回想の蕪村(一~三)

回想の蕪村(一~十七)

回想の蕪村2006/08/03

(一)

 蕪村には三大俳詩がある。「北寿老仙をいたむ」(晋我追悼曲)、「春風馬堤曲」そして「澱河歌」である。次のアドレスに、それらの三つについて紹介されている。

http://ship.nime.ac.jp/~saga/txtbuson.html

北寿老仙をいたむ

君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき
蒲公の黄に薺のしろう咲きたる
見る人ぞなき
雉子のあるかひたなきに鳴を聞ば
友ありき河をへだてゝ住にき
へげのけぶりのはと打ちれば西吹風の
はげしくて小竹原真すげはら
のがるべきかたぞなき
友ありき河をへだてゝ住にきけふは
ほろゝともなかぬ
君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
我庵のあみだ仏ともし火もものせず
はなもまいらせずすごすごと彳める今宵は
ことにたうとき
                      釈蕪村百拝書

 この「北寿老仙」については、「若き日の蕪村」で見てきたところである。以下のものは、グーグルのブログに再掲したものであるが、参照するときは、エンコードを(Unicode)にして適宜参照していただきたい。この「回想の蕪村」では、この「北寿老仙をいたむ」は従として、その他の二編の俳詩、「春風馬堤曲」並びに「澱河歌」を中心として見ていくことにする。

「若き日の蕪村」(その二)
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_114946097401984177.html

「若き日の蕪村」(その三)
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_06.html

「若き日の蕪村」(その四)
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_08.html

「若き日の蕪村」(その五)
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_09.html

「若き日の蕪村」(その六)
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_11.html

(二)

 蕪村の三大俳詩の「春風馬堤曲」の全文は次のとおりである。

http://ship.nime.ac.jp/~saga/txtbuson.html

春風馬堤曲
             謝蕪邨

  余一日問耆老於故園。渡澱水
  過 馬堤。偶逢女帰省郷者。先
  後行数里。相顧語。容姿嬋娟。
  癡情可憐。因製歌曲十八首。
  代女述意。題曰春風馬堤曲。
 (余一日(いちじつ)耆老(きらう)ヲ故園ニ問フ。澱水(でんすい)ヲ渡リ
  馬堤ヲ過グ。偶(たまたま)女(じよ)ノ郷ニ帰省スル者ニ逢フ。先
  後シテ行クコト数里、相顧ミテ語ル。容姿嬋娟(せんけん)トシテ
  癡情(ちじやう)憐(あはれ)ムベシ。因リテ歌曲十八首ヲ製シ、
  女(じよ)ニ代ハリテ意ヲ述ブ。題シテ春風馬堤曲ト曰フ。)

   春風馬堤曲十八首

○やぶ入や浪花(なには)を出(いで)て長柄川(ながらがは)
○春風や堤長うして家遠し
○堤下摘芳草 荊与棘塞路
 荊棘何無情 裂裙且傷股
(堤ヨリ下リテ芳草ヲ摘メバ 荊(けい)ト棘(きよく)ト路(みち)ヲ塞グ
 荊棘何ゾ無情ナル 裙(くん)ヲ裂キ且ツ股(こ)ヲ傷ツク)
○渓流石点々 踏石撮香芹
 多謝水上石 教儂不沾裙
(渓流石(いし)点々 石ヲ踏ンデ香芹(かうきん)ヲ撮(と)ル
 多謝ス水上ノ石 儂(われ)ヲシテ裙(くん)ヲ沾(ぬ)ラサザラシム)
○一軒の茶見世の柳老(おい)にけり
○茶店の老婆子(らうばす)儂(われ)を見て慇懃に
 無恙(ぶやう)を賀し且(かつ)儂(わ)が春衣を美(ほ)ム
○店中有二客 能解江南語
 酒銭擲三緡 迎我譲榻去
(店中二客有リ 能(よ)ク解ス江南(かうなん)ノ語
 酒銭三緡(さんびん)ヲ擲(なげう)チ 我ヲ迎ヘ榻(たふ)ヲ譲ツテ去ル)
○古駅三両家猫児(べうじ)妻を呼(よぶ)妻来(きた)らず
○呼雛籬外鶏 籬外草満地
 雛飛欲越籬 籬高堕三四
(雛ヲ呼ブ籬外(りぐわい)ノ鶏 籬外草(くさ)地ニ満ツ
 雛飛ビテ籬(かき)ヲ越エント欲ス 籬高ウシテ堕(お)ツルコト三四 )
○春艸(しゆんさう)路(みち)三叉(さんさ)中に捷径(せふけい)あり我を迎ふ
○たんぽゝ花咲(さけ)り三々五々五々は黄に
 三々は白し記得(きとく)す去年此(この)路(みち)よりす
○憐(あはれ)ミとる蒲公(たんぽぽ)茎短(みじかう)して乳(ちち)をあませり
○むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
 慈母の懐袍(くわいほう)別に春あり
○春あり成長して浪花にあり
 梅は白し浪花橋辺(けうへん)財主の家
 春情まなび得たり浪花風流(ぶり)
○郷を辞し弟(てい)負(そむ)く身三春(さんしゆん)
 本(もと)をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅
○故郷春深し行々(ゆきゆき)て又 行々(ゆきゆく)
 揚柳(やうりう)長堤道漸(やうや)くくだれり
○矯首(けうしゆ)はじめて見る故園の家黄昏(くわうこん)
 戸に倚(よ)る白髪の人弟を抱(いだ)き我を
 待(まつ)春又春
○君不見(みずや)古人太祗が句
   薮入の寝るやひとりの親の側

(三)

 蕪村の三大俳詩の「澱河歌」の全文は次のとおりである。

http://ship.nime.ac.jp/~saga/txtbuson.html

澱河歌

  澱河歌三首
○春水浮梅花 南流菟合澱
 錦纜君勿解 急瀬舟如電
(春水(しゆんすい)梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
 錦纜(きんらん)君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟電(でん)ノ如シ)
○菟水合澱水 交流如一身
 船中願同寝 長為浪花人
(菟水澱水ニ合シ 交流一身(いつしん)ノ如シ
 船中願ハクハ寝(しん)ヲ同(とも)ニシ 長ク浪花(なには)ノ人ト為(な)ラン)
○君は水上の梅のごとし花(はな)水に
 浮(うかび)て去(さる)こと急(すみや)カ也
 妾(せふ)は江頭(かうとう)の柳のごとし影(かげ)水に
 沈(しづみ)てしたがふことあたはず

(四)

 「春風馬堤曲」並びに「澱河歌」の鑑賞に入る前に、この世に始めて「俳詩」というものを定着させたところの潁原退蔵著『蕪村』所収の「春風馬堤曲の源流」(『潁原退蔵著作集第十三巻』所収)が、次のアドレスで紹介されているので、その全文を分説して紹介をしておきたい。なお、潁原退蔵氏のプロフィールは次のとおりである。

http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/study/ebarataizo.html

(潁原退蔵プロフィール)

潁原退蔵(えばら たいぞう) 国文学者 1894.2.1 – 1948.8.30 長崎県に生まれる。近世文学ことに与謝蕪村研究に比類なき先駆的業績を積んだ碩学、編著『蕪村全集』は今なお金字塔である。 掲載作は、昭和十三年(1938)以降四編の論文を整備して名著『蕪村』(昭和十八年<1943>一月創元社刊)に所収、初めて「俳詩」という項目の確立された画期的論考として知られる。

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その一)

安永六年(1777)の正月、蕪村は『夜半楽』と題した春興の小冊を出した。その中に「春風馬堤曲」十八首と「澱河歌」三首とが収められてある。それは一見俳句と漢詩とを交へて続けたやうなものであるが、実は必ずしもさうではない。言はば一種の自由詩である。しかも格調の高雅、風趣の優婉、連句や漢詩とはおのづから別趣を出すものがあつて、人をして愛誦せしめるに足る。その体は日本韻文史上にも独特の地位を占むべきもので、ひとり形式の特異といふ点のみでなく、一の文藝作品として確かに高度の完成した美を示して居ると言つて宜(よ)い。而(しか)してこの特殊な韻文の形式を、蕪村はどこから学んで来たのであらうか。それとも全く彼が独創的に案出したものであつたらうか。蕪村にはなほ同様な韻文体の作「北寿老仙をいたむ」の一篇が残されてある。下総結城(しもふさゆふき)の人、早見晋我(しんが)の死を悼んだ曲である。晋我が歿したのは延享二年(1745)のことであるから、曲もすなはち当時の作にかゝるものであらう。それは、

     北寿老仙をいたむ

  君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
  何ぞはるかなる
  君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ
  をかのべ何ぞかくかなしき
  蒲公の黄に薺(なづな)のしろう咲たる
  見る人ぞなき
  雉子(きゞす)のあるかひたなきに鳴を聞(きけ)ば
  友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき
  へげのけぶりのぱと打ちれば西吹風(にしふくかぜ)の
  はげしくて小竹原真すげはら
  のがるべきかたぞなき
  友ありき河をへだてゝ住にきけふは
  ほろゝともなかぬ
  君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
  何ぞはるかなる
  我庵(わがいほ)のあみだ仏ともし火もものせず
  花もまゐらせずすごすごと彳(たゝず)める今宵は
  ことにたふとき
    (晋我五十回忌追善『いそのはな』)

といふので、これには漢語の句は全く含まないけれども、その韻律は極めて自由であり、詞章もまた頗る高雅の気に富んで居る。「春風馬堤曲」の源流が夙(はや)くこゝに存することは、何人(なんぴと)もこれを認めるにちがひない。少くとも蕪村の心にはかうした韻文への創作欲が、若い頃から動いて居たのである。ではこの「北寿老仙をいたむ」の風体を、彼はやはり別に学ぶ所があつて得たのであらうか。問題は更に溯らねばならない。

(五)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その二)

俳諧に於ける韻文の一体といへば、誰しも想ひ到るのは支考一派の間に行はれた所謂(いはゆる)仮名詩である。それは支考が自ら新製の一格として世に誇示した所であるが、要するに漢詩の絶句・律の体に倣ひ、十字を以て五言とし、十四字を以て七言とするやうな規矩を設け、更に五十音図の横列によつて仮名の押韻までも試みようとしたものである。その実作は『本朝文鑑』『和漢文操』等にも、特に類を分ち目(もく)を立てて多く収めてあるから、こゝに詳しく説くにも及ばないが、例へば、

     逍遙遊 五言   蓮二房
  よしあしの葉の中に   寝れば我さむればとり
  鳥さしはさもあれや   かく痩(やせ)て風味なし

     山中尋酒 七言  得巴兮
  門の杉葉に酒をたづぬれば  畚(フゴ)ふり捨(すて)て麦刈にとや
  樽はつれなく店に寝ころびて 臼引音(うすひくおと)の庭にさびしさ

     和漢賞花 五言律
  花はよし花ながら    見る人おなじからず
  ぼたんには蝶ねむり   さくらには鳥あそぶ
  たのしさを鼓にさき   さびしさを鐘にちる
  唐にいさ芳野あらば   詩をつくり歌よまむ

     和漢賞月 七言律
  我日のもとの明月の夜は   もろこし人も皆こちらむく
  詩には波間の玉をくだきて  哥(うた)に木末の花やちるらん
  雪か山陰の友をおもへば   露も更科の姥(うば)ぞなくなる
  さはれ杜子美が閨にあらずも 芋とし見れば物も思はず

の如く八句から成つて居る。に・り・し、ば・や・さ等と、伊列又は阿列の音を句尾に置いて、所謂仮名の韻を押すやうな技巧は、流石(さすが)に支考らしい工案(くあん)ではあるが、ともあれ普通の俳諧とは全く異つた形式を用ゐて、しかもその中に俳味の掬(きく)すべきものがなしとしない。もしこのやうな一体の韻文が、真摯(しんし)な文藝精神の下に展開を遂げたならば、それは俳諧から派生した一の特殊な文藝として、俳文よりももつと注意すべき近世文藝の一分野を占めることが出来たであらう。

(六)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その三)

そして自由な韻律と格調とをもつた新韻文の形式は、明治の新体詩をまたずして十分成長し得た筈である。しかし支考の例のことごとしいあげつらひは、徒(いたづ)らに体制の上に無用の指を立てるやうな事のみに急で、真に文藝的な完成への努力を怠つた。例へば仮名に真名(まな)の韻を用ゐる一格と称して、

     田家ノ恋    蓮二房
  さをとめの名のいかにつゆ(露)けき(濃)
  花もかつみのよしやよ(俗)の中
  浅香にあらぬ沼のかげ(影)さへ(副)
  鏡の山のそこにはづ(慚)かし(通)

の如く、一句の終に特に漢字を宛てて、こゝに押韻(あふゐん)する方法を案じたりした。のみならずこの漢字についても、俗中は日本紀により、影副は万葉に出で、慚通は真字伊勢物語に基くなどと一々勿体をつけて居る。果ては、

     祝草餅    桐左角
  若菜は君が為とよみしかど(廉)  
  蓬はけふの餅につかれしを(塩)
  名も鴬のいろにめでけむ(剣)
  げに花よりと見れば見あかね(兼)

