蕪村の連句(序)
蕪村の連句(序)
俳諧史上三大俳人といわれる芭蕉・蕪村・一茶の俳句(発句)の数は、井本農吉著の『芭蕉とその方法』(「連句の変化とその考察」)によれば、芭蕉・約一千句、蕪村・約二千八百五十句、そして、一茶は、実に、約一万八千句という。そして、これが連句(俳諧)になると、芭蕉・約三百八十巻、蕪村・約百十二巻、そして、一茶二百五十巻となる。続けて、同著によれば、「大雑把であり伝存の限りのことだが、連句に対して発句の比重の高まる大勢は察せられる」としている。
芭蕉・蕪村・一茶という、点から点を結ぶ俳諧史において、明治に入り、正岡子規の俳句革新によって、俳諧(連句)が葬り去られる以前において、俳諧(連句)から俳句(発句)へという道筋は、ほぼはっきりとしていたということであろうか。
これらのことに関して、丸山一彦氏は、「蕪村を契機として、それ以後になると兼題(けんだい)・席題( せきだい)による発句の会が盛んとなり、連句の制作というのはむしろ敬遠される傾向にあり、一茶の連句になると、芭蕉や蕪村のそれと比べて付味も粗雑で作品としても整っていない」との指摘もしている(丸山一彦・「一茶集・連句編」・『完訳日本の古典 蕪村・一茶集』所収)。
ということは、俳諧(連句)というものは、芭蕉・蕪村・一茶という、点から点を結ぶ俳諧史において、それは、蕪村までで、それ以降のものは、芭蕉の俳諧(連句)鑑賞ほどに、その鑑賞に耐えるものは、ほとんど存在しないということがいえるのであろうか。
それにしても、これら三人の俳句(発句)に関する鑑賞・解説の類はほぼ完備されつつあるのに比して、こと連句(俳諧)のそれになると、これは、芭蕉を除いて甚だ未開拓の分野といわざるを得ないのである。蕪村の連句(俳諧)のそれにしても、その全体像を明らかにし、それに、やや詳細な校注を加えたものは、昭和五十年代の、大谷篤蔵・岡田利兵衛・島居清校注・『蕪村集 全』(古典俳文学体系12)においてであった。そして、個人で、これらの鑑賞・解説の類の、ほぼ全容にわたって挑戦したものは、わずかに、これも、昭和五十年代の、野村一三著『蕪村連句全注釈』を数える以外に、それを例を見ない。
そして、『蕪村集 一茶集』(暉峻康隆校注・完訳日本の古典58)の「蕪村 連句編」などで、芭蕉とは異質の、高踏的な文人趣味の、いわゆる蕪村調の連句(俳諧)の幾つかについて、それをかいま見るだけで、この文献の少なさが、逆に、無性に、蕪村一派のそれを見たいという衝動にかられてくる。
と同時に、これらの蕪村の連句(俳諧)の文献に接してみると、必ずや、昭和の初期の頃刊行された、潁原退蔵編著・『改定 蕪村全集』につきあたる。この著書の、この分野に与えた影響は、それは想像以上に大きなものがある。しかし、その原著に直接接するということも、その刊行以来、半世紀以上が立つ今日において、これもまた、はなはだ困難な状況にあるということも認めざるを得ない。
また、蕪村一派の俳諧(連句)といわず、その一派の俳句(発句)の魅力にとりつかれると、どうしても、これまた、その発句に対すると同程度の連句の世界をかいま見たいという衝動にかられてくるのである。そして、夜半亭二世を継ぐ与謝蕪村は、夜半亭一世宋阿(早野巴人)そして夜半亭三世を継ぐ高井几菫とその周辺の俳人達には、実に、興味を駆り立てる群像が林立しているのである。
