雨華庵の四季(春)その一~その五

その一「春(一)」

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酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(一)」東京国立博物館蔵
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【酒井抱一 四季花鳥図巻 二巻 文化十五年(一八一八) 東京国立博物館
「春夏の花鳥」「あきふゆのはなとり」の題箋に記され、二巻にわたり、四季の花鳥に描き連ねた華麗な図巻。琳派風の平面的な草花から極めて写実的に描かれる植物まで多様な表現を試みる。横長に巻き広げる巻物の特性を利用して、季節の移ろいを流れるように展開し、蔓や細かい枝を効果的に配す。燕や蝶、鈴虫など鳥や虫も描き込まれ、以前の琳派にはない新しい画風への取り組みが顕著に示されている。
絹本著色:二巻:上巻三一・二×七一二・五:下巻三一・二×七〇九・三: 文化十五年(一八一八): 東京国立博物館 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説(一五六)(岡野智子稿)」)

上記の図は、右から「福寿草・すぎな(つくし)・薺・桜草・蕨・菫・蒲公英・木瓜」(『日本の美術№186酒井抱一(千澤梯治編)』)のようである。

福寿草(新年・「元日草」)「福寿草は、花のこがね色とその名がめでたいことから新年の花とされる。元日草ともいわれるように、古くから元日に咲くように栽培されてきた。」
 小書院のこの夕ぐれや福寿草   太祗 「太祗句選」
 朝日さす弓師が見せや福寿草   蕪村 「蕪村遺稿」
 ふく寿草蓬にさまをかくしけり  大江丸 「はいかい袋」
 帳箱の上に咲きけり福寿草    一茶 「九番日記」
 ※福寿草硯にあまる水かけん   晩得 「哲阿弥句藻」
 暖炉たく部屋暖かに福寿草    子規 「子規句集」
※ https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-05-03

「佐藤晩得(さとうばんとく)=享保十六~寛政四年(一七三一~九二)、俳号=哲阿弥など、別号に朝四・堪露・北斎など。俳諧は右江渭北門のち馬場存義門」なのである。この佐藤晩得が、抱一の後見人のような大和郡山藩主を勤め、俳号・米翁として名高い「柳沢信鴻(やなぎざわのぶとき)=柳沢吉里の次男」と親交が深く、当時、酒井家部屋住みの抱一の後ろ盾のような関係にあり、この晩得が亡くなった追善句集『哲阿弥句藻』に、抱一は跋文を寄せるほど深い絆で結ばれていたのである。

つくし(仲春・「土筆・つくづくし・つくしんぼ・筆の花」)「杉菜の胞子茎をいう。三月ごろから日のあたる土手や畦道に生える。」
 佐保姫の筆かとぞみるつくづくし雪かきわくる春のけしきは 藤原為家「夫木和歌抄」
 真福田が袴よそふかつくづくし    芭蕉 「花声」
 見送りの先に立ちけりつくづくし  丈草 「射水川」
 つくづくしここらに寺の趾もあり  千代女「松の声」
 つくつくしほうけては日の影ぼうし 召波 「春泥発句集」

すぎな(晩春・「杉菜・接ぎ松・犬杉葉」)「春に胞子茎をだす。これが土筆である。胞子茎が枯れると、栄養茎が杉の葉のように伸びるが、これは茎であって、葉は退化している。」
 今まではしらで杉菜の喰ひ覚え  惟然 「鳥の道」
 杉苗に杉菜生そふあら野かな   白雄 「白雄句集」
 すさまじや杉菜ばかりの丘一つ  子規 「寒山落木」

薺(新年・「なずな・なづな・ぺんぺんくさ・三味線草」)「七種粥に入れる春の七草の一つ。」
 六日八日中に七日の齊かな    鬼貫 「鬼貫句選」
 一とせに一度摘まるゝ齊かな   芭蕉 「芭蕉句選」   
 濡縁や齊こぼるる土ながら    嵐雪 「続猿蓑」
 沢蟹の鋏もうごくなづなかな   蓼太 「蓼太句集」

桜草(晩春・「プリムラ・常盤桜・乙女桜・雛桜・一花桜・楼桜」)「江戸時代にも武士階級で流行。花は淡紅色、紅紫色。花びらは筒状の先が五つに大きく裂け、さらにそれぞれの先が二つに割れてサクラに似ている。」
 我国は草もさくらを咲きにけり  一茶 「文政版句集」
 わがまへにわが日記且桜草    万太郎「流寓抄」

蕨(仲春・「岩根草・山根草・早蕨・干蕨・蕨飯」)「山肌の日当たりの良いところにみられる春を代表する山菜。」
 石(いは)ばしる垂水のうへの早蕨の萌え出づる春になりにけるかも 志貴皇子「万葉集」
 いはそそぐ清水も春の声たてて打ちてや出づる谷の早蕨 藤原定家「拾遺愚草」
 蕨採りて筧に洗ふひとりかな   太祗 「太祗句選後篇」
 わらび野やいざ物焚ん枯つゝじ  蕪村 「蕪村句集」
 めぐる日や指の染むまでわらび折る 白雄 「白雄句集」
 折りもちて蕨煮させん晩の宿   蝶夢 「草根発句集」
 そゞろ出て蕨とるなり老夫婦   茅舎 「川端茅舍句集」 

