江戸の粋人・酒井抱一の世界(一から二十二)

江戸の粋人・酒井抱一の世界

その一 正岡子規の酒井抱一観

 正岡子規の『病牀六尺』に、酒井抱一に関しての記述が、下記の二か所(「六」・「二十七」)に出てくる。
 この「六」に出てくる、「抱一の画、濃艶愛すべしといえども、俳句に至っては拙劣見るに堪えず」 というのが、子規の「酒井抱一観」として、夙に知られているものである。
 すなわち、「画人・抱一」は評価するが、「俳人・抱一」は、子規の「俳句革新」の見地から、断固排斥せざるを得ないということである。
 そして、子規が目指した俳句(下記の『俳句問答』の「新俳句」)と、抱一が土壌としていた俳句(下記の『俳句問答』の「月並俳句」)との違いは、次の答(●印)の五点ということになる。
 この五点の「知識偏重(機知・滑稽・諧謔偏重)・意匠の陳腐さ・嗜好的弛み・月次俳諧・宗匠俳諧の否定」の、何れの立場においても、例えば、抱一の自撰句集『屠龍之技』に収載されている句などは、「拙劣見るに堪えず」と、一刀両断の憂き目にあうことであろう。
 しかし、下記の「二十七」の、『鶯邨画譜』や、その「糸桜」に関する、子規の記述には、子規は、その画はもとより、その俳句についても、その何たるかは熟知していたという思いを深くする。

○問 新俳句と月並俳句とは句作に差異あるものと考へられる。果して差異あらば新俳句は如何なる点を主眼とし月並句は如何なる点を主眼として句作するものなりや    
●答 第一は、我(注・新俳句)は直接に感情に訴へんと欲し、彼(注・月並俳句)は往々智識(注・知識)に訴へんと欲す。
●第二は、我(注・新俳句)は意匠の陳腐なるを嫌へども、彼(注・月並俳句)は意匠の陳腐を嫌ふこと我より少なし、寧ろ彼は陳腐を好み新奇を嫌ふ傾向あり。
●第三は、我(注・新俳句)は言語の懈弛(注・たるみ)を嫌ひ彼(注・月並俳句)は言語の懈弛(注・たるみ)を嫌ふこと我より少なし、寧ろ彼は懈弛(注・たるみ)を好み緊密を嫌ふ傾向あり。
●第四は、我(注・新俳句)は音調の調和する限りに於て雅語俗語漢語洋語を問はず、彼(注・月並俳句)は洋語を排斥し漢語は自己が用ゐなれたる狭き範囲を出づべからずとし雅語も多くは用ゐず。          
●第五は、我(注・」新俳句)に俳諧の系統無く又流派無し、彼(注・月並俳句)は俳諧の系統と流派とを有し且つ之があるが為に特殊の光栄ありと自信せるが如し、従って其派の開祖及び其伝統を受けたる人には特別の尊敬を表し且つ其人等の著作を無比の価値あるものとす。我(注・新俳句)はある俳人を尊敬することあれどもそは其著作の佳なるが為なり。されども尊敬を表する俳人の著作といへども佳なる者と佳ならざる者とあり。正当に言へば我(注・新俳句)は其人を尊敬せずして其著作を尊敬するなり。故に我(注・新俳句)は多くの反対せる流派に於て俳句を認め又悪句を認む。   

【  六
〇今日は頭工合やや善し。虚子と共に枕許に在る画帖をそれこれとなく引き出して見る。所感二つ三つ。 
余は幼き時より画を好みしかど、人物画よりも寧ろ花鳥を好み、複雑なる画よりも寧ろ簡単なる画を好めり。今に至って尚其傾向を変ぜず、其故に画帖を見てもお姫様一人画きたるよりは椿一輪画きたるかた興深く、張飛の蛇矛を携えたらんよりは柳に鶯のとまりたらんかた快く感ぜらる。 
画に彩色あるは彩色無きより勝れり。墨書ども多き画帖の中に彩色のはっきりしたる画を見出したらんは萬緑叢中紅一点の趣あり。 
呉春はしゃれたり、応挙は真面目なり、余は応挙の真面目なるを愛す。
『手競画譜』を見る。南岳、文鳳二人の画合せなり。南岳の画は何れも人物のみを画き、文鳳は人物の外に必ず多少の景色を帯ぶ。南岳の画は人物徒に多くして趣向無きものあり、文鳳の画は人物少くとも必ず多少の意匠あり、且つ其形容の真に逼るを見る。もとより南岳と同日に論ずべきに非ず。 
或人の画に童子一人左手に傘の畳みたるを抱え右の肩に一枝の梅を担ぐ処を画けり。或は他所にて借りたる傘を返却するに際して梅の枝を添えて贈るにやあらん。若し然らば画の簡単なる割合に趣向は非常に複雑せり。俳句的といわんか、謎的といわんか、しかも斯の如き画は稀に見るところ。 
抱一の画、濃艶愛すべしといえども、俳句に至っては拙劣見るに堪えず。その濃艶なる画にその拙劣なる句の讃あるに至っては金殿に反故張りの障子を見るが如く釣り合わぬ事甚し。

『公長略画』なる画あり。わずかに一草一木を画きしかも出来得るだけ筆画を省略す。略画中の略画なり。しかしてこのうちいくばくの趣味あり、いくばくの趣向あり。廬雪等の筆縦横自在なれども却ってこの趣致を存せざるが如し。或は余の性簡単を好み天然を好むに偏するに因るか。 (五月十二日)  】

【 二十七
〇枕許に『光琳画式』と『鴛邨画譜』と二冊の彩色本があって毎朝毎晩それをひろげて見ては無上の楽しみとして居る。ただそれが美しいばかりでなくこの小冊子でさえも二人の長所が善く比較せられて居るのでその点も大いに面白味を感ずる。ことに両方に同じ画題〈梅、桜、百合、椿、萩、鶴など〉が多いので比較するには最も便利に出来て居る。いうまでもないが光琳は光悦、宗達などの流儀を真似たのであるとはいえとにかく大成して光琳派という一種無類の画を書き始めたほどの人であるからすべての点に創意が多くして一々新機軸を出して居るところはほとんど比肩すべき人を見出せないほどであるからとても抱一(ほういつ)などと比すべきものではない、抱一の画の趣向なきに反して光琳の画には一々意匠惨憺たるものがあるのは怪しむに足らない。そこで意匠の点はしばらく措いて筆と色との上から見たところで、光琳は筆が強く抱一は筆が弱い、色においても光琳が強い色ことに黒い色を余計に用いはせぬかと思われる。従て草木などの感じの現れ方も光琳はやはり強いところがあって抱一はただなよなよとして居る。この点においては勿論どちらが勝って居ると一概にいうことは出来ぬ。強い感じのものならは光琳の方が旨いであろう。弱い感じのものならば抱一の方が旨いであろう。それから形似の上においては草木の真を写して居ることは抱一の方が精密なようである。要するに全体の上において画家としての値打はもちろん抱一は光琳に及ばないが、草花画書きとしては抱一の方が光琳に勝って居る点が多いであろう。抱一の草花は形似の上においても精密に研究が行届いてあるし輪廓の書き具合も光琳よりは柔かく書いてあるし、彩色もまた柔かく派手に彩色せられて居る。ある人はまるで魂のない画だというて抱一の悪口をいうかも知れぬが、草花のごときは元来なよなよと優しく美しいのがその本体であって魂のないところがかえって真を写して居るところではあるまいか、この二小冊子を比較してみても同じ百合の花が光琳のは強い線で書いてあり抱一のは弱い線で書いてある。同じ萩の花でも光琳のは葉が硬いように見えて抱一のは葉が軟かく見える。つまり萩のような軟かい花は抱一の方が最も善く真の感じを現して居る。『篤邨画譜』の方に枝垂れ桜の画があってその木の枝をわずかに二、三本画いたばかりで枝全体にはことごとく小さな薄赤い蕾が付いて居る。その優しさいじらしさは何ともいえぬ趣きがあってこうもしなやかに書けるものかと思うほどである。『光琳画式』の桜はこれに比するとよほど武骨なものである。しかしながら『光琳画式』にある画で藍色の朝顔の花を七、八輪画きその下に黒と白の狗ころが五匹ばかり一緒になってからかい戯れて居る意匠などというものは別に奇想でも何でもないが、実にその趣味のつかまえどころはいうにいわれぬ旨味があって抱一などは夢にもその味を知ることは出来ぬ。 (六月八日)  】
(正岡子規著『病牀六尺』抜粋)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-09-10



(再掲)

 この『鶯邨画譜』所収「糸桜と短冊図」の「短冊」に書かれている句は、抱一句集『屠龍之技』に、次のように前書きを付して収載されている。

   墨子悲絲
 そめやすき人の心やいとざくら

 これは、抱一(俳号・屠龍)が師筋に仰いでいる其角流の「謎句」的な句作りである。そして、抱一に負けず劣らずの其角好きの蕪村にも、次の一句がある。

  恋さまざま願ひの糸も白きより (蕪村 安永六年、一七㈦七、六十二歳)

 この蕪村の句の季語は「願ひの糸」(七夕の、願いを祈る五色の糸)である。句意は、「七夕の宵に、女子たちが、さまざまな願い事を五色の糸に託しているが、今は無垢の白い糸も、やがて様々な恋模様を経て、一つのいる色に染め上げて行くことだろう。そのことを中国の墨子さんは嘆じているが、恋も人生も、その定めにあがなうことはできないであろう」というようなことであろう。

 蕪村には、もう一句ある。

  梅遠近(おちこち)南(みんなみ)すべく北(きた)すべく
                  (蕪村 安永六年、一七㈦七、六十二歳)

 「梅遠近(おちこち)」の「チ音」、「南(みんなみ)すべく北(きた)すべく」の「ク音」と、リズムの良い句である。句意は、「梅の花が近くにも遠くにも咲いている。さい、南の道を行こうか、それとも、北の道を行こうか、ほとほと困ってしまう。そのことを中国の揚子さんは嘆じているが、そういう逡巡もまた、人間の定めのようなもので、それにあがなうことはできないであろう」というようなことになろう。

 この蕪村の二句は、中国の古典の『蒙求(もうぎゅう)』に出て来る、「墨子悲絲(ぼくしひし)」、「楊朱泣岐(ようしゅきゅうき)」という故事に由来があるものである。

 淮南子曰 (えなんじにいわく)
 楊子見逵路而哭之(ようしきろをみてこれをこくす)
 為其可以南可以北(そのもってみなみにすべく、もってきたにすべきがなり)
 墨子見練絲而泣之(ぼくしれんしをみてこれをなく)
 為其可以黄可以黒(そのもってきにすべく、もってくろにすべきがなり)
 高誘曰(こういういわく)
 憫其本同而末異(きほんおなじくして、すえことなるをあわれむなり)

 蕪村は、享保元年(一七一六)の生まれ、抱一は、宝暦十一年(一七六一)の生まれ、蕪村が四十五歳年長である。抱一の俳諧の師の馬場存義は、元禄十六年(一七〇三)生まれ、
蕪村の俳諧の師の早野巴人は、延宝四年(一六七六)生まれで、巴人が亡くなった後の、実質的な巴人俳諧(夜半亭俳諧)の継承者は存義であった。
こと座を同じくする、いわば、兄弟子というような関係にある。
 すなわち、江戸時代中期の「画・俳」二道を究めた蕪村と、江戸時代後期の、これまた「画・俳」二道を究めた抱一とは、「其角・巴人・存義」を介して、こと「俳諧」の世界においては、身内のような関係にあったということになろう。

 ここまで来ると、冒頭の『鶯邨画譜』の「糸桜と短冊図」と、『屠龍之技』の「糸桜之句」については、もはや、付け加えるものもなかろう。
それよりも、抱一関連のもので「蕪村」に関するものは、まず目にすることは出来ないが、「画・俳」二道を究めた同門ともいうべき、「中興俳諧」と「日本南画」の旗手ともいうべき蕪村への、「中興俳諧(芭蕉復古俳諧)と其角俳諧(洒落・粋俳諧)との二道」と「江戸琳派(その創始者)」を目指している抱一の、一つのメッセージと解することも出来るのかも知れない。

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抱一画集『鶯邨画譜』所収「糸桜と短冊図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

その二 雨華庵(抱一庵)と根岸庵(子規庵)そして新吉原

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https://blog.goo.ne.jp/87hanana/e/5009c26242c14f72aff5e7645a2696a9


 上記は、谷文晁関係の「江戸・足立 谷家関係地図」のものであるが、ここに、「下谷三幅対」と言われた、「酒井抱一(宅)」(雨華庵)と「谷文晁(宅)」(写山楼)と「亀田鵬斎(宅)」の、それぞれの住居の位置関係が明瞭になって来る。
 その他に、「鵬斎・抱一・文晁」と密接な関係にある「大田南畝」や「市河米庵」などとの、それぞれの住居の位置関係も明瞭になって来る。その記事の中に、「文晁の画塾・写山楼と酒井抱一邸は、3キロくらい。お隣は、亀田鵬斎(渥美国泰著『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達』には、現在の台東区根岸3丁目13付近)」とある。
 この「酒井抱一宅・亀田鵬斎宅」は、旧「金杉村」で、正岡子規の「根岸庵」は、旧「谷中村」であるが、この地図の一角に表示することが出来るのかも知れない。また、当時の江戸化政期文化のメッカである「新吉原」も表示することが出来るのかも知れない。
なお、この地図に出て来る、千住宿の「千住酒合戦」については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-30

 また、次のアドレスで「下谷の三幅対」(鵬斎・抱一・文晁)について触れているが、そのうちの「谷文晁を巡る人物群像」などを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-28

(再掲)

「谷文晁を巡る人物群像」
松平楽翁→木村蒹葭堂→亀田鵬斎→酒井抱一→市河寛斎→市河米庵→菅茶山→立原翠軒→古賀精里→香川景樹→加藤千蔭→梁川星巌→賀茂季鷹→一柳千古→広瀬蒙斎→太田錦城→山東京伝→曲亭馬琴→十返舎一九→狂歌堂真顔→大田南畝→林述斎→柴野栗山→尾藤二洲→頼春水→頼山陽→頼杏坪→屋代弘賢→熊阪台州→熊阪盤谷→川村寿庵→鷹見泉石→蹄斎北馬→土方稲嶺→沖一峨→池田定常→葛飾北斎→広瀬台山→浜田杏堂
(文晁門四哲) 渡辺崋山・立原杏所・椿椿山・高久靄厓
(文晁系一門)島田元旦・谷文一・谷文二・谷幹々・谷秋香・谷紅藍・田崎草雲・金子金陵・鈴木鵞湖・亜欧堂田善・春木南湖・林十江・大岡雲峰・星野文良・岡本茲奘・蒲生羅漢・遠坂文雍・高川文筌・大西椿年・大西圭斎・目賀田介庵・依田竹谷・岡田閑林・喜多武清・金井烏洲・鍬形蕙斎・枚田水石・雲室・白雲・菅井梅関・松本交山・佐竹永海・根本愚洲・江川坦庵・鏑木雲潭・大野文泉・浅野西湖・村松以弘・滝沢琴嶺・稲田文笠・平井顕斎・遠藤田一・安田田騏・歌川芳輝・感和亭鬼武・谷口藹山・増田九木・清水曲河・森東溟・横田汝圭・佐藤正持・金井毛山・加藤文琢・山形素真・川地柯亭・石丸石泉・野村文紹・大原文林・船津文淵・村松弘道・渡辺雲岳・後藤文林・赤萩丹崖・竹山南圭・相沢石湖・飯塚竹斎・田能村竹田・建部巣兆

 吉原の太鼓聞こえて更くる夜にひとり俳句を分類すれば (正岡子規・明治三十一年)
 虫鳴(なく)や俳句分類の進む夜半          (同上・ 明治三十年) 


この短歌と句とは、「俳句革新・短歌革新」を目指した正岡子規の、その本拠地たる「病牀六尺」の、その「根岸庵」(子規宅)でのものである。

 この句の、明治三十年(一八九七)の「正岡子規関係年表」(『子規山脈(坪内稔典著)』)には、「三月二十七日に腰部の手術。四月二十日、医師に講話を禁止される。四月下旬、再手術。四月十三日、『日本』に『俳人蕪村』の連載を始める(十二月二十九日まで十九回)」とある。時に、子規、三十一歳の時で、子規の「俳人蕪村再発見」のスタートの年であった。
 続く、その翌年の、この歌を作った明治三十一年(一八九七)には、「二月十二日、『日本』に『歌よみに与ふる書』を発表(三月四日まで十回)」と、「俳句革新」に続く、「短歌革新」の、その狼煙を上げた年である。

 よし原に花を咲かせて早帰り        (谷文晁)
 居過(いすご)して花のあはれを聞く夜かな (酒井抱一)

 『本朝画人伝巻一(村松削風著)』で紹介されている、若き日の文晁と抱一との吉原での作である。そこで、「文晁は遊里に足を入れても相方は一夜限り、(中略)抱一は正反対、登楼したとなると帰ることを忘れて流連荒亡日のたつも知らないのである」と、両者の相違を紹介しての、文晁と抱一の応酬の句が上記のものである。
 しかし、抱一については、『『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達(渥美国泰著)』で、次のような記述もなされている。

「よし原へ泊り給ふ事ハ一夜もなく、四ツ時(今の午後十時頃)前ニ御帰り被成ける。與助と中下男、酒に酔て歩行覚束なき時ハ、與助壱人駕籠へ乗せ、御自身ハ歩行ミて帰り給ふ」

 ほれもせずほれられもせずよし原に
          酔うてくるわの花の下蔭  (尻焼猿人=酒井抱一)

 この狂歌は、『絵本詞の花』(宿屋飯盛撰 喜多川歌麿画)所収の、天明七年、抱一、二十七歳の頃の作である。

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国立国会図書館デジタルコレクション『絵本詞の花』(版元・蔦屋重三郎編)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533129

 上記は、吉原引手茶屋の二階の花見席を描いた喜多川歌麿の挿絵である。この花見席の、左端の後ろ向きになって顔を見せていないのが、「尻焼猿人=酒井抱一」のようである(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂刊)』)。

 酒井抱一は、ともすると、上記の『本朝画人伝巻一(村松削風著)』のように、「吉原遊興の申し子」のように伝聞されているが、その実態は、この狂歌の、「ほれもせずほれられもせずよし原に 酔うてくるわの花の下蔭」の、この「花の下蔭」(姫路城主酒井雅樂頭家の「次男坊」)という、「日陰者」(「日陰者」として酒井家を支える)としての、そして、上記の、「よし原へ泊り給ふ事ハ一夜もなく」、そして、「與助壱人駕籠へ乗せ、御自身ハ歩行ミて帰り給ふ」ような、常に、激情に溺れず、細やかな周囲の目配りを欠かさない、これぞ、「江戸の粋人(人情の機微に通じたマルチタレント)」というのが、その実像のように思われて来る。

 そして、酒井抱一を、「江戸の粋人(人情の機微に通じた時代を先取りするマルチタレント)」とするならば、正岡子規は、同じ、江戸(東京)の、四国(松山藩)から出て来た、その「江戸(東京)」の、その「下谷根岸」の、その「東京の粋人(時代を先取りするマルチタレント)」であったという思いを深くする。

 上記の、江戸の粋人の「吉原の尻焼猿人(酒井抱一)」に対しての、東京の粋人の「正岡子規」のそれは、次の、「野球姿の正岡子規像」が、それに相応しい。

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正岡子規、野球姿の銅像(道後放生園)
http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-1872.html

その三 下谷の三幅対(三人組)「鵬斎・抱一・文晁」と「建部巣兆」(「千住連」宗匠)

写山楼.jpg

https://blog.goo.ne.jp/87hanana/e/5009c26242c14f72aff5e7645a2696a9

 前回に引き続き、この谷文晁関係の「江戸・足立 谷家関係地図」を見て行くと、この上部の「坂川屋鯉隠(りいん)」は、日光街道の宿場町「千住宿」の「青物問屋坂川屋主人・山崎利右衛門」の雅号(俳号)である。
 この千住宿には、亀田鵬斎の義弟の俳人・建部巣兆(たけべそうちょう)が、俳諧グループ「千住連」を主宰していて、鯉隠は、そのグループの有力メンバーの一人なのである。
 この鯉隠が中心になって、「千住酒合戦」のイベントが興行されたことは、先に触れた。そのイベント合戦記「高陽闘飲図鑑(こうようとういんずかん)」(大田南畝記・歌川季勝画)が、次のアドレスで見ることができる。

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/wo06/wo06_01594/index.html

高陽闘飲図一.jpg

「高陽闘飲図巻」(大田南畝記・歌川季勝画)(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01594/wo06_01594_p0007.jpg

 上記のイベント会場入り口の看板「不許悪客下戸理窟入菴門(下戸・理屈ノ悪客菴門ニ入ルコトヲ許サズ)」の書は「抱一書」(酒井抱一書)のようである。左端の「後水鳥記」は、大田南畝のイベント観戦記のようである。
 この「後水鳥記」の出だしの、「文化十二のとし」(一八一五)十月二十一日に、このイベントは興行された。この一年前の、文化十一年(一八一四)十一月十七日に、建部巣兆は亡くなっている、享年、五十四歳で、巣兆は抱一と同じく、宝暦十一年(一七六一)の生まれである。
 そして、上記のイベント会場の入り口の看板「「不許悪客下戸理窟入菴門(下戸・理屈ノ悪客菴門ニ入ルコトヲ許サズ)」は、巣兆の俳諧グループ「千住連」の本拠地の、巣兆の庵「秋香園」に掲げられていたものを、そのイベント会場の入り口に掲げたようである(増田昌三郎稿「江戸の画俳人建部巣兆とその歴史的背景」)。

  悼巣兆 
 栴檀(せんだん)の木屑に残る寒さかな(『軽居館句藻』「氷の枝」) 

 この句は、抱一の巣兆が亡くなった時の悼句である。この句の「栴檀」は、「栴檀は双葉より芳し(大成する人は幼少のときから優れている)」を踏まえてのものであろう。

  二月十七日追福秋香庵巣兆
 名は残る楝(おうち)の実の木すえ(木末)哉(増補版『屠龍之技』国立国会図書館蔵)

 この句は、抱一の巣兆の百箇日の追善の句である。この句の「楝(樗)」は「栴檀の古名」で、先の悼句を踏まえたものであろう。そして、この両句とも、「巣兆の『栴檀は双葉より芳し』の名声は、その死後も、永遠に変わることがない」というようなことであろう。

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「高陽闘飲図巻」(大田南畝記・歌川季勝画)(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01594/wo06_01594_p0014.jpg

 この「高陽闘飲図巻」中の、桟敷席で酒合戦を観覧しているのは、右から、「文晁・鵬斎・抱一」の下谷の三幅対(三人組)の面々であろう。そして、鵬斎と抱一との間の人物は、大田南畝、抱一の後ろ側の女性と話をしている人物は、文晁の嗣子・谷文一なのかも知れない。
 そして、この抱一像は、法衣をまとった「権大僧都等覚院文詮暉真(ぶんせんきしん)・抱一上人」の風姿で、鵬斎も文晁も、共に、羽織り・袴の正装であるが、この酒合戦の桟敷の主賓席では一際異彩を放ったことであろう(その上に、抱一は「下戸」で酒は飲めないのである)。
 この時の、抱一像について、別種の「文晁(又は文一)作」とされているものを、下記のアドレスで紹介している(しかし、当日の写生図は、この図巻の「文晁・文一合作」のものが基本で、それを模写しての数種の模本のものなのかも知れない)。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-30

 ここで、文化十二年(一八一五)の、この海外にまで名を馳せている(ニューヨーク公共図書館スペンサーコレクション蔵本)、この「千住酒合戦」(「高陽闘飲」イベント)は、
「酒飲みで、酒が足りなくなると羽織を脱いで妻に質に入れさせ、酒に変えたという」(増田昌三郎稿「江戸の画俳人建部巣兆とその歴史的背景」・ウィキペディア)の、「千住連」の俳諧宗匠・「秋香庵巣兆」(建部巣兆)の、その一周忌などに関連するイベントのような、そんな思いもして来る。
 さらに、続けて、この「高陽闘飲図巻」の、次の「太平餘化」の「題字」は、谷文晁の書のようである。

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「高陽闘飲図巻」(大田南畝記・歌川季勝画)(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01594/wo06_01594_p0002.jpg

 この文晁書の「太平餘化」が何を意味するのかは不明であるが、建部巣兆の義兄の、そして「下谷三幅対(鵬斎・抱一・文晁)」の長兄たる亀田鵬斎の雅号の一つの「太平酔民」などが背景にあるもののように思われる。

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「高陽闘飲図巻」(大田南畝記・歌川季勝画)(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01594/wo06_01594_p0003.jpg

 これは、文晁の題字「太平餘化」の後に続く、鵬斎の「高陽闘飲序」(序文)である。ここには、巣兆に関する記述は見当たらない。「千寿(住)駅中六亭主人(注・「中六」こと飛脚問屋「中屋」の隠居・六右衛門)」の「還暦を祝う酒の飲み比べの遊宴」ということが紹介されている。
 この「高陽闘飲」の「高陽」は『史記』に出典があって、「われは高陽の酒徒、儒者にあらず」に因るものらしく、「千住宿の酒徒」のような意味なのであろうが、この「序」を書いた鵬斎自身を述べている感じでなくもない。
 この鵬斎の「序」に、前述の抱一の会場入り口の看板「不許悪客下戸理窟入菴門(下戸・理屈ノ悪客菴門ニ入ルコトヲ許サズ)」の図があって、次に、南畝の「後水鳥記」が続く。
 この「後水鳥記」の「水鳥」は、「酒」(サンズイ=水+鳥=酉)の洒落で、この「後」は、延喜年間や慶安年間の「酒合戦記」があり、それらの「後水鳥記」という意味のようである。
 そして、この南畝の「後水鳥記」と併せ、「酒合戦写生図」(谷文晁・文一合作)が描かれている。
 この「酒合戦写生図」(谷文晁・文一合作)の後に、大窪詩仏の「題酒戦図」の詩(漢詩)、狩野素川筆の「大盃(十一器)」、そして、最後に、市河寛斎の「跋」(漢文)が、この図巻を締め括っている。
 この図巻に出てくる「抱一・鵬斎・文晁・文一・南畝・詩仏・素川・寛斎」と、さながら、江戸化政期のスーパータレントが、当時の幕藩体制の封建社会の身分制度(男女別・士農工商別)に挑戦するように、この一大イベントに参加し、その「高陽闘飲図巻」を合作しているのは何とも興味がつきないものがある(これらに関して、下記アドレスのものを再掲して置きたい)。
 なお、この「高陽闘飲図巻」については、全文翻刻はしていないが、『亀田鵬斎(杉村英治著・三樹書房)』が詳しい。
 また、大窪詩仏などについては、下記のアドレスの『江戸流行料理通大全』・ 「食卓を囲む文人たち」で触れている。なお、この図中の「酒井抱一」とも見られていたのは、「鍬形蕙斎」であることは特記して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-25

 さて、冒頭の、谷文晁関係の「江戸・足立 谷家関係地図」に戻って、その左上に書かれている「船津文渕」については、『日本史リブレット人054酒井抱一(玉蟲敏子著)』の「足立・千住と抱一門の関わり」の中で、「近年の足立区立郷土博物館の調査研究」などを踏まえての記述がなされている。

(再掲)
 これらの、江戸の文人墨客を代表する「鵬斎・抱一・文晁」が活躍した時代というのは、それ以前の、ごく限られた階層(公家・武家など)の独占物であった「芸術」(詩・書・画など)を、四民(士農工商)が共用するようになった時代ということを意味しよう。
 それはまた、「詩・書・画など」を「生業(なりわい)」とする職業的文人・墨客が出現したということを意味しよう。さらに、それらは、流れ者が吹き溜まりのように集中して来る、当時の「江戸」(東京)にあっては、能力があれば、誰でもが温かく受け入れられ、その才能を伸ばし、そして、惜しみない援助の手が差し伸べられた、そのような環境下が助成されていたと言っても過言ではなかろう。
 さらに換言するならば、「士農工商」の身分に拘泥することもなく、いわゆる「農工商」の庶民層が、その時代の、それを象徴する「芸術・文化」の担い手として、その第一線に登場して来たということを意味しよう。
 すなわち、「江戸(東京)時代」以前の、綿々と続いていた、京都を中心とする、「公家の芸術・文化」、それに拮抗しての全国各地で芽生えた「武家の芸術・文化」が、得体の知れない「江戸(東京)」の、得体の知れない「庶民(市民)の芸術・文化」に様変わりして行ったということを意味しょう。


(追記)「後水鳥記」(大田南畝記)

http://www.j-texts.com/kinsei/shokuskah.html#chap03

 後水鳥記
  文化十二のとし乙亥霜月廿一日、江戸の北郊千住のほとり、中六といへるものの隠家にて酒合戦の事あり。門にひとつの聯をかけて、
不許悪客〔下戸理窟〕入庵門 南山道人書
としるせり。玄関ともいふべき処に、袴きたるもの五人、来れるものにおのおのの酒量をとひ、切手をわたして休所にいらしめ、案内して酒戦の席につかしむ。白木の台に大盃をのせて出す。其盃は、江島杯五合入。鎌倉杯七合入。宮島杯一升入。万寿無彊盃一升五合入。緑毛亀杯二升五合入。丹頂鶴盃三升入。をの/\その杯の蒔絵なるべし。
干肴は台にからすみ、花塩、さゝれ梅等なり。又一の台に蟹と鶉の焼鳥をもれり。羹の鯉のきりめ正しきに、はたその子をそへたり。これを見る賓客の席は紅氈をしき、青竹を以て界をむすべり。所謂屠龍公、写山、鵬斎の二先生、その外名家の諸君子なり。うたひめ四人酌とりて酒を行ふ。玄慶といへる翁はよはひ六十二なりとかや。酒三升五合あまりをのみほして座より退き、通新町のわたり秋葉の堂にいこひ、一睡して家にかへれり。大長ときこえしは四升あまりをつくして、近きわたりに酔ひふしたるが、次の朝辰の時ばかりに起きて、又ひとり一升五合をかたぶけて酲をとき、きのふの人々に一礼して家にかへりしとなん。掃部宿にすめる農夫市兵衛は一升五合もれるといふ万寿無彊の杯を三つばかりかさねてのみしが、肴には焼ける蕃椒みつのみなりき。つとめて、叔母なるもの案じわづらひてたづねゆきしに、人より贈れる牡丹餅といふものを、囲炉裏にくべてめしけるもおかし。これも同じほとりに米ひさぐ松勘といへるは、江の島の盃よりのみはじめて、鎌倉宮島の盃をつくし萬寿無彊の杯にいたりしが、いさゝかも酔ひしれたるけしきなし。此の日大長と酒量をたゝかはしめて、けふの角力のほてこうてをあらそひしかば、明年葉月の再会まであづかりなだめ置きけるとかや。その証人は一賀、新甫、鯉隠居の三人なり。小山といふ駅路にすめる佐兵衛ときこえしは、二升五合入といふ緑毛亀の盃にて三たびかたぶけしとぞ。北のさと中の町にすめる大熊老人は盃のの数つもりて後、つゐに萬寿の杯を傾け、その夜は小塚原といふ所にて傀儡をめしてあそびしときく。浅草みくら町の正太といひしは此の会におもむかんとて、森田屋何がしのもとにて一升五合をくみ、雷神の門前まで来りしを、其の妻おひ来て袖ひきてとゞむ。其辺にすめる侠客の長とよばるゝ者来りなだめて夫婦のものをかへせしが、あくる日正太千住に来りて、きのふの残り多きよしをかたり、三升の酒を升のみにせしとなん。石市ときこえしは万寿の杯をのみほして酔心地に、大尽舞のうたをうたひまひしもいさましかりき。大門長次と名だゝるをのこは、酒一升酢一升醤油一升水一升とを、さみせんのひゞきにあはせ、をの/\かたぶけ尽せしも興あり。かの肝を鱠にせしといひしごとく、これは腸を三杯漬とかやいふものにせしにやといぶかし。ばくろう町の茂三は緑毛亀をかたぶけ、千住にすめる鮒与といへるも同じ盃をかたぶけ、終日客をもてなして小杯の数かぎりなし。天五といへるものは五人とともに酒のみて、のみがたきはみなたふれふしたるに、おのれひとり恙なし。うたひめおいくお文は終日酌とりて江の島鎌倉の盃にて酒のみけり。その外女かたには天満屋の美代女、万寿の盃をくみ酔人を扶け行きて、みづから酔へる色なし。菊屋のおすみは緑毛亀にてのみ。おつたといひしは、鎌倉の盃にてのみ、近きわたりに酔ひふしけるとなん。此外酒をのむといへども其量一升にもみたざるははぶきていはず。写山、鵬斎の二先生はともに江の島鎌倉の盃を傾け、小杯のめぐる数をしらず。帰るさに会主より竹輿をもて送らんといひおきてしが、今日の賀筵に此わたりの駅夫ども、樽の鏡をうちぬき瓢もてくみしかば、駅夫のわづらひならん事をおそれしが、果してみな酔ひふしてこしかくものなし。この日調味のことをつかさどれる太助といへるは、朝より酒のみてつゐに丹頂の鶴の盃を傾けしとなん。一筵の酒たけなはにして、盃盤すでに狼籍たり。門の外面に案内して来るものあり。たぞととへば会津の旅人河田何がし、此の会の事をきゝて、旅のやどりのあるじをともなひ推参せしといふ。すなはち席にのぞみて江の島鎌倉よりはじめて、宮島万寿をつくし、緑毛の亀にて五盃をのみほし、なほ丹頂の鶴の盃のいたらざるをなげく。ありあふ一座の人々汗を流してこれをとゞむ。かの人のいふ。さりがたき所用ありてあすは故郷に帰らんとすれば力及ばす。あはれあすの用なくば今一杯つくさんものをと一礼して帰りぬ。人々をして之をきかしむるに、次の日辰の刻に出立せしとなん。この日文台にのぞみて酒量を記せしものは、二世平秩東作なりしとか。
むかし慶安このとし、大師河原池上太郎左衛門底深がもとに、大塚にすめる地黄坊樽次といへるもの、むねとの上戸を引ぐしおしよせて酒の戦をしき。犬居目礼古仏座といふ事水鳥記に見えたり。ことし鯉隠居のぬし来てふたゝびこのたゝかひを催すとつぐるまゝに、犬居目礼古仏座、礼失求諸千寿野といふ事を書贈りしかば、其の日の掛物とはせしときこへし。かゝる長鯨の百川を吸ふごときはかりなき酒のともがら、終日しづかにして乱に及ばず、礼儀を失はざりしは上代にもありがたく、末代にまれなるべし。これ会主中六が六十の寿賀をいはひて、かゝる希代のたはむれをなせしとなん。かの延喜の御時亭子院に酒たまはりし記を見るに、その筵に応ずるものわづかに八人、満座酩酊して起居静ならず。あるは門外に偃臥し、あるは殿上にえもいはぬものつきちらし、わづかにみだれざるものは藤原伊衡一人にして、騎馬をたまはりて賞せられしとなん。かれは朝廷の美事にして、これは草野の奇談なり。今やすみだ川のながれつきせず、筑波山のしげきみかげをあふぐ武蔵野のひろき御めぐみは、延喜のひじりの御代にたちまさりぬべき事、此一巻をみてしるべきかも。
               六十七翁蜀山人
               緇林楼上にしるす