いや、それだけではなく、蕪村の連句(俳諧)を知るということは、これは、芭蕉の連句(俳諧)が、どのように変遷していったのかか、さらにはまた、連句(俳諧)が省みられなくなった今日において、その連句(俳諧)の再生ということは可能なのであろうか等の問題点について、何かしら解答が、その中にあるような予感がしてならないのである。
このような観点から、そしてまた、「芭蕉に帰れ」と中興俳諧の中心人物となった蕪村とその周辺の俳人達の群像はどうであったのか、そんなことを問題意識にしながら、蕪村の連句(俳諧)の概括を試みることとする。 この蕪村の連句(俳諧)の概括するに当たっては、その全体像の百十二巻のうちの五十六巻について頭注等を施している、この分野の唯一の古典たる潁原退蔵編著の『改定 蕪村全集(昭和八年改定増補版)』をその中心に据え、その私解的鑑賞を試みることとする。
(参考文献)
① 『改定 蕪村全集』・潁原退蔵編著・更生閣・昭和八年改定増補版 ② 『蕪村集 全』(古典俳文学体系12)・大谷篤蔵・岡田利兵衛・鳥居清校注・集英社・昭和五〇
③ 『蕪村連句全注釈』・野村一三著・笠間書院・昭和五〇 ④ 『蕪村集 一茶集』(完訳日本の古典58)「蕪村 連句編」・暉峻康隆校注・小学館・昭和五八
⑤ 『座の文芸 蕪村連句』・暉峻康隆監修・小学館・昭和五三 ⑥ 『此ほとり 一夜四歌仙評釈』・中村幸彦著・角川書店・昭和五五
(補注)
① 参考文献の校注等については、右の文献等から適宜取捨選択をしており、必ずしも、統一はされていない。 また、⑤の『此ほとり 一夜四歌仙評釈・中村幸彦著』など、詳細な解説がなされているものは、極力、その 著書からの引用するように心がけている。
② 特殊文字等の幾つかについて、平仮名を使用している。その箇所については、☆印を付している。
柳ちりの巻 (延享・寛延年中、一七四四~一七五〇)
柳ちりの巻 (延享・寛延年中、一七四四~一七五〇)
宝暦二年(一七五二)、その前の年に京へ帰っていた蕪村は、三十七歳であった。この年の七月に、蕪村の関東時代の実質的な後見者であり、同じ巴人門の先輩に当たる結城の砂岡雁宕そして関宿の箱島阿誰(あすい)が編集した『反古衾(ほごぶすま)』が刊行された。この『反古衾』は、その「襖・冬の季語」の表題が示すとおり、歌仙の立句を含めて、冬の発句ばかり集めた撰集である。
その撰集者の雁宕と阿誰は、関東における夜半亭巴人門の中心的人物で、蕪村の先輩筋に当たる俳人ということになるが、巴人没後は、江戸座俳人グループとの交流を深めていった。そして、この『反古衾』は、その江戸座俳人の有力者・馬場存義(李井・りせい)が、序を、小原旨原(百万・ひゃくまん)が跋を担当した。そして、若き蕪村は、釈として登場する。
ちなみに、山下一海氏によれば、蕪村の俳諧の生涯を、次の六つの時期に分けている。
① 元文二年(二十二歳) 江戸日本橋本石町の夜半亭宋阿(巴人)門の入門。
② 寛保二年(二十七歳) 六月六日、師・宋阿の没。
③ 寛保四年(二十九歳) 春、下野宇都宮にあって『歳旦帖』編纂。
④ 寛延四年(三十六歳) 秋、江戸を離れ京へ。
⑤ 明和三年(五十一歳) 六月二日、寺村鉄僧の大来堂において三菓社発句会発表。
⑥ 明和七年(五十五歳) 夜半亭二世継承