菫(三春・「菫草・花菫・相撲花・一夜草・ふたば草・壺すみれ・姫すみれ」)「菫は春、濃い紫色の花をさかせる。花の形が、大工道具の『墨入れ』に似ていることから「すみれ」
の名がついたという。」
 春の野にすみれ摘みにと来しわれそ野をなつかしみ一夜寝にける 山部赤人「万葉集」
 山路来て何やらゆかしすみれ草   芭蕉 「のざらし紀行」
 骨拾ふ人にしたしき菫かな     蕪村 「蕪村句集」
 地車におつぴしがれし菫哉     一茶 「文化句帳」
 菫ほどな小さき人に生まれたし   漱石 「夏目漱石全集」

蒲公英(仲春・「たんぽ・たんぽぽ・鼓草・蒲公英の絮」)「蒲公英は黄色い太陽形の花。花が終わると、絮が風に飛ばされる。」
 たんぽぽや折ゝさます蝶の夢   千代女 「千代尼発句集」
 たんぽぽに東近江の日和かな   白雄  「白雄句集」
 馬借りて蒲公英多き野を過る   子規  「子規句集」

木瓜(晩春・「木瓜の花・緋木瓜・白ぼけ・花木瓜」)「開花期は十一月から四月にかけて。
十一月頃咲くものは寒木瓜と呼ばれる。瓜のような実がなることから木瓜と呼ばれる。枝には棘があり、春、葉に先立って五弁の花を咲かせる。」
 紬着る人見送るや木瓜の花    許六 「住吉物語」
 順礼の子や煩ひて木瓜の花    樗堂 「萍窓集」
 木瓜咲くや漱石拙を守るべく   漱石 「夏目漱石全集」

その二「春(二)」

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酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(二)」東京国立博物館蔵
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(同上:部分拡大図)

 上図は、「春(一)」に続いて、その「春(一)」で描いた「蒲公英・木瓜・菫・すぎな(つくし)・薺・白桜草」などに、新たに「虎杖(いたどり)」と「雉(きじ)と母子草」を描いている(『日本の美術№186酒井抱一(千澤梯治編)』)。
 この中央の雉が、小さな母子草を見ているのは、芭蕉の「父母のしきりに恋ひし雉子の声」などを想起させるような雰囲気を有している。

虎杖(仲春・「いたどり・みやまいたどり・さいたづま」)「春先、赤味を帯びた新芽が出
て節のある太い茎が一メートル程に直立し目立つ。茎は成長するにつれ木質化する。夏に白い小さな花を沢山つける。」
 春日野にまだうら若きさいたづま妻籠(ごも)るともいふ人やなき 藤原実氏「玉葉集」
 虎杖や到来過ぎて餅につく   一茶 「九番日記」
 山陰に虎杖森の如くなり    子規 「子規句集」

雉(三春・「雉子・きぎす・きぎし、雉子の声、焼野の雉子」)「雄は全体的に緑色をおびており、目の周りに赤い肉腫がある。雌は全体的に茶褐色。雌雄ともニワトリ似て尾は長い。繁殖期の雄は赤い肉腫が肥大し、なわばり争いのため攻撃的になり、ケンケンと鳴いて翼を体に打ちつける『雉のほろろ』と呼ばれる行為をする。」
 春の野にあさる雉(きぎし)の妻恋ひにおのがあたりを人に知れつつ 大友家持「万葉集」
 春の野のしげき草葉の妻恋ひに飛び立つ雉のほろろとぞ鳴く 平貞文「夫木和歌抄」
 父母のしきりに恋ひし雉子の声      芭蕉 「笈の小文」
 うつくしき顔かく雉の距(けづめ)かな  其角 「其袋」
 遅キ日や雉子の下りゐる橋の上    蕪村 「蕪村句集」
 雉啼くや暮を限りの舟渡し     几菫 「晋明集二稿」
 雉子の尾の飛さにみたる野風かな    白雄 「白雄句集」

母子草(晩春・「御形蓬(おぎょうよもぎ)・鼠麹草(ほうこぐさ)」)「ヘラ形の葉の間からのびた花茎に、小さなつぶつぶの黄色い頭頂花を球状につける。春の七草のオギョウは母子草のロゼット(根出葉)である。」
  すりこぎや父はおそろし母子草  路通 「雷盆木」
  跡訪はん塚も母子の草の時    沾峨 「吐屑庵句集」
  老いて尚なつかしき名の母子草  虚子 「虚子句集」

