その一)後鳥羽院と式子内親王
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方一・後鳥羽院)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009394
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方一・式子内親王)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009412
(左方一・後鳥羽院)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019788
(バーチャル歌合)
左方一 後鳥羽院
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010676000.html
龍田山(姫)かぜのしらべも聲たてつ/あきや来ぬらん岡のべの松
右方一 式子内親王
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010677000.html
ながむれば衣手涼し久堅の/あまのかはらの秋のゆふ暮
判詞(宗偽)
後鳥羽院と式子内親王との年齢の開きは、式子内親王が三十一歳年長である。そして、この「新三十六人歌合」(「新三十六歌仙」とも)は、後鳥羽院撰とも伝えられ、「後鳥羽院以下左方の歌人、式子内親王以下右方の歌人をまとめる二帖から成る。色紙の配置は、左方が肖像・和歌の順になっているのに対し、右方ではその逆になっている」(『歌仙絵(東京国立博物館編)』所収「作品解説№14と参考2」)。
式子内親王の「龍田山」は「東京国立博物館蔵」、そして、「龍田姫」は「和泉市久保惣記念美術館蔵」の表記の違いに因る。
さて、この左方の後鳥羽院の一首は、右方の式子内親王の一首を念頭に置いて、その一首に唱和しての作例のように思われる。この上の句の「龍田山(姫)かぜのしらべも聲たてつ」の「龍田山(姫)」は、『万葉集』の次の「龍田山」の歌などを踏まえてのものであろう。
0083: 海の底沖つ白波龍田山いつか越えなむ妹があたり見む
0415: 家にあらば妹が手まかむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ
0877: ひともねのうらぶれ居るに龍田山御馬近づかば忘らしなむか
0971: 白雲の龍田の山の露霜に…….(長歌)
1181: 朝霞止まずたなびく龍田山舟出せむ日は我れ恋ひむかも
1747: 白雲の龍田の山の瀧の上の…….(長歌)
1749: 白雲の龍田の山を夕暮れに…….(長歌)
2194: 雁がねの来鳴きしなへに韓衣龍田の山はもみちそめたり
2211: 妹が紐解くと結びて龍田山今こそもみちそめてありけれ
2214: 夕されば雁の越え行く龍田山しぐれに競ひ色づきにけり
2294: 秋されば雁飛び越ゆる龍田山立ちても居ても君をしぞ思ふ
3722: 大伴の御津の泊りに船泊てて龍田の山をいつか越え行かむ
3931: 君により我が名はすでに龍田山絶えたる恋の繁きころかも
4395: 龍田山見つつ越え来し桜花散りか過ぎなむ我が帰るとに
とすると、ここは、この「新三十六人歌合」の「後鳥羽院撰」という伝承からしても、後鳥羽院が、式子内親王を当代随一の歌人と崇敬し、その意味合いから、己の歌に対峙するように右方のトップに据えた意向からしても、右方のトップに据えた「式子内親王」の一首を「勝」とすべきなのであろう。
(後鳥羽院御製)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#01
ほのぼのと春こそ空に来にけらし天のかぐ山霞たなびく
桜咲く遠山鳥のしだり尾のながながし日もあかぬ色かな
み吉野の高嶺のさくら散りにけり嵐もしろき春のあけぼの
秋の露やたもとにいたくむすぶらん長き夜あかずやどる月かな
吉野山さくらにかかるうすがすみ花もおぼろの色は見えけり
露は袖にもの思ふころはさぞな置くかならず秋のならひならねど
秋更けぬ鳴けや霜夜のきりぎりすやや影さむし蓬生の月
我が恋は真木の下葉にもる時雨ぬるとも袖の色に出でめや
たのめずは人をまつちの山なりと寝なましものをいざよひの月
袖の露もあらぬ色にぞ消えかへるうつればかはる歎きせしまに
(式子内親王御歌)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#08
山ふかみ春ともしらぬまつの戸にたえだえかかるゆきの玉水
詠めつるけふはむかしになりぬとも軒ばのむめよ我をわするな
更くるまでながむればこそかなしけれおもひもいれじ秋のよの月
桐の葉もふみ分けがたくなりにけりかならず人をまつとなけれど
玉の緒よ絶えなばたえねながらへば忍ぶることのよわりもぞする
わすれてはうちなげかるる夕かな我のみしりて過ぐる月日を
夢にても見ゆらむものをなげきつつうちぬるよひの袖のけしきは
逢ふ事を今日まつがえの手向草いくよしをるる袖とかはしる
いきてよもあすまで人はつらからじ此夕ぐれをとはばとへかし
ながめ佗びぬあきより外の宿もがな野にもやまにも月やすむらん
(式子内親王の一首)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syokusi.html#AT
百首歌の中に
ながむれば衣手すずしひさかたの天の河原の秋の夕暮(新古321)
【通釈】じっと眺めていると、自分の袖も涼しく感じられる。川風が吹く、天の川の川原の秋の夕暮よ。
【補記】まだ星は見えていない夕空を眺め、天の川に思いを馳せる。爽やかな涼感に焦点をしぼった、清新な七夕詠。「前小斎院御百首」。
【主な派生歌】
夕されば衣手すずし高円の尾上の宮の秋のはつかぜ(源実朝)
後鳥羽院(ごとばのいん) 治承四~延応一(1180~1239) 諱:尊成(たかひら)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/gotoba.html
治承四年七月十四日(一説に十五日)、源平争乱のさなか、高倉天皇の第四皇子として生まれる。母は藤原信隆女、七条院殖子。子に昇子内親王・為仁親王(土御門天皇)・道助法親王・守成親王(順徳天皇)・覚仁親王・雅成親王・礼子内親王・道覚法親王・尊快法親王。
寿永二年(1183)、平氏は安徳天皇を奉じて西国へ下り、玉座が空白となると、祖父後白河院の院宣により践祚。翌元暦元年(1184)七月二十八日、五歳にして即位(第八十二代後鳥羽天皇)。翌文治元年三月、安徳天皇は西海に入水し、平氏は滅亡。文治二年(1186)、九条兼実を摂政太政大臣とする。建久元年(1190)、元服。兼実の息女任子が入内し、中宮となる(のち宜秋門院を号す)。同三年三月、後白河院は崩御。七月、源頼朝は鎌倉に幕府を開いた。
建久九年(十九歳)一月、為仁親王に譲位し、以後は院政を布く。同年八月、最初の熊野御幸。翌正治元年(1199)、源頼朝が死去すると、鎌倉の実権は北条氏に移り、幕府との関係は次第に軋轢を増してゆく。またこの頃から和歌に執心し、たびたび歌会や歌合を催す。正治二年(1200)七月、初度百首和歌を召す(作者は院のほか式子内親王・良経・俊成・慈円・寂蓮・定家・家隆ら)。同年八月以降には第二度百首和歌を召す(作者は院のほか雅経・具親・家長・長明・宮内卿ら)。
建仁元年(1201)七月、院御所に和歌所を再興。またこれ以前に「千五百番歌合」の百首歌を召し、詠進が始まる。同年十一月、藤原定家・同有家・源通具・藤原家隆・同雅経・寂蓮を選者とし、『新古今和歌集』撰進を命ずる。同歌集の編纂には自ら深く関与し、四年後の元久二年(1205)に一応の完成をみたのちも、「切継」と呼ばれる改訂作業を続けた。同二年十二月、良経を摂政とする。
元久二年(1205)、白河に最勝四天王院を造営する。承久元年(1219)、三代将軍源実朝が暗殺され、幕府との対立は荘園をめぐる紛争などを契機として尖鋭化し、承久三年五月、院はついに北条義時追討の兵を挙げるに至るが(承久の変)、上京した鎌倉軍に敗北、七月に出家して隠岐に配流された。
以後、崩御までの十九年間を配所に過ごす。
この間、隠岐本新古今集を選定し、「詠五百首和歌」「遠島御百首」「時代不同歌合」などを残した。また嘉禄二年(1226)には自歌合を編み、家隆に判を請う。嘉禎二年(1236)、遠島御歌合を催し、在京の歌人の歌を召して自ら判詞を書く。延応元年(1239)二月二十二日、隠岐国海部郡刈田郷の御所にて崩御。六十歳。刈田山中で火葬に付された。御骨は藤原能茂が京都に持ち帰り、大原西林院に安置した。同年五月顕徳院の号が奉られたが、仁治三年(1242)七月、後鳥羽院に改められた。
歌論書に「後鳥羽院御口伝」がある。新古今集初出。
式子内親王(しょくしないしんのう) 久安五~建仁一(1149~1201)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syokusi.html
式子は「しきし」とも(正しくは「のりこ」であろうという)。御所に因み、萱斎院(かやのさいいん)・大炊御門(おおいのみかど)斎院などと称された。
後白河天皇の皇女。母は藤原季成のむすめ成子(しげこ)。亮子内親王(殷富門院)は同母姉、守覚法親王・以仁王は同母弟。高倉天皇は異母兄。生涯独身を通した。
平治元年(1159)、賀茂斎院に卜定され、賀茂神社に奉仕。嘉応元年(1169)、病のため退下(『兵範記』断簡によれば、この時二十一歳)。治承元年(1177)、母が死去。同四年には弟の以仁王が平氏打倒の兵を挙げて敗死した。元暦二年(1185)、准三后の宣下を受ける。建久元年(1190)頃、出家。法名は承如法。同三年(1192)、父後白河院崩御。この後、橘兼仲の妻の妖言事件に捲き込まれ、一時は洛外追放を受けるが、その後処分は沙汰やみになった。
建久七年(1196)、失脚した九条兼実より明け渡された大炊殿に移る。正治二年(1200)、春宮守成親王(のちの順徳天皇)を猶子に迎える話が持ち上がったが、この頃すでに病に冒されており、翌年正月二十五日、薨去した。五十三歳。
藤原俊成を和歌の師とし、俊成の歌論書『古来風躰抄』は内親王に捧げられたものという。その息子定家とも親しく、養和元年(1181)以後、たびたび御所に出入りさせている。正治二年(1200)の後鳥羽院主催初度百首の作者となったが、それ以外に歌会・歌合などの歌壇的活動は見られない。他撰の家集『式子内親王集』があり、三種の百首歌を伝える(日本古典文学大系80・鹿集大成三・身辺国家大観四・和歌文学大系23・私家集前借草書28などに所収)。千載集初出。勅撰入集百五十七首。
その二)土御門院と皇太后宮大夫俊成女
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方二・土御門院)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009395
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方二・皇太后宮大夫俊成女)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009413
(右方二・皇太后宮大夫俊成女)=右・和歌:左・肖像
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019784
(バーチャル歌合)
左方二 土御門院
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010678000.html
伊勢の海のあまの原なる朝がすみ/空にしほやく煙とぞ見る
右方二 皇太后宮大夫俊成女
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010679000.html
下もえにおもひ消南(きえなむ)煙だに/跡なき雲のはてぞかなしき
判詞(宗偽)
右方の俊成女は、後鳥羽院と同時代の、式子内親王の後継者ともいうべき、後鳥羽院歌壇の中心メンバーの一人ということになろう。対する、左方の土御門院は、後鳥羽院の第一皇子で、俊成女は、兄の定家ともども土御門院の師範挌のような立場で、ここにも、この俊成女を据えたのも、後鳥羽院の意向のように思われる。
『後鳥羽院-日本文學の源流と傳統(思潮社刊)』という著を有する保田與重郎は、次のように俊成女を高く評価している。
「幽玄にして唯美な作として、俊成女ほどに象徴的な美の姿を、ことばで描き出した詩人はなかつた。俊成女のつくりあげた歌のあるものは、たゞ何となく美しいやうなもので、その美しさは限りない。かういふ文字で描かれた美しさの相をみると、普通の造形藝術といふものの低さが明白にわかるのである。音樂の美しさよりももつと淡いもので、形なく、意もなく、しかも濃かな美がそこに描かれてゐる。驚嘆すべき藝術をつくつた人たちの一人である」(保田與重郎『日本語録』)
この「新三十六人歌合」は、「後鳥羽院撰」伝承といことを考慮すると、これまた、右方の「皇太后宮大夫俊成女」の一首を「勝」とすべきなのであろう。
(土御門院御製)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#02
雪のうちに春は来ぬとも告げなくにまづ知るものは鶯のこゑ
埋れ木の春の色とやのこるらむ朝日がくれの谷のしら雪
伊勢の海のあまの原なる朝霞空にしほやく煙とぞ見る
見わたせば松もまばらになりにけり遠山桜咲きにけらしも
秋もなほ天の川原にたつ波のよるぞみじかき星合の空
おしなべて時雨るるまではつれなくて霰におつる栢木の森
逢はでふる涙の末やまさるらむ妹背の山の中の滝つせ
春のはな秋のもみぢのなさけだにうき世にとまる色ぞすくなき
白雲をそらなる物とおもひしはまだ山こえぬ都なりけり
秋の夜もやや更けにけり山鳥のをろのはつをにかかる月かげ
(俊成卿女)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#22
梅のはなあかぬ色香もむかしにておなじかたみの春の夜の月
うらみずやうき世を花のいとひつつさそふ風あらばと思ひけるかな
面影のかすめる月ぞやどりけるはるやむかしのそでのなみだに
をしむともなみだに月はこころからなれぬる袖に秋をうらみて
色かはる露をば袖におきまよひうらがれて行く野辺のあきかな
ふりにけり時雨は袖に秋かけていひしばかりを待つとせしまに
霜枯はそことも見えぬ草の原たれにとはまし秋の名残を
あだに散る露の枕にふしわびてうづら鳴くなりとこの山かぜ
夢かとよ見し面かげも契りしもわすれずながらうつつならねば
いにしへの秋の空まですみだ河月にこととふそでのつゆかな
(俊成卿女の一首)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syunzejo.html#LV
五十首歌奉りしに、寄雲恋
下もえに思ひ消えなむ煙だに跡なき雲のはてぞかなしき(新古1081)
【通釈】おもてには顕わさず、ひそかに思い焦がれるまま、我が身は燃え尽きてしまうだろう、そしてその煙さえ、跡形もなく雲の果に消えてしまうだろう、と思えば悲しい。
【補記】建仁元年(1201)の仙洞句題五十首。
【他出】自讃歌、定家十体(幽玄様)、定家八代抄、続歌仙落書、俊成卿女集、新時代不同歌合、題林愚抄、兼載雑談
【参考歌】「狭衣物語」四
消え果てて煙は空にかすむとも雲のけしきをわれと知らじな
かすめよな思ひ消えなむ煙にも立ち遅れてはくゆらざらまし
土御門院 (つちみかどのいん) 建久六~寛喜三(1195-1231) 諱:為仁
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tutimika.html
後鳥羽院の第一皇子。母は承明門院在子(源通親の養女)。大炊御門麗子を皇后とする。贈皇太后土御門通子との間に覚子内親王(正親町院)・仁助法親王・静仁法親王・邦仁王(後嵯峨天皇)をもうけた。
建久九年(1198)正月十一日、四歳で立太子し、即日受禅。三月三日、即位。承元四年(1210)十一月二十五日、皇太弟守成親王(順徳天皇)に譲位。この時十六歳。承久三年(1221)の乱には関与せず、幕府からの咎めもなかったが、父後鳥羽院が隠岐へ、弟順徳院が佐渡へ流されるに際し、自らも配流されることを望んだ。同年閏十一月、土佐に遷幸し、翌年幕府の意向により阿波に移る。寛喜三年(1231)十月、出家。法名は行源。同月十一日(または十日)、阿波にて崩御。三十七歳。陵墓は京都府長岡京市金、金原陵。徳島県鳴門市池谷に火葬塚がある。
新勅撰集などによれば内裏歌合を催したことがあったらしい。建保四年(1216)三月成立の『土御門院御百首』には定家・家隆の合点、定家の評が付されている。御製を集めた『土御門院御集』がある。続後撰集初出。勅撰入集百五十四首。新三十六歌仙。
藤原俊成女(ふじわらのとしなりのむすめ) 生没年未詳(1171?~1254?)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syunzejo.html
藤原俊成の養女。実父は尾張守左近少将藤原盛頼、母は八条院三条(俊成の娘)。俊成は実の祖父にあたるが、その歌才ゆえ父の名を冠した「俊成卿女」「俊成女」の名誉ある称を得たのであろう。晩年の住居に因み嵯峨禅尼、越部禅尼などとも呼ばれる。勅撰集等の作者名表記としては「侍従具定母」とも。
治承元年(1177)、七歳の頃、父盛頼は鹿ヶ谷の変に連座して官を解かれ、八条院三条と離婚。以後、俊成卿女は祖父俊成のもとに預けられたものらしい。建久元年(1190)頃、源通具(通親の子)と結婚し、一女と具定を産む。しかし夫は正治元年(1199)頃、幼帝土御門の乳母按察局を妻に迎え、以後の結婚生活は決して幸福なものではなかったようである。
後鳥羽院主催の建仁元年(1201)八月十五日撰歌合が「俊成卿女」の名の初見。同年の院三度百首(千五百番歌合)にも詠進している。同二年(1202)、後鳥羽院に召され、女房として御所に出仕する。院歌壇の中心メンバーの一人として、「水無瀬恋十五首歌合」「八幡宮撰歌合」「春日社歌合」「元久詩歌合」「最勝四天王院障子和歌」などに出詠した。
建保元年(1213)、出家。以後も旺盛な作歌活動を続け、建保三年(1215)の「内裏名所百首」をはじめ、順徳天皇の内裏歌壇を中心に活躍した。安貞元年(1227)、夫通具の死後、嵯峨に隠棲。貞永二年(1233)頃、兄定家の『新勅撰和歌集』撰進の資料として、家集『俊成卿女集』を自撰した。仁治二年(1241)の定家死後、播磨国越部庄に下り、余生を過ごした。晩年まで創作に衰えを見せず、宝治二年(1248)の後嵯峨院「宝治百首」などに健在ぶりが窺える。
建長三年(1251)以後、甥(実の従弟)為家に続後撰集に関する評などを送った『越部禅尼消息』がある。また物語批評の書『無名草子』の著者を俊成卿女とする説がある。
新古今集の29首をはじめ、勅撰集に計116首を入集。宮内卿と共に新古今の新世代を代表する女流歌人。新三十六歌仙。
(俊成女評)
「今の御代には、俊成卿女と聞こゆる人、宮内卿、この二人ぞ昔にも恥じぬ上手共成りける。哥のよみ様こそことの外に変りて侍れ。人の語り侍りしは、俊成卿女は晴の哥よまんとては、まづ日を兼ねてもろもろの集どもをくり返しよくよく見て、思ふばかり見終りぬれば、皆とり置きて、火かすかにともし、人音なくしてぞ案ぜられける」(鴨長明『無名抄』)。
「幽玄にして唯美な作として、俊成女ほどに象徴的な美の姿を、ことばで描き出した詩人はなかつた。俊成女のつくりあげた歌のあるものは、たゞ何となく美しいやうなもので、その美しさは限りない。かういふ文字で描かれた美しさの相をみると、普通の造形藝術といふものの低さが明白にわかるのである。音樂の美しさよりももつと淡いもので、形なく、意もなく、しかも濃かな美がそこに描かれてゐる。驚嘆すべき藝術をつくつた人たちの一人である」(保田與重郎『日本語録』)
(その三)順徳院と前内大臣(源通光)
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方三・順徳院)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009396
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方四・前内大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009414
(バーチャル歌合)
左方三 順徳院
ほのぼのと明けゆくやまのさくらばな/かつふりまさる雪かとぞ見る
右方三 前内大臣(源通光)
雲のゐるとをやまひめの花かづら/霞をかけてにほふはる風
判詞(宗偽)
ここで、あらためて、ここまでの左方の作者は、後鳥羽院とその皇子、即ち、三上皇の揃い踏みなのである。こういう芸当が出来る人は、後鳥羽院その人以外には考えなれないという思いがする。
左方一(後鳥羽院・第八十二代天皇)→左方二(土御門院=後鳥羽院の第一皇子・第八十三代天皇)→左方三(順徳院=後鳥羽天皇の第三皇子・第八十四代天皇)
それに対する右方は、その「後鳥羽院歌壇」の、それぞれに対応する、この「歌合」(虚構の「歌合」)の主宰者(最終的に「後鳥羽院」その人?)の意向のように思われる。
右方一(式子内親王)→右方二(皇太后宮大夫俊成女)→右方三(後久我前太政大臣通光)
