蕪村の花押(その五~その七の二)

蕪村の花押(その五)

膳.jpg

「諸家寄合膳」(二十枚)のうちの「蕪村筆・翁自画賛」=A

『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM編)』所収「作品解説(3)」では、「画面左に杖を持った二人の人物を簡単な筆づかいで描く。右上に三行で『嵯峨へ帰る 人はいつこの 花にくれし』という発句を書く。『蕪村』という署名花押を書く」とある。

 この花押は、蕪村が、宝暦六年(一七五六)の丹後時代から常用している花押と明らかに相違している。
 蕪村の常用の花押については、『人物叢書 与謝蕪村(田中善信著)』では、「嘯山宛の手紙に、蕪村常用の、独特の形をした花押が書かれている(挿図の『花鳥篇』序参照)。かつてこの花押は、矢を半分にしたもので矢半(夜半)の洒落だといわれていたが、岡田利兵衛氏のように、夜半亭を継承する以前にこの花押が用いられているから、従来の説は誤りである(『俳画の美』)。岡田氏は『村』から作った花押だというが、私には槌の形に見える。花押の作り方としては異例だが、これは槌を図案化したものではなかろうか」と記されている。
 同書では、『花鳥篇』序(天理大学付属天理図書館蔵)のものの花押を例示し、別の「蕪村の大黒天図」に関連して、俵の上に乗り木槌を持った「大黒天図(中村家像)」を挿図として掲載している。

 この蕪村常用の花押について、これまでに掲載したものを、ここに併載して置きたい。

書簡A.png

蕪村書簡(三宅嘯山宛て、宝暦七年(一七五七))=B

絵図A.png

蕪村挿絵図(『はなしあいて』所収「蕪村山水略図」)=C

蕪村静御前.jpg

蕪村筆 静御前図自画賛(「生誕三百年同い年の天才絵師 若冲と蕪村」作品21) =D

 上記(B・C・D)の花押は、拡大すると、凡そ次のようなものである。

蕪村花押 .jpg

「蕪村の署名・花押」=E

冒頭の「蕪村筆・翁自画賛」=Aと、この「蕪村の署名・花押」=Eとを比較すると、署名はともかくとして、花押は似ても非なるものの印象が拭えないのである。
ここで、いわゆる「真贋」とかを話題にするというよりは、この二様の違う、蕪村の花押を、鑑識や鑑定の世界での、「これならとおる」(「見解は分かれるが、多くの人を納得させられる」)のようなものが見いだせないかという、そんな難問題への、無謀な謎解きをしたいというのが、その真相なのである。
 しかし、この謎解きに入る前に、「蕪村筆・翁自画賛」=Aに、「三行で書かれている発句」の「嵯峨へ帰る 人はいつこの 花にくれし」(安永九年・一七八〇作)に併記して、「筏士(いかだし)のみのやあらしの花衣」の「自画賛」があり、そこに、「酔蕪村 三本樹井筒屋楼上において写」と落款して、そこに花押(Eと同種の花押)が押されている。
 すなわち、「蕪村筆・翁自画賛」=Aと、極めて関連の深い「自画賛」が別に現存し、そこに花押(Eと同種)があり、さらに、この謎解きは複雑な形相を呈して来るのである。
そして、あろうことか、こちらの「筏士(いかだし)のみのやあらしの花衣」の「自画賛」には、寺村百池の詳細な箱書きがあり、それに加えて、月渓(呉春)筆の「自画賛」もあるようで、どうにも整理の仕様がないような複雑な問題が内在しているのである。
 今回は、百池の箱書きのある「自画賛」を、『蕪村全集一 発句』の、その頭注より拡大して掲載をして置きたい。

蕪村花衣.jpg

 蕪村筆「筏士自画賛」(百池の箱書きあり、花押=Eと同種)

蕪村の花押(六の一)

蕪村花衣.jpg

蕪村筆「筏士自画賛」(百池の箱書きあり・蕪村の署名はなく花押のみ)=A

 寺村百池の「箱書き」(括弧書き=読みと注)は次のとおりである。

[ これは是、老師夜半翁(蕪村)世に在(ま)す頃、四明山下金福寺に諸子会しける日、帰路三本樹(京都市上京区の地名=三本木、その南北に走る東三本木通りは、江戸時代花街として栄えた)なる井筒楼に膝ゆるめて、各三盃を傾く。時に越(こし=北陸道の古名)の桃睡(とうすい)、酔に乗じて衣を脱ぎ師に筆を乞ふ。とみに肯(うべな)ひ、麁墨(そぼく)禿筆(とくひつ)を採(とり)てかいつけ給ふものなり。余(百池)も其(その)傍に有りて燭をとり立廻(たちめぐ)りたりしが、日月梭(ひ)の如く三十年を経て、さらに軸をつけ壁上の観となし、其(その)よしをしるせよと責(せめ)けるこそ、そゞろ懐古の情に堪へず、たゞ老師の磊落(らいらく)なる事を述(のべ)て今のぬしにあたへ侍りぬ。 ]
(『蕪村全集一 発句)』所収「2377 左注・頭注・脚注」)

