抱一句集『屠龍之技』「第五千づかのいね」(1~5)

1 夕露や小萩がもとのすゞり筥 (第五千づかのいね)


抱一画集『鶯邨画譜』所収「萩図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 この「萩図」の賛(発句=俳句)は、抱一自撰句集『屠龍之技』所収の次の句であろう(句形は異なっている)。

 夕露や小萩がもとのすゞり筥(『屠龍之技』所収「千づかのいね」と題するものの一句)

ここで、抱一自撰句集『屠龍之技』について、下記のアドレスで、「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)の全容を見ることが出来る。

http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186.html

 その「写本」の紹介について、そのアドレスでは、下記のとおり記されている。

【 [書写地不明] : [書写者不明], [書写年不明] 1冊 ; 24cm
注記: 書名は序による ; 表紙の書名: 輕舉観句藻 ; 写本 ; 底本: 文化10年跋刊 ; 無辺無界 ; 巻末に「明治三十一年十二月二十六日午夜一校畢 観潮樓主人」と墨書あり
鴎E32:186 全頁
琳派の画家として知られる酒井抱一が、自身の句稿『軽挙観句藻』から抜萃して編んだ発句集である。写本であるが、本文は鴎外の筆ではなく、筆写者不明。本文には明らかな誤りが多数見られ、鴎外は他本を用いてそれらを訂正している。また、巻末に鴎外の筆で「明治三十一年十二月二十六日午夜一校畢 観潮楼主人」とあることから、この校訂作業の行われた時日が知られる。明治30年(1897)前後、鴎外は正岡子規と親しく交流していたが、そうしたなかで培われた俳諧への関心を示す資料だと言えよう。】

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)の「序」)

 この『屠龍之技』の、亀田鵬斎の「序」は、『日本名著全集江戸文芸之部第二十七巻(追加編二巻)俳文俳句集(日本名著全集刊行会編)』の「屠龍之技」(追加編)を参考にすると、次のように読み取れる。

【 屠龍之技
軽挙道人。誹(俳)諧十七字ノ詠ヲ善クシ。目ニ触レ心ニ感ズル者。皆之ヲ言ニ発ス。其ノ発スル所ノ者。皆獨笑獨泣獨喜獨悲ノ成ス所ナリ。而モ人ノ之ヲ聞ク者モ亦我ト同ジク笑フ耶泣ク耶喜ブ耶悲シム耶ヲ知ラズ。唯其ノ言フ所ヲ謂ヒ。其ノ発スル所ヲ発スル耳。道人嘗テ自ラ謂ツテ曰ハク。誹諧体ナル者は。唐詩ニ昉マル。而シテ和歌之ニ効フ。今ノ十七詠ハ。蓋シ其ノ余流ナリ。故ニ其ノ言雅俗ヲ論ゼズ。或ハ之ニ雑フルニ土語方言鄙俚ノ辞ヲ以テス。又何ノ門風カコレ有ラン。諺ニ云フ。言フ可クシテ言ハザレバ則チ腹彭亨ス。吾ハ則チ其ノ言フ可キヲ言ヒ。其ノ発ス可キヲ発スル而巳ト。道人ハ風流ノ巨魁ニシテ其ノ髄ヲ得タリト謂フ可シ。因ツテ其首ニ題ス。
文化九年壬申十月  江戸鵬斎興  】

