を凝らした)」風の歌とするならば、家隆の一首は、抑えに抑えた「渋味(澁み)・褻(ケ)」風の「西行がふり(無技巧の技巧)」風の一首なのではないかという思いである。
 とすると、この二首は、それぞれの歌が、それぞれの歌人の、それぞれの作風を強調するが故のものと解すると、これは、等しく「持」(引き分け)なる両首と解したい。

「歌枕:緒絶橋」(参考)

https://japanmystery.com/miyagi/odae.html

緒絶橋は『万葉集』にもその名が記されている、陸奥国の歌枕である。この大崎の地は古来よりたびたび川が氾濫し、そのたびに川の流れが大きく変わった。そのために以前の川筋が切れてしまい、あたかも流れを失った川のようになることがあった。このように川としての命脈が切れたものを“緒絶川(命の絶えた川)”と呼び、その川筋に架けられた橋ということで「緒絶橋」と名付けられたとされる。
しかしそれ以外にも“緒絶”の由来とされる伝承がある。嵯峨天皇の皇子が東征のために陸奥国へ赴いたが、その恋人であった白玉姫は余りの恋しさに皇子の後を追うように陸奥へ向かった。ところがこの地に辿り着いてみたが、皇子の行方は掴めない。意気消沈した姫はそのまま川に身投げをして亡くなってしまった。土地の者は、姫の悲恋を哀れんで“姫が命(玉の緒)を絶った川”という意味で緒絶川と呼ぶようになったという。
歌枕としての緒絶橋は、白玉姫の伝承をあやかって“悲恋”や“叶わぬ恋”を暗示するものとなっている。最も有名な歌は、藤原道雅の「みちのくの をだえの橋や 是ならん ふみみふまずみ こころまどはす」という悲恋の内容である。また松尾芭蕉がこの地を訪れようとしたが、姉歯の松同様、道を誤って辿り着けなかったことが『奥の細道』に記されている。

定家の「緒絶橋」の歌(参考)

※白玉の緒絶の橋の名もつらしくだけて落つる袖の涙に (拾遺愚草)
※しるべなき緒絶の橋にゆき迷ひまたいまさらのものや思はむ(拾遺愚草)
※人心緒絶の橋にたちかへり木の葉ふりしく秋の通ひ路(拾遺愚草)
※ことの音も歎くははる契とて緒絶の橋に中もたへにき(拾遺愚草)
※かくしらば緒絶の橋のふみまよひ渡らでただにあらましものほ(拾遺愚草)

『後鳥羽院御口伝』余話(宗偽)

「家隆卿は、若かりし折はきこえざりしが、建久のころほひより、殊に名誉もいできたりき。哥になりかへりたるさまに、かひがひしく、秀哥ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり。たけもあり、心もめづらしく見ゆ。」(『日本文学大系65』所収「後鳥羽院御口伝」)

「定家は、※①さうなき物なり。さしも殊勝なりし父の詠をだにもあさあさと思ひたりし上は、ましてや餘人の哥、沙汰にも及ばず。やさしくもみもみとあるやうに見ゆる姿、まことにありがたく見ゆ。道にも達したるさまなど、殊勝なりき。哥見知りたるけしき、ゆゝしげなりき。たゞし、※②引汲の心になりぬれば、鹿をもて馬とせしがごとし。傍若無人、理も過ぎたりき。他人の詞を聞くに及ばず。
惣じて※③彼の卿が哥存知の趣、いさゝかも事により折によるといふ事なし。ぬしにすきたるところなきによりて、我が哥なれども、自讃哥にあらざるをよしなどいへば、腹立の氣色あり。先年に、※④大内の花の盛り、昔の春の面影思ひいでられて、忍びてかの木の下にて男共の哥つかうまつりしに、定家左近中將にて詠じていはく、

としを經てみゆきになるゝ花のかげふりぬる身をもあはれとや思ふ

左近次將として廿年に及びき。述懷の心もやさしく見えし上、ことがらも希代の勝事にてありき。尤も自讃すべき哥と見えき。先達どもゝ、必ず哥の善惡にはよらず、事がらやさしく面白くもあるやうなる哥をば、必ず自讃哥とす。定家がこの哥詠みたりし日、大内より硯の箱の蓋に庭の花をとり入れて中御門攝政のもとへつかはしたりしに「誘はれぬ人のためとや殘りけむ」と返哥せられたりしは、あながち哥いみじきにてはなかりしかども、新古今に申し入れて、「このたびの撰集の我が歌にはこれ詮なり」とたびたび自讃し申されけると聞き侍りき。
昔よりかくこそ思ひならはしたれ。哥いかにいみじけれども、異樣の振舞して詠みたる戀の哥などをば、勅撰うけ給はりたる人のもとへは送る事なし。これらの故實知らぬ物やはある。されども、左近の櫻の詠うけられぬ由、たびたび哥の評定の座にても申しき。家隆等も聞きし事也。諸事これらにあらはなり。
※⑤四天王院の名所の障子の哥に生田の森の歌いらずとて、所々にしてあざけりそしる、あまつさへ種々の過言、かへりて己が放逸を知らず。まことに清濁をわきまへざるは遺恨なれども、代々勅撰うけ給はりたる輩、必ずしも萬人の心に叶ふ事はなけれども、傍輩猶誹謗する事やはある。
惣じて彼の卿が哥の姿、殊勝の物なれども、人のまねぶべきものにはあらず。心あるやうなるをば庶幾せず。たゝ、詞姿の艷にやさしきを本躰とする間、その骨すぐれざらん初心の者まねばゝ、正躰なき事になりぬべし。定家は生得の上手にてこそ、心何となけれども、うつくしくいひつゝけたれば、殊勝の物にてあれ。

秋とだに吹きあへぬ風に色變る生田の森の露の下草

まことに、「秋とだにと」うちはじめたるより、「吹きあへぬ風に色變る」といへる詞つゞき、「露の下草」と置ける下の句、上下相兼ねて、優なる哥の本躰と見ゆ。かの障子の「生田の森」の哥にはまことにまさりて見ゆらん。しかれども、かくのごとくの失錯、自他今も今もあるべき事也。さればとて、長き咎になるべからず。
此の哥もよくよく見るべし。詞やさしく艷なる他、心もおもかげも、いたくはなきなり。森の下に少し枯れたる草のある他は、氣色も理もなけれども、いひながしたる詞つゞきのいみじきにてこそあれ。案内も知らぬ物などは、かやうの哥をば何とも心得ぬ間、彼の卿が秀哥とて人の口にある哥多くもなし。をのづからあるも、心から不受也。
釋阿、西行などは、最上の秀哥は、詞も優にやさしき上、心が殊に深く、いはれもある故に、人の口にある哥、勝計すべからず。凡そ顯宗なりとも、よきはよく愚意にはおぼゆる間、一筋に彼の卿がわが心に叶はぬをもて、※①左右なく哥見知らずと定むる事も、偏執の義也。すべて心には叶はぬなり。哥見知らぬは、事缺けぬ事なり。
撰集にも入りて後代にとゞまる事は、哥にてこそあれば、たとひ見知らずとも、さまでの恨みにあらず。
  秘蔵々々、尤不可有披露云。 」(『日本文学大系65』所収「後鳥羽院御口伝」)

(余話)

①「定家は、※①さうなき物(者)なり」→ 定家は「双なき者」で「並人ではなく」、また「左右(さう)なき者」で「唯我独尊」の傾向がある。

①「一筋に彼の卿がわが心に叶はぬをもて、※①左右(そう)なく哥見知らずと定むる事も、偏執の義也」→ わき目もふらず、定家卿は、己自身の好みに合わない歌を作る者を「唯我独尊」的に歌を知らないと極めつける。これは「偏執(片寄った)」な考えと言わざるを得ない。

②「※②引汲の心になりぬれば、鹿をもて馬とせしがごとし。傍若無人、理も過ぎたりき。他人の詞を聞くに及ばず」→ 自作を弁護しようと思ったときは(引汲の心になりぬれば)、「鹿を馬」にするが如く「傍若無人」で理屈が過ぎる。他人の意見などに聞く耳を持たない。

③「※③彼の卿が哥存知の趣、いさゝかも事により折によるといふ事なし。ぬしにすきたるところなきによりて、我が哥なれども、自讃哥にあらざるをよしなどいへば、腹立の氣色あり」→ 定家は、歌の批評に際して作歌周辺事情などは考慮しない。己自身に「すき(数寄)=風流心」の心がないので、自分の歌でも、気に入らない作品を褒められると立腹する。

④「※④大内の花の盛り—-『としを經てみゆきになるゝ花のかげふりぬる身をもあはれとや思ふ』—-家隆等も聞きし事也」→ 大内の花の折りの定家の作「としを經てみゆきになるゝ花のかげふりぬる身をもあはれとや思ふ」を、私(後鳥羽院)は、感情も優雅の上、詠作時の雰囲気も格別で自讃歌とすべきと思い、先達の歌人も、歌それ自体よりも詠作事情などに配慮している。『新古今集』の撰歌に、「誘われぬ人のためとや残りけむ明日よりさきの花の白雪」(摂政太政大臣藤原良経)を良経は自撰しているが、定家は詠作時の雰囲気などは考慮せず、歌の良し悪しだけで『新古今集』の撰歌を強いるなどの無理強いを、撰者の家隆などが耳にしている。

⑤「※⑤四天王院の名所の障子の哥に生田の森の歌いらずとて—-※①偏執の義也」→ 最勝四天王院は名所の障子の歌に「白露のしばし袖にと思へども生田の杜に秋風ぞ吹く」(慈円作)が入れられて、定家の「秋とだに吹きあへぬ風に色かはる生田の森の露の下草」が入らなかったことを、定家が「所々にしてあざけりそしる、あまつさへ種々の過言」をなし、「かへりて己が放逸を知らず」は遺憾である。そして、その歌は、採用された「白露の」よりもまさっているかも知れないが、よくよく見れば、詞がやさしく艶なるほかには、心も余情として目に浮かぶ面影もたいしたことはない。自身の心に叶わぬから直ちに歌の本質を知らないと決めつけるのは※①「偏執の義也」。

藤原定家(ふじわらのさだいえ(-ていか)) 応保二~仁治二(1162~1241) 通称:京極中納言

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 応保二年(1162)、藤原俊成(当時の名は顕広)四十九歳の時の子として生れる。母は藤原親忠女(美福門院加賀)。同母兄に成家、姉に八条院三条(俊成卿女の生母)・高松院新大納言(祗王御前)・八条院按察(朱雀尼上)・八条院中納言(建御前)・前斎院大納言(竜寿御前)がいる。初め藤原季能女と結婚するが、のち離婚し、建久五年(1194)頃、西園寺実宗女(西園寺公経の姉)と再婚した。子に因子(民部卿典侍)・為家ほかがいる。寂蓮は従兄。
 仁安元年(1166)、叙爵し(五位)、高倉天皇の安元元年(1175)、十四歳で侍従に任ぜられ官吏の道を歩み始めた。治承三年(1179)三月、内昇殿。養和元年(1181)、二十歳の時、「初学百首」を詠む。翌年父に命ぜられて「堀河題百首」を詠み、両親は息子の歌才を確信して感涙したという。文治二年(1186)には西行勧進の「二見浦百首」、同三年には「殷富門院大輔百首」を詠むなど、争乱の世に背を向けるごとく創作に打ち込んだ。
 文治二年(1186)、家司として九条家に仕え、やがて良経・慈円ら九条家の歌人グループと盛んに交流するようになる。良経が主催した建久元年(1190)の「花月百首」、同二年の「十題百首」、同四年の「六百番歌合」などに出詠。ところが建久七年(1196)、源通親の策謀により九条兼実が失脚すると、九条家歌壇も沈滞した。建久九年、守覚法親王主催の「仁和寺宮五十首」に出詠。同年、実宗女との間に嫡男為家が誕生した。
 正治二年(1200)、後鳥羽院の院初度百首に詠進し、以後、院の愛顧を受けるようになる。後鳥羽院は活発に歌会や歌合を主催し、定家は院歌壇の中核的な歌人として「老若五十首歌合」「千五百番歌合」「水無瀬恋十五首歌合」などに詠進する。建仁元年(1201)、新古今和歌集の撰者に任命され、翌年には念願の左近衛権中将の官職を得た。承元四年(1210)には長年の猟官運動が奏効し、内蔵頭の地位を得る。建暦元年(1211)、五十歳で従三位に叙せられ、侍従となる。建保二年(1214)には参議に就任し、翌年伊予権守を兼任した。
 この頃、順徳天皇の内裏歌壇でも重鎮として活躍し、建保三年(1215)十月には同天皇主催の「名所百首歌」に出詠した。同六年、民部卿。ところが承久二年(1220)、内裏歌会に提出した歌が後鳥羽院の怒りに触れ、勅勘を被って、公の出座・出詠を禁ぜられた。
 翌年の承久三年(1221)五月、承久の乱が勃発し、後鳥羽院は隠岐に流され、定家は西園寺家・九条家の後援のもと、社会的・経済的な安定を得、歌壇の第一人者としての地位を不動のものとした。しかし、以後、作歌意欲は急速に減退する。安貞元年(1227)、正二位に叙され、貞永元年(1232)、七十一歳で権中納言に就任。同年六月、後堀河天皇より歌集撰進の命を受け、職を辞して選歌に専念。三年後の嘉禎元年、新勅撰和歌集として完成した。天福元年(1233)十月、出家。法名明静。嘉禎元年(1235)五月、宇都宮頼綱の求めにより嵯峨中院山荘の障子色紙形を書く(いわゆる「小倉色紙」)。これが小倉百人一首の原形となったと見られる。延応元年(1239)二月、後鳥羽院が隠岐で崩御し、その二年後の仁治二年八月二十日、八十歳で薨去した。
 建保四年(1216)二月、自詠二百首から撰出した歌合形式の秀歌撰『定家卿百番自歌合』を編む(以下『百番自歌合』と略)。自撰家集『拾遺愚草』は天福元年(1233)頃最終的に完成したと見られ、その後さらに『拾遺愚草員外』が編まれた。編著に『定家八代抄(二四代集)』『近代秀歌』『詠歌大概』『八代集秀逸』『毎月抄』などがある。古典研究にも多大な足跡を残した。また五十六年に及ぶ記事が残されている日記『明月記』がある。千載集初出、勅撰入集四百六十七首。続後撰集・新後撰集では最多入集歌人。勅撰二十一代集を通じ、最も多くの歌を入集している歌人である。

藤原家隆(ふじわらのいえたか(-かりゅう)) 保元三~嘉禎三(1158-1237) 号:壬生二品(みぶのにほん)・壬生二位

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ietaka_t.html

 良門流正二位権中納言清隆(白河院の近臣)の孫。正二位権中納言光隆の息子。兼輔の末裔であり、紫式部の祖父雅正の八代孫にあたる。母は太皇太后宮亮藤原実兼女(公卿補任)。但し尊卑分脈は母を参議藤原信通女とする。兄に雅隆がいる。子の隆祐・土御門院小宰相も著名歌人。寂蓮の聟となり、共に俊成の門弟になったという(井蛙抄)。
 安元元年(1175)、叙爵。同二年、侍従。阿波介・越中守を兼任したのち、建久四年(1193)正月、侍従を辞し、正五位下に叙される。同九年正月、上総介に遷る。正治三年(1201)正月、従四位下に昇り、元久二年(1205)正月、さらに従四位上に進む。同三年正月、宮内卿に任ぜられる。建保四年(1216)正月、従三位。承久二年(1220)三月、宮内卿を止め、正三位。嘉禎元年(1235)九月、従二位。同二年十二月二十三日、病により出家。法号は仏性。出家後は摂津四天王寺に入る。翌年四月九日、四天王寺別院で薨去。八十歳。
 文治二年(1186)、西行勧進の「二見浦百首」、同三年「殷富門院大輔百首」「閑居百首」を詠む。同四年の千載集には四首の歌が入集した。建久二年(1191)頃の『玄玉和歌集』には二十一首が撰入されている。建久四年(1193)の「六百番歌合」、同六年の「経房卿家歌合」、同八年の「堀河題百首」、同九年頃の「守覚法親王家五十首」などに出詠した後、後鳥羽院歌壇に迎えられ、正治二年(1200)の「後鳥羽院初度百首」「仙洞十人歌合」、建仁元年(1201)の「老若五十首歌合」「新宮撰歌合」などに出詠した。同年七月、新古今集撰修のための和歌所が設置されると寄人となり、同年十一月には撰者に任ぜられる。同二年、「三体和歌」「水無瀬恋十五首歌合」「千五百番歌合」などに出詠。元久元年(1204)の「春日社歌合」「北野宮歌合」、同二年の「元久詩歌合」、建永二年(1207)の「卿相侍臣歌合」「最勝四天王院障子和歌」を詠む。建暦二年(1212)、順徳院主催の「内裏詩歌合」、同年の「五人百首」、建保二年(1214)の「秋十五首乱歌合」、同三年の「内大臣道家家百首」「内裏名所百首」、承久元年(1219)の「内裏百番歌合」、同二年の「道助法親王家五十首歌合」に出詠。承久三年(1221)の承久の変後も後鳥羽院との間で音信を絶やさず、嘉禄二年(1226)には「家隆後鳥羽院撰歌合」の判者を務めた。寛喜元年(1229)の「女御入内屏風和歌」「為家卿家百首」を詠む。貞永元年(1232)、「光明峯寺摂政家歌合」「洞院摂政家百首」「九条前関白内大臣家百首」を詠む。嘉禎二年(1236)、隠岐の後鳥羽院主催「遠島御歌合」に詠進した。
藤原俊成を師とし、藤原定家と並び称された。後鳥羽院は「秀哥ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり」と賞讃し(御口伝)、九条良経は「末代の人丸」と称揚したと伝わる(古今著聞集)。千載集初出。新勅撰集では最多入集歌人。勅撰入集計二百八十四首。自撰の『家隆卿百番自歌合』、他撰の家集『壬二集』(『玉吟集』とも)がある。新三十六歌仙。百人一首にも歌を採られている。『京極中納言相語』などに歌論が断片的に窺える。また『古今著聞集』などに多くの逸話が伝わる。

(その十一)参議雅経(飛鳥井雅経)と二条院讃岐

雅経.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十一・参議雅経」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009404

雅経二.jpg

(左方十一・参議雅経)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019793

讃岐.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十一・二条院讃岐)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009422

(バーチャル歌合)

左方十一・参議雅経(飛鳥井雅経)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010696000.html

 しら雲のたえまになびく青柳の/かつらぎやまに春かぜぞふく

右方十一・二条院讃岐
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010697000.html

 やまたかみみねの嵐にちる花の/つきにあまぎるあけかたのそら

判詞(宗偽)

 『千五百番歌合』(『建仁元年千五百番歌合』)の百十一番は、次の「秀能と雅経」のものである。

百十一番    
     左     季能卿
かざごしの峯には春や立たざらん麓の空に霞へだてて
     右 勝   雅経
白雲の絶へ間になびく青柳のかつらぎやまに春風ぞふく
右歌、姿よろしく侍り。(判者 権大納言忠良)

 この歌合の判者は藤原忠良で、その判詞は「右歌、姿よろしく侍り」と簡単なもので「右方の雅経の勝」となっている。
 ここで、七百十三番のもの(左=讃岐、右=定家、判者=御判=後鳥羽院で「折句歌」の判詞)を次に紹介したい。

七百十三番
      左     讃岐
あはれなる山田の庵のね覚め哉いなばの風に初かりの声
      右 勝   定家朝臣
もみぢする月の桂にさそはれてしたのなげきも色ぞうつろふ
物思へばみだれて露ぞちりまがふ夜はにね覚めをしかの声より(御判折句歌)

 この後鳥羽院の判詞は「折句歌」(各句の上に物名などを一文字ずつおいたもの)で、その「物思へばみだれて露ぞちりまがふ夜はにね覚めをしかの声より」は、次のように「もみぢよし」の折句になっていて、右方の「もみぢする月の桂にさそはれてしたのなげきも色ぞうつろふ」の「もみぢ」の定家の歌(右方)の「勝」と洒落ているのである。

物思へば    → も
みだれて露ぞ  → み
ちりまがふ   → ぢ
夜はにね覚めを → よ
しかの声より  → し

 ちなみに、この『千五百番歌合』で後鳥羽院が担当した「秋二・秋三」は、この「折句歌」が判詞に添えられているようである。いかにも、「一代の才子・和歌の帝王」の「後鳥羽院」の判詞のように思われる。
 この後鳥羽院の「折句歌」形式の判詞を借用したい。

    左
しら雲のたえまになびく青柳の/かつらぎやまに春かぜぞふく  (雅経)
    右 勝
やまたかみみねの嵐にちる花の/つきにあまぎるあけかたのそら (讃岐)
  判詞=折句歌
みね嵐/ギヤマンの月/野辺の花/かぎろひながら/散りし雅経 (宗偽) 
  付言
み → みね嵐
ぎ → ギヤマンの月
の → 野辺の花
か → かぎろひながら
ち → 散りし雅経

『後鳥羽院御口伝』余話(宗偽)

「雅経は殊(こと)に案じかへりて歌よみしものなり。いたくたけある(格調のある)歌などはむねとおほくはみえざりしかども、手だり(上手)とみえき。」(『後鳥羽院御口伝』)

 『後鳥羽院御口伝』の「歌人評」は、「近き世の上手」として平安末期の「歌道」(和歌の家=専門歌人の家系による規範化していく)の家系と深く結びついている。
具体的には、「源経信(つねのぶ)―俊頼(としより)―俊恵(しゅんえ)」と続く「六条源家(ろくじょうげんけ)」、続いて「藤原顕季(あきすえ)―顕輔(あきすけ)―清輔(きよすけ)」の「六条藤家(とうけ)」、さらに「藤原俊成(しゅんぜい)―定家(ていか)―為家(ためいえ)以下現代にまで続いている「御子左(みこひだり)家」の、それらの平安末期(院政期)から鎌倉時代にかけての歌人の評が中心になっている。この「御子左家」は、為家の子の代に生じた二条家・京極家(血統は南北朝期に絶える)と冷泉(れいぜい)家とは江戸時代にも及んで歌界に大きな影響を与えることになる。
 ここに、藤原定家らとともに『新古今和歌集』を撰した。「蹴鞠(けまり)」にもすぐれ、「歌鞠(かきく)二道」の「飛鳥井家」の祖の、「参議雅経(飛鳥井雅経)」が加わることになる。

飛鳥井雅経の一首

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   千五百番歌合に、春歌
白雲のたえまになびく青柳のかづらき山に春風ぞ吹く(新古74)

【通釈】白雲の絶え間に靡く、若葉の美しい柳――その青柳を鬘(かずら)にするという葛城山に、今まさに春風が吹いている。
【語釈】◇白雲(しらくも)のたえまになびく 青柳の序であるとともに、「春風の吹く葛城山」を修飾するはたらきをする。◇青柳の 葛城山の枕詞。柳を鬘(髪飾り)にした風習から。下記本歌参照。◇かづらき山 大和・河内国境の連山。主峰は葛木神社のある葛木岳(通称金剛山)。桜の名所とされた。今は「かつらぎ」と訓むが、昔は「かづらき」。鬘(かづら)の意が掛かる。
【補記】「白きと青きとを取り合はせたり」(『新古今増抄』)。雲の白と柳の青(若緑)を配合して春らしい彩り。丈高い姿。
【他出】千五百番歌合、自讃歌、定家八代抄、歌枕名寄、六華集
【参考歌】「柿本人丸集」
青柳のかづらき山にゐる雲のたちてもゐても君をこそおもへ
【主な派生歌】
みふゆつぎ春しきぬれば青柳のかづらき山に霞たなびく(源実朝)
春がすみ絶間になびく青柳のめより色にはあらはれにけり(香川景樹)

二条院讃岐の一首

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   百首歌たてまつりし時、春の歌
山たかみ嶺(みね)の嵐に散る花の月にあまぎる明け方の空(新古130)

【通釈】高い山にあるので、峰の嵐によって散る桜――その花が、月の光をさえぎり、曇らせている、明け方の空よ。
【語釈】◇嶺の嵐 嶺(山の頂)から吹き降ろす嵐。◇月にあまぎる 月に大量の落花がかぶさって光を見えにくくしているさま。この月は有明の月。「あまぎる」は「天霧る」で、天が霞む意。
【補記】正治二年(1200)、後鳥羽院に奉った百首歌。
【他出】三百六十番歌合、定家八代抄、女房三十六人歌合
【鑑賞】「落花を曙の薄明のうちに見るのは、当時愛されていた心である。また、自然を広く捉えようとするのも、当時の心である。更にまた、静的よりも動的なところに趣を感じるのも、当時の風である。この歌はそのすべてを持っている」(窪田空穂『新古今和歌集評釈』)
【主な派生歌】
み吉野の月にあまぎる花の色に空さへにほふ春の明ぼの(後鳥羽院)
春ふかみ峰のあらしに散る花のさだめなきよに恋つまぞふる(源実朝)
にほひもて我がはやをらん春霞月にあまぎる夜はの梅が枝(飛鳥井雅有)
ふりかすむ空に光はへだたりて月にあまぎる夜はの白雪(伏見院)
梅の花それにはあらでさえかへり月にあまぎる雪の山風(正広)

(参考)二条院讃岐と定家との歌合(『千五百番歌合』より)

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二百六十三番
      左 勝   讃岐
0524 こぬ人をうらみやすらん喚子鳥しほたれ山の夕暮の声
      右     定家朝臣
0525 とまらぬは桜ばかりを色に出でてちりのまがひにくるる春哉
左、しほたれ山のよぶこ鳥、誠にうらみやすらんと聞え侍るを、右、「桜ばかりを色に出でて」といへる心いと心えわかず侍れば、以左まさると申すべくや。(判者釈阿)
四百八十八番
      左 勝   讃岐
0974 夏のよの月のかつらの下もみぢかつがつ秋のひかりなりけり
      右     定家朝臣
0975 夏のよはまだよひのまとながめつつぬるや川べのしののめの空
只翫桂華秋色深 夏宵不憶一夢成 (判者左大臣後京極摂政良経)
七百十三番
      左     讃岐
1424 あはれなる山田の庵のね覚め哉いなばの風に初かりの声
      右 勝   定家朝臣
1425 もみぢする月の桂にさそはれてしたのなげきも色ぞうつろふ
物思へばみだれて露ぞちりまがふ夜はにね覚めをしかの声より(御判折句歌)
九百卅八番
      左 持   讃岐
1874 露は霜水は氷にとぢられて宿かりわぶる冬のよの月
      右     定家朝臣
1875 まきのやに時雨あられは夜がれせでこほるかけひの音信ぞなき
左右ともに心をかしく侍れば、勝劣難決。(判者蓮経 季経入道)
千百六十三番
      左     讃岐
2324 蛙なく神なび河にさく花のいはぬ色をも人のとへかし
      右 勝   定家朝臣
2325 たれか又物おもふ事ををしへおきし枕ひとつをしる人にして
左の、「神なび河にさく花のいはぬ色」などは、ふるまはれて侍り。右の「枕をしる人にして」「物思ふ事を誰かをしへし」などうたがはれたるこそ、風情めづらしく見所侍れ。勝にや侍らん。(判者生蓮)
千三百八十八番
      左     讃岐
2776 心あらば行きてみるべき身なれ共音にこそきけ松がうら島
      右 勝   定家朝臣
2777 いく世へぬかざしをりけんいにしへに三輪のひばらの苔の通ひ路
すむあまの心あるべき松が浦もみわのひばらに及ぶべきかは 以右為勝。(判者前権僧正)

飛鳥井雅経(あすかいまさつね(-がけい)) 嘉応二年~承久三(1170-1221)

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関白師実の玄孫。刑部卿頼輔の孫。従四位下刑部卿頼経の二男。母は権大納言源顕雅の娘。刑部卿宗長の弟。子に教雅・教定ほかがいる。飛鳥井雅有・雅縁・雅世・雅親ほか、子孫は歌道家を継いで繁栄した。飛鳥井と号し、同流蹴鞠の祖。
少年期、蹴鞠の才を祖父頼輔に見出され、特訓を受けたという。治承四年(1180)十一月、叙爵。文治元年(1185)、父頼経は源義経との親交に責を負って安房国に流され、一度はゆるされて帰京するが、文治五年(1189)、今度は伊豆に流された。十代だった雅経は処分を免れたが、京を去って鎌倉に下向、大江広元のむすめを妻とし、蹴鞠を好んだ源頼家に厚遇された。
建久八年(1197)二月、後鳥羽院の命により上洛。同年十二月、侍従に任ぜられ、院の蹴鞠の師を務める。同九年正月、従五位上。建仁元年(1201)正月、右少将に任ぜられる(兼越前介)。同二年正月、正五位下。元久二年(1205)正月、加賀権介。建永元年(1206)正月、従四位下に昇り、左少将に還任される。承元二年(1208)十二月、左中将。同三年正月、周防権介。同四年正月、従四位上。建保二年(1214)正月、正四位下に昇り、伊予介に任ぜられる。同四年三月、右兵衛督。建保六年(1218)正月、従三位。承久二年(1220)十二月、参議。承久三年(1221)三月十一日、薨。五十二歳。
建久九年(1198)の鳥羽百首をはじめ、正治後度百首・千五百番歌合・老若五十首歌合・新宮撰歌合など多くの歌会・歌合に参加。ことに「老若五十首歌合」では大活躍し、出詠歌五十首中九首もが新古今集に採られることになる。建仁元年(1201)、和歌所寄人となり、さらに新古今集撰者の一人に加えられた。その後も後鳥羽院歌壇の中心メンバーとして活躍、建仁二年(1202)の水無瀬恋十五首歌合・八幡若宮撰歌合、元久元年(1204)の春日社歌合、承元元年(1207)の最勝四天王院障子和歌などに出詠。順徳天皇歌壇の内裏歌合にも常連として名を列ねた。たびたび京と鎌倉の間を往復し、源実朝と親交を持った。定家と実朝の仲を取り持ったのも雅経である。建暦元年(1211)には鴨長明を伴って鎌倉に下向、実朝・長明対面の機会を作るなどした。
新古今集に二十二首。以下勅撰集に計百三十四首入集。家集『明日香井和歌集』(以下「明日香井集」と略)、著書『蹴鞠略記』などがある。

二条院讃岐(にじょういんのさぬき) 生没年未詳(1141?-1217以後)

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源頼政の娘。母は源忠清女。仲綱の異母妹。宜秋門院丹後は従姉。はじめ二条天皇に仕えたが、永万元年(1165)の同天皇崩後、陸奥守などを勤めた藤原重頼(葉室流。顕能の孫)と結婚し、重光(遠江守)・有頼(宜秋門院判官代)らをもうけた。治承四年(1180)、父頼政と兄仲綱は宇治川の合戦で平氏に敗れ、自害。その後、後鳥羽天皇の中宮任子(のちの宜秋門院)に再出仕する。建久七年(1196)、宮仕えを退き、出家した。
若くして二条天皇の内裏歌会に出詠し、父と親しかった俊恵法師の歌林苑での歌会にも参加している。建久六年(1195)には藤原経房主催の民部卿家歌合に出詠。出家後も後鳥羽院歌壇で活躍し、正治二年(1200)の院初度百首、建仁元年(1201)の新宮撰歌合、同二~三年頃の千五百番歌合などに出詠した。順徳天皇の建暦三年(1213)内裏歌合、建保四年(1216)百番歌合の作者にもなった。家集『二条院讃岐集』がある。女房三十六歌仙。小倉百人一首にも歌を採られている(この歌によって「沖の石の讃岐」と称されたという)。千載集初出、勅撰入集計七十三首。

(その十二)前大納言為家と藤原隆祐朝臣

藤原為家.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十二・前大納言為家」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009405

藤原隆祐.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十二・藤原隆祐朝臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009423

(バーチャル歌合)

左方十二・前大納言為家(藤原為家)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010698000.html

 たちのこす木ずゑもみえず山桜/はなのあたりにかかる白雲

右方十二・藤原隆祐朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010699000.html

 今日はなをみやこもちかし逢坂の/せきのあなたにしる人もがな

判詞(宗偽)

 『千五百番歌合』(『建仁元年千五百番歌合』)の六百一番は、次の「女房=後鳥羽院と通具」ものである。

六百一番
   左
このゆふべ風ふき立ちぬ白露にあらそふ萩を明日やかも見ん(女房=後鳥羽院)
   右 勝
ゆふまぐれ待つ人は来ぬ故郷のもとあらの小萩風ぞ訪(と)ふなる(源通具)
   判詞(御判=後鳥羽院)
各々たてまつれる百首を番(つが)ひて、廿巻(一巻に「七十五番」ずつ)の歌合として、人々判じ申すうち二巻(秋二と秋三)、よしあしを定め申すべきに侍(はべる)に、愚意の及ぶところ勝負ばかりは付くべしといへども、難に於きては如何(いか)に申すべしもおぼえ侍らず。左右の下に一文字ばかり付けば、無下に念なき様なるべし。よりて、判の詞のところに、形(かた)の様に三十一字を連ねて、その句の上(かみ)ごとに勝負の字ばかりを定(さだめ)申すべきなり。
 見せばやな君を待つ夜の野べの露にかれまく惜しく散る小萩哉(折句歌=後鳥羽院)
(註=「折句歌」)
見せばやな  → み
君を待つ夜の → ぎ
野べの露に  → の
かれまく惜しく→ か
散る小萩哉  → ち
(『日本文学大系65』所収「後鳥羽院御口伝」)と(『和歌文学講座10秀歌鑑賞Ⅰ(和歌文学会編)』)

後鳥羽院御判.jpg

『千五百番歌合』の「六百一番」(国文研究資料館(高知県立図書館蔵))
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0099-020705

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 この後鳥羽院の「折句歌」形式を、ここでも借用したい。

   左 勝
たちのこす木ずゑもみえず山桜/はなのあたりにかかる白雲(為家)
   右
今日はなをみやこもちかし逢坂の/せきのあなたにしる人もがな(隆祐)
   判詞=折句歌
日のあたる/為家家系/利発な三子/鐘もなるなり/千代に八千代に(宗偽)
   付言
ひ → 日のあたる
だ → 為家家系(藤原俊成→定家→為家=御子左家)
り → 利発な三子(為氏=二条家・為教=京極家・為相=冷泉家)
か → 鐘もなるなり
ち → 千代に八千代に

藤原為家の一首

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tameie.html

   西園寺入道前太政大臣家三首歌に、花下日暮といへる心を 
ながしとも思はで暮れぬ夕日かげ花にうつろふ春の心は(続千載87)

【通釈】春の日は永いと言うが、心にはそうとも思えぬうちに暮れてしまった。夕日を映す花とともに移ろってゆく我が心には。
【補記】構文はなかなか複雑で、「思はで」の主語は結句「春の心」であり、「暮れぬ」の主語は第三句「夕日かげ」であって、二重の倒置をなしている。また「花にうつろふ」は、前句との続きから「夕日が花に映る」意をあらわすと共に、下句に掛かって「花に動かされる春の心は」ほどの意になる。かくも用意周到の作であるが、一首の姿は題意にふさわしく物憂いような情緒纏綿の調べを奏でている。
西園寺家の歌会での作。続千載集では入道前太政大臣とあって公経を指すことになるが、為家集の詞書は「建長三年前太政大臣西園寺三首」とあり、正しくは西園寺実氏主催の会か。
【参考歌】藤原家隆「水無瀬恋十五首歌合」
恨みても心づからの思ひかなうつろふ花に春の夕暮
  藤原定家「拾遺愚草員外」
いかならむ絶えて桜の世なりとも曙かすむ春の心は
【主な派生歌】
咲きしより花にうつろふ山里の春のこころはちるかたもなし(本居宣長)

藤原隆祐の一首

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   題しらず
けふはなほ都もちかし逢坂の関のあなたにしる人もがな(続古今941)

【通釈】今日はまだ都も近い。逢坂の関を越えてしまえば、もはや東国だ。関の向うに親しい人がいればなあ。
【補記】東国へ向けて旅立ち、逢坂の関を間近にしての感慨。「しる人」は恋人・親友など親密な相手を言う。九条大納言家三十首御会。