の如きかどを廉にしをを塩に宛てるなど、殆ど遊戯文字と選ぶ所のないやうな作までも試みて居る。こゝに至つては折角の万葉の体も、律法の新製も、その愚や及ぶべからずである。
 美濃派の俳人の間には、その後もなほ仮名詩の作は行はれて居た。同派の俳書を繙(ひもと)くならば、享保以後ずつと後年に至るまで、屡々その作が試みられて居ることを知るであらう。中には見るべきものもないのではない。也有(やいう)の『鶉衣』に収むる「鍾馗画讃」や「咄々房挽歌」等も、また仮名詩の流を汲むものであつた。だからやはり仮名の韻を押し、又毎句末に漢字を宛てたりして居るのであるが、「咄々房挽歌」の如きは、

  木曽路に仮の旅とて別(わかれ)しが
     武蔵野に、長きうらみとは成ぬる(留)
    呼べばこたふ松の風
    消てもろし水の嶇(=正しくはサンズイヘン)
  わすれめや   茶に語し月雪の夜
  おもはずよ   菊に悲しむ露霜の秋
    庵は鼠の巣にあれて   蝙蝠群て遊
    垣は犬の道あけて    蟋蟀啼て愁
      昔の文なほ残    老の涙まづ流
  よしかけ橋の雪にかゝらば
  招くに魂もかへらんや不(イナヤ)

と、句脚に尤(いう)の韻を用ゐる為にかなり無理な点が見られるにもかゝはらず、そのリズムは頗(すこぶ)る自由でしかも一種の高雅な風韻が感ぜられる。又天明・寛政の頃小夜庵五明の門人是胆斎野松は和詩の作を好み、その編した『和詩双帋(わしざうし)』には盧元坊以下の人々の作を集めてあるが、誦するに堪へる佳作も少しとしない。今五明と野松の作一篇づゝを抜いて見よう。

(七)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その四)

  秋香亭の夕顔を題して   小夜庵
  垣根に長く作り垂しは   我が手に墨し窓切らんとや
  月を眺むる便りならねば  いけては壁に花を見る哉

     題雨中の桜        野松
  降りくらす桜の雨     雨匂ふ鐘のおと
  蝶と散るもおしむまじ   鳥と笑むも仇(あだ)なるを
  露深く昼をうらみ     霞に立つ俤(おもかげ)も
  物言はん色と見れば    花にもあらで我が心

 これらは依然として仮名の韻をふみ、支考の製した旧格を守つて居るが、とにかく発句や連句とは異つた形に於いて一種の詩情を味ははしめる。蕪村の「北寿老仙をいたむ」や「春風馬堤曲」が、俳諧から出た韻文の一格と見られるとすれば、結局それは支考一派のかうした仮名詩に因縁(いんえん)を求めねばならないものだらうか。それにしても支麦(しばく)の平俗を甚しく厭つた蕪村の事である。かりに「春風馬堤曲」を仮名詩の展開の中に位置づけるとしても、彼が直接『本朝文鑑』や『和漢文操』に範を得たとは思はれない。さうかと言つて、也有や五明に学んだ点も見られないのである。
 俳諧に仮名詩の一流が長く伝はつたにしても、蕪村の「春風馬堤曲」は恐らくそれとは没交渉に生れたものであらう。彼の孤高な離俗の精神は、支麦の徒が奉じた俳諧理念と相容れる事は出来なかつた。たとひ仮名詩の中に二、三の詩情豊かなものがあつたにせよ、「春風馬堤曲」はやはり蕪村がひとり住む浪漫的な抒情の世界であつた。しかしかの自由な詩の一格は、必ずしも彼の創案になるものではない。実は夙く享保・元文の交から、江戸俳人の間に仮名詩とは全く別趣な一種の韻文が行はれて居たのである。それらの作品の中で、管見に入つた最も古いものは、享保二十一年(1736)三月刊行の『茶話稿』(紫華坊竹郎撰)に載(の)する左の一篇である。

(八)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その五)

     立君の詞   楼川
  よるはありたや   雨夜はいやよ
  ふればふらるゝ   此ふり袖も
  草の野上の     野の花すゝき
  まねきよせたら   まくらにかそよ
  かさにかくれて   ふたりで寝よに
  ござれござれよ   月の出ぬまに

 七七調の連続は仮名詩の所謂十四字七言の体に類するが、これは六句から成つて居て、絶句にも律にも当らない。又特に一定の韻をふんだあとも認められない。詠む所は市井卑俚(しせいひり)の景物を捉へて、しかも賤陋猥雑に堕することなく、一脈幽婉可憐の情趣を掬(きく)せしめるものがある。軽妙の才はあるいは也有の『鶉衣拾遺』に収められた仮名詩「辻君」に一籌(いつちう)を輸(ゆ)するかもしれないが、これは小唄めいた律調を交へて、よく俳諧の境地に即して居る。この一作が支考の新製と全く関する所なくして生れたか否か、それは今日から容易に推定を下すことは出来ない。しかし少くとも楼川(ろうせん)の俳系から考へると、彼が故(ことさ)らに所謂田舎蕉門の顰(ひそみ)に倣はうとする筈もない。晩得の『古事記布倶路』にも右の楼川の作を採録して、「仮名詩のやうなれども少し風流あり」と評して、美濃派の作とは似て非なることを認めて居る。今試みにこのやうな作が生れた一の契機について説くならば、当時江戸俳人の間には、従来俳文の体に賦・説・辞・解等の煩雑な形式的分類が行はれながらも、その実体に変化がなく千変一律なのに倦(あ)いて、何等か新しい一体を得ようとする機運が動いて居たのではあるまいか。江戸俳壇に於けるさうした要求に基く動きは、前掲の『茶話稿』に収められた二、三の文章にも認められる。又かの吉原に関する一の俳文集ともいふべき『洞房語園集』(元文三年<1738>刊)の如きも、従来の分類と同様な序・賛・引・頌・説・記等の名目に従つては居るが、実は必ずしもそれらの名目に捉はれない自由な態度が見られるのである。この間から河東節(かとうぶし)の作者が出たりして居るのも、あるいはさうした曲詞にまで俳諧文章の進出を意味するつもりであつたかも知れない。ともあれ楼川の「立君の詞」は、支考の仮名詩に系を引くものとするよりは、新しい俳文の一体を得ようとする江戸俳人の要求に基いたと見るべきであらう。
 芭蕉俳諧に於けるさびや細みは、それが軽みの理念の十分な理解を伴はない場合、あまりに形式的な枯淡閑寂を強ひる傾(かたむき)を生じた。事実「今の芭蕉風といへる句を察するに、古池やのばせをが句の一図(一途)と聞ゆる也」(不角『江戸菅笠』序)と評されねばならなかつた。このやうな実状の間にあつて、沾洲・淡々・不角等の俗情を脱し、しかも蕉風の形骸的枯淡を厭つて、より豊かな抒情の詩を求める人々は、こゝに何等かの新しい発想の形式を欲したであらう。江戸の俳人が一般に複雑な人事趣味を喜んだのも、蕉風以来の単調を破るべき反動である。だがその人事趣味は叙事的であるよりも常に抒情的であつた。新しい俳文の一体として抒情詩の発想を得る事は、彼等の望むところであつたらう。夙(はや)く元禄・宝永の頃に溯つて、素堂の「蓑虫説」や嵐雪の「黒茶碗銘」の如きには、すでに一種の自由な散文詩とも見るべき形式を具へて居た。支考の仮名詩がむしろ理論的に案出されたのに比して、素堂や嵐雪の散文詩は抒情のおのづからなる発露であつた。だから享保期に於ける江戸俳人の新しい詩の発想形式は、こゝにその源流を求めてもよかつたのである。今率直な立言(りふげん)を試みるならば、楼川(ろうせん)の「立君の詞」は即ち素堂・嵐雪の散文詩に発するもので、蕪村の「春風馬堤曲」はまた楼川の詩心を承けるものだと言へないであらうか。少くともある文藝精神の継承展開としてそれは肯定されるであらう。それにしても楼川と蕪村との作の間に、直接的な交渉を認める為には、今少し明確な論拠を与へねばならない。それには年代の近接と格調の相似とで、両者を必然に繋ぐべきなほ幾つかの作品の存在を知ることが必要である。しかし今はまだそこに十分の資料を提供することが出来ない。これまでに知り得たのは、わづかに次の二つの作にすぎない。その一は寛保元年(1741)十二月刊行の『園圃録』(雪香斎尾谷撰)に載するものである。この書は当時の江戸俳人の発句・連句を集録した乾坤二冊、紙数百余丁の大冊であるが、その中に若干の文章をも収めてある。それらの俳文に伍して、次の如き一篇の韻文を見るのである。

(九)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その六)

    胡蝶歌   尾谷
  賎(しづ)が小庭の菜種の花は
             乳房とぞ思ふ
  梅の薫りを   紅梅はおぼへたるべし
  風のさそひて散行(ちりゆく)花を
   追ふて行身(ゆくみ)も共に花なるや
             羽もかろげなり
   江南の橘の虫の化すとも伝へし
   本朝にては何か化すらん
             妓女が夏衣も涼しげなれば
  夢の周たる歟(か)
   桔梗朝顔の花にたはれて
             老やわすれぬ
   尾花小萩の花にあそびて
             秋もおぼへぬ
   うとく見るらん   松虫は鳴に
   うらぶれてなけ   蝶よ胡蝶よ

 その格調の軽妙自由なのは、楼川の「立君の詞」に比して更に目を刮(かつ)せしめるものがあり、詞章の優雅高逸なのに至つてはもとより遥かに挺(ぬき)んでて居る。今様にあらず、仮名詩にあらず、河東の曲にあらず、別に一体を出して朗々誦するに足るのである。今一つは延享二年(1745)三月、江戸の麦筵(ばくえん)谷茂陵の撰んだ『雛之章』に載せられてある。この書は諸家の雛の句を集めて、終に撰者の独吟歌仙等を添へた小冊子であるが、その中に次の一作が見える。

(一〇)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その七)

  袖浦の歌   依長干行韻  文喬
  けふばかり汐干に見へて
  袖の浦わのうらみ忘れめ
  霞をくゝる山の手の駕籠
  淡かとまよふ海ごしの安房
  烟管くはへて磯より招き
  扇子かざして沖より望む
  君家住何処
  妾住在横塘

 長干行は楽府(がふ)の題であるが、これは唐詩選などに収められた崔かう(景ヘンに頁)の作をさして居り、最後の漢句二句は即ち崔_の、長干行百章の起句と承句とをそのまゝ用ゐたのである。忘・房・望・塘と押韻したのなどは、支考の所謂和詩を学んだやうでもあるが、その趣は全く異ると言つて宜い。品川あたりの汐干の景を叙し、最後に漢詩の句をそのまゝ借り来(きた)つて、桑間濮上の情趣を点じた手法は誠に面白い。蕪村の「澱河歌」と通ずる所が極めて多いことは、何人(なんぴと)も直ちに認めるであらう。
「胡蝶歌」の作者尾谷(びこく)は盤谷(ばんこく)の門であり、盤谷は談林系の人である。もとより俳系上蕪村との交渉は全く無い。しかし『園圃録』に見るその交游の範囲は、当時の江戸俳人の知名の士に亙(わた)り、蕪村が江戸にあつた元文・寛保の頃、親しく識ることを得た人々も少くなかつたと思はれる。それらの人々の間には、尾谷の外にもかうした作の試みがなほあつたかも知れない。ともあれ蕪村は当時尾谷のこの作について、恐らく知る所があつたであらう。「袖浦の歌」の作者文喬については、遺憾ながら今全く知る所がない。『雛之章』には序文をものして居り、その序によれば同書の撰にも与(あづか)つて力があつたらしい。而して『雛之章』に句を列ねた人々は、四時観の系に属するものが多いやうで、これまた俳系上蕪村と直接の関係は認められない。しかし四時観の徒は江戸の俳壇に一種の高踏的な態度を持し、所謂(いはゆる)通(つう)を誇つてむしろ趣味に婬する傾(かたむき)があつたとはいへ、譬喩俳諧の末流や支麦(しばく)の平俗とはおのづから選を異(こと)にして居た。『雛之章』にしてもその装幀は細長形の唐本仕立(じたて)で、見るからに高雅な趣味を漂はせて居る。このやうな好みをもつ人々に対して、蕪村はもとより白眼視しては居なかつたであらう。而して文喬の「袖浦の歌」と蕪村の「北寿老仙をいたむ」とは、殆ど時を同じうして成つて居るのである。楼川から尾谷、文喬、蕪村と、彼等の手に成る一種の韻文を通覧する時、その間に一の系脈の存することを肯定し得ないであらうか。少くともそこにある共通の精神が存することは、これを認めるに何人(なんぴと)も吝(やぶさ)かでないであらう。彼等の諸作の単なる先蹤(せんしよう)として、支考の仮名詩や和詩をあげることは差支(さしつかへ)ない。それは年代的に見て確かに先に現はれたものであり、また江戸の俳人たちはその存在を十分知つて居たのだから。現に紀逸の『雑話抄』(宝暦四年<1754>刊)には、「ちかきころ仮名の詩といふことを人々言出(いひいで)侍るを」とあつて、当時江戸に仮名詩が行はれたことを述べて居るのである。さうして彼自ら「たはぶれに作」と言つてあげた数編の作は、四句一章の形式が全く支考の仮名詩と同一である。しかも彼はそれだけで満足せず、和讃の体で三首の作を示し、更に次のやうな一作をものして居る。

(一一)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その八)