この区分において、蕪村の関東出遊時代とは、①から④までの、約十四年の歳月ということになる。この間の寛延三年(一七四三)、蕪村、二十八歳の時に、下野の芦野の歌枕で有名な遊行柳を詠じた開眼の一句、「柳ちり清水かれ石ところどころ」が誕生する。この句は晩年の自撰句集に至るまで愛着を持ち続けた自信作でもあった。そして、この開眼の一句の初出が、実に、雁宕と阿誰の撰集の『反古衾』(蕪村・二句、李井・十四句、百百・十三句・阿誰七句の四吟)の発句として収められている。
一 柳ちり清水かれ石ところどころ(☆) 蕪村
発句、「清水かれ」で冬の句と思われるが、蕪村は「蕪村自筆句稿貼交屏風」等で、秋の部に収載しており、「柳ちり」(秋)を季語として意識していたと思われ、ここは「柳ちり」で秋の句。
〔句意〕西行が、芭蕉が訪ねた、この下野の遊行柳も、今は、柳は散り、清水は涸れ、石がごろごろしているばかりだ。
( 柳ちり清水かれ石ところどころ(☆) )
二 馬上の寒さ詩に吼(ほゆ)る月 李井
脇句、「月」で秋。月の定座は五句目だが、ここに引き上げている。発句が、「山高ク月小ニシテ水落チテ石出ル」(蘇東坡・『後赤壁賦』)をベースにしており、このことを受けてか、李井も、「詩に吼る月」と漢詩的な付けである。
〔句意〕その寒々とした光景の中を、馬に乗り、月に向かって、漢詩を吟じて行きます。
( 馬上の寒さ詩に吼(ほゆ)る月 )
三 茶坊主を貰ふて帰る追出(おひだ)シに 百万
第三、雑の句(心は、前句を受け秋の季)。「追出シ」とは、芝居などの終わりなどに、その打ち出す太鼓の合図のことらしい。第三は、転じの妙というが、一気に場面転換という感じである。
〔句意〕芝居も追い出しの太鼓の合図だ。芝居小屋の茶坊主と一緒に、家にでも帰り、芝居の話の続きなどをしよう。
( 茶坊主を貰ふて帰る追出(おひだ)シに ) 四 ざらりざらり(☆)と納屋のこのしろ(☆) 村
オ・四句目、雑の句。一順して蕪村の付けである。前句に対する、その状況の時宣の付けであろう。 原本には、「このしろ」は「〓」の漢字が用いられている。
〔句意〕芝居小屋から、ざらり、ざらりと、鮗(このしろ)のようにくっついて芝居見物の人達が出てきます。
( ざらりざらり(☆)と納屋のこのしろ(☆) )
五 大汐に足駄とられし庭の面 井
オ・五句目、雑の句。月の定座だが、二句目に引き上げられている。「ざらりざらりと」からの大潮の連想であろうか。
〔句意〕ざらりざらりと大潮が、庭まで来て、下駄を取られて、どうにも困りました。
( 大汐に足駄とられし庭の面 )
六 枕かいって起す邯鄲(かんたん) 万
オ・折端、雑の句。先ほど、李井の漢詩的な脇に対して、その漢詩のニュアンスにそっぽを向いた百万が、ここは、「邯鄲の夢・蘆生の夢」などの古事を基にして句にしている。
〔句意〕庭先で、大潮に下駄を取られたように、ふっと、枕をかえったら、丁度、夢で人生の栄枯盛衰の無情さを知った邯鄲の夢のような思いに囚われて眠れませんでした。
( 枕かいって起す邯鄲(かんたん) )
七 余所(よそ)へ出ぬ土用の中も冬に似て 万
ウ・折立、「土用」で夏。前句の邯鄲の夢のような思いに囚われたことからの連想であろうか。 〔句意〕なに、邯鄲の夢に囚われた--、それは、この暑い土用の暑さの中を、まるで、冬籠りのように、一歩も外に出ないから、そんなことに囚われるのだよ。
( 余所(よそ)へ出ぬ土用の中も冬に似て )
八 陳皮(ちんぴ)一味に薬研(やげん)ごしごし(☆) 井
