回想の蕪村(四~六)

回想の蕪村(四~六)

回想の蕪村(四・四十一~四十九)

回想の蕪村(四)

(四十一)

 蕪村の『夜半楽』の「春風馬堤曲」の冒頭に、下記のとおり、「謝蕪邨」との署名が見られる。

※春風馬堤曲
             謝蕪邨

  余一日問耆老於故園。渡澱水
  過 馬堤。偶逢女帰省郷者。先
  後行数里。相顧語。容姿嬋娟。
  癡情可憐。因製歌曲十八首。
  代女述意。題曰春風馬堤曲。
 (余一日(いちじつ)耆老(きらう)ヲ故園ニ問フ。澱水(でんすい)ヲ渡リ
  馬堤ヲ過グ。偶(たまたま)女(じよ)ノ郷ニ帰省スル者ニ逢フ。先
  後シテ行クコト数里、相顧ミテ語ル。容姿嬋娟(せんけん)トシテ
  癡情(ちじやう)憐(あはれ)ムベシ。因リテ歌曲十八首ヲ製シ、
  女(じよ)ニ代ハリテ意ヲ述ブ。題シテ春風馬堤曲ト曰フ。)

 そして、『夜半楽』の奥書に、「門人 宰鳥校」との署名が見られる。この署名に関して、先に、次のことについて紹介した。

※『夜半楽』板行を思い立った六十二歳翁蕪村の胸中には、彼が俳人としての初一歩をしるした日の師と同齢に達した感慨がつよく働いている。春興帖は、その心をこめて亡師巴人に捧げられたものであろう。『門人宰鳥校』として宰町としなかったのは、元文四年の冬にはすでに宰鳥号に改め、宰町はいわばかりの号に過ぎなかったのである」(安東次男著『与謝蕪村』)との評がなされてくる。すなわち、上記の『夜半楽』(序)の「吾妻の人」とは、夜半亭一世宋阿(早野巴人)その人というのである(その関係で、奥書の「門人 宰鳥校」を理解し、この「門人」は、「夜半亭一世宋阿門人」と解するのである)。

 これらのことについては、寛保四年(一七四四)の蕪村の初撰集『宇都宮歳旦帖』の「渓霜蕪村輯」の署名でするならば、この安永六年(一七七七)の蕪村の春興帖の『夜半楽』の署名は「夜半亭蕪村輯」とでもなるところのものであろう。それを何故、「門人 宰鳥校」としたのか、確かに、上記のとおり、「夜半亭宋阿門人」という理解も一つの理解であろう。
しかし、「門人 宰鳥校」の「校」が気にかかるのである。「校」とは「校合」(写本や印刷物などで、本文などの異同を、基準とする本や原稿と照らし合せること)とか「校訂」(古書などの本文を、他の伝本と比べ合せ、手を入れて正すこと)とかのの意味合いのものであろう。「門人 宰鳥撰」とか「門人 宰鳥輯」の、「編集」を意味する「撰」とか「輯」とかとは、やはり一線を画してのものなのであろう。それを遜っての表現ととれなくもないが、この『夜半楽』には、夜半亭一世・宋阿(巴人)の名はどこにも見られず、唐突に、この奥書に来て、この序文の「吾妻の人」を宋阿その人と理解して、「宋阿門人」と理解するには、やや、無理があるようにも思えるのである。ここは、『夜半楽』所収の異色の三部作の「春風馬堤曲」(署名・謝蕪邨)・「澱河歌」(署名なし)・「老鶯児」(署名なし)の、その「謝蕪邨」(この「引き道具」の狂言の座元・作者である「与謝蕪村」を中国名風に擬したもの)を受けて、「吾妻の人」風に「洒落風」に、「(謝蕪邨)門人 宰鳥校」と、蕪村自身が号を使い分けしながら、いわば、一人二役をしてのものと理解をしたいのである。 そもそも、蕪村の若き日の号の「宰町」(巴人門に入門した頃の「夜半亭」のあった「日本橋石町」の「町」を主宰する)を「宰鳥」(「宰鳥」から「蕪村」の改号の転機となった『宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の「鶯」の句に関連しての「鳥・鶯」を主宰する)へと改号したことは、当時の居所の「日本橋石町」から師巴人に連なる其角・嵐雪の師の芭蕉が句材として余りその成功例を見ないところの「鳥・鶯」への関心事の移動のようにも思えるのである。それと同時に、この安永六年の『夜半楽』の巻軸の句に相当する「老鶯児」の理解には、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の、その蕪村の号を初めて使用したところの「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の句と、それ以後の、歳旦帖・春興帖を編むときに、必ず登場してくるところの「鳥・鶯」の句と、同一線上のものと理解をしたいのである。そして、そう解することによって、始めて、この『夜半楽』の「老鶯児」の句の意味と、蕪村の絶吟の、「冬鶯むかし王維が垣根哉」・「うぐひすや何こそつかす藪の霜」・「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」の、この三句の意味合いが鮮明になってくると、そのように理解をしたいのである。

(四十二)

 そもそも、この『夜半楽』は安永六年(一七七七)の夜半亭二世・与謝蕪村の「春興帖」
である。それが故に、その他の蕪村の「歳旦帖」・「春興帖」との関連で見てきた。しかし、それだけでは足りず、より正しい理解のためには、当時の俳壇における「歳旦帖」・「春興帖」との関連で見ていく必要があろう。このような見地での基調な文献として、『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)所収の幾多の論稿がある。ここで、それらのことについて、その要点となるようなことについて、紹介をしておきたい。

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その一)

○ここで蕪村一門の春帖と呼ぶ時、その対象には、蕪村編のもの(『明和辛卯春』『安永三年蕪村春興帖』『安永四年夜半亭歳旦』『夜半楽』『花鳥篇』)、几董編のもの(安永五年『初懐紙』、安永九年『初懐紙』、安永十年『初懐紙』、『壬寅初懐紙』『初卯初懐紙』『甲辰初懐紙』、天明五年『初懐紙』、天明六年『初懐紙』、天明七年『初懐紙』、寛政元年『初懐紙』)、呂蛤編のもの(寛政三年『はつすゞり』他)、紫暁編のもの(寛政五年『あけぼの草子』他)などと、多くの俳書が含まれることになろう。さらに説明を加えるなら、蕪村編の春帖には、この他にも寛保四年(一七四四)に宇都宮で刊行した歳旦帖があるし、また伝存は不明ながら、『紫狐庵聯句集』には「明和辛卯春」「安永発巳」と題した三ツ物や春興歌仙が記録されており、空白の二年の刊行についても刊行が察せられる。また几董編の春帖についても、天明七年の『初懐紙』で几董が、「としどしかはらぬ初懐紙をもよほす事、かぞふれば十余リ五とせになりぬ。其いとぐちより繰返し見れば……」と回顧して、発巳(安永二年)から丁未(天明七年)に至る各年の巻頭発句を列挙するように、今日未確認の『初懐紙』が、安永二・三・四・六・七・八の各年にも刊行されたことが知られる。しかしここでは、伝存の有無にかかわらずその多くを措き、時を蕪村在世中の一時期に絞り、主として『明和辛卯春』と安永五年『初懐紙』の二書をとりあげる。
※ここに紹介されている明和八年(一七七一)に刊行した蕪村編の『明和辛卯春』については先に触れた。この春興帖は、明和七年に亡師巴人の夜半亭を襲号した蕪村が、その襲号の披露を兼ねて、広く夜半亭一門の俳諧を世に問うたもので、夜半亭二世・蕪村の代表的な春興帖である。そして、夜半亭二世・蕪村に継いで夜半亭三世となる几董が、蕪村存命中に、安永六年の『夜半楽』刊行一年前に刊行した春興帖が、安永五年『初懐紙』で、この両者の春興帖としての比較検討が、この「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」の骨子なのである。

(四十三)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その二)

○まず『明和辛卯春』から検討を始めよう。(中略) 現存の弧本は原表紙を欠き、書名は内題「明和辛卯春 / 歳旦」による仮称である。横本一冊。表紙の他にも欠損の丁が多いが、元来は本文全十四丁であった。一見して気付くのは、蕪村板下による書体の風格と匡郭および各行を画する罫の緑色の鮮やかさ(今は退色しているが)である。相俟って壮麗の感を与える。次にその内容をつくと、まず一丁目表は先の内題に続いて、蕪村・召波・子曳による三ツ物一組、一丁目裏は同じ三人による三ツ物二組を収める。(中略) 今これを仮に三ツ物三組形式と呼ぶことにする。この三ツ物三組に続く二丁目以下は、同門あるいは他門の歳旦・歳暮の発句を主とし、その発句群に交えて都合二巻の歌仙が収録されている。すなわち、三丁目裏から始まる「鳥遠く……」の一巻、十二丁目裏から始まる「風鳥の……」の一巻で、巻頭と巻尾の近くに配するが、決して巻頭でも巻尾でもない。(後略)
※この蕪村の『明和辛卯春』は「都市系歳旦帖」(其角・巴人に連なる江戸座などの都市系蕉門の流れによる春興帖)に属するとされるのだが(後述)、ここで、注目すべきことがらは、この春興帖に収録されている二巻の歌仙が、共に、「鳥」を句材としての発句ということなのである。その発句・脇・第三を例示すると次のとおりである。
(春興)
発句 鳥遠く日に日に高し春の水        子曳
脇   人やすみれの一すじ(ぢ)の道     蕪村
第三 紅毛の珍陀葡萄酒ぬるみ来て       太祗
(春興可仙)
発句 風鳥の喰ラひこぼすや梅の風       蕪村
脇   名もなき虫の光る陽炎         田福
第三 明キのかたわするゝ斗(ばかり)春たけて 斗文
 さらに、蕪村は、この『明和辛卯春』で立机を宣言するかのように「夜半亭」の号で次の「鶯」の句を公示している。
(洛東の大悲閣にのぼる)
    鶯を雀歟(か)と見しそれも春    夜半亭
(春興追加)
    鶯の粗相がましき初音かな      夜半亭 
 これらのことは、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の「三ツ物」七組で始まり、その卷軸の蕪村の号の初出の「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」とこの『明和辛卯春』の六年後に刊行する『夜半楽』の「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」と同一線上にあることを、蕪村は明確に公示していると思われるのである。

(四十四)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その三)