   放鳥辞
 鶸々 籠中の鶸(ひは) 汝久しく籠にこめられて 雲を乞(こふ)るうらみやむ時なし
 我又久しく病に労(いたづき)て 遠く遊(あそば)ざる愁(うれひ) 日々にあり
 鶸々 籠中の鶸 今汝をもて我にあて 我をして汝を思ふにしのびず
 みづから起(たち)て籠を開て 汝をはなさん
 鶸々 籠中の鶸、五柳先生の古郷をしたへるおもひ 慈鎮和尚の籠上にそゝげるなみだ 律のいましめにかなひて みづから起て籠を開て 汝を放さん
 鶸々 籠中の鶸 今幸にして籠の中をのがれ 野外に遊ぶとも
 飢を貪(むさぼつ)てますら雄の網に入(い)る事なかれ 遠く翔(とび)て箸鷹の爪にかゝる事なかれ
 鶸々 籠中の鶸 長く千歳の松にあそびて 共に千歳のことぶきを囀るべし
 鶸々 籠中の鶸

 これは正しく遠く素堂の「蓑虫説」に踵(きびす)を接し、それより更に自在を得た体と言ふべきであらう。紀逸はそれを特に韻文の体とことわつては居ないが、仮名詩や和讃の作につゞけて掲げたのは、やはり普通の俳文とはちがつた作として試みたものだからであると思ふ。即ちこゝにはまた支考の仮名詩の外に、このやうな抒情の発想を求めずに居れない精神があつたのである。それは楼川の「立君の詞」からつゞいた同じ抒情の詩の流(ながれ)であつたらう。
 天明の俳諧が元禄の俳諧に比して特殊とされる性格は、言ふまでもなくそれが近世の新しい浪漫精神に立つ所に求められねばならぬ。その精神はまた芭蕉俳諧に於ける抒情性の新たな発想への要求として動いた。さうした際にあの楼川や尾谷によつて試みられた自由な詩の形が、蕪村の心に大きな魅力となり、また自らさうした詩形の上に彼の新しい抒情を託さうとする誘惑を感じなかつたであらうか。享保以後明和・安永に至るまで、この種の自由詩は少い数ではあるにせよ、これを作り試みる者はなほ絶えなかつたのである。蕪村がそれに倣つて「北寿老仙をいたむ」や「春風馬堤曲」の作をなしたと考へる事は、もはや誤(あやまり)のない推測であらう。それは彼の浪漫精神の現れとして注意されるのみならず、天明俳諧の性格をまた最もよく示す事実でもあつた。蕪村ばかりが作つたのではない。暁台にもまた几董(きとう)の死を悼んだ次の如き一曲の作がある。

(一二)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その九)

    蒿里歌(かうりのうた)
 夜半の鐘の おと絶て めにみるよりも 霜の声 きく耳にこそ しみはすれ 
     友ちどり 呼子鳥 都鳥 はかなし はかなしや みやこ鳥
 きのふ墨水(ぼくすゐ)に杖を曳て
 柳条に月をかなしび
 けふは杖を黄泉に曳て
 弘誓(ぐぜい)の棹哥(たうか)に遊ぶかし
     夜半の鐘の おと絶て むなしき松を まつのかぜ
 聖護院の杜(もり)の空巣には
 妻鳥こそまどふらめ
 難波江の芦の浮巣には
 友鳥こそわぶらめ
     わぶらめやいたいたし   伊丹のいめぢいたいたし
     さらでだもしぐれの雨は降ものを
     心に雲の行かひて晴ぬは誠なるかも
 友ちどり 呼子どり あゝ都鳥はかなしや 都鳥はかなしや

 これまた全く自由な形態と発想とをもつた一篇の抒情詩である。又(松村)月渓が池田に滞在中、同地の名物である池田炭・池田酒・猪名川鮎・呉服祭に因(ちな)んで作つたといふ「池田催馬楽(さいばら)」の如きも、

     魚
 猪名の笹原を 秋風の驚かして 猪名川の鮎は あはれ 落ち尽したり 酒袋の渋や流れけむ あはれ 渋や流れけむ

     炭
 雄櫟(をくのぎ)はつれなしや 兜巾頭(ときんがしら)のかたくなや 雌櫟(めくのぎ)はふすぼりて あはれ 何をもゆる思ひや

     酒
 新搾(にひしぼ)りの にほひよしや 待つらむ君は 君は 花に紅葉に もみぢばを 逃げつゝ行かむ 東路(あづまぢ)に 菰(こも)かぶりて行かむ

     祭
 呉服(くれは)の御祭の 小酒たふべて 舞ひ狂ふや すぢりもぢりて かざしの袖を あや綾服絹(あやはぎぬ) 紅(くれなゐ)の呉服絹(くれはぎぬ)

といふので、催馬楽(さいばら)の調(しらべ)に摸(も)したとはいふものの、実はやはり天明俳人の求めた抒情の新しい詩形であつた。

(一三)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その十)

明治の新体詩はその発生に於いて全く西洋詩の移植であつたのみならず、その展開もまた西洋詩に影響されることが最も多かつた。初めて新体詩といふ名称の下に公にされたかの『新体詩抄』の序には、

 コノ書ニ載スル所ハ詩ニアラズ、歌ニアラズ、而シテ之ヲ詩ト云フハ、泰西ノポヱトリート云フ語、即チ歌ト詩トヲ総称スルノ名ニ当ツルノミ。古(イニシヘ)ヨリイハユル詩ニアラザルナリ。

と、明かに泰西の詩に当るべき新体の創始たる事を語つて居る。もとよりその表現が日本語による以上、国語特有の性質––特に韻律的性質を無視することは出来なかつた。だからそのリズムは日本古来の歌謡に普遍な七五、又は五七調がそのまゝ用ゐられたのである。しかもまた、

 コノ書中ノ詩歌皆句(ヴエルス)と節(スタンザ)トヲ分チテ書キタルハ、西洋ノ詩集ノ例ニ倣ヘルナリ。

とあるので、当時いかに出来るかぎりの西洋詩模倣に努めたかは知られるであらう。このやうにして生れた新体詩である。それが明治から大正を経て今日に至るまで、わが国の詩歌の中で最も西洋的な発想法をとつて来たことは当然とも言へる。けれども当初西洋詩のそのまゝの移植であつたにせよ、そして西洋風の培養を多く受けたにせよ、すでに日本の土に根を下したものである。それが日本的な成長を見るべきは、これまた更に当然なことと言はねばならぬ。明治以来のすぐれた詩人たちの詩が、意識的にも無意識的にも日本の詩としての完成へ向つて進んで来たことは、極めて明かな事実である。さうして日本の詩が真に日本の詩であるべき自覚は、今に於いて最も、高度に要求されて居る。所謂(いはゆる)新体詩は、西洋詩の模倣として発生したにちがひないが、今日から回顧すればそれは単に自由清新な詩形を求める動きにすぎなかつた。日本の詩と詩精神はすでに新体詩以前、遥かに古い世から存して居たのである。しかも明治の詩人たちが求めた自由清新な詩形すら、実は決して新体詩以前に存しないのではなかつた。「春風馬堤曲」の源流を探る間に、その事実は文献的に明かにされた。「日本の詩は日本の詩である」といふ厳(おごそ)かな自覚の下(もと)に、天明俳人の賦した一篇の詩は、いかなる意味で省みられねばならないであらうか。今日の詩人の魂を揺り動かすものが、そこには必ず見出されるにちがひないのである。

(一四)

 「春風馬堤曲」の現代語訳を試みたい。

春風馬堤曲
             謝蕪邨

  余一日問耆老於故園。渡澱水
  過 馬堤。偶逢女帰省郷者。先
  後行数里。相顧語。容姿嬋娟。
  癡情可憐。因製歌曲十八首。
  代女述意。題曰春風馬堤曲。
 (余一日(いちじつ)耆老(きらう)ヲ故園ニ問フ。澱水(でんすい)ヲ渡リ
  馬堤ヲ過グ。偶(たまたま)女(じよ)ノ郷ニ帰省スル者ニ逢フ。先
  後シテ行クコト数里、相顧ミテ語ル。容姿嬋娟(せんけん)トシテ
  癡情(ちじやう)憐(あはれ)ムベシ。因リテ歌曲十八首ヲ製シ、
  女(じよ)ニ代ハリテ意ヲ述ブ。題シテ春風馬堤曲ト曰フ。)
(訳)
  私はある日老人を訪ねて故郷に帰った。淀川を渡り
  毛馬堤を歩いて行った。たまたま帰省中の女性に遇った。
  先になったり後になったりして、しばらくして、話し合うようになった。
  容姿端麗の女性で、その端麗さに心を奪われた。
  そんなことで、歌曲十八首を作り、
  その女性の心に託して心情を吐露した。
  題して、「春風馬堤ノ曲」という。

 「謝蕪邨」は与謝蕪村の中国風の表現。「一日」はある日のこと。「耆老」の「耆」は六十歳以上のことで、老人のこと。蕪村は時に六十二歳である。「澱水」は淀川。「嬋娟」は色ぽっいこと。蕪村がこの「歌曲十八首」を「春風馬堤曲」と題したことについては、楽府中の「大堤曲」の曲名に因っており、この詩編が楽府の歌曲スタイルに擬した艶詩であることを示しているという(尾形仂著『蕪村の世界』)。

(一五)

   春風馬堤曲十八首

一 ○やぶ入や浪花(なには)を出(いで)て長柄川(ながらがは)
(訳)藪入りで大阪の奉公先を出て、今長柄川にさしかかりました。
二 ○春風や堤長うして家遠し
(訳)春風の中、堤はどこまでも続き、家ははるか彼方です。
三 ○堤下摘芳草 荊与棘塞路
荊棘何無情 裂裙且傷股
(堤ヨリ下リテ芳草ヲ摘メバ 荊(けい)ト棘(きよく)ト路(みち)ヲ塞グ
 荊棘何ゾ無情ナル 裙(くん)ヲ裂キ且ツ股(こ)ヲ傷ツク)
(訳)堤を下りて芳しい草を摘みますと、棘のある茨が路を塞ぎ、その棘は無情にも裾を裂いて、股を傷つけます。
四 ○渓流石点々 踏石撮香芹
   多謝水上石 教儂不沾裙
(渓流石(いし)点々 石ヲ踏ンデ香芹(かうきん)ヲ撮(と)ル
 多謝ス水上ノ石 儂(われ)ヲシテ裙(くん)ヲ沾(ぬ)ラサザラシム)
(訳)渓流には石が点々とあり、その石を伝わって香りのよい芹を摘む。水上の石に感謝し、そのおかげで裾を濡らさずにすんだのだ。
五 ○一軒の茶見世の柳老(おい)にけり
(訳)一軒の茶店があり、かっての柳も老木になっています。
六 ○茶店の老婆子(らうばす)儂(われ)を見て慇懃に
   無恙(ぶやう)を賀し且(かつ)儂(わ)が春衣を美(ほ)ム
(訳)茶店のお婆さんは、私を見て丁寧に挨拶をして、元気であることを喜び、私の春の晴れ着をほめてくれました。
七 ○店中有二客 能解江南語
   酒銭擲三緡 迎我譲榻去
(店中二客有リ 能(よ)ク解ス江南(かうなん)ノ語
 酒銭三緡(さんびん)ヲ擲(なげう)チ 我ヲ迎ヘ榻(たふ)ヲ譲ツテ去ル)
(訳)茶店には二人のお客がおり、色里の言葉などをよく解していて、酒代を三さしぽんと出して、私に席を譲ってくれました。
八 ○古駅三両家猫児(べうじ)妻を呼(よぶ)妻来(きた)らず
(訳)古い集落で、二・三軒の家があり、雄猫は雌猫を呼んでいるが、雌猫は現れない。
九 ○呼雛籬外鶏 籬外草満地
   雛飛欲越籬 籬高堕三四
(雛ヲ呼ブ籬外(りぐわい)ノ鶏 籬外草(くさ)地ニ満ツ
 雛飛ビテ籬(かき)ヲ越エント欲ス 籬高ウシテ堕(お)ツルコト三四 )
(訳)垣根の外の鶏が雛を呼び、その垣根の外には草が地に満ちていて、雛が垣根を越えようとしていますが、垣根が高く、三・四羽の雛は越えらず落ちたりしています。

 この「春風馬堤曲」は、第一章(第一場)は、発句体の第一首(一)・第二首(二)と漢詩体の第三首(三)・第四首(四)とから成る。第二章(第二場)は、発句体の第五首(五)、漢文訓読体の第六首(六)そして漢詩体の第七首(七)から成り、第三章(第三場)は、発句体の第八首(八・漢詩文調)と漢詩体の第九首(九)から成っている。第一首(一)の「長柄川」は淀川の分流中津川の古称。第二首(二)の「春風」の読みは「しゅんぷう」ではなく「はるかぜ」としたい(尾形・前掲書)。第三首(三)の「無情」は「妬情」が定稿で推敲されてのものという(尾形・前掲書)。第四首(四)の「香芹」は香りのよい芹のこと。第六首(六)の「美(ほ)ム」も「羨む」を定稿で推敲されたという(尾形・前掲書)。第七首(七)の「江南語」は中国の揚子江以南の土地の総称だが、淀川を「澱水」、曾根崎新地を「北里・北州」と中国風に呼ぶと同じような用例で、遊里(郭)言葉のような意も利かしている(尾形・前掲書)。「三緡(ぴん)」は銭百文をつないだものが一緡で、三百文になる。第八首(八)の「古駅」は、古い宿場のこと。