ここで、あらためて、両首を並列してみたい。
左方三 順徳院
ほのぼのと明けゆくやまのさくらばな/かつふりまさる雪かとぞ見る
右方三 前内大臣(源通光)
雲のゐるとをやまひめの花かづら/霞をかけてにほふはる風
これは、撰者との伝承のある「後鳥羽院」その人の「判詞」(判定)という観点からすると、「持」(引き分け)とするのが「可」なのかも知れないが、この「左方」の一首に『小倉百人一首』(藤原定家撰)の最終を締め括った、次の一首に思いを重ね併せて、左方の順徳院の「勝」としたい。
ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり(順徳院『続後撰1205』)
(順徳院御製)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#03
風吹けば峰のときは木露おちて空よりきゆるはるのあは雪
花鳥の外にも春のありがほにかすみてかかる山のはの月
しら雲や花よりうへにかかるらむ桜ぞたかきみ吉野の山
難波江の潮干のかたやかすむらん蘆間にとほきあまの釣舟
あすか川ふちせもえやはわぎもこがうちたれがみの五月雨のころ
暁と思はでしもやほととぎすまだ中空の月に鳴くらむ
明石潟あまのとま屋のけぶりだにしばしぞくもる秋の夜の月
風さゆる夜はのころもの関守は寝られぬままに月や見るらむ
水ぐきの岡のあさぢのきりぎりす霜のふりはや夜寒なるらむ
一すぢに憂きになしてもたのまれずかはるにやすき人のこころは
(後久我前太政大臣通光)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#12
三島江やしももまだひぬあしのはにつのぐむほどのはる風ぞふく
まがふとていとひしみねのしら雲はちりてぞはなのかたみなりける
明けぬとて野べより山にいるしかのあとふきおくる萩の下かぜ
むさし野やゆけども秋のはてぞなきいかなるかぜの末にふくらむ
龍田山よはにあらしのまつふけばくもにはうときみねの月かげ
入日さす麓の尾ばなうちなびきたがあき風にうづらなくらむ
限あればしのぶのやまのふもとにも落ばがうへの露もいろづく
浦人のひも夕ぐれになるみ潟かへる袖より千鳥なくなり
ながめ佗びぬそれとはなしに物ぞおもふくものはたての夕ぐれの空
幾めぐり空行く月もめぐりきぬ契りしなかはよそのうき雲
(順徳院の二首)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/juntoku.html
後鳥羽院かくれさせ給うて、御なげきの比、月を御覧じて
同じ世の別れはなほぞしのばるる空行く月のよそのかたみに(新拾遺918)
【通釈】隠岐と佐渡と、はるか遠くの国に離れていても同じこの世には生きておりましたのに、今や父帝とは今生(こんじょう)の世でもお別れすることとなり、いっそう思慕されてなりません。空をゆく月はたった一つ、それを父帝の面影と偲んでおりましたが、御身はこの世の外へ逝かれ、もはや月を形見と眺めるばかりでございます。
【語釈】◇同じ世の別れ 離れ離れではあっても、同じ世に生きていたが、その同じ世からも別れることになった、ということ。
【補記】後鳥羽院は延応元年(1239)二月二十二日、隠岐国海部郡刈田郷の御所にて崩御。
【主な派生歌】
雲ゐぢもなほ同じ世とたのみしをさてだにあらで別れぬるかな(契沖)
題しらず
ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり(続後撰1205)
【通釈】大宮の古び荒れた軒端の忍草――いくら偲んでも、なお偲び尽くせない昔の御代なのであった。
【語釈】◇ももしき 宮廷。上代、「ももしきの」は「大宮」にかかる枕詞であったが、のち大宮そのものを指すようにもなった。◇古き軒端 古び、荒れた屋敷の軒端。百人一首の注釈の多くは、「古き軒端のしのぶ」に宮廷の衰微の象徴を見る。◇しのぶ 忍草。荒れた家の軒端に生える草とされた。偲ぶ(恋い慕う)・忍ぶ(堪え忍ぶ)両義を掛けるか。◇なほあまりある いくら偲んでも、偲び尽くせない。「堪え忍んでも、恋慕の情が外に漏れてしまう」意を掛ける。◇昔 王朝の権威が盛んだった聖代。
【補記】建保四年(1216)頃の「二百首和歌」。承久の乱の五年前である。
【他出】百人一首、紫禁和歌集、万代集、新時代不同歌合
【参考歌】源等「後撰集」
浅茅生の小野の篠原しのぶれどあまりてなどか人の恋しき
【主な派生詩歌】
秋をへてふるき軒ばのしのぶ草忍びに露のいくよ置くらむ(禅信)
小泊瀬やふるき軒端のむかしをも忍ぶの露に匂ふむめがか(源高門)
月うすくふるきのきばの梅にほひ昔しのべとなれる夜半かな(*源親子)
都にはありし忍ぶのみだれよりふるき軒ばのまれになりぬる(姉小路基綱)
いにしへをふるき軒端のしのぶ夜はもらぬ袂もうちしぐれつつ(本居宣長)
今歳水無月のなどかくは美しき。/軒端を見れば息吹のごとく/萌えいでにける釣しのぶ。/忍ぶべき昔はなくて/何をか吾の嘆きてあらむ。(伊東静雄「水中花」より)
順徳院(じゅんとくいん) 建久八年~仁治三年(1197-1242) 諱:守成
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後鳥羽天皇の第三皇子。母は贈左大臣高倉範季女、修明門院重子。姉の昇子内親王(春華門院)を准母とする。土御門天皇・道助法親王の弟。雅成親王の同母兄。子に天台座主尊覚法親王、仲恭天皇、岩倉宮忠成王ほか。
建久八年(1197)九月十日、誕生。正治元年(1199)十二月、親王となり、同二年四月、兄土御門天皇の皇太弟となる。承元二年(1208)十二月、元服。同三年、故九条良経の息女、立子(東一条院)を御息所とした。同四年(1210)十一月、兄帝の譲位を受けて践祚(第八十四代天皇)。父の院と共に宮廷の儀礼の復興に努め、また内裏での歌会を盛んに催した。建保六年(1218)十一月、中宮立子との間にもうけた懐成親王(即位して仲恭天皇)を皇太子とする。
承久三年(1221)四月二十日、譲位し、翌月、後鳥羽院とともに討幕を企図して承久の変をおこしたが、敗北し、佐渡に配流される。以後、同地で二十一年を過ごし、仁治三年(1242)九月十三日(十二日とも)、崩御。四十六歳。絶食の果ての自殺と伝わる。佐渡の真野陵に葬られたが、翌寛元元年(1243)、遺骨は都に持ち帰られ、後鳥羽院の大原法華堂の側に安置された。建長元年(1249)、順徳院の諡号を贈られる(それ以前は佐渡院と通称されていた)。
幼少期から藤原定家を和歌の師とし、詠作にはきわめて熱心であった。その息子為家も近習・歌友として深い仲であった。俊成卿女とも親しく、建保三年(1215)、俊成卿女出家の際 などに歌を贈答している。建暦二年(1212)の内裏詩歌合をはじめとして、建保二年(1214)の当座禁裏歌会、同三年の内裏名所百首、同四年の百番歌合、同五年の四十番歌合・中殿和歌御会、承久元年(1219)の内裏百番歌合など、頻繁に歌合・歌会を主催した。配流後の貞永元年(1232)には、佐渡で百首歌(「順徳院御百首」)を詠じ、定家と隠岐の後鳥羽院のもとに送って合点を請うた。嘉禎三年(1237)、定家はこの百首に評語を添えて進上している。
著作に、宮廷故実の古典的名著『禁秘抄』、平安歌学の集大成『八雲御抄』、日記『順徳院御記』がある(建暦元年-1211-から承久三年-1221-まで残存)。続後撰集初出(十七首)、以下勅撰集に計百五十九首入集。自撰の『順徳院御集』(紫禁和歌草とも)がある。新三十六歌仙。小倉百人一首に歌を採られている。
源通光(みなもとのみちてる(みちみつ)) 文冶三~宝治二(1187-1248) 号:後久我太政大臣
内大臣土御門通親の三男。母は刑部卿藤原範兼女、従三位範子。通宗・通具の異母弟。承明門院在子(後鳥羽院妃)の同母異父弟。内大臣定通・大納言通方の同母兄。子に大納言通忠・同雅忠・式乾門院御匣ほかがいる。
後鳥羽天皇の文治四年(1188)、叙爵。正治元年(1199)、禁色を聴される。右少将・中将などを経て、建仁元年(1201)、従三位に叙せられる。同二年には正三位・従二位と累進。同年末、父を亡くすが、その後も後鳥羽院政下で順調に昇進し、同四年四月、権中納言。土御門天皇の元久二年(1205)、正二位に昇り、中納言に転ず。建永二年(1207)二月、権大納言。建保元年(1213)、娘を雅成親王に嫁がせる。順徳天皇の建保五年(1217)正月、右大将を兼ねる。
同六年十月、大納言に転ず。同七年三月、内大臣に至る。しかし承久三年(1221)の承久の乱後、幕府の要求により閉居を命ぜられ、官を辞した。安貞二年(1228)三月、朝覲行幸の際に出仕を許され、後嵯峨院院政の寛元四年(1246)十二月二十四日、辞任した西園寺実氏に代り太政大臣に任ぜられた。同日、従一位。宝治二年(1248)正月十七日、病により上表して辞職、翌十八日、薨ず。六十二歳。
建仁元年(1201)、十五歳の時歌壇に登場し、早熟の才を発揮した。同年の「千五百番歌合」では参加歌人中最年少。同年三月の「通親亭影供歌合」、同二年(1202)五月の「仙洞影供歌合」、同三年(1203)六月の「影供歌合」、元久元年(1204)の「春日社歌合」「元久詩歌合」、建永元年(1206)七月の「卿相侍臣歌合」、同二年の「賀茂別雷社歌合」「最勝四天王院和歌」などに出詠。順徳天皇の内裏歌壇でも活躍し、建保四年(1216)閏六月の「内裏百番歌合」、建保五年(1217)十一月の「冬題歌合」、承久元年(1219)七月の「内裏百番歌合」などに詠進。
建保五年(1217)八月には自邸に定家・慈円・家隆らを招き、歌合を催す(「右大将家歌合」)。承久の乱後は歌壇から遠ざかるも、後鳥羽院への忠義を失わず、嘉禎二年(1236)の遠島歌合に出詠した。宝治元年(1247)には、後嵯峨院の内裏歌合に出席、俊成卿女と詠を競った。
新古今集初出(十四首)。勅撰入集計四十九首。琵琶の名手でもあったという。
(その四)※仁和寺宮(※※道助法親王)と前大納言忠良(藤原忠良)
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方四・※仁和寺宮」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009397
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方四・前大納言忠良」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009415
(左方四・※仁和寺宮)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019789
(バーチャル歌合)
左方四・※仁和寺宮(※※道助法親王)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010681000.html
萩のはに風の音せぬ秋もあらば/なみだのほかに月はみてまし
右方四・前大納言忠良(藤原忠良)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010683000.html
ゆふづく日さすやいほりの柴の戸に/さびしくもあるかひぐらしのこゑ
判詞(宗偽)
藤原忠良が、判者の一人となった「千五百番歌合」(「建仁元年(1201))千五百番歌合」のトップは、次のようなものである(『日本古典文学大系74 歌合集』)。
一番 左 勝
春立てばかはらぬ空ぞかはり行(ゆく)昨日の雲か今日の霞か 女房
右
いつしかと雲井に春や立(たち)ぬらん雪げをこめてかすむ空哉 三宮
左歌、心(こころ)詞はめづらしくこそ侍れ。右歌も、なだらかには侍(はべる)を、雲
井と空とは同事にや侍らん。以左為勝。
この左方の作者の「女房」は「後鳥羽院」の筆名(戯名)で、右方の作者の「三宮」は「後鳥羽院の異母兄」の兄弟対決なのである。この「判詞」のスタイルを借用すると、「左方四・※仁和寺宮(道助法親王)」と「右方四・前大納言忠良(藤原忠良)」の対決の「判詞」は次のとおりとなる。
左歌、心(こころ)詞(ことば)はめづらしくこそ侍れ。右歌も、なだらかには侍(はべる)を、「さびしくも」に「ひぐらしのこゑ」安易にや侍らん。以左為勝(左ヲ以ッテ勝ト為ス)。
(※※道助親王の一首)=「左方四・※仁和寺宮(※※道助法親王)」の「萩のはに風の音せぬ秋もあらば/なみだのほかに月はみてまし」の一首。
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秋歌よみ侍りけるに
荻の葉に風の音せぬ秋もあらば涙のほかに月は見てまし(新勅撰223)
【通釈】荻の葉を風が訪れてそよがせる――その音が聞えない秋があったならば、涙に煩わされず美しい月を見ることができたろうに。
【補記】荻は薄によく似た植物。大きな葉のそよぐ音に秋の訪れを知った。「涙のほかに」は「涙とは無関係に」といった意味。
【参考歌】
藤原頼輔「千載集」
身の憂さの秋は忘るるものならば涙くもらで月は見てまし
藤原伊通「金葉集」
稲葉吹く風の音せぬ宿ならばなににつけてか秋を知らまし
【主な派生歌】
春の月涙の外にみる人やかすめるかげのあはれしるらむ(宗尊親王)
さやかなる月さへうとくなりぬべし涙の外に見るよなければ(永福門院)
(藤原忠良の一首)
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百首歌たてまつりし時
あふち咲く外面(そとも)の木かげ露おちて五月雨はるる風わたるなり(新古234)
【通釈】楝の花が咲く、家の外の木陰――そこから露が落ちて、五月雨の晴れる風がわたってゆくようだ。
【語釈】◇あふち 楝。栴檀。初夏に芳香のある薄紫色の花をつける。◇そとも 外面。家の外。◇五月雨(さみだれ) 陰暦五月頃に降る雨。梅雨。◇風わたるなり 「なり」は視覚以外の感覚(露の落ちる音、あるいは肌に感じる涼しさ)によって判断していることを示す助動詞。
【補記】五月雨は降り止んだかと戸外を眺めれば、楝の花咲く木蔭に露がしたたる。折しも、雨雲を追いやった風が樹々の上を渡ってゆくらしい。薄紫の花に落ちた露という微小な景から、晴れゆく空をわたる風の想像へ、大きな転換が鮮やか。
出典は老若五十首歌合。詞書の「百首」は誤り。
【他出】定家十体(見様)、新時代不同歌合、六華集
【主な派生歌】
あふち咲く山田の木蔭風すぎて見るも涼しくとる早苗かな(飛鳥井雅有)
あふち咲く梢に雨はややはれて軒のあやめにのこる玉水(*平経親[風雅])
露はらふ風ぞ涼しきあふち咲く外面のかげの夏の夕暮(二条為親)
あふち咲くそともの木陰くらき夜も聞かでや明けむ山ほととぎす(下冷泉持為)
※※道助親王(どうじょしんのう) 建久七~宝治三(1196-1249) 諱:長仁 通称:鳴滝宮・光台院御室
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後鳥羽院の第二皇子。母は内大臣坊門信清女。土御門院の異母弟。順徳院・雅成親王の異母兄。入道二品親王。
建久七年(1196)十月十六日、生れる。七条院の猶子となる。正治元年(1199)、親王宣下。建仁元年(1201)十一月、仁和寺に入る。建永元年(1206)、十一歳で出家、光台院に住む。承元四年(1210)十一月、叙二品。建暦二年(1212)十二月、道法法親王により伝法灌頂を受ける。建保二年(1214)十一月、第八世仁和寺御室に補せられた。寛喜三年(1231)三月、御室の地位を弟子の道深法親王に譲り、高野山に隠居。建長元年(1249)一月十六日、入滅。五十四歳。光台院御室・高野御室と称された。
承久二年(1220)以前の「道助法親王五十首」、嘉禄元年(1225)四月に企画された「道助法親王家十首和歌」などを主催した。隠遁後、宝治二年(1248)の「宝治百首」に出詠。御集が伝わるが上巻を欠く。新勅撰集初出。勅撰入集は計三十八首。「新時代不同歌合」歌仙。新三十六歌仙。
藤原忠良(ふじわらのただよし) 長寛二~嘉禄元(1164-1225) 号:鳴滝大納言
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法性寺殿忠通の孫。六条摂政基実の次男。母は左京大夫藤原顕輔の娘。摂政内大臣基通の弟。兼実・慈円らの甥で、良経の従兄。また清輔の甥にあたる。子の衣笠内大臣家良・大納言基良も勅撰歌人。
永万二年(1166)、三歳の時、父を亡くす。治承四年(1180)、元服して正五位下に叙せらる。養和元年(1181)、従四位下に昇り、侍従より左中将に転ず。寿永二年(1183)、従三位。同年右兵衛督に任ぜられ、年末に右権中将に遷る。文治三年(1187)十二月、権中納言。同五年七月、中納言に転ず。建久二年(1191)三月、権大納言に進む。建仁二年(1202)、大納言に至るが、同四年三月、辞職した。承久三年(1221)、出家。嘉禄元年(1225)五月十六日、六十二歳で薨ず。最終官位は正二位。藤原定家の日記『明月記』に評して「雖非器之性、柔和心操歟」とある。
後鳥羽院主催の「正治二年初度百首」「老若五十首歌合」「新宮撰歌合」「千五百番歌合」などに出詠。「千五百番」では判者も務めた。また建仁元年(1201)三月の「通親亭影供歌合」にも参加し、正治二年(1200)の「三百六十番歌合」に選ばれている。千載集初出。勅撰入集六十九首。
(補注)
「※仁和寺宮」は、下記の「※※※守覚法親王」の通称でもあるが、この「※※※守覚法親王」(北院御室)は、後鳥羽院撰(伝承)の「新三十六歌仙」には入集されていない。そして、「新三十六歌仙」には、「和泉市久保惣記念美術館蔵」の「入道二品親王道助(※※道助親王)」(光台院御室)が入集されており、その一首での「バーチャル歌合」としている。
※※※守覚法親王(しゅかくほっしんのう) 久安六~建仁二(1150-1202) 通称:北院御室(きたいんおむろ)・喜多院御室・仁和寺宮
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(その五)後法性寺入道前関白太政大臣(九条兼実)と土御門内大臣(源通親)
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方五・後法性寺入道前関白太政大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009398
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方五・土御門内大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009416
(左方五・後法性寺入道前関白太政大臣)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019790
(バーチャル歌合)
左方五・後法性寺入道前関白太政大臣(九条兼実)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010684000.html
かすみしく春のしほぢをみわたせば/みどりをわくるおきつしらなみ
右方五・土御門内大臣(源通親)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010685000.html
おりしもあれ月はにしにも成りぬらん/雲のみなみにはつかりのこゑ
判詞(宗偽)
「千五百番歌合」(「建仁元年(1201))千五百番歌合」の七十七番(左方=左大臣、右方=俊成卿女)は、次のようなものである(『日本古典文学大系74 歌合集』)。
七十七番 左 左大臣
妻恋の雉(きぎす)なく野の下わらび下にもえても折りをしる哉
右 勝 俊成卿女
梅の花あかぬ色香(か)も昔にておなじかたみの春の夜の月
左の歌がら宜(よろしく)侍れども、右「同じ形見の春の夜の月」尤よろし。可為勝
この判詞のスタイルを借用したい。
「左方五・後法性寺入道前関白太政大臣(九条兼実)」の歌がら宜(よろしく)侍れども、「右方五・土御門内大臣(源通親)」の「おりしもあれ月はにしにも成りぬらん」の上句の破調尤よろし。以右為勝。
(九条兼実の一首)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kanezane.html#SP
右大臣に侍りける時、家に歌合し侍りけるに、霞の歌とてよみ侍りける
霞しく春の潮路を見わたせばみどりを分くる沖つ白波(千載8)
【通釈】すみずみまで霞が広がる、春の航路を見わたせば、水の色に染まった霞と、青い海原と、ひとつに融け合ったようないちめん真っ青な景色を、沖に立つ白波だけがくっきりと分けているようだ。
【語釈】◇潮路(しほぢ) 話手が乗っている船の前に広がる海原。◇みどりをわくる 霞と海がひとつに融け合ったような景色の中で、水平線に白く立つ波が霞と海とを分けて見せている、ということ。海や空の青色を当時は「みどり」と言った。
【参考歌】藤原忠通「詞花集」
わたの原こぎ出でてみれば久方の雲居にまがふ沖つ白波
(源通親の一首)
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百首歌たてまつりしとき
朝ごとに汀(みぎは)の氷ふみわけて君につかふる道ぞかしこき(新古1578)
【通釈】毎朝、水際に張った氷を踏み、道をつけて、宮城に通います。そのように、陛下にお仕えする臣下の道は、身も竦むように畏れ多いものです。