 さらに、『大来堂発句集』(百池の発句集)』の天明三年(一七八三)三月二十三日に、「金福寺芭蕉庵、追善之俳諧興行(風蘿念仏)に、蕪村、桃睡、百池一座」として、「雨日嵐山
に春を惜しむ」との前書きのある「み尽して雨もつ春の山のかひ」という句が所出されている。
 すなわち、蕪村が亡くなる天明三年(一七八三)の三月二十三日、上記の百池の「箱書き」に記載されている句会が、金福寺芭蕉庵で開かれて、その帰途に、三本樹の井筒楼で宴会があり、その宴席での、即興的な「席画」(宴席や会合の席上で、求めに応じて即興的に絵を描かくこと。また、その絵)が、上記の「筏士自画賛=A」なのである。
 これは、百池の「箱書き」によって、桃睡の「衣」に描いた、すなわち、「絹本墨画」の「筏士自画賛」ということになる。ところが、「紙本墨画淡彩」の「筏師画賛=B」(出光美術館蔵)も現存するのである。これは、後述することとして、その前に、上記の「筏士自画賛=A」の賛の発句や落款について触れて置きたい。
 この画中の右の冒頭に、「嵐山の花見に/まかりけるに/俄(にわか)に風雨しければ」として、「いかだしの/みのや/あらしの/花衣」の句が中央に書かれている。それに続いて、画面の左に、「酔蕪村/三本樹/井筒屋に/おいて写」と落款し、その最後に、蕪村常用の「花押」が捺されている。
 このことから、蕪村は、亡くなる最晩年にも、この独特の花押を常用していたことが明瞭となって来る。
 ここで、蕪村が最晩年の立場に立って、生涯の発句の中から後世に残すに足るものとして自撰した『自筆句帳』の内容を伝える『蕪村句集(几董編)』の「巻之上・春之部」では、「雨日嵐山にあそぶ」として「筏士(いかだし)の蓑(みの)やあらしの花衣(はなごろも)」の句形で採られている。
 この句形からすると、出光美術館所蔵の「筏師画賛=B」(「大雅・蕪村・玉堂と仙崖―『笑《わらい》のこころ』」図録中「作品38」)も「筏士画賛」のネーミングも当然に想定されたものであろう。おそらく、「筏士自画賛=A」と区別したいという意図があるのかも知れない。
 これらの、「筏士自画賛=A」と「筏師画賛=B」との比較鑑賞(考察)は、後述・別稿ですることにして、この他に、「月渓筆画賛=C」(「資料と考証六」=未見)もあるようで、そこに、
「これは先師夜半翁、二軒茶やにての句也」と付記してあるという(『蕪村全集一 発句』)。
 これは、恐らく「筏師画賛=B」に近いもので、この「筏師画賛=B」に近いものが、他に何点か、その真偽はともかくとして出回っているようである。
 ここでは、冒頭の「筏士自画賛=A」の百池「箱書き」中の、「三本樹の井筒楼」と「月渓筆画賛=C」中の「二軒茶や」と、蕪村の傑作画として名高い「夜色楼台雪万家図」と関連しての、「晩年の蕪村が足繁く通った『雪楼』」」(『水墨画の巨匠第十二巻蕪村(芳賀徹・早川聞多著)』(「夜色楼台図(早川聞多稿)」)などについて触れて置きたい。
 この「雪楼」は、百池宛て蕪村書簡(天明二年・一七八二、七月十一日付け)で、「祇園 富永楼のこと。蕪村行き付けの茶屋」(『蕪村書簡集《大谷篤蔵・藤田真一校注》』)なのである。すなわち、晩年の蕪村が足繁く通った、蕪村自身の「拙(雪)老」の捩りの「雪楼」のようである。

蕪村 夜色楼台図.jpg

 (図1 蕪村筆 「 夜色楼台図」)

 この蕪村の「夜色楼台図」の左の画面外に、百池「箱書き」の「四明山(比叡山・四明岳)下金福寺」がある。そこで、天明三年(一七八三)三月二十三日に、「金福寺芭蕉庵、追善之俳諧興行(風蘿念仏)に、蕪村、桃睡、百池一座」と、句会を開いている。その「帰路三本樹なる井筒楼に膝ゆるめて、各三盃を傾く」と、宴会があった。
 当時の「三本樹」の花街の様子が、次の『拾遺都名所図会』で紹介されている。ここに、「井筒楼」や「富永楼(雪楼)」の茶屋があった。

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 (図2 「 三本樹(木)」『拾遺都名所図会』 ) 

 この『拾遺都名所図会』に描かれている川は「かも川(鴨川)」である。この「かも川」付近の「井筒楼」で、冒頭の「筏士自画賛=A」が「席画」され、その主題は、「嵐山の花見に/まかりけるに/俄(にわか)に風雨しければ」と「嵐山」であり、その「嵐山」の「桂川(保津川)」の「いかだしの/みのや/あらしの/花衣」と、「筏士」ということになる。
 すなわち、この「筏士自画賛=A」は、「嵐山」の「桂川(保津川)」の「筏士」を、「鴨川」の近くの「三本樹(木)の井筒屋」で、かつて画賛にしたもの(「筏師画賛=B」)を思い出しながら、「酔蕪村」(酔っている蕪村)が、即興的に、「桃睡、百池一座」の見ている前で描いたということになろう。

 その前に描いた画賛(「筏師画賛=B」)は、次のものであろう。

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 蕪村筆「筏師画賛=B」(出光美術館蔵)

 この「筏師画賛=B」に簡単に触れて置くと、「筏士自画賛=A」の左に記載されている
「酔蕪村/三本樹/井筒屋に/おいて写」のような記述はない。そして、その下にあった「花押」(「蕪村」の署名はない)は、「筏師画賛=B」では、右端に「蕪村・花押」とあり、
それに続く、前書きの文言も発句の句形も、微妙に異なっている。
 そして、「筏士自画賛=A」は、棹の位置からして、右の方向に進むのだが、この「筏師画賛=B」では、左の方向に進む図柄なのである。それ以上に、種々、大きな相違点などについては、別稿で詳しく見て行くことにしたい。
 ここで、付記して置きたいことは、この「筏師画賛=B」は、「諸家寄合膳」の「蕪村筆・翁自画賛」に書かれている「嵯峨へ帰る人はいずこの花にくれし」(安永九年・一七八〇作)と同時の頃の作と思われるのである。
 さらに、この「筏師画賛=B」も「席画」で、それは、恐らく、「月渓筆画賛=C」(未見)の付記の「これは先師夜半翁、二軒茶やにての句也」の、「三本樹(木)」の「井筒楼」や「富永楼」ではなく、京都祇園社境内の二軒茶屋などのものと解したい。

