第一こがねのこま(1-4)

1-4  うめが香や爰(ここ)の炬燵も周防どの 

 梅=初春。「うめ(梅)が香」=梅の匂い、梅(親季語・季題)の子季語(傍題)。「梅が香や」の「上五や切り」の例句に、次のような句がある。

 梅が香やしらら落窪京太郎        芭蕉(『忘梅』)

梅がゝやひそかにおもき裘(かはごろも) 蕪村(安永六年書簡)

梅が香やどなたが来ても欠茶碗  一茶(『文化句帖』)

梅が香や乞食の家ものぞかるゝ  其角(『五元集』)

梅が香や隣りは荻生惣右衛門   其角(?『江戸名所図会」

  其角の「梅が香や乞食の家ものぞかるゝ」の句には、「遊大音寺」(大音寺ニ遊ブ)との前書きがある。この句に関連して、次のアドレスで、下記のように解説している。

http://kikaku.boo.jp/shinshi/hokku10

 『  んめがや乞食の家も覗かるゝ

 「んめがゝ」は「梅が香」。現在、大音寺は台東区下谷竜泉寺の町中にありますが、当時は吉原遊郭の裏手で、江戸郊外の田圃の中のあったという事です。其角にとっては、大音寺は読み書きなどを習うために、通いだったか寄宿してだったか分かりませんが、10歳頃に入学した「寺子屋」であったようで、久しぶりに訪れたのかも知れません。町から外れたこの付近は、乞食の住む小屋も多くあって寂しげなところかと思われますが、土地勘があっての散策だったのでしょう。野梅の馥郁な香が伝わってきます。

 この句は「梅が香」という雅な縦の題材を「乞食」と取り合わすことで、其角らしい感性で俳化しています。「雁・鹿・虫とばかり」和歌と俳諧との本質の違いに悩んだ入門から、既に八年、俳諧を自家薬籠中の物にした其角の姿が目に浮かびます。』(「詩あきんど」)

 同じく、其角(?)の句とされている「梅が香や隣りは荻生惣右衛門」は、下記のアドレスで、『江戸名所図会」に記述されている「俳仙宝晋斎其角翁の宿」に関連しての原文が紹介されている。

https://www.weblio.jp/content/%E5%BE%82%E5%BE%A0%E8%B1%86%E8%85%90

 『 「江戸名所図会」(天保年間)に「俳仙宝晋斎其角翁の宿」があり、

「茅場町薬師堂の辺なりと云い伝ふ。元禄の末ここに住す。即ち終焉の地なり。按ずるに、梅が香や隣は萩生惣右衛門という句は、其角翁のすさびなる由、あまねく人口に膾炙す。よってその可否はしらずといえども、ここに注して、その居宅の間近きをしるの一助たらしむるのみ。」

 とある。現実に、荻生惣右衛門(荻生徂徠)が、其角の住んでいた場所の隣に蘐園塾を開いたのは、其角の死後2年が経過した1709年である。其角と荻生徂徠に面識はないという。

今ではこの句は、杉山杉風の弟子である松木珪琳のものだと言われている。けれども、「隣りは荻生惣右衛門」と詠まれたあたりは、其角を意識してのものだと言えるだろう。

 其角の「梅が香や…」の句には、「梅が香や乞食の家も覗かるゝ」(一茶の句)がある。現在になってこの2句を併せて鑑賞するなら、将軍吉宗に仕えた学者の、「徂徠豆腐」で知られる倹しい一面が、面白く浮かび上がってくる。』

『江戸名所図会』所収「茅場町薬師堂」(江戸名所図会 7巻. [2]  24/49頁) (国立国会図書館デジタルオンライン)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563381/25

  この『江戸名所図会』の次頁(25/49頁)の記述文の中に、「隣りは荻生惣右衛門」の句が出て来る。この「茅場町薬師堂」(24/49頁)の句は、「夕やくし涼しき風の誓いかな」である。                                                                                      

http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/chisenin/

「 『江戸名所図会』には「薬師堂、同じく御旅所の地にあり、本尊薬師如来は、恵心僧都の作なり、山王権現の本地仏たる故、慈眼大師勧請し給ふといへり、縁日は毎月八日、十二日にして、門前二・三町の間、植木の市立てり、別当は医王山智泉院と号す」とあります。

歌人で芭蕉十哲の一人、其角が境内地に住んでおり、

夕やくし涼しき風の誓いかな

の句をよんでおります。 」(「鎧島山 智泉院(通称:茅場町のお薬師さま)」)