○続いて、安永五年(一七七六)『初懐紙』(略)に目を移してみよう。まず半紙本(一冊)という判型が『明和辛卯春』に対照的で、薄茶色の表紙の披いても十七丁の本文には匡郭や罫を見ず、版面の著しい相違にまた驚くのである。同様なことは内容にもあって、巻頭は勿論、書中どこにも三ツ物を見出すことはできない。すなわち、この書の巻頭には一丁分の序があり、続いて端作備わる歌仙(後半を略した半歌仙)を掲げる。端作は「安永五丙申春正月十一日於春夜楼興行」と記し、歌仙は几董の発句に始まり、脇以下を連衆が一句ずつ詠んで一巡するもの。そして歌仙の後には「各詠」と標題されて、連衆の各人一句を列ねた一群の発句が配置されている。言うまでもなく、これは由緒正しい俳諧興行の開式に則るものなのである。各詠発句の後には「其引」と標題した蕪村等(右歌仙に欠座)の発句が並ぶが、『明和辛卯春』では、この「其引」の発句は三ツ物三組の直後に並んでいた。このことから察しても、几董が、正式興行の歌仙と各詠発句を巻頭に配し、これを三ツ物三組に代えたことは疑えないだろう。(中略) このように『明和辛卯春』と安永五年『初懐紙』を比較してみると、俳書の性格において、両書がきわめて鋭い対照を示すことに気付かざるを得ない。すなわち、それは①判型、②匡郭と罫の有無、③巻頭形式(三ツ物三組と正式俳諧興行)、④句の性格(歳旦・歳暮句と春・冬句)、⑤連句の扱い(重視の程度)の五点において、著しく異なっているのである。(後略)
※この「一『明和辛卯春』と『初懐紙』との隔たり」の後、「二 都市系歳旦帖の性格」(略)・「三 都市系俳壇風の『明和辛卯春』」(略)と続き、続く、「四 地方系蕉門色の『初懐紙』」として、次のような記述が見られる。「(前略)また歳旦帖は、長い伝統に培われて、特定俳系の特色を明瞭に示すので、編者の帰属意識をとらえるのに好都合と考えたからである。その検討り結果は右の通りであったが、ここで私は、都市系の性格を帯びた『明和辛卯春』形式の歳旦帖が安永五年(一七七六)以降刊行されず、蕪村によって全く放棄されてしまった事実を、きわめて重く見るのである」(田中・前掲書)。そして、この都市系俳壇風形式の歳旦帖に代わって、蕪村が次に編纂したものこそ、安永六年(一七七七)の『夜半楽』に他ならない。こういう、蕪村の歳旦帖・春興帖の変遷を背景として、その『夜半楽』の次の「序」を見ていくと、「形式的には従前の都市系俳壇風の春興帖形式と当時の一般的な地方蕉門色の春帖形式とを混交させながら、内容的には、より都市系俳壇風に、より自由自在に異色の俳詩などを織り交ぜ、特色ある春興帖を意図している」ということが言えよう。
※※『夜半楽』(序)
祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは
不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず)
蕉門のさびしをりは
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし)
さればこの日の俳諧は
わかわかしき吾妻の人の
口質(こうしつ)にならはんとて
(訳)京都の祇園会のお囃子は秋風の風韻には調和しない。それと同じく、蕉門の寂び撓(しをり)は新春のお目出度い席では避けた方がよい。だから、この日の新春の俳諧は若々しい東国の人の口調に倣っている。

(四十五)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その四)

○ここでようやく『初懐紙』の内容的性格に言及する段階に至った。私は先に、その編纂形式の斬新さを指摘したが、内容的性格はそれ以上に際だってユニークであった。都市系・地方系を問わず、従来の春帖に全く例を見ぬものであった。その特色というのは、集中どこにも歳旦句・歳暮句を収めぬことである。「聖節」「東君」等の題は勿論、「歳旦」「歳暮」の題も見出せぬことはすでに述べたが、題のみならず、元朝を賀し家の春を言祝ぐ類の発句を見ず、年頭の祝意は、わずかに「あらたまのとし立かへる……」という序文に託されるにすぎない。同様に、歳末の生活感情をとらえる句も見当たらぬのである。これに代わるものは、
    早春
 うぐひすや梢ほのめくあらし山    几董
 鶯に終日遠し畑の人         蕪村
といった、春の訪れを喜び春の自然を讃えるみずみずしい情感であり、またそれを表現する句であって、これが『初懐紙』の基調をなす。歳暮句に代わって「冬」の句は少々あるが、『初懐紙』も後年ほどその数を減じ、後には春句のみで編まれる年も出る。つまり『初懐紙』はもっぱら春を詠む俳書として、それも人事の春ではなく自然の春を詠む俳書として登場したのであり、特に早春の初々しい感情が重視される。(後略)
※この几董編の『初懐紙』は、蕪村編の『夜半楽』刊行一年前に刊行されたものである。この『夜半楽』を刊行する三年前の、安永三年(一七七四)の六月に、蕪村は宋阿(夜半亭巴人)三十三回忌の追善法要を営み、追善集『むかしを今』を刊行する。その『むかしを今』は、夜半亭二世蕪村と夜半亭三世となる几董との二巻の歌仙を収めている。それは、宋阿の句を発句とする脇起こし歌仙で、その発句・脇・三十五句目(挙句前の花の句)を例示すると次の通りである。

発句   啼(なき)ながら川越す蝉の日影哉      宋阿居士
脇      行人少(まれ)にところてん見世(みせ) 蕪村
三十五  宋阿仏匂ひのこりて花の雲          几董

発句   啼(なき)ながら川越す蝉の日影哉      宋阿居士
脇      蚋(ぶと)に香たく艸(くさ)の上風   几董
三十五  雲に花普化(ふけ)玄峯に宋阿居士      蕪村

 この蕪村の三十五句目の「普化」は其角、そして、「玄峯」は嵐雪のことである。すなわち、蕪村も几董も、其角・嵐雪、そして宋阿に連なる都市系蕉門に属しているという公示でもある。この二人はその都市系蕉門の中心的俳人の其角崇拝では人後に落ちなかった。蕪村は、其角の『花摘』に倣い『新花摘』を刊行し、几董は、其角の『雑談集』に倣い『新雑談集』を刊行し、其角の「晋子」の号に模して「晋明」の号をも称している。しかし、几董の春帖(歳旦帖・春興帖)の『初懐紙』には、其角・嵐雪・宋阿、そして、蕪村のそれとは違った編纂スタイルをとっているのである。それも、一重に、歳旦帖・春興帖の時代史的な変遷であるとともに、都市系俳壇と地方系俳壇との融合、そして、それがまた、蕪村らの「蕉風復興運動」の文学史的意義であったのだという(田中・前掲書・「蕉風復興運動の二潮流」)。このような大きな流れを背景にして、始めて、蕪村の「諸流を尽シてこれを一嚢中に貯へ」(『春泥句集』序)という意義が鮮明となってくる。ともあれ、蕪村在世中の安永五年の、夜半亭三世となる几董の『初懐紙』の中において、上記の「早春」と題する「鶯」の句を、蕪村と几董とが肩を並べて作句していることが、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の、その蕪村の号を初めて使用したところの「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の句と、それ以後の、歳旦帖・春興帖を編むときに、必ず登場してくるところの「鳥・鶯」の句、そして、安永六年の『夜半楽』の「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」の句と、さらには、蕪村の絶吟の、「冬鶯むかし王維が垣根哉」・「うぐひすや何こそつかす藪の霜」・「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」の句と、またしても交差してくるのである。

(四十六)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その五)

○(前略)『初懐紙』の編纂刊行を几董に任せた蕪村は、安永五年には自編の春帖を持たない。煩わしさも減じたが、一方では、『初懐紙』が地方系蕉門風に傾くのあまり、蕪村にとって飽き足らぬ思いも残った。そこで蕪村が、半ば興じ半ば真剣に、自らの趣味を充分盛り込んで編んだ春興帖が、安永六年(一七七七)の『夜半楽』だったと思われる。したがって同書は、『初懐紙』をモデルとしながら(半紙本一冊。〔序に代わる題辞→春興発句群→巻末の歌仙に代わる仮名詩三編〕という内容構成)、『初懐紙』の世界から『明和辛卯春』の方向に半歩後退し、都市俳諧的趣向性を横溢させながら、しかもなお豊に春景を描き出すものとなる。後退して、かえってそこに独自の作品世界を作り上げ得たのである。それは几董的ではなく、まさに蕪村的な春興集であった。たとえば、巻頭にすえられた歌仙の奇妙な冒頭部、

  歳旦はしたり皃(がほ)なる俳諧師     蕪村
   脇は何者節の飯帒(はんたい)      月居
  第三はたゞうち霞みうち霞み        月渓

をどう解すべきであろうか。それぞれの句頭に「歳旦」「脇」「第三」の語を折り込む趣向には、安永四年まで三ツ物の歳旦句になじんでいた蕪村が、心の隅にかすかな抵抗を覚えながら始めて春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)を巻く、半ば照れ半ばおどけた表情さえ思い浮かぶようである。このように考えると、かの太祗の句を引く「春風馬堤曲」もまた、蕪村らしい趣向に溢れた独自の春景句、しかも郊外散策のそれであった。『明和辛卯春』などと同様に匡郭と罫を刷り込み、巻頭に「…… / わかわかしき吾妻の人の / 口質にならはんとて」と揚言して、巻尾に「門人宰鳥校」と署名する意識には、江戸俳壇で育った蕪村の、京俳壇の新動向の中で独自の道を歩まんとする自負がにじむようである。思えば『明和辛卯春』などの匡郭と罫の緑墨も、画家らしい好みとともに、江戸俳壇の寛闊を伝えるさかしらではなかったか。ともあれ夜半亭一門の春興集は、京の都市民に自然愛の俳諧を供し、同門のその後の俳風を決定づけ、俳壇に長く影響を及ぼすことになったのである。
※これまでに、いろいろな角度から蕪村の異色の俳詩を包含している『夜半楽』を見てきたが、上記の、「安永四年まで三ツ物の歳旦句になじんでいた蕪村が、心の隅にかすかな抵抗を覚えながら始めて春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)を巻く、半ば照れ半ばおどけた表情さえ思い浮かぶようである」という指摘には、全く同感である。そして、それが故に、この『夜半楽』の、巻頭の「…… / わかわかしき吾妻の人の / 口質にならはんとて」との揚言や、巻尾のおどけた調子の「門人宰鳥校」の署名も、「江戸俳壇で育った蕪村の、京俳壇の新動向の中で独自の道を歩まんとする自負がにじむようである」として、十分に頷けるところのものである。また、「春風馬堤曲」の太祗の句の引用も、「江戸俳壇で育った蕪村」を象徴するようなものとして、これまた、蕪村の真意が見えてくるような思いがするのである。その「春風馬堤曲」に続く、「澱河歌」もまた、それらの「若き日の蕪村」(わかわかしき吾妻の人)に連なる「官能的な華やぎのエロス」の「仮名書きの詩」(俳詩)として、それに続く、「老鶯児」の発句の背景と思える「老懶(ろうらん)」(老いのもの憂さ)の前提となる世界のものとして、これまた、十分に首肯できるところのものである。さらに、些事に目を通せば、上記の「春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)」の発句(蕪村)に続く脇(月居)・第三(月渓)の「月居・月渓」が、三十五句目(挙句前の花の句)の几董、挙句の大魯に比して、その、ともすると「地方系蕉門風」の「几董・大魯」に続く、その次を担う夜半亭門の若き俊秀たちであることに注目すると、これまた、蕪村の真意というのが伝わってくる思いがするのである。上記の、「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」において、ただ一つ不満なことは、この『夜半楽』の卷軸の句と思われる「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」について言及していないことなのだが、これは項を改めて触れていくことにしたい。


(四十七)

「郊外散策の流行・蕪村の『春風馬堤曲』(田中道雄稿)」

 『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)所収には「郊外散策の流行」と題する論稿があり、「蕪村の『春風馬堤曲』」という項立ての中に次のような記述がある。