その四 根岸の「抱一・蠣潭・其一」と千住の「建部巣兆」

根岸略図.jpg

国立国会図書館デジタルコレクション「根岸略図」(文政三年刻)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9369588

 これは、文政三年(一八二〇)版の「根岸略図である。時に、抱一は六十歳であった、抱一が、この根岸の里に引っ越して来たのは、文化六年(一八〇九)、四十九歳の時で、『本朝画人伝巻一(村松削風著)』では、次のように記述されている。

「文化六年抱一は根岸大塚(一名鶯塚)へ移った。現今の下根岸である。居宅を新築したわけではなく、従来あった農家を購ってこれに茶席を建て増したのみであった。これぞ名高き『雨華庵』である。また、これより地名になぞられて『鶯邨(村)』とも号した。誰袖(たがそで)を入れて采箒の任をとらしめたのもこのころのことであろう。誰袖は本名おちか、号小鸞(しょうらん)女史、のちに剃髪して妙華尼と号した。彼女も抱一の画弟子であった。抱一は同時に新造禿(かむろ)まで引取って依然として廓(さと)言葉を使わせていたのである。」

 上記の地図の「抱一」の下に「其一」とある。この其一は、抱一門の筆頭格の高弟・鈴木其一(宅)であろう。其一が抱一の内弟子となったのは、文化十年(一八一三)、十八歳の時で(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収「年譜」)、この家は、当初、其一が養子となり跡継ぎとなる鈴木蠣潭(当時十八歳)が、「(酒井家)十三人扶持・中小姓」として抱一の「御用人(付人)」となっているので(同上「年譜)、抱一の最古参弟子の鈴木蠣潭が、移り住んでいた家なのかも知れない。
 この蠣潭は、文化十四年(一八一七)、二十六歳の若さで急逝し、その年の「年譜」に、「鈴木其一、抱一の媒介で、蠣潭の姉りよと結婚し、鈴木家を継ぐ。抱一の付人となり、下谷金杉石川屋敷に住む」と記載されている。
 蠣潭の急逝について、「亀田鵬斎年譜」(『亀田鵬斎(杉村英治著)』)に、「六月二十五日、鈴木蠣潭没す。年二十六、抱一に侍して執事を勤め、絵画を学ぶ。墓に、鵬斎の碑文、抱一書の辞世の句を刻む。なみ風もなくきへ行(ゆく)や雲のみね 蠣潭」と記載されている。
 この辞世の句からして、蠣潭は俳諧も抱一から薫陶を受けていたことが了知される。蠣潭は、抱一の書簡などから、抱一の代作などをしばしば依頼されており、単なる付人というよりも、抱一の代理人(「亀田鵬斎年譜」の「執事」)のような役割を担い、抱一が文化十二年(一八一五)に主宰した光琳百回忌事業などにおいても、実質的な作業の中心になっていたことであろう。
 また、この「鵬斎年譜」から、蠣潭の墓石に、鵬斎が碑文を書き、蠣潭の辞世の句(「なみ風もなくきへ行(ゆく)や雲のみね」)を書していることからすると、鵬斎と「抱一・蠣潭」とは、親しい家族ぐるみの交遊関係にあったことが了知される。
 その「鵬斎(宅)」が、冒頭の「根岸略図」の中央(抱一・其一宅の右下方向)に出ている。その左隣の「北尾」は、浮世絵や黄表紙の挿絵で活躍した北尾重政(宅)で、重政の俳号は「花覧(からん)」といい、俳諧グループに片足を入れていたのであろう(『日本史リブレット人054酒井抱一(玉蟲敏子著)』)。
  この同書(玉蟲著)の別の「下谷根岸時代関係地図」を見ていくと、冒頭の「根岸略図」
(部分図)の上部の道路は「金杉通り」で、下部の蛇行した川は「音無(おとなし)川」のようである。この「金杉通り」の中央の上部に、「吉原トオリ」というのが「〇囲みの東」の方に伸びている。この路を上っていくと「新吉原」に至るのであろう。
 また、この地図の上部の左端に「日本ツツミ」とあり、これは「新吉原」そして、隅田川に通ずる「日本堤」なのであろう。その隅田川に架橋する千住大橋を渡ると、建部巣兆らの「千住連」(俳諧グループ)の本拠地たる宿場町・千住に至るということになる。

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『曽波可理 / 巣兆 [著] ; 国むら [編]』「鵬斎・叙」(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06665/he05_06665.html

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『曽波可理 / 巣兆 [著] ; 国むら [編]』「抱一・巣兆句集序一」(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06665/he05_06665_p0004.jpg


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『曽波可理 / 巣兆 [著] ; 国むら [編]』「抱一・巣兆句集序二」(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06665/he05_06665_p0005.jpg

『江戸文芸之部第27巻日本名著全集俳文俳句集』所収「曽波可理(そばかり)」から、上記の抱一の「巣兆句集序」の翻刻文を掲載して置きたい。

【 巣兆句集序
秋香庵巣兆は、もと俳諧のともたり。花晨月夕に句作して我に問ふ。我も又句作して彼に問ふ。彼に問へば彼譏(そし)り、我にとへば我笑ふ。我畫(かか)ばかれ題し、かれ畫ば我讃す。かれ盃を挙げれば、、われ餅を喰ふ。其草稿五車に及ぶ。兆身まかりて後、国村師を重ずるの志厚し。一冊の草紙となし梓にのぼす。其はし書きせよと言ふ。いなむべきにあらず。頓(とみ)に筆を採て、只兆に譏られざる事をなげくのみなり
文化丁丑五日上澣日        抱一道人屠龍記 (文詮印)   】

 ついでに、上記の「巣兆発句集 自撰全集」の冒頭の句も掲載して置きたい。

【 巣兆発句集 自撰全集
   歳旦
 大あたま御慶と来けり初日影
  俊成卿
   玉箒はつ子の松にとりそへて
      君をそ祝う賤か小家まで
 けふとてぞ猫のひたひに玉はゝき
 竈獅子が頤(あご)ではらひぬ門の松          】

 建部巣兆は、加舎白雄に俳諧を学び、その八大弟子の一人とされ、夏目成美・鈴木道彦と共に江戸の三大家に数えられ、俳人としては、名実共に、抱一を上回るとして差し支えなかろう。
 抱一は、姫路城十五万石の上流武家の生まれ、巣兆の父は、書家として知られている山本龍斎(山本家江戸本石町の名主)、その生まれた環境は違うが、その生家や俗世間から身を退き(隠者)、共に、傑出した「画・俳」両道の「艶(優艶)」の世界に生きた「艶(さや)隠者」という面では、その生き方は、驚くほど共通するものがある。
 鵬斎は、上記の巣兆句集『曽波可理』の「叙」の中で、巣兆を「厭世之煩囂」(世の煩囂(はんきょう)を厭ひて)「隠干関屋之里」(関谷の里に隠る)と叙している。抱一は、三十七際の若さで「非僧非俗」の本願寺僧の身分を取得し、以後、「艶隠者」としての生涯を全うする。
 この同じ年齢の、共に、この艶隠者としての、この二人は、上記の抱一の「序」のとおり、その俳諧の世界にあって、共に、「花晨月夕に句作して我(抱一)に問ふ。我も又句作して彼(巣兆)に問ふ。彼に問へば彼譏(そし)り、我にとへば我笑ふ。我畫(かか)ばかれ題し、かれ畫ば我讃す。かれ盃を挙げれば、、われ餅を喰ふ」と、相互に肝胆相照らし、そして、相互に切磋琢磨する、真の同朋の世界を手に入れたのであろう。
 これは、相互の絵画の世界においても、巣兆が江戸の「蕪村」を標榜すれば、抱一は江戸の「光琳」を標榜することとなる。巣兆は谷文晁に画技を学び、文晁系画人の一人ともされているが、そんな狭い世界のものではない。また、抱一は、光琳・乾山へ思慕が厚く、「江戸琳派」の創始者という面で見られがちであるが、それは、上方の「蕪村・応挙」などの多方面の世界を摂取して、いわば、独自の世界を樹立したと解しても差し支えなかろう。
 ここで、特記して置きたいことは、享和二年(一八〇二)に、上方の中村芳中が江戸に出て来て『光琳画譜』(加藤千蔭「序」、川上不白「跋」)を出版出来た背後には、上方の木村蒹葭堂を始めとする俳諧グループと巣兆を始めとする江戸の俳諧グループとの、そのネットワークの結実に因るところが多かったであろうということである。
 そして、巣兆と中村芳中との接点は、寛政十二年(一八〇〇)に出版された斬新な編纂による撰集『徳萬歳(巣兆編)』の挿絵は芳中の「徳萬歳」なのである。
この撰集の斬新さは、巣兆の序(「名寄せの大例」)で、「句作と作者を引(ひき)わかちて」その句作のみを「心しづかにことごとの句意を感味すべく」それによって「初心と手だれの趣向を知る事」もまた「よき修行ならずや」と考えて、こうした奇抜な編纂を思いついたと述べている。
 「目次」に当たるところに「作者」のみの記載があり、「本文)」のところには無名の「句作」が羅列されていて、その「句作」を観賞しながら、その「作者」が誰かを推量させると、どうにも、洒落っ気も度が過ぎているような感じでなくもない。
 その「目次」(俳人名)を見て行くと、「作者倣句順」(八十七名)中に、「千影(加藤千蔭?)・大江丸(大伴大江丸)・芳中(中村芳中)・文兆(谷文晁?)・道彦(鈴木道彦)」、「都八十余人」中に、「成美(夏目成美)・完来(大島完来)・長翠(常世田長翠)・士朗(井上士朗)」など、当時の名立たる俳人の中に、芳中(中村芳中)の名も出て来る。
 こういう撰集を、当時、四十歳の巣兆が刊行しているということは、単に、江戸の俳人というよりも、全国に名の知れ渡っている、当時の代表的な俳人の一角を占めていたと解することも出来よう。

  白梅の梅の香に我ならぬ袂かな (「笠やどり・二十三句目)・冥々(酒井抱一?)

 『徳萬歳(巣兆編)』の「目次」(「都八十余人」)の中に、「冥々」(二十三番目)の名が出て来る。この「冥々」は、当時の抱一の庵号の「溟(冥)々居」の「冥々」のように思われる。抱一の俳号は「白鳧(はくふ)・濤花後に杜陵(綾)・屠龍(とりょう)」など。画号は「軽挙道人・庭柏子・溟(冥)々居・楓窓・鶯村(邨)・雨華庵・抱一」など。狂句名は「尻焼猿人」(「浮世絵美人画も同じ)などが使われている。
 この『徳万歳』の抱一「序」の「彼に問へば彼譏(そし)り、我にとへば我笑ふ」と、この二人が、俳諧の世界で真に切磋琢磨し合ったのは、この『徳万歳』が刊行された寛政十二年(一八〇〇)、共に、四十歳の不惑の年の頃を指しているのではなかろうか。
 この翌年の享和元年(一八〇一)に、この当時の傑作画「燕子花図屏風」(出光美術館蔵)を完成させている。この「燕子花図屏風」は、下記のアドレスで紹介している。この時の落款は、「庭柏子『抱一(朱文円印)』『冥々居(白文方印)』で、「冥々居」の印が用いられている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-07-27

 ここで、改めて実感することは、「鵬斎・抱一・文晁・南畝」のネットワークは、この「巣兆」のネットワークなどと重層しながら、一大ネットワークを形成していたであろうということである。
 この文晁の「俳諧ネットワーク」などと関連して、『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達(渥美国泰著)』の「鈴木其一」の中に、「鶯巣(おうそう)は彼の俳号である」との記述が見られるが、この「鶯巣」の「鶯」は抱一の「鶯村(邨)」の「鶯」、そして、その「巣」は建部巣兆の「巣」なのではなかろうか。
 巣兆が亡くなった宝暦十一年(一八一四)、この時に、鈴木蠣潭は二十三歳、其一は十九歳で、其一はその前年に抱一の内弟子になっている。蠣潭も其一も、抱一の薫陶を受けて俳諧も嗜むが、そこに、巣兆が一枚加わっているような、そんな思いを深くする。

  我庵はよし原霞む師走哉 (巣兆『曽波加里』)

 巣兆没後に刊行された巣兆句集『曽波加里』の最後を飾る一句である。この句は、「よし原」の「よし」が、「良し」「葦(よし)・原」「吉(よし)・原」の掛詞となっている。句意は、「我が関屋の里の秋香園は良いところで、隅田川の葦原が続き、その先は吉原で、今日は、霞が掛かっているようにぼんやりと見える。もう一年を締めくくる師走なのだ」というようなことであろう。
 そして、さらに付け加えるならば、「その吉原の先は、根岸の里で、そこには、雨華庵(抱一・蠣潭・其一)、義兄の鵬斎宅、そして、写山楼(文晁・文一)と、懐かしい面々が薄ぼんやりと脳裏を駆け巡る」などを加えても良かろう。
 これは、巣兆の最晩年の作であろう。この巣兆句集『曽波加里』の前半(春・夏)の部は巣兆の自撰であるが、その中途で巣兆は没し、後半(秋・冬)の部は巣兆高弟の加茂国村が撰し、そして、国村が出版したのである。
 巣兆俳諧の後継者・国村が師の巣兆句集『曽波加里』の、その軸句に、この句を据えたということは、巣兆の絶句に近いものという意識があったように思われる。巣兆は、文化十一年(一八一四)十一月十四日、その五十四年の生涯を閉じた。

(追記)『徳萬歳(巣兆著)』・『品さだめ(巣兆撰・燕市編)』の挿絵「徳萬歳」(中村芳中画)

徳萬歳.jpg

『品さだめ(巣兆撰・燕市編)』中「徳萬歳(中村芳中画)」(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06709/he05_06709.html

一 『徳萬歳(巣兆著)』と『品さだめ(巣兆撰・燕市編)』とは、書名は異なるが、内容は全く同じものである。上記のアドレスの書名の『俳諧万花』は「旧蔵者(阿部氏)による墨書」で為されたものである。

二 『徳萬歳(巣兆著)』は、『日本俳書大系(第13巻)』に収載されているが、その解題でも、この『品さだめ』との関連などは触れられていない。

三 燕市(燕士・えんし)は、「享保六年(一七二一)~寛政八年(一七九六)、七十六歳。
石井氏。俗称、塩屋平右衛門。別号に、燕士、二月庵。豊後国竹田村の商人。美濃派五竹坊・以哉(いさい)坊門。編著『みくま川』『雪の跡』」とある(『俳文学大辞典』)。

四 「艶隠者」については、下記のアドレスでも触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-07-04-1

(再掲)

『扶桑近代艶(やさ)縁者(第三巻)』(西鷺軒橋泉 [作] ; 西鶴 [序・画])所収「嵯峨の風流男(やさおとこ)」

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he13/he13_03265/he13_03265_0003/he13_03265_0003.html

上記の西鶴の「嵯峨の風流男(やさおとこ)」は、乾山をモデルにしていて、若くして隠遁者(隠者)として、俗世間との縁を断ち切る生活に入るが、それは、一見、「ストイック」(禁欲的に自己を律する姿勢)的に見られるが、その本質は、それに甘んじている、一種の「エピキュリアン」(享楽主義者)的な面が濃厚であるというのである。
 それを図解した挿絵が、上記のもので、左側の女性に囲まれて遊興三昧の男が、光琳をモデルした男、それを見ていて、その中には足を踏み入れない右側の人物が乾山をモデルにしている「嵯峨の風流男(やさおとこ)」、すなわち、「艶(やさ)隠者」乾山、その人という見方である。

その五 江戸俳諧ネットワーク(巣兆・抱一)と上方俳諧ネットワーク(蒹葭堂・芳中)そして仲介人(大江丸)

木村蒹葭堂.jpg

谷文晁筆「木村蒹葭堂肖像画」絹本着色(六九×四二cm) 享和二年(一八〇二)作
大阪府教育委員会蔵(重要文化財)

 『江戸百夢―近世図像学の楽しみ(田中優子著)』で、この肖像画の人物・木村蒹葭堂を「浪花の大ネットワーカー」と題して、次のような指摘をしている。

【 江戸時代において人格および人格的影響力を身につけるには、何も偉大な哲学者や厳しい修行僧になる必要はない。江戸時代の基本的な価値観である、「私(わたくし)しない」ことを守れば、それで良いのだ。「私しない」とは、自分の財産、才能、家族、仕事、立場、地位などを、自分のためだけに使わない、という意味である。自分と自分の持っているものを、社会(世間)に向かって開いておく、世間のために使う、世間の媒体(メディア)になりきる、という意味である。蒹葭堂は根っからそういう人間であり、人は蒹葭堂を通してつながり合い、知識に触れ、成長していった。谷文晁の描いた顔はまさにそのような人物の顔である。そのような人格者をかつては「大愚」と言った。  】

 「下谷の三幅対」(鵬斎・抱一・文晁)の中で、この木村蒹葭堂と面識があり、折に触れて文通をしていたのは、谷文晁である。文晁は、寛政元年(一七八九)、二十六歳の頃、長崎遊学の途につき、その長崎では折から当地へ来ていた張秋穀(ちょうしゅうこう)に入門などをしている。その帰途に大阪の木村蒹葭堂を訪ねて、それ以降、相互に情報交換などをしていたことの書簡などが、下記のアドレスで紹介されている。

http://www.og-cel.jp/issue/cel/__icsFiles/afieldfile/2017/10/24/117all.pdf#page=19

 上記の蒹葭堂の肖像画は、蒹葭堂が亡くなった享和二年(一八〇二)一月二十五日の二ヶ月を経過した三月二十五日に描かれたことがその右端の賛に記されている。
当時、文晁は、四十歳の頃で、抱一関連の「年譜」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「酒井抱一と江戸琳派関係年表」(松尾知子編)」)に、「五月、君山君積の案内で、谷文晁、亀田鵬斎らと、常州若芝の金龍寺に旅し、江月洞文筆『蘇東坡像』を閲覧する」と記されている。
 即ち、「下谷の三幅対」の「亀田鵬斎(五十一歳)・酒井抱一(四十二歳)・谷文晁(四十歳)」の三人トリオが、現在の、茨城健竜ケ崎市の金龍寺の宝物、江月洞文(こうげつどうぶん)筆「蘇東坡像」を見に行った年なのである。
 さらに、この年は、中村芳中の『光琳画譜』が刊行された年でもあった。芳中は、寛政十一年(一七九八)に、上方から江戸へ下向して来るが、この時には、亡き木村蒹葭堂が芳中のための餞別の宴に参加している(同上「年譜」)。
 この「年譜」には記載されていないが、芳中は蒹葭堂が亡くなった、即ち、『光琳画譜』を刊行した年に、江戸滞在を切り上げて、亡き蒹葭堂を弔うように上方への帰途につくのである。
 さて、木村蒹葭堂が、「私しない」(大愚)の「浪花の大ネットワーカー」とすると、「江戸の大ネットワーカー」且つ「私しない」(大愚)の代表格は亀田鵬斎ということになろう。

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谷文晁筆・亀田鵬斎賛「亀田鵬斎像」(北村探僊宿模)個人蔵 文化九年(一八一二)作

 この「亀田鵬斎像」は、文化九年(一八一二)四月六日、鵬斎還暦の賀宴が開かれ、越後北蒲原郡十二村の門人曽我左京次がかねてから師の像を文晁に依頼して出来たものであるという。そして、その文晁画に、鵬斎は自ら自分自身についての賛を施したのである。
 その賛文と訳文とを、『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達(渥美国泰著)』から抜粋して置きたい。

 這老子  其頸則倭 其服則倭  この老人  頭は日本  服も日本だ
 爾為何人 爾為誰氏 仔細看来  どんな人で 誰かと見れば 鵬斎だ
 鵬斎便是 非商非工 非農非士  商でなく 工でなく 農でなく 士でもない
 非道非佛 儒非儒類       道者でなく 仏者でなく 儒類でもない
 一生飲酒 終身不仕       一生酒を飲んで過ごし 仕官もしない
 癡耶點耶 自視迂矣       ばかか わるか 気の利かぬ薄のろさ
  壬申歳四月六十一弧辰月題
   関東亀田興 麹部尚書印

 もとより、木村蒹葭堂も亀田鵬斎も俳諧師ではなく、また、特定の俳諧グループなどを主宰しているけではない。
 また、「巣兆・抱一」が、当時の江戸俳諧グループの代表格のメンバーという位置付けではなく、まして、「蒹葭堂・芳中」は、上方俳諧グループの代表格のメンバーではさらさらない。
 ここでは、江戸の「巣兆・抱一」の俳諧グループの背後には、広く江戸ネットワークの中心的人物の一人の亀田鵬斎が控えているということと、同様に、広く上方ネットワークの中心人物として、木村蒹葭堂が控えているということ、そして、狭く江戸俳諧グループと上方俳諧グループを相互に交流させる役割を担った人物として、上方俳諧グループ出身の、大伴大江丸が挙げられるだろうということなのである。
 大伴大江丸は、享保七年(一七二二)生まれ、木村蒹葭堂は、元文元年(一七三六)の生まれで、この二人に比すると、亀田鵬斎は、宝暦二年(一七五二)生まれで、年齢的には相当な開きがある。
 しかし、大江丸が没したのは、文化二年(一八〇五)で、晩年の大江丸と鵬斎の義弟の建部巣兆とは、太い線で結ばれていることが、例えば、寛政五年(一七九三)に成った巣兆撰集『せきや(関屋)帖』などから明瞭に了知されるのである。
 また、蒹葭堂と鵬斎とは、寛政二年(一七九〇)に、いわゆる、老中筆頭松平定信が推進した「寛政の改革」により、蒹葭堂は「酒造統制違反(醸造石高の超過)」そして、鵬斎は「異学の禁」の「異学の五鬼」として弾圧される憂き目に遭遇するなど、二人は交互に交差していると解して差し支えなかろう。
 ここで、「享保(七年生)・元文・寛保・延享・宝暦・・明和・安永・天明・寛政・享和・文化(二年没)」の、江戸中期から後期にかけての俳諧の生き字引のような三度飛脚(江戸・大坂間を毎月三回定期的に往復した飛脚)の問屋を業としていた「大伴大江丸」に焦点を当てたい。

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「大江丸像」(『若葉集』所載)(『評釈江戸文学叢書七俳諧名作集(潁原退蔵著)』)
賛=うつくしきむねのさはぎやはつざくら 八十五才大江丸(実際の年齢に一歳加算している)

『評釈江戸文学叢書七俳諧名作集(潁原退蔵著)』での作者紹介は次のとおりである。

【 本名安井正胤、通称大和屋善右衛門、大阪の人。江戸飛脚問屋を業とした。初号芥室、旧国。青年時代多くの俳士を歴訪して教を乞うたが、後蓼太の門に帰した。蕪村、几董とも交わり遊俳として天明寛政の俳壇に独特の位置を占め、その交友の範囲は頗る広かった。文化二年没、年八十四。俳話句集『俳ざんげ』『はいかい袋』の撰がある。 】

  竹の子やあまりてなどが人の庭 (大江丸『はいかい袋』)

 この句は、『後撰集』(源等)の「浅茅生の小野の篠原しのぶれどあまりてなどか人の恋しき」の「捩り」の一句である。この句などに関して同書では次のような評釈をしている。

【 大江丸の本業は飛脚問屋であった。彼が始めて俳諧を志したのも、尾張の千代倉鉄叟の状を、半時庵淡々の許に届けたのが縁となったのであるという。その後諸家に教を乞うて東西し、遂に俳壇の一名流として知られるに至ったのであるが、しかも彼の俳諧に対する態度は、あくまでも余技として以上に出なかった。
  然れども家のわざに大事をふみ、三十余年は此の道を捨てざるばかり。その日その日
  の勤めを怠らじと守りつゝ、云々
と自らを語って居るのである。すでに余技であるから、必ずしも一派に偏したり、徒に高遠の理を唱えたりする要はない。たゞ俗中に雅趣を求めて楽しめばそれで宣い。
  俳諧をもて修身斉家の道にあて、或は老佛の心に通わして高妙に説きなす者あるこそ心得ぬ。その道を高くせんとして、却って知れる人の誹をひく。俳諧更にさようのものならず。佛語聖言によらずして俗中の風雅を述べ、別に趣はある事なり。
とも言っている。これは「予が風雅は夏炉冬扇の如し」と喝破した芭蕉の本意と、多く悖
るものではない。けれども大江丸は芭蕉の如く、斯の道に一生を託する人ではなかった。
彼が求めた俗中の雅は、結局こうした軽い滑稽や、文字の技巧等を専らとするに至った。
とはいえ、その円転滑脱の機才と明朗軽快な格調は、また俳壇の一異彩とするに足るべく、
所謂遊俳の士としては、彼が俳諧史を通じて、最もすぐれた一人と称すべきである。 】

 この「評釈(潁原)」に、「大伴大江丸(大谷篤蔵)」(『俳句講座三俳人評伝下』所収)により、「評伝(大谷)」を補足的に付け加えて置きたい。

【 寛延二年(二十八歳)五代善右衛門の没した後は家業を一手に引き受けて出精した結果、最初は「江戸店同業のうちにて三四間(軒)目、大阪店は人も知らぬほどの事にて、一曲輪の人数男女二百人内外」であったのが、「出店共に七ケ所(中略)今二万余の家督とし、業は三都のうちの第一と称せられ、家族店中の男女千人」という大をなし、(以下略) 】

 大江丸は、「業は三都(江戸・京都・大阪)のうちの第一と称せられ、家族店中の男女千人」と大マネージャーなのである。

【 家業のため、諸国を旅行し、寛政二年(六十九歳)『俳懺悔』に「東都の往返五十度に及ぶ 百不二や月雪花にほととぎす」の句があり、さらに十年後の寛政十二年(七十九歳)には、八年ぶりで東海道を江戸に下り奥州・関東地方を歴遊、「百二十四日四百五十三里」の大旅行を試みた。(以下略)  】

 大江丸は、「七十九歳で、「百二十四日四百五十三里」の大旅行を試みた」と大フットワーカーなのである。

【 『はいかい袋』には、道の先達として竹阿・二柳・鳥酔・蒼狐・麦水・後川・蕪村・無腸・闌更・竹巣(別本は烏明)・嘯山・呑秋・青蘿・完来・八千坊(舎桲カ)を挙げ、『みちのしるべの友』として、入楚・蝶蘿(別本は几董・月居)・成美(別本になし)・午心・東瓦(別本になし)・雨什・春蟻・一無庵丈左・喜斎・木朶をあげている。俳壇の趨勢は、天明から寛政になると俳人の交流激しくなり、門派にとらわれず、地域に限らず、広く交を訂し句を求める風がおこり、全国的な俳壇が形成され、俳人名録の類が続々出版されるようになる。(中略)しかも俳人のみに限らす、狂歌師・戯作者・俳優・力士など、広範囲にわたる。自身、歌舞伎は見功者、角力は通、洒落本に句を寄せ、団十郎を訪ねる。多趣味な文化人、当時のことばでいえば「聞人(ぶんじん)」である。多年実務を掌理して得た世間知、円転洒脱の寛厚の長者、その座談はさぞ面白かったろうと思われる。江戸の通人の鋭さとは違って、上方風のおおらかさと温かさがある。 】

 大江丸は、「多年実務を掌理して得た世間知、円転洒脱の寛厚の長者」と大ネットワーカーなのである。

   山寺や蜂に刺されて更衣  (巣兆『曽波可理』)

 この巣兆の句などについて、『評釈(潁原)』では、次のように記述している。

【 巣兆は亀田鵬斎・酒井抱一等とも親交があり、当時の最も洗練された江戸趣味を、充分に理解し体得した人であった。而してこの江戸趣味なるものは、洒脱優雅な気品には富んで居るが、強く人に迫る力がない。どこかに遊びの気分が漂って居る。それは鵬斎の書、抱一の畫、巣兆の俳諧、それらを通じて明らかに見られることである。 】

 大江丸が「遊俳」(趣味・余技)の極致とするならば、抱一もまた、画業が主で、俳諧は「遊俳」のものという位置づけが妥当なのかも知れない。しかし、抱一は、『江戸座続八百韻』(屠龍編・三十六歳時)を刊行し、江戸座に連なる「業俳」(俳諧師)たる自負を生涯にわたって持ち続けていたように思われる。
巣兆に至っては、その後半生は、その「秋香庵俳諧」に全てを捧げるような、壮絶な「業俳」という一面を有し続けたといっても過言でなかろう。
 しかし、抱一、そして、巣兆の俳諧は、一言でするならば、上記の「評釈(潁原)」の「江戸趣味(洒脱優雅な気品には富んでいるが、強く人に迫る力がない)」の世界のものであって、上記の「評伝(大谷)」の「江戸の通人」、そして、それは「江戸の粋人」の世界のものというのは、これまた、厳然たる一面であろう。
 そして、それは、上記の「評伝(大谷)」の、「江戸の通人の鋭さ」(抱一・巣兆の世界)と、「上方風のおおらかさと温かさ」(大江丸の世界)とが、好対照を成しているということにもなろう。