【 落款は上巻巻頭に署名「抱一暉真」「抱弌」(朱文重郭方印)、下巻巻末に「文化戌寅晩春 抱一暉真寫之」の隷書による署名と「雨華」(朱文内鼎外方印)「文詮」(朱文瓢印)がある。文政に改元直前の文化十五年(一八一八)三月に描かれたことが知られる。抱一の共箱で、蓋表に「四季花鳥巻物 二軸」蓋裏に「抱一暉真筆」「文詮」(朱文瓢印)がある。巻子及び箱の体裁は極めて上質で、四季が廻るという吉祥画題とともに、高位の家の吉事を祝う制作とうかがわれる。
 同時に、本図は抱一が光琳の模倣にとどまらず、新たな表現を志した記念碑的作品でもある。植物の描写は、琳派風の平面的な草花から極めて写実的に描かれる植物まで多様な表現を試みており、同一作品ながら異なる表現が混在して変化に富む。横に巻き広げる巻物の特性を利用して、季節の移ろいを流れるように展開し、蔓や細い枝は画面に対角線上に配して、視線が自然と画面の先、つまり次の季節に及ぶように誘っている。
 また本図には上下巻合わせて植物六十種、禽鳥八種、昆虫九種が描かれる。宗達や光琳は鳥や虫を草花に取り合わせることはなかったが、抱一は本図で鳥や虫を積極的に起用している。例えば枝垂桜の枝を飛び交う燕や、菊の上によじ登る蟷螂、青木の葉裏の蝉の抜け殻など、こまやかな季節の移ろいを告げるキーパーソンを彼らが務めている。
 草花図に華麗な鳥やさまざまな虫を描くことは、中国では伝統的に行われており、特に清の沈南蘋の弟子たちには鮮やかな花鳥草花図巻が多く見出される。本図の上巻「藤に蜂の巣」の部分などにはそうした清の画巻の影響が顕著である。
 一方、下巻冒頭の「萩に鈴虫、松虫」では虫を描くことによってその音色までも想起させようという、極めて日本的な導入を用意する。このように抱一は、中国の花鳥草虫図巻に構想を借りながら、日本の四季の情趣をさまざまに描いている。宗達・光琳が抑制してきた自然の趣を抱一は新たに琳派様式に取り入れ、江戸琳派がここに確立された。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「作品解説(一五六)(岡野智子稿)」)

その三「春(三)」

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酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(三)」東京国立博物館蔵
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(同上:部分拡大図)

 上図は、右から「春(二)」に続く「薺・杉菜」の次に、「菜の花」(晩春)・「大根の花」(晩春)、そして「蚕豆(そらまめ)の花」(晩春)・「蚕豆」(初夏)、さらに、その大根の花の上に「蜆蝶」(三春の「蝶」の子季語)、菜の花には「紋白蝶」(三春の「蝶」の子季語)が停まっている。
 「蝶」は「三春」(初春・仲春・晩春))の季語だが、「初蝶」(初春)、「揚羽蝶・夏の蝶」(三夏)、「秋の蝶」(三秋)、「冬の蝶」(三冬)、「凍蝶」(晩冬)と、四季にわたって詠まれている。
 上図の左端の「枝垂れ桜」は、「仲春」の季語で、全体としては「春の景」であるが、この「蝶」(蜆蝶と紋白蝶)が、これまでの「春の景」を「夏の景」へと誘っている雰囲気を有している。
 また、これまでの「春(一)」と「春(二)」が、地面上の「地の景」とすると、ここから、蝶が舞い飛ぶ「天の景」へと視点を転回させている。

蝶(三春・「蝶々・胡蝶・春の蝶・小灰蝶・蜆蝶・白蝶・緋蝶・だんだら蝶」)「蝶は彩りあざやかな大きな翅をもつ昆虫。花の蜜を求めてひらひらと舞ふ。」
 散りぬれば後はあくたになる花を思ひ知らずもまどふ蝶かな 僧正遍照「古今集」
 蝶の飛ぶばかり野中の日影かな   芭蕉 「笈日記」
 うつゝなきつまみごゝろの胡蝶哉  蕪村 「蕪村句集」
 夕風や野川を蝶の越しより     白雄 「白雄句集」
 ひらひらと蝶々黄なり水の上    子規 「子規全集」
初蝶(初春・「はつちょう・はつてふ」)「春になって初めて目にする蝶のこと。」
 たちいでて初蝶見たり朱雀門    大江丸「俳懺悔」
 初蝶来何色と問ふ黄と答ふ     虚子 「六百五十句」
揚羽蝶(三夏・「黒揚羽・烏揚羽・烏蝶」)「春はやや小さめだが夏になると一回り大きくなる。」
 黒揚羽花魁草にかけり来る     虚子「虚子全集」
 我が来たる道の終りに揚羽蝶    耕衣「驢鳴集」
夏の蝶(三夏・「夏蝶・梅雨の蝶」)「夏に見かける蝶のこと。単に蝶では春の季語となる。」
 まことちさき花の草にも夏の蝶   石鼎 「原石鼎全句集」
秋の蝶(三秋・「秋蝶・老蝶」)「立秋を過ぎてから見かける蝶のこと。春や夏の蝶にから比べるといくらか弱々しい印象を受ける。」
 薬園の花にかりねや秋の蝶     支考 「梟日記」
 山中や何をたのみに秋の蝶     蝶夢 「三夜の月の記」
 あきの蝶日の有るうちに消えうせる 暁台 「暁台日記」
 しらじらと羽に日のさすや秋の蝶  青蘿 「青蘿発句集」
 秋のてふかがしの袖にすがりけり  一茶 「七番日記」
冬の蝶(三冬・「冬蝶・越年蝶」)「冬に見かける蝶のこと。その蝶も寒さが強まるにしたがい飛ぶ力もなくなり、じっと動かなくなってしまう。」
 落つる葉に撲(う)たるる冬の胡蝶かな  几董 「晋明集二稿」
凍蝶(晩冬・蝶凍つ))「寒さのため凍てついたようになる蝶のこと。哀れさという点では「冬の蝶」より差し迫った感じがある。」
 石に蝶もぬけもやらで凍てしかな     白雄 「白雄句集」