ウ・二句目、その人の姿情などを説明している其人の付けであろう。「陳皮」とは、蜜柑の皮などを乾かして作る薬用品。「薬研」とは、薬種を細かな粉末にする道具のこと。
〔句意〕冬籠りのように、まるで、土用籠りをしている人は、それは、陳皮などを、汗をふきふき、薬研で ゴシゴシ粉末にしている様のようですね。
( 陳皮(ちんぴ)一味に薬研(やげん)ごしごし(☆))
九 墨の手で拭(のご)ふ涙の手習ひ子 井
ウ・三句目、雑の句。蕪村が抜けて李井と百万との両吟による進行なのだが、李井の,この句、前句とは、似ても似つかない、ほのぼのとした句に仕立てている。
〔句意〕薬研でゴシゴシしている様ね--、それは、手習い子が、墨の付いた手で、ゴシゴシ、涙を吹いている様にも思われますね。
( 墨の手で拭(のご)ふ涙の手習ひ子 )
一〇 死ンだ雀を竹に埋(うめ)けり 万
ウ・四句目、雑の句。抒情的な句に抒情的な付けである。 〔句意〕その手習い子の腕白小僧は、死んだ雀を、やさしく、竹の根元に埋めてやりました。
( 死ンだ雀を竹に埋(うめ)けり )
一一 萩すゝきひしこ(☆)の培(こえ)に色ぞよき 万
ウ・五句目、「萩薄」で秋。「ひしこ」は背黒鰯の子供で、肥料の材料。原本は「異体字」の漢字。 〔句意〕竹の根元に、雀を埋めて肥やしになったように、ここの萩と薄は、ひしこの肥やしで、実に色が鮮やかです。
( 萩すゝきひしこ(☆)の培(こえ)に色ぞよき )
一二 休意とついて楽らく(☆)の秋 井
ウ・六句目、「秋」で秋。萩と薄からの連想の付けであろうか。「休意」とは、心を安んじること。
〔句意〕萩と薄の風情のある所で、心を安んじて、安楽の秋を堪能しております。
( 休意とついて楽らく(☆)の秋 )
一三 釜の坐にやつを隠して後の月 井
ウ・七句目、「後の月」で秋。月の定座は次句であるが、一句引き上げている。恋の呼び出しの句とも。
〔注・「釜の坐」は京都三条通新町西入の町名で「かまんざ」との頭注がある。〕
〔句意〕陰暦九月十三日の後の月の、安楽の秋を堪能なさっている方は、京都の釜の坐の別宅に、大事な人を。
( 釜の坐にやつを隠して後の月 ) 一四 酒で嗽(すすぐ)も床のたのしみ 万
ウ・八句目、雑の恋の句。月の定座は、前句に引き上げられている。
〔句意〕その大事なお方と月見の後、お二人で酒を使って口を嗽ぎながら、お床でお楽しみになるのでしょう。
( 酒で嗽(すすぐ)も床のたのしみ )
一五 三途(さんず)川たばこに酔ふて渡る也 万
ウ・九句目、雑の句。恋句は二句続けるとすれば、ここは、恋句か。
〔句意〕どうも、楽しみ過ぎて、三途の川を、煙草に酔って、ふらふら渡るような有り様でした。
( 三途(さんず)川たばこに酔ふて渡る也 )
一六 花には去らぬ毛氈の蛇 井
ウ・十句目、「花」で春。花の定座は次句だが、ここに引き上げている。 〔句意〕三途の川を、煙草に酔って渡るとは、それは、丁度、花見の席の赤い毛氈の所を、ここが良いと、そこを一歩も退かない蛇のようですね。
( 花には去らぬ毛氈の蛇 )
一七 山吹に莚(むしろ)下ゲたる厠(かはや)の戸 井
ウ・十一句目、「山吹」で春。花の定座だが、前句に引き上げられている。 〔句意〕その図々しい蛇に比べて、この山中の貧しい家の厠には、人目をはばかるように筵が下げられている。その脇の山吹が美しい。
( 山吹に莚(むしろ)下ゲたる厠(かはや)の戸 )