【語釈】◇氷ふみわけて 「ふみわけ」は踏んで道をつけることを言う。氷をよけて通ることではない。「薄氷を履(ふ)む如し」(詩経)を踏まえるとする説もある。◇道ぞかしこし この「道」は、宮廷に仕える臣下としての、然るべきあり方・生き方を言う。「かしこし」は、霊威に対し畏怖を感じる心をいうのが原義。身も心もすくむような感情。
【補記】正治二年(1200)の後鳥羽院初度百首。
【他出】定家十体(有一節様)、新時代不同歌合
【本歌】「源氏物語・浮舟」
峰の雪みぎはの氷ふみわけて君にぞまどふ道はまどはず
九条兼実(くじょうかねざね)久安五~建永二(1149-1207) 通称:月輪殿・後法性寺殿・後法性寺入道関白など
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九条家の祖。関白藤原忠通の子。母は藤原仲光女、加賀。覚忠・崇徳院后聖子・基実・基房らの弟。兼房・慈円らの兄。子には良通・良経・良輔・良平・後鳥羽院后任子ほかがいる。
保元元年(1156)二月、母を亡くす。同三年正月、元服し、正五位下に叙せられる。この年、兄の基実は二条天皇の関白となった。
永暦元年(1160)二月、従三位。 同年八月、権中納言。応保元年(1161)、権大納言。長寛二年(1164)には十六歳にして内大臣に任ぜられた。同年二月、父が逝去。
永万元年(1165)六月、六条天皇の践祚とともに兄基実は摂政に就くが、翌年七月、二十四歳で夭折したため、次兄基房が代わって摂政となった。兼実は仁安元年(1166)、右大臣に昇る。
承安二年(1172)十二月、基房は関白に転じ、やがて反平氏政策を実行、治承三年(1179)十一月、平清盛のクーデタにより解官され備前国に流された。清盛は娘婿の基通(基実の子)を関白とし、後白河法皇の院政を停止。翌年、福原に遷都したが、兼実はこの時京都に留まった。この間、承安四年(1174)には従一位に叙されている。
寿永二年(1183)、平氏都落ちの際、これに同行しなかった摂政基通と共に、後鳥羽天皇の擁立に動いた。木曽義仲入京の際は静観を通したが、源頼朝とは互いに接近し、連絡を取り合った。同三年、義仲誅滅と共に基通が摂政に復帰。しかし基通は文治二年(1186)三月、前年の頼朝追討宣旨の責めを負って辞任し、頼朝の支持のもと、代わって兼実が摂政に就任した。
文治五年(1189)十二月、太政大臣。建久元年(1190)正月、娘の任子を後鳥羽天皇に入内させる。同年、大臣を辞し、翌建久二年、関白に転ずる。同三年(1192)三月、後白河法皇が崩御すると、実権を掌握し、頼朝の征夷大将軍宣下を実現した。
しかし建久七年(1196)、源通親の策謀により関白を罷免され、任子は皇子をなさぬまま内裏を追われた。建仁二年(1202)二月、法性寺で出家し、円証を称す。同年、通親が没し、後鳥羽院が実権を握ると、良経が摂政に任ぜられ、九条家復活の兆しが見えたものの、元久三年(1206)三月にはその良経に先立たれた。翌年の承元元年(1207)四月五日、法性寺にて逝去。享年五十九。
和歌は初め六条家の清輔を師としたが、その死後、俊成を迎えた。承安から治承にかけてさかんに歌会・歌合を開催し、九条家歌壇の基礎をつくった。この歌壇は息子の良経に引き継がれて、慈円・定家ら新風歌人たちの活躍の場となる。千載集初出。勅撰入集計六十首。長寛二年(1164)から正治二年(1200)に及ぶ日記『玉葉』がある。
源通親(みなもとのみちちか) 久安五~建仁二(1149-1202) 号:土御門内大臣・源博陸(げんはくろく)
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村上源氏。内大臣久我(こが)雅通の長男。母は藤原行兼の息女で美福門院の女房だった女性。権大納言通資の兄。子には、通宗(藤原忠雅女所生)、通具(平道盛女所生)、通光・定通(藤原範子所生)がいる。道元(松殿基房女所生)も通親の子とする説がある。後鳥羽院后在子は養女。
保元三年(1158)八月、従五位下に叙される。仁安二年(1167)、右近衛権少将。同三年正月、従四位下に昇叙され、加賀介を兼任する。同年二月、高倉天皇が践祚すると昇殿を許され、以後近臣として崩時まで仕えることになる。同年三月、従四位上、八月にはさらに正四位下に叙せられ、禁色宣下を受ける。嘉応元年(1169)四月、建春門院(平滋子)昇殿をゆるされる。承安元年(1171)正月、右近衛権中将。十二月、平清盛の息女徳子の入内に際し、女御家の侍所別当となる。治承二年(1178)、中宮平徳子所生の言仁(ときひと)親王(安徳天皇)の立太子に際し、東宮昇殿をゆるされる。同三年(1179)正月、蔵人頭に補される。十二月、中宮権亮を兼ねる。同四年正月、参議に任ぜられる。同年三月、高倉上皇の厳島行幸に供奉。六月には福原遷幸にも供奉し、宮都の地を点定した。
平安京還都後の治承五年(1181)正月、従三位に叙されたが、その直後、高倉上皇が崩御(二十一歳)。上皇危篤の時から一周忌までを通親が歌日記風に綴ったのが『高倉院升遐記』である。同年閏二月には平清盛が薨じ、政治の実権は後白河法皇へ移る。以後、通親も法皇のもとで公事に精励することになる。改元して養和元年の十一月、中宮権亮を罷め、建礼門院別当に補される。同二年正月、正三位。
寿永二年(1183)七月、平氏が安徳天皇を奉じて西下すると、通親はそれ以前に比叡山に逃れていた後白河天皇のもとに参入。ついで院御所での議定に列した。同年八月、後鳥羽天皇践祚。この後、通親は新帝の御乳母藤原範子(範兼の娘)を娶り、先夫との間の子在子を引き取って養女とした。
元暦二年(1185)正月、権中納言に昇進。文治二年(1186)三月、源頼朝の支持のもと、九条兼実が摂政に就任。この時通親は議奏公卿の一人に指名された。同三年正月、従二位。同五年正月、正二位(最終官位)。同年十二月、法皇寵愛の皇女覲子内親王(母は丹後局高階栄子)の勅別当に補される。以後、丹後局との結びつきを強固にし、内廷支配を確立してゆく。
建久元年(1190)七月、中納言に進む。同三年三月、後白河院が崩じ、摂政兼実が実権を握るに至るが、通親は故院の旧臣グループを中心に反兼実勢力を形成した。同六年十一月、養女の在子が皇子を出産(のちの土御門天皇)。同月、権大納言に昇る。建久七年(1196)十一月、任子の内裏追放と兼実の排斥に成功。同九年(1198)には外孫土御門天皇を即位させ、後鳥羽院の執事別当として朝政の実権を掌握。「天下独歩するの体なり」と言われ、権大納言の地位ながら「源博陸」(博陸は関白の異称)と呼ばれた(兼実『玉葉』)。
正治元年(1199)正月、右近衛大将に任ぜられる。その直後源頼朝が死去すると、通親排斥の動きがあり、院御所に隠れ籠る。結局幕府の支持を得て事なきを得、同年六月には内大臣に就任し、同二年四月、守成親王(のちの順徳天皇)立太子に際し、東宮傅を兼ねる。
和歌は若い頃から熱心で、嘉応二年(1170)秋頃、自邸で歌合を催している。同年の住吉社歌合・建春門院滋子北面歌合、治承二年(1178)の別雷社歌合などに参加。
殊に内大臣となって政局の安定を果したのちは、活発な和歌活動を展開し、後鳥羽院歌壇と新古今集の形成に向けて大きな役割を果すことになる。正治二年(1200)十月、初めて影供歌合を催し、以後もたびたび開催する。同年十一月には後鳥羽院百首歌会に参加(正治初度百首)。建仁元年(1201)三月、院御所の新宮撰歌合、同年六月の千五百番歌合に参加。同年七月には、二男通具と共に後鳥羽院の和歌所寄人に選ばれた。
しかし新古今集の完成は見ることなく、建仁二年(1202)冬、病に臥し、同年十月二十日夜(または二十一日朝)、薨去。五十四歳。民百姓に至るまで死を悲しみ泣き惑ったという(源家長日記)。贈従一位を宣下される。
著書には上記のほか『高倉院厳島御幸記』などがある。千載集初出。勅撰入集三十二首。
(その六)後京極摂政前太政大臣(藤原良経)と前大僧正慈鎮(慈円)
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方六・後京極摂政前太政大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009399
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方六・前大僧正滋鎮」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009417
(バーチャル歌合)
左方六・後京極摂政前太政大臣(藤原良経)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010686000.html
空はなをかすみもやらず風さえて/雪げにくもるはるの夜の月
右方六・前大僧正滋鎮(慈円)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010687000.html
身にとまるおもひを萩のうは葉にて/このころかなし夕ぐれのそら
判詞(宗偽)
「千五百番歌合」(「建仁元年(1201))千五百番歌合」の百十九番(左方=具親、右方=釋阿)は、次のようなものである(『日本古典文学大系74 歌合集』)。
百十九番 左 持 具親
春風や梅のにほひを誘ふらん行衛(ゆくゑ)さためぬ鶯のこゑ
右 釋阿
いくとせの春に心をつくし来ぬあはれと思へ三吉野の花
右「あはれと思へみよし野の花」、かぎりなく見え侍(はべる)に、左「ゆくゑさためぬ鶯の聲」、又心詞優に侍り。勝負難決(勝負決シ難シ)。
この判詞のスタイルを借用したい。
右「雪げにくもるはるの夜の月」、かぎりなく見え侍(はべる)に、左「このころかなし夕ぐれのそら」又心詞優に侍り。此の叔父(右方=慈円)と甥(左方=良経)の「勝負難決(勝負決シ難シ)」。
(『後鳥羽院御口伝』余話=宗偽)
「近き世になりては、大炊御門前斎院(式子)、故中御門の摂政(良経)、吉水前大僧正(慈円)、これら殊勝なり(特に優れている)。斎院(式子)は、殊に『もみもみ(※)』とあるやうに詠まれき。故摂政(良経)は、『たけ(※※)』をむねとして、諸方を兼ねたりき。いかにぞや見ゆる詞のなさ、哥ごとに由ある(由緒ある)さま、不可思議なりき。百首などのあまりに地哥(平凡な歌)もなく見えしこそ、かへりては難ともいひつべかりしか。秀歌のあまり多くて、両三首などは書きのせがたし。大僧正(慈円)は、おほやう『西行がふり※※※』なり。」(『後鳥羽院御口伝』)。
この三人(式子内親王・藤原良経・慈円)は、『小倉百人一首』(藤原定家撰)に次の歌(八九・九一・九五)が撰ばれている。
八九 玉の緒よ/絶えねば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする(式子内親王)
『後鳥羽院御口伝』の「『もみもみ(※)』とあるやうに詠まれき」の「もみもみ」とは、「あっさりと表現せず、曲折をつくすこと」(広辞苑)の意とすると、それは「『たけ(※※)』をむねとし」の「たけ(※※)」(「自ずと格調が高く品性がある」)と対立的な表現となり、「たけ」をむねとする歌の「定型性」重視に比して、「もみもみ」の歌は「多義性」重視のスタンスとなって来る。
この「式子内親王」の「題詠」(「題」に詠む「虚構(作為)」の作品)の「忍恋」の、この一首の初句切れ(「玉の緒よ(わが命よ)」)の、この「よ」切りに、『後鳥羽院御口伝』の「『もみもみ(※)』とあるやうに詠まれき」の一端が詠み取れる。
九一 きりぎりす鳴くや/霜夜のさむしろに衣片敷きひとりかも寝む(藤原良経)
「故摂政(良経)は、『たけ(※※)』をむねとし」と、「長(たけ)を旨とし=風格を旨とし」の代表的な歌人と後鳥羽院は指摘している。これは、この「きりぎりす(五)・鳴くや/霜夜の(七)・さむしろに(五)」の、この破調のような上の句が、実に流暢に、「もみもみと」せずに詠まれているところに、これまた、後鳥羽院の「『たけ(※※)』をむねとし」の一端が詠み取れる。
九五 おほけなくうき世の民におほふかな/わがたつ杣に墨染の袖(慈円)
「もみもみ※」調の式子内親王、「たけ※※」調の良経に比して、後鳥羽院は、「大僧正(慈円)は、おほやう『西行がふり※※※』なり」と、「西行がふり※※※」調の慈円と評している。この「西行がふり※※※」とは「一見無技巧とも見える平明で流暢な調べ歌」と解せられている(『日本古典文学大系65 歌論集能楽論集』所収「後鳥羽院御口伝(補注)」)。
この『小倉百人一首』の歌ですると、「おほけなくうき世の民におほふかな」は「三句切れ」の「切れ字」の「哉」で、同時に「詠嘆」の「哉」であり、そして、「わがたつ杣に墨染の袖」の「墨染の袖」の「体言留め」は、まさに、「西行がふり※※※」の「無技巧の技巧」調ということになろう。
「おほけなく」は「身の程もわきまえず、そら恐ろしい」のような意。「うき世」は「浮世(現世)」と「憂き世(はかない此の世)」、「おほふ」は「広く包む」、「わがたつ杣」(わが立つ杣)は「比叡山」の異名の意もある。こういう措辞の一つひとつに「西行がふり※※※」が満載している。
(藤原義経=九条義経の一首)
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家に百首歌合に、余寒の心を
空はなほかすみもやらず風さえて雪げにくもる春の夜の月(新古23)
【通釈】「空は春というのにまだ霞みきらずに風は寒く、雪げの雲がかかってそのため朧な春の夜の月よ。」『新日本古典文学大系 11』p.26
【語釈】余寒=立春後の寒さ。「なほさえて」は余寒を表わす常套句。雪げにくもる=雪催いに曇る意。
【補記】建久三年(1192)、自ら企画・主催した六百番歌合、十二番左勝。
【他出】六百番歌合、自歌合、三十六番相撲立詩歌、三百六十番歌合、定家八代抄、新三十六人撰、三五記、愚見抄、桐火桶、題林愚抄
(前大僧正滋鎮=慈円の一首)
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題しらず
身にとまる思ひをおきのうは葉にてこの頃かなし夕暮の空(新古352)
【通釈】我が身に留まる、秋の物思い――この物思いを置くのは、荻の上葉ならぬ我が身であるのに、思いはさながら哀れ深い荻の上風のごとくして、この頃かなしいことよ、夕暮の空。
【語釈】◇身にとまる思ひ 自分の身に留まって、消えることがない、秋の物思い。◇おき 置き・荻の掛詞。荻は歴史的仮名遣いでは「をぎ」だが、当時は「おき」と書いた。
【補記】「風ともいはず、秋ともいはざるは、ことさらにはぶきて、詞の外に思はせたるたくみ也、此人の歌、かやうなる趣多し」(本居宣長『美濃の家づと』)。
後京極摂政前太政大臣(藤原良経)=九条良経(くじょうよしつね) 嘉応元~建永元(1169-1206)
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法性寺摂政太政大臣忠通の孫。後法性寺関白兼実の二男。母は従三位中宮亮藤原季行の娘。慈円は叔父。妹任子は後鳥羽院后宜秋門院。兄に良通(内大臣)、弟に良輔(左大臣)・良平(太政大臣)がいる。一条能保(源頼朝の妹婿)の息女、松殿基房(兼実の兄)の息女などを妻とした。子には藤原道家(摂政)・教家(大納言)・基家(内大臣)・東一条院立子(順徳院后)ほかがいる。
治承三年(1179)、十一歳で元服し、禁色昇殿。侍従・右少将・左中将を経て、元暦二年(1185)、従三位に叙され公卿に列す。その後も急速に昇進し、文治四年(1188)、正二位。この年、兄良通が死去し、九条家の跡取りとなる。同五年七月、権大納言となり、十二月、左大将を兼ねる。建久六年(1195)十一月、二十七歳にして内大臣(兼左大将)となるが、翌年父兼実が土御門通親の策謀により関白を辞し、良経も籠居を余儀なくされた。同九年正月、左大将罷免。しかし同十年六月には左大臣に昇進し、建仁二年(1202)以後は後鳥羽院の信任を得て、同年十二月、摂政に任ぜられる。同四年、従一位摂政太政大臣。元久二年(1205)四月、大臣を辞す。同三年三月、中御門京極の自邸で久しく絶えていた曲水の宴を再興する計画を立て、準備を進めていた最中の同月七日、急死した。三十八歳。
幼少期から学才をあらわし、漢詩文にすぐれたが、和歌の創作も早熟で、千載集には十代の作が七首収められた。藤原俊成を師とし、従者の定家からも大きな影響を受ける。叔父慈円の後援のもと、建久初年頃から歌壇を統率、建久元年(1190)の『花月百首』、同二年の『十題百首』、同四年の『六百番歌合』などを主催した。やがて歌壇の中心は後鳥羽院に移るが、良経はそこでも御子左家の歌人らと共に中核的な位置を占めた。建仁元年(1201)七月、和歌所設置に際しては寄人筆頭となり、『新古今和歌集』撰進に深く関与、仮名序を執筆するなどした。建仁元年の『老若五十首』、同二年の『水無瀬殿恋十五首歌合』、元久元年の『春日社歌合』『北野宮歌合』など院主催の和歌行事に参加し、『千五百番歌合』では判者もつとめた。
後京極摂政・中御門殿と称され、式部史生・秋篠月清・南海漁夫・西洞隠士などと号した。自撰の家集『式部史生秋篠月清集』があり(以下「秋篠月清集」あるいは「月清集」と略)、歌合形式の自撰歌集『後京極摂政御自歌合』がある(以下「自歌合」と略)。千載集初出。新古今集では西行・慈円に次ぎ第三位の収録歌数七十九首。勅撰入集計三百二十首。漢文の日記『殿記』は若干の遺文が存する。書も能くし、後世後京極様の名で伝わる。
前大僧正滋鎮(慈円)=慈円(じえん) 久寿二~嘉禄一(1155~1225) 諡号:慈鎮和尚 通称:吉水僧正
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摂政関白藤原忠通の子。母は藤原仲光女、加賀局(忠通家女房)。覚忠・崇徳院后聖子・基実・基房・兼実・兼房らの弟。良経・後鳥羽院后任子らの叔父にあたる。
二歳で母を、十歳で父を失う。永万元年(1165)、覚快法親王(鳥羽天皇の皇子)に入門し、道快を名のる。仁安二年(1167)、天台座主明雲を戒師として得度する。嘉応二年(1170)、一身阿闍梨に補せられ、兄兼実の推挙により法眼に叙せられる。以後、天台僧としての修行に専心し、安元二年(1176)には比叡山の無動寺で千日入堂を果す。摂関家の子息として法界での立身は約束された身であったが、当時紛争闘乱の場と化していた延暦寺に反発したためか、治承四年(1180)、隠遁籠居の望みを兄の兼実に述べ、結局兼実に説得されて思いとどまった。養和元年(1181)十一月、師覚快の入滅に遭う。この頃慈円と名を改めたという。
寿永元年(1182)、全玄より伝法灌頂をうける。文治二年(1186)、平氏が滅亡し、源頼朝の支持のもと、兄兼実が摂政に就く。以後慈円は平等院執印・法成寺執印など、大寺の管理を委ねられた。同五年には、後白河院御悩により初めて宮中に召され、修法をおこなう。
この頃から歌壇での活躍も目立ちはじめ、良経を後援して九条家歌壇の中心的歌人として多くの歌会・歌合に参加した。文治四年(1188)には西行勧進の「二見浦百首」に出詠。
建久元年(1190)、姪の任子が後鳥羽天皇に入内。同三年(1192)、天台座主に就任し、同時に権僧正に叙せられ、ついで護持僧・法務に補せられる。同年、無動寺に大乗院を建立し、ここに勧学講を開く。同六年、上洛した源頼朝と会見、意気投合し、盛んに和歌の贈答をした(『拾玉集』にこの折の頼朝詠が残る)。しかし同七年(1196)十一月、兼実の失脚により座主などの職位を辞して籠居した。
建久九年(1198)正月、譲位した後鳥羽天皇は院政を始め、建仁元年(1201)二月、慈円は再び座主に補せられた。この前後から、院主催の歌会や歌合に頻繁に出席するようになる。同年六月、千五百番歌合に出詠。七月には後鳥羽院の和歌所寄人となる。同二年(1202)七月、座主を辞し、同三年(1203)三月、大僧正に任ぜられたが、同年六月にはこの職も辞した。以後、「前大僧正」の称で呼ばれることになる。
九条家に代わって政界を制覇した源通親は建仁二年(1202)に急死し、兼実の子良経が摂政となったが、四年後の建永元年(1206)、良経は頓死し、翌承元元年(1207)には兄兼実が死去した。以後、慈円は兼実・良経の子弟の後見役として、九条家を背負って立つことにもなる。
この間、元久元年(1204)十二月に自坊白川坊に大懺法院を建立し、翌年、これを祇園東方の吉水坊に移す。建永元年(1206)には吉水坊に熾盛光堂(しじょうこうどう)を造営し、大熾盛光法を修す。また建仁二年の座主辞退の後、勧学講を青蓮院に移して再興するなど、天下泰平の祈祷をおこなうと共に、仏法興隆に努めた。
建暦二年(1212)正月、後鳥羽院の懇請により三たび座主職に就く。翌三年には一旦この職を辞したが、同年十一月には四度目の座主に復帰。建保二年(1214)六月まで在任した。
建保七年(1219)正月、鎌倉で将軍実朝が暗殺され、九条道家の子頼経が次期将軍として鎌倉に下向。しかし後鳥羽院は倒幕計画を進め、公武の融和と九条家を中心とした摂政制を政治的理想とした慈円との間に疎隔を生じた。院はついに承久三年(1221)五月、北条義時追討の宣旨を発し、挙兵。攻め上った幕府軍に敗れて、隠岐に配流された。
慈円はこれ以前から病のため籠居していたが、貞応元年(1222)、青蓮院に熾盛光堂・大懺法院を再興し、将軍頼経のための祈祷をするなどした。その一方、四天王寺で後鳥羽院の帰洛を念願してもいる。嘉禄元年(1225)九月二十五日、近江国小島坊にて入寂。七十一歳。無動寺に葬られた。嘉禎三年(1237)、慈鎮和尚の諡号を賜わる。