補記 

『蕪村全集一 発句』の「嵯峨へ帰る人はいづこの花にくれし」の、「脚注」に「自画賛<潁原ノート>」とあり、その「左注」に「自画賛に2377(筏士のみのやあらしの花筏)と併記」とある。この「脚注」と「左注」とからすると、「嵯峨へ帰る人はいづこの花にくれし」と「筏士のみのやあらしの花筏」を併記している、蕪村筆「自画賛」(未見)もあるのかも知れない。

蕪村の花押(六の二)

蕪村・筏師・出光美術館.jpg

 蕪村筆「筏師画賛=B」(出光美術館蔵)

[【筏師画賛】一幅 与謝蕪村筆 紙本墨画淡彩 江戸時代 二七・二×六六・八㎝
嵐山の桜を愛でている最中に、急に風雨が激しくなって、筏師の蓑が風に吹かれた一瞬を花に見立てた俳画。蓑の部分は、紙を揉んで皺をつけ、その上から渇筆を擦りつけることで、蓑のごわごわとした質感をあらわしている。蓑笠だけで表された筏師のポーズは遊び心にあふれ、ほのぼのとしていながら印象的である。遊歴の俳人画家、蕪村は五十歳になってから京都に安住の地に選び、身も心も京都の人になりきって庶民の風習を楽しんだ。自己を語ることをせずに、筏師一人だけを慎み深く捉えているところに、かえって都会的な香りや郷愁を感じさせる。(出光)
(釈文)
嵐山の花にまかりけるに俄に風雨しけれは
いかたしの みのや あらしの 花衣  蕪村 (花押) ]
「大雅・蕪村・玉堂と仙崖―『笑《わらい》』のこころ」(作品解説38)

 上記の「作品解説」の中で、「蓑の部分は、紙を揉んで皺をつけ、その上から渇筆を擦りつけることで、蓑のごわごわとした質感をあらわしている」の、いわゆる、水墨画の「乾筆(かっぴつ)=墨の使用を抑え,半乾きの筆を紙に擦りつけるように描く」の技法を、この「ミの(蓑)」に駆使しているのが、この俳画のポイントのようである。
 その「蓑」に比して、「笠」の方は、「潤筆(じゅんぴつ)=十分に墨を含ませて描く」の技法の一筆描きで、この「蓑と笠」だけで「筏師のポーズ」を表現するというのは、「遊歴の俳人画家」たる蕪村の「遊び心」で、「ほのぼのとしていながら印象的である」と鑑賞している(上記の解説)。
 ここで、この「筏師画賛=B」は、何時頃制作されたのかということについては、この賛に書かれている発句「いかたしの/ミのや/あらしの/花衣」の成立時期との関連で、凡その見当はついてくるであろう。

 『蕪村句集(几董編)』の収載の順序に、成立年時を付した『蕪村俳句集(尾形仂校注・岩波文庫)』では、次のようになっている。

     日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る
一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し ※安永九年(※は推定)
一八五 花の香や嵯峨のともし火消(きゆ)る時   安永六年
     雨日嵐山にあそぶ
一八六 筏士の蓑やあらしの花衣          天明三年

 この「一八六 筏士の蓑やあらしの花衣」は、「筏士自画賛」の百池「箱書き」の内容に照らして、天明三年(一七八三)の作ではなく、「一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し」と同時の、安永九年(一七八〇)作なのではなかろうかということについては、先に触れた。ここで、この両句を、その前書きから、「一八六 → 一八四」の順にすると次のとおりとなる。

     雨日嵐山にあそぶ
一八六 筏士の蓑やあらしの花衣 
     日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る
一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し

 この順序ですると、「雨日嵐山にあそぶ」、そして、「筏士」の句などを作り、「日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る」、その帰途中で、知人と出会い、「嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し」の句を作ったということになる。
 さらに、『蕪村句集』を見て行くと、「嵯峨の雅因亭」での、次の句が収載されている。

     嵯峨の雅因が閑を訪(とひ)て
三一一 うは風に音なき麦を枕もと       ※(安永三年四月)

 この「嵯峨の雅因」は、京都島原の妓楼吉文字屋の主人で、嵐山の宛在楼に閑居し、蕪村らと親しく交遊関係を結んでいる、山口蘿人門の俳人である。しかし、この雅因は、安永六年(一七七七)十一月二十六日に没しているので、ここで、上記の「一八五 花の香や嵯峨のともし火消(きゆ)る時」(安永六年作)が、雅因への追悼句の雰囲気を伝えて来る。 いずれにしろ、上記の『蕪村句集』に収載されている、「一八四・一八五・一八六」は、相互に響き合った、何かしらの因果関係にある句と解したい。

 さらに、ここに付け加えることとして、大雅が、安永五年(一七七六)四月十三日に没していることである。
 蕪村と大雅とは、京都の近い所に住んでいながら、ほとんど没交渉のような、この二人の生前の交渉の足跡はどうにも未知数の謎のままである。
大雅が没したときの、蕪村の書簡は、「大雅堂も一作(昨)十三日古人(故人)と相成候。平安(京都)の一奇物、をしき事に候」(安永五年四月十五日付け霞夫宛て書簡)と、関心は持っていて、その才能は高く評価していたのであろうが、生粋の京都(平安)人である大雅を、潜在的に余所者意識(大阪近郊の田舎生まれ且つ江戸育ちの放浪者意識)の強い蕪村が敬遠していたという印象を拭えない。

これは、蕪村と若冲との関係にも言えることであって、丹波(京都郊外)の田舎出身の応挙とは気が合うのも、そういった蕪村の潜在的な意識と大きく関係しているのかも知れない。
ともあれ、「諸家寄合膳」の大雅筆の「梅図=二」は、安永五年(一七七六)以前のものであろうということと、蕪村筆の「翁自画賛=三」は、安永九年(一七八〇)以降のものということで、この両者は、大雅と蕪村との唯一の交叉を象徴する「十便十宣図」(二十枚)のような関係にはないということは間違いなかろう。 また、寛政十二年(一八〇〇)の若冲筆・四方真顔賛の「雀鳴子図=八」とは、全く制作年次を異にするということも、これまた指摘して置く必要があろう。