藤原為家(ふじわらのためいえ)建久九~建治元(1198-1275) 通称:民部卿入道・中院禅門

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tameie.html

定家の二男。母は内大臣藤原実宗女。因子の同母弟。子には為氏(二条家の祖)・為教(京極家の祖)・為相(冷泉家の祖)・為守、為子(九条道良室)ほかがいる。宇都宮頼綱女・阿仏尼を妻とした。
建仁二年(1202)十一月十九日、叙爵(従五位下)。元久三年(1206)正月十七日、従五位上に昇る。承元元年(1207)より後鳥羽院に伺候し、同三年(1209)四月十四日、侍従に任ぜられる。同四年七月二十一日、定家の権中将辞任に伴い、左少将に任ぜられる。承元四年(1210)の順徳天皇践祚後はその近習として親しく仕えた。建暦二年(1212)十一月十一日、正五位下。建保二年(1214)正月五日、従四位下。同四年(1216)正月十三日、従四位上となり、同五年十二月十日には左中将に昇進した。
承久元年(1219)正月五日、正四位下。承久の乱後、順徳院の佐渡遷幸に際しては供奉の筆頭に名を挙げられたが、結局都に留まった。後堀河天皇の嘉禄元年(1225)十二月二十六日、蔵人頭。同二年四月十九日、参議に就任し、侍従を兼ねる。同年十一月四日、従三位に進む。寛喜三年(1231)正月六日、正三位。同年四月十四日、右兵衛督を兼ねる。
貞永元年(1232)六月二十九日、右衛門督に転ず。四条天皇の文暦二年(1235)正月二十三日、従二位。嘉禎二年(1236)二月三十日、権中納言(右衛門督を止む)。同四年七月二十日、正二位。仁治二年(1241)二月一日、権大納言に任ぜられるが、八月二十日定家が亡くなり服喪し、その後復任せず。
後深草天皇の建長二年(1250)九月十六日、民部卿を兼ねる。康元元年(1256)二月二十九日、病により出家し、嵯峨中院山荘に隠棲した。後宇多天皇の建治元年(1275)五月一日、薨。七十八歳。
建暦二年(1212)・建保元年(1213)の内裏詩歌合など、十代半ばから順徳天皇の内裏歌壇で活動を始めるが、若い頃は蹴鞠に熱中して歌道に精進せず、父定家を歎かせた。歌作に真剣に取り組むようになるのは建保末年頃からで、承久元年(1219)には内裏百番歌合に出詠し、貞応二年(1223)には慈円の勧めにより五日間で千首歌を創作した(『為家卿千首』)。やがて歌壇で幅広く活躍、寛喜元年(1229)の女御入内御屏風和歌、貞永元年(1232)の洞院摂政家百首に出詠するなどした。仁治二年(1241)、定家が亡くなると御子左家を嗣ぎ、寛元元年(1243)の河合社歌合、宝治二年(1248)の後嵯峨院御歌合などの判者を務めた。
宝治二年七月、後嵯峨院より勅撰集単独編纂を仰せ付かり、建長三年(1251)、『続後撰集』として完成奏覧。正元元年(1259)には再び勅撰集単独撰進の院宣を受けたが、その後鎌倉将軍宗尊親王の勢威を借りて葉室光俊(真観)らが介入、結局光俊ほか四人が撰者に加えられ、これを不快とした為家は選歌を放棄したとも伝わる(六年後の文永二年、『続古今集』として奏覧)。出家後も歌作りは盛んで、正嘉元年(1257)には『卒爾百首』、弘長元年(1261)には『楚忽百首』『弘長百首』を詠むなどした。晩年は側室の阿仏尼(安嘉門院四条)を溺愛し、その子為相に細川荘を与える旨の文券を書いて、後に為氏・為相の遺産相続争いの原因を作った。
新勅撰集初出。勅撰入集三百三十三首。続拾遺集では最多入集歌人。家集は『大納言為家集』『中院集』『中院詠草』『別本中院集』の四種が伝わる。歌論書に『詠歌一躰』、注釈書に『古今序抄』『後撰集正義』がある

藤原隆祐(ふじわらのたかすけ)生没年未詳(1190以前-1251以後)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/takasuke.html

従二位家隆の嫡男。母は正三位藤原雅隆女。土御門院小宰相は姉妹。津守経国女を妻とした。子に俊隆がいる。官位は侍従・従四位下に至る。
早くは正治二年(1200)十月の後鳥羽院当座歌合に名が見えるが、その後、院歌壇での活躍は見られない。承久の乱後、九条家歌壇を中心に活動する。元仁二年(1225)の藤原基家家三十首歌会、寛喜四年(1232)の石清水若宮歌合、同年三月の日吉社撰歌合、貞永元年(1232)の洞院摂政家百首、同年七月の光明峯寺入道摂政家歌合、同年八月十五夜名所月歌合、嘉禎二年(1236)の遠島御歌合、宝治二年(1248)の宝治百首、建長三年(1251)九月十三夜影供歌合などに出詠。
隠岐配流後の後鳥羽院に親近し、歌壇の主流から外れていたため、歌人としても常に不遇であった。藤原定家に評価を請い、書状で賞讃を受けたが、定家撰の新勅撰集には僅か二首しか採られず、甚だ落胆したという(家集)。以下勅撰集入集は総計四十一首。百番自歌合を主体とする家集『隆祐集』がある。新三十六歌仙。『新時代不同歌合』にも歌仙として撰入されている。

(その十三)藤原有家朝臣と源具親朝臣

有家.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十三・藤原有家朝臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009406

具親.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十三・源具親朝臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009424

(バーチャル歌合)

左方十三・藤原有家朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010700000.html

 あさ日かげにほへるやまのさくら花/つれなくきえぬゆきかとぞみる

右方十三・源具親朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010701000.html

 はれくもる影をみやこにさきだてゝ/しぐるとつぐるやまのはのつき

判詞(宗偽)

 『新古今集』の入首数の多い歌人を序列すると、「西行・九四首、慈円・九二首、良経七九首、俊成七二首、式子内親王四九首、定家四六首、家隆四三首、寂蓮三五、後鳥羽院三四首、貫之三二首、俊成卿女二九首、人麿二三首、雅経二二首、経信・有家各一九首、通具・秀能各一七首、道真・好忠・実定・讃岐各一六首、伊勢・宮内卿各一五首」の順となってくる(『現代語訳日本の古典3古今集・新古今集』所収「古今集・新古今集の世界(藤平春男稿)」)。
 この「有家一九首」の「藤原有家」(左方十三)は『新古今集』の撰者の一人であるが、対する「源具親(ともちか)」は、撰者の一人の「源通具(みちとも)一七首」とは別人で、宮内卿の兄にあたる。
 ちなみに、この『新古今集』の撰者の一人の「源通具」の父は、「源通親(みちちか)」で、この通親が『新古今集』編纂に通じる新しい勅撰和歌集の計画を主導し、その半ばで亡くなったことにより、その代理として通具が『新古今集』の撰者になった意味合いが強いとされている。
 さらに、この「通具」の妻が「俊成女(としなりのむすめ)」で、この二人には一男一女をもうけながら、通具は、後鳥羽院の後宮(承明門院)の異母妹の、土御門天皇の乳母従三位典侍按察局(あぜちのつぼね・藤原信子)と結婚し、俊成女とは離縁することとなる。

1 みよし野は山もかすみて白雪のふりにし里に春は来にけり(良経=七九首) 
2 ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山かすみたなびく(後鳥羽院=三四首) 
3 山ふかみ春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水(式子内親王=四九首)
4 かきくらし猶ふる里の雪のうちに跡こそ見えぬ春は来にけり(宮内卿=一五首)
5 今日といへば唐土までも行く春を都にのみと思ひけるかな(俊成=七二首)
7 岩間とぢし氷も今朝は解けそめて苔のした水道もとむらむ(西行=九四首)
44  梅の花にほひうつす袖のうへに軒漏る月のかげぞあらそふ(※定家=四六首)
45  梅が香にむかしをとへば春の月こたへぬかげぞ袖にうつれる(※家隆=四三首)
46 梅のはな誰が袖ふれしにほひぞと春や昔の月にとはばや(※通具=一七首)
47 梅の花あかぬ色香もむかしにておなじかたみの春の夜の月(俊成女=二九首)
53 散りぬればにほひばかりを梅の花ありとや袖に春風の吹く(※有家=一九首)
57 難波潟かすまぬ浪もかすみけりうつるもくもるおぼろ月夜に(※※具親=七首)
58 今はとてたのむの雁もうちわびぬおぼろ月夜のあけぼのの空(※寂蓮=三五首)
73 春風のかすみ吹きとくたえまよりみだれてなびく青柳の糸(※雅経=二二首)

 上記(44~59)は『新古今集』「巻一・春上(1~98)」の十四首で、作家名と『新古今集』の入集歌数を記述したものである。この作家名のうち、「定家・家隆・通具・有家・雅経」は撰者(※)である(寂蓮も撰者であったが撰首前に没)。「後鳥羽上皇」は『新古今集』の撰進下命した上皇(土御門天皇の父)、「良経」は時の摂政太政大臣(撰進した翌年に三十八歳で急逝)。「俊成(釈阿)」は「後鳥羽上皇・九条(藤原)良経」の和歌の師で「御子左家」の総帥。「西行」は俊成と共に「生得の歌人」(『後鳥羽院御口伝)』」と仰がれている歌人という位置づけになる。
 この『新古今集』「巻一・春上(1~98)」の十四首は、それぞれ「良経⇔後鳥羽院、式子内親王⇔宮内卿、俊成⇔西行、定家⇔家隆、通具⇔俊成女、※有家⇔※※具親、寂蓮⇔雅経」との歌合のペアの番いしても恰好の組み合わせとなろう。
 そして、今回の「左方十三・藤原有家朝臣⇔右方十三・源具親朝臣」と見事に一致してくる。ちなみに、この具親の『新古今集』の入集歌数は、次の七首のようである。

※※源具親の『新古今集』入集歌(七首)

  「春歌上」
  百首歌奉りし時
57 難波潟かすまぬ浪もかすみけりうつるもくもるおぼろ月夜に
  「春歌下」
百首歌めしし時春の歌
121 時しもあれたのむの雁のわかれさへ花散るころのみ吉野の里
  「秋歌上」
 千五百番歌合に
295 しきたへの枕のうへに過ぎぬなり露を尋ぬる秋のはつかぜ
   千五百番歌合に
587 今はまた散らでもながふ時雨かなひとりふりゆく庭の松風
 千五百番歌合に
597 今よりは木の葉がくれもなけれども時雨に残るむら雲の月
 題知らず
598 晴れ曇る影をみやこにさきだててしぐると告ぐる山の端の月 (右方十三)
   「雑歌上」
熊野にまうで侍りしついでに切目宿にて、海辺眺望といへる心をゝのこどもつかうまつりしに
1557 ながめよと思はでしもやかへるらむ月待つ波の海人の釣舟

 ここで、「左方十三・藤原有家朝臣⇔右方十三・源具親朝臣」の判詞は次のようにしたい。

左  持
あさ日かげにほへるやまのさくら花/つれなくきえぬゆきかとぞみる(有家)

はれくもる影をみやこにさきだてゝ/しぐるとつぐるやまのはのつき(具親)
  判詞=折句歌
ひさかたの/君らのかげは/別れても/けだかきものぞ/瑠璃色に染む(宗偽)
  付言
ひ → ひさかたの 
き → 君らのかげは(※有家⇔※※具親)
わ → 別れても(六条藤家⇔村上源氏)
け → けだかきものぞ
る → 瑠璃色に染む

藤原有家の一首

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千五百番歌合に
あさ日かげにほへる山の桜花つれなく消えぬ雪かとぞ見る(新古98)

【通釈】朝日があたり、まばゆく照り映えている、山の桜。それを私は、平然と消えずにいる雪かと思って見るのだ。
【語釈】◇つれなく消えぬ 形容詞「つれなし」の原義は「然るべき反応がない」。雪は陽に当たれば消えるのが当然なのに、平然と消えずにいる、ということ。
【補記】「千五百番歌合」巻三、二百二十一番左持。俊成の判詞は「『あさひかげ』とおき、『つれなくきえぬ』と見ゆらむ風情いとをかしく侍るべし」。
【本歌】田部櫟子「万葉集」巻四
朝日影にほへる山に照る月の飽かざる君を山越しに置きて
【主な派生歌】
春霞はやたちぬれや朝日かげにほへる山の空ぞのどけき(伏見院)
朝日影にほへる山の春風にふもとのさとは梅が香ぞする(一条兼良)
吉野山つれなくきえぬ白雪やまだ初春のあり明の月(〃)
いとはやも花ぞまたるる朝日影にほへる山の峰の桜木(三条西実隆)
夕にも雨とはならじ朝日かげにほへる山の花のしら雲(松永貞徳)
花ならで花なるものは朝日かげにほへる山の木木のしら雪(小沢蘆庵)
朝日影にほへる山の桜花千代とことはに見ともあかめや(本居宣長)

源具親の一首

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千五百番歌合に
しきたへの枕のうへにすぎぬなり露をたづぬる秋の初風(新古295)

【通釈】枕の上を吹き過ぎていったよ。露を散らそうとやって来たのだろうが、枕の下に溜まった涙には気づかなかったよ、秋の初風は。
【語釈】◇しきたへの 枕の枕詞。◇枕のうへに 下記本歌により、枕の下には涙の海があることを暗示。それには気づかずに吹き過ぎていった、ということ。◇露をたづぬる 秋風は露を吹き散らすのが習わしであるので、こう言う。
【本歌】紀友則「古今集」
しきたへの枕の下に海はあれど人をみるめは生ひずぞありける

藤原有家(ふじわらのありいえ) 久寿二~建保四(1155-1216)

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もとの名は仲家。六条藤家従三位重家の子。母は中納言藤原家成女。清輔・顕昭・頼輔・季経らの甥。経家・顕家の弟。保季の兄。子には従五位下散位有季・僧公縁ら。
仁安二年(1167)、初叙。承安二年(1172)、相模権守。治承二年(1178)、少納言。同三年、讃岐権守を兼ねる。同四年(1180)、有家と改名。元暦元年(1184)、少納言を辞し、従四位下に叙せられる。建久三年(1192)、従四位上。同七年、中務権大輔。正治元年(1199)、大輔を辞し、正四位下。建仁二年(1202)、大蔵卿。承元二年(1208)、従三位。建保三年(1215)二月、出家。法名、寂印。翌年の四月十一日、薨ず。
文治二年(1186)の吉田経房主催の歌合、建久元年(1190)の花月百首、建久二年(1191)の若宮社歌合、建久四年(1193)頃の六百番歌合、建久九年(1198)の守覚法親王家五十首に出詠。後鳥羽院歌壇でも主要歌人の一人として遇され、建仁元年(1201)の新宮撰歌合・千五百番歌合、建仁二年(1202)の水無瀬恋十五首歌合、元久元年(1204)の春日社歌合、承元元年(1207)の最勝四天王院和歌などに出詠した。順徳天皇の建暦三年(1213)内裏歌合、建保二年(1214)の歌合などにも参加している。
建仁元年(1201)、和歌所寄人となり、新古今集撰者となる。六条家の出身ながら御子左家(みこひだりけ)に親近した。
家集があったらしいが伝存しない。千載集初出。新古今集には十九首。勅撰入集は計六十六首。新三十六歌仙。『続歌仙落書』にも歌仙として撰入され、「風体遠白く、姿おほきなるさまなり。雪つもれる富士の山をみる心地なむする」と賛辞が捧げられている。

源具親(みなもとのともちか) 生没年未詳 通称:小野宮少将

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村上源氏。小野宮大納言師頼の孫。右京権大夫師光の子(二男か)。母は巨勢宗成女、後白河院安藝。宮内卿の同母兄。勅撰歌人泰光も兄弟。北条重時の娘を娶り、輔道をもうける。
能登守・左兵衛佐などを経て、従四位下左近少将に至る。出家後は如舜を称す。
後鳥羽院歌壇で活躍し、「正治後度百首」「千五百番歌合」、承元元年(1207)「最勝四天王院障子和歌」などに詠進。建仁元年(1201)、和歌所寄人となる。承久の乱後はほとんど歌を残していないが、建長五年(1253)の藤原為家主催「二十八品並九品詩歌」に如舜の名で出詠している。新古今集初出。新三十六歌仙。鴨長明『無名抄』に逸話が見え、妹の宮内卿と対照的に歌に熱心でなかったと伝える。

(その十四)宮内卿と正二位秀能(藤原秀能)

宮内卿.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十四・宮内卿」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009407

藤原秀能.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十四・正二位秀能」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009425

(バーチャル歌合)

左方十四・宮内卿
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010702000.html

 かきくらしなをふるさとのゆきのうちに/あとこそみえね春はきにけり

右方十四・正二位秀能
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010703000.html

 足曳のやまのふる道跡たゑて/おのえのかねに月ぞのこれる

判詞(宗偽)

 『新古今集』は、建仁元年(一二〇一)十一月三日に後鳥羽上皇の院宣がくだり、「通具・有家・定家・家隆・雅経・寂蓮(中途死没)」を撰者として撰集作業がスタートしたが、その撰者らの撰歌稿を、後鳥羽院その人が、その途次での「歌合・歌会」のもの次々に挿入しながら、元久二年(一二〇五)三月二十六日に、『新古今集』は一応の完成を見ることになる。しかし、その後、承久三年(一二二一)の「承久の乱」により後鳥羽院は隠岐に配流され、その配流地の隠岐で精選を重ね、約四百首を削除して、いわゆる『隠岐本新古今集』(隠岐本)を編み、それに院自らの跋文を添えている。
 これらの『新古今集』に関する伝本は、次の四類型に分類され、そのうちの第二分類のものが基本になっている。また、集の各歌に撰者名の注記を付した伝本もあり、それぞれの歌を誰が選出したが判明し、その注記は「撰者名注記」と呼ばれている(『現代語訳日本の古典3古今集・新古今集』所収「古今集・新古今集の世界(藤平春男稿)」、なお、下記の分類は『ウィキペディア(Wikipedia)』)。

第一類 – 元久二年三月にいったん完成したとして奏覧されたもの。「竟宴本」と呼ばれる。
第二類 – 「竟宴本」をさらに「切り継ぎ」し、和歌を取捨する途中作業の本文を伝えるもの。
第三類 – 建保四年十二月に「切り継ぎ」が終了したときの本文。
第四類 – 後鳥羽院が撰んだ「隠岐本」。仮名序の次に撰集し直した事情を語る後鳥羽院の序文(「隠岐本識語」)がある。

 ここで、上記の「隠岐本」の収載されている歌(〇印)と「撰者名注記」(「ア」=有家撰、「サ」=定家撰、「イ」=家隆撰、「マ」=雅経撰)とを『新訂新古今和歌集(佐々木信綱校訂・岩波文庫)』より、前回取り上げた、次の十四首に施して置きたい。

1 みよし野は山もかすみて白雪のふりにし里に春は来にけり(良経=七九首) 
(〇・サ・イ・マ)
2 ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山かすみたなびく(後鳥羽院=三四首) 
3 山ふかみ春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水(式子内親王=四九首)
(〇・マ)
4 かきくらし猶ふる里の雪のうちに跡こそ見えぬ春は来にけり(宮内卿=一五首)
(〇・マ)
5 今日といへば唐土までも行く春を都にのみと思ひけるかな(俊成=七二首)
(〇)
7 岩間とぢし氷も今朝は解けそめて苔のした水道もとむらむ(西行=九四首)
(〇・ア)
44  梅の花にほひうつす袖のうへに軒漏る月のかげぞあらそふ(※定家=四六首)
(〇・ア・イ・マ)
45  梅が香にむかしをとへば春の月こたへぬかげぞ袖にうつれる(※家隆=四三首)
(〇・サ)
46 梅のはな誰が袖ふれしにほひぞと春や昔の月にとはばや(※通具=一七首)
(〇・ア・サ・イ・マ)
47 梅の花あかぬ色香もむかしにておなじかたみの春の夜の月(俊成女=二九首)
(〇・ア・イ・マ)
53 散りぬればにほひばかりを梅の花ありとや袖に春風の吹く(※有家=一九首)
(〇)
57 難波潟かすまぬ浪もかすみけりうつるもくもるおぼろ月夜に(※※具親=七首)
(〇・サ・イ・マ)
58 今はとてたのむの雁もうちわびぬおぼろ月夜のあけぼのの空(※寂蓮=三五首)
(〇・ア・サ・イ・マ)
73 春風のかすみ吹きとくたえまよりみだれてなびく青柳の糸(※雅経=二二首)
(〇・ア)

 上記の十四首のうちで、満点(「〇」=後鳥羽撰・「ア」=有家撰、「サ」=定家撰、「イ」=家隆撰、「マ」=雅経撰)のものは、「46(通具作)と58(寂蓮作)」との二首ということになる。
 この『新古今集』の撰者の評点により、今回の「宮内卿対秀能」の歌合の判の基準にすると、次のとおりとなる。

   左 勝
かきくらしなをふるさとのゆきのうちに/あとこそみえね春はきにけり(宮内卿「新古四」)
(〇・マ)
   右
足曳のやまのふる道跡たゑて/おのえのかねに月ぞのこれる(秀能「新古三九八」)
(〇)
   判詞
 左(後鳥羽院と藤原雅経)と右(後鳥羽院)、左(宮内卿)」を勝とす。

宮内卿の一首

五十首歌たてまつりし時
かきくらし猶ふる里の雪のうちに跡こそ見えね春は来にけり(新古4)

【通釈】空を曇らせて古里になお降る雪――その雪のうちに、はっきりとした印は見えないけれども、春はやって来たのだった。
【語釈】◇ふる里 古い由緒のある里。王朝和歌では特に、奈良旧京・吉野などをイメージする。「(雪が)降る里」と掛詞になっている。◇跡こそみえね 春がやって来たという印しはまだ見えないが。「降りしきる雪のため足跡が見えない」というイメージを重ねている。◇春は来にけり 立春をいう。
【補記】建仁元年(1201)二月、「老若五十首歌合」三番右勝。「雪のうちに立春を迎える」という万葉以来の由緒ある趣向。だからこそ「ふる里」という語も生きてくる。構成はきわめて理知的であるが、「かきくらし」降る雪、その中で一瞬にして消えてゆく足跡、というイメージを重ねることで、ありふれた趣向に清新さを加え、また一首が理に落ちることを救っている。
【他出】自讃歌、新三十六人撰、女房三十六人歌合、六華集、題林愚抄
【主な派生歌】
旅人の朝たつ後や積るらむ跡こそ見えね野辺の白雪(小倉実教[新続古今])
しら雪の猶かきくらしふるさとの吉野のおくも春は来にけり(*嘉喜門院)
かきくらしなほふる郷のみよし野はいつの雪間に春の来ぬらむ(貞常親王)

藤原秀能の一首

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   山月といふことをよみ侍りける
あしびきの山ぢの苔の露のうへに寝ざめ夜ぶかき月を見るかな(新古398)

【通釈】山中の苔に置いた露の上で、目が醒め、夜深い月を見たことよ。
【語釈】◇山ぢ 山中を漠然と指す。「山路」ではない。
【補記】家集によれば、建仁元年(1201)頃、後鳥羽院より召された歌らしい。「山ぢの苔」は高山の地面を覆う地衣類・羊歯(しだ)類を言うのであろう。それを筵代わりに旅寝するうち、ふと背に冷たさを感じ、目が覚める。と、羊歯の寝床にはいちめん露が置いていたのだ。山中の張りつめた夜の霊気、月光にきらめく露、漆黒の闇を照らす上空の月…。この上なく辛いはずの旅中の寝覚が、月によって祝福されたかのような僥倖の一瞬である。「ねざめ夜ぶかき」は、古注にあるように「粉骨」の句であろう。
【他出】自讃歌、続歌仙落書、如願法師集、新三十六人撰
【主な派生歌】
月のもるね屋の板まに露みえて寝覚夜ぶかき蓬生の宿(花山院長親)
散り初むる桐の一葉の露の上にねざめ夜深き月を見るかな(蓮月)

新古今色紙.jpg

「新古今集色紙帖」(光悦筆・宗達絵・五島美術館蔵)
967 さらぬだに秋の旅寝はかなしきに松に吹くなりとこの山風(藤原秀能)
(〇=後鳥羽院 「イ」=家隆撰)

宮内卿(くないきょう) 生没年未詳

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後鳥羽院宮内卿とも。右京権大夫源師光の娘。泰光・具親の妹。母は後白河院女房安藝。父方の祖父は歌人としても名高い大納言師頼。母方の祖父巨勢宗茂は絵師であった。
後鳥羽院に歌才を見出されて出仕し、正治二年(1200)、院二度百首(正治後度百首)に詠進。建仁元年(1201)の「老若五十首歌合」「通親亭影供歌合」「撰歌合」「仙洞句題五十首」「千五百番歌合」、同二年(1202)の「仙洞影供歌合」「水無瀬恋十五首歌合」など、院主催の歌会・歌合を中心に活躍した。元久元年(1204)十一月の「春日社歌合」詠進を最後に、以後の活動は確認できない。鴨長明は『無名抄』で宮内卿を俊成女とともに同時代の「昔にも恥じぬ上手」と賞讃し、歌への打ち込みぶりを伝えたあと、その死の事情にふれている。「あまり歌を深く案じて病になりて」ひとたび死にかけ、父から諌められてもやめず、ついに早世した、というのである。後世の『正徹物語』には「宮内卿は廿よりうちになくなりにしかば」とあり、二十歳以前に亡くなったとの伝があったらしい。
「うすくこき…」の歌が評判を呼び、「若草の宮内卿」とも呼ばれた。後鳥羽院撰の『時代不同歌合』の百歌人に選ばれ、和泉式部と番えられている。また『女房三十六人歌合』に歌が採られている。新三十六歌仙。新古今集初出。勅撰入集計四十三首。

藤原秀能(ふじわらのひでよし(-ひでとう)) 元暦元~仁治元(1184-1240) 法号:如願

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河内守秀宗の子。平氏出身の父は、藤原秀忠(魚名末流、秀郷の裔)の跡を継いで藤原氏を名乗ったという(尊卑分脈)。母は伊賀守源光基女。承久の乱の際大将軍となった秀康の弟。子には左兵衛尉秀範(承久の乱で戦死)、左衛門尉能茂(猶子。後鳥羽院の寵童)ほかがいる。
初め源通親に伺候し、十六歳の時後鳥羽院の北面の武士に召された。左兵衛尉・左衛門尉・河内守などを経て、検非違使大夫尉・出羽守に至る。建暦二年(1212)五月、西海の宝剣探索のため院宣御使として筑紫に下る。承久三年(1221)、承久の乱の際には官軍の大将となったが、敗れて熊野で出家、如願を号した。その後高野に真照法師を訪ねるなどしている。貞永元年(1232)秋、隠岐の院を慕って西国に下る(『如願法師集』)。嘉禎二年(1236)には院主催の遠島歌合に召されて歌を献上した。仁治元年(1240)五月二十一日、没。五十七歳。
歌人としても後鳥羽院の殊遇を受け、建仁元年(1201)の「八月十五夜撰歌合」「和歌所影供歌合」などに出詠。同年七月に設置された和歌所寄人に加えられる。この時十八歳、寄人中最年少であった。同二年(1202)五月の「仙洞影供歌合」、同三年(1203)の「影供歌合」「八幡若宮撰歌合」、元久元年(1204)の「春日社歌合」「元久詩歌合」、建永元年(1206)七月の「卿相侍臣歌合」、同二年の「賀茂別雷社歌合」「最勝四天王院和歌」、建保三年(1215)の「院四十五番歌合」、建保四年の院百首和歌など、後鳥羽院歌壇で活躍した。また建仁元年(1201)の「通親亭影供歌合」、建保五年(1217)の「右大将(源通光)家歌合」、承久二年(1220)の「道助法親王五十首」などにも出詠している。承久の乱後もたびたび小歌会に出て歌を詠んだり、百首歌を創作したりしている。飛鳥井雅経・家隆と親交があった。新古今集初出。以下勅撰集に七十九首入集。家集『如願法師集』は後世の編集とされる。新三十六歌仙。後鳥羽院の『時代不同歌合』にも撰入。

「秀能は身の程よりもたけありて、さまでなき歌も殊の外にいではへするやうにありき。まことによみもちたる歌どもの中にはさしのびたる物どもありき。しかあるを近年定家無下の歌のよし申すときこゆ」(後鳥羽院御口伝)。

(その十五)殷富門院大輔と小侍従

大輔.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十五・殷富門院大輔」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009408

大輔二.jpg

(左方十五・殷富門院大輔)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019794

小侍従.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十五・小侍従」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009426

(バーチャル歌合)

左方十五・殷富門院大輔
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010704000.html

 春かぜのかすみ吹とてたえまより/みだれてなびく青柳のいと

右方十五・小侍従
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010705000.html

 いかなればその神山のあおいぐさ/としはふれども二葉なるらむ

判詞(宗偽)

 玉の緒よたえなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする(式子内親王)
  (『小倉百人一首』八九・『新古今集』「恋一」一〇四三・「右方一」 )
 見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず(殷富門院大輔)
 (『小倉百人一首』九〇・『千載集』「恋四」八八六・「左方一五」 )
 きりぎりすなくや霜夜のさむしろに衣かたしき独りかも寝む(後京極摂政前太政大臣)
  (『小倉百人一首』九一・『新古今集』「秋下」五一八・「左方六」 )
 わが袖は汐干に見えぬ沖の石の人こそ知らぬ乾く間もなし(二条院讃岐)
  (『小倉百人一首』九二・『千載集』「恋二」七六〇・「右方一一」)

 この『新三十六歌仙画帖(狩野探幽筆)』は、『新古今集』の歌仙(歌人)を代表する三十六人の「肖像と和歌」とを「歌合」(左方帖・右方帖)形式に作成したものと理解して差し支えなかろう。ここに登場する「新三十六歌仙」は、『古今集』を中心としての、例えば、『佐竹本三十六歌仙(伝藤原信実筆)』の「三十六歌仙」(歌人)とはダブらない。
 そして、文暦二年(一二三五)頃に成立したとされる『小倉百人一首』(藤原定家撰)には、いわゆる「三十六歌仙」と「新三十六歌仙」とが混在しており、上記の「式子内親王から二条院讃岐」の四人は、『小倉百人一首』では、上記のとおり(八九番から九二番)に配列されている。
 しかし、その定家の撰した歌は、『古今集』(八九番・九一番)だけではなく『千載集(藤原俊成撰)』(九〇・九二)などの他の勅撰集などからも採られている。このことは、『新三十六歌仙画帖(狩野探幽筆)』の歌仙の歌も同様で、『新古今集』オンリーではなく、また撰歌(右方一・左方一五・左方六・右方一一)も、例えば、『小倉百人一首』(上記の四首)とはダブらない。
 その上で、例えば、上記の四人の歌人の代表歌として、上記の『小倉百人一首』の四首と、『新三十六歌仙画帖(狩野探幽筆)』収載の歌(右方一・左方一五・左方六・右方一一)とを比較して、やはり、『小倉百人一首』の方に軍配が上げられるであろう。

ながむれば衣手涼し久堅の/あまのかはらの秋のゆふ暮(右方一・式子内親王)
春かぜのかすみ吹とてたえまより/みだれてなびく青柳のいと(左方一五・殷富門院大輔)
空はなをかすみもやらず風さえて/雪げにくもるはるの夜の月(左方六・藤原良経)
やまたかみみねの嵐にちる花の/つきにあまぎるあけかたのそら(右方一一・二条院讃岐)

 ここで、今回の両首を、あらためて並列して、併せて、この両首が共に『新古今集』収載の歌なので、この両首の撰者名も『新訂新古今和歌集(佐々木信綱校訂・岩波文庫)』より併記して、その上で、最終的な判詞(判定)を書き添えたい。

   左 持
春かぜのかすみ吹とてたえまより/みだれてなびく青柳のいと(殷富門院大輔・「新古七三」)
(〇=後鳥羽院、「サ」=定家撰、「イ」=家隆撰)
   右
いかなればその神山のあおいぐさ/としはふれども二葉なるらむ(小侍従・「新古一八三」)
(〇=後鳥羽院、「ア」=有家撰、サ」=定家撰、「イ」=家隆撰、「マ」=雅経撰)
   判詞(宗偽)
 この両首は、共に『隠岐本新古今集』(隠岐本)にも収載され、さらに、『新古今集』撰者(「有家・定家・家隆・雅経」の四人)のうち、左方(殷富門院大輔)は二人(二点)、右方(小侍従)は四人(四点)で選出され、右方(小侍従)を勝とするのが順当なのかも知れないが、次のことを申し添え「持」といたしたい。
(追記)
この左方の歌の二句目は、「かすみ吹(ふく)とて」ではなく「かすみ吹(ふ)きとく」の表記が正しく、この「とく」が、次の「たえまより」の「たえ」、さらに、「より(縒り)との、結句の「青柳のいと(糸)」の、その「いと(糸)」の縁語となっており、それらの『新古今集』調の技巧的な冴えを「佳(可)」とし、二点(宗偽点一+α=表記の異同)を加え、共に、満点歌(五点)とし「持」といたしたい。

殷富門院大輔の一首

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/i_taihu.html

   百首歌よみ侍りける時、春の歌とてよめる
春風のかすみ吹きとくたえまより乱れてなびく青柳の糸(新古73)

【通釈】春風が吹き、立ちこめた霞をほぐしてゆく。その絶え間から、風に乱れて靡く青柳の枝が見える。
【補記】「とく」「たえ」「より(縒り)」は糸の縁語。
【本歌】藤原元真「後拾遺集」
浅緑みだれてなびく青柳の色にぞ春の風も見えける

小侍従の一首

   葵(あふひ)をよめる
いかなればそのかみ山の葵草年はふれども二葉なるらむ(新古183)

【通釈】どういうわけだろう、その昔という名の神山の葵草は、賀茂の大神が降臨された時から、多くの年を経るのに、いま生えたばかりのように双葉のままなのは。
【語釈】◇葵 賀茂祭の日、社前などを飾るのに用いた。葉を二枚対生するので、二葉葵とも言う。◇そのかみ山 神山は賀茂神社の背後の山。「その昔」を意味する「そのかみ」を掛ける。
【補記】葵祭の飾りに用いられた葵草に寄せて、賀茂の祭が毎年華やかに繰り返されることを讃美する心を籠めている。壮麗な賀茂祭は京の人々が待ちかねた夏の一大イベントであり、それを楽しむ弾むような心がよく出ている。
【他出】続詞花集、小侍従集、玄玉集、三百六十番歌合、歌枕名寄
【主な派生歌】
たのみこしそのかみ山の葵草思へばかけぬ年のなきかな(二条院讃岐)
生ひかはる今日のあふひや神山に千代かけて見る二葉なるらむ(霊元院)
神山のみあれののちのあふひ草いつを待つとて二葉なるらむ(香川景樹)

殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ) 生没年未詳(1130頃-1200頃)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/i_taihu.html

藤原北家出身。三条右大臣定方の末裔。散位従五位下藤原信成の娘。母は菅原在良の娘。小侍従は母方の従姉にあたる。尊卑分脈には「道尊僧正母」とある。
若くして後白河天皇の第一皇女、亮子内親王(のちの殷富門院。安徳天皇・後鳥羽天皇の准母)に仕える。建久三年(1192)、殷富門院の落飾に従い出家したらしい。
永暦元年(1160)の太皇太后宮大進清輔歌合を始め、住吉社歌合、広田社歌合、別雷社歌合、民部卿家歌合など多くの歌合に参加。また俊恵の歌林苑の会衆として、同所の歌合にも出詠している。自らもしばしば歌会を催し、文治三年(1187)には藤原定家・家隆・隆信・寂蓮らに百首歌を求めるなどした。源頼政・西行などとも親交があった。非常な多作家で、「千首大輔」の異名があったという。また柿本人麿の墓を尋ね仏事を行なった(玉葉集)。
家集『殷富門院大輔集』がある。千載集に五首入集したのを始め、代々の勅撰集に六十三首を採られている。女房三十六歌仙。小倉百人一首にも「見せばやな…」の歌が採られている。

小侍従(こじじゅう) 生没年未詳(1121頃-1201以後) 通称:待宵(まつよいの)小侍従・八幡小侍従

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/matuyoi.html

紀氏。石清水八幡別当大僧都光清の娘。母は花園左大臣家小大進。藤原伊実の妻。法橋実賢・大宮左衛門佐の母。菅原在良は母方の祖父、殷富門院大輔は母方の従妹。
四十歳頃に夫と死別し、二条天皇の下に出仕する。永万元年(1165)の天皇崩後、太皇太后多子に仕え、さらに高倉天皇に出仕した。
歌人としての活躍は宮仕え以後にみられ、永万二年(1166)の中宮亮重家歌合をはじめ、太皇太后宮亮経盛歌合、住吉社歌合、広田社歌合、右大臣兼実歌合などに参加。『無名抄』には殷富門院大輔と共に「近く女歌よみの上手」と賞されている。ことに「待つ宵の…」の歌は評判となり、「待宵の小侍従」の異名で呼ばれた。後徳大寺実定・俊成・平忠盛・西行ら多くの歌人と交遊した。歌の贈答からすると平経盛・源雅定・源頼政・藤原隆信とは特に親密だったようである。
治承三年(1179)、六十歳頃に出家。その後も後鳥羽院歌壇で活躍を続け、正治二年(1200)の院初度百首、建仁元年(1201)頃の院三度百首(千五百番歌合)などに出詠する。また三百六十番歌合にも選ばれた。家集『小侍従集』がある。千載集初出。勅撰入集は五十五首。『歌仙落書』歌仙。女房三十六歌仙。

(参考)「佐竹三十六歌仙絵」周辺(その一)

小侍従二.jpg

京都国立博物館の入り口。右の「小大君(こおおぎみ)」(奈良県・大和文華館・重要文化財は、2019年11月6~24日(最終日)に展示) →A図

https://artexhibition.jp/topics/news/20191021-AEJ110010/

小侍従.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十五・小侍従」(東京国立博物館蔵)→  B図
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009426

 上記の「小大君像」(A図)は、2019年10月12日(土)~11月24日(日)、京都国立博物館で開催された特別展「流転100年 佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」の入口の看板の「小大君像」である。
この「佐竹本三十六歌仙」の肖像画を描いたのは、「新三十六歌仙」の一人・藤原信実、その和歌の書は、これまた、「新三十六歌仙」の一人(『新古今集』の「仮名序」の起草者)である、後京極摂政前太政大臣(藤原良経)とされている。
 この後京極摂政前太政大臣(藤原良経)については、「左方六」で触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-02