その六 「大江丸の吉原」そして「抱一と加保茶元成(大文字屋市兵衛)」

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「大江丸像」(『若葉集』所載)(『評釈江戸文学叢書七俳諧名作集(潁原退蔵著)』)
賛=うつくしきむねのさはぎやはつざくら 八十五才大江丸(実際の年齢に一歳加算している)

 うつくしきむねのさはぎやはつざくら(大江丸「大江丸像・『若葉集』所載・賛の句」)


 この「大江丸像(賛の句)」が収載されている『若葉集』というのは、享和三年(一八〇三)に刊行された、俳人俳画集(当代の俳人、三十六人の画像と一人一句および発句一〇三、歌仙一、半歌仙一を収める)のようである(『俳文学大辞典』)。
 もとより、この句が、大江丸のどの撰集や句集などに収載されているのかは皆目分からない。
 しかし、感じとして、寛政十二年(一八〇〇)の秋、江戸関東奥州を旅した紀行句文集『あがたの三月四月』の、「吉原大文字屋の遊女ひともととの一夕の艶話」「(『俳句講座三俳人評伝下』所収「大伴大江丸(大谷篤蔵)」)と、何処となく関係している雰囲気なのである。
 この大江丸の「遊女ひともととの一夕の艶話」に関して、『江戸諷詠散歩 文人たちの小さな旅(秋山忠彌著)』で紹介されているので、長文になるが、下記に抜粋をして置きたい。

【 大江丸は七十歳で隠居した。寛政十二年(一八〇〇)七十九歳のときのことである。職業柄、七十余度も往復したという江戸への旅を思い立ち、東海道を下った。そして江戸滞在中のある日、正確には九月十七日のこと。浅草寺へ詣でたおり、堂にかかげられた絵馬の前に足を止め、じっと見入る。書かれている見事な歌と筆づかいに魅せられてしまったのである。奉納した主が吉原の遊女ひともとだと知り、むしょうに会いたくなった。ひともとの抱え主は、大文字屋市兵衛である。市兵衛は、狂名は加保茶元成(かぼちゃもとなり)といい、幸いなことに大江丸とは狂歌を通じて知己であった。さっそくに大江丸は、同じく狂歌仲間の烏亭焉馬(うていえんば)らにも同伴してもらい、大文字屋でひともとに会うことになる。あくまでも元成の客人という扱いで、元成の居室で対面した。大江丸は喜びにふるえながら、思いのたけを込めた一句を、ひともとに差し出す。

  ひともとの菊こそつゆの置所(おくどころ)

 菊にやどった露は、これを飲むと邪気を払い、齢(よわい)を保つとされた。ひともとは、はるばる浪花からの客人への返し句に、

  ゆめとよみしなにはゆかしと秋ながう

と詠んだ。大江丸は、年甲斐もなくうれしさに気持がたかぶり、なぜ若いときに会えなかったのかと、悔し涙を流さんばかりに、

 手ざはりの繻子我秋を泣かせるか

と、再び句をしたためて差し出した。   】

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酒井抱一筆「大文字屋市兵衛図」一幅 板橋区立美術館蔵
【おどけた表情がユニークなこの小柄の男は、吉原京町大文字屋の初代主人、村田市兵衛。かぼちゃに似た市兵衛の顔立ちは宝暦の頃ざれ唄になり囃されたが、彼は自らこれを歌って人気を得たという。抱一は二代市兵衛(一七五四~一八二八、狂名加保茶元成)やその子三代市兵衛(村田宗園)と親しく、くだけた姿の初代の肖像も、そのゆかりで描いたものだろう。 】(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』「作品解説・岡野智子稿」)

 大江丸の「遊女ひともととの一夕の艶話」は、二代市兵衛(一七五四~一八二八、狂名加保茶元成)の時代で、大江丸が二代市兵衛(狂名加保茶元成)と知己であるということは、即、酒井抱一とも程度の差はあれ知己の間柄であったと解するのが自然であろう。
 大江丸に同伴した烏亭焉馬は、戯作者・浄瑠璃作家で、落語中興の祖として知られているが、俳諧や狂歌、そして、市川団十郎(五代目、俳号=白猿、狂歌名=花道のつらね)を後援する「三枡連(みますれん)」結成の中心的人物でもある。
 この市川団十郎と抱一とは昵懇の関係であり、狂歌連としては、吉原大文字屋の加保茶元成が主宰する「吉原連」とは、それぞれが程度の差はあれ何らかの関係にあったということになろう。

 上記の「大文字屋市兵衛図について、同書(岡野智子稿)で、詳細な「作品解説99」も掲載している。

【 吉原京町大文字屋の初代主人、村田市兵衛をモデルとする小品。市兵衛の風貌はかぼちゃに似て、宝暦の頃ざれ唄になり囃されたが、彼は自らこれを歌って人気を得たという。市兵衛が歌い踊る酔興な姿は白隠画にもあるが(永青文庫蔵)、本図は大田南畝『仮名世話』『耽奇漫録』に見出される西村重長原画の大文字屋かぼちゃ像をほぼ踏襲している。賛はそのざれ唄の歌詞。署名は「郭遊抱一戯画」「文詮」(朱文円印) 抱一は二代目市兵衛(一七五四~一八二八、狂名加保茶元成)やその子三代市兵衛(村田宗園)と親しく、二代目市兵衛の千束の別宅に千蔭と遊び、庭内の人丸堂で人麿影供を行うなど、吉原を離れての私的な集まりに参じていたという指摘もある。もとより大文字屋は小鶯を身請けした妓楼であり、抱一のパトロン的存在でもあった。長年にわたる交際により抱一と大文字屋を結ぶ作品が遺され、吉原通の抱一の姿を伝えている。
(賛)      
十にてうちん
 の花むらさきの
  ひも付で
   かさりし
玉や女らう衆かこいの
 すこもりもんな
 つるのまるよいわいないわいな
        其名を 市兵へと 申します   】

 ここに出て来る、三代目市兵衛(村田宗園)は、抱一に絵の手ほどきを受けていたと伝えられ、抱一が吉原で描いた淡彩による俳画集『柳花帖』(姫路市美術館蔵)には、その三代目市兵衛が箱書きをしている。
 その『柳花帖』の賛に書かれた発句一覧などについては、下記のアドレスで触れている。それを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-09-05

(再掲)

酒井抱一俳画集『柳花帖』(一帖 文政二年=一八一九 姫路市立美術館蔵=池田成彬旧蔵)の俳句(発句一覧)
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「酒井抱一筆「柳花帖」俳句一覧(岡野智子稿)」) ※=「鶯邨画譜」・その他関連図(未完、逐次、修正補完など) ※※=『屠龍之技』に収載されている句(「前書き」など)

  (画題)      (漢詩・発句=俳句)
1 月に白梅図   暗香浮動月黄昏(巻頭のみ一行詩) 抱一寫併題  ※四「月に梅」
2 白椿図     沽(うる)めやも花屋の室かたまつはき
3 桜図      是やこの花も美人も遠くより ※「八重桜・糸桜に短冊図屏風」
4 白酒図     夜さくらに弥生の雪や雛の柵
5 団子に蓮華図  一刻のあたひ千金はなのミち
6 柳図      さけ鰒(ふぐ)のやなきも春のけしきかな※「河豚に烏賊図」(『手鑑帖』)
7 ほととぎす図  寶(ほ)とゝきすたゝ有明のかゝみたて
8 蝙蝠図     かはほりの名に蚊をりうや持扇  ※「蝙蝠図」(『手鑑帖』)
9 朝顔図     朝かほや手をかしてやるもつれ糸  ※「月次図」(六月)
10 氷室図    長なかと出して氷室の返事かな
11 梨図     園にはや蜂を追ふなり梨子畠   ※二十一「梨」
12 水鶏図    門と扣く一□筥とくゐなかな   
13 露草図    月前のはなも田毎のさかりかな
14 浴衣図    紫陽花や田の字つくしの濡衣 (『屠龍之技』)の「江戸節一曲をきゝて」
15 名月図    名月やハ聲の鶏の咽のうち
16 素麺図      素麺にわたせる箸や天のかは
17 紫式部図    名月やすゝりの海も外ならす   ※※十一「紫式部」
18 菊図      いとのなき三味線ゆかし菊の宿  ※二十三「流水に菊」 
19 山中の鹿図   なく山のすかたもみへす夜の鹿  ※二十「紅葉に鹿」
20 田踊り図     稲の波返て四海のしつかなり
21 葵図       祭見や桟敷をおもひかけあふひ  ※「立葵図」
22 芥子図      (維摩経を読て) 解脱して魔界崩るゝ芥子の花
23 女郎花図     (青倭艸市)   市分てものいふはなや女郎花
24 初茸に茄子図    初茸や莟はかりの小紫
25 紅葉図       山紅葉照るや二王の口の中
26 雪山図       つもるほと雪にはつかし軒の煤
27 松図        晴れてまたしくるゝ春や軒の松  「州浜に松・鶴亀図」   
28 雪竹図       雪折れのすゝめ有りけり園の竹  
29 ハ頭図      西の日や数の寶を鷲つかみ   「波図屏風」など
30 今戸の瓦焼図    古かねのこまの雙うし讃戯画   
            瓦焼く松の匂ひやはるの雨 ※※抱一筆「隅田川窯場図屏風」 
31 山の桜図      花ひらの山を動かすさくらかな  「桜図屏風」
  蝶図        飛ふ蝶を喰わんとしたる牡丹かな      
32 扇図        居眠りを立派にさせる扇かな
  達磨図       石菖(せきしょう)や尻も腐らす石のうへ
33 花火図       星ひとり残して落ちる花火かな
  夏雲図       翌(あす)もまた越る暑さや雲の峯
34 房楊枝図    はつ秋や漱(うがい)茶碗にかねの音 ※其一筆「文読む遊女図」(抱一賛)
  落雁図       いまおりる雁は小梅か柳しま
35 月に女郎花図    野路や空月の中なる女郎花 
36 雪中水仙図     湯豆腐のあわたゝしさよ今朝の雪  ※※「後朝」は
37 虫籠に露草図    もれ出る籠のほたるや夜這星
38 燕子花にほととぎす図  ほとときすなくやうす雲濃むらさき 「八橋図屏風」
39 雪中鷺図      片足はちろり下ケたろ雪の鷺 
40 山中鹿図      鳴く山の姿もミヘつ夜の鹿
41 雨中鶯図      タ立の今降るかたや鷺一羽 
42 白梅に羽図     鳥さしの手際見せけり梅はやし 
43 萩図        笠脱て皆持たせけり萩もどり
44 初雁図       初雁や一筆かしくまいらせ候
45 菊図        千世とゆふ酒の銘有きくの宿  ※十五「百合」の
46 鹿図        しかの飛あしたの原や廿日月  ※「秋郊双鹿図」
47 瓦灯図       啼鹿の姿も見へつ夜半の聲
48 蛙に桜図      宵闇や水なき池になくかわつ
49 団扇図       温泉(ゆ)に立ちし人の噂や涼台 ※二十二「団扇」
50 合歓木図     長房の楊枝涼しや合歓花 ※其一筆「文読む遊女図」(抱一賛)
51 渡守図       茶の水に花の影くめわたし守  ※抱一筆「隅田川窯場図屏風」
52 落葉図      先(まず)ひと葉秋に捨てたる団扇かな ※二十二「団扇」

その七 山東京伝(身軽折輔)の「手拭合」と抱一(尻焼猿人)のデビュー

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山東京伝画『手拭合』一冊 天明四年(一七八四)国立国会図書館蔵
【当時各界の文化人著名人が、紙上で手拭いのデザインを競う趣向の本で、巻頭には大名子弟が紹介される。抱一は「杜綾公」として三人目に登場。すぐ前の「香蝶公」は兄の宗雅で、酒井家の剣酢漿草(けんかたばみ)の紋とお好みの笹蔓紋様があしらわれている。京伝は「御記文は書顕されとも能ある鷹の御趣向は自かくれなし」と、爪を隠す能ある鷹と抱一の姿を重ねて説明を記した。  】(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』「作品解説・岡野智子稿」)
国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2537594

【 天明四年(一七八四)の旧暦六月二十一日は、新暦では八月六日であった。さぞかし暑い江戸だったろう。それでも少しは涼しい風が吹いてきそうな不忍池のほとりの、とある寺で、そのイベントは開かれた。題、して「たなぐひ合はせの会」。主催は黒鳶(くろとび)式部という十四歳の女性だった。「合わせ」といえば「歌合わせ」が思い浮かぶ。歌を詠みながら合わせものは九世紀の宮廷サロンで始まり、草合わせ、花合わせ、鳥合わせ、絵合わせ、物語合わせ、扇合わせなど、次々と合わせが開かれていった。合わせすなわち、サロンと競技が一緒になったようなものだが、ものやお金を賭けて賭事にすることもあった。この合わせものは、連の江戸時代にはぴったりで、江戸が文化の中心になる一八世紀後半には「宝合わせ」だの「団扇合わせ」だの「浴衣合わせ」だのが開かれてゆく。ただし、江戸のことだ。優雅なものなぞにはしない。すべて宮廷の合わせもののパロディである。宝合わせには、絶対ほんもののお宝は登場しない。がらくたをいかに「宝」と言いくるめるか、その饒舌が競技の対象となる。団扇や浴衣も日常生活に使うもので、ふだんそのへんにごろごろしているもののデザインを、いかに面白く考えつくかを、競うのだ。たなぐひ、つまり手拭いも毎日使うもの。黒鳶式部なんていう優雅な名前の女性を立てて主催者に仕立て上げはしても、ほんとの主催者は皆お見通しの山東京伝。黒鳶式部とは、京伝が眼に入れてもいたくないほどかわいがった妹の「よね」のことである。よねは病弱な少女で、この数年後に亡くなっている。出品者は歌舞伎役者の市川団十郎、ご存じ喜多川歌麿、浮世絵師の北尾重政、能役者で戯作者の芝全交、姫路藩主の弟で琳派の酒井抱一、松江藩主の弟・松平雪川、蘭学者の森島中良、煙草屋で戯作者の平秩東作、幕臣で狂歌師の大田南畝、吉原遊郭・扇屋の主人、吉原の遊女や芸者やたいこもちたち、そして力士等々、町人、芸人、武士入り乱れてのデザイン大会である。 】(『江戸百夢―近世図像学の楽しみ(田中優子著)』)

上記画像の「香蝶(公)」は、抱一の実兄の、姫路藩酒井家第二代当主酒井忠以(ただざね)の号(茶名=宗雅、俳名=銀鵞)で、酒井家の「剣酢漿草(けんかたばみ)の紋とお好みの笹蔓紋様」があしらわれている。
 この忠以が、マルチタレントで、三十二種に及ぶ文武両道の免許皆伝の腕前が、酒井家文書により記録されている。その免許皆伝などのリストの一部は、「無辺流の槍術・起倒流の柔術・自鏡流の居合・金剛流の能・茶道(師・松平不味)・俳諧(師・馬場存義)・絵画(師・中橋狩野家の永徳高信)」等々である。
 これに続く「杜陵(公)」は、忠以より六歳下の抱一(本名・忠因=ただなお)の号(杜綾、後に屠龍=俳号)である。抱一のマルチタレントは、兄・忠以に負けず劣らずで、その師系は、ほぼ、兄と同じと解して差し支えなかろう(『日本史リブレット人054酒井抱一(玉蟲敏子著)』)。
 この「杜陵公」と同年齢(宝暦十一年=一七六一生れ)の、この『手拭合』の作者(企画者・画作も同じ)「山東京伝」(浮世絵画名=北尾政演)は、当時の「杜陵公」(抱一)をして、「能ある鷹の御趣向は自(おのずから)かくれなし」と、当時の抱一を、酒井家の当主・忠以こと「香蝶公」の影武者のように目立たないが、その本来の力量は、「能ある鷹」の、その力量を兄以上であろうということを喝破していると解して、これまた、差し支えなかろう。
 「香蝶公」(忠以公)、そして、「杜陵公」(忠因公=抱一)の酒井家には、茶会や俳諧の場などのサロンが形成されていた。忠以公(茶人=尾花庵宗雅)の茶会には、尾形乾山の画幅が掛けられ、本阿弥光悦の茶碗や花筒、尾形乾山の香合などが使用されていたことが、その『逾好(ゆこう)日記』(酒井家上屋敷茶室に因む茶会記録)に記されている。
 この酒井家の、両親を早くに亡くした忠以・抱一兄弟の後ろ盾に成った一人に、大和郡山藩第二代当主で、柳沢吉保の孫の柳沢信鴻(のぶとき)が居る。信鴻は、儒学・漢詩・絵画・俳諧・芝居などの造詣が深く、中でも、俳諧は岡田米仲に学び、「米翁(べいおう)」と称し、句集に『蘇明山荘発句藻』を有している。
 抱一の自撰句集『屠龍之技』には、この米翁の亡くなった時の追悼句と三周忌に寄せる句が収載されている。

    悼米翁老君
  聰(さと)き人も耳なし山や呼子鳥  (「こがねのこま」)
    米翁老君の三周に
  高宗が三年(みとせ)ははやし桃李   (「かぢのおと」)
  松山の花のけむりや春の風       (「同上」)

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国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2537594

 「香蝶公」と「杜陵公」の前に、この「雪川公」(松平不味=出雲松江藩の第七代藩主・松平治郷=はるさとの弟)の、上図のものが掲載されている。この手拭いのデザインは、
「雪川」の「雪」を暗示する「白」の部分に着目すると、三本の「白」が「川」に見えるという、粋で洒落たデザインなのである。
「雪川(せつせん)」は俳号で、本名は「衍親(のぶちか)」である。茶人大名として名高い兄の不昧(ふまい)公は雪川のために支藩を作ろうとしたが、臣下に止められ断念したとされている。雪川は諸芸に通じ、特に俳諧に優れ、雪川没後に不昧公により『為楽庵雪川発句集』・『為楽庵俳諧文集』などが刊行されている。
 雪川は、宝暦三年(一七五三)の生まれで、忠以・抱一兄弟よりも年長であるが、忠以は、寛政二年(一七九〇)、三十六歳、そして、雪川は、享和三年(一八〇三)に、五十一歳で夭逝している。
 もう一人、松前藩十三代当主松前道広の弟、松前文京(俳号=泰郷)との、この三人が、当時の吉原の「粋人・道楽子弟の三公子」として、「ときやうさん」(抱一=杜陵=杜龍=とりょう)、「つまさん(駒=子馬)」(雪川=幼名・駒次郎)そして「ぶんきやうさん」(文京=ぶんきょう)と、その名を馳せていたようである。
 さらに、この松前道広の異母兄が、松前藩家老で画家として名高い蠣崎波響(かきざきはきょう)が居る。この蠣崎波響は、京都の円山応挙を始め、岸駒、円山四条派の呉春(月渓)等や、また、木村兼葭堂を通じての、大名家では増山正賢や松浦静山等とも交流があり、江戸の抱一とも知己の関係にある。
 これらの一部については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-19

 ここで、特記して置きたいことは、「抱一(屠龍)・雪川・泰卿(文京)」の、この三人は、狂歌の世界以上に、俳諧の世界で名を馳せており、「抱一(俳号=屠龍)・文京(俳号=泰卿)」は、江戸座俳諧宗匠存義(馬場氏)を師とし、「雪川」は、一世・二世旨原(小栗氏)を師とし、そして、それぞれが、大和郡山藩主柳沢米翁と深い結び付きを有しているようである。
 さらに、米翁の『美濃守日記』、『宴遊日記』、『松鶴日記』などから、その米翁の俳諧サロンは、伊勢神戸藩主本多清秋、尼崎藩主松平忠告(俳号=亀文)、松代藩主真田菊貫、伊予松山藩主松平定国(俳号=皐禽)、秋田藩江戸留守役佐藤晩得などの大名や上流武家層と結びつき、それらが重層しての一つの大きな俳諧サロンを形成していたのであろう。
 関連して、この伊予松山藩主松平定国(俳号=皐禽)は、寛政の改革を推進する松平定信の実兄であり、天明七年(一七八七)に、定信が老中に就任した時には、定信の家臣を呼び付け、定信の政治方針に異論を唱えるなど、アンチ定信の筆頭格なのである。
 さらに、関連して、この松平定信の寛政の改革により、上記の「たなぐひ合はせの会」の出品者の、「歌舞伎役者の市川団十郎、ご存じ喜多川歌麿、浮世絵師の北尾重政、能役者で戯作者の芝全交、姫路藩主の弟で琳派の酒井抱一、松江藩主の弟・松平雪川、蘭学者の森島中良、煙草屋で戯作者の平秩東作、幕臣で狂歌師の大田南畝」等々が、その手足を封じられたのは、周知の自明のところのものであろう。
 そして、浮世絵師・北尾政演こと、戯作者の、この「たなぐひ合はせの会」のプランナー兼実行者の山東京伝は、定信の、その寛政の改革の、その出版統制により手鎖の処罰を受けたことも、周知の自明のところのものであろう。
 ここで、抱一の前半生と後半生の分岐点となった、寛政二年(一七九〇)、三十歳時の、実兄・忠以が亡くなった当時のことの一端を、『琳派―響きあう美―(河野元昭著)』から下記に抜粋して置きたい。

【 抱一がしばしば点取りのために百韻や二百韻、さらに千句を米翁に寄せ、ともに歌仙を巻いているのに対し、絵画に関する記事が非常に少ないのは、この時期、抱一の主力が俳諧に注がれていたことを示している。米翁の日記によってはじめて知られた事実のうち、もっとも興味深い寛政二年十二月の一条を紹介しておこう。俳人屠龍すなわち抱一の邸に松平雪川・松前泰卿が集まって、いわゆる三公子の揃い踏み、そこに米翁・晩得といった当時の有名俳人が加わって、抱一の得意たるや目に見えるようである。
 八日 晩得より愈々明日屠龍方俳諧に雪川も行るゝ由、消息来る。
 九日 四時半より浜町屠龍邸へ行。供村井
 (以下六名)本郷通り昌平橋、朝日山に休み、お玉が池、新材木町、楽屋新道永楽の門へ寄、留守也。大阪町より、どうかむ堀屠龍門へ入る。晩得・沾山・岩松・神稲来在。初て呑舟に逢ふ。程なく未白、八過雪川来らる。干菓子味噌漬鯛参らす。 
 雪川・屠龍・呑舟・雁々・神稲・沾山・岩松・米木十一吟俳諧
 晩得は点者に定めし故、二階次間に
て予が点の歌仙。七半頃、泰卿来る。
六時駕にて帰る。どうかん堀よりあらめ橋、新材木町より前路を帰る。  】

手拭い三.jpg

国立国会図書館デジタルコレクション
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 こちらの右側は、山東京伝自身がデザインした手拭いの図柄である。山東京伝の戯作に登場する分身的な人気キャラクターの、獅子鼻(?)の「艶次郎」が、舞台袖から客席をのぞいている。

【 山東京伝はヘンな人だ。江戸にはおかしな人間がいくらでもいるが、これほどの人は、そういるものではない。深川の質屋に生まれ、のちに煙草道具屋をやることになるこの人は、幼いころから文を読むことが好きで十八歳で黄表紙絵師となり、金を使わず遊郭に出入りし、二度までも遊女を妻とした。(中略)京伝はその洒落本を読んでいると、三味線、唄、踊りはもちろん、漢文漢詩古典和歌書画狂歌狂詩はひととおりできるし、ファッションの最前線に敏感、酒好き、デザインの才あり、身のまわりの道具のセンスは行き届いて、浮世絵はプロフェショナル、しかもイヤミな「通人」ではなくして自分をも笑い飛ばし、遊女に陰でおとしめられるような人間ではなくて、やたらともてる。――そのような、醒めた都会人としてのほぼ完璧な像が浮かび上がってくる。(後略)  】(『江戸はネットワーク(田中優子著)』)

 山東京伝は、その分身的な人気キャラクターの、獅子鼻(?)の「艶次郎」の風姿とは真逆に、これぞ、江戸の粋人という色男中の色男なのである。

山東京伝.jpg

鳥橋斎栄里筆『江戸花京橋名取・ 山東京伝』

その八 南畝(四方赤良)と抱一(尻焼猿人)との交遊

抱一・調布.jpg

抱一(屠龍)筆「調布の玉川図(布晒らし図)」絹本著色 一幅 款記「乙巳初冬 楓窓屠龍画」/「屠龍之印」(白文方印) 大田南畝賛 天明五年(一七八五)作

【 江戸の都市の繁栄は、狂歌、黄表紙、浮世絵(錦絵)といった新しい文化を育んだが、世に天明狂歌運動とも呼ばれるムーブの担い手の多くは、下級の幕臣の大田南畝をはじめとする二、三十代の青年たちであった。才気渙発な抱一が、酒井家の屋敷の外側で繰り広げられる同世代の若者による自由闊達な活動に敏感でないはずはない。蔦屋重三郎版の狂歌絵本『吾妻曲(あずまぶり)狂歌文庫』(宿屋飯盛撰、山東京伝画、天明六(一七八六)年刊)、続編の『古今狂歌袋』(宿屋飯盛撰、山東京伝画、天明七(一七八七)年刊)、『画本虫撰』天明八(一七八八)年刊、宿屋飯盛撰、喜多川歌麿画 )などに、抱一は立て続けに、「尻焼猿人」の狂歌名を名乗って登場する。大田南畝は、大手門前の酒井家上屋敷で部屋住みの生活を送る抱一の下を訪ねており、天明八年正月十五日の上元の宴では、抱一の才を讃えて七言絶句の漢詩を詠んでいる(『南畝集七』)。その書き出しには「金馬門前白日開」とあり、中国漢代の末央宮(びおうきゅう)の門を気取って、江戸城の大手門をペンダントリ―に「金馬門」と呼んでいる。この謂いは、抱一と南畝らの間で交わされた暗号のようなものだったらしく、現存しないが、抱一も最初に編んだ句集の名を「金馬門」の和語の「こがねのこま」としたようだ。 】(『日本史リブレット人054酒井抱一(玉蟲敏子著)』)

「酒井抱一と江戸琳派関係年表」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収)の「文化九 一八一二壬申 五二」の欄に、「十月、自撰句集『屠龍之技』編集、亀田鵬斎序、酒井忠実・大田南畝跋。刊行は翌年か」とある、抱一の自撰句集『屠龍之技』(その全体構成は別記のとおり)の、冒頭の編(第一)は、「こがねのこま」の編名なのである。
 この「こがねのこま」は、この『屠龍之技』の元になっている『軽挙館(観)句藻』(現存二一冊あるいは二〇冊)には見当たらないもので、この編名の由来や、これが何故冒頭にあることなど、謎の多いところなのであるが、上記の、酒井家上屋敷の前の「江戸城の大手門をペダントリ―に『金馬門』(和語の「こがねのこま」)と呼んでいる」に由来があるという指摘は、特記して置く必要があろう。
 すなわち、名門譜代大名家の酒井家二男の抱一は、その酒井家の出自という矜持を、この冒頭(第一)の編名に託していると解したいのである。

(別記)
【『屠龍之技』の全体構成(『日本の美術№186酒井抱一(千澤楨治編)』等により作成)
序(亀田鵬斎)(文化九=一八一二)=抱一・五二歳
第一こがねのこま(寛政二・三・四)=抱一・三〇歳~三二歳
第二かぢのおと (寛政二・三・四)=同上
第三みやこおどり(寛政五?~?)=抱一・三三歳?~
第四椎の木かげ (寛政八~十年)=抱一・三六~三八歳 
第五千づかのいね(享和三~文化二年)=抱一・四三~四五歳
第六潮のおと  (文化二)=抱一・四五歳 
第七かみきぬた (文化二~三)=抱一・四五歳~ 
第八花ぬふとり (文化七~八)=抱一・五〇~五一歳
第九うめの立枝 (文化八~九)=抱一・五一~五二歳
跋一(春来窓三)
跋二(太田南畝) (文化発酉=一八一三)=抱一・五三歳  】

 大田南畝は、寛延二年(一七四九)の生まれで、抱一よりも十二歳年長である。上記の、抱一の自撰句集『屠龍之技』の「跋」文を書いた頃は、六十五歳と高齢であるが、「息子の定吉が支配勘定見習として召しだされるも、心気を患って失職。自身の隠居を諦め働き続けた」と、幕府の支払勘定の役を続けていた頃に当たる。
 翻って、抱一と南畝との出会いは、天明三年(一七八三)、抱一、二十一歳(南畝=三十三歳)の、『狂歌三十六人撰』(四方赤良=南畝編・丹丘画、尻焼猿人=抱一の肖像画あり)の頃にまで遡る。
 当時の、天明狂歌運動の中心的人物の一人の四方赤良(南畝)に、姫路藩酒井家第二代当主酒井忠以の実弟の、狂歌人・尻焼猿人(抱一)が、その運動のシンボリックのスターの一人として祭り上げられたということを意味しよう。
 ここで、「天明狂歌運動」の「狂歌」とは、「和歌の国=和歌の前の平等の国=大和(倭)=日本(徳川太平の「パクス・トクガワーナ」)」のパロディ(日本の本歌取り・狂歌・替え歌など)という「文学や絵画、歴史についての幅広い興味を持つ人たちがサークルを作り、真面目な和歌や絵画のパロディを作って笑いあったり、謎解きをしあったり、さらには仲間内で本を作って出版したりと、お洒落な遊びの文化」の世界のものなのである。
 この江戸時代の、「パロディ文化」の、「遊びの文化」の典型的なものとして、この文芸における「狂歌」の世界と、表裏一体を成す、絵画の世界の「浮世絵」という世界がある。
この「浮世絵」の世界においても、冒頭の「調布の玉川図(布晒らし図)」(楓窓屠龍画=抱一画)のとおり、「屠龍=杜陵=尻焼猿人=酒井抱一」は、「天明浮世絵」作家の一人に目せられているということになる。

  玉川にさらす調布(たつくり)さらさらにむかしの筆とさらに思はず (蜀山人)

 この蜀山人の狂歌は、次の『拾遺和歌集』の「本歌取り」の一首なのである。

  玉川にさらす調布(たつくり)さらさらにむかしの人のこひしきやなそ
                (『拾遺和歌集』巻第十四・恋四・よみ人しらず)

 ここで、注目をしたいのは、この蜀山人のパロディの狂歌の一首の、その署名(作者名)の「蜀山人」なのである。
この「蜀山人」の号は、「享和元年(一八〇一)大阪銅座詰となった南畝は、この年から蜀山人という号を用いた」(『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達(渥美国泰著)』)と、この抱一(屠龍)筆の「調布の玉川図(布晒らし図)」が制作された天明五年(一七八五)には、南畝は「寝惚子(先生)・四方赤良」等の号で、「蜀山人」(号の由来は、中国で銅山を「蜀山」といったことに因っている)の号は、使われない。
すなわち、この「調布の玉川図(布晒らし図)」の蜀山人(南畝)の賛は、この絵が制作された後の、享和元年(一八〇一)以降に、書き添えられたものと思われる。とすると、この一首の、「むかしの筆とさらに思はず」は、「抱一の若書きの絵とは少しも思えないほどの、見事な出来栄えである」というようなことになろう。
これが、「四方赤良」などの署名ならば、抱一の浮世絵時代の「天明の頃は浮世絵師歌川豊春の風を遊ハしけるが(後略)」(「等覚院御一代」)などの、「歌川豊春」関連の「むかしの筆とさらに思はず」の歌意などになって来よう。
これらの、南畝の「四方赤良から蜀山人へ」、そして、抱一の、この「浮世絵時代の終焉」の時代史的な背景は、「大名家に生まれて 浮世絵、俳諧にのめりこむ風狂(内藤正人稿)」(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収)から、下記に抜粋して置きたい。