 唯一、蕪村との関連ですると、当時(安永=一七七二~天明=一七八一に掛けて)、蕪村と応挙との親密な交遊は散見され、例えば、蕪村と応挙との合筆の「『ちいもはゝも』画賛」(「広島・海の見える杜美術館」蔵)などからして、「諸家寄合膳」の蕪村筆の「翁自画賛=三」と応挙筆の「折枝図=一」とは、同時の頃の作と解しても、それほど違和感が無いのである。

 それよりも、蕪村・応挙合筆の「『ちいもはゝも』画賛」に、「猫は応挙子か(が)戯墨也/しやくし(杓子)ハ蕪村か(が)戯画也」と、画面の右に墨書し、中央の下に、「蕪村賛」と署名し、その下に、花押が書かれている。
 この花押が、何と「諸家寄合膳」の蕪村筆「「翁自画賛=三」の花押と同じものと思われるのである(下記の蕪村筆「「翁自画賛=三」)。
 ここで、蕪村の花押について、一つの仮説のようなもの提示して置きたい(詳細は、折りに触れて関連する所で後述することとしたい)。

一 蕪村の花押は、常用の花押(上記の「筏師画賛=B」などに見られる花押)と諸家(例えば、応挙など)との合筆画(それに類するもの)などに見られる花押(下記の「翁自画賛=三」)との二種類のものがある。
二 その常用の花押も、また、合筆画用の花押も、その由来となっているものは、蕪村が関東歴行時代に見切りをつけ、宝暦初年(一七五一)に上洛して間もない頃に草した「木の葉経句文」に因っているものと解したい。
三 すなわち、その「木の葉経句文」中の、末尾の「肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)」の句に草した署名、「洛東間人(かんじん)嚢道人釈蕪村」の、この「嚢道人(釈)蕪村」の、その姓号と思われる「嚢道人」を象徴する「嚢」(雲水僧が携帯している経巻用の「嚢=袋」)の図案化と解したい。

諸家寄合膳(四枚).jpg

「諸家寄合膳」(二十枚)のうち「蕪村・若冲・大雅・応挙」(四枚)
上段(左)=蕪村筆「翁自画賛=三」 上段(右)若冲筆・四方真顔賛「雀鳴子図=八」
下段(左)=大雅筆「梅図=二」 下段(右)=応挙筆「折枝図=一」


補記一

蕪村の花押(六の三)

筏師画賛.jpg

月渓(呉春)筆「筏師画賛=C」逸翁美術館蔵  34×31.5cm

 この画中の筏師の右側に書いてある賛は次のとおりである。

[ 筏しのみのやあらしの花衣 / これは先師夜半翁三軒 / 茶やにての句也又 /渡月橋にて / 月光西に / わたれば花影 / 東に歩むかな / 日くれて家に / 帰るとて / 石高な都は / 花のもどり足   ]
 筏師の左側の賛は次のとおりである。
[ 花をふみし / 草履も見へて / 朝ねかな / 身をはふらかし / よろづにおこたり / がち成ひとを / あはれみたると / はし書あり / 月渓写 ]
(『呉春(逸翁美術館・昭和五七刊)』所収「100月渓筆筏師画賛」)

 呉春(松村月渓)は宝暦二年(一七五二)、京都の堺町四条下ル町で生まれた。本姓松村、名は豊昌、通称嘉左衛門、別号に可転など、軒号に蕉雨亭・百昌堂など、のち蕪村から「三菓軒」の号を譲られている。
 蕪村に入門をしたのは、明和八年(一七七一)十九歳の頃で、この年に、蕪村門の最右翼の高弟黒柳召波が亡くなっている。
 池大雅が亡くなった安永五年(一七七六)の二十五歳の頃は、蕪村社中の『初懐紙』『写経社集』などに続々入集し、画道共に俳諧活動も活発であった。
 上記の「筏師画賛=C」の制作年次は明らかではないが、その画賛中の「筏しのみのやあらしの花衣」の蕪村の句から類推すると、安永九年(一七八〇)二十九歳の頃から剃髪して呉春と改号した天明二年(一七八二)三十一歳前後の間のものであろう。
 月渓が呉春と改号した翌年、天明三年(一七八三)十二月二十五日に蕪村が没する(呉春、三十二歳)。蕪村没後の夜半亭社中は、俳諧は几董、そして、画道は呉春が引き継ぐという方向で、呉春も、漢画・俳画の蕪村の師風を堅持している。
 天明六年(一七八六)に、呉春の良き支援者であった雨森章迪が没し、その翌年の天明七年(一七八七)に、呉春は応挙を訪うなど、応挙の円山派への関心が深くなって来る。
 その翌年、天明八年正月二十九日、京都の大火で呉春の京都の家(当時の本拠地は摂津池田)が焼失し、偶然にも避難所の五条喜雲院で応挙と邂逅し、暫く応挙の世話で二人は同居の生活をする。
 この時、応挙が呉春に「御所方や御門跡に出入りを希望するなら、狩野派や写生の画に精通する必要がある」ということを諭したということが伝えられている(『古画備考』)。
 これらが一つの契機となっているのだろうか、明けて寛政元年(一七八九)五月、池田を引き払い、京都四条を本拠地としている。そして、その十二月、俳諧の方の夜半亭を引き継いだ、呉春の兄貴分の盟友几董が、四十九歳の若さで急逝してしまう。
 ここで、呉春は画業に専念し、応挙の門人たらんとするが、応挙は「共に学び、共に励むのみ」(『扶桑画人伝』)と、師というよりも同胞として呉春を迎え入れる。その応挙は、寛政七年(一七九五)に、その六十三年の生涯を閉じる。この応挙の死以後、呉春は四条派を樹立し、以後、応挙の円山派と併せ、円山・四条派として、京都画壇をリードしていくことになる。
 呉春が亡くなったのは、文化八年(一八一一、享年六十)で、城南大通寺に葬られたが、後に、大通寺が荒廃し、明治二十二年(一八八九)四条派の画人達によって、蕪村が眠る金福寺に改葬され、蕪村と呉春とは、時を隔てて、その金福寺で師弟関係を戻したかのように一緒に眠っている。