 また、藤原信実は、次回の「左方十六」で寂蓮法師(右方十六)との歌合が予定されている。なお、この「佐竹三十六歌仙」については、下記のアドレスなどが詳しい。

https://artexhibition.jp/topics/news/20191021-AEJ110010/

 そして、この「佐竹本三十六歌仙」の「小大君像」(A図)と、今回の「新三十六歌仙」の「小侍従像」(B図)とが、衣装の色合いなどは異なるが、その女性の顔貌などは瓜二つといっても差し支えなかろう。
 この「小大君像」(A図)と「小侍従像」(B図)との「小大君」と「小侍従」とは、全くの別人で、この「小大君(像)」(A図)は『古今集』時代(『古今集』成立=延喜五年・九〇五)、そして、「小侍従(像)」(B図)は『新古今集』時代(『新古今集』成立=元久二年・一二〇五)で、約三世紀(三百年)の時代史的スパンがある。
 さらに、この『新古今集』時代の「小侍従像」(B図)を描いたのは狩野探幽で、落款からすると、探幽の「法印」時代(寛文二年・一六六二・六一歳以降)ということになり、ここでも、約四世紀(四百年)の時代史的な隔たりがある。
 ということは、江戸時代初期の狩野探幽は鎌倉時代初期の歴史上の歌人「小侍従(像)」(B図)を描き、鎌倉時代初期の藤原信実は、平安時代初期の歴史上の歌人「小大君(像)」(A図)を描き、結果として、『古今集』時代の「小大君(像)」(A図)と『新古今集』時代の「小侍従(像)」(B図)とが、瓜二つの女性像という形相を呈してきたということになる。
 これらの「佐竹本三十六歌仙」そして「新三十六歌仙」の「歌仙絵」は、「似絵(にせえ)」(大和絵系の肖像画)として、「細い線を重ねて顔貌を描く」描法で、「新古今時代」の、藤原隆信・信実の家系によって発展を遂げた描法とされている(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』など)。
 そして、「佐竹本三十六歌仙」は、「書=後京極摂政前太政大臣(藤原良経)、画=藤原信実」の伝承が正しいと仮定するならば、藤原(九条)良経は、建永元年(一二〇六)に三十八歳で夭逝して居り、それ以前ということになろう。そして、その背後には、藤原(九条)良経の書が正しいとするならば、当時の後鳥羽院上皇の影がちらついて来るのである。
 また、「新三十六歌仙」についても、「承久の乱後、九条大納言基家が三十六人を撰び、その『真影』を似絵の名手藤原信実に描かせ、隠岐に住まう後鳥羽院のもとに届けようとしている計画が藤原定家の日記『名月記』天福元年(一二三三)八月十二日条に記されている」(『歌仙絵(東京国立博物館)』所収「歌仙絵の成立について(土屋貴祐稿)」)ということから、これまた、後鳥羽院の影がちらちらするのである。

その十六)信実朝臣(藤原信実)と寂蓮法師

信実.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十六・信実朝臣)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009409

信実二.jpg

(左方十六・信実朝臣)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019795

寂蓮.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十六・寂蓮法師)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009427

(バーチャル歌合)

左方十六・信実朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010706000.html

 あけてみぬたが玉章もいたづらに/まだ夜をこめてかえる雁がね

右方十六・寂蓮法師
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010708000.html

 かつらぎやたかまのさくらさきにけり/たつたのおくにかかるしら雲

判詞(宗偽)

 藤原定家の日記『名月記』(天福元年(一二三三)八月十二日条)に「承久の乱後、九条大納言基家が三十六人を撰び、その『真影』を似絵の名手藤原信実に描かせ、隠岐に住まう後鳥羽院のもとに届けようとしている計画が記されている」(『歌仙絵(東京国立博物館)』所収「歌仙絵の成立について(土屋貴祐稿)」)ということは、「新三十六歌仙絵」関連に大きな示唆を投げかけている。
 そして、この記述に登場する「九条大納言基家」については、「新三十六歌仙画帖(狩野探幽筆)」の「左方九」(「左方帖九」で既に触れている。もう一人の「似絵の名手藤原信実」が、今回の「左方十六・信実朝臣」その人なのである。
 とすれば、上記の定家の『名月記』の記載が真実とするならば、上記の「信実朝臣像」は、信実が自らを描いた「自画像」そのものの模写絵ということになり、その模写絵は、江戸狩野派の実質的な総帥・狩野探幽が模写したということになる。
 これに対する「右方十六・寂蓮法師」は、いわゆる、藤原俊成(釈阿)の「御子左家」と深く関係し、俊成の猶子で、俊成の二男・定家とは従兄弟(兄=寂蓮、弟=定家)との間柄である。そして、「似絵の名手藤原信実」の父「隆信」は、俊成の再婚の妻(美福門院加賀)の子で、俊成家で育った定家の異父兄(兄=隆信、弟=定家)との間柄となる。
 こうして見てくると、藤原俊成(釈阿)の「御子左家」の「歌道」の家系は、「寂蓮→定家」、「画道」の家系は「隆信→信実」の家系ということになる。
 それにしても、この「真実の堪能見えき・歌詠み人」(『後鳥羽上皇御口伝』)の寂蓮と、年恰好は親子ほどもある「似絵の名手」(『名月記』)の信実との番いは、これは、隠岐に配流されている後鳥羽院が、「九条大納言基家が三十六人を撰び」(『名月記』)の、その「新三十六歌仙」(「基家」原案)を目にして、それに手入れをしての組み合わせのような思いを深くする。

   左 持
あけてみぬたが玉章(たまづさ)もいたづらに/まだ夜をこめてかえる雁がね(信実)
(『新古今』=入撰無、『名月記』加算=後鳥羽院・基家・定家・宗偽)
   右
かつらぎやたかまのさくらさきにけり/たつたのおくにかかるしら雲(寂蓮)
(『新古今』、〇=後鳥羽院、「ア」=有家撰、「イ」=家隆撰、「マ」=雅経撰)
   判詞
 右方は、後鳥羽院の「春・夏=ふとくおほきによむべし」「秋・冬=からびほそく読むべし」「恋・旅=ことに艶によむべし」(三体和歌)の注文付きの「ふとくおほきによむべし」(大胆にして長け高く詠むべし)に応答しての一首である。この一首に接して、後鳥羽院は「いざたけある歌詠まむとて、『龍田の奧にかかる白雲』と三躰の歌に詠みたりし、恐ろしかりき」(『後鳥羽院御口伝』)と記している。
 左方は、この後鳥羽院の「三体和歌」の「ことに艶によむべし」(本意に加えて優艶に詠むべし)の恋の歌として、「あけて見ぬ」「誰が」「玉章(恋文)も」「徒に」/「未だ」「夜を籠めて=まだ暗いうちに」「かえる雁がね」と「真実の堪能と見えき・恐ろしき」(『後鳥羽院御口伝』)一首と解したい。
 さらに、この歌は、「夜をこめて鳥の空音(そらね)ははかるともよに逢坂(あふさか)の関はゆるさじ」(清少納言『百人一首62』『後拾遺集雑二』)の本歌取りの一首とするならば、その「鳥の空音(そらね)」(鳥の鳴き真似)を「かえる雁がね」(帰雁の季の詞)と転換し、さらに、「秋風に初雁がねぞ聞こゆなる誰(た)が玉づさをかけて来つらむ(紀友則『古今207』))を踏まえていることも明瞭となってくる。
 とすると、後鳥羽院が定家の歌について「いささかも事により折によるといふ事なし」(『後鳥羽院御口伝』)と評した意に関連して、後鳥羽院流(場・状況などの「制作の場」と作者の置かれている「境涯」にも配慮する)の立場でも、定家流(「歌そのもの=三十一文字で毅然として屹立(きつりつ)していなければならぬ」)の立場に立っても、和歌の伝統的な手法の「本歌取り」の一首として、ここは「持」といたしたい。

寂蓮法師の一首

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jakuren.html

   和歌所にて歌つかうまつりしに、春の歌とてよめる
葛城(かづらき)や高間の桜咲きにけり立田の奥にかかる白雲(新古87)

【通釈】葛城の高間山の桜が咲いたのだった。竜田山の奧の方に、白雲がかかっているのが見える。
【語釈】◇葛城や高間の 「葛城」は奈良県と大阪府の境をなす金剛葛城連山。「高間の山」はその主峰である金剛山(標高1100メートル余)の古名とされる。◇立田 龍田山。奈良県生駒郡三郷町の龍田神社背後の山。葛城連山は龍田山の南に列なる山脈であり、京都や奈良から見ると「立田の奧」が葛城にあたるのである。◇白雲 山桜を白雲に喩える。
【補記】建仁二年(1202)三月の三体和歌六首の一。主催者の後鳥羽院より「ふとくおほきによむべし」と注文されて詠んだ春の歌。『後鳥羽院御口伝』に「寂蓮は、なほざりならず歌詠みし者なり。あまり案じくだきし程に、たけなどぞいたくは高くはなかりしかども、いざたけある歌詠まむとて、『龍田の奧にかかる白雲』と三躰の歌に詠みたりし、恐ろしかりき」の評がある。
【他出】三体和歌、自讃歌、定家十体(長高様)、時代不同歌合(初撰本)、歌枕名寄、六華集、心敬私語
【参考歌】紀貫之「古今集」
桜花咲きにけらしもあしびきの山のかひより見ゆる白雲

寂蓮の「三体和歌六首」(参考)

『三体和歌会』は、後鳥羽院の主催で建仁2年(1202)3月20日に仙洞御所で催され、参加した歌人は、後鳥羽院・良経・慈円・定家・家隆・長明・寂連の7人で、雅経と有家も召されたが病気を理由に辞退している。

(御所に朝夕候ひし頃、常にも似ず珍しき御会ありき。「六首の歌にみな姿を詠みかへてたてまつれ」とて、「春・夏は、太くおおきに、秋・冬は細く乾らび、恋・旅は艶に優しくつかうまつれ。もし思ふやうに詠みおほせずは、そのよしをありのままに申し上げよ。歌のさま知れるほどを御覧ずべきためなり」とおほせられしかば、いみじき大事にて、かたへは辞退す。心にくからぬ人をおばまたもとより召されず。かかればまさしくその座にまいりて連なれる人、殿下・大僧正御房・定家・家隆・寂連・予と、わずかに六人ぞ侍りし。)
(『無名抄(鴨長明)』)

〔春の歌をあまた詠みて、寂連入道に見せ申し時、この高間の歌を「よし」とて、点合はれたれしかば、書きてたてまつりき、すでに講ぜらるる時に至りてこれを聞けば、かの入道の歌に、同じ高間の花をよまりたりけり。わが歌に似たらば違へむなど思ふ心もなく、ありのままにことわられける、いとありがたき心なりかし。さるは、まことの心ざまなどをば、いたく神妙なる人ともいわれざれしを、わが得つる道なれば心ばへもよくなるなり」〕
(『無名抄(鴨長明)』)

  春 ふとくおほきによむべし
かづらきやたかまの桜さきにけりたつたのおくにかかる白雲
(現代語訳:葛城連山の高間の山(※)の桜の花が咲いたことよ。龍田山の奥の方にかかっている白雲と見えるのは、その桜の花に相違ない)

  夏 太くおおきに読むべし
夏の夜の有明の空に郭公月よりおつる夜半の一声
(現代語訳:夏の夜の明けようとする頃の空に、郭公の月の内より出てくるかと思われる夜半の一声がする)

  秋 からびほそく読むべし
軒ちかき松をはらふか秋の風月は時雨の空もかはらで
(現代語訳:時雨の降っている音かと思って見ると、空の月は明るくて変わっていないで、軒近くの松を払っているのか秋風の音のすることよ。)

  冬 からびほそく読むべし
山人のみちのたよりもおのづから思ひたえねと雪は降りつつ
(現代語訳:山人の頼みとする道も跡絶えてしまって、いつのまにか思い切れと雪は降り続いていることよ。)

 恋 ことに艶によむべし
うきながらかくてやつひにみをつくしわたらでぬるるえにこそ有りけれ
(現代語訳:せつない嘆きのままで、こうして終わりには身をほろぼして、渡らないで濡れてしまった江であることよ。〔実際には契りを交わさない浅い縁でありながら、契りを交わしたようになってしまって、切ない嘆きのままでこうしてしまいには身を滅ぼしてしまうことよ。〕)

  旅 ことに艶によむべし
むさしのの露をば袖に分けわびぬ草のしげみに秋風ぞふく

(現代語訳:武蔵野の草葉においている露をたやすく分けることができなかったことよ。草の茂っているところに秋風が吹いて草葉の露を払ってしまうけれど、私の袖の露(涙)は払うことのできないことよ。)

〔寂連は、なほざりならず歌詠みし者なり。あまり案じくだきし程に、たけなどぞいたくはたかくなりしかども、いざたけある歌詠まむとて、「龍田の奥にかかる白雲」と三躰の歌に詠みたりし、恐ろしかりき。
折りにつけて、きと歌詠み、連歌し、ないし狂歌までも、にはかの事に、故あるように詠みし方、真実の堪能と見えき〕(『後鳥羽院御口伝』)

参考文献:『日本の作家100人〜人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版
『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫

藤原信実(ふじわらののぶざね) 治承元~文永二(1177-1265) 法名:寂西

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/nobuzane.html

藤原北家長良流。為経(寂超)・美福門院加賀の孫。隆信の子。母は中務小輔長重女。名は初め隆実。娘の藻壁門院少将・弁内侍・少将内侍はいずれも勅撰集入集歌人。男子には従三位左京権大夫に至り画家としても名のあった為継ほかがいる。中務権大輔・備後守・左京権大夫などを務め、正四位下に至る。
和歌は父の異父弟にあたる藤原定家に師事し、若くして正治二年(1200)後鳥羽院第二度百首歌の詠進歌人に加えられ、同年九月の院当座歌合にも参加するなどしたが、院歌壇では評価を得られず、新古今集入撰に洩れた。建保期以降は順徳天皇の内裏歌壇や九条家歌壇などに迎えられ、建保五年(1217)九月の「右大臣家歌合」、同年十一月の「冬題歌合」、承久元年の「内裏百番歌合」、承久二年(1220)以前の「道助法親王家五十首」などに出詠した。承久の乱後も九条家歌壇を中心に活躍、貞永元年(1232)の「洞院摂政(教実)家百首」「光明峯寺摂政(藤原道家)家歌合」「名所月歌合」などに参加。寛元元年(1243)には自ら「河合社歌合」を主催している。また同四年(1246)、蓮性(藤原知家)勧進の「春日若宮社歌合」に出詠し、建長三年(1251)には「閑窓撰歌合」を真観(葉室光俊)と共撰するなど、反御子左家勢力とも親交があった。後嵯峨院歌壇では歌壇の長老的存在として、宝治元年(1247)の「宝治歌合」、宝治二年(1248)の「宝治百首」、建長三年(1251)の「影供歌合」などに詠進。八十歳を越えても作歌を持続し、建長八年(1256)藤原基家主催の「百首歌合」、弘長元年(1261)以降の「弘長百首」、文永二年(1265)の「八月十五夜歌合」などに出詠している。家集に『信実朝臣家集』がある(宝治初年頃の自撰と推測される)。新勅撰集初出。物語集『今物語』の作者。新三十六歌仙。
画家としては似絵の名人で、建保六年(1218)八月、順徳天皇の中殿御会の様を記録した『中殿御会図』、水無瀬神宮に現存する「後鳥羽院像」の作者と見られる。また佐竹本三十六歌仙絵の作者とする伝がある。

寂蓮(じゃくれん) 生年未詳~建仁二(1202) 俗名:藤原定長 通称:少輔入道

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jakuren.html

生年は一説に保延五年(1139)頃とする。藤原氏北家長家流。阿闍梨俊海の息子。母は未詳。おじ俊成の猶子となる。定家は従弟。尊卑分脈によれば、在俗時にもうけた男子が四人いる。
官人として従五位上中務少輔に至るが、承安二年(1172)頃、三十代半ばで出家した。その後諸国行脚の旅に出、河内・大和などの歌枕を探訪した。高野山で修行したこともあったらしい。建久元年(1190)には出雲大社に参詣、同じ頃東国にも旅した。晩年は嵯峨に住み、後鳥羽院より播磨国明石に領地を賜わって時めいたという(源家長日記)。
歌人としては出家以前から活動が見られ、仁安二年(1167)の太皇太后宮亮経盛歌合、嘉応二年(1170)の左衛門督実国歌合、同年の住吉社歌合などに出詠。出家後は治承二年(1178)の別雷社歌合、同三年の右大臣兼実歌合に参加した。また文治元年(1185)頃の無題百首、同二年西行勧進の二見浦百首、同三年の殷富門院大輔百首、同年の句題百首、建久元年(1190)の花月百首、同二年の十題百首など、多くの百首歌に参加し、定家・良経・家隆ら新風歌人と競作した。建久四年(1193)頃、良経主催の六百番歌合では六条家の顕昭と激しい論戦を展開するなど、御子左家の一員として九条家歌壇を中心に活躍を見せる。後鳥羽院歌壇でも中核的な歌人として遇され、正治二年初度百首・仙洞十人歌合・老若五十首歌合・新宮撰歌合・院三度百首(千五百番歌合)などに出詠。建仁元年(1201)には和歌所寄人となり、新古今集の撰者に任命される。しかし翌年五月の仙洞影供歌合に参加後まもなく没し、新古今の撰集作業は果せなかった。家集に『寂蓮法師集』がある。千載集初出。勅撰入集は計百十六首。

(参考)「佐竹三十六歌仙絵」周辺(その二)

三十六歌仙.jpg

鈴木其一筆「三十六歌仙図」一幅 一九〇・〇×七〇・〇㎝ 出光美術館蔵 →A図

三十六歌仙.jpg

酒井抱一筆「三十六歌仙図屏風」二曲一双 一六四・五×一八〇・〇㎝ ブライスコレクション(心遠館コレクション)→B図(下記のA図(歌仙名入り)と下記のメモ番号に一致)

三十六歌仙二.jpg

A図(歌人名入り)
http://melonpankuma.hatenablog.com/entry/2018/07/06/200000

(藤原公任撰「三十六歌仙」)・(藤原公任撰「三十六歌仙」右方・左方)・(「百人一首)
 のメモ(A図=歌人名・B図番号と一致、「左・右」は「歌合」番号、「百」=『百人一首』)

  女流歌人(5)
28 伊勢:裳だけなので袖の色数が少ない、右手を顔に   右二 → 百19
15 小野小町:裳唐衣。顔を最も隠しぎみ。額に手を当てる 右六 → 百 9
36 斎宮女御:几帳に隠れる               左一〇
6 小大君:裳唐衣で左向き               左一六
33 中務:裳唐衣で右手に扇、もしくは、顔が下向き    右一八

  僧侶(2) 
27 僧正遍昭:赤黄色の法衣で右上を向く         右四 → 百12
12 素性法師:画面左向き                左五 → 百21

  武官(4)
2 在原業平:青衣で矢を背負い右手を顎          左四 → 百17
19 藤原高光:赤衣で矢を背負う             右八
9 壬生忠岑:黒衣か白衣。片膝付き足裏を見せた背姿    右九 → 百30
34 藤原敏行:黒衣の武官姿、文官姿の時は右手を顔に   左一二→ 百18 

  翁(5)
7 柿本人麻呂:腕を開き、くつろいだ姿勢で画面左上を向く  左一 →百3
23 山部赤人:目尻に皺。狩衣で画面右を向き両手を膝    右三 →百4
11 猿丸太夫:黒袍か狩衣で画面左向きの横顔        左六 →百5
22 源順:白狩衣か赤袍で画面右向きの横顔        右一三
24 坂上是則:立てた笏を右手で押さえ画面右を振返る     左一五 →百31

  文官(20)
  直衣・狩衣(9)
35 源重之:正面向き。左膝を立て扇を持った左手で頬杖     右一一
30 源信明:左手で頬杖をつき画面右方向に体を横に傾けて思案顔 右一二
5 藤原清正:画面右を振返る 左一三
18 藤原興風:左膝を立て手を顎に。衣冠束帯の時は左向きの横顔 左一四 →百34
17 清原元輔:赤衣もしくは画面右上を見て右手の笏を肩にかつぐ 右一四 →百42
13 藤原元真:太め。右もしくは右上を向いた横顔で萎烏帽子が前に倒れる 右一五
20 藤原仲文:右を向いた横顔で萎烏帽子が後に倒れる          右一六
14 壬生忠見:丸顔、右手に扇 右一七 →百41
8 平兼盛:太め。㉕と比べてより丸顔で体を傾ける        左一八 →百40
  衣冠束帯(11)
21 紀貫之:立てた笏を左手で押さえる             右一 →百35
4 凡河内躬恒:笏を持つ左手を顎に左膝を立てて振返る     左二 →百29
16 大伴家持:右手に笏を持ち、画面右を振返る         左三 →百 6
32 紀友則:両手を腹の前で組んで目をつぶる          右五 →百33
3 藤原兼輔:右手笏を持ち顔の前に立てる            左七 →百27
31 藤原朝忠:瓜実顔もしくは太めで笏を持つ横顔        右七 →百44
1 藤原敦忠:手をかざして画面右を振返る          左八 →百43
10 源公忠:立てた笏を右手で押さえる              左九
25 大中臣頼基:大きく太めの体。画面右向きで持ち物なし      右一〇
29 源宗于:画面左向きで丸顔                   左一一 →百28
18 大中臣能宣:画面左向き。もしくは、笏を両手で構える     左一七 → 百49

(狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」、撰者=藤原基家原案・後鳥羽院撰? ※=下記と一致

左一 ※後鳥羽院、右一※ 式子内親王、左二※土御門院、右二※俊成卿女、左三※順徳院、右三 ※源通光、左四※ 仁和寺宮(道助法親王)、右四 前大納言忠良(粟田口忠良)、左五 後後法性寺入道前関白太政大臣(藤原兼実)、右五※ 土御門内大臣(源通親)、左六※後京極摂政太政大臣良経(九条良経)、右六 前大僧正慈鎮、左七※ 西園寺入道前太政大臣(西園寺公経) 右七※ 右衛門督通具(源通具)、左八 後徳大寺左大臣(藤原実定)、右八 藤原清輔朝臣、左九 権大納言其家(藤原基家)、右九 宜秋門院丹後、左一〇※ 前中納言定家(藤原定家)、右一〇※従二位家隆(藤原家隆)、左一一※参議雅経(藤原雅経・飛鳥井雅経)、右一一 二條院讃岐、左一二※ 前大納言為家(藤原為家)、右一二 藤原隆祐朝臣、左一三
※藤原有家朝臣、右一三※ 源具親朝臣、左一四※ 宮内卿、右一四※藤原秀能、左一五 殷冨門院大輔、右一五 小侍従、左一六※ 信実朝臣、右一六 寂蓮法師、左一七※源家長、右一七 俊恵法師、左一八 皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)、右方一八西行法師

(「新三十六歌仙」撰者?)※=上記と一致

※後鳥羽院、※土御門院、※順徳院、後嵯峨院、雅成親王、宗尊親王、※源通光、※式子内親王、※九条良経、九条道家、※西園寺公経、※道助親王、西園寺実氏、源実朝、※藤原基家、九条家良、慈円、行意、※源通具、※藤原定家、八条院高倉、※俊成卿女、藤原光俊、藻壁門院少将、※藤原為家、※飛鳥井雅経、※藤原家隆、藤原知家、※宮内卿、※藤原有家、※藤原信実、※源具親、※源家長、鴨長明、※藤原隆祐、※藤原秀能。

(「女房三十六人歌合」撰者?)※=三十六歌仙 ※※=新三十六歌仙

※小野小町、※伊勢、※中務、※斎宮女御、右近、右大将道綱母、馬内侍、赤染衛門、和泉式部、三条院女御蔵人左近、紫式部、小式部内侍、伊勢大輔、清少納言、大弐三位、高内侍、一宮紀伊、相模、※※宮内卿、周防内侍、※※俊成卿女、待賢門院堀河、※※宜秋門院丹後、嘉陽門院越前、※※二条院讃岐、※※小侍従、後鳥羽院下野、弁内侍、少将内侍、※※殷富門院大輔、土御門院小宰相、八条院高倉、後嵯峨院中納言典侍、式乾門院御匣、藻壁門院少将。

(「中古三十六歌仙」=藤原範兼撰「後六々撰」)

和泉式部、相模、恵慶法師、赤染衛門、能因法師、伊勢大輔、曾禰好忠、道命阿闍梨、藤原実方、藤原道信、平定文、清原深養父、大江嘉言、源道済、藤原道雅、増基法師、藤原公任、大江千里、在原元方、大中臣輔親、藤原高遠、馬内侍、藤原義孝、紫式部、藤原道綱母、藤原長能、兼賢王、上東門院中将、藤原定頼、在原棟梁、文屋康秀、藤原忠房、菅原輔昭、大江匡衡、安法法師、清少納言。

(集外三十六歌仙)

左方
1平常縁 2津守国豊 3浄通尼 4柴屋宗長 5月村斎宗碩 6永閑 7釈正徹 8釈正広 9耕閑斎兼載 10太田持資 11三好長慶 12宗羪 13伊達政宗 14兼与 15里見玄陳 16佐川田昌俊 17尚証 18木下長嘯子
右方
1種玉庵宗祇 2心敬 3基佐 4牡丹花肖柏 5蜷川親当 6安達冬康 7紹巴 8宗牧 9細川玄旨 10心前 11毛利元就 12北条氏康 13武田信玄 14北条氏政 15今川氏真 16昌叱 17小堀政一 18松永貞徳

(その十七)家永朝臣(源家永)と俊恵法師

源家永.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十七・家永朝臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009410

俊恵.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十七・俊恵法師」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009428

(バーチャル歌合)

左方十七・家永朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010707000.html

 春雨に野沢の水はまさらねど/もえいづるくさぞふかくなり行

右方十七・俊恵法師

http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010709000.html

 故郷の板井の清水み草ゐて/月さへすまずなりにける哉

判詞周辺(宗偽)

 「源家永」(?-1234))と「俊恵法師」(1113-?)との番いは全くの意表を突くものである。この俊恵法師は、『方丈記』の作者として名高い「鴨長明」の歌道の師として長明の歌論書『無名抄』に頻繁に登場する。
 時代史的には、「後鳥羽院・定家・家隆」時代よりも、その一昔前の「藤原俊成」(1114-1204))・「西行法師」(1118~1190)時代の歌人ということになろう。
 一方の家永は、「建仁元年(1201)八月には和歌所開闔(かいこう)となって新古今和歌集の編纂実務の中心的役割を果し」、「建久七年(1196)、非蔵人の身分で後鳥羽院に出仕。蔵人・右馬助・兵庫頭・備前守などを経て、建保六年(1218)一月、但馬守。承久三年(1221)の変後、官を辞す。安貞元年(1227)一月、従四位上に至る。文暦元年(1234)、死去」と、その生涯は、後鳥羽院の側近中の側近ということになる。
 その家永の『家永日記』に、鴨長明について、「すべて、この長明みなし子になりて、社の交じらひもせず、籠り居て侍りしが、歌の事により、北面に參り、やがて、和歌所の寄人になりて後、常の和歌の会に歌參らせなどすれば、まかり出づることもなく、夜昼奉公怠らず」と、後鳥羽院(二十二歳)に「和歌所寄人(役人)」に抜擢された当時の長明(四十七歳)のことについて好意的に記している。
 しかし、長明は地下の一社人(鴨神社の禰宜の出)で、後鳥羽院に見出された歌人であっても、宮中の歌会などでも他の寄人とは同席は出来ず、また、禰宜の途も一族の反対で叶わず、元久元年(一二〇四)、五十歳の頃、大原へ隠遁・出家(法名=蓮胤)する。
 そして、『方丈記』が成ったのは、建暦二年(一二一二)、五十八歳、そして、建保四年(一二一六)に六十四歳で没した時に、後鳥羽院は、三十七歳で、「仙洞百首和歌」をまとめた年で、長明は、後鳥羽院の承久の乱も隠岐への配流などは知らないのである。
 ここで、後鳥羽院との関係からすると、どう見ても、「新三十六歌仙」は俊恵法師よりも鴨長明がより適役かと思うのだが、この「「新三十六歌仙画帖(狩野探幽筆)の「新三十六歌仙」には、何故か、鴨長明の名前はない。
 しかし、『新編国歌大観』に搭載されている、一般に「新三十六歌仙」(「歌合」形式ではなく一歌仙に十首収載=「歌仙」方式)と称せられるものには、「俊恵法師」の名前はなく、「鴨長明」が、次の十首を以て、今に伝えられている。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#35

鴨長明

ながむれば千千に物思ふ月に又わが身ひとつの峰の松かぜ
ながめてもあはれとおもへ大かたの空だにかなしあきの夕ぐれ
松島やしほくむあまの秋のそで月は物思ふならひのみかは
初瀬山かねのひびきにおどろけばすみける月の有明の空
夜もすがらひとりみ山の槙のはにくもるもすめる有明の月
たのめおく人もながらの山にだにさ夜更けぬればまつ風のこゑ
袖にしも月かかれとは契りおかずなみだはしるやうつの山越
見れば又いとどなみだのもろかづらいかにちぎりてかけはなれけむ
いかにせむつひの煙のすゑならで立ちのぼるべき道しなければ
住みわびぬいざさはこえんしでの山さてだに親のあとをふむやと

 そして、その「新三十六歌仙」(「歌仙(一歌仙十首)」方式)での、「源家永」の十首は、次のとおりである。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#34

前但馬守源家長朝臣

春雨に野沢の水はまさらねどもえ出づる草ぞふかくなり行く
あづさ弓いそべのうらの春の月あまのたくなはよるも引くなり
秋の月しのに宿かるかげたけてをざさが原に露ふけにけり
秋の月ながめながめて老が世も山のはちかくかたぶきにけり
紅葉葉の散りかひくもる夕しぐれいづれか道とあきのゆくらむ
今日も又しらぬ野原に行暮れていづれの山か月はいづらむ
きぬぎぬのつらきためしに誰なれて袖のわかれをゆるしそめけむ
いづくにもふりさけ今やみかさやまもろこしかけて出づる月かげ
もしほ草かくともつきじ君が代の数によみおく和かの浦なみ
生駒山よそになるをの沖に出でてめにもかからぬ峰のしら雲

 ここで、家永と俊恵法師との二首を見ていきたい。

  左 勝
春雨に野沢の水はまさらねど/もえいづるくさぞふかくなり行(家永)
  右
故郷の板井の清水み草ゐて/月さへすまずなりにける哉(俊恵法師)
  判詞
 右の下の句の「月さへすまず」の「澄まず」・「住まず」の掛詞、いささか常套の感じで、左句の下の句の「もえいづるくさぞふかくなり行(く)」の「いづる」と「なりゆく」の、このリフレーン的な用言の動的な手法に一手をあげたい。

源家永の一首

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ienaga.html

   春歌の中に
春雨に野沢の水はまさらねど萌え出づる草ぞふかくなりゆく(新後拾遺61)

【通釈】しとしとと降る春雨に、野沢の水が増水したようには見えないけれども、萌え出た草は、日に日に色が深くなってゆく。
【語釈】◇ふかく 「水」または「水まさる」と縁のある語。

俊恵法師の一首

   故郷月をよめる
古郷の板井の清水みくさゐて月さへすまずなりにけるかな(千載1011)

【通釈】古びた里の板井の清水は水草が生えて、月さえ住まず、昔のような澄んだ光を宿さないようになってしまった。
【語釈】◇板井の清水 板で囲った井戸の清水。◇みくさゐて 水草が生えて。◇すまず 水面に映る月の光が「澄まず」、月の姿が水面に「住まず」、の掛詞。
【補記】『林葉集』の詞書は「故郷月」。
【本歌】よみ人しらず「古今集」
我が門の板井の清水里遠み人しくまねば水草おひにけり

源家長(みなもとのいえなが) 生年未詳~文暦元(?-1234)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ienaga.html

醍醐源氏。大膳大夫時長の息子。後鳥羽院下野を妻とする。子には家清・藻壁門院但馬ほかがいる。生年は嘉応二年(1170)説、承安三年(1173)説などがある。早く父に死に別れ、承仁法親王(後白河院皇子)に仕える。建久七年(1196)、非蔵人の身分で後鳥羽院に出仕。蔵人・右馬助・兵庫頭・備前守などを経て、建保六年(1218)一月、但馬守。承久三年(1221)の変後、官を辞す。安貞元年(1227)一月、従四位上に至る。文暦元年(1234)、死去。六十余歳か。
後鳥羽院の和歌活動の実務的側面を支え、建仁元年(1201)八月には和歌所開闔となって新古今和歌集の編纂実務の中心的役割を果した。歌人としても活躍し、正治二年(1200)の「院後度百首」、建仁元年(1201)の「千五百番歌合」、元久元年(1204)の「元久詩歌合」、承久二年(1220)以前の「道助法親王五十首」などに出詠した。承久の変後は、妻の実家である近江国日吉に住むことが多く、ここでたびたび歌会を催した。また寛喜二年(1230)頃の「洞院摂政百首」、同四年の「日吉社撰歌合」などに参加。定家や家隆との親交は、晩年まで続いたようである。後鳥羽院に仕えた日々を回想し、院の威徳への賞讃を綴った日記『源家長日記』がある。新古今集初出。勅撰入集三十六首。新三十六歌仙。

俊恵(しゅんえ) 永久一(1113)~没年未詳 称:大夫公

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syune.html

源俊頼の息子。母は木工助橘敦隆の娘。兄の伊勢守俊重、弟の叡山阿闍梨祐盛も千載集ほかに歌を載せる歌人。子には叡山僧頼円がいる(千載集に歌が入集している)。大治四年(1129)、十七歳の時、父と死別。その後、東大寺に入り僧となる。
永暦元年(1160)の清輔朝臣家歌合をはじめ、仁安二年(1167)の経盛朝臣家歌合、嘉応二年(1170)の住吉社歌合、承安二年(1172)の広田社歌合、治承三年(1179)の右大臣家歌合など多くの歌合・歌会に参加。白川にあった自らの僧坊を歌林苑と名付け、保元から治承に至る二十年ほどの間、藤原清輔・源頼政・登蓮・道因・二条院讃岐ら多くの歌人が集まって月次歌会や歌合が行なわれた。ほかにも源師光・藤原俊成ら、幅広い歌人との交流が知られる。私撰集『歌苑抄』ほかがあったらしいが、伝存しない。弟子の一人鴨長明の歌論書『無名抄』の随所に俊恵の歌論を窺うことができる。家集『林葉和歌集』がある(以下「林葉集」と略)。中古六歌仙。詞花集初出。勅撰入集八十四首。千載集では二十二首を採られ、歌数第五位。

(その十八)皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)と西行法師

釋阿二.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十八・皇太后宮大夫俊成」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009411

釋阿.jpg

(左方十八・皇太后宮大夫俊成)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019796

西行.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十八・西行法師」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009429

(バーチャル歌合)

左方十八・皇太后宮大夫俊成
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010710000.html

 又や見むかた野のみのゝ桜がり/はなのゆきちるはるのあけぼの

右方十八・西行法師
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010711000.html

 をしなべて花のさかりになりにけり/やまのはごとにかゝるしらくも

判詞周辺(宗偽)

 「新三十六歌仙画帖(狩野探幽筆)」による「新三十六歌仙」の「歌合」は、第一回の「後鳥羽院対式子内親王」によりスタートして、その最終回(十八回)が、この「俊成(釈阿)対西行」を以て、そのゴール地点ということになる。

「俊頼が後には、釈阿・西行なり。姿殊にあらぬ躰なり。釈阿は、やさしく艶に、心も深く、あはれなるところもありき。殊に愚意に庶幾する姿なり。西行は、おもしろくて、しかも心も殊に深く、ありがたくいできがたき方も共に相兼ねて見ゆ。生得の哥人とおぼゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき哥にあらず。不可説の上手なり。」」(後鳥羽院『後鳥羽院御口伝』)

 この『後鳥羽院御口伝』の「(源)俊頼」(1055~1129)は『金葉集』の撰者で、次に出て来る「釈阿(俊成・1114~1204)・西行(1118~1190)」より、やや先の時代の歌人ということになる。この俊頼の子に、前回の「俊恵(1113~没年未詳)」が居り、この「釈阿(俊成・1114~1204)・西行(1118~1190)・俊恵(1113~没年未詳)」が、同時代の歌人という位置づけとなってくる。
 そして、この「釈阿(俊成・1114~1204)・西行(1118~1190)」が、後鳥羽院歌壇、強いては、『新古今集』の基調をなすべき歌風と解することも出来よう。この二人について、「釈阿(俊成)は優艶で、心情に満ち、憐み深いところがり、ことに私の好み理想とする歌風である。西行は機知に富み、しかも歌心が誠に深く、なかなか世にめずらしい歌風であり、余人の真似難いようにも思われ、生れつきの歌人というべきであろう。ただし、初心の人が真似して学ぶような歌ではなく、言葉に尽くし難い名手なのである」というようなことであろう。
 これは、後鳥羽院の「釈阿(俊成)・西行」観として夙に知られているものだが、もっと具体的なこととして、西行が出家をしたのは、保延六年(1140)、二十三歳の時、以降、歌僧としての七十三歳の生涯をおくる。一方の俊成が出家して釈阿になったのは、安元二年(1176)、六十三歳の時で、以降も、九十一年の宮廷歌人の生涯を全うしている。
 西行が「生得の歌人」というのは、西行が若くして北面の武士(武官)も家族をも放下し、謂わば、「自由人・西行」として、「晴(ハレ)と褻(ケ)」の「褻(ケ)=私的空間」での
「歌は禅定の修業なり」(『三五記』)の、その終生の詠歌信条と深く関わりを有するものであろう。
 それに対して、釈阿(俊成)は、藤原道長の六男・正二位権代納言・長家を祖とする「御子左家」の総帥(次男・定家、甥=猶子・寂蓮、孫娘・俊成女など)として、謂わば、時の「宮廷歌人第一人者・俊成(釈阿)」での、終始、「晴(ハレ)と褻(ケ)」の「晴(ハレ)=公的空間」で「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事也」(『六百番歌合』)との、その宮廷歌人としての信条を全うした歌人ということになろう。

「 『(建久四年)六百番歌合』冬・上
十三番 枯野  左勝 女房(後鳥羽院)
見し秋を何に残さん草の原ひとつに変る野辺のけしきに
          右  隆信朝臣(藤原隆信)
霜枯の野辺のあはれを見ぬ人や秋の色には心とめけむ
右方申云、「草の原」、聞きつかず。左申云、右歌、ふるめかし。
判云、左、「何に残さん草の原」といへる、艶にこそ侍めれ。右方人「草の原」難申之條、頗るうたたあるにや。紫式部、歌詠みの程よりも物書く筆は殊勝之上、「花の宴」の巻は、殊に艶なる物也。源氏見ざる歌詠みは遺恨事也。右、心詞悪しくは見えざるにや。但、常の体なるべし。左歌己宜、尤可為勝。(判者 入道従三位皇太后大夫藤原朝臣俊成(法名・釈阿))」(『日本古典文学大系74歌合集』所収「建久四年六百番歌合(抄)」)