著書には歴史書『愚管抄』(承久二年頃の成立という)ほかがある。家集『拾玉集』(尊円親王ら編)、佚名の『無名和歌集』がある。千載集初出。勅撰入集二百六十九首。新古今集には九十二首を採られ、西行に次ぐ第二位の入集数。
(その七)西園寺入道前太政大臣(藤原公経)と右衛門督通貝(源通貝)
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方七・西園寺入道前太政大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009400
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方七・右衛門督通具」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009418
(バーチャル歌合)
左方七・西園寺入道前太政大臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010688000.html
桜花みねにも尾にもうへをかむ/見ぬ世のはるを人やしのぶと
右方七・右衛門督通具
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010689000.html
磯上ふるののさくらたれうへて/はるはわすれぬかたみなるらむ
判詞(宗偽)
『小倉百人一首』(藤原定家撰)では、慈円(九十五番)と定家(九十七番)に挟まれて出て来る「九十六番:入道前太政大臣=藤原公経=西園寺公経」が、「左方七・西園寺入道前太政大臣」である。
九五 おほけなくうき世の民におほふかな/わがたつ杣に墨染の袖(慈円)
九六 花さそふ嵐の庭の雪ならで/ふりゆくものはわが身なりけり(公経)
九七 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに/焼くや藻塩の身もこがれつつ(定家)
この九十七番の定家の一首は、男に恋い焦がれた女性になりきって詠んだ恋歌として夙に知られているが、これを「承久の変」(「承久三年=一二二一」に、後鳥羽院天皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げ朝廷側が敗北した事変)の「後鳥羽院」と置き換えると、この三首は、当時の状況の一端を垣間見せてくれる。
この九十五番の「慈円」は「後鳥羽院」派であり、この九十六番の「公経」は「鎌倉幕府」派ということになる。そして、九十七番の「定家」は、その後鳥羽院に見出され、その後、離反にする、その「後鳥羽院:鎌倉幕府」との中間に位置する「日和見主義」(中間)ということになろう。
ここで、公経の二首を並列してみたい。
花さそふ嵐の庭の雪ならで/ふりゆくものはわが身なりけり(『百人一首』)
桜花みねにも尾にもうへをかむ/見ぬ世のはるを人やしのぶと(「新三十六歌仙画帖」)
この二首に共通するものは、「ふりゆくものはわが身なりけり」(古りゆくものは己の身である)という述懐であろう。
次の、通具の一首は、「千五百番歌合」(「建仁元年(1201))千五百番歌合」の百八十番(左方=顕昭、右方=通具)に、次のように出ている。
百八十番 左 顕昭
遠近(をちこち)の花見るほどに行(ゆき)やらで帰(かへ)さは暮れぬ志賀の山越
右 勝 通具朝臣
石(いそ)の上(かみ)ふる野の桜たれ植へて春は忘れぬ形見なるらむ
左、志賀の山ごえにとりては、遠近、しひてあるべからずや。帰(かへ)さ暮れん事は又うたがひなかるべし。「花みるほどに」などいへることは、無下にたゞ詞にやあらん。右、心詞とがなく見え侍り。勝とすべし。
(『日本古典文学大系74 歌合集』)
通具は藤原俊成女(俊成の養女)を妻とするが、後に離縁する。しかし、定家(俊成の
子)との関係は終始良好で、同年齢の公経(定家の姉の夫)ともども、後鳥羽院よりも定家
寄りの歌人のように思われる。
ここで、公経(左)と通具(右)との二首の優劣を見ていきたい。
左
桜花みねにも尾にもうへをかむ/見ぬ世のはるを人やしのぶと(公経)
右
磯上ふるののさくらたれうへて/はるはわすれぬかたみなるらむ(通具)
左の歌の「桜花みねにも尾にもうへをかむ」の「うへをかむ」のは、作者(公経)自身で
あろう。それに比して、右の歌の「磯上ふるののさくらたれうへて」の「たれうへて」は、
作者(通具)以外の「誰」ということになる。
ここで、定家の「和歌十体」(「幽玄様」「長高様」「有心 (うしん) 様」「事可然 (ことしかるべき) 様」「麗様」「見様」「面白様」「濃様」「有一節 (ひとふしある) 様」「拉鬼様」)の、基本的な「有心 (うしん) 様」での判とすると、「以左為勝」(左ヲ以ッテ勝ト為ス)。
西園寺公経の一首
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西園寺にて三十首歌よみ侍りける春歌
山ざくら峰にも尾にも植ゑおかむ見ぬ世の春を人やしのぶと(新勅撰1040)
【通釈】山桜の若木を、山の頂きにも尾根にも植えておこう。私は見ることが出来ないが、満開に咲き誇る春を、後の世の人々が賞美するだろうかと。
【語釈】◇西園寺 公経が北山に造営した寺。のち、足利義満が同地に北山第を建て、金閣寺となる。◇見ぬ世の春 私は見ることのない後世の春。
【補記】『増鏡』「内野の雪」で名高い歌。西園寺の豪奢な庭園や御堂の描写のあと、「めぐれる山の常磐木ども、いとふりたるに、なつかしき程の若木の桜など植ゑわたすとて、大臣うそぶき給ひける」としてこの歌を引用している。
【参考歌】慈円「堀河題百首」
我がやどに花たちばなをうゑおかむなからんあとの忘れがたみに
源通具の一首
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千五百番歌合に
いその神ふるのの桜たれ植ゑて春は忘れぬかたみなるらむ(新古96)
【通釈】布留野に咲く桜—いったい誰が植えて、春になれば昔を思い出す記念となっているのだろう。
【語釈】◇いその神 「ふる」にかかる枕詞。◇ふるの 布留野。今の奈良県天理市布留。石上神宮がある。「古」を掛ける。◇かたみ 形見。思い出のよすがとなるもの。
西園寺公経(さいおんじきんつね) 承安元~寛元二(1171-1244)通称:一条相国・西園寺入道前太政大臣など
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太政大臣公季の裔。内大臣実宗の子。母は持明院基家女(平頼盛の外孫女)。子に綸子(九条道家室)・西園寺実氏(太政大臣)・実有(権大納言)・実雄(左大臣)ほかがいる。源頼朝の妹婿一条能保のむすめ全子を娶り、鎌倉幕府と強固な絆で結ばれた。また九条良経(妻の姉妹の夫)・定家(姉の夫)とも姻戚関係にあった。家集を残す西園寺実材母(さねきのはは)は晩年の妾である。
治承三年(1179)、叙爵。養和元年(1181)十二月、侍従。左少将・左中将などを経て、建久七年(1196)、源通親による政変に際し、蔵人頭に抜擢される。同九年正月、土御門天皇が即位すると、引き続き蔵人頭に補され、また後鳥羽上皇の御厩別当となる。同月、参議に就任。同年十一月、従三位。しかし翌正治元年(1199)、頼朝が没すると出仕を停められ、院別当を罷免され籠居を命ぜられる。同年十一月には許されて復帰した。その後は順調に昇進を重ね、建仁二年(1202)七月、権中納言。建永元年(1206)三月、中納言。承元元年(1207)には正二位権大納言に、建保六年(1218)十月には大納言に進む。この間、鎌倉と密接な関係を保ち続けた。
承久元年(1219)、三代将軍実朝が暗殺されると、幕府の要望にこたえ、外孫にあたる九条道家の第三子三寅(みとら)を後継将軍として鎌倉に下らせた。同三年、院の倒幕計画を事前に察知し、弓場殿に拘禁されたが、その直前、鎌倉方に院の計画を牒報、幕府の勝利に貢献した。乱終結後は時局の収拾にあたり、後継の上皇に後高倉院を擁立。幕府の信頼を背景に、関東申次として京都政界で絶大の権勢をふるった。同年閏十月、内大臣。貞応元年(1222)八月、太政大臣に昇る。貞応二年(1223)正月、従一位。同年四月、太政大臣を辞任。寛喜三年(1231)十二月、出家。法名は覚勝。
その後も前大相国として実権を掌握し続け、女婿道家を後援して天皇外祖父の地位を与えた。仁治三年(1242)、後嵯峨天皇が即位すると孫娘を入内・立后させ、自ら皇室外戚の地位を占める。寛元二年(1244)八月二十九日、病により薨去。七十四歳。
晩年、北山にかまえた豪邸の有様は『増鏡』の「内野の雪」に詳しい。権力を恣にしたその振舞は「大相一人の任意、福原の平禅門に超過す」(『明月記』)、あるいは「世の奸臣」(『平戸記』)と評された。
多芸多才で、琵琶や書にも秀でた。歌人としては正治二年(1200)の「石清水若宮歌合」、建仁元年(1201)の「新宮撰歌合」、建仁二年(1202)の「千五百番歌合」、承久二年(1220)以前の「道助法親王家五十首」、貞永元年(1232)以前の「洞院摂政家百首」などに出詠。新古今集初出(十首)。新勅撰集には三十首を採られ、入集数第四位。新三十六歌仙。小倉百人一首に歌を採られている。
源通具(みなもとのみちとも) 承安元~安貞元(1171-1227) 号:堀川大納言
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村上源氏。内大臣土御門通親の二男。母は修理大夫平通盛女。通光・道元の異母兄。藤原俊成女を妻とし、具定と一女をもうけた。子にはほかに内大臣具実(母は法印能円女、按察局)などがいる。
元暦元年(1184)十一月、叙爵。文治元年(1185)十二月、因幡守に任ぜられる。建久八年(1197)六月、伊予守。正治元年(1199)頃、幼帝土御門の乳母按察局を妻に迎え、まもなく俊成女とは別居したらしい。正治二年(1200)三月、左中将・蔵人頭。建仁元年(1201)八月、参議に就任する。同三年十一月、右衛門督・検非違使別当を兼任。元久二年(1205)四月、正三位権中納言。建暦二年(1212)六月、権大納言に昇り、貞応元年(1222)八月、正二位大納言に至る。安貞元年(1227)九月二日、五十七歳で薨ず。
父通親・後鳥羽院主催の歌会・歌合で活躍し、正治二年(1200)の院当座歌合・石清水若宮歌合、建仁元年(1201)の新宮撰歌合・鳥羽殿影供歌合などに出詠。同年、和歌所寄人に補され、さらに新古今集撰者に任ぜられた。以後も千五百番歌合、建仁二年(1202)の仙洞影供歌合、元久元年(1204)の春日社歌合、建永元年(1206)の卿相侍臣歌合、同二年の鴨社歌合などの作者となる。順徳天皇の歌壇でも建保二年(1214)八月の内裏歌合に名を列ねている。
夫木和歌抄によれば家集があったらしいが現存しない。俊成卿女との二人歌合の古筆断簡が「通具俊成卿女歌合」として新編国歌大観にまとめて翻刻されている。新古今集初出(十七首は撰者中最少)。勅撰入集三十七首。新三十六歌仙。
(その八)後徳大寺左大臣(藤原実定)と藤原清輔朝臣
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方八・後徳大寺左大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009401
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方八・藤原清輔朝臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009419
(右方八・藤原清輔朝臣)=右・和歌:左・肖像
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019785
(バーチャル歌合)
左方八・後徳大寺左大臣(藤原実定)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010689000.html
なこの海の霞のまよりながむれば/入日をあらふおきつしらなみ
右方八・藤原清輔朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010691000.html
柴の戸にいり日の影はさしながら/いかにしぐるるやまべ成らん
判詞(宗偽)
藤原実定と藤原清輔との組み合わせというよりも、実定の「入日」の歌に清輔の「いり日」の歌との、これぞまさしく「歌合」そのものということになろう。
このお二人は、『小倉百人一首』(藤原定家撰)では、八十一番(実定)と八十四番(清輔)で登場する。
八一 ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる(実定)
八四 ながらへばまたこの頃やしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき(清輔)
実定は、『平家物語』に登場する源平争乱時代を生き抜いた、定家とは従兄弟(実定の母は定家の父・俊成の妹、定家より二十三歳年長)にあたる歌人である。この一首は、聴覚(ほととぎすの声)から視覚(有明の月)への転換の鮮やかな「郭公の歌の随一」の秀歌として名高い。
次の清輔は、定家の父・俊成(清輔より十歳年下、『小倉百人一首』では清輔の前の八十三番の作者)と平安時代末期の歌壇をリードした好敵手(ライバル)ということになる。
ここで、実定の「入日」の歌と清輔の「いり日」の歌とを、あらためて並列してみたい。
なこの海の霞のまよりながむれば/入日をあらふおきつしらなみ(左方・実定)
柴の戸にいり日の影はさしながら/いかにしぐるるやまべ成らん(右方・清輔)
共に、「なこの海」(左)に「柴の戸」(右)、「霞」(左)に「時雨」(右)、「白波」(左)に「山辺」と、「定家十体」の「見様」(子規の『俳人蕪村』での「景気といい景曲といい見様体という、皆わが謂う客観的な句=歌」)の歌として、「持」(引き分け)といたしたい。
徳大寺(藤原)実定の二首
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晩霞といふことをよめる
なごの海の霞の間よりながむれば入日(いるひ)をあらふ沖つ白波(新古35)
【通釈】なごの海にたなびく霞の切れ間をとおして眺めると、水平線に沈んでゆく太陽を洗っているよ、沖の白波が。
【語釈】◇なごの海 越中などにも同名の歌枕があるが、ここのは摂津国とするのが通説。本歌(下記参照)との関係からしても、住吉あたりの海を想定して詠んだにちがいない。
【補記】治承三年(1179)成立の歌合形式秀歌撰『治承三十六人歌合』に二番「晩霞」の題で掲載。鴨長明の『無名抄』では俊恵が「上句思ふやうならぬ」歌の例として挙げられている。「入日をあらふ」は素晴らしい表現であるが、第二・三句が釣り合っていないと批判しているのである。
【他出】治承三十六人歌合、林下集、無名抄、和漢兼作集、歌枕名寄、六華集、題林愚抄
【本歌】源経信「後拾遺集」
沖つ風吹きにけらしな住吉の松のしづ枝をあらふ白波
【参考歌】大伴家持「万葉集」巻十七
奈呉の海の沖つ白波しくしくに思ほえむかも立ち別れなば
【主な派生歌】
なごの海のいる日をあらふ浪のうへに春の別れの色をそへつつ(後鳥羽院)
見渡せば空のかぎりもなごの海の霞にかかる沖つしら波(頓阿)
暁聞時鳥といへる心をよみ侍りける
ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞのこれる(千載161)
【通釈】暁になって、やっとほととぎすが鳴いた。その声のした方を眺めると、鳥のすがたは跡形も無くてただ有明の月が空に残っているばかりだ。
【語釈】◇暁聞時鳥 暁に時鳥(ほととぎす)を聞く。◇有明の月 明け方まで空に残る月。ふつう、陰暦二十日以降の月。
【補記】「初学云、郭公のそなたに鳴つるはとて見やれば、名残あとなき空に、有明の月のみあると也、といへり。実にけしきみえて、郭公にとりては、当時最第一の御歌といふべし」(香川景樹『百首異見』)。『素然抄』『幽斎抄』にも「郭公の歌には第一ともいふべきにや」とあり、古来郭公を詠んだ秀歌中の秀歌とされた。現代の注釈書でも評価は高いが、聴覚(ほととぎすの声)から視覚(有明の月)への転換の鮮やかさがよく指摘される。
【他出】林下集、歌仙落書、治承三十六人歌合、定家八代抄、時代不同歌合、百人一首
【参考】「和漢朗詠集・郭公」(→資料編)
一声山鳥曙雲外
【主な派生歌】
時鳥過ぎつる方の雲まより猶ながめよといづる月かげ(*宜秋門院丹後[玉葉])
ほととぎす鳴きつる雲をかたみにてやがてながむる有明の空(式子内親王[玉葉])
袖の香を花橘におどろけば空に在明の月ぞのこれる(藤原定家)
時鳥いま一こゑを待ちえてや鳴きつるかたを思ひさだめむ(長舜[新後撰])
ほととぎす鳴きて過ぎ行く山の端に今一声と月ぞのこれる(浄弁[新拾遺])
一声の行方いかにとほととぎす月も有明の名残をぞおもふ(冷泉為村)
時鳥なきつるあとにあきれたる後徳大寺の有明の顔(蜀山人)
藤原清輔の二首
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題しらず
柴の戸に入日の影はさしながらいかに時雨(しぐ)るる山べなるらむ(新古572)
【通釈】柴の戸に入日の影は射しているのに、どうしてこの山では時雨が降っているのだろう。
【語釈】◇柴の戸 柴を編んで作った戸。山住いの粗末な庵の戸。隙間が多く、そこから夕日の光が射し込むのである。◇山べ 山。山のほとりではなく、山の中である。
【補記】『清輔集』では詞書「山居時雨」。
【他出】清輔集、定家十体(見様)、三十六人歌合、六華集
題しらず
ながらへばまたこの頃やしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき(新古1843)〔百)
【通釈】生き長らえれば、今この時も懐かしく思われるのだろうか。昔、辛いと思った頃のことが、今では恋しく思われるから。
【補記】『清輔集』の詞書は「いにしへ思ひ出でられけるころ、三条大納言いまだ中将にておはしける時、つかはしける」とあり、「三条大納言」が中将であった頃に贈った歌とする(「三条大納言」を「内大臣」とする本も)。「三条大納言」は藤原実房を指すと見る説がある(香川景樹)。三条内大臣藤原公教(大治五年-1130-左中将)とも。
【他出】歌仙落書、清輔集、治承三十六人歌合、定家十体(有心様)、定家八代抄、近代秀歌、別本八代集秀逸(家隆撰)、三五記、桐火桶、井蛙抄
【参考歌】三条院「後拾遺集」
心にもあらで憂き世にながらへば恋しかるべき夜はの月かな
【主な派生歌】
月みても雲井へだつと恨みこしその世の秋ぞ今は恋しき(惟宗光吉)
おのづからつてに通ひし言の葉につらかりし世ぞ今は恋しき(千種有光)
数しらぬ昔をきけば見しほどもすたれたる世の今は恋しき(正徹)
忘れずよ憂しと見しよの春をさへ又このごろの花にしのびて(有賀長伯)
ともすれば君がみけしきそこなひて叱られし世ぞ今は恋しき(*野村望東尼)
徳大寺実定(とくだいじさねさだ) 保延五~建久二(1139-1191)通称:後徳大寺左大臣
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右大臣公能の一男。母は藤原俊忠女、従三位豪子。忻子(後白河天皇中宮)・多子(近衛天皇・二条天皇后)の同母弟。大納言実家・権中納言実守・左近中将公衡の同母兄。子に公継がいる。俊成の甥。定家の従兄。
永治元年(1141)、三歳で従五位下に叙される。左兵衛佐・左近衛少将・同中将などを歴任し、保元元年(1156)、十八歳で従三位。同三年、正三位に叙され、権中納言となる。永暦元年(1160)、中納言。同二年、父を亡くす。応保二年(1162)、従二位。長寛二年(1164)、権大納言に昇ったが、翌永万元年(1165)、辞職した(平氏に官職を先んじられたことが原因という)。同年、正二位。以後十二年間沈淪した後、安元三年(1177)三月、大納言として復帰。
同年十二月には左大将に任ぜられた。寿永三年(1184)、内大臣に昇り、文治二年(1186)には右大臣、同五年には左大臣に至る。摂政九条兼実の補佐役として活躍したが、建久元年(1190)七月、左大臣を辞し、同二年(1191)六月、病により出家。法名は如円。同年十二月十六日、薨ず。五十三歳。祖父の実能(さねよし)を徳大寺左大臣と呼んだのに対し、後徳大寺左大臣と称された。
非常な蔵書家で、才学に富み、管弦や今様にもすぐれた。俊恵の歌林苑歌人たちをはじめ、小侍従・上西門院兵衛・西行・俊成・源頼政ら多くの歌人との交流が窺える。住吉社歌合・広田社歌合・建春門院滋子北面歌合・右大臣兼実百首などに出詠。『歌仙落書』には「風情けだかく、また面白く艶なる様も具したるにや」と評されている。『平家物語』『徒然草』『今物語』ほかに、多くの逸話を残す。日記『槐林記』(散佚)、家集『林下集』がある。千載集初出。代々の勅撰集には計79首入集
藤原清輔( ふじわらのきよすけ) 長治一~治承一(1104-1177)
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六条藤家顕輔の次男。母は能登守高階能遠女。初め隆長と名のった。顕方は同母兄、顕昭・重家・季経は異母弟。父顕輔は崇徳院の命をうけ、天養元年(1144)より『詞花集』の撰集に着手。この時清輔は父より助力を請われたが、かねて父とは不和が続き、結局清輔の意見は採られなかったという(『袋草紙』)。四十代後半に至るまで従五位下の地位に留まったのも、父からの後援を得られなかったためと推測されている(『和歌文学辞典』)。