○(前略)蕪村は郊行詩の盛行現象に応じながら、しかもそれを独自の形態で表現した。それこそ俳諧詩「春風馬堤曲」であった。「春風馬堤曲」の郊行詩的性格を、まず伝統的概念から確かめとどうなるか。ある人物が郊外(馬堤)を通行し、その人物が風景を受容して行く過程が描かれる。まずこれが確かめられよう。ただし人物は、詞書中のみ作者、ということになるが、道が細くて曲がることが多い。これは「路(みち)三叉(さんさ)中に捷径(せふけい)あり」「道漸(やうや)くくだれり」から察せられる。詩を詠むことがある、これは詞書中での作者の行為として出る。風景として天象・地勢・植物・家畜家禽・構築物・人はいずれも含まれよう。続いて、安永天明期郊行詩の条件を満たし得るものか。第一の作風の新しさの一として、田園描写の精細があった。「蒲公(たんぽぽ)茎短(みじかう)して乳(ちち)をあませり」の観察は秀抜、「呼雛籬外鶏……」に見る鳥類の母性活写は、「野雉一声覷(うかが)ヘドモ不見(みえず)、菜花深キ処雛ヲ引テ行ク」(『六如庵詩鈔』五五)、「野鳥雛ヲ将(ひきゐ)テ巧に沙ニ浴ス」(『北海詩鈔』三六二)に通うものがあろう。二の田園風景における人為的素材や人はどうか。茶店、老婆、客の行動、猫や鶏など豊に含まれる。三の自然に向かって昂揚する感情は、三、四首目、少女の水辺行動に喜びが溢れよう。第二の素材・用語面での新しさはどうか。一の歩行については、詞書に「先後行数理」、本文では「渓流石点々 踏石撮香芹」と若々しい跳躍姿で描かれる。二の飲食は、茶店の客の「酒銭擲三緡」がそれを暗示しよう。この客もまた野懸け、つまり郊行の人なのである。三の日は「黄昏」がこれに代わる。第三、第四を措いて第五に移ると、冒頭の「浪花(なには)を出(いで)て長柄川(ながらがは)」は都市から郊外への方向性を明示し、作の前半は、都市あるいは世事からの解放の喜びを含む。そして馬堤は「本(もと)をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅」と、二項的把握に立って離郷を嘆く場ともなる。このように見て来ると、本作は、安永天明期郊行詩の条件をもほとんど具備していることになる。なお、『詩語砕金』の「春日郊行」項には「傍堤ツツミニツイテ」とあり、安永中と覚しき百池・几董の三ツ物に「馬堤吟行」の題を見る。本作の郊行詩的性格は、蕪村自らの意図によるのである。(中略) それにしても、郊行詩が詩人たちに清新な感情で迎えられる潮流、”郊外”という新しい場の成立、このことを抜きにして果たしてこの作品は成ったろうか。春日郊行の俳諧は、蕪村の「春風馬堤曲」に極まるのである。
※上記の「郊行詩的性格を伝統的概念から確かめる」の「伝統的概念」というのは、明代の作詩辞典の『円機活法』を指している。その伝統的な「郊行詩」の概念は、一「ある人物(通常作者)の郊行通行という行動を基本に据え」、二「場である郊外は、平野または村落から成り、道は細く曲がることが多い」、三「通行手段は、徒歩・馬・輿」、四「風景は、自然的素材としての天象、人為的素材としての農地・作物・家畜家禽・構築物など」となり、この作詩辞典の『円機活法』や詩語集の『詩語砕金』の「春日郊行」などが、蕪村の「春風馬堤曲」に大きく影響しているというのである。これまで、この「回想の蕪村」のスタートの時点において、「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵稿)を見てきたが、それに、この天明・安永期の「郊外散策の流行」・「郊行詩の盛行」ということを付記する必要があるということなのであろう。すなわち、唐突に、蕪村の異色の俳詩「春風馬堤曲」は誕生したのではなく、当時の漢詩の流行、そして、その影響下における俳諧の流行を背景にして、生まれるべくして、生まれてきた、換言するならば、「春日郊行の俳諧は、蕪村の『春風馬堤曲』に極まるのである」ということなのであろう。
なお、『円機活法』については、下記のアドレスなどが参考となる。

http://sousyu.hp.infoseek.co.jp/ks700/ks700.html

(四十八)

「祇園南海の詩論・影写説」・「中興諸家の場合、ことに蕪村の遠近法」(田中道雄稿)

 若き日の蕪村が、日本文人画の祖ともいわれている漢詩人・祇園南海に傾倒したことについては、先に触れた。

http://yahantei.blogspot.com/2006/07/blog-post_115354603992727424.html

 この祇園南海の詩論・影写説が、少なからず、蕪村の作句などに多くの影響を与えているのではないかとする論稿がある(『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著))。以下、簡単にそれらについて要約して紹介をしておきたい。

○(祇園)南海の影写説が一般に拡まるのは、その没後に刊行された『明詩俚評』によってであった。(中略) 捉え難い情趣(作者主体の考える美的価値)を読者に伝えるため、捉え易い景気・客体の客観的描写を創作の方法として選んだことになる。つまり情趣構成法を示したのである。作品の内なる情趣構成法を示したのである。(中略) ここで著者(註・南海)は、「表」「裏」の対義語を用い、「表」で詠物や叙景を試みる一方、「裏」に寓意を込める作例を示す。また「裏」は、色々の深い意味や感情つまり「余情」を含む部分があると言う。従って詩の解釈は「表バカリ解」して「裏ハ推シテ知ベ」きものであり、反対に「裏」の意を解すると「余情」を失うことになる。この解釈法は創作法にも応用され、詩の創作は心を凝らしてまず「表バカリ作ル」こととなる。(「祇園南海の詩論・影写説」)
○『加佐里那止』(註・白雄の姿情説が説かれている明和八年刊行の著書)の論は、これまで見て来た影写説に極めてよく対応する。「姿」を「表」に「情」を「裏」に置き換えれば、そのまま影写説の理論構造に近づく 影写説は本来姿先情後論に近い理論構造を持ち、それ故に鳥酔らに迎えられたのであろう。ところが『寂栞』(註・白雄の姿情説が説かれている文化九年刊行の著書)は、情先姿後論は論外であり、姿先情後論をも明確に否定する。姿と情を、天・地の如く同列一対に見る。それを「物の姿」と「己の心」とを相対立させる形で置く。ここで注目すべきは、「物の」「己が」という修飾限定の語を伴う点であろう。対象(物)と主体(己)との位相の違いが、ここで明瞭に示される。位相が異なれば、先後は意味を失う。この二極分解を促したのは、おそらくは対象の描写にかかわる意識の発達、主体の表出にかかわる意識の発達だったと思われる。中でも、主体の「情」が相対的に強まったのではなかろうか。そして得られたのが、(「鳥酔系俳論への影響」・「姿先情後論から姿情並立論へ」)
○蕪村こそ、その主客対立の構造を、先駆的かつもっとも鋭く作品に示した人だった。(中略) 蕪村の影写説の影響を思わせるものは、次の二書簡がある。
  鮒ずしや彦根の城に雲かゝる
(中略) (安永六年五月十七日付大魯宛)
  水にちりて花なくなりぬ岸の梅
(中略) (安永六年二月二日付何来宛)
(中略) 蕪村の発想の二重構造は、次の書簡も裏付けてくれる。
  山吹や井手を流るゝ鉋屑
(中略) (天明三年八月十四日付嘯風・一兄宛)
この句、裏に加久夜長帯刀(かくやたちはきのをさ)の能因見参の故事を含みつつ、表は景気として鑑賞すると言う。しかもこの二重鑑賞法は詩の解釈に見るものと言う。やはり影写説に学ぶものと推定できよう。(「中興諸家の場合、ことに蕪村の遠近法」)
※これらの論稿は〔「我」の情の承認-二元的な主客の生成-〕の中のものなのであるが、中興諸家の多くの俳人が、祇園南海の「影写説」の影響を受けていて、その「影写説」が、「姿先情後論から姿情並立論へ」と向かい、そして、その「我」の情の優位が確立し、「情を「己」の側、姿を「物」の側に分けるという、二元的把握の成立だったのである。それは従来の姿―情という関係の内容を、物―己という関係に組み替えるものであった」というのである。そして、蕪村もまた、この「影写説」の影響や主我意識の発達の中で、「風景を一望するため自己の位置を一点に定め、対象に一定の「隔り」を置くという、いわゆる「遠近法」を自家薬籠中のものにしていたというのである。そして、この遠近法が「遠」の詩情の問題に深く関わり、それが、蕪村の浪漫精神に連なっているというのが、この論稿の骨子であった。ともあれ、蕪村の発句の鑑賞や、俳詩「春風馬堤曲」の鑑賞にあっては、この祇園南海の「影写説」などを常に念頭に置く必要があるように思えるのである。

(四十九)

「蕪村の手法の特性 -“ 趣向の料としての実情”― 」(田中道雄稿)

○「蕪村発句の新しい解釈」
(前略)新たな理解は、清登典子氏の、「梅ちるや螺鈿こぼるゝ卓の上」 の解釈にも見られる。(中略) 単なる嘱目句ではなく、古典(註・『徒然草』八十二段)によって奥行きを与えた、趣向ある叙景句なのである。
○「かくされた出典の存在」
(前略)表面上一応の解釈はつくのに、検討を加えると、背景をなす古典の存在が明らかになる、ということであった。それはあたかも、それぞれが映像を持つ二つの透明スクリーンを隔て置き、手前から眺め観る趣きである。つまり二重写し、この出典の発見によって句解も多少変るが、より重要なのは、古典場面の付加によって、一句に新たな情が加わることである。(中略)蕪村が祇園南海の詩論”影写説”を受容していた、という事実に基づく、(中略)表は景気句として味わい、裏では故事を察して味わうという、二重鑑賞の実例を示していた。先の私解三例(省略)は、この鑑賞理論に沿ってみたのであった。
○「景の重層化の意図」(省略)
○「皆川淇園の思想との類似」
蕪村の発句制作において”景の重層化”とも呼ぶべき手法があることを指摘した。蕪村はこれを方法として充分に自覚し、利用にはある意図が存したと考えられる。(中略)私見(註・田中道雄)では、前節(註・「景の重層化の意図」)に見る発句の手法は、その発想が、当時京都の儒学界に新風を起こした、皆川淇園の思想に相似ており、或いは関連を持つかと思われる。蕪村は、この淇園の思想を逸早く受ける立場にあり、恐らく何がしかの影響を受けていよう。(後略)
○「趣向と情との拮抗関係」
(前略)蕪村は、趣向を第一に置き、これに情を付随させる方法、別な言い方をすれば、情がより現れる形での趣向中心主義を採った、と考えられる。これまでの句解例(省略)によれば、第二節(「かくされた出典の存在」)の古典を用いる方法が、何よりもそのことを物語る。裏に典拠を持つというのは、伝統的な趣向の方法であり、これらの句は、そこに基盤を置いて成立している。従って作品の価値は、何よりもこの趣向の面白さにあり、その間ににじみ出る情が評価されるのも、あくまでも趣向に伴っての出現、と理解されていたと思われる。(後略)
○「『春風馬堤曲』の方法」
(前略)当作品の魅力の中心は、浪花から故園に至る少女の道行にある。勿論この少女の設定が、当作の趣向の要である。しかも、この趣向は、それが二重の筋で利くことになる。その一は、第三章(註・「郊外散策の流行・蕪村の『春風馬堤曲』)にも述べたように、当時流行した春日郊行あるいは春日帰家と題する漢詩を念頭に置き、文人好みの郊外という舞台を、文人に代わって藪入りの少女に歩ませる、という趣向である。(中略)その二は、帰郷の少女を望郷の作者の分身として歩ませる、という趣向である。(中略)この二重の意味での趣向は、作者の情を盛り込む上でも、きわめて効果的であった。(中略)こうした本作の趣向の巧みは、その末尾にも現れる。末尾では、道行を終えた少女が漸く生家に近づくが、その場面は突如打ち切られ、代って作者が再登場する。そしてあろうことか、他者の作品を加えて一篇を結ぶ。(中略)当代詩壇では望郷詩が多作され、中には「夢帰故郷」(註・夢ニ故郷ニ帰ル)の題の下、夢中の場面がリアルに描かれることもあった。本作は、蕪村による「夢帰故郷」の詩と見倣し得る。(中略)確かに本作の情は、作者に内発したものであった。しかし作者は、この個人の情の文芸的表現を自ら求めながら、一方、自らの美意識に立ってそのあらわな表現を抑制した。その矛盾を自解に「うめき出たる実情」と滲ませるものの、老練さすがに心得て、「狂言の座元」の如く全体を統制し、実情を趣向に隠し込める形で処理したのである。(後略)
○「”趣向の料としての実情”」(省略)
○「結び」(省略)
※「蕪村の手法の特性」ということでの著者(田中道雄)の論稿を要約すると上記のとおりとなる(句例の解説などを全て省略し、充分にその意図を伝達できないきらいがあるが、その骨格となっているものは、上記のとおりである)。ここで、蕪村は、きわめて「趣向」を重視した画・俳の二道の達人であったということと、「詩を語るべし。子、もとより詩を能くす。他にもとむべからず」(『春泥句集』序)の、漢詩を「かな書き」でしたところの、まぎれもなく、「かな書きの詩人」であったという思いである。この意味において、蕪村をよく知る上田秋成の、蕪村の追悼句ともいうべき、「かな書(がき)の詩人西せり東風(こち)吹て」(『から檜葉』所収の難華・無腸の署名の句)という思いをあらためて反芻するのである。そして、その異色の俳詩「春風馬堤曲」こそ、蕪村の手法が全て網羅されている、蕪村ならではの「かな書き」の詩ということになろう。と同時に、この安永六年(一七七七)の『夜半楽』に収録されている俳詩の、「春風馬堤曲」並びに「澱河歌」は、服部南郭の「影写説」並びに皆川淇園の「景の重層化」の、いわゆる当代の漢詩の詩論の影響下での、蕪村独自の世界の展開といえよう。そして、それは、蕪村のこれらの俳詩の創作の中心となる「写意」ともいうべき「情」を、その「裏」に閉じこめての、華麗なまでにも「表」の「趣向」を現出した、いわば、「趣向詩」とでもいうべき装いを施しているということなのである。この意味において、その「表」の「趣向」よりも、「裏」の蕪村の内なる「情」を綴った、蕪村のもう一つの俳詩、「北寿老仙を悼む」(「晋我追悼曲」)とは、一線を画すべきものとの理解をも付記しておきたいのである。