大根の花(晩春・「菜大根の花、種大根」)「大根の種を採るために畑に残した株に薹が立ち、白い十字型の花を咲かせる。紫がかったものもある。」
 まかり出て花の三月大根かな   一茶 「題叢」  
 花大根黒猫鈴をもてあそぶ    茅舍 「川端茅舍句集」

蚕豆(そらまめ)(初夏・「空豆、はじき豆」)「お多福の形をした薄緑の大きな豆。莢(さや)が空に向かってつくためこの名がある。また、莢の形が蚕に似ていることから蚕豆という字をあてることもある。」
 そら豆やただ一色に麦のはら   白雄 「題葉集」
 假名かきうみし子にそらまめをむかせけり 久女 「杉田久女句集」
蚕豆(そらまめ)の花(晩春)「春の盛りの頃葉腋に白色又は薄紫色の蝶形花を数個ずつつける。」
 そら豆の花の黒き目数知れず   草田男 「長子」
 蚕豆の花の吹き降り母来て居り  波郷  「惜命」 

菜の花(晩春・「花菜・菜種の花・油菜」)「菜種の黄色い花。一面に広がる黄色の菜の花畑は晩春の代表的な景色。近世、菜種油が灯明として用いられるようになってから、関西を中心に栽培されるようになった。」
 菜畠に花見顔なる雀哉      芭蕉 「泊船集」
 菜の花や月は東に日は西に    蕪村 「続明烏」
 なの花の中に城あり郡山     許六 「韻塞」
 菜の花やかすみの裾に少しづつ  一茶 「七番日記」
 菜の花や淀も桂も忘れ水     言水 「珠洲之海」
 菜の花の中に小川のうねりかな  漱石 「夏目漱石全集」

枝垂桜(仲春・「糸桜・しだり桜・紅枝垂」)「薄紅色の花を、細くて垂れ下った枝につける。樹齢は長い。」
 目の星や花をねがひの糸桜   芭蕉 「千宣理記」
 糸桜則ち是か華の雨      淡々 「華の日」
 影は滝空は花なり糸桜     千代女 「千代尼句集」
 いとざくら枝も散るかと思ひけり 嘯山 「葎亭句集」
 ゆき暮れて雨もる宿やいとざくら 蕪村 「蕪村句集」

【 抱一は寛政九年(一七九七)、三十七歳で江戸下向中の西本願寺十八世文如(もんにょ)上人より得度を受け、権大僧都として僧となった。その後十二年ほどの間に転居を繰り返したが、文化六年(一八〇九)の年末、吉原にほど近い下谷金杉大塚村(台東区根岸五丁目辺り)に小鸞女史とともに庵を結ぶ。後に雨華庵と呼ばれるこの小さな庵は、その後抱一の絵画活動の拠点となるとともに、僧としての務めを果たす場所でもあった。
 弟子の田中抱二(一八一四~八四)が明治十六年(一八八三)に描いた「雨華庵図」は、七十二歳になった抱二が往年の師宅を思い出して描いたもの。それによれば雨華庵は、玄関、台所のほかは座敷、仏間、茶間、画所の四室ばかりであった。抱二のメモによれば、ここで六月二日の光琳忌には扇合(おおぎあわせ)が、十一月五日には御花講が営まれたという。
 また抱一には「二尊庵」という号があり、六十歳前後から使用されていたようだが、これは雨華庵の本尊が阿弥陀如来像二尊であったことによる。朝夕に読経も行われ、抱一は案外真面目に仏事にも励んでいたらしい。浄土真宗西本願寺派の末弟、等覚院文詮暉真(とうかくいんもんせんきしん)こと抱一上人の勤行の場であった。
 さらに、雨華庵二世を継いだ鶯蒲は大田南畝ゆかりの市ヶ谷浄栄寺の出身だが、その過去帳の抱一の項には唯信寺開祖とあり、雨華庵をして唯信寺を寺号としていた形跡が認められる。雨華庵三世の鶯一もまた浄栄寺の血縁に連なる者であった。つまり抱一は、江戸琳派の画風の継承と、仏事を営み抱一を供養する立場とを別次元で考えていたひとが明らかである。
 このように、抱一が後半生を市井の僧として暮らしたことで、画業にも新たな展開が生まれた。さまざまな仏画を積極的に手掛けるようになったのである。 】
(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一(仲町啓子監修)』所収「画僧抱一の仏画(岡野智子稿)」中「勤行の場でもあった画房『雨華庵』」)