しかし歌人としての名声は次第に高まり、久安六年、崇徳院主催の『久安百首』に参加。同じ頃、歌学書『奥義抄』を崇徳院に献上した。また仁平三年(1153)頃、『人丸勘文』を著し、類題和歌集『和歌一字抄』を編集。久寿二年(1155)、父より人麿影と破子硯を授けられ、歌道師範家六条家を引き継ぐ。
保元元年(1156)、従四位下。保元三年、和歌の百科全書とも云うべき『袋草紙』を完成する。翌年、これを二条天皇に献上。天皇の信任は篤く、太皇太后宮大進の地位を得る。この頃から自邸で歌合を催したり、歌合の判者に招かれたりするようになり、歌壇の中心的存在となってゆく。二条天皇からは、かねて私的に編纂していた歌集を召され、補正を進めていたが、永万元年(1165)、天皇は崩御。同年、清輔による撰集は、私撰集『続詞花和歌集』として完成された。やがて九条兼実の師範となり、歌道家としての勢威は、対立する藤原俊成の御子左家を凌いだ。
治承元年(1177)六月二十日、七十四歳で死去。最終官位は正四位下。著書にはほかに『和歌現在書目録』『和歌初学抄』などがある。自撰と推測される家集『清輔朝臣集』がある(以下『清輔集』と略)。千載集初出。勅撰入集九十六首。
(その九)権代納言基家(藤原基家)と宣秋門院丹後
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方九・権代納言基家」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009402
(左方九・権代納言基家)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019791
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方九・宣秋門院丹後」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009420
(右方九・宣秋門院丹後)=右・和歌:左・肖像
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019786
(バーチャル歌合)
左方九・権代納言基家
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010692000.html
秋ふかきもみぢのそこのまつの戸は/たがすむみねのいほりなるらむ
右方九・宣秋門院丹後
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010693000.html
吹はらふあらしの後の高根より/木の葉くもらで月やいづらん
判詞(宗偽)
藤原定家よりも後鳥羽院寄りの歌人二人の歌合である。『後鳥羽院御口伝』に、この丹後の歌の「木の葉くもらで」が取り上げられている。この「木の葉くもらで」(静)と初句の「吹はらふ」(動)との取り合わせを佳とし、以右為勝。
『後鳥羽院御口伝』余話(宗偽)
「女房哥詠みには、丹後、やさしき哥あまた詠めりき。
苔の袂に通ふ松風※
木の葉雲らで※※
浦漕ぐ舟は跡もなし※※※
忘れじの言の葉※※※※
殊の他なる峯の嵐に※※※※※
この他にも多くやさしき哥どもありき。人の存知よりも、愚意に殊に殊によくおぼえき。
故攝政は、かくよろしき由仰せ下さるゝ故に、老の後にかさ上がりたる由、たびたび申されき。」
※『新古今』巻第十八 雑歌下 丹後 1794 春日の社の歌合に松風といふことを
なにとなく聞けばなみだぞこぼれぬる苔の袂に通ふ松風
※※『新古今』巻第五 秋歌上 丹後 593 題しらず
吹きはらふ嵐の後の高峰より木の葉くもらで月や出づらむ
※※※『新古今』巻第十六 雑歌上 丹後 1505 和歌所の歌合に湖上月明といふことを
夜もすがら浦こぐ舟はあともなし月ぞのこれる志賀の辛崎
※※※※『新古今』巻第十四 恋歌四 丹後 1303 建仁元年三月歌合に逢不會戀のこころを
忘れじの言の葉いかになりにけむたのめし暮は秋風ぞ吹く
※※※※※『新古今』巻第十七 雑歌中 丹後 1621 鳥羽にて歌合し侍りしに山家嵐といふことを
山里は世の憂きよりも住みわびぬことのほかなる峯の嵐に
宜秋門院丹後の一首
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tango.html#AT
題しらず
吹きはらふ嵐ののちの高嶺より木の葉くもらで月や出づらむ(新古6-593)
【通釈】激しい風が吹き、木々を揺すって葉を残らず散らした。この嵐の後にあって、あの高嶺から木の葉に遮られることなく月が昇ることだろうか。
【語釈】◇木の葉くもらで 木の葉で月の光が霞むことなく。
【補記】正治二年(1200)の後鳥羽院初度百首。
【他出】定家十体(長高様・見様)、三十六人歌合(元暦)、三五記、三百六十首和歌、六華集、題林愚抄
【主な派生歌】
ふけゆけば木の葉くもらで出でにけりたかつの山の秋の夜の月(覚助法親王)
月ぞ猶木の葉くもらで残りける秋のかたみはとめぬ嵐に(頓阿)
藤原基家(ふじわらのもといえ) 建仁三~弘安三(1203-1280) 号:鶴殿(たづどの)・後九条内大臣
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/motoie.html
後京極摂政良経の三男(公卿補任)。母は松殿関白基房女。藤原道家・東一条院立子(順徳天皇中宮)の異母弟。子に経家・良基がいる。
建保三年(1215)正月、叙爵。右中将・権中納言・権大納言などを歴任し、承久三年(1221)、正二位に至る(最終官位)。寛喜三年(1231)四月、西園寺実氏が権大納言から内大臣に昇進すると、家格の低い実氏に官位を超えられたことに不満を抱いて籠居。その後再出仕し、嘉禎三年(1237)十二月、内大臣に就任。翌四年六月、辞職引退。弘安三年(1280)七月十一日、薨。七十八歳。
歌人としては、貞永元年(1232)の石清水若宮歌合・光明峯寺摂政家歌合・洞院摂政家百首に参加するなど九条家歌壇を中心に活動するが、文暦二年(1235)に完成した藤原定家撰『新勅撰集』には一首も採られなかった。嘉禎二年(1236)、後鳥羽院主催の遠島御歌合に献歌。
建長三年(1251)奏覧の為家撰『続後撰集』でようやく勅撰集初入撰を果たす(8首)。定家亡きあと御子左家を引き継いだ為家には反発し、知家・真観ら反御子左派を庇護して、建長八年(1256)九月十三日百首歌合を主催、真観らと共に自ら判者を務めた。弘長元年(1261)に鎌倉で催された宗尊親王百五十番歌合でも判者を務める(京に在って加判)。弘長二年(1262)、『続古今集』の撰者の一人に加えられる。後嵯峨院歌壇でも活躍し、宝治二年(1248)の宝治百首、弘長元年(1261)以後の弘長百首に出詠している。ほかに建長三年(1251)九月影供歌合、文永二年(1265)八月十五夜歌合、弘安元年(1278)頃の弘安百首などに参加。
建長五年(1253)または翌年頃、私撰集『雲葉集』を編集。また『新撰歌仙』『新時代不同歌合』などの編者とみる説がある。続後撰集初出。勅撰集入集は計七十九首。新三十六歌仙。『新時代不同歌合』にも歌仙として撰入。
宜秋門院丹後(ぎしゅうもんいんのたんご) 生没年不詳 別称:摂政家丹後
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tango.html
清和源氏。仲正の孫。蔵人大夫源頼行(保元の乱に連座して自殺)の娘。母は不詳。武将・歌人として名高い頼政は伯父、源仲綱は従弟、二条院讃岐は従妹にあたる。
はじめ摂政九条兼実に仕え、摂政家丹後と呼ばれた。のち兼実の息女で後鳥羽院の中宮任子(宜秋門院)に仕えた。建仁元年(1201)、出家。安元元年(1175)七月の「兼実家百首」、建久元年(1190)の「花月百首」、正治二年(1200)の「後鳥羽院初度百首」、建仁元年(1201)頃の「千五百番歌合」、建仁元年(1201)八月の「撰歌合」、元久元年(1204)十一月の「春日社歌合」、建永元年(1206)七月の「卿相侍臣歌合」など、九条家・後鳥羽院主催の歌合の多くに出詠。
「後鳥羽院御口伝」に「女房歌詠みには、丹後、やさしき歌あまた詠めりき」とある。承元二年(1208)の「住吉社歌合」に参加したことが知れ(新続古今集)、以後の消息は不明。
千載集初出。勅撰入集計四十二首。女房三十六歌仙。後鳥羽院の「時代不同歌合」にも歌仙として撰入されている。
丹後は新古今歌風の確立を準備した歌人の一人として高い評価を得ている。歌風は上の後鳥羽院の一語「やさしき」に尽きるが、幽玄な情景に、おのれの心を染み込ませるように反映させている。そこには、自己の孤独や命のはかなさへの謙虚な凝視とともに、花鳥風月への暖かい共感が籠もる。
(その十)前中納言定家(藤原定家)と従二位家隆(藤原家隆)
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十・前中納言定家」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009403
(左方十・前中納言定家)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019792
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十・従二位家隆)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009421
(右方十・従二位家隆)=右・和歌:左・肖像
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019787
(バーチャル歌合)
左方十・前中納言定家
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010694000.html
しら玉の緒絶のはしの名もつらし/くだけておつる袖のなみだぞ
右方十・従二位家隆
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010695000.html
かぎりあれば明なむとするかねの音に/猶ながき夜の月ぞのこれる
(判詞=宗偽)
『新古今和歌集』は後鳥羽院の命によって編纂された勅撰和歌集である。その撰者は「源通具・六条有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮」の六人(寂連は撰集作業中に没しており、実質的には五人)である。この撰者のうち中心になったのが、藤原定家と藤原家隆の二人であろう。
ここで、「新三十六人歌合」(「新三十六歌仙」とも)の撰者は「後鳥羽院(撰)」と伝えられているが(『歌仙絵(東京国立博物館)』所収「作品解説(土屋貴裕)」)、実際に撰集作業に携わったのは、後鳥羽院との関係からすると、承久三年(一二二一)の承久の変後も後鳥羽院との間で音信を絶やさず、嘉禄二年(一二二六)に、「家隆後鳥羽院撰歌合」の判者を務めている「藤原家隆」その人のように思われる。
そして、この「新三十六人歌合」での「藤原定家と藤原家隆」との組み合わせは、これはやはり「後鳥羽院」その人という思いがどうしても捨て難い。そして、この二人の歌合の歌が、『新古今集』などの勅撰和歌集ではなく、定家の歌は私家集『拾遺愚草』所収のもので、家隆の歌は、どういう時に詠作されたのか不明なのである(藤原基家が編纂した『壬二(みに)集』、別名『玉吟集』などに収録されているのかも知れない)。
さて、ここで、この二人の歌を並列してみたい。そして、その表記は、「和泉市久保惣記念美術館蔵」のもので、上の句(短歌の前半の五・七・五の三句)と下の句(短歌の後半の七・七の二句)の二行の表記に因っている。この二行の表記は、「連歌・連句」の「長句」(五・七・五の句)と「短句」(七・七句)に対応し、判詞の判定の分析作業などに便利という単純な理由に因る。
左
しら玉の緒絶のはしの名もつらし/くだけておつる袖のなみだぞ(定家)
右
かぎりあれば明なむとするかねの音に/猶ながき夜の月ぞのこれる(家隆)
定家の歌の「緒絶のはし(橋)」は、下記の「歌枕:緒絶橋」(参考)のとおり、『万葉集』にも出て来る「歌枕」で、芭蕉の『おくの細道』にも「松島から平泉」へ向かう途中で「道を誤って辿り着けなかったこと」が記されている。そして、その「緒絶橋」は、「嵯峨天皇の皇子が東征のために陸奥国へ赴いた折り、その恋人であった白玉姫が命を絶った」という伝承に基づいており、「姫が命(玉の緒)を絶った川」の「橋」の由来で、「悲恋」や「叶わぬ恋」を暗示するものである。
即ち、この定家の歌は「悲恋」の歌なのである。それにしては、この歌の下の句の「くだけておつる袖のなみだぞ」は、どうにも大げさな感じで無くもない。芭蕉が其角を評して、「しかり。かれ(其角)は定家の卿也。さしてもなき事を(蚤の喰ひつきたる事を)、ことごとしくいひつらね侍る」(『去来抄』)の評と同じく何とも空々しい感じを受けるのである。
それに比して、家隆の「かぎりあれば明なむとするかねの音に」の「かぎりあれば」(命の限りがあれば)も「かねの音(夜明けを告げる時の鐘)」にも、後鳥羽院が言う「たけもあり(格調があり)、心もめづらしく見ゆ(新鮮な何とも言えない余情がある)」(下記の『後鳥羽院』余話)の感じが大である。さらに、家隆の「猶ながき夜の月ぞのこれる」の「ながき夜」の「後朝の別れ」の暗示と、「月ぞのこれる」の、この「余韻・余情」は見事の一言に尽きる。
それに付加して、『後鳥羽院御口伝』の、赤裸々な後鳥羽院の「定家評」を目の当たりにすると(下記の『後鳥羽院』余話)、この二首は、右(家隆)の「勝」とせざるを得ない。
(追記)
とした上で、もう一度、スタートの時点に戻って、この二首をじっくりと反芻しているうちに、この家隆の「かぎりあれば明なむとするかねの音に/猶ながき夜の月ぞのこれる」は、定家の「しら玉の緒絶のはしの名もつらし/くだけておつる袖のなみだぞ」に接して、それに誘発されて、丁度、その定家の歌に「唱和」(他の歌に和して生まれる歌)して生まれた一首のような印象を深くしたのである。
それは、定家の一首が、大げさな「伊達(派手)・晴(ハレ)」風の「もみもみ(技巧を凝らした)」風の歌とするならば、家隆の一首は、抑えに抑えた「渋味(澁み)・褻(ケ)」風の「西行がふり(無技巧の技巧)」風の一首なのではないかという思いである。
とすると、この二首は、それぞれの歌が、それぞれの歌人の、それぞれの作風を強調するが故のものと解すると、これは、等しく「持」(引き分け)なる両首と解したい。
「歌枕:緒絶橋」(参考)
https://japanmystery.com/miyagi/odae.html
緒絶橋は『万葉集』にもその名が記されている、陸奥国の歌枕である。この大崎の地は古来よりたびたび川が氾濫し、そのたびに川の流れが大きく変わった。そのために以前の川筋が切れてしまい、あたかも流れを失った川のようになることがあった。このように川としての命脈が切れたものを“緒絶川(命の絶えた川)”と呼び、その川筋に架けられた橋ということで「緒絶橋」と名付けられたとされる。
しかしそれ以外にも“緒絶”の由来とされる伝承がある。嵯峨天皇の皇子が東征のために陸奥国へ赴いたが、その恋人であった白玉姫は余りの恋しさに皇子の後を追うように陸奥へ向かった。ところがこの地に辿り着いてみたが、皇子の行方は掴めない。意気消沈した姫はそのまま川に身投げをして亡くなってしまった。土地の者は、姫の悲恋を哀れんで“姫が命(玉の緒)を絶った川”という意味で緒絶川と呼ぶようになったという。
歌枕としての緒絶橋は、白玉姫の伝承をあやかって“悲恋”や“叶わぬ恋”を暗示するものとなっている。最も有名な歌は、藤原道雅の「みちのくの をだえの橋や 是ならん ふみみふまずみ こころまどはす」という悲恋の内容である。また松尾芭蕉がこの地を訪れようとしたが、姉歯の松同様、道を誤って辿り着けなかったことが『奥の細道』に記されている。
定家の「緒絶橋」の歌(参考)
※白玉の緒絶の橋の名もつらしくだけて落つる袖の涙に (拾遺愚草)
※しるべなき緒絶の橋にゆき迷ひまたいまさらのものや思はむ(拾遺愚草)
※人心緒絶の橋にたちかへり木の葉ふりしく秋の通ひ路(拾遺愚草)
※ことの音も歎くははる契とて緒絶の橋に中もたへにき(拾遺愚草)
※かくしらば緒絶の橋のふみまよひ渡らでただにあらましものほ(拾遺愚草)
『後鳥羽院御口伝』余話(宗偽)
「家隆卿は、若かりし折はきこえざりしが、建久のころほひより、殊に名誉もいできたりき。哥になりかへりたるさまに、かひがひしく、秀哥ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり。たけもあり、心もめづらしく見ゆ。」(『日本文学大系65』所収「後鳥羽院御口伝」)
「定家は、※①さうなき物なり。さしも殊勝なりし父の詠をだにもあさあさと思ひたりし上は、ましてや餘人の哥、沙汰にも及ばず。やさしくもみもみとあるやうに見ゆる姿、まことにありがたく見ゆ。道にも達したるさまなど、殊勝なりき。哥見知りたるけしき、ゆゝしげなりき。たゞし、※②引汲の心になりぬれば、鹿をもて馬とせしがごとし。傍若無人、理も過ぎたりき。他人の詞を聞くに及ばず。
惣じて※③彼の卿が哥存知の趣、いさゝかも事により折によるといふ事なし。ぬしにすきたるところなきによりて、我が哥なれども、自讃哥にあらざるをよしなどいへば、腹立の氣色あり。先年に、※④大内の花の盛り、昔の春の面影思ひいでられて、忍びてかの木の下にて男共の哥つかうまつりしに、定家左近中將にて詠じていはく、
としを經てみゆきになるゝ花のかげふりぬる身をもあはれとや思ふ
左近次將として廿年に及びき。述懷の心もやさしく見えし上、ことがらも希代の勝事にてありき。尤も自讃すべき哥と見えき。先達どもゝ、必ず哥の善惡にはよらず、事がらやさしく面白くもあるやうなる哥をば、必ず自讃哥とす。定家がこの哥詠みたりし日、大内より硯の箱の蓋に庭の花をとり入れて中御門攝政のもとへつかはしたりしに「誘はれぬ人のためとや殘りけむ」と返哥せられたりしは、あながち哥いみじきにてはなかりしかども、新古今に申し入れて、「このたびの撰集の我が歌にはこれ詮なり」とたびたび自讃し申されけると聞き侍りき。
昔よりかくこそ思ひならはしたれ。哥いかにいみじけれども、異樣の振舞して詠みたる戀の哥などをば、勅撰うけ給はりたる人のもとへは送る事なし。これらの故實知らぬ物やはある。されども、左近の櫻の詠うけられぬ由、たびたび哥の評定の座にても申しき。家隆等も聞きし事也。諸事これらにあらはなり。
※⑤四天王院の名所の障子の哥に生田の森の歌いらずとて、所々にしてあざけりそしる、あまつさへ種々の過言、かへりて己が放逸を知らず。まことに清濁をわきまへざるは遺恨なれども、代々勅撰うけ給はりたる輩、必ずしも萬人の心に叶ふ事はなけれども、傍輩猶誹謗する事やはある。
惣じて彼の卿が哥の姿、殊勝の物なれども、人のまねぶべきものにはあらず。心あるやうなるをば庶幾せず。たゝ、詞姿の艷にやさしきを本躰とする間、その骨すぐれざらん初心の者まねばゝ、正躰なき事になりぬべし。定家は生得の上手にてこそ、心何となけれども、うつくしくいひつゝけたれば、殊勝の物にてあれ。
秋とだに吹きあへぬ風に色變る生田の森の露の下草
まことに、「秋とだにと」うちはじめたるより、「吹きあへぬ風に色變る」といへる詞つゞき、「露の下草」と置ける下の句、上下相兼ねて、優なる哥の本躰と見ゆ。かの障子の「生田の森」の哥にはまことにまさりて見ゆらん。しかれども、かくのごとくの失錯、自他今も今もあるべき事也。さればとて、長き咎になるべからず。
此の哥もよくよく見るべし。詞やさしく艷なる他、心もおもかげも、いたくはなきなり。森の下に少し枯れたる草のある他は、氣色も理もなけれども、いひながしたる詞つゞきのいみじきにてこそあれ。案内も知らぬ物などは、かやうの哥をば何とも心得ぬ間、彼の卿が秀哥とて人の口にある哥多くもなし。をのづからあるも、心から不受也。
釋阿、西行などは、最上の秀哥は、詞も優にやさしき上、心が殊に深く、いはれもある故に、人の口にある哥、勝計すべからず。凡そ顯宗なりとも、よきはよく愚意にはおぼゆる間、一筋に彼の卿がわが心に叶はぬをもて、※①左右なく哥見知らずと定むる事も、偏執の義也。すべて心には叶はぬなり。哥見知らぬは、事缺けぬ事なり。
撰集にも入りて後代にとゞまる事は、哥にてこそあれば、たとひ見知らずとも、さまでの恨みにあらず。
秘蔵々々、尤不可有披露云。 」(『日本文学大系65』所収「後鳥羽院御口伝」)
(余話)
①「定家は、※①さうなき物(者)なり」→ 定家は「双なき者」で「並人ではなく」、また「左右(さう)なき者」で「唯我独尊」の傾向がある。
①「一筋に彼の卿がわが心に叶はぬをもて、※①左右(そう)なく哥見知らずと定むる事も、偏執の義也」→ わき目もふらず、定家卿は、己自身の好みに合わない歌を作る者を「唯我独尊」的に歌を知らないと極めつける。これは「偏執(片寄った)」な考えと言わざるを得ない。
②「※②引汲の心になりぬれば、鹿をもて馬とせしがごとし。傍若無人、理も過ぎたりき。他人の詞を聞くに及ばず」→ 自作を弁護しようと思ったときは(引汲の心になりぬれば)、「鹿を馬」にするが如く「傍若無人」で理屈が過ぎる。他人の意見などに聞く耳を持たない。