 上記の「筏師画賛=C」賛中の、蕪村の句関連は、次のような構成を取っている。

 筏士のみのやあらしの花衣
  これは先師夜半翁、三軒茶やにての句也 (後書き)
   (又)
  渡月橋にて (前書き)
 月光西にわたれば花影東に歩むかな
  日くれて家に帰るとて (前書き)
 石高な都は花のもどり足

 花をふみし草履も見へて朝ねかな
  花鳥のために身をは(ほ)ふらかし
  よろづにおこたりがち成(なる)ひとを
  あはれみたりとはし書(がき)あり  (後書き) 月渓写

 ここに出て来る四句は、月渓(呉春)に取っては、忘れ得ざる先師夜半翁(蕪村)の句ということになる。

 筏士のみのやあらしの花衣(天明三年=一七八三作とされているが、安永九年=一七八〇作)
 月光西にわたれば花影東に歩むかな(安永六年=一七七七作)
 石高(いしだか)な都は花のもどり足(安永九年=一七八〇作、石高=石高道のこと)
 花をふみし草履も見へて朝ねかな(安永五年=一七七六作)

 これらの四句に見える安永五年(一七七六)~安永九年(一七八〇)は、蕪村が最も輝いた時代で、同時に、蕪村と月渓(呉春)との師弟関係が最も張り詰めた年代であった。
 ここで繰り返すことになるが、この安永五年(一七七六)、蕪村六十一歳、そして、呉春二十五歳の時に、大雅(享年=五十二)が没した年で、この年に、蕪村の夜半亭門の総力を挙げての、金福寺境内の「芭蕉庵」が再建された年なのである。
 そして、この安永九年(一七八〇)、その翌年の四月、天明元年(一七八一)となり、この端境期の三月晦日に、月渓(呉春)は、最愛の妻・雛路を瀬戸内の海難事故失い、それに加えて、その年の八月に、これまた、最大の理解者であり支援者であった父が江戸で客死するという、二重の悲劇に見舞われる。
その時に、蕪村は月渓(呉春)に、蕪村門長老の川田田福(京都五条の呉服商、百池家と縁戚)の別舗のある摂津池田に転地療養させる。この池田の地は別名「呉服(くれは)の里」と言い、その「呉」と亡き愛妻の「春」そして師蕪村の雅号「春星」の「春」を取って、月渓は三十一歳の若さで剃髪して「呉春」と改号する。
 しかし、呉春と改号後も、蕪村の夜半亭を継承した几董在世中は、月渓の号も併称していた。几董の夜半亭継承は、天明六年(一七八六)で、上記の「筏師画賛=C」賛中の「これは先師夜半翁三軒茶やにての句也」からすると、几董が夜半亭三世を継承した以後に制作されたものなのかも知れない。
 そして、この「三軒茶や」は、嵐山三軒茶屋ということについては先に触れた。ここで、画人・松村月渓(呉春)の生涯を大きく分けると、安永・天明年間(一七七二~一七八八)の「月渓時代」と寛政・文化八年年間(一七八九~一八一一)の「呉春時代」と二大別することも一つの見方であろう。
 そして、この「月渓時代」は、蕪村との師弟関係にあった時代で、「呉春時代」は応挙門と深い関係にあった時代ということになろう。この「月渓時代」を「学習模索期・完成期前半」の時代とすると「呉春時代」は「完成期後半・大成期」という時代区分になるであろう。
 また、この「月渓時代」は、蕪村風の「漢画」と「俳画」が中心で、「呉春時代」は応挙風を加味しての「四条派画」(「円山派の平明で写実的な作風に俳諧的な洒脱みを加えた画風」)と明確に区別されることになる。
 上記の「筏師画賛=C」は、蕪村風の「俳画」そのもので、その賛の書蹟も全く蕪村の書蹟と瓜二つで、殆ど両者を区別することが出来ないと言って良かろう。その俳画の描写筆法も、これまた蕪村風そのもので、こういう師風そのものに成りきるという才能は、月渓(呉春)の天性的なものなのであろう。
 ここで、この月渓(呉春)の「筏師画賛=C」の元になっている、蕪村の「筏士自画賛=A(百池の箱書きあり・蕪村の署名はなく花押のみ)」を、『蕪村 その二つの旅』」図録
所収「81『いかだしの』の自画賛=A-2」のものを再掲して置きたい。

いかだし自画賛.jpg

蕪村筆「『いかだしの』自画賛=A-2」個人蔵 絹本墨画 掛幅装一軸四五・七×六一・二
(『蕪村 その二つの旅』図録=監修、佐々木丞平・佐々木正子、編集発行、朝日新聞社)

 なお、「都名所図会」(長谷川貞信・浮世絵)中の「嵐山三軒茶屋より眺望」を下記に掲載して置きたい。

三軒茶屋.jpg



     雨日嵐山にあそぶ
一八六 筏士の蓑やあらしの花衣          (『蕪村句集』)
     日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る
一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し  (『蕪村句集)

 この二句について、『蕪村書簡集(岩波文庫)』所収の「二四〇 無宛名(二月二十一日付)」の中に、「愚老(蕪村)生涯嵐山の句也とつぶやくことに候」と認められており、蕪村の自信作でもあり、また、蕪村の夜半亭社中でも、話題になっていた句のようである。なお、嵐山を流れる大堰川(桂川・保津川)は、当時の蕪村は、「大井(ゐ)川」と表記しているようである。

