屠龍之技(酒井抱一句集)第一こがねのこま(1-5)~(1-11)

1-5  かげろふや野馬(のうま)の耳の動く度(たび)

 陽炎(かげろう、かげろふ)=三春。子季語に「野馬(かげろふ・やば)・糸遊・遊糸・陽炎燃ゆ・陽焔・かげろひ・かぎろひ」。

 陽炎や柴胡(さいこ)の糸の薄曇    芭蕉「猿蓑」

かげろふに寝ても動くや虎の耳     其角「其角発句集」

野馬(かげろふ)に子共あそばす狐哉  凡兆「猿蓑」

陽炎や名もしらぬ虫の白き飛(とぶ)  蕪村「蕪村句集」

かげろふや簣(あじか)に土をめづる人 蕪村「蕪村句集」

  この二句目の「かげろふに寝ても動くや虎の耳」(其角)の「かげろふ」は、「かげろふ(陽炎)=三春」か「かげろふ(蜉蝣=初秋)・かげろふ(蜻蛉=三秋)」か、それとも、「陽炎と蜉蝣・蜻蛉」とが掛詞になっているのかと、いろいろと悩ましい、これまた「謎句」的な仕掛けのある句なのであろう。

 この句には、「四睡図」という前書が付してあり、『其角発句集(坎窩久臧考訂)』では、「豊干禅師、寒山、拾得と虎との睡りたる図」との頭注(同書p180)がある。 

 其角が、どういう「四睡図」を見たのかは定かではないが、実は、其角の師匠の芭蕉にも、次のような「四睡図」を見ての即興句が遺されている。

  月か花かとへど四睡の鼾(いびき)哉  ばせお (真蹟画賛、「奥羽の日記」)

 この芭蕉の句は、「おくの細道」の「羽黒山」での、「羽黒山五十代の別当・天宥法印の『四睡図』の画賛」なのである。

芸阿弥(室町時代)「四睡図」(部分拡大図)(「ウィキペディア」)

長沢芦雪筆(18世紀)「四睡図」(部分図)(「ウィキペディア」)

菱川師宣(1701年)「四睡図」(部分図)(「ウィキペディア」) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%9D%A1%E5%9B%B3

  其角の「かげろふに寝ても動くや虎の耳」の「虎の耳」は、芭蕉の「月か花かとへど四睡の鼾哉」の「四睡図」に描かれている「虎の耳」を背景にしているのかも知れない。と同時に、この其角の句は、同じく、芭蕉の、その『猿蓑』に収載されている「陽炎」の句の、「陽炎や柴胡(さいこ)の糸の薄曇」をも、その背景にしているように思われる。

 この「柴胡(さいこ)の糸」というのは、薬草の「セリ科の植物のミシマサイコの漢名、和名=翁草」で、その糸ような繊細な「柴胡」を、「糸遊」の別名を有する「陽炎」と「見立て」の句なのである。

 そして、其角は、芭蕉の、その「糸ような繊細な『柴胡』=「陽炎」という「見立て」を、「かげろふ」=「陽炎」=「薬草の糸のような柴胡」(芭蕉)=「蜉蝣(透明な羽の薄翅蜉蝣・薄羽蜉蝣・蚊蜻蛉)」(其角)と「見立て替え」して、「蕉風俳諧・正風俳諧」(『猿蓑』の景情融合・姿情兼備の俳風)から「洒落風俳諧」(しゃれ・奇抜・機知を主とする俳風)への脱皮を意図しているような雰囲気なのである。

 (『猿蓑』の「陽炎」の句)

 陽炎や/取つきかぬる雪の上      荷兮(かけい)

かげろふや/土もこなさぬあらおこし  百歳

かげろふや/ほろほろ落る岸の砂    土芳

いとゆふのいとあそぶ也虚木立(からきだて)  伊賀 氷固(ひょうこ)

野馬(かげろふ)に子共あそばす狐哉  凡兆

かげろふや/柴胡の糸の薄曇      芭蕉

(「洒落風」其角俳諧)

かげろふに寝ても動くや虎の耳     其角「其角発句集」

かげろふや野馬(のうま)の耳の動く度 抱一『屠龍之技』

 1-5  かげろふや野馬(のうま)の耳の動く度(たび)

  句意=「陽炎(かげろう)」が立つ野辺に、「かげろう(野馬)」の異名をもつ「野馬(のうま・やば)」が「四睡図」の虎のように寝入っていて、その耳に「かげろう(蜉蝣)」が止まるのか、時折、耳を動かしている。

 (参考)英一蝶の「風流四睡図」周辺

「風流四睡 英一蝶」(「ウィキメディア・コモンズ、フリーメディアリポジトリ」)

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E9%A2%A8%E6%B5%81%E5%9B%9B%E7%9D%A1_%E8%8B%B1%E4%B8%80%E8%9D%B6.jpg

  其角の畏友「英一蝶」は、「四睡図」の「豊干禅師」=「花魁(おいらん)」、「寒山・拾得」=「二人の禿(かむろ)」、「虎」=「猫」に「見立て替え」して、「風流四睡図」を描いている。其角が、この「風流四睡図」に画賛をすれば、次のような句になる。

       かげろふに寝ても動くや猫の耳 

 

1-6 ゆめに見し梅や障子の影ぼうし

  季語=梅(初春)。「影ぼうし」=影法師=光をさえぎったため、地上や障子、壁などにその人の形が黒く映ったもの。かげぼう。かげぼし。かげんぼし。※七十一番職人歌合(1500頃か)六三番「影法師見苦しければ辻相撲月をうしろになしてねるかな」(『精選版 日本国語大辞典』)

  この句もまた、抱一が金科玉条としている「江戸座俳諧」宗匠の元締ともいうべき、「宝井其角」(「竹下侃憲(たけした ただのり)」、別号=「螺舎(らしゃ)」「狂雷堂(きょうらいだう)」「晋子(しんし)」「宝普斎(ほうしんさい」)の、次のような、世に知られている「其角句」が、その念頭(「季語・俳語・語句」など)にあっての一句ということになろう。

  貞享四年(一六八七)、其角二十七歳、母の死にあっての服忌中の句に、

   たのみなき夢のみ見けるに

うたたねのゆめに見えたる鰹かな 其角「続虚栗」「五元集」

   初七ノ夜いねかねたりしに

夢に来る母をかへすか時鳥  其角「続虚栗」「五元集」

元禄三年(一六九〇)、其角三十歳の六月十六日の句に、

  怖(ヲソロシキ)夢を見て

切られたる夢は誠か蚤の跡   其角「花摘」

  いきげさにずてんど   うちはなされたるがさめて後

切られたる夢は誠か蚤の跡   其角「五元集」

雀子やあかり障子の笹の影   其角『五元集』

 むめの木や此一筋を蕗のたう  其角「猿蓑」

 百八のかねて迷ひや闇のむめ  其角「猿蓑」

宝井其角(『國文学名家肖像集』)(「ウィキペディア」)

※ ゆめに見し梅や障子の影ぼうし(「こがねのこま」1-6)

 句意=「ゆめ(夢)」でみた「梅(むめの木)」の「障子の影ぼうし(障子に映る影法師)」は、亡き人の面影を伝えてくる。

  雀子やあかり障子の笹の影  (其角『続虚栗』)

 「影」は、「人やものの姿が光りで、地面や壁に映し出されたもの」、「影法師」は、「影」を擬人化しての用例。「一寸法師、荒法師、起き上がり法師、てつくつく法師(蝉の一種)」などと、この種の用例はしばしば見かける。

  弱法師(よろぼうし)我門(かど)ゆるせ餅の札  (其角『猿蓑』)

 この其角の「弱法師」は、乞食のこと。「餅の札」というのは、「年末に民家に餅を所望する乞食が、餅をくれる家と、呉れない家を区分する札を貼って歩く」、その札のこと。

 抱一(宝暦十一年=一七六一年生まれ)と全く同時代の、小林一茶(宝暦十三年=一七六三年生まれ)にも、「影法師」の佳句が多い。

http://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/jsearch.cgi?dbi=20140103235455_20140104001012&s_entry=0&orSearch=1&se0=0&sf0=0&sk0=%89e%96@%8et

   影法師とまめ息才でけさの春        俳諧寺抄録 文化14

  影法師に御慶を(申す)わらじ哉    文政句帖  文政7

  行灯やぺんぺん草の影法師      文政句帖 文政8

  梅咲やせうじ(障子)に猫の影法師  七番日記 文政1

  影法師を七尺去(さり)てぼたん哉  七番日記 文政1

  影法師に恥よ夜寒のむだ歩き     おらが春 文政2

  秋風やひよろひょろ山の影法師    七番日記 文化11

  秋風や谷向(むか)ふ行(ゆく)影法師 八番日記 文政4

  我よりは若しかゞし(案山子)の影法師 八番日記 文政4

  日ぐらしや我影法師のあみだ笠     八番日記 文政4

  朝顔や横たふはたが影法師       題葉集  寛政12

  老たりな瓢(ふくべ)と我が影法師   七番日記 文化9

  ひいき目に見てさへ寒し影法師     七番日記 文政1

  影法師も祝へたゞ今とし暮(くれ)る  八番日記 文政2

(参考) 「取合せ論の史的考察―その本質と根拠―(堀切実稿)」

https://www.jstage.jst.go.jp/article/haibun1951/2008/115/2008_115_1/_article/-char/ja/

 はじめに― “取合せ” と日本文化

 「取合せ」は俳諧特有の理論ではない。絵画における色彩の配合、茶道における道具の取合せ、その他、香道の組香や狂言の衣裳の取合せなど、日本の諸芸道に相通じた手法である。  

  取合される“もの” と“もの” との異質性が要求され、しかも、そこに生じる違和感を止揚し、超克されるところに、取合せの美学が成立する。

 取合せは、取合される素材に即した感覚的、もしくは形象的な面での取合せを本質とするものではない。たとえば茶道の取合せといえば、普通、道具の取合せをいうが、個々の茶道具の取合せによって、それぞれの道具が単独にもっている美とは別の、ある微妙な調和美― 変化と調和の世界を表すものであり、これを「数寄」と称する。

 「数寄」とは「心のほかに物なし。心は万理をふくむ。時の宜に叶ふ事、皆わが心のなす事也」(『石州三百ヶ条』)と説かれるように、人の心の数寄に発するものであり、茶道を確立させた利休流の極意がここにある。単に道具の感覚的な調和美をさすのでなく、いわば茶席に臨む人たちの心の調和をめざすものであり、そこに配される道具は、要するに心の具象化として示されるのである。

 (以下略)

一、連歌における取合せ  (略)

二、談林俳諧における雅・俗配合の手法 (略)

 三、蕉風の取合せ論― その問題点

 蕉風の取合せ論について考察しようとする場合、つねに論議の対象となるのは、『去来抄』「修行」篇の次の一条である。

   先師曰く「発句は頭よりすらすらといひ下し来るを上品と

す」。洒堂曰く「先師『発句は汝がごとく二つ三つ取り集

めするものにあらず。こがねを打ちのべたるがごとくなる

べし』となり」。

先師曰く「発句は物を合あはすれば出来しゅったいせり。

その能く取合するを上手といひ、悪しきを下手といふ」。(下略)

 右の一条のうち、「こがねを打のべたるがごとく」― いわゆる「一物仕立て」の句について説かれた前半部は、去来著の『旅寝論』(元禄十二年三月稿)に師説としてみえるものと一致し、「取合せ」の句についての後半部は、許六の「自得発明弁」(元禄十一年三月稿、『俳諧問答』所収)に同じく師説としてみえるものとほぼ合致している。そして一般にこの一条は、芭蕉が門人の資質・個性に応じて、ときには全く正反対の指導をしていること― すなわち“ 対機説法” の好例として受けとめられてきたのであった。

 これに対して、「取合せ」論を、最短詩型文芸としての蕉風発句の本質的構造にかかわるものととらえ、表現論として創始された中心命題として位置づけようとする立場から、はじめて「取合せ」論を本格的な検証したのが、拙稿「取合せ論の検討」(『国語と国文学』昭46 ・2月号(4) ) であったといえる。その結論は次の二点に集約される。

A、芭蕉の説の真意は、ここでいう「能く取合する」こと

― すなわち「取合せ」て、かつ「こがねを打ちのべたる」ようになった句を理想としたものであること― したがって、「取合せ」と「こがねを打ちのべたる」句とは、相互に矛盾せず、対機説法ではなかった。

B、取合せの方法は、本質的に、感覚的な“ 描写論” ではなく、作者の心の働き

― その主体的な認知のあり方にかかわる“ 思考論” である。したがって、取合せの生命

は二物を緊密に調和させる主体的な感合としての「とりはやし」(統合) の働きにある。

 (以下略)

四、蕉風における取合せの発想法 (略)

▽雅と俗の取合せによる句

▽雅・俗の取合せ以外の句

▽心情にかかわる取合せの句

▽取合せが表面には出ていない句

五、取合せという思考法 (略)

六、取合せの句における“思考” の働き (略)

七、許六の取合せ論の変質 (略)

八、近世から近代へ― 取合せ論の継承(略)

九、誓子の写生構成説 (略)

 おわりに

 今日の俳壇でも、[取合せ」論はしばしば総合俳句誌にもとり上げられているし、俳句入門書の類でも必ず「取合せ」や「配合」の項が立てられている。ただ、近年における”.取合せの名手” と評判の高い奥坂まやの代表句、

  地下街の列柱五月来りけり

万有引力あり馬鈴薯にくぼみあり

 などからうかがうと、物と物との強烈な衝撃をねらった、いわゆる「二物衝撃」の手法が好まれているかに推察される。けれども、この「万有引力あり」「馬鈴薯にくぼみあり」のように判断を投げ出したような措辞には、蕉風の「取合せ」とはやや異質なものが感じられるのである。「取合せ」はあるが、自然な※「とりはやし」がない、作者という主体の強烈な発見と認知はあるものの、自然な「とりはやし」にはなってないという感じが拭えない。これはむしろ、許六晩年の「掛合せ」意識の発展したものという印象が強いのである。

 「取合せ」論は、支考の「姿先情後」説、「虚先実後」説とともに、短詩型文芸としての発句・発句の表現構造を考えるためには、きわめて重要な説である。現代の俳句、さらには俳句の未来を考えるためにも、さらなる解明が必要なのである。

 ※「とりはやし」=俳諧用語。二つのものを効果的に結び合わせる。→ 俳諧・青根が峯(1698)自得発明弁「発句は〈略〉二つ取合(とりあはせ)て、よくとりはやすを上手と云也」(精選版 日本国語大辞典「取囃」)

 注 (略)

 1-7 芹喰ふて翼の軽き小鴨かな

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2016

 季語=芹(三春)。子季語=根白草、根芹、田芹、芹摘む、芹の水。【解説】芹は春の七草の一つで、若菜を摘んで食する。七草粥が代表的だが、ひたし、和え物にしたり香味料として吸い物に用いたりする。

【例句】

我がためか鶴はみのこす芹の飯 芭蕉「続深川」

これきりに径尽たり芹の中 蕪村「蕪村俳句集」

古寺やほうろく捨るせりの中 蕪村「蕪村句集」

 一茶の「芹」の句

 http://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/jsearch.cgi

 せり流す雪のけぶりや門の川           梅塵八番/ 文政4

芹つみや笠の羽折に鳴(なく)蛙          句稿消息/文化10

払子(ほっす)ほど俗の引行(ひきゆく)根芹哉   五十三駅/ 天明8

田芹摘み鶴に拙(つたな)く思(おもわ)れな   文化句帖/文化2

あれこれと終に引(ひか)るゝ根芹哉       発句類題集/文政3

 其角の『虚栗』(其角編「天和三年版・上」)に次の句がある。

  何ガ故ゾ渓-辺ノ双-白-鷺

  旡(无キ)レ憂ヘ頭-上ニモ

 亦タ垂ルレ糸ヲ

髪あらふ鷺芹とかす沢辺哉

小袖着せて俤匂へうめが妻

 ※虚栗(みなしぐり)は、宝井其角編の俳諧撰集。1683年(天和3年)6月、江戸西村半兵衛・京都西村市郎右衛門刊、松尾芭蕉跋。其角の最初の撰集である。

 発句・歌仙・三つ物・二五句などを収める。作者は其角・服部嵐雪・杉山杉風・芭蕉らの芭門のほか、貞門派・談林派の俳人も含む。芭蕉の跋文に「李・杜が心酒を嘗めて」「寒山が法粥を啜る」「西行の山家をたづねて」「白氏が歌を仮名にやつして」とあるように、李白・杜甫・寒山・西行・白楽天などを理想とした。漢語の多用、字余り、破調などが特徴で、後に「虚栗調(漢詩文調)」と呼ばれた。芭蕉自身は荘子流に震動して虚実分かたぬ語の使用を讃える一方で、生鍛えな句があることを指摘している。(「ウィキペディア」)

『虚栗集 / 其角』(「愛知県立大学図書館 貴重書コレクション」)

https://opac.aichi-pu.ac.jp/kicho/kohaisyo/books/027_39-40_1/102714946/102714946_0005.html

   其角の『虚栗』の漢詩文の前書のある「鷺と芹」の句の句意の探索というのは難しい。前書を除外視して、次の一句の句意を考察して見たい。

 髪あらふ鷺芹とかす沢辺哉

  この「髪あらふ」は、「鷺芹とかす」の「鷺」が擬人化的用例で「髪あらふ」のであろうか。それとも、二句目の「小袖着せて俤匂へうめが妻」と連動させて、その「鷺」に、作者の言外にある「俤(面影)を宿している女性」をダブらせて鑑賞すべきなのかどうか、この二者択一の選択の比重が難しいのである。

 ここで、前回の(参考)で紹介した、「取合せ論の史的考察―その本質と根拠―(堀切実稿)」の、「取合せ論」の、「とりはやし・取囃」(「こがねを打のべたるがごとく」― いわゆる「一物仕立て」の句)」と「取合わせ」(「発句は物を合(あは)すれば出来(しゅったい)せり」― いわゆる「二物仕立て・二物衝撃」の句)」との問題が生じてくる。(「取合せ論の史的考察―その本質と根拠―(堀切実稿)」では、「― すなわち「取合せ」て、かつ「こがねを打ちのべたる」ようになった句を理想としたものであること― したがって、「取合せ」と「こがねを打ちのべたる」句とは、相互に矛盾せず、対機説法ではなかった。」という立場のようである。)

  しかし、これらは「発句(俳句)」論に比重をかけていて、「俳諧(連句)」論に根差すと、次のアドレス(「猫蓑通信」第42号 平成13(2001)年1月15日刊より)のものなどが参考となってくるであろう。

 http://www.neko-mino.org/renkuQA/A42.html

 「 Q42・「あなたの句は俳句だ」とは連句の座で、あなたの句は俳句だと言われることがありますが、これはどういう意味でしょうか。」

 「 A42・「俳句(発句)には一句一章のものと二句一章のものがあります」(三句一章体というものもありますが、極めて稀であるため、ここでは取り上げないことにします)。

 一句一章例   道のべの木槿は馬にくはれけり

二句一章例   草臥れて宿借る比や藤の花

 芭蕉は、一句一章体については、頭からすらすらと言い下すのが上等の発句であると言い、二句一章体については、物をよく取り合わせるのを上手と言い、悪く取り合わせるのを下手というと言って、どちらのやり方も否定しませんでしたが、後者に対しては、物を取り合わせて作る時は、句も多く出来るし、速やかに詠むことが出来ると推奨しております(『去来抄』)。

 ところで、この俳句十七字の中で物を取り合わせるという作業は、連句三十六句の中で、前句に付句を付け合わせるという作業に、甚だよく似ております。連句の前句は、それだけでは独立性がないので、これまた独立性の乏しい付句を待って、二つを付け合わせる事によって、芸術性の高い付合になろうとしているのであり、ここに連句が次々と続いてゆく力がひそんでいるのであります。

 それ故、たとえば花前の句に対して、二句一章の花の句を付けると言うことになれば、その花の句は全く花の俳句を付けるという事になります。その事自体は特に咎められる事でもないかも知れないが、往々素晴らしい花の句を付けようということに精神を集中して、前句との付味をまったく無視した花の句を付ける可能性が生まれます。このような花の句を、これは俳句と申すのです。

 これは花の句ばかりでなく、月の句の外、季語をもった長句にもおこりうる事ですから注意して下さい。

 ただ、第三だけは、丈高くという事が絶対条件となっておりますので、わざわざ、大山体・小山体・杉形の作り方が伝わっておりますが、これらははっきりした切字を用いないで、二句一章体とする方法を考えたものです。

   大山   正反合天地のリズムきはやかに

  小山   落第子口笛を吹く樹によりて

  杉形   新走り強き香の鼻うちて

 みな、体言の独立句を上五にすえる事によって、二句一章体を完成し、ことに落第子、新走りなどの句は季語を入れることにより、俳句となっておりますが、第三に限って脇との付味は問題にされないから、あなたの第三は俳句だとは言われないでしょう。」

   これらの、「取合せ論の史的考察―その本質と根拠―(堀切実稿)」と「猫蓑通信第42号)とを、鑑賞視点に据えると、次の、其角の二句は、その全体像の一部分が見えてくる。(前書は、取り合えず、除外視する。)

 髪あらふ鷺芹とかす沢辺哉(一句目=「一物仕立て(一句一章体)」の発句

小袖着せて俤匂へうめが妻(二句目=一句目に唱和しての「二物仕立て(二句一章体)」の発句)

  以上を前提にしての、この一句目の其角の句は、「一物仕立て」の句として、「二つ取合(とりあはせ)て、よくとりはやす(取囃=とりはやす)を上手と云也」のように、「髪洗う=鷺」そして「芹とかす」のも、「鷺(一物)」として鑑賞することになる 。

 そして、二句目の「小袖着せて俤匂へうめが妻」の句は、一句目(「髪あらふ鷺芹とかす沢辺哉)に唱和しての発句として鑑賞するになる。さらに、この句の「うめが妻(梅が妻)」は、次のとおり、寛文二年(一六六二)初演(江戸・勘三郎座)の「歌舞伎・浄瑠璃の外題」として取り上げられているので、それらを加味しての鑑賞ということになろう。

 ここでは、これら其角の句が、抱一の「芹喰ふて翼の軽き小鴨かな」(1-7)の、「その背景に横たわっているのではなかろうか」ということに限定して、これらの其角の句の句意などは省略したい。

[役割番付]寛政7年1月13日桐座

https://www.waseda.jp/prj-kyodo-enpaku/kuzushiji/viewer/yakuwari/ro24-00001-0183/ro24-00001-0183_004.html?id=0162#tab01

※ 芹喰ふて翼の軽き小鴨かな(「こがねのこま」1-7) 

 句意=初春を告げる芹の若菜を啄(つい)ばんで、いかにも、その翼(つばさ)が軽(かろ)やかにになったように、すいすいと水辺を泳いでいる子鴨であることよ。

◇ 十二ヶ月花鳥図之内十一月(左)→ 「水辺の鷺」

◇ 十二ヶ月花鳥図之内十二月(右)→ 「紅梅と鴛鴦」

 1-8 雛よりもかしづく人のひゐなかな

https://kigosai.sub.jp/001/archives/1934

  季語=「雛=雛祭」(仲春)。【子季語】雛、ひいな、雛飾、雛人形、雛の調度、雛道具、雛屏風、雛段、雛の膳、雛の酒、紙雛、立雛、内裏雛、享保雛、変り雛、糸雛、菜の花雛、京雛、木彫雛、官女雛、五人囃、雛箱、初雛、古雛、雛の燭、雛の宴、雛の宿、雛の客、雛椀。【関連季語】桃の節句、上巳、雛市、雛流し、雛納め