③「※③彼の卿が哥存知の趣、いさゝかも事により折によるといふ事なし。ぬしにすきたるところなきによりて、我が哥なれども、自讃哥にあらざるをよしなどいへば、腹立の氣色あり」→ 定家は、歌の批評に際して作歌周辺事情などは考慮しない。己自身に「すき(数寄)=風流心」の心がないので、自分の歌でも、気に入らない作品を褒められると立腹する。
④「※④大内の花の盛り—-『としを經てみゆきになるゝ花のかげふりぬる身をもあはれとや思ふ』—-家隆等も聞きし事也」→ 大内の花の折りの定家の作「としを經てみゆきになるゝ花のかげふりぬる身をもあはれとや思ふ」を、私(後鳥羽院)は、感情も優雅の上、詠作時の雰囲気も格別で自讃歌とすべきと思い、先達の歌人も、歌それ自体よりも詠作事情などに配慮している。『新古今集』の撰歌に、「誘われぬ人のためとや残りけむ明日よりさきの花の白雪」(摂政太政大臣藤原良経)を良経は自撰しているが、定家は詠作時の雰囲気などは考慮せず、歌の良し悪しだけで『新古今集』の撰歌を強いるなどの無理強いを、撰者の家隆などが耳にしている。
⑤「※⑤四天王院の名所の障子の哥に生田の森の歌いらずとて—-※①偏執の義也」→ 最勝四天王院は名所の障子の歌に「白露のしばし袖にと思へども生田の杜に秋風ぞ吹く」(慈円作)が入れられて、定家の「秋とだに吹きあへぬ風に色かはる生田の森の露の下草」が入らなかったことを、定家が「所々にしてあざけりそしる、あまつさへ種々の過言」をなし、「かへりて己が放逸を知らず」は遺憾である。そして、その歌は、採用された「白露の」よりもまさっているかも知れないが、よくよく見れば、詞がやさしく艶なるほかには、心も余情として目に浮かぶ面影もたいしたことはない。自身の心に叶わぬから直ちに歌の本質を知らないと決めつけるのは※①「偏執の義也」。
藤原定家(ふじわらのさだいえ(-ていか)) 応保二~仁治二(1162~1241) 通称:京極中納言
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応保二年(1162)、藤原俊成(当時の名は顕広)四十九歳の時の子として生れる。母は藤原親忠女(美福門院加賀)。同母兄に成家、姉に八条院三条(俊成卿女の生母)・高松院新大納言(祗王御前)・八条院按察(朱雀尼上)・八条院中納言(建御前)・前斎院大納言(竜寿御前)がいる。初め藤原季能女と結婚するが、のち離婚し、建久五年(1194)頃、西園寺実宗女(西園寺公経の姉)と再婚した。子に因子(民部卿典侍)・為家ほかがいる。寂蓮は従兄。
仁安元年(1166)、叙爵し(五位)、高倉天皇の安元元年(1175)、十四歳で侍従に任ぜられ官吏の道を歩み始めた。治承三年(1179)三月、内昇殿。養和元年(1181)、二十歳の時、「初学百首」を詠む。翌年父に命ぜられて「堀河題百首」を詠み、両親は息子の歌才を確信して感涙したという。文治二年(1186)には西行勧進の「二見浦百首」、同三年には「殷富門院大輔百首」を詠むなど、争乱の世に背を向けるごとく創作に打ち込んだ。
文治二年(1186)、家司として九条家に仕え、やがて良経・慈円ら九条家の歌人グループと盛んに交流するようになる。良経が主催した建久元年(1190)の「花月百首」、同二年の「十題百首」、同四年の「六百番歌合」などに出詠。ところが建久七年(1196)、源通親の策謀により九条兼実が失脚すると、九条家歌壇も沈滞した。建久九年、守覚法親王主催の「仁和寺宮五十首」に出詠。同年、実宗女との間に嫡男為家が誕生した。
正治二年(1200)、後鳥羽院の院初度百首に詠進し、以後、院の愛顧を受けるようになる。後鳥羽院は活発に歌会や歌合を主催し、定家は院歌壇の中核的な歌人として「老若五十首歌合」「千五百番歌合」「水無瀬恋十五首歌合」などに詠進する。建仁元年(1201)、新古今和歌集の撰者に任命され、翌年には念願の左近衛権中将の官職を得た。承元四年(1210)には長年の猟官運動が奏効し、内蔵頭の地位を得る。建暦元年(1211)、五十歳で従三位に叙せられ、侍従となる。建保二年(1214)には参議に就任し、翌年伊予権守を兼任した。
この頃、順徳天皇の内裏歌壇でも重鎮として活躍し、建保三年(1215)十月には同天皇主催の「名所百首歌」に出詠した。同六年、民部卿。ところが承久二年(1220)、内裏歌会に提出した歌が後鳥羽院の怒りに触れ、勅勘を被って、公の出座・出詠を禁ぜられた。
翌年の承久三年(1221)五月、承久の乱が勃発し、後鳥羽院は隠岐に流され、定家は西園寺家・九条家の後援のもと、社会的・経済的な安定を得、歌壇の第一人者としての地位を不動のものとした。しかし、以後、作歌意欲は急速に減退する。安貞元年(1227)、正二位に叙され、貞永元年(1232)、七十一歳で権中納言に就任。同年六月、後堀河天皇より歌集撰進の命を受け、職を辞して選歌に専念。三年後の嘉禎元年、新勅撰和歌集として完成した。天福元年(1233)十月、出家。法名明静。嘉禎元年(1235)五月、宇都宮頼綱の求めにより嵯峨中院山荘の障子色紙形を書く(いわゆる「小倉色紙」)。これが小倉百人一首の原形となったと見られる。延応元年(1239)二月、後鳥羽院が隠岐で崩御し、その二年後の仁治二年八月二十日、八十歳で薨去した。
建保四年(1216)二月、自詠二百首から撰出した歌合形式の秀歌撰『定家卿百番自歌合』を編む(以下『百番自歌合』と略)。自撰家集『拾遺愚草』は天福元年(1233)頃最終的に完成したと見られ、その後さらに『拾遺愚草員外』が編まれた。編著に『定家八代抄(二四代集)』『近代秀歌』『詠歌大概』『八代集秀逸』『毎月抄』などがある。古典研究にも多大な足跡を残した。また五十六年に及ぶ記事が残されている日記『明月記』がある。千載集初出、勅撰入集四百六十七首。続後撰集・新後撰集では最多入集歌人。勅撰二十一代集を通じ、最も多くの歌を入集している歌人である。
藤原家隆(ふじわらのいえたか(-かりゅう)) 保元三~嘉禎三(1158-1237) 号:壬生二品(みぶのにほん)・壬生二位
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良門流正二位権中納言清隆(白河院の近臣)の孫。正二位権中納言光隆の息子。兼輔の末裔であり、紫式部の祖父雅正の八代孫にあたる。母は太皇太后宮亮藤原実兼女(公卿補任)。但し尊卑分脈は母を参議藤原信通女とする。兄に雅隆がいる。子の隆祐・土御門院小宰相も著名歌人。寂蓮の聟となり、共に俊成の門弟になったという(井蛙抄)。
安元元年(1175)、叙爵。同二年、侍従。阿波介・越中守を兼任したのち、建久四年(1193)正月、侍従を辞し、正五位下に叙される。同九年正月、上総介に遷る。正治三年(1201)正月、従四位下に昇り、元久二年(1205)正月、さらに従四位上に進む。同三年正月、宮内卿に任ぜられる。建保四年(1216)正月、従三位。承久二年(1220)三月、宮内卿を止め、正三位。嘉禎元年(1235)九月、従二位。同二年十二月二十三日、病により出家。法号は仏性。出家後は摂津四天王寺に入る。翌年四月九日、四天王寺別院で薨去。八十歳。
文治二年(1186)、西行勧進の「二見浦百首」、同三年「殷富門院大輔百首」「閑居百首」を詠む。同四年の千載集には四首の歌が入集した。建久二年(1191)頃の『玄玉和歌集』には二十一首が撰入されている。建久四年(1193)の「六百番歌合」、同六年の「経房卿家歌合」、同八年の「堀河題百首」、同九年頃の「守覚法親王家五十首」などに出詠した後、後鳥羽院歌壇に迎えられ、正治二年(1200)の「後鳥羽院初度百首」「仙洞十人歌合」、建仁元年(1201)の「老若五十首歌合」「新宮撰歌合」などに出詠した。同年七月、新古今集撰修のための和歌所が設置されると寄人となり、同年十一月には撰者に任ぜられる。同二年、「三体和歌」「水無瀬恋十五首歌合」「千五百番歌合」などに出詠。元久元年(1204)の「春日社歌合」「北野宮歌合」、同二年の「元久詩歌合」、建永二年(1207)の「卿相侍臣歌合」「最勝四天王院障子和歌」を詠む。建暦二年(1212)、順徳院主催の「内裏詩歌合」、同年の「五人百首」、建保二年(1214)の「秋十五首乱歌合」、同三年の「内大臣道家家百首」「内裏名所百首」、承久元年(1219)の「内裏百番歌合」、同二年の「道助法親王家五十首歌合」に出詠。承久三年(1221)の承久の変後も後鳥羽院との間で音信を絶やさず、嘉禄二年(1226)には「家隆後鳥羽院撰歌合」の判者を務めた。寛喜元年(1229)の「女御入内屏風和歌」「為家卿家百首」を詠む。貞永元年(1232)、「光明峯寺摂政家歌合」「洞院摂政家百首」「九条前関白内大臣家百首」を詠む。嘉禎二年(1236)、隠岐の後鳥羽院主催「遠島御歌合」に詠進した。
藤原俊成を師とし、藤原定家と並び称された。後鳥羽院は「秀哥ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり」と賞讃し(御口伝)、九条良経は「末代の人丸」と称揚したと伝わる(古今著聞集)。千載集初出。新勅撰集では最多入集歌人。勅撰入集計二百八十四首。自撰の『家隆卿百番自歌合』、他撰の家集『壬二集』(『玉吟集』とも)がある。新三十六歌仙。百人一首にも歌を採られている。『京極中納言相語』などに歌論が断片的に窺える。また『古今著聞集』などに多くの逸話が伝わる。
(その十一)参議雅経(飛鳥井雅経)と二条院讃岐
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十一・参議雅経」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009404
(左方十一・参議雅経)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019793
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十一・二条院讃岐)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009422
(バーチャル歌合)
左方十一・参議雅経(飛鳥井雅経)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010696000.html
しら雲のたえまになびく青柳の/かつらぎやまに春かぜぞふく
右方十一・二条院讃岐
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010697000.html
やまたかみみねの嵐にちる花の/つきにあまぎるあけかたのそら
判詞(宗偽)
『千五百番歌合』(『建仁元年千五百番歌合』)の百十一番は、次の「秀能と雅経」のものである。
百十一番
左 季能卿
かざごしの峯には春や立たざらん麓の空に霞へだてて
右 勝 雅経
白雲の絶へ間になびく青柳のかつらぎやまに春風ぞふく
右歌、姿よろしく侍り。(判者 権大納言忠良)
この歌合の判者は藤原忠良で、その判詞は「右歌、姿よろしく侍り」と簡単なもので「右方の雅経の勝」となっている。
ここで、七百十三番のもの(左=讃岐、右=定家、判者=御判=後鳥羽院で「折句歌」の判詞)を次に紹介したい。
七百十三番
左 讃岐
あはれなる山田の庵のね覚め哉いなばの風に初かりの声
右 勝 定家朝臣
もみぢする月の桂にさそはれてしたのなげきも色ぞうつろふ
物思へばみだれて露ぞちりまがふ夜はにね覚めをしかの声より(御判折句歌)
この後鳥羽院の判詞は「折句歌」(各句の上に物名などを一文字ずつおいたもの)で、その「物思へばみだれて露ぞちりまがふ夜はにね覚めをしかの声より」は、次のように「もみぢよし」の折句になっていて、右方の「もみぢする月の桂にさそはれてしたのなげきも色ぞうつろふ」の「もみぢ」の定家の歌(右方)の「勝」と洒落ているのである。
物思へば → も
みだれて露ぞ → み
ちりまがふ → ぢ
夜はにね覚めを → よ
しかの声より → し
ちなみに、この『千五百番歌合』で後鳥羽院が担当した「秋二・秋三」は、この「折句歌」が判詞に添えられているようである。いかにも、「一代の才子・和歌の帝王」の「後鳥羽院」の判詞のように思われる。
この後鳥羽院の「折句歌」形式の判詞を借用したい。
左
しら雲のたえまになびく青柳の/かつらぎやまに春かぜぞふく (雅経)
右 勝
やまたかみみねの嵐にちる花の/つきにあまぎるあけかたのそら (讃岐)
判詞=折句歌
みね嵐/ギヤマンの月/野辺の花/かぎろひながら/散りし雅経 (宗偽)
付言
み → みね嵐
ぎ → ギヤマンの月
の → 野辺の花
か → かぎろひながら
ち → 散りし雅経
『後鳥羽院御口伝』余話(宗偽)
「雅経は殊(こと)に案じかへりて歌よみしものなり。いたくたけある(格調のある)歌などはむねとおほくはみえざりしかども、手だり(上手)とみえき。」(『後鳥羽院御口伝』)
『後鳥羽院御口伝』の「歌人評」は、「近き世の上手」として平安末期の「歌道」(和歌の家=専門歌人の家系による規範化していく)の家系と深く結びついている。
具体的には、「源経信(つねのぶ)―俊頼(としより)―俊恵(しゅんえ)」と続く「六条源家(ろくじょうげんけ)」、続いて「藤原顕季(あきすえ)―顕輔(あきすけ)―清輔(きよすけ)」の「六条藤家(とうけ)」、さらに「藤原俊成(しゅんぜい)―定家(ていか)―為家(ためいえ)以下現代にまで続いている「御子左(みこひだり)家」の、それらの平安末期(院政期)から鎌倉時代にかけての歌人の評が中心になっている。この「御子左家」は、為家の子の代に生じた二条家・京極家(血統は南北朝期に絶える)と冷泉(れいぜい)家とは江戸時代にも及んで歌界に大きな影響を与えることになる。
ここに、藤原定家らとともに『新古今和歌集』を撰した。「蹴鞠(けまり)」にもすぐれ、「歌鞠(かきく)二道」の「飛鳥井家」の祖の、「参議雅経(飛鳥井雅経)」が加わることになる。
飛鳥井雅経の一首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/masatune.html#SM
千五百番歌合に、春歌
白雲のたえまになびく青柳のかづらき山に春風ぞ吹く(新古74)
【通釈】白雲の絶え間に靡く、若葉の美しい柳――その青柳を鬘(かずら)にするという葛城山に、今まさに春風が吹いている。
【語釈】◇白雲(しらくも)のたえまになびく 青柳の序であるとともに、「春風の吹く葛城山」を修飾するはたらきをする。◇青柳の 葛城山の枕詞。柳を鬘(髪飾り)にした風習から。下記本歌参照。◇かづらき山 大和・河内国境の連山。主峰は葛木神社のある葛木岳(通称金剛山)。桜の名所とされた。今は「かつらぎ」と訓むが、昔は「かづらき」。鬘(かづら)の意が掛かる。
【補記】「白きと青きとを取り合はせたり」(『新古今増抄』)。雲の白と柳の青(若緑)を配合して春らしい彩り。丈高い姿。
【他出】千五百番歌合、自讃歌、定家八代抄、歌枕名寄、六華集
【参考歌】「柿本人丸集」
青柳のかづらき山にゐる雲のたちてもゐても君をこそおもへ
【主な派生歌】
みふゆつぎ春しきぬれば青柳のかづらき山に霞たなびく(源実朝)
春がすみ絶間になびく青柳のめより色にはあらはれにけり(香川景樹)
二条院讃岐の一首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/n_sanuki.html#SP
百首歌たてまつりし時、春の歌
山たかみ嶺(みね)の嵐に散る花の月にあまぎる明け方の空(新古130)
【通釈】高い山にあるので、峰の嵐によって散る桜――その花が、月の光をさえぎり、曇らせている、明け方の空よ。
【語釈】◇嶺の嵐 嶺(山の頂)から吹き降ろす嵐。◇月にあまぎる 月に大量の落花がかぶさって光を見えにくくしているさま。この月は有明の月。「あまぎる」は「天霧る」で、天が霞む意。
【補記】正治二年(1200)、後鳥羽院に奉った百首歌。
【他出】三百六十番歌合、定家八代抄、女房三十六人歌合
【鑑賞】「落花を曙の薄明のうちに見るのは、当時愛されていた心である。また、自然を広く捉えようとするのも、当時の心である。更にまた、静的よりも動的なところに趣を感じるのも、当時の風である。この歌はそのすべてを持っている」(窪田空穂『新古今和歌集評釈』)
【主な派生歌】
み吉野の月にあまぎる花の色に空さへにほふ春の明ぼの(後鳥羽院)
春ふかみ峰のあらしに散る花のさだめなきよに恋つまぞふる(源実朝)
にほひもて我がはやをらん春霞月にあまぎる夜はの梅が枝(飛鳥井雅有)
ふりかすむ空に光はへだたりて月にあまぎる夜はの白雪(伏見院)
梅の花それにはあらでさえかへり月にあまぎる雪の山風(正広)
(参考)二条院讃岐と定家との歌合(『千五百番歌合』より)
http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/teika/1500ban_t.html
二百六十三番
左 勝 讃岐
0524 こぬ人をうらみやすらん喚子鳥しほたれ山の夕暮の声
右 定家朝臣
0525 とまらぬは桜ばかりを色に出でてちりのまがひにくるる春哉
左、しほたれ山のよぶこ鳥、誠にうらみやすらんと聞え侍るを、右、「桜ばかりを色に出でて」といへる心いと心えわかず侍れば、以左まさると申すべくや。(判者釈阿)
四百八十八番
左 勝 讃岐
0974 夏のよの月のかつらの下もみぢかつがつ秋のひかりなりけり
右 定家朝臣
0975 夏のよはまだよひのまとながめつつぬるや川べのしののめの空
只翫桂華秋色深 夏宵不憶一夢成 (判者左大臣後京極摂政良経)
七百十三番
左 讃岐
1424 あはれなる山田の庵のね覚め哉いなばの風に初かりの声
右 勝 定家朝臣
1425 もみぢする月の桂にさそはれてしたのなげきも色ぞうつろふ
物思へばみだれて露ぞちりまがふ夜はにね覚めをしかの声より(御判折句歌)
九百卅八番
左 持 讃岐
1874 露は霜水は氷にとぢられて宿かりわぶる冬のよの月
右 定家朝臣
1875 まきのやに時雨あられは夜がれせでこほるかけひの音信ぞなき
左右ともに心をかしく侍れば、勝劣難決。(判者蓮経 季経入道)
千百六十三番
左 讃岐
2324 蛙なく神なび河にさく花のいはぬ色をも人のとへかし
右 勝 定家朝臣
2325 たれか又物おもふ事ををしへおきし枕ひとつをしる人にして
左の、「神なび河にさく花のいはぬ色」などは、ふるまはれて侍り。右の「枕をしる人にして」「物思ふ事を誰かをしへし」などうたがはれたるこそ、風情めづらしく見所侍れ。勝にや侍らん。(判者生蓮)
千三百八十八番
左 讃岐
2776 心あらば行きてみるべき身なれ共音にこそきけ松がうら島
右 勝 定家朝臣
2777 いく世へぬかざしをりけんいにしへに三輪のひばらの苔の通ひ路
すむあまの心あるべき松が浦もみわのひばらに及ぶべきかは 以右為勝。(判者前権僧正)
飛鳥井雅経(あすかいまさつね(-がけい)) 嘉応二年~承久三(1170-1221)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/masatune.html#SM
関白師実の玄孫。刑部卿頼輔の孫。従四位下刑部卿頼経の二男。母は権大納言源顕雅の娘。刑部卿宗長の弟。子に教雅・教定ほかがいる。飛鳥井雅有・雅縁・雅世・雅親ほか、子孫は歌道家を継いで繁栄した。飛鳥井と号し、同流蹴鞠の祖。
少年期、蹴鞠の才を祖父頼輔に見出され、特訓を受けたという。治承四年(1180)十一月、叙爵。文治元年(1185)、父頼経は源義経との親交に責を負って安房国に流され、一度はゆるされて帰京するが、文治五年(1189)、今度は伊豆に流された。十代だった雅経は処分を免れたが、京を去って鎌倉に下向、大江広元のむすめを妻とし、蹴鞠を好んだ源頼家に厚遇された。
建久八年(1197)二月、後鳥羽院の命により上洛。同年十二月、侍従に任ぜられ、院の蹴鞠の師を務める。同九年正月、従五位上。建仁元年(1201)正月、右少将に任ぜられる(兼越前介)。同二年正月、正五位下。元久二年(1205)正月、加賀権介。建永元年(1206)正月、従四位下に昇り、左少将に還任される。承元二年(1208)十二月、左中将。同三年正月、周防権介。同四年正月、従四位上。建保二年(1214)正月、正四位下に昇り、伊予介に任ぜられる。同四年三月、右兵衛督。建保六年(1218)正月、従三位。承久二年(1220)十二月、参議。承久三年(1221)三月十一日、薨。五十二歳。
建久九年(1198)の鳥羽百首をはじめ、正治後度百首・千五百番歌合・老若五十首歌合・新宮撰歌合など多くの歌会・歌合に参加。ことに「老若五十首歌合」では大活躍し、出詠歌五十首中九首もが新古今集に採られることになる。建仁元年(1201)、和歌所寄人となり、さらに新古今集撰者の一人に加えられた。その後も後鳥羽院歌壇の中心メンバーとして活躍、建仁二年(1202)の水無瀬恋十五首歌合・八幡若宮撰歌合、元久元年(1204)の春日社歌合、承元元年(1207)の最勝四天王院障子和歌などに出詠。順徳天皇歌壇の内裏歌合にも常連として名を列ねた。たびたび京と鎌倉の間を往復し、源実朝と親交を持った。定家と実朝の仲を取り持ったのも雅経である。建暦元年(1211)には鴨長明を伴って鎌倉に下向、実朝・長明対面の機会を作るなどした。
新古今集に二十二首。以下勅撰集に計百三十四首入集。家集『明日香井和歌集』(以下「明日香井集」と略)、著書『蹴鞠略記』などがある。
二条院讃岐(にじょういんのさぬき) 生没年未詳(1141?-1217以後)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/n_sanuki.html