回想の蕪村(五・五十一~六十五)

回想の蕪村五・五十~六十五

(五十)

安永六年(一七七七)の春興帖『夜半楽』は、「春風馬堤曲」(十八首)、「澱河歌」(三首)そして「老鶯児」(一首)の三部作をもって、あたかも一篇の連作詩篇を構成するかのごとき体裁をとっている。その三部作の「澱河歌」は、「春風馬堤曲」の盛名に隠れて、ともすると、その「春風馬堤曲」の従属的な作品と解されがちであるが、これまた、「春風馬堤曲」と同じく、実に多くの謎を秘めている興味の尽きない、これまた、異色の俳詩である。
この異色の俳詩「澱河歌」は、その初案と思われる、「澱河曲」と題するものと「澱河歌」と題するものとの二つの「扇面自画賛」が今に残されているのである。その二つの「扇面自画賛」は次のとおりである(『蕪村全集六』)。

「澱河曲」自画賛
  紙本淡彩 扇面 一幅 一七・八×五〇・八センチ
  款 右澱河歌曲 蕪村
  印 東成(白文方印)
  賛 遊伏見百花楼送帰浪花人代妓
    春水浮梅花南流菟合澱
    錦纜君勿解急瀬舟如電
    菟水合澱水交流如一身
    船中願並枕長為浪花人
    君は江頭の梅のことし
    花 水に浮て去ること
    すみやか也
    妾は水上の柳のことし
影 水に沈て
したかふことあたはす

「澱河歌」自画賛
  紙本淡彩 扇面 一幅 二三・〇×五五・〇センチ
  款 夜半翁蕪村
  印 趙 大居(白文方印)
  賛 澱河歌 夏
    若たけやはしもとの遊
    女ありやなし
    澱河歌 春
    春水浮梅花南流菟合澱
    錦纜君勿解急瀬舟如電
    菟水合澱水交流如一身
    船中願同寝長為浪花人
    君は江頭の梅のことし
    花 水に浮て去事すみ
    やか也
    妾は岸傍の柳のことし
影 水に沈てしたかふ
ことあたはす

(五十一)

 ここで、もう一度、『夜半楽』所収の「澱河歌」を再掲して置きたい。

  澱河歌三首
○春水浮梅花 南流菟合澱
 錦纜君勿解 急瀬舟如電
(春水(しゆんすい)梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
 錦纜(きんらん)君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟電(でん)ノ如シ)
○菟水合澱水 交流如一身
 船中願同寝 長為浪花人
(菟水澱水ニ合シ 交流一身(いつしん)ノ如シ
 船中願ハクハ寝(しん)ヲ同(とも)ニシ 長ク浪花(なには)ノ人ト為(な)ラン)
○君は水上の梅のごとし花(はな)水に
 浮(うかび)て去(さる)こと急(すみや)カ也
 妾(せふ)は江頭(かうとう)の柳のごとし影(かげ)水に
 沈(しづみ)てしたがふことあたはず

(五十二)

 先に紹介した、「澱河曲」自画賛は、昭和四十三年十月、羽黒山における第二十回俳文学会全国大会を記念して酒田市の本間美術館で開催された「芭蕉と蕪村と一茶展」で、出品されたので、尾形仂著『座の文学』所収の「蕪村」(「澱河歌」の周辺)において、次のように紹介されている。
「この扇面自画賛は、戦前の蕪村関係の諸画集はもとより、戦後催された日本経済新聞社主催の蕪村展(昭和三二)、逸翁美術館の蕪村特別展(昭和三八)、同蕪村総合展(昭和四一)、東京国立博物館の日本文人画展(昭和四〇)、毎日新聞社主催の蕪村展(昭和四一)等の目録にも載っていない珍品として、当時の参会者の注目を引いたので、その図柄を記憶にとどめている人も多かろう。今では森本哲郎氏の『詩人与謝蕪村の世界』(昭和四五)の口絵にカラーで収められて、ひろく一般にも知られている。画は、右手に持った扇子で顔を隠しつつ立ち去り行く遊客と、それをうらめしげに見送る遊女を描く。遊女は「奥の細道」の画巻や屏風に見える市振の遊女と筆意も同じこうがい髷で、元禄袖のうちかけをはおり、右袖で口もとをおおっている。遊客は五分月代(さかやき)の額ぎわを角(すみ)に抜き、髪に元結(もとゆい)を巻きたてた、いわゆる丹前風に頭を結い、羽織のかげからはことごとしい太刀の柄をのぞかせている。この名古屋山三まがいの顔つきは、蕪村の俳画にはめずらしいが、男女いずれも江戸初期の擬古的風姿による戯画で、当代風俗のスケッチではない。女に後を向けた遊客の背中の丸みは、例の「時雨三老像」中の月渓像の艶冶(えんや)を思わせ、その淡彩を施した洒脱な描線は、安永五年八月十一日付几董宛書簡にみずから「はいかい物之草画、凡(およそ)海内に並ぶ者覚無之候(おぼえこれなくそうろう)」と誇示する蕪村俳画をうかがわしむるに十分である。」
 そして、これに続けて、先に紹介した、蕪村真蹟の賛を紹介している。この「澱河曲」画賛は、紛れもなく蕪村の『夜半楽』所収の「澱河歌」の一異文と解して差し支えないものであろう。

(五十三)

 蕪村の『夜半楽』所収の「澱河歌」のミステリーなのは、昭和四十三年十月に新しく世に公表された、その初案とも思われる、扇面に描かれた「澱河曲」自画賛(上記のとおり)の他に、もう一つの、「澱河歌」自画賛(扇面)が出現したということなのである(尾形仂著『蕪村の世界』)。これが、上記で、その全容を紹介したところの「澱河歌」自画賛である。ここでは、「澱河曲」画賛の男女の図柄ではなく、「中央やや右寄りに舟をさす船頭の姿を描き、舟の後部は画面左下にさし出た近景の柳の葉蔭に隠れて見えない」(尾形・前掲書)と、船頭と柳の図柄なのである。そして、和詩の部分の「『江頭』の措辞は初稿の『澱河曲』に一致し、『岸傍』の措辞は『夜半楽』「澱河曲」のいずれとも一致しない。漢詩句が『夜半楽』と一致していることからいって、全体としては「澱河曲」から『夜半楽』所収の定稿に移る中間過程に位置するものといえようか」とし、「注目されるのは、詩題に『澱河歌 春』と見え、さらに画面右の空白部に『澱河歌 夏』として、『若たけや / はしもとの遊女 / ありやなし』の句が配されていることである。「若たけや」の句は『続明烏』(安永五)所収。もと安永四年五月二十一日、几董庵での月並句会の兼題『若竹』によって成った作か。『蕪村遺芳』その他所収の自画賛で名高い。橋本は現京都府八幡市内。当時、淀川に沿う大阪街道の宿駅で、旅籠屋にわずかの宿場女を抱えた下級の遊所があった。付近には竹林が多いが、右の自画賛の画面(註・『蕪村遺芳』)は風にそよぐ竹林の奥に二、三の矛屋を描いたもので、現実の遊所のスケッチとは違う。蕪村が竹林の奥に幻視したものは『撰集抄』に見える『江口・橋本など云(いふ)遊女のすみか』で、橋本の遊女への追憶は『新花摘』に『ほとゝぎす哥よむ遊女聞ゆなる』の追悼の句を捧げた亡母への慕情と遠くつながっていた。竹林の風景は、蕪村にとって、郷里毛馬のなつかしい思い出への通路であったといえる。扇面自画賛(註・「澱河歌」自画賛)か描かれた扁舟は、今、京の春を見返りつつ、橋本より毛馬へと棹さし下そうとしているところだろうか。となれば蕪村は、伏見での送別の場で「澱河曲」(註・「澱河曲」自画賛)が成った後、これを推敲して『夜半楽』に収めるまでのどの時点でか、『澱河歌』の題のもとに、郷愁のモチーフにもとづく淀川の四季の連作詩篇の作成を企画していたことになる。はたして秋・冬の画面には、どんな作が配されていたのか(あるいは配そうとしていたのか)。蕪村の句集をひもときながら、それらをあれこれと思いめぐらしてみることは、私ども後世の読者に託された夜半の楽しみといってもいいだろう」(尾形・前掲書)と続けている。これらの、『座の文学』・『蕪村の世界』所収の「澱河歌」周辺のことなどについて、そのミステリーの部分を、さらに紹介をしていきたい。

(五十四)

○ 送友人帰浪華(友人ノ浪華ニ帰ルヲ送ル)
  今夜到伏水 明朝直帰郷(今夜伏水(フシミ)ニ到ル。明朝直チニ郷ニ帰ラン。)
  舟中作何夢 惜別断我腸(舟中何ノ夢ヲカ作(ナ)ス。別レヲ惜シミテ我ガ腸(ハラワタ)ヲ断ツ。)

 上記は、几董の『丙申之句帖』(へいしんのくじょう)の中のもので、これらについて、
尾形仂氏は『座の文学』で詳細に論じ、そして、その後の『座の文学』で再度論じて、こ
の几董の漢詩の「送友人帰浪華」の「友人」は、上田秋成(無腸)その人であると特定し
ている。ここのところを、『座の文学』(「学術文庫版付記」)で、氏は次のように記してい
る。

○ 本稿執筆の時点では、「澱河曲」を贈った相手を特定するにいたらなかったが、その後
『丙申之句帖』の記載順序や暦日などを再検討した結果によれば、これは安永五年二月十日、上田秋成送別の宴席で成ったものかと推定される(拙著『蕪村の世界』参照)。