許六離別の辞.jpg

芭蕉筆「許六離別の詞」(柿衞文庫蔵)縦 19.1 ㎝ 横 59.1㎝

「去年(こぞ)の秋、かりそめに面(おもて)をあはせ、今年五月の初め、深切に別れを惜しむ。その別れにのぞみて、一日草扉をたたいて、終日閑談をなす。その器(許六をさす)、画(ゑ)を好む。風雅(俳諧)を愛す。予こころみに問ふことあり。『画は何のために好むや』、『風雅のために好む』と言へり。『風雅は何のために愛すや』、『画のために愛す』と言へり。その学ぶこと二つにして、用をなすこと一なり。まことや、『君子は多能を恥づ』」といへれば、品二つにして用一なること、感ずべきにや。画はとって予が師とし、風雅は教へて予が弟子となす。されども、師が画は精神徹に入り、筆端妙をふるふ。その幽遠なるところ、予が見るところにあらず。予が風雅は、夏炉冬扇のごとし。衆にさかひて、用ふるところなし。
ただ釈阿・西行の言葉のみ、かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも、あはれなるところ多し。後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも『これらは歌にまことありて、しかも悲しびを添ふる』とのたまひはべりしとかや。されば、この御言葉を力として、その細き一筋をたどり失ふことなかれ。なほ、『古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ』と、南山大師の筆の道にも見えたり、『風雅もまたこれに同じ』と言ひて、燈火をかかげて、柴門の外に送りて別るるのみ。元禄六孟夏末 風羅坊芭蕉 印 」
(芭蕉『風俗文選』所収「柴門の辞」・『韻塞』所収「許六離別の詞」)

 これは、芭蕉(1644~1694)が亡くなる一年前の元禄六年(一六九三・五十歳)に、江戸在勤の彦根藩士・森川許六が帰郷するに際して贈った「許六離別の詞」の全文である。
 ここに、芭蕉語録が満載している。

「予が風雅は、夏炉冬扇のごとし。衆にさかひて、用ふるところなし。」
「ただ、釈阿・西行の言葉のみ、かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも、あはれなるところ多し。」
「後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも『これらは歌にまことありて、しかも悲しびを添ふる』とのたまひはべりしとかや。されば、この御言葉を力として、その細き一筋をたどり失ふことなかれ。」
「古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ。」
「風雅もまたこれに同じ。」

 これらの芭蕉語録の根底に、近世の放浪俳諧師・芭蕉の、中世の放浪歌人・西行への限りなく思慕が横たわっている。それは、天和三年(一六八三・四十歳)の、次の其角編『虚栗』跋文に表われている。

「侘(わび)と風雅のその生(つね)にあらぬは、西行の山家をたづねて、人の拾はぬ蝕栗(むしくひ)也。」(其角編「虚栗」跋文)

 さらに、それは、貞享四年(一六八七・四十四歳)の、次の『笈の小文』(序文)と連なっている。

「百骸九竅の中に物有り、かりに名付て風羅坊といふ。誠にうすものゝのかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好こと久し。 終に生涯のはかりごとゝなす。ある時は倦で放擲せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたゝかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立むことをねがへども、これが為にさへられ、暫ク學で愚を曉ン事をおもへども、是が為に破られ、つひに無能無藝にして只此一筋に繫る。西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の繪における、利休の茶における、其貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る處花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。」(『笈の小文』序)

 ここから、冒頭の「許六離別の詞」に連なり、そこに、芭蕉は「風羅坊芭蕉」と署名するのである。この「風蘿坊」とは、西行の「浮かれいづる心」、そして、宗祇の臨終の吟の「浮かるる心」と軌を一にするものであろう。

 浮かれいづる心は身にもかなはねばいかなりとてもいかにかはせむ(『山家集』)
 眺むる月に立ちぞ浮かるる(『宗祇終焉記』)

 そして、それは、「西行→宗祇→芭蕉」と連なる「漂泊の詩人」の系譜を物語るものであろう。

 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る(『枯尾花』)

 この芭蕉の絶吟(病中の吟)の「枯野をかけ廻(めぐ)る」は、「枯野を廻(めぐ)る夢心」との二案が芭蕉の脳裏にあったことを、其角は書き取っている。この「夢心」は、西行、そして、宗祇の「浮かれいづる心・浮かるる心」と軌を一にするものであろう。

「ただ壁をへだてて命運を祈る声の耳に入りけるにや、心細き夢のさめたるはとて、『旅に病で夢は枯野をかけ廻る』、また、枯野を廻るゆめ心、ともせばやともうされしが、是さへ妄執ながら、風雅の上に死ん身の道を切に思ふ也」(『枯尾花』)

 そして、この芭蕉の「枯野」も、これまた、西行の、例えば、次の歌に連なっているように思われる。

 朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野のすすき形見にぞ見る(『新古今集792』『山家集』)

「みちのくにへまかりける野中に、目にたつ様なる塚の侍りけるを問はせ侍りければ、『これなむ中将の塚と申す』と答へければ、『中将とはいづれの人ぞ』と問ひ侍りければ、『実方朝臣の事』となむ申しけるに、冬の事にて、霜枯の薄ほのぼの見えわたりて、折ふし物悲しう覚え侍りければ」(『新古今集792』「詞書(前書き)」)

   左 持
又や見むかた野のみのゝ桜がり/はなのゆきちるはるのあけぼの(釈阿=俊成)
   右
をしなべて花のさかりになりにけり/やまのはごとにかゝるしらくも(西行法師)
   判詞
 左の歌の評の、「めでたし、詞めでたし、狩は、雪のちる比する物なるを、その狩をさくらがりにいひなし、其雪を花の雪にいひなせる、いとおもしろし」(本居宣長) の筆法でいくと、右の歌は、「めでたし、詞のめでたし、『やまのはごと』(山の端毎)は、「山端」と「山際」の「地と空」に、「しらくも」(「白雲」と「桜花」)が、あたかも、「大和は国のまほろば ただなづく青垣 山隠れる 大和しうるわし」を奏でているようで、いとおもしろし」と相成る。「敷島の道」の宣長が、左を「おもしろし」とするならば、右を「おもしろし」とし、「持」とす。

藤原俊成の一首
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  摂政太政大臣家に、五首歌よみ侍りけるに
またや見む交野(かたの)の御野(みの)の桜がり花の雪ちる春の曙(新古114)

【通釈】再び見ることができるだろうか、こんな光景を。交野の禁野に桜を求めて逍遙していたところ、雪さながら花の散る春の曙に出遭った。
【語釈】◇またや見む 再び見ることができるだろうか。ヤは反語でなく疑問。◇交野 河内国の歌枕。今の大阪府枚方市あたり。禁野があった。カタに難い意を掛ける。◇桜がり 花見。冬にする鷹狩を桜狩に置き換えた趣向。
【補記】伊勢物語八十二段を踏まえる。「今狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし云々」。建久六年(1195)二月、九条良経邸歌会での作。俊成八十二歳、最晩年の秀逸。『長秋詠藻』に文治六年(1190)女御入内御屏風和歌として以下のように掲載する歌を、改作したもの。
  野辺に鷹狩したる所
又もなほ人に見せばや御狩する交野の原の雪の朝を
【他出】慈鎮和尚自歌合、定家八代抄、近代秀歌、詠歌大概、詠歌一体、和漢兼作集、歌枕名寄、三五記、井蛙抄、六華集、耕雲口伝
【鑑賞】「めでたし、詞めでたし、狩は、雪のちる比する物なるを、その狩をさくらがりにいひなし、其雪を花の雪にいひなせる、いとおもしろし」(本居宣長『美濃の家苞(いえづと)』)。
【主な派生歌】
またや見む明石の瀬戸のうき枕波間の月のあけがたの影(藤原忠良[正治初度百首])
忘れめや片野の花もかつ見ゆる淀のわたりの春の明けぼの(千種有功)

西行の一首

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  花の歌あまたよみけるに(七首)
おしなべて花のさかりになりにけり山の端ごとにかかる白雲(64)[千載69]

【通釈】世はあまねく花の盛りになったのだ。どの山の端を見ても、白雲が掛かっている。
【補記】山桜を白雲になぞらえる旧来の趣向を用い、満目の花盛りの景をおおらかに謳い上げた。藤原俊成は西行より依頼された『御裳濯河歌合』の判詞に「うるはしく、丈高く見ゆ」と賞賛し、勝を付けている。
【他出】治承三十六人歌合、御裳濯河歌合、山家心中集、西行家集、定家八代抄、詠歌大概、御裳濯和歌集、詠歌一体、三百六十首和歌、井蛙抄、六華集、東野州聞書
【主な派生歌】
白雲とまがふ桜にさそはれて心ぞかかる山の端ごとに(藤原定家)
この頃は山の端ごとにゐる雲のたえぬや花のさかりなるらん(洞院公賢)

藤原俊成(ふじわらのとしなり(-しゅんぜい)) 永久二年~元久元年(1114-1204) 法号:釈阿 通称:五条三位

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藤原道長の系譜を引く御子左(みこひだり)家の出。権中納言俊忠の子。母は藤原敦家女。藤原親忠女(美福門院加賀)との間に成家・定家を、為忠女との間に後白河院京極局を、六条院宣旨との間に八条院坊門局をもうけた。歌人の寂蓮(実の甥)・俊成女(実の孫)は養子である。
保安四年(1123)、十歳の時、父俊忠が死去し、この頃、義兄(姉の夫)にあたる権中納言藤原(葉室)顕頼の養子となる。これに伴い顕広と改名する。大治二年(1127)正月十九日、従五位下に叙され、美作守に任ぜられる。加賀守・遠江守を経て、久安元年(1145)十一月二十三日、三十二歳で従五位上に昇叙。同年三河守に遷り、のち丹後守を経て、久安六年(1150)正月六日、正五位下。同七年正月六日、従四位下。久寿二年(1155)十月二十三日、従四位上。保元二年(1157)十月二十二日、正四位下。仁安元年(1166)八月二十七日、従三位に叙せられ、五十三歳にして公卿の地位に就く。翌年正月二十八日、正三位。また同年、本流に復し、俊成と改名した。承安二年(1172)、皇太后宮大夫となり、姪にあたる後白河皇后忻子に仕える。安元二年(1176)、六十三歳の時、重病に臥し、出家して釈阿と号す。元久元年(1204)十一月三十日、病により薨去。九十一歳。
長承二年(1133)前後、丹後守為忠朝臣家百首に出詠し、歌人としての活動を本格的に始める。保延年間(1135~41)には崇徳天皇に親近し、内裏歌壇の一員として歌会に参加した。保延四年、晩年の藤原基俊に入門。久安六年(1150)完成の『久安百首』に詠進し、また崇徳院に命ぜられて同百首和歌を部類に編集するなど、歌壇に確実な地歩を固めた。六条家の藤原清輔の勢力には圧倒されながらも、歌合判者の依頼を多く受けるようになる。治承元年(1177)、清輔が没すると、政界の実力者九条兼実に迎えられて、歌壇の重鎮としての地位を不動とする。寿永二年(1183)、後白河院の下命により七番目の勅撰和歌集『千載和歌集』の撰進に着手し、息子定家の助力も得て、文治四年(1188)に完成した。建久四年(1193)、『六百番歌合』判者。同八年、式子内親王の下命に応じ、歌論書『古来風躰抄』を献ずる。この頃歌壇は後鳥羽院の仙洞に中心を移すが、俊成は院からも厚遇され、建仁元年(1201)には『千五百番歌合』に詠進し、また判者を務めた。同三年、院より九十賀の宴を賜る。最晩年に至っても作歌活動は衰えなかった。詞花集に顕広の名で初入集、千載集には三十六首、新古今集には七十二首採られ、勅撰二十一代集には計四百二十二首を入集している。家集に自撰の『長秋詠藻』(子孫により増補)、『長秋草』(『俊成家集』とも。冷泉家に伝来した家集)、『保延のころほひ』、他撰の『続長秋詠藻』がある。歌論書には上述の『古来風躰抄』の外、『萬葉集時代考』『正治奏状』などがある。

「俊頼が後には、釈阿・西行なり。釈阿は、やさしく艶に、心も深く、あはれなるところもありき。殊に愚意に庶幾する姿なり」(後鳥羽院「後鳥羽院御口伝」)。

「ただ釈阿・西行の言葉のみ、かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも、あはれなるところ多し。後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも『これらは歌にまことありて、しかも悲しびを添ふる』とのたまひはべりしとかや。されば、この御言葉を力として、その細き一筋をたどり失ふことなかれ」(芭蕉「許六別離の詞」)。

西行(さいぎょう) 元永元~建久元(1118~1190) 俗名:佐藤義清 法号:円位

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藤原北家魚名流と伝わる俵藤太(たわらのとうた)秀郷(ひでさと)の末裔。紀伊国那賀郡に広大な荘園を有し、都では代々左衛門尉(さえもんのじょう)・検非違使(けびいし)を勤めた佐藤一族の出。父は左衛門尉佐藤康清、母は源清経女。俗名は佐藤義清(のりきよ)。弟に仲清がいる。
年少にして徳大寺家の家人となり、実能(公実の子。待賢門院璋子の兄)とその子公能に仕える。保延元年(1135)、十八歳で兵衛尉に任ぜられ、その後、鳥羽院北面の武士として安楽寿院御幸に随うなどするが、保延六年、二十三歳で出家した。法名は円位。鞍馬・嵯峨など京周辺に庵を結ぶ。出家以前から親しんでいた和歌に一層打ち込み、陸奥・出羽を旅して各地の歌枕を訪ねた。久安五年(1149)、真言宗の総本山高野山に入り、以後三十年にわたり同山を本拠とする。仁平元年(1151)藤原顕輔が崇徳院に奏上した詞花集に一首採られるが、僧としての身分は低く、歌人としても無名だったため「よみびと知らず」としての入集であった。五十歳になる仁安二年(1167)から三年頃、中国・四国を旅し、讃岐で崇徳院を慰霊する。治承四年(1180)頃、源平争乱のさなか、高野山を出て伊勢に移住、二見浦の山中に庵居する。文治二年(1186)、東大寺再建をめざす重源より砂金勧進を依頼され、再び東国へ旅立つ。途中、鎌倉で源頼朝に謁した。
七十歳になる文治三年(1187)、自歌合『御裳濯河歌合』を完成、判詞を年来の友藤原俊成に依頼し、伊勢内宮に奉納する。同じく『宮河歌合』を編み、こちらは藤原定家に判詞を依頼した(文治五年に完成、外宮に奉納される)。文治四年(1188)俊成が撰し後白河院に奏覧した『千載集』には円位法師の名で入集、十八首を採られた。最晩年は河内の弘川寺に草庵を結び、まもなく病を得て、建久元年(1190)二月十六日、同寺にて入寂した。七十三歳。かつて「願はくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃」と詠んだ願望をそのまま実現するかの如き大往生であった。
生涯を通じて歌壇とは距離を置き、当時盛行した歌合に参席した記録は皆無である。大原三寂と呼ばれた寂念・寂超・寂然とは若年の頃より交流があり、のち藤原俊成や慈円とも個人的に親交を持った。また、待賢門院堀河を始め待賢門院周辺の女房たちと親しく歌をやりとりしている。家集には自撰と見られる『山家集』、同集からさらに精撰した『山家心中集』、最晩年の成立と見られる小家集『聞書集(ききがきしゅう)』及び『残集(ざんしゅう)』がある。また『異本山家集』『西行上人集』『西行法師家集』などの名で呼ばれる別系統の家集も伝存する(以下「西行家集」と総称)。勅撰集は詞花集に初出、新古今集では九十五首の最多入集歌人。二十一代集に計二百六十七首を選ばれている。歌論書に弟子の蓮阿の筆録になる『西行上人談抄』があり、また西行にまつわる伝説を集めた説話集として『撰集抄』『西行物語』などがある。

「西行はおもしろくて、しかも心もことに深くてあはれなる、有難く出来がたき方も共に相兼ねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。これによりておぼろげの人のまねびなんどすべき歌にあらず、不可説の上手なり」(『後鳥羽院御口伝』)。

「和歌はうるはしく詠むべきなり。古今集の風体を本として詠むべし。中にも雑の部を常に見るべし。但し古今にも受けられぬ体の歌少々あり。古今の歌なればとてその体をば詠ずべからず。心にも付けて優におぼえん其の風体の風理を詠むべし」「大方は、歌は数寄の深(ふかき)なり。心のすきて詠むべきなり」(「深」を「源」とする本もある)「和歌はつねに心澄むゆゑに悪念なくて、後世(ごせ)を思ふもその心をすすむるなり」(『西行上人談抄』)。

酒井抱一の「綺麗さび」の世界(一~二十五)

その一 風神雷神図扇(抱一筆)

風神雷神図扇.jpg

酒井抱一画「風神雷神図扇」紙本着色 各縦三四・〇cm 横五一・〇cm
(太田美術館蔵)
【 光琳画をもとにして扇に風神雷神を描いた。画面は雲の一部濃い墨を置く以外に、淡い線描で二神の体を形作り、浅い色調で爽快に表現されている。風神がのる雲は、疾走感をもたらすように筆はらって墨の処理がなされている。ここには重苦しく重厚な光琳の鬼神の姿はない。涼をもたらす道具としてこれほどふさわしい画題はないだろう。  】
(『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展 継承と変奏(読売新聞社刊)』所収「作品解説(松嶋正人稿)」)

 この作品解説の、「ここには重苦しく重厚な光琳の鬼神の姿はない。涼をもたらす道具としてこれほどふさわしい画題はないだろう」というのは、抱一の「綺麗さび」の世界を探索する上での、一つの貴重な道標となろう。
 ここで、「綺麗さび」ということについては、下記のアドレスの「Japan Knowledge ことばjapan! 2015年11月21日 (土) きれいさび」を基本に据えたい。

https://japanknowledge.com/articles/kotobajapan/entry.html?entryid=3231

 そこでは、「『原色茶道大辞典』(淡交社刊)では、『華やかなうちにも寂びのある風情。また寂びの理念の華麗な局面をいう』としている。『建築大辞典』(彰国社刊)を紐解いてみると、もう少し具体的でわかりやすい。『きれいさび』と『ひめさび』という用語を関連づけたうえで、その意味を、『茶道において尊重された美しさの一。普通の寂びと異なり、古色を帯びて趣はあるけれど、それよりも幾らか綺麗で華やかな美しさ』と説明している」を紹介している。

 ここからすると、「俳諧と美術」の世界よりも、「茶道・建築作庭(小堀遠州流)」の世界で、やや馴染みが薄い世界(用語)なのかも知れない。しかし、上記の抱一筆の「風神雷神図扇」ほど、この「綺麗さび」(小堀遠州流)から(酒井抱一流)」の、「綺麗さび」への「俳諧そして美術」との接点を示す、その象徴的な作品と見立てて、そのトップを飾るに相応しいものはなかろう。
 その理由などは概略次のとおりである。

一 「綺麗さび」というのは、例えば、何も描かれていない白紙の扇子よりも、「涼をもたらす道具」としての「扇子」に、「風神雷神図」を描いたら、そこに、白紙のときよりも、さらに、涼感が増すのではなかろうかという、極めて、人間の本性に根ざした、実用的な欲求から芽生えてくるものであろう。

二 そして、この「扇子」に限定すると、そこに装飾性を施して瀟洒な「扇面画」の世界を創出したのが宗達であり、その宗達の「扇面画」から更に華麗な「団扇画」という新生面を切り拓いて行ったのが光琳ということになる。この二人は、当時の京都の町衆の出身(「俵屋」=宗達、「雁金屋」=光琳)で、それは共に宮廷(公家)文化に根ざす「雅び(宮び)」の世界のものということになる。

三 この京都の「雅(みや)び」の町衆文化(雅=「不易」の美)に対し、江戸の武家文化に根ざす「俚(さと)び」の町人文化(俗=「流行」の美)は、大都市江戸の「吉原文化」と結びつき、京都の「雅び」の文化を圧倒することとなる。

四 これらを、近世(江戸時代初期=十七世紀、中期=十八世紀、後期=十九世紀)の三区分で大雑把に括ると、「宗達(江戸時代初期)→光琳(同中期)→抱一(同後期)」ということになる。

五 これを、「芭蕉→其角→抱一」という俳諧史の流れですると、「芭蕉・其角・蕪村(江戸時代中期)=光琳・乾山」→「抱一・一茶(同後期)=抱一・其一」という図式化になる。

六 ここに、「千利休(「利休」流)→古田織部(「織部」流」)→小堀遠州(遠州流))」の茶人の流れを加味すると、「利休・織部」(桃山時代=十六世紀)、遠州(江戸時代前期=十七世紀)となり、この織部門に、遠州と本阿弥光悦(光悦・宗達→光琳・乾山)が居り、光悦(町衆茶)と遠州(武家茶)の「遠州・光悦(江戸時代前期)」が加味されることになる。

七 そして、茶人「利休・織部・遠州・光悦」を紹介しながら、「日常生活の中にアート(作法=芸術)がある」(生活の『芸術化』)を唱えたのが、日本絵画の「近世」(江戸時代)から「近代」(明治時代)へと転回させた岡倉天心の『茶の本』(ボストン美術館での講演本)である。

八 ここで、振り出しに戻って、冒頭に掲出した「風神雷神図扇(抱一筆)」は、岡倉天心の『茶の本』に出てくる「日常生活の中にアート(作法=芸術)がある」(生活の『芸術化』)を物語る格好な一つの見本となり得るものであろう。

九 と同時に、ここに、「光悦・宗達→光琳・乾山→抱一・其一」の「琳派の流れ」、更に、「西行・宗祇・(利休)→芭蕉・其角・巴人→蕪村・抱一」の「連歌・俳諧の流れ」、そして、「利休→織部→遠州・光悦→宗達・光琳・乾山・不昧・宗雅(抱一の兄)・抱一→岡倉天心」の「茶道・茶人の流れ」の、その一端を語るものはなかろう。

https://japanknowledge.com/articles/kotobajapan/entry.html?entryid=3231



【「Japan Knowledge ことばJapan! 2015年11月21日 (土) きれいさび」(全文)

「きれい(綺麗)さび」とは、江戸初期の武家で、遠州流茶道の開祖である小堀遠州が形づくった、美的概念を示すことばである。小堀遠州は、日本の茶道の大成者である千利休の死後、利休の弟子として名人になった古田織部(おりべ)に師事した。そして、利休と織部のそれぞれの流儀を取捨選択しながら、自分らしい「遠州ごのみ=きれいさび」をつくりだしていった。今日において「きれいさび」は、遠州流茶道の神髄を表す名称になっている。

 では、「きれいさび」とはどのような美なのだろう。『原色茶道大辞典』(淡交社刊)では、「華やかなうちにも寂びのある風情。また寂びの理念の華麗な局面をいう」としている。『建築大辞典』(彰国社刊)を紐解いてみると、もう少し具体的でわかりやすい。「きれいさび」と「ひめさび」という用語を関連づけたうえで、その意味を、「茶道において尊重された美しさの一。普通の寂びと異なり、古色を帯びて趣はあるけれど、それよりも幾らか綺麗で華やかな美しさ」と説明している。

 「さび」ということばは「わび(侘び)」とともに、日本で生まれた和語である。「寂しい」の意味に象徴されるように、本来は、なにかが足りないという意味を含んでいる。それが日本の古い文学の世界において、不完全な状態に価値を見いだそうとする美意識へと変化した。そして、このことばは茶の湯というかたちをとり、「わび茶」として完成されたのである。小堀遠州の求めた「きれいさび」の世界は、織部の「わび」よりも、明るく研ぎ澄まされた感じのする、落ち着いた美しさであり、現代人にとっても理解しやすいものではないだろうか。

 このことば、驚くことに大正期以降に「遠州ごのみ」の代わりとして使われるようになった、比較的新しいことばである。一般に知られるようになるには、大正から昭和にかけたモダニズム全盛期に活躍した、そうそうたる顔ぶれの芸術家が筆をふるったという。茶室設計の第一人者・江守奈比古(えもり・なひこ)や茶道・華道研究家の西堀一三(いちぞう)、建築史家の藤島亥治郎(がいじろう)、作庭家の重森三玲(しげもり・みれい)などが尽力し、小堀遠州の世界を表すことばとなったのである。 】

その二 「風神雷神図扇(二)」(抱一筆)

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抱一筆「風神雷神図扇」の「風神図扇」(三四・〇×五一・〇cm 太田美術館蔵)

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抱一筆「風神雷神図扇」の「雷神図扇」(三四・〇×五一・〇cm 太田美術館蔵)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-04-22

(再掲)
【 光琳画をもとにして扇に風神と雷神を描き分けた。『光琳百図後編』に掲載された縮図そのものに、二曲屏風の作例より小画面でかえって似ているところがある。また雲の表現や天衣の翻りなど鈴木其一による『風神雷神図襖』にも近い。すでに大作を仕上げていた身に付いた感じがあり、淡い色調が好ましくもある。 】
(『別冊太陽 酒井抱一 江戸の粋人(仲町啓子監修)所収「作品解説(松尾知子稿)」)

【 冒頭の「風神雷神図扇」は、『光琳百図後編』に掲載されている縮図を踏襲しており、それが刊行された文政九年(一八二六、六十六歳)前後の、晩年の作であろうか。こういう小画面のものになると、抱一の瀟洒な画技が実に見応えあるものとなって来る。 】

【 北斎にしても抱一にしても、屏風絵や大画面の肉筆画に目が奪われがちであるが、こうした、絵扇や扇面画の小画面のものや細密画の世界に、大画面ものに匹敵する凄さというものを実感する。 】

 「綺麗(きれい)さび」と同意義のような言葉に、「姫(ひめ)さび」という言葉があり、こちらは、『日本国語大辞典』(小学館)に、「はなやかで上品な中にさびの趣のあることをいう。茶器を鑑賞する時などにいう」と解説されている。
 この「姫(ひめ)さび」について、『茶道辞典(桑田忠親編)』(東京堂)は、「茶器を観賞する上での用語。華やかで上品の中にどこかさびの趣のあること。例えば、仁清の作品などをいう。茶匠の好みでいうと、宗和好み、遠州好みなどがこれに相当する。一名、綺麗さびとも称す」とあり、「綺麗さび」の別称のように解説されている。
 これらからすると、「綺麗さび」(小堀遠州好み)というのは、焼物の茶碗などの「茶器」の鑑賞上の用語から派生したものなのかも知れない。
そして、日本画の画面形式からすると、「扇面画」というのは、焼物の「茶碗」のように、手に取って実用的に使う、特殊な「小さな世界」のもので、「茶器」の鑑賞用語の「綺麗さび」などが好都合のような世界なのかも知れない。

 この「扇面画」について、「扇面構図論—宗達画構図研究への序論—(水尾比呂志稿)」(『琳派(水尾比呂志著)』所収)があり、そこで、「写経用扇面画(A類型)・漢画系扇面画(B類型)・宗達派扇面画(C類型)」の三類型に分け、「扇面画」の特性を「放射性・湾曲性・進行性」と指摘している。
 この「扇面画」の特性は、扇面が本来円の一部分であり、「上弦・下弦(その比率が上記の三類型で異なっている)」と、その中心(円の中心)は、「扇面」外の「扇の要」になるという、この特性からの「放射性・湾曲性」ということになる。そして、その「進行性」というのは、「扇」を「開く・閉じる」から、「絵巻」の「進行性」の特性も挙げられるというようなことである。
 これらのことは、言葉ですると難しいのだが、上記の二図を見て、「扇面画」の「逆三角形」の構図と、円の中心点が「扇の要」ということ、扇子を「開く・閉じる」との、これらのことから、「扇面画」の「放射性・湾曲性・進行性」の三特性は明瞭となって来よう。

 この「扇面画」の三特性を「扇面性」と名付け、「宗達屏風画構図論(水尾比呂志稿)」(『琳派(水尾比呂志著)』所収)で、「静嘉堂蔵源氏物語屏風」(六曲一双)、「醍醐寺蔵舞楽図屏風」(二曲一双)、「建仁寺蔵風神雷神図屏風」(二曲一双)を詳細に検討しながら、「宗達の屏風画を構成する基本的な原理が扇面性であることを確かめ得た」と、その「まとめ」を結んでいる。
 この論稿は、昭和三十七年(一九六二)一月「国華」(八一四号)が初出であるが、下記のアドレスで、「俵屋宗達『風神雷神図屏風』」(西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」)
と題し、その論稿の直接的な紹介ではないが、宗達の「風神雷神図屏風」について、図解をしながら、「扇面形式の構図」と「余白の美」について、分かり易い解説をしている。

https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-01-28-4

 これらからすると、「綺麗さび」という遠州好みの美的鑑賞視点は、「茶器」とか「扇面画」とかという小物の「小さい世界」にのみ適用されるものではなく、例えば、この宗達の「風神雷神図屏風」(二曲一双)の大画面と同じように、下記アドレスの、遠州が作庭したといわれている庭園などにも均しく適用されるものと解したい。

https://garden-guide.jp/tag.php?s=100_1579


https://kyotomag.com/features/garden-authors/koborienshu/

https://ameblo.jp/taishi6764/entry-12370588022.html

https://oniwa.garden/tag/小堀遠州/


その三 「白梅図」(抱一筆)

扇面雑画一・白梅図.jpg

酒井抱一筆「扇面雑画(一)・白梅図」(「扇面雑画(六十面)の一面」)
紙本着色・墨画 三六・五×六三・八㎝(各面) 東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0095262

【 各種の画題を描いたこの六十面に及ぶ抱一の扇面画は、現在ガラス挟みの形式で保存されているが、それ以前の保管状態が好ましくなかったためか、画面がかなり傷んで画趣を殺いでいるものが少なくない。六十面の内訳は着色による草花・花木を描くものが約半数を占め、他は鳥類、動物、魚類、昆虫、また蔬菜、器物、盆栽、景物、さらに水墨の竹や山水、布袋など、題材、手法が多岐に及んでいる。花鳥画を最も得意としながら、画題の対象を新たに開拓、拡大していった抱一画業の特色がよく表われており、その縮図を見るようである。
 落款は六十面とも「抱一筆」であるが、印章は「鶯邨」朱文(上下)印(二十)、「文詮」朱文円印(十九)、「抱一」朱文重郭方印(十四)、「抱一」朱文方印(六)、「文詮」朱文瓢印(一)と五種が用いられている。 】(『琳派五・総合(紫紅社刊)』所収「作品解説(村重寧稿)」)

 上記のアドレスの抱一筆「扇面雑画」(六十面・東京国立博物館蔵)の中に、抱一の「綺麗さび」の世界の一つひとつが集約されているような思いが湧いてくる。
上記のアドレスでは、この「扇面雑画」(六十面)の全ては掲載されていないようであるが、その画題名(六十面)を記すと、次のとおりである。

(草花・花木など)
一 白梅 二 桜 三 桃 四 柳 五 早蕨 六 蕨と蒲公英 七 菜の花に蝶 八 桜草 九 藤 十 鉄線 十一 水草にあめんぼう 十二 沢瀉 十三 河骨と太蘭 十四 布袋葵 十五 枇杷 十六 蘭 十七 酸漿 十八 露草 十九 撫子 二十 山帰来 二十一 芒と嫁菜 二十二 萩 二十三 烏瓜 二十四 柿 二十五 吹寄 二十六 
雪中藪柑子 二十七 若松と藪柑子 二十八 譲葉 二十九 水仙 三十 墨竹

(蔬菜・虫類・魚類・鳥類・動物など)
三十一 瓜に飛蝗 三十二 生姜 三十三 茄子に蟋蟀 三十㈣ 結び椎茸 三十五 豆と藁苞 三十六 大根に河豚 三十七 瓜草に雲雀 三十八 鷭 三十九 稲穂に雀 四十 枯蓮に白鷺 四十一 蝶と猫 四十二 鹿 四十三 目高 四十四 蝸牛 

(山水・景物など) 
四十五 藁屋根に夕顔 四十六 浜松 四十七 蓬莱山 四十八 秋景山水 四十九 田園風景 五十 雨中山水 五十一 破墨山水 五十二 社頭風景   

(風物・器具・吉祥など)
五十三 ごまめと水引 五十四 鶯笛と若菜 五十五 盆栽 五十六 稗蒔 五十七 玩具 五十八 五徳と羽根箒 五十九 籠に雪紅葉 六十 布袋

 (上記の「画題名・分類」などは、『琳派五 総合(紫紅社)』所収「作品解説」などを参考にしている。)

 抱一には、画帖として、『絵手鑑』(七十二図・各二五・一×一九・九㎝・静嘉堂文庫美術館蔵)がある。その『絵手鑑』の画題名と、この「扇面雑画」の画題名と比較して見ると、例えば、前者の、「一 白梅 二 椎を喰む鼠 三 向日葵に百足 四 寒山拾得 五 羽子板に羽根 六 虎 七 龍 八 南瓜 九 釣人 十 南瓜 —– 」と、随分と様変わりをしている。このトップの「白梅図」は、同じ画題名であるが、前者が、、「晴(ハレ)」の晴れ着的な作品とすると、後者の「扇面雑画」の方は、「褻(ケ)」の普段着の即興的な作品のような印象を受ける。
 もう一つ、抱一には、「晴(ハレ)と褻(ケ)」の中間のような、俳画集(俳画帖)ともいうべき『柳花帖』(五十六丁・五十二図)がある。これは抱一の親しい吉原の楼主加保茶元成(二世)の依頼により、雨華庵などの画室ではなく吉原の一室で描いたとの抱一の跋文が付いている。
この『柳花帖』については、下記のアドレスで触れている。その画題名と俳句などについて、再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-23

(再掲)

酒井抱一俳画集『柳花帖』(一帖 文政二年=一八一九 姫路市立美術館蔵=池田成彬旧蔵)の俳句(発句一覧)
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「酒井抱一筆「柳花帖」俳句一覧(岡野智子稿)」) ※=「鶯邨画譜」・その他関連図(未完、逐次、修正補完など) ※※=『屠龍之技』に収載されている句(「前書き」など)

  (画題)      (漢詩・発句=俳句)
1 月に白梅図   暗香浮動月黄昏(巻頭のみ一行詩) 抱一寫併題  ※四「月に梅」
2 白椿図     沽(うる)めやも花屋の室かたまつはき
3 桜図      是やこの花も美人も遠くより ※「八重桜・糸桜に短冊図屏風」
4 白酒図     夜さくらに弥生の雪や雛の柵
5 団子に蓮華図  一刻のあたひ千金はなのミち
6 柳図      さけ鰒(ふぐ)のやなきも春のけしきかな※「河豚に烏賊図」(『手鑑帖』)
7 ほととぎす図  寶(ほ)とゝきすたゝ有明のかゝみたて
8 蝙蝠図     かはほりの名に蚊をりうや持扇  ※「蝙蝠図」(『手鑑帖』)
9 朝顔図     朝かほや手をかしてやるもつれ糸  ※「月次図」(六月)
10 氷室図    長なかと出して氷室の返事かな
11 梨図     園にはや蜂を追ふなり梨子畠   ※二十一「梨」
12 水鶏図    門と扣く一□筥とくゐなかな   
13 露草図    月前のはなも田毎のさかりかな
14 浴衣図    紫陽花や田の字つくしの濡衣 (『屠龍之技』)の「江戸節一曲をきゝて」
15 名月図    名月やハ聲の鶏の咽のうち
16 素麺図      素麺にわたせる箸や天のかは
17 紫式部図    名月やすゝりの海も外ならす   ※※十一「紫式部」
18 菊図      いとのなき三味線ゆかし菊の宿  ※二十三「流水に菊」 
19 山中の鹿図   なく山のすかたもみへす夜の鹿  ※二十「紅葉に鹿」
20 田踊り図     稲の波返て四海のしつかなり
21 葵図       祭見や桟敷をおもひかけあふひ  ※「立葵図」
22 芥子図      (維摩経を読て) 解脱して魔界崩るゝ芥子の花
23 女郎花図     (青倭艸市)   市分てものいふはなや女郎花
24 初茸に茄子図    初茸や莟はかりの小紫
25 紅葉図       山紅葉照るや二王の口の中
26 雪山図       つもるほと雪にはつかし軒の煤
27 松図        晴れてまたしくるゝ春や軒の松  「州浜に松・鶴亀図」   
28 雪竹図       雪折れのすゝめ有りけり園の竹  
29 ハ頭図      西の日や数の寶を鷲つかみ   「波図屏風」など
30 今戸の瓦焼図    古かねのこまの雙うし讃戯画   
            瓦焼く松の匂ひやはるの雨 ※※抱一筆「隅田川窯場図屏風」 
31 山の桜図      花ひらの山を動かすさくらかな  「桜図屏風」
  蝶図        飛ふ蝶を喰わんとしたる牡丹かな      
32 扇図        居眠りを立派にさせる扇かな
  達磨図       石菖(せきしょう)や尻も腐らす石のうへ
33 花火図       星ひとり残して落ちる花火かな
  夏雲図       翌(あす)もまた越る暑さや雲の峯
34 房楊枝図    はつ秋や漱(うがい)茶碗にかねの音 ※其一筆「文読む遊女図」(抱一賛)
  落雁図       いまおりる雁は小梅か柳しま
35 月に女郎花図    野路や空月の中なる女郎花 
36 雪中水仙図     湯豆腐のあわたゝしさよ今朝の雪  ※※「後朝」は
37 虫籠に露草図    もれ出る籠のほたるや夜這星
38 燕子花にほととぎす図  ほとときすなくやうす雲濃むらさき 「八橋図屏風」
39 雪中鷺図      片足はちろり下ケたろ雪の鷺 
40 山中鹿図      鳴く山の姿もミヘつ夜の鹿
41 雨中鶯図      タ立の今降るかたや鷺一羽 
42 白梅に羽図     鳥さしの手際見せけり梅はやし 
43 萩図        笠脱て皆持たせけり萩もどり
44 初雁図       初雁や一筆かしくまいらせ候
45 菊図        千世とゆふ酒の銘有きくの宿  ※十五「百合」の
46 鹿図        しかの飛あしたの原や廿日月  ※「秋郊双鹿図」
47 瓦灯図       啼鹿の姿も見へつ夜半の聲
48 蛙に桜図      宵闇や水なき池になくかわつ
49 団扇図       温泉(ゆ)に立ちし人の噂や涼台 ※二十二「団扇」
50 合歓木図     長房の楊枝涼しや合歓花 ※其一筆「文読む遊女図」(抱一賛)
51 渡守図       茶の水に花の影くめわたし守  ※抱一筆「隅田川窯場図屏風」
52 落葉図      先(まず)ひと葉秋に捨てたる団扇かな ※二十二「団扇」