一八 つれづれ(☆)読(よみ)の笠も幾春 万
ウ・折端、「春」で春。「つれづれ読」は、徒然草の講釈師の類であろうか。 〔句意〕その山中のあばら屋の、徒然草の講釈師の笠も古ぼけて、みるからに年輪を感じさせる。そして、また、幾度目かの春が来た。
( つれづれ(☆)読(よみ)の笠も幾春 )
一九 橋守が人形売(うる)も古風なり 井
ナオ・折立、雑の句。隠栖者から橋守の連想か。
〔句意〕その山中のあばら屋の徒然草の講釈師とどこか趣が似かよっているのだが、橋守をしながら人形を売っている人もいる。そして、それらの姿は、何やら古風で、何やら風情がある。
( 橋守が人形売(うる)も古風なり )
二〇 振らする後へふらぬ大名 阿誰
ナオ・二句目、雑の句。ここで、阿誰が加わり、三吟となる。阿誰の最初の句、なかなか、意味の取り辛い句である。橋を大名行列が通っていくということからの其場の付けであろうか。
〔句意〕その橋を、賑やかに、槍を振りながら行く大名がいるかと思えば、静かに、槍など振らず通り過ぎる大名もいる。それぞれ十人十色だ。
( 振らする後へふらぬ大名 )
二一 清水(きよみづ)も十日の上野ことさらに 万
ナオ・三句目、雑の句。「清水」は、上野寛永寺の清水堂のこと。 〔句意〕大名行列の賑わいといえば、この十日の花の盛りの頃は、上野寛永寺の清水堂の辺りも、非常な賑わいになりますね、
( 清水(きよみづ)も十日の上野ことさらに )
二二 唐縮緬のすみ染の尼 井
ナオ・四句目、雑の句。前句の「ことさらに」などの言葉のあやによる起情の付けと思われる。 〔句意〕花の盛りに終わりがあるように、その人も、唐縮緬などを着て華やかな時もあったが、今では、すみ染めの尼の姿になってしまいました。
( 唐縮緬のすみ染の尼 )
二三 松風と共に経る世のゆがみ形(な)リ 誰
ナオ・五句目、雑の句。前句の人の姿情を見定め付ける其人の付けか。 〔句意〕その尼の人は、浜の松風を聞きながら、日々の暮らしをするまでに、生活が一変してしまいました。
( 松風と共に経る世のゆがみ形(な)リ )
二四 面ンをかぶって掛乞(かけごひ)に逢ふ 万
ナオ・六句目、雑の句。「掛乞」は、借金取りのこと。
〔句意〕その日暮らしの貧乏暮らしで、外に出ましたら、生憎と借金取りに出会っちゃいまして、思わず、面を被って、その場をしのぎました。
( 面ンをかぶって掛乞(かけごひ)に逢ふ )
二五 酒毒とてなかがひ(☆)ほどに出来にけり 井
ナオ・七句目、雑の句。前句の「面ンをかぶって」からの連想であろう。原本には「なかがひ」は「異体字」の漢字。
〔句意〕面を被ったのは、借金逃れではなく、酒の毒で、大きなおできが出来て、それで、面を被ったのでしょう。
( 酒毒とてなかがひ(☆)ほどに出来にけり )
二六 眠るうなゐに神おはします 誰
ナオ・八句目、雑の句。「うなゐ」は、髪をうないにした幼子のこと。前句の人物に別人をもってくる向付であろう。
〔句意〕親父は、酒毒でどうしょもないが、その幼子は、髪をゆないにしていて、すやすやと眠っていて、まるで、神様が側にいるようです。
( 眠るうなゐに神おはします )
二七 夕蝉に土間で糸とる藁庇(わらびさし) 万
ナオ・九句目、「夕蝉」で夏。親父、幼子ときて、その母親を出す向付か。 〔句意〕親父は酒毒、その幼子は神様のように眠っている。そして、その母親は、貧しい藁庇の家で、一心不乱に、糸を紡いでいます。どこからか夕蝉の声がします。