 ここのところを『蕪村の世界』で見ていくと次のとおりである。

○蕪村の題詞の「伏見百花楼ニ遊ビテ」(註・「澱河曲」画賛の「遊伏見百花楼」)と几董の起句の「今夜伏水(フシミ)ニ到ル」、同じく「浪花ニ帰ル人ヲ送ル」(註・「澱河曲」画賛の「送帰浪花人」)と几董の詩題の「友人ノ浪華ニ帰ルヲ送ル」、蕪村の詩句の「舟中願ハクハ枕ヲ並ベ」と几董の転句の「舟中何ノ夢ヲカ作(ナ)ス」、蕪村の和句の「影水に沈てしたがふことあたはず」と几董の結句の「別レヲ惜シミテ我ガ腸(ハラワタ)ヲ断ツ」といった、字句・内容の類似を見れば、両者を同じ時、同じ人を送っての作と断定して、ほぼ、間違いないであろう。そういえば、几董が三月十日の紫狐庵会の「梨花」の兼題に対して、「春の恨(うらみ)梅速くして梨花遅し」(『月並発句帖』)と詠んでいるのも、蕪村の「花水に浮て去ことすみやか也」の詩句の余響を受けたものと解されないではない。両者は、はたして、いつ、だれを送っての作であるのか。(『蕪村の世界』)

(五十五)

○几董の詩は『丙申之句帖』の「上巳」と前書する発句三句と、「三月十日紫狐庵会」と前書する発句三句との間に、「春夜」と題する次の七言古詩とともに記されている。
茅舎寂寥無客来(茅舎寂寥客来無シ)
孤燈不挑夢初回(孤燈挑ゲズ夢初メテ回ル)
読書倦去出窓外(読書倦ミ去リ窓外ニ出ヅレバ)
半月朧朧鐘磬催(半月朧朧鐘磬催ス)
(中略) 「半月」は陰暦七・八・九日または二十一・二十二・二十三日の月をいうが(『滑稽雑談』)、詩の内容と月出時間に照らせば、ここは前者(前者の上弦の場合、月は真夜中過ぎまで空に残るが、下弦の場合、月出は真夜中過ぎになる)。ただし、この年、前年の十二月に閏があったため、三月七日は陰暦の四月二十四日に当たり、もはや「半月朧朧」の空を仰ぐことはできなかったはずだ。歳時記では「朧月」は仲春とするものが多く、(中略)
「春夜」の詩につづく伏見における送別の詩は、「二月十四日菴中会」(句帖でそれ以前の句稿はすべて抹消してある)に先立つ、二月十日前後の作ということになる。ちなみに、「几董句稿」によれば、几董は安永三年には二月十三日(陽暦三月二十四日)、安永六年には二月十四日(陽暦三月二十三日)に伏見の観梅に出掛けており、伏見送別の詩が二月十日(陽暦三月三十日)ごろに成ったとすれば、「春水ニ梅花浮カビ」という蕪村の詩の景況にピッタリ合う(『蕪村の世界』)

(五十六)

○ここで思い合わされるのは、二月十二日付で几董に宛てた書簡に次のように見えることである。
(前略)
美人出帳独徘徊(美人帳ヲ出デテ独リ徘徊ス)
春色頻辞窗下梅(春色頻リニ辞ス窗下ノ梅)
却恨落花浸斂鬚(却ツテ恨ム落花ノ斂鬚ヲ侵スヲ)
一花払去一花来(一花払ヒ去レバ一花来ル)
かくなんいたし申候。此節徘(ママ)情すくなき折ふし、けく(結句)ましならんとも存候。(中略) 此のせつのほ句、二三申遺し候
ん(う)め咲やどれがんめやらむめじ(ぢ゛)ややら
んめ咲て帯買ふ室の遊女かな
(下略)
 南賀の梅の刷り物の出句依頼に対して七言絶句(中略)を作って贈ったことを報じているのは、几董の送別の詩を意識してのことではないか。(中略) 「春夜」の詩との関係からおおよそに割り出した二月十日という想定は、この書簡の日付けから見ても間違っていなかった(『蕪村の世界』)。

(五十七)

○もう一つ、この書簡の巻末に添えた「うめ咲や」の句は、几董編の『蕪村句集』には次のような形で収められている。

あらむつかしの仮名遣ひやな。字儀に害あら
ずんば、アヽまヽよ。
  梅咲ぬどれがむめやらうめじ(ぢ)ややら

 この年、安永五年正月、本居宣長は京都の銭屋利兵衛ほかから『字音仮名用格』を刊行し、その中で”ン”音を “む”と書くべきことを主張した。日本の古代には”ン”という音がなかったというこの宣長の説に対しては、上田秋成が反駁して、宣長との間に書簡の往復を重ね、宣長の『呵刈葭』後篇(写本)に収める論争に発展する。『蕪村句集』の詞書を参看すれば、「どれがむめやらうめじ(ぢ)ややら」の句は、一面満開の梅の花に対する理屈を越えた無条件の賛美を、この両者の論争に対する揶揄の形で表現したるものと見ることができるだろう。ところで、蕪村・几董はみの春、大阪からもと加島(今の西淀川区内)の住人秋成(俳号、無腸)を迎え、面話をとげている。(中略) 秋成の上京に関して、『丙申之句帖』では、二月十八日の記事と二十日が定例の紫狐庵会の発句との中間に、「香島(加島)の隠士無腸をとゞめて夜もすがら風談あるは題を探る」としてその折の自句三句を録しているが、(中略)十八日の時点では秋成はすでに大阪に戻っていた。「一昨夜の楼酒」「からうた一章」「うめ咲や」の句、という脈絡をたどってくれば、二月十日、伏見百花楼で、蕪村・几董が「澱河曲」と五言古詩を競作して「浪華ヘ帰ル」を送った相手は、もしかしたらその秋成ではなかったか(『蕪村の世界』)。

(五十八)

○花柳の巷に出入し「浮浪子(のらもの)」と交わる狂蕩の青年期の体験を持つ一方、和漢の学に詳しく、蕪村からは「奇異のくせ者」(『也哉抄』序)、几董からは「詩をよくし(中略)無双の才子」(東皐宛書簡)と評されるとともに、蕪村の死に際しては「かな書の詩人西せり東風(こち)吹て」(『から檜葉』)と悼んだ秋成ならば、艶冶の趣を帯びた和漢混交の詩篇や五言古詩を贈る相手として、いかにもふさわしい。逆に言えば、送別の相手が秋成だったからこそ、その座の雰囲気の中から、それら異端の作が生み出されたのだ、といえる。(中略)もし送別の相手がはたして秋成だったとすれば、蕪村が扇面に配するに、ことごとしい太刀をたばさんだ、五部月代の丹前風遊冶郎の絵をもってしたことは、「妓ニ代ハリテ」という設定とともに、自分も相手も虚構化し現実の送別の宴席を歌舞伎舞台の一場面へと転化させたものとして、その俳諧的趣向の奔放さには瞠目せざるを得ない。いずれにしても、こうした「澱河曲」が「澱河歌」の前身であり、かつそれが、安永五年二月十日、几董とともに伏見の妓楼で浪花へ帰る友人を送る宴席での即興として成ったものであることが確認される以上、これを娘くのの婚家や蕪村自身の秘められた情事と絡め、もしくは安永六年に成った「馬堤曲」創造の余勢の中から生まれた作として読もうとする従来の鑑賞は、大きな変更を迫られざるを得ないであろう(『蕪村の世界』)。
※蕪村の異色の俳詩「澱河歌」の前身に当たる扇面に描かれた「澱河曲」は、浪花に帰る上田秋成(俳号・無腸)に送る送別の宴席のものであったとする尾形仂氏の論拠を見てきた。もし、それが秋成のものであったとするならば、秋成の蕪村追悼の一句(「かな書の詩人西せり東風(こち)吹て」(『から檜葉』))と重ね合わせて、間違いなく秋成は蕪村の一面(「かな書の詩人」)を正鵠に見抜いていたという思いを深くする。それ以上に、安永六年の春興帖『夜半楽』に収載されている「澱河歌」は、その前身に当たる二葉の扇面の自画賛(「澱河曲」・「澱河歌」)が今に残されていることに鑑みて、蕪村の「春風馬堤曲」に続く、「淀川」幻想詩ともいうべき、蕪村の「淀川」への「かな書の詩」であるという思いを更に深くするのである。

(五十九)

○「澱河歌」の成立については、もう一つ触れておかなければならぬ周辺的事実がある。それは、この前後、几董の句帖の中に、前記二作のほかにもなお漢詩の作の記載が見えることである。すなわち春の部の末尾には「於東山下詩会 鴨河惜春」の詩、四月「金福寺 題残照亭」の詩が録されているが、これは例年にないことであった。(中略)それとともに、二月二十日の紫狐庵会の出句の次に、次のような詩題発句が録されているりも、また見落とせない。(註・「題草廬先生四時歌」を略)。「草廬先生」は、片山北海の混沌社と相対峙して平安に詩名を馳せた幽蘭社の龍公美の号である。草廬は初め徂徠の学をよろこび明詩をきわめたが、のち李・杜・高・岑らの盛唐諸家の風潮に従うべきことを提唱した。「平安四時歌」は、宝暦三年(一七五三)の序・跋をもって『艸廬集』初篇巻之五に収められている。蕪村がかって俳諧の要諦を問われて、答うるに離俗の法をもってし「詩を語るべし」を告げた春泥社召波が、草廬社中の逸足であったことについては、潁原退蔵博士の「召波」(創元選書『蕪村』)の稿に詳しい。(中略)漢詩の高邁を慕った夜半亭一門の人々が、「離俗の則」をつちかうよすがとして、『艸廬集』をひもとくべき機縁は十分に熟していたといっていい(『蕪村の世界』)。
※蕪村は、画・俳二道を極めた特異の俳諧師でもあった。その画はいわゆる南画(中国画)で、いわゆる漢詩と不可分の関係にあり、自ずから、蕪村の俳諧もまた、その「離俗の則」の要諦の「詩(漢詩)を語るべし」を俟つまでもなく、漢詩と密接不可分の関係にあることは言を俟たない。そして、その「詩(漢詩)を語るべし」は、蕪村が最も信頼をおいていた夜半亭門の逸足の春泥社召波に向かって言われた蕪村語録であり、その召波が当時の京都の詩(漢詩)壇の雄であった滝公美(号・草廬)の逸足であり、更に、その草廬が蕪村が私淑して止まなかった荻生徂徠と関係があったということは、蕪村、そして、その一門の夜半亭俳諧というもの見ていくうえで、どうしても避けて通れないキィーポイントのようなものであろう。そして、そのことは、蕪村の『夜半楽』、そして、そこに収載されている、和漢混合の異色の俳詩、「春風馬堤曲」・「澱河歌」を鑑賞するうえで、これまた避けて通れないキィーポイントのようなものであろう。

(六十)