  この其角の「夕やくし涼しき風の誓いかな」は、百万坊旨原編の『五元集』『五元集拾遺』(『俳文俳句集(日本名著全集刊行会編)』)には収載されていず、『其角発句集(上)(坎窩久臧 考訂)(名家俳句集)』に収載されている。それには、頭注があって、「夕やくし」=「薬師には夜の参詣多きより夕薬師といふ」とある(『同書』p220)。

  ついでに、芭蕉の句の「梅が香やしらら落窪京太郎」の「しらら・落窪・京太郎」は、「浄瑠璃『十二段草子』姿見の段に「よみけるさうしはどれどれぞ、こきん(古今)・まんやう(万葉)・いせものがたり(伊勢物語)・しらら(散佚=さんいつ)物語=とりかへばや物語)・おちくも(落窪物語)・京太郎(京太郎物語)」の「とりかへばや・おちくぼ・京太郎」物語のことのようである(『松尾芭蕉集一・全発句(井本農一・堀信夫校訂)』)。

 ここで、いよいよ、抱一の、「1-4  うめが香や爰(ここ)の炬燵も周防どの」の句であるが、この句もまた、抱一が私淑して止まない「宝井(榎本)其角」の、次の句の、「本歌取り(和歌・連歌・狂歌)・本説取り(漢詩文)・本句取り(俳諧・連句・発句・俳句・狂句・川柳)」なのである。

   周防どのは才ある人にて、政事行るゝに一生非なし。

  ひなき(火無き)をめでゝ、板くら(板倉)どのと

  申とかや、この中より、やけたる銭をひろひ出て

 火燵(こたつ)から青砥(あをと)が銭を拾ひけり  (其角『五元集』)

  この「其角」の句は、百万坊旨原編の『五元集』にも、坎窩久臧考訂の『其角発句集(冬之部)』にも収載されている。この坎窩久臧考訂の『其角発句集(冬之部)p253』の、この句の頭注には、「板倉殿の冷火燵といふ諺をさせり」とある。

 この「板倉殿の冷火燵といふ諺」は、「火の気の無いこたつの洒落。板倉殿(板倉周防守)の政務には非難される点が無いことから、『非がない』と『火がない』とをかけてのもの」ということになる。

 ちなみに、この句の「青砥が銭」とは「十文の銭を五十文使って探した、という青砥藤綱の故事をふまえている」と、何とも、其角の句というのは、いわゆる「謎句(付け)」の「謎掛のような仕掛けのある句」の連続なのである。

1-4  うめが香や爰(ここ)の炬燵も周防どの 

 句意=梅の匂いが春を告げている。だが、まだ、炬燵は離せない。しかし、この家の炬燵も火のない「周防殿の冷炬燵(ひえこたつ)=板倉炬燵」だ。

 句意周辺=「周防どの」とは、「京都所司代周防守板倉重宗」のこと。その「板倉殿(板倉周防守)の政務には非難される点が無いことから、『非がない』と『火がない』とをかけてのもの」ということになる。そして、この上五の「うめが香や」と中七の「爰の炬燵も」の「も」の措辞は、やはり、其角の句として夙に名高い「梅が香や隣りは荻生惣右衛門」の「荻生徂徠」の「徂徠豆腐」などが背景にあるのであろう。

 (参考) 徂徠豆腐 (「ウィキペディア」)

https://www.weblio.jp/content/%E5%BE%82%E5%BE%A0%E8%B1%86%E8%85%90

 落語や講談・浪曲の演目で知られる『徂徠豆腐』は、将軍の御用学者となった徂徠と、貧窮時代の徂徠の恩人の豆腐屋が赤穂浪士の討ち入りを契機に再会する話である。江戸前落語では、徂徠は貧しい学者時代に空腹の為に金を持たずに豆腐を注文して食べてしまう。豆腐屋は、それを許してくれたばかりか、貧しい中で徂徠に支援してくれた。その豆腐屋が、浪士討ち入りの翌日の大火で焼けだされたことを知り、金銭と新しい店を豆腐屋に贈る。

ところが、義士を切腹に導いた徂徠からの施しは江戸っ子として受けられないと豆腐屋はつっぱねた。それに対して徂徠は、「豆腐屋殿は貧しくて豆腐を只食いした自分の行為を『出世払い』にして、盗人となることから自分を救ってくれた。

法を曲げずに情けをかけてくれたから、今の自分がある。自分も学者として法を曲げずに浪士に最大の情けをかけた、それは豆腐屋殿と同じ。」 と法の道理を説いた。さらに「武士たる者が美しく咲いた以上は、見事に散らせるのも情けのうち。武士の大刀は敵の為に、小刀は自らのためにある。」と武士の道徳について語った。