【解説】三月三日、女の子の健やかな成長を願うお祭である。雛人形を飾り、白酒や雛あられをふるまって祝う。【来歴】『俳諧通俗誌』(享保2年、1716年)に所出。

【例句】

草の戸も住み替はる代ぞ雛の家 芭蕉「奥の細道」

内裏雛人形天皇の御宇とかや  芭蕉「江戸広小路」

綿とりてねびまさりけり雛の顔 其角「其袋」

とぼし灯の用意や雛の台所   千代女「千代尼句集」

桃ありてますます白し雛の殿  太祇「新五子稿」

古雛やむかしの人の袖几帳   蕪村「蕪村句集」

箱を出る皃わすれめや雛二對  蕪村「蕪村句集」

たらちねのつまゝずありや雛の鼻 蕪村「蕪村句集」

雛祭る都はづれや桃の月    蕪村「蕪村句集」

雛の間にとられてくらきほとけかな 暁台「暁台句集」

 一茶の「雛」の句

 http://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/jsearch.cgi

 雛(ひな)の日もろくな桜はなかりけり   文化句帖/文化5

雛の日や太山(みやま)烏もうかれ鳴(なく)七番日記/文化9

かつしかや昔のまゝの雛(ひいな)哉    文化句帖/文化1

妹(いも)が家も田舎雛(びな)ではなかりけり 文化句帖/文化3

古郷は雛(ひいな)の顔も葎(むぐら)哉  文化句帖/文化3

式雛(びな)は木(こ)がくれてのみおはす也 文化句帖/文化4

角力取(すもとり)も雛(ひいな)祭に遊びけり 文化句帖/文化4

煙(けぶ)たいとおぼしめすかよ雛(ひいな)顔 文化句帖/文化5

雛祭り娘が桐も伸(のび)にけり      文化句帖/文化5

おぼろげや同じ夕(ゆうべ)をよその雛   七番日記/文化7

東風(こち)吹けよはにふの小屋も同じ雛  七番日記/文化7

むさい家(や)との給ふやうな雛(ひいな)哉 七番日記/文化7

雛(ひいな)達そこで見やしやれ吉の山    七番日記/文化9

後家雛(びな)も一ツ桜の木(こ)の間哉   七番日記/文化10

御雛(おひいな)をしやぶりたがりて這(ふ)子哉 七番日記/文化11

笹の家や雛(ひいな)の顔へ草の雨      七番日記/文化11

雛棚や花に顔出す娵(よめ)が君       七番日記/文化11

ちる花に御目(おんめ)を塞ぐ雛(ひいな)哉 七番日記/文化12

浦風に御色(おいろ)の黒い雛(ひいな)哉  八番日記/文政2

煤け雛(びな)しかも上座をめされけり    八番日記/文政2

花の世や寺もさくらの雛祭          八番日記/文政2

目(まな)じりを立(たて)て踊も雛かな   八番日記/文政4

居並んで達磨も雛(ひいな)の仲間哉     文政句帖/文政5

世が世なら世ならと雛(ひいな)かざりけり  文政句帖/文政5

明り火や市の雛(ひいな)の夜目(よめ)遠目(とおめ)文政句帖/文政7

うら店も江戸はえど也雛祭り         文政句帖/文政7

後家雛(びな)も直(すぐ)にありつくお江戸哉 文政句帖/文政7

古雛(びな)やがらくた店の日向ぼこ     文政句帖/文政7

紙雛(びな)やがらくた店の日向ぼこ     浅黄空他/文政7

豊年の雨御覧ぜよ雛(ひいな)達       七番日記/文化11

  抱一と一茶とは、抱一が二歳年上の、同時代の人なのだが、抱一は姫路藩十五万石の特権階級出身、かたや、一茶は信濃の百姓出身で、十五歳で江戸に奉公に出て、それも、その奉公先は一か所でなく、転々として、いわば、無宿人のような生活の中で、後に、「芭蕉・蕪村・一茶」の「江戸時代の三大俳人」の一人と仰がれるほどの「俳諧(連句・俳句)」の世界との出会いがあった。

 抱一の「俳諧」との出会いは、「大手門(金馬門=「こがねのこま」)」前(姫路藩酒井家の上屋敷)の、その「大手門前の大名サロン」の、いわゆる「風流韻事の遊びの俳諧」とすると、一茶のそれは、賞金稼ぎの、いわゆる「点取り俳諧(「点取に昼夜をつくし,勝負に道を見ずして走りまはる」=芭蕉「三等の文」)の「稼ぎの俳諧」)とを、そのスタートにしているということが挙げられよう。

 しかし、この二人には、抱一は、早くにして父母を失い、さらに、不本意な出家生活を余儀なくさせられるなどの、生涯に亘っての「孤独感・寂寥感」を、その根底に宿しており、この「孤独感・寂寥感」が、この二人の俳諧の原点にあるような、その意味での共通感を抱くのである。

   いかな日も鶯一人我ひとり哉 (一茶『文政句帖/文政7』)

  居候夜着の洞(ほら)出て桃のはな(抱一『屠龍之技/梅の立枝』)

  それよりも、この二人には、抱一は、句日記ともいえる『軽挙館句藻』(全十冊)を有し、一茶には、『寛政句帖・享和二年句日記・享和句帖・文化句帖・七番日記・八番日記・文政句帖』等々の膨大な句日記などを遺しており、その点の共通項は、その中身を見るまでもなく、自明のことのように思われる。

酒井抱一筆「立雛に桜図」(湯木美術館蔵)

http://www.yuki-museum.or.jp/exhibition/archives/2019_spring_sp.html

 ※ 雛よりもかしづく人のひゐなかな (「こがねのこま」1-8) 

 句意=雛(ひな)段の飾り雛(びな)よりも、この上巳の節句の雛(ひな)人形を、先祖伝来大事に保存して、それを、こうして豪華に飾り立てている、その「ひゐな(雛)=その家の御婦人達=老女達」の方に、より一層心が引かれる。

 この句意の「雛」の詠みなどは、一茶の句を参考にしている。抱一と一茶とは、何らの直接的な接点はないが、一茶の「雛(ひな・ひいな)」の、一見すると「言葉遊び」のような技法が、この抱一の「雛(ひな)よりも」と「ひゐな(雛)」の措辞に感じられる。

 そして、この句もまた、其角の「綿とりてねびまさりけり雛の顔」(嵐雪編『其袋』)が念頭にあってのもののように思われる。この「ねびまさりけり」の「ねび勝(まさる)」は、「年をとる。ますますふける。また、年をとり、成熟の度を増す。」(「精選版 日本国語大辞典」)の意で、その例句として、この其角の句が、「※俳諧・五元集(1747)元『綿とりてねびまさりけり雛の顔』」と取り上げられている。

 さらに付け加えると、これまで、其角の句を中心に据えて鑑賞してきたが、この句の「かしづく人の」の、「かしづく」は、芭蕉をして「「草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり」と称え、「両の手に桃と桜や草の餅」(『桃の実』)と詠じさせた「其・嵐二子」の「服部嵐雪」(承応3(1654)~宝永4年(1707.10.13))の、次の句も念頭にあったことであろう。

   不産(ウマズ)女の雛かしづくぞ哀なる (嵐雪『続虚栗(其角編)』)

  うまず女の雛かしづくぞ哀なる (嵐雪『玄峰集(旨言編)』)

 【 うまず女の雛かしづくぞ哀れなる

(うまずめのひなかしづくぞあはれなる)

《出典》続虚栗(ソ゛クミナシク゛リ)

《作者》嵐雪(ランセツ)

《訳》

結婚して年数がたつのに子のできない女が、古い雛人形を飾り付け、大切に扱っている。その姿はなんとも哀れである。

《季語》 雛(春)。

《語句解説》

うまず女=子のできない女。

《語句解説》

雛かしづく=雛にかしづく、の意。

《参考》

雛人形がはなやかなものだけに、子のない寂しさをまぎらす女の姿が一層哀感をさそう。

〔名句辞典〕  】(『学研古語辞典』)

  この嵐雪の句(「うまず女の雛かしづくぞ哀れなる」)の収載されている『続虚栗(其角編)』

に、抱一の「雨華庵」に近い「大音寺」に「遊大音寺」の前書(詞書)のある、其角の「梅が香や乞食の家ものぞかるゝ」が収載されている。

 この「大音寺」と「浅草寺」の中間に「新吉原」がある。芭蕉をして「門人に其角嵐雪あり」と誇らせた「其・嵐二子」も、抱一とは時代を異にするが、「新吉原」とは深い関係にある放縦な遊蕩児でもあった。

根岸-下谷-寛永寺開山堂を歩く→A図

http://saurus.coolpage.jp/Walking-Negishi.html

※下谷道(金杉通り)は、坂本門から出立した寛永寺輪王寺宮が、千住を経て日光へ赴く道として栄え、根岸地区は輪王寺宮を中心とする文化人の集うところでもあった。

※下根岸には、酒井抱一が晩年過ごした住居・雨華庵があり、その足跡は石稲荷神社に残っている。

※輪王寺宮の別宅・御隠殿跡はほとんど線路の下だ、鶯谷駅方面にかけて前田邸跡や子規庵が残る。

国立国会図書館デジタルコレクション「根岸略図」(文政三年刻)→B図 

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9369588

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-16

 【 これは(B図)、文政三年(一八二〇)版の「根岸略図である。時に、抱一は六十歳であった、抱一が、この根岸の里に引っ越して来たのは、文化六年(一八〇九)、四十九歳の時で、『本朝画人伝巻一(村松削風著)』では、次のように記述されている。

 「文化六年抱一は根岸大塚(一名鶯塚)へ移った。現今の下根岸である。居宅を新築したわけではなく、従来あった農家を購ってこれに茶席を建て増したのみであった。これぞ名高き『雨華庵』である。また、これより地名になぞられて『鶯邨(村)』とも号した。誰袖(たがそで)を入れて采箒の任をとらしめたのもこのころのことであろう。誰袖は本名おちか、号小鸞(しょうらん)女史、のちに剃髪して妙華尼と号した。彼女も抱一の画弟子であった。抱一は同時に新造禿(かむろ)まで引取って依然として廓(さと)言葉を使わせていたのである。」

 上記の地図の「抱一」の下に「其一」とある。この其一は、抱一門の筆頭格の高弟・鈴木其一(宅)であろう。其一が抱一の内弟子となったのは、文化十年(一八一三)、十八歳の時で(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収「年譜」)、この家は、当初、其一が養子となり跡継ぎとなる鈴木蠣潭(当時十八歳)が、「(酒井家)十三人扶持・中小姓」として抱一の「御用人(付人)」となっているので(同上「年譜)、抱一の最古参弟子の鈴木蠣潭が、移り住んでいた家なのかも知れない。

 この蠣潭は、文化十四年(一八一七)、二十六歳の若さで急逝し、その年の「年譜」に、「鈴木其一、抱一の媒介で、蠣潭の姉りよと結婚し、鈴木家を継ぐ。抱一の付人となり、下谷金杉石川屋敷に住む」と記載されている。

 蠣潭の急逝について、「亀田鵬斎年譜」(『亀田鵬斎(杉村英治著)』)に、「六月二十五日、鈴木蠣潭没す。年二十六、抱一に侍して執事を勤め、絵画を学ぶ。墓に、鵬斎の碑文、抱一書の辞世の句を刻む。なみ風もなくきへ行(ゆく)や雲のみね 蠣潭」と記載されている。

 この辞世の句からして、蠣潭は俳諧も抱一から薫陶を受けていたことが了知される。蠣潭は、抱一の書簡などから、抱一の代作などをしばしば依頼されており、単なる付人というよりも、抱一の代理人(「亀田鵬斎年譜」の「執事」)のような役割を担い、抱一が文化十二年(一八一五)に主宰した光琳百回忌事業などにおいても、実質的な作業の中心になっていたことであろう。

 また、この「鵬斎年譜」から、蠣潭の墓石に、鵬斎が碑文を書き、蠣潭の辞世の句(「なみ風もなくきへ行(ゆく)や雲のみね」)を書していることからすると、鵬斎と「抱一・蠣潭」とは、親しい家族ぐるみの交遊関係にあったことが了知される。

 その「鵬斎(宅)」が、冒頭の「根岸略図」の中央(抱一・其一宅の右下方向)に出ている。その左隣の「北尾」は、浮世絵や黄表紙の挿絵で活躍した北尾重政(宅)で、重政の俳号は「花覧(からん)」といい、俳諧グループに片足を入れていたのであろう(『日本史リブレット人054酒井抱一(玉蟲敏子著)』)。

  この同書(玉蟲著)の別の「下谷根岸時代関係地図」を見ていくと、冒頭の「根岸略図」

(部分図)の上部の道路は「金杉通り」で、下部の蛇行した川は「音無(おとなし)川」のようである。この「金杉通り」の中央の上部に、「吉原トオリ」というのが「〇囲みの東」の方に伸びている。この路を上っていくと「新吉原」に至るのであろう。

 また、この地図の上部の左端に「日本ツツミ」とあり、これは「新吉原」そして、隅田川に通ずる「日本堤」なのであろう。その隅田川に架橋する千住大橋を渡ると、建部巣兆らの「千住連」(俳諧グループ)の本拠地たる宿場町・千住に至るということになる。 】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-04

 【 正岡子規の『病牀六尺』に、酒井抱一に関しての記述が、下記の二か所(「六」・「二十七」)に出てくる。

 この「六」に出てくる、「抱一の画、濃艶愛すべしといえども、俳句に至っては拙劣見るに堪えず」 というのが、子規の「酒井抱一観」として、夙に知られているものである。

 すなわち、「画人・抱一」は評価するが、「俳人・抱一」は、子規の「俳句革新」の見地から、断固排斥せざるを得ないということである。

 そして、子規が目指した俳句(下記の『俳句問答』の「新俳句」)と、抱一が土壌としていた俳句(下記の『俳句問答』の「月並俳句」)との違いは、次の答(●印)の五点ということになる。

 この五点の「知識偏重(機知・滑稽・諧謔偏重)・意匠の陳腐さ・嗜好的弛み・月次俳諧・宗匠俳諧の否定」の、何れの立場においても、例えば、抱一の自撰句集『屠龍之技』に収載されている句などは、「拙劣見るに堪えず」と、一刀両断の憂き目にあうことであろう。

 しかし、下記の「二十七」の、『鶯邨画譜』や、その「糸桜」に関する、子規の記述には、子規は、その画はもとより、その俳句についても、その何たるかは熟知していたという思いを深くする。

 ○問 新俳句と月並俳句とは句作に差異あるものと考へられる。果して差異あらば新俳句は如何なる点を主眼とし月並句は如何なる点を主眼として句作するものなりや    

●答 第一は、我(注・新俳句)は直接に感情に訴へんと欲し、彼(注・月並俳句)は往々智識(注・知識)に訴へんと欲す。

●第二は、我(注・新俳句)は意匠の陳腐なるを嫌へども、彼(注・月並俳句)は意匠の陳腐を嫌ふこと我より少なし、寧ろ彼は陳腐を好み新奇を嫌ふ傾向あり。

●第三は、我(注・新俳句)は言語の懈弛(注・たるみ)を嫌ひ彼(注・月並俳句)は言語の懈弛(注・たるみ)を嫌ふこと我より少なし、寧ろ彼は懈弛(注・たるみ)を好み緊密を嫌ふ傾向あり。

●第四は、我(注・新俳句)は音調の調和する限りに於て雅語俗語漢語洋語を問はず、彼(注・月並俳句)は洋語を排斥し漢語は自己が用ゐなれたる狭き範囲を出づべからずとし雅語も多くは用ゐず。          

●第五は、我(注・」新俳句)に俳諧の系統無く又流派無し、彼(注・月並俳句)は俳諧の系統と流派とを有し且つ之があるが為に特殊の光栄ありと自信せるが如し、従って其派の開祖及び其伝統を受けたる人には特別の尊敬を表し且つ其人等の著作を無比の価値あるものとす。我(注・新俳句)はある俳人を尊敬することあれどもそは其著作の佳なるが為なり。されども尊敬を表する俳人の著作といへども佳なる者と佳ならざる者とあり。正当に言へば我(注・新俳句)は其人を尊敬せずして其著作を尊敬するなり。故に我(注・新俳句)は多くの反対せる流派に於て俳句を認め又悪句を認む。   

  六

〇今日は頭工合やや善し。虚子と共に枕許に在る画帖をそれこれとなく引き出して見る。所感二つ三つ。 

余は幼き時より画を好みしかど、人物画よりも寧ろ花鳥を好み、複雑なる画よりも寧ろ簡単なる画を好めり。今に至って尚其傾向を変ぜず、其故に画帖を見てもお姫様一人画きたるよりは椿一輪画きたるかた興深く、張飛の蛇矛を携えたらんよりは柳に鶯のとまりたらんかた快く感ぜらる。 

画に彩色あるは彩色無きより勝れり。墨書ども多き画帖の中に彩色のはっきりしたる画を見出したらんは萬緑叢中紅一点の趣あり。 

呉春はしゃれたり、応挙は真面目なり、余は応挙の真面目なるを愛す。 

『手競画譜』を見る。南岳、文鳳二人の画合せなり。南岳の画は何れも人物のみを画き、文鳳は人物の外に必ず多少の景色を帯ぶ。南岳の画は人物徒に多くして趣向無きものあり、文鳳の画は人物少くとも必ず多少の意匠あり、且つ其形容の真に逼るを見る。もとより南岳と同日に論ずべきに非ず。 

或人の画に童子一人左手に傘の畳みたるを抱え右の肩に一枝の梅を担ぐ処を画けり。或は他所にて借りたる傘を返却するに際して梅の枝を添えて贈るにやあらん。若し然らば画の簡単なる割合に趣向は非常に複雑せり。俳句的といわんか、謎的といわんか、しかも斯の如き画は稀に見るところ。 

抱一の画、濃艶愛すべしといえども、俳句に至っては拙劣見るに堪えず。その濃艶なる画にその拙劣なる句の讃あるに至っては金殿に反故張りの障子を見るが如く釣り合わぬ事甚し。 

 『公長略画』なる画あり。わずかに一草一木を画きしかも出来得るだけ筆画を省略す。略画中の略画なり。しかしてこのうちいくばくの趣味あり、いくばくの趣向あり。廬雪等の筆縦横自在なれども却ってこの趣致を存せざるが如し。或は余の性簡単を好み天然を好むに偏するに因るか。 (五月十二日)  】

1-9 花ひと木鞍置馬を蔽(かく)しけ

https://kigosai.sub.jp/001/archives/1994

 季語=花(晩春)。【子季語】花房、花の輪、花片、花盛り、花の錦、徒花、花の陰、花影、花の奥、花の雲、花明り、花の姿、花の香、花の名残、花を惜しむ、花朧、花月夜、花の露、花の山、花の庭、花の門、花便り、春の花、春花、花笠、花の粧。【関連季語】桜、初花、花曇、花見、落花、残花、余花。

【解説】

花といえば桜。しかし、花と桜は同じ言葉ではない。桜といえば植物であることに重きがおかれるが、花といえば心に映るその華やかな姿に重心が移る。いわば肉眼で見たのが桜、心の目に映るのが花である。

【来歴】

『花火草』(寛永13年、1636年)に所出。

【文学での言及】

あしひきの山さへ光り咲く花の散りぬるごとき我がおおきみかも 大伴家持『万葉集』

ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るらむ 紀友則『古今集』

年経れば よはひは老いぬしかはあれど花をし見れば 物思ひもなし 藤原良房『古今集』

花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに 小野小町『古今集』

願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ 西行『続古今集』

【例句】

これはこれはとばかり花の吉野山 貞室「一本草」

なほ見たし花に明け行く神の顔  芭蕉「笈の小文」

花の雲鐘は上野か浅草か     芭蕉「続虚栗」(※其角編)

一昨日はあの山越えつ花盛り   去来「花摘」(※其角編)

肌のよき石にねむらん花の山   路通「いつを昔」(※其角編)

花に暮れて我家遠き野道かな   蕪村「蕪村句集」

花ちるやおもたき笈のうしろより 蕪村「蕪村句集」

 (其角の句)

 日々酔如泥

花持て市の礫にあづからん    (※「続虚栗」其角編)

(袖に来て物語せよ雀の子 其角)

  肴手折てびんにさす花 其角 (※「花摘」其角編)

 酒

(いざ汲ん年の酒屋のうはだまり 其角 )

その花にあるきながらの小盞 其角) (※「いつを昔」其角編)

 (一茶の「花」の句)

 http://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/jsearch.cgi

 上記アドレスの一茶の「花」の句は「2364件」が提示される。そのうち、「(花)・梅」の句は「1216件」、「(花)・桜」の句は「468件」、「(花)・桃」は「49件」がヒットする。さらに、別な視点の「(花)・江戸」の句は「25件」、「(花)・日本」は「8件」、「(花)・元日」の句は「4件」、「(花)・元旦」の句は「0件」、「(花)・正月」の句は「10件」が提示される。

 その「(花)・正月」の句の「10件は、次のとおりである。

 1正月やよ所に咲ても梅の花(しょうがつや/よそにさいても/うめのはな)・新年/文化句帖

2正月(や)猫の塚にも梅の花(しょうがつや/ねこのつかにも/うめのはな)新年/文化句帖

3正月や村の小すみの梅の花(しょうがつや/むらのこすみの/うめのはな)新年/文化五六句記

4正月やゑたの玄関も梅の花(しょうがつや/えたのげんかんも/うめのはな)新年/七番日記

5正月や夜は夜とて梅の花 (しょうがつや/よるはよるとて/うめのはな)新年/発句鈔追加

6我~も目の正月ぞ夜の花 (われわれも/めのしょうがつぞ/よるのはな)春/七番日記

7としよりの目(の)正月ぞさくら花 (としよりの/めのしょうがつぞ/さくらばな)春/七番日記

8こちとらも目(の)正月ぞさくら花(こちとらも/めのしょうがつぞ/さくらばな)春/八番日記

9としよりも目の正月やさくら花(としよりも/めのしょうがつや/さくらばな)春/浅黄空他

10こちとらも目の正月ぞさくら花( こちとらも/めのしょうがつぞ/さくらばな)春/だん袋

(連歌・連句上の「花」の句)

http://www.yamashina-mashiro.com/m/toshi/nyumon.htm

花の座の語として認められる語を「正花」という。連歌では「花」は桜と限定せず、賞美に値する花やかさの抽象概念を指す語。

▼正花として扱う語。

  春—-花車、花衣、花筏、心の花など。

  夏—-余花、若葉の花、花茣蓙、残る花など。

  秋—-花火、花踊、花もみぢ、花相撲、花燈篭など。

  冬—-帰り花、餅花など。

  雑—-花婿、花嫁、花鰹、花莚、作り花、花塗、花かいらぎ、花形、燈火の花など。

▼花の字があるが非正花(似せものの花)とされ、正花として扱われない語。

  花野、湯の花、火花、浪の花、雪の花など。(花野については後年、窪田氏は「正花」にしたい、と主張)

▼「虚の花」として正花に扱われる語。

  花の波、花の瀧、花の雪など。

▼花の字のない単なる「桜」は正花としない。

「鞍置馬」=鞍を置いた馬。くらうま。くらおき。※平家(13C前)七「鞍をき馬十疋ばかりおひ入れたり」(「精選版 日本国語大辞典」)

※「鞍」=馬具の総称。馬に乗る装置の皆具(かいぐ)をいう。その様式により、唐鞍(からくら)、移鞍(うつしぐら)、大和鞍(やまとぐら)、水干鞍(すいかんぐら)などの種類がある。鞍具(あんぐ・くらぐ)。(「精選版 日本国語大辞典」)

「鞍置馬=『鞍』の掲載図」(「精選版 日本国語大辞典」)

 ※ 花ひと木鞍置馬を蔽(かく)しけり (「こがねのこま」1-9) 

句意(句意その一)=(爛漫と咲き誇る)「花」(桜)の「ひと木」(一木)が、(そこに繋いでとめて置いた)「鞍置馬を」、(あたかも、その乗り主の身分高い人を)「蔽(へい)」(隠ぺい=へい=覆い隠す=かく)し「けり」(「過去から現在まで継続的」且つ「詠嘆的」且つ「断定的」に覆い隠してきたことよ。)

  この括弧書きは、意訳するための修飾語で、これらの修飾語を何処まで、どういうかたちにするかというのは、こういう「花」の句になると、さぞかし、正岡子規の、「拙劣見るに堪えず。その濃艶なる画にその拙劣なる句の讃あるに至っては金殿に反故張りの障子を見るが如く釣り合わぬ事甚し」(病牀六尺』)と、その真意を探索することを放棄するということになる。

 「桜図屏風・右翼」(メトロポリタン美術館)(「ウィキペディア」)(「脚注10」= Mary Griggs Burke Collection, Gift of the Mary and Jackson Burke Foundation, 2015)

  この図は、抱一の「大塚時代 49歳から57歳 光琳学習と飛躍」として、「桜図屏風/紙本金地著色/六曲一双/メトロポリタン美術館」として紹介されている、その「右翼/六曲一双」のものである(上記の「ウィキペディア」)。

  花ひと木鞍置馬を蔽(かく)しけり (「こがねのこま」1-9)

  この句の上五の「花ひと木」は、上記の「桜図屏風・右翼」(メトロポリタン美術館)の、その子規のいう「金殿(金色の屋敷)」(抱一の「画」)の「桜のひとき図」とすると、その「反故張りの障子=銀泥の意味不明のもの」(抱一の句)を「見る如く」のような、「釣り合わぬ事甚し」と、そんな印象すら抱かせることになる。