○試みに、几董の跡を追って『艸廬集』初篇をひもとけば、その巻之二「七言古詩」の中に、次のような一篇が見出される。(中略) 「生駒山人」(註・漢詩の中に出てくる「生駒山人ガ舟ニ泛ンデ南ニ帰ルヲ送ル」の「生駒山人」)は、日下世傑(中略)の号、草廬の友人で生駒山の近くに住んでいた。『艸廬集』の右の詩を巻之二「七言古詩」九首中に収めたのは、『唐詩選』巻之二「七言古詩」三十二首中に岑参(しんじん)の詩(詩は省略)を収めるものを襲ったものにほかならない。そして蕪村が「送帰浪花人」詩に「澱河曲」ないし「澱河歌」と名づけたものは、草廬の「澱水歌送生駒山人泛舟南帰」(註・「澱」は異体字で、「ヨドカハ」とのルビがある)のひそみにならったものではなかろうか。「歌」「曲」ともに楽府に発する古詩の一体である。もと民謡に始まり、楽曲を伴う詩として創作された。唐代に至って文人の手により読式詩として擬作されるようになっても、謡われる詩としての心持ちは離れなかったらしく、長短句において著しい発達をとげたという。「澱水歌」(「澱」は異体字)もまた、五言・七言を長短錯雑して用いている。蕪村が「澱河曲」に、五言古詩二章(註・「春水浮梅花南流菟合澱  錦纜君勿解急瀬舟如電」・「菟水合澱水交流如一身 船中願並枕長為浪花人」)につづけ、第三章に五言・六言の詩句を訓読した形の和詩(註・「君は江頭の梅のことし 花 水に浮て去ること すみやか也」・「妾は水上の柳のことし 影 水に沈て したかふことあたはす」)を配したのは、楽府題詩における長短句を下敷にしながら、その新しい変奏を試みたものと見ることができるだろう。心持ちとしては、淀川沿岸の人々の間で謡われた民謡の曲によった、宴席の唄のつもりだったといっていい(『蕪村の世界』)。
○これらの尾形仂氏の一連の考察を見て、『唐詩選』の岑参の漢詩、その漢詩に基づく草廬の漢詩などが、蕪村・几董らの夜半亭一門の面々に影響を与え、その影響下にあって、蕪村の「澱河歌」が誕生したということが、理解されてくる。さらに、尾形仂氏の、これらの考察の前身ともいうべき『座の文学』所収の「『澱河歌』の周辺」の、「『澱河歌』という作品は、いわれるごとく詩人の”晩年の春情”という”ひとり心”の詩であるよりも、より多く、几董らとの漢詩熱の交響という、連衆心の所産として鑑賞されなければならぬことになるだろう」という指摘は、蕪村の「澱河歌」鑑賞上の必須のものであるという思いを深くする。

(六十一)

 先に(「五十六」で)、二月十二日付け几董宛て蕪村書簡(尾形仂氏は『座の文学』で「本書簡の染筆年次は安永五年」としている)中の下記の蕪村作の漢詩に関わることにについて紹介した。

○美人出帳独徘徊(美人帳ヲ出デテ独リ徘徊ス)
春色頻辞窗下梅(春色頻リニ辞ス窗下ノ梅)
却恨落花浸斂鬚(却ツテ恨ム落花ノ斂鬚ヲ侵スヲ)
一花払去一花来(一花払ヒ去レバ一花来ル)
かくなんいたし申候。此節徘(ママ)情すくなき折ふし、けく(結句)ましならんとも存候。(中略) 此のせつのほ句、二三申遺し候

 この漢詩の前に、次のような一節がある。

○今朝いろいろと案じ候も、さのみ新調なく、先刻思案をかへ、李白を客とし、杜子美をさそひて、からうた一章、一作仕候。又、おかしく存候ゆへ、申遣し候。 

 この書簡の「今朝いろいろと案じ候も、さのみ新調なく、先刻思案をかへ」というのは、「今朝いろいろと発句を作ろうとしていたが、どうしても目新しいものが浮かばず、ついつい考えを変え」というような意である。次の「李白」は「白髪三千丈」などで名高い「詩仙」と仰がれている中国盛唐の詩人、「杜子美」は、「国破山河在」などで名高い「詩聖」と仰がれている中国盛唐の詩人「杜甫」のこと。そして、蕪村は、これらの漢詩を「からうた」と称しているのである。当時、夜半亭一門においては、蕪村・几董を始め、俳諧だけではなく、この「からうた」作りにも相当な関心があったということであろう。そして、蕪村にとっては、『夜半楽』所収の「春風馬堤曲」も、はやまた、「澱河歌」も、ほんの余興の「からうた」の変形の和漢混合のお遊びという趣であったのかも知れない。

(六十二)

○蕪村は右の書簡(註・安永五(?)年二月十二日付け几董宛て書簡)で自作を披露するに、「李白を客とし、杜子美をさそひて」と言って、あたかも擬古派の詩人のごとき口吻を弄じている。一つには、蕪村に句をあつらえた南雅(註・上記の書簡に出てくる人物)の師の三宅嘯山を意識するところからきたものであろう。(中略) 嘯山の『俳諧古選』(宝暦一三)における評語が、擬古派の聖典とされる『唐詩選』や『滄浪詩話』から出ていることについては、田中道雄氏の指摘(昭和四五・一〇、俳文学会研究発表)がある。そしてまた、李・杜を宗とすることは、徂徠・南郭の流れを汲みながら、その明詩模倣をしりぞけ、盛唐の詩を絶対視した龍公美(りゅうこうび)の立場とも相通ずるものであった(『座の文学』)。 
※この龍公美とは、先に紹介したところの「草廬先生」こと、幽蘭社の龍公美その人である。先に紹介したところを下記に再掲しておくこととする。
○「草廬先生」は、片山北海の混沌社と相対峙して平安に詩名を馳せた幽蘭社の龍公美の号である。草廬は初め徂徠の学をよろこび明詩をきわめたが、のち李・杜・高・岑らの盛唐諸家の風潮に従うべきことを提唱した。「平安四時歌」は、宝暦三年(一七五三)の序・跋をもって『艸廬集』初篇巻之五に収められている。蕪村がかって俳諧の要諦を問われて、答うるに離俗の法をもってし「詩を語るべし」を告げた春泥社召波が、草廬社中の逸足であったことについては、潁原退蔵博士の「召波」(創元選書『蕪村』)の稿に詳しい。(中略)漢詩の高邁を慕った夜半亭一門の人々が、「離俗の則」をつちかうよすがとして、『艸廬集』をひもとくべき機縁は十分に熟していたといっていい(『蕪村の世界』)。

(六十三)

○だが、蕪村の披露する梅花の詩(註・上記書簡中の漢詩)は、かならずしも李・杜の風潮とは似ない。その艶冶の体は、むしろ白楽天を宗とした公安派の詩風を思わせる。おそらくはきちんと梳(くしけず)り整えた鬢(びん)を意味する「斂鬢(れんびん)」の語は『杜甫索引』『李白索引』『佩文韻府』のたぐいにも見出だすことができない。そうした典拠をもたない造語を自由にまじえて用いているところも、反擬古派的といえるだろう。この年、洛東金福寺境内に芭蕉庵を再興する際の発企者樋口道立は、反擬古派の先駆者清田儋叟(せいたたんそう)の甥であり、江村北海の第二子である。蕪村はみずからものした「魂帰来賦(こんきらいふ)」の末に、芭蕉庵再興のおり儋叟の撰文の一節を添えている。(中略) 高邁と磊落とを標榜する蕪村の立場は自在であった。そうした姿勢は、一方で、もはら蕉翁の風韻を慕いながら、世に跋扈する当世蕉門の徒の「しさいらしき句作り」を排斥し、暁台に対しては「拙老はいかいは敢(あへ)て蕉翁之語風を直ちに擬候にも無之、只心の適するに随(したがひ)、きのふにけふは風調も違ひ候を相楽み」とうそぶき、『夜半楽』序に「蕉門のさびしをりは可避春興盛席」と謳(うた)った、俳諧における自在の姿勢とも共通する(『座の文学』)。
※先に、『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)について見てきたが、そこで、安永六年の『夜半楽』が編纂された頃の、几董の春興帖『初懐紙』との関連について触れた。それらと、今回の尾形仂氏の『座の文学』・『蕪村の世界』とを照合しながら見ていくと、まさに、蕪村の『夜半楽』そして、その異色の俳詩といわれている「春風馬堤曲」・「澱河歌」は、まぎれもなく、尾形仂氏の上記で指摘する「俳諧における自在の姿勢」を強く訴えていることを痛感するのである。ここでも、再確認の意味合いも兼ねて、田中道雄氏の次の論稿を再掲しておきたい。
○(前略)『初懐紙』の編纂刊行を几董に任せた蕪村は、安永五年には自編の春帖を持たない。煩わしさも減じたが、一方では、『初懐紙』が地方系蕉門風に傾くのあまり、蕪村にとって飽き足らぬ思いも残った。そこで蕪村が、半ば興じ半ば真剣に、自らの趣味を充分盛り込んで編んだ春興帖が、安永六年(一七七七)の『夜半楽』だったと思われる。したがって同書は、『初懐紙』をモデルとしながら(半紙本一冊。〔序に代わる題辞→春興発句群→巻末の歌仙に代わる仮名詩三編〕という内容構成)、『初懐紙』の世界から『明和辛卯春』の方向に半歩後退し、都市俳諧的趣向性を横溢させながら、しかもなお豊に春景を描き出すものとなる。後退して、かえってそこに独自の作品世界を作り上げ得たのである。それは几董的ではなく、まさに蕪村的な春興集であった。たとえば、巻頭にすえられた歌仙の奇妙な冒頭部、

  歳旦はしたり皃(がほ)なる俳諧師     蕪村
   脇は何者節の飯帒(はんたい)      月居
  第三はたゞうち霞みうち霞み        月渓

をどう解すべきであろうか。それぞれの句頭に「歳旦」「脇」「第三」の語を折り込む趣向には、安永四年まで三ツ物の歳旦句になじんでいた蕪村が、心の隅にかすかな抵抗を覚えながら始めて春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)を巻く、半ば照れ半ばおどけた表情さえ思い浮かぶようである。このように考えると、かの太祗の句を引く「春風馬堤曲」もまた、蕪村らしい趣向に溢れた独自の春景句、しかも郊外散策のそれであった。『明和辛卯春』などと同様に匡郭と罫を刷り込み、巻頭に「…… / わかわかしき吾妻の人の / 口質にならはんとて」と揚言して、巻尾に「門人宰鳥校」と署名する意識には、江戸俳壇で育った蕪村の、京俳壇の新動向の中で独自の道を歩まんとする自負がにじむようである。思えば『明和辛卯春』などの匡郭と罫の緑墨も、画家らしい好みとともに、江戸俳壇の寛闊を伝えるさかしらではなかったか。ともあれ夜半亭一門の春興集は、京の都市民に自然愛の俳諧を供し、同門のその後の俳風を決定づけ、俳壇に長く影響を及ぼすことになったのである(『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)所収「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容」)。

(六十四)

○ひとしく「俗を離れて俗を用ゆ」る工夫を求めて漢詩熱の交響を楽しみながら、この点(註・俳諧の自在に対する姿勢)がおそらく几董と蕪村とを大きく分かつゆえんだろう。几董があくまでも草廬にならって唐詩の高邁につこうとするのに対して、蕪村はそれを意識に入れながら、あえて艶冶の体を採って磊落の調に遊ぼうとする。伏見百花楼での「澱河曲」の擬作は、あたかも連句の席で連衆に和しつつ相手を言いまかしはぐらかそうとする付合の呼吸にも似た、目に見えない火花を伝えている。几董が「別レヲ惜しシンデ我ガ腸を断ツ」と、唐詩硫の悲哀を表に立ててきまじめに惜別の情を吐露しているのに対して、「妓ニ代ハリテ」という設定を施し、「妾は水上の柳のごとし。影水に沈みてしたがふことあたはず」という纏綿たる妓女の恋情に託して自己の思いを述べたところに、蕪村の俳諧的趣向がある。(中略) 几董が「今夜伏水に到ル、明朝直グニ郷ニ帰ラン」と直叙したところを、(中略) 「錦纜(きんらん)君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟電(でん)ノ如シ」と艶冶の色を点ずる。「菟水澱水ニ合シ 交流一身(いつしん)ノ如シ」とは、すなわち、劉廷芝「公子行」の「与君(君ト)相向(相向カッテ)転(ウタタ)相親(相親シミ)、与君(君ト)双棲(双ビ棲ンデ)共一身(一身を共ニセン)」(『唐詩選』二)や曹子建「七哀詩」の「願(願ハクハ)為西南風(西南ノ風ト為リテ)、長逝(長ク逝キテ)入君懐(君ガ懐ニ入ラン)」(『文選』五)などの詩句を下敷きにしながら、几董の「舟中何ノ夢ヲカ作ス」の「夢」をもどいて散曲ふうに展開してみせたものにほかならない(『座の文学』)。