 「下谷三幅対」と称された、「鵬斎・抱一・文晁」の、抱一より九歳年長の、亀田豊斎の「序」である。この文化九年(一八一二)は、抱一、五十二歳の時で、抱一の付人の鈴木蠣潭は、二十一歳、鈴木其一は、十七歳で、其一は、この翌年に、抱一の内弟子となる。
 『鶯邨画譜』が刊行されたのは、文化十四年(一八一七)で、この年の六月に、蠣潭が二十六歳の若さで夭逝する。
その抱一が、鶯の里(鶯邨=村)の、「下谷根岸大塚村」に転居したのは、文化六年(一八〇九)、四十九歳の時で、抱一が、自筆句集「軽挙観(館)句藻」(静嘉堂文庫蔵)第一冊目の「梶の音」を始めたのは、寛政二年(一七九〇)、三十歳の時である。
爾来、この「軽挙観(館)句藻」は、抱一の生涯にわたる句日記(三十数年間)として、二十一巻十冊が、静嘉堂文庫所蔵本として今に遺されている。
翻って、上記の亀田鵬斎の「序」を有する刊本の、抱一自筆句集ではなく、抱一自撰句集の『屠龍之技』は、抱一の俳諧人生の、前半生(三十歳以前から五十歳前後まで)の、その総決算的な、そして、江戸座の其角門の俳諧宗匠・「軽挙道人(「抱一」、白鳧・濤花・杜陵(綾)・屠牛・狗禅、「鶯村・雨華庵・『軽挙道人』」、庭柏子、溟々居、楓窓)の、その絶頂期の頃の、「鶯村・雨華庵・『軽挙道人』」の、抱一(軽挙道人)自撰句集のネーミングと解して差し支えなかろう。
 ここで、この自撰句集『屠龍之技』を構成する全編(全自筆句集)の概略は次のとおりとなる。

第一編「こがねのこま」(「梶の音」以前の句→三十歳以前の句?)
第二編「かぢのおと(梶の音)」(寛政二年(一七九〇)・三十歳時から句収載?→自筆句集「軽挙観(館)句藻」第一冊目の「梶の音」)
第三編「みやこどり(都鳥)」(「梶の音」と「椎の木かげ」の中間の句収載?)
第四編「椎の木かげ」(寛政八年(一七九六)・三十六歳時からの句収載? 「庭柏子」号初見。この年『江戸続八百韻』を刊行する。「軽挙観(館)句藻」第二冊目?)
第五編「千づかのいね(千束の稲)」(寛政十年(一七九八)・三十八歳時からの句収載? 「軽挙観(館)句藻」第三冊目? 「抱一」の号初出。)
第六編「うしおのおと(潮の音)」(「千束の稲」と「潮の音」の中間の句収載?)
第七編「かみきぬた(帋きぬた)」(文化五年(一八〇八)、四十八歳時からの句収載? 「軽挙観」の号初出。)
第八編「花ぬふとり(花縫ふ鳥)」(文化九年(一八一二)、五十二歳、自撰句集『屠龍之技』編集、刊行は翌年か? 「帋きぬた」以後の句収載?)
第九編「うめの立枝」

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)の「千づかのいね」)

 「千都かのいね」(「千づかのいね」「千束の稲」)は、『軽挙観(館)句藻』(静嘉堂文庫所蔵・二十一巻十冊)収録の「千づかのいね」(自筆句集の題名)を、刊本の自撰句集『屠龍之技』の第五編に収載したものなのであろう。
 この第五編「千づかのいね」(『日本名著全集江戸文芸之部第二十七巻(追加編二巻)俳文俳句集(日本名著全集刊行会編)』)の六句目「夕露や小萩かもとのすずり筥」が、冒頭の、
抱一画集『鶯邨画譜』所収「萩図」の賛(発句=俳句)ということになろう。
 そして、四句目の「其夜降(る)山の雪見よ鉢たゝき」の前書き「水無月なかば鉢叩百之丞得道して空阿弥と改、吾嬬に下けるに発句遣しける」は、六句目の「夕露や小萩がもとのすゞり筥」にも掛かるものと解したい。
 この前書きの「鉢叩百之丞得道して空阿弥と改(め)」の、「鉢叩百之丞」は、其角の『五元集拾遺』(百万坊旨原編)に出て来る「鉢たゝきの歌」などに関係する、抱一の俳諧師仲間の一人なのであろう。

   鉢たゝきの歌
 鉢たゝき鉢たゝき   暁がたの一声に
 初音きかれて     はつがつを
 花はしら魚      紅葉のはぜ
 雪にや鰒(ふぐ)を  ねざむらん
 おもしろや此(この) 樽たゝき
 ねざめねざめて    つねならぬ
 世を驚けば      年のくれ
 気のふるう成(なる) ばかり也
 七十古来       稀れなりと
 やつこ道心      捨(すて)ころも
 酒にかへてん     鉢たゝき
 あらなまぐさの    鉢叩やな
  凍(コゴエ)死ぬ身の暁や鉢たゝき    其角