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【 田中抱二「雨華庵図」 1883(明治16)年 紙本着色 26.5×37.8
 抱一が大塚村(現在の台東区根岸五丁目辺り)に構えた画房は、1817(文化14)年に「雨華庵」の号を掲げるようになった。抱一没後も弟子が集まり一門を呈したが、1865(慶應元)年8月21日夜、火災で焼失してしまう。これは抱一の弟子の田中抱二(1814~84)が記憶を頼りに描いた雨華庵の見取り図で、画塾としての様子をうかがう貴重な資料である。(松尾知子稿) 】
(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一(仲町啓子監修)』所収「<風>をつかまえた絵師(仲町啓子稿)」)

 この「雨華庵図」の右上に、次のような記載が書かれている。

【植木 大樹 赤松・かしは(柏)・ぬるて(白膠木)・にしき(錦木)・あちさい(紫陽花)
    艸(草)はき(萩)・すゝき(薄)・女郎花・なてしこ(撫子)・かるかや(刈萱)
    大樹 梅・ひのき(檜)・さゝさんか(山茶花)    】

 これは、抱一の晩年の弟子の田中抱二(抱一の六十四歳時に十三歳で入門)が、晩年(七
十二歳時)に往時を回顧しての覚書きのようなものなのであろう。
 この植木関係では、「艸(草)」が、秋の七草の「萩・薄・女郎花・撫子」(「葛・藤袴・桔梗又は朝顔」は書いてない)と「刈萱」が書かれており、これは、春には、春の七草の「芹・薺・御形(ごぎょう・母子草)・繁縷(はこべら)・仏の座(タビラコ)・菘(すずな・蕪)・蘿蔔(すずしろ・大根)」なども植えられていたようにも思えてくる。
 そして、それらは、この両巻合わせて十四メートル余の長大な「四季花鳥図巻」の「植物
(六十種)」の大部分が、「樹木」ではなく「草花」であることと何処かしら結びついているように思えるのである。
 それらのことは、この後に続く、「夏・秋・冬」の草花が、どのように描かれているのか
を見ていくことによって、より鮮明になってくるであろう
 ここで、「雨華庵」屋内の間取りを見ていくと、その母屋は左側から「画所(えどころ)・
茶間(居間)・仏間・座敷」の四部屋(「画所」の上部に「前室」)と、その「画所」の離
れ屋風に「茶室」がある。この「茶室」に面した庭に「赤松斗(バカ)リ」と書かれ、「座敷」
の庭に面した所に「ヒサシ(庇)アリ」と書かれている。また、庭の池には、「魚・ヒ
鯉(緋鯉)・金魚」と書かれている。
 これらを、先の「勤行の場であった画房『雨華庵』」(岡野智子稿)と重ね合わせると、
「画所と茶室」スペースが「雨華庵画房」、「仏間・座敷」スペースが「二尊庵(後に寺号の「唯信寺」)、その両者の共通スペースが「茶間(二か所の「間仕切り」あり)」と考えることも出来るであろう。
 そして、この画房「雨庵庵」と僧房「二尊庵」との、この両者を結びつけるものが、「雨華庵・二尊庵」の自然(四季の「景物=花・鳥」)ととらえることも可能であろう。

その四「春(四)」

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酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(四)」東京国立博物館蔵
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(同上:部分拡大図)

 上図の中央は、枝垂れ桜の樹間の枝の合間を二羽の燕が行き交わしている図柄である。右側には「春(三)」の続きの地上に咲く黄色の菜の花、左側には、これまた、右側の菜の花に対応して、黄色の連翹の枝が、地上と空中から枝を指し伸ばしている。
この行き交う二羽の燕が、これまでの地面・地上から空中へと視点を移動させる。さらに、枝垂れ桜のピンクの蕾とその蕾が開いた白い花、それらを右下の黄色の菜の花と、左上下の黄色の連翹、さながら色の協奏を奏でている雰囲気である。その色の協奏とともに、この二羽の燕の協奏とが重奏し、見事な春の謳歌の表現している。