これに豆腐屋も納得して贈り物を受け取るという筋。浪士の切腹と徂徠からの贈り物をかけて「先生はあっしのために自腹をきって下さった」と豆腐屋の言葉がオチになる。

第一こがねのこま(1-3)

1-3  築山の戸奈背にをつるやなぎかな

 柳(やなぎ)=晩春。築山=庭園に山をかたどって小高く土をつみ上げた所。戸奈背=戸無瀬=戸難瀬=京都市西京区嵐山、渡月橋の上流の古地名。紅葉の名所。歌枕。※恵慶集(985‐987頃)「大井河かはべの紅葉ちらぬまはとなせの岸にながゐしぬべし」

 となせ(戸無瀬)の滝=※散木奇歌集(1128頃)冬「となせよりながす錦は大井河いかだにつめるこのはなりけり」

 句意=この築山は、歌枕の、京都市西京区嵐山、渡月橋の上流の「戸奈背=戸無背」の「となせの滝」を模して作庭されている。その「となせの滝」に、あたかも、その傍らの柳が落下するように、風に靡いている。

 句意周辺=この句の背景には、「築山殿と松平信康の悲劇」などが隠されているのかも知れない。

https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/miryoku/naotora/pr/plus/07_20160817.html

 「築山殿と松平信康の悲劇」

 築山殿は、駿府(静岡市)にて今川家の重臣・関口刑部親永(せきぐちぎょうぶちかなが)と井伊直平(井伊直虎の曽祖父)の娘との間に生まれ、直盛(直虎の父)や直親のいとこにあたるとされています。

  今川義元の政略で松平元信(のちの徳川家康)に嫁ぎ、永禄2年(1559年)には長男である松平信康を出産。しかし、生まれてすぐに信康は今川家の人質として駿府で過ごすこととなります。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、家康は混乱に乗じて岡崎城に入城。名実ともに岡崎城主となると、築山殿と人質になっていた信康も岡崎城に移り住みます。永禄5年(1562年)には織田信長と清州同盟を結び、今川家と敵対関係になります。そして永禄10年(1567年)、9歳となった信康は信長の娘・徳姫と結婚します。

 元亀元年(1570年)、家康が浜松城に移ると、信康は岡崎城主となりますが、天正7年(1579年)、信康に悲劇が襲いかかります。悲劇のきっかけは徳姫が織田信長に送った12ヶ条の訴状だったと言われています。この訴状には、「築山殿が武田勝頼と内通している」といった内容が記されていたとされていて、この内容に織田信長が激昂。築山殿と信康の処刑を要求しました。熟慮の末、信長との関係を重視し、身を切る思いで、築山殿の殺害と信康の切腹を命じました。築山殿は徳川家臣によって佐鳴湖畔で殺害され、信康は二俣城(天竜区二俣町)で自害しました。

「築山殿/瀬名姫」(つきやまどの/せなひめ)(「ウィキペディア」)

生誕       不明

死没       天正7年8月29日(1579年9月19日)

別名       築山御前、駿河御前

配偶者    徳川家康

子供       徳川信康、亀姫

親           父∶関口親永

母∶   今川義元の妹

親戚:      兄弟∶正長、道秀、

姉妹:   大谷元秀室、築山殿、北条氏規室?

第一こがねのこま(1-2)

1-2  から笠のほねのたくみも柳哉

  柳(やなぎ)=晩春。

わがせこが見らむ佐保道の青柳を手折りてだにも見むよしもがも 大伴坂上郎女『万葉集』

見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春に錦なりける 素性法師『古今集』

青柳の糸よりかくる春しもぞ乱れて花のほころびにける 紀貴之『古今集』

傘(からかさ)に押しわけみたる柳かな 芭蕉「炭俵」

傾城の賢なるはこの柳かな       其角「五元集」

梅ちりてさびしく成しやなぎ哉     蕪村「蕪村句集」

恋々として柳遠のく舟路かな      几董「井華集」

  から笠(唐笠)=江戸時代に入ってからで、白の和紙に桐油(とうゆ)を引いたのが始まりで、その粗雑なものを番傘とよんだ。のちに家紋をつけたりし、傘の周囲を紺で染めたものを蛇の目傘、それより細身で高級品のものを紅葉(もみじ)傘といい、握りには籐(とう)を巻いたり、骨を糸飾りにしたりして粋筋(いきすじ)の間で流行した。