 おそらく、この下部に描かれている「銀地墨画」は、下記のアドレス(「江戸の『金』と『銀』との空間」)で紹介した、鈴木其一の、次のようなものであったように思われる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-25

鈴木其一筆「芒野図屏風」二曲一隻 紙本銀地墨画 一四四・二×一六五cm 千葉市美術館蔵

  ここでは、これらの「桜図屏風」(メトロポリタン美術館)の「金(ゴールド)と銀(シルバー)との空間」の対比とか、それらを介在させての「絵画(「画無声詩」)と俳諧(「詩有声画」)との対比などは、この程度に止めて、「花ひと木鞍置馬を蔽(かく)しけり」 (「こがねのこま」1-9)の、先の生(なま)のままの「句意」(その周辺)の鑑賞を、甚だ未成熟の仮説的な点が多々あるが、一歩進めることにしたい。

 ※「花ひと木鞍置馬を蔽(かく)しけり」 (「こがねのこま」1-9)

「句意」(その周辺)

 この抱一の「花と鞍置馬」と取り合せの句は、抱一と関係の深い江戸の遊郭地「吉原」を背景にしている一句のように思われる。

吉原には、「廓の三雅木」として「逢初桜(あいぞめざくら)」・「駒止松」・「見返り柳」が知られている。そして、この「吉原(新吉原)」(浅草寺から北に約1キロ)への、江戸の中心地から行くルートは、「猪牙舟(ちょきぶね)で隅田川を北上→今戸橋の付近で下舟→日本堤から駕籠か徒歩」というのが、当時の通常のルートのようである(「吉原遊郭までの道のり」=下記アドレス「太田記念美術館」)。

https://otakinen-museum.note.jp/n/naadbf3f2b985

「二代広重の『東都新吉原一覧』」のうち左下の遊郭の入り口部分をアップ図」

https://otakinen-museum.note.jp/n/naadbf3f2b985

  このアップ図の下部に「日本堤」と「「見返り柳」が描かれ、これを左に曲がると「衣紋阪」と「五十間道」、その入り口に神社の鳥居があって、「逢初桜(あいぞめざくら)」・「駒止松」が描かれている。

 ここで、次のアドレスの「江戸旧蹟を歩く(吉原の道)」の記事が、貴重な示唆を投げ掛けてくれる。

 http://hotyuweb.starfree.jp/yoshiwarahenomichi/yoshiwarahenomichi.html

 「○吉原への道

 馬が吉原通いに使われたのは元禄前後で、寛文元(1661)年に馬での登楼は禁止され、駕籠と舟が主となり馬は使われなくなりました。なお、駕籠で通うことは幕府により禁じられていましたが、守られていませんでした。」

 この「吉原への道」の記事から、元禄期の「其角・嵐雪」の時代には、「駕籠・徒歩」だけでなく、「馬での登楼」というのもよく見かけたものなのであろう。しかし、それが「抱一・一茶」の時代には、いわゆる、「寛政の改革」(「天明7年(1787年)- 寛政5年(1793年)」の「老中・松平定信」の断行した「幕政改革(倹約による幕府財政再建)」)により、厳禁になったような、そんなことを背景にしている一句と解すると、やや、この抱一の、この句の正体の一部が見えてくるような感じを抱くのである。

 これらのことを背景としての一句として鑑賞すると、次のような句意となる。

(句意その二)

 今を盛りに誇っている花の、その櫻花の一樹に、鞍を付けたままの馬が留め置かれている。その鞍を付けた馬を、その櫻花が、あたかも、一切を遮蔽(しゃへい)するかのように、覆い隠している。

 思えば、時の「寛政改革」とやらで、吉原への「馬の登楼」は禁止されて、こういう光景を見るのは久しいことであるよ。

  さらに、寛政九年(一七九七)、抱一、三十七歳時の「出家」と関連しての、抱一の境涯と関連させると、次のような「吉原」関連の句ではなく、当時の「酒井家」の「嫡流体制の確立と傍流の排除」に関連させての穿った見方も浮かんでくる。

 (句意その三)

 花が今爛漫と咲き誇っている。この櫻花の一樹は、「姫路藩十五万石酒井家」を象徴しているかのようであるが、その一樹の陰には、その名跡を継続して揺るぎないものとするために、傍流の一員として、本来の武門の一族としての地位から、本意ではない出家などを余儀無くされた者を、あたかも、覆い隠すように、遮蔽している。

  これらの抱一の「出家」に関連しての句一句、和歌一首が、『句藻』「椎の木陰」に書きつけられている。

    寛政九年丁巳十月十八日、花洛文如上人の、参向

   有りしおりから御弟子となりて頭剃おとし

 遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな

いとふとてひとなとがめそうつせみの世にいとわれしこの身なりせば

  この「遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな」の句は、『屠龍之技』でも、「第四 椎の木陰」で、「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺支(文?)如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」の前書で収載されている。

 これらからすると、下記アドレスの、これまでの理解の、「『屠龍之技』の全体構成」(参考一)の「第四椎の木かげ(寛政八~十年)=抱一・三六~三八歳」収載の、抱一の「出家」関連としての句とする「句意その三」は、やはり、飛躍し過ぎということになろう。

 (参考一)

https://sakai-houitsu.blog.ss-blog.jp/2020-01-20

 【「屠龍之技」の全体構成(上記「写本」の外題「軽挙観句藻」)

 序(亀田鵬斎)(文化九=一八一二)=抱一・四五歳

第一こがねのこま(寛政二・三・四)=抱一・三〇歳~三二歳

第二かぢのおと (寛政二・三・四)=同上

第三みやこおどり(寛政五?~?)=抱一・三三歳?~

第四椎の木かげ (寛政八~十年)=抱一・三六~三八歳 

第五千づかのいね(享和三~文化二年)=抱一・四三~四五歳

第六潮のおと  (文化二)=抱一・四五歳 

第七かみきぬた (文化二~三)=抱一・四五歳~ 

第八花ぬふとり (文化七~八)=抱一・五〇~五一歳

第九うめの立枝 (文化八~九)=抱一・五一~五九歳

跋一(春来窓三)

跋二(太田南畝) (文化発酉=一八一三)=抱一・四六歳   】

 (参考二)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-09-20

酒井抱一筆「桜・楓図屏風」の右隻(「桜図屏風」)デンバー美術館蔵 六曲一双 紙本金地著色 (各隻)一七五・三×三四・0㎝ 落款(右隻)「雨庵抱一筆」 印章(各隻)「文詮」朱文円印 「抱弌」朱文方印

1-10 夜ざくらや筥(はこ)提灯の鼻の穴

https://kigosai.sub.jp/?s=%E5%A4%9C%E6%A1%9C&x=0&y=0

季語=夜ざくら

※夜桜(よざくら)= 晩春

【解説】

夜の桜花。また、夜の桜花見物のことをいう。桜の木の周囲に雪洞や燈籠をともしたり、篝火を焚いたりする。闇の中に浮かび上がる桜は、昼間とは異なる妖艶さを秘めている。

※吉原の夜桜(よしわらのよざくら/よしはらのよざくら)=晩春

【解説】

遊郭吉原の夜桜見物のこと。その日のためにわざわざ見ごろとなる桜を植え、終われば抜いて、明年、新に植えるという手の込んだものであったいう。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-04-17

 (一茶の「夜桜」の句)

 1 夜桜(や)大門出れば翌の事(よざくらや/だいもんでれば/あすのこと) 七番日記

2  夜桜や天の音楽聞し人( よざくらや/てんのおんがく/ききしひと) 八番日記

3  夜桜や親爺(が)腰の迷子札(よざくらや/おやじがこしの/まいごふだ ) 浅黄空

 ※筥(はこ)提灯=箱提灯=上下に、円形で平たい蓋(ふた)があり、たためば全部蓋の中に納まって箱のようになる大型の提灯。蓋には開閉できる孔があり、ここからろうそくを出し入れする。はこぶら。

※俳諧・花摘(1690)下「門並や箱挑燈は盆の中〈渓石〉」(「精選版 日本国語大辞典」)

https://kotobank.jp/word/%E7%AE%B1%E6%8F%90%E7%81%AF-600761

「箱提灯」(「精選版 日本国語大辞典」)

 「傾廓(けいかく)」=「傾国(けいこく)」(「君主が心を奪われて国を危うくするほどの美人。絶世の美女。傾城けいせい)」・「遊女」・「遊里。遊郭」)、「傾城けいせい)」(「美人の意,および遊女の意。漢書に美人を「一顧傾人城,再顧傾人国」と表現したのに基づき,古来君主の寵愛を受けて国 (城) を滅ぼす (傾ける) ほどの美女をさし,のちに遊女の同義語となった。浄瑠璃,歌舞伎の役柄に多く取入れられ,女方の基本の一つとされる。特に上方歌舞伎では『傾城浅間獄』『傾城壬生大念仏』など,「傾城」「契情」「けいせい」の字を外題につける習慣があった。歌舞伎舞踊では変化物に多く,立役が傾城を演じることで,意外性と芸の力を示したものと思われる。3世中村歌右衛門の『仮初 (かりそめの) 傾城』と2世中村芝翫の『恋傾城』 (『芝翫傾城』) が最も知られる。ともに長唄で,名称はうたい出しの文句からとられた。前者は文化8 (1811) 年江戸中村座の『遅桜手爾葉七字 (おそざくらてにはのななもじ) 』の七変化の一つ。作詞奈河篤助,松井幸三,作曲杵屋六左衛門。後者は文政 11 (1828) 年同座の『拙筆力七以呂波 (にじりがきななついろは) 』の七変化の一つで,作詞2世瀬川如皐,作曲4世杵屋三郎助 (10世六左衛門) 。長唄の曲としては,ほかに数曲が伝わる。<ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典>」からの、其角の造語のようである。

 http://kikaku.boo.jp/shinshi/hokku10

     傾廓

  時鳥暁傘を買わせけり (其角『五元集』)

 【*其角39歳の時の句。「ほととぎす あかつきかさを かわせけり」と読みます。『五元集』では「傾廓」と前書を付けています。「傾城」「傾国」なら城を傾けるほどの絶世の美女とか上級の遊女の意味になりますが「廓を傾けるほどの遊女」とは言いません。で、この前書よく分かりませんが「傾城のいる廓」と言う意味で「傾廓」と造語したのかも知れません。こう書いておけば、廓の朝帰りという場面だと分かるわけです。】

渓斎英泉筆「東都名所画 吉原の夜桜」(太田記念美術館蔵)

 「句意」(その周辺)

 この句の前書の「傾廓」から、この句は「吉原の夜桜」の句ということになる。この「筥(はこ)提灯の鼻の穴」の「筥(はこ)提灯」は「箱提灯」で、寛政二年(一七九〇)の頃、その「梶の音」の序文に「筥崎舟守()はこざきのふなもり」と署名しており、蠣殻町の、箱崎川に面した酒井家の中屋敷に転居していて、その中屋敷の主人の意を込めての、抱一の号の一つのようである。

 ここからは、上屋敷よりも吉原への便もよく、「筥(はこ)提灯」というのは、その号の「筥崎舟守」の「筥=箱」を利かせての、吉原の趣向を凝らした種々の箱提灯を指してのものの意であろう。「鼻の穴」というのは、その提灯の上部の蓋の「開閉できる孔」の見立て的な用例で、その提灯の明かりで浮き彫りとなっている「夜桜と見物客」の一大イベントの偉容さを指しているものと解したい。

 (句意その一)=吉原の三大景物(三大廓行事の「三月(夜ざくら)」のイベントは、まことに豪奢な偉容のもので、その一大パラダイス(「楽園」・「桜(夜桜)と人(見物客)とが作り出す楽土・浄土の世界」)が、その趣向を凝らした、さまざまな箱提灯の明かりで、浮かび上がってくる。

  この句は、先に、次のアドレス(参考一・参考二)で紹介している。その「参考一」の『史記』「周本紀」第四に載る字句「后稷生巨跡」の伝説を背景としていると、次のようになる。

 (句意その二)=吉原の三大景物(三大廓行事の「三月(夜ざくら)」のイベントは、まさに、 中国の「后稷(こうしょく)伝説」に出てくる「巨人の足跡を踏んで妊娠し生まれた后稷(「五穀の神」など)さながらに、さまざまな趣向を凝らした箱提灯の明かりが、その伝説の「巨人の足跡」のような「鼻の孔(あな)」となり、そこから浮かび上がってくる。

  なお、これらの句意は、下記の「参考二」の「吉原の三大景物(三大廓行事)」を前提としている。

 (参考一)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-04-17

 【  夜ざくらや筥てふちんの鼻の上  (抱一・「三月・夜桜」の賛)

≪ 三月の図は春の人寄せのイベントである夜桜が描かれます。画賛の一つは「夜ざくらや筥でうちんの鼻の穴」です。春の吉原は、仲之町通りに鉢植えの桜を置きます。この画賛の初案の頭註には、『史記』「周本紀」第四に載る字句「后稷生巨跡」に拠ったとあります。后稷(こうしょく)には、母親の姜原(きょうげん)が巨人の足跡を踏んで妊娠したという伝説があります。つまり、「筥でうちんの鼻の穴」という小さい穴は、后稷が生まれた巨人の足跡に見立てられています。そこからうまれたものは「夜ざくら」と、描かれない多数の見物客です。つまり、筥提灯の上部の空気穴から光が漏れる。その光に照らしだされた夜桜と多数の見物客が、后稷に見立てられます。ここでは画賛は、夜桜の賑わいを補完する機能を担わされています。≫(「抱一筆『吉原月次風俗図』の背景(井田太郎稿)」)

  どうにも、難解な、抱一の師筋に当たる、宝井其角の「謎句」仕立ての句である。この句の前書きのような賛に書かれているのだろうが、『史記』の「后稷(こうしょく)」伝説に由来している句のようである。

「后稷(こうしょく)」伝説とは、「〔「后」は君、「稷」は五穀〕 中国、周王朝の始祖とされる伝説上の人物。姓は姫(き)、名は棄(き)。母が巨人の足跡を踏んでみごもり、生まれてすぐに棄(す)てられたので棄という。舜(しゆん)につかえて人々に農業を教え、功により后稷(農官の長)の位についた」を背景にしているようである。

 ここは、余り詮索しないで、上記の、渓斎英泉筆「東都名所画 吉原の夜桜」ですると、「花魁道中を先導する男衆の持つ箱提灯の上部の穴からの光が、鮮やかに夜桜や人影を浮かび上がらせる」というようなことなのであろう。 】

 (参考二)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-04-21

 【 吉原の三大景物(三大廓行事)は、「三月(夜ざくら)・七月(玉菊灯籠)・八月(俄)」である。

     傾廓

  夜ざくらや筥提灯の鼻の穴 (抱一『屠龍之技』「第一こがねのこま」)

  桜迄つき出しに出る仲の町 (『柳多留七』)

    傾廓

  灯籠も鶍(いすか)の嘴(はし)と代りけり(抱一『屠龍之技』「第二かぢのおと」)

  玉菊の魂(たましい)軒へぶらさがり(『柳多留一』)

    俄

  獅々の坐に直るや月の音頭とり(抱一「吉原月次風俗図・八月」)

  灯籠が消へて俄にさわぐ也 (『柳多留四六』)

  祇園ばやしで京町を浮く俄 (『柳多留一三三』)

  抱一の自撰句集『屠龍之技』の前書きに出て来る「傾廓」は、其角の次の句の前書きに由来があるのであろう。

     傾廓

  時鳥暁傘を買わせけり (其角『五元集』)

  この「傾廓」は、「傾城」「傾国」と同じような意であろうか。それとも、「傾城の遊女が居る廓=吉原」の意であろうか。この其角の句は、吉原の朝帰りの句である。抱一の吉原の句は、この種の其角の句に極めて近い。

 なお、上記の「吉原月次風俗図」に出て来る季語のうち、吉原特有のものは、※印の「八月=俄」と「十二月=狐舞い」だけで、その他のものは、連歌・俳諧の主要な季語(季題)ばかりである。 】

 1-11 茅の実の四(よツ)もたら(足られ)でや暮遅し

https://kigosai.sub.jp/001/archives/1901

 季語=暮遅し(三春)。遅日(ちじつ)、遅き日、暮れかぬる、夕長し、春日遅々。

【解説】

 春の日の暮れが遅いこと。実際には夏至が一番日暮れが遅いが、冬の日暮れが早いので、春の暮れの遅さがひとしお印象深く感じられる。

【来歴】『花火草』(寛永13年、1636年)に所出。

【例句】

遅き日のつもりて遠き昔かな 蕪村「蕪村句集」

遅き日や谺聞こゆる京の隅  蕪村「夜半叟句集」

遅日を追分ゆくや馬と駕   召波「春泥発句集」

軒の雨ぽちりぽちりと暮遅き 一茶「文化句帳」

https://kigosai.sub.jp/kigo500c/778.html

 ※「茅の実」=榧の実(晩秋)。イチイ科の針葉樹で、高さ三十メートルにもなる。四月頃開花し、雌株に二、三センチの楕円形の実がつく。十月に緑色の外皮が紫褐色となり、裂けて種子が落ちる。独特の芳香があり、炒って食べる。

 「茅の実の四(よツ)もたら(足られ)でや暮遅し」の季語は「暮遅し」で、「茅の実」は、「お茶受け」などの食用の炒り榧の実の意で、季語の働きはしていない。

 ※「四(よ)ツ」=「茅の実が四つ」と時刻の「(暮れ・夜)四つ=夜十時」とが掛けられている用例。

※「たらで」=「足らで」(足りない、満たない)の意。

  この句にも、前書の「傾郭」が係り、この句は「遊郭吉原の暮れ四つ(夜四つ=吉原の大門を閉じる時刻)」の句と解したい。

「名所江戸百景 廓中東雲」絵師:広重、版者:魚栄、行年:安政4

https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail268.html?artists=utagawa-hiroshige-1

「句意」(その周辺)

「遊郭吉原の暮れ四つ(夜四つ=吉原の大門を閉じる時刻)」を背景としている句である。一見すると、どうにも、チンプンカンプンの句であるが、中七の「四もたらでや」を「四(ツ)もたらでや(足らでや)」の詠みと解すると、前書の「傾廓」とドッキングして、「遊郭吉原の暮れ四つ(夜四つ=吉原の大門を閉じる時刻)」に関連しての句であろうというのが浮かび上がってくる。            

 とすると、この下五の「暮遅し」(三春)の季語が、当時の時刻の「朝四つ(夏=09:40、冬=10:20頃)」と「夜四つ(夏=22:20、冬=21:40頃)の、「夜四つ」で、それは「暮遅し」の「暮れ」が係り、暮れ四つ=夜四つ」ということになる。

さらに、この「暮遅し」の季語が、「夏至」と「冬至」による、微妙な「時刻の動き」を暗示していて、実に巧妙な句作りということ分かってくる。

それだけではなく、この上五の「茅の実」が、季語の「榧の実」(晩秋)なのかどうか、それとも、「茅花(つばな)」(仲春)の、その「花穂」(食用となる)なのかどうかとなると、これは、この句を作った抱一その人に問う他は術は無いという雰囲気の句である。

おそらく、季語的には、「茅花(つばな)」(仲春)の穂で、「暮遅し」(三春)と齟齬はなく、その意図するものは、季語の働きをする「榧の実」(晩秋)ではなく、吉原のお茶の茶受けの「炒り榧の実」を指してのもののように思われる。 

(句意その一) 「遊郭吉原の暮れ四つ(夜四つ=吉原の大門を閉じる時刻)」、まだ、お茶受けの「かやの実」を「四つ」にも手を出していない時刻なのに、ついこの間の暮れるのが早いのに比して、もう「こんな時刻」なのかと、春めいた遅日の夜の更けるのを実感する。

  これに、「夜四つ(22:20~21:40)=鐘四つ=吉原大門を閉じる」と「暁九つ(24:00)=木四つ=引け四つ=各見世も大戸を下ろす。江戸新吉原の遊里で、遊女が張り見世から引き揚げる時刻。実際には九つ(午後12時)であるが、四つ(午後10時)とみなして拍子木を四つ打った。「木の四つ」と称して、「鐘四つ」と区別した」とを加味すると、次のような句意となる。

 (句意その二) 「遊郭吉原の暮れ四つ(夜四つ=吉原の大門を閉じる時刻)」を告げたら、まだ、お茶受けの「かやの実」を「四つ」にも手を出していないに、もう「引け四つ」の「木の四つ」の拍子木(「茅の実」と「榧の実」の「木=拍子木」を示唆している?)が聞こえてくるとは、何とも、春めいた遅日の夜の更けるのを実感するよ。

 (参考一)

 【 廓の一日

https://www.edo-yoshiwara.com/kuruwa-2/kuruwa-day/

 夏          冬          時                  廓の動き

 05:00     07:00     明六ツ   卯(う)           大門を開ける

昨日の泊まり客を見送った遊女たちがもう一眠りし始めます。朝帰りの客は中宿や茶屋で朝粥などを食べてから帰宅するのが習慣だったようです。中宿とは、前日登楼前に利用した船宿のことです。上客の場合、遊女が大門まで見送りに来ます。

07:20     08:40     朝五ツ   辰(たつ)          仕事の始まり

針仕事など、吉原で商売をする人々がやってくるのがこの頃のようです。

09:40     10:20     朝四ツ   巳(み)              遊女の起床時間

物売りがさかんに行き来するのもこの時間帯のようです。座敷の掃除や花生けなどもこの時間に行われます。

12:00     12:00     昼九ツ   午(うま)          昼見世始まる

昼見世までに遊女たちは入浴・髪結い・化粧をすませます。

14:20     13:40     昼八ツ   未(ひつじ)      昼見世

昼見世はあまり賑わいがなく、遊女たちは手紙を書いたり、本を読んだりして遊び半分過ごします。

16:40     15:20     昼七ツ   申(さる)          昼見世終わる

この時間から夜見世が始まるまでに、遊女たちは食事を済ませます。

19:00     17:00     暮六ツ   酉(とり)          夜見世始まる

夜見世開始の少し前、灯りをともす頃に道中があったようです。見世清掻き(みせすががき・単に清掻きとも)という開店を知らせるお囃子とともに遊女が張り見世につきます。

20:40     19:20     夜五ツ   戌(いぬ)          床に付く

賑やかな宴会も終わり、客と遊女は床に付きます。

22:20     21:40     夜四ツ   亥(い)              大門を閉じる

鐘四ツともいいます。この後は隣の潜り戸から出入りしたようです。四ツは正規の張見世終了時間なのですが、それでは営業にさしつかえるので、この時間を四ツとは言わず、次の九ツを四ツと言い張って時間を延長していました。

24:00     24:00     暁九ツ   子(ね)              引け四ツ

正しい四ツ(鐘四ツ)に対してこちらを引け四ツといいます。各見世も大戸を下ろし、横の潜り戸から出入りします。金棒をならしながら火の番が回ります。

01:40     02:20     暁八ツ   丑(うし)          大引け

客のついた遊女も、つかなかった遊女も就寝時間となります。一般的にこの時間が大引けと言われていますが、いくつかの資料によっては明治以降の呼び方としていたり、大引け=引け四ツとしていたり、未詳の部分があるようです。

03:20     04:40     暁七ツ   寅(とら)          後朝

客と遊女との別れを後朝(きぬぎぬ)といいます。朝帰りの客を茶屋の者が迎えに来始めます。当時非人溜と呼ばれた場所から清掃の者が来て、廓内の清掃をするのもこの時刻のようです。 

※不定時法の時間は九ツから始まり四ツまで減らしていき、また九つに戻ります。

暁(あかつき)・明(あけ)・朝(あさ)・昼(ひる)・暮(くれ)・夜(よる)といった言葉が入ることも入らないこともあったようです。

また、十二支による呼び方は武家社会や改まった時に使われていたようです。】

 (参考二)

【  吉原の正月

https://www.web-nihongo.com/edo/ed_p103/

 吉原の正月は静かである。

 元日の朝は居続けの客もなく、メインストリートである仲之町(なかのちょう)通りには人影がない。ひっそりとした音のない世界でもある。時折、時を告げる金棒引(かなぼうひき)が、金棒を引きずり鐶(かん)を鳴らし歩き、時を告げる柝(き)を打つ音がするだけである。

 吉原の大晦日(おおみそか)から元旦にかけて、若い者(妓牛〈ぎゅう〉とも言う)は大忙しである。「引け四ツ」が過ぎて客がいなくなると、通りに門松を出し、妓楼に向けて門松を飾る。通りに背を向けるのは、客が入りやすくするためのスペースを作るためだという。