燕(仲春・「乙鳥(おつどり)・つばくら・つばつくめ・つばくろ・飛燕・濡燕・川燕・群燕・夕燕・初燕」)「燕は春半ば、南方から渡ってきて、人家の軒などに巣を作り雛を育てる。初燕をみれば春たけなわも近い。」
 燕来る時になりぬと雁がねは国思ひつつ雲隠り鳴く 大伴家持「万葉集」
 盃に泥な落しそむら燕      芭蕉 「笈日記」
 海づらの虹をけしたる燕かな   其角 「続虚栗」
 蔵並ぶ裏は燕の通ひ道      凡兆 「猿蓑」
 大和路の宮もわら屋もつばめかな 蕪村 「蕪村句集」
 夕燕我にはあすのあてはなき   一茶 「文化句帖」
 滝に乙鳥突き当らんとしては返る 漱石 「夏目漱石全集」
夏燕(三夏)「夏に飛ぶ燕である。燕は、春、南方から渡ってきて繁殖活動に入る。四月下旬から七月にかけて二回産卵する。雛を育てる頃の燕は、子燕に餌を与えるため、野や町中を忙しく飛び回る。」
 山塊を雲の間にして夏つばめ   蛇笏 「家郷の霧」
 夏つばめ遠き没り日を見つつゐる 誓子 「炎昼」

連翹(仲春・「いたちぐさ・いたちはぜ」)「半つる性植物。枝が柳のように撓み、地につくとそこから根を出す。葉に先立って鮮やかな黄色の花を枝先まで付ける。その様子が鳥の長い尾に似ているのでこの名がついた。」
 連翹や黄母衣の衆の屋敷町    太祇 「新五子稿」
 連翹に一閑張の机かな      子規 「子規句集」

【 抱一は、文化十四年(一八一七)の秋、住み慣れた庵居に「雨華庵」の額を掲げた。以来、「雨華」の号を署名に印章にと多く用いるようになった。四の「雨華時代Ⅰ」の始まりである。この「雨華」の語の出典は、同じ年の六月に剃髪した小鸞女史の法名「妙華尼」と合わせて、「天雨妙華」という語句から採られたとつとにいわれている。これは「大無量寿経」上の「讃仏偈(さんぶつげ)の最後に現れる語句で、次に『浄土三部経 上』(岩波文庫)をテキストとして上段に魏(ぎ)訳、下段に梵文(ぼんぶん)和訳を上げることにする。

 応時普地、六種震動、天雨妙華  大地は震動し、花は雨と降り、
 以散其上、自然音楽、空中讃言  数百の楽器は空中に奏でられた。
             (天の甘美な栴檀の抹香は撒かれた)
 決定必成無上正悟    (声あっていう)『(かれは)来世に仏となるであろう』と。

 すべての願いが成就したときに、この大地が震動し、雨のように降り注ぐ花の歓喜のイメージこそが「雨華」なのである。「大無量寿経」は、日本人に極楽浄土の姿を伝える経典として、平安時代より重要な役割を担ってきた。極楽浄土には種々の河が流れ、宝石でかざられた花束を流し、種々の甘美な声や響きがあり、七宝でかざられた樹や花や池や砂があること。いろいろな鳥が妙なる鳴き声をあげ、四季の区別もなく、暑からず寒からず、常に和らぎ調い適すること。そうした絢爛豪華な極楽浄土の様相は、いつしか中国的な四季の揃った庭園のイメージと重なり、浄土の表象としての四季折々の自然美が日本では定着していくことになる。室町時代以降、さかんに描かれた四季花鳥図の金屏風が、きらびやかな浄土に重ね合わされた四季の景物画であることは、最近の美術史研究ではほとんど認められている。「日本の伝統的な絵画で、四季のモティーフを含まないものは少ない。私たちは、今や数少なくなった床の間に、四季の移り変わりに合わせて掛け換える。季節がそれによって部屋に持ち込まれる。日本人が心に描く浄土には四季がある」(辻惟雄氏、千葉市美術館『祝福された四季展』カタログ)のである。そして、抱一の画房でも多くの四季の花鳥、花木、草花の絵が描かれた。それは、典型的といえるほど固定した素材によって描かれている。

春は、土筆・蒲公英・蓮華草・蕨・桜草・紅梅・白梅・山桜
夏は、芍薬・白百合・紫陽花・仙翁花・撫子・沢瀉・河骨・燕子花・立葵・昼顔
秋は、龍胆・桔梗・薄・女郎花・葛・朝顔・紅菊・白菊・芙蓉・柿・藤袴・蔦・漆
冬は、雪の被った芦・檜・藪柑子・水仙

 自生植物と園芸植物の混ざった多様の花や木や草は、屏風・図巻・画帖・掛物とあらゆる画面形式に描き継がれ、優美な曲線に誘われ、鮮烈な色彩に覆い尽くされ、愛らしい宝石のような形象がちりばめられた。このような多種多様な花園を生み出す自分のアトリエに、抱一は「雨華」と名付けたのである。抱一の花鳥図・草花図が極楽浄土のイメージと無関係であるはずがないであろう。抱一にとって次々と工房で画を創り出すことは、すべての世界が歓喜して、花びらが空中に舞う姿にも重なっていたのである。(以下略)  】
(『新潮日本美術文庫18酒井抱一(玉蟲敏子著)』所収「抱一 ―江戸の精華譜(つれづれにしき)」中「雨華 ―見立ての浄土」)

その五「春(五)」

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酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(四)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035816