補記二 

 同じく、『蕪村書簡集(岩波文庫)』所収の「一一五 几董宛(安永九年三月七日付)」の中に、「筏士が蓑もあらしの花衣」の句形で、この句が出て来て、「帰路は杉月楼(さんげつろう)」に寄ったとの文言が見られる。先に紹介した、「三本樹(木)」の、「井筒楼」・「富永楼(雪楼)」の他に、この「杉月楼」も、蕪村行きつけの茶屋なのであろう。

補記三

 先に、「月渓筆画賛=C」(未見)の付記の「これは先師夜半翁、二軒茶やにての句也」(『蕪村全集一 発句』所収「2377=P515)に関連して、「『三本樹(木)』」の『井筒楼』」や『富永楼』ではなく、京都祇園社境内の二軒茶屋などのものと解したい」と記したが、この『月渓筆画賛=C』を、『呉春(逸翁美術館・昭和五七刊)』所収「100月渓筆筏師画賛」で確認することが出来た。それに因ると、「これは先師夜半翁、三軒茶やにての句也」と、祇園 の二軒茶屋ではなく、嵐山の三軒茶屋での作句というのが正解のようである。
 そして、その図柄は、先の蕪村筆の「筏士自画賛=A」に近いもので、冒頭の「筏師画賛=B」(出光美術館蔵)のものではないことも確認出来た(これらのことは、また別稿といたしたい)。

補記四

 さらに、『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「95『筏士の』の付言(天明三年)」(真蹟=月渓筆の蕪村画像に貼付。『蕪村名画譜』<昭和八年一月刊>所収)で、この句に関連しての、「『袋草紙』に伝える公任の歌よりも勝っていると、(蕪村が)俳諧自在を自負したもの」というものも確認出来た(これも、また、別稿で出来れば取り上げたい)。

補記五

「筏士自画賛=A」については、『蕪村全集六 絵画・遺墨』所収「110『いかだしの』自画賛」で確認できた。しかし、肝心の、この画賛に付随する、百池の「箱書き」などには、当然のことながら(編集方針・スペースなど)、一言も触れられてはいない。

補記六

 しかし、『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「『風蘿念仏』序(天明元年十月)」で、その「筏士自画賛=A」に関連する、「『大来堂発句集』(百池の発句集)』の天明三年(一七八三)三月二十三日に、『金福寺芭蕉庵、追善之俳諧興行(風蘿念仏)に、蕪村、桃睡、百池一座』」の、この「風蘿念仏」に関する、蕪村の「序」が全文収載されている(中興俳諧の二巨頭の京都の蕪村と名古屋の暁台との交遊などを背景にしたもの)。
 これらのことを背景とすると、次の二句とそれに関する「画賛」などは、兄弟句(姉妹編)と解して差し支えなかろう。

     雨日嵐山にあそぶ
一八六 筏士の蓑やあらしの花衣          (『蕪村句集』)
     日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る
一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し  (『蕪村句集』)

蕪村の花押(その七の一)

「老なりし」合作画賛.jpg

『蕪村全集六 絵画・遺墨』所収「『老なりし』月渓合作賛=D-2」

 ここに出て来る蕪村の賛は次の通りである(『蕪村全集五 書簡(講談社刊)』所収「七九 安永三年 日付なし 乙総宛」に因る)。

  老なりし鵜飼ことしは見えぬかな  紫狐庵(花押)

 すべての賛の絵をかく事、画者のこゝろえ(心得)有(ある)べき事也。右の句に此(この)画はとり合(あは)ず候。此画にて右の句のあはれ(哀れ)を失ひ、むげ(無下)のことにて候。か様(やう)句には、只(ただ)篝(かがり)などをたき(焼き)すてたる光景、しかる(然る)べく候。

  これは門人月渓に申(まうし)たることを、直ニ其(その)席にて書(かき)つけま  
  い(ゐ)らせ候。かゝる心得は万事にわたることにて候。
 乙ふさ(総)子                    蕪村

(『蕪村全集五 書簡(講談社刊)』所収「七九 安永三年 日付なし 乙総宛」)

 上記の「月渓画・蕪村賛(乙総宛て書簡)」は、冒頭の『蕪村全集六 絵画・遺墨』(『蕪村全集六 絵画・遺墨』所収「参考図二『老なりし』月渓合作賛=D-1」)の通りに収録されていて、そこでは「『老なりし』月渓合作賛=D-2」(一幅、一〇六・三×二八・二cm、 款、「紫狐庵」(花押)、印、なし 賛=上記と同じ)の、月渓と蕪村の合作画賛となっている。

 しかし、これは、単純な「月渓・蕪村合作画賛」なのではない。これは、蕪村の、夜半亭社中(ここでは、月渓と乙総の二人)への、賛にある「絵をかく事、画者のこゝろえ(心得)有(ある)べき事也」の、その「画者の心得」を具体的に示したものなのである。

 すなわち、この蕪村・月渓合作の、この画賛は、まず、蕪村が紫狐庵の署名で、「老なりし鵜飼ことしは見えぬかな」という句を書き、それに、蕪村常用の花押を書いて、この句に相応しい「絵をかく」ように、門人の月渓に命じたのである。
 何故、紫狐庵の署名にしたかというと、この句は、安永三年(一七七四)四月十七日の紫狐庵での句会のもので、その紫狐庵の庵号で署名したのであろう。
 その蕪村の指示を受け、月渓は大きな魚籠と数匹の鮎を描いて、師の蕪村に差し出したところ、「此の句に此の画はとり合はず(釣り合わない)、此の画にては此の句の哀れ(情趣)を失ふ、無下(甚だ拙い)也」と酷評され、「か様(やう=よう)の句には、只(あっさりと)鵜飼をする篝火などの光景が、然るべし(相応しい)」と諭され、画者の心得としてメモを取っておくように指導されたのである。
 後日、蕪村は、この蕪村・月渓合作の画賛の左上に、月渓に指導したことを書面に認め、その書簡付きの合作画賛を、但馬(兵庫県)出石の門人、乙総宛てに、送ったというのが、この合作画賛の背景ということになる。
 この乙総は、蕪村門の但馬の代表的な俳人、霞夫(芦田氏)の弟で、霞夫は、醸造業を営み、別号に馬圃・如々庵などと称した。この霞夫と乙総は、蕪村書簡にしばしば出て来る、蕪村と親しい俳人で且つ蕪村の支援者でもあった。