 ちなみに、『去来抄』の「鉢扣ノ辞」(『風俗文選』所収)に、「鉢叩月雪に名は甚之丞」(越人)の句もあり、「鉢叩百之丞」は、その「鉢叩甚之丞」などに由来のある号なのであろう。

  水無月なかば
  鉢叩百之丞得
  道して空阿弥
  と改、吾嬬に
  下けるに発句
  遣しける
 夕露や小萩がもとのすゞり筥

 句意は、「俳諧師仲間の鉢叩百之丞が、得度して出家僧・空阿弥となったが、折しも、小萩に夕べの露が下り、その露を硯の水とし、得度の形見に発句を認めよう」というように解して置きたい。

  朝妻ぶねの賛
2 藤なみや紫さめぬ昔筆  (第五 千づかのいね)


 この前書きの「朝妻船(浅妻船)」を画題としたもので、最も知られているものは、英一蝶の「朝妻舟図」であろう。


英一蝶筆「朝妻舟」(板橋区立美術館蔵)

 この一蝶の「朝妻舟」の賛は、「仇しあだ浪、よせてはかへる浪、朝妻船のあさましや、
ああまたの日は誰に契りをかはして色を、枕恥かし、いつはりがちなるわがとこの山、よしそれとても世の中」という小唄のようである。
 一蝶は、この小唄に託して、時の将軍徳川家綱と柳沢吉保の妻との情事を諷したものとの評判となり、島流しの刑を受けたともいわれている。
 朝妻は米原の近くの琵琶湖に面した古い港で、朝妻船とは朝妻から大津までの渡し舟のこと。東山道の一部になっていた。「朝妻舟」図は、「遊女と浅妻船と柳の木の組み合わせ」の構図でさまざまな画家が画題にしている。
 「琵琶湖畔に浮かべた舟(朝妻船・浅妻船)」・「平家の都落ちにより身をやつした女房たちの舟の上の白拍子」・「白拍子が客を待っている朝妻の入り江傍らの枝垂れ柳」が、この画の主題である。
 しかし、抱一の、この句は、「枝垂れ柳」(晩春)ではなく、「藤波・藤の花房」(晩春)の句なのである。この「朝妻舟」の画題で、「枝垂れ柳」ではなく「藤波」のものもあるのかも知れない。
 それとも、この「藤なみ(波・浪)」は、その水辺の藤波のような小波を指してのものなのかも知れない。
 抱一らの江戸琳派の多くが、「藤」(藤波)を画題にしているが、「朝妻舟」を主題にしたものは、余り目にしない。


抱一画集『鶯邨画譜』所収「藤図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html



先に、次のアドレスで、鈴木蠣潭画・酒井抱一賛の師弟合作の「藤図扇面」について紹介した。上記の「藤図」は、その蠣潭の「藤図」と関係が深いものなのであろう。その画像とその一部の紹介記事を再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-24


(再掲)

鈴木蠣潭筆「藤図扇面」 酒井抱一賛 紙本淡彩 一幅 一七・一×四五・七㎝ 個人蔵 
【 蠣潭が藤を描き、師の抱一が俳句を寄せる師弟合作。藤の花は輪郭線を用いず、筆の側面を用いた付立てという技法を活かして伸びやかに描かれる。賛は「ゆふぐれのおほつかなしや藤の茶屋」。淡彩を滲ませた微妙な色彩の変化を、暮れなずむ藤棚の下の茶店になぞらえている。】(『別冊太陽 江戸琳派の美』)

 この抱一・蠣潭の合作の「藤図扇面」の、抱一の賛(発句=俳句)「ゆふぐれのおほつかなしや藤の茶屋」は、抱一句集『屠龍之技』には収載されていないようである。その『屠龍之技』に収載されている句の中では、下記のものなどが、その賛の発句(俳句)に関係があるような雰囲気である。