 この『柳花帖』(画帖・俳画集)は、「花街柳巷図巻」(一巻・十二図)、そして、「吉原月次図(十二幅)」(旧六曲一双押絵貼屏風)と連動しており、抱一は、この種の、相互に連動している「画帖」形式、「絵巻」形式、「掛幅」形式など、同種の画題で、種々の形式のものを制作している。
 そして、一つひとつは小画面の、この種の「画帖」形式や「絵巻」形式のものは、抱一自筆の、門弟・其一など他の人の手が入ってないものが多く、冒頭に掲げた「扇面雑画」(「白梅図」など六十図)なども、これまてに見てきた『絵手鑑』や『柳花帖』、そして、「四季花鳥図絵巻」などと均しく、抱一の細やかな息吹きのする自筆そのものの「綺麗さび」の世界のものという印象を深くする。

その四  「扇面散図屏風」(抱一筆)

抱一・扇面散図屏風.jpg

酒井抱一筆「扇面散図屏風」(二曲一隻? 北野美術館蔵) → A図

http://kitano-museum.or.jp/collection/arts/429/

 『琳派五・総合(紫紅社刊)』所収「作品解説(三十四)」に、下記の二曲一双の「扇面散図屏風」(酒井抱一筆)が紹介されている。

抱一・扇面散図屏風二.jpg

酒井抱一筆「扇面散図屏風」(二曲一双 絹本著色 各隻一七〇・一×一七九・〇cm 落款「抱一筆(左隻)」 印「文詮」朱方印(左隻) 個人蔵 )→ B図

 この両図(A図とB図)を見比べていくと、二曲一隻(A図)と二曲一双(B図)とは、同じような構図で、同じような図柄なのだが、その仕上げの形式から必然的に相違しているのが明瞭となってくる。
 まず、流水(A図一・二扇)は、(B図=右隻一・二扇と左隻一扇)と右隻と左隻との繋がっている。同様に、(B図=右隻二扇と左隻一扇)とが繋がっているように、両隻に跨っての扇面画の描写になっている。
 そして、これらは、屏風に扇子(扇面画)そのものを貼付したものではなく、これらの扇子(全開・半開・全閉・正面・逆さ・横向き・斜め向き等々)は全て手描きのものなのであろう。
 この種のものには、「扇面散貼付」屏風と「扇面散図」屏風とがあり、前者は扇面画を貼付して仕上げたもの、後者は画中画のように扇面画を手描きして仕上げたものとがある。上記の二図(A図・B図)は、「扇面散貼付屏風」ではなく、「扇面散図屏風」で、扇面画を貼付して仕上げたものではなかろう。
 これらの「扇面屏風」というのは、俵屋宗達(宗達派の「伊年」印)以来、「宗達→光琳→抱一」の、琳派の主要なレパートリー(得意とする分野)の一つで、多種多様なものを目にするが、例えば、扇面画を貼付して、その「扇骨」などは手描きしたものなど、その制作時には、どのような仕上げのものであったかは、判然としないものが多い。
 ここで、改めて両図(A図とB図)を見ていくと、次のようなことが見えてくる。

一 この両図(A図とB図)とも、全体的(流水図・扇面画等)に、光琳風で、例えば、前回紹介した「扇面雑画(一)・白梅図」(「扇面雑画(六十面)の一面」)などとは、異質の世界という印象を深くする。
二 この両図(A図とB図)の「流水図」とその「(各)扇面画」の描写だけを見ても、抱一の光琳画の縮図帖ともいうべき『光琳百図』などを念頭に置いてのものというのは一目瞭然であろう。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850491


抱一・光琳百図・扇面画.jpg

国立国会図書館デジタルコレクション『光琳百図』(23/89)

三 抱一が、光琳百回忌の法会を修し、『光琳百図』を刊行と合わせ「光琳遺墨展」を開催したのは、文化十二年(一八一五)、五十五歳のときであった。この「光琳遺墨展」には、抱一が各所蔵者から借り受けたものなど、光琳の作品が四十二点陳列されている。その中に、「扇面十枚」が、その出品目録に収載されている(『抱一派花鳥画譜三(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)。上記の『光琳百図』の扇面画の幾つかは、その「光琳遺墨展」も陳列されたのであろう。

四 この光琳百回忌のイベントが開催された文化十二年(一八一五)当時、抱一の付人で門弟の鈴木蠣潭(二十四歳)、そして、蠣潭没後、抱一の付人となる鈴木其一(二十歳、十八歳のとき内弟子となる)は、抱一の傍らにあって、抱一の画業を陰に陽に支えたのであろう。

五 抱一の「扇面屏風」は、この種の「扇面散図屏風」よりも「扇面散貼付屏風」(各扇面画に落款が施されている)の方が点数は多いと思われるが、抱一(雨華庵一世)没後、雨華庵二世を継受する酒井鶯蒲(抱一没年時、二十一歳)に、「扇面散図屏風」(二曲一隻・東京国立博物館蔵)があり、抱一から鶯蒲へ、この種のものが継受されていることの一端が知られてくる。

その五 「扇面散図屏風」(鶯蒲筆)

鶯蒲・扇面散図屏風.jpg

酒井鶯蒲筆「扇面散図屏風」(二曲一隻 紙本金地著色 一五〇・五×一六三・〇cm 東京国立博物館蔵 )

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0032501

【 二曲一隻のこの屏風絵には琳派独自の気分が横溢している。つまり背景が金色であること、それに扇面散らしの形式を踏んでいること、また全面開きでなく半開きのもを散らし、さらに横向き、ほとんど逆に近い図柄を平気で描いているからである。扇面散らしの伝統がここにまで生きている証拠は本屏風でもよくわかる。
図柄は右側上部から白牡丹、紫陽花、水墨仕立ての松に月、水上飛翔の白鷺、伊勢物語東下り、白梅図(ほとんど逆の図)、白菊黄菊、芒に白萩、富士、大山蓮華(半開き)、蒲公英・土筆・菫(半開き)、裏を見せた野毛金砂子(半開き)の十二面である。草花を描いたもの七面、鳥を描いた二面、山水と物語は各一面ずつ、といった具合で、やはり草花・鳥の類が大部分を占めている。
これを以てしても琳派は花鳥中心の画派であったと思われる。ただこの屏風扇面絵にも伊勢物語とくに業平東下り図が入っている。これは宗達、光琳、乾山以来、この派のパテントといってもよいもので、琳派を名乗る以上は伊勢物語とは切っても切れぬ関係のもので、琳派の看板とでも言えるものである。
ここに散らされた扇面画には濃彩画がほとんどで、その各々は琳派特有の図構成がなされている。とくに紫陽花、菊花、芒、白萩、蒲公英、土筆、菫の描写は琳派ならではのもので、他派の及ぶところではない。
またこの屏風絵の扇面散らし方も右脇下に「獅現鶯蒲筆」の落款があるように、自らこの散らし方を決定したことは明らかで、その伝統が確実に生きていることを物語っている。鶯蒲は文政元年(一八一八)、下根岸の抱一邸に引取られ、養子として迎えられただけあって、抱一から、また小鸞女史から殊の外可愛がられたことから察し、抱一もこの作画にかなり後から救助していたであろう。また彼は抱一なきあと、雨華庵二世として襲名しているほどである。
印章は二顆あり上の印文は「伴伊」朱文円印、下が「獅現」朱文方印である。  】
『抱一派花鳥画譜三(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)

 「酒井抱一と江戸琳派関係年表」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収)の文政八年(一八二五、抱一、六十五歳、鶯蒲、十八歳)の項に、「一月十七日、水戸藩主徳川斉修に扇子十本を進上する。(五本は鶯蒲が担当。)」とある。
 晩年の抱一は、雨華庵をこの鶯蒲に引き継ぐべき、この水戸候など抱一の支援者に引き合わせ、その推挽の労を執っていたことが了知される。この鶯蒲は、築地本願寺中の浄栄寺に二男として出生し、上記の解説文にあるとおり、抱一の養子というよりも、小鸞女史(妙華尼)の養子となり、雨華庵(抱一邸)に引き取られる(これらのことは「等覚院殿御一代記」の酒井家の記録として遺されている)。
 『古画備考』(朝岡興禎著)に「鶯蒲が抱一のことを御父様と呼ぶことを酒井家より咎められた」との聞き書きが記録されており、「酒井家→抱一・小鸞女史→鶯蒲・浄栄寺」との三者関係には微妙な謎(鶯蒲の抱一実子説など)が秘められているような雰囲気を有している。
 この聞き書きによると、水戸候に出た折、抱一とともに席画などもしたこと、書をよくし、茶事も好んだことなども伝えられている。鶯蒲は、天保十二年(一八四一)、三十四歳の若さで夭逝して居り、遺された作品は其一などに比べると極めて少ないが、作画領域は多方面にわたり、晩年の抱一の期待に十分に応え得る力量を示していた。
 この年に、抱一は、「富士山に昇龍図」(掛幅)を制作しているが、下記のアドレスで、北斎の絶筆の「冨士越龍図」の先行的な作品として、紹介したが、上記の年表と重ね合わせると、雨華庵二世を託すべき鶯蒲が、晩年の雨華庵一世・抱一の期待に十分応え得ることを暗示する「昇龍図」(「富士」は「抱一・其一らの江戸琳派」の見立て、そして「昇龍」は鶯蒲の見立て)と解することも可能であろう。
 そして、抱一の「昇龍図」に比して、北斎の「越龍図」というのが、当時の抱一と北斎との関係を暗示するようで面白い。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-09-05


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酒井抱一筆「富士山に昇龍図」一幅 絹本墨画 五三・八×一一一・八㎝ 東京都江戸東京博物館蔵(市ヶ谷浄栄寺伝来)

https://heritager.com/?p=54251


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葛飾北斎筆「富士越龍図」一幅 紙本着色 九五・八×三六・二㎝ 
九十老人卍筆 印=百 すみだ北斎美術館蔵

その六 「波に鷺図扇」(鶯蒲筆)

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酒井鶯蒲筆「波に鷺図扇」一柄 紙本着色 一六・四×四五・〇㎝ 太田記念美術館蔵
【 扇という小画面で、鶯蒲の伸びやかな筆致が引き出された逸品であろう。「獅子現鶯蒲筆」と署名し大きな「伴青」朱文円印を捺す。白鷺の姿は十二ヶ月花鳥図の十一月の図など様々なポーズが描かれたが、本図では、波の上を越える躍動感が生まれている。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

 鶯蒲の作品は、抱一・其一らに比して遺された作品数は多くはないが、その作画領域は下記のとおり多方面にわたっている(以下の「図」とあるのは『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「図録番号、「図※」は同図録番号=上記の作品)。

一 琳派図様を写したもの
 琴高仙人図、本阿弥光甫写しの三幅対(図二五五)

二 抱一図様・琳派図様の展開したもの
 牡丹蝶図(東京国立博物館)、楓図(フリア美術館)、銀杏図(ギッターコレクション)など。

三 節句画
 (図三〇四)など。

四 仏画など
 (図二六〇)(図二六一)など。

五 肖像画
 抱一上人像(現シアトル美術館蔵本)など。

六 吉祥画題、復古的な物語絵等
 旭日に波濤鶺鴒図(図二五四)、寿老図(図二五六)など

七 俳画・風俗画等
 雀踊り図(図二五九)など

八 工芸的作品
 扇(図※二五三ほか多数) 団扇(ギッターコレクション) 極小の絵巻(図二八八)など。

九 扇面散図屏風等

 扇面散図屏風(東京国立博物館)
 ↓
https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-08-22

十 天井画
 草加市三覚院

十一 絵馬
 抱一と一門での合作の絵馬(縮図あり)など。

十二 版下絵
 版本挿絵(図二五二)、俳諧摺物など

 屏風絵などの大構図の作品は見られないが、天保七年(一八三六)の『広益諸家人名録』に「其一、鶯蒲、孤邨、素堂、抱儀、交山」の順に登載され、其一(四十一歳、鶯蒲、二十九歳)に次ぐ、雨華庵二世の地位にあったのであろう。
 当時、其一は酒井家家臣(九人扶持の一代絵師、抱一の「庭柏子」の号を継受)として、鶯蒲を補佐していたが、天保十二年(一八四一)に、鶯蒲が夭逝すると、その翌年に守一に家督を譲り、「菁々」の号でより自由な立場で筆を奮うことになる。

抱一・扇面白鷺.jpg

酒井抱一筆「扇面雑画(四十)・枯蓮に白鷺図」(「扇面雑画(六十面)の一面」)
紙本着色・墨画 三六・五×六三・八㎝(各面) 東京国立博物館蔵

https://image.tnm.jp/image/1024/C0093913.jpg

 これは、抱一の「扇面白鷺図」(東京国立博物館蔵)である。この白鷺図と鶯蒲の白鷺図を比べると、両者とも白鷺の躍動感が見事である。しかし、抱一の白鷺が両脚を揃えて、顔を左向きに地上の枯蓮を見下ろしているのに比して、鶯蒲のそれは、顔を右向けにし、片脚を長く伸ばし、海上の波濤を見下ろしているもので、さながら、師(抱一)弟(鶯蒲)の競演のような雰囲気を有している。
 そして、鶯蒲のそれが、金泥の霞引きを扇形に施して完成的な「晴(ハレ)の扇面画」とすると、抱一のそれは、いかにも老練な妙手の冴えを簡略な筆遣いに託した、扇骨もない、即興的な「褻(ケ)の扇面画」ということになろう。
 さらに、鶯蒲の「波に鷺図扇」の「波」は、次のアドレスの、「光琳→抱一→其一」の、それぞれの「波」(「波濤図」)などが念頭にあることはいうまでもない。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-10-15

(再掲)

尾形光琳筆「波濤図屏風」(二曲一隻 一四六・六×一六五・四cm メトロポリタン美術館蔵)
【荒海の波濤を描く。波濤の形状や、波濤をかたどる二本の墨線の表現は、宗達風の「雲龍図屏風」(フーリア美術館蔵)に学んだものである。宗達作品は六曲一双屏風で、波が外へゆったりと広がり出るように表されるが、光琳は二曲一隻屏風に変更し、画面の中心へと波が引き込まれるような求心的な構図としている。「法橋光琳」の署名は、宝永二年(一七〇五)の「四季草花図巻」に近く、印章も同様に朱文円印「道崇」が押されており、江戸滞在時の制作とされる。意思をもって動くような波の表現には、光琳が江戸で勉強した雪村作品の影響も指摘される。退色のために重たく沈鬱な印象を受けるが、本来は金地に群青が映え、うねり立つ波を豪華に表した作品であったと思われる。 】(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「作品解説(宮崎もも稿)」)

(再掲)

酒井抱一筆「波図屏風」(二曲一隻・MIHO MUSEUM)
【 光琳の「波図屏風」を見て感銘を受けた抱一だが、本図で絹地に深い色あいが闇の海を切り取ったかのようで、光琳画の趣を彷彿とさせる。しぶきなどの簡単な描写にも、巧みな筆致が表れ、落款からは、文政後期、晩年の作とみられる。表の緑と裏面は銀地とし、抱一の弟子池田孤邨が千鳥の群れなす図を描いて華やかな風炉先屏風とした。八百善伝来。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

(再掲)


鈴木其一筆「松に波濤図屏風」(二曲一隻 紙本墨画 一六八・〇×一九・五㎝ 個人蔵)
【 近年関西で発見された其一には珍しい水墨画の大作である。紙は焼けが強く全面に淡褐色に変色しているものの、墨は当初の潤いを保つかのようであり、光が当たると鈍い輝きを放つ。画面の左右のそれぞれの端に丸い引き手跡が残っているため、もとは襖であったと思われる。向かって右側の画面右上、松の生える岩礁に隠れるように、「噲々其一」の署名と「祝琳斎」(朱文大円印)が捺される。書体は「三十六歌仙・檜図屏風」(作品41)に近しく、「噲」のうち第六画以降が崩れて「専」の草書のように、「其」が「サ」と「人」を足したように見える。天保六年(一八三五)という作品41の箱書に従うなら、本作もまた同時期の制作と考えられる。
画面右上から緩やかな対角線上に、松の生える岩礁、海中に横たわる巨岩と小岩が、滲みを効かせた濃墨によって描かれる。もっとも本作の主題は、これらのモチーフの間を縫うように流れるダイナミックな波の動きそれ自体にあるだろう。複雑かつ明晰な水流表現は、其一より一世代前に京都で活躍した円山応挙によって創始された大画面の波濤図に近しい。「噲々」落款時代の壮年における積極的な応挙学習の一端を物語る貴重な作例である。 】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説45(久保佐知恵稿)」)

その七 「扇面貼交屏風」(抱一筆)

扇面貼交屏風.jpg

酒井抱一筆「扇面貼交屏風」 扇面紙本着色 六曲一双(上=左隻 下=右隻)
各一五九・五×三三二・〇㎝ → A図

抱一・扇面屏風拡大.jpg

同上部分拡大図(上=左隻の第五扇)
上から「梔子図」「柿図」「水墨山水図」「双亀図」 → B図

【 金地左右両双屏風に扇面三十五面(右隻十八面、左隻十七面)を対照的に貼りつけてあるが、恐らく後代になって左右に散らして貼交ぜにしたものであろう。本来から屏風仕立てであったならば、左右双の片隅に落款と印章を捺すのが普通であるが、扇面各画面にだけ落款印章がそれぞれ捺してあるので、はじめから屏風仕立てなかったか、後に改装されたものであるという解釈が成立つ。
 またこの扇面画は一度も扇子として用いなかったと見えて、扇骨の入ったあとが認められず、注文によって多くを描き、注文主が好みによって散らしたもので、抱一自身はこの散らし方に参加していないようである。
 ここでは、右隻右上部からの扇面画から題名を記せば、桜に木戸図(勿来関図?)、紅葉に小禽図、鯰図、白梅図、竹林に田舎屋図、黒揚羽・紋白蝶図、紅立葵図、水仙図、石蕗図、菜の花図、富士図、月夜に砧図、紫式部(?)図、石燈籠に鹿図、野薔薇図、枇杷図、曲水に酒盃図、白兎図。左隻右上から蕨に蒲公英・菫図、水流に鷭図、雄鹿立つ図、白椿図、烏瓜図、小松図、夕顔図、未央(ビヨウ)柳図、陶淵明観菊図、菖蒲に蛤図、河骨に莞(フトイ)図、梔子図、柿図、水墨山水図、双亀図、雪中富士図、譲葉(ユズリハ)に羽根図である。
 四季の草花から行事、風習など純日本的な文学ものや陶淵明のような漢人物などにまで至り、画題は多岐にわたっている。抱一は扇面画をよく描いたらしく、東京国立博物館に六十面、大本教本部蔵に三十面、個人蔵俳画扇面貼交屏風に三十六面(これらは使用した扇面を貼付けたもの)等、まだまだ多く見ているので、その膨大な数に驚くほどである。とにかく各種の画題をこなし、そのレパートリーの広さを物語るものである。
 本屏風絵の全図や拡大した図を見てもわかるように洒脱した構図法とその色彩感にあふれ、いかにも江戸人の粋な気分がここに繰りひろげられている。
 各種には落款と印章をほどこしているが、落款はすべて「抱一筆」とある。但し印章は五種にのぼる。以下表にすれば
「文詮」 朱文瓢印 (右隻)十 (左隻)四 (合計)十四
「文詮」 朱文円印 (同) 四 (同) 三 (同)  七
「鶯村」 朱文壺印 (同) 三 (同) 二 (同)  五
「抱一」朱文重郭円印(同) 〇 (同) 二 (同)  二
「抱一」 朱文円印 (同) 一 (同) 六 (同)  七
となるが、この屏風に貼られた扇面画はほとんど同時期に一気に描かれたであろうと思われるし、また石蕗図、白椿図、未央(ビヨウ)柳図に捺されている朱文壺印「鶯村」の自号は「雨華庵」と同様、下根岸大塚の新築の家に名付けたとき、つまり文化十四年(一八一七)十二月以降であるから、文化中期以後の作となる。はっきりした制作年代は不明であるが、最も油の乗った折の作であろう。 】
『抱一派花鳥画譜三(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)

 「酒井抱一と江戸琳派関係年表」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収)の文化六年(一八〇九)の十二月の項に、「下根岸大塚村に転居(句藻/御一代)、以後定住し、鶯の里にちなみ『鶯邨(村)』を用いるようになる」とあり、上記の解説中の「文化十四年(一八一七)十二月以降」は、「文化六年(一八〇九)十二月以降」の方が妥当であろう。
 しかし、『鶯邨画譜』を刊行したのは、文化十四年(一八一七)二月、そして、その庵居(下根岸大塚村)に「雨華庵」の額を掲げ、以来「雨華」の号を多用するようになったのは、「文化十四年(一八一七)十月十一日以降」のことで、上記の解説中の、「朱文壺印『鶯村』の自号は『雨華庵』と同様、下根岸大塚の新築の家に名付けたとき、つまり文化十四年(一八一七)十二月以降であるから、文化中期以後の作となる。はっきりした制作年代は不明であるが、最も油の乗った折の作であろう」は、『鶯邨画譜』の刊行に関連して、その指摘は首肯されるものであろう。
 その首肯する理由の一つとして、上記の「双亀図」が、『鶯邨画譜』の最後を飾る「双亀図」そのものということなのである。そして、この『鶯邨画譜』が刊行されたのは、その年の二月、その六月(十七日)に、「小鸞女史(御付女中・春篠)剃髪し、妙華尼と名乗る(御一代)」と共に、その二十五日に、抱一の愛弟子(酒井家付人)鈴木蠣潭が二十六歳の若さで急逝し、その後継者が其一(二十二歳、蠣潭の姉と結婚)なのである。
 この「双亀図」は、その年の様々なことを暗示しているように思われる。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/archive/c2306169671-1

(再掲)

亀図.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「亀図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

その八 「扇面雑画(二十四)・柿図」(抱一筆)

扇面・柿図.jpg

酒井抱一筆「扇面雑画(二十四)・柿図」(「扇面雑画(六十面)の一面」)
紙本着色・墨画 三六・五×六三・八㎝(各面) 東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0052871

【(前略)六十面の扇面画中、特に優れているのは柿図と白梅図であるが、扇面という空間の実に巧みなとらえ方と、彩色の配り方はまことに抱一の鋭利な感覚の卓越したことを知る。しかもこれらの扇面画はほとんどが簡略な図柄で占められ、複雑なものはない。いかにも江戸人好みの図柄に徹していることだ。ただ妙に粋振ることはなく、淡々としていてさらりと描き上げている。重苦しさとか、けばけばしさが微塵もない。「山椒は小つぶでもびりっと辛い」といった諺が抱一の扇面画に符合した品評ではなかろうか。 】
(『抱一派花鳥画譜四(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)

 上記解説中の「白梅図」については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-08-15

 そして、この「柿図」については、下記のアドレスの「柿図」に連なっている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-08-27

酒井抱一筆「扇面貼交屏風」 扇面紙本着色 六曲一双(上=左隻 下=右隻)
同上部分拡大図(上=左隻の第五扇)上から「梔子図」「柿図」「水墨山水図」「双亀図」 

 さらに、文化十三年(一八一六)、光琳百回忌を修した翌年(抱一、五十六歳)の秋に制作した「柿図屏風」(メトロポリタン美術館蔵)に連なっている。下記アドレスのものを再掲して置きたい。

(再掲)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-07-03

柿図屏風.jpg

酒井抱一筆「柿図屏風」二曲一隻 紙本着色 ニューヨーク メトロポリタン美術館蔵
一四五・一×一四六・〇cm 落款「丙子暮秋 抱一暉真」 印章「文詮」朱方印
文化十三年(一八一六)作
【 (前略) 324図(注・上記の「柿図屏風)は、そうした抱一の柿図を代表する一点。左下から右上へ対角線に沿って枝を伸ばした柿の木を描く。葉もすでに落ち、赤い実も五つばかりになった、秋の暮れのもの寂びた景であるが、どこか俳味が感じられるのは、抱一ならではの画趣といえよう。落款より文化十三年(一八一六)、彼の五十六歳の作と知れる。(後略)    】(『琳派二・花鳥二(紫紅社刊)』所収「作品解説(榊原悟稿)」)

 さらに、次の「作品解説」(中村渓男稿)も掲載して置きたい。

【 秋も深まり葉を落した柿の樹が左側から立ち、枝には五個の真赤に熟した実をつけている。左下には僅かに土坡を斜めにのぞかせ、そこに穂先も乱れ、風に葉を鳴らせる枯芒とおおばこの葉と小さな花が淋しく描かれている。
この図は抱一には珍しく、金箔や銀箔地でもなく、ただ無地の紙に楚々として、幾分うす墨を僅かにはいているようである。これは淋しげ、また荒涼とした冬枯れの感じをあらわすために、故意に冷たさをあらわすための考えから出たものであろう。いつもの抱一らしからぬ静寂で、寂寥感を感じさせるように作為したものである。
しかし柿の葉、柿の実には目のさめるような彩色を用い、この一点に視るものの眼を向けさせようとしたことは、やはり色彩画家抱一の鋭い感覚のあらわれである。すべての他の部分は打ちひしがれたような表現をとっていることが、一段とその効果をあげていることに成功している。
晩秋の清浄な気分と静寂さが漂い、季節に鋭敏な抱一の感情と軽妙な筆技があいまってこのような一画境を生んだ。これこそ抱一が見せた明らかに江戸琳派の特色であり、この方向へ進む一つの指針としてこの作品を解釈することができる。しかもこの作品の落款の前に「丙子暮秋」という制作年紀があり、これは文化十三年(一八一六)、彼五十六歳の作であることも貴重である。つまり彼の作風の変遷上、この境にまで進展していたことを物語り、光琳百回忌を行った以後一年足らずで、すでにその域にまで達していたことがわかる。落款は「抱一暉真」、印は「文詮」朱文円印である。  】
(『抱一派花鳥画譜三(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)

その九 「扇面雑画(六)・蕨と蒲公英図」(抱一筆)

扇面雑画・蕨蒲公英.jpg

酒井抱一筆「扇面雑画(六)・蕨と蒲公英図」(「扇面雑画(六十面)の一面」)
紙本着色・墨画 三六・五×六三・八㎝(各面) 東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0093917

 文化十三年(一八一六)、光琳百回忌を修した翌年(抱一、五十六歳)の秋に制作した「柿図屏風」(メトロポリタン美術館蔵・二曲一隻)に続き、その冬に「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵・六曲一双)が制作される。
 その右隻(第一扇~第三扇)に、「春草のさまざま、蕨や菫や蒲公英、土筆、桜草、蓮華層などをちりばめ、雌雄の雲雀が上下に呼応する」が描かれ、そこに、上記の「蕨と蒲公英」が登場する。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-06-18

 そして、それは、文化十五年(改元して文政元年=一八一八、抱一、五十八歳、其一、二十三歳、鶯蒲、十一歳)春の「四季花鳥図巻」(東京国立博物館蔵)の冒頭にも登場して来る。しかし、その前年(文化十四年)六月に、抱一の片腕であった鈴木蠣潭が没している。
 この蠣潭が没し、庵居に「雨華庵」の額を掲げた年が、抱一の大きな節目の年で、その前年に制作された「四季花鳥図屏風」(東京国立博物館蔵)は、「抱一・蠣潭時代」の最後の年で、蠣潭が没して一年後の「四季花鳥図巻」(陽明文庫蔵)は、「抱一・其一時代」の幕開けの年ということになる。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-05-12

(再掲)

花鳥巻春一.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(一)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035812
【酒井抱一 四季花鳥図巻 二巻 文化十五年(一八一八) 東京国立博物館
「春夏の花鳥」「あきふゆのはなとり」の題箋に記され、二巻にわたり、四季の花鳥に描き連ねた華麗な図巻。琳派風の平面的な草花から極めて写実的に描かれる植物まで多様な表現を試みる。横長に巻き広げる巻物の特性を利用して、季節の移ろいを流れるように展開し、蔓や細かい枝を効果的に配す。燕や蝶、鈴虫など鳥や虫も描き込まれ、以前の琳派にはない新しい画風への取り組みが顕著に示されている。
絹本著色:二巻:上巻三一・二×七一二・五:下巻三一・二×七〇九・三: 文化十五年(一八一八): 東京国立博物館 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説(一五六)(岡野智子稿)」)
上記の図は、右から「福寿草・すぎな(つくし)・薺・桜草・蕨・菫・蒲公英・木瓜」(『日本の美術№186酒井抱一(千澤梯治編)』)のようである。

 ここに、次の「作品解説」(中村渓男稿)も併記して置きたい。

【 現存する抱一の画巻中、最も精彩があり、最も長尺の美しい四季の花木、草花を春夏秋冬の順を追って横長に描いた図巻はまず他にないと断言できる。
よく琳派のこの種の草花図巻には草花のみであるのが普通であるが、この二巻は鳥類や虫類までが描きこまれていて、はなはだ画巻としての体裁が整えられているといえよう。それに各草花との連なりが、まことに自然に展開されて、何の不自然さも感じさせないのがその特色で、抱一作品中でも屈指の傑作の一つと数えられる。
 また各草花は実に写生的に描かれていて、その実体をよく知るに充分なほどである。さらに色彩的に濃厚であるのは、この琳派の特徴とはいえ、その流れの中にあって、実に要所要所に欲しい色彩が配されていて、少しも騒がしさを感じさせない。しかも大変装飾効果をあげている技能は、まさにこの画巻のために練に練った抱一の才覚のあらわれという以外何物があろうか。
 また軽妙な筆捌きによる抑揚のある描線、枝や蔓の先、葉先きの鋭いばかりに尖った筆のきかしどころ、或いは花弁にみる特徴、葉脈や花蕚にみせた小気味よいほどの筆の冴え、これらは抱一ならではの筆触の見事さを遺憾なく発揮されていて、まことに心憎い出来栄えではなかろうか。この画巻は他の抱一画のすべてを網羅した観があり、抱一画の缶詰のようである。
 しかも全巻を通じて、緩急のリズムを持たせる流れやきかしどころに、目のさめるような鮮やかな配色には、その根底に抱一の文学的素養がにじみ出ている。それは彼が俳諧の中でも其角派の俳人であった感覚が生かされているからであろう。それに彼自身が育った酒井家という家柄から来る品格の高さによるものと思われる。
 また下巻々末に年紀を伴った落款が書かれている。つまり「文化戌寅晩春、抱一暉真写之」とあって、文化十五年(一八一八)は四月二十二日に改元されて、文化元年となるが、江戸の膝元でまだ文化十五年の改元以前の年号を書しているから、恐らくその年の二月末頃描いたものと考えられる。彼の五十八歳の作ということになり、よほど抱一芸術を理解してくれた人からの依頼であろう。またその依頼主が絵手本として練習するための豪華な抱一画の典型を求めたものに違いない。晩年ながらその精髄を示した画境を物語る作品ということができよう。

(図中動植物名)
(上巻)福寿草 すぎな(土筆) なずな 紅白桜草 蕨 菫 蒲公英 木瓜 いたどり 母子草 雉(きじ) そら豆の花 蜆蝶(しじみちょう) 大根の花 あぶらな(菜の花) 紋白蝶(もんしろちょう) 枝垂桜 燕(つばめ) 連翹 白紫藤 足長蜂(あしながばち)
蜂の巣 こぶし 姫百合 大麦 罌粟 紫陽花 草紫陽花 河原松葉 鉄線蓮 芍薬 黒揚羽(くろうげは) 河骨 鷭(ばん) 燕子花 沢瀉 流水
(下巻)紅白萩 鈴虫(すずむし) 青鵐(あおじ) 満月 がんぴ 朝顔 綿とその花 蓼 木槿 鶏頭 槍鶏頭 葡萄 水引草 紅芙蓉 菊戴(きくいただき) かまきり 白菊 苅萱 公孫樹の葉 楓 嫁菜(野菊) 赤啄木鳥(あかげら) いしみかわ 櫨の葉 枯女郎花 蟻(あり) 榛 青木 蝉の抜け殻 あすなろ 蔦 かしわ きびたき 雪に枯尾花(芒) 雪に山帰来 雪中白梅 鶯(うぐいす) 菰被り水仙 

(落款・印章)
(上巻) 「抱一暉真」 「抱一」朱文重廓角丸方印
(下巻) 「文化戌寅晩春 抱一暉真写之」
     「雨華」朱文内鼎外方印 「文詮」朱文瓢印      】
(『抱一派花鳥画譜一(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)

その十 「扇面雑画(五十八)・五徳と羽箒図」(抱一筆)

扇面雑画・五徳・羽箒図.jpg

酒井抱一筆「扇面雑画(五十八)・五徳と羽箒図」(「扇面雑画(六十面)の一面」)
紙本着色・墨画 三六・五×六三・八㎝(各面) 東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0004069

 前回に続いて、「文化十五年(改元して文政元年=一八一八、抱一、五十八歳、其一、二十三歳、鶯蒲、十一歳)春の『四季花鳥図巻』」(東京国立博物館蔵)」、その、文政元年(一八一八)四月に、「松平不昧没(六十八歳)、天徳寺の墓前に筆塚建立、塙保己一作の碑文を抱一が書す」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「酒井抱一と江戸琳派関係年表)」とある。
 抱一の兄、宗雅の茶道の師は出雲松江城主松平不昧(ふまい)で、「一徳庵宗雅」を号する石州流不昧派の大茶人の一人である。
宗雅と不昧との出会いは、ともに日光山諸社堂修理に従事した安永八年(一七七九、不昧=二十九歳、宗雅=二十五歳、抱一=十九歳)のことで、以来、江戸在府の折には屋敷を往来するなどして交遊を深め、天明六年(一七八六)、江戸大手上屋敷に新たな茶室「逾好(ゆこう)庵」を設け、その茶会記録「逾好日記」を今に遺している。
 抱一は、茶道では不昧門というよりは、兄の宗雅門で、この宗雅に連なる人脈(柳沢信鴻=米翁、柳沢保光=米翁の世子、松平雪川=不昧の弟)の俳諧にウエートを置いている「米翁・雪川」らの俳諧派ということになろう。 
 しかし、不昧と抱一との関係も、不昧の松平家(不昧の世子=月潭)と宗雅の酒井家(宗雅の世子・忠道の娘)とは姻族になるなど親しい関係が続いていたのであろう。
 上記の「五徳と羽箒図」は、茶道関係の画題で、抱一の没する一年前(文政十年=一八二七、抱一、六十七歳)と没年(文政十一年=一八二八、抱一、六十八歳)時に、水戸候徳川斉修の茶席に招かれたことが年表などに記されている。その文政十年(一八二七)の「御道具御会席附」を抱一の「軽挙館句藻」から抜粋して置こう。

【 御道具御会席附 
※=羽箒 ※※=「菊紅葉」=下記(参考) ※※※=宗雅・抱一の母方の松平家
初坐
一 掛物   ゆらのと 定家卿筆
一 窯    広口天明 蓋漢鏡紋あり
一 香合   回也 庸軒作 画土佐光起
一 三ツ羽※ 大鳥
一 炭斗   人形台
一 水次   方口
後坐
一 掛物   菊紅葉※※ 等覚院抱一筆 讃清人藩世恩石韞玉
一 花入  船 砂張(船形の見取図あり) 船大サ二尺五寸斗水一盃入紅葉
      絵の影をうつさんとの思召也
一 水指  九牛(カ) 古染付
一 茶入  菊桐大棗 利休在判 袋利休漢唐
一 茶   銘花の白 上林三入詰
一 茶碗  県井戸 書付松平左近将監※※※よし
一 茶杓  氏郷作  
一 蓋置  引切
一 酒   曲物
一 合図銅鑼 銘谷の戸
一 薄茶器 島物
一 茶杓  春冬銘 探幽斎共印あり
一 茶碗  平戸
以上
会席
向     きんこ 鰹ふしあへ
汁     白みそ しのむき大根 鴨

平     なゝもくみうは 生姜汁おとし
引もの   みそ漬鯛
口取    川しりたゝき
吸物   かふらほね
とり肴  ゆりね しそのみ むきゑひ

香せん
香もの  なつけ
菓子   大徳寺きんとん
後くはし 瓢箪せんべい 紅落雁 早わらひ
以上               】
(『相見香雨集一(日本書誌学大系四十五)』所収「抱一上人年譜稿」)

羽箒については、下記のアドレスなどが詳しい。

http://www.chazumi-club.com/03/index03.html

 五徳については、下記のアドレスなどが詳しい。

https://eishodo.net/chadogu/gotokubasis/

(参考)

抱一・扇面紅葉図.jpg

酒井抱一筆「紅葉図扇面」紙本金砂子地著色 一幅 三六・五×五三・五㎝
【 団扇図と同様、画面を斜めに幹が横切り、左右から色づいた楓の葉が垂れる。朱、黄口の朱、橙とその色の変化は友禅文様のようである。バックに厚く金砂子を蒔き、その装飾効果を高めている。幹には楓の樹肌の斑模様をたらし込みにして描き、そこに白線で縁取った苔をつけてアクセントをつける。この際立った明快な彩色と黒ずんた幹や枝できりっと締めるあたり、色彩画家抱一の面目躍如としたあとがうかがわれる。この図は他にやはりこのように濃彩で綴られた幾つかの扇面画組物があったであろう。その中から一枚別れたものと考えられ、しかも未使用の扇面であり、同組物中他の扇面の華麗さも想像されて惜しまれる。
落款は「抱一筆」、朱文瓢印「文詮」がある。  】
(『抱一派花鳥画譜三(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)

その十一 「扇面雑画(五十三)・ごまめと水引図」(抱一筆)