※ここで、「春風馬堤曲」・「澱河歌」が収められている『夜半楽』の目録と、その歌仙の主立った俳人を再掲すると次のとおりである。

夜半楽

目録
歌仙    一巻
春興雑題  四十三首
春風馬堤曲 十八首
澱河歌   三首
老鶯児   一首

安永丁酉春 初会
歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師     蕪村 表    ※(発句) 
脇は何者節(せち)の飯帒(はんたい)    月居      ※(脇)  
第三はたゞうち霞うち霞         月渓       ※(第三) 
十日の月の出(いで)おはしけり      鉄僧      ※(月)
谷の坊花もあるかに香に匂ふ       道立  裏    ※(花)
かけ的(まと)の夕ぐれかけて春の月    正白      ※(月) 
暁の月かくやくとあられ降(ふる)     維駒 名残の表 ※(月)
花の頃三秀院に浪花人          几董 名残の裏 ※(花)
都を友に住(すみ)よしの春        大魯      ※(挙句) 

 この歌仙でも一目瞭然のごとく、夜半亭二世・蕪村が発句、そして、歌仙一巻中最右翼の役とされている、名残の裏の花(匂いの花)は、夜半亭三世を継承されていることが約束されている几董と、この二人が夜半亭俳諧の主宰・副主宰の関係にある。そして、主宰者たる蕪村が副主宰者たる几董に、蕪村が持っている全てのものを、後継者の几董に伝授しようと、そういう蕪村の意気込みというものを、上記の尾形仂氏の指摘により、まざまざと再確認を強いられるような思いがするのである。ここでも、上記の歌仙にかかわる蕪村と几董との関連などのことについて、下記に再掲をしておきたい。

○ この歌仙(三十六句からなる連句)が一同に会してのものなのか、それとも、回状を回して成ったものなのかどうかは定かではないが、おそらく後者によるものと思われる。この歌仙は、一人一句で、三十六人がその連衆で、夜半亭一門の代表的俳人の三十六歌仙(三十六人の傑出した俳人)という趣である。発句は夜半亭一門の宗匠、夜半亭二世・与謝蕪村で、「歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師」(歳旦の句を快心の作とばかり得意顔の俳諧師である)と、新年祝賀の句を、若き日の東国に居た頃の宰鳥になった積りでの作句と得意満面の蕪村その人の自画像の句であろう。脇句の江森月居が蕪村門に入門したのは安永五年(一七七六)年の頃で、入門早々で脇句を担当したこととなる。当時、二十二歳の頃であろう。続く、第三の松村月渓は、月居よりも四歳年長で、呉春の号で知られている、蕪村の画・俳二道のよき後継者であった。この二人がこの歌仙を巻く蕪村の手足となっているように思われる。この歌仙の挙句を担当した吉分大魯は、夜半亭三世を継ぐ高井几董と、夜半亭門の双璧の一人で、この安永六年当時は京都の地を離れ大阪に移住していた頃であろう。この挙句の前の花の句(匂いの花)を担当したのは、几董で蕪村よりも二十四歳も年下ではあるが、蕪村はこの几董が夜半亭三世を継ぐということを条件として、夜半亭二世を継ぐのであった。もう一つの花の座(枝折りの花)を担当した樋口道立は、川越藩松平大和守の京留守居役の樋口家を継いだ名門の出で、当時、夜半亭一門で重きをなしていた。また、月の座を担当した、鉄僧(医師)、正白(後に正巴)、黒柳維駒(父は蕪村門の漢詩人でもある蕪村の良き理解者であった召波)と、この歌仙に名を連ねている連衆は、夜半亭一門の代表的な俳人といってよいのであろう。そして、それは、京都を中心として、大坂・伏見・池田・伊丹・兵庫と次の春興に出てくる夜半亭一門の俳人の世話役ともいうべき方々という趣なのである
(十九・再掲)。

(六十五)

○「澱河曲」の題名は、蕪村の「懐旧のやるかたなきよりうめき出た」「親里迄の道行」十八首が、これも楽府の名題である「大堤曲」になぞらえて「春風馬堤曲」と名づけられたとき、文字の重複をいとって「澱河歌」と改められ、詞書の「代妓」の文言は、「代女述意」と敷衍されて「馬堤曲」の前文に組み入れられる。それと同時に、「春水梅花浮」(春水ニ梅花浮カビ)を「春水浮梅花」(春水梅花ヲ浮カベ)と改めて、承句の「南流シテ」と主語の統一をはかり、「並枕」(枕ヲ並ベ)の措辞の和臭をきらって「同寝」(寝ヲトモニシ)と改めるとともに「江頭の梅」「水上の柳」の対句を「水上の梅」「江頭の柳」と置き換えるなどの推敲も施された。「代妓」の文言を削っても、連衆たちはその艶冶の体から「馬堤曲」の「代女述意」を「澱河歌」にもかけて読むであろう。また、「送帰浪花人」の詞書を省いても、「澱水歌」の存在を知る同好の人々は、これを送別の擬作と受け取るであろう。「澱河歌」は、説かれるごとく、そのまま「馬堤曲」の反歌とはならない(『座の文学』)。
※尾形仂氏の謎解きであるが、蕪村の「澱河歌」を創作するときの背景として、その謎解きが真実味を帯びてくる。趣向の人・蕪村ならば、これらのことは当然にあり得るという趣でなくもない。とするならば、「『澱河歌』は、説かれるごとく、そのまま『馬堤曲』の反歌とはならない」という指摘についても、「あたかも、この『澱河歌』を、『馬堤曲』の反歌のような趣向をも、蕪村は意識している」と推理することも可能であろう。
○ただし、蕪村は挨拶や月次(つきなみ)の句座の発句を、連作に構成し直すことによって、新しい世界を創造することを得意とした作家である。ここでも蕪村が、「さればこの日の俳諧はわかわかしき吾妻の人の口質(くちつき)にならはんとて」と前書する新春初会の歌仙を巻頭に据え、「春風馬堤曲 十八首」「澱河歌 三首」「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)と配列した『夜半楽』のコンテクストを通じて、「澱河歌」の上に、伏見百花楼の宴席の場におけるとはまた若干異なった色合いを加えようとしているのを閑却することはできぬだろう。「妓」「女」の「意」の上に重ねられた老蕪村の郷愁の情を中心とする鑑賞がそこから生まれる。私はそうした鑑賞を否定しようとは思わない(『座の文学』)。
※蕪村の『夜半楽』所収の「春風馬堤曲」、そして、「澱河歌」がいろいろに鑑賞されてきたのは、一に、蕪村の「挨拶や月次(つきなみ)の句座の発句を、連作に構成し直すことによって、新しい世界を創造することを得意とした作家である」ということに大きく起因している。そして、「春風馬堤曲 十八首」「澱河歌 三首」「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)の、この配列は、「春風馬堤曲 十八首」の反歌として「澱河歌 三首」、そして、「澱河歌 三首」の反歌として「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)と配列しるように思えるのである。と解すると、「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)の持つ比重というのは増してくる。

回想の蕪村(六・六十六~七十)

回想の蕪村六

(六十六~七十)

 これまで、『夜半楽』の三部作、「春風馬堤曲」・「澱河歌」・「老鶯児」のうち、異色の俳詩といわれている「「春風馬堤曲」並びに「澱河歌」を見てきた。ここで、『夜半楽』の巻軸の句(巻物の軸に近い部分。すなわち一巻の末尾。巻中の最も優れた句)の「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)に触れることにする。『蕪村全集(一)』(講談社)の句意等は次のとおりである。

○ 春もやゝあなうぐひすよむかし声

季語=うぐひす(春)。「あな憂」と掛ける。語釈 ○春もやゝ=下に「闌(た)け」を利かせる。○むかし声=老いた声。句意=春もようやく深まった今日このごろ、なんていやらしい鶯よ。すっかりふけこんだ古臭い声でさえずって。老鶯の声に託し、蕉風全盛の今、時代遅れの江戸座的詠風をひけらかしている老年の自分を自嘲的に詠むことで、一四八八(註・次の句)との照応を完成させた。 

○ 祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは
不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず)
蕉門のさびしをりは
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし)
さればこの日の俳諧は
わかわかしき吾妻の人の
口質(こうしつ)にならはんとて

安永丁酉春 初会
歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師

季語=歳旦(春)。歳旦開きに作る句。語釈 ○祇園会=京都八坂神社の祭礼。六月七日から七日間。鉾の上での鉦・笛・太鼓の囃しが名物。○秋風=秋風楽。雅楽曲の一。○音律=雅楽の音の調子。○さび・しをり=蕉門亜流の遵法する俳諧理念。○春興盛席=華やかな初春の俳席。○吾妻の人の口質=江戸座の亡師巴人の詠みぶり。したり皃=得意げな表情。「歳旦をしたり」と掛ける。句意=こんな古くさい掛け詞を織り込んだ歳旦句を、さもうまくやったとばかり得意顔をしている俳諧師よ、蕉門亜流全盛の俳壇を、俳諧本来の笑いの回復をもって一新しようとの抱負を裏返した、自嘲的自画像。

(六十七)