   文晁が畫がける山水のあふぎに
 夕ぐれや山になり行(く)秋の雲

 この抱一の句は、前書きの「文晁が畫がける山水のあふぎに」(畏友・谷文晁が描いた「山水図」の扇)に、画・俳二道を極めている「酒井鶯邨(抱一)」が、その「賛」(発句=俳句)を認めたものなのであろう。

 当時の江戸(武蔵)の、今の「上野・鶯谷」(「下谷」=「鶯邨」=「鶯村)の「三幅対」といわれた「亀田鵬斎(儒学者・書家・文人)・酒井抱一(絵師・俳人・権大僧都)・谷文晁(絵師=法眼・松平定信の近習)の、この三人の交遊関係は、当時の「化政文化期」を象徴するものであった。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-25


https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-30


(再掲)

ここに登場する「下谷の三幅対」と称された、年齢順にして、「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」とは、これは、まさしく、「江戸の三幅対」の言葉を呈したい位の、まさしく、切っても切れない、「江戸時代(三百年)」の、その「江戸(東京)」を代表する、「三幅対」の、それを象徴する「交友関係」であったという思いを深くする。
 その「江戸の三幅対」の、「江戸(江戸時代・江戸=東京)」の、その「江戸」に焦点を当てると、その中心に位置するのが、上記に掲げた「食卓を囲む文人たち」の、その長老格の「亀田鵬斎」ということに思い知るのである。
 しかも、この「鵬斎」は、抱一にとっては、無二の「画・俳」友である、「建部巣兆」の義理の兄にも当たるのである。
上記の、『江戸流行料理通大全』の、上記の挿絵の、その中心に位置する「亀田鵬斎」とは、「鵬斎・抱一・文晃」の、いわゆる、「江戸」(東京)の「下谷」(「吉原」界隈の下谷)の、その「下谷の三幅対」と云われ、その三幅対の真ん中に位置する、その中心的な最長老の人物が、亀田鵬斎なのである。
 そして、この三人(「下谷の三幅対」)は、それぞれ、「江戸の大儒者(学者)・亀田鵬斎」、「江戸南画の大成者・谷文晁」、そして、「江戸琳派の創始者・酒井抱一」と、その頭に「江戸」の二字が冠するのに、最も相応しい人物のように思われるのである。
 これらの、江戸の文人墨客を代表する「鵬斎・抱一・文晁」が活躍した時代というのは、それ以前の、ごく限られた階層(公家・武家など)の独占物であった「芸術」(詩・書・画など)を、四民(士農工商)が共用するようになった時代ということを意味しよう。
 それはまた、「詩・書・画など」を「生業(なりわい)」とする職業的文人・墨客が出現したということを意味しよう。さらに、それらは、流れ者が吹き溜まりのように集中して来る、当時の「江戸」(東京)にあっては、能力があれば、誰でもが温かく受け入れられ、その才能を伸ばし、そして、惜しみない援助の手が差し伸べられた、そのような環境下が助成されていたと言っても過言ではなかろう。
 さらに換言するならば、「士農工商」の身分に拘泥することもなく、いわゆる「農工商」の庶民層が、その時代の、それを象徴する「芸術・文化」の担い手として、その第一線に登場して来たということを意味しよう。
 すなわち、「江戸(東京)時代」以前の、綿々と続いていた、京都を中心とする、「公家の芸術・文化」、それに拮抗しての全国各地で芽生えた「武家の芸術・文化」が、得体の知れない「江戸(東京)」の、得体の知れない「庶民(市民)の芸術・文化」に様変わりして行ったということを意味しょう。

鈴木其一筆『草花十二ヵ月画帖』(MOA美術館蔵)所収「五月」(紙本著色、十六・七×二一・二㎝)

 この『草花十二ヵ月画帖』のものについては、下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-10-05



鈴木其一筆『月次花鳥画帖』(細見美術館蔵)所収「四月」(藤図・絹本著色、二〇・二×一八・四㎝)