(一六)

一〇 ○春艸(しゆんさう)路(みち)三叉(さんさ)中に捷径(せふけい)あり我を迎ふ
(訳)春草の野路は三つに分かれ、その中の近道が私を迎えてくれました。
一一 ○たんぽゝ花咲(さけ)り三々五々五々は黄に
    三々は白し記得(きとく)す去年此(この)路(みち)よりす
(訳)蒲公英が咲き、三々五々に黄色い花もあれば白い花もあります。去年もこの路を通ったのを覚えています。
一二 ○憐(あはれ)ミとる蒲公(たんぽぽ)茎短(みじかう)して乳をあませり
(訳)懐かしさの余り蒲公英の花を折りとると茎が短く折れて白い乳がでました。
一三 ○むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
    慈母の懐袍(くわいほう)別に春あり
(訳)幼い昔のころがしきりに思いだされ、優しい母の恩が思い起こされてきます。優しい母の懐は、この世のものとは思われいような、別天地の春のようです。
一四 ○春あり成長して浪花にあり
    梅は白し浪花橋辺(けうへん)財主の家
    春情まなび得たり浪花風流(ぶり)
(訳)その別天地の春ような母の恩を受けて成長し、今、大阪に住んでいます。その梅が白く咲いている浪波橋のお大尽さんの家に奉公して、その梅の花のように青春を謳歌し、すっかり大阪っ子の華美な暮らしに慣れ親しんでいます。
一五 ○郷を辞し弟(てい)負(そむ)く身三春(さんしゆん)
    本(もと)をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅
(訳)私は故郷を離れ、弟を家に残して、こうして大阪に出て、もう三年目の春を迎えてしまいました。これはまことに、根の親木を忘れて、末の枝先で花を咲かせているだけの接ぎ木の梅のようです。
一六 ○故郷春深し行々(ゆきゆき)て又 行々(ゆきゆく)
    揚柳(やうりう)長堤道漸(やうや)くくだれり
(訳)何と故郷は春の深さの中にあることか。その春のまっただ中を歩き歩き、また歩いて行きますと、柳並木の長い堤の路となって、ようやく下り坂となります。
一七 ○矯首(けうしゆ)はじめて見る故園の家黄昏(くわうこん)
    戸に倚(よ)る白髪の人弟を抱(いだ)き我を
    待(まつ)春又春
(訳)その坂道を下りながら、首を上げるとまぎれもなく故郷の家が見えるではないか。黄昏れ時で、その故郷の家の戸口に、白髪の人が弟を抱いて、私を待っていてくれたのだ。
何時の春でも、そうして待っていてくれたのであろう。
一八 ○君不見(みずや)古人太祗が句
    薮入の寝るやひとりの親の側
(訳)あなたも知っていることでしょう。今は亡き太祗にこんな句があります。「薮入の寝るやひとりの親の側」(藪入りの子が、ひとりの親のそばで、心おきなく寝入っている。)

 「春風馬堤曲」の第四章(第四場)は、発句体の第一〇首(一〇・漢詩文調)と漢文訓読体の第一一首(一一)とから成り、第五章(第五場)は、発句体の第一二首(一二・漢詩文調)と漢文訓読体の第一三首(一三)・第一四首(一四)・第一五首(一五)とから成る。そして、最終の第六章(第六場)が、漢文訓読体の第一六首(一六)・第一七首(一七)と発句体(一八・前書きあり)とから成る。第一〇首の「捷径」は近道のこと。第一一首の「記得す」は覚えているの意。第一二首の「憐みとる」は慈しんでそっと採ること。第一三首の「懐袍」の「袍」は布子の綿入れの意。「別に春あり」は季節や衣服の春の暖かさとは別の愛情の春の暖かさがあったということ。第一四首の「財主の家」は財産のある家(お金持ち)のこと。「浪花橋」は天満と北浜とを結ぶ難波橋。第一五首の「辞す」は去るの意。第一六首の「揚柳」の「揚」はハコヤナギ、「柳」はシダレヤナギで、蕪村の描く中国風邪の山水図の景。第一七首の「矯首」は首を上げること。第一八首の「君不見(君見ズヤ)」は楽府の詩などにしばしば見られる用例という(尾形・前掲書)。

(一七)

澱河歌の現代語訳は次のとおりである。

  澱河歌三首

○春水浮梅花 南流菟合澱
 錦纜君勿解 急瀬舟如電
(春水(しゆんすい)梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
 錦纜(きんらん)君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟電(でん)ノ如シ)
(訳)春の水は梅の花を浮かべ、南へ流れ、宇治川は淀川と合流する。君、錦のともづなを解かないでください。流れの早さに舟は稲妻のように流されてしまいますから。
○菟水合澱水 交流如一身
 船中願同寝 長為浪花人
(菟水澱水ニ合シ 交流一身(いつしん)ノ如シ
 船中願ハクハ寝(しん)ヲ同(とも)ニシ 長ク浪花(なには)ノ人ト為(な)ラン)
(訳)宇治川は淀川と合流し、交わり流れ一身のようです。舟の中でも共寝をし一身になりたい。そのまま、大阪に下り、一生大阪人で暮らしたい。
○君は水上の梅のごとし花(はな)水に
 浮(うかび)て去(さる)こと急(すみや)カ也
 妾(せふ)は江頭(かうとう)の柳のごとし影(かげ)水に
 沈(しづみ)てしたがふことあたはず
(訳)君は水に浮かぶ花のようで、その花は水に浮かび、慌ただしく去っていってしまうばかりです。私は川辺の柳のように、その水上に影を投げかけ、その影は水に沈んでついてくこともできません。

 「春風馬堤曲」に比し、漢詩体二章と漢文訓読体一章の計三章とシンプルであり、その対比が著しい。しかし、両者とも女性に代わって作をしているということは共通しており、「春風馬堤曲」が淀川土堤のものであれば、「澱河歌」は文字どおり、淀川そのものの作といえよう。「菟」は宇治川、「澱」は淀川の中国風の表現。「錦纜」は錦のともづなのこと。
「春風馬堤曲」も「澱河歌」も、『夜半楽』に収載され、その目次には、「春風馬堤曲 十八首」・「澱河歌 三首」・「老鶯児 一首」の三編が並べて掲げられており、この三編をもって、一つの組詩のような構成をとっている。この最後の「老鶯児」は次の発句一句である。

○ 春もややあなうぐひすよむかし声

 この三編の組詩は、「春風馬堤曲」は十八章三十二行、「澱河歌」は三章八行、「老鶯児」は一章一行で、章数は、「春風馬堤曲」の六分の一が「澱河歌」、その三分の一が「老鶯児」、そして、行数は、「春風馬堤曲」の四分の一が「澱河歌」、その八分の一が「老鶯児」と、
十分に意図されたものであることが理解される。さらに、「春風馬堤曲」は藪入りの少女に代わってのもの、続く、「澱河歌」はその少女の成人した艶冶な女性に代わってのもの、そして、最後の「老鶯児」が、その晩年の老婦人に代わってのものと、即ち、女の一生のようなことをイメージしてのものともとれなくもないのである。

回想の蕪村(十八~二十六)

(一八)

 『夜半楽』は、安永六年(一七七七)、蕪村六十二歳の春に刊行した春興帖である。春興帖は、歳旦・歳暮の吟に限らず、当年の新春初会の作を中心に春季の句を集めて知友間に贈答するものである。『夜半楽』の「夜半」が夜半亭を意味していることはいうまでもないであろう。すなわち、『夜半楽』とは、夜半亭一門の春を言祝ぐ楽曲ということになろう。その構成は次のとおりとなる。

夜半楽

目録
歌仙    一巻
春興雑題  四十三首
春風馬堤曲 十八首
澱河歌   三首
老鶯児   一首

 この「目録」に継いで、次のような序文が記されている。

祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは
不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず)
蕉門のさびしをりは
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし)

さればこの日の俳諧は
わかわかしき吾妻の人の
口質(こうしつ)にならはんとて

 はじめの四行は序詩のような形をとり、「京都の祇園会のお囃子は秋風の風韻には調和しない。それと同じく、蕉門の寂び撓(しをり)は新春のお目出度い席では避けた方がよい」というようなことであろう。それに続けて、「だから、この日の新春の俳諧は若々しい東国の人の口調に倣っている」というのである。

(一九)

安永丁酉春 初会

歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師     蕪村  オ ※(発句) 
 脇は何者節(せち)の飯帒(はんたい)   月居  ※(脇)  
第三はたゞうち霞うち霞         月渓   ※(第三)  
 艤(ふなよそほひ)のとかくしつゝも   自笑  
こゝかしこ旅に新酒を試(こころみ)て   百池  
 十日の月の出(いで)おはしけり     鉄僧  ※(月)
纏頭(かづけもの)給ふぬきでの身の白き  田福  ウ 
 廊下の翠簾(みす)や夢のうきはし    斗文  
目ふたぎて聖の尿(くそ)を覆(おほふ)らん  子曳  
 紀の川上にくちなはのきぬ        集馬  
うの花に萩の若枝(わかえ)もうちそよぎ  三貫  
門(かど)をたゝけば隣家に声す     帯川  
着つゝなれて犬もとがめぬ裘(かはごろも) 致郷  
 貢(みつぎ)の使(つかひ)白雲に入(いる)  士恭  
谷の坊花もあるかに香に匂ふ       道立  ※(花)
 藪うぐひすの啼(なか)で来にけり    晋才  
かけ的(まと)の夕ぐれかけて春の月    正白  ※(月)  
 三本の傘は婿の定紋(ぢやうもん)    舎六   
初がつをあはや大磯けはひ坂       我即  ナオ 
 淡き薬に身をたのみたる        故郷   
暮まだき燭(しよく)の光をかこつらし   嬰夫   
 竹をめぐれば行尽(ゆきつく)す道     舎員
新田に不思儀や水の涌出(ゆしゆつ)して   菊尹
 儒医(じゆい)時に記す孝子の伝(つたへ) 賀瑞
かりそめの小くらのはかま二十年     呑獅
 往来(ゆきき)まれなる関をもりつゝ   呑周
餅買(かふ)て猿も栖(すみか)に帰るらん   柳女
 錫(しやく)と ゞまれば鉢が飛出る    延年
暁の月かくやくとあられ降(ふる)     維駒 ※(月)
 金山ちかき霜の白浪          樵風
つくづくと見れば真壁の平四郎      東瓦 ナウ
 酒屋に腰を掛川の宿(しゆく)      左雀
空高く怒れる蜂の飛去(しびさり)て    乙総
 岡部の畠けふもうつ見ゆ        霞夫
花の頃三秀院に浪花人          几董 ※(花)
 都を友に住(すみ)よしの春       大魯  ※(挙句)  

 この歌仙(三十六句からなる連句)が一同に会してのものなのか、それとも、回状を回して成ったものなのかどうかは定かではないが、おそらく後者によるものと思われる。この歌仙は、一人一句で、三十六人がその連衆で、夜半亭一門の代表的俳人の三十六歌仙(三十六人の傑出した俳人)という趣である。発句は夜半亭一門の宗匠、夜半亭二世・与謝蕪村で、「歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師」(歳旦の句を快心の作とばかり得意顔の俳諧師である)と、新年祝賀の句を、若き日の東国に居た頃の宰鳥になった積りでの作句と得意満面の蕪村その人の自画像の句であろう。脇句の江森月居が蕪村門に入門したのは安永五年(一七七六)年の頃で、入門早々で脇句を担当したこととなる。当時、二十二歳の頃であろう。続く、第三の松村月渓は、月居よりも四歳年長で、呉春の号で知られている、蕪村の画・俳二道のよき後継者であった。この二人がこの歌仙を巻く蕪村の手足となっているように思われる。この歌仙の挙句を担当した吉分大魯は、夜半亭三世を継ぐ高井几董と、夜半亭門の双璧の一人で、この安永六年当時は京都の地を離れ大阪に移住していた頃であろう。この挙句の前の花の句(匂いの花)を担当したのは、几董で蕪村よりも二十四歳も年下ではあるが、蕪村はこの几董が夜半亭三世を継ぐということを条件として、夜半亭二世を継ぐのであった。もう一つの花の座(枝折りの花)を担当した樋口道立は、川越藩松平大和守の京留守居役の樋口家を継いだ名門の出で、当時、夜半亭一門で重きをなしていた。また、月の座を担当した、鉄僧(医師)、正白(後に正巴)、黒柳維駒(父は蕪村門の漢詩人でもある蕪村の良き理解者であった召波)と、この歌仙に名を連ねている連衆は、夜半亭一門の代表的な俳人といってよいのであろう。そして、それは、京都を中心として、大坂・伏見・池田・伊丹・兵庫と次の春興に出てくる夜半亭一門の俳人の世話役ともいうべき方々という趣なのである。

(二十)

春興
うぐひすにうかれ烏のうき世哉         道立
汀より月を動かす蛙(かはづ)かな         正白
もろこしの一里も遠き霞かな           田福
寝んとしては寝ずも居るや春の雨         維駒