【 天明年間(一七八一~八八)に爛熟の時を迎えた浮世絵は、時の田沼政権の突如終止符が打たれるとともに、一時冷水を浴びせられる。一七八七(天明七)年からいわゆる寛政の改革を断行した松平定信が老中首座に就いたことにより、厳しい風俗統制が加えられ、それまで絢爛と咲き誇った庶民文化の華である卑俗な文芸や浮世絵にもさまざまな規制の網がかけられるのである。抱一の場合、もともと錦絵など浮世絵版画の版下絵制作を手掛けることはなかったにせよ、おそらく譜代大名、酒井雅樂頭の弟君の遊蕩も、天明の末にはもはや潮時という雰囲気が取り巻いていたようだ。あるいは、実はそれが多分に重要な理由なのかもしれないが、抱一自身もしばらく巷間に遊ぶなかで、その当初から熱心ではあっても、ほぼ豊春画模倣に終始するという点で決して創造性豊かな作画には取り組んでこなかった美人画制作にやや倦んでいた、という側面もあるだろう。ちょうどこの頃、一七九〇(寛政二)年に三十路に入った抱一は、蠣殻(かきがら)町の酒井家中屋敷に移り住んでいる。ところが、ほどなくして、藩主だった六歳年上の兄忠以が急逝し、彼を取り巻く環境は急変する。自ら最大の理解者である兄という大きな後ろ盾を亡くし、甥の忠道が大藩の家督を継ぐという流れから、数多くの家臣団を含めて急速に代替わりが進んでいく酒井雅樂頭家の新たな状況も多分に影響してか、抱一もその三年後には本所番場の多田薬師の近くに、あわただしく転居することとなる。長年嗜んだ浮世絵美人画からり離脱、その反対に俳諧への一段と深い傾倒といった抱一の心境の変化も、そうした彼の身辺を取り巻く状況とまったく無縁であろうはずがない。だが、抱一が一連の当世美人画の制作で垣間見せた熱い情熱、すなわち、自らが何かを描きたい、という意欲は、すでにこの頃から溢れんばかりで、まったくとどまるところを知らなかった。それが、寛政後期からの光琳画との運命的な澥逅(かいこう)を経て、一気に花開いていくことになる。新たな琳派絵師、酒井抱一の誕生まで、あと少しだけ時間が必要だった。 】
(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「大名家に生まれて 浮世絵、俳諧にのめりこむ風狂(内藤正人稿)」)

 詩は詩仏書は鵬斎に狂歌おれ芸者小勝に料理八百善  (伝「南畝」)

 「詩は詩仏(大窪詩仏)」「書は鵬斎(亀田鵬斎)に」「狂歌おれ(大田南畝)」「芸者小勝(吉原の芸者?)に」「料理八百善」(四代目八百屋善四郎)の狂歌は大田南畝の作とされている。この狂歌を詠んだ頃の「詩仏・鵬斎・南畝・鍬形蕙斎(酒井抱一ともいわれていた)」の紹真(鍬形蕙斎の号)の署名のある挿絵がある(下記のとおり)。

料理通.jpg

八百屋善四郎著『料理通(初編)』 文政五年(一八二二)刊 
https://www.library.metro.tokyo.jp/collection/features/digital_showcase/008/04/

 右側の小女の脇の敷居に片手をついて硝子の盃を持っているのが南畝である。南畝が話をしている相手の坊主頭が鍬形蕙斎(浮世絵師・北尾正美、後に、津山侯の御用絵師)である(この家紋は「立三橋」で、酒井家の紋ではない)。中央の立膝をして拳を広げているのが鵬斎である。左端の鵬斎のお相手をしているのが詩仏である。
 この四代目八百屋善四郎著の『料理通(初編)』 が刊行された文政五年(一八二二)の翌年の文政六年(一八二三)に、南畝は、その七十五年の波乱に富んだ生涯を閉じている。
 ここで、松平定信の「寛政の改革」(その「異学の禁)」に関連しての、「鵬斎・抱一・文晁・南畝」に関しての身の処し方などについて、下記に記して置きたい。

【「異学の禁」に猛然と反対して、酒徒となって己の意地を押し通した鵬斎、幕府の統制禁欲の政策に憤然として意を唱え、主家へのおもんばかりからか、剃髪して閑居した抱一。時の第一人者の画人として画壇の頂点に立ちながら、突然のごとく片雲の風に誘われて遊興風流の世界に遊飛した文晁。そして、ここに、その遊興界の三幅対に、もう一人、したたかに本格的な酔興の人物(大田南畝)が加わることになる。】(『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達(渥美国泰著)』)

 この見方に関して、次のようなことを付記して置きたい。

一 「異学の禁」というのは、幕府の正学として昌平坂学問所の朱子学を中心に据え、「天下一体一流」としてその一本化を図り、それ以外の「徂徠派・折衷学派」などの学派を「異学の禁」として締め出すという、一種の思想統制以外の何ものでもない。折衷学派に身を置く亀田鵬斎が、その折衷学派(折衷学派=井上金峨門)の「要は己に得るにあり」(個の確立)の思想を貫徹し、「正学・異学」論争から身を退き、「関東第一風顛(ふうてん)生」として、アンチ松平定信に終始したことは、紛れもない事実であろう。そして、「抱一・文晁・南畝・詩仏・蕙斎」等々が、多かれ少なかれ、この「鵬斎贔屓派」であることは間違いなかろう。

二 播州姫路十五万石の藩主酒井雅樂頭家の次男として生まれた抱一にしても、松平定信が推進した奢侈禁止令や出版・風俗等に関する統制令などに批判的であったことは、当の定信一派が、「抱一(俳号=屠龍)・雪川(出雲松江藩第七代藩主・松平不味の弟)・泰郷(松前藩十三代当主松前道広の弟)」の三人を、当時の吉原の「粋人・道楽子弟の三公子」として標的にしていたことからしても、自明のところのものであろう。しかし、上記の「幕府の統制禁欲の政策に憤然として意を唱え、主家へのおもんばかりからか、剃髪して閑居した抱一」とまでは言い切れるかどうかは、さらに吟味が必要となって来よう。

三 この、アンチ定信派に位置する鵬斎・抱一に比して、「下谷三幅対」のもう一人の谷文晁は、定信の出身家の田安家の経儒で漢詩人を父に持つ環境からして、能吏派を重視する定信の庇護下にあった。その定信の庇護下にあって、定信に従って諸国を巡歴し、『集古十種』の挿図を描き、また、『歴代名公画譜』『名山画譜』『本朝画纂』などを編纂するなど、江戸末期の画壇の大御所として、その七十八年の生涯を閉じている。この親定信派の文晁が、また、「鵬斎・抱一」贔屓で、その末弟よろしく、その晩年は、「中年迄は酒を禁じ、後年殊の外酒をたしなみ、日々朝より酒宴始、夜に入迄もたえず、来客にもすゝめ、若しいなむ者は大いに不興也」(『写山楼の記(野村文紹)』)と、上記の「片雲の風に誘われて遊興風流の世界に遊飛」するという一面を見せているのである。すなわち、単純な「親定信派」ではなく、極めて、「鵬斎・抱一」の世界に共感を有していたということも紛れもない事実であろう。

四、さて、大田南畝に関しては、この谷文晁以上に、どうにも説明できないような、鬱積した晦渋に充ちているのである。「天明七年(一七八七)六月、老中首席となった松平定信の寛政の改革、とりわけ文武奨励・文芸統制をしたその政策に、泰平の夢を破られた寝惚先生こと大田南畝は、ここでいち早く変身し、巧妙な保身の術を駆使して、その危機を見事に潜り抜けた。定信の新政権が寛政六年に実施した学問の奨励と人材登用のための学問吟味の試験には、白髪まじりの頭で半ば自嘲しながら望んだのである。その水際だった豹変ぶりは目を見張るものがある。(中略)しかもこの人材登用では南畝は見事首席で合格し、幕府の勘定役に抜擢されるのである。享和元年(一八〇一)大阪銅詰となった南畝は、この年から蜀山人という号を用い始めた。銅の異名を蜀山居士ということからきているらしいが、公儀の忌避に触れた狂歌狂詩のかつての盛名を避けるためのカモフラージュであったともいわれている(『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達(渥美国泰著)』)。
 このことに関しては、南畝の「カモフラージュ」(人目を誤魔化すため仮面を被っている)ではなく、この二面性(「公人と私人」など)こそ、南畝の生来のように思われる。しかし、この二面性も、「鵬斎・抱一・文晁」と同じく、「私がない(私心がない)」ところに、南畝の南畝たる所以があるように思われる。

五、これらの「私がない(私心がない)」ところの、「鵬斎・抱一・文晁・南畝」に比すると、「北斎は俺の真似ばかりしている」と豪語した鍬形蕙斎も、「楽易(らくい)」(楽して易しいこと)を自他共に目標とした大窪詩仏とは、やはり、これらの二人は、「鵬斎・抱一・文晁・南畝」の後塵を拝することであろう。

その九 江戸の粋人たち(南畝・抱一・山東京伝)の伴呂(吉原の才媛たち)

四方赤良.jpg

宿屋飯盛撰・北尾政演(山東京伝)画『吾妻曲狂歌文庫』所収「四方赤良(大田南畝)」
http://www.dh-jac.net/db1/books/results-thum.php?f1=Atomi-000900&f12=1&-sortField1=f8&-max=40&enter=portal

 大田南畝は、寛延二年(一七四九)、牛込御徒組屋敷(新宿区中町三七番地)で生まれた。御徒組とは歩兵隊であり、江戸城内の要所や将軍の外出の警護を任とする下級武士の集団で、組屋敷にはその与力や同心が住んでいた。
 十五歳の頃、牛込加賀町の国学者内山賀邸に学んだ。この賀邸の門から、後に江戸狂歌三大家と呼ばれる、「大田南畝(おおたなんぼ)・唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)・朱楽菅江(あっけらかんこう)」が輩出した。
 明和四年(一七六七)南畝一代の傑作、狂詩集『寝惚先生文集』が刊行された。その「序」は、「本草学者・地質学者・蘭学者・医者・殖産事業家・戯作者・浄瑠璃作者・俳人・蘭画家・発明家」として名高い「平賀源内」(画号・鳩渓=きゅうけい、俳号・李山=りざん、戯作者・風来山人=ふうらいさんじん、浄瑠璃作者・福内鬼外=ふくうちきがい、殖産事業家・天竺浪人=てんじくろうにん)が書いている。
 この狂詩集は当時の知識階級だった武士たちの共感を得て大ヒットする。時に、南畝は、弱冠十九歳にして、一躍、時代のスターダムにのし上がって来る。
 上記の『吾妻曲(あづまぶり)狂歌文庫』(宿屋飯盛撰・北尾政演(山東京伝)画)は、天明六年(一七八六)に刊行された。南畝が三十七歳の頃で油の乗り切った意気盛んな時代である。その頃の南畝の風姿を、北尾政演(山東京伝)は見事に描いている。
 この「四方赤良」(南畝の狂歌号)の賛は次のとおりである。

  あな うなぎ いづくの 山のいもと背を さかれて後に 身をこがすとは

 この赤良(南畝)の狂歌は、なかなかの凝った一首である。「あな=穴+ああの感嘆詞」「うなぎ=山芋変じて鰻となる故事を踏まえる」「いも=芋+妹(恋人)」「せ=瀬+背」「わかれ=分かれ(割かれ)+別れ」「こがす=焦がす(焼かれる)+(恋焦がれる)」などの掛詞のオンパレードなのである。
 「鰻」の歌とすると、「穴の鰻よ、いずこの山の芋なのか、その瀬で捕まり、背を割かれ、身をば焼かれて、ああ蒲焼となる」というようなことであろうか。そして、「恋の歌」とすると、「ああ、白きうなじの吾が妹よ、いずこの山家の出か知らず、恋しき君との、その仲を、引き裂かれたる、ああ、この焦がれる思いをいかんせん」とでもなるのであろうか。
 事実、この当時、大田南畝(四方赤良)は、吉原の遊女(三穂崎)と、それこそ一生一大の大恋愛に陥っているのである。その「南畝の大恋愛」を、『江戸諷詠散歩 文人たちの小さな旅(秋山忠彌著)』から、以下に抜粋をして置きたい。

【 狂歌といえば、その第一人者はやはり蜀山人こと大田南畝である。その狂歌の縁で、南畝は吉原の遊女を妾とした。松葉屋抱えの三穂崎である。天明期(一七八一~八九)に入って、狂歌が盛んとなり、吉原でも妓楼の主人らが吉原連なる一派をつくり、遊郭内でしばしば狂歌の会を催した。その会に南畝がよく招かれていたのである。吉原連の中心人物は、大江丸が想いをよせた遊女ひともとの主人、大文字屋の加保茶元成だった。南畝が三穂崎とはじめて会ったのは、天明五年(一七八五)の十一月十八日、松葉屋へ赴いた折であった。どうも南畝は一目惚れしたらしい。その日にさっそく狂歌を詠んでいる。
   香爐峰の雪のはたへをから紙のすだれかゝげてたれかまつばや
 三穂崎の雪のように白い肌に、まず魅かれたのだろうか。年が明けて正月二日には、
   一富士にまさる巫山の初夢はあまつ乙女を三保の松葉や
と詠み、三穂崎を三保の松原の天女に見立てるほどの惚れようである。三穂崎と三保の松原と松葉屋、この掛詞がよほど気に入ったとみえ、
   きてかへるにしきはみほの松ばやの孔雀しぼりのあまの羽ごろ裳
とも詠んでいる。そしてその七月、南畝はついに三穂崎を身請けした。ときに南畝は三十八歳(三十七歳?)、三穂崎は二十余歳だという。妾としてからは、おしづと詠んだ。当時の手狭な自宅に同居させるわけにもいかず、しばらくの間、加保茶元成の別荘に住まわせていた。いまもよく上演される清元の名曲「北州」は、この元成ら吉原連の求めに応じて、南畝が作詞したと伝えられている。 】

尻焼猿人一.jpg

宿屋飯盛撰・北尾政演(山東京伝)画『吾妻曲狂歌文庫』所収「尻焼猿人(酒井抱一)」
http://www.dh-jac.net/db1/books/results-thum.php?f1=Atomi-000900&f12=1&-sortField1=f8&-max=40&enter=portal

【 大田南畝率いる四方(よも)側狂歌連の、あたかも紳士録のような肖像集。色摺の刊本で、狂歌師五十名の肖像を北尾政演(山東京伝)が担当したが、その巻頭に、貴人として脇息に倚る御簾(みす)越しの抱一像を載せる。芸文世界における抱一の深い馴染みぶりと、グループ内での配慮のなされ方とがわかる良い例である。「御簾ほどになかば霞のかゝる時さくらや花の王とみゆらん」。】(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「作品解説・内藤正人稿」)

【 抱一の二十代は、一般に放蕩時代とも言われる。それはおそらく、松平雪川(大名茶人松平不昧の弟)・松前頼完といった大名子弟の悪友たちとともに、吉原遊郭や料亭、あるいは 互いの屋敷に入り浸り、戯作者や浮世絵たちと派手に遊びくらした、というイメージが大きく影響しているようなだ。だが、この時代、部屋住みの身であった彼は、ただただ酒色に溺れて奔放に暮らしていたわけではない。一七七七(安永六)年、兄の子でのちに藩主を継ぐ甥の忠道(ただひろ)が誕生したことで、数え年十七歳の抱一が酒井家から離脱を余儀なくされ、急激に軟派の芸文世界に接近していったことは確かである。だが、その後の彼の美術や文学の傾注の仕方は尋常ではない。その証拠に、たとえば後世に天明狂歌といわれる狂歌連の全盛時代に刊行された狂歌本には、若き日の抱一の肖像が収められ、並行して多くのフィクション、戯作小説のなかに彼の号や変名が少なからず登場する。さらにまた、喜多川歌麿が下絵を描いた、美しき多色刷りの狂歌集である『画本虫撰(えほんむしえらみ)』(天明八年刊)にもその狂歌が入集するなど、「屠龍(とりゅう)」「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」の両号で知られる抱一の俗文芸における存在感は大きかった。このうちの狂歌については、俳諧のそれほど高い文学的境地に達し切れなかったとはいえ、同時代資料における抱一の扱われ方は、二十代の彼の文化サロンにおける立ち位置を教えてくれる。 】(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「大名家に生まれて・内藤正人稿」)

 御簾ほどに なかば 霞のかゝる時 さくらや 花の王と見ゆらん (尻焼猿人)

 これは、尻焼猿人(抱一)が、この己の肖像画(山東京伝「画」)を見て、即興的に作った一首なのであろうか。とすると、この狂歌の歌意は、次のとおりとなる。

「京都の公家さんの御簾ならず、江戸前のすだれが掛かると、ここ吉原の霞の掛かった桜が、『花の王』のような風情を醸し出すが、そのすだれ越しの人物も、どこやらの正体不明の『花の王』のように見えるわい」というようなことであろうか。

 これが、「宿屋飯盛撰」の、「宿屋飯盛」(石川雅望 )作とするならば、歌意は明瞭となってくる。

「この『尻焼猿人』さんは、尊いお方で、御簾越しに拝顔すると、半ば霞が掛かった、その桜花が『百花の王』のように見えるように、なんと『江戸狂歌界の王』のように見えるわい」というようなことであろう。

 ほれもせず ほれられもせず よし原に 酔うて くるわの 花の下かげ(尻焼猿人)

 この狂歌は、『絵本詞の花』(宿屋飯盛撰・喜多川歌麿画、天明七年=一七八七)での尻焼猿人(抱一)の一首である。この時、抱一、二十七歳、その年譜(『酒井抱一と江戸琳派全貌(求龍堂)』所収)に、「十月十三日、忠以、徳川家斉の将軍宣下のため、幕府日光社参の名代を命じられ出立。抱一も随行。十六日に日光着。二十日まで。このとき、号「屠龍」。(玄武日記別冊)」とある。
 この頃は、兄の藩主忠以の最側近として、常に、酒井家を支える枢要な地位にあったことであろう。そして、上記の、「『屠龍(とりゅう)』『尻焼猿人(しりやけのさるんど)』の両号で知られる抱一の俗文芸における存在感は大きく」、且つ、「二十代の彼の文化サロンにおける立ち位置」は、極めて高く、謂わば、それらの俗文芸(狂歌・俳諧・浮世絵など)の箔をつけるために、その名を実態以上に喧伝されたという面も多かろう。
 そして、それらのことが、この「俗文芸」と密接不可分の関係にあった「吉原文化」と結びつき、上記の、「抱一の二十代は、一般に放蕩時代とも言われる。それはおそらく、松平雪川(大名茶人松平不昧の弟)・松前頼完といった大名子弟の悪友たちとともに、吉原遊郭や料亭、あるいは 互いの屋敷に入り浸り、戯作者や浮世絵たちと派手に遊びくらした、というイメージが大きく影響している」というようなことが増幅されることになるのであろう。
 しかし、その実態は、この、「ほれもせず ほれられもせず よし原に 酔うて くるわの 花の下かげ」のとおり、「この時代、部屋住みの身であった彼は、ただただ酒色に溺れて奔放に暮らしていたわけではない」ということと、後に、抱一は、吉原出身の「小鶯女史」を伴侶とするが、この当時は、吉原の花柳界の憧れのスターの一人であったが、抱一側としては、常に、酒井家における立つ位置ということを念頭に、分を弁えた身の処し方をしていたように思われる。
 これらのことについては、この『絵本詞の花』の画像と共に、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-06

 また「抱一と小鶯女史」については、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-28

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-09-01

 上記のアドレスの、「酒井抱一筆『紅梅図』(小鸞女史賛)・文化七年(一八一〇)作細見美術館蔵」関連のものを下記に再掲をして置きたい。

(再掲)

【 抱一と小鸞女史は、抱一の絵や版本に小鸞が題字を寄せるなど(『花濺涙帖』「妙音天像」)、いくつかの競演の場を楽しんでいた。小鸞は漢詩や俳句、書を得意としたらしく、その教養の高さが抱一の厚い信頼を得ていたのである。
小鸞女史は吉原大文字楼の香川と伝え、身請けの時期は明らかでないが、遅くとも文化前期には抱一と暮らしをともにしていた。酒井家では表向き御付女中の春條(はるえ)として処遇した。文化十四年(一八一七)には出家して、妙華(みょうげ)と称した。妙華とは「天雨妙華」に由来し、『大無量寿経』に基づく抱一の「雨華」と同じ出典である。翌年には彼女の願いで養子鶯蒲を迎える。小鸞は知性で抱一の期待によく応えるとともに、天保八年(一八三七)に没するまで、抱一亡きあとの雨華庵を鶯蒲を見守りながら保持し、雨華庵の存続にも尽力した。
本図は文化六年(一八〇九)末に下谷金杉大塚村に庵(後に雨華庵と称す)を構えてから初の、記念すべき新年に描かれた二人の書き初め。抱一が紅梅を、小鸞が漢詩を記している。抱一の「庚午新春写 黄鶯邨中 暉真」の署名と印章「軽擧道人」(朱文重郭方印)は文化中期に特徴的な踊るような書体である。
「黄鶯」は高麗鶯の異名。また、「黄鶯睨睆(おうこうけいかん)」では二十四節気の立春の次候で、早い春の訪れを鶯が告げる意を示す。抱一は大塚に転居し辺りに鶯が多いことから「鶯邨(村)」と号し、文化十四年(一八一七)末に「雨華庵」の扁額を甥の忠実に掲げてもらう頃までこの号を愛用した。
梅の古木は途中で折れているが、その根元近くからは新たな若い枝が晴れ晴れと伸びている。紅梅はほんのりと赤く、蕊は金で先端には緑を点じる。老いた木の洞は墨を滲ませてまた擦筆を用いて表わし、その洞越しに見える若い枝は、小さな枝先のひとつひとつまで新たな生命力に溢れている。抱一五十歳の新春にして味わう穏やかな喜びに満ちており、老いゆく姿と新たな芽吹きの組み合わせは晩年の「白蓮図」に繋がるだろう。
「御寶器明細簿」の「村雨松風」に続く「抱一君 梅花画賛 小堅」が本図にあたると思われ、酒井家でプライベートな作として秘蔵されてきたと思われる。
(賛)
「竹斎」(朱文楕円印)
行過野逕渡渓橋
踏雪相求不憚労
何處蔵春々不見惟 
聞風裡暗香瓢
 小鸞女史謹題「粟氏小鸞」(白文方印)    】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「作品解説96(岡野智子稿)」)

 この小鸞女史の漢詩の意などは、次のようなものであろう。

行過野逕渡渓橋(野逕ヲ過ギ行キ渓橋ヲ渡リ → 野ヲ過ギ橋ヲ渡リ)
踏雪相求不憚労(相イ求メ雪踏ムモ労ヲ憚ラズ → 雪ノ径二人ナラ労ハ厭ワズ) 
何處蔵春々不見惟(何處ニ春々蔵スモ惟イ見ラレズ → 春ガ何処カソハ知ラズ) 
聞風裡暗香瓢(暗裡ノ風ニ聞ク瓢ノ香リ → 暗闇ノ梅ノ香ヲ風ガ知ラスヤ)

山東京伝・吉原.jpg

北尾政演(山東京伝)著『〔新〕美人合自筆鏡』(「吉原傾城新美人合自筆鏡」)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288343

 この北尾政演(山東京伝)著『〔新〕美人合自筆鏡』(「吉原傾城新美人合自筆鏡」)についても、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-09

 この時代の抱一をして、「吉原文化の申し子」((『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「抱一の心の拠り所『吉原』・岡野智子稿」)とするならば、この抱一以上に、抱一と同年齢の、この山東京伝(浮世絵師・北尾政演)こそ、その名に相応しいであろう。
  安永八年(一七七九)、当時十九歳の山東京伝は、吉原・扇屋の菊園を知り、以後、かよいつめて、寛政二年(一七九〇)に、菊園を身請けし正式に妻に迎え入れる。しかし、この菊園は、寛政五年(一七九三)に、三十歳の若さで夭逝してしまう。
 その菊園の夭逝後、寛政九年(一七九七)、三十七歳の京伝は、吉原・弥八玉屋の玉の井を知り、寛政十ニ年(一八〇〇)に、妻に迎え、その名を百合と呼び、その弟と妹をも自分の家に引き取っているのである。
 何故、それほどに、山東京伝を始め、大田南畝、そして、出家後の、酒井抱一などの面々が、吉原の遊女たちを、己の伴侶とするのか、その一端は、上記の、北尾政演(山東京伝)著『〔新〕美人合自筆鏡』(「吉原傾城新美人合自筆鏡」)の全容を紐解くことによって了知されるであろう。

その十 山東京伝の「吉原傾城新美人合自筆鏡」と抱一の「吉原月次風俗図」など

山東京伝・吉原.jpg

北尾政演(山東京伝)著『〔新〕美人合自筆鏡』(「吉原傾城新美人合自筆鏡」)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288343

 この「吉原傾城新美人合自筆鏡」は、北尾政演(後の山東京伝)の作である。天明三年(一七八三)、版元は蔦屋重三郎で、「青楼名君自筆集」として大判二枚続きの作品として刊行された。その翌年、画帖仕立てにして、「序」は四方山人(大田南畝)、「跋」は朱楽館主人(朱楽菅江)が書き、「吉原傾城新美人合自筆鏡」として売りに出された。
 「傾城」とは、遊女のことで、「吉原傾城新美人合自筆鏡」とは、その名のとおり、吉原の遊女を描いた美人画集である。太夫(最高位の遊女)と新造(若い見習いの遊女)や禿(遊郭の住み込みの童女)などを、一図に五・六人の遊女を描き、太夫の自筆とされる詩歌などを図に添えている。
 繰り返しになるが、この作者の北尾政演は、浮世絵師・北尾重政の門人で、黄表紙(江戸小説の一種)の挿絵を中心に美人画や役者絵などを手掛ける一方、山東京伝の戯作号で、黄表紙、洒落本、合巻、読本など幅広いジャンルの執筆活動を行った、マルチタレントの典型的な人物である。
 月の大半を遊所で過ごしたとされ、吉原に親しんだ政演は、浮世絵師・北尾政演、また、戯作者・山東京伝として、版元の蔦屋重三郎と深い関係にあった。
この蔦屋重三郎は、政演よりも十一歳年長で、江戸吉原で生まれ育ち、その吉原大門口で、貸本・小売を主体とする本屋(耕書堂)を開業し、『吉原細見』(遊郭情報誌)を刊行し、大ヒットさせる。そして、次第に出版の内容を広げ、狂歌・戯作界の中心的人物の大田南畝と親交を深め、それらの作品を独占的に手掛けるようになる。
 さらに、寛政四年(一七九二)に、喜多川歌麿による美人大首絵を刊行、また、寛政六年(一七九四)、東洲斎写楽による役者似顔大首絵を刊行し、歌麿・写楽の名を今に轟かせている原動力となっている。北斎もまた、重三郎の狂歌絵本から出てきた新人で、今日の、これらの浮世絵師の名声は、名プロデューサーの蔦屋重三郎の名を抜きにしては語られないと言っても過言でなかろう。
浮世絵師・北尾政演もまた、この名プロデューサー・蔦屋重三郎の企画ものの、この「吉原傾城新美人合自筆鏡」によって、その名を不動のものにしたと言って、これまた過言でなかろう。
さて、そのトップを飾る、上記の「吉原傾城新美人」の太夫(花魁)は、中央の立膝をしているのが、「よつめ屋(四つ目屋)」の「なゝ里(七里)」で、その左に立って筆を執っているのが、同じ「よつめ屋(四つ目屋)」の「うた川(歌川)」のようである。

 右上部に書かれている「なゝ里(七里)」の歌の、「みよし野のかはへ(川辺)にさけるさくら花」の出だしは、古今和歌集の「みよし野の山辺に咲ける桜花・雪かとのみぞあやまたれける」(紀友則)のパロディの一首のようである。その下の句は、「ちりかかるをや」(散りかかるをや+塵かかるをや)「にごる(濁る)といふらむ(言ふらむ)」(『古今集』の伊勢のパロディ)の、そんな雰囲気の歌のようである。
 それに比して、左上部に書かれている「うた川(歌川)」の発句(俳句)は、「雨帯(び)てうこかぬ(動かぬ)梅のにほひ(匂ひ)かな」と比較的詠み易い感じである。これも、誰かの句のパロディの一句なのであろう。

 この「よつめ屋(四つ目屋)の「七里と歌川の二人」(三頁)に続き「四頁(二人)~九頁(二人)」と、合計すると、十四人の「太夫(花魁)」が、この「吉原傾城新美人合自筆鏡」には登場する。
 そして、この「九頁の右側の松葉屋の瀬川」については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-09

 上記のアドレスのものを再掲して置きたい。

(再掲)

北尾政演作「吉原傾城新美人合自筆鏡」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2014.html

江戸時代後期の流行作家山東京伝は、北尾政演(きたおまさのぶ)という画名で浮世絵を描いていました。その政演の最高傑作が、天明四年(1784)に出版された『吉原傾城新美人合自筆鏡』です。当時評判だった遊女の姿を描き、その上に彼女たち自筆の詩歌を載せています。右の遊女は松葉屋の瀬川で、彼女は崔国輔の詩「長楽少年行」の後半を書いていますが、他の遊女たちは自作の和歌を書いています。

上記の紹介文で、流行作家(戯作者)「山東京伝(さんとうきょうでん)」と浮世絵師「北尾政演(きたおまさのぶ)とで、浮世絵師・北尾政演は、どちらかというと従たる地位というものであろう。
 しかし、安永七年(一七七八)、十八歳の頃、そのスタート時は浮世絵師であり、その活躍の場は、黄表紙(大人用の絵草紙=絵本)の挿絵画家としてのものであった。そして、自ら、その黄表紙の戯作を書くようになったのは、二十歳代になってからで、「作・山東京伝、絵・北尾政演」と、浮世絵師と戯作者との両刀使いというのが、一番相応しいものであろう。
 しかも、上記の『吉原傾城新美人合自筆鏡』は、天明四年(一七八四)、二十四歳時のもので、その版元は、喜多川歌麿、東洲斎写楽を世に出す「蔦重」(蔦屋重三郎)その人なのである。
さらに、この浮世絵版画集ともいうべき絵本(画集)の「序」は、「四方山人(よもさんじん)=太田南畝=蜀山人=山手馬鹿人=四方赤良=幕府官僚=狂歌三大家の一人」、「跋」は、「朱楽管江(あけらかんこう)=准南堂=俳号・貫立=幕臣=狂歌三大家の一人」が書いている。
その上に、例えば、この絵図の右側の遊女は、当時の吉原の代表的な妓楼「松葉屋」の六代目「瀬川」の名跡を継いでいる大看板の遊女である。その遊女・瀬川の上部に書かれている、その瀬川自筆の盛唐の詩人・崔国輔の「長楽少年行」の後半(二行)の部分は次のとおりである。

章台折揚柳 → 章台(ショウダイ)揚柳(ヨウリュウ)ヲ折リ
春日路傍情 → 春日(シュンジツ) 路傍(ロボウ)ノ情(ジョウ)

吉原・元旦.jpg

(紙本淡彩、旧状は押絵貼六曲一双・現状は十ニ幅に改装、個人蔵)
「抱一筆『吉原月次風俗図』の背景(井田太郎稿)」所収「琳派・第五巻」挿図

 この抱一筆「吉原月次風俗図」の正月の図に大書されている「花街柳巷(かがいりゅうこう)」は、李白の詩などに由来する「花街」(遊郭・色里)の意で、この図の左側の賛(発句=俳句)「元日やさてよし原はしヅかなり」からすると、「吉原」(新吉原)」ということになろう。
 この「花街柳巷」にぴったりの、広重(初代)が描く「吉原(花街吉原・大門)・巷(衣紋坂)・柳(見返り柳)・日本堤(隅田川土手)」の絵図がある。


雪の吉原.jpg

広重筆「銀世界東十二景 新吉原雪の朝」(国立国会図書館蔵)
https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail275.html?keywords=snow