 これらの其一の画帖は、抱一の『鶯邨画譜』(版本)を念頭に置いてのものとうよりも、抱一の『絵手鑑』(肉筆画)に近い、其一の「絵手本」として制作されたものなのかも知れない(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説137(岡野智子稿))。

抱一画集『鶯邨画譜』所収「唐橘図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html


3 百両と書(かき)たり年の関てがた(第五 千づかのいね)

 この句は、植物の「百両(唐橘)」(三冬)の句ではなく、関所手形・往来手形などの句で、「年の関てがた(手形)」の「新年」の句であろう。
 そして、「万両(藪橘)」「千両(草珊瑚)」「百両(唐橘)」「十両(藪柑子・山橘)」「一両(蟻通)」は、何れも秋から冬に赤熟し、「三冬」の季語であるが、正月の飾りものとして、ここでは、「年の関てがた」の「年」に掛かり、「年立つ(新年)」の意を兼ねての用例と解したい。
 この句の主題は、下五の「関てがた」で、その「関所手形」(この句では女性の旅の必須の「女手形」?)の手続きは、「大家→町名主→町年寄→奉行所→江戸城留守居役」の手続きを経て発行されるなど、それらと、この上五の「百両」(そして「唐橘」)が関係しているような、そんなことが、この句の背景なのかも知れない。

 下記のアドレスで、先に、「藪柑子と竹籠図」について触れた。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-10-07


 この「藪柑子(山橘)」は、別名が「十両」で、『屠龍之技』には、「十両」の句は見当たらない。「千両」の句は、下記の句が収載されている。

4 千両で売るか小倉の初しぐれ(第九 梅の立枝)

 しかし、この句は、「万両(藪橘)・千両(草珊瑚)・百両(唐橘)・十両(藪柑子・山橘)・一両(蟻通)」などの植物の句ではない。「初しぐれ(時雨)」(初冬)の句である。この句の「小倉」は、藤原定家が百人一首を編纂した京都の小倉山の麓・嵐山の「時雨殿(しぐれでん)」を指しているのだろう。その「小倉」の「時雨殿」の「初時雨」は何とも風情があり、「千両で売ろうか」との、抱一の粋な洒落の一句ということになる。

5 一文の日行千里としのくれ(第五 千づかのいね)

 この句の前には、「歳暮」との前書きがある。抱一の時代(江戸時代中後期)の「一両」(現代=約七万五千円)は「六千五百文」で、「一文」は「約十二円」とかが、下記のアドレスで紹介されている。

https://komonjyo.net/zenika.html

 「一文の日行千里としのくれ」の「日行千里」は、四字熟語の感じだが、「一文の日行千里としのくれ」は、字義とおりに解すれば、「歳の暮れにあたり、一文無しに近い日々を重ねて、思えば遥かにも千里の道を来たかわい」というようなことであろう。

   鳥既に闇り峠(くらがりとうげ)年立つや (早野巴人『夜半亭発句帖』)

 抱一の俳諧の師の馬場存義を介すると、抱一の兄弟子にも当たる与謝蕪村の俳諧の師・早野巴人(馬場存義と同じく其角系の江戸座の俳人)の「年立つや」(年立ちかえる)の一句である。
この句の「鳥(とり)」は「掛けとり・借金とりの『とり(鳥)』」で、大晦日に駆けずり廻り、「大晦日は一日千金」の「掛け売りの借金取り」が、その裏(ウラ)の意のようである。
そして、この「闇り峠」は、松尾芭蕉が奈良から大坂へ向かう途中この峠で、「菊の香にくらがり越ゆる節句かな」を詠んだ、その古道の峠であるが、ここでは大晦日の闇夜の暗がり峠の意をも込めている。
そして、「年立つや」は、「大晦日が過ぎて新しい年を迎えたのであろうか」という意である。
即ち、この巴人の句は、「大晦日の借金取りは、私の所まで手が廻らず、大晦日が過ぎて新年を迎えることが出来れば、また、一年、借金返済の猶予の口実が出来るわい」というようなことのようである。
 抱一の、上記の、「百両・千両・一文」の句などは、間違いなく、この巴人の「年立つや」の句と、同じ世界のものという雰囲気を有している

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