墨の香や此(この)梅の奥誰が家       浪花 霞東
春風や縄手過(すぎ)行(ゆく)傀儡師     ゝ  志慶

あたゝかい筈の彼岸の頭巾かな         月居
剰(あまつさへ)松に隣れる柳かな         集馬
雪霜の古兵(ふるつはもの)よ梅の花       自笑

寺に寝て起(おき)おき梅の匂(にほひ)かな  浪花 正名

春雨や隣つからの小豆飯          ゝ 銀獅

遠里に人声こもるかすみかな        ゝ 延年

彳(たたず)めば誰か袖引やみの梅   但出石 乙総
うぐひすや声引(ひき)のばす舌の先    ゝ 霞夫

神風の春かぜさそふ夜明かな          呑獅
蝶々や衛士の箒にとまりけり          呑周
凧引(ひく)や夕がすみたつ処々        声々
うぐひすや茶臼の傍にしゆろ箒         徳野
鶯や折よく簀戸(すど)の明はなし       文革
うぐひすに枕かへすや朝まだき         舞閣
黄鳥(うぐひす)や樹々も色吹(ふく) 真葛原 管鳥
芹喰(くひ)に鶴のをり来る野川哉       春爾

里や春梅の夕と 成(なり)にけり   敏馬浦 士川
夕凪や柳が下の二日月          ゝ  佳則

植木屋の連翹更に黄なる哉           斗文
路斜(ななめ)野ずゑの寺や夕霞        菊尹
梅さくや陶(すゑもの)つくる老が業      舎員
青柳や野ごしの壁の見へがくれ         嬰夫
畠ある屋しき買(かひ)たり梅の花       子曳
二日聞(きき)てうぐひすに今は遠ざかる    柳女
日数経てやゝ痩梅の花咲(さき)ぬ       賀瑞
 一株の梅うつし植てあらたに春を迎ふ 
けさ梅の白きに春を見付(つけ)たり      鉄僧

深屮(くさ)の梅の月夜や竹の闇        月渓
連翹の花ちるや蘭の葉がくれに         晋才

たへず匂ふ梅又もとの香にあらず        旧国

舟遅きおぼろ月也江の南            九湖
比枝下りて西坂本の梅の花           亀郷
培(つちかひ)し樹々の雫や春の雨       万容
梅咲て何やらものをわすれけり         白砧

草臥(くたびれ)てもどる山路の雉子の声  伊丹 東瓦
 尾刕(びしう)の客舎にて
茶売去(さり)て酒売来たり梅の花       百池
黄昏や梅がゝを待(まつ)窗(まど)の人    大魯
白梅や吹(ふか)れ馴(なれ)たる朝嵐     几董   

 夜半亭一門の四十三人の春興の句である。前年の安永五年(一七七六)に、道立の発企により、洛東金福寺内に芭蕉庵を再興して、「写経社会」を結成している。この写経社会の中心人物の道立の句を冒頭にして、その締め括りは、大魯・几董という夜半亭門の双璧の二人の句をもってきている。ここに登場する四十三人衆は夜半亭俳諧の頂点を極めた当時の豪華メンバーと解して差し支えなかろう。この後に、「春風馬堤曲」(十八首)、「澱河歌」(三首)そして「老鶯児」(一首)と続くのである。

(二十一)

 次に続く「春風馬堤曲」については、年次不明二月二十三日付けの柳女・賀瑞宛て蕪村書簡で、この詩を書いた消息を今に残している。

さてもさむき春にて御座候。いかゞ御暮被成候や、御ゆかしき奉存候。しかれば春興小冊漸出板に付、早速御めにかけ申候。外へも乍御面倒早々御達被下度候。延引に及候故、片時はやく御届可被下候。

(訳)さてさて寒い春でございます。いかがお過ごしでございましょうか、お尋ねをする次第です。さて、春興帖小冊、ようやく出版の運びとなりましたので、早速お目にかける次第です。外の方々へもご面倒をおかけしますが早々にお渡しを頂きたく存じます。延引になっておりましたので、片ときも早くお届け頂ければと存じます。

 この柳女・賀瑞は伏見の蕪村門人で、先の歌仙や春興の句にその名が出てくる。そしてこの「春興小冊」こそ、『夜半楽』にほかならない。そして、この『夜半楽』の実際の発行日は二月二十日過ぎで、予定よりも遅れての出版であることが了知されるのである。この年の一月晦日(三十日)付け霞夫宛ての書簡もあり、そこでは、「春帖近日出し早々相下可申候」との文面もあり、蕪村は予定より遅れての出版を気にしていたのであろう。この霞夫宛ての書簡は、「水にちりて花なくなりぬ崖の梅」に関連するもので、当時六十歳を超えた蕪村にとっては、親しい太祗や召波、さらには、絵画のよきライバルであった池大雅を失って、ことのほか老残の思いにかられていたということも察知されるのである。また、それらの親しい人の別れとともに、その前年に、一人娘を嫁がせたみことなどの淋しさをかこっていた書簡なども今に残されているのである。

(二十二)

一 春風馬堤曲 馬堤ハ毛馬塘(つつみ)也。則余が故園也。
余、幼童之時、春日清和の日ニハ、必(かならず)友どちと此堤上にのぼりて遊び候。水ニハ上下ノ船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ。其中ニハ、田舎娘の浪花ニ奉公して、かしこく浪花の時勢(はやり)粧(すがた)に倣(なら)ひ、髪すたちも妓家(ぎか)の風情をまなび、□伝しげ太夫の心中のうき名をうらやみ、故郷の兄弟を恥(はぢ)いやしむもの有(あり)。されども、流石(さすが)故園ノ情に不堪(たへず)、偶(たまたま)親里に帰省するあだ者成(なる)べし。浪花を出てより親里迄の道行にて、引(ひき)道具ノ狂言、座元夜半亭と御笑ひ可被下候。実ハ愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出(いで)たる実情ニて候。
(訳)一 春風馬堤曲 馬堤は毛馬堤です。すなわち、私の故郷です。私が幼童の頃、春日清和の日には、必ず友達とこの堤に登って遊んだものです。水上には上下に往来する船があり、堤には往来する旅人がありました。その中には、田舎娘で、浪花に奉公に出て、健気にも浪花の流行の風姿を真似て、髪かたちも妓楼の風情そのもので、また、繁太夫節の心中物の浮名を羨んだりして、故郷の田舎くさい兄弟を恥じて蔑む者もおりました。けれども、さすがに望郷の念にかられてのことなのか、故郷に帰省する粋な女性でありましょうか、そんな女性にたまたま遭遇したのです。この春風馬堤曲はそんな浪花を出て故郷に帰る迄の道行を述べたものでして、引き道具の狂言、座元夜半亭とお笑いください。実を言えば、これは愚老の懐旧の念のやるかたなき心の奥底から呻き出たところの実情なのです。

 この書簡で、「馬堤ハ毛馬塘(つつみ)也。則余が故園也」と、蕪村の故園(故郷)は毛馬村であることを蕪村自身はっきりと記録に残しているのである。蕪村の出生地について、摂津の天王寺村とか丹後の与謝とかもいわれているが、この書簡からして摂津国東成郡毛馬村と解して差し支えなかろう。そして、このことは、初期の絵画の「浪華長堤四明」とも一致し、蕪村の胸中には、この「春風馬堤曲」の長堤が常に存在していたということは特記しておく必要があろう。さらに、書簡中の「□伝しげ太夫」の「□」は虫食いで、ここを「正」の「正伝」としたり「阿」として「阿伝」(尾形仂)としたり解されているが、「しげ太夫」は、豊後節の「繁太夫節」であることは異論がなかろう。その繁太夫節は「おさん・茂兵衛 道行」とか心中物を得意として(尾形・前掲書)、それらが背景になっていると解したい。そういう背景にあって、「引(ひき)道具ノ狂言、座元夜半亭と御笑ひ可被下候」と、すなわち、「回り舞台の狂言の座元(興行主)こそ夜半亭蕪村」と、「春風馬堤曲」の真相を蕪村自身がはっきりと記録に残していることも、これまた、特記しておく必要があろう。

(二十三)

 さて、この「春風馬堤曲」について、『蕪村の手紙』(村松友次著)の「春風馬堤曲源流考」(補説三)で、次のように記述している。

※「春風馬堤曲」は「北風老仙をいたむ」と共に日本文学史上特筆すべき異色の名作である。このような斬新な詩形の創出はまさに蕪村の天才によるところであるが、全く無から生じたのではなかろう。それではこれに先行するものが何であったか。すでに「北寿老仙をいたむの項(註・補説一)で触れたが、潁原退蔵は支考に源を発する仮名詩の流れを考え、蕪村の青年時代、江戸俳人の間に流行していた小唄、端唄に類したような一種の韻文の存在を指摘する(註・この潁原退蔵の「春風馬堤曲源流考」については先に全文紹介している)。しかし一見類似しているようであるが、読者の心を打つ詩情の直截さ純粋さにおいて蕪村の作は江戸俳人の諸作とは全く異質と言ってよいほどすぐれている。これらの作よりももっと近い影響をもつ文学作品はなかったか。清水孝之は服部南郭の『朝来詞(ちょうらいし)』(いたこことば)と、荻生徂徠の『絶句解』(享保十七序、延享三・宝暦十三版あり)の中の「江南楽八首」(徐禎卿作)を指摘する(鑑賞日本古典文学『蕪村・一茶』および、新潮日本古典集成『与謝蕪村集』)。

 この荻生徂徠の『絶句解』(享保十七序、延享三・宝暦十三版あり)の中の「江南楽八首」(徐禎卿作)の影響(蕪村の「春風馬堤曲」などへの影響)はやはり注目すべきものの一つであろう。

(二十四)

江南楽八首。代内作(江南楽八首。内に代りて作る)

成長して江南に在り 江北に住することを愛せず
家は閶門(しやうもん)の西に在り 門は双柳樹を垂る
陽春二月の時 桃李(とうり)花参差(しんし)
言(こと)を寄す諸姉妹 悪風をして吹(ふ)か遣(しむ)ること莫(なか)れ
郷に環(かへ)る信に自ら楽し 近くして望み転於(うたたを)邑(いふ)す
阿母、児が帰るを見ば 定て自ら儂(わ)れを持して泣(なか)ん
野鳧(やふ)、雛を生ずる時 乃(すなは)ち河沚(かし)の中に在り
憐(あはれ)む可(べ)し羽翼を生じて 各自菰叢(こそう)を恋ふることを
橘(きつ)、江上の洲(す)に生ず 江を過(すぐ)れば化して枳(き)と為る
情性、本と殊(こと)なるに非ず 風土相似ず
人は言ふ江南薄しと 江南信に自ら楽し
桑を采(とり)て蚕糸を作(な)す 羅綺儂(わ)が着るに任す
郎と水程を計るに 三月定て家に到らん
庭中の赤芍薬 爛漫として斉(ひとし)く花を作(なさ)ん
江南道理長し 荊襄(けいじやう)何れの処にか在る
郎が昨夜の語を聞くに 五月瀟湘(せうしやう)に去(さら)ん

 この徐禎卿の「江南楽八首代内作」について、荻生徂徠は次のように解説をしているという(村松・前掲書)。

江南楽……曲ノ名。西曲ニ江陵楽、寿陽楽有リ。後人之ニ擬シテ設ク。
代内…… 其ノ妻ヲ謂フ。
 八首須(スベカラ)ク連続スベシ。意思断続。方(マサ)ニ妙ヲ見ル。

(二十五)

 この荻生徂徠の、徐禎卿の「江南楽八首代内作」についての解説の、「八首須(スベカラ)ク連続スベシ。意思断続。方(マサ)ニ妙ヲ見ル」ということは、まさに、蕪村の「春風馬堤曲」の「十八首須(スベカラ)ク連続スベシ。意思断続。方(マサ)ニ妙ヲ見ル」と置き換えても差し支えないほど、「春風馬堤曲」の本質を言い当てている指摘といえよう。
また、
「江南楽」の「代内作」(内に代りて作る)は、「春風馬堤曲」の「代女述意」(女(じよ)ニ代ハリテ意ヲ述ブ)に、
「江南楽」の「家は閶門(しやうもん)の西に在り 門は双柳樹を垂る」は、
「春風馬堤曲」の「梅は白し浪花橋辺(けうへん)財主の家」に、
「江南楽」の「郷に環(かへ)る信に自ら楽し 近くして望み転於(うたたを)邑(いふ)す」・「阿母、児が帰るを見ば 定て自ら儂(わ)れを持して泣(なか)ん」は、
「春風馬堤曲」の「むかしむかししきりにおもふ慈母の恩」・「慈母の懐袍(くわいほう)別に春あり」・「矯首(けうしゆ)はじめて見る故園の家黄昏(くわうこん)」・「戸に倚(よ)る白髪の人弟を抱(いだ)き我を待(まつ)春又春」に、
「江南楽」の「野鳧(やふ)、雛を生ずる時 乃(すなは)ち河沚(かし)の中に在り」・「憐(あはれ)む可(べ)し羽翼を生じて 各自菰叢(こそう)を恋ふることを」は、
「春風馬堤曲」の「雛ヲ呼ブ籬外(りぐわい)ノ鶏 籬外草(くさ)地ニ満ツ」・「雛飛ビテ籬(かき)ヲ越エント欲ス 籬高ウシテ堕(お)ツルコト三四」に、
「江南楽」の「橘(きつ)、江上の洲(す)に生ず 江を過(すぐ)れば化して枳(き)と為る」・「情性、本と殊(こと)なるに非ず 風土相似ず」は、
「春風馬堤曲」の「春情まなび得たり浪花風流(ぶり)」・「本(もと)をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅」に、
「江南楽」の「江南道理長し」は、
「春風馬堤曲」の「春風や堤長うして家遠し」に、
等々、それぞれの「内容」・「語句」・「気分」などの上で多くの類似点を見出すことができるのである(村松・前掲書)。
 さらに、荻生徂徠の『絶句解』では、この「江南楽」に続いて、「隴頭流水ノ歌」(子を失った女の心を作者が代わって詠んだ……代内作……)の詩が続き、これは、「春風馬堤曲」の後に「澱河歌」を続けている蕪村のそれと、まさに、その配列を同じくしているという(松村前掲書)。また、徂徠の『絶句解』に見られる「衛河八絶」(王世貞作)は、服部南郭の『潮来詞』に影響を及ぼし、その南郭の『潮来詞』が、蕪村の「春風馬堤曲」に影響を及ぼしているだけではなく(清水・前掲書)、この「衛河八絶」は、ストレートとに、蕪村の「春風馬堤曲」に影響を及ぼしているという見方もある(村松・前掲書)。いずれにしろ、蕪村が、『夜半楽』、そして、その「春風馬堤曲」・「澱河歌」を創作した背後には、荻生徂徠の『絶句解』が、常に、蕪村の座右にあったことだけは想像に難くない(村松・前掲書)。