傘にねぐらかさうやぬれ燕  其角『虚栗』

柳に風=柳が風に従ってなびくように、少しも逆らわないこと。また、巧みに受けながすこと。※雑俳・如露評万句合‐宝暦九(1759)「いつ見ても柳に風の夫婦中」

 句意=唐笠の骨の仕組みは、実に巧みに出来上がっている。それは、丁度、「柳に風」のごとく、巧みに、従順な働きをしている。抱一の句作りの要諦は、江戸座俳諧の元祖の宝井其角の句をいかに「柳(其角)に風(抱一)」ごとく、咀嚼して、さりげなく一句にしているかどうかにかかっている。

鈴木其一筆「柳図扇」一本(柄) 酒井抱一賛 太田記念美術館蔵

一六・六×四五・五㎝

【 軽やかに風に揺れる柳が描かれる。抱一による賛は「傾城の賢なるはこれやなきかな 晋子吟 抱一書」。晋子(しんし)とは、芭蕉の門弟の一人で江戸俳座の祖である其角のこと。この句は『都名所図会』(安永九年<一七八〇>刊)などで京都の遊郭、島原を形容する際に用いられており、江戸時代後期にはよく知られていたと思われる。本扇面は、当時の吉原文化の一翼を担った抱一とその弟子其一の、粋な書画合筆による。賛のあとに抱一の印章「文詮」(朱文瓢印)が捺される。画面右に其一の署名「其一」、印章「元長」(朱文方印)がある。なお、其一の弟子入りの時期と抱一没年から制作期は文化十年(一八一三)から文政十一年(一八二八)の間と考えられる。 】(『鴻池コレクション扇絵名品展(図録)』所収「作品解説(赤木美智稿)」)

 (参考) 「藤図扇子」(其一筆・抱一賛・其角句)周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-09-25

 抱一の賛の其角の句「傾城の賢なるはこれやなきかな」は、『五元集(旨原編)』では「傾城の賢なるは此柳かな」の句形で収載されている。この其角の句が何時頃の作なのかは定かではない。『都名所図会』(安永九年<一七八〇>刊)で京都の遊郭、島原を形容する際に用いられているということは、其角の京都・上方行脚などの作なのかも知れない。

  闇の夜は吉原ばかり月夜哉   (天和元年=一六八一、二十一歳)

 西行の死出路を旅のはじめ哉  (貞享元年=一六八四、二十四歳、一次上方行脚)

 夜神楽や鼻息白し面の内    (元禄元年=一六八九、二十八歳、二次上方行脚)

 なきがらを笠に隠すや枯尾花  (元禄八年=一六九四、三十四歳、三次上方行脚)

其角とその周辺

其角の『句兄弟・上』

芭蕉が没した元禄七年(一六九四)に成った、其角の『句兄弟』(上・中・下)の、其角の序(句兄弟序)の全文は次のとおりである。

(参考文献)

一 『句兄弟・上』夏見知章・大谷恵子・山尾規子・関野あや子編著

二 「句兄弟」(『蕉門俳諧集二』・古典俳文学大系七)今栄蔵校注

(句兄弟序)

点ハ転ナリ、転ハ反なりと註せしによりて案ズルに、句ごとの類作、新古混雑して、ひとりことごとくには、諳(ソラン)じがたし。然るを一句のはしりにて聞(きき)なし、作者深厚の吟慮を放狂して、一転の付墨をあやまる事、自陀(他)の悔(くやみ)且暮にあり。さればむかし今の高芳の秀逸なる句品、三十九人を手あひにして、お(を)かしくつくりやはらげ、おほやけの歌のさま、才ある詩の式にまかせて、私に反転の一躰をたてゝ、物めかしく註解を加へ侍る也。此(この)後俳諧の転換、その流俗に随ひ侍らば、一向壁に馬なる句躰なりとも、聊(いささか)の逃(にげ)道を工夫して等類の難をのがれぬべし。尤(もっとも)、古式のゆるしごとくに、貴人・少人・女子・辺鄙の作に於(おい)ては、切字ひとつの違(ちがひ)にして当座の逸興ならしめんは、祝蛇(原文は魚扁)が侫(ねい)なかるべし。此(この)道の譬喩方便なれば、諸作一智也、諸句兄弟也、とちなめるまゝ遠慮なく書の名とし侍る。

元禄七甲戌稔(年)寿星初五  晋 其角

(参考)一 「点ハ転ナリ、転ハ反なり」=点は点化の意で漢詩作法から来た語。点化は古人の詩句を換骨奪胎して自句を成す法で、転・反というも等しい。当時俳人にも読まれた明の梁公済著『氷川(ひょうせん)詩式』に作句法の一として「点化句法」が見えるが、其角は元禄七年刊『其便』に「点化句法」と表示する発句を出しており、漢詩法に学んだ作句法を試みていることが分かる(今・前掲書)。『俳文学大辞典』では「反転の法」の項目での説明あり。また、『去来抄』では、「打ち返し」の用例も見る。