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(同上:部分拡大図)

 上図の右側は、「春(三)」に続く黄色の連翹の花、そこに、白い辛夷の花を対比させている。この白い辛夷の花の周囲には、白い点々の藤の花を添えている。そして、中央に紫の藤の花を三房バランスよく描いている。その紫の藤房の空間に、飛んでいる小さな足長蜂を一匹丁寧に描いて、思わず、この一点に視線が集中するような巧みな構成となっている。この小さな蜂に目を奪われていると、この図の左上の端に、蜂の巣があり、そこに留まっている一匹の足長蜂と対比になっていることに気付いてくる。そして、その蜂の巣の下に白い辛夷の花が添えられている。

蜂(三春・「足長蜂・熊蜂・地蜂・土蜂・穴蜂・似我蜂・山蜂・花蜂・蜜蜂・姫蜂・雀蜂・女王蜂・雄蜂など」)「く見られるミツバチは、女王蜂を中心に生活が営まれる。スズメバチやアシナガバチなどは、巣を守るためひとを襲うこともある。」
 腹立てて水呑む蜂や手水鉢     太祇 「太祇句選」
 土舟や蜂うち払ふみなれ棹     蕪村 「遺稿」
 木ばさみのしら刃に蜂のいかりかな 白雄 「白雄句集」
 一畠まんまと蜂に住まれけり    一茶 「七番日記」
 指輪ぬいて蜂の毒吸ふ朱唇かな   久女 「杉田久女句集」
 蜂の尻ふわふわと針をさめけり   茅舎 「川端茅舎句集」

辛夷(仲春・「木筆・山木蘭・幣辛夷・田打桜」)「早春、葉が出る前に、六弁の白い花を枝先につける。莟の形が赤子のこぶしを連想させるのでこぶしと名づけられた。」
 咲く枝を折る手もにぎりこぶしかな   重頼 「犬子集」
 雉一羽起ちてこぶしの夜明けかな    白雄 「白雄句集」
 花籠に皆蕾なる辛夷かな        子規 「子規全集」

藤(晩春・「ふじ・ふぢ・山藤・野藤・白藤・八重藤・赤花藤・藤の花・南蛮藤・ 藤波・藤棚・藤房」)「藤は晩春、房状の薄紫の花を咲かせる。芳香があり、風にゆれる姿は優雅。木から木へ蔓を掛けて咲くかかり藤は滝のようである。」
 恋しけば形見にせむと我がやどに植ゑし藤波今咲きにけり  山部赤人「万葉集」
 よそに見てかへらむ人に藤の花はひまつはれよ枝は折るとも 僧正遍照「古今集」
 くたびれて宿借るころや藤の花   芭蕉 「笈の小文」
 水影やむささびわたる藤の棚    其角 「皮籠摺」
 蓑虫のさがりはじめつ藤の花    去来 「北の山」
 しなへよく畳へ置くや藤の花    太祇 「太祇句選」
 月に遠くおぼゆる藤の色香かな   蕪村 「連句会草稿」
 しら藤や奈良は久しき宮造り    召波 「春泥発句集」
 藤の花長うして雨ふらんとす    子規 「子規全集」

歌麿・蜂・毛虫.jpg

喜多川歌麿//筆、宿屋飯盛<石川雅望>//撰『画本虫ゑらみ』国立国会図書館蔵
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288345
【『画本虫撰』宿屋飯盛撰 喜多川歌麿画 二冊 天明八年(一七八八) 千葉市美術館
精細きわまる植物と虫の絵は、若き喜多川歌麿によるもの。虫の羽の透けの表現に雲母摺りを施すなど美麗な本で、虫の歌合の趣向で三十名の狂歌と競演する。蜂と毛虫の歌合に、尻焼猿人こと抱一が登場。「こハごハに とる蜂のすの あなにえや うましをとめを みつのあち(ぢ)ハひ」とある。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説(三三)(松尾知子稿)」)

 この『画本虫撰』が刊行された天明八年(一七八八)時は、抱一、二十八歳、歌麿、三十六歳の頃で、当時の狂歌名は、抱一が「尻焼猿人(しりやけのさるんど)、歌麿は「筆綾丸(ふでのあやまろ)」である。
 この二人とも、この『画本虫撰』の出版元の「蔦重」こと、蔦屋重三郎の所属する「吉原連」と深い関係にあると解して差し支えなかろう。ちなみに、蔦屋重三郎の狂歌名は「蔦唐丸(つたのからまる)」である。