 この「引け四ツ」は、吉原独特の時報で、九ツ(午前零時)を告げる直前に四ツ時(午後10時頃)を触れ回ることである。明暦3年(1657)の振袖火事で元吉原(中央区堀留町付近)も全焼し、浅草日本堤千束(せんぞく)村へ移転(新吉原)させられた。遠い郊外の地となったことから、吉原遊びは夜の営業が許されるようになった。しかし、四ツ時で営業を終了して大門(おおもん)を閉め、客を帰していたのでは夜の商売にならない。

 誰か頭の切れ者がいたらしく、九ツまでは四ツ時なのだから、九ツの直前に四ツ時を告げて回ればよかろうとなって「引け四ツ」が生まれた。

 大晦日は「引け四ツ」を合図に元日には客をとらないから大門は閉めきりとなり、若い者たちが通りに門松を出し注連縄(しめなわ)を飾る。何時(いつ)もは昼の八ツ時(午後2時頃)に若い者たちが格子を洗うのだが、正月を迎えるからと、九ツ過ぎに、あらたまる春を迎えるようにと、寒さのなか格子を洗う者もいただろう。

 さて、朝を告げる烏(からす)が鳴き出すと、新年を迎える。時代によっては、三日間、庭焚火(にわたきび)をしたようだが、幕末には廃ったようでもある。着物もあらためて内証(ないしょう。主人の居間)に遊女たち家内の者が一同に集まり、揃って雑煮を祝う。

 吉原の元日の朝は遅いから、昼近くになって妓楼の花形花魁(おいらん)は、若い新造(しんぞう)と禿(かむろ)たちを大勢連れ、日頃お世話になっている引手茶屋(ひきてぢゃや)へ挨拶に出向く。どこの妓楼も同じような時刻に雑煮の祝いも終わり、一斉に馴染(なじ)みの茶屋へ挨拶に出かけるから、仲之町通りは遊女などでラッシュアワーとなる。

 落語などでは、遊んだ後にキャッシュ払いをするような感じで噺(はなし)が進むが、それは吉原の最奥にある局見世(つぼねみせ)などの最下級の遊びの世界のことで、吉原の大見世(おおみせ。総籬〈そうまがき〉とも言う)や中見世(ちゅうみせ。半籬〈はんまがき〉とも)の客は、茶屋を通して遊びの勘定を支払う。つまり遣手婆(やりてばば)や太鼓持(たいこもち)へのチップなどは別にして、遊女の揚代や芸者代、料理代などに加えて、茶屋の手数料もすべて茶屋に立替えてもらい、それを後日まとめて支払うことになっている。だから吉原遊びを「茶屋遊び」とも言うわけである。 】

 (参考三)

 【 抱一と吉原 

https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00885/

 姫路藩主の弟・酒井抱一(ほういつ、1761-1829)は、吉原の大文字屋の「香川」を身請けし、根岸(現・台東区)の雨華庵(うげあん)で創作に勤しんだ絵師である。歌舞伎の七代目市川団十郎の贔屓であり、俳諧や狂歌も得意であった抱一が、高級遊女たちと機知に富む会話を楽しんでいたことが、吉原近くの料理屋「駐春亭」の主人が聞き書きをまとめた『閑談数刻』に残されている(※2)。以下は、鶴屋の花魁・大淀とのやり取りである。

 ある人大淀かたへ馴染通ひけるに、鶯邨(おうそん、抱一の号)君も折々遊びに行給へるを、わけありての事成べしと人のうわさしけるを聞て、

  きのふけふ淀の濁や皐月雨

 と書て御めにかけたるに、鶯邨君、

 淀鯉のまだ味しらずさ月雨

 と、返しをなし給へるを聞て、大淀、

  ぬれ衣を着る身はつらし皐月雨

 といゝ訳てうち連、うなぎ舛やにて一盃のミ笑ひしと也。

大淀と馴染みになっている客が、抱一も時々遊びにくることを知って、深い仲なのではとやきもちを焼いた。そのうわさを聞いた大淀が、「このところの五月雨で、私に悪い評判が立っている(淀が濁っている)」と書いて抱一に見せたところ、「五月雨によって水が淀めば、鯉がいても見えないものさ」と詠み、自分が大淀と深い関係がないことや「大淀がまだ色恋の機微を知らない」ことにかけて返した。それに対して大淀は、「五月雨の中で着物が濡れるのはつらい」と、噂は「濡れぎぬ」であると訴える。2人は笑い合いながら、うなぎの舛屋で酒を楽しんだという。

 抱一は、神田明神や山王権現(現在の日枝神社)の天下祭りで、佐久間町(現・神田佐久間町)や魚河岸(現・日本橋)から参加する手踊(河東節)の作詞もしている。それに曲を付けたのが、吉原に住む高級ミュージシャンだった男芸者で、歌舞伎の地方(じかた)としても音楽を担当していた。出稼ぎ人らによって、江戸に持ち込まれた労働歌やざれ歌を、上品な長唄などにアレンジしたのも男芸者たちであった。 

                                   】

第一こがねのこま(1-4)

1-4  うめが香や爰(ここ)の炬燵も周防どの 

 梅=初春。「うめ(梅)が香」=梅の匂い、梅(親季語・季題)の子季語(傍題)。「梅が香や」の「上五や切り」の例句に、次のような句がある。

 梅が香やしらら落窪京太郎        芭蕉(『忘梅』)

梅がゝやひそかにおもき裘(かはごろも) 蕪村(安永六年書簡)

梅が香やどなたが来ても欠茶碗  一茶(『文化句帖』)

梅が香や乞食の家ものぞかるゝ  其角(『五元集』)

梅が香や隣りは荻生惣右衛門   其角(?『江戸名所図会」

  其角の「梅が香や乞食の家ものぞかるゝ」の句には、「遊大音寺」(大音寺ニ遊ブ)との前書きがある。この句に関連して、次のアドレスで、下記のように解説している。

http://kikaku.boo.jp/shinshi/hokku10

 『  んめがや乞食の家も覗かるゝ

 「んめがゝ」は「梅が香」。現在、大音寺は台東区下谷竜泉寺の町中にありますが、当時は吉原遊郭の裏手で、江戸郊外の田圃の中のあったという事です。其角にとっては、大音寺は読み書きなどを習うために、通いだったか寄宿してだったか分かりませんが、10歳頃に入学した「寺子屋」であったようで、久しぶりに訪れたのかも知れません。町から外れたこの付近は、乞食の住む小屋も多くあって寂しげなところかと思われますが、土地勘があっての散策だったのでしょう。野梅の馥郁な香が伝わってきます。

 この句は「梅が香」という雅な縦の題材を「乞食」と取り合わすことで、其角らしい感性で俳化しています。「雁・鹿・虫とばかり」和歌と俳諧との本質の違いに悩んだ入門から、既に八年、俳諧を自家薬籠中の物にした其角の姿が目に浮かびます。』(「詩あきんど」)

 同じく、其角(?)の句とされている「梅が香や隣りは荻生惣右衛門」は、下記のアドレスで、『江戸名所図会」に記述されている「俳仙宝晋斎其角翁の宿」に関連しての原文が紹介されている。

https://www.weblio.jp/content/%E5%BE%82%E5%BE%A0%E8%B1%86%E8%85%90

 『 「江戸名所図会」(天保年間)に「俳仙宝晋斎其角翁の宿」があり、

「茅場町薬師堂の辺なりと云い伝ふ。元禄の末ここに住す。即ち終焉の地なり。按ずるに、梅が香や隣は萩生惣右衛門という句は、其角翁のすさびなる由、あまねく人口に膾炙す。よってその可否はしらずといえども、ここに注して、その居宅の間近きをしるの一助たらしむるのみ。」

 とある。現実に、荻生惣右衛門(荻生徂徠)が、其角の住んでいた場所の隣に蘐園塾を開いたのは、其角の死後2年が経過した1709年である。其角と荻生徂徠に面識はないという。

今ではこの句は、杉山杉風の弟子である松木珪琳のものだと言われている。けれども、「隣りは荻生惣右衛門」と詠まれたあたりは、其角を意識してのものだと言えるだろう。

 其角の「梅が香や…」の句には、「梅が香や乞食の家も覗かるゝ」(一茶の句)がある。現在になってこの2句を併せて鑑賞するなら、将軍吉宗に仕えた学者の、「徂徠豆腐」で知られる倹しい一面が、面白く浮かび上がってくる。』

『江戸名所図会』所収「茅場町薬師堂」(江戸名所図会 7巻. [2]  24/49頁) (国立国会図書館デジタルオンライン)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563381/25

  この『江戸名所図会』の次頁(25/49頁)の記述文の中に、「隣りは荻生惣右衛門」の句が出て来る。この「茅場町薬師堂」(24/49頁)の句は、「夕やくし涼しき風の誓いかな」である。                                                                                      

http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/chisenin/

「 『江戸名所図会』には「薬師堂、同じく御旅所の地にあり、本尊薬師如来は、恵心僧都の作なり、山王権現の本地仏たる故、慈眼大師勧請し給ふといへり、縁日は毎月八日、十二日にして、門前二・三町の間、植木の市立てり、別当は医王山智泉院と号す」とあります。

歌人で芭蕉十哲の一人、其角が境内地に住んでおり、

夕やくし涼しき風の誓いかな

の句をよんでおります。 」(「鎧島山 智泉院(通称:茅場町のお薬師さま)」)

  この其角の「夕やくし涼しき風の誓いかな」は、百万坊旨原編の『五元集』『五元集拾遺』(『俳文俳句集(日本名著全集刊行会編)』)には収載されていず、『其角発句集(上)(坎窩久臧 考訂)(名家俳句集)』に収載されている。それには、頭注があって、「夕やくし」=「薬師には夜の参詣多きより夕薬師といふ」とある(『同書』p220)。

  ついでに、芭蕉の句の「梅が香やしらら落窪京太郎」の「しらら・落窪・京太郎」は、「浄瑠璃『十二段草子』姿見の段に「よみけるさうしはどれどれぞ、こきん(古今)・まんやう(万葉)・いせものがたり(伊勢物語)・しらら(散佚=さんいつ)物語=とりかへばや物語)・おちくも(落窪物語)・京太郎(京太郎物語)」の「とりかへばや・おちくぼ・京太郎」物語のことのようである(『松尾芭蕉集一・全発句(井本農一・堀信夫校訂)』)。

 ここで、いよいよ、抱一の、「1-4  うめが香や爰(ここ)の炬燵も周防どの」の句であるが、この句もまた、抱一が私淑して止まない「宝井(榎本)其角」の、次の句の、「本歌取り(和歌・連歌・狂歌)・本説取り(漢詩文)・本句取り(俳諧・連句・発句・俳句・狂句・川柳)」なのである。

   周防どのは才ある人にて、政事行るゝに一生非なし。

  ひなき(火無き)をめでゝ、板くら(板倉)どのと

  申とかや、この中より、やけたる銭をひろひ出て

 火燵(こたつ)から青砥(あをと)が銭を拾ひけり  (其角『五元集』)

  この「其角」の句は、百万坊旨原編の『五元集』にも、坎窩久臧考訂の『其角発句集(冬之部)』にも収載されている。この坎窩久臧考訂の『其角発句集(冬之部)p253』の、この句の頭注には、「板倉殿の冷火燵といふ諺をさせり」とある。

 この「板倉殿の冷火燵といふ諺」は、「火の気の無いこたつの洒落。板倉殿(板倉周防守)の政務には非難される点が無いことから、『非がない』と『火がない』とをかけてのもの」ということになる。

 ちなみに、この句の「青砥が銭」とは「十文の銭を五十文使って探した、という青砥藤綱の故事をふまえている」と、何とも、其角の句というのは、いわゆる「謎句(付け)」の「謎掛のような仕掛けのある句」の連続なのである。

1-4  うめが香や爰(ここ)の炬燵も周防どの 

 句意=梅の匂いが春を告げている。だが、まだ、炬燵は離せない。しかし、この家の炬燵も火のない「周防殿の冷炬燵(ひえこたつ)=板倉炬燵」だ。

 句意周辺=「周防どの」とは、「京都所司代周防守板倉重宗」のこと。その「板倉殿(板倉周防守)の政務には非難される点が無いことから、『非がない』と『火がない』とをかけてのもの」ということになる。そして、この上五の「うめが香や」と中七の「爰の炬燵も」の「も」の措辞は、やはり、其角の句として夙に名高い「梅が香や隣りは荻生惣右衛門」の「荻生徂徠」の「徂徠豆腐」などが背景にあるのであろう。

 (参考) 徂徠豆腐 (「ウィキペディア」)

https://www.weblio.jp/content/%E5%BE%82%E5%BE%A0%E8%B1%86%E8%85%90

 落語や講談・浪曲の演目で知られる『徂徠豆腐』は、将軍の御用学者となった徂徠と、貧窮時代の徂徠の恩人の豆腐屋が赤穂浪士の討ち入りを契機に再会する話である。江戸前落語では、徂徠は貧しい学者時代に空腹の為に金を持たずに豆腐を注文して食べてしまう。豆腐屋は、それを許してくれたばかりか、貧しい中で徂徠に支援してくれた。その豆腐屋が、浪士討ち入りの翌日の大火で焼けだされたことを知り、金銭と新しい店を豆腐屋に贈る。

ところが、義士を切腹に導いた徂徠からの施しは江戸っ子として受けられないと豆腐屋はつっぱねた。それに対して徂徠は、「豆腐屋殿は貧しくて豆腐を只食いした自分の行為を『出世払い』にして、盗人となることから自分を救ってくれた。

法を曲げずに情けをかけてくれたから、今の自分がある。自分も学者として法を曲げずに浪士に最大の情けをかけた、それは豆腐屋殿と同じ。」 と法の道理を説いた。さらに「武士たる者が美しく咲いた以上は、見事に散らせるのも情けのうち。武士の大刀は敵の為に、小刀は自らのためにある。」と武士の道徳について語った。

これに豆腐屋も納得して贈り物を受け取るという筋。浪士の切腹と徂徠からの贈り物をかけて「先生はあっしのために自腹をきって下さった」と豆腐屋の言葉がオチになる。

第一こがねのこま(1-3)

1-3  築山の戸奈背にをつるやなぎかな

 柳(やなぎ)=晩春。築山=庭園に山をかたどって小高く土をつみ上げた所。戸奈背=戸無瀬=戸難瀬=京都市西京区嵐山、渡月橋の上流の古地名。紅葉の名所。歌枕。※恵慶集(985‐987頃)「大井河かはべの紅葉ちらぬまはとなせの岸にながゐしぬべし」

 となせ(戸無瀬)の滝=※散木奇歌集(1128頃)冬「となせよりながす錦は大井河いかだにつめるこのはなりけり」

 句意=この築山は、歌枕の、京都市西京区嵐山、渡月橋の上流の「戸奈背=戸無背」の「となせの滝」を模して作庭されている。その「となせの滝」に、あたかも、その傍らの柳が落下するように、風に靡いている。

 句意周辺=この句の背景には、「築山殿と松平信康の悲劇」などが隠されているのかも知れない。

https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/miryoku/naotora/pr/plus/07_20160817.html

 「築山殿と松平信康の悲劇」

 築山殿は、駿府(静岡市)にて今川家の重臣・関口刑部親永(せきぐちぎょうぶちかなが)と井伊直平(井伊直虎の曽祖父)の娘との間に生まれ、直盛(直虎の父)や直親のいとこにあたるとされています。

  今川義元の政略で松平元信(のちの徳川家康)に嫁ぎ、永禄2年(1559年)には長男である松平信康を出産。しかし、生まれてすぐに信康は今川家の人質として駿府で過ごすこととなります。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、家康は混乱に乗じて岡崎城に入城。名実ともに岡崎城主となると、築山殿と人質になっていた信康も岡崎城に移り住みます。永禄5年(1562年)には織田信長と清州同盟を結び、今川家と敵対関係になります。そして永禄10年(1567年)、9歳となった信康は信長の娘・徳姫と結婚します。

 元亀元年(1570年)、家康が浜松城に移ると、信康は岡崎城主となりますが、天正7年(1579年)、信康に悲劇が襲いかかります。悲劇のきっかけは徳姫が織田信長に送った12ヶ条の訴状だったと言われています。この訴状には、「築山殿が武田勝頼と内通している」といった内容が記されていたとされていて、この内容に織田信長が激昂。築山殿と信康の処刑を要求しました。熟慮の末、信長との関係を重視し、身を切る思いで、築山殿の殺害と信康の切腹を命じました。築山殿は徳川家臣によって佐鳴湖畔で殺害され、信康は二俣城(天竜区二俣町)で自害しました。

「築山殿/瀬名姫」(つきやまどの/せなひめ)(「ウィキペディア」)

生誕       不明

死没       天正7年8月29日(1579年9月19日)

別名       築山御前、駿河御前

配偶者    徳川家康

子供       徳川信康、亀姫

親           父∶関口親永

母∶   今川義元の妹

親戚:      兄弟∶正長、道秀、

姉妹:   大谷元秀室、築山殿、北条氏規室?

第一こがねのこま(1-2)

1-2  から笠のほねのたくみも柳哉

  柳(やなぎ)=晩春。

わがせこが見らむ佐保道の青柳を手折りてだにも見むよしもがも 大伴坂上郎女『万葉集』

見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春に錦なりける 素性法師『古今集』

青柳の糸よりかくる春しもぞ乱れて花のほころびにける 紀貴之『古今集』

傘(からかさ)に押しわけみたる柳かな 芭蕉「炭俵」

傾城の賢なるはこの柳かな       其角「五元集」

梅ちりてさびしく成しやなぎ哉     蕪村「蕪村句集」

恋々として柳遠のく舟路かな      几董「井華集」

  から笠(唐笠)=江戸時代に入ってからで、白の和紙に桐油(とうゆ)を引いたのが始まりで、その粗雑なものを番傘とよんだ。のちに家紋をつけたりし、傘の周囲を紺で染めたものを蛇の目傘、それより細身で高級品のものを紅葉(もみじ)傘といい、握りには籐(とう)を巻いたり、骨を糸飾りにしたりして粋筋(いきすじ)の間で流行した。

傘にねぐらかさうやぬれ燕  其角『虚栗』

柳に風=柳が風に従ってなびくように、少しも逆らわないこと。また、巧みに受けながすこと。※雑俳・如露評万句合‐宝暦九(1759)「いつ見ても柳に風の夫婦中」

 句意=唐笠の骨の仕組みは、実に巧みに出来上がっている。それは、丁度、「柳に風」のごとく、巧みに、従順な働きをしている。抱一の句作りの要諦は、江戸座俳諧の元祖の宝井其角の句をいかに「柳(其角)に風(抱一)」ごとく、咀嚼して、さりげなく一句にしているかどうかにかかっている。

鈴木其一筆「柳図扇」一本(柄) 酒井抱一賛 太田記念美術館蔵

一六・六×四五・五㎝

【 軽やかに風に揺れる柳が描かれる。抱一による賛は「傾城の賢なるはこれやなきかな 晋子吟 抱一書」。晋子(しんし)とは、芭蕉の門弟の一人で江戸俳座の祖である其角のこと。この句は『都名所図会』(安永九年<一七八〇>刊)などで京都の遊郭、島原を形容する際に用いられており、江戸時代後期にはよく知られていたと思われる。本扇面は、当時の吉原文化の一翼を担った抱一とその弟子其一の、粋な書画合筆による。賛のあとに抱一の印章「文詮」(朱文瓢印)が捺される。画面右に其一の署名「其一」、印章「元長」(朱文方印)がある。なお、其一の弟子入りの時期と抱一没年から制作期は文化十年(一八一三)から文政十一年(一八二八)の間と考えられる。 】(『鴻池コレクション扇絵名品展(図録)』所収「作品解説(赤木美智稿)」)

 (参考) 「藤図扇子」(其一筆・抱一賛・其角句)周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-09-25

 抱一の賛の其角の句「傾城の賢なるはこれやなきかな」は、『五元集(旨原編)』では「傾城の賢なるは此柳かな」の句形で収載されている。この其角の句が何時頃の作なのかは定かではない。『都名所図会』(安永九年<一七八〇>刊)で京都の遊郭、島原を形容する際に用いられているということは、其角の京都・上方行脚などの作なのかも知れない。

  闇の夜は吉原ばかり月夜哉   (天和元年=一六八一、二十一歳)

 西行の死出路を旅のはじめ哉  (貞享元年=一六八四、二十四歳、一次上方行脚)

 夜神楽や鼻息白し面の内    (元禄元年=一六八九、二十八歳、二次上方行脚)

 なきがらを笠に隠すや枯尾花  (元禄八年=一六九四、三十四歳、三次上方行脚)

抱一句集『屠龍之技』「第五千づかのいね」(1~5)

1 夕露や小萩がもとのすゞり筥 (第五千づかのいね)


抱一画集『鶯邨画譜』所収「萩図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 この「萩図」の賛(発句=俳句)は、抱一自撰句集『屠龍之技』所収の次の句であろう(句形は異なっている)。

 夕露や小萩がもとのすゞり筥(『屠龍之技』所収「千づかのいね」と題するものの一句)

ここで、抱一自撰句集『屠龍之技』について、下記のアドレスで、「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)の全容を見ることが出来る。

http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186.html

 その「写本」の紹介について、そのアドレスでは、下記のとおり記されている。

【 [書写地不明] : [書写者不明], [書写年不明] 1冊 ; 24cm
注記: 書名は序による ; 表紙の書名: 輕舉観句藻 ; 写本 ; 底本: 文化10年跋刊 ; 無辺無界 ; 巻末に「明治三十一年十二月二十六日午夜一校畢 観潮樓主人」と墨書あり
鴎E32:186 全頁
琳派の画家として知られる酒井抱一が、自身の句稿『軽挙観句藻』から抜萃して編んだ発句集である。写本であるが、本文は鴎外の筆ではなく、筆写者不明。本文には明らかな誤りが多数見られ、鴎外は他本を用いてそれらを訂正している。また、巻末に鴎外の筆で「明治三十一年十二月二十六日午夜一校畢 観潮楼主人」とあることから、この校訂作業の行われた時日が知られる。明治30年(1897)前後、鴎外は正岡子規と親しく交流していたが、そうしたなかで培われた俳諧への関心を示す資料だと言えよう。】

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)の「序」)

 この『屠龍之技』の、亀田鵬斎の「序」は、『日本名著全集江戸文芸之部第二十七巻(追加編二巻)俳文俳句集(日本名著全集刊行会編)』の「屠龍之技」(追加編)を参考にすると、次のように読み取れる。

【 屠龍之技
軽挙道人。誹(俳)諧十七字ノ詠ヲ善クシ。目ニ触レ心ニ感ズル者。皆之ヲ言ニ発ス。其ノ発スル所ノ者。皆獨笑獨泣獨喜獨悲ノ成ス所ナリ。而モ人ノ之ヲ聞ク者モ亦我ト同ジク笑フ耶泣ク耶喜ブ耶悲シム耶ヲ知ラズ。唯其ノ言フ所ヲ謂ヒ。其ノ発スル所ヲ発スル耳。道人嘗テ自ラ謂ツテ曰ハク。誹諧体ナル者は。唐詩ニ昉マル。而シテ和歌之ニ効フ。今ノ十七詠ハ。蓋シ其ノ余流ナリ。故ニ其ノ言雅俗ヲ論ゼズ。或ハ之ニ雑フルニ土語方言鄙俚ノ辞ヲ以テス。又何ノ門風カコレ有ラン。諺ニ云フ。言フ可クシテ言ハザレバ則チ腹彭亨ス。吾ハ則チ其ノ言フ可キヲ言ヒ。其ノ発ス可キヲ発スル而巳ト。道人ハ風流ノ巨魁ニシテ其ノ髄ヲ得タリト謂フ可シ。因ツテ其首ニ題ス。
文化九年壬申十月  江戸鵬斎興  】