『蕪村全集(一)』(発句)は、尾形仂氏が担当したので、上記の句意等の解説は、尾形仂氏のものと理解して差し支えなかろう。ここで、『蕪村の世界』(尾形仂著)の解説などを見ていくことにする。
○「春もやゝ」の句は、『夜半楽』の総巻軸として、「春もようやく深まった今日このごろ、なんていやらしい鶯よ、すっかりふけこんだ古臭い声でさえずって」と、老鶯の声にかこつけ、蕉風花ざかりの今、時代遅れの江戸座的詠風をひけらかしている老年の自分を自嘲的に詠むことで、巻頭の「歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師」との照応を完成したもの。その巻頭・巻軸の照応を通して、蕉門亜流全盛の俳壇を、俳諧本来の笑いの回復をもって一新しようとする抱負を逆説的に利かせたのである(『蕪村の世界』)。
※蕪村の安永六年の春興帖・『夜半楽』が極めて構成的に編集されていることについては、これまで見てきたところであり、その意味で、「巻頭の『歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師』との照応を完成したもの」という指摘は十分に首肯できる。しかし、その他に、蕪村の脳裏には、蕪村の初撰集の『宇都宮歳旦帖』の軸句に登場する「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の鶯(そして、この鶯は、蕪村のその後の「歳旦帖・春興帖」には陰に陽に登場する)、その鶯との照応もあったことであろう(このことについては、前にも触れたが、ここでも、それらのことについて下記に再掲をしておきたい)。さらに、「その巻頭・巻軸の照応を通して、蕉門亜流全盛の俳壇を、俳諧本来の笑いの回復をもって一新しようとする抱負を逆説的に利かせたのである」という指摘については、これはより多く、「蕉門亜流全盛の俳壇」というよりも、これまでの自分を含めての「夜半亭一門俳諧」についての、安永六年の年頭に当たっての新たなスタート点の確認というような意味合いを有していることも付記しておきたい。
※ これらのことについては、寛保四年(一七四四)の蕪村の初撰集『宇都宮歳旦帖』の「渓霜蕪村輯」の署名でするならば、この安永六年(一七七七)の蕪村の春興帖の『夜半楽』の署名は「夜半亭蕪村輯」とでもなるところのものであろう。それを何故、「門人 宰鳥校」としたのか、確かに、上記のとおり、「夜半亭宋阿門人」という理解も一つの理解であろう。しかし、「門人 宰鳥校」の「校」が気にかかるのである。「校」とは「校合」(写本や印刷物などで、本文などの異同を、基準とする本や原稿と照らし合せること)とか「校訂」(古書などの本文を、他の伝本と比べ合せ、手を入れて正すこと)とかのの意味合いのものであろう。「門人 宰鳥撰」とか「門人 宰鳥輯」の、「編集」を意味する「撰」とか「輯」とかとは、やはり一線を画してのものなのであろう。それを遜っての表現ととれなくもないが、この『夜半楽』には、夜半亭一世・宋阿(巴人)の名はどこにも見られず、唐突に、この奥書に来て、この序文の「吾妻の人」を宋阿その人と理解して、「宋阿門人」と理解するには、やや、無理があるようにも思えるのである。ここは、『夜半楽』所収の異色の三部作の「春風馬堤曲」(署名・謝蕪邨)・「澱河歌」(署名なし)・「老鶯児」(署名なし)の、その「謝蕪邨」(この「引き道具」の狂言の座元・作者である「与謝蕪村」を中国名風に擬したもの)を受けて、「吾妻の人」風に「洒落風」に、「(謝蕪邨)門人 宰鳥校」と、蕪村自身が号を使い分けしながら、いわば、一人二役をしてのものと理解をしたいのである。 そもそも、蕪村の若き日の号の「宰町」(巴人門に入門した頃の「夜半亭」のあった「日本橋石町」の「町」を主宰する)を「宰鳥」(「宰鳥」から「蕪村」の改号の転機となった『宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の「鶯」の句に関連しての「鳥・鶯」を主宰する)へと改号したことは、当時の居所の「日本橋石町」から師巴人に連なる其角・嵐雪の師の芭蕉が句材として余りその成功例を見ないところの「鳥・鶯」への関心事の移動のようにも思えるのである。それと同時に、この安永六年の『夜半楽』の巻軸の句に相当する「老鶯児」の理解には、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の、その蕪村の号を初めて使用したところの「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の句と、それ以後の、歳旦帖・春興帖を編むときに、必ず登場してくるところの「鳥・鶯」の句と、同一線上のものと理解をしたいのである。そして、そう解することによって、始めて、この『夜半楽』の「老鶯児」の句の意味と、蕪村の絶吟の、「冬鶯むかし王維が垣根哉」・「うぐひすや何こそつかす藪の霜」・「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」の、この三句の意味合いが鮮明になってくると、そのように理解をしたいのである(「回想の蕪村」四十一・再掲)。

(六十八)

○ かづらきの帋(かみ)子脱(ぬが)ばや明の春(『明和辛卯春』・巻頭句)
○ 鶯の粗々がましき初音かな(同上・軸句)
○ 出る杭を打うとしたりや柳哉(同上)

 蕪村が五十五歳で夜半亭二世を継いだ翌年の明和八年(一七七一)の、襲号を記念して編んだ春興帖の巻頭句と軸句(二句)である。そして、それから六年後の安永七年(一七七七)の春興帖の巻頭句と軸句は次のとおりである。

○ 歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師(『夜半楽』・巻頭句)
○ 春もやゝあなうぐひすよむかし声(同上・軸句)

『蕪村の世界』(尾形仂著)では、この『明和辛卯春』と『夜半楽』とを視野に入れながら、上記の『夜半楽』所収の巻頭句と軸句との鑑賞を試み(上記六十六・六十七)、さらに、上記の『明和辛卯春』の軸句の一つの「鶯の粗々がましき初音かな」について、次のように鑑賞している。

○初音の鶯がまだホウホケキョウと正しく鳴くことができず、お粗末さまといった鳴き声だという、一見初鶯に優しい愛情を寄せたと取れる句の裏面からは、新参の宗匠として初の歳旦帖を出しは出したが、いかにも不十分な出来でお見苦しい次第だという、謙遜の挨拶の寓意が伝わってくる。

 そして、もう一つの軸句の「出る杭を打うとしたりや柳哉」について、次のような鑑賞文を続けている。

○そうなれば、この句もまた、単なる嘱目ではなく、「打(うた)うと」とする主体は京
俳壇の古参宗匠たち、「柳」に自身を擬した新参宗匠としての挨拶の句、ということになってくる。生意気にしゃしゃり出た邪魔者、エィ、頭をたたいてやれ、というところかも知れませんが、どっこい、私は今芽吹こうとしている柳、大きくなっても、”風の柳”で、けっして皆様方にさからったり邪魔になったりしませんので、何分にもお手柔らかに、どなた様もよろしく、といった具合に。その卑下の挨拶の裏には、むろん、旧套一新、新しい一歩を踏み出そうとの意を寓した巻頭吟(註・「かづらきの帋(かみ)子脱(ぬが)ばや明の春」の句)に応ずる、これから芽吹こうとする者の決意が隠されている。あえて「打(うた)うとしたりや」という民謡調の俗語表現を採ったのも、「かづらきの帋(かみ)子脱(ぬが)ばや」という巻頭吟のおどけた身ぶりに応じ、そうした寓意を笑いに紛らわせようがたるではなかったか。

 蕪村の「歳旦帖」・「春興帖」は、それぞれがそれぞれに呼応し、同じような色調・構成を帯び、そこに収載されている「巻頭句」や「軸句」も、それぞれがそれぞれに呼応し、同じような色調と寓意とを秘めているということであろうか。かく解することによって、安永六年の春興帖『夜半楽』とそこに収載されている二大俳詩の「春風馬堤曲」・「澱河歌」、そして、その最後を飾る総巻軸句の「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」に、蕪村が託した創意というのが見えてくる。

(六十九)

○ 古庭に鶯啼きぬ日もすがら (『宇都宮歳旦帖』軸句・寛保四年)
○  鶯の粗々がましき初音かな (『明和辛卯春』軸句・明和八年) 
○ 春もやゝあなうぐひすよむかし声 (『夜半楽』軸句・安永六年)
○ 冬鶯むかし王維が垣根哉(『から檜葉』臨終三句の第一句・天明三年)
○ うぐひすや何ごそつかす藪の中(『から檜葉』臨終三句の第二句・天明三年)
○ しら梅に明る夜ばかりとなりにけり(『から檜葉』臨終三句の絶吟・天明三年)

 蕪村が、蕪村の号をはじめて名乗ったのは、寛保四年(二十九歳)の『宇都宮歳旦帖』の鶯の句であった。そして、蕪村が、名実共に夜半亭俳諧の総帥として夜半亭二世となり、その翌年の明和八年(五十六歳)の『明和辛卯春』に夜半亭と署名したのも、鶯の句であり、そして、安永六年(六十二歳)に、異色の俳詩二編(「春風馬堤曲」・「澱河歌」)とともに、老鶯児と題しての一句も、鶯の句であった。それから六年の後の天明三年(六十八歳)の臨終三句のうちの二句が鶯の句であり、その二句の鶯の句の後に、「初春」との題をおくように命じての「しら梅に」(白むめの)の句が、その絶吟となったのである。その絶吟を後世に伝えたのが、夜半亭三世・高井几董の『から檜葉』であり、その几董の「夜半翁終焉記」には、その臨終三句について、次のように記している。

○此三句を生涯語の限りとし、睡れるごとく臨終正念にして、めでたき往生をとげたまひけり。(此の三句を生涯の作品の最後として、眠るように臨終を迎え、めでたい往生をとげられたのであった。)

 こうしたものを見ていくときに、これらの鶯は蕪村その人の分身であり、その分身である鶯が、そのエポック、エポックに、蕪村その人の映像として、これらの句に接する者に語りかけてくるように思えるのである。そして、『夜半楽』所収の「老鶯児」と題する鶯の句も、単に、自嘲的自画像(尾形仂著『蕪村の世界』)という理解から、何故か、「老懶(ろうらん)」の「老いていことのもの憂さ」というようなものを語りかけているように思えてならないのである。そして、それは、その前年(安永五年)の「老懐」と題する次の一句と交響しているように思えてならないのである。

○ 去年より又さびしいぞ秋の暮(安永五年正名宛・短冊)

 さらには、その一年前(安永四年)の次の「老懶」の一句と交響しているように思えてならないのである。

○ うき我にきぬたうて今は又(また)止ミね(『続明烏』・『新虚栗』)

(七十)

○ うき我にきぬたうて今は又(また)止ミね(安永四年・『続明烏』・『新虚栗』)
○ 去年より又さびしいぞ秋の暮(安永五年正名宛・短冊)
○ 春もやゝあなうぐひすよむかし声(安永六年『夜半楽』軸句)

 安永四年の「うき我にきぬたうて今は又(また)止ミね」の句は、芭蕉の「うき我をさびしがらせよかんこどり」(『嵯峨日記』)を、さらには、「砧打(うち)てわれをきかせよ坊が妻」(『野ざらし紀行』)を念頭にあったのものであることは言をまたないであろう。芭蕉は、「憂い・老懶」に、真っ向から対峙している。「閑古鳥」の鳴き声を、「ある寺に独(ひとり)居て云(いひ)し句なり」と、さらに、「さびしがらせよ」と一歩も退いていない。さらには、「憂い・老懶」の増すなかにあって、「砧を打ちてわれを聞かせよ」と、その「憂い・老懶」の正体を正面から凝視し、傾聴しようとしている。それに比して、蕪村は、日増しに増す「憂い・老懶」の日々にあって、芭蕉と同じように、「うき我にきぬたうて」としながらも、「今は又(また)止ミね」(今は又止めて欲しい)と、その「憂い・老懶」の中に身を沈めてしまう。安永五年の「去年より又さびしいぞ秋の暮」の句もまた、芭蕉の佳吟中の佳吟「この秋は何で年寄る雲に鳥」(『笈日記』)に和したものであろう(『蕪村全集(一)』)。芭蕉は、この芭蕉最後の旅にあって、その健康が定かでない中にあって、「憂い・老懶」の真っ直中にあって、「何で年寄る」と完全な俗語の呟きをもって、「雲に鳥」と、連歌以来の伝統の季題の、「鳥雲に入る」・「雲に入る鳥」・「雲に入る鳥、春也」と、次に来る「春」を見据えている。それに比して、蕪村は、芭蕉の「憂い・老懶」の「寂寥感」に耐えられず、「去年より又さびしいぞ」と、その「老懐」に、これまた身を沈めてしまうのである。そして、蕪村は、その翌年の春を迎え、その春の真っ直中にあって、「春もやゝあなうぐひすよむかし声」と、いよいよ、その「憂い・老懶」に苛まれていくのである。さればこそ、この「憂い・老懶」を主題とする「老鶯児」の一句を、巻軸として、異色の俳詩、「春風馬堤曲」・「澱河歌」の二扁の序奏曲をもって、「華麗な華やぎ」を詠い、その後に、真っ向から、「憂い・老懶」の自嘲的な、「老鶯児」と題する、「「春もやゝあなうぐひすよむかし声」の一句を、この『夜半楽』の、「老い」の「夜半」の「楽しみ」も、所詮、「憂い・老懶」が増すばかりと、その最後に持ってきたのではなかろうか。

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