吉原・桜.jpg

広重筆「東都名所 新吉原」(国立国会図書館蔵)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1303523

 上の「新吉原雪の朝」の、右下が、「吉原の大門」で、「くの字の小道(巷)」が「衣紋坂」、その「くの字の巷」と「日本堤」との合流する所に「見返り柳」が描かれている。雪の朝で閑散とした吉原のスナップである。
 下の「新吉原」は、花見時のスナップで、手前に、吉原大門は描かれていず「吉原郭内図」、そして「くの字の衣紋坂」の一部、その先に「見返り柳」が描かれている。「日本堤」には、猪牙舟(ちょきぶね)で乗り付けて来た日本堤から吉原へ向かう遊客の群れが描かれている。
 新吉原は、明暦三年(一六五七)に、現在の日本橋人形町の旧(元)吉原から引っ越して来て、爾来、この吉原が江戸文化の中心地となり、明治五年(一八七二)の「娼妓解放令」が出た時の記録には、「百八十軒の遊女屋、百二十一軒の引手茶屋、三千四百四十八人の遊女、百七十一人の芸者、二十五人の幇間が居て、郭内の人口は一万人を超えていたという(『お江戸吉原ものしり帖(北村鮭彦著)』)。
 その郭内には、日常生活に必要な雑貨、小間物、荒物、魚屋などの食品を扱う店、仕出屋、菓子屋、銭湯、医師、書道指南、幇間(たいこもち)・音曲師匠、三味線師、大工、左官などの一般の町人、職人、芸人などと、まさに、当時の江戸の縮図のような賑わいを呈していたのであろう。
 上記の遊女屋というのは、「妓楼・青楼」、そして、引手茶屋というのは、遊客を遊女屋に案内する茶屋で、郭内の中央のメインの「仲の町通り」(大門から水道尻までの吉原一の大通り)の両側に軒を連ねており、上記の「新吉原」の桜並木(植木)に面した二階家が引手茶屋であろう。
 この引手茶屋は、上級の遊客が利用し、単純に遊女と遊ぶ面々は大通りから横町に入っての「張見世」、さらに、「浄念河岸」と「羅生門河岸」の「切見世」「銭見世」などを利用することになる。
 遊女のランクも、元吉原時代の「太夫・格子・端」の三ランクの区分も、新吉原時代になると、「太夫・格子・散茶・局(梅茶)・切見世」の五ランク、そして、新吉原時代後期
になると、「呼出・昼三・附廻・座敷持・部屋持・切見世」の六ランクにと変容するようである(「国文学解釈と鑑賞:川柳・遊里誌:昭和三八・二」など)。
 さて、ここで、冒頭の、北尾政演(後の山東京伝)が描く「吉原傾城新美人合自筆鏡」の主要な遊女(花魁)は、「太夫・格子・端」のランクの、その当時の名称の如何を問わず、最高級の「太夫」クラスであることは言うまでもない。
 と同時に、「山東京伝(北尾政演)・酒井抱一(屠龍・尻焼猿人)・大田南畝(四方赤良))らが吉原詣でするのは、この引手茶屋(妓楼・蔦屋耕書堂などのサロンを含む)などで繰り広げられる「文化サロン」(「連」「宴」「遊びの場」「交遊・ネットワーク」等々)での人との交歓が主で、単なる、いわゆる「傾城(遊女)」との「男女間の情愛」などを直接的に意図してのものではないということなのである。

  美しい花をちらすと二十七 (『柳多留一四』三一)
  二十八才で人間界へ出る  (『柳多留二八』一七)
  二十八からふんどしが白くなり(『柳多留二五』一〇)

 吉原というのは、良くも悪くも、三千人を超える遊女中心の世界であって、その遊女による「宴=晴」の空間であると同時に、その遊女の働きに因って一万人以上の人間が生活しているという「娑婆=褻」の空間でもある。
 そして、この吉原の主役の遊女は、厳しい年齢制限があって、二十七歳で「人間界=娑婆」へ出て、二十八歳からは、「赤い湯文字(ふんどし)」から「白い湯文字」を着けなければならないという、厳然たる事実の中に身を置いているのである。

 ここで、またまた、前回に引き続き、「山東京伝を始め、大田南畝、そして、出家後の、酒井抱一などの面々が、吉原の遊女たちを、己の伴侶とするのか」という問い掛けに対して、「その一端は、上記の、北尾政演(山東京伝)著『〔新〕美人合自筆鏡』(「吉原傾城新美人合自筆鏡」)を紐解けば合点が行くように、当時の最高級の女性が、この吉原に結集していたことと、今回、取り上げた、この吉原の女性の年齢制限も、大きく関係していると思われることも、付記して置きたい。

その十一 江戸の粋人・抱一の描く「その一・吉原月次風俗図(元旦)」など

吉原・元旦.jpg

酒井抱一筆「吉原月次風俗図」その一(正月「元旦」)
十二幅うち一幅(旧六曲一双押絵貼屏風) 紙本淡彩 九七・三×二九・二(各幅)落款「抱一書畫一筆」(十二月)他 印章「抱一」朱文方印(十二月)他
【もと六曲一双の屏風に各扇一図ずつ十二図が貼られていたものを、現在は十二幅の掛幅に改装され、複数の個人家に分蔵されている。吉原の十二か月の歳時を軽妙な草画に表わし、得意の俳句もこれまた達意の仮名書きで添えたもので、抱一ならではの詩書画三絶ぶりが全開されている。
 正月(元旦)「花街柳巷 雨華道人書之」の隷書体の題字に「元旦やさてよし原はしつかなり」の句。立ち並ぶ屋根に霞がなびき、朝鴉が鳴き渡っている。】
(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

 酒井抱一には、文政二年(一八一九)、五十九歳時の自跋がある「吉原」(新吉原)に関する「俳画集」とも言うべき『柳花帖』(全一冊・五十六丁・五十六図・五十五発句)がある。その跋文は次のとおりである。

【 夜毎郭楼に遊ひし咎か 予にこの双帋へ画かきてよ とのもとめにまかせ やむなくも酒に興して ついに筆とり初ぬ つたなき反古を跡にのこすも憂しと乞ひしに うけかひなくやむなくも 恥ちなから乞ひにまかせ ついに五十有餘の帋筆をつゐやしぬ ときに文政卯としはるの末へにそありける 雨花抱一演「文詮」(朱文重郭方印)  】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収「抱一の内なる世界 姫路市立美術館蔵 酒井抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』と『柳花帖』をめぐって:岡野智子稿」)

 この『柳花帖』には、「箱書」があり、そこには、次のように記載されている。

【 抱一上人筆句集
屠龍の技
  天保丁酉初春日 可保茶宗園題画 「大文字や」(朱文方印)  】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収「抱一の内なる世界 姫路市立美術館蔵 酒井抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』と『柳花帖』をめぐって:岡野智子稿」)

 この箱書きをした「可保茶宗園」は、吉原大文字屋三世南瓜宗園で、宗園は抱一に絵のてほどきを受けていたという(俳諧・狂歌なども手ほどきを受けていたと思われる)。そして、抱一が若い時から親交が厚かったのは、二世可保茶元成で、その元成ために戯画したとも伝えられている初代「大文字屋市兵衛図」については、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-23

 そこで、この『柳花帖』についても触れているが、その『柳花帖』の俳句(発句一覧)について、ここでも、再掲をして置きたい。

(再掲)

酒井抱一俳画集『柳花帖』(一帖 文政二年=一八一九 姫路市立美術館蔵=池田成彬旧蔵)の俳句(発句一覧)
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「酒井抱一筆「柳花帖」俳句一覧(岡野智子稿)」) ※=「鶯邨画譜」・その他関連図(未完、逐次、修正補完など) ※※=『屠龍之技』に収載されている句(「前書き」など)

  (画題)      (漢詩・発句=俳句)
1 月に白梅図   暗香浮動月黄昏(巻頭のみ一行詩) 抱一寫併題  ※四「月に梅」
2 白椿図     沽(うる)めやも花屋の室かたまつはき
3 桜図      是やこの花も美人も遠くより ※「八重桜・糸桜に短冊図屏風」
4 白酒図     夜さくらに弥生の雪や雛の柵
5 団子に蓮華図  一刻のあたひ千金はなのミち
6 柳図      さけ鰒(ふぐ)のやなきも春のけしきかな※「河豚に烏賊図」(『手鑑帖』)
7 ほととぎす図  寶(ほ)とゝきすたゝ有明のかゝみたて
8 蝙蝠図     かはほりの名に蚊をりうや持扇  ※「蝙蝠図」(『手鑑帖』)
9 朝顔図     朝かほや手をかしてやるもつれ糸  
10 氷室図    長なかと出して氷室の返事かな
11 梨図     園にはや蜂を追ふなり梨子畠   ※二十一「梨」
12 水鶏図    門と扣く一□筥とくゐなかな   
13 露草図    月前のはなも田毎のさかりかな
14 浴衣図    紫陽花や田の字つくしの濡衣 (『屠龍之技』)の「江戸節一曲をきゝて」
15 名月図    名月やハ聲の鶏の咽のうち
16 素麺図      素麺にわたせる箸や天のかは
17 紫式部図    名月やすゝりの海も外ならす   ※※十一「紫式部」
18 菊図      いとのなき三味線ゆかし菊の宿  ※二十三「流水に菊」 
19 山中の鹿図   なく山のすかたもみへす夜の鹿  ※二十「紅葉に鹿」
20 田踊り図     稲の波返て四海のしつかなり
21 葵図       祭見や桟敷をおもひかけあふひ  ※「立葵図」
22 芥子図      (維摩経を読て) 解脱して魔界崩るゝ芥子の花
23 女郎花図     (青倭艸市)   市分てものいふはなや女郎花
24 初茸に茄子図    初茸や莟はかりの小紫
25 紅葉図       山紅葉照るや二王の口の中
26 雪山図       つもるほと雪にはつかし軒の煤
27 松図        晴れてまたしくるゝ春や軒の松  「州浜に松・鶴亀図」   
28 雪竹図       雪折れのすゝめ有りけり園の竹  
29 ハ頭図      西の日や数の寶を鷲つかみ   「波図屏風」など
30 今戸の瓦焼図    古かねのこまの雙うし讃戯画   
            瓦焼く松の匂ひやはるの雨 ※※抱一筆「隅田川窯場図屏風」 
31 山の桜図      花ひらの山を動かすさくらかな  「桜図屏風」
  蝶図        飛ふ蝶を喰わんとしたる牡丹かな      
32 扇図        居眠りを立派にさせる扇かな
  達磨図       石菖(せきしょう)や尻も腐らす石のうへ
33 花火図       星ひとり残して落ちる花火かな
  夏雲図       翌(あす)もまた越る暑さや雲の峯
34 房楊枝図 はつ秋や漱(うがい)茶碗にかねの音 ※其一筆「文読む遊女図」(抱一賛)
  落雁図       いまおりる雁は小梅か柳しま
35 月に女郎花図    野路や空月の中なる女郎花 
36 雪中水仙図     湯豆腐のあわたゝしさよ今朝の雪  ※※「後朝」は
37 虫籠に露草図    もれ出る籠のほたるや夜這星
38 燕子花にほととぎす図  ほとときすなくやうす雲濃むらさき 「八橋図屏風」
39 雪中鷺図      片足はちろり下ケたろ雪の鷺 
40 山中鹿図      鳴く山の姿もミヘつ夜の鹿
41 雨中鶯図      タ立の今降るかたや鷺一羽 
42 白梅に羽図     鳥さしの手際見せけり梅はやし 
43 萩図        笠脱て皆持たせけり萩もどり
44 初雁図       初雁や一筆かしくまいらせ候
45 菊図        千世とゆふ酒の銘有きくの宿  ※十五「百合」の
46 鹿図        しかの飛あしたの原や廿日月  ※「秋郊双鹿図」
47 瓦灯図       啼鹿の姿も見へつ夜半の聲
48 蛙に桜図      宵闇や水なき池になくかわつ
49 団扇図       温泉(ゆ)に立ちし人の噂や涼台 ※二十二「団扇」
※50 合歓木図     長房の楊枝涼しや合歓花 ※其一筆「文読む遊女図」(抱一賛)
51 渡守図       茶の水に花の影くめわたし守  ※抱一筆「隅田川窯場図屏風」
52 落葉図      先(まず)ひと葉秋に捨てたる団扇かな ※二十二「団扇」

 さて、ここで特記をして置きたいことは、この「吉原大文字楼三世南瓜(可保茶)宗園」の箱書きの「天保丁酉」は、天保八年(一八三七)で、「酒井抱一と江戸琳派関係年表」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』)に、「十月二十七日、妙華尼没(浄栄寺過去帳)」とあり、抱一の伴侶・小鶯女史(俗名=おちか、御付女中名=春篠・春条《はるえ》?、遊女名=香川・一本《ひともと》?・誰ケ袖?)が亡くなった年なのである。
 さらに、その年に、「『柳花集』其一挿絵」とあり、この狂歌集『柳花集』(村田元就・遊女浅茅生撰、村片相覧・鈴木其一画)の撰者の「村田元就」は、「吉原大文字楼三世南瓜(可保茶)宗園」であろう。そして、この「遊女浅茅生」は、抱一の伴侶の妙華尼と何らかの縁があるように思われるのである。
 ここで、大胆な推測をすると、「吉原大文字楼三世南瓜(可保茶)宗園」の懇請により描かれたとされている、この抱一の俳画集『柳花帖』は、何らかの機縁で、抱一の伴侶・妙華尼が手元に所持していて、亡くなる時に、「吉原大文字楼三世南瓜(可保茶)宗園」の再び元に戻ったように解したい。
 として、この『柳花帖』は、抱一と小鶯女史との思い出深い画帖と解したいのである。そして、この抱一と小鶯女史との、その深い関わりに陰に陽に携わった、その人こそ、抱一の後継者の第一人者・鈴木其一と解したいのである。
 これらのことについては、下記のアドレスで、上記の『柳花帖』の「※50 合歓木図     長房の楊枝涼しや合歓花」に関連しての「抱一・小鶯女史・其一」との、この三者の深い関わりについて触れている。ここで、その「※其一筆『文読む遊女図』(抱一賛)」関連のものも再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-28

(再掲)

其一・文読む遊女図.jpg

鈴木其一筆「文読む遊女図」 酒井抱一賛 紙本淡彩 一幅 九㈣・二×二六・二㎝
細見美術館蔵
【 若き日の其一は、師の抱一に連れられて吉原遊郭に親しんだのだろうか。馴染み客からの文を読む遊女のしどけない姿に、「無有三都 一尺楊枝 只北廓女 朝々玩之」「長房の よふし涼しや 合歓花」と抱一が賛を寄せている。 】(『別冊太陽 江戸琳派の美』所収「江戸琳派における師弟の合作(久保佐知恵稿)」)
【 其一の遊女図に、抱一が漢詩と俳句を寄せた師弟の合作。其一は早くから『花街漫録』に、肉筆浮世絵写しの遊女図を掲載したり、「吉原大門図」を描くなど、吉原風俗にも優れた筆を振るう。淡彩による本図は朝方客を見送り、一息ついた風情の遊女を優しいまなざしで的確に捉えている。淡墨、淡彩で略筆に描くが、遊女の視線は手にした文にしっかりと注がれており、大切な人からの手紙であったことを示している。賛は房楊枝(歯ブラシ)を、先の広がっているその形から合歓の花になぞらえている。合歓は夜、眠るように房状の花を閉じることから古来仲の良い恋人、夫婦に例えられた。朝帰りの客を見送った後の遊女のしっとりとした心情をとらえた作品である。草書体の「其一筆」の署名と「必菴」(朱文長方印)がある。
(賛)
無有三都 
一尺楊枝 
只北廓女 
朝々玩之

長房の 
よふし涼しや 
合歓花
       抱一題「文詮」(朱文瓢印)  】  
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説(岡野智子稿))」

 上記の解説文で、上のものは「簡にして要を得る」の典型的なもので、これだけでは、何とも「謎」の多い「文読む遊女図」のものとしては、やや不親切の誹りを受けるのかも知れない。
 ということで、下のものは、その「謎」解きの一つの、「房楊枝(歯ブラシ)」が「合歓の花」の比喩(別なものに見立てる)であることについて触れている点は、親切なのだが、しかし、その後の、「朝帰りの客を見送った後の遊女のしっとりとした心情をとらえた作品である」となると、やや、説明不足の印象が拭えない。

昼は咲き夜(よる)は恋ひ寝(ぬ)る合歓木(ねぶ)の花君のみ見めや戯奴(わけ)さへに見よ (紀女郎・『万葉集・巻八(一四六一)』)

 この万葉集の「紀女郎」の歌の「君」は、「紀女郎」自身であり、「戯奴(わけ・たわむれやっこ)は、年下の恋人の大伴家持である。

 これに対して、家持の返歌は次のとおり。

 我妹子(わぎもこ)が形見の合歓は花のみに咲きてけだしく実にならじかも (大伴家持
『万葉集』巻八・一四八三) 

 冒頭の「文読む遊女図」(其一筆・抱一賛)には、この『万葉集』の相聞歌などが背景にあり、「君=紀郎女=遊女香川=小鸞女史(抱一夫人=妙華尼)」と「戯奴=大伴家持=抱一(雨華庵)」とを、その走り使いの其一が、一幅ものにしたような、そんな雰囲気を漂わせている。

  象潟や雨に西施がねむの花  芭蕉

 芭蕉の、この『おくのほそ道』での句は、蘇東坡の詩句を受けてのもので、上記の『万葉集』の相聞歌とは関係がないが、抱一に見受けされて、終の棲家の「雨華庵」で、晩年の抱一を支え続けた小鸞女史のイメージは、花魁香川というイメージよりも、控え目な西施風のイメージが強いであろう。

 抱一は、宝暦十一年(一七六一)の生まれ、其一は、寛政八年(一七九六)の生まれ、両者の年齢差は、三十五歳と、親子ほどの開きがある。抱一が、新吉原大文字屋花魁・香川を、見受けして、表向きは御付女中・春條(はるえ)とし、「雨華庵」で同棲を始めたのは、文化八年(一八〇九)、其一が抱一の内弟子となったのは、文化十年(一八一三)の頃である。
 文化八年(一八〇九)の、抱一の内弟子になる以前の其一は、おそらく、抱一の中小姓として仕えていた鈴木蠣潭の下で、抱一の小間使いのようなこともしていたように思われる。
 すなわち、冒頭の「文読む遊女図」の遊女は、其一が知っている遊女図というよりも、主君のような存在の抱一と、その御付女中・春條として迎え入れられた「遊女(花魁)・香川」図のように理解して来ると、この「文読む遊女図」(其一筆)の、抱一の賛(漢詩と発句)が、始めて、その正体を現してくるような感じなのである。
 それらのことを念頭にして、抱一の賛(漢詩と発句)を読み解くと、次のようになる。

 無有三都  (三都に有や無しや)
 一尺楊枝  (見よ この一尺の歯楊枝を 即ち この一尺の合歓の花を)
 只北廓女  (只に 北に咲く合歓の花 即ち 只に 新吉原の廓女を)
 朝々玩之  (朝々に これを愛ずり 朝々に これと交歓す)

 長房の    (長い房の その歯楊枝の如き)
 よふし涼しや (夜を臥して涼やかに そは夜を共寝して涼やかに)
 合歓花    (合歓の花 そは西施なる妙なる花ぞ)

 其一が生まれた寛政八年(一七九六)、抱一、三十六歳時に、「俳諧撰集『江戸続八百韻』を世に出し、其角・存義に連なる江戸座の俳諧宗匠の一人として名をとどめ、爾来、抱一は、その俳諧の道と縁を切ってはいない。
 その俳風は、芭蕉門の最右翼の高弟、宝井其角流の、洒落俳諧・比喩(見立て)俳諧の世界で、その元祖の芭蕉俳諧(「不易流行」の「不易」に重きを置く)とは一線を画している。

  象潟や雨に西施がねむの花  芭蕉
  長房のよふし涼しや合歓花  抱一

 芭蕉の句の、この「西施」なる字句の背景に、蘇東坡の漢詩が蠢いているが、それが、この句の眼目ではなく、歌枕の「象潟」を目の当たりにして、その「象潟」の、永遠なるもの(流行に根ざす不易なるもの)への「感慨・憧憬」と、その地霊的なものへの「挨拶」が、
この芭蕉の句の眼目となってくる。
 それに比して、抱一の句は、「長房の」の「長房」(「長い房」と「長い歯楊枝」との掛け)、「よふし涼しや」の「よふし(「夜臥す」と「夜閉じる」との掛け)の、「洒落・見立ての面白さ」が、この句の眼目になっている。そして、それは、下五の「合歓の花」に掛かり、全体として、「合歓の花」を見ての、刹那的(不易なるものより一瞬に流れ行くもの)な「感慨・憧憬」を、言霊(ことだま)的な「挨拶」となって、一種の謎句的なイメージが、この抱一の句の眼目となってくる。

  雨の日やまだきにくれてねむの花  蕪村

 蕪村も、抱一と同じく、其角・巴人の「江戸座」の「洒落・比喩俳諧」の流れに位する俳人の一人である。しかし、抱一と違って、「其角好き」の一方、無類の「芭蕉俳諧の信奉者」なのである。
 この蕪村の句も、「まだきくれて」(まだ時間でもないのに日が暮(昏)れる)というところに、其角・抱一と同じように、掛け言葉の比喩俳諧的な世界に根ざしている。この句は、「虎雄子が世を早うせしをいたむ」との前書きがあって、芦陰社中の俳人虎雄への悼句なのである。すなわち、「若くして夭逝した俳友」を、この眼前の「雨の日のまだきにくれゆく合歓の花」に見立てているということになる。


 翻って、抱一と小鶯女史とが、下谷根岸大塚村の鶯の里に定住したのは、文化六年(一八〇九)、抱一、四十九歳、そして、小鶯女史は、「年明き」「身請け」などを考慮して、二十七・八歳の頃と推定される。
 それから八年後の文化十四年(一八一七)に、その鶯の里の庵居に「雨華庵」の額を掲げ、抱一は、以来「雨華」の号を多用するようになる。そして、この年、小鶯女史は剃髪して「妙華尼」を名乗るようになる(「等覚院御一代」)。
 そして、上記に紹介した、抱一の吉原に関する俳画集『花柳帖』が制作されたのは、文政二年(一八一九)、抱一、五十九歳の頃である。
 ここで、特記したいことは、この吉原に関する抱一の俳画集『花柳帖』では、吉原の代名詞とも言うべき遊女などの人物像は一切排除されて、上記に再掲した画題の通り、「月に白梅・白椿・桜・蓮華・柳・朝顔・梨・露草・菊・葵・芥子・女郎花・初茸に茄子・紅葉・松・雪竹・八頭・水仙・燕子花・萩・合歓木」「ほととぎす・蝙蝠・水鶏・蝶・落雁・初雁・鶯」などの、抱一絵画特有の「花鳥画」の、さながら、俳画集「絵手鑑」の趣を呈しているということである。
 この俳画集『花柳帖』を基礎にして、冒頭に紹介した「吉原月次風俗図」(十二幅・旧六曲一双押絵貼屏風)、そして、その「吉原月次風俗図」を図巻にしたような「花街柳巷図巻」は制作されたものと思われ、これら抱一の「吉原三部作」は、文政二年(一八一九)を前後にしての、同一時期の制作のように思われる。
 ここで、これらの抱一の「吉原三部作」(『花柳帖』「吉原月次風俗図」「花街柳巷図巻」)に、遊女類の人物像が排除されていることについて、「抱一が美人画の画家でなかったのも一因」(「抱一筆『吉原月次風俗図』の背景(井田太郎稿)」)との見方もあるが、これは、吉原の遊女出身の、今は剃髪して「妙華尼」を名乗っている小鶯女史への、抱一流の情愛の細やかな配慮が、その背景にあるように解したい。
 そして、この細やかな配慮こそ、「江戸の粋人」の「粋(すい)」に通ずるもののように解したい。ちなみに、この「粋(すい)」について、「水は方円の器に従う。(中略)『粋』に『いき』の訓はない。(中略)江戸初期には『水』『推』『帥』などと、いろいろな文字が宛て字として用いられた。なかでも『水』が最も多い。(中略)遊興生活を営む上において、見事な平衡感覚を備えた人の意である。そういう人は当然、他人の志向をよく推量するから『推』、そして、そのような人は自然と重んじられて一軍の将帥となるから『帥』であり、(中略)まじりけのない『純粋』な、良質の『精粋』な人の意」(『江戸文化評判記(中野三敏著)』)と喝破した見方を是としたい。

(追記一)「夜色楼台図(蕪村画)」と「吉原月次風俗図のうち元旦図(抱一画)」・「花街柳巷図巻のうち元旦図(抱一画)」

蕪村 夜色楼台図.jpg

「夜色楼台図(蕪村画)」

花柳図巻元旦.jpg

「花街柳巷図巻のうち元旦図(抱一画)」

 蕪村の水墨画(横長)の傑作「夜色楼台図」は、京都の東山をバックに祇園 の妓楼と京の街並みの雪の夜の「屋根・屋根」の光景である。そして、抱一の淡彩画(水墨画に近い)の「縦長」の「吉原月次風俗図のうち元旦図」(冒頭に掲載)と「横長」の「花街柳巷図巻のうち元旦図」(上記の下の図)も、江戸の吉原の妓楼などの「屋根・屋根」の光景である。
この抱一の「吉原月次風俗図のうち元旦図」について、「抱一ならではの詩書画三絶ぶりが全開されている」(冒頭の「小林忠稿」)とすれば、蕪村の「夜色楼台図」もまた、「蕪村ならではの詩書画三絶ぶりが全開されている」との評が当て嵌まるであろう。
 しかし、続けて、抱一の「吉原月次風俗図のうち元旦図」について、「立ち並ぶ屋根に霞がなびき、朝鴉が鳴き渡っている」(冒頭の「小林忠稿」)は、「立ち並ぶ吉原の郭内の屋根、そして、雪の朝の一刷毛の描写、そして、その雪空に閑古鳥が飛んでいる」としたい。
 ちなみに、「抱一筆『吉原月次風俗図』の背景(井田太郎稿)」では、「よし原の元日ばかりかんこ鳥」(『俳諧觽《けい》二十二編)が紹介されている。この『俳諧觽』は、江戸座俳人・抱一に近い「沾洲・紀逸らの点者(宗匠)の高点付句集」であり、これまた、「江戸の粋人・抱一」に相応しいであろう。

(追記二)「吉原月次風俗図のうち元旦図(抱一画)」・「花街柳巷図巻のうち元旦図(抱一画)」と「東山清音・江天暮雪(大雅画)」そして「銀世界東十二景 新吉原雪の朝(広重画)」

東山清音9 (2).png

「東山清音・江天暮雪図(大雅画)」

 この大雅の「江天暮雪図」については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-04-25

 そこで、『新潮日本美術文庫11池大雅』所収「作品解説(武田光一稿)」の、下記の鑑賞文を紹介した。

[ 紙本墨画 一帖 全十六面 各二〇・〇×五二・〇cm
 本図にのみ「九霞山樵写」と落款が入っているので、八景の締めくくりの図である。たっぷりと水墨を含んだ太めの筆を、左側から数回ゆったりと走らせ、たちまちにして主山と遠山を描いてしまう。画面が湾曲している扇面形に、これらの主山、遠山の形と配置だけでもじつは難しいのであるが、大雅の筆にはいささかな迷いもなく、ごく自然に、これしかないという形で決まっている。太い墨線の墨がまだ乾かないうちに水を加えて、片側をぼかしている。白い雪、ふわっとした質感の表現であるが、まさに妙技といえる。折しも、一陣の風に、降り積もった新雪が舞い上がる。図25の《江天暮雪図》(注=掲載省略)と比較しても、本図においてはまた一段と円熟味が増しており、堂々たる風格を備わっていることがわかる。 ]
(『新潮日本美術文庫11池大雅』所収「作品解説(武田光一稿)」)

 この鑑賞文ですると、上記の「吉原月次風俗図のうち元旦図(抱一画)」・「花街柳巷図巻のうち元旦図(抱一画)」の、その「屋根・屋根」の上とその下の刷毛のような線は、「たっぷりと水墨を含んだ太めの筆を、左側から数回ゆったりと走らせた」という表現となって来よう。そして、「水墨を含んだ太めの筆」の運びが、先に紹介した、「銀世界東十二景 新吉原雪の朝(広重画)」を連想させるのである。

雪の吉原.jpg

広重筆「銀世界東十二景 新吉原雪の朝」(国立国会図書館蔵)
https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail275.html?keywords=snow

その十二 江戸の粋人・抱一の描く「その二 吉原月次風俗図(二月・初午)」

花街柳巷二.jpg

酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(二月「初午」)十二幅うち一幅(旧六曲一双押絵貼屏風) 紙本淡彩 九七・三×二九・二(各幅)落款「抱一書畫一筆」(十二月)他 印章「抱一」朱文方印(十二月)他
【二月(初午)「きさらぎ 初のうま 当社の御額は廣澤老住のくろすけいなりと七字を記せり/青柳や 稲荷の額のあふな文字」と賛があり、「黒助いなり大明神」と墨書した提灯を掛け並べた様が描かれる。黒助稲荷は遊里の繁栄とそこに暮らす人々の幸運を頼む小社であった。】
(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

二月.jpg

(上の図の「上部(賛)」の部分図)

 「吉原月次風俗図」(二月「初午」)の上部に書かれている、この賛が、「きさらぎ 初のうま 当社の御額は 廣澤老住の くろすけいなりと 七字を記せり/青柳や稲荷の額のあふな文字」との抱一の書である。
 そして、この抱一の発句(俳句)、「青柳や稲荷の額のあふな文字」の「おふな(女)文字」というのは、「女性が書いた文字」の意ではなく、その前段の前書きに書かれている、「廣澤老住の『くろすけいなり』」の、「平仮名の文字」の意なのであろう。

【 二月 初午。「伊勢屋いなりに犬の糞」といわれた江戸には稲荷の社が特に多かった。吉原にも四隅に四社の稲荷が祀られ、中でも京町一丁目の隅の九郎助稲荷が繁盛であった。「此夜江戸町一丁め二丁め京丁新丁の通りの中へ、家々の女郎の名を書きつけたる大提灯をともす事おひたゞし、是はいなりへの奉納の為なり、…… 客女郎打まじりさんけいはなはだくんじゆす」(吉原大全) 】
(「国文学解釈と鑑賞:川柳・遊里誌:昭和三八・二」)

吉原図.jpg

『吉原御免状(隆慶一郎著)』
https://choitoko.com/geino/rakugo/post-5241/

 上記の「新吉原見取り図」の左上隅が「黒助(九郎助)稲荷」で、その郭内の四隅には稲荷が祀られている。なお、廓内の「茶屋」は「引手茶屋」、廓外の「編傘茶屋」(顔を隠す編笠を貸していた茶屋」)は「外茶屋」(「水茶屋」「田楽茶屋」「料理茶屋」など)で、廓内の茶屋とは区別される。この廓外の「吉徳稲荷」が明治になって合祀され「吉原神社」となっている。

 初午は角ミつこばかりさわがしい    (『柳多留一七』二三)
 きつねさへしろうとでない所なり    (『柳多留一九』二一)
 九郎介へ化けて出たいの願(がん)ばかり(『柳多留拾遺一四』)
 九郎介を見かぎるような願(がん)ばかり(『柳多留拾遺一四』)
 九郎介はどうぞと思ふ願(がん)ばかり (『柳多留拾遺一四』)
 九郎介へ代句だらけの絵馬の上     (『柳多留初編』二)

 この「黒助(九郎助)稲荷」は「縁結び」の稲荷として知られ、また、遊女が「俳句などを奉納した」句なども見られる。

  青柳や稲荷の額のあふな文字  (抱一)