 「下谷三幅対」と称された、「鵬斎・抱一・文晁」の、抱一より九歳年長の、亀田豊斎の「序」である。この文化九年(一八一二)は、抱一、五十二歳の時で、抱一の付人の鈴木蠣潭は、二十一歳、鈴木其一は、十七歳で、其一は、この翌年に、抱一の内弟子となる。
 『鶯邨画譜』が刊行されたのは、文化十四年(一八一七)で、この年の六月に、蠣潭が二十六歳の若さで夭逝する。
その抱一が、鶯の里(鶯邨=村)の、「下谷根岸大塚村」に転居したのは、文化六年(一八〇九)、四十九歳の時で、抱一が、自筆句集「軽挙観(館)句藻」(静嘉堂文庫蔵)第一冊目の「梶の音」を始めたのは、寛政二年(一七九〇)、三十歳の時である。
爾来、この「軽挙観(館)句藻」は、抱一の生涯にわたる句日記(三十数年間)として、二十一巻十冊が、静嘉堂文庫所蔵本として今に遺されている。
翻って、上記の亀田鵬斎の「序」を有する刊本の、抱一自筆句集ではなく、抱一自撰句集の『屠龍之技』は、抱一の俳諧人生の、前半生(三十歳以前から五十歳前後まで)の、その総決算的な、そして、江戸座の其角門の俳諧宗匠・「軽挙道人(「抱一」、白鳧・濤花・杜陵(綾)・屠牛・狗禅、「鶯村・雨華庵・『軽挙道人』」、庭柏子、溟々居、楓窓)の、その絶頂期の頃の、「鶯村・雨華庵・『軽挙道人』」の、抱一(軽挙道人)自撰句集のネーミングと解して差し支えなかろう。
 ここで、この自撰句集『屠龍之技』を構成する全編(全自筆句集)の概略は次のとおりとなる。

第一編「こがねのこま」(「梶の音」以前の句→三十歳以前の句?)
第二編「かぢのおと(梶の音)」(寛政二年(一七九〇)・三十歳時から句収載?→自筆句集「軽挙観(館)句藻」第一冊目の「梶の音」)
第三編「みやこどり(都鳥)」(「梶の音」と「椎の木かげ」の中間の句収載?)
第四編「椎の木かげ」(寛政八年(一七九六)・三十六歳時からの句収載? 「庭柏子」号初見。この年『江戸続八百韻』を刊行する。「軽挙観(館)句藻」第二冊目?)
第五編「千づかのいね(千束の稲)」(寛政十年(一七九八)・三十八歳時からの句収載? 「軽挙観(館)句藻」第三冊目? 「抱一」の号初出。)
第六編「うしおのおと(潮の音)」(「千束の稲」と「潮の音」の中間の句収載?)
第七編「かみきぬた(帋きぬた)」(文化五年(一八〇八)、四十八歳時からの句収載? 「軽挙観」の号初出。)
第八編「花ぬふとり(花縫ふ鳥)」(文化九年(一八一二)、五十二歳、自撰句集『屠龍之技』編集、刊行は翌年か? 「帋きぬた」以後の句収載?)
第九編「うめの立枝」

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)の「千づかのいね」)

 「千都かのいね」(「千づかのいね」「千束の稲」)は、『軽挙観(館)句藻』(静嘉堂文庫所蔵・二十一巻十冊)収録の「千づかのいね」(自筆句集の題名)を、刊本の自撰句集『屠龍之技』の第五編に収載したものなのであろう。
 この第五編「千づかのいね」(『日本名著全集江戸文芸之部第二十七巻(追加編二巻)俳文俳句集(日本名著全集刊行会編)』)の六句目「夕露や小萩かもとのすずり筥」が、冒頭の、
抱一画集『鶯邨画譜』所収「萩図」の賛(発句=俳句)ということになろう。
 そして、四句目の「其夜降(る)山の雪見よ鉢たゝき」の前書き「水無月なかば鉢叩百之丞得道して空阿弥と改、吾嬬に下けるに発句遣しける」は、六句目の「夕露や小萩がもとのすゞり筥」にも掛かるものと解したい。
 この前書きの「鉢叩百之丞得道して空阿弥と改(め)」の、「鉢叩百之丞」は、其角の『五元集拾遺』(百万坊旨原編)に出て来る「鉢たゝきの歌」などに関係する、抱一の俳諧師仲間の一人なのであろう。

   鉢たゝきの歌
 鉢たゝき鉢たゝき   暁がたの一声に
 初音きかれて     はつがつを
 花はしら魚      紅葉のはぜ
 雪にや鰒(ふぐ)を  ねざむらん
 おもしろや此(この) 樽たゝき
 ねざめねざめて    つねならぬ
 世を驚けば      年のくれ
 気のふるう成(なる) ばかり也
 七十古来       稀れなりと
 やつこ道心      捨(すて)ころも
 酒にかへてん     鉢たゝき
 あらなまぐさの    鉢叩やな
  凍(コゴエ)死ぬ身の暁や鉢たゝき    其角

 ちなみに、『去来抄』の「鉢扣ノ辞」(『風俗文選』所収)に、「鉢叩月雪に名は甚之丞」(越人)の句もあり、「鉢叩百之丞」は、その「鉢叩甚之丞」などに由来のある号なのであろう。

  水無月なかば
  鉢叩百之丞得
  道して空阿弥
  と改、吾嬬に
  下けるに発句
  遣しける
 夕露や小萩がもとのすゞり筥

 句意は、「俳諧師仲間の鉢叩百之丞が、得度して出家僧・空阿弥となったが、折しも、小萩に夕べの露が下り、その露を硯の水とし、得度の形見に発句を認めよう」というように解して置きたい。

  朝妻ぶねの賛
2 藤なみや紫さめぬ昔筆  (第五 千づかのいね)


 この前書きの「朝妻船(浅妻船)」を画題としたもので、最も知られているものは、英一蝶の「朝妻舟図」であろう。


英一蝶筆「朝妻舟」(板橋区立美術館蔵)

 この一蝶の「朝妻舟」の賛は、「仇しあだ浪、よせてはかへる浪、朝妻船のあさましや、
ああまたの日は誰に契りをかはして色を、枕恥かし、いつはりがちなるわがとこの山、よしそれとても世の中」という小唄のようである。
 一蝶は、この小唄に託して、時の将軍徳川家綱と柳沢吉保の妻との情事を諷したものとの評判となり、島流しの刑を受けたともいわれている。
 朝妻は米原の近くの琵琶湖に面した古い港で、朝妻船とは朝妻から大津までの渡し舟のこと。東山道の一部になっていた。「朝妻舟」図は、「遊女と浅妻船と柳の木の組み合わせ」の構図でさまざまな画家が画題にしている。
 「琵琶湖畔に浮かべた舟(朝妻船・浅妻船)」・「平家の都落ちにより身をやつした女房たちの舟の上の白拍子」・「白拍子が客を待っている朝妻の入り江傍らの枝垂れ柳」が、この画の主題である。
 しかし、抱一の、この句は、「枝垂れ柳」(晩春)ではなく、「藤波・藤の花房」(晩春)の句なのである。この「朝妻舟」の画題で、「枝垂れ柳」ではなく「藤波」のものもあるのかも知れない。
 それとも、この「藤なみ(波・浪)」は、その水辺の藤波のような小波を指してのものなのかも知れない。
 抱一らの江戸琳派の多くが、「藤」(藤波)を画題にしているが、「朝妻舟」を主題にしたものは、余り目にしない。


抱一画集『鶯邨画譜』所収「藤図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html



先に、次のアドレスで、鈴木蠣潭画・酒井抱一賛の師弟合作の「藤図扇面」について紹介した。上記の「藤図」は、その蠣潭の「藤図」と関係が深いものなのであろう。その画像とその一部の紹介記事を再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-24


(再掲)

鈴木蠣潭筆「藤図扇面」 酒井抱一賛 紙本淡彩 一幅 一七・一×四五・七㎝ 個人蔵 
【 蠣潭が藤を描き、師の抱一が俳句を寄せる師弟合作。藤の花は輪郭線を用いず、筆の側面を用いた付立てという技法を活かして伸びやかに描かれる。賛は「ゆふぐれのおほつかなしや藤の茶屋」。淡彩を滲ませた微妙な色彩の変化を、暮れなずむ藤棚の下の茶店になぞらえている。】(『別冊太陽 江戸琳派の美』)

 この抱一・蠣潭の合作の「藤図扇面」の、抱一の賛(発句=俳句)「ゆふぐれのおほつかなしや藤の茶屋」は、抱一句集『屠龍之技』には収載されていないようである。その『屠龍之技』に収載されている句の中では、下記のものなどが、その賛の発句(俳句)に関係があるような雰囲気である。

   文晁が畫がける山水のあふぎに
 夕ぐれや山になり行(く)秋の雲

 この抱一の句は、前書きの「文晁が畫がける山水のあふぎに」(畏友・谷文晁が描いた「山水図」の扇)に、画・俳二道を極めている「酒井鶯邨(抱一)」が、その「賛」(発句=俳句)を認めたものなのであろう。

 当時の江戸(武蔵)の、今の「上野・鶯谷」(「下谷」=「鶯邨」=「鶯村)の「三幅対」といわれた「亀田鵬斎(儒学者・書家・文人)・酒井抱一(絵師・俳人・権大僧都)・谷文晁(絵師=法眼・松平定信の近習)の、この三人の交遊関係は、当時の「化政文化期」を象徴するものであった。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-25


https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-30


(再掲)

ここに登場する「下谷の三幅対」と称された、年齢順にして、「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」とは、これは、まさしく、「江戸の三幅対」の言葉を呈したい位の、まさしく、切っても切れない、「江戸時代(三百年)」の、その「江戸(東京)」を代表する、「三幅対」の、それを象徴する「交友関係」であったという思いを深くする。
 その「江戸の三幅対」の、「江戸(江戸時代・江戸=東京)」の、その「江戸」に焦点を当てると、その中心に位置するのが、上記に掲げた「食卓を囲む文人たち」の、その長老格の「亀田鵬斎」ということに思い知るのである。
 しかも、この「鵬斎」は、抱一にとっては、無二の「画・俳」友である、「建部巣兆」の義理の兄にも当たるのである。
上記の、『江戸流行料理通大全』の、上記の挿絵の、その中心に位置する「亀田鵬斎」とは、「鵬斎・抱一・文晃」の、いわゆる、「江戸」(東京)の「下谷」(「吉原」界隈の下谷)の、その「下谷の三幅対」と云われ、その三幅対の真ん中に位置する、その中心的な最長老の人物が、亀田鵬斎なのである。
 そして、この三人(「下谷の三幅対」)は、それぞれ、「江戸の大儒者(学者)・亀田鵬斎」、「江戸南画の大成者・谷文晁」、そして、「江戸琳派の創始者・酒井抱一」と、その頭に「江戸」の二字が冠するのに、最も相応しい人物のように思われるのである。
 これらの、江戸の文人墨客を代表する「鵬斎・抱一・文晁」が活躍した時代というのは、それ以前の、ごく限られた階層(公家・武家など)の独占物であった「芸術」(詩・書・画など)を、四民(士農工商)が共用するようになった時代ということを意味しよう。
 それはまた、「詩・書・画など」を「生業(なりわい)」とする職業的文人・墨客が出現したということを意味しよう。さらに、それらは、流れ者が吹き溜まりのように集中して来る、当時の「江戸」(東京)にあっては、能力があれば、誰でもが温かく受け入れられ、その才能を伸ばし、そして、惜しみない援助の手が差し伸べられた、そのような環境下が助成されていたと言っても過言ではなかろう。
 さらに換言するならば、「士農工商」の身分に拘泥することもなく、いわゆる「農工商」の庶民層が、その時代の、それを象徴する「芸術・文化」の担い手として、その第一線に登場して来たということを意味しよう。
 すなわち、「江戸(東京)時代」以前の、綿々と続いていた、京都を中心とする、「公家の芸術・文化」、それに拮抗しての全国各地で芽生えた「武家の芸術・文化」が、得体の知れない「江戸(東京)」の、得体の知れない「庶民(市民)の芸術・文化」に様変わりして行ったということを意味しょう。

鈴木其一筆『草花十二ヵ月画帖』(MOA美術館蔵)所収「五月」(紙本著色、十六・七×二一・二㎝)

 この『草花十二ヵ月画帖』のものについては、下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-10-05



鈴木其一筆『月次花鳥画帖』(細見美術館蔵)所収「四月」(藤図・絹本著色、二〇・二×一八・四㎝)

 これらの其一の画帖は、抱一の『鶯邨画譜』(版本)を念頭に置いてのものとうよりも、抱一の『絵手鑑』(肉筆画)に近い、其一の「絵手本」として制作されたものなのかも知れない(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説137(岡野智子稿))。

抱一画集『鶯邨画譜』所収「唐橘図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html


3 百両と書(かき)たり年の関てがた(第五 千づかのいね)

 この句は、植物の「百両(唐橘)」(三冬)の句ではなく、関所手形・往来手形などの句で、「年の関てがた(手形)」の「新年」の句であろう。
 そして、「万両(藪橘)」「千両(草珊瑚)」「百両(唐橘)」「十両(藪柑子・山橘)」「一両(蟻通)」は、何れも秋から冬に赤熟し、「三冬」の季語であるが、正月の飾りものとして、ここでは、「年の関てがた」の「年」に掛かり、「年立つ(新年)」の意を兼ねての用例と解したい。
 この句の主題は、下五の「関てがた」で、その「関所手形」(この句では女性の旅の必須の「女手形」?)の手続きは、「大家→町名主→町年寄→奉行所→江戸城留守居役」の手続きを経て発行されるなど、それらと、この上五の「百両」(そして「唐橘」)が関係しているような、そんなことが、この句の背景なのかも知れない。

 下記のアドレスで、先に、「藪柑子と竹籠図」について触れた。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-10-07


 この「藪柑子(山橘)」は、別名が「十両」で、『屠龍之技』には、「十両」の句は見当たらない。「千両」の句は、下記の句が収載されている。

4 千両で売るか小倉の初しぐれ(第九 梅の立枝)

 しかし、この句は、「万両(藪橘)・千両(草珊瑚)・百両(唐橘)・十両(藪柑子・山橘)・一両(蟻通)」などの植物の句ではない。「初しぐれ(時雨)」(初冬)の句である。この句の「小倉」は、藤原定家が百人一首を編纂した京都の小倉山の麓・嵐山の「時雨殿(しぐれでん)」を指しているのだろう。その「小倉」の「時雨殿」の「初時雨」は何とも風情があり、「千両で売ろうか」との、抱一の粋な洒落の一句ということになる。

5 一文の日行千里としのくれ(第五 千づかのいね)

 この句の前には、「歳暮」との前書きがある。抱一の時代(江戸時代中後期)の「一両」(現代=約七万五千円)は「六千五百文」で、「一文」は「約十二円」とかが、下記のアドレスで紹介されている。

https://komonjyo.net/zenika.html

 「一文の日行千里としのくれ」の「日行千里」は、四字熟語の感じだが、「一文の日行千里としのくれ」は、字義とおりに解すれば、「歳の暮れにあたり、一文無しに近い日々を重ねて、思えば遥かにも千里の道を来たかわい」というようなことであろう。

   鳥既に闇り峠(くらがりとうげ)年立つや (早野巴人『夜半亭発句帖』)

 抱一の俳諧の師の馬場存義を介すると、抱一の兄弟子にも当たる与謝蕪村の俳諧の師・早野巴人(馬場存義と同じく其角系の江戸座の俳人)の「年立つや」(年立ちかえる)の一句である。
この句の「鳥(とり)」は「掛けとり・借金とりの『とり(鳥)』」で、大晦日に駆けずり廻り、「大晦日は一日千金」の「掛け売りの借金取り」が、その裏(ウラ)の意のようである。
そして、この「闇り峠」は、松尾芭蕉が奈良から大坂へ向かう途中この峠で、「菊の香にくらがり越ゆる節句かな」を詠んだ、その古道の峠であるが、ここでは大晦日の闇夜の暗がり峠の意をも込めている。
そして、「年立つや」は、「大晦日が過ぎて新しい年を迎えたのであろうか」という意である。
即ち、この巴人の句は、「大晦日の借金取りは、私の所まで手が廻らず、大晦日が過ぎて新年を迎えることが出来れば、また、一年、借金返済の猶予の口実が出来るわい」というようなことのようである。
 抱一の、上記の、「百両・千両・一文」の句などは、間違いなく、この巴人の「年立つや」の句と、同じ世界のものという雰囲気を有している

抱一句集『屠龍之技』「第四椎の木かげ」(1~5)

  重陽
 1 太刀懸に菊一(ひ)とふりやけふの床 (第四 椎の木かげ)
 2 見劣(みおとり)し人のこゝろや作りきく (第四 椎の木かげ)

抱一画集『鶯邨画譜』所収「流水に菊」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 「光琳意匠」の代表的な「流水紋様」と「菊紋様」との組み合わせで、これらの全体像は、下記のアドレスに詳しい。

http://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/20/kawaii.html


• い:金井紫雲編『芸術資料』第1期 第11冊,芸艸堂,昭和16(1941)【K231-35】
• ろ:金井紫雲編『芸術資料』第3期 第7冊,芸艸堂,昭和16(1941)【K231-35】
• は:中村芳中画『光琳畫譜』和泉屋庄次郎,文政9(1826)【午-24】
• に:抱一筆『鶯邨畫譜』須原屋佐助,1800年代【か-44】
• ほ:中村芳中画『光琳畫譜』和泉屋庄次郎,文政9(1826)【午-24】
• へ:恩賜京都博物館編『抱一上人画集』芸艸堂,昭和5(1930)【424-52】
• と:金井紫雲編『芸術資料』第3期 第7冊,芸艸堂,昭和16(1941)【K231-35】
• ち:中野其明編『尾形流略印譜』春陽堂,明治25(1892)【15-156】
• り:神坂雪佳『百々世草』山田芸艸堂,明治42-43(1909-1910)【406-32】
• ぬ:法橋光琳画『光琳扇面画帖』小林文七,明治34(1901)【寄別4-3-2-3】
• る:中村芳中画『光琳畫譜』和泉屋庄次郎,文政9(1826)【午-24】
• を:石井柏亭編『浅井忠 画集及評伝』芸艸堂,昭和4(1929)【553-116】
• わ:恩賜京都博物館編『抱一上人画集』芸艸堂,昭和5(1930)【424-52】
• か:池田孤村『池田孤村画帖』写【寄別1-7-2-2】
• よ:金井紫雲編『芸術資料第一期 第三冊』芸艸堂,昭和16(1941)【K231-35】
• た:中村芳中画『光琳畫譜』和泉屋庄次郎,文政9(1826)【午-24】
• れ:中村芳中画『光琳畫譜』和泉屋庄次郎,文政9(1826)【午-24】
• そ:抱一筆『鶯邨畫譜』須原屋佐助,1800年代【か-44】
• つ:帝國博物館編『稿本日本帝国美術略史』農商務省,明治34(1901)【貴7-126】
• ね:新古画粋社編『新古画粋 第9編(光琳)』新古画粋社,大正8(1919)【421-1】


抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)についても、下記のアドレスで、その全体像を見ることが出来る。

http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0001_m.html


http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0015_m.html


 「椎の木かげ」編の「重陽」の二句。上記の「見劣し人のこゝろや作りきく」の後に、一行の空白がある。「重陽」の前書きは、次の菊の二句にかかる。

 太刀懸に菊一(ひ)とふりやけふの床
 見劣(みおとり)し人のこゝろや作りきく

3 菜の花や簇(むら)落(おとし)たる道の幅 (第四 椎の木かげ)    

抱一画集『鶯邨画譜』所収「奈の花図」(「早稲田大学図書館」蔵)

 抱一句集『屠龍之技』の「菜の花」の句に次のような句がある。

  菜の花や簇(むら)落(おとし)たる道の幅 

 この句の情景は、どのようなものなのであろうか。とにかく、抱一の句は、其角流の「比喩・洒落・見立て・奇抜・奇計・難解」等々、現代俳句(「写生・写実」を基調とする)の物差しでは計れないような句が多い。
 しかし、江戸時代の俳句(発句)であろうが、現代俳句であろうが、「季題(季語)・定形。切字・リズム・存問(挨拶)・比喩・本句(歌・詩・詞)取り」等々の、基本的な定石というのは、程度の差はあるが、その根っ子は、同根であることは、いささかの変わりはない。

 ここで、同時代(江戸時代中期=「蕪村」、江戸時代後期=「抱一」)の、同一系統(其角流「江戸座」俳諧の流れの「蕪村・抱一」)の、蕪村の同一季題(季語)の句などを、一つの物差しにして、この抱一の句の情景などの背景を探ることとする。

  菜の花や和泉河内へ小商ひ (蕪村 明和六年=一七六九 五十四歳)

 この「和泉河内」は、現大阪の南部で、当時の「菜種油」の産地である。一面の菜の花畑が、この句の眼目である。抱一の「菜の花や」の「上五『や』切り」でも、「菜種油=一面の菜の花畑」は背後にあることだろう。

  菜の花や壬生の隠れ家誰だれぞ (蕪村 明和六年=一七六九 五十四歳)

 この句の「壬生」は、現京都市中京句で、「壬生忠岑の旧知」である。抱一の句の「道の幅」の「道」も、抱一旧知の「「誰だれ」が棲んでいたのかも知れない。

  菜の花や油乏しき小家がち  (蕪村 安永二年=一七七三 五十八歳)   

 「一面の菜の花畑」は「満地金のごとし」と形容される。その一面の菜の花畑とその菜の花から菜種を取る農家の家は貧しい小家を対比させている。ここには「諷刺」(皮肉・穿ち)がある。抱一の句の「落(おとし)たる」「道の幅」などに、この「穿ち」の視線が注がれている。

  菜の花や月は東に日は西に   (蕪村 安永三年=一七七四 五十九歳) 

 蕪村の傑作句の一つとされているこの句は、「東の野にかぎろひの立つ見えて顧りみすれば月傾きぬ(柿本人麿『万葉集』)の本歌取りの句とされている。しかし、洒落風俳諧に片足を入れている蕪村は、その背後に、「月は東に昴(すばる)は西にいとし殿御(とのご)は真中に」(「山家鳥虫歌・丹後」)の丹後地方の俗謡を利かせていることも。夙に知られている。この句は、蕪村の後を引き継いで夜半亭三世となる高井几董の『附合(つけあい)てびき蔓(づる)』にも採られており、俳諧撰集『江戸続八百韻』(寛政八年=一七九六、三十六歳時編集・発刊)を擁する抱一も、おそらく、目にしていると解しても、それほど違和感はないであろう。

 ここでは、その『附合(つけあい)てびき蔓(づる)』(几董編著)ではなく、『続明烏』(几董編著)の「菜の花や」(歌仙)の「表(おもて)」の六句を掲げて置きたい。

  菜の花や月は東に日は西に    (蕪村、季語「菜の花」=春)
   山もと遠く鷺かすみ行(ゆく) (樗良、季語「かすみ」=春)
  渉(わた)し舟酒債(さかて)貧しく春暮れて(几董、「季語「春」=春)
   御国(おくに)がへとはあらぬそらごと (蕪村、雑=季語なし)
  脇差をこしらへたればはや倦(うみ)し  (樗良、雑=季語なし)
   蓑着て出(いづ)る雪の明ぼの     (几董、季語「雪」=冬)

 この「俳諧」(「歌仙」=三十六句からなる「連句」)の一番目の句(発句)を、抱一の句(俳句=発句)で置き換えてみたい。

  菜の花や簇(むら)落(おとし)たる道の幅 (抱一、季語「菜の花」=春)
   山もと遠く鷺かすみ行(ゆく)      (樗良、季語「かすみ」=春)
  渉(わた)し舟酒債(さかて)貧しく春暮れて(几董、「季語「春」=春)
   御国(おくに)がへとはあらぬそらごと  (蕪村、雑=季語なし)
  脇差をこしらへたればはや倦(うみ)し   (樗良、雑=季語なし)
   蓑着て出(いづ)る雪の明ぼの      (几董、季語「雪」=冬)

 これは、蕪村の発句が、生まれ故郷の「浪華」(「和泉河内」を含む)や現在住んでいる京都(「島原」)辺りの句とするならば、抱一の句は「武蔵」、そして、『軽挙館句藻』に出てくる「千束村(浅草寺北の千束村)に庵むすびて」の「吉原」辺りの句と解したい。
 その上で、当時の抱一に焦点を当てて、これら六句の解説を施して置きたい。

(発句)菜の花や簇(むら)落(おとし)たる道の幅  抱一

 簇(むら)」は、「菜の花の叢(むら・群生)の意に解したい。「道の幅」の「幅」は、「ふち・へり」の方が句意を取りやすい。句意は、「(千束村から吉原に行く)道すがら、その道の両側には、菜の花が、まるで、取り残されたように、群れ咲いている」。

(脇)山もと遠く鷺かすみ行(ゆく)   樗良

 「雪ながら山もと霞む夕べかな(宗祇)/行く水遠く梅匂ふ里(肖白)」(『水無瀬三吟』)を踏まえている。抱一に「菜の花に雲雀図」(「十二ケ月花鳥図・二月」)がある。

(第三)渉(わた)し舟酒債(さかて)貧しく春暮れて  几董

 「詩商人(あきんど)年を貧(むさぼ)る酒債かな」(其角『虚栗』)を踏まえてのものであろう。抱一は、文化三年(一八〇六、四十六歳)の、其角百回忌に際し、「其角肖像百幅」を制作するとの落款(印章)があるほど、其角に私淑していた。