(二十六)

 蕪村が荻生徂徠に傾倒したことについては、先に、「若き日の蕪村」で触れた。

http://yahantei.blogspot.com/2006/07/blog-post_115354603992727424.html

 それは、蕪村が二十歳前後で江戸に出てくる以前の青少年の頃から、そして、この「春風馬堤曲」を執筆する六十歳過ぎての老年期に到るまで、終始、蕪村に大きな影響を与え続けたということは容易に想像できるところのものである。その影響の最たるものは、先に触れた、『蕪村 画俳二道』(瀬木慎一著)の「荻生徂徠の影響」の、次のようなことであった。

○徂徠の学問的立場は、通常「古文辞学」と呼ばれれているように、明の文学における「古文辞」に先例を求めたものであるが、それが単なる復古運動にとどまるものでなかったことは吉川幸次郎の説明によって了解される。
「……精神のもっとも直接的な反映は、言語であるとする思想である。したがって精神の理解は、言語と密着してなすことによってのみ、果たされるとする思想である。」
そこで古典を読むばかりでなく、自分も古典の言葉で書き、考え、そしてその精神を把握することをめざしたわけである。その結果明らかになることは、儒者共の説く人為的な道徳律の虚妄さであり、それを排除するとき「理は定準なきなり」という世界観に到達する。つまり、世界は多様性において成り立っているのであり、そこに生きる人間の個々の機能を尊重するという考え方である。「人はみな聖人たるべし」という宋学の命題とは正反対に、徂徠は、「聖人は学びて至るべからず」という方向を提示し、人が個性に生き、学問によって、自己の気質を充実させ、個性を涵養しうる可能性を強調している。

 この「古典を読むばかりでなく、自分も古典の言葉で書き、考え、そしてその精神を把握する」という徂徠の姿勢を、蕪村ほど生涯にわたって実践し続けた俳人にして画人は殆ど希有であるといっても過言ではなかろう。そして、この「春風馬堤曲」そのものが、その徂徠の『絶句解』所収の「自分も古典(「江南楽八首」(徐禎卿作)など)の言葉で書き、考え、そして、その精神を把握した」、その結果の類い希なる異色の俳詩という創造の世界にほかならない。

回想の蕪村(四・四十一~四十九)

回想の蕪村(四)

(四十一)

 蕪村の『夜半楽』の「春風馬堤曲」の冒頭に、下記のとおり、「謝蕪邨」との署名が見られる。

※春風馬堤曲
             謝蕪邨

  余一日問耆老於故園。渡澱水
  過 馬堤。偶逢女帰省郷者。先
  後行数里。相顧語。容姿嬋娟。
  癡情可憐。因製歌曲十八首。
  代女述意。題曰春風馬堤曲。
 (余一日(いちじつ)耆老(きらう)ヲ故園ニ問フ。澱水(でんすい)ヲ渡リ
  馬堤ヲ過グ。偶(たまたま)女(じよ)ノ郷ニ帰省スル者ニ逢フ。先
  後シテ行クコト数里、相顧ミテ語ル。容姿嬋娟(せんけん)トシテ
  癡情(ちじやう)憐(あはれ)ムベシ。因リテ歌曲十八首ヲ製シ、
  女(じよ)ニ代ハリテ意ヲ述ブ。題シテ春風馬堤曲ト曰フ。)

 そして、『夜半楽』の奥書に、「門人 宰鳥校」との署名が見られる。この署名に関して、先に、次のことについて紹介した。

※『夜半楽』板行を思い立った六十二歳翁蕪村の胸中には、彼が俳人としての初一歩をしるした日の師と同齢に達した感慨がつよく働いている。春興帖は、その心をこめて亡師巴人に捧げられたものであろう。『門人宰鳥校』として宰町としなかったのは、元文四年の冬にはすでに宰鳥号に改め、宰町はいわばかりの号に過ぎなかったのである」(安東次男著『与謝蕪村』)との評がなされてくる。すなわち、上記の『夜半楽』(序)の「吾妻の人」とは、夜半亭一世宋阿(早野巴人)その人というのである(その関係で、奥書の「門人 宰鳥校」を理解し、この「門人」は、「夜半亭一世宋阿門人」と解するのである)。

 これらのことについては、寛保四年(一七四四)の蕪村の初撰集『宇都宮歳旦帖』の「渓霜蕪村輯」の署名でするならば、この安永六年(一七七七)の蕪村の春興帖の『夜半楽』の署名は「夜半亭蕪村輯」とでもなるところのものであろう。それを何故、「門人 宰鳥校」としたのか、確かに、上記のとおり、「夜半亭宋阿門人」という理解も一つの理解であろう。
しかし、「門人 宰鳥校」の「校」が気にかかるのである。「校」とは「校合」(写本や印刷物などで、本文などの異同を、基準とする本や原稿と照らし合せること)とか「校訂」(古書などの本文を、他の伝本と比べ合せ、手を入れて正すこと)とかのの意味合いのものであろう。「門人 宰鳥撰」とか「門人 宰鳥輯」の、「編集」を意味する「撰」とか「輯」とかとは、やはり一線を画してのものなのであろう。それを遜っての表現ととれなくもないが、この『夜半楽』には、夜半亭一世・宋阿(巴人)の名はどこにも見られず、唐突に、この奥書に来て、この序文の「吾妻の人」を宋阿その人と理解して、「宋阿門人」と理解するには、やや、無理があるようにも思えるのである。ここは、『夜半楽』所収の異色の三部作の「春風馬堤曲」(署名・謝蕪邨)・「澱河歌」(署名なし)・「老鶯児」(署名なし)の、その「謝蕪邨」(この「引き道具」の狂言の座元・作者である「与謝蕪村」を中国名風に擬したもの)を受けて、「吾妻の人」風に「洒落風」に、「(謝蕪邨)門人 宰鳥校」と、蕪村自身が号を使い分けしながら、いわば、一人二役をしてのものと理解をしたいのである。 そもそも、蕪村の若き日の号の「宰町」(巴人門に入門した頃の「夜半亭」のあった「日本橋石町」の「町」を主宰する)を「宰鳥」(「宰鳥」から「蕪村」の改号の転機となった『宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の「鶯」の句に関連しての「鳥・鶯」を主宰する)へと改号したことは、当時の居所の「日本橋石町」から師巴人に連なる其角・嵐雪の師の芭蕉が句材として余りその成功例を見ないところの「鳥・鶯」への関心事の移動のようにも思えるのである。それと同時に、この安永六年の『夜半楽』の巻軸の句に相当する「老鶯児」の理解には、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の、その蕪村の号を初めて使用したところの「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の句と、それ以後の、歳旦帖・春興帖を編むときに、必ず登場してくるところの「鳥・鶯」の句と、同一線上のものと理解をしたいのである。そして、そう解することによって、始めて、この『夜半楽』の「老鶯児」の句の意味と、蕪村の絶吟の、「冬鶯むかし王維が垣根哉」・「うぐひすや何こそつかす藪の霜」・「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」の、この三句の意味合いが鮮明になってくると、そのように理解をしたいのである。

(四十二)

 そもそも、この『夜半楽』は安永六年(一七七七)の夜半亭二世・与謝蕪村の「春興帖」
である。それが故に、その他の蕪村の「歳旦帖」・「春興帖」との関連で見てきた。しかし、それだけでは足りず、より正しい理解のためには、当時の俳壇における「歳旦帖」・「春興帖」との関連で見ていく必要があろう。このような見地での基調な文献として、『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)所収の幾多の論稿がある。ここで、それらのことについて、その要点となるようなことについて、紹介をしておきたい。

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その一)

○ここで蕪村一門の春帖と呼ぶ時、その対象には、蕪村編のもの(『明和辛卯春』『安永三年蕪村春興帖』『安永四年夜半亭歳旦』『夜半楽』『花鳥篇』)、几董編のもの(安永五年『初懐紙』、安永九年『初懐紙』、安永十年『初懐紙』、『壬寅初懐紙』『初卯初懐紙』『甲辰初懐紙』、天明五年『初懐紙』、天明六年『初懐紙』、天明七年『初懐紙』、寛政元年『初懐紙』)、呂蛤編のもの(寛政三年『はつすゞり』他)、紫暁編のもの(寛政五年『あけぼの草子』他)などと、多くの俳書が含まれることになろう。さらに説明を加えるなら、蕪村編の春帖には、この他にも寛保四年(一七四四)に宇都宮で刊行した歳旦帖があるし、また伝存は不明ながら、『紫狐庵聯句集』には「明和辛卯春」「安永発巳」と題した三ツ物や春興歌仙が記録されており、空白の二年の刊行についても刊行が察せられる。また几董編の春帖についても、天明七年の『初懐紙』で几董が、「としどしかはらぬ初懐紙をもよほす事、かぞふれば十余リ五とせになりぬ。其いとぐちより繰返し見れば……」と回顧して、発巳(安永二年)から丁未(天明七年)に至る各年の巻頭発句を列挙するように、今日未確認の『初懐紙』が、安永二・三・四・六・七・八の各年にも刊行されたことが知られる。しかしここでは、伝存の有無にかかわらずその多くを措き、時を蕪村在世中の一時期に絞り、主として『明和辛卯春』と安永五年『初懐紙』の二書をとりあげる。
※ここに紹介されている明和八年(一七七一)に刊行した蕪村編の『明和辛卯春』については先に触れた。この春興帖は、明和七年に亡師巴人の夜半亭を襲号した蕪村が、その襲号の披露を兼ねて、広く夜半亭一門の俳諧を世に問うたもので、夜半亭二世・蕪村の代表的な春興帖である。そして、夜半亭二世・蕪村に継いで夜半亭三世となる几董が、蕪村存命中に、安永六年の『夜半楽』刊行一年前に刊行した春興帖が、安永五年『初懐紙』で、この両者の春興帖としての比較検討が、この「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」の骨子なのである。

(四十三)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その二)

○まず『明和辛卯春』から検討を始めよう。(中略) 現存の弧本は原表紙を欠き、書名は内題「明和辛卯春 / 歳旦」による仮称である。横本一冊。表紙の他にも欠損の丁が多いが、元来は本文全十四丁であった。一見して気付くのは、蕪村板下による書体の風格と匡郭および各行を画する罫の緑色の鮮やかさ(今は退色しているが)である。相俟って壮麗の感を与える。次にその内容をつくと、まず一丁目表は先の内題に続いて、蕪村・召波・子曳による三ツ物一組、一丁目裏は同じ三人による三ツ物二組を収める。(中略) 今これを仮に三ツ物三組形式と呼ぶことにする。この三ツ物三組に続く二丁目以下は、同門あるいは他門の歳旦・歳暮の発句を主とし、その発句群に交えて都合二巻の歌仙が収録されている。すなわち、三丁目裏から始まる「鳥遠く……」の一巻、十二丁目裏から始まる「風鳥の……」の一巻で、巻頭と巻尾の近くに配するが、決して巻頭でも巻尾でもない。(後略)
※この蕪村の『明和辛卯春』は「都市系歳旦帖」(其角・巴人に連なる江戸座などの都市系蕉門の流れによる春興帖)に属するとされるのだが(後述)、ここで、注目すべきことがらは、この春興帖に収録されている二巻の歌仙が、共に、「鳥」を句材としての発句ということなのである。その発句・脇・第三を例示すると次のとおりである。
(春興)
発句 鳥遠く日に日に高し春の水        子曳
脇   人やすみれの一すじ(ぢ)の道     蕪村
第三 紅毛の珍陀葡萄酒ぬるみ来て       太祗
(春興可仙)
発句 風鳥の喰ラひこぼすや梅の風       蕪村
脇   名もなき虫の光る陽炎         田福
第三 明キのかたわするゝ斗(ばかり)春たけて 斗文
 さらに、蕪村は、この『明和辛卯春』で立机を宣言するかのように「夜半亭」の号で次の「鶯」の句を公示している。
(洛東の大悲閣にのぼる)
    鶯を雀歟(か)と見しそれも春    夜半亭
(春興追加)
    鶯の粗相がましき初音かな      夜半亭 
 これらのことは、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の「三ツ物」七組で始まり、その卷軸の蕪村の号の初出の「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」とこの『明和辛卯春』の六年後に刊行する『夜半楽』の「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」と同一線上にあることを、蕪村は明確に公示していると思われるのである。