源頼政の娘。母は源忠清女。仲綱の異母妹。宜秋門院丹後は従姉。はじめ二条天皇に仕えたが、永万元年(1165)の同天皇崩後、陸奥守などを勤めた藤原重頼(葉室流。顕能の孫)と結婚し、重光(遠江守)・有頼(宜秋門院判官代)らをもうけた。治承四年(1180)、父頼政と兄仲綱は宇治川の合戦で平氏に敗れ、自害。その後、後鳥羽天皇の中宮任子(のちの宜秋門院)に再出仕する。建久七年(1196)、宮仕えを退き、出家した。
若くして二条天皇の内裏歌会に出詠し、父と親しかった俊恵法師の歌林苑での歌会にも参加している。建久六年(1195)には藤原経房主催の民部卿家歌合に出詠。出家後も後鳥羽院歌壇で活躍し、正治二年(1200)の院初度百首、建仁元年(1201)の新宮撰歌合、同二~三年頃の千五百番歌合などに出詠した。順徳天皇の建暦三年(1213)内裏歌合、建保四年(1216)百番歌合の作者にもなった。家集『二条院讃岐集』がある。女房三十六歌仙。小倉百人一首にも歌を採られている(この歌によって「沖の石の讃岐」と称されたという)。千載集初出、勅撰入集計七十三首。
(その十二)前大納言為家と藤原隆祐朝臣
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十二・前大納言為家」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009405
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十二・藤原隆祐朝臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009423
(バーチャル歌合)
左方十二・前大納言為家(藤原為家)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010698000.html
たちのこす木ずゑもみえず山桜/はなのあたりにかかる白雲
右方十二・藤原隆祐朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010699000.html
今日はなをみやこもちかし逢坂の/せきのあなたにしる人もがな
判詞(宗偽)
『千五百番歌合』(『建仁元年千五百番歌合』)の六百一番は、次の「女房=後鳥羽院と通具」ものである。
六百一番
左
このゆふべ風ふき立ちぬ白露にあらそふ萩を明日やかも見ん(女房=後鳥羽院)
右 勝
ゆふまぐれ待つ人は来ぬ故郷のもとあらの小萩風ぞ訪(と)ふなる(源通具)
判詞(御判=後鳥羽院)
各々たてまつれる百首を番(つが)ひて、廿巻(一巻に「七十五番」ずつ)の歌合として、人々判じ申すうち二巻(秋二と秋三)、よしあしを定め申すべきに侍(はべる)に、愚意の及ぶところ勝負ばかりは付くべしといへども、難に於きては如何(いか)に申すべしもおぼえ侍らず。左右の下に一文字ばかり付けば、無下に念なき様なるべし。よりて、判の詞のところに、形(かた)の様に三十一字を連ねて、その句の上(かみ)ごとに勝負の字ばかりを定(さだめ)申すべきなり。
見せばやな君を待つ夜の野べの露にかれまく惜しく散る小萩哉(折句歌=後鳥羽院)
(註=「折句歌」)
見せばやな → み
君を待つ夜の → ぎ
野べの露に → の
かれまく惜しく→ か
散る小萩哉 → ち
(『日本文学大系65』所収「後鳥羽院御口伝」)と(『和歌文学講座10秀歌鑑賞Ⅰ(和歌文学会編)』)
『千五百番歌合』の「六百一番」(国文研究資料館(高知県立図書館蔵))
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0099-020705
↓
base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0099-020705&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E5%8D%83%E4%BA%94%E7%99%BE%E7%95%AA%E6%AD%8C%E5%90%88%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=207
この後鳥羽院の「折句歌」形式を、ここでも借用したい。
左 勝
たちのこす木ずゑもみえず山桜/はなのあたりにかかる白雲(為家)
右
今日はなをみやこもちかし逢坂の/せきのあなたにしる人もがな(隆祐)
判詞=折句歌
日のあたる/為家家系/利発な三子/鐘もなるなり/千代に八千代に(宗偽)
付言
ひ → 日のあたる
だ → 為家家系(藤原俊成→定家→為家=御子左家)
り → 利発な三子(為氏=二条家・為教=京極家・為相=冷泉家)
か → 鐘もなるなり
ち → 千代に八千代に
藤原為家の一首
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tameie.html
西園寺入道前太政大臣家三首歌に、花下日暮といへる心を
ながしとも思はで暮れぬ夕日かげ花にうつろふ春の心は(続千載87)
【通釈】春の日は永いと言うが、心にはそうとも思えぬうちに暮れてしまった。夕日を映す花とともに移ろってゆく我が心には。
【補記】構文はなかなか複雑で、「思はで」の主語は結句「春の心」であり、「暮れぬ」の主語は第三句「夕日かげ」であって、二重の倒置をなしている。また「花にうつろふ」は、前句との続きから「夕日が花に映る」意をあらわすと共に、下句に掛かって「花に動かされる春の心は」ほどの意になる。かくも用意周到の作であるが、一首の姿は題意にふさわしく物憂いような情緒纏綿の調べを奏でている。
西園寺家の歌会での作。続千載集では入道前太政大臣とあって公経を指すことになるが、為家集の詞書は「建長三年前太政大臣西園寺三首」とあり、正しくは西園寺実氏主催の会か。
【参考歌】藤原家隆「水無瀬恋十五首歌合」
恨みても心づからの思ひかなうつろふ花に春の夕暮
藤原定家「拾遺愚草員外」
いかならむ絶えて桜の世なりとも曙かすむ春の心は
【主な派生歌】
咲きしより花にうつろふ山里の春のこころはちるかたもなし(本居宣長)
藤原隆祐の一首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/takasuke.html
題しらず
けふはなほ都もちかし逢坂の関のあなたにしる人もがな(続古今941)
【通釈】今日はまだ都も近い。逢坂の関を越えてしまえば、もはや東国だ。関の向うに親しい人がいればなあ。
【補記】東国へ向けて旅立ち、逢坂の関を間近にしての感慨。「しる人」は恋人・親友など親密な相手を言う。九条大納言家三十首御会。
藤原為家(ふじわらのためいえ)建久九~建治元(1198-1275) 通称:民部卿入道・中院禅門
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tameie.html
定家の二男。母は内大臣藤原実宗女。因子の同母弟。子には為氏(二条家の祖)・為教(京極家の祖)・為相(冷泉家の祖)・為守、為子(九条道良室)ほかがいる。宇都宮頼綱女・阿仏尼を妻とした。
建仁二年(1202)十一月十九日、叙爵(従五位下)。元久三年(1206)正月十七日、従五位上に昇る。承元元年(1207)より後鳥羽院に伺候し、同三年(1209)四月十四日、侍従に任ぜられる。同四年七月二十一日、定家の権中将辞任に伴い、左少将に任ぜられる。承元四年(1210)の順徳天皇践祚後はその近習として親しく仕えた。建暦二年(1212)十一月十一日、正五位下。建保二年(1214)正月五日、従四位下。同四年(1216)正月十三日、従四位上となり、同五年十二月十日には左中将に昇進した。
承久元年(1219)正月五日、正四位下。承久の乱後、順徳院の佐渡遷幸に際しては供奉の筆頭に名を挙げられたが、結局都に留まった。後堀河天皇の嘉禄元年(1225)十二月二十六日、蔵人頭。同二年四月十九日、参議に就任し、侍従を兼ねる。同年十一月四日、従三位に進む。寛喜三年(1231)正月六日、正三位。同年四月十四日、右兵衛督を兼ねる。
貞永元年(1232)六月二十九日、右衛門督に転ず。四条天皇の文暦二年(1235)正月二十三日、従二位。嘉禎二年(1236)二月三十日、権中納言(右衛門督を止む)。同四年七月二十日、正二位。仁治二年(1241)二月一日、権大納言に任ぜられるが、八月二十日定家が亡くなり服喪し、その後復任せず。
後深草天皇の建長二年(1250)九月十六日、民部卿を兼ねる。康元元年(1256)二月二十九日、病により出家し、嵯峨中院山荘に隠棲した。後宇多天皇の建治元年(1275)五月一日、薨。七十八歳。
建暦二年(1212)・建保元年(1213)の内裏詩歌合など、十代半ばから順徳天皇の内裏歌壇で活動を始めるが、若い頃は蹴鞠に熱中して歌道に精進せず、父定家を歎かせた。歌作に真剣に取り組むようになるのは建保末年頃からで、承久元年(1219)には内裏百番歌合に出詠し、貞応二年(1223)には慈円の勧めにより五日間で千首歌を創作した(『為家卿千首』)。やがて歌壇で幅広く活躍、寛喜元年(1229)の女御入内御屏風和歌、貞永元年(1232)の洞院摂政家百首に出詠するなどした。仁治二年(1241)、定家が亡くなると御子左家を嗣ぎ、寛元元年(1243)の河合社歌合、宝治二年(1248)の後嵯峨院御歌合などの判者を務めた。
宝治二年七月、後嵯峨院より勅撰集単独編纂を仰せ付かり、建長三年(1251)、『続後撰集』として完成奏覧。正元元年(1259)には再び勅撰集単独撰進の院宣を受けたが、その後鎌倉将軍宗尊親王の勢威を借りて葉室光俊(真観)らが介入、結局光俊ほか四人が撰者に加えられ、これを不快とした為家は選歌を放棄したとも伝わる(六年後の文永二年、『続古今集』として奏覧)。出家後も歌作りは盛んで、正嘉元年(1257)には『卒爾百首』、弘長元年(1261)には『楚忽百首』『弘長百首』を詠むなどした。晩年は側室の阿仏尼(安嘉門院四条)を溺愛し、その子為相に細川荘を与える旨の文券を書いて、後に為氏・為相の遺産相続争いの原因を作った。
新勅撰集初出。勅撰入集三百三十三首。続拾遺集では最多入集歌人。家集は『大納言為家集』『中院集』『中院詠草』『別本中院集』の四種が伝わる。歌論書に『詠歌一躰』、注釈書に『古今序抄』『後撰集正義』がある
藤原隆祐(ふじわらのたかすけ)生没年未詳(1190以前-1251以後)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/takasuke.html
従二位家隆の嫡男。母は正三位藤原雅隆女。土御門院小宰相は姉妹。津守経国女を妻とした。子に俊隆がいる。官位は侍従・従四位下に至る。
早くは正治二年(1200)十月の後鳥羽院当座歌合に名が見えるが、その後、院歌壇での活躍は見られない。承久の乱後、九条家歌壇を中心に活動する。元仁二年(1225)の藤原基家家三十首歌会、寛喜四年(1232)の石清水若宮歌合、同年三月の日吉社撰歌合、貞永元年(1232)の洞院摂政家百首、同年七月の光明峯寺入道摂政家歌合、同年八月十五夜名所月歌合、嘉禎二年(1236)の遠島御歌合、宝治二年(1248)の宝治百首、建長三年(1251)九月十三夜影供歌合などに出詠。
隠岐配流後の後鳥羽院に親近し、歌壇の主流から外れていたため、歌人としても常に不遇であった。藤原定家に評価を請い、書状で賞讃を受けたが、定家撰の新勅撰集には僅か二首しか採られず、甚だ落胆したという(家集)。以下勅撰集入集は総計四十一首。百番自歌合を主体とする家集『隆祐集』がある。新三十六歌仙。『新時代不同歌合』にも歌仙として撰入されている。
(その十三)藤原有家朝臣と源具親朝臣
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十三・藤原有家朝臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009406
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十三・源具親朝臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009424
(バーチャル歌合)
左方十三・藤原有家朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010700000.html
あさ日かげにほへるやまのさくら花/つれなくきえぬゆきかとぞみる
右方十三・源具親朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010701000.html
はれくもる影をみやこにさきだてゝ/しぐるとつぐるやまのはのつき
判詞(宗偽)
『新古今集』の入首数の多い歌人を序列すると、「西行・九四首、慈円・九二首、良経七九首、俊成七二首、式子内親王四九首、定家四六首、家隆四三首、寂蓮三五、後鳥羽院三四首、貫之三二首、俊成卿女二九首、人麿二三首、雅経二二首、経信・有家各一九首、通具・秀能各一七首、道真・好忠・実定・讃岐各一六首、伊勢・宮内卿各一五首」の順となってくる(『現代語訳日本の古典3古今集・新古今集』所収「古今集・新古今集の世界(藤平春男稿)」)。
この「有家一九首」の「藤原有家」(左方十三)は『新古今集』の撰者の一人であるが、対する「源具親(ともちか)」は、撰者の一人の「源通具(みちとも)一七首」とは別人で、宮内卿の兄にあたる。
ちなみに、この『新古今集』の撰者の一人の「源通具」の父は、「源通親(みちちか)」で、この通親が『新古今集』編纂に通じる新しい勅撰和歌集の計画を主導し、その半ばで亡くなったことにより、その代理として通具が『新古今集』の撰者になった意味合いが強いとされている。
さらに、この「通具」の妻が「俊成女(としなりのむすめ)」で、この二人には一男一女をもうけながら、通具は、後鳥羽院の後宮(承明門院)の異母妹の、土御門天皇の乳母従三位典侍按察局(あぜちのつぼね・藤原信子)と結婚し、俊成女とは離縁することとなる。
1 みよし野は山もかすみて白雪のふりにし里に春は来にけり(良経=七九首)
2 ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山かすみたなびく(後鳥羽院=三四首)
3 山ふかみ春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水(式子内親王=四九首)
4 かきくらし猶ふる里の雪のうちに跡こそ見えぬ春は来にけり(宮内卿=一五首)
5 今日といへば唐土までも行く春を都にのみと思ひけるかな(俊成=七二首)
7 岩間とぢし氷も今朝は解けそめて苔のした水道もとむらむ(西行=九四首)
44 梅の花にほひうつす袖のうへに軒漏る月のかげぞあらそふ(※定家=四六首)
45 梅が香にむかしをとへば春の月こたへぬかげぞ袖にうつれる(※家隆=四三首)
46 梅のはな誰が袖ふれしにほひぞと春や昔の月にとはばや(※通具=一七首)
47 梅の花あかぬ色香もむかしにておなじかたみの春の夜の月(俊成女=二九首)
53 散りぬればにほひばかりを梅の花ありとや袖に春風の吹く(※有家=一九首)
57 難波潟かすまぬ浪もかすみけりうつるもくもるおぼろ月夜に(※※具親=七首)
58 今はとてたのむの雁もうちわびぬおぼろ月夜のあけぼのの空(※寂蓮=三五首)
73 春風のかすみ吹きとくたえまよりみだれてなびく青柳の糸(※雅経=二二首)
上記(44~59)は『新古今集』「巻一・春上(1~98)」の十四首で、作家名と『新古今集』の入集歌数を記述したものである。この作家名のうち、「定家・家隆・通具・有家・雅経」は撰者(※)である(寂蓮も撰者であったが撰首前に没)。「後鳥羽上皇」は『新古今集』の撰進下命した上皇(土御門天皇の父)、「良経」は時の摂政太政大臣(撰進した翌年に三十八歳で急逝)。「俊成(釈阿)」は「後鳥羽上皇・九条(藤原)良経」の和歌の師で「御子左家」の総帥。「西行」は俊成と共に「生得の歌人」(『後鳥羽院御口伝)』」と仰がれている歌人という位置づけになる。
この『新古今集』「巻一・春上(1~98)」の十四首は、それぞれ「良経⇔後鳥羽院、式子内親王⇔宮内卿、俊成⇔西行、定家⇔家隆、通具⇔俊成女、※有家⇔※※具親、寂蓮⇔雅経」との歌合のペアの番いしても恰好の組み合わせとなろう。
そして、今回の「左方十三・藤原有家朝臣⇔右方十三・源具親朝臣」と見事に一致してくる。ちなみに、この具親の『新古今集』の入集歌数は、次の七首のようである。
※※源具親の『新古今集』入集歌(七首)
「春歌上」
百首歌奉りし時
57 難波潟かすまぬ浪もかすみけりうつるもくもるおぼろ月夜に
「春歌下」
百首歌めしし時春の歌
121 時しもあれたのむの雁のわかれさへ花散るころのみ吉野の里
「秋歌上」
千五百番歌合に
295 しきたへの枕のうへに過ぎぬなり露を尋ぬる秋のはつかぜ
千五百番歌合に
587 今はまた散らでもながふ時雨かなひとりふりゆく庭の松風
千五百番歌合に
597 今よりは木の葉がくれもなけれども時雨に残るむら雲の月
題知らず
598 晴れ曇る影をみやこにさきだててしぐると告ぐる山の端の月 (右方十三)
「雑歌上」
熊野にまうで侍りしついでに切目宿にて、海辺眺望といへる心をゝのこどもつかうまつりしに
1557 ながめよと思はでしもやかへるらむ月待つ波の海人の釣舟
ここで、「左方十三・藤原有家朝臣⇔右方十三・源具親朝臣」の判詞は次のようにしたい。
左 持
あさ日かげにほへるやまのさくら花/つれなくきえぬゆきかとぞみる(有家)
右
はれくもる影をみやこにさきだてゝ/しぐるとつぐるやまのはのつき(具親)
判詞=折句歌
ひさかたの/君らのかげは/別れても/けだかきものぞ/瑠璃色に染む(宗偽)
付言
ひ → ひさかたの
き → 君らのかげは(※有家⇔※※具親)
わ → 別れても(六条藤家⇔村上源氏)
け → けだかきものぞ
る → 瑠璃色に染む
藤原有家の一首
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千五百番歌合に
あさ日かげにほへる山の桜花つれなく消えぬ雪かとぞ見る(新古98)
【通釈】朝日があたり、まばゆく照り映えている、山の桜。それを私は、平然と消えずにいる雪かと思って見るのだ。
【語釈】◇つれなく消えぬ 形容詞「つれなし」の原義は「然るべき反応がない」。雪は陽に当たれば消えるのが当然なのに、平然と消えずにいる、ということ。
【補記】「千五百番歌合」巻三、二百二十一番左持。俊成の判詞は「『あさひかげ』とおき、『つれなくきえぬ』と見ゆらむ風情いとをかしく侍るべし」。
【本歌】田部櫟子「万葉集」巻四
朝日影にほへる山に照る月の飽かざる君を山越しに置きて
【主な派生歌】
春霞はやたちぬれや朝日かげにほへる山の空ぞのどけき(伏見院)
朝日影にほへる山の春風にふもとのさとは梅が香ぞする(一条兼良)
吉野山つれなくきえぬ白雪やまだ初春のあり明の月(〃)
いとはやも花ぞまたるる朝日影にほへる山の峰の桜木(三条西実隆)
夕にも雨とはならじ朝日かげにほへる山の花のしら雲(松永貞徳)
花ならで花なるものは朝日かげにほへる山の木木のしら雪(小沢蘆庵)
朝日影にほへる山の桜花千代とことはに見ともあかめや(本居宣長)
源具親の一首
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千五百番歌合に
しきたへの枕のうへにすぎぬなり露をたづぬる秋の初風(新古295)
【通釈】枕の上を吹き過ぎていったよ。露を散らそうとやって来たのだろうが、枕の下に溜まった涙には気づかなかったよ、秋の初風は。
【語釈】◇しきたへの 枕の枕詞。◇枕のうへに 下記本歌により、枕の下には涙の海があることを暗示。それには気づかずに吹き過ぎていった、ということ。◇露をたづぬる 秋風は露を吹き散らすのが習わしであるので、こう言う。
【本歌】紀友則「古今集」
しきたへの枕の下に海はあれど人をみるめは生ひずぞありける
藤原有家(ふじわらのありいえ) 久寿二~建保四(1155-1216)
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もとの名は仲家。六条藤家従三位重家の子。母は中納言藤原家成女。清輔・顕昭・頼輔・季経らの甥。経家・顕家の弟。保季の兄。子には従五位下散位有季・僧公縁ら。
仁安二年(1167)、初叙。承安二年(1172)、相模権守。治承二年(1178)、少納言。同三年、讃岐権守を兼ねる。同四年(1180)、有家と改名。元暦元年(1184)、少納言を辞し、従四位下に叙せられる。建久三年(1192)、従四位上。同七年、中務権大輔。正治元年(1199)、大輔を辞し、正四位下。建仁二年(1202)、大蔵卿。承元二年(1208)、従三位。建保三年(1215)二月、出家。法名、寂印。翌年の四月十一日、薨ず。
文治二年(1186)の吉田経房主催の歌合、建久元年(1190)の花月百首、建久二年(1191)の若宮社歌合、建久四年(1193)頃の六百番歌合、建久九年(1198)の守覚法親王家五十首に出詠。後鳥羽院歌壇でも主要歌人の一人として遇され、建仁元年(1201)の新宮撰歌合・千五百番歌合、建仁二年(1202)の水無瀬恋十五首歌合、元久元年(1204)の春日社歌合、承元元年(1207)の最勝四天王院和歌などに出詠した。順徳天皇の建暦三年(1213)内裏歌合、建保二年(1214)の歌合などにも参加している。
建仁元年(1201)、和歌所寄人となり、新古今集撰者となる。六条家の出身ながら御子左家(みこひだりけ)に親近した。