(四)御国(おくに)がへとはあらぬそらごと      蕪村

 抱一は、天明元年(一七八一、二十一歳)に。兄の姫路藩主・忠以に従い上洛し(光格天皇即位の奉賀)、その折り姫路城まで足を伸ばしている。大名家にとっては、「御国替え」というのは、一大事のことであった。

(五)脇差をこしらへたればはや倦(うみ)し     樗良

  寛政九年(一七九七、三十七歳)に出家し、「等覚院文詮暉真」の法名を名乗る前は、酒井雅楽頭家の藩主に次ぐ、次男の「忠因(ただなお)」がその本名であり、脇差は必携のものであったろう。

 もとより、上記のものはバーチャル(仮想の「そらごと」)のものであるが、町絵師風情の蕪村よりも、風流大名家の一員の抱一の世界に、より多く馴染むような、そんな内容の運びであるということを付記して置きたい。

酒井抱一筆「十二ヵ月花鳥図」 絹本著色 十二幅の六幅 各一四〇・〇×五〇・〇
(「宮内庁三の丸尚蔵館」蔵) 右より 「一月 梅図に鶯図」「二月 菜花に雲雀図」「三月 桜に雉子図」「四月 牡丹に蝶図」「五月 燕子花に水鶏図」「六月 立葵紫陽花に蜻蛉図」

酒井抱一筆「十二ヵ月花鳥図」 絹本著色 十二幅の六幅 各一四〇・〇×五〇・〇
(「宮内庁三の丸尚蔵館」蔵) 右より 「七月 玉蜀黍朝顔に青蛙図」「八月 秋草に螽斯(しゅうし=いなご)図」「九月 菊に小禽図」「十月 柿に小禽図」「十一月 芦に白鷺図」「十二月 檜に啄木鳥図」

【 十二の月に因む植物と鳥や昆虫を組み合わせ、余白ある対角線構図ですっきりかつ隙のない構成で描き出す。いかにも自然だと共感できる姿が選び抜かれ、モチーフ相互の関係も絶妙に作られている。多くの十二ヵ月花鳥図の中で、唯一、終幅に「文政癸未年」(文政六年=一八二三)と年紀があり、抱一六十三歳の作とわかる基準作。抱一が晩年に洗練を究めた花鳥画の到達点であり、伏流となって近現代まで生き続ける江戸琳派様式の金字塔である。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説162(松野知子稿)」)

 この「十二ヵ月花鳥図」は、十二の月に因む花と鳥(虫)とを組み合わせた連作もので、上記の「宮内庁三の丸尚蔵館本」の他に、「畠山記念館本」「出光美術館本」「香雪美術館本」「ブライス・コレクション本」「ファインバーグ・コレクション本」などが現存している。  

 これらは、その制作当初はいずれも六曲一双の屏風に貼られていたと推察されている(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「江戸風流を描く(岡野智子稿)」)。そして、「『十二ヵ月花鳥図』は好評を得たらしく、いくつもの作例があるが、なかには構図に締まりのないものや、緊張感の緩んだ筆致も見られる。雨華庵には多くの弟子を抱えた工房を形成しており、『十二ヵ月花鳥図』のような手のかかる作品の注文に、複数の弟子が分担して関与していた可能性は低くない」と指摘している(岡野「前掲稿」)。

 抱一の作品には、最初の弟子(抱一の付き人)の鈴木蠣潭や蠣潭の後継者の鈴木其一などの代筆などか多いことは、夙に知られているところで(『日本絵画の見方(榊原悟著)』)、
この抱一の晩年の頃の『十二ヵ月花鳥図』の連作については、抱一の後継者となる酒井鶯蒲などが深く関わっているのであろう。

 鶯蒲が、抱一、妙華尼の養子になるのは文政元年(一八一八)、抱一、五十八歳、鶯蒲が十二歳の時であった。文政八年(一八二五、抱一、六十五歳、鶯蒲、二十一歳)の抱一の年譜に「鶯蒲とともに扇子を水戸候に献上」とあり、抱一の晩年の頃には、其一以上に、この鶯蒲などの出番が多かったことであろう。

 ここで、抱一の時代(江戸時代)の絵画というのは、チーム(工房など)の共同(協同)制作などをベースにしており、作者に代わって制作するなどの、いわゆる代筆などにおいても、今よりも寛容の度合いは緩やかなものであったということは理解して置く必要があろう。

 これは、当時の俳諧(俳句・連句)の世界においては、絵画の世界より以上に、チーム(座)をリードする主宰者(宗匠=捌き、助手=執筆)の「選別・推敲・一直(手直し)」などが基本になっており、その作者のオリジナル(独創性など)なものは、逆に排除され、最終的な作品は、個々の作品というよりも、そのチーム(座)の、そのメンバー(連衆)の「総意」のようなものが、それこそ「創意」と同一視されるような世界と言っても、決して、過ちでもなかろう。

 そして、このような、「美術(絵画)と俳諧(俳句・連句)」との接点の上で、とりわけ、抱一の、この『鶯邨画譜』を見ていくと、抱一の世界の底流に流れているもの基本的なものが浮かび上がってくるような思いを深くする。

4 黒楽の茶碗の欵(かん)やいなびかり (第四 椎の木かげ)


抱一画集『鶯邨画譜』所収「白椿に楽茶碗図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html


 抱一句集『屠龍之技』には、「白椿」の句は目にしないが、次の「黒楽焼茶碗」の句が収載されている。

  黒楽の茶碗の欵(かん)やいなびかり

 中七の「茶碗の欵(かん)や」の「欵(かん)」は、「親しみ・よしみ」の意なのであろうか。下五の「いなびかり」は、季語の「稲光」で、「雷」が夏の季語とすると秋の季語ということになる。蕪村にも「稲妻」(稲光)の句が多い。

  稲づまや浪もてゆへる秋津島 (蕪村 明和五年=一七六八 五十三歳)
  いな妻の一網うつや伊勢の海 (同上)
  いな妻や秋津島根のかゝり舟 (同上)
  稲妻や海ありがほの隣国   (同上)

 「稲妻」と大景の「秋津島(日本の古称)・伊勢の海・秋津島根(日本の古称)・隣国(中国・朝鮮)」との取り合わせの句であろう。

  稲妻にこぼるゝ音や竹の音  (蕪村 年次未詳)

 視覚的な「稲妻」と聴覚的な「竹の音」との取り合わせの句、何とも感覚的な句作りである。
 抱一の句も、「黒楽焼茶碗」の「黒」と「稲光」の「一閃・閃光」との取り合わせの句と解したい。句意は、「常時慣れ親しんでいる黒楽焼茶碗、一閃の稲光で、その黒さが見事である」というようなことであろう。

  古庭に茶筌花咲く椿哉  (蕪村 明和六年=一七六九 五十四歳)

 この蕪村の句の句意は、「茶室の古庭に茶筌のような椿が咲いている」というようなことであろう。抱一の、上記の「白椿に楽茶碗図」は、「茶室の黒焼茶碗の脇に茶筌のような白椿が活けられている」というような光景であろう。

鈴木蠣潭筆「白椿に楽茶碗図扇面」一幅 紙本著色 一六・〇×四五・六㎝ 個人蔵

 抱一の附人で、抱一の助手として傍に仕えた鈴木蠣潭の「白椿に楽茶碗図」である。この蠣潭は二十六歳の若さで狂犬病により急死した。その跡を継いだのが、当時、二十二歳の鈴木其一である。その其一にも、同じ画題のものがある。

鈴木其一筆「白椿に楽茶碗図」(「諸家寄合書画帖」のうち)一枚(一帖のうち)絹本著色
二五・七×二九・三㎝ 個人蔵
【 黒楽茶碗に白椿の折り枝を取り合わせた小品で、江戸時代後期に活躍した日本各地の漢詩人、書家、画家らの作品計八十三葉を貼り込んだ画帖の一葉である。其一に関係の深い人物としては、師の酒井抱一、谷文晁・文一父子、松本交山、大田南畝などがいる。本作は黒楽茶碗の表現が秀逸で、光を含んだ胴のぬらりとした肌合いを、墨の滲みを効かせたうるおいある筆で表している。また、口造りや腰の部分に見える粗く擦れた筆致は、艶のないかせた肌合いを表現したものと思われ、細部に脂ののった其一の画技が冴える。黒楽茶碗の右端に、隠し落款のように「噲々其一」と金泥で記すところなど心憎い仕掛けである。署名の下に「元長」(朱文壺印)が捺される。  】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手(岡野智子他執筆)』所収「作品解説65(久保佐知恵稿)」)

其一には、掛幅ものの「白椿に楽茶椀花鋏図」もある。また、「鈴木其一書状」の中に、「小絹茶碗椿出来仕り候間御使へ差上申候」と記したものものあり、「茶道や華道に嗜みのある江戸の文化人に好まれた画題であった」のであろう(『岡野他・前掲書』所収「作品解説87」)。

鈴木其一筆「白椿に楽茶碗花鋏図」 一幅 絹本著色 九㈣・六×三二・四㎝ 細見美術館蔵

 こういう、蠣潭や其一の「白椿に楽茶碗図」を見てくると、冒頭の『鶯邨画譜』の「白椿に楽茶碗」の画題というのは、抱一よりも、蠣潭や其一が好んで手掛けたもののように思われる。

 「酒井抱一書状巻」(ミシガン大学本)の中に、次のようなものがある。

「此四枚、秋草、何かくもさつと代筆、御したため可被下候、尤いそぎ御座候間、その思召にて、明日までに奉頼入候  十二日  抱(注・抱一)  必庵 几下 」

 この「必庵」は、鈴木蠣潭の号の一つであり、蠣潭宛てのものと解されているが、其一は、蠣潭から、この号を継受されており、同書状に出てくる「為三郎」(鈴木其一)の号の一つの鈴木其一宛とも解されている(『日本絵画の見方(榊原悟著)』)。

 酒井抱一の画業の背後には、抱一を取り巻く、蠣潭・其一等々の、「雨華庵」工房の優れた絵師たちが、その手足になっていたことは、この書状などから明瞭になって来よう。この『鶯邨画譜』などは、とりわけ、鈴木其一の「雑画巻(一巻)」(出光美術館蔵)などと極めて親近感の強いものであることは付記して置く必要があろう。

抱一画集『鶯邨画譜』所収「梨図」(「早稲田大学図書館」蔵)抱一画集『鶯邨画譜』所収「梨図」
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

5  遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな (第四 椎の木かげ)

 『屠龍之技』の「第七 椎の木かげ」に収載されている、この句の前に、「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」との前書きがある。

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)
http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0017_m.html



この寛政九年(一七八九)、抱一、三十七歳時の「年譜」には、次のとおり記載されている。

【 九月九日、出家にあたり幕府に「病身に付」願い出。十月十六日、姫路藩より、千石五十人扶持を給することに決定する。抱一の付き人は、鈴木春草(藤兵衛)、福岡新三郎、村井又助。(御一代)
十月十八日、出家。西本願寺十六世文如上人の江戸下向に会して弟子となり、築地本願寺にて剃髪得度。法名「等覚院文詮暉真」。九条家の猶子となり準連枝、権大僧都に遇せられる。(御一代)酒井雅樂頭家の家臣から西本願寺築地別院に届けられる。(本願寺文書・関東下向記録類)
十一月三日より十二月十四日まで、挨拶のため上洛。< 抱一最後の上方行き >(御一代) 十一月十七日京都へ到着。俳友の其爪、古櫟、紫霓、雁々、晩器の五人が伴した。(句藻)
十二月三日、「不快に付」門跡に願い出て、京都を発つ。この間一度も西本願寺に参殿することはなかった。(御一代)
十二月十七日、江戸へ戻る。築地安楽寺に住むことになっていたか。(御一代・句藻)
年末、番場を退き払い、千束に転居。(句藻) 】

 遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな 

 この句は、抱一の出家の時の句ということになる。抱一の俳諧日誌『軽挙観句藻』には、この時の抱一の和歌も記載されている。

 いとふとてひとなとがめそ
     うつせみの世にいとわれし
            この身なりせば

 この「いとふ」は「厭ふ」で、「世を厭ふ」の「出家する」の意であろう。「ひとなとがめそ」は、「人な咎めそ」で、「な…そ」は「してくれるな」の意で、「私のことを咎めないで欲しい」という意になろう。「うつせみの世」は、「空蝉の世(儚い世)と現世(浮き世)」とを掛けての用例であろう。次の「いとわれし」は、ここでは、「出家する」という意よりも、「厭われる・敬遠される」の意が前面に出て来よう。
 この全体の歌意は、「出家することを、どうか、あれこれと咎めだてしないで欲しい。思えば、この夢幻のような現世(前半生)では、いろいろと、敬遠されることが多かったことよ」というようなことであろう。
 この出家の際の歌意をもってすれば、前書きのある、次の抱一の出家の際の句の意は明瞭となって来る。 

  遯るべき山ありの實の天窓哉

 この句の表(オモテ)の意は、「出家する僧門の天窓(てんそう・てんまど)には、その僧門の果実がたわわに実っています」というようなことであろう。
 そして裏(ウラ)の意は、「僧門に出家するに際して、天窓(あたま)を、丸坊主にし、『ありの実』ならず『無し(梨)の実』のような風姿であるが、これも『実(み)=身』と心得て、その身を宿世に委ねて参りたい」ということになる。

 抱一の、この出家に際しては、松平定信の寛政の改革、とりわけ、抱一の兄事していた亀田鵬斎らが弾劾される「異学の禁」に対する意見書などを幕府あて提出したなど、さまざまな流言がなされているが、その流言の確たるものは、不明のままというのが、その真相であろう。
 ただ一つ、掲出の、抱一の俳句と和歌とに照らして、抱一の出家は、抱一自身が自ら望んで僧籍に身を投じたことではないことは、これは間違いないことであろう。
 なお、「遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな」の、その「天窓(あたま)」の読みは、抱一の同時代の小林一茶(抱一より二歳年下)の、その文化十一年(一八一四)の、次の句などから明瞭である。

 三日月に天窓(あたま)うつなよほととぎす
  五十婿天窓(あたま)をかくす扇かな
  片天窓(あたま)剃て乳を呑夕涼


(参考:小林一茶『おらが春』・文化十一年)

https://blog.goo.ne.jp/kojirou0814/e/267f5ffa138227d3849117331f82c170

 雪とけて村一ぱいの子ども哉
 御雛をしやぶりたがりて這子(はふこ)哉

五十年一日の安き日もなく、ことし春漸く妻を迎へ、我が身につもる老を忘れて、凡夫の浅ましさに、初花に胡蝶の戯るゝが如く、幸あらんとねがふことのはづかしさ、あきらめがたきは業のふしぎ、おそろしくなん思ひ侍りぬ。

 三日月に天窓(あたま)うつなよほととぎす

千代の小松と祝ひはやされて、行すゑの幸有らんとて、隣々へ酒ふるまひて、

五十婿天窓(あたま)をかくす扇かな
 片天窓(あたま)剃て乳を呑夕涼
 子宝が蚯蚓のたるぞ梶の葉に

抱一句集『屠龍之技』「第三みやこどり」(1)

1 八橋やながるゝとしの畳臺 (第三 みやこどり)


抱一画集『鶯邨画譜』所収「燕子花図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html


 抱一の自撰句集『屠龍之技』には、「燕子花」の句は収載されていないようである。「八橋(やつはし)」の句は、冒頭の句が、その「第三 みやこどり」に収載されている。しかし、この「八橋」は、光琳や抱一が描く「八橋図屏風」などの、『伊勢物語』の、旧東海道池鯉鮒(ちりゅう)宿の「八橋」とは、関係のない一句のようである。

 この句の季語は「ながるゝ年」(年流る)の、押し詰まった年末の句のようである。 この句の主題は、その年末の「畳替え」の「畳台」なのである。その「畳台」が、「八橋」の、「池・小川などに、幅の狭い橋板を数枚、稲妻のような形につなぎかけた」のように見えるという、江戸座の俳諧師・抱一宗匠の見立ての一句ということになる。この句は、蕪村の、次の句に近い。

  行年や芥流る々さくら川    蕪村 「夜半亭」
  行年の脱けの衣や古暦    蕪村 「落日庵」

 ここでは、江戸座(其角・存義座)の俳諧宗匠・抱一の、その句よりも、江戸琳派の創始者・画人抱一の、その流れの「燕子花」図を主眼といたしたい。

  尾形光琳の、「燕子花図屏風」(国宝・根津美術館蔵)・「八橋図屏風」(メトロポリタン美術館蔵)・「八橋蒔絵螺鈿硯箱」(国宝・東京国立博物館蔵)・「伊勢物語八橋図」(東京国立博物館蔵・掛幅)・「燕子花図」(大阪市立博物館蔵・掛幅)そして、尾形乾山の「八ツ橋図」(国(文化庁)・重要文化財(美術品))などについては、次のアドレスで簡単な紹介をしている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-06


 また、酒井抱一の、「八橋図屏風」(出光美術館蔵)・「燕子花図屏風」(出光美術館蔵)、そして、『光琳百図』(尾形光琳画・酒井抱一編)所収「燕子花図屏風」などについて、下記のアドレスで紹介をしている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-07-27


 これらの、光琳・抱一の次代の江戸琳派の旗手・鈴木其一の「燕子花」図関連の大作ものは目にしない。しかし、其一には、「雑画巻」(出光美術館蔵)や『草花十二ヵ月画帖』(MOA美術館蔵)などで、その小品ものの「燕子花」図を目にすることが出来る。

鈴木其一筆『草花十二ヵ月画帖』(MOA美術館蔵)所収「五月」(紙本著色、十六・七×二一・二㎝)

 「月次の草花を十二枚に描き、画帖としたもの」の、「五月」の図柄である。この図柄は「藤と燕子花」であろう。其一は、この画帖とは別に、『月次花鳥画帖』(細見美術館蔵)という画帖もあり、その画帖には「燕子花」図はなく、「藤」図が「四月」に描かれている。
 其一には、これらの画帖の他に、「十二ヵ月花木短冊」(個人蔵)、「十二ヵ月花鳥図扇面」(ファインバーグ・コレクション)、「十二ヵ月図扇」(太田記念美術館蔵)など、「四季の花卉」などを「十二ヵ月に描き分ける」という趣向のものが多い。この趣向は、「師の抱一が確立したもので、人気が高く、かなりの需要があったようである」(『鈴木其一 江戸琳派の旗手 図録』所収「作品解説135 十二ヵ月花鳥図短冊」)。
 上記の『鶯邨画譜』所収「燕子花図」は、上記の其一の『草花十二ヵ月画帖』所収「五月」(「燕子花」図)のマニュアル(抱一筆)と解しても差し支えなかろう。
 そして、この「燕子花」図は、「抱一→其一→其明→其玉」と、脈々と受け継がれて行くのである。

中野其玉筆『其玉画譜』(小林文七編・ARC古典籍ポータルデータベース)所収「燕子花図」
www.dh-jac.net/db1/books/results-thum.php?f1=BM-JH398&f12=1&-sortField1=f8&-max=30&enter=portal

抱一句集『屠龍之技』「第二かぢのおと」(1~4)

1 名月や硯のうみも外(そと)ならず (第二 かぢのおと) 


抱一画集『鶯邨画譜』所収「紫式部図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html


 この「紫式部図」は、『光琳百図』(上巻)と同じ図柄のものである。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850491


 光琳百回忌を記念して、抱一が『光琳百図』を刊行したのは、文化十二年(一八一五)、五十五の時、『鶯邨画譜』を刊行したのは、二年後の文化十四年(一八一七)、五十七歳の時で、両者は、同じ年代に制作されたものと解して差し支えない。
 両者の差異は、前者は、尾形光琳の作品を模写しての縮図を一冊の画集にまとめたという「光琳縮図集」に対して、後者は、抱一自身の作品を一冊の絵手本の形でまとめだ「抱一画集」ということで、決定的に異なるものなのだが、この「紫式部図」のように、その原形は、全く同じというのが随所に見られ、抱一が、常に、光琳を基本に据えていたということの一つの証しにもなろう。

尾形光琳画「紫式部図」一幅 MOA 美術館蔵

 落款は「法橋光琳」、印章は「道崇」(白文方印)。この印章の「道崇」の号は宝永元年(一七〇四)より使用されているもので、光琳の四十七歳時以降の、江戸下向後に制作したものの一つであろう。
 この掛幅ものの「紫式部図」の面白さは、上部に「寺院(石山寺)」、中央に「花頭窓の内の女性像(紫式部)」、そして、下部に「湖水に映る月」と、絵物語(横)の「石山寺参籠中の紫式部」が掛幅(縦)の絵物語に描かれていることであろう。
 この光琳の「紫式部図」は、延宝九年(一六八一)剃髪して常昭と号し、法橋に叙せられた土佐派中興の祖・土佐光起の、次の「石山寺観月の図」(MIHO MUSEUM蔵)などが背景にあるものであろう。

http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00001352.htm



抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)
http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0009_m.html


 名月や硯のうみも外(そと)ならず  

 「かぢのおと(梶の音)」編の、「紫式部の畫の賛に」の前書きのある一句である。この句は、上記の『鶯邨画譜』の「紫式部図」だけで読み解くのではなく、光琳の「紫式部図」や土佐光起の「石山寺観月の図」などを背景にして鑑賞すると、この句の作者、「尻焼猿人・
屠龍・軽挙道人・雨華庵・鶯村」こと「抱一」の、その洒落が正体を出して来る。
 この句の「外ならず」は、「外(ほか)ならず」ではなく、「外(そと)ならず」の「詠みと意味」ということになろう。

2 野路や空月の中なるおみなへし (第二 かぢのおと) 

抱一画集『鶯邨画譜』所収「葛図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html


 抱一の代表作は、光琳の「風神雷神図屏風」の裏面に描いた「夏秋草図屏風」(二曲一双)が挙げられるであろう。その左隻の「秋草図」には、「ススキ・オミナエシ・フジバカマ・クズ」が描かれている(下記の左方の「紅白」が「クズ」、その下方に「フジバカマ」、右方の「紅」は「オミナエシ」)。

酒井抱一筆「夏秋草図屏風」の左隻の部分図

酒井抱一筆「月に秋草図屏風」六曲一隻 東京国立博物館寄託

 この「月に秋草図屏風」は、夏目漱石の「門」に出てくる。

「下に萩、桔梗、芒、葛、女郎花を隙間なく描いた上に、真丸な月を銀で出して、其横の空いたところへ、野路や空月の中なる女郎花、其一と題してある。
宗助は膝を突いて銀の色の黒く焦げた辺から、葛の葉の風に裏を返してゐる色の乾いた様から、大福程な大きな丸い朱の輪廓の中に、抱一と行書で書いた落款をつくづくと見て、
父の行きてゐる当時を憶ひ起さずにはゐられなかつた。」(夏目漱石「門」より)

 上記の「野路や空月の中なる女郎花」は抱一の句で、抱一の高弟・鈴木其一が、その句を書き添えているというのであろう。この抱一の句は、抱一の自撰句集『屠龍之技』の「かぢのおと」に、「野路や空月の中なるおみなへし」の句形で収載されている。俳人でもある夏目漱石は、確かに、抱一の自撰句集『屠龍之技』を熟知していて、そして、上記の抱一の「月に秋草図屏風」類いのものを目にしていたのであろう。
 抱一の俳諧の師筋に当たる馬場存義にも、葛の花の句がある。

  鹿野焼や手のうらかえす葛の花     馬場存義

 また、夏目漱石の俳句の師筋に当たる正岡子規や旧知の高浜虚子門下にも、葛の花の句が多い。

  山葛にわりなき花の高さかな      正岡子規
  抱一の観たるがごとく葛の花      富安風生
  堰堤に匍ひもとほれる葛の花      富安風生
  山桑をきりきり纒きて葛咲けり     富安風生
  こぼれつぐ葛の花屑雨の淵       高浜年尾
  流れ継ぐ花葛の色まぎれなし      高浜年尾
  兎跳ね犬をどり入る葛の花       水原秋櫻子
  朝霧浄土夕霧浄土葛咲ける       水原秋櫻子
  渋の湯の裏ざまかくす葛の花      水原秋櫻子
  四五人の無用の客や葛の花       高野素十
  山川や流れそめたる葛の花       高野素十
  木曽馬も花葛も見ず馬籠去る      高野素十
  大学の中に弥生ケ丘葛咲いて      山口青邨
  有耶無耶といふ関葛の花襖       阿波野青畝

  七里濱にて
3 浪に立(たつ)人も馬鹿鳥磯の秋(第二 かぢのおと)