 この抱一の句の「あふな(女)文字」にも、吉原の遊女たちの「願(がん)掛け」の、その「願(がん)」が聞き入れられるようにとの意を含ませての、抱一の視点のようにも解せられる。また、この「黒助(九郎助)稲荷」も、抱一と小鶯女史との何らかの所縁の深い所なのかも知れない。
 さらに、この「吉原月次風俗図」(二月「初午」)の「平仮名(女文字)」の賛は、その前に書かれている「正月(元旦)」の、次の「隷書体(男文字)」の題字と、いわゆる、連歌・俳諧(連句)上の「四道」(添・随・放・逆)の「逆付け」を踏まえてのような雰囲気も有している。

一月部分図.jpg

「吉原月次風俗図」(正月「元旦」)の題字

その十三 江戸の粋人・抱一の描く「その三 吉原月次風俗図(三月・夜桜)」

 前回(「その二 吉原月次風俗図(二月・初午」)に続く、「吉原月次風俗図(三月(夜桜)」というのは、『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』などには収載されていない。
 その同書中の、「花街柳巷図巻」(個人蔵)で、下記の通り、その概要を見ることが出来る(また、同書中の「作品解説(小林忠稿)」は次の通り)。

三月.jpg

抱一筆「花街柳巷図巻」のうち「三月(夜桜)」
【三月(夜桜) 「夜さくらや筥てうちんの鼻の穴 楼上に居續したるあした起よ今朝 うへ野の四ツそ花の雨」の賛と、仲の町に植えられた桜の木と柵の絵」(「作品解説(小林忠稿)」)。】

 この図と、この作品解説だけでは、抱一の「吉原月次風俗図(三月・夜桜)」「花街柳巷図巻(三月・夜桜)」をイメージするのは無理かも知れない。吉原の仲の町通り(メインの大通り)に植えられる桜(開花の時に植えられ、散ると撤去される)と箱提灯(筥てうちん:下図では花魁道中の先頭の人が持っている提灯)は、下記の「東都名所画 吉原の夜桜(渓斎英泉筆)」などによるとイメージがし易い。

英泉・夜桜.jpg

渓斎英泉筆「東都名所画 吉原の夜桜」(太田記念美術館蔵)

   夜ざくらや筥てふちんの鼻の上  (抱一・「三月・夜桜」の賛)

【 三月の図は春の人寄せのイベントである夜桜が描かれます。画賛の一つは「夜ざくらや筥でうちんの鼻の穴」です。春の吉原は、仲之町通りに鉢植えの桜を置きます。この画賛の初案の頭註には、『史記』「周本紀」第四に載る字句「后稷生巨跡」に拠ったとあります。后稷には、母親の姜原が巨人の足跡を踏んで妊娠したという伝説があります。つまり、「筥でうちんの鼻の穴」という小さい穴は、后稷が生まれた巨人の足跡に見立てられています。そこからうまれたものは「夜ざくら」と、描かれない多数の見物客です。つまり、筥提灯の上部の空気穴から光が漏れる。その光に照らしだされた夜桜と多数の見物客が、后稷に見立てられます。ここでは画賛は、夜桜の賑わいを補完する機能を担わされています。 】(「抱一筆『吉原月次風俗図』の背景(井田太郎稿)」)

どうにも、難解な、抱一の師筋に当たる、宝井其角の「謎句」仕立ての句である。この句の前書きのような賛に書かれているのだろうが、『史記』の「后稷(こうしょく)」伝説に由来している句のようである。
「后稷(こうしょく)」伝説とは、「〔「后」は君、「稷」は五穀〕 中国、周王朝の始祖とされる伝説上の人物。姓は姫(き)、名は棄(き)。母が巨人の足跡を踏んでみごもり、生まれてすぐに棄(す)てられたので棄という。舜(しゆん)につかえて人々に農業を教え、功により后稷(農官の長)の位についた」を背景にしているようである。
 ここは、余り詮索しないで、上記の、渓斎英泉筆「東都名所画 吉原の夜桜」ですると、「花魁道中を先導する男衆の持つ箱提灯の上部の穴からの光が、鮮やかに夜桜や人影を浮かび上がらせる」というようなことなのであろう。

  吉原の夜見せをはるの夕ぐれは入相の鐘に花やさくらん 四方赤良(大田南畝)
  廓(さと)の花見は入相が日の出なり  (『柳多留六三』)
  夜桜へ巣をかけて待つ女郎蜘蛛     (『柳多留七三』)
  年々歳々客を呼ぶために植え      (『柳多留六二』)
  里馴れて来ると桜はひんぬかれ     (『柳多留一〇七』) 

 これらの狂歌や川柳(前句付)の風刺的な「捩り」の、抱一の一句と解することも出来るのかも知れない。

  起よ今朝うへ野の四ツぞ花の雨    (抱一・「三月・夜桜」の賛)

 冒頭の作品解説中にある、「夜ざくらや筥てふちんの鼻の上」に続く、「楼上に居續したるあした起よ今朝 うへ野の四ツそ花の雨」の賛も、「(楼上に居續したるあした) 起よ今朝うへ野の四ツそ花の雨」と、「前書き=楼上に居續したるあした=吉原の妓楼に意続けての朝方」・「発句=起よ今朝うへ野の四ツぞ花の雨」と、これも、「朝方四ツ=吉原の朝方十時、うえ野=上野の山、花の雨=花の散りかかる頃の雨」の発句の賛のようである。

  夜ざくらや筥てふちんの鼻の上  (「吉原」の「夜桜」を昨夜はたっぷり堪能した)
  起よ今朝上野の四ツぞ花の雨(起きよ今朝四ツ時ぞ「上野」の「花の雨」の見物だ)

 これは、「吉原の夜桜見物」と、「居続け」にして、「上野の山の昼の花の雨見物」へと、次々と「ハシゴ(梯子)」する、抱一らの「江戸座俳諧」特有の洒落句(滑稽句)としての二句なのかも知れない。

  桜から桜へこける面白さ (『柳多留二五』)
  女房へ嘘つく桜咲にけり (『俳諧觽三』)
  居続けのばかばかしくも能(よ)い天気 (『柳多留三』)
  よくよくの馬鹿吉原に三日居る (『柳多留一八』)

其一・大門図.jpg

鈴木其一筆「吉原大門図」一幅 ニューオータニ美術館大谷コレクション蔵
【 吉原大門からつづく仲の町通りを東から眺め、入ってすぐの引手茶屋「山口巴屋」の様子や、吉原に行き交う人々の諸相をとらえる。花魁、芸者、禿、酔客、按摩、老人、若侍などと、各種の人々を等しく観察し一か所に集めた。其一は群像の表現にもはやくから関心を寄せ習熟していることを示すが、「其一戯画」と意識的な署名をし、他に使用例のない「毀誉不動(毀誉に動ぜず)」印を捺している。この意識は晩年まで続く。】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収「作品解説二〇三(岡野智子稿))

 抱一には、このような「風俗図」「群像図」は余り見られない。その抱一の右腕とも言うべき抱一門の第一人者・鈴木其一は、この種の「風俗図」「群像図」を手掛けている。しかし、上記の解説にあるとおり、この種のものの署名の「戯画」、落款印の「毀誉不動(毀誉に動ぜず)」などからすると、抱一門では、「仏画制作」を主要画業の一つにしているので、この種のものはスタンダードの分野ではないのかも知れない。
 この其一の「吉原大門図」は、抱一・其一時代の「吉原」の情景を的確に描写している。大門を入ってすぐ右手の引手茶屋が最も格式のある茶屋で七軒茶屋と呼ばれ、その筆頭格が「山口巴屋」で、その座敷に、「花魁(簪の数が多い)・新造(部屋持ちと振袖)・禿(少女)・芸者(三味線を持っている)・客人」などが描かれている。
 その大門近くの辻行燈の前に、「箱提灯を持った男衆・花魁・禿・新造」が馴染み客を出迎えるための立って待っている光景、その辻行燈の後方は「番所」(四郎兵衛)で、大門口の見張り(遊女の外出の取締り・一般女子も切手=通行証が必要、男子は自由)などをしている所であろう。その他、酔客・按摩・杖を持った老人、二本差しの侍など、これは、まさしく、典型的な「吉原風俗図」と解して差し支えなかろう。
 それに比して、抱一の「吉原月次風俗図」は、この其一の「吉原大門図」に出て来る「大門・番所・引手茶屋・辻行燈・箱提灯」などの主たる景物も、さらには、「花魁・新造・禿・芸者・幇間・男衆・遊客」などの主たる人物像も、この月次十二図の中には、何処にも出て来ないのである。
 ここで、抱一の、この「吉原月次風俗図」というネーミングは、抱一の意図することを斟酌すると、これは「吉原月次俳画図」ともいう分野のもので、それも、先ず、俳句(発句)があって、その「俳句(発句)」に、「べた付け」(画と句とが「付かず離れず」(響き合う)がベターとすると「べったり付き過ぎる」関係)を、極力排しての「画」作りをしているということなのである。
 ずばり、今回のように、「吉原月次風俗図」の「三月・夜桜」の一幅ものを見ていなくても、その「花街柳巷図巻」の「三月・夜桜」の「賛(前書きと句)」と「画」とにより、それらに接した者が、例えば、渓斎英泉筆「東都名所画 吉原の夜桜」や、鈴木其一筆「吉原大門図」などを連想し得たということならば、恐らく、抱一の、これらの、「吉原月次風俗図」の「三月・夜桜」、そして、「花街柳巷図巻」の「三月・夜桜」を制作した、その抱一の真意の一端に触れていることであろう。

その十四 江戸の粋人・抱一の描く「その四 吉原月次風俗図(四月・蜀魂《ほととぎす》)」

花街柳巷四.jpg

酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(四月「鏡立て)
【四月(鏡立て)「蜀魂たゝあり明の鏡たて」の句に合せて、室内に鏡立てが一基描かれ、空をほととぎす(蜀魂)が鳴き渡る。】
(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

【 四月の図には、「蜀魂(ほととぎす)たゞあり明の鏡たて」という発句がそえられ、鏡立てと檽子(れんじ)窓、落款と鏡にひっかけた糠袋に点じた朱がなまめかしく、夜明けの静謐さと遊里の色っぽさが表現されています。この図と比較するのによいのは、『狂歌左鞆絵』から取った窪俊満の絵(下図一)です。吉原の二階で、遊女が鏡に向かって髪を結っています。窓の外には蜀魂が一羽います。比較すると、抱一は人間を消しています。しかし、蜀魂を消さなかったのは、描かないとよくわからない絵になるからです。さらに、ダメ押しのように「蜀魂」を大書します。大書した文字を図像のように扱う例は、管見の限りでは一渓宗什筆・狩野常信画「夢一字」図(根津美術館蔵)のようなものがあります。もちろん、画題は荘子の胡蝶の夢です。抱一にも類似作があります。兄忠以(ただざね)と合作した「夢・蝶」図(姫路神社蔵)です(下図二)。

鏡立て.jpg

(図一)窪俊満画『狂歌左鞆絵』(早稲田大学図書館蔵)

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(図二)酒井宗雅(忠以)筆・酒井抱一(忠因)画「夢・蝶」(姫路神社蔵)

 ここで本来見えない「蜀魂」を装飾的な大字で表現し、画面を引き締め、主題は「蜀魂」であると明示されます。これは、屋根ばかりを描いて主題がよく了知けされない正月の図で、画賛には「吉原」とありながら、「花街柳巷」とダメ押しのように大書したのと同理由でしょう。さて、抱一の画賛「蜀魂たゞあり明の鏡たて」は、其角の「蜀魂只有明の狐落(ち)」(『五元集』)を典拠とします。抱一の句は舌足らずで、「蜀魂」と鏡台の結びつきが解りません。舌足らずなのは、名詞に名詞を並べただけの発句という理由があります。では、この発句の場合、取り合わせに問題がありそうです。「蜀魂」と鏡を取り合わせた他の抱一の例から、これらの取り合わせに付与された意味を探りましょう。

 只有明の 鏡にも影ハ残さずほとゝぎす(『句藻』「梶の音」夏之部一九一) 

 上の頭註(前書き)「只有明の」は、「蜀魂鳴きつるかたをながむればただあり明の月ぞのこれる」という名歌を指します。「鏡にも影ハ残さず」とは物理的な問題のみならず、「蜀魂」の鳴き声は、時間の経過を刻むという鏡にも姿を残さないほど非常に短いというわけです。抱一の画面では、鏡がさながら朝ぼらけの月の形状のように描かれている点も興味深い点です。和歌では後朝の恋を主題として、蜀魂は有明の月とよく詠まれます。有明の月は、形状の類似もあって鏡に擬せられた例も多く、漢詩でも鏡は時間の経過を認識させるモチーフであります。
 抱一は「有明の月」を「有明の鏡」と俳諧化しますが、句賛の音律面でのコノテーション(注:言外の意味・暗示的意味など)として取り入れた其角のイメージと相俟って、吉原の遊蕩の雰囲気を演出します。しかし、其角の「蜀魂只有明の狐落(ち)」とは別種の世界を築きあげています。其角句だと、「蜀魂」の声でどんちゃん騒ぎからさめるわけですが、抱一の画賛は「蜀魂」が去った後朝の有明の廓(さと)景色のみならず、夜の明け易さをなげくというイメージの中にあります。
 ここで皆さまのご注意を喚起したいのですが、こういった発句は現代語に翻訳するばあい、非常に難しい。つまり、コノテーション、文化的な含意が占める割合が大きい。名詞に名詞だけで発句になっているのは、こういった文化的なコノテーションに立脚しているからであります。かくして、抱一の発句は成立しています。
 以上のとおり、画面では人物あるいは喧噪に焦点をあてる浮世絵の視線とは一線を劃し、人物が留守模様にされたことで吉原の鄙びた雰囲気に焦点が当てられます。モチーフ面からは煌びやかな行事に筆ほ偏せず、四月や五月、さして行事のない十月などを見ると、都会の中の閑雅が描かれているのが解ります。京伝の『錦之裏』の影響を受けた喜多川歌麿の『青楼十二時』のように吉原の裏世界を描いたわけでもなく、「吉原月次風俗図」は、遊びなれた客の視線から描かれています。
 当時の絵画は、基本的には注文制作です。享受者がいる以上、理解されなければならない存在となります。もっとも、抱一は身分が下の人間に対しては、モチーフを自由に変えた事例もあります。鑑賞者が見たがるオーソドックスな吉原の行事を外した本作にも、そういった側面があります。市中の隠の楽しみを、五月の碁、九月の稲掛けで表現している部分もあります。
 画面では人をぬいて、静かな雰囲気に仕立てています。しかし、画面の背景には<都市>性を主張するかのように華やかと評される其角の句があります。画賛は人事句が殆どで、画面と逆の方向性をとります。その画賛は、言葉が一次的に示す意味だけで意味が解る発句、つまり、デノテーション(注:裏の意味ではなく、文字通りの直接的な意味)で構成されている発句ではありません。
 一般に言外にあるコノテーションとは、それを共有するグループの外の人間には解りにくいものです。其角をコノテーションとして取り込んだテクストがあるからこそ、其角の句を知識の前提条件として持つ抱一周辺の特定の享受層には、まさに言葉と図像の交響が存したであろうと推測され、理解されたのであります。あるいは、画面の静かさと画賛のにぎやかさが対比的で面白かったでしょう。
 画賛がなければ、これらの重層したイメージは当然ながら機能しません。抱一は本作で、言葉と図像を近接させる、いわゆる「べたづけ」をする芭蕉などとは全く違った面白いアプローチを行っているといえるでしょう。
 確かに文政期の年紀を持つ抱一の絵画作品は、雅の味わいが強い。発句も同じです。しかし、それは一色ではなく、本作では<俗>な都市が画面で閑雅に描かれつつ、画賛では其角のコノテーションとして取り込まれいる点から、<雅>一辺倒といえないのは確認できるかと考えられます。 】 (「抱一筆『吉原月次風俗図』の背景(井田太郎稿)」)

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蕪村筆「岩くらの」自画賛 紙本淡彩 一幅 三八・六×六四・三㎝
款「蕪村」 印「謝長庚」「春星氏」(白文連印) 個人蔵
賛「岩くらの狂女恋せよほとゝきす」  (『蕪村全集六』所収)
【季語:ほとゝぎす(夏) 語釈:岩倉=京都市左京区内。同所大雲寺境内の滝は、狂気を治す効果ありとされた。岩倉と時鳥は付け合い。句意:時鳥の裂帛の鳴き声の中に、岩倉のうら若い狂女が恋人を慕って号泣する俤を幻想し、あたかも物狂いの能のワキがシテの狂女に呼び掛けるように、もっともっと恋に狂ってその哀艶の声を聞かせてほしいと望んだもの。】(『蕪村全集六』所収)

 蕪村の時代には、俳画は、「はいかい(俳諧)物之草画」と呼ばれ、蕪村自身、この分野で、「凡(およそ)海内に並ぶ者覚(おぼえ)無之候」(天下無双の日本一である)と、画・俳両道を極めている蕪村ならではの自負に満ちた書簡を今に残している(安永五年八月十一日付け几董宛て書簡)。
 「俳画」という名称自体は、蕪村後の渡辺崋山の『俳画譜』(嘉永二年=一八一九刊)以後に用いられているようで、一般的には「俳句や俳文の賛がある絵」などを指している。
 これらのことについては、下記のアドレスで、「余情付け」「物付け」などを含めて触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-06-21

 ここで、「余情付け(匂付け)」(前句の余情と付句の余情が匂い合うような付け方)と「物付け(詞付け)」(掛詞や物・詞の縁などによる付け方)との関連で、蕪村の「ほととぎす」の「句(賛)と画」、そして、抱一の「蜀魂(ほととぎす)」の「句(賛)と画」とに触れて置きたい。

一 蕪村の句の「岩くらの狂女恋せよほとゝぎす」に、その上部の「ほととぎす」の画は、「物付け」で、そのものずばりの「べた付け」である。抱一の句の「蜀魂(ほととぎす)たゞあり明けの鏡立て」では、左の上部に米粒程度の「蜀魂(ほととぎす)」が描かれ、その賛(句)に、「蜀魂(ほととぎす)」を隷書体で大書したのは、これまた、「物付け」(詞付け)で、これまた、「べた付け」である。そして、蕪村も抱一も、其角流の江戸座の洒落俳諧・比喩俳諧を、その句作りの基本に据えているのだが、抱一は蕪村よりも、其角流の洒落俳諧が顕著である。

二 蕪村の、この左下の「紫陽花(四葩の花、七変化)」は、「岩くらの狂女恋せよほとゝぎす」の句の「狂女」の心の変化(七変化)を暗示するような「余情付け」である。さらに、この「紫陽花」の背後には、藤原家良の「飛ぶ蛍日影見えゆく夕暮になほ色まさる庭のあぢさゐ」(『夫木和歌抄』)の和歌などを暗示している「俤付け・面影付け」である。抱一の、この下部の「鏡立て」は、「蜀魂たゞあり明の鏡立て」の、「鏡立て」は「物付け」だが、「あり明けの鏡立て」の「有明」は、その鏡のまん丸い形状からの「余情付け」ということになる。ここでも、抱一は蕪村よりも、技巧的な洒落俳諧が顕著ということになる。
 しかし、この句の背後にも、「ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる」(後徳大寺左大臣『千載集』)、そして、「ほととぎす消え行く方や嶋一ツ」(芭蕉『『笈の小文』) 
を典拠にしている「俤付け・面影付け」である。全体的に、蕪村と抱一とは、蕪村が、「其角→巴人→蕪村」とすると、抱一は、「其角→存義→抱一」と、同じ流れで、さらに、巴人が江戸で没したときに、江戸の巴人門は、存義一門に吸収されたような経過を踏まえると、両者の「句と画」との創作姿勢は、極めて近いという印象を受ける。

三 さらに、抱一の、この「吉原月次風俗図」(「花街柳巷図巻」を含む)は、下記の通りの配列(「漢=男文字=漢字」と「和=女文字=平仮名」の俳諧的な運びによる配列)になっていることも付記して置きたい。

一月(漢=「花街柳巷」)→二月(和=「きさらぎ初のうま」)→三月(和=「夜さくら」)
→四月(漢=「蜀魂」)→五月(和=「さみだれ」)→六月(和=「富士参り」)→七月(漢=「乞功尊」)→八月(漢=「俄」)→九月(和=「干稲」)→十月(和=「しぐれ」)→十一月(和=「酉の日」)→十二月(和=「狐舞い」)

その十五 江戸の粋人・抱一の描く「その五 吉原月次風俗図(五月・五月雨)」

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抱一筆「花街柳巷図巻」のうち「五月(五月雨)」
【五月(五月雨)
「竹川もうつ蝉も碁やさつきあめ」の句の下に碁盤と一通の文とが描かれる。無人の室内に打ち捨てられた感のあるそれらが、五月雨が降りつづく梅雨の頃の遊里の寂しさを暗示する。」】(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」

 抱一の、「吉原月次風俗図」、そして、「花街柳巷図巻」の、その「賛(句)と画」とは、いわゆる、「連歌・俳諧(連句)」の「付合(付け合い)」のルール(「規則」=(「運び」と「付け」の「物付け」と「余情付け」など)を踏まえていることについては、前回までに触れてきた。そして、その全体の運び(流れ)は、次の通りということについて、触れて来た。

【 一月(漢=「花街柳巷」)→二月(和=「きさらぎ初のうま」)→三月(和=「夜さくら」)→四月(漢=「蜀魂」)→五月(和=「さみだれ」)→六月(和=「富士参り」)→七月(漢=「乞巧奠(きこうでん)」)→八月(漢=「俄(にわか)」)→九月(和=「干稲=稲干す」)→十月(和=「しぐれ」)→十一月(和=「酉の日」)→十二月(和=「狐舞い」)】

 この運び(流れ)を、季語に焦点を合わせると、次のとおりとなる。

【 一月(元日)→二月(初うま)→三月(夜ざくら)→四月(ほととぎす)→五月(さみだれ・さつきあめ」→六月(富士詣で)→七月(七夕飾り)→八月(※俄狂言)→九月(干稲=稲干す)→十月(しぐれ)→十一月(酉の日)→十二月(※狐舞い)  】

 吉原の三大景物(三大廓行事)は、「三月(夜ざくら)・七月(玉菊灯籠)・八月(俄)」である。

    傾廓
  夜ざくらや筥提灯の鼻の穴 (抱一『屠龍之技』「第一こがねのこま」)
  桜迄つき出しに出る仲の町 (『柳多留七』)
    傾廓
  灯籠も鶍(いすか)の嘴(はし)と代りけり(抱一『屠龍之技』「第二かぢのおと」)
  玉菊の魂(たましい)軒へぶらさがり(『柳多留一』)
    俄
  獅々の坐に直るや月の音頭とり(抱一「吉原月次風俗図・八月」)
  灯籠が消へて俄にさわぐ也 (『柳多留四六』)
  祇園ばやしで京町を浮く俄 (『柳多留一三三』)

 抱一の自撰句集『屠龍之技』の前書きに出て来る「傾廓」は、其角の次の句の前書きに由来があるのであろう。

    傾廓
  時鳥暁傘を買わせけり (其角『五元集』)

 この「傾廓」は、「傾城」「傾国」と同じような意であろうか。それとも、「傾城の遊女が居る廓=吉原」の意であろうか。この其角の句は、吉原の朝帰りの句である。抱一の吉原の句は、この種の其角の句に極めて近い。
 なお、上記の「吉原月次風俗図」に出て来る季語のうち、吉原特有のものは、※印の「八月=俄」と「十二月=狐舞い」だけで、その他のものは、連歌・俳諧の主要な季語(季題)ばかりである。

空蝉.jpg

「空蝉」(『源氏物語』)
http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined03.1.html#paragraph1.3

  竹川もうつ蝉も碁やさつきあめ (抱一「吉原月次風俗図・五月・五月雨」)

 抱一の「吉原月次風俗図」の「五月(五月雨)」画賛の、この句は、どうやら、『源氏物語』の「空蝉」(第三帖)や「竹河」(第四十四帖)などの囲碁の場面に関連しているようである。

「 碁打ち果てて、結(だめ)さすわたり、心とげに見えて、きはぎはとさうどけば、奥の人はいと静かにのどめて、『待ちたまへや。そこは持(せき)にこそあらめ。このわたりの劫(こう)をこそ』など言へど、『 いで、このたびは負けにけり。隅のところ、いでいで』と指をかがめて、『十(とを)、 二十(はた)、三十(みそ)、四十(よそ)』などかぞふるさま、伊予の湯桁もたどたどしかるまじう見ゆ。すこし品おくれたり。』(「空蝉」三段)

「中将など立ちたまひてのち、君たちは、打ちさしたまへる碁打ちたまふ。昔より争ひたまふ桜を賭物にて、『三番に、数一つ勝ちたまはむ方には、なほ花を寄せてむ』と、戯れ交はし聞こえたまふ。 暗うなれば、端近うて打ち果てたまふ。御簾巻き上げて、人びと皆挑み念じきこゆ。折しも例の少将、侍従の君の御曹司に来たりけるを、うち連れて出でたまひにければ、おほかた人少ななるに、廊の戸の開きたるに、やをら寄りてのぞきけり。」(「竹河」第二章七段)

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「竹河」(『源氏物語』)
http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined44.2.html#paragraph2.7

「竹川もうつ蝉も碁やさつきあめ」の、この「竹川」は、吉原近辺の川の名などと解すると意味不明となって来る。また、この「うつ蝉」を「打つ蝉」などと解すると、これまた迷宮入りする。
 素直に、「竹川」と「うつ蝉」を、吉原の遊女の「源氏名」(妓名)などと解すると、句意が鮮明になり、同時に、拍子抜けするほど、「他愛ない」句ということに気付いて来る。
 句意は、「吉原の遊女二人が、五月雨が続き、お客さんが無く、無聊を慰めるため囲碁に興じている」ということになり、それに対応するように、「碁盤と馴染み客への登楼催促の文」が描かれているということになる。
 その後で、この「竹川」と「うつ蝉」が、『源氏物語』の、囲碁場面の、「空蝉」と「竹河」に由来しているとなると、抱一の、「してやったり」の洒落っ気と、技巧に技巧を凝らした句という思いがして来る。
 そして、これらの抱一の句や、その「賛(句)と画」との付け合いというのは、例えば、其角の、次のような句の世界に極めて近いという印象を深くする。

   時鳥暁傘を買わせけり (其角『五元集』)

その十六 江戸の粋人・抱一の描く「その六 吉原月次風俗図(六月・富士参り図)」

花街柳巷六.jpg

酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(六月「富士参り図」)
【六月(富士参り) 賛は「水無月一日参詣の人々を見て これよりして御馬かへしや羽織富士」。絵は六月朔日の富士参りの日に参詣の土産物として売られた麦藁蛇と青鬼灯である。麦藁蛇は家に持ち帰って井戸や台所に飾ると虫がわかないと信じられた。 】
(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

  これよりして御馬かへしや羽織富士 抱一(「吉原月次風俗図(六月・富士参り図)」)
  それよりして夜明烏や蜀魂(ほととぎす)其角(『句兄弟』『五元集』)

 抱一の句は、其角の句を念頭に置いて作句していることは明瞭である。しかし、其角の句のパロディ(パクリ=剽窃)そのものかかというと、そうではなく、其角の世界とは異質の世界を、「本句取り」の手法などで、パロディ化(文体・韻律などの特色を一見して分かるように残したまま,全く違った内容を表現して、風刺・滑稽を感じさせるように作り変える手法)を意図している世界のものということになろう。
 このパロディ(パクリ=剽窃)とパロディ化(「本句取り」の手法など)との一線は、極めて、微妙な問題であるが、その分岐点の判定の基準は、其角、その人が、微に入り細に入り論じている『句兄弟(上)』(末尾の「参考」など)などを一つの手掛かりする他は術がないのかも知れない。
「類句・類想句・当類・同巣」等々、このパロディ(剽窃=パクリ)とパロディ化(「本句取り」の手法など)を巡っては、どうにも手の施しようがない。しかし、この問題に正面から取り組んだ先達者としては、其角その人というのも厳然たる事実であろう。
『去来抄』では、其角と凡兆との「等類(類句)と同巣(類似句)」論争があり、「されど兄より生れ勝(まさり)たらん、又格別也」(去来)が一つの基準(「先行句より後発句に新風が見られる」かどうかの基準)との記述が見られるが、その去来の基準も甚だ主観的なものということになる。
 抱一は、自他ともに認める「其角派」の世界での俳諧活動であったことは、その俳諧日誌ともいうべき『軽挙観(館)句藻』、そして、その自撰句集の『屠龍之技』からして、これまた、一目瞭然たるものがあろう。
 その一例として、上記の其角の「それよりして夜明烏や蜀魂(ほととぎす)」は、其角の『句兄弟(上)』での句形で、この「蜀魂(ほととぎす)」は、『五元集』(旨原編)では「郭公(ほととぎす)」の、この句形を抱一は採っていない。
 それ以上に、この「吉原月次風俗図」の「四月・蜀魂(ほととぎす)」と、『句兄弟(上)』の「蜀魂(ほととぎす)」を大書して、この「蜀魂」(「蜀の望帝の魂が化したという伝説から」の「ほととぎす」の異名)を前面に出していることも、抱一が、其角の『句兄弟(上・中・下)』を自家薬籠中にしていることが窺える。

 ここで、其角の「それよりして夜明烏や蜀魂(ほととぎす)」の句意を、「蜀の帝の魂が化したといわれるほととぎすが鳴き、それよりして夜が明けるという。そのほととぎすのように夜明け烏が鳴いている。」(下記「参考一」の句意)とすると、抱一の「これよりして御馬かへしや羽織富士」の句意は、「富士詣の帰りのお馬返しの後ろ姿が『羽織富士』のように見える。その『羽織富士』を背にして、これより、お馬返しの、その足先は吉原へと向いている」というようなことであろう。

 として、この画の、「麦藁蛇と青鬼灯」について触れたい。

(富士詣:仲夏: 富士道者/富士行者/富士禅定/山上詣/富士講/浅間講/お頂上:「冨士登山を行い、富士権現の奥の院に参詣すること。及び駒込・浅草などの富士権現の山開き(陰暦六月朔日)に参詣することをいった。」 )

(江戸浅間祭=えどせんげんまつり:仲夏:浅草富士詣/冨士山開:『栞草』に六月一日として所出し、「江戸浅間の社は、浅草砂利場にあり。これを浅草の富士といふ。また、駒込にも浅間の社あり。また、本所六ツ目やよび高田の馬場、また鉄砲洲等にも同社あり。祭るところ、いずれも駿河に同じ。今日、麦藁にて竜蛇を作り、これを篠(ささ)に付けてひさぐ者多し。参詣の人、これを買ひて土産とす」とある。)

 この『栞草』(江戸幕末の「俳諧歳時記」)に出て来る「江戸浅間祭」の「疫病除け・水あたりよけの免符」として作られたものが「麦藁蛇」で、それが土産品として売られていた。抱一が、この「六月・富士参り図」で描いたものは、この「江戸浅間祭」などの土産品としての「麦藁蛇と青鬼灯」ということになろう。

   富士と吉原は江戸でも近所也 (『柳多留二十』)  浅草の富士
   吉原へ不二の裾から息子抜け (『柳多留五十一』) 浅草の富士
   真桑瓜富士で売るのは月足らず(『柳多留三』)駒込の富士(走り真桑瓜を売る)
   浅草は道中なれた不二まへり (『柳多留四十』)  浅草の富士 
   一日は蛇の道になる衣紋坂  (『柳多留二十四』) 六月一日の麦藁蛇
   不二みやげ舌ったらずのきりぎりす(『柳多留三』) 虫売りも出る
   富士みやげ舌はあつたりなかつたり (『柳多留二十六』)麦藁蛇の舌
   富士みやげ女房からんた事を言ふ(『柳多留五』)  吉原行きを疑う

富士講.jpg

『江戸名所図会』「六月朔日富士詣」(「浅草浅間神社」ではなく「駒込浅間神社」)
https://ameblo.jp/benben7887/entry-12384403655.html

(参考)

『句兄弟上(其角著)』(「『句兄弟・上』注解:夏見知章他編著:武庫川女子大学国文研究室)