【 江戸の都市の繁栄は、狂歌、黄表紙、浮世絵(錦絵)といった新しい文化を育んだが、世に天明狂歌運動とも呼ばれるムーブの担い手の多くは、下級の幕臣の大田南畝をはじめとする二、三十代の青年たちであった。才気渙発な抱一が、酒井家の屋敷の外側で繰り広げられる同世代の若者による自由闊達な活動に敏感でないはずがない。蔦屋重三郎版の狂歌絵本『吾妻曲(あずまぶり)狂歌文庫』(宿屋飯盛撰、山東京伝画、天明六(一七八六)年刊)、続編の『古今狂歌袋(宿屋飯盛撰、山東京伝画、天明七(一七八七)年刊)、『画本虫撰(えほんむしえらみ)』(宿屋飯盛撰、喜多川歌麿画、天明八(一七八九)年刊)などに、抱一は立て続けに、「 尻焼猿人」の狂歌名を名乗って登場する。大田南畝は大手門前の酒井家上屋敷で部屋住みの生活を送る抱一の下を訪ねており、天明八年正月十五日の上元の宴では、抱一の才を七言絶句の漢詩を詠んでいる。その書き出しには「金馬門(きんばもん)前白日開」とあり、中国漢代の末央宮の門を気取って、江戸城の大手門をペンダントリーに「金馬門」と呼んでいる。この謂いは、抱一と南畝らの間で交わされた暗号のようなものだったらしく、現存しないが、抱一も最初に編んだ句集の名を「金馬門」の和語から「こがねのこま」としていたようだ。
 好奇心旺盛な若き抱一が、最初期の画業として取り組んだのは浮世絵美人画で、画風の一致から、その師匠は記録のとおり歌川派の開祖のと歌川豊春であると考えられる。南畝はたびたび抱一筆の美人画に漢詩や狂歌を書き付けているが、天明五(一七八五)年初冬作の「調布の玉川図」はのちに、当時の抱一の絵が少しも古びていないことを称え、古歌をもじった賛を執筆したものである。賛の狂歌と本歌を挙げておこう。
 玉川にさらす調布(たつくり)さらさらにむかしの筆とさらに思はず
  → 玉川にさらす調布さらさらにむかしの人のこひしきやなそ
                (『拾遺和歌集』巻第十㈣恋四 よみ人しらず)  
二人の交流は晩年まで長く続き、南畝は抱一にとって最古参の友人の一人であった。 】

 太田南畝(狂歌名=四方赤良)は、寛延二年(一七四九)の生まれ、抱一よりも十二歳年長で、抱一の狂歌の師匠格に当たるというよりも、当時の天明狂歌運動の中心的な人物であった。
上記の『画本虫撰』の撰者は、宿屋飯盛(家業=宿屋、国学者=石川雅望)であるが、飯盛は南畝門であり、この『画本虫撰』の背後に南畝が控えていることは、この画本のトップに、上記の「抱一(猿人)の蜂」の狂歌に「南畝(赤良)の毛虫」の狂歌の「歌合(うたあわせ)」を持ってきていることからも明瞭であろう。この南畝(赤良)の狂歌は、次のものである。

 毛をふいてきずやもとめんさしつけて 
  きみがあたりにはひかかりなば (四方赤良)

 これらのことについては、下記のアドレスでも触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-28

 ここで特記して置きたいことは、抱一と抱一一門では、数多くの「四季花鳥図」あるいは「十二か月花鳥図」を、屏風・図巻・画帖・掛物とあらゆる画面形式に描き継がれているが、こと、「蜂と蜂の巣」が取り上げられているのは、この冒頭の、文化十五年(一八一八)、抱一、五十八歳時の作「四季花鳥図巻」のものの他、殆ど見掛けないということなのである。
 そして、この抱一五十八歳時の、抱一代表作の一つの、この「四季花鳥図巻」の「蜂と蜂の巣」は、紛れもなく、抱一二十八歳時の狂歌名・尻焼猿人の名で登場する『画本虫撰』の、上記の歌麿の描いた「蜂と蜂の巣」を、直接・間接とかを問わずモデルとしているように思えるのである。
 抱一の花鳥図の、殊に、その鳥や虫の描写には、やや年代が遡る京都画壇の写生派の元祖・円山応挙や奇想派の巨匠・伊藤若冲などの影響については夙に指摘されているところであるが、同世代且つ同土俵上の先輩絵師にして狂歌師の歌麿の影響というのも大きかったということを特記して置きたい。
 これらのことに関し、『画本虫撰』との観点は、上記アドレス(国立国会図書館蔵)で相互に検討することが出来るが、その『絵本百千鳥』などの挿絵などに関しては、次のアドレス(国立国会図書館蔵)のものとの相互検討が必要となって来る。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8943229

 上記のアドレスで紹介されているもののうち、今回の抱一の『四季花鳥図巻』で前回までに取り上げている「雉(きじ)」と「燕(つばめ)」のものを掲載して置きたい。

歌麿・雉と燕(正).jpg

赤松金鶏撰・喜多川歌麿画『絵本百千鳥(上)』の「雉子と燕」(国立国会図書館蔵)
http://www.photo-make.jp/hm_2/utamaro_momochidori.html

 上記掲載中の「燕子と雉」に関する狂歌は次のとおりである。

燕  酒月米人 つばめにも身をかへてまし下紐を ときはにながくねんとおもへば
雉子 桐一葉  あふときハけんもほろゞな返事して いひ出ん事のはねもすぼめり