 この前書きの「七里濱」は、相模湾の鎌倉と江の島を結ぶ海岸線であろう。抱一の江の島詣では、その俳諧日誌の『軽挙観句藻』に頻繁に出て来るもので、この七里ガ浜は抱一の馴染みの海辺ということになる。
 「浪に立つ人も馬鹿鳥磯の秋」の季語は、「磯の秋」(三秋)で、「磯遊び」(磯祭/花散らし=晩春)の句ではない。「馬鹿鳥」は、「あほうどり(信天翁・阿房鳥)」のことで、「陸上での歩き方が不器用で人を恐れないことからとも、簡単に捕えられるので名づけられた」ともいわれている。
 句意は、「この漁獲最盛期の実りの秋に、波の上に立って波乗りに興じている輩がいる。ああいう輩は、まさしく馬鹿鳥(あほうどり)の名が一番似合っている」というような、シニカル(風刺的・冷笑的)なものであろう。
 このシニカルさは、相手(サーフインに興じている)に対する者と同時に、「波ばかり飽かず描いている」自分への眼差しでもあろう。

抱一画集『鶯邨画譜』所収「波濤図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html


 尾形光琳の「波濤図屏風」(二曲一隻・メトロポリタン美術館蔵)、酒井抱一の「波図屏風」(六曲一双・静嘉堂文庫美術館蔵)、俵屋宗達の『雲龍図屏風』(六曲一双・フーリア美術館蔵)」、そして、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」(横大判錦絵・メトロポリタン美術館蔵)などについて、下記のアドレスで触れた。そのうちの抱一の「波図屏風」と光琳の「波濤図屏風」関連などを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-04-30


(再掲)

酒井抱一筆「波図屏風」(六曲一双 紙本銀地墨画着色 各一六九・八×三六九・〇cm
文化十二年(一八一五)頃 静嘉堂文庫美術館蔵)
【銀箔地に大きな筆で一気呵成に怒涛を描ききった力強さが抱一のイメージを一新させる大作である。光琳の「波一色の屏風」を見て「あまりに見事」だったので自分も写してみた「少々自慢心」の作であると、抱一の作品に対する肉声が伝わって貴重な手紙が付属して伝来している。宛先は姫路藩家老の本多大夫とされ、もともと草花絵の注文を受けていたらしい。光琳百回忌の目前に光琳画に出会い、本図の制作時期もその頃に位置づけうる。抱一の光琳が受容としても記念的意義のある作品である。 】(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

尾形光琳筆「波濤図屏風」(二曲一隻 一四六・六×一六五・四cm メトロポリタン美術館蔵)
【荒海の波濤を描く。波濤の形状や、波濤をかたどる二本の墨線の表現は、宗達風の「雲龍図屏風」(フーリア美術館蔵)に学んだものである。宗達作品は六曲一双屏風で、波が外へゆったりと広がり出るように表されるが、光琳は二曲一隻屏風に変更し、画面の中心へと波が引き込まれるような求心的な構図としている。「法橋光琳」の署名は、宝永二年(一七〇五)の「四季草花図巻」に近く、印章も同様に朱文円印「道崇」が押されており、江戸滞在時の制作とされる。意思をもって動くような波の表現には、光琳が江戸で勉強した雪村作品の影響も指摘される。退色のために重たく沈鬱な印象を受けるが、本来は金地に群青が映え、うねり立つ波を豪華に表した作品であったと思われる。 】(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「作品解説(宮崎もも稿)」)

 この光琳の「波濤図屏風」の解説中の、「波濤をかたどる二本の墨線の表現」というのは、いわゆる、「二管の筆を同時に握って描く『双筆』という中国由来の伝統的な水墨技法」(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「其一の波濤図―北斎と共有し、光琳・応挙から得たもの(久保佐知恵稿)」)を指しているのであろう。
 そして、「其一の波濤図―北斎と共有し、光琳・応挙から得たもの(久保佐知恵稿)」のサブタイトルの「北斎と共有し、光琳・応挙から得たもの」というのは、これは、其一よりも、その其一の師の「酒井抱一」に、より冠せられるものという思いを深くする。
 特に、光琳の「波濤図屏風」は、抱一の『光琳百図』に収載されており、抱一、そして、其一の「波濤図」関連のものは、すべからく、ここからスタートしていると解して差し支えなかろう。

『光琳百図』(酒井抱一編・筆)所収「波濤図」(「ARC浮世絵データベース」)
https://ja.ukiyo-e.org/image/met/DP266705_CRD


 上記の(再掲)の最初に、抱一の「波図屏風」(紙本銀地墨画着色)を掲げたが、抱一には、「銀地」ではなく「金地」の「波図屏風」(二曲一双)もある。

酒井抱一筆「波図屏風」(二曲一隻・MIHO MUSEUM)
【 光琳の「波図屏風」を見て感銘を受けた抱一だが、本図でき絹地に深い色あいが闇の海を切り取ったかのようで、光琳画の趣を彷彿とさせる。しぶきなどの簡単な描写にも、巧みな筆致が表れ、落款からは、文政後期、晩年の作とみられる。表の緑と裏面は銀地とし、抱一の弟子池田孤邨が千鳥の群れなす図を描いて華やかな風炉先屏風とした。八百善伝来。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

 この「作品解説」中の裏面に「池田孤邨が千鳥の群れなす図を描いて華やかな風炉先屏風とした」の、その孤邨の作は次のとおりである。

池田孤邨筆「千鳥群図」(酒井抱一筆「波図屏風」(二曲一隻・MIHO MUSEUM)裏面)

 この池田孤邨より五歳年長の、抱一の一番弟子の鈴木其一には、次の「松に波濤図屏風」がある。

鈴木其一筆「松に波濤図屏風」(二曲一隻 紙本墨画 一六八・〇×一九・五㎝ 個人蔵)
【 近年関西で発見された其一には珍しい水墨画の大作である。紙は焼けが強く全面に淡褐色に変色しているものの、墨は当初の潤いを保つかのようであり、光が当たると鈍い輝きを放つ。画面の左右のそれぞれの端に丸い引き手跡が残っているため、もとは襖であったと思われる。向かって右側の画面右上、松の生える岩礁に隠れるように、「噲々其一」の署名と「祝琳斎」(朱文大円印)が捺される。書体は「三十六歌仙・檜図屏風」(作品41)に近しく、「噲」のうち第六画以降が崩れて「専」の草書のように、「其」が「サ」と「人」を足したように見える。天保六年(一八三五)という作品41の箱書に従うなら、本作もまた同時期の制作と考えられる。
画面右上から緩やかな対角線上に、松の生える岩礁、海中に横たわる巨岩と小岩が、滲みを効かせた濃墨によって描かれる。もっとも本作の主題は、これらのモチーフの間を縫うように流れるダイナミックな波の動きそれ自体にあるだろう。複雑かつ明晰な水流表現は、其一より一世代前に京都で活躍した円山応挙によって創始された大画面の波濤図に近しい。「噲々」落款時代の壮年における積極的な応挙学習の一端を物語る貴重な作例である。 】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説45(久保佐知恵稿)」)

4 此年も狐舞せて越へにけり  (第二 かぢのおと)


 この句の前に、「青楼」と前書きがあり、これは、年越し大晦日の吉原の「狐舞い」の一句であろう。下記のアドレスで、「大晦日の吉原には獅子舞ではなく、赤熊の毛を付け、錦の衣で美しく着飾った「狐舞ひ」が現れ、笛や太鼓の囃子を引き連れて練り歩いていた」と、この狐舞いについて紹介している。

https://yoshiwara-kitsune.jimdo.com/吉原狐/


葛飾北斎画『隅田川両岸一覧下編』「吉原の終年」

 抱一と吉原、そして、抱一と芳中などについては、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-19


中村芳中画『光琳画譜』所収「高砂」「仕舞」「黒木売」「目隠し鬼」「七福神」
http://kazuhisa.eco.coocan.jp/korin_gafu.htm

  元日やさてよし原(吉原)は静かなり

 この句は、「吉原月次風俗図・正月」(酒井抱一書・画、紙本墨画 一幅 九七・三×二九・二㎝)の中に書かれている抱一の句である。

 これらの「吉原月次風俗図」に触れると、「酒井抱一(江戸琳派)と吉原ネットワーク(吉原文化人ネットワーク)」との密接不可分な世界が浮かび上がって来る。
 そして、その吉原では、若き日の抱一(姫路藩主の弟)は、「ときやうさん」(俳号「杜陵=とりょう」からの命名)と呼ばれ、「つまさん(正しくは駒さん)」の、松江藩主・松平不味の弟・雪川(松平桁親)、「ぶんきやうさん」(狂号=笹葉鈴成からの命名)の、松前候の公子・松前泰卿、この「粋人・道楽子弟」の「三公子」の一人として、スーパースター(著明人)の一人だったのである。
 その吉原のスーパースターの「ときやうさん」(俳号「杜陵=とりょう」からの命名)が、描く、次の、妓楼大字屋の主人二代目村田市兵衛こと「「大文字屋市兵衛像」がある。

酒井抱一画「大文字屋市兵衛像」 一幅 絹本著色 一八・四×一五・一㎝
板橋区立美術館蔵

【 抱一がもっとも懇意にしていた吉原の友人は、妓楼大文字屋の主人二代目村田市兵衛。本図は先代の市兵衛が滑稽な風貌からカボチャむとはやされ、その姿を浮世絵師西村重長が描いた図に依る。その初代に因み、二代目は狂名を加保茶元成と称した。本図は「遊郭抱一戯墨」とあるように、大文字屋で余興に描いたのだろう。画中の「加保茶」の印は、同家に伝わるみのかもしれない。八百善旧蔵。 】
(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「抱の心の拠り所『吉原』」(岡野智子稿)」)

 それに比して、中村芳中が、享和二年(一八〇二)、大阪から江戸に出て来て刊行した『光琳画譜』の奥付に、「享和壬戌のとし 東都旅館の 爐辺にて 芳中写之 (花押)」と記載してあるとおり、江戸に出て三年を経ても、大阪からの出稼ぎ絵師の風情である。
そして、光琳風の自己の絵画の版本に、堂々と『光琳画譜』と名を付け、その「序」に、
抱一(俳号=杜陵 狂歌名=尻焼猿人・屠龍 画号=庭拍手)の「住吉太鼓橋夜景図」に賛をしている「加藤(橘)千蔭」、その「跋」に、江戸千家の祖の川上不白が草している。
 これらの千蔭も不白も、抱一を取り巻く文化人ネットワーク(そして、それは吉原ネットワークと重なる)の一人であり、さらに、当時の抱一は、享和元年(一八〇一)に、先に、下記のアドレスなどで紹介した、「燕子花図屏風」(二曲一隻、「庭拍手」の署名、四十一歳)を制作するなど、大きく琳派様式へと方向転換をしている頃と重なるのである。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/


 これらのことについて、芳中の方からすると、「江戸へ来て芳中が目にしたのは抱一の琳派様式の作品であったかもしれない。芳中にとっては大きな驚きであったと思われる。それでは、ということで対抗的な意味も込めての『光琳画譜』出版であったと解することもできよう」(『光琳を慕う 中村芳中(芸艸社)』所収「中村芳中について(木村重圭稿))という見方も成り立つであろう。

 そして、当時の、抱一と芳中とを結ぶ接点は、俳諧ネットワークの「大伴大江丸・夏目成美・鈴木道彦・馬場存義・前田春来・岡田米仲」等々の「其角・嵐雪」に連なる俳人たち、狂歌・戯作者ネットワークの「大田南畝(蜀山人・四方赤良・寝惚先生)」の率いる「四方連」と「蔦屋重三郎・山東京伝(北尾政演)」等々の「戯作・浮世絵」に連なる面々、さらに、「下谷の三幅対」とも称せられた「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」を主軸とする「詩・書・画を生業とする江戸文化人のネットワーク」の面々と、それらは、「江戸吉原サロン」と深く結びついているということになろう。
 嘗て、次のアドレスで、「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」に連なる名士たちの、その一端に触れた。それらを再掲すると、次のとおりである。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-28


【 松平楽翁→木村蒹葭堂→亀田鵬斎→酒井抱一→市河寛斎→市河米庵→菅茶山→立原翠軒→古賀精里→香川景樹→加藤千蔭→梁川星巌→賀茂季鷹→一柳千古→広瀬蒙斎→太田錦城→山東京伝→曲亭馬琴→十返舎一九→狂歌堂真顔→大田南畝→林述斎→柴野栗山→尾藤二洲→頼春水→頼山陽→頼杏坪→屋代弘賢→熊阪台州→熊阪盤谷→川村寿庵→鷹見泉石→蹄斎北馬→土方稲嶺→沖一峨→池田定常→葛飾北斎→広瀬台山→浜田杏堂 】

 ここで、大阪の中村芳中と江戸の酒井抱一とを結びつける、両者を知る人物を「加藤(橘)千蔭」と仮定すると、その背後の人物とは、やはり、大阪の「木村蒹葭堂」と、江戸の「大田南畝」の、このお二人が浮かび上がってくる。
 ずばり、芳中の『光琳画譜』が出版される一年前の、享和元年(一八〇一)の、太田南畝の年譜に、次のように記載されている。この太田南畝が、キィワードとなる人物のように思われる。

【享和元年(1801年)、大坂銅座に赴任。この頃から中国で銅山を「蜀山」といったのに因み、「蜀山人」の号で再び狂歌を細々と再開する。大坂滞在中、物産学者・木村蒹葭堂や国学者・上田秋成らと交流していた。 】

https://ja.wikipedia.org/wiki/大田南畝


 芳中が、江戸で『光琳画譜』を出版して、再び、大阪に戻ったのは、その出版した年の、享和二年(一八〇二)の年末頃と推定されている。そして、それ以後、文政二年(一八一九)に没するまでの約十八年、芳中は、扇面画を中心として、本格的な琳派作品を精力的にこなしていくこととなる。

(参考一)上記『光琳画譜』(「金華堂守黒」版)の五図(算用数字は登載番号)

14仕舞 → この「能」の「仕舞」(能を演ずる稽古)のようなものが、芳中画の基本にあるのであろう。

16高砂 → この「能」の場面の、「爺・婆」を見ている「童」は、芳中その人かも知れない。

18目隠し鬼 → 芳中の童心が読み取れる、次のアドレスの「象背戯童図」(芦雪)の「戯童」に近い印象を受ける。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-09-28


23黒木売(大原女) → 芦雪の「大原女」に比して、芳中のは「飄逸味・滑味」がある。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-10-07

25七福神 → 芳中の「童子」図も、芦雪の「童子」図と同じような魅力に溢れている。

(参考二)大田南畝(おおたなんぼ)

没年:文政6.4.6(1823.5.16)
生年:寛延2.3.3(1749.4.19)

江戸時代中・後期の戯作者,文人。名を覃、字子耜、通称直次郎、七左衛門といった。四方赤良、山手馬鹿人、蜀山人、杏花園、寝惚先生など、多くの別号を使った。幕府の御徒吉左衛門正智と利世の長男、江戸牛込仲御徒町に誕生。宿債に苦しむ小身の悴南畝は、若年時から学問に立身の夢を賭け15歳で内山賀邸(椿軒)、18歳ころに松崎観海に入門した。幕臣書生らしく和学と徂徠派漢学を修める一方、平秩東作をはじめ、のちの江戸戯作界の中核をなす面々と交わった。 明和3(1766)年、処女作の作詩用語集『明詩擢材』を編み、翌年、平賀源内の序を付して戯作第一弾の狂詩集『寝惚先生文集』を出版。生涯、徂徠派風の漢詩作成にいそしむ一方、狂詩の名手として20代から30代の大半を江戸戯作の華美な舞台のただなかに過ごし、やがて領袖と仰がれた。同門の 唐衣橘洲 らと共に江戸狂歌流行の端緒を開き、『万載狂歌集』(1783)、『徳和歌後万載集』(1785)などを相次いで出版。天明期俗文芸の隆盛を築いた。洒落本,評判記,黄表紙などの戯作も多く綴ったが、天明7(1787)年,田沼政権の崩壊と松平定信による粛正政策の台頭を機に、狂歌界とは疎遠になり、幕吏本来の姿勢を俊敏に取り戻した。寛政6(1794)年、人材登用試験を見事な成績で合格、大坂銅座出役(1801)、長崎奉行所出役(1804)などの勤務をこなし、かたわら江戸文人の代表格として名声をいやましに上げていった。最晩年に『杏園詩集』(1820)など、漢詩、狂歌文などが多く出版された。<著作>浜田義一郎他編『大田南畝全集』(全20巻)<参考文献>玉林晴朗『蜀山人の研究』,浜田義一郎『大田南畝』 (ロバート・キャンベル)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

(参考三)大田南畝と「お賎」

http://www.muse.dti.ne.jp/~squat/ohtananpo.htm



安永4年の7月、南畝は「評判茶臼芸」を、安永5年に洒落本「世説新語茶」、8年(1779)に浄瑠璃の漢訳「阿姑麻」、洒落本「深川新話」「粋町甲閨」を刊行。岡場所話を書くほどだからさんざん遊んだのだろう。またこの時期に狂歌会も盛ん。この年の12月18日に51歳で平賀源内が獄中死去。安永9年、軽井沢の宿場遊女を題材にした洒落本「軽井茶話 道中粋語録」、黄表紙「虚言八百万八伝」を刊行。翌天明元年(1781)に「菊寿草」、天明2年「岡目八目」を刊行。この「岡目八目」で山東京伝「手前勝手 御存知商売物」最上位で褒め、これで京伝の名は一気に広がった。同年12月、蔦谷重三郎に招かれて恋川春町(39)、南畝(34)、京伝(22)ら8名が吉原に登楼。狂歌集「通詩選笑知」「通詩選」を刊行し、まさに一世風靡。日々、招待遊行が盛んになり、京伝も引き立てた。
 さぁ、ここからが佳境だ。もうしばらく辛抱して読んで下さいませ。天明6年(1786)、老中田沼意が罷免され、代わって老中に就いたのが松平定信で寛政の改革が始まった。その年に南畝は吉原松葉屋の遊女・三保崎(みほざき/新造の位=上妓となる見込みのない遊女)との恋情が燃え上がり、ついには身請けして妾とし、「阿賤(おしず)」と名付け、自宅の棟つづき離れに引き取った。妻妾同居で「不良」が本格化(お賤は南畝の世話を8年したが病気がちで30歳で病死)。この間び改革粛清は進み、勘定組頭(実質の勘定奉行)・土山宗次郎が死刑。南畝は土山によって遊興と享楽の味をたっぷり楽しませてもらっていた関係上、自身の首も危うくなって来た。また山東京伝も洒落本が官憲の心証を害し、版元・蔦谷重三郎が財産半分没収、京伝は手鎖50日の処罰。南畝は狂歌作りをやめた。
 童門冬二の小説「沼と河の間に」は、南畝が狂歌から遠ざかる保身の道を取って仲間からひんしゅくを買うシーンから物語をスタートさせている。寛政元年(1789)、北尾政美画で「鸚鵡返武士二道」を出した恋川春町は、松平定信に召喚され、病気を理由に出頭せず、塁が藩主に及ぶのをおそれて自決したらしい…。新宿2丁目の成覚寺の粗末な墓が胸を打ちます。そして南畝はなんと!44歳(寛政4年)にして猛勉強し、第2回学問吟味に応募したが不合格(狂歌他で文名を高め、土山の庇護にあった南畝に反感を時つ者の反対で不合格になったとも言われている。また巷に
「世の中に 蚊ほどうるさきものはなし 文武文武と夜も寝られず」
 の狂歌が南畝による作との評判がたって、これが災いしたとの説も…)。
 童門の小説では、のちに「東海道中膝栗毛」を書く十返舎十九、のにち「南総里見八犬伝」を書く勧善懲悪志向の曲亭馬琴の両青年と保身転向した南畝の三つ巴文学論争を展開させている。
 だが南畝は諦めない。病弱なお賎を文学仲間の住職(お寺)に預けて勉学に励み、寛政6年(1794)の二回目の学問吟味に再挑戦し、年少の受験者に混じって白髪まじりの46歳で見事にトップ合格。遠山の金さんの父・遠山金四郎景晋(かげみち)、後に北方探検家として有名になる近藤重蔵も合格。(※近藤重蔵は退役後に身分不相応な邸宅を建て、公家の娘を妾にしたことから不遜だとお咎めを受ける。また57歳の時に別荘の隣家との境界争いから長男・富蔵が殺傷事件を起こす。そう、八丈島流刑で有名なあの近藤重蔵である)
 この前年、寛政5年(1793)6月にお賎は亡くなった。「お賎」と卑しい名を付けた南畝だったが、身まかってから毎年その祥月命日に供養の書会を欠かさない。お賎の法名は「晴雲妙閑信女」。南畝が詠んだ狂歌は「雲となり雨となりしも夢うつつきのふはけふの水無月の空」。お賎が亡くなって10年後、南畝55歳の日記「細推日記」にもその供養書会を牛込薬王寺町の浄栄寺で催していることが書かれている。おっと、その供養書会には次ぎの妾、島田「お香」も列席している。「お香」は南畝の優しさにホロリとしたに違いない。「あたしはそんな南畝にずっと添って行こう」と…。
 またここで記すべきは、彼は学問吟味の試験から合格御礼までの詳細を記した「斜場窓稿」を刊行していること。しかし、合格はしたものの南畝の四番組徒歩の仕事は相変わらずだった。合格から2年後、母が73歳で亡くなった寛政8年にやっと支配勘定に昇進。祖父の代から続いた微禄もやっと30俵加増。そして突然の松平定信の罷免。また巷にこんな狂歌が流行った。
「白河の あまり清きに耐え(棲み)かねて 濁れるものと田沼恋しき」
 これまた南畝の作と思われた。支配勘定なら大阪の銅座詰という出世コースになかなか乗れない。翌々年、妻・里与が44歳で死去。南畝は俗っぽいと思いつつも「日本中の孝子節婦を将軍が表彰する」という案を提出し、「孝行奇特者取調御用」に任命される。寛政12年、これをまとめた「孝義録」50巻を刊行。従来の漢文による公文書ではなく、和文でかつ文学的な編集で、文人ならではの才を発揮した。これが認められて寛政13年(享和元年)、53歳でやっと大阪銅座出役になった。学問吟味の合格から7年の精励を続けて、やっと大阪出張で出世の道が広がった。大阪でてきぱきと仕事を片付ける切れ者公務員。午後2時が退庁時間で、ここからが文人タイム。見聞と人脈を広げで、ここで「銅」の異名を「蜀山居士(しょくさんこじ)」ということから「蜀山人」なる号を思いつく。この時期に20数年前に「雨月物語」を書いた上田秋成を訪問などし、1年で江戸へ呼び戻される。

(参考四)酒井抱一と「小鸞(しょうらん)」



抱一の、初期の頃の号、「杜綾・杜陵」そして「屠龍(とりょう)」は、主として、「黄表紙」などの戯作や俳諧書などに用いられているが、狂歌作者としては、上記の「画本虫撰」に登場する「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」の号が用いられている。
 『画本虫撰』は、天明狂歌の主要な作者三十人を網羅し、美人画の大家として活躍する歌麿の出生作として名高い狂歌絵本である。植物と二種の虫の歌合(うたあわせ)の形式をとり、抱一は最初の蜂と毛虫の歌合に、四方赤良(大田南畝・蜀山人)と競う狂歌人として登場する。
 その「尻焼猿人」こと、抱一の狂歌は、「こはごはに とる蜂のすの あなにえや うましをとめを みつのあぢはひ」というものである。この種の狂歌本などで、「杜綾・尻焼猿人」の号で登場するもりに、次のようなものがある。

天明三年(一七八三) 『狂歌三十六人撰』 四方赤良編 丹丘画
天明四年(一七八四) 『手拭合(たなぐひあはせ)』 山東京伝画 版元・白凰堂
天明六年(一七八六) 『吾妻曲狂歌文庫』 宿屋飯盛編 山東京伝画 版元・蔦重
「御簾ほとに なかば霞のかゝる時 さくらや 花の王と 見ゆらん」(御簾越しに、「尻焼猿人」の画像が描かれている。高貴な出なので、御簾越しに描かれている。)
天明七年(一七八七) 『古今狂歌袋』 宿屋飯盛撰 山東京伝画 版元・蔦重