二 おほやけの歌のさま=歌道における本歌取りのこと。『細川幽斎聞書全集』巻之一には「本歌可取様之事」として、次の六法がある。

① 常に取る本歌の詞にあらぬ物にとりなしてといへり

② 本歌の心をとりて風をかへたる

③ 本歌に贈答したる躰

④ 本歌の心になりかへりてしかも本歌をへつらはずして新しき心を読める躰

⑤ 詞一つをとりたる歌

⑥ 本歌二首を以て読める躰

三 壁に馬なる=諺「壁に馬を乗りかけたよう」。物事を出し抜けにやること、また無理無体にやることのたとえ。

四 祝蛇(原文は魚扁)=中国春秋時代、衛の人。『論語』に出てくる。後世、弁舌の巧みな者をたとえていう。

五 元禄七甲戌稔(年)寿星初五=元禄七甲戌年八月五日

(句合せ一)

※ 『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

※ (謎解き・五十二)http://yahantei.blogspot.com/2007/03/blog-post_24.html

一番

   兄 貞室 

 これはこれはとばかり花の吉野山 

   弟 晋子(其角) 

 これはこれはとばかり散るも桜哉 

(兄句の句意)これは、これは、まことに驚くばかりの花一色の吉野山であることよ。

(弟句の句意)これは、これは、まことに驚くばかりに落花の桜も美しいことであるよ。

(判詞の要点)兄句の「これはこれとばかり」をそのままに、それに唱和するようなスタイルで、「花の吉野山」を「散るも桜哉」と反転せている。それも、単に、「咲いた桜」に対して「散る桜」と反転させただけではなく、「これは、これはと驚くばかりに激しく散る桜の美しさ」も、花(桜)の「(物の)本性」(『徒然草』第百三十七段の「花の前後」の心に通ずる)で、その心をもって反転させたところに、ここでの弟句の句作りの要諦がある。

(参考)安原貞室(やすはらていしつ:1610年(慶長15年) – 1673年3月25日(延宝元年2月7日))は、江戸時代前期の俳人で、貞門七俳人の一人。名は正明(まさあきら)、通称は鎰屋(かぎや)彦左衛門、別号は腐俳子(ふはいし)・一嚢軒(いちのうけん)。京都の紙商。1625年(寛永2年)、松永貞徳に師事して俳諧を学び、42歳で点業を許された。貞門派では松江重頼と双璧をなす。貞室の「俳諧之註」を重頼が非難したが、重頼の「毛吹草」を貞室が「氷室守」で論破している。自分だけが貞門の正統派でその後継者であると主張するなど、同門、他門としばしば衝突した。作風は、貞門派の域を出たものもあり、蕉門から高い評価を受けている。句集は「玉海集」など。

(句合せ三)

※ 『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

※ (謎解き・五十四)http://yahantei.blogspot.com/2007/03/blog-post_24.html

三番

   兄 素堂 

 又これより青葉一見となりにけり 

   弟 (其角) 

 亦是より木屋一見のつゝし(じ)哉

兄句の句意)花が落花して、また、これからは「青葉一見」の季節になったことよ。

弟句の句意)「植木屋一見」の花の季節から、また、これからは「つつじ」の季節になったことよ。

(判詞の要点)兄句・弟句とも春の名残を惜しむことにおいては同じであるが、兄句の「青葉」を「木屋」に、「となりにけり」を「つゝし(じ)かな」と変転させることによって、句の表面の字面も句意も随分と様変わりしている。特に、この「下五の云かへにて」で、両句は「強弱の躰をわかつもの」となっている。両句の背景には、賈島「暁賦」詩中の「遊子行残月」(『和漢朗詠集』所収)がある。

(参考)山口素堂(やまぐち そどう、寛永19年(1642年) – 享保元年8月15日(1716年9月30日))は、江戸時代前期の俳人・治水家。本名は信章。通称勘兵衛。[経歴] 生れは甲斐国で、家業は甲府魚町の酒造家。20歳頃で家業の酒造業を弟に譲り、江戸に出て漢学を林鵞峰に学んだ。俳諧は1668年(寛文8年)に刊行された「伊勢踊」に句が入集しているのが初見。1674年(延宝2年)京都で北村季吟と会吟し、翌1675年(延宝3年)江戸で初めて松尾芭蕉と一座し以後互いに親しく交流した。晩年には「とくとくの句合」を撰している。また、治水にも優れ、1696年(元禄9年)には甲府代官櫻井政能に濁川の治水について依頼され、山口堤と呼ばれる堤防を築いている。