ごまめと水引.jpg

酒井抱一筆「扇面雑画(五十三)・ごまめと水引図」(「扇面雑画(六十面)の一面」)
紙本着色・墨画 三六・五×六三・八㎝(各面) 東京国立博物館蔵

https://image.tnm.jp/image/1024/C0004068.jpg

 これは「赤と白」の「水引」で、祝い事全般に用いられるもの。そして「ごまめ(田作り)」は、「片口いわしの甘露煮」(お節料理の一つ)で、「子孫繁栄・健康・豊作」の縁起ものとされている。ここに、鏡餅を添えると正月の飾り物となる。
 ずばり、抱一の一番弟子の鈴木其一筆「鏡餅と鼠」の豪勢な扇面画がある。其一もまた抱一に劣らず扇面画の名手であった。この「鼠」は、「子」の年の意味が込められていて、落款の「菁々」と合わせ、嘉永五年(一八五二)の制作のものではないかとする見方もあるが、その年、其一、五十七歳の時である。
 この時には、雨華庵一世・抱一も同二世・鶯蒲も亡くなっていて、雨華庵は三世・鶯一が継承している。

鏡餅と鼠.jpg

鈴木其一筆「鏡餅と鼠図」一面 一八・二×四九・八㎝ 鴻池合資会社資料室蔵
【 鏡餅によじ登る鼠。鏡餅は正月にふさわしいモチーフだが、鼠が描かれることから、菁々落款が用いられた時期の子年、嘉永五年(一八五二)が制作年の可能性も考えられる。 】
(『鴻池コレクション扇絵名品展(図録)』所収「作品解説(赤木美智稿)」)

孤邨・熨斗と水引.jpg

池田孤邨筆「熨斗と水引図」一面 一九・三×五〇・八㎝ 鴻池合資会社資料室蔵
【 熨斗は、もともとアワビの肉を薄くはいで引き伸ばし乾燥した「のしあわび」のことで、紙にはさみ祝儀の進物に添えられた。延寿を象徴する吉祥文様として好まれる。扇の孤に添うように描かれる赤白の水引は、祝い事に用いられるもの。二つの祝賀のモチーフを淡彩で描き、落ち着いた画面としている。署名「孤邨写」、印章「蓮□」(朱文方印)・「参信」(朱文長方印)  】
(『鴻池コレクション扇絵名品展(図録)』所収「作品解説(赤木美智稿)」)

 池田孤邨もまた其一に次ぐ抱一門の俊秀ということになる。琳派の継承者を自任する孤邨は、晩年に、抱一、光琳の縮図を集めた『抱一上人真蹟鏡』(上下、慶応元年/一八六五刊)、『光琳新撰百図』(上下、慶応二年/一八六六刊)を刊行する。この「熨斗と水引図」は、抱一の「ごまめと水引図」を念頭に置いていることは一目瞭然である。

その十二 「紅葉図」(池田孤邨筆)

紅葉図・表.jpg

池田孤邨筆「紅葉図(表)」一本 一七・九×五〇・五 太田記念美術館蔵

孤邨・紅葉図・裏.jpg

池田孤邨筆「紅葉図(裏)」一本 一七・九×五〇・五 太田記念美術館蔵
【 画面を埋め尽くす赤く染まった紅葉が鮮烈な印象を与える。対する裏面は数枚を散らすのみで、表裏で対比的な構成をとる。多くが異なる形で、多様な品種が描かれていることがわかる。なお、楓は染井の植木屋・伊藤伊兵衛の五代目政武が『古歌僊楓』(宝永七年=一七一〇に稿成る、三十六種記載)をはじめ、和歌とあわせて品種を解説する書を発行し、格調高い植物として江戸の人々に紹介された。孤邨が様々な種の楓を描き得たのは、江戸時代の園芸文化のなかで紅葉が注目されていた背景が考えられる。裏面に署名「孤村三信繪」、印章「(印文不明)」(墨文重郭方印) 】
(『鴻池コレクション扇絵名品展(図録)』所収「作品解説(赤木美智稿)」)

 これは一本の扇子の「表」と「裏」の孤邨の「紅葉図」である。この「表」と「裏」との画面形式の代表的なものに「屏風画」があるが、大小の差はあるが、「扇子」と「屏風」は極めて類似の画面形式ということになる。
 しかし、「屏風」が建物の室内の可動性のある障壁(間仕切り)としての用途に比すると、「扇子」は「団扇」と同じく「人力で風を起こす日常用具」として、「屏風」よりも、随時、手元に置いて使用する身近なものということになろう。
 そして、「団扇」と「扇子」との違いは、「屏風」と同じく、「折り畳む」(開く・閉じる)という機能を備えている。この扇子の種類は、以下のアドレスのものを掲載して置きたい。

http://www.j-nis.com/kanaya/sensu/sen-shu.html

【 扇子には大別して、薄板を綴ったもの、紙を貼ったもの、絹等布地を貼ったものに分けられます。
 薄板を綴ったものは白檀扇(びゃくだんせん(涼を取る・装飾用))と桧扇(ひおうぎ(儀式・装飾用))。
 紙を貼ったものは、夏扇(なつせん(涼を取る・装飾用))、茶扇(ちゃせん(茶道用))、舞扇(まいおうぎ(舞踊用))、祝儀扇(しゅうぎせん(婚礼用))、豆扇(まめせん(人形・装飾用))、能扇(のうおうぎ(能・狂言用))、有職扇(ゆうそくせん(儀式用))、香扇(こうおうぎ(香道用))など。
 絹等布地を貼ったものは、絹扇(きぬせん(涼を取る・装飾用))となります。 】

 絵扇は、一般的には、夏扇の装飾用の「飾り扇子」(扇子立てに立て掛ける)で、用途的には「贈答用」に使われる場合が多いものであろう。
 上記の孤邨の「紅葉図」扇子を、この「飾り扇子」として、「屏風」のように、その「表」と「裏」とを区別して飾るという使い分けは扇子の場合は一般的にしないであろう。これは、やはり、手に取って、「裏」面の絵図と「裏」面の絵図を見比べるという、扇子の特性を十分に考慮して描かれたものなのであろう。
 上記解説中の『古歌僊楓』については、下記アドレスで閲覧することが出来る。

http://opac.ll.chiba-u.jp/da/engeisho/2622/?lang=0&mode=&opkey=&idx=

【 池田孤村(孤邨)(いけだこそん)  
没年:慶応2.2.13(1866.3.29)
生年:享和1(1801)
江戸後期の画家。名は三信、字は周二、号は蓮菴、煉心窟、旧松道人など。越後(新潟県)に生まれ、若いころに江戸に出て酒井抱一の弟子となる。画風は琳派にとどまらず広範なものを学んで変化に富む。元治1(1864)年に抱一の『光琳百図』にならって『光琳新撰百図』を、慶応1(1865)年に抱一を顕彰した『抱一上人真蹟鏡』を刊行する。琳派の伝統をやや繊弱に受け継いだマンネリ化した作品もあるが、代表作「檜林図屏風」(バークコレクション)には近代日本画を予告する新鮮な内容がみられる。<参考文献>村重寧・小林忠編『琳派』
(仲町啓子)   】
( 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について )

(再掲)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-09-02

抱一・扇面紅葉図.jpg

酒井抱一筆「紅葉図扇面」紙本金砂子地著色 一幅 三六・五×五三・五㎝
【 団扇図と同様、画面を斜めに幹が横切り、左右から色づいた楓の葉が垂れる。朱、黄口の朱、橙とその色の変化は友禅文様のようである。バックに厚く金砂子を蒔き、その装飾効果を高めている。幹には楓の樹肌の斑模様をたらし込みにして描き、そこに白線で縁取った苔をつけてアクセントをつける。この際立った明快な彩色と黒ずんた幹や枝できりっと締めるあたり、色彩画家抱一の面目躍如としたあとがうかがわれる。この図は他にやはりこのように濃彩で綴られた幾つかの扇面画組物があったであろう。その中から一枚別れたものと考えられ、しかも未使用の扇面であり、同組物中他の扇面の華麗さも想像されて惜しまれる。
落款は「抱一筆」、朱文瓢印「文詮」がある。  】
(『抱一派花鳥画譜三(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)

 抱一の没する一年前(文政十年=一八二七、抱一、六十七歳)に、水戸候徳川斉修の茶席に招かれた時の、抱一の「(後坐) 掛物(菊紅葉・等覚院抱一筆・讃清人藩世恩石韞玉)」がどういうものかは定かではないが、上記の「紅葉図扇面」の楓の紅葉の下に菊(白・黄など)が描かれたものと思われ、そして、抱一の、これらの「紅葉」図の多くも、やはり、『古歌僊楓』などの、当時の園芸文化の流行が、その背景にあるのかも知れない。

その十三 「吹寄せ図」(抱一筆)

吹寄せ図.jpg

酒井抱一筆「扇面雑画(二十五)・吹寄せ図」(「扇面雑画(六十面)の一面」)
紙本着色・墨画 三六・五×六三・八㎝(各面) 東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0052872

 「吹寄せ」というのは、「秋風で吹き寄せられた落ち葉」を意味する。そこから派生して、茶の湯などで使われる紅葉の葉や木の実などの愛らしい型で抜いた和菓子などの名称にもなっている。

 西吹けば東にたまる落葉哉  蕪村『自筆句帖』
 北吹けば南あはれむ落葉哉  蕪村『落日庵句集』

紅葉図.jpg

酒井抱一筆「紅葉図」一幅 紙本着色 四六・四×二八・七㎝
【 まことにいとも簡単につけ立て風に描いた紅葉した蔦の葉が四、五葉、真っ白い絵紙の上にかたまって散っている。その図上斜めに、「めぐる日にててらしかへける蔦もみぢ」と自作の俳句が書かれている。こうなると三行にわたった書もまさに絵になっている。これは抱一の俳画であるが、朱赤の葉だけで、しかも軽い筆致で描き上げている。わずかに葉脈に金泥を施しているあたりは、憎たらしいばかりではなかろうか。遊びのように思えるが、この彩りの強弱などは一筋縄でない画技の優れたものを感じる。まことに軽妙という字がぴったりするもので、非の打ちどころのない出来栄えである。この感覚こそ江戸風ということができようし、瀟洒だけでなく色気があって、散った葉への感情が溢れている。絵というものの偉大な力というものにも打たれるし、筆者抱一の素晴らしい感覚に驚きもする。これは宗達・光琳になかった一面である。款記は「抱一画に題す」とあり、朱文小瓢印が捺され、晩年の研ぎ澄まされた境地のようである。   】
(『抱一派花鳥画譜五(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)

 めぐる日にててらしかへける蔦もみぢ    抱一

 解説中で紹介されている抱一の句である。この句が上記の画中の右上に三行にわたって書かれている。この句の「めぐる日にて」の字余りの「上五」の「めぐる」は、「紅葉が駆け巡る」と「亡き人の面影が駆け巡る」を兼ねての用例で、この「にて」の「字余り」は、その亡き人の面影を強調してのものと解せよう。そして、「てらしかへける」は「照らし返へける」の「ける」も断定・強調の下五の「蔦紅葉」に係る用例であろう。抱一の句というのは、一見無造作に見えて、その実はかなり趣向を凝らした其角風の洒落風俳諧の世界ということになる。
 それにしても、上記解説中の「遊びのように思えるが、この彩りの強弱などは一筋縄でない画技の優れたものを感じる。まことに軽妙という字がぴったりするもので、非の打ちどころのない出来栄えである。この感覚こそ江戸風ということができようし、瀟洒だけでなく色気があって、散った葉への感情が溢れている。絵というものの偉大な力というものにも打たれるし、筆者抱一の素晴らしい感覚に驚きもする」の、この鑑賞視点は、抱一の「綺麗さび」の世界の一端を物語っている。

その十四「扇面雑画(二十三)・烏瓜図」(抱一筆)

烏瓜図.jpg

酒井抱一筆「扇面雑画(二十三)・烏瓜図」(「扇面雑画(六十面)の一面」)
紙本着色・墨画 三六・五×六三・八㎝(各面) 東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0095260

抱儀・葛花に烏瓜図.jpg

守村抱儀筆「葛花に烏瓜図」 絹本著色 一幅 九五・五×三二・四㎝
東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0027576

【 抱一、其一にもうたがわれるほど似たような構図である。琳派の画家たちが好んで描いた画題であるようだ。しかし烏瓜をからませている図は少ない。しかも蔦と烏瓜の蔓の描線の美はすばらしく、この図に生彩を添える原因でもある。葉の色には明らかな対照を示し、金彩の葉脈に簡略と複雑の表現を用い、花と実も紅白色分けしているのも心憎い。かなり抱一の性格に似た筆者だったようである。守村抱儀の伝は余りはっきりしていないし、抱の一字を用いているところから、かなり近い弟子の存在であったと考えられる。落款に「鷗嶼閑人筆」とあり、「抱儀」朱文角丸方印がある。 】
(『抱一派花鳥画譜一(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)

【 守村抱儀(もりむらほうぎ)
1805-1862 江戸時代後期の豪商、俳人。
文化2年生まれ。鶯卿(おうけい)の兄。江戸浅草蔵前の札差。俳諧(はいかい)を成田蒼虬(そうきゅう)、絵を酒井抱一(ほういつ)、詩文を中村仏庵にまなび、天保二十四詩家のひとりにかぞえられる。小沢何丸の後援者だったが、豪華な生活で家産をかたむけた。文久二年一月十六日死去。五十八歳。名は約。通称は次郎兵衛。別号に鴎嶼など。著作に「うみみぬ旅」など。】  (デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

抱儀・紅梅図.jpg

守村抱儀筆「紅梅図」 一六・五×四三・五㎝(原「扇面画」・個人蔵)→扇子仕立て(上記「日本航空・記念品」、以下の解説は「原『扇面画(個人蔵)」のもの)
【 抱儀
江戸時代琳派の最後の人とも言うべき画家に、守村抱儀がいる。抱儀は、名は約、号を経解・鴎嶼・松篁・交翠山房・真実庵などと称した幕末の画家で、文久二年(一八六二、)に没した。書画詩俳諧をよくし、文人画的な気質で光琳風を学んだと思われる。紅梅図は、数少ない抱儀の出色の遺品である。画面中央から左右に枝を張る梅を、濃墨と淡墨で描き分け、こぼれんばかりの大きな紅い花をつけている。梅花は清々しい大気を吸い、みずみずしく輝いている。筆勢に力があり、墨も紅も美しい。このような扇絵を見ていると、形式化し衰弱して行った琳派の江戸末期にも、なお扇絵には美の余光が残っていたことを認め得る。  】
(『扇絵名品集(水尾比呂志著)』別冊「解説(水尾比呂志稿)」)

 抱儀は、抱一在世中の末弟に位置する抱一門の一人であろう。『墨林奇勝』「普陀落山房詩集」ほか多数の著作があり、明治四年(一七八一)に遺族より『抱儀句集』も刊行されている。また、先代より引き継いだ蔵書家としても知られているが、晩年は斜陽となり、火災などもあり、駒形堂のほとりささやかな「真実庵」を結んでいたという。
 抱一の「綺麗さび」の世界は、この抱儀や、同世代の、酒井鶯蒲・鶯一、鈴木守一そして田中抱二らに引き継がれていることを、抱一の扇面画などを介すると一段とはっきりとしてくる。

その十五「扇面雑画(三十九)・稲穂に雀図」(抱一筆)

稲穂に雀図.jpg

酒井抱一筆「扇面雑画(三十九稲穂に雀図)」(「扇面雑画(六十面)の一面」)
紙本着色・墨画 三六・五×六三・八㎝(各面) 東京国立博物館蔵 → A図

https://image.tnm.jp/image/1024/C0036832.jpg

白梅雪松小禽図.jpg

酒井抱一筆「白梅雪松小禽図」絹本着色 双幅(各)一一七・二cm×四七・五cm、
板橋区立美術館蔵 → B図

http://www.itabashiartmuseum.jp/art-2013/collection/ntb001.html

【左幅では、二羽の雀が何やら楽しそうにおしゃべりをしているようです。その上を粉雪がキラキラと輝くように舞っています。俳諧に慣れ親しんだ抱一ならではの表現です。抱一の作品が文学的であるとされるゆえんでもあり、作者の自然に対する温かなまなざしが感じられます。
 一方、右幅の天高くどこまでも伸びていきそうな梅の枝は、鋭い線で描かれ、左幅の穏やかな情景とは対照的です。
 酒井抱一は、江戸淋派を大成した画家として知られていますが、意外にも尾形光琳の画風との出会いは遅く、抱一が四十歳前後のころであったといわれています。抱一の代表的な作品は、これ以降に集中しています。
 この作品に見られる梅の枝や壺(つぼ)の表現は、「たらし込み」(墨や絵具のにじみの効果をいかす技法のこと)で描かれており、光琳の影響がうかがえます。抱一の描く四季折々の情景は抒情性にあふれ、独特の静寂の世界へと、いざなうかのようです。 】

竹雀図.jpg

酒井抱一筆「竹雀図」(『絵手鑑帖・七十二図・静嘉堂文庫美術館蔵』の五十四図)
紙本墨画淡彩 「抱一筆」(墨書) 「文詮」(朱文内瓢外方印) → C図
【 このような様々な主題・技法の作品を寄せ集めた作品形式のひとつのアイディアとして、『光琳百図(後編)』所載の雑画セット全二十四図をあげておきたい。このセットの形状は画帖であったかは不明ながら、そのなかに「富士山図」「竹雀図」「寒山拾得図」「大黒天図」「梅図」「芙蓉図」などが含まれ、様式は抱一の『絵手鑑』と異なるものの、主題など共通点も多い。もちろん『絵手鑑』は江戸時代の画帖の大きな流れのなかに位置する作品であるが、光琳のこのような作品からも形式や編集の方法を学んでいるのではないかと思われる。 】
(『琳派五・総合(紫紅社刊)』所収「静嘉堂文庫美術館蔵 酒井抱一筆『絵手鑑』について(玉蟲敏子稿)」)

 この解説は、抱一の『絵手鑑』(静嘉堂文庫美術館蔵)の「形式や編集方法」に関してのもので、その一図の「竹雀図」に関するものではない。そして、確かに、『光琳百図(後編・下)』には、下記アドレスのとおり、光琳の「竹雀図」の縮図も収載されている。しかし、上記の「雀」図(A図・B図・C図)は、光琳よりも、応挙・芦雪らの「円山四条派」に近いものであろう。
 なお、上記の論考(玉蟲敏子稿)では、この『絵手鑑』の全図について、次の六点から考察されている。

一 伊藤若冲から学んだもの
二 大和絵から学んだもの
三 谷文晁および中国画から学んだもの
四 宗達・光琳から学んだもの
五 円山四条派から学んだもの
六 俳趣味のものなど

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850495


国立国会図書館デジタルコレクション 『光琳百図 後編 (下)』

光琳「竹雀図」(縮図)

下 三十二、左頁の「左・中段」

その十六 「紅葉図扇面」(抱一筆)

(再掲)
https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-09-05

抱一・扇面紅葉図.jpg

酒井抱一筆「紅葉図扇面」紙本金砂子地著色 一面 三六・五×五三・五㎝ →A図

桜楓図屏風・左.jpg

酒井抱一筆「桜・楓図屏風」の左隻(「楓図屏風」)デンバー美術館蔵 → B図
六曲一双 紙本金地著色 (各隻)一七五・三×三四・〇㎝
落款(左隻)「抱一筆」 印章(各隻)「文詮」朱文円印 「抱弌」朱文方印

桜楓図屏風・右.jpg

酒井抱一筆「桜・楓図屏風」の右隻(「桜図屏風」)デンバー美術館蔵 → C図
六曲一双 紙本金地著色 (各隻)一七五・三×三四・〇㎝
落款(右隻)「雨庵抱一筆」 印章(各隻)「文詮」朱文円印 「抱弌」朱文方印

【 抱一画には珍しい六曲一双の大画面に、桜と柳(右隻)、および紅葉(左隻)を中心とする、春秋の花卉草木を描いた作品。屏風の下辺に沿って土坡が連なり、その上をそれぞれ春草、秋草が覆って、木々の根元を彩っている。
 桜、柳、紅葉の幹は、濃い墨に緑青をまじえた、強い調子のたらし込みの技法を以て表される。いっぽう、桜の花や蕾、柳の細い葉、土筆、菫、竜胆といった、細部の描写においては、隅々まで神経の行きとどかせた、丁寧な筆づかいをみせる。金箔地を背景に、濃彩で明快な草花を描く琳派の伝統を強く意識しながら、余白を広くとる構図や、草花を描く細やかな筆づかいにも、抱一独特の構成力、描写力が発揮されている。
 「松藤図」屏風(アジア・ソサエティ・ロックフェラー・コレクション)や「四季花鳥図」屏風(陽明文庫・文化十三年)にも見出されるこのような表現を、本図は受け継ぐとみられ、落款の形式や特徴からも、文化年間末から文政前期の作と思われる。
 なお、本図は『酒井抱一画集』(国書刊行会)に載るほか、ブルックリン美術館で一九七五年に開かれた、Japaneese Paintings from the C.D.Center Collection 展カタログの表紙ともなっている。  】
(『琳派一・花鳥一(紫紅社刊)』所収「作品解説(大野智子稿)」)

 上記の「紅葉図扇面」(A図)については、下記のアドレスで二回に亘って触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-09-05
 ↓  ↑
https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-09-02

 それは、偏に、抱一の没する一年前(文政十年=一八二七、抱一、六十七歳)の、「十一月十一日、水戸候徳川斉修の茶席に招かれる。掛物は前年に納めた抱一の《菊紅葉双幅》。その返礼のため。(句藻)」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「酒井抱一と江戸琳派関係年表)の、下記の「掛物※=菊紅葉」が、どんな図柄のものかを想定してのものであった。

【 御道具御会席附 
初坐
一 掛物   ゆらのと 定家卿筆
一 窯    広口天明 蓋漢鏡紋あり
一 香合   回也 庸軒作 画土佐光起
一 三ツ羽  大鳥
一 炭斗   人形台
一 水次   方口
後坐
一 掛物※   菊紅葉 等覚院抱一筆 讃清人藩世恩石韞玉
一 花入  船 砂張(船形の見取図あり) 船大サ二尺五寸斗水一盃入紅葉      絵の影をうつさんとの思召也
(後略)        】

 この、抱一が水戸候徳川斉修に納めた「菊紅葉」はひとまずとして、上記の「紅葉図扇面」(A図)は、流出して以来本邦未公開と思われる(?)、抱一の大作中の大作、「桜・楓図屏風(デンバー美術館蔵)」(B図・C図)の、その左隻(「楓図屏風」)と、非常に親近感のある雰囲気を有している。そして、同時に、水戸候徳川斉修に納めた「菊紅葉」(双幅)も、この左隻(「楓図屏風」)と関係の深いものなのではなかろうかという、そんな予感を誘う雰囲気を醸し出している。
 この抱一の大作(六曲一双)「桜・楓図屏風(デンバー美術館蔵)」(B図・C図)が、本邦未公開(?)ということについては、下記のアドレスの「抱一の屏風絵・襖絵」に因っている。そして、抱一の大作(六曲一双)で、相互に関連しているものと思われるものは、次の三点なのである。

http://houitu.com/houitu1.htm

三部作・四季花鳥図.jpg

「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵) → D図

三部作・青朱楓.jpg

「青楓・朱楓図屏風」(個人蔵) → E図

三部作・桜楓.jpg

「桜・楓図屏風」(デンバー美術館・フレミングコレクション) → B図とC図


 この「四季花鳥図屏風」(D図)ついては、下記のアドレスで、十四回にわたり、その周辺を見てきた。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-06-21
  ↓  ↑
https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-08-06

 次の「青楓・朱楓図屏風」(E図)については、「大琳派展 継承と変奏」(尾形光琳生誕三五〇周年記念、二〇〇八年一〇七日~一一月一六日・東京国立博物館)で、「四季花鳥図屏風」(E図)と同時に展示されていたことなど間接的に触れてきたが、正面からは取り上げてはいない。
 その時の図録(読売新聞社刊)によると、「この屏風の図柄は『光琳百図』に掲載された図と同じで、風神雷神図などと同様に抱一が光琳作品を目にして模写した作品ということになる。全体の色調が其一の『四季花木図屏風』とも通じ、楓の樹幹にはりつく苔のはなはだしさや形態は『夏秋渓流図屏風』でも目にすることができる」(松嶋雅人)と解説されている。
 そして、次の「桜・楓図屏風」(B図とC図)については、『琳派一・花鳥一(紫紅社刊)』で、今までに見落としていたもので、今回、これまでに何回か触れて来た「紅葉図扇面」(A図)の背後にある、抱一の大作中の大作、この「桜・楓図屏風」(B図とC図)に再会したのである。
 そして、この抱一の大作中の大作、そして、これは、抱一の晩年の作とも思われるのだが、この作品は、デンバー美術館所蔵になって以来、里帰り公開はしていないようなのである。
 と同時に、「四季花鳥図屏風」(D図)が、「四季(春・夏・秋・冬)」の花鳥(草花)図とすると、「青楓・朱楓図屏風」(E図)の「青楓(夏)」と「朱楓(秋)」と同じく「『対』の取り合わせ」(対照的な素材をひと組にとりあわせる)の花鳥(草花)図ということになる。
 もとより、この「『対』の取り合わせ」の趣向というのは、抱一の創見的なものではないが、抱一は内在的に、この「『対』の取り合わせ」の趣向というものを、己自身の中に顕著に有していたということが窺える。
 そして「綺麗さび」という世界も、「綺麗」(粋・造形性・「晴=ハレ」)と「さび」(閑寂・文芸性・「褻=ケ」)との、「『対』の取り合わせ」の世界と換言することも出来るのかもしれない。
 こうして見てくると、「四季花鳥図屏風」(D図)と「青楓・朱楓図屏風」(E図)そして「桜・楓図屏風」(B図とC図)とは、抱一の六曲一双の屏風物の三部作として位置づけすることも可能なのかもしれない。

その十七「彼岸桜図(十二ヶ月図扇・二月)」(其一筆)

彼岸桜.jpg

鈴木其一筆「彼岸桜図」(十二ヶ月図扇・二月)」各一九・二×五一・五㎝ 
太田記念美術館蔵 → A図
【 彼岸桜(二月)
彼岸桜は少し寒さがやわらいでくる三月中旬、春の彼岸の頃から他の桜の品種に先がけて咲く、上部から垂れ下がる幾本もの枝には、蕾から開花したものまで無数の花が付く。(赤木美智稿) 】
【 十二ヶ月図扇 十二本
「十二ヶ月図扇」は、季節の草花や年中行事を描いた十二本で一揃の作品、骨の材料が同じですべてに署名「噲々其一」、印章「元長」(朱文方印)がある。「噲々其一」とする名乗りから、制作は天保四~十四年(一八三三~四三)頃と推定される。いずれも扇形の絵の周辺に若干の余白があるが、この余白がデザイン的な効果を考えてのものなのか、下書きから扇へ仕立てる際に生じた祖語であるのかは判然としない。なお、各月の画題は箱に附された付箋に依拠するが、付箋がいつ頃のものかは不明。箱書表には、「鈴木其一筆/□□十二ヶ月扇子 十二本入」、「箱書裏には「此扇子東京朝吹氏嘗什/大正九年四月大村梅軒氏/紹介を以て譲受之」とする墨書がある。蓋裏の墨書から、大正九年(一九二〇)四月に実業家の大村梅軒(白木屋呉服商十代目大村彦太郎)の紹介で、鴻池家が東京の朝吹氏から譲り受けたと推測される。朝吹氏とあることから、三井財閥系の実業家で古美術の蒐集家でもあった朝吹英二の旧蔵品であった可能性が考えられる。なお、英二氏はこの扇の移動に先立つ同七年に他界している。大正期の古美術を介した上流階級の人々の交流、其一作品の受容の一端をうかがうことができ興味深い。 】(『鴻池コレクション扇絵名品展(図録)』)

 ちなみに、この「十二ヶ月図扇」(其一筆)の、十二本の画題は次のとおりである。

【一月 若松福寿草 二月 彼岸桜 三月 曲水 四月 難波薔薇 五月 鍾馗 六月 凌霄顆(のうぜんか) 七月 花扇 八月 月宮殿 九月 菊慈童 十月 桜花帰り咲 十一月 雪中鴉 十二月 追儺式   】(『鴻池コレクション扇絵名品展(図録)』)

 上記の「彼岸桜図」(其一筆)は、その解説にあるとおり「蕾から開花したものまで無数の花が付く」、なかなかに見応えのあるものである。この「彼岸桜」は、「枝垂れ桜・糸桜」の別称でもある。抱一の絵手本の『鶯邨画譜』に「糸桜と短冊図」が収載されている。

糸桜.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「糸桜と短冊図」(「早稲田大学図書館」蔵) → B図

(再掲)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-09-10

 抱一の「糸桜と短冊図」は、その短冊に書かれている「墨子悲絲 そめやすき人の心やいとざくら」の句にウェートがあるようにも思える。

【墨子は白い糸を見て泣いたという。黄にも黒にもどんな色にも染められるが、一旦染まってしまえばずっとその色になってしまう。このことを高誘は、「楊子・墨子はともに、その根本は一つでありながら、後に姿かたちが変わってしまうことを哀れんでいる」という。 】

 抱一の「糸桜」は、まだ「蕾」のままの糸桜である。それに比して、其一の「彼岸桜」は、「蕾から開花したものまでの無数の彼岸桜」である。

桜楓図屏風・右.jpg

酒井抱一筆「桜・楓図屏風」の右隻(「桜図屏風」)デンバー美術館蔵  → C図
六曲一双 紙本金地著色 (各隻)一七五・三×三四・〇㎝
落款(右隻)「雨庵抱一筆」 印章(各隻)「文詮」朱文円印 「抱弌」朱文方印

 これも、前回に続いての、「桜・楓図屏風」(デンバー美術館蔵)の右隻(「桜図屏風」)の桜である。この桜は、「彼岸桜・糸桜・枝垂れ桜」ではない。これは、緑色の新芽とともに、薄紅色で大形の一重(又は二重)の花が開く「大島桜」か「江戸彼岸桜」(「大島桜」と「彼岸桜」の雑種)のようである。
 これを「江戸彼岸桜」(C図)とすると、其一筆「彼岸桜」(A図)と抱一筆「糸桜」(B図)は、抱一・其一の「江戸琳派」に敬意を表して、「江戸彼岸糸桜」との名称を施しても違和感はなかろう。
 その上で、この「江戸彼岸桜」(C図)を見ていくと、その背後の芽吹いている「糸柳(枝垂れ柳)」の若緑が絶妙である。ここにも、春(二月)の、江戸彼岸桜(薄紅色と白色)と江戸糸柳(新芽の若緑色)との「二極構造」(『対』の取り合わせ)の対比が感知される。
 それだけではなく、冒頭の其一筆の「彼岸桜図」(江戸彼岸糸桜図)は、この抱一の「江戸彼岸桜」と「江戸糸柳」を背景(媒介)にしての、抱一の継承者・其一の趣向を凝らした「江戸彼岸糸桜図」と解することも出来よう。
 抱一が憧憬して止まなかった宝井其角の継承者の一人である菊后亭秋色(きくごていしゅうしき)に、「江戸彼岸糸桜(枝垂れ桜)」を詠んだ一句がある。

 井戸ばたの桜あぶなし酒の酔   秋色 

 講談「秋色桜」については、次のアドレスに詳しい。

http://koudanfan.web.fc2.com/arasuji/03-04_shuushiki.htm

 抱一の無二の知友・大田南畝に、「詠秋色桜(秋色桜を詠む)」の詩(漢詩)がある。

  詠秋色桜(秋色桜ヲ詠ム)
曾識芳名黄四娘  曾テ芳名ヲ識ル黄四娘(コウシジョ)
猶餘千朶媚斜陽  猶千朶(センダ)ヲ餘シテ斜陽ニ媚ブ
至今春色如秋色  今ニ至ルモ春色秋色ノ如シ
佳句長傳錦繍章  佳句長ク伝フ錦繍(キンシュウ)ノ章

 さらに、東叡山寛永寺で詠んだ南畝の「東叡山看楓(東叡山に楓を看る)」の詩もある。

  東叡山看楓(東叡山ニ楓ヲ看ル)
松外霜楓玉殿陲  松外ノ霜楓玉殿ノ陲(ホトリ)
赤霞城映碧瑠璃  赤霞(セキカ)城は碧瑠璃ニ映ズ
紺園舊属梁園地  紺園舊(モト)梁園ノ地ニ屬ス
不便行人折一枝  行人ヲシテ一枝ヲ折(オラ)不(シメズ)

桜楓図屏風・左.jpg

酒井抱一筆「桜・楓図屏風」の左隻(「楓図屏風」)デンバー美術館蔵 → D図
六曲一双 紙本金地著色 (各隻)一七五・三×三四・〇㎝
落款(左隻)「抱一筆」 印章(各隻)「文詮」朱文円印 「抱弌」朱文方印

この「楓図」もまた、抱一・其一らの住んでいた雨華庵の近くの、東叡山寛永寺近辺の楓なのかも知れない。

その十八 「藤図扇面」(蠣潭筆・抱一賛)

(再掲)

蠣潭・藤図扇面.jpg

鈴木蠣潭筆「藤図扇面」酒井抱一賛 紙本淡彩 一幅 一七・一×四五・七㎝ 個人蔵 
【 蠣潭が藤を描き、師の抱一が俳句を寄せる師弟合作。藤の花は輪郭線を用いず、筆の側面を用いた付立てという技法を活かして伸びやかに描かれる。賛は「ゆふぐれのおほつかなしや藤の茶屋」。淡彩を滲ませた微妙な色彩の変化を、暮れなずむ藤棚の下の茶店になぞらえている。】(『別冊太陽 江戸琳派の美』)

 鈴木蠣潭の、この「藤図扇面」は、江戸随一の藤の名所、亀戸の天神の藤かという印象を抱いていたが、これは、抱一・蠣潭・其一らが住んでいた根岸の雨華庵の近辺の「藤寺」の別称を有していた「円光寺」の藤のようである。
 下記のアドレスで、その円光寺(藤寺)が紹介されている。

https://kogotokoub.exblog.jp/27286656/



藤寺.jpg

【▼台東区根岸一~五丁目のうち。
 かつては呉竹の根岸の里といわれた閑静な地で、音無川が流れ、鶯や水鶏(くいな)の名所だった。地内に時雨ヶ丘、御行の松、梅屋敷、藤寺などがあった。文人の住居や大商人の寮などの多かったところである。
▼光琳風の画家で、文人としてきこえた酒井抱一、町人儒者亀田鵬斎、『江戸繁盛記』の著者寺前靜軒をはじめ、文化・文政頃からこの地に住んだ有名人ははなはだ多い。
  山茶花や根岸はおなじ垣つづき 〔抱一〕
 明治期には饗庭篁村(あえばこうそん)、多田親愛、村上浪六、幸堂得知、正岡子規などがここに住んだ。有名人である点では、ここに豪壮な妾宅をかまえていた掏摸の大親分仕立屋銀次もひけはとらない。  】北村一夫著『落語地名事典』(角川文庫)
【天王寺の前の芋坂を進んで鉄道を越える。通りに出た右角にある羽二重団子の店(荒川区東日暮里五ー54-3)は、文政二年(1819)に創業し、藤棚があって藤の木茶屋といわれた。餡と醤油だれの団子を供す。圓朝人情噺にも登場し、明治以後文人にも親しまれた。
 このあたりから根岸の里(台東区根岸)になる。元は今の荒川区東日暮里四・五丁目と一緒に金杉村といったが、明治二十二年に音無川以南が下谷区に編入されて、今の根岸一~五丁目になった。呉竹の里ともいい、台東区根岸二ー19~20が輪王寺宮の隠居所御隠殿の跡である。公弁法親王が京から取り寄せた訛りのない鶯数百派を放って鶯の名所となった。 】
吉田章一著『東京落語散歩』(角川文庫)


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根岸・円光寺(藤寺)

http://arasan.saloon.jp/rekishi/edomeishozue17.html

江戸名所図会 巻之六 第十七冊 → 上野・入谷・根岸・千住

抱一「藤・蓮・楓図」.jpg

酒井抱一筆「藤・蓮・楓図」三幅 絹本著色 各幅一〇八・〇×三五・〇㎝
MOA美術館蔵 → A図

 この抱一の「藤・蓮・楓図」(三幅対)の、右幅の「藤図」は、上記で紹介した根岸の藤寺・「円光寺」の藤とすると、左幅の「楓図」は東叡山「寛永寺」近辺の楓と解したい。とすると、中幅の「蓮図」は、「不忍池」の蓮ということになる。

光甫「藤・蓮・楓図」.jpg

本阿弥光甫筆「藤・蓮・楓図」三幅 藤田美術館蔵 → B図
 これは、本阿弥光悦の孫の本阿弥光甫の「藤・蓮・楓図」(三幅対)である。抱一の「藤・蓮・楓図」(A図)は、琳派の原点の「光悦→光瑳→光甫」の、茶道・書画・陶芸・彫刻をよくした法橋・法眼に叙せられた「空中斎(くうちゅうさい)光甫(こうほ)」の、この「藤・蓮・楓図」(B図)の模写絵なのである。というのは、抱一の「藤・蓮・楓図」(A図)の中幅「蓮図」に、「倣空中斎之図 抱一暉真筆」の款記があり、空中斎こと「光甫の図に倣った」ことを明言しているからに他ならない。
 しかし、光甫には「藤・牡丹・楓図(三幅)」(東京国立博物館蔵)もあり、これも加味されているのかどうかは定かでではない。この光甫の作品は、次のアドレスで閲覧することが出来る。