 天明三年(一七八三)、抱一、二十三歳、そして、天明七年(一七八七)、二十七歳、この若き日の抱一は、「俳諧・狂歌・戯作・浮世絵」などのグループ、そして、それは、「四方赤良(大田南畝・蜀山人)・宿屋飯盛(石川雅望)・蔦屋重三郎(蔦唐丸)・喜多川歌麿(綾丸・柴屋・石要・木燕)・山東京伝(北尾政演・身軽折輔・山東窟・山東軒・臍下逸人・菊花亭)」の、いわゆる、江戸の「狂歌・浮世絵・戯作」などの文化人グループの一人だったのである。
 そして、この文化人グループは、「亀田鵬斎・谷文晁・加藤千蔭・川上不白・大窪詩仏・鋤形蕙斎・菊池五山・市川寛斎・佐藤晋斎・渡辺南岳・宋紫丘・恋川春町・原羊遊斎」等々と、多種多彩に、その輪は拡大を遂げることになる。
 これらの、抱一を巡る、当時の江戸の文化サークル・グループの背後には、いわゆる、「吉原文化・遊郭文化」と深い関係にあり、抱一は、その青年期から没年まで、この「吉原」(台東区千束)とは陰に陽に繋がっている。その吉原の中でも、大文字楼主人村田市兵衛二世(文楼、狂歌名=加保茶元成)や五明楼主人扇屋宇右衛門などとはとりわけ昵懇の仲にあった。
抱一が、文化六年(一八〇九)に見受けした遊女香川は、大文字楼の出身であったという。その遊女香川が、抱一の傍らにあって晩年の抱一を支えていく小鸞女子で、文化十一年(一八二八)の抱一没後、出家して「妙華」(抱一の庵号「雨華」に呼応する「天雨妙華」)と称している。
 抱一(雨華庵一世)の「江戸琳派」は、酒井鶯蒲(雨華庵二世)、酒井鶯一(雨華庵三世)、酒井道一(雨華庵四世)、酒井唯一(雨華庵五世)と引き継がれ、その一門も、鈴木其一、池田孤邨、山本素道、山田抱玉、石垣抱真等々と、その水脈は引き継がれいる。

補記一 『画本虫撰』(国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288345


補記二 『狂歌三十六人撰』

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007282688-00


http://digitalmuseum.rekibun.or.jp/app/collection/detail?id=0191211331&sr=%90%EF


補記三 『手拭合』(国文学研究資料館)

https://www.nijl.ac.jp/pages/articles/200611/


補記四 『吾妻曲狂歌文庫』(国文学研究資料館) 

https://www.nijl.ac.jp/pages/articles/200512/


補記五  浮世絵(喜多川歌麿作「画本虫ゑらみ」)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-12-27


その十三 江戸の粋人・抱一の描く「その三 吉原月次風俗図(三月・夜桜)」

 前回(「その二 吉原月次風俗図(二月・初午」)に続く、「吉原月次風俗図(三月(夜桜)」というのは、『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』などには収載されていない。
 その同書中の、「花街柳巷図巻」(個人蔵)で、下記の通り、その概要を見ることが出来る(また、同書中の「作品解説(小林忠稿)」は次の通り)。

三月.jpg

抱一筆「花街柳巷図巻」のうち「三月(夜桜)」
【三月(夜桜) 「夜さくらや筥てうちんの鼻の穴 楼上に居續したるあした起よ今朝 うへ野の四ツそ花の雨」の賛と、仲の町に植えられた桜の木と柵の絵」(「作品解説(小林忠稿)」)。】

 この図と、この作品解説だけでは、抱一の「吉原月次風俗図(三月・夜桜)」「花街柳巷図巻(三月・夜桜)」をイメージするのは無理かも知れない。吉原の仲の町通り(メインの大通り)に植えられる桜(開花の時に植えられ、散ると撤去される)と箱提灯(筥てうちん:下図では花魁道中の先頭の人が持っている提灯)は、下記の「東都名所画 吉原の夜桜(渓斎英泉筆)」などによるとイメージがし易い。

英泉・夜桜.jpg

渓斎英泉筆「東都名所画 吉原の夜桜」(太田記念美術館蔵)

   夜ざくらや筥てふちんの鼻の上  (抱一・「三月・夜桜」の賛)

【 三月の図は春の人寄せのイベントである夜桜が描かれます。画賛の一つは「夜ざくらや筥でうちんの鼻の穴」です。春の吉原は、仲之町通りに鉢植えの桜を置きます。この画賛の初案の頭註には、『史記』「周本紀」第四に載る字句「后稷生巨跡」に拠ったとあります。后稷には、母親の姜原が巨人の足跡を踏んで妊娠したという伝説があります。つまり、「筥でうちんの鼻の穴」という小さい穴は、后稷が生まれた巨人の足跡に見立てられています。そこからうまれたものは「夜ざくら」と、描かれない多数の見物客です。つまり、筥提灯の上部の空気穴から光が漏れる。その光に照らしだされた夜桜と多数の見物客が、后稷に見立てられます。ここでは画賛は、夜桜の賑わいを補完する機能を担わされています。 】(「抱一筆『吉原月次風俗図』の背景(井田太郎稿)」)

どうにも、難解な、抱一の師筋に当たる、宝井其角の「謎句」仕立ての句である。この句の前書きのような賛に書かれているのだろうが、『史記』の「后稷(こうしょく)」伝説に由来している句のようである。
「后稷(こうしょく)」伝説とは、「〔「后」は君、「稷」は五穀〕 中国、周王朝の始祖とされる伝説上の人物。姓は姫(き)、名は棄(き)。母が巨人の足跡を踏んでみごもり、生まれてすぐに棄(す)てられたので棄という。舜(しゆん)につかえて人々に農業を教え、功により后稷(農官の長)の位についた」を背景にしているようである。
 ここは、余り詮索しないで、上記の、渓斎英泉筆「東都名所画 吉原の夜桜」ですると、「花魁道中を先導する男衆の持つ箱提灯の上部の穴からの光が、鮮やかに夜桜や人影を浮かび上がらせる」というようなことなのであろう。

  吉原の夜見せをはるの夕ぐれは入相の鐘に花やさくらん 四方赤良(大田南畝)
  廓(さと)の花見は入相が日の出なり  (『柳多留六三』)
  夜桜へ巣をかけて待つ女郎蜘蛛     (『柳多留七三』)
  年々歳々客を呼ぶために植え      (『柳多留六二』)
  里馴れて来ると桜はひんぬかれ     (『柳多留一〇七』) 

 これらの狂歌や川柳(前句付)の風刺的な「捩り」の、抱一の一句と解することも出来るのかも知れない。

  起よ今朝うへ野の四ツぞ花の雨    (抱一・「三月・夜桜」の賛)

 冒頭の作品解説中にある、「夜ざくらや筥てふちんの鼻の上」に続く、「楼上に居續したるあした起よ今朝 うへ野の四ツそ花の雨」の賛も、「(楼上に居續したるあした) 起よ今朝うへ野の四ツそ花の雨」と、「前書き=楼上に居續したるあした=吉原の妓楼に意続けての朝方」・「発句=起よ今朝うへ野の四ツぞ花の雨」と、これも、「朝方四ツ=吉原の朝方十時、うえ野=上野の山、花の雨=花の散りかかる頃の雨」の発句の賛のようである。

  夜ざくらや筥てふちんの鼻の上  (「吉原」の「夜桜」を昨夜はたっぷり堪能した)
  起よ今朝上野の四ツぞ花の雨(起きよ今朝四ツ時ぞ「上野」の「花の雨」の見物だ)

 これは、「吉原の夜桜見物」と、「居続け」にして、「上野の山の昼の花の雨見物」へと、次々と「ハシゴ(梯子)」する、抱一らの「江戸座俳諧」特有の洒落句(滑稽句)としての二句なのかも知れない。

  桜から桜へこける面白さ (『柳多留二五』)
  女房へ嘘つく桜咲にけり (『俳諧觽三』)
  居続けのばかばかしくも能(よ)い天気 (『柳多留三』)
  よくよくの馬鹿吉原に三日居る (『柳多留一八』)

其一・大門図.jpg

鈴木其一筆「吉原大門図」一幅 ニューオータニ美術館大谷コレクション蔵
【 吉原大門からつづく仲の町通りを東から眺め、入ってすぐの引手茶屋「山口巴屋」の様子や、吉原に行き交う人々の諸相をとらえる。花魁、芸者、禿、酔客、按摩、老人、若侍などと、各種の人々を等しく観察し一か所に集めた。其一は群像の表現にもはやくから関心を寄せ習熟していることを示すが、「其一戯画」と意識的な署名をし、他に使用例のない「毀誉不動(毀誉に動ぜず)」印を捺している。この意識は晩年まで続く。】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収「作品解説二〇三(岡野智子稿))

 抱一には、このような「風俗図」「群像図」は余り見られない。その抱一の右腕とも言うべき抱一門の第一人者・鈴木其一は、この種の「風俗図」「群像図」を手掛けている。しかし、上記の解説にあるとおり、この種のものの署名の「戯画」、落款印の「毀誉不動(毀誉に動ぜず)」などからすると、抱一門では、「仏画制作」を主要画業の一つにしているので、この種のものはスタンダードの分野ではないのかも知れない。
 この其一の「吉原大門図」は、抱一・其一時代の「吉原」の情景を的確に描写している。大門を入ってすぐ右手の引手茶屋が最も格式のある茶屋で七軒茶屋と呼ばれ、その筆頭格が「山口巴屋」で、その座敷に、「花魁(簪の数が多い)・新造(部屋持ちと振袖)・禿(少女)・芸者(三味線を持っている)・客人」などが描かれている。
 その大門近くの辻行燈の前に、「箱提灯を持った男衆・花魁・禿・新造」が馴染み客を出迎えるための立って待っている光景、その辻行燈の後方は「番所」(四郎兵衛)で、大門口の見張り(遊女の外出の取締り・一般女子も切手=通行証が必要、男子は自由)などをしている所であろう。その他、酔客・按摩・杖を持った老人、二本差しの侍など、これは、まさしく、典型的な「吉原風俗図」と解して差し支えなかろう。
 それに比して、抱一の「吉原月次風俗図」は、この其一の「吉原大門図」に出て来る「大門・番所・引手茶屋・辻行燈・箱提灯」などの主たる景物も、さらには、「花魁・新造・禿・芸者・幇間・男衆・遊客」などの主たる人物像も、この月次十二図の中には、何処にも出て来ないのである。
 ここで、抱一の、この「吉原月次風俗図」というネーミングは、抱一の意図することを斟酌すると、これは「吉原月次俳画図」ともいう分野のもので、それも、先ず、俳句(発句)があって、その「俳句(発句)」に、「べた付け」(画と句とが「付かず離れず」(響き合う)がベターとすると「べったり付き過ぎる」関係)を、極力排しての「画」作りをしているということなのである。
 ずばり、今回のように、「吉原月次風俗図」の「三月・夜桜」の一幅ものを見ていなくても、その「花街柳巷図巻」の「三月・夜桜」の「賛(前書きと句)」と「画」とにより、それらに接した者が、例えば、渓斎英泉筆「東都名所画 吉原の夜桜」や、鈴木其一筆「吉原大門図」などを連想し得たということならば、恐らく、抱一の、これらの、「吉原月次風俗図」の「三月・夜桜」、そして、「花街柳巷図巻」の「三月・夜桜」を制作した、その抱一の真意の一端に触れていることであろう。



抱一句集『屠龍之技』「第一こがねのこま」(1~4)

https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/ogai/document/15dd5a92-e055-4dcb-a302-1ed3adc3716f#?c=0&m=0&s=0&cv=2&xywh=-995%2C-177%2C7335%2C4375

1 飛ぶ蝶を喰(くは)んとしたる牡丹かな (第一 こがねのこま)


抱一画集『鶯邨画譜』所収「牡丹図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html



 飛ぶ蝶を喰(くは)んとしたる牡丹かな (第一 こがねのこま)
    牡丹一輪青竹の筒にさして
    送られける時
  仲光が討て参(まゐり)しぼたんかな  (第三 みやこどり)
    画賛狂句、彦根侍の口真似
    して
  さして見ろぎょやう牡丹のから傘ダ   (第三 みやこどり)

 『屠龍之技』中の「牡丹」の三句である。蕪村にも「牡丹」の佳句が目白押しである。

  牡丹散つてうちかさなりぬ二三片  蕪村 「蕪村句集」
  牡丹切て気の衰へし夕かな     蕪村 「蕪村句集」
  閻王の口や牡丹を吐かんとす    蕪村 「蕪村句集」
  地車のとゞろとひゞく牡丹かな    蕪村 「蕪村句集」  

 抱一の一句目の句は、蕪村の「閻王の口や牡丹を吐かんとす」の句に近いものであろう。二句目の前書きのある「仲光と牡丹」の句は、能「仲光(なかみつ)」を踏まえてのもので、その「仲光」中の、「美女丸」の身代わりになって、「仲光」に打ち首にされる仲光の実子の「幸寿丸 」を「牡丹」に見立てての一句ということになる(下記の「参考」)。
 三句目の「彦根侍と牡丹」の句は、「大老四家(井伊家・酒井家・土井家・堀田家)」の文治派・酒井家に連なる生粋の江戸人・抱一の、武断派・井伊家(彦根藩・彦根侍)の風刺の意などを込めての一句と解したい。この「ぎょやう」(ぎょうよう)というのが、「仰々しい(大げさ)」の彦根方言のような感じに受ける。

(参考)

http://www.kanshou.com/003/butai/nakami.htm




能「仲光」のストリー
【 多田満仲は、一子美女丸を学問の為、中山寺へ預けております。しかし、美女丸は学問をせず、武勇ばかりに明け暮れており、父満仲は、藤原仲光に命じ、美女丸を呼び戻します。ここから能「仲光」は始まります。
 「こは誰が為なれば…、人に見せんも某が子と言う甲斐もなかるべし…」これは誰の為であるのか。人に見せても、誰某の子という甲斐もない。親が子を叱る時の、昔も今も変わらぬ心情です。満仲は、憤りのあまり、美女丸を手討にしようとします。更に、中に入って止めた仲光に美女丸を討つよう命じます。
 仲光は、主君に何と言われても、美女丸を落ち延びさせるつもりでいますが、頻りの使いに、ついに逃がす事が出来なくなります。「あわれ某、御年の程にて候わば、御命に代り候わんずるものを…」同じ年頃であれば、お命に代ろうものを…と嘆く仲光の言葉を、仲光の子の幸寿が聞きます。幸寿は「はや自らが首をとり、美女御前と仰せ候いて、主君の御目にかけられ候え。」と言います。美女丸も、自分の首をと言い、仲光はついに幸寿に太刀を振り下ろしてしまいます。
 満仲は、美女丸を討ったと報告する仲光に、幸寿を自分の子と定めると言います。仲光は、幸寿が美女丸のことを悲しみ、髪を切り出て行ったと言い、自分も様を変え、仏道に入りたいと言います。
 比叡山、恵心僧都が美女丸を連れて来ます。満仲もついには許し、めでたい事と僧都に所望され仲光は舞を舞います。「この度の御不審人ためにあらず。かまえて手習学問、ねんごろにおわしませと…。」この度の事は人のせいではありません。これからは、手習学問を熱心にするように…。仲光に言われ、美女丸は恵心僧都と再び帰って行きます。  】

2 としどしや御祓に捨る多葉粉入  (第一 こがねのこま)


3 すずしさは家隆の歌のしるしなり (第一 こがねのこま)


「としどしの御祓に捨る多葉粉入」の句は、神社などで、年始から節分までに行う「厄除け(厄落とし)のお祓い」の句と解したい。この「多葉粉入」(煙草入れ)は、旧年に頂いた厄除けの贈り物の「煙草入れ」などを、火の中に捨てるというようなことなのかも知れない。
 この句は、光琳や抱一の主要な画題の、『伊勢物語』の、「禊図」とは関係はない。この句の次に収載されている、次の「すずしさは家隆の歌のしるしなり」は、「夏越しの祓」(ナゴシノハラエ)の句で、こちらは、光琳の「家隆禊図」などと関係する句なのであろう。

抱一画集『鶯邨画譜』所収「禊図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 尾形光琳の「禊図」は下記のとおり。

尾形光琳筆「禊図」一幅 絹本着色 九七・〇×四二・六cm 畠山記念館蔵
【 この図は藤原家隆(一一五八~一二三七)の「風そよぐならの小川の夕暮にみそぎぞ夏のしるしなりける」の歌意を描いたもので「家隆禊図」ともいわれる。左下に暢達(ちょうたつ)した線にまかせて、簡潔に水流の一部を表わし、流れに対して三人の人物が飄逸な姿で描かれ、色調は初夏のすがすがしさを思わせる。「法橋光琳」の落款、「道崇」の方印がある。 】(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編)』所収「作品解説131」)

尾形光琳は、下記の宗達の『伊勢物語』(第六十五段)の「禊」の場面の「恋せじと御手洗川にせし禊神は受けずもなりにけるかも」に対して、藤原家隆の「風そよぐならの小川の夕暮にみそぎぞ夏のしるしなりける」の歌意を上部に「楢の木」を配して表現している。。



宗達派「伊勢物語図屏風」の部分図「禊図」(「国華」九七七)
画賛「恋せじと御手洗川にせし禊神は受けずもなりにけるかも」

 ここで、『鶯邨画譜』の「禊図」は、「風そよぐならの小川の夕暮にみそぎぞ夏のしるしなりける」(家隆)の「禊」の場面よりも、「恋せじと御手洗川にせし禊神は受けずもなりにけるかも」(『伊勢物語』)の「禊」の場面のように思われる。

4 花びらの山を動すさくらかな (第一 こがねのこま)


 抱一の句の夙に知られている句の一つである。下記のアドレスでは、次のようなイメージとして鑑賞されている。

https://manyuraku.exblog.jp/24395245/


「満開の花、風が吹くたびにひらひら散るはなびら。山全体が揺れ動くような酔い心地。」

 そして、『花を旅する(栗田勇著・岩波新書)』の、次の一節を紹介している。

「どんな花でも散りますが、なぜ散る桜なのか。満開で強風の時でさえも1枚の花びらが散らないのに、突然わずかな風に舞い上がって桜吹雪になっている。とことんまで咲ききって、ある時期が来たら一瞬にして、一斉に思い切って散ってゆく。
 こうした生ききって身を捨てるという散り際のよさが、日本人にはこたえられないのではないでしょうか。そこに人生を重ねて見るんですね。静かに散るのではなく、花吹雪となって散るという生き生きとしたエネルギーさえも桜から感じられるのです。
 散ると言っても、衰えてボタンと落ちるのではないのです。むしろ散ることによって、次の生命が春になったらまた姿をあらわす、私は生命の交代という深い意味でのエロティシズムの極地のようなものがそこに見えるのではないかといいう気がします。」

 地発句(連句を前提としない発句だけの作品=俳句)としての鑑賞のスタンダードのものであろう。しかし、立句(連句の最初の句=発句)としては、この抱一の句は異色の句ということになろう。
 俳諧(連句)の「花」の句の原則(「花の定座」の原則)として、「桜(さくら)」の言葉は使わず(「非正花)、賞美・賞玩の意を込めての「花」(春の正花)の言葉を使うのが原則なのである。この原則からすると、「五・七・五」の十七音字の中に、上五の「花びら」と下五の「さくら(さくら)」とを、二重のように使用するのは、どうにも異色の句ということになろう。
 この句に、抱一が其角流の趣向(作為)を施しているとすれば、この下五の、平仮名表記の「さくら」というのがポイントとなって来よう。このような観点から、上記で紹介されている『花を旅する』の「生ききって身を捨てるという散り際のよさ」の、「花は桜木、人は武士」(一休禅師?)などを連想することは、其角流の江戸座のむ俳諧師・抱一の句の鑑賞としては、決して逸脱したものではなかろう。

 抱一画集の『鶯邨画譜』には、桜を好み、「桜町中納言」の「藤原成範(しげのり)」が、その画題になっているが、スタンダードな『伊勢物語』(第九段「東下り」)の「在原業平」ではなく、「藤原成範」であるのが、これまた、抱一らの江戸琳派の画人の趣向なのであろう。

抱一画集『鶯邨画譜』所収「桜町中納言図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html


 「桜町中納言」については、下記のアドレスで、下記(参考その三)のとおり引用紹介した。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-07-29


(参考その三) 藤原成範(ふじわらのしげのり) → (再掲)

没年:文治3.3.17(1187.4.27)
生年:保延1(1135)
平安末期の公卿。本名は成憲。世に桜町中納言といわれた。藤原通憲(信西)と後白河天皇乳母紀二位の子。久寿1(1154)年叙爵。平治の乱(1159)でいったん解官,配流されるが許され,平清盛の娘婿であったことも手伝い、のちには正二位中納言兼民部卿に至る。また後白河院政開始以来の院司で、治承4(1180)年には執事院司となり激動の内乱期を乗りきった。一方和歌に優れ、『唐物語』の作者に擬せられている。桜を好み、風雅を愛した文化人でもあった。娘に『平家物語』で名高い小督局がいる。<参考文献>角田文衛『平家後抄』 (木村真美子) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

 また、次のアドレスで、酒井抱一筆の「宇津山図・桜町中納言・東下り」(三幅対)について触れた。そこでの要点も再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-01


(再掲)

ここで、冒頭の「宇津山図・桜町中納言・東下り」の「桜町中納言」(藤原成範)について触れて置きたい。
『伊勢物語』第九段「東下り」(下記「参考」)の「むかし、男ありけり」の、この「男」(主人公)は、「在原業平」というのが通説で、異説として、『伊勢物語』第十六段(「紀有常」)の「紀有常(きのありつね)」という説がある。  
 その主たる理由は、その第九段の前の第八段(「浅間の嶽」・下記「参考」)が、業平では不自然で、「下野権守・信濃権守と東国の地方官を務めた紀有常」の方が、第八段(「浅間の嶽」)と第九段(「東下り」)との続き具合からして相応しいというようなことであろう。
 それに対して、冒頭の「宇津山図・桜町中納言・東下り」の「桜町中納言(藤原成範)」こそ、「藤原通憲(信西)と後白河天皇乳母紀二位の子。久寿1(1154)年叙爵。平治の乱(1159)でいったん解官,配流されるが許され,平清盛の娘婿であったことも手伝い、のちには正二位中納言兼民部卿に至る」の、「配流の地(「下野」)などからして、「桜町中納言(藤原成範)」こそ、最も相応しいというようなことなのであろう。

 さらに、下記のアドレスで、鈴木其一筆「桜町中納言図」(一幅)について触れた。その画像と解説(久保佐知恵稿)のものを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-09


(再掲)

鈴木其一筆「桜町中納言図」 一幅 絹本著色 一一六・八×四九・八㎝
千葉市美術館蔵

【 桜町中納言は、平安時代後期の歌人藤原成範の通称で、桜を殊のほか愛した成範は、自らの邸宅にたくさんの山桜を植え、春になると桜の下にばかりいたと伝わる。能「泰山府君」の登場人物でもあり、短い花の盛りを惜しんだ成範が、その命を延ばしてもらおうと泰山府君に祈ったところ、成範の風流な心に感じた泰山府君が現れ、願いを叶えってやったと云う。本作は、満開の山桜の下でくつろぐ桜町中納言と従者を描いたもので、構図自体は『光琳百図』所載の光琳画をほぼ忠実に踏襲している。「桜町中納言図」は師の酒井抱一にもいくつかの遺品があり、江戸琳派において継承された画題のひとつといえる。(久保佐知恵稿) 】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手 図録』所収「作品解説56 桜町中納言図」)

 ここで、冒頭の抱一画集『鶯邨画譜』所収の「桜町中納言図」(に戻り、これは、まさしく、「抱一筆」とか「其一筆」とかではなく、『鶯邨(抱一の「雨華庵(工房)」の別称)』の「画譜(マニュアル・手本)」の「一コマ」のものという思いを深くする。
 さらに、付け加えるならば、上記の其一筆「桜町中納言図」(千葉市美術館蔵)には、次のような箱書きがある(『日本絵画の見方(榊原悟著)』)。

(箱表) 桜町中納言  竪幅
(箱裏) 先師其一翁真蹟 晴々其玉誌 印

 この「晴々其玉」は、其一の高弟・中野其明(きめい)の子息・中野其玉(きぎょく)であり、この其玉にあっては、その「先師」とは、酒井抱一ではなく、鈴木其一その人ということになる。
そして、この其玉に、『鶯邨画譜』を継受したような『其玉画譜』(小林文七編)があり、次のアドレスで、その全図を見ることが出来る。ここに、まぎれもなく、「其一→其明→其玉」の「其一派」の流れを垣間見ることが出来る。

一 ARC古典籍ポータルデータベース (カラー版)

http://www.dh-jac.net/db1/books/results.php?f3=%E5%85%B6%E7%8E%89%E7%94%BB%E8%AD%9C&enter=portal


二 国立国会図書館デジタルコレクション (モノクロ版)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850329