三十五番
   兄 宇白
 ほとゝぎす一番鶏のうたひけり
   弟 (其角)
 それよりして夜明烏や蜀魂

(兄句の句意)夏の夜明けに、ほととぎすが一声し、そして一番鶏が時を告げた。

(弟句の句意)蜀の帝の魂が化したといわれるほととぎすが鳴き、それよりして夜が明けるという。そのほととぎすのように夜明け烏が鳴いている。

(判詞の要点など)兄の句は、夏の短夜を恨んで、古今和歌集の「夏のよのふすかとすればほととぎすなく一こゑにあくるしののめ」(紀貫之)の風情に連なるものがある。この形は、ほととぎすの伝統的な手法を離れていないけれども、ほととぎすという題は、縦題(和歌の題)、横題(俳諧の題)と分けて、縦題として賞翫されるべきものであるから、横題の俳諧から作句するのは筋が違ってくる。夏の風物詩として感じ入る心を詠むにも、縦題のやさしい風情が見えるように詠むべきものであろう。
  ほととぎす鳴くなく飛ぶぞいそがほし   芭蕉
  若鳥やあやなき音にも時鳥        其角
この句のスタイルは、横題の俳諧から深く思い入れをしてのものである。もし、これらの作句法をよく会得しようとする人は、縦題・横題が入り混じっているにしても、それぞれの句法に背いてするべきものではない。縦題は、花・時鳥・月・雪・柳・桜の、その折々の風情に感興を催して詠まれるもので、詩歌・俳諧共に用いられるところの本題である。横題は、万歳・藪入りのいかにも春らしい事から始まって、炬燵・餅つき・煤払い・鬼うつ豆など数々ある俳諧題を指していうのであるから、縦の題としては、古詩・古歌の本意を取り、連歌の法式・諸例を守って、風雅心のこもった文章の力を借り、技巧に頼った我流の詞を用いることなく、一句の風流を第一に考えてなされるべきである。横の題にあっては、蜀の帝の魂がほととぎすになったという理知的なものでも、いかにも自分の思うことを自由に表現すべきなのである。一つひとつを例にとっての具体的な説明は難しい。縦題であると心得て、本歌を作為なくとって、ほととぎすの発句を作ったなどと、丁度こじつけたような考え方をするのは残念である。句の心に、縦題、横題があるということを知って貰うために、ほんの少し考えを述べたままである。自分から人の師になろうとするものではない。先達を師として、それを模範として、自分を磨こうとするものである。

その十七 江戸の粋人・抱一の描く「その七 吉原月次風俗図(七月・七夕飾)」

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酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(七月「七夕飾」)
【「乞巧尊」の題字に「袖ふるはくるわの軒や星の竹」の句賛。その下に、色紙形や短冊形、それに瓢箪の形に切った紙片が置かれてある。もとより竿に吊るす七夕飾りのための料紙である。 】(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」

【乞巧奠(きこうでん)
「きっこうでん」ともいう。七夕(たなばた)祭の原型で、七月七日の行事。牽牛(けんぎゅう)・織女(しょくじょ)の二星が天の川を渡って一年一度の逢瀬(おうせ)を楽しむ、という伝説が中国から伝わり、わが国の棚機(たなばた)姫の信仰と結合して、女子が機織(はたおり)など手芸が上達することを願う祭になった。『万葉集』に数首歌われているが、持統(じとう)天皇(在位六八六~六九七)のころから行われたことは明らかである。平安時代には、宮中をはじめ貴族の家でも行われた。宮中では清涼殿の庭に机を置き、灯明を立てて供物を供え、終夜香をたき、天皇は庭の倚子(いし)に出御し、二星会合を祈ったという。貴族の邸(やしき)では、二星会合と裁縫や詩歌、染織など、技芸が巧みになるようにとの願いを梶(かじ)の葉に書きとどめたことなども『平家物語』にみえる。 】(「出典:小学館・日本大百科全書(ニッポニカ)」)

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鈴木春信画「七夕飾りをする男女」(豊田市美術館蔵)

 袖ふるはくるわの軒や星の竹  抱一(「吉原月次風俗図(七月・七夕飾)」)

鈴木春信(享保十年〈一七二五?〉- 明和七年〈一七七〇〉)は、蕪村や大雅らと同時代の、抱一らの一時代前の江戸時代中期に、木版多色摺りの錦絵の草創期に一世を風靡した浮世絵師である。
 この春信が没した明和七年(一七七〇)に刊行された『絵本青楼美人合』(彩色摺美濃本五冊・国立国会図書館蔵など)は、吉原の遊女、百六十六名を四季風俗に沿って描かれ、下記のアドレスで、その全貌を見ることが出来る。

https://www.ndl.go.jp/exhibit/50/html/catalog/c054.html

 上記の「七夕飾りをする男女」の図が、吉原であるかどうかは定かではないが、抱一の上記の句には、ぴったりの感じなのである。
 吉原の妓楼は二階家で、一階は生活スペース、二階が宴会・座敷などのメインスペースである。その二階の軒下の柱に、「星の竹」(七夕竹)をセットし、願い事を書いた短冊や瓢箪形の料紙などを取り付けている図である。
 抱一の句は、「吉原の妓楼(廓)の軒下の七夕飾りの短冊が、あたかも袖を振って、お出で、お出でをしている」ということであろう。そして、その絵図の方は、七夕飾り用の「短冊と瓢箪形の料紙」のみが描かれているということになる。
 これが、下記の安藤(歌川)広重(初代)の「名所江戸百景 市中繁栄七夕祭」では、どうにも様にならない。

広重・七夕.jpg

安藤(歌川)広重(初代)画「名所江戸百景 市中繁栄七夕祭」(東京芸術大学蔵)

 この安藤(歌川)広重(初代)画「名所江戸百景」の全貌は、下記のアドレスで見ることが出来る。

https://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2007/collection200707/index.htm

  七夕は土手から見える紋日也 (『柳多留一二』) 日本堤から吉原の七夕が見える
  日本から京の短冊竹がミへ(『川傍柳一』)日本堤から吉原(京町)の七夕が見える

大門は団扇と虫が入れかわり (『柳多留四』) 吉原の七月の景(夏から秋へ)

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歌川国貞(初代)画「江戸自慢 仲の町燈籠」(部分画) 千葉市美術館蔵
制作年:文政二~四年(一八一九-二一) 技法:大判錦絵揃物 寸法:賛七.二x二五.六cm
【江戸の夏五月から初秋七月頃にかけての行事を画中の額絵に描き、その行事にやつした女性風俗をテーマとした十枚揃である。七月一日より始まり、十三・四日を中休みとし、さらに十五日から七月晦日まで吉原仲の町の茶屋では趣向を凝らした灯籠や作り物が展示されて賑わった。これは享保十一年に亡くなった吉原の遊女玉菊を追善して始められた行事で、図は、暑いこの時期の遊女の風体で、琳派の画家酒井抱一の名のはいったコウモリの絵柄の団扇を持っている。】
http://www.ccma-net.jp/search/index.php?app=shiryo&mode=detail&list_id=53895&data_id=3835

 この国貞が描く吉原の花魁が持っている団扇(「蝙蝠」の図)は、抱一の作なのである。この国貞の「江戸自慢 仲の町燈籠」が制作された、「文政二-四年(一八一九~二一)」は、抱一の「五十九歳~六十一歳」の頃で、この文政二年(一八一九)が、先に紹介した『柳花帖』が制作された年なのである(その抱一自身の「跋」文と「蝙蝠」図関連の発句を再掲して置きたい)。

(再掲)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-04-12 【 夜毎郭楼に遊ひし咎か 予にこの双帋へ画かきてよ とのもとめにまかせ やむなくも酒に興して ついに筆とり初ぬ つたなき反古を跡にのこすも憂しと乞ひしに うけかひなくやむなくも 恥ちなから乞ひにまかせ ついに五十有餘の帋筆をつゐやしぬ ときに文政卯としはるの末へにそありける 雨花抱一演「文詮」(朱文重郭方印)  】

8 蝙蝠図    かはほりの名に蚊をうつや持扇   ※「蝙蝠図」(『手鑑帖』)

(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収「抱一の内なる世界 姫路市立美術館蔵 酒井抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』と『柳花帖』をめぐって:岡野智子稿」)

その十八 江戸の粋人・抱一の描く「その八 吉原月次風俗図(八月・俄)」

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酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(八月「俄」)
【八月(俄)
仲秋の名月の下で、吉原俄の余興が楽しまれている。賛は「俄」の題字に、「としとしのことなからおもとか獅々の音頭を聞く度にめつらしく誠に廓中伽羅なり 獅々の坐に直るや月の音頭とり」。】(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

   としとしのことなから      (年々のことながら)
   おもとが獅々の音頭を聞く度に  (御許<女衆>が獅子の音頭を聞く度に)
   めつらしく誠に廓中伽羅なり   (珍しく誠に廓中伽羅<極上もの>なり) 
  獅々の坐に直るや月の音頭とり 抱一(「吉原月次風俗図・八月月・俄」)

  この抱一の句意は、「仲秋の名月の八月一杯に繰り広げられ吉原の『俄』の催し物は、誠に極上のもので、男装した芸者衆などが演ずる獅子舞を目の当たりにすると、夜空の月さえ、音頭をとっているような心地がしてくる」というようなことであろう。

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『吉原青楼年中行事(上・下)』(十返舎一九著 : 喜多川歌麿画)
早稲田大学図書館蔵
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01494/wo06_01494_0001/wo06_01494_0001.html

 喜多川歌麿は、宝暦三年(一七五三)?頃の生まれ、抱一よりも八歳年上で、文化三年(一八〇六)、抱一が四十六歳時の宝井其角百年忌を修する頃に亡くなっている。
この『吉原青楼年中行事』が刊行されたのは、文化元年(一八〇四)で、この年に、歌麿は、豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした浮世絵「太閤五妻洛東遊観之図」(大判三枚続)を描いたことがきっかけとなり、手鎖五十日の処分を受け、この刑が死期を早めたともいわれ、没したのはその二年後のことである。
 十返舎一九は、明和二年(一七六五)生まれで、抱一より四歳下で、享和二年(一八〇二)、中村芳中が江戸に出て来て『光琳画譜』を刊行した年に、『東海道中膝栗毛』が大ヒットし、爾来、文化五年(一八二二)まで、二十一年間、その続編を書き続けている。
 このお二人は、抱一・山東京伝・大田南畝・加保茶元就と親交の深かった一大の版元、蔦屋重三郎門であり、歌麿は、その浮世絵師ネットワークの雄である。
 そして、十返舎一九は、その浮世絵師ネットワークと狂歌師ネットワークを交差させた「蔦屋工房」(版元=出版社)に寄宿し、「筆耕・版下書き・挿絵描き」など出版全般に携わり、三十七歳の若さで、滑稽本『東海道中膝栗毛』を大ヒットさせるのである。
 歌麿と十返舎一九の合作は、この『吉原青楼年中行事』(絵本)の他に『聞風耳学問』(黄表紙)がある程度で、その門下の「喜多川月麿」などの合作の方が多く見かけられる。
 さて、この十返舎一九が、その『吉原青楼年中行事』の中で、この「吉原俄」について、次のとおり記述しているようである。

【 毎年八月朔日より、祭式おこなハれて、練物(祭礼時に行われる練り歩く行列のこと)、にわか(俄=「俄狂言」を指し、座敷や街頭などで行われた即興的で滑稽な寸劇など)等を出す事、連綿と怠慢なし(連綿とおろそかにされずに続いている)。此節燈篭客(「玉菊燈篭」見物客)、仁和哥客(「俄」見物客)と号して、恒に倡門(「娼門」=娼家)に履(履物)を納ざるものも、倶に倡行(廓内に来る)せられて、来往の錯乱(入り乱れ)美賤(身分の上下なく)混じ、夜毎に湧出するがごとし。 】(「青楼絵本考—『吉原青楼年中行事』の出版効果—(岩城一美稿)」)

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『吉原青楼年中行事(上)』(十返舎一九著 : 喜多川歌麿画)p29 p30
早稲田大学図書館蔵
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http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01494/wo06_01494_0001/wo06_01494_0001_p0030.jpg

この『吉原青楼年中行事』の「仁和哥(俄)」について、『吉原はスゴイ 江戸文化を育んだ魅惑の遊郭(堀口茉純著・PHP新書)』では、現代風に下記のとおり紹介されている。

【 八月いっぱいかけて行われるイベント・俄(にわか)は日中にも出し物があったようで、仲の町の往来が開放されて、一般女性や子供の見学も多かった。俄は現代のハロウィンやコミケを彷彿とさせるコスプレイベント。芸者や幇間(ほうかん)、禿や子供たちといった吉原の裏方関係者が主体となり、歌舞伎の役柄や歴史上の人物、昔話の登場人物などの扮装をして、茶番劇(即興芝居)や練り物、踊り、演奏などの出し物をしながら仲の町を練り歩くパレードだった。 】(『吉原はスゴイ 江戸文化を育んだ魅惑の遊郭(堀口茉純著・PHP新書)』)

 この分かり易い記述の、「芸者や幇間(ほうかん)、禿や子供たちといった吉原の裏方関係者が主体となり」というのがポイントで、上記の歌麿の「仁和哥之図」で行くと、「男装の芸者と女装のままの芸者」の獅子頭を持って練り歩く図で、先頭の男装の芸者が拍子木で音頭を打っているのが、抱一の句の「獅々の坐に直るや月の音頭とり」に相応しいような雰囲気を有している。
 しかし、抱一の、この「俄」の図柄は、上記のコスプレイベントで行くと、「禿や子供たち」が主役のようで、ここでも、遊女や芸者衆の「青楼美人群像」をオフリミットし、抱一ならでは俳画風に仕立ているのは、歌麿と好対照をなし、この「吉原月次風俗図」の中でも群れを抜いている印象を深くする。

その十九 江戸の粋人・抱一の描く「その九 吉原月次風俗図(九月・干稲)」

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抱一筆「花街柳巷図巻」のうち「九月(干稲)」
【九月(干稲)
吉原遊郭は江戸の北郊に位置し、周囲は田で囲まれていた。収穫の時期には稲を架けて干す寂びた田園の風情も、二階座敷から望み見ることができたのである。賛は「京町あたりの奥座敷からさしのそけは 鷹も田に居馴染むころや十三夜」。 】(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」

     京町あたりの奥座敷からさしのぞけば
   鷹も田に居馴染むころや十三夜    抱一「花街柳巷図巻・九月(干稲)」

 この句の前書きの「京町(一丁目)」には、下記のアドレスなどで度々紹介している加保茶元成(大文字屋市兵衛)の妓楼「大文字屋」が見世を構えている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-23

 『吉原はスゴイ 江戸文化を育んだ魅惑の遊郭(堀口茉純著・PHP新書)』では、「楼主と
加保茶元成(初代・大文字屋市兵衛)」などについて、下記のとおり紹介している。

【 楼主は妓楼の経営のトップで、忘八(ぼうはち)と呼ばれる。『吉原大全』によると、その由来は、仁・義・礼・智・忠・信・考・悌といった八つの徳目を忘れさせるほど面白い場所を提供する人ということにな っているが、実際には遊女たちをこき使い、遊客から金をむしり取る、八つの徳目を忘れた人非人という、さげすみの意味も含まれていたらしい。大文字屋の初代楼主・市兵衛は伊勢から江戸へ出て、吉原で一旗上げようとやってきた人で、初めはお歯黒溝(どぶ)沿いに河岸見世を開くも、なんとか五丁町に進出したいと遊女の食事をすべて安いカボチャにして、経費を節減。ヒドイ! しかし、これが功を奏して、見事京町一丁目に店を構えたため、「カボチャ」とあだ名された。当時子供たちの間で流行っていた歌に「ここ京町大文字屋のカボチャとて、その名を市兵衛と申します。せいが低くて、ほんまに猿まなこ、かわいいな、かわいいな♪」とあるように、ユニークな外見だったよう。名物社長といったところか。ちなみに、彼は園芸を愛する文化人でもあり、跡を継いだ二代目も加保茶元成のペンネームで天明狂歌壇の一翼を担う教養人だった。花魁を中心に見世をいかにプランディングしてゆくか手腕を問われる妓楼の経営には、情緒的価値を理解するセンスが求められたのだ。 】(『吉原はスゴイ 江戸文化を育んだ魅惑の遊郭(堀口茉純著・PHP新書)』)

 ここに出て来る大文字屋の初代楼主・(村田)市兵衛は、安永九年(一七八〇)、抱一が二十歳の時に亡くなっている。抱一と親交の深かったのは、跡を継いだ二代目・村田市兵衛(狂歌名・加保茶元成<一世>)で、大田南畝(狂歌名・四方赤良)、そして、吉原出身の版元・蔦屋重三郎(狂歌名・蔦唐丸)と昵懇の間柄で、吉原の狂歌連(グループ)の中心的な人物であった。
 そして、その二代目・村田市兵衛(狂歌名・加保茶元成<一世>)の跡を継いだのが三代目・村田市兵衛(狂歌名・加保茶元成<二世>、画号に加保茶宗園)で、この三代目は抱一の門人
で、江戸節にも優れ、嵯峨様の書もよくし、野呂松人形にも秀でているという多芸多才の人物であった。
 抱一が、狂歌名・尻焼猿人で、蔦屋重三郎版の狂歌絵本『吾妻曲狂歌文庫』(宿屋飯盛撰、山東京伝画)に登場するのは、天明六年(一七八六)、二十六歳の酒井家部屋住みの頃である。
その酒井家部屋住みの抱一が、自前でこれらの吉原の狂歌連に出入りし、そして、自前で吉原遊郭内での遊蕩三昧の日々を送るなどということは土台有り得ないことであろう。その背後には、吉原の三代にわたる妓楼・大文字屋(楼主・村田市兵衛、狂歌名・加保茶元成)、特に、二代目加保茶元成(狂歌人としては一世)が、そのパトロン(支援者)として控えていたということであろう。
そして、その加保茶元成の背後に控えている大立者が、蔦唐丸(蔦屋重三郎)と四方赤良(大田南畝)の御両人ということになる。

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恋川春町画・作『吉原大通会(よしわらだいつうえ)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9892509

(『吉原大通会』関連)
https://blog.goo.ne.jp/edomanga/e/1e80b15744cccdfbf5696358b123f7d2

(メモ)

※恋川春町=延享元~寛政元年(一七四四‐八九)、 狂名:酒上不埒(さけのうえのふらち)。
江戸中期の黄表紙作者、狂歌師。駿河小島藩士。寛政の改革を風刺した「鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)」に関わる召喚に出頭せず、その年死んだことから、自殺説も伝えられる。上記の図には登場しない(上記の図は大文字屋(一次会)から菊場屋(二次会:松葉屋の仮名か?)に会場を移しての場面で、その菊場屋の別室で『吉原大通会』を書いているか?)。この『吉原大通会』では、「天狗が化けた通人=天通」として登場している。

蔦唐丸(狂名:つたのからまる)=寛延三~寛政九年(一七五〇‐九七)、蔦屋重三郎、江戸中期の地本問屋、蔦屋の主人。通称蔦重(つたじゅう)。上記の図は「狂歌より、どうか一幕の狂言をお書きください」と硯と紙を差し出している。他の登場人物は全員仮装しているのだが、後から駆けつけて来て普通の格好をしている(普通の格好は「手柄岡持」との二人のようである)。

△加保茶元成(狂名:かぼちゃのもとなり)=宝暦四~文政十一年(一七五四-一八二八)、江戸新吉原の妓楼大文字屋の初代村田市兵衛の養子となる。天明狂歌壇の一翼として活躍し、吉原連を主宰した。上記の図は「人さまに見せない『加保茶元成』振りは、先代が歌って踊ったとおりです」と、顔を覆面で覆っている。この集まりは、当初、加保茶元成の大文字屋での各人が扮装しての狂歌会だったのだが、菊場屋(松葉屋の仮名?)に居た恋川春町と手柄岡持が、二次会にと大文字屋から菊場屋へと場所を移させたようである。

※四方赤良(狂名:よものあから)=寛延二~文政六年(一七四九‐一八二三)、江戸後期の狂歌師。洒落本、滑稽本作者。別号に大田南畝(おおたなんぽ)、蜀山人(しょくさんじん)、寝惚(ねぼけ)先生など。江戸幕府に仕える下級武士。上記の図は、漏斗(ろうと・じょうご)を頭に載せているようである(脳から狂歌を注ぎたい洒落か?)唐丸が「春さんが」と赤良に問い掛けると「春とは誰だ。恋川春町か」と唐丸に問い質している。

※手柄岡持(狂名:てがらのおかもち)=享保二〇~文化一〇年(一七三五‐一八一三)。江戸後期の戯作者。狂歌師。秋田(久保田)佐竹藩士(佐竹藩江戸留守居役)。別号に朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)。寛政の改革の時、君侯の命で筆を絶っている。この『吉原大通会』の主役(「すき成」)として登場し、上記の図の場面は、天通(恋川春町)の神通力で、大文字屋で狂歌会をやっていたメンバーを、「天通とすき成」が居た菊場屋(松葉屋か?)に引き連れて来て、「それがし、つりが『すき成』なれば、「手がらの岡もち」(手柄岡持)と名をつきましょう」との科白を吐いている。普通の格好をしているのは、唐丸と岡持の二人だけで、この二人は、春町(天通)と一緒に、菊場屋(松葉屋?)に居たような感じである。

※大屋裏住(狂名:おおやのうらずみ)=享保十九~文化七年(一七三四‐一八一〇)。江戸中期の狂歌師。号は萩廼屋(はぎのや)。江戸で更紗染屋から貸家を業とした。手柄岡持(朋誠堂喜三二)や酒上不埒(恋川春町)らの属している本町連を主宰している。上記の図は「土の車の吾らまで、かかる時節に大屋裏住」と能「土車」の科白を吐いている。

△腹唐秋人(狂名:はらからのあきんど)=宝暦八~文政四年(一七五八~一八二一)、狂歌を大屋裏住に学び本町連に入り、中井董堂(なかいとうどう)の号で書家としても知られている。上記の図は「俺の着ているのは、竜紋という上等の絹物だ」と嘯いている。

△元木綱(狂名:もとのもくあみ)=享保九~文化八年(一七二四‐一八一一)。江戸後期の狂歌師。湯屋を業とした。狂歌最古参の一人。その門下を落栗連と称した。上記の図は「(赤良の格好を見て)さすがに趣向の人だね。当方は名前のとおり普段のままだ」と頭に手をやっている。

※朱楽菅江(狂名:あけらかんこう)=元文三~寛政一〇年(一七三八‐一七九八)、江戸後期の狂歌師、洒落本作者。江戸生まれた幕臣。上記の図は天神様の格好のようで、清盛風の酒盛入道常閑に向かって、上記の図は「襟巻は良いが、掻巻は似合わないね」とケチをつけている。

※紀定丸(狂名:きのさだまる)=宝暦十~天保十二年(一七六〇-一八四一)、四方赤良の甥。幕臣で精励な能吏で旗本となった。上記の図は「何時も気が定まらず、思案に暮れている」と自嘲している。

※平原屋東作(狂名:へいげんやとうさく)=享保十一~寛政元年(一七二六‐八九)。「平秩東作(へずつとうさく)の名で知られている。内藤新宿で家業の馬宿、たばこ商を営んだ。幕府の事業にも手をそめるが、寛政の改革により、幕府の咎めを受ける。上記の図は「(煎餅袋を逆さに被って)へいげん屋東作にあらず、べいせん屋頓作の座興だ」とソッポを向いている。

大腹久知為(狂名:おおはらくちい)=『徳和歌後満載集(一巻)』(四方赤良編著)に「大原久知位」で一首、『同(九巻)』に「大原久知為」で一首、『同(巻十)』に「大原久ちゐ」で一首、計三首の狂歌が収載されている。上記の図は「おお原くちいから、お茶でいこう。眠い。眠い」とぼやいている。

酒盛入道常閑(狂名:さかもりにゅうどうじょうかん)=未詳。上記の図は「(菅江が常閑の襟巻は褒め、掻巻にはケチを付けたので)菅江の袖頭巾の梅は良いが、水仙はお粗末だ」とお返しをしているようである。

 この恋川春町の自画・自作の黄表紙(絵入りの草双紙)『吉原大通会』は、天明四年(一七八四)、抱一が二十四歳の時に刊行された。その二年後の天明六年(一七八六)に刊行された『吾妻曲狂歌文庫』(宿屋飯盛撰、山東京伝画、蔦屋重三郎版元)の、その天明狂歌壇の名手五十人中の、その冒頭に、抱一は、狂歌名・尻焼猿人の名で、その狂歌と肖像画が掲載されたことなどについては、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-04-03

 その『吾妻曲狂歌文庫』中の、その天明狂歌壇を代表する五十人の中に、上記の『吉原大通会』の、その十三名の中で、※印を付している方(七名)は収載されている。また、△印を付している方(三名)も、『徳和歌後万歳集』(天明五年=一七八五)には十首以上の狂歌が収載されている。
 残りの三名の方は、一人は蔦唐丸(蔦屋重三郎)で、もうお二人の「大原久知為・酒盛入道常閑」も、いわゆる、天明狂歌の三大家「四方赤良・朱楽菅江・唐衣橘州」を中心とする「天明狂歌壇」の中で、別号などでよく知られている方のように思われる。
 そして、この十三人の中で、いわゆる、松平定信が断行した「寛政の改革」により弾圧された方が、「酒上不埒(恋川春町)・蔦唐丸(蔦屋重三郎)・四方赤良(大田南畝)・手柄岡持(朋誠堂喜三二)・平原屋東作(平秩東作)」と多く、その他の方々も、何らかの余波は受けていることであろう。
 さらに、この『吉原大通絵』の主人公として登場する「すき也」こと、「手柄岡持(朋誠堂喜三二)」は、秋田(久保田)佐竹藩士(佐竹藩江戸留守居役)で、その前任者(天明三年=一七八二・五月交代)が、「佐藤晩得(さとうばんとく)=享保十六~寛政四年(一七三一~九二)、俳号=哲阿弥など、別号に朝四・堪露・北斎など。俳諧は右江渭北門のち馬場存義門」なのである。
 この佐藤晩得が、抱一の後見人のような大和郡山藩主を勤め、俳号・米翁として名高い「柳沢信鴻(やなぎざわのぶとき)=柳沢吉里の次男」と親交が深く、当時、酒井家部屋住みの抱一の後ろ盾のような関係にあり、この晩得が亡くなった追善句集『哲阿弥句藻』に、抱一は跋文を寄せるほど深い絆で結ばれていたのである。
 そして、その佐藤晩得は、吉原で、その俳号を捩っての「朝四大尽(ちょうしだいじん)」と呼ばれ、この『吉原大通会』では、次のクライマックスの場面で、登場しているようである。

吉原大通会・荻江節.jpg

恋川春町画・作『吉原大通会(よしわらだいつうえ)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9892509

 この場面は、天通(恋川春町)の神通力で、当時の名のある大通(吉原通いの大通人=お大尽)を一同に集めて、「荻江節」(吉原の遊郭で座敷歌風に三味線に合わせて唄う長唄=めりやす=長唄の短い独吟物)が、その創始者・荻江露友(「おうぎ江西林」の名で登場)によって、その「九月がや」(作詞家・佐藤晩得=朝四=朝四大尽、ここでは「蝶四といふ大通」の名で登場)が披露されている場面のようである。
 上記の図の花魁の右脇の立膝をしている方が、初代荻江露友のようで、その右脇の三味線を弾いているのは芸者衆であろう。そして、その芸者衆から左周りに花魁まで大通(お大尽)衆が並び、中央の荻江露友と正面向きになっている武士風の大通は、蝶四(朝四大尽=佐藤晩得)のように思われる。この場面は、荻江節の初代荻江露友より、自分の作詞した「九月がや」の節付けなどの指導を受けているように解して置きたい。
 そして、この初代荻江露友(作曲家)と佐藤朝四(作詞家)を囲んでの大通(お大尽)衆は、「吝株(しわかかぶ)の貧通(ひんつう)は大費とぞ惜しみける」などの、この『吉原大通会』の作者・恋川春町の文章を見ると、そもそも、この戯作の『吉原大通会』の「大通」は、「大通人」(吉原に精通している大通人)を意味していて、ここでは、「荻江節愛好大通
人」と解した方が、上記の図を理解するのには良いのかも知れない。
 これらのことに関連し初代荻江露友について、下記のアドレスで次のように記述している。

https://www.kyosendo.co.jp/essay/125_tamaya_1/

【初代露友はめりやすの作曲もやっていて、佐竹藩留守居役の佐藤朝四の作詞「九月がや」、山東京伝作詞の「素顔」、大和郡山藩の隠居、柳澤信鴻作詞の「賓頭盧」(びんずる)の節付けをしたことが知られている。】

鷹も田に居馴染むころや十三夜    抱一「花街柳巷図巻・九月(干稲)」
   稲懸けて里しづかなり後の月     蓼太「蓼太句集」

 季語の「十三夜」は「後の月」(晩秋の季語)、子季語として「名残の月、月の名残、二夜の月、豆名月、栗名月、女名月、後の今宵」など。語意は「旧暦九月十三夜の月。八月十五夜は望月を愛でるが、秋もいよいよ深まったこの夜は、満月の二夜前の欠けた月を愛でる。この秋最後の月であることから名残の月、また豆や栗を供物とすることから豆名月、栗名月ともいう。」
 抱一の句と同じ視点(「田・干稲と十三夜」と「干稲・里と後の月」)の句として、蓼太の句(「稲懸けて里しづかなり後の月」)などが上げられよう。
 抱一の句の句意は、デノテーション(裏の意味ではなく、文字通りの直接的な意味)的には、「十三夜の頃になると、鷹も山よりも稲懸けの田が点在する里の方が居馴染んでいるようで、よく見掛けるようになる」というようなことであろう。
 しかし、前書きの「京町あたりの奥座敷からさしのぞけば」や、この賛のある画の「干稲」などからのコノテーション(言外の意味・暗示的意味など)的な句意は、下記のように大きな広がりを有してくるであろう。
そして、この「鷹」には、部屋住み時代の抱一が、吉原という「士農工商の身分的差別もなく、俗界から隔離された聖なる場所(アジール)=公界での交遊・交友の場、そして、そのネットワークの広がり、さらに、新興都市『江戸』の新しい文化の息吹き(浮世絵・文人画・黄表紙・滑稽本・狂歌・俳諧・川柳・歌舞伎・音曲等々)の発信地」での、その切磋琢磨した「遊客」(粋人・通人)の、それらのイメージが隠されているものと解したい。
具体的には、上記で縷々触れてきた『吉川大通会』の、「狂歌通人」(恋川春町・蔦唐丸・加保茶元成・四方赤良・手柄岡持・大屋裏住・腹唐秋人・元木綱・朱楽菅江・紀定丸・平秩東作・大腹久知為・酒盛入道常閑)、そして、「荻江節通人」(荻江露友・佐藤朝四・柳澤信鴻・山東京伝)などのメンバーである。
とすると、この抱一の句のコノテーション的な句意は次のとおりとなる。

「この懐かしい吉原京町・大文字屋の二階の奥座敷から、十三夜の後の月と、その月光の下に広がる干稲などを見ていると、ここで過ごした懐かしい面々の面影が過って来る。既に他界している方が多いが、思い起こせば、寛政の改革などで命を絶った方、筆を断った方、財産を没収された方、手鎖の刑に処せられた方、左遷された方等々、それぞれが、この里の鷹のように、それぞれの土地で、思い思いに、今頃は、居馴染んで過ごしていることであろう。」

(追記一) 抱一をめぐる女性たち (『もっと知りたい 酒井抱一(玉蟲敏子著)』)