(四十四)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その三)

○続いて、安永五年(一七七六)『初懐紙』(略)に目を移してみよう。まず半紙本(一冊)という判型が『明和辛卯春』に対照的で、薄茶色の表紙の披いても十七丁の本文には匡郭や罫を見ず、版面の著しい相違にまた驚くのである。同様なことは内容にもあって、巻頭は勿論、書中どこにも三ツ物を見出すことはできない。すなわち、この書の巻頭には一丁分の序があり、続いて端作備わる歌仙(後半を略した半歌仙)を掲げる。端作は「安永五丙申春正月十一日於春夜楼興行」と記し、歌仙は几董の発句に始まり、脇以下を連衆が一句ずつ詠んで一巡するもの。そして歌仙の後には「各詠」と標題されて、連衆の各人一句を列ねた一群の発句が配置されている。言うまでもなく、これは由緒正しい俳諧興行の開式に則るものなのである。各詠発句の後には「其引」と標題した蕪村等(右歌仙に欠座)の発句が並ぶが、『明和辛卯春』では、この「其引」の発句は三ツ物三組の直後に並んでいた。このことから察しても、几董が、正式興行の歌仙と各詠発句を巻頭に配し、これを三ツ物三組に代えたことは疑えないだろう。(中略) このように『明和辛卯春』と安永五年『初懐紙』を比較してみると、俳書の性格において、両書がきわめて鋭い対照を示すことに気付かざるを得ない。すなわち、それは①判型、②匡郭と罫の有無、③巻頭形式(三ツ物三組と正式俳諧興行)、④句の性格(歳旦・歳暮句と春・冬句)、⑤連句の扱い(重視の程度)の五点において、著しく異なっているのである。(後略)
※この「一『明和辛卯春』と『初懐紙』との隔たり」の後、「二 都市系歳旦帖の性格」(略)・「三 都市系俳壇風の『明和辛卯春』」(略)と続き、続く、「四 地方系蕉門色の『初懐紙』」として、次のような記述が見られる。「(前略)また歳旦帖は、長い伝統に培われて、特定俳系の特色を明瞭に示すので、編者の帰属意識をとらえるのに好都合と考えたからである。その検討り結果は右の通りであったが、ここで私は、都市系の性格を帯びた『明和辛卯春』形式の歳旦帖が安永五年(一七七六)以降刊行されず、蕪村によって全く放棄されてしまった事実を、きわめて重く見るのである」(田中・前掲書)。そして、この都市系俳壇風形式の歳旦帖に代わって、蕪村が次に編纂したものこそ、安永六年(一七七七)の『夜半楽』に他ならない。こういう、蕪村の歳旦帖・春興帖の変遷を背景として、その『夜半楽』の次の「序」を見ていくと、「形式的には従前の都市系俳壇風の春興帖形式と当時の一般的な地方蕉門色の春帖形式とを混交させながら、内容的には、より都市系俳壇風に、より自由自在に異色の俳詩などを織り交ぜ、特色ある春興帖を意図している」ということが言えよう。
※※『夜半楽』(序)
祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは
不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず)
蕉門のさびしをりは
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし)
さればこの日の俳諧は
わかわかしき吾妻の人の
口質(こうしつ)にならはんとて
(訳)京都の祇園会のお囃子は秋風の風韻には調和しない。それと同じく、蕉門の寂び撓(しをり)は新春のお目出度い席では避けた方がよい。だから、この日の新春の俳諧は若々しい東国の人の口調に倣っている。

(四十五)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その四)

○ここでようやく『初懐紙』の内容的性格に言及する段階に至った。私は先に、その編纂形式の斬新さを指摘したが、内容的性格はそれ以上に際だってユニークであった。都市系・地方系を問わず、従来の春帖に全く例を見ぬものであった。その特色というのは、集中どこにも歳旦句・歳暮句を収めぬことである。「聖節」「東君」等の題は勿論、「歳旦」「歳暮」の題も見出せぬことはすでに述べたが、題のみならず、元朝を賀し家の春を言祝ぐ類の発句を見ず、年頭の祝意は、わずかに「あらたまのとし立かへる……」という序文に託されるにすぎない。同様に、歳末の生活感情をとらえる句も見当たらぬのである。これに代わるものは、
    早春
 うぐひすや梢ほのめくあらし山    几董
 鶯に終日遠し畑の人         蕪村
といった、春の訪れを喜び春の自然を讃えるみずみずしい情感であり、またそれを表現する句であって、これが『初懐紙』の基調をなす。歳暮句に代わって「冬」の句は少々あるが、『初懐紙』も後年ほどその数を減じ、後には春句のみで編まれる年も出る。つまり『初懐紙』はもっぱら春を詠む俳書として、それも人事の春ではなく自然の春を詠む俳書として登場したのであり、特に早春の初々しい感情が重視される。(後略)
※この几董編の『初懐紙』は、蕪村編の『夜半楽』刊行一年前に刊行されたものである。この『夜半楽』を刊行する三年前の、安永三年(一七七四)の六月に、蕪村は宋阿(夜半亭巴人)三十三回忌の追善法要を営み、追善集『むかしを今』を刊行する。その『むかしを今』は、夜半亭二世蕪村と夜半亭三世となる几董との二巻の歌仙を収めている。それは、宋阿の句を発句とする脇起こし歌仙で、その発句・脇・三十五句目(挙句前の花の句)を例示すると次の通りである。

発句   啼(なき)ながら川越す蝉の日影哉      宋阿居士
脇      行人少(まれ)にところてん見世(みせ) 蕪村
三十五  宋阿仏匂ひのこりて花の雲          几董

発句   啼(なき)ながら川越す蝉の日影哉      宋阿居士
脇      蚋(ぶと)に香たく艸(くさ)の上風   几董
三十五  雲に花普化(ふけ)玄峯に宋阿居士      蕪村

 この蕪村の三十五句目の「普化」は其角、そして、「玄峯」は嵐雪のことである。すなわち、蕪村も几董も、其角・嵐雪、そして宋阿に連なる都市系蕉門に属しているという公示でもある。この二人はその都市系蕉門の中心的俳人の其角崇拝では人後に落ちなかった。蕪村は、其角の『花摘』に倣い『新花摘』を刊行し、几董は、其角の『雑談集』に倣い『新雑談集』を刊行し、其角の「晋子」の号に模して「晋明」の号をも称している。しかし、几董の春帖(歳旦帖・春興帖)の『初懐紙』には、其角・嵐雪・宋阿、そして、蕪村のそれとは違った編纂スタイルをとっているのである。それも、一重に、歳旦帖・春興帖の時代史的な変遷であるとともに、都市系俳壇と地方系俳壇との融合、そして、それがまた、蕪村らの「蕉風復興運動」の文学史的意義であったのだという(田中・前掲書・「蕉風復興運動の二潮流」)。このような大きな流れを背景にして、始めて、蕪村の「諸流を尽シてこれを一嚢中に貯へ」(『春泥句集』序)という意義が鮮明となってくる。ともあれ、蕪村在世中の安永五年の、夜半亭三世となる几董の『初懐紙』の中において、上記の「早春」と題する「鶯」の句を、蕪村と几董とが肩を並べて作句していることが、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の、その蕪村の号を初めて使用したところの「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の句と、それ以後の、歳旦帖・春興帖を編むときに、必ず登場してくるところの「鳥・鶯」の句、そして、安永六年の『夜半楽』の「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」の句と、さらには、蕪村の絶吟の、「冬鶯むかし王維が垣根哉」・「うぐひすや何こそつかす藪の霜」・「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」の句と、またしても交差してくるのである。

(四十六)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その五)

○(前略)『初懐紙』の編纂刊行を几董に任せた蕪村は、安永五年には自編の春帖を持たない。煩わしさも減じたが、一方では、『初懐紙』が地方系蕉門風に傾くのあまり、蕪村にとって飽き足らぬ思いも残った。そこで蕪村が、半ば興じ半ば真剣に、自らの趣味を充分盛り込んで編んだ春興帖が、安永六年(一七七七)の『夜半楽』だったと思われる。したがって同書は、『初懐紙』をモデルとしながら(半紙本一冊。〔序に代わる題辞→春興発句群→巻末の歌仙に代わる仮名詩三編〕という内容構成)、『初懐紙』の世界から『明和辛卯春』の方向に半歩後退し、都市俳諧的趣向性を横溢させながら、しかもなお豊に春景を描き出すものとなる。後退して、かえってそこに独自の作品世界を作り上げ得たのである。それは几董的ではなく、まさに蕪村的な春興集であった。たとえば、巻頭にすえられた歌仙の奇妙な冒頭部、

  歳旦はしたり皃(がほ)なる俳諧師     蕪村
   脇は何者節の飯帒(はんたい)      月居
  第三はたゞうち霞みうち霞み        月渓

をどう解すべきであろうか。それぞれの句頭に「歳旦」「脇」「第三」の語を折り込む趣向には、安永四年まで三ツ物の歳旦句になじんでいた蕪村が、心の隅にかすかな抵抗を覚えながら始めて春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)を巻く、半ば照れ半ばおどけた表情さえ思い浮かぶようである。このように考えると、かの太祗の句を引く「春風馬堤曲」もまた、蕪村らしい趣向に溢れた独自の春景句、しかも郊外散策のそれであった。『明和辛卯春』などと同様に匡郭と罫を刷り込み、巻頭に「…… / わかわかしき吾妻の人の / 口質にならはんとて」と揚言して、巻尾に「門人宰鳥校」と署名する意識には、江戸俳壇で育った蕪村の、京俳壇の新動向の中で独自の道を歩まんとする自負がにじむようである。思えば『明和辛卯春』などの匡郭と罫の緑墨も、画家らしい好みとともに、江戸俳壇の寛闊を伝えるさかしらではなかったか。ともあれ夜半亭一門の春興集は、京の都市民に自然愛の俳諧を供し、同門のその後の俳風を決定づけ、俳壇に長く影響を及ぼすことになったのである。
※これまでに、いろいろな角度から蕪村の異色の俳詩を包含している『夜半楽』を見てきたが、上記の、「安永四年まで三ツ物の歳旦句になじんでいた蕪村が、心の隅にかすかな抵抗を覚えながら始めて春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)を巻く、半ば照れ半ばおどけた表情さえ思い浮かぶようである」という指摘には、全く同感である。そして、それが故に、この『夜半楽』の、巻頭の「…… / わかわかしき吾妻の人の / 口質にならはんとて」との揚言や、巻尾のおどけた調子の「門人宰鳥校」の署名も、「江戸俳壇で育った蕪村の、京俳壇の新動向の中で独自の道を歩まんとする自負がにじむようである」として、十分に頷けるところのものである。また、「春風馬堤曲」の太祗の句の引用も、「江戸俳壇で育った蕪村」を象徴するようなものとして、これまた、蕪村の真意が見えてくるような思いがするのである。その「春風馬堤曲」に続く、「澱河歌」もまた、それらの「若き日の蕪村」(わかわかしき吾妻の人)に連なる「官能的な華やぎのエロス」の「仮名書きの詩」(俳詩)として、それに続く、「老鶯児」の発句の背景と思える「老懶(ろうらん)」(老いのもの憂さ)の前提となる世界のものとして、これまた、十分に首肯できるところのものである。さらに、些事に目を通せば、上記の「春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)」の発句(蕪村)に続く脇(月居)・第三(月渓)の「月居・月渓」が、三十五句目(挙句前の花の句)の几董、挙句の大魯に比して、その、ともすると「地方系蕉門風」の「几董・大魯」に続く、その次を担う夜半亭門の若き俊秀たちであることに注目すると、これまた、蕪村の真意というのが伝わってくる思いがするのである。上記の、「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」において、ただ一つ不満なことは、この『夜半楽』の卷軸の句と思われる「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」について言及していないことなのだが、これは項を改めて触れていくことにしたい。


(四十七)

「郊外散策の流行・蕪村の『春風馬堤曲』(田中道雄稿)」

 『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)所収には「郊外散策の流行」と題する論稿があり、「蕪村の『春風馬堤曲』」という項立ての中に次のような記述がある。