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0066137

鶯蒲「藤・蓮・楓図」.jpg

酒井鶯蒲筆「藤・蓮・紅葉図」三幅 山種美術館蔵 → C図

 抱一と小鶯女史の養子で、雨華庵一世・抱一の後継者になる雨華庵二世・鶯蒲の「藤・蓮・楓図」である。これは、抱一の「藤・蓮・楓」(B図)の模写絵のような作品かというと、この鶯蒲の作品も、光甫の「白藤・紅白蓮・夕もみぢ(三幅対)」(山種美術館蔵)の模写絵のようなのである。下記のアドレスでは、その絵図は収載されていないが、『琳派一・花鳥一(紫紅社)』所収「作品六八 藤・蓮・楓図」で紹介されている。

http://dramatic-history.com/art/2008/japan/rinpa/exh-rinpakara08.html

 ここで、この光甫の「白藤・紅白蓮・夕もみぢ(三幅対)」(山種美術館蔵)を紹介すると、どうにも、謎が深まるばかりなので、それをカットして、抱一の「藤・蓮・楓図」(A図)は、冒頭に再掲した、鈴木蠣潭の「藤図扇面」を念頭に置いての、蠣潭供養の三幅対の「藤・蓮・楓図」と解したいのである。
 即ち、抱一の「藤・蓮・楓図」(A図)の「藤図」(右幅)は、冒頭の蠣潭の「藤扇面」(「ゆふぐれのおほつかなしや藤の茶屋」)の、その蠣潭「藤扇面」への語り掛け、その蓮図(中幅)は、その「極楽浄土」の釈迦三尊像を踏まえ、その楓図は、その安らかな「西方浄土」を願う、抱一の蠣潭「その人」への供養の語り掛けと解したいのである。

その十九 「藤図扇子」(其一筆・抱一賛・其角句)

柳図.jpg

鈴木其一筆「柳図扇」一本(柄) 酒井抱一賛 太田記念美術館蔵
一六・六×四五・五㎝
【 軽やかに風に揺れる柳が描かれる。抱一による賛は「傾城の賢なるはこれやなきかな 晋子吟 抱一書」。晋子(しんし)とは、芭蕉の門弟の一人で江戸俳座の祖である其角のこと。この句は『都名所図会』(安永九年<一七八〇>刊)などで京都の遊郭、島原を形容する際に用いられており、江戸時代後期にはよく知られていたと思われる。本扇面は、当時の吉原文化の一翼を担った抱一とその弟子其一の、粋な書画合筆による。賛のあとに抱一の印章「文詮」(朱文瓢印)が捺される。画面右に其一の署名「其一」、印章「元長」(朱文方印)がある。なお、其一の弟子入りの時期と抱一没年から制作期は文化十年(一八一三)から文政十一年(一八二八)の間と考えられる。 】(『鴻池コレクション扇絵名品展(図録)』所収「作品解説(赤木美智稿)」)

 抱一の賛の其角の句「傾城の賢なるはこれやなきかな」は、『五元集(旨原編)』では「傾城の賢なるは此柳かな」の句形で収載されている。この其角の句が何時頃の作なのかは定かではない。『都名所図会』(安永九年<一七八〇>刊)で京都の遊郭、島原を形容する際に用いられているということは、其角の京都・上方行脚などの作なのかも知れない。

 闇の夜は吉原ばかり月夜哉   (天和元年=一六八一、二十一歳)
 西行の死出路を旅のはじめ哉  (貞享元年=一六八四、二十四歳、一次上方行脚)
 夜神楽や鼻息白し面の内    (元禄元年=一六八九、二十八歳、二次上方行脚)
 なきがらを笠に隠すや枯尾花  (元禄八年=一六九四、三十四歳、三次上方行脚) 

 難波の住吉神社で西鶴が催した一昼夜二万三千五百句の矢数俳諧興行の後見役をつとめた第一次上方行脚の際の、宗匠其角誕生(貞享三年=一六八六)前後の作なのかも知れない。

島原図.jpg

『都名所図会』所収「嶋原(島原)図会」
   ↑
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7/km_01_148.html

 江戸の吉原は、隅田川の堤防・日本堤から吉原遊廓(新吉原)へ下る坂「衣紋坂(えもんさか)」の「見返り柳」であるが、京都・島原は「出口の柳」である。
 この其角の句は、「柳に風」「柳に風と受け流す」などの古諺を利かせていることが、洒落風俳諧の其角らしい句で、「華やかなる事其角に及ばず」(『旅寝論』の去来の其角評)の、その萌芽のようなものを醸し出しているという雰囲気である。
 抱一の俳諧の師筋の一人・馬場存義(李井)と親交の深い小栗旨原(百万)は、蕪村の『新花摘』に其角の『五元集』の編纂関連で登場し、江戸座俳諧師・抱一は、「其角→存義・旨原・蕪村→抱一」という系譜に連なると俳人で、其角の生前に自撰していた自撰句集ともいえる『五元集』については、自家薬籠中のものであったであろう。
 そして、抱一の門弟の蠣潭や其一の扇面画などには、抱一自身の句で賛をするのが通例であるが、この其一の、この「柳図」には、即興的に其角の句が想起されてきたということなのであろう。
 それにしても、「其角=句、抱一=賛、其一=画」と、何とも「華やかなること三人揃い踏み」という魅力溢れる扇である。

柳に白鷺図.jpg

鈴木其一筆「柳に白鷺図屏風」 二曲一隻  絹本着色 一三二・五×一四一・六㎝
エツコ&ジョー・プライスコレクション
【「菁々其一」と落款を禽泥で入れているところから、画家自身にとってもおそらく快心の作であったのだろう。事実彼の芸術の美質があますところなく披瀝されている。あの傑作「夏秋渓流花木図屏風(根津美術館蔵)は、どこか芝居の書割を思わせる人工美の世界を見せているが、ここではそうしたものを受けつぎながらも、さらにいっそう研ぎ澄まし、昇華させ、画家自身の心象風景とでもいいたいような美の世界を開陳する。ここでは白鷺の羽音も、柳の枝を揺らす風の動きもない。一切が静謐なる世界に封じ込められたかのようである。緑青と胡粉の対比がまことに清新で美しい。これもまた其一円熟期の名品の一つ。 】
(『琳派二 花鳥二(紫紅社)』所収「作品解説一〇七(榊原悟稿)」)

 この落款の「菁々」の初出は、弘化元年(天保十五年・一八四四)、其一、四十九歳の時で、この「柳に白鷺図屏風」は、それ以降の作品ということになる。恐らく、安政元年(嘉永七年・一八五四)、五十九歳時の晩年の傑作「四季花鳥図屏風」(東京黎明アートルーム蔵)前後の、其一の晩年の作品と解したい。
 この「四季花鳥図屏風」(東京黎明アートルーム蔵)については、下記のアドレスで触れている。
 ここで、冒頭の「柳図扇」については、下記のアドレスで紹介した、抱一と其一の師弟合作「文読む遊女図」と同時の頃の作と解したい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-28

羽子板図.jpg

鈴木蠣潭・其一ほか筆・酒井抱一賛「正月飾り物図」一幅 紙本淡彩 九五・七×二七・五㎝ 文化十三年(一八一六)作 個人蔵(足立区立郷土博物館寄託)
【 今春新出となった、其一の最も早い作例である。新春を寿ぐ寄合描で、中央の羽子板を其一、後ろの枝は鯉隠居こと坂川屋主人山崎利右衛門、その下の雑記を長橋文桂、俵形の供え物を大西椿年、手前の鼠の玩具を蠣潭が描き、抱一の俳句を賛とする。
蠣潭が文化十四年(一八一七)に没していること、「跳んだり跳ねたり」と呼ばれた鼠の玩具が描かれていることなどから、蠣潭が亡くなる前年の文化十三年(一八一六)子年の制作と報告され、大きな反響を呼んだ。その新知見について玉蟲敏子「近世絵画を育てた土壌と地域—足立に残された酒井抱一と谷文晁の弟子の足跡—」(『美と知性の宝庫 足立—酒井抱一・谷文晁とその弟子たち』足立区立郷土博物館、二〇一六年)に詳しい。
抱一・蠣潭・其一の三人が一幅に名を連ねる貴重な作例であること、制作年から其一二十一歳の若描きと判明すること、其一が蠣潭の存命中から「其一」を名乗っていたこと、千住の鯉隠居をはじめとする文化人との交流に、蠣潭・其一が早くから関わっていたことなどが明らかになり、本図出現の意義はきわめて重要である。其一の最初期の落款スタイルも確認されよう。
(賛)
客に止む手毬の
おとや梅の縁
鶯邨題「文詮」(朱文瓢印)  】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手(読売新聞社)』所収「作品解説一九(岡野智子稿)」)

 「金杉邑(むら)画狂其一筆」と、「紅葉狩図凧」の箱書に署名した抱一の無二の高弟・鈴木其一の出発点は、この「抱一・蠣潭・其一」の師弟合作からスタートする。
そして、それは、文人の里「下谷根岸」の「三幅対」と称せられた、儒者・漢詩人として名高い亀田鵬斎そして江戸文人画の総帥・谷文晁と江戸座の俳諧師にして江戸琳派の創始者・酒井抱一の、そのネットワークからのスタートを意味する。
 この鵬斎の義弟が、俳諧の千住連の頭領が、抱一と同年齢の無二の知友の建部巣兆である。この巣兆が没した翌年の文化十二年(一八一五)に、下記のアドレスなどで紹介した奇妙奇天烈なイベント「千住酒合戦」の、その中心人物の一人が、上記の「正月飾り物図」の其一の描いた「羽子板」(松竹梅図か?)の後ろの「枝(篠竹か?)」を描いたその人、「鯉隠居こと坂川屋主人山崎利右衛門」ということになる。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-09

 其一は、ここからスタートとして、そのゴール地点に位置する作品が、上記の「柳に白鷺図屏風」であろう。ここに描かれている白鷺は、其一その人と解したい。そして、この静止した柳は、「綺麗さび」の世界に遊んでいた抱一の一瞬の静止した姿であり、その抱一の「綺麗さび」世界からの巣立ちの其一の姿こそ、この白鷺なのであろう。

その二十 「其角肖像百幅」(抱一筆・賛=其角句)

(再掲)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-22

抱一・其角肖像二.jpg

酒井抱一筆「晋子肖像(夜光る画賛)」一幅 紙本墨画 六五・〇×二六・〇

「晋子とは其角のこと。抱一が文化三年の其角百回忌に描いた百幅のうちの一幅。新出作品。『夜光るうめのつぼみや貝の玉』(『類柑子』『五元集』)という其角の句に、略画体で其角の肖像を記した。左下には『晋子肖像百幅之弐』という印章が捺されている。書風はこの時期の抱一の書風と比較すると若干異なり、『光』など其角の奔放な書風に似せた気味がある。其角は先行する俳人肖像集で十徳という羽織や如意とともに表現されてきたが、本作はそれに倣いつつ、ユーモアを漂わせる。」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「抱一の俳諧(井田太郎稿)」)

 この著者(井田太郎)が、『酒井抱一—俳諧と絵画の織りなす抒情』(岩波新書一七九八)を刊行した(以下、『井田・岩波新書』)。
 この『井田・岩波新書』では、この「其角肖像百幅」について、現在知られている四幅について紹介している。

一 「仏とはさくらの花の月夜かな」が書かれたもの(伊藤松宇旧蔵。所在不明)
二 「お汁粉を還城楽(げんじょうらく)のたもとかな」同上(所在不明)
三 「夜光るうめのつぼみや貝の玉」同上(上記の図)
四 「乙鳥の塵をうごかす柳かな」同上(『井田・岩波新書』執筆中の新出)

 この四について、『井田・岩波新書』では、次のように記述している。

【 ここで書かれた「乙鳥の塵をうごかす柳かな」には、二つの意味がある。第一に、燕が素早い動きで、「柳」の「塵」、すなわち「柳絮(りゅうじょ)」(綿毛に包まれた柳の種子)を動かすという意味。第二、柳がそのしなやかで長い枝で、「乙鳥の塵」、すなわち燕が巣材に使う羽毛類を動かすという意味。 】『井田・岩波新書』

 この「燕が柳の塵を動かす」のか、「柳が燕の塵を動かす」のか、今回の『井田・岩波新書』では、それを「聞句(きくく)」(『去来抄』)として、その「むかし、聞句といふ物あり。それは句の切様、或はてにはのあやを以て聞ゆる句也」とし、この「聞句」(別称、「謎句」仕立て)を「其角・抱一俳諧(連句・俳句・狂句・川柳)」を読み解く「補助線」(「幾何学」の補助線)とし、その「補助線」を補強するための「唱和と反転」(これも「聞句」以上に古来喧しく論議されている)を引いたところに、この『井田・岩波新書』が、これからの「井田・抱一マニュアル(教科書)」としての一翼を担うことであろう。
 そして、次のように続ける。

【 これに対応する抱一句が、第一章で触れた「花びらの山を動かす桜哉」(『句藻』「梶の音」)である。早くに詠まれたこの句は『屠龍之技』「こがねのこま」にも採録され、『江戸続八百韻』では百韻の立句にされており、抱一自身もどうやら気に入っていたとおぼしい。句意は、大きな動きとして、桜の花びらが散れば、桜花爛漫たる山が動くようにみえるというのが第一。微細な動きとして、桜がさらに花弁を落とし、すでにうず高く積もった花弁の山を動かすというのが第二。
 燕の速度ある動きと柳の悠然たる動き、桜の大きな動きと微細な動き、両句ともに、こういった極度に相反する二重の意味をもつ「聞句」である。また、有名な和歌「見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける」(『古今和歌集』巻第一)をはじめとし、柳と桜は対にされてきたから、柳を詠む其角に対し、意図的に抱一が桜を選んだと考えられる。抱一句は全く関係のないモティーフを扱いながら、其角句と見事に趣向を重ねているわけで、これは唱和のなかでも反転にほかならないと確認される。 】『井田・岩波新書』

  乙鳥の塵をうごかす柳かな  其角 (『五元集』)
  花びらの山を動かす桜哉   抱一 (『屠龍之技』)

 この両句は、其角の『句兄弟』(其角著・沾徳跋)をマニュアル(教科書)とすると、「其角句=兄句/抱一句=弟句」の「兄弟句」で、其角句の「乙鳥」が抱一句の「花びら」、その「塵」が「山」、そして「柳」が「桜」に「反転」(置き換えている)というのである。
 そして、其角句は「乙鳥が柳の塵を動かすのか/柳が乙鳥の塵を動かすのか」(句意が曖昧=両義的な解釈を許す)、いわゆる「聞句=謎句仕立て」だとし、同様に、抱一句も「花びらが桜の山を動かすのか/桜が花びらの山を動かすのか」(句意が曖昧=両義的な解釈を許す)、いわゆる「聞句=謎句仕立て」というのである。
 さらに、この両句は、「其角句=前句=問い掛け句」、そして「抱一句=後句=付句=答え句」の「唱和」(二句唱和)の関係にあり、抱一は、これらの「其角体験」(其角百回忌に其角肖像百幅制作=これらの其角体験・唱和をとおして抱一俳諧を構築する)を実践しながら、「抱一俳諧」を築き上げていったとする。
 そして、その「抱一俳諧」(抱一の「文事」)が、江戸琳派を構築していった「抱一絵画」(抱一の「絵事」)との、その絶妙な「協奏曲」(「俳諧と絵画の織りなす抒情」)の世界こそ、「『いき』の構造」(哲学者九鬼周三著)の「いき」(「イエスかノーかははっきりせず、どちらにも解釈が揺らぐ状態)の、「いき(粋)の世界」としている。
 さらに、そこに「太平の『もののあわれ』」=本居宣長の「もののあわれ」)を重奏させて、それこそが、「抱一の世界(「画・俳二道の世界」)」と喝破しているのが、今回の『井田・岩波新書』の最終章(まとめ)のようである。

桜楓図屏風・右.jpg

酒井抱一筆「桜・楓図屏風」の右隻(「桜図屏風」)デンバー美術館蔵  六曲一双 紙本金地著色 (各隻)一七五・三×三四・〇㎝ 落款(右隻)「雨庵抱一筆」 印章(各隻)「文詮」朱文円印 「抱弌」朱文方印

 デンバー美術館所蔵となっている、この「桜・楓図屏風」の右隻(「桜図屏風」)は、まさしく、「桜」と「柳」とを主題としたものである。

  乙鳥の塵をうごかす柳かな    其角 (『五元集』)
  花びらの山を動かす桜哉     抱一 (『屠龍之技』)
  見渡せば柳桜をこきまぜて
       都ぞ春の錦なりける  素性法師(『新古今』巻一)   

 其角句と抱一句を「唱和」(抱一句は其角句の「本句取り」)とすると、この二句は、素性法師の「本歌取り」の句ということになる。其角はともかくとして、抱一は、この句に唱和し、それを反転させる際に、間違いなく、この素性法師の古歌が、その反転の要因になっていることは、上記のように並列してみると明瞭になってくる。
 この素性法師の歌には「 花ざかりに京を見やりてよめる」との前書きがある。抱一は、それを「江戸の太平の世を見やりてよめる」と反転しているのかも知れない。

桜楓図屏風・左.jpg

酒井抱一筆「桜・楓図屏風」の左隻(「楓図屏風」)デンバー美術館蔵 → D図
六曲一双 紙本金地著色 (各隻)一七五・三×三四・〇㎝
落款(左隻)「抱一筆」 印章(各隻)「文詮」朱文円印 「抱弌」朱文方印

 デンバー美術館所蔵の「桜・楓図屏風」の左隻(「楓図屏風」)である。

   北山に僧正遍照とたけがりにまかれりけるによめる
  もみぢ葉は袖にこき入れてもていでなむ秋はかぎりと見む人のため
                        素性法師(『新古今』巻五)

 素性法師の父は僧正遍照である。その父の僧正遍照と茸狩りに行ったときの歌である。
「秋はかぎりと見む人のため」の「見む人」というのは、遍照・素性父子と親しい関係にある人であろう。
 ここで、この「桜・楓図屏風」の右隻(「桜図屏風」)と左隻(「楓図屏風」)とが、素性法師の古歌を媒介して、見事に唱和してくる。そして、抱一にとって、この素性法師の歌にある「見む人」とは、この「桜・楓図屏風」(六曲一双)の制作を抱一に依頼した、例えば、最晩年の抱一に制作を依頼した、水戸藩主徳川斉脩などの注文主のことを脳裏に描いていることであろう。

   秋にはたへぬと良経公の御うたにも
  月の鹿ともしの弓や遁れ来て       抱一(『屠龍之技』「椎の木かげ」)

 この抱一の句について、『後鳥羽院』(日本詩人選二〇・筑摩書房)の著書を有する「小説・評論・随筆・翻訳」分野で文化勲章を受章したマルチ文人・丸谷才一の『日本文学史早わかり』(「歌道の盛り」)で、次のように記述している。

【(この抱一句)は、藤原良経ではなく藤原雅経の、「ともしせし端山しげ山しのびきて『秋には耐へぬ』さを鹿の声」を下じきにしている。歌人の名がこんがらかるといふのは、抱一がいちいち本に当たるのではなく、そらで覚えてゐることの反映で、それは同時代の俳人たちのかなり多くに共通する態度であったと見て差支えない。 】(丸谷才一著『日本文学史早わかり』所収「歌道の盛り」)

 そして、その巻末の「日本文学史早わかり(付表)」で、その「個人詩集」の項目の中に、抱一の『屠龍之技』が、『芭蕉句選』『其角「五元集」』『蕪村句集』『しら雄(白雄)句集』『一茶「おらが春」』と並んで登載されている。
 そして、恐らく、この『後鳥羽院』の執筆過程で把握したのであろうが、抱一句の「本歌取り」の句の幾つかについて、その「本歌」ともども列挙されている。
 上記の一句は、その中の一句である。その記述の中で、「抱一がいちいち本に当たるのではなく、そらで覚えてゐることの反映で、それは同時代の俳人たちのかなり多くに共通する態度であったと見て差支えない」というのは、今回の『井田・岩波新書』の「其角体験」(「抱一にとっての其角体験とは、先行作品と唱和しながら、自らの世界を構築するというスタイルを確立させたのではないか」)については、少なくとも、『後鳥羽院』と『日本文学史早わかり』の著者丸谷才一は諸手をあげて「是」とするところであろう。
 そして、今回の『井田・岩波新書』の最終章(第四章)の「太平の『もののあはれ』」の、「もののあはれ」(本居宣長の『石上私淑言』での『見る物聞く事なすわざにふれて情の深く感ずる事」の「もののあはれ」)は、丸谷才一の「歌道の盛り」(本居宣長の『宇比山踏』『拝蘆小船』での「歌道の盛り」)と、期せずして合致したものであろう。

その二十一 「秋夜月扇子」(抱一筆・季鷹賛)

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酒井抱一筆「秋夜月(あきよづき)」扇子 一本 一七・七×五一・〇㎝
太田記念美術館蔵

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酒井抱一筆「秋夜月(あきよづき)」扇子 (拡大図)

【 秋の夜空を紺碧で、月を金で表す。単純ながらも大胆な構図と配色が印象的な扇。印章「抱弌」(朱文方印)・「文詮」(朱文瓢印)の朱色も背景に映える。加茂季鷹(一七五四~一八四一)による和歌は「類なき光を四方にしき島や日本嶋根の秋夜月」。季鷹は京都の歌人で国学者。大田南畝らとも交流し、俗文芸にも接触をもった。抱一の画譜(文化十四年<一八一七>)に序を寄せており、抱一との交流も知られる。裏面には墨書「抱一上人此月を/□□□□/□□□□季鷹に賛をと/頗りにの給ひ/けれは/いなひ/かたくて/筆を/とれるに/なん」があり、季鷹が賛を請われた様子をうかがうことができる。  】(『鴻池コレクション扇絵名品展』所収「作品解説七(赤木美智稿)」)

 この賀茂季鷹(かものすえたか)について、『酒井抱一—俳諧と絵画の織りなす抒情(井田太郎著・岩波新書一七九八)』(以下、『井田・岩波新書』)で、次のように記述している。

【 季鷹は抱一より七歳年長で、抱一の自撰画譜『鶯邨画譜』に序(文化十三年九月)を寄せた国学者・歌人である。しかし、実は文政三年五月まで、抱一は季鷹(雲錦先生)に対面したことはなかった。「錦雲(ママ=雲錦が正しい)先生、江都に有し頃は廿年(はたとせ)の昔にて、予も金馬門に繋がれて、花鳥の交(まじはり)をなさず/季鷹の吾嬬(あづま)下りや初茄子(はつなすび)/ころは五月(さつき)の末にぞ有(あり)ける」(『句藻』「藪鶯」)とあるとおりである。「一富士、二鷹、三茄子」からの連想であるが、富士は「ぬけ」にしてある。季鷹は初対面後の一〇月、『屠龍之技』に新たに序を加え、「抑(そもそも)、我、はやうよりむつびかはせる雨華庵の屠龍君」と述べている。つまり、文政三年以前より両者のあいだに文通があったことがわかる。  】(『井田・新書』)

 ここで紹介されている『鶯邨画譜』の「序」(賀茂季鷹)などについて、下記のアドレスで触れている。ここに再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-03

(再掲)

ここでは、この『鶯邨画譜』の、抱一と親しく交流のあった国学者加茂季鷹と、漢詩人中井敬義の、その「序」を掲載しておくことに止めたい(なお、『鶯邨画譜』は、初版と後刷本とがあり、早稲田図書館蔵本は後刷本で、この「序」は付せられていない)。

①序文(加茂季鷹)

大方ゑかく人、くれ竹の世に其名きこえたる上手、其いと多かる中にも、百とせばかりむかし、光琳法橋ときこえしハ、倭もろこし乃おかしき所々をとり並べことそぎたる中に、力を入てみやびかなるおもむきせしもむねと書あらはし筒、其頃此道にならぶ人は多なかりけり、こゝに等覚院抱一君ハ弓を袋にをさめて画に世を乃がれたまひ、かの法橋のあとをしたひてかき出たまへるが、山乃たゝずまい、水のこゝろばへは、いふもさらなり、鳥、化物、はふむしなどハ、さながらたましひ有てうごき出ぬべき心ちなんせられける、とりたてかくこ乃み給ふ事あらたまのとし月つもらざりせば、いかでかくは物しき給ふべき、されば彼法橋もなかなかに及びかたかめりとさへ見侍るハ、藍を出しあゐの藍より青してふためしならむかし、あまりあやしきまで見めでつゝたくもえあらで、いさゝかゝきしるし侍る也、あなめでたあなめでた

②序文(中井敬義)

此一帖は抱一上人ねん翁の、いとまことに画なしぬへるものにして、いたり深くやことなきすとハ、けにたとふへきかたなしかし、上人早うより世の塵を厭ひて、おくまりたる山陰に庵し候て、ひたすら水艸のきく傳を慰めにてかき籠り給へるを、あたらしきことにおもひて、こゝろよせきこゆる人は、あなかちにまいり給はむ、くひておのかしゝ迺心やりにとてかき捨たまへる原繪なとこひ閲(み)ゆるも、あまたありぬ契のもとなり、ためしなき上手にておはすうへに、からくにのふるきおきてをまなへり、我国のミやひたる跡をとめて、ひろくまねひ、ふかく習ひとなぬへき、尤なほさりの墨かきたき世の人とはいとことなり、そもそも三乗の法をときて聖人の御果を絵かき給ふとて、かしこの傳にもありとか法の属にして画をし覚すきたまへる、さるいはれあることになん、おのれ此本をうちひらき見より、上人のらうしねんに走しらす事にならひて其侭に気韻高かりけると、かたかた尊きことおほえて世のひとゝきのやさしきも忘れて、此はしつかたをふとけかしつせるは、感すこゝろの深きよりと、人も又見ゆるしなん也

(『江戸名作画帖全集六(駸々堂)』所収「図版解説・資料」)

  類なき光を四方にしき島や日本嶋根の秋夜月  (賀茂季鷹)

 抱一にとって、季鷹は、京都の「国学者・歌人」の、その書簡にあるとおり「雲錦先生」(「雲錦は庵号で抱一の七歳年長)なのである。この雲錦先生は、抱一の画賛に登場する江戸派の歌人(国学者)の双璧の、加藤(橘)千蔭(二十六歳年長)と村田春海(十五歳年長)と知己で、季鷹と抱一との関係は、抱一と親交の深い千蔭と春海とが介在していることであろう。
 また、季鷹は、狂歌にも精通して居り、抱一の狂歌の師の一人・大田南畝(狂歌名=四方赤良、十二歳年長)などの狂歌連とのネットワークも介在しているとことであろう。

  敷島のやまと心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花 (本居宣長)

 「大和魂」の代名詞にもなっている、この歌の作者・本居宣長(国学者・歌人、抱一より三十一歳年長)は、抱一と直接的な関係は何もない。しかし、抱一と深い親交に結ばれている江戸派の歌人(国学者)の「加藤千蔭・村田春海」は、賀茂真淵(国学者・歌人)の「県門(けんもん)」であり、宣長もまた後に真淵門(県門)に入っており、京都の季鷹(真淵と関係の深い賀茂神社の祠官)共々、真淵の「県居(あがたい)派」の歌人と解して差し支えなかろう。

  類なき光を四方にしき島や日本嶋根の秋夜月    (賀茂季鷹)
  敷島のやまと心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花 (本居宣長)

 この季鷹の歌は、宣長の「本歌取り」の一首と、これまた、解して差支えなかろう。

季鷹・掛幅.jpg

 月  類なき 光を四方に 敷しまや
    日本島嶋根の 秋の夜の月     季鷹

http://www.suguki-narita.com/blog/2016/09/tiyuusyunomeigetu.html

 これは上記のアドレスで紹介されている季鷹の掛幅である。これに対応する宣長の掛幅は次のものであろう。

宣長像.jpg

「本居宣長六十一歳自画自賛像」(『本居宣長(小林秀雄著・新潮社)』所収「口絵」→表)
【(右上の賛)古連(これ)は宣長六十一寛政乃(の)二登(と)せと/いふ年能(の)秋八月尓(に)手都可(づか)らう都(つ)し/多流(たる)おの可(が)ゝ(か)多(た)那(な)里(り)
(左上の賛)筆能(の)都(つ)い天(で)尓(に)/志(し)き嶋のやま登(と)許(ご)ゝ(こ)路(ろ)を人登(と)ハ(は)ゝ(ば)/朝日尓(に)ゝ(に)ほふ山佐久(ざく)ら花  】(『本居宣長(小林秀雄著・新潮社)』所収「口絵」→裏)

 この『本居宣長(小林秀雄著・新潮社)』の冒頭の章(一)に、「(駅まで見送った折口信夫が小林秀雄に)『小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら』と言われた」という一節がある。
 この折口信夫の小林秀雄への遺言のようなメッセージ「本居さんはね、やはり源氏ですよ」の「源氏」は、『源氏物語』で、折口信夫の、このメッセージは「もののあはれ」(『見る物聞く事なすわざにふれて情(ココロ)の深く感ずる事」』=『石上私淑言(いそのかみのささめごと)』)こそ、「敷島(日本)のやまと心(大和心)」ということが、そのメッセージの意であったようなのである。

 『井田・岩波新書』の最終章(第四章)のタイトルは「太平の『もののあはれ』」で、この「もののあはれ」は、抱一の最高傑作の一つ「夏秋草図屏風」(別称「風雨草花図」・国立博物館蔵・重要文化財)を主題とし、それは、表の「風神雷神図屏風」(光琳作)の「晴れやかさ」に対し、裏の「『うつろう先』の『一抹の不穏な空気』」が漂い、それは、「本居宣長が主張した『もののあはれ』にも近接した空気である」としている。
 抱一の絵画作品などで、本居宣長(上記の「本居宣長六十一歳自画自賛像」など画技にも長けている)に関するものは寡聞にして知らない。しかし、宣長が「もののあはれ」を見て取った『源氏物語』とその作者「紫式部」に関しては、下記のアドレスなどで、しばしば遭遇している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-11-18

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-04-21

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-05

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-11

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-16

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-07-21

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-07-30

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-08-06

 ここで、冒頭の「秋夜月(あきよづき)」扇子(抱一筆・季鷹賛)に戻って、その「作品解説」の「抱一上人此月を/□□□□/□□□□季鷹に賛をと/頗りにの給ひ/けれは/いなひ/かたくて/筆を/とれるに/なん」とに遭遇すると、これは、賛をした季鷹ではなく、抱一その人が、季鷹に賛を請い、そして、それを秘蔵していたものと解したい。

その二十二 「月」扇子(抱一筆)

抱一・月扇面.jpg

酒井抱一筆・賛「月」扇子 一本 一六・五×四五・〇㎝ 太田記念美術館蔵

【 隷書体で記された「月白風清此良夜如何」は、蘇軾(そしょく)『後赤壁賦』にある語句。宋の元豊五年(一〇八一)十月、蘇軾が流刑地の黄州で友人らとともに長江に遊覧して詠んだもの。上部には銀箔でかたどった月を、表裏でほぼ同じ位置に配する。月や月光を好んだ抱一らしい趣向である。隷書体で記された詩文とあいまって風雅なおもむきを備える。署名「雨華抱一書」、印章「(印文不明)」(白文方印)。 】(『鴻池コレクション扇絵名品展』所収「作品解説八(赤木美智稿)」)

「月白風清/此良夜如何」(蘇軾『後赤壁賦』)関連(※印)の原文と訳は次のところである。

   已而嘆曰      已にし嘆じて曰く
  有客無酒      客有れども酒無し
  有酒無肴      酒有れども肴無し
※ 月白風清      月白く風清らかに
※ 如此良夜何     此の良夜如何せん
  客曰        客曰く
  今者薄暮      今薄暮
  舉網得魚      網舉げ魚得たり
  巨口細鱗      巨口細鱗
  状似松江之鱸    状松江の鱸に似たり
  顧安所得酒乎    顧ふに安くの所の酒を得ん

 蕪村に出て来る『後赤壁賦』関連は、上記に続く、次(※印)のところである。

  歸而謀諸婦     歸って諸婦に謀る
  婦曰        婦曰く
  我有鬥酒      我に鬥酒有り
  藏之久矣      之を藏すること久し
  以待子不時之需   以て子の不時の需め待てり
  於是攜酒與魚    是に於いて酒と魚とを攜へ
  復遊於赤壁之下   復た於いて赤壁の下に遊ぶ
  江流有聲      江流聲有り
  斷岸千尺      斷岸千尺
※ 山高月小      山高くし月小にし
※ 水落石出      水落ちて石出づる
  曾日月之幾何    曾ち日月の幾何ぞや
  而江山不可復識矣  而るに江山復た識るべからず


  月白風清/此良夜如何
 くれぬ間に月は懸(かか)れり冬木立  抱一「隅田川遠望図」賛)

  山高月小/水落石出
 柳散リ清水涸レ石処々(トコロドコロ) 蕪村(『反古襖』「遊行柳のもしにて」)

 この抱一と蕪村との句の背景には、「曾日月之幾何(曾ち日月の幾何ぞや)/而江山不可復識矣(而るに江山復た識るべからず)」の感慨が去来している。

 抱一の、この句が出てくる「隅田川遠望図」(池田孤邨筆・酒井抱一賛)は、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-09-04

 ここに、その抜粋を再掲して置きたい。また、、『酒井抱一—俳諧と絵画の織りなす抒情(井田太郎著・岩波新書一七九八)』(以下、『井田・岩波新書』)で、その補足をして置きたい。

(再掲)

孤邨・隅田川遠望図.jpg

池田孤邨筆「隅田川遠望図」(酒井抱一賛)一幅 絹本淡彩色 文政九年(一八二六)
五五・五×一〇七・六㎝ 江戸東京博物館蔵
【 抱一は、夕暮れ時の舟中で酒肴を愉しんだ孤邨らの隅田川周遊を、中国北宋の文人・蘇東坡が詠んだ「赤壁賦」に見立てた。自らは参加できなかったものの、気持ちの赴くまま、末尾に「くれぬ間に 月は懸れり 冬木立」の一句を詠じている。 】(『別冊太陽 江戸琳派の美』所収「江戸琳派における師弟の合作(久保田佐知恵稿)」)

(追記一) 抱一の「賛」の全文は次のとおりである。

 是歳丙戌冬十一月桐生の竹渓
 貞助周二の二子をともなひ墨水
 舟を泛夕日の斜ならんとするに
 猶綾瀬に逆のほり舟中使者
 有美酒有網を挙れハ巨□
 細鱗の魚を得陸を招けは
 □□葡萄の酒傍らに奉る
 嗚呼吾都会の楽ミ何そ蘇子か
 赤壁の遊ひに異ならんや
 冨士有筑波有観音精舎の
 かねの聲は漣波に響き 今戸
 の瓦やく烟水鳥の魚鱗鶴翼に
 飛廻るは草頭にも盡
 かたきを門人孤邨か
 一紙のうちに冩して予に
 此遊ひを記せよといふ予
 その日の逍遥に
 もれたるも名残なく
 其意にまかせて
 俳諧の一句を吃く
  くれぬ間に
   月は懸れり
    冬木立
 抱一漫題「雨華菴」(朱文扇印)「文詮」(朱文瓢印) 

 孤邨の落款は、「蓮葊孤邨筆」の署名と「穐信」(朱文重郭印)である。なお、抱一の「賛」中の、「竹渓」は、桐生の「書上(かきあげ)竹渓」(絹の買次商・書上家の次男)で、市川米庵にも学ぶ文化人という。桐生は佐羽淡斎を通じて抱一とは関わりの深いところで、抱一を慕う者が多かったようである。
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「作品解説115(岡野智子稿)」)

(補足)

 『井田・岩波新書』での、上記(追記一)の賛の訳文は次のとおりである。

是(この)歳(とし)丙戌(へいじゆつ)冬十一月、桐生の竹渓(ちくけい)、/
貞助・周二の二子をともなひ、墨水(ぼくすい)に/
舟を泛(うかぶ)。夕日(せきじつ)の斜(ななめ)ならんとするに、/
猶(なほ)、綾瀬(あやせ)に逆(さか)のぼり、舟中佳肴(かかう)有(あり)、/
美酒有り。網を挙(あぐ)れば巨口(きよこう)/
細鱗(さいりん)の魚(うを)を得、陸を招けば、/
蘭陵(らんりよう)葡萄の酒、傍(かたわら)に来る。/
嗚呼、吾(わが)都会の楽(たのし)み、何そ蘇子(そし)が/
赤壁の遊びに異ならんや。/
冨士(ふじ)有(あり)、筑波有(あり)。観音精舎の/
かねの聲は、漣波(れんぱ)に響き、今戸(いまど)/
の瓦やく烟(けむり)、水鳥の魚鱗(ぎよりん)鶴翼(かくよく)に/
飛(とび)廻(まは)るは筆頭にも盡(つくし)/
がたきを、門人孤邨が/
一紙のうちに冩して、予(よ)に/
「此(この)遊ひを記せよ」といふ。予、/
その日の逍遥に/
もれたるも不慢(ふまん)ながら、/
其(その)意(い)にまかせて、/
俳諧の一句を吐く。/
  くれぬ間に/
   月は懸(かか)れり/
    冬木立/

 この抱一の長文の賛は、『井田・岩波新書』では、最終章(「第四章 太平の『もののあはれ』」)の最終節(「五 追憶と回顧—最晩年」)に収載されている。この長文の賛に関連する貴重な記述について、抜粋して掲載して置きたい。

【(「隅田川遠望図」の賛)
 (前略) 
抱一はこの舟遊びに誘われなかったが、賛を求められた。その賛は、蘇東坡の「赤壁賦(せきへきのふ)」「後(こう)赤壁賦」という、東坡が長江(ちょうこう)流域の景勝地赤壁に遊んだ際になした名高い文章を踏まえていて、孤邨画に奥行きを与えている。ただし、隅田川には墨堤があるものの、かの赤壁に擬すべき切り立った断崖はなく、賛の趣向として赤壁を取り入れるのには少し無理がある。「赤壁賦」が「壬戌(じゅんじつ)の秋、七月既望(きぼう)、蘇子(そし)客と舟を泛(うか)べて赤壁の下に遊ぶ」と始まるのを考えあわせると、実はこの賛に抱一はもう一つ、個人的な感慨を点じていたと考えられる。
相見香雨によれば、溯ること二四年、壬戌(享和二年)の秋、七月既望(一六日の夜)、抱一は文晁・鵬斎と舟を泛べ、国府台(こうのだい)(千葉県市川市)の下に遊ぶ約束をしていたのである。国府台、つまり江戸川に面する切り立った河岸段丘を赤壁に見立て、七二〇年前の東坡の風雅を偲ぶこの好企画が実現したか否か、今は傍証をもたない。