 この「書簡付き蕪村・月渓合作画賛=D」の賛中の「画者のこゝろえ(心得)」というのは、主として「俳画の心得」であって、この「俳画」は、蕪村の言葉ですると、「はいかい(俳諧)物の草画」ということになる。

 蕪村は、この「はいかい物之草画」に関しては、「凡(およそ)海内に並ぶ者覚(おぼえ)無之候」(天下無双の日本一である)と、画・俳両道を極めている蕪村ならではの自負に満ちた書簡を今に残している(安永五年八月十一日付け几董宛て書簡)。
 「俳画」という名称自体は、蕪村後の渡辺崋山の『俳画譜』(嘉永二年=一八一九刊)以後に用いられているようで、一般的には「俳句や俳文の賛がある絵」などを指している。

 さて、この「書簡付き蕪村・月渓合作画賛=D」で、蕪村が月渓や乙総に伝えようとしたのは、俳諧(連句)用語ですると、「余情付(よじょうづけ)」(前句《賛》の余韻・余情が付句《絵》)のそれと匂い合って、情感の交流が感じられるような付け方《賛に対する絵の描き方》)のような「賛と絵との有り様」を目指すべきであるということなのであろう。
 蕪村が俳諧の道に入ったのは、元文二年(一七賛七)、二十二歳の頃で、爾来、俳諧師としての修業は、画業に専念してからも、これを怠りにはせず、明和七年(一七七〇)、五十五歳の時に、夜半亭二世(夜半亭俳諧=江戸座の其角門の早野巴人を祖とする俳諧)を継承して、芭蕉の次の時代の中興俳諧の一方の雄なのである。
 まさに、「はいかい(俳諧)物之草画(大まかな筆づかいで簡略に描いた墨絵や淡彩画)」においては、「凡(およそ)海内に並ぶ者覚(おぼえ)無之候」(天下無双の日本一である)という蕪村の自負は、決して独り善がりのものではなく、いや、俳画というのは蕪村から始まると極言しても差し支えなかろう。
 この俳画第一人者の蕪村が、これはという門人の月渓や乙総に、その「俳画の心得」を伝授しようとしているのが、この「書簡付き蕪村・月渓合作画賛=D」なのである。
 中でも、蕪村の月渓への期待というのは、「此(この)月渓と申(まうす)者は至て篤実之君子にて、(略) 画は当時無双の妙手」(天明三年九月十四日付け士川宛て書簡)と、まさに、月渓は、蕪村の秘蔵子と言っても差し支えなかろう。
 蕪村だけではなく、蕪村没後に同胞として迎え入れた応挙も、「近畿の画家為すあるに足るものなし、只恐るべきは月渓といふ若者なり」と、月渓を高く評価しているのである(『呉春(逸翁美術館・昭和五七刊)』)。

 ここで、冒頭の「書簡付き蕪村・月渓合作画賛=D」に戻り、この月渓の「画(絵)」は、紫狐庵(蕪村)の賛の「老なりし鵜飼ことしは見えぬかな」の「句(発句)」に対して、大きな魚籠と数匹の鮎を描いて(俳諧の付け合いでは「物付(ものづけ)=言葉尻を捉える付け方」)、この「老なりし・鵜飼」の「老なりし」の、この句の主題に対する、何らの「余情」も感じられないというのが、蕪村の酷評した、その主たるものなのであろう。

 こういう蕪村の特訓を受けて、月渓の俳画というのは、見事に開花して行く。
次に掲げる蕪村の書簡(芭蕉の時雨の句に関する書簡)に付した呉春(月渓)の「窓辺の蕪村(像)」ほど、「憂愁なる詩人・嚢道人蕪村」その人の風姿を伝えるものを知らない。

蕪村像.jpg

 「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨の句などに関する書簡)=『蕪村全集五 書簡』所収「口絵・書簡三五一」

蕪村の花押(その七の二)

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「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨忌などに関する書簡)=『蕪村全集五 書簡』所収「口絵・書簡三五一」

 上記の「窓辺の蕪村(像)」の軸物は、上段が蕪村の書簡で、その書簡の下に、月渓(呉春)が「窓辺の宗匠頭巾の人物」を描いて、それを合作の軸物仕立てにしたものである。  
 この下段の月渓(呉春)の画の左下に、「なかばやぶれたれども夜半翁消そこ(消息=せうそこ)うたがひなし。むかしがほなるひとを写して真蹟の証とする 月渓 印 印 」と、月渓(呉春)の証文が記されている。