○(前略)蕪村は郊行詩の盛行現象に応じながら、しかもそれを独自の形態で表現した。それこそ俳諧詩「春風馬堤曲」であった。「春風馬堤曲」の郊行詩的性格を、まず伝統的概念から確かめとどうなるか。ある人物が郊外(馬堤)を通行し、その人物が風景を受容して行く過程が描かれる。まずこれが確かめられよう。ただし人物は、詞書中のみ作者、ということになるが、道が細くて曲がることが多い。これは「路(みち)三叉(さんさ)中に捷径(せふけい)あり」「道漸(やうや)くくだれり」から察せられる。詩を詠むことがある、これは詞書中での作者の行為として出る。風景として天象・地勢・植物・家畜家禽・構築物・人はいずれも含まれよう。続いて、安永天明期郊行詩の条件を満たし得るものか。第一の作風の新しさの一として、田園描写の精細があった。「蒲公(たんぽぽ)茎短(みじかう)して乳(ちち)をあませり」の観察は秀抜、「呼雛籬外鶏……」に見る鳥類の母性活写は、「野雉一声覷(うかが)ヘドモ不見(みえず)、菜花深キ処雛ヲ引テ行ク」(『六如庵詩鈔』五五)、「野鳥雛ヲ将(ひきゐ)テ巧に沙ニ浴ス」(『北海詩鈔』三六二)に通うものがあろう。二の田園風景における人為的素材や人はどうか。茶店、老婆、客の行動、猫や鶏など豊に含まれる。三の自然に向かって昂揚する感情は、三、四首目、少女の水辺行動に喜びが溢れよう。第二の素材・用語面での新しさはどうか。一の歩行については、詞書に「先後行数理」、本文では「渓流石点々 踏石撮香芹」と若々しい跳躍姿で描かれる。二の飲食は、茶店の客の「酒銭擲三緡」がそれを暗示しよう。この客もまた野懸け、つまり郊行の人なのである。三の日は「黄昏」がこれに代わる。第三、第四を措いて第五に移ると、冒頭の「浪花(なには)を出(いで)て長柄川(ながらがは)」は都市から郊外への方向性を明示し、作の前半は、都市あるいは世事からの解放の喜びを含む。そして馬堤は「本(もと)をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅」と、二項的把握に立って離郷を嘆く場ともなる。このように見て来ると、本作は、安永天明期郊行詩の条件をもほとんど具備していることになる。なお、『詩語砕金』の「春日郊行」項には「傍堤ツツミニツイテ」とあり、安永中と覚しき百池・几董の三ツ物に「馬堤吟行」の題を見る。本作の郊行詩的性格は、蕪村自らの意図によるのである。(中略) それにしても、郊行詩が詩人たちに清新な感情で迎えられる潮流、”郊外”という新しい場の成立、このことを抜きにして果たしてこの作品は成ったろうか。春日郊行の俳諧は、蕪村の「春風馬堤曲」に極まるのである。
※上記の「郊行詩的性格を伝統的概念から確かめる」の「伝統的概念」というのは、明代の作詩辞典の『円機活法』を指している。その伝統的な「郊行詩」の概念は、一「ある人物(通常作者)の郊行通行という行動を基本に据え」、二「場である郊外は、平野または村落から成り、道は細く曲がることが多い」、三「通行手段は、徒歩・馬・輿」、四「風景は、自然的素材としての天象、人為的素材としての農地・作物・家畜家禽・構築物など」となり、この作詩辞典の『円機活法』や詩語集の『詩語砕金』の「春日郊行」などが、蕪村の「春風馬堤曲」に大きく影響しているというのである。これまで、この「回想の蕪村」のスタートの時点において、「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵稿)を見てきたが、それに、この天明・安永期の「郊外散策の流行」・「郊行詩の盛行」ということを付記する必要があるということなのであろう。すなわち、唐突に、蕪村の異色の俳詩「春風馬堤曲」は誕生したのではなく、当時の漢詩の流行、そして、その影響下における俳諧の流行を背景にして、生まれるべくして、生まれてきた、換言するならば、「春日郊行の俳諧は、蕪村の『春風馬堤曲』に極まるのである」ということなのであろう。
なお、『円機活法』については、下記のアドレスなどが参考となる。

http://sousyu.hp.infoseek.co.jp/ks700/ks700.html

(四十八)

「祇園南海の詩論・影写説」・「中興諸家の場合、ことに蕪村の遠近法」(田中道雄稿)

 若き日の蕪村が、日本文人画の祖ともいわれている漢詩人・祇園南海に傾倒したことについては、先に触れた。

http://yahantei.blogspot.com/2006/07/blog-post_115354603992727424.html

 この祇園南海の詩論・影写説が、少なからず、蕪村の作句などに多くの影響を与えているのではないかとする論稿がある(『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著))。以下、簡単にそれらについて要約して紹介をしておきたい。

○(祇園)南海の影写説が一般に拡まるのは、その没後に刊行された『明詩俚評』によってであった。(中略) 捉え難い情趣(作者主体の考える美的価値)を読者に伝えるため、捉え易い景気・客体の客観的描写を創作の方法として選んだことになる。つまり情趣構成法を示したのである。作品の内なる情趣構成法を示したのである。(中略) ここで著者(註・南海)は、「表」「裏」の対義語を用い、「表」で詠物や叙景を試みる一方、「裏」に寓意を込める作例を示す。また「裏」は、色々の深い意味や感情つまり「余情」を含む部分があると言う。従って詩の解釈は「表バカリ解」して「裏ハ推シテ知ベ」きものであり、反対に「裏」の意を解すると「余情」を失うことになる。この解釈法は創作法にも応用され、詩の創作は心を凝らしてまず「表バカリ作ル」こととなる。(「祇園南海の詩論・影写説」)
○『加佐里那止』(註・白雄の姿情説が説かれている明和八年刊行の著書)の論は、これまで見て来た影写説に極めてよく対応する。「姿」を「表」に「情」を「裏」に置き換えれば、そのまま影写説の理論構造に近づく 影写説は本来姿先情後論に近い理論構造を持ち、それ故に鳥酔らに迎えられたのであろう。ところが『寂栞』(註・白雄の姿情説が説かれている文化九年刊行の著書)は、情先姿後論は論外であり、姿先情後論をも明確に否定する。姿と情を、天・地の如く同列一対に見る。それを「物の姿」と「己の心」とを相対立させる形で置く。ここで注目すべきは、「物の」「己が」という修飾限定の語を伴う点であろう。対象(物)と主体(己)との位相の違いが、ここで明瞭に示される。位相が異なれば、先後は意味を失う。この二極分解を促したのは、おそらくは対象の描写にかかわる意識の発達、主体の表出にかかわる意識の発達だったと思われる。中でも、主体の「情」が相対的に強まったのではなかろうか。そして得られたのが、(「鳥酔系俳論への影響」・「姿先情後論から姿情並立論へ」)
○蕪村こそ、その主客対立の構造を、先駆的かつもっとも鋭く作品に示した人だった。(中略) 蕪村の影写説の影響を思わせるものは、次の二書簡がある。
  鮒ずしや彦根の城に雲かゝる
(中略) (安永六年五月十七日付大魯宛)
  水にちりて花なくなりぬ岸の梅
(中略) (安永六年二月二日付何来宛)
(中略) 蕪村の発想の二重構造は、次の書簡も裏付けてくれる。
  山吹や井手を流るゝ鉋屑
(中略) (天明三年八月十四日付嘯風・一兄宛)
この句、裏に加久夜長帯刀(かくやたちはきのをさ)の能因見参の故事を含みつつ、表は景気として鑑賞すると言う。しかもこの二重鑑賞法は詩の解釈に見るものと言う。やはり影写説に学ぶものと推定できよう。(「中興諸家の場合、ことに蕪村の遠近法」)
※これらの論稿は〔「我」の情の承認-二元的な主客の生成-〕の中のものなのであるが、中興諸家の多くの俳人が、祇園南海の「影写説」の影響を受けていて、その「影写説」が、「姿先情後論から姿情並立論へ」と向かい、そして、その「我」の情の優位が確立し、「情を「己」の側、姿を「物」の側に分けるという、二元的把握の成立だったのである。それは従来の姿―情という関係の内容を、物―己という関係に組み替えるものであった」というのである。そして、蕪村もまた、この「影写説」の影響や主我意識の発達の中で、「風景を一望するため自己の位置を一点に定め、対象に一定の「隔り」を置くという、いわゆる「遠近法」を自家薬籠中のものにしていたというのである。そして、この遠近法が「遠」の詩情の問題に深く関わり、それが、蕪村の浪漫精神に連なっているというのが、この論稿の骨子であった。ともあれ、蕪村の発句の鑑賞や、俳詩「春風馬堤曲」の鑑賞にあっては、この祇園南海の「影写説」などを常に念頭に置く必要があるように思えるのである。

(四十九)

「蕪村の手法の特性 -“ 趣向の料としての実情”― 」(田中道雄稿)

○「蕪村発句の新しい解釈」
(前略)新たな理解は、清登典子氏の、「梅ちるや螺鈿こぼるゝ卓の上」 の解釈にも見られる。(中略) 単なる嘱目句ではなく、古典(註・『徒然草』八十二段)によって奥行きを与えた、趣向ある叙景句なのである。
○「かくされた出典の存在」
(前略)表面上一応の解釈はつくのに、検討を加えると、背景をなす古典の存在が明らかになる、ということであった。それはあたかも、それぞれが映像を持つ二つの透明スクリーンを隔て置き、手前から眺め観る趣きである。つまり二重写し、この出典の発見によって句解も多少変るが、より重要なのは、古典場面の付加によって、一句に新たな情が加わることである。(中略)蕪村が祇園南海の詩論”影写説”を受容していた、という事実に基づく、(中略)表は景気句として味わい、裏では故事を察して味わうという、二重鑑賞の実例を示していた。先の私解三例(省略)は、この鑑賞理論に沿ってみたのであった。
○「景の重層化の意図」(省略)
○「皆川淇園の思想との類似」
蕪村の発句制作において”景の重層化”とも呼ぶべき手法があることを指摘した。蕪村はこれを方法として充分に自覚し、利用にはある意図が存したと考えられる。(中略)私見(註・田中道雄)では、前節(註・「景の重層化の意図」)に見る発句の手法は、その発想が、当時京都の儒学界に新風を起こした、皆川淇園の思想に相似ており、或いは関連を持つかと思われる。蕪村は、この淇園の思想を逸早く受ける立場にあり、恐らく何がしかの影響を受けていよう。(後略)
○「趣向と情との拮抗関係」
(前略)蕪村は、趣向を第一に置き、これに情を付随させる方法、別な言い方をすれば、情がより現れる形での趣向中心主義を採った、と考えられる。これまでの句解例(省略)によれば、第二節(「かくされた出典の存在」)の古典を用いる方法が、何よりもそのことを物語る。裏に典拠を持つというのは、伝統的な趣向の方法であり、これらの句は、そこに基盤を置いて成立している。従って作品の価値は、何よりもこの趣向の面白さにあり、その間ににじみ出る情が評価されるのも、あくまでも趣向に伴っての出現、と理解されていたと思われる。(後略)
○「『春風馬堤曲』の方法」
(前略)当作品の魅力の中心は、浪花から故園に至る少女の道行にある。勿論この少女の設定が、当作の趣向の要である。しかも、この趣向は、それが二重の筋で利くことになる。その一は、第三章(註・「郊外散策の流行・蕪村の『春風馬堤曲』)にも述べたように、当時流行した春日郊行あるいは春日帰家と題する漢詩を念頭に置き、文人好みの郊外という舞台を、文人に代わって藪入りの少女に歩ませる、という趣向である。(中略)その二は、帰郷の少女を望郷の作者の分身として歩ませる、という趣向である。(中略)この二重の意味での趣向は、作者の情を盛り込む上でも、きわめて効果的であった。(中略)こうした本作の趣向の巧みは、その末尾にも現れる。末尾では、道行を終えた少女が漸く生家に近づくが、その場面は突如打ち切られ、代って作者が再登場する。そしてあろうことか、他者の作品を加えて一篇を結ぶ。(中略)当代詩壇では望郷詩が多作され、中には「夢帰故郷」(註・夢ニ故郷ニ帰ル)の題の下、夢中の場面がリアルに描かれることもあった。本作は、蕪村による「夢帰故郷」の詩と見倣し得る。(中略)確かに本作の情は、作者に内発したものであった。しかし作者は、この個人の情の文芸的表現を自ら求めながら、一方、自らの美意識に立ってそのあらわな表現を抑制した。その矛盾を自解に「うめき出たる実情」と滲ませるものの、老練さすがに心得て、「狂言の座元」の如く全体を統制し、実情を趣向に隠し込める形で処理したのである。(後略)
○「”趣向の料としての実情”」(省略)
○「結び」(省略)
※「蕪村の手法の特性」ということでの著者(田中道雄)の論稿を要約すると上記のとおりとなる(句例の解説などを全て省略し、充分にその意図を伝達できないきらいがあるが、その骨格となっているものは、上記のとおりである)。ここで、蕪村は、きわめて「趣向」を重視した画・俳の二道の達人であったということと、「詩を語るべし。子、もとより詩を能くす。他にもとむべからず」(『春泥句集』序)の、漢詩を「かな書き」でしたところの、まぎれもなく、「かな書きの詩人」であったという思いである。この意味において、蕪村をよく知る上田秋成の、蕪村の追悼句ともいうべき、「かな書(がき)の詩人西せり東風(こち)吹て」(『から檜葉』所収の難華・無腸の署名の句)という思いをあらためて反芻するのである。そして、その異色の俳詩「春風馬堤曲」こそ、蕪村の手法が全て網羅されている、蕪村ならではの「かな書き」の詩ということになろう。と同時に、この安永六年(一七七七)の『夜半楽』に収録されている俳詩の、「春風馬堤曲」並びに「澱河歌」は、服部南郭の「影写説」並びに皆川淇園の「景の重層化」の、いわゆる当代の漢詩の詩論の影響下での、蕪村独自の世界の展開といえよう。そして、それは、蕪村のこれらの俳詩の創作の中心となる「写意」ともいうべき「情」を、その「裏」に閉じこめての、華麗なまでにも「表」の「趣向」を現出した、いわば、「趣向詩」とでもいうべき装いを施しているということなのである。この意味において、その「表」の「趣向」よりも、「裏」の蕪村の内なる「情」を綴った、蕪村のもう一つの俳詩、「北寿老仙を悼む」(「晋我追悼曲」)とは、一線を画すべきものとの理解をも付記しておきたいのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。