 抱一は部屋住みの身分の後、出家遁世したので正式な結婚をしたことはない。下谷大塚村の庵では、元大文字屋の遊女香川とも伝えられている小鶯女史(出家後の法名は妙華尼)と同居し、文政初めに酒井鶯蒲(おうほ)がその養子となったという。鶯蒲が抱一を「御父(トゝ)様」と呼んだので酒井家から窘められたというエピソードを朝岡興禎編著の『古画備考』巻三十五の鶯蒲の条は伝えている。鶯蒲は抱一没後、雨華菴を継承する。
 抱一の吉原通いは終生続き、山谷の料亭、駐春亭主人の田川氏の聞き書きに多く基づく『閑談数刻』(東京大学総合図書館)という資料は、抱一が吉原で贔屓にした遊女として、大文字屋の一もと、松葉屋半蔵抱えの粧(よそおい)、弥八玉屋の白玉、鶴屋の大淀などの名前を挙げている。このうち、粧は音曲を好まず、唐様の書家の中井董堂から書、広井宗微から茶、抱一から和歌・発句を学んだという才色兼備の遊女で、蕊雲(ずいうん)、文鴛(ぶんおう)という雅号を持っていた。抱一は彼女のために年中の着物の下絵を描いたという。   
 鏑木清方筆「抱一上人」(永青文庫)には、そんな女性に囲まれて遊里に耽溺する抱一のイメージが視覚化されている。左右の足のポーズにやや無理があるが、朱壁にもたれて三味線を弾く抱一の眼差しには、一抹の寂寥感が漂っている。

抱一上人.jpg

(鏑木清方筆 三幅対の中幅 縦四〇・五㎝ 横三五・〇㎝ 明治四十二年<一九〇九>
  永青文庫蔵 )


(追記二)抱一作「朝顔」(荻江節)

https://www.kyosendo.co.jp/essay/125_tamaya_1/

見しをりのつゆわすられぬ、
あさがほのはなの盛は、
ももとせもかはらぬ今のかたみとて、
むかしかたりにあらばこそ、
見れば、
うつつに水くきのあとは尽せぬ玉菊の、
ひとよふた代ををなしなの、
あいよりいでてなをあをきるりのせかいや、
花のおもか」

「玉菊が描き置し香包ありて、朝顔の花を描きて最しほらかりしを、不図雨花庵(抱一)の大人に見せければ、元来好事といひ常々廓中に入ひたりて画に用ひられて取はやさるる身は人々のすすめも黙止(もだし)がたく、彼香包の色絵より朝顔といふめりやすの唄を作り、名ある画客会合し衆評の上節を付、伊能永鯉もたびたび引出されて、一節伐(ひとよぎり)を合せ、その外鼓弓筝笛尺八つづみ太鼓にいたるまで、名だたる人々一同に合奏して、夜な夜な遊君ひともとの座敷に錬磨しけるが、その後はなばなしく追善の式ありし沙汰を聞ず、伝え聞に、それぞれの配(くばり)もの四季着(しきせ)付届振舞以下弐百両余の失墜あればなり、依て玉菊が墓所を修理して苔提所に於て読経作善いと念頃なりしとかや」


その二十 江戸の粋人・抱一の描く「その十 吉原月次風俗図(十月・時雨)」

抱一・吉原・十月.jpg

酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(十月「時雨」)
【 十月(時雨)
時雨にまじって紅葉の楓の葉が二、三飛ぶ図に、「飛ふ駕やしくれくる夜の膝かしら」と「来ぬ夜なく千鳥や虎か裾もよふ」の二句が添えられる。】
(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

  飛ぶ駕(かご)やしぐれくる夜の膝がしら 抱一(「吉原月次風俗図(十月・時雨)」)
  来ぬ夜なく千鳥や虎が裾もよふ       抱一( 同上 ) 

 この両句は、書画の「対幅(ついふく)」(一対に仕立てられた書画の掛け物)形式になっていて、一句目が上に、二句目が下に書かれている。図柄は、「小夜時雨に紅葉の楓の葉が二三枚飛び散っている」ものとなっている。
 時雨は、「朝時雨・夕時雨・小夜時雨・村時雨・北時雨・横時雨」などの時分や態様によるものの他、比喩的な時雨(偽物の時雨)の「川音の時雨・松風の時雨・木の葉の時雨・涙の時雨・袖の時雨・袂の時雨」も、連歌や俳諧の世界では季語として認知されている。
 一句目の時雨(「しぐれくる夜の」・初冬)は、「夜の時雨・小夜時雨」で、二句目は「千鳥」(「小夜千鳥」・三冬)の句だが、下五の「虎が裾もよふ」が「虎が雨」(「虎が涙雨」=曽兄弟の仇討の虎御前の涙雨=仲夏)を言外に匂わせている。
 そして、一句目は、本歌取り(和歌などを念頭に置いての句作り)の句というよりも、本句取り(俳諧の句などを念頭においての句作り)の句という雰囲気である。

  山城へ井手の駕籠かるしぐれ哉  芭蕉(『蕉尾琴』) 
  あれ聞けと時雨来る夜の鐘の声  其角(『猿蓑』)

 この一句目が、本句取りの句の雰囲気を有しているのに比して、二句目の句は、本歌取りの句の雰囲気である。

  千鳥鳴く佐保の河瀨のさざれ浪
    やむ時もなしわが恋ふらくは(大伴坂上郎女『万葉集・巻六』)
  思ひがね妹がり行けば冬の夜の
       川風さむみ千鳥鳴くなり  (紀貫之『拾遺集・巻四』)

 その上で、この一句目と二句目とを併せ鑑賞して行くと、京都島原の遊郭内に不夜庵(俳諧)を主宰し、与謝蕪村と交流の深かった炭太祇の、次の句などが想起されて来る。

   行く秋や抱けば身に添ふ膝頭   (『太祇句選』秋)
   傘焼し其の日も来けり虎が雨   (『同上』夏)
   行く女袷着なすや憎きまで    (『同上』夏) 
   しぐるゝや筏の棹のさし急ぎ   (『同上』冬)
   うぐひすのしのび歩行や夕時雨  (『同上』冬)
   ちどり啼く暁もどる女かな    (『同上』冬) 
   年とるもわかきはおかし妹が許  (『同上』冬) 

 ここで、この一句目と二句目との、デノテーション(裏の意味ではなく、文字通りの直接的な意味)的な句意は、次のとおりとなる。

   飛ぶ駕(かご)やしぐれくる夜の膝がしら 

「時雨の夜に、(待ち人に逢うために)駕籠を飛ばして、その駕籠の中で丸くなって膝頭を抱えている。」

   来ぬ夜なく千鳥や虎が裾もよふ 

「(待ち人が)来ない夜に鳴く千鳥は、『曽我兄弟の仇討』で、愛する人を失った虎御前の涙で裾までも濡らしたように悲しげに聞こえる。」

 そして、この両句を、一対の句と解すると、それは、和歌における「贈答歌」(贈句と答歌=反歌)の構成になろう。連歌・俳諧では「対句付け・相対付け」という「長句(五七五)と短句(七七)」の付合いのルールがあるが、発句(長句)と発句(長句)との場合は、「贈答歌」に倣い「贈答句」(あるいは「二句唱和」)の世界のものなのと解して置きたい。
そして、これらのルールは、「贈歌(贈句=前句)」の「言葉などをうまく織り込み、さらに、新味を加えて切り返す」のが「答歌(答句=付句)」のポイントということになろう。

   飛ぶ駕(かご)やしぐれくる夜の膝がしら (贈句=前句)
   来ぬ夜なく千鳥や虎が裾もよふ      (答句=付句) 

 この「贈句」は男性の句の感じで、この男の「くる夜」に対して、「答句」の方は男を待っている女性の感じで、「来ぬ夜」で受けている。そして、「贈句」の「しぐれ」(初冬)に対して「千鳥」(三冬)で応じ、「贈句」の「膝がしら」に対して、「答句」は、何とも、造語的な「虎が裾もよふ」(「虎が雨(?)」+「裾時雨(?)+「雨模様(?)+「虎模様(?)」)と、切り返している雰囲気なのである。
 として、この一対のデノテーション的句意は、次のとおりとなる。

【(贈句=男)時雨の夜、恋人に逢いたいと、駕籠を飛ばしています。その駕籠が余りにも揺れますので、必死に背を丸くして膝頭を抱えています。
(答句=女)待てども待てども貴方は来ない。外の闇夜で千鳥が鳴いています。その千鳥の鳴き声は、『虎が雨』とも『涙の裾時雨』とも聞こえてきます。 】

 そして、これらのコノテーション(言外の意味・暗示的意味など)的句意は、この一対のデノテーション的句意の、その男を「抱一自身」、そして、その女を「抱一の相方(小鶯女史)」とすると、実に、臨場感溢れる、抱一の自作自演の「贈答句」となって来る。
 その句意は、上記の句意に、下記のアドレスで紹介した、次の「墨梅図」(抱一画、小鶯女史賛)関連(再掲)のものを加味することになろう。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-09-01

(再掲)

紅梅図.jpg

酒井抱一筆「紅梅図」(小鸞女史賛) 一幅 文化七年(一八一〇)作 細見美術館蔵
絹本墨画淡彩 九五・九×三五・九㎝
【 抱一と小鸞女史は、抱一の絵や版本に小鸞が題字を寄せるなど(『花濺涙帖』「妙音天像」)、いくつかの競演の場を楽しんでいた。小鸞は漢詩や俳句、書を得意としたらしく、その教養の高さが抱一の厚い信頼を得ていたのである。
 小鸞女史は吉原大文字楼の香川と伝え、身請けの時期は明らかでないが、遅くとも文化前期には抱一と暮らしをともにしていた。酒井家では表向き御付女中の春條(はるえ)として処遇した。文化十四年(一八一七)には出家して、妙華(みょうげ)と称した。妙華とは「天雨妙華」に由来し、『大無量寿経』に基づく抱一の「雨華」と同じ出典である。翌年には彼女の願いで養子鶯蒲を迎える。小鸞は知性で抱一の期待によく応えるとともに、天保八年(一八三七)に没するまで、抱一亡きあとの雨華庵を鶯蒲を見守りながら保持し、雨華庵の存続にも尽力した。
 本図は文化六年(一八〇九)末に下谷金杉大塚村に庵(後に雨華庵と称す)を構えてから初の、記念すべき新年に描かれた二人の書き初め。抱一が紅梅を、小鸞が漢詩を記している。抱一の「庚午新春写 黄鶯邨中 暉真」の署名と印章「軽擧道人」(朱文重郭方印)は文化中期に特徴的な踊るような書体である。
 「黄鶯」は高麗鶯の異名。また、「黄鶯睨睆(おうこうけいかん)」では二十四節気の立春の次候で、早い春の訪れを鶯が告げる意を示す。抱一は大塚に転居し辺りに鶯が多いことから「鶯邨(村)」と号し、文化十四年(一八一七)末に「雨華庵」の扁額を甥の忠実に掲げてもらう頃までこの号を愛用した。
 梅の古木は途中で折れているが、その根元近くからは新たな若い枝が晴れ晴れと伸びている。紅梅はほんのりと赤く、蕊は金で先端には緑を点じる。老いた木の洞は墨を滲ませてまた擦筆を用いて表わし、その洞越しに見える若い枝は、小さな枝先のひとつひとつまで新たな生命力に溢れている。抱一五十歳の新春にして味わう穏やかな喜びに満ちており、老いゆく姿と新たな芽吹きの組み合わせは晩年の「白蓮図」に繋がるだろう。
 「御寶器明細簿」の「村雨松風」に続く「抱一君 梅花画賛 小堅」が本図にあたると思われ、酒井家でプライベートな作として秘蔵されてきたと思われる。

(賛)

「竹斎」(朱文楕円印)
行過野逕渡渓橋
踏雪相求不憚労
何處蔵春々不見惟 
聞風裡暗香瓢
 小鸞女史謹題「粟氏小鸞」(白文方印)    】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「作品解説96(岡野智子稿)」)

 この小鸞女史の漢詩の意などは、次のようなものであろう。

行過野逕渡渓橋(野逕ヲ過ギ行キ渓橋ヲ渡リ →  野ヲ過ギ橋ヲ渡リ)
踏雪相求不憚労(相イ求メ雪踏ムモ労ヲ憚ラズ → 雪ノ径二人ナラ労ハ厭ワズ) 
何處蔵春々不見惟(何處ニ春々蔵スモ惟イ見ラレズ → 春ガ何処カソハ知ラズ) 
聞風裡暗香瓢(暗裡ノ風ニ聞ク瓢ノ香リ → 暗闇ノ梅ノ香ヲ風ガ知ラスヤ)

(追記)上記の小鶯女史の漢詩(賛)について、『もっと知りたい 酒井抱一(玉蟲敏子著)』では、次のとおりの和訳されている。

 野逕(やけい)を行き過ぎ   渓橋(けいきょう)を渡る
 雪を踏み 相求(もとむ)るに 労を憚(はばか)らず 
 何処(いずこ)か春を蔵さん  春見へず
 惟(た)だ聞く 風裡(ふうり)暗香(あんこう)の瓢(ひょう)

その二十一 江戸の粋人・抱一の描く「その十一 吉原月次風俗図(十一月・酉の日)」

花街柳巷十一.jpg

酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(十一月「酉の日」)
【 十一月(酉の日)
「酉の日や数の寶と鷲つかみ」の句に、酉の市で買った縁起物の熊手を描く。】
(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

酉の市.jpg

歌川広重画「名所江戸百景 浅草田甫酉の町詣」(絵師:広重 出版者:魚栄 刊行年:
安政四=一八五七):国立国会図書館蔵(「錦絵でたのしむ江戸の名所)  
https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail267.html

 広重の「名所江戸百景」は、安政三年(一八五六)から同五年(一八五八)にかけて制作された連作浮世絵名所絵(全一一九枚)で、上記の「浅草田圃酉の町詣」は「冬の部(一〇二)」の「吉原妓楼より見た風景:背後の森は正燈寺」である。
 この図は、吉原妓楼の人気の無い部屋から猫が、浅草長国寺境内社の鷲(おおとり)神社に、十一月の酉の日に参詣する行列を見ているものである。十一月最初の酉の日は「一の酉」、次は「二の酉」、さらに、「三の酉」がある年は火災が多いとか、吉原遊郭に異変があるなどの俗信が言い伝えられている。
 以前は「酉の祭(とりのまち)」と呼ばれていたものが、その「祭」に「市」が立って、「酉の市(まち・いち)」が一般的な呼称となっている。広重は、この「名所江戸百景」の他にも、江戸のガイドブックとも言える『絵本江戸土産』(第六編)の中でも「浅草酉の町」と題して、下記のような隅田川方面からの鷲大明神に参詣する群衆を描いている。
 そこに、次の文章が書かれている。

「浅草大音寺前に在り日蓮宗長國寺に安置したまふ鷲大明神と世にはいへど、実は破軍星を祀りしなりとぞ、十一月の酉の日には参詣の諸人群衆なし、熊手と唐の芋をひさぐを当社の例いとす。」

酉の市二.jpg

国立国会図書館デジタルコレクション『絵本江戸土産』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8369311?tocOpened=1

 縁起物の熊手も色々の種類があり、時代とともに形も飾り物も変わってきている。江戸中期より天保初年頃までは柄の長い実用品の熊手におかめの面と四手をつけたもので、上記の広重の『絵本江戸土産』での左の熊手のものは、その種のものであろう。
 冒頭の抱一の図柄は、その長い柄の熊手(商売繁盛を掻っ込む)と唐(頭)の芋(八頭を篠で輪にしたもの=子孫繁栄)を、人物を一切排除し、また、熊手などもお多福などの飾り物をオフリミットして、句(発句)と画(図柄)とを、「付かず離れず」の、連歌・俳諧の付合(付け合い)の要領に意を用いている。

  酉の日や数の寶と鷲つかみ   抱一

 季語は「酉の日」(酉の市・酉の町詣・一の酉・二の酉・三の酉・熊手市など)、「数の宝」は、「数多の宝」の意、そして、この「鷲つかみ」は、「鷲(おおとり)神社」と「鷲掴み=手のひらを大きく開いて荒々しくつかむこと」を掛けての用例であろう。
 句意は、「十一月の酉の市、熊手やお福面やら数多の縁起物を、鷲(おおとり)大明神に因んで、鷲(わし)掴みしよう」というようなことであろう。
 この「酉の市」関連の句としては、「抱一の画、濃艶愛すべしといえども、俳句に至っては拙劣見るに堪えず」と酷評した正岡子規の作句例が極めて多い。また、浅草生まれの、江戸情緒豊かに、芥川龍之介をして「東京の生んだ<嘆かひ>の発句」と評された、久保田万太郎に佳句が多い。

  お宮迄行かで歸りぬ酉の市   正岡子規
  お酉樣の熊手飾るや招き猫     同上
  世の中も淋しくなりぬ三の酉   同上
  傾城に約束のあり酉の市      同上
  傾城の顏見て過ぬ酉の市      同上
  吉原てはくれし人や酉の市    同上
  吉原を始めて見るや酉の市     同上  
  夕餉すみて根岸を出るや酉の市  同上
  女つれし書生も出たり酉の市    同上
  子をつれし裏店者や酉の市     同上
  時雨にもあはず三度の酉の市    同上
  畦道や月も上りて大熊手      同上
  縁喜取る早出の人や酉の市     同上
  遙かに望めば熊手押あふ酉の市 同上
  酉の市小き熊手をねぎりけり    同上
  雜鬧や熊手押あふ酉の市     同上
  めッきりとことしの冬や酉の市  久保田万太郎
  外套の仕立下しや酉の市      同上
  提灯のちやうちんや文字酉の市   同上
  松葉屋の女房の円髷や酉の市    同上
  酉の市はやくも霜の下りしかな   同上
  龍泉寺町のそろばん塾や酉の市   同上
  くもり来て二の酉の夜のあたゝかに 同上
  たかだかとあはれは三の酉の月   同上
  三の酉しばらく風の落ちにけり   同上
  三の酉つぶるゝ雨となりにけり   同上
  二階よりたまたま落ちて三の酉   同上

その二十二 江戸の粋人・抱一の描く「その十一 吉原月次風俗図(十二月・狐舞」

花街柳巷十ニ.jpg

酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(十二月「狐舞」)
【十二月(狐舞)
「此としもきつね舞せてこへにけり」の句と、かしこまった狐舞の図で、十二か月月次の書画をしめくくっている。最終図として「抱一書畫一筆」の署名も加えられている。】(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

 この抱一の描く「狐舞い図」は、白狐の面をかぶり、赤熊(しゃぐま)という真っ赤な毛の鬘をつけ、錦の衣装で幣(ぬさ)を肩にし、右手で鈴を振って厄払いの舞いをしている、妓楼の座敷などで演じている「かしこまった狐舞の図」というイメージであろう。

 此(この)としもきつね舞せてこへにけり 抱一(「吉原月次風俗図・十二月「狐舞」)

この抱一の句に関して、デノテーション(裏の意味ではなく、文字通りの直接的な意味)やコノテーション(言外の意味・暗示的意味など)などの詮索は無用である。

 酉の市はやくも霜の下りしかな   久保田万太郎
 くもり来て二の酉の夜のあたゝかに 同上
 三の酉しばらく風の落ちにけり   同上
 此(この)としもきつね舞せてこへにけり 酒井抱一

(追記一)「吉原・狐舞い」関連メモ

北斎・狐舞い.jpg

葛飾北斎画『隅田川両岸一覧』(国立国会図書館デジタルコレクション)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533332

刊本(木版色刷)全三冊上・中・下  享和元年刊行  葛飾北斎画 上中下各8丁の美麗彩色画に狂歌(狂歌絵本) 上に壷十楼成安、序に北斎 此頃隅田川両岸の勝地を模写し、これに仙鶴堂の勧めにより歌をそえている。 本書は、隅田川両岸の風景や賑いを色刷りの版画で描いたもので、遊女から職人まで描かれており、江戸の諸相を知ることができる。

「其以前は知らず。新吉原に限り、年越大晦日に獅子舞は壱組もなく、狐の面をかぶり、幣と鈴を振り、笛太鼓の囃子にて舞こむ。是を吉原の狐舞とて、杵屋の長唄の中にも狐舞の文句をものせしあり。抱一上人が吉原十二ヶ月の画中又此の狐舞を十二月に画かれたり。狐は白面にして、赤熊の毛をかむり錦の衣類をつけたるまま、いとも美事なり。世間の不粋は、当所大晦日の狐舞を見しものなしとなり」(『絵本風俗往来』)

『絵本風俗往来』等によると、吉原という町には獅子舞では無く「狐舞ひ」が現れ、笛や太鼓の囃子を引き連れ、遊女たちを囃し立て、追いかけまわしたとされている。遊女たちの間では、この狐に抱きつかれてしまうと子を身ごもるとの噂があり、身ごもっては商売ができない遊女たちは、おひねり(「御捻り」の意味は神社や寺に供えたり他人に与えたりするために、小銭を紙にくるんでひねったもののこと。)を撒いて抱きつかれるのを防いだという、一種の鬼ごっこのようなものが「狐舞ひ」のルーツとなっている。


山東京伝・狐舞い.jpg

Fox Dance in the Yoshiwara, from the album Spring in the Four Directions (Yomo no haru) 四方の巴流 吉原の狐舞
Japanese Edo period 1796 (Kansei 8)
Artist Kitao Masanobu (Santô Kyôden) (Japanese, 1761–1816)
(ボストン美術館蔵)
https://www.mfa.org/search?search_api_views_fulltext=11.14987%2C+11.14989&=Search

狂歌集『四方の巴流』(作者 鹿都(津)部真顔〔編〕、山東京伝〔ほか画〕)

『四方の巴流(よものはる)』(狂歌堂真顔撰)
狂歌堂真顔による狂歌春興帖(寛政七年に大田南畝の四方赤良から四方姓を継ぐ)。題簽「四方の巴流」。「五明楼花扇」(吉原江戸町一丁目扇屋抱え花扇)による扉書、「路考」(三代目瀬川菊之丞)、「市川団十郎」(五代目市川団十郎)の挿絵とともに、京伝による挿絵と狂歌一首が載る。


歌麿・花扇.jpg

喜多川歌麿筆「高名美人六家撰_扇屋花扇」(東京国立博物館蔵)
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0028221

花扇(はなおうぎ)は、吉原遊廓の遊女屋、扇屋の高級遊女の源氏名です。この名は代々襲名されていますが、この絵をはじめ、歌麿の描く花扇は、大部分が四代目です。四代目の花扇は、書をよくし、酒を好んだと伝えられていますが、寛政6年に客と駆け落ちしてしまいました。すぐに連れ戻されますが、駆け落ち直後に出されたと思われるこの絵の後摺りでは、名を出すことを避けてか、花扇の名が「花」とされています。喜多川歌麿は、天明・寛政期(1781〜1801)の浮世絵の黄金時代を代表する絵師で、美人画のシリーズものの名作が多数あります。

https://www.jti.co.jp/Culture/museum/collection/other/ukiyoe/u3/index.html

(追記二)「抱一・鵬斎・文晁と七世・市川団十郎」関連メモ

【酒井抱一の『軽挙館句藻』の文化十三年のところに、  
正月九日節分に市川団十郎来たりければ、扇取り出し発句を乞ふに、「今こゝに団十郎や鬼は外」といふ其角の句の懸物所持したる事を前書して、
  私ではござりませんそ鬼は外   七代目三升
折ふし亀田鵬斎先生来りその扇に
  追儺の翌に団十郎来りければ
  七代目なを鬼は外団十郎     鵬斎
谷文晁又その席に有て、其扇子に福牡丹を描く、又予に一句を乞ふ
  御江戸に名高き団十郎有り
  儒者に又団十郎有り
  畫に又団十郎有り
  その尻尾にすがりて
 咲たりな三幅対や江戸の花     抱一    】
(『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達・渥美国泰著』)

(追記三)「抱一と吉原そして駐春亭(宇右衛門)・八百善(八百屋善四郎)・向島百花園(佐原鞠塢)」関連メモ

(抱一と吉原)

【けれども薄暮のころになると、筆を置き、あんぽつ駕籠に揺られて吉原へ行くのが例であった。一年中一夕でもひと廻り廓中を廻ることをやめたことはなかった。廓中いたるところ、花魁、楼主、幇間、歌妓、遣手、禿にいたるまで、抱一の知人でない者はいなかった。そのうえ傾城の女弟子さえ数多あるので、抱一にとってはこの別天地はわが家のごとき思いがあったのであろう。遊女の年季がすんで身を寄せるところがない者が、雨華庵へ来て、居候していることがたびたびあった。それを抱一自ら媒介して知己や門弟にめあわせた者も十余人におよんだくらいであった。 】(『本朝画人伝巻一・村松梢風』所収「酒井抱一」)

(抱一と駐春亭宇右衛門)

【毎日夕景になると散歩に出掛ける廓の道筋、下谷龍泉寺町の料亭、駐春亭の主人田川屋のことである。糸屋源七の次男として芝で生れ、本名源七郎。伯母の家を継いで深川新地に茶屋を営む。俳名は煎蘿、剃髪して願乗という。龍泉寺に地所を求めて別荘にしようとしたところ、井戸に近辺にないような清水が湧き出して、名主や抱一上人にも相談して料亭を開業した。座敷は一間一間に釜をかけ、茶の出来るようにしてはじめは三間。風呂場は方丈、四角にして、丸竹の四方天井。湯の滝、水の滝を落として奇をてらう。(中略)上人が毎日せっせと通っていたわけがこれで分かる。開業前からの肩入れであったのである。「料理屋にて風呂に入る」営業を思いつき、「湯滝、水滝」「浴室の内外額は名家を網羅し」「道具やてぬぐいのデザインはすべて抱一」】「鉢・茶器類は皆渡り物で日本物はない」当時としては凝った造り、もてなしで評判であったろう。これもすべて主人田川屋の風流才覚、文人たちの応援があったればこそである。 】(『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達・渥美国泰著』)

 ◯田川屋(料理屋)
 △「田川屋料理  金杉大恩寺
    風炉場は浄め庭に在り  酔後浴し来れば酒乍ち醒む
    会席薄(ウス)茶料理好し  駐春亭は是れ駐人の亭
 □「下谷大恩寺前 会席御料理 駐春亭宇右衛門」

http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/ukiyoeyougo/e-yougo/yougo-edomeibutu-tenpou7.html

☆ 上人が毎日せっせと「吉原」へ歩を向けたのは、この駐春亭で、夕食をとり、風呂に入
るのが、主たる目的であったのかも知れない。(yaha memo)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/

「抱一の吉原通いは終生続き、山谷の料亭、駐春亭主人の田川氏の聞き書きに多く基づく『閑談数刻』(東京大学総合図書館)という資料は、抱一が吉原で贔屓にした遊女として、大文字屋の一もと、松葉屋半蔵抱えの粧(よそおい)、弥八玉屋の白玉、鶴屋の大淀などの名前を挙げている。このうち、粧は音曲を好まず、唐様の書家の中井董堂から書、広井宗微から茶、抱一から和歌・発句を学んだという才色兼備の遊女で、蕊雲(ずいうん)、文鴛(ぶんおう)という雅号を持っていた。抱一は彼女のために年中の着物の下絵を描いたという。」   

『閑談数刻』(東京大学総合図書館)は、駐春亭宇右衛門の聞き書きによるものなのである。

(抱一と八百屋善四郎)

【福田屋といい、新鳥越二丁目に住み、俳諧を好み、三味線も巧みであった。なかなかの文学趣味もあって端唄を作詞し、「江戸鳶」には自身で三味線の手も付けたという。またつくる発句は何れも都会人好みの洒落た句で、才人ぶりを発揮していた。一代で築いた料理屋としての名は江戸中に轟いていて、「料理見世、深川二軒茶屋、洲崎ますや、ふきや町河岸打や、向じま太郎けの類なり。近頃にいたり、追々名高き料理見世所々に多く出来る。八百善など、一箇年の商ひ二千両づゝありと云う。新鳥越名主の物語なり」などと、青山白峰の『明和誌』に載る八百善は宝暦の頃の開業といわれる。いわば、江戸料理屋のはしりである。吉原の道筋でもあり、風流人や富商などの客筋が絶えず、いきおい高級料理の名を高めた。(以下略 )  】(『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達・渥美国泰著』)

◯八百善(料理屋)
△「八百善仕出  新鳥越 
    八百善の名は海東に響く        年中の仕出し太平の風
    此の家の塩梅の妙なるを識らんと欲せば 請ふ見よ数編の料理通」
□「新鳥越二丁目 御婚礼向仕出し仕候 御料理 八百屋膳四郎」
◎「八百善の家に余慶の佳肴あり」(一〇三6)
 〔蜀山人狂歌〕「詩は五山役者は杜若傾はかの藝者はおかつ料理八百善」(『大田南畝全集』⑲279(書簡225)
〈当代の人気者、菊池五山・岩井半四郎・遊女かの・芸者お勝。『料理通』(文政五年刊)の序文は南畝が蜀山人名で書いている〉

http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/ukiyoeyougo/e-yougo/yougo-edomeibutu-tenpou7.html

八百屋善四郎著『料理通(初編)』 文政五年(一八二二)刊 

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-28

(抱一と佐原鞠塢=きくう・「向島百花園」)

佐原鞠塢.jpg

佐原鞠塢肖像、「園のいしぶみ」より

http://www.city.sumida.lg.jp/sisetu_info/siryou/kyoudobunka/tenzi/h16/kikakuten_hyakkaen.html

【百花園の開園者、佐原鞠塢(きくう)
百花園を開いた佐原鞠塢は、奥州仙台の農民の出で、俗称を平八といった。明和元年(1764年)生まれという説があるが不詳。天明年間(1781年から1789年)に江戸に出てきて、中村座の芝居茶屋・和泉屋勘十郎のもとで奉公した。その後、財を蓄え、それを元手に寛政8年(1796年)頃、日本橋住吉町に骨董屋の店を開き、名を北野屋平兵衛(北平とも)と改めた。芝居茶屋での奉公、骨董商時代の幅広いつき合いがもとで、当代の文人たちとの人脈を形成し、その過程で自らも書画・和歌・漢詩などを修得した。鞠塢は、商才のある人であったらしく、文人たちを集めて古道具市をしばしば開催したが、値をあげるためのオークション的な商法が幕府の咎めを受けたという。
 しばらくの間、本所中の郷(現向島1丁目付近)にいたが、文化元年(1804年)頃に剃髪して、「鞠塢菩薩」の号を名乗った。この頃、向島にあった旗本・多賀氏の屋敷跡を購入し、ここに展示で紹介する著名な文人達より梅樹の寄付や造園に協力を仰ぎ、風雅な草庭を造ったのが百花園の起こりである。園は梅の季節だけでなく、和漢の古典の知識を生かして「春の七草」「秋の七草」や「万葉集」に見える草花を植えたため、四季を通じて草花が見られるようになり、いつしか梅屋敷・秋芳園・百花園などと呼ばれるようになった。園の経営者としても鞠塢の才能はいかんなく発揮され、園内の茶店では、隅田川焼という焼き物や「寿星梅」という梅干しなどを名物として販売。また、園内で向島の名所を描きこんだ地図を刷り人々に頒布して、来園者の誘致を図り、次第にその評判が高まっていった。天保2年(1931年)8月29日に死没。編著書に漢詩集「盛音集」、句集「墨多川集」「花袋」のほか、「秋野七草考」「春野七草考」「梅屋花品」「墨水遊覧誌」「都鳥考」などがある。  】

(追記三)「抱一と河東節」 

【抱一は声曲の中では当時の通人の多くがそうであったように河東節(かとうでし)を好み、しばしば仲間と会を催した。河東の新曲を幾つか作り、「青すだれ」「江戸うぐいす」「夜の編笠」「火とり虫」等、抱一作として後代にのこっている曲も幾つかある。 】(『本朝画人伝巻一・村松梢風』所収「酒井抱一」)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-09-07

(追記) 酒井抱一作詞『江戸鶯』(一冊 文政七年=一八二四 「東京都立中央図書館加賀文庫」蔵)
【 抱一は河東節を好み、その名手でもあったという。自ら新作もし、この「江戸鶯」「青簾春の曙」の作詞のほか、「七草」「秋のぬるで」などの数曲が知られている。平生愛用の河東節三味線で「箱」に「盂東野」と題し、自身の下絵、羊遊斎の蒔絵がある一棹なども有名であった。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説一〇一」(松尾知子稿)」) 




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