 上段の蕪村の書簡(天明元年か二年十月十三日、無宛名)は、次のとおりである。

   早速相達申度候(さっそくあひたっしまうしたくさうらふ)
 昨十二日は、湖柳会主にて洛東ばせを(芭蕉)菴にてはいかい(俳諧)有之候。扨
 もばせを庵山中の事故(ゆゑ)、百年も経(ふ)りたるごとく寂(さ)びまさり、殊勝な
 る事に候。どふ(う)ぞ御上京、御らん(覧)可被成(なさるべく)候。
  其日(そのひ)の句
 窓の人のむかし(昔)がほ(顔)なる時雨哉
  探題
  初雪 納豆汁 びわ(は)の花
 雪やけさ(今朝)小野の里人腰かけよ
  納豆、びは(枇杷)はわすれ(忘れ)候
 明日は真如堂丹楓(紅葉したカエデ)、佳棠、金篁など同携いたし候。又いかなる催(も
 よほし)二(に)や、無覚束(おぼつかなく)候。金篁只今にて平九が一旦那と相見え
 候。平九も甚(はなはだ)よろこび申(まうす)事に候。平九も毎々貴子をなつかしが
 り申候。いとま(暇)もあらば、ちよと立帰りニ(に)御安否御尋(たづね)申度(ま
 うしたく)候。しほらしき男にて。かしく かしく かしく

 この蕪村書簡に出てくる「湖柳・佳棠・金篁・平九」は蕪村門あるいは蕪村と親しい俳人達である。また、この書簡の冒頭の「昨十二日は」の「十二日」は、芭蕉の命日の、「十月(陰暦)十二日」を指しており、この芭蕉の命日は、「芭蕉忌・時雨忌・翁忌・桃青忌」と呼ばれ、俳諧興行では神聖なる初冬の季題(季語)となっている。

 この書簡は、蕪村の「窓の人のむかしがほなる時雨哉」を発句として、「はいかい(俳諧)有之候」と歌仙が巻かれたのであろう。この発句の「むかしがほ(昔顔)」は、当然のことながら、俳聖芭蕉その人の面影を宿しているということになる。

 世にふるは苦しきものを槙の屋にやすくも過ぐる初時雨 二条院讃岐 『新古今・冬』
 世にふるもさらに時雨のやどり哉           宗祇     連歌発句
 世にふるもさらに宗祇のやどり哉           芭蕉    『虚栗』

 この芭蕉の句は、天和三年(一六八三)、三十九歳の時のものである。この芭蕉の句には、宗祇の句の「時雨」が抜け落ちている。この談林俳諧の技法の「抜け」が、この句の俳諧化である。その換骨奪胎の知的操作の中に、新古今以来の「時雨の宿りの無常観」を詠出している。

 旅人と我が名呼ばれん初時雨   芭蕉 『笈の小文』

 貞享四年(一六八七)、芭蕉、四十四歳の句である。「笈の小文」の出立吟。時雨に濡れるとは詩的伝統の洗礼を受けることであり、そして、それは漂泊の詩人の系譜に自らを繋ぎとめる所作以外の何ものでもない。

 初時雨猿も小蓑を欲しげなり   芭蕉 『猿蓑』

 元禄二年(一六八九)、芭蕉、四十六歳の句。「蕉風の古今集」と称せられる、俳諧七部集の第五集『猿蓑』の巻頭の句である。この句を筆頭に、その『猿蓑』巻一の「冬」は十三句の蕉門の面々の句が続く。まさに、「猿蓑は新風の始め、時雨はこの集の眉目(美目)」なのである(『去来抄』)。

 芭蕉の「時雨」の発句は、生涯に十八句と決して多いものでないが、その殆どが芭蕉のエポック的な句であり、それが故に、「時雨忌」は「芭蕉忌」の別称の位置を占めることになる。

 楠の根を静(しづか)にぬらすしぐれ哉     蕪村 (明和五年・『蕪村句集』)
 時雨(しぐる)るや蓑買(かふ)人のまことより 蕪村 (明和七年・『蕪村句集』)
 時雨(しぐる)るや我も古人の夜に似たる    蕪村 (安永二年・『蕪村句集』)
 老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな   蕪村 (安永三年・大魯宛て書簡)
 半江(はんこう)の斜日片雲の時雨哉      蕪村 (天明二年・青似宛て書簡)

 蕪村の「時雨」の句は、六十七句が『蕪村全集一 発句』に収載されている。そして、それらの句の多くは、芭蕉の句に由来するものと解して差し支えなかろう。
 蕪村は、典型的な芭蕉崇拝者であり、安永三年(一七七四)八月に執筆した『芭蕉翁付合集』(序)で、「三日翁(芭蕉)の句を唱(とな)へざれば、口むばら(茨)を生ずべし」と、そのひたむきな芭蕉崇拝の念を記している。
 この蕪村の芭蕉崇拝の念は、安永五年(一七七六)、蕪村、六十一歳の時に、洛東金福寺内に芭蕉庵の再興という形で結実して来る。
 この冒頭の「「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨忌などに関する書簡)ですると、上段の『蕪村の書簡』の「窓の人のむかし(昔)がほ(顔)なる時雨哉」の「昔顔」は芭蕉の面影なのだが、下段の月渓(呉春)が描く「窓の人」は、芭蕉を偲んでいる蕪村その人なのである。
 そして、その「芭蕉を偲んでいる蕪村」は窓辺にあって、外を眺めている。その眺めているのは、「時雨」なのである。この「時雨」を、芭蕉の無季の句の「世にふるもさらに宗祇のやどり哉」の「抜け」(省略する・書かない・描かない)としているところに、「芭蕉→蕪村→月渓(呉春)」の、「漂泊の詩人」の系譜に連なる詩的伝統が息づいているのである。
 蕪村の俳画の大作にして傑作画は、「画・俳・書」の三位一体を見事に結実した『奥の細道屏風図』(「山形県立美術館」蔵など)・『奥の細道画巻』(「京都国立博物館」蔵など)を今に目にすることが出来るが、その蕪村俳画の伝統は、下記の「月渓筆 芭蕉幻住庵記画賛」(双幅 紙本墨画 各一二六×五二・七cm 逸翁美術館蔵 天明六年=一七九四作)で、その一端を見ることが出来る。

幻住庵記.jpg

「月渓筆 芭蕉幻住庵記画賛」(双幅 紙本墨画 各一二六×五二・七cm 逸翁美術館蔵 天明六年=一七九四作)=(『呉春(逸翁美術館・昭和五七刊)』所収)