( 夕蝉に土間で糸とる藁庇(わらびさし) )
二八 泣せて恋をしたる説教 井
ナオ・十句目、雑の恋の句。その母親の姿情を見定める其人の付けであろう。「説教」は中世に流行した説教節との類と思われる。
〔句意〕中世に流行した説教節にもあるではありませんか、「ホロリと泣かせて恋をした」とね-、あの糸を紡いでいる人は、あの酒毒の男の口説きにあって、ほろりとさせられて、それでいい仲になったのですよ。
( 泣せて恋をしたる説教 )
二九 月影をよぎ(☆)ともおもふ仇まくら 誰
ナオ・十一句目、「月影」で秋。月の定座での恋の句。原本の「よぎ」は、「異体字」の漢字。 〔句意〕その恋し合った二人は、月の美しい夜、その月影を夜着として、かりそめの一夜を過ごしたのです。
( 月影をよぎ(☆)ともおもふ仇まくら )
三〇 鎧のうへに米を背負フ露 誰
ナオ・折端、「露」で秋。これも、現在の境涯を句にしている時宣の付けであろう。 〔句意〕今では、その二人は、落武者が、鎧の上に米を背負って、荒野の露に濡れながら歩いているさまに似ています。
( 鎧のうへに米を背負フ露 )
三一 道閉(とづ)る戎境(えびすざかひ)の岩もみぢ 万
ナウ・折立、「岩もみぢ」で秋。前句の落武者からの連想であろう。 〔句意〕その落武者達の行手には、それは、人の住まわぬような辺境で、岩紅葉が幾重にも重なり、完全に道を閉ざしているのでした。
( 道閉(とづ)る戎境(えびすざかひ)の岩もみぢ )
三二 笹折敷(をりしき)て坐禅する僧 井
ナウ・二句目、雑の句。落武者に対して座禅する僧をもって付ける向付であろう。 〔句意〕その苦難の落武者達と同じように、こちらの座禅僧も、これまた、笹を折り、それを敷いて、その上 の大変な苦行であります。
( 笹折敷(をりしき)て坐禅する僧 )
三三 剃刀に反古(ほうご)の文字の錆付(つき)て 誰
ナウ・三句目、雑の句。ここは、関連するもので軽くあしらっている会釈の付けか。
〔句意〕その座禅僧の痛ましい姿は、それは、剃刀に錆びたまま付いている反古紙の文字のように、もう、どうにもならない状況です。
( 剃刀に反古(ほうご)の文字の錆付(つき)て )
三四 波も俗なる湯屋の彫物 万
ナウ・四句目、雑の句。これも前句と同じように、会釈の付けと思われる。 〔句意〕その、どうしょうもない姿は、風呂屋の、あの俗ぽい、松とか波の彫り物と同じで、これは様になりませんね。
( 波も俗なる湯屋の彫物 )
三五 芝居見む花に云(いひ)し雨のひま 井
ナウ・五句目、花の定座で、「花」で春。どうも、終盤にきて、其人付け、会釈の付けとかに終始したきらいもあり、その反省もこめ、遁句的な、最後の花の句とも解せられる。
〔句意〕どうも、湿っぽい話ばかりで、雨もやみました。どうです--、花見と洒落て、その道筋で、芝居でも見物して、派手に、これまでの憂さでも晴らしませんか。
( 芝居見む花に云(いひ)し雨のひま )
三六 小鮎を詰(つめ)てぬぐふ重箱 誰
ナウ・挙句、「小鮎」で春。前句の句勢にぴったりの、拍子付けの挙句と解したい。
〔句意〕そうだ。そうだ。花見と、芝居見物と・・・、それは素晴らしい。さてと、小鮎を重箱に入れてね・・・、あれ、小鮎の出汁が・・・、それを拭ってと・・・、芝居よりも、花よりも、酒と小鮎と・・・、花より団子だね。