(揺曳する鵬斎)
 抱一が著賛したのは文政九年、その三月九日に鵬斎は没していた。数年来、中風で薬餌に親しんでいたという。この年は月見の約束を交わした享和二年と同じ戌年であったが、愉しい時代はすでに過ぎてしまっていた。抱一は「いかにせむ賢き人もなきあとに今(こ)としもおなじ花ぞ散りける」(『句藻』「月日星」)と文政一〇年の鵬斎一周忌に際して一首捧げているが、季節は何事もなくめぐり、また日常が繰り返されてゆくという気分が濃い。
(中略)
 「赤壁賦」は七月で秋、「後赤壁賦」は一〇月で冬。隅田川でのこの舟遊びは冬であった。賛の末尾にそえた抱一句にどこか寂寥がたゆたうのは、東坡の赤壁という往古を想う漢詩、冬という季節感、あるいは画面にみられる夕方という時間帯のせいだけなのであろうか。舟遊びにおける時間の経過のほか、おそらくは人間における時間というものの経過のままならさが一句に立ち込めるからである。
(後略)

(最晩年)
 文政一〇年一一月一一日、水戸徳川家の茶会に抱一は正客として招かれた。(藩主斉修公の抱一への答礼の趣向に感激し、)「誠、関東画工の目面(面目)をほどこし、難有(ありがたかり)けり」と感激している(『句藻』「竹鶯」)。大名社会からは逸脱したが、「画工」として名を立て、再び大名社会に迎え入れられたという自己認識なのであろうか。
(後略)

(絶筆四句)
 文政一一年(一八二八)一一月二九日、抱一は雨華庵で六八年の生涯を静かに終えた。晩年の弟子田中抱二は「一一月まで稽古に通ったという」(「雨華庵図」)から、急逝とみられる。『句藻』「はつ音」には、最期に書きつけられた四句のあと、索漠たる空白が広がっている。

  寄雪述懐(ゆきによするしゆつかい)
 月出(いで)て帰(かへる)風なり雪見舟(ゆきみぶね)
 残菊(ざんぎく)や慈童(じどう)は一里酒買(かひ)に
 木の瘤(こぶ)の残りて寒き鴉(からす)かな
 鹿の来てならすや菴(いほ)の楢(なら)紅葉(もみぢ)  

(後略)   】(『井田・岩波新書』「「第四章 太平の『もののあはれ』」)

その二十三 「秋夜月」と「月」扇子(抱一筆)

秋夜月と月.jpg

(右)酒井抱一筆「秋夜月」扇子 一本 一七・七×五一・〇㎝ 太田記念美術館蔵
(左)酒井抱一筆・賛「月」扇子 一本 一六・五×四五・〇㎝ 太田記念美術館蔵

(右) https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-03

【 秋の夜空を紺碧で、月を金で表す。単純ながらも大胆な構図と配色が印象的な扇。印章「抱弌」(朱文方印)・「文詮」(朱文瓢印)の朱色も背景に映える。賀茂季鷹(一七五四~一八四一)による和歌は「類なき光を四方にしき島や日本嶋根の秋夜月」。季鷹は京都の歌人で国学者。大田南畝らとも交流し、俗文芸にも接触をもった。抱一の画譜(文化十四年<一八一七>)に序を寄せており、抱一との交流も知られる。裏面には墨書「抱一上人此月を/□□□□/□□□□季鷹に賛をと/頗りにの給ひ/けれは/いなひ/かたくて/筆を/とれるに/なん」があり、季鷹が賛を請われた様子をうかがうことができる。  】(『鴻池コレクション扇絵名品展』所収「作品解説七(赤木美智稿)」)

(左) https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-07

【 隷書体で記された「月白風清此良夜如何」は、蘇軾(そしょく)『後赤壁賦』にある語句。宋の元豊五年(一〇八一)十月、蘇軾が流刑地の黄州で友人らとともに長江に遊覧して詠んだもの。上部には銀箔でかたどった月を、表裏でほぼ同じ位置に配する。月や月光を好んだ抱一らしい趣向である。隷書体で記された詩文とあいまって風雅なおもむきを備える。署名「雨華抱一書」、印章「(印文不明)」(白文方印)。 】(『鴻池コレクション扇絵名品展』所収「作品解説八(赤木美智稿)」)

 この二本の扇子(右と左)は、大きさも題名も違う、別々の扇子なのであろうか。それとも、大きさや題名が異なっていても、二本一組の「対」の扇子と解すべきなのであろうか。
 この問については、後者の、二本一組の「対」の扇子と解したい。そして、右の扇子は、金の月の「金」、季鷹(すえたか)の和歌の賛の「和」に対して、左の扇子は、銀の月の「銀」、蘇軾(そしょく)『後赤壁賦』の漢詩の賛の「漢」との、二極相対立する「対」(取り合わせ)の扇子と解したい。
 この「金に対する銀」、「和に対する漢」などの二極対立の構造(視点)は、『酒井抱一—俳諧と絵画の織りなす抒情(井田太郎著・岩波新書一七九八)』(以下、『井田・岩波新書』)では、「唱和」(「一方の作った詩歌に答えて、他方が詩歌を作ること」)の一形態の「反転」(「表=先行詩歌」の世界を「反転」(逆転)させて、「裏=後行詩歌」の世界を、水平的に創作する「反転の法」)に他ならないとしている。
 この「反転」(主として、「蕪村の反転の法」)については、下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-05-03

 そして、「金に対する銀」の「反転」の世界については、下記のアドレスなどで触れている。ここでは、一部順序を入れ替えて、さらに、補足と修正を加えつつ再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-30

(再掲)

波濤図屏風.jpg

尾形光琳筆「波濤図屏風」二曲一隻 一四六・六×一六五・四cm メトロポリタン美術館蔵
【荒海の波濤を描く。波濤の形状や、波濤をかたどる二本の墨線の表現は、宗達風の「雲龍図屏風」(フーリア美術館蔵)に学んだものである。宗達作品は六曲一双屏風で、波が外へゆったりと広がり出るように表されるが、光琳は二曲一隻屏風に変更し、画面の中心へと波が引き込まれるような求心的な構図としている。「法橋光琳」の署名は、宝永二年(一七〇五)の「四季草花図巻」に近く、印章も同様に朱文円印「道崇」が押されており、江戸滞在時の制作とされる。意思をもって動くような波の表現には、光琳が江戸で勉強した雪村作品の影響も指摘される。退色のために重たく沈鬱な印象を受けるが、本来は金地に群青が映え、うねり立つ波を豪華に表した作品であったと思われる。 】
(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「作品解説(宮崎もも稿)」)

 これは、光琳の「金」の世界(「退色のために重たく沈鬱な印象を受けるが、本来は金地に群青が映え、うねり立つ波を豪華に表した作品」)である。これを「反転」させたのが、次の抱一の「銀」の世界である。

抱一・波図屏風.jpg

酒井抱一筆「波図屏風」六曲一双 紙本銀地墨画着色 各一六九・八×三六九・〇cm
文化十二年(一八一五)頃 静嘉堂文庫美術館
【銀箔地に大きな筆で一気呵成に怒涛を描ききった力強さが抱一のイメージを一新させる大作である。光琳の「波一色の屏風」を見て「あまりに見事」だったので自分も写してみた「少々自慢心」の作であると、抱一の作品に対する肉声が伝わって貴重な手紙が付属して伝来している。宛先は姫路藩家老の本多大夫とされ、もともと草花絵の注文を受けていたらしい。光琳百回忌の目前に光琳画に出会い、本図の制作時期もその頃に位置づけうる。抱一の光琳が受容としても記念的意義のある作品である。 】
(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

 と同時に、光琳の「金」世界(「退色のために重たく沈鬱な印象を受けるが、本来は金地に群青が映え、うねり立つ波を豪華に表した作品」)は、「群青」の世界でもあった。その「群青」の世界をも踏襲したものが、右の「秋夜月」扇子の「群青」ということになる。

秋夜月・全体.jpg

(右)酒井抱一筆「秋夜月」扇子(「金」と「群青」の世界)

 そして、この「金と群青」の世界は、次の「朱と群青と白富士」に変転(変奏)してくる。

絵手鑑・富士図.jpg

酒井抱一筆「富士山図」(『絵手鑑』七十二図中の十九図)各二五・一×一九・七㎝ 
静嘉堂文庫美術館蔵

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-10-07

 そして、この群青は、北斎の、次の「神奈川沖浪裏(北斎筆)」の「群青(ベルリン藍=ベロ藍)の波濤図」と協奏してくる。

神奈川沖浪裏.jpg

北斎筆「神奈川沖浪裏」横大判錦絵 二六・四×三八・一cm メトロポリタン美術館蔵 
天保一~五(一八三〇~三四)
【房総から江戸に鮮魚を運ぶ船を押送船というが、それが荷を降ろしての帰り、神奈川沖にさしかかった時の情景と想起される。波頭の猛々しさと波の奏でる響きをこれほど見事に表現した作品を他に知らない。俗に「大波」また「浪裏」といわれている。】
(『別冊太陽 北斎 生誕二五〇年記念 決定版』所収「作品解説(浅野秀剛稿)」)

 さらに、抱一の「朱と群青と白富士」は、次の北斎の「赤(朱)富士」と通称されている「凱風快晴」に連なっていると解したい。

凱風快晴.jpg

北斎筆「凱風快晴」(『富嶽三十六景』全四十六図中の一図)横大判錦絵 二四・一×三七・二cm 天保一~三(一八三〇~三二) 東京冨士美術館蔵

https://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=3769

 次に、「和に対する漢」の「反転」については、例えば、「抱一筆十二か月花鳥図における和と漢」(『琳派 響きあう美(河野元昭著)』所収)で取り上げられている「和性と漢性の美しい均衡こそ、抱一筆十二か月花鳥図最大の美的特質である」の、「和性」(日本的イメージ)と「漢性」(中国的イメージ)との視点に立っての「反転」ということになる。
 これは、冒頭の「秋夜月」(右)の賛(賀茂季鷹の和歌「類なき光を四方にしき島や日本嶋根の秋夜月」)の「和性の賛」を、「月」(左)の賛(蘇軾の漢詩「月白風清此良夜如何」)の「漢性の賛」に「反転」しているということになる。
 この抱一の「和性と漢性」との視点ということについては、下記のアドレスの「雨華庵の四季(その一~その十八)」で、その「四季花鳥図巻」(上=春夏=「春夏の花鳥」・下=秋冬=「あきふゆのはなとり」)をとおして見てきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-12

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-16

 この「四季花鳥図巻」の、抱一自身が書いた題簽(上巻=「春夏の花鳥」と下巻=「あきふゆのはなとり」)の一つをとっても、抱一が、所謂、『古今和歌集』の、「真名序=漢性の序=紀淑望の序」と「仮名序=和性の序=紀貫之の序」の「漢性(中国風=漢詩風)と「和性」(日本風=和歌風)」との両極性を内在的に有していたことが察知される。
 ここで、抱一の、この「漢性」と「和性」との両極性ということについて、尾形光琳筆「紅白梅図屏風」を媒介として、それらをクローズアップさせていきたい。

(再掲)

紅白梅図屏風.jpg

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-05-08

尾形光琳筆「紅白梅図屏風」二曲一双 各一五六・〇×一七二・二cm MOA美術館蔵

【 平安時代に入り、国風文化が徐々に強まるとともに、梅は桜にその地位を譲ることになる。十世紀に初めに編まれた『古今和歌集』になると、桜は七十三首も詠まれて堂々と首位を占め、「花」といえば、それはただちに桜を意味するようになるのである。しかし、中国を意味する梅に対する尊敬は、けつして廃れることはなかった。ただし、この場合も日本化が起こって、中国で尊ばれた白梅に代わって、紅梅に対する愛好が生まれた。菅原道真や清少納言は大の紅梅ファンであった。これを琳派についていえば、尾形光琳筆「紅白梅図屏風」(MOA美術館蔵)においても、白梅は中国を、紅梅は日本を象徴していることが指摘されている。このような梅の暗喩を、和漢の教養豊かにして、光琳に私淑した抱一が知らないはずはなかった。 】
(『琳派 響きあう美(河野元昭著)』所収)「抱一筆十二か月花鳥図における和と漢」)

 この右隻の「紅梅」(和性)に、冒頭に掲載した「秋夜月」(和性=類なき光を四方にしき島や日本嶋根の秋夜月=賀茂季鷹)、そして、その左隻の「白梅」(漢性)に、冒頭の「月」(漢性=月白風清/此良夜如何=蘇軾)を重ね合わせると、この「右隻」と「左隻」の中央に、上から下へと貫通する「光琳波の水流」は、光琳を継承する抱一の「江戸琳派」の流れを意味してくる。
 そして、その「江戸琳派」の流れは、次のアドレスの、鈴木其一・池田孤邨らに継承されていく。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-10-15

その二十四 抱一筆「月に秋草鶉図屏風」など

月に秋草鶉図屏風.jpg

酒井抱一筆「月に秋草鶉図屏風」二曲一隻 紙本金地著色 一四四・七×一四四・〇㎝
落款「抱一畫於鶯邨書屋」 印章「抱弌之印」朱文重郭方印 「文詮」朱文瓢印 重要美術品 山種美術館蔵 → A図

月に秋草図屏風.jpg

酒井抱一筆「月に秋草図屏風」六曲一双 紙本金地著色 一三九・五×三〇九・〇㎝
落款「雨華菴抱一筆」 印章「文詮」朱文円印 「文詮」朱文瓢印 重要文化財
東京国立博物館寄託(ペンタックス株式会社蔵) → B図

兎に秋草図襖.jpg

酒井抱一筆「兎に秋草図襖」板絵著色 各一六二・五×八四・〇㎝ 三井記念美術館蔵 
→ C図

 この「月に秋草鶉図屏風」(A図)は、『酒井抱一—俳諧と絵画の織りなす抒情(井田太郎著・岩波新書一七九八)』(以下、『井田・岩波新書』)の口絵の冒頭に掲載されているものである。

  野路や空月の中なる女郎花  抱一(『屠龍之技』「第二かぢのおと」)

 この抱一の句は、夏目漱石の「門」の中に出てくる一句である。

【下に萩、桔梗、芒、葛、女郎花を隙間なく描いた上に、真丸な月を銀で出して、其横の空いたところへ、野路や空月の中なる女郎花、其一と題してある。
宗助は膝を突いて銀の色の黒く焦げた辺から、葛の葉の風に裏を返してゐる色の乾いた様から、大福程な大きな丸い朱の輪廓の中に、抱一と行書で書いた落款をつくづくと見て、
父の行きてゐる当時を憶ひ起さずにはゐられなかつた。 】(夏目漱石「門」より)

 これらのことに関して、次のアドレスで、次のように紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/archive/20190108

【上記の「野路や空月の中なる女郎花」は抱一の句で、抱一の高弟・鈴木其一が、その句を書き添えているというのであろう。この抱一の句は、抱一の自撰句集『屠龍之技』の「かぢのおと」に、「野路や空月の中なるおみなへし」の句形で収載されている。俳人でもある夏目漱石は、確かに、抱一の自撰句集『屠龍之技』を熟知していて、そして、上記の抱一の「月に秋草図屏風」類いのものを目にしていたのであろう。】(再掲)

 『井田・岩波新書』では、その「序章」(「画俳二つの世界」)で、その夏目漱石の「門」に出てくる、この抱一句を紹介しながら、この「月に秋草鶉図屏風」(口絵)で、次のように紹介している。

【 レモン型の月は、薄と接する低さである。薄や鶉は、藤原定家の和歌に基づく定家詠十二か月花鳥図の九月に出現する景物である。鶉の描き方は、南宋の画院画家、李安忠の筆と伝える「鶉図」(根津美術館)、それに倣った土佐派・狩野派に通ずるものがある。抱一が描いたとき、これらの要素は念頭にあったろうが、目を凝らせば、この第一扇にも実は女郎花が配されている。先述の句とは約二〇年という時期は隔ててはいるが、やはり武蔵野を舞台とする点では交響してくることになる。 】(『井田・岩波新書』「序章」)

 この「月に秋草鶉図屏風」は、落款に「抱一畫於鶯邨書屋」とあり、文化十四年(一八一七、抱一・五十七歳)以前の作と推定され、そして、この句の『屠龍之技』の章名「かぢのおと(梶の音)」(「梶の音」所収句の下限=寛政四年・一七九二・三十二歳)からすると、この画と句との制作時期の開きは「約二十年」位のスパンがあるということなのであろう。
 そして、この句の句意を理解するためには、その補助線として、「武蔵野は月の入るべき山もなし草より出でて草にこそ入れ」(俗謡・『続古今和歌集』源通方「武蔵野は月の入るべき峯もなし尾花が末にかかる白雲」)を媒介すると、「武蔵野の野道を歩いていくと視界が開け、空に続かんばかり。そこにあるわずか一メートルほどの女郎花が、低い月のなかにあるようにみえる」という句意を紹介している。
 この月(A図)は「上弦の月」で、武蔵野の地平線から空に昇っていく光景であろう。

https://weathernews.jp/s/topics/201802/220075/


上弦の月.jpg

【「月に秋草図」(B図)は、同様(A図と同様)に総金地に秋草を描きながら、一転して曲線を基調とした描写である。ここでは抱一得意の葛が主役をつとめているが、その葉は彩色に変化をもたせて下から輝く金地の効果を巧みに使っている。署名に「雨華庵抱一筆」とあり、抱一が「雨華庵」の庵号を用いた文化十四年五十七歳以降の作品とわかるが、草花が折り重なるところや芒の穂のしなだれるところなど晩年の代表作「夏秋草図屏風」(東京国立博物館蔵)の表現に近い。 】
(『琳派二 花鳥二(紫紅社)』所収「作品解説二三一(奥平俊六稿)」)

 この「月に秋草図」(B図)の月は満月である。「月に秋草図(一幅)」(MOA美術館蔵)「月に秋草図(一幅)」(山種美術館蔵)「月に葛図(一幅)」(萬野美術館蔵)「月夜楓図(一幅)」(静岡県立美術館蔵)「雪月花図(三幅)」(MOA美術館蔵)「月に秋草図扇(一本)」(東京国立博物館蔵)「秋夜月扇(一本)」(太田記念美術館蔵)「月扇(一本)」(太田記念美術館蔵)、これらは、全て満月である。

 次の「兎に秋草図襖」(C図)の月も満月である。

【全面に斜めに薄い板を貼り、重ねて地とした襖に、満月に照らし出された野分の吹き荒れる秋の野を描いている。秋草は左から風に大きく揺らぎ、驚いたように白い兎が飛び出している。草の葉は、墨にわずかに色を加えて地味に描かれ、金泥で葉脈が描き添えられる。月の光を受けたシルエットによる夜の表現がなされているためで、薄の白い穂花、葛の淡いピンクの花、山帰来の赤い実が印象的に色を加えている。斜めに貼られた木の線が強い風を表現し機知的効果をもたらしているが、新しい木地は光も反射する。襖に当たる光の加減によっては、反射した光が、月光のように画面から発せられたに違いない。抑えられた色調と、金や銀とは違った光の反射を楽しむ繊細な美意識、瀟洒な感覚が部屋を覆っていたに違いない。画面には署名は無く「文詮」朱文円印と「文詮」朱文瓢印が捺されている。 】
(『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展 継承と変奏(読売新聞社)』所収「作品解説Ⅳ-18(田沢裕賀稿)」)

光悦・兎扇面図.jpg

本阿弥光悦筆「月に兎図扇面」紙本金地著色 一七・三×三六・八㎝ 畠山記念館蔵 
→D図

【扇面を金地と濃淡二色の緑青で分割し、萩と薄そして一羽の白兎を描く。薄い緑は土坡を表わし、金地は月に見立てられている。兎は、この月を見ているのであろうか。
扇面の上下を含んで、組み合わされた四本の孤のバランスは絶妙で、抽象的な空間に月に照らし出された秋の野の光景が呼び込まれている。箔を貼った金地の部分には『新古今和歌集』巻第十二に収められた藤原秀能の恋の歌「袖の上に誰故月はやどるぞと余所になしても人のとへかし」の一首が、萩の花を避けて、太く強調した文字と極細線を織り交ぜながら散らし書きされている。
薄は白で、萩は、葉を緑の絵具、花を白い絵具に淡く赤を重ねて描かれている。兎は、細い墨線で輪郭を取って描かれ、耳と口に朱が入れられている。
単純化された空間の抽象性は、烏山光広の賛が記され、「伊年」印の捺された「蔦の細道図屏風」(京都・相国寺蔵)に通じるものの、細部を意識して描いていく繊細な表現は、面的に量感を作り出していく宗達のたっぷりとした表現とはやや異なるものを感じる。
画面左隅に「光悦」の黒文方印が捺されており、光悦の手になる数少ない絵画作品と考えられる。  】(『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展 継承と変奏(読売新聞社)』所収「作品解説Ⅰ-14(田沢裕賀稿)」)

この作品解説は、『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展 継承と変奏(読売新聞社)』の「二〇〇八年」に開催された図録によるものであるが、それより、三十六年前の「一九七二年」に開催された『創立百年記念特別展 琳派 目録 (東京国立博物館)』の作品解説は下記のとおりである。これからすると、上記の扇面画は、光悦作と解して差し支えなかろう。

【 本阿弥光悦筆「扇面月兎画賛」一幅 紙本墨書 一七・〇×三六・五㎝ 畠山記念館蔵
秋草に兎、扇面という形態の構図を十分に考慮した作品である。緑青をバックに映える白い兎、これに対して大胆にも、金箔の月が画面の三分の一以上を占める。光悦の筆になる和歌は、『新古今集』(巻一二)の藤原秀能の一首で、「袖の上に誰故月ハやどるぞとよそになしても人のとへかし」と読める。左下に、大きな「光悦」の墨方印がある。】(『創立百年記念特別展 琳派 目録 (東京国立博物館)』)

 この光悦画・賛の「月に兎図扇面」の右半分の金箔地が、下弦の月である。抱一の「兎に秋草図襖」(C図)は、「反転」というよりも「変転」(変奏)しているもののように思われる。そして、この「兎に秋草図屏風」は、「月に秋草図」(B図)と同時代の「雨華庵」時代の晩年の作のように思われる。
 そして、これらの大作に先行しての作品が、「鶯邨」時代の「月に秋草鶉図屏風」(A図)と解したい。

富士山図.jpg

酒井抱一筆「富士山図」(『絵手鑑』七十二図中の十九図)各二五・一×一九・七㎝ 
静嘉堂文庫美術館蔵

 この抱一の「富士山図」について、『酒井抱一—俳諧と絵画の織りなす抒情(井田太郎著・岩波新書一七九八)』(以下、『井田・岩波新書』)では、「富士は絹本に塗った群青色の空にシルエットで示され、眩しい朱色の太陽をそえる」(「第三章花開く文雅」「俳趣味と地域色)と、この白富士の右上の朱色の「満月」のようなものを朱色の「太陽」としている。
 ここは、上記の「月に秋草鶉図屏風」(A図)「月に秋草図屏風」(B図)「兎に秋草図襖」(C図)「月に兎図扇面」(D図)に連なる、「武蔵野の果ての雪の白富士と旭日を帯びた『朱の満月』」と解したい。
 そして、それは、抱一のスタート地点「浮世絵時代」の「紅嫌い(色彩を抑制した)」の「松村村雨図」(細見美術館蔵)の「月下の世界への興味」(『井田・岩波新書』「第一章『抱一』になるまで」「月下の世界への興味」)と連なっていると解したい。

  枯枝の梅と見へけり朧月  楓窓杜龍(抱一)(『俳諧尚歯会』)

「朧月によって、枯枝に梅花が咲いているようだと幻視したのか、それとも、朧月が枯枝に咲いた梅花のようであると見立てのか。おそらく、意識的に両方を意味するようにぼかしているのだが、この句もまた月下のモノクロームの幻の世界である。」(『井田・岩波新書』「第一章『抱一』になるまで」「月下の世界への興味」)

 抱一の「綺麗さび」の世界というのは、この両義性の世界、そして、月下の幻想世界からスタートしている。

その二十五 抱一筆「夕顔に扇図」(挿絵)など

夕顔に扇図.jpg

酒井抱一挿絵『俳諧拾二歌僊行』所収「夕顔に扇図」 → A図

https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200015438/images/200015438_00034.jpg

 この抱一の挿絵(「夕顔に扇図」)は、『酒井抱一—俳諧と絵画の織りなす抒情(井田太郎著・岩波新書一七九八)』(以下、『井田・岩波新書』)所収「酒井抱一略年譜」で、抱一が亡くなる「文政十一年(一八二八)六十八歳」に「三月、『俳諧拾二歌僊行』に挿絵提供(抱一)、十一月、抱一没、築地本願寺に葬られる(等覚院文詮)」に出てくる、抱一の「最後の作品」(「第四章太平の『もののあわれ』「絶筆四句」)で紹介されているものである。
 この挿絵が収載されている『俳諧拾二歌僊行(はいかいじゅうにかせんこう)』については、上記のアドレスで、その全容を閲覧することが出来る。これは、大名茶人として名高い出雲国松江藩第七代藩主松平不昧(ふまい)の世嗣(第八代藩主)松平斉恒(なりつね・俳号=月潭)の七回忌追善の俳書である。
 大名俳人月潭(げったん)が亡くなったのは、文政五年(一八二二)、三十二歳の若さであった。この年、抱一、六十二歳で、抱一と月潭との年齢の開きは、三十歳も抱一が年長なのである。
 抱一の兄・忠以(ただざね、茶号=宗雅、俳号=銀鵞)は、抱一(忠因=ただなお)より六歳年長で、この忠以(宗雅)が、四歳年長の月潭の父・治郷(はるさと、茶号=不昧)と昵懇の間柄で、宗雅の茶道の師に当たり、この「不昧・宗雅」が、当時の代表的な茶人大名ということになる。
 この不昧の弟・桁親(のぶちか、俳号=雪川)は、宗雅より一歳年長だが、抱一は、この雪川と昵懇の間柄で、雪川と杜陵(抱一)は、米翁(べいおう、大和郡山藩隠居、柳沢信鴻=のぶとき)の俳諧ネットワークの有力メンバーなのである。
 さらに、抱一の兄・忠以(宗雅)亡き後を継いだ忠道(ただひろ・播磨姫路藩第三代藩主)の息女が、月潭(出雲国松江藩第八代藩主)の継室となっており、酒井家(宗雅・抱一・忠道)と松平家(不昧・雪川・月潭)とは二重にも三重にも深い関係にある間柄である。
 そして、実に、その月潭が亡くなった文政五年(一八二二)は、抱一の兄・忠以(宗雅)の、三十三回忌に当たるのである。さらに、この月潭の七回忌の追善俳書(上記の『俳諧拾二歌僊行』)に、抱一が、上記の「夕顔と扇面図」の挿絵を載せた(三月)、その文政十一年(一八二八)の十一月に、抱一は、その六十八年の生涯を閉じるのである(『井田・岩波新書』)所収「酒井抱一略年譜」)。
 その意味でも、上記の「夕顔と扇面図」(『俳諧拾二歌僊行』の抱一挿絵)は、「画・俳二道を究めた『酒井抱一』の生涯」の、その最期を燈明する極めて貴重なキィーポイントともいえるものであろう。
 さらに、ここに付記して置きたいことは、「画(絵画)と俳(俳諧)」の両道の世界だけではなく、それを「不昧・宗雅」の「茶道」の世界まで視点を広げると、「利休(侘び茶)→織部(武家茶)→遠州(「綺麗さび茶」)」に連なる「酒井家(宗雅・抱一・忠道・忠実)・松平家(不昧・雪川・月潭)・柳澤家(米翁・保光)の、その徳川譜代大名家の、それぞれの「徳川の平和(パクス・トクガワーナ)=平和=太平」の一端を形成している、その「綺麗さび」の世界の一端が垣間見えてくる。
 それは、戦乱もなく一見すると「太平」の世であるが、その太平下にあって、それぞれの格式に応じ「家」を安穏を守旧するための壮絶なドラマが展開されており、その陰に陽にの人間模様の「もののあはれ」(『石上私淑言(本居宣長)』の、「見る物聞く事なすわざにふれて情(ココロ)の深く感ずる事」)こそ、抱一の「綺麗さび」の世界の究極に在るもののように思われる。
 抱一の若き日の、太平の世の一つの象徴的な江戸の遊郭街・吉原で「粋人・道楽子弟の三公子」として名を馳せていた頃のことなどについては、下記のアドレスで紹介している。 

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-25

  御供してあらぶる神も御国入(いり)  抱一(『句藻』「春鶯囀」)

 この句には、「九月三日、雲州候月潭君へまかり、「翌(あす)は国に帰(かへる)首途(かどで)なり」として、そぞめきあへりける時」との前書きがある(『井田・岩波新書』「第四章太平の『もののあはれ』」)。
 この句が収載されているのは、文化十四年(一八一七)、抱一、五十七歳の時で、この年は、抱一にとって大きな節目の年であった。その年の二月、『鶯邨画譜』を刊行、五月、巣兆の『曽波可理』に「序」を寄せ、その六月に鈴木蠣潭が亡くなる(二十六歳の夭逝である)。その鈴木家を、其一が継ぎ、また、小鶯女史が剃髪し、妙華尼を称したのも、この頃である。
 そして、その十月に「雨華庵」の額(第四姫路酒井家藩主)を掲げ、これより、抱一の「雨華庵」時代がスタートする。掲出の句は、その一カ月前の作ということになる。
 句意は、「出雲では陰暦十月を神無月(かんなづき)と呼ばず、八百万(やおよろず)の神が蝟集することから神有月(かみありづき)と唱える。神有月近いころ、『あらぶる神』が出雲の藩主月潭の国入りの『御供』をするという一句である」(『井田・岩波新書』「第四章太平の『もののあはれ』」)。
 この年、出雲の藩主月潭は、二十七歳の颯爽としたる姿であったことであろう。そして、それから十一年後の、冒頭の抱一の「夕顔に扇面図」の挿絵が掲載された『俳諧拾二歌僊行』は、その月潭の七回忌の追善俳書の中に於いてなのである。
 とすれば、抱一の、この「夕顔に扇面図」の、この「夕顔」は、『源氏物語』第四条の佳人薄命の代名詞にもなっている「夕顔」に由来し、そこに三十ニ歳の若さで夭逝した出雲の藩主月潭を重ね合わせ、その「太平の『もののあはれ』」の、 そのファクターの一つの「はかなさ」を背景に託したものと解すべきなのであろう。

  見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮  藤原定家 

  I looked beyond; / Fiowers are not, / Nor tinted leaves./
On the sea beach / A solitary cottage stands /
In the waving light / Of an autumn eve. (岡倉天心・英訳)

 見渡したが / 花はない、/ 紅葉もない。/
   渚には / 淋しい小舎が一つ立っている、/ 
秋の夕べの / あせゆく光の中に。        (浅野晃・和訳)

 『茶の本 Ter Book of Tea (岡倉天心著 浅野晃訳 千宗室<序と跋>)』 で紹介されている藤原定家の一首(『新古今』)で、千利休の「侘び茶」の基本的な精神(和敬静寂)が込められているとされている。
 それに続いて、小堀遠州の「綺麗さび」の茶の精神を伝えているものとされている、次の一句が紹介されている。

   夕月夜海すこしある木の間かな (宗長作とも宗碩作とも伝えられている)

A cluster of summer trees,/
A bit of the sea,/
A pale evening moon. (岡倉天心・英訳)

  ひとむらの夏木立、
  いささかの海、
  蒼い夕月。 (浅野晃・和訳)

 抱一にも、次の一句がある。

   としせわし鶯動く木の間かな   抱一(『句藻』「春鶯囀」)

 この抱一の句は、先に紹介した月潭の「九月三日、雲州に御国入り」の際の「御供してあらぶる神も御国入(いり)」と同じ年(文化十四=一八一七)の「歳末」の一句である。
 この抱一、五十八歳時の、「雨華庵」時代がスタートした年の歳末吟の一句は、「不昧・宗雅・抱一」の、その茶の世界に通ずる、小堀遠州の「綺麗さび」の世界に通ずる一句と解したい。

(再掲)

扇面夕顔図.jpg

酒井抱一筆「扇面夕顔図」 一幅 四〇・八×五五・〇㎝ 個人蔵 → B図

【現在の箱に「拾弐幅之内」と記されるように、本来は横物ばかりの十二幅対であった。全図が『抱一上人真蹟鏡』に収載されており、本図は六月に当てられている。扇に夕顔を載せた意匠は、「源氏物語」の光源氏が夕顔に出会う場面に由来する。細い線で輪郭を括り精緻だが畏まった描きぶりは、この横物全般に通じる。模写的性質によるためか。「雨花抱一筆」と款し「抱弌」朱方印を押す。 】 (『酒井抱一と江戸琳派の全貌 求龍堂』所収「図版解説一三二(松尾知子稿)」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-05

【 酒井抱一「扇面夕顔図」
『抱一上人真蹟鏡』に縮写される抱一の共箱には、表に「横物十二幅対」とあり、蓋裏に「雨花菴抱一誌」として、「円窓福禄寿」「浪に燕」「雀児 徐崇嗣之図」「色紙 ほととぎす画賛」「競馬」「扇夕顔」「盆をとり 尚信之図」「月夜狐」「伊勢物語 河内通ひ」「時雨のふし 松花堂うつし」「寒牡丹」「雪鷹狩 □の君」の各画題が記されている。『真蹟鏡』ではこれらに十二ケ月を当てて順に全図が写されている。和漢の古典に題材をとった十二幅であったようだ。松花堂写しの富士にはも、「叡麓隠士抱一図」と款記がある。 】(じょうき所収「作品解説一三二(松尾知子稿)」)

 上記の『抱一上人真蹟鏡』の縮図は、次のアドレスで見ることができる。

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko06/bunko06_01266/bunko06_01266_0001/bunko06_01266_0001_p0010.jpg

六月・扇.jpg

『抱一上人真蹟鏡 上下』( 抱一上人 [画]・ 池田孤邨 [編])所収「上・六月」
早稲田大学図書館蔵(坪内逍遥旧蔵) → C図

 この縮図(D図)は、間違いなく、「扇面夕顔図」(B図)を模写したものに違いない。しかし、「夕顔に扇図」(A図)と「扇面夕顔図」(B図)とでは、明らかに図柄が違っている。この「夕顔に扇図」(A図)は、抱一が亡くなる八か月前に刊行された『俳諧拾二歌僊行』に収載されたもので、抱一の絶筆に近いものと解して差し支えなかろう。
 そして、図柄は違っていても、同じ主題の「A図」と「B図」とは、その制作時期は、ほぼ同じ頃のものと解したい。とすると、『抱一上人真蹟鏡 上』に収載されている「横物十二幅対」は、抱一の晩年の作を知る上で貴重な作品群ということになる。
 『酒井抱一と江戸琳派の全貌 求龍堂』の「作品解説一三二(松尾知子稿)」など基にして、そこに若干のメモ(抱一の「綺麗さび」の世界の一翼を担っているものなど)を併記して置きたい。

「横物十二幅対」(一月~十二月)(※※=上記の「B図」 ※=『酒井抱一と江戸琳派の全貌 求龍堂』に収載されているもの)

一月 → 「円窓福禄寿」→ ※抱一筆「寿老図」(個人蔵)→最晩年の作(?) 
二月 →「浪に燕」→光琳筆「波上飛燕図」(『琳派三風月・鳥獣』所収「作品一三一」)
※三月 →「雀児 徐崇嗣之図」(姫路市立美術館蔵)→「徐崇嗣」(宋初の花鳥画家)
四月 →「色紙 ほととぎす画賛」→蕪村筆「岩くらの狂女恋せよほととぎす」自画賛?
五月 →「競馬」→ 狩野昌運筆「競馬図」(?) 
※※六月 →「扇夕顔」(個人蔵)→『源氏物語』第四帖「夕顔」
七月 → 「盆をとり 尚信之図」→ 狩野尚信筆「盆踊り図」 
八月 → 「月夜狐」→ 円山応挙「白狐図」(?) 
九月 → 「伊勢物語 河内通ひ」→光琳筆「伊勢物語図 武蔵野・河内越」(?) 
十月 → 「時雨のふし 松花堂うつし」→ 抱一筆「松花堂昭乗」肖像画(?)
十一月 → 「寒牡丹」 → 宗達筆「牡丹図」(?)
十二月 → 「雪鷹狩 □の君」 → 狩野(清原)雪信筆「王昭君図」(?)

小堀遠州.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「三五 小堀政一」(姫路市立美術館蔵)

https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1505

 抱一の『集外三十六歌仙図画帖』の中に、「綺麗さび」の世界を切り拓いた、茶人大名の「小堀遠州(小堀政一)」が収載されている。上記の肖像と歌がそれである。

歌題 河邊寒月
歌  かぜさへてよせくるなみのあともなし 氷る入江の夜の月

 ここに、前掲の「茶の本」(岡倉天心著)の、小堀遠州の愛唱句を再掲して置きたい。

(再掲)

夕月夜海すこしある木の間かな (宗長作又は宗碩作)

A cluster of summer trees,/
A bit of the sea,/
A pale evening moon. (岡倉天心・英訳)

  ひとむらの夏木立、
  いささかの海、
  蒼い夕月。 (浅野晃・和訳)

 そして、岡倉天心の、この句に寄せての感慨(和訳)を、ここに記して置きたい。

【彼(小堀遠州公)の意味するところは、推察するに難くない。彼は、過去の影のような夢のさ中になおまだ徘徊しつつも、やわらかな霊の光の甘美な無意識(無我)のなかに浴しつつ、漂渺たる彼方に横たわる自由にあこがれる—―そういった魂の新しい目ざめの相を、つくり出そうと欲したのである。 】(『茶の本 Ter Book of Tea (岡倉天心著 浅野晃訳 千宗室<序と跋>)』)

 ここに、抱一の「綺麗さび」の一端が集約されている。