家集があったらしいが伝存しない。千載集初出。新古今集には十九首。勅撰入集は計六十六首。新三十六歌仙。『続歌仙落書』にも歌仙として撰入され、「風体遠白く、姿おほきなるさまなり。雪つもれる富士の山をみる心地なむする」と賛辞が捧げられている。
源具親(みなもとのともちか) 生没年未詳 通称:小野宮少将
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村上源氏。小野宮大納言師頼の孫。右京権大夫師光の子(二男か)。母は巨勢宗成女、後白河院安藝。宮内卿の同母兄。勅撰歌人泰光も兄弟。北条重時の娘を娶り、輔道をもうける。
能登守・左兵衛佐などを経て、従四位下左近少将に至る。出家後は如舜を称す。
後鳥羽院歌壇で活躍し、「正治後度百首」「千五百番歌合」、承元元年(1207)「最勝四天王院障子和歌」などに詠進。建仁元年(1201)、和歌所寄人となる。承久の乱後はほとんど歌を残していないが、建長五年(1253)の藤原為家主催「二十八品並九品詩歌」に如舜の名で出詠している。新古今集初出。新三十六歌仙。鴨長明『無名抄』に逸話が見え、妹の宮内卿と対照的に歌に熱心でなかったと伝える。
(その十四)宮内卿と正二位秀能(藤原秀能)
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十四・宮内卿」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009407
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十四・正二位秀能」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009425
(バーチャル歌合)
左方十四・宮内卿
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010702000.html
かきくらしなをふるさとのゆきのうちに/あとこそみえね春はきにけり
右方十四・正二位秀能
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010703000.html
足曳のやまのふる道跡たゑて/おのえのかねに月ぞのこれる
判詞(宗偽)
『新古今集』は、建仁元年(一二〇一)十一月三日に後鳥羽上皇の院宣がくだり、「通具・有家・定家・家隆・雅経・寂蓮(中途死没)」を撰者として撰集作業がスタートしたが、その撰者らの撰歌稿を、後鳥羽院その人が、その途次での「歌合・歌会」のもの次々に挿入しながら、元久二年(一二〇五)三月二十六日に、『新古今集』は一応の完成を見ることになる。しかし、その後、承久三年(一二二一)の「承久の乱」により後鳥羽院は隠岐に配流され、その配流地の隠岐で精選を重ね、約四百首を削除して、いわゆる『隠岐本新古今集』(隠岐本)を編み、それに院自らの跋文を添えている。
これらの『新古今集』に関する伝本は、次の四類型に分類され、そのうちの第二分類のものが基本になっている。また、集の各歌に撰者名の注記を付した伝本もあり、それぞれの歌を誰が選出したが判明し、その注記は「撰者名注記」と呼ばれている(『現代語訳日本の古典3古今集・新古今集』所収「古今集・新古今集の世界(藤平春男稿)」、なお、下記の分類は『ウィキペディア(Wikipedia)』)。
第一類 – 元久二年三月にいったん完成したとして奏覧されたもの。「竟宴本」と呼ばれる。
第二類 – 「竟宴本」をさらに「切り継ぎ」し、和歌を取捨する途中作業の本文を伝えるもの。
第三類 – 建保四年十二月に「切り継ぎ」が終了したときの本文。
第四類 – 後鳥羽院が撰んだ「隠岐本」。仮名序の次に撰集し直した事情を語る後鳥羽院の序文(「隠岐本識語」)がある。
ここで、上記の「隠岐本」の収載されている歌(〇印)と「撰者名注記」(「ア」=有家撰、「サ」=定家撰、「イ」=家隆撰、「マ」=雅経撰)とを『新訂新古今和歌集(佐々木信綱校訂・岩波文庫)』より、前回取り上げた、次の十四首に施して置きたい。
1 みよし野は山もかすみて白雪のふりにし里に春は来にけり(良経=七九首)
(〇・サ・イ・マ)
2 ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山かすみたなびく(後鳥羽院=三四首)
3 山ふかみ春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水(式子内親王=四九首)
(〇・マ)
4 かきくらし猶ふる里の雪のうちに跡こそ見えぬ春は来にけり(宮内卿=一五首)
(〇・マ)
5 今日といへば唐土までも行く春を都にのみと思ひけるかな(俊成=七二首)
(〇)
7 岩間とぢし氷も今朝は解けそめて苔のした水道もとむらむ(西行=九四首)
(〇・ア)
44 梅の花にほひうつす袖のうへに軒漏る月のかげぞあらそふ(※定家=四六首)
(〇・ア・イ・マ)
45 梅が香にむかしをとへば春の月こたへぬかげぞ袖にうつれる(※家隆=四三首)
(〇・サ)
46 梅のはな誰が袖ふれしにほひぞと春や昔の月にとはばや(※通具=一七首)
(〇・ア・サ・イ・マ)
47 梅の花あかぬ色香もむかしにておなじかたみの春の夜の月(俊成女=二九首)
(〇・ア・イ・マ)
53 散りぬればにほひばかりを梅の花ありとや袖に春風の吹く(※有家=一九首)
(〇)
57 難波潟かすまぬ浪もかすみけりうつるもくもるおぼろ月夜に(※※具親=七首)
(〇・サ・イ・マ)
58 今はとてたのむの雁もうちわびぬおぼろ月夜のあけぼのの空(※寂蓮=三五首)
(〇・ア・サ・イ・マ)
73 春風のかすみ吹きとくたえまよりみだれてなびく青柳の糸(※雅経=二二首)
(〇・ア)
上記の十四首のうちで、満点(「〇」=後鳥羽撰・「ア」=有家撰、「サ」=定家撰、「イ」=家隆撰、「マ」=雅経撰)のものは、「46(通具作)と58(寂蓮作)」との二首ということになる。
この『新古今集』の撰者の評点により、今回の「宮内卿対秀能」の歌合の判の基準にすると、次のとおりとなる。
左 勝
かきくらしなをふるさとのゆきのうちに/あとこそみえね春はきにけり(宮内卿「新古四」)
(〇・マ)
右
足曳のやまのふる道跡たゑて/おのえのかねに月ぞのこれる(秀能「新古三九八」)
(〇)
判詞
左(後鳥羽院と藤原雅経)と右(後鳥羽院)、左(宮内卿)」を勝とす。
宮内卿の一首
五十首歌たてまつりし時
かきくらし猶ふる里の雪のうちに跡こそ見えね春は来にけり(新古4)
【通釈】空を曇らせて古里になお降る雪――その雪のうちに、はっきりとした印は見えないけれども、春はやって来たのだった。
【語釈】◇ふる里 古い由緒のある里。王朝和歌では特に、奈良旧京・吉野などをイメージする。「(雪が)降る里」と掛詞になっている。◇跡こそみえね 春がやって来たという印しはまだ見えないが。「降りしきる雪のため足跡が見えない」というイメージを重ねている。◇春は来にけり 立春をいう。
【補記】建仁元年(1201)二月、「老若五十首歌合」三番右勝。「雪のうちに立春を迎える」という万葉以来の由緒ある趣向。だからこそ「ふる里」という語も生きてくる。構成はきわめて理知的であるが、「かきくらし」降る雪、その中で一瞬にして消えてゆく足跡、というイメージを重ねることで、ありふれた趣向に清新さを加え、また一首が理に落ちることを救っている。
【他出】自讃歌、新三十六人撰、女房三十六人歌合、六華集、題林愚抄
【主な派生歌】
旅人の朝たつ後や積るらむ跡こそ見えね野辺の白雪(小倉実教[新続古今])
しら雪の猶かきくらしふるさとの吉野のおくも春は来にけり(*嘉喜門院)
かきくらしなほふる郷のみよし野はいつの雪間に春の来ぬらむ(貞常親王)
藤原秀能の一首
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山月といふことをよみ侍りける
あしびきの山ぢの苔の露のうへに寝ざめ夜ぶかき月を見るかな(新古398)
【通釈】山中の苔に置いた露の上で、目が醒め、夜深い月を見たことよ。
【語釈】◇山ぢ 山中を漠然と指す。「山路」ではない。
【補記】家集によれば、建仁元年(1201)頃、後鳥羽院より召された歌らしい。「山ぢの苔」は高山の地面を覆う地衣類・羊歯(しだ)類を言うのであろう。それを筵代わりに旅寝するうち、ふと背に冷たさを感じ、目が覚める。と、羊歯の寝床にはいちめん露が置いていたのだ。山中の張りつめた夜の霊気、月光にきらめく露、漆黒の闇を照らす上空の月…。この上なく辛いはずの旅中の寝覚が、月によって祝福されたかのような僥倖の一瞬である。「ねざめ夜ぶかき」は、古注にあるように「粉骨」の句であろう。
【他出】自讃歌、続歌仙落書、如願法師集、新三十六人撰
【主な派生歌】
月のもるね屋の板まに露みえて寝覚夜ぶかき蓬生の宿(花山院長親)
散り初むる桐の一葉の露の上にねざめ夜深き月を見るかな(蓮月)
「新古今集色紙帖」(光悦筆・宗達絵・五島美術館蔵)
967 さらぬだに秋の旅寝はかなしきに松に吹くなりとこの山風(藤原秀能)
(〇=後鳥羽院 「イ」=家隆撰)
宮内卿(くないきょう) 生没年未詳
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後鳥羽院宮内卿とも。右京権大夫源師光の娘。泰光・具親の妹。母は後白河院女房安藝。父方の祖父は歌人としても名高い大納言師頼。母方の祖父巨勢宗茂は絵師であった。
後鳥羽院に歌才を見出されて出仕し、正治二年(1200)、院二度百首(正治後度百首)に詠進。建仁元年(1201)の「老若五十首歌合」「通親亭影供歌合」「撰歌合」「仙洞句題五十首」「千五百番歌合」、同二年(1202)の「仙洞影供歌合」「水無瀬恋十五首歌合」など、院主催の歌会・歌合を中心に活躍した。元久元年(1204)十一月の「春日社歌合」詠進を最後に、以後の活動は確認できない。鴨長明は『無名抄』で宮内卿を俊成女とともに同時代の「昔にも恥じぬ上手」と賞讃し、歌への打ち込みぶりを伝えたあと、その死の事情にふれている。「あまり歌を深く案じて病になりて」ひとたび死にかけ、父から諌められてもやめず、ついに早世した、というのである。後世の『正徹物語』には「宮内卿は廿よりうちになくなりにしかば」とあり、二十歳以前に亡くなったとの伝があったらしい。
「うすくこき…」の歌が評判を呼び、「若草の宮内卿」とも呼ばれた。後鳥羽院撰の『時代不同歌合』の百歌人に選ばれ、和泉式部と番えられている。また『女房三十六人歌合』に歌が採られている。新三十六歌仙。新古今集初出。勅撰入集計四十三首。
藤原秀能(ふじわらのひでよし(-ひでとう)) 元暦元~仁治元(1184-1240) 法号:如願
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/hidetou.html
河内守秀宗の子。平氏出身の父は、藤原秀忠(魚名末流、秀郷の裔)の跡を継いで藤原氏を名乗ったという(尊卑分脈)。母は伊賀守源光基女。承久の乱の際大将軍となった秀康の弟。子には左兵衛尉秀範(承久の乱で戦死)、左衛門尉能茂(猶子。後鳥羽院の寵童)ほかがいる。
初め源通親に伺候し、十六歳の時後鳥羽院の北面の武士に召された。左兵衛尉・左衛門尉・河内守などを経て、検非違使大夫尉・出羽守に至る。建暦二年(1212)五月、西海の宝剣探索のため院宣御使として筑紫に下る。承久三年(1221)、承久の乱の際には官軍の大将となったが、敗れて熊野で出家、如願を号した。その後高野に真照法師を訪ねるなどしている。貞永元年(1232)秋、隠岐の院を慕って西国に下る(『如願法師集』)。嘉禎二年(1236)には院主催の遠島歌合に召されて歌を献上した。仁治元年(1240)五月二十一日、没。五十七歳。
歌人としても後鳥羽院の殊遇を受け、建仁元年(1201)の「八月十五夜撰歌合」「和歌所影供歌合」などに出詠。同年七月に設置された和歌所寄人に加えられる。この時十八歳、寄人中最年少であった。同二年(1202)五月の「仙洞影供歌合」、同三年(1203)の「影供歌合」「八幡若宮撰歌合」、元久元年(1204)の「春日社歌合」「元久詩歌合」、建永元年(1206)七月の「卿相侍臣歌合」、同二年の「賀茂別雷社歌合」「最勝四天王院和歌」、建保三年(1215)の「院四十五番歌合」、建保四年の院百首和歌など、後鳥羽院歌壇で活躍した。また建仁元年(1201)の「通親亭影供歌合」、建保五年(1217)の「右大将(源通光)家歌合」、承久二年(1220)の「道助法親王五十首」などにも出詠している。承久の乱後もたびたび小歌会に出て歌を詠んだり、百首歌を創作したりしている。飛鳥井雅経・家隆と親交があった。新古今集初出。以下勅撰集に七十九首入集。家集『如願法師集』は後世の編集とされる。新三十六歌仙。後鳥羽院の『時代不同歌合』にも撰入。
「秀能は身の程よりもたけありて、さまでなき歌も殊の外にいではへするやうにありき。まことによみもちたる歌どもの中にはさしのびたる物どもありき。しかあるを近年定家無下の歌のよし申すときこゆ」(後鳥羽院御口伝)。
(その十五)殷富門院大輔と小侍従
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十五・殷富門院大輔」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009408
(左方十五・殷富門院大輔)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019794
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十五・小侍従」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009426
(バーチャル歌合)
左方十五・殷富門院大輔
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010704000.html
春かぜのかすみ吹とてたえまより/みだれてなびく青柳のいと
右方十五・小侍従
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010705000.html
いかなればその神山のあおいぐさ/としはふれども二葉なるらむ
判詞(宗偽)
玉の緒よたえなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする(式子内親王)
(『小倉百人一首』八九・『新古今集』「恋一」一〇四三・「右方一」 )
見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず(殷富門院大輔)
(『小倉百人一首』九〇・『千載集』「恋四」八八六・「左方一五」 )
きりぎりすなくや霜夜のさむしろに衣かたしき独りかも寝む(後京極摂政前太政大臣)
(『小倉百人一首』九一・『新古今集』「秋下」五一八・「左方六」 )
わが袖は汐干に見えぬ沖の石の人こそ知らぬ乾く間もなし(二条院讃岐)
(『小倉百人一首』九二・『千載集』「恋二」七六〇・「右方一一」)
この『新三十六歌仙画帖(狩野探幽筆)』は、『新古今集』の歌仙(歌人)を代表する三十六人の「肖像と和歌」とを「歌合」(左方帖・右方帖)形式に作成したものと理解して差し支えなかろう。ここに登場する「新三十六歌仙」は、『古今集』を中心としての、例えば、『佐竹本三十六歌仙(伝藤原信実筆)』の「三十六歌仙」(歌人)とはダブらない。
そして、文暦二年(一二三五)頃に成立したとされる『小倉百人一首』(藤原定家撰)には、いわゆる「三十六歌仙」と「新三十六歌仙」とが混在しており、上記の「式子内親王から二条院讃岐」の四人は、『小倉百人一首』では、上記のとおり(八九番から九二番)に配列されている。
しかし、その定家の撰した歌は、『古今集』(八九番・九一番)だけではなく『千載集(藤原俊成撰)』(九〇・九二)などの他の勅撰集などからも採られている。このことは、『新三十六歌仙画帖(狩野探幽筆)』の歌仙の歌も同様で、『新古今集』オンリーではなく、また撰歌(右方一・左方一五・左方六・右方一一)も、例えば、『小倉百人一首』(上記の四首)とはダブらない。
その上で、例えば、上記の四人の歌人の代表歌として、上記の『小倉百人一首』の四首と、『新三十六歌仙画帖(狩野探幽筆)』収載の歌(右方一・左方一五・左方六・右方一一)とを比較して、やはり、『小倉百人一首』の方に軍配が上げられるであろう。
ながむれば衣手涼し久堅の/あまのかはらの秋のゆふ暮(右方一・式子内親王)
春かぜのかすみ吹とてたえまより/みだれてなびく青柳のいと(左方一五・殷富門院大輔)
空はなをかすみもやらず風さえて/雪げにくもるはるの夜の月(左方六・藤原良経)
やまたかみみねの嵐にちる花の/つきにあまぎるあけかたのそら(右方一一・二条院讃岐)
ここで、今回の両首を、あらためて並列して、併せて、この両首が共に『新古今集』収載の歌なので、この両首の撰者名も『新訂新古今和歌集(佐々木信綱校訂・岩波文庫)』より併記して、その上で、最終的な判詞(判定)を書き添えたい。
左 持
春かぜのかすみ吹とてたえまより/みだれてなびく青柳のいと(殷富門院大輔・「新古七三」)
(〇=後鳥羽院、「サ」=定家撰、「イ」=家隆撰)
右
いかなればその神山のあおいぐさ/としはふれども二葉なるらむ(小侍従・「新古一八三」)
(〇=後鳥羽院、「ア」=有家撰、サ」=定家撰、「イ」=家隆撰、「マ」=雅経撰)
判詞(宗偽)
この両首は、共に『隠岐本新古今集』(隠岐本)にも収載され、さらに、『新古今集』撰者(「有家・定家・家隆・雅経」の四人)のうち、左方(殷富門院大輔)は二人(二点)、右方(小侍従)は四人(四点)で選出され、右方(小侍従)を勝とするのが順当なのかも知れないが、次のことを申し添え「持」といたしたい。
(追記)
この左方の歌の二句目は、「かすみ吹(ふく)とて」ではなく「かすみ吹(ふ)きとく」の表記が正しく、この「とく」が、次の「たえまより」の「たえ」、さらに、「より(縒り)との、結句の「青柳のいと(糸)」の、その「いと(糸)」の縁語となっており、それらの『新古今集』調の技巧的な冴えを「佳(可)」とし、二点(宗偽点一+α=表記の異同)を加え、共に、満点歌(五点)とし「持」といたしたい。
殷富門院大輔の一首
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/i_taihu.html
百首歌よみ侍りける時、春の歌とてよめる
春風のかすみ吹きとくたえまより乱れてなびく青柳の糸(新古73)
【通釈】春風が吹き、立ちこめた霞をほぐしてゆく。その絶え間から、風に乱れて靡く青柳の枝が見える。
【補記】「とく」「たえ」「より(縒り)」は糸の縁語。
【本歌】藤原元真「後拾遺集」
浅緑みだれてなびく青柳の色にぞ春の風も見えける
小侍従の一首
葵(あふひ)をよめる
いかなればそのかみ山の葵草年はふれども二葉なるらむ(新古183)
【通釈】どういうわけだろう、その昔という名の神山の葵草は、賀茂の大神が降臨された時から、多くの年を経るのに、いま生えたばかりのように双葉のままなのは。
【語釈】◇葵 賀茂祭の日、社前などを飾るのに用いた。葉を二枚対生するので、二葉葵とも言う。◇そのかみ山 神山は賀茂神社の背後の山。「その昔」を意味する「そのかみ」を掛ける。
【補記】葵祭の飾りに用いられた葵草に寄せて、賀茂の祭が毎年華やかに繰り返されることを讃美する心を籠めている。壮麗な賀茂祭は京の人々が待ちかねた夏の一大イベントであり、それを楽しむ弾むような心がよく出ている。
【他出】続詞花集、小侍従集、玄玉集、三百六十番歌合、歌枕名寄
【主な派生歌】
たのみこしそのかみ山の葵草思へばかけぬ年のなきかな(二条院讃岐)
生ひかはる今日のあふひや神山に千代かけて見る二葉なるらむ(霊元院)
神山のみあれののちのあふひ草いつを待つとて二葉なるらむ(香川景樹)
殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ) 生没年未詳(1130頃-1200頃)
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藤原北家出身。三条右大臣定方の末裔。散位従五位下藤原信成の娘。母は菅原在良の娘。小侍従は母方の従姉にあたる。尊卑分脈には「道尊僧正母」とある。
若くして後白河天皇の第一皇女、亮子内親王(のちの殷富門院。安徳天皇・後鳥羽天皇の准母)に仕える。建久三年(1192)、殷富門院の落飾に従い出家したらしい。
永暦元年(1160)の太皇太后宮大進清輔歌合を始め、住吉社歌合、広田社歌合、別雷社歌合、民部卿家歌合など多くの歌合に参加。また俊恵の歌林苑の会衆として、同所の歌合にも出詠している。自らもしばしば歌会を催し、文治三年(1187)には藤原定家・家隆・隆信・寂蓮らに百首歌を求めるなどした。源頼政・西行などとも親交があった。非常な多作家で、「千首大輔」の異名があったという。また柿本人麿の墓を尋ね仏事を行なった(玉葉集)。
家集『殷富門院大輔集』がある。千載集に五首入集したのを始め、代々の勅撰集に六十三首を採られている。女房三十六歌仙。小倉百人一首にも「見せばやな…」の歌が採られている。
小侍従(こじじゅう) 生没年未詳(1121頃-1201以後) 通称:待宵(まつよいの)小侍従・八幡小侍従
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/matuyoi.html
紀氏。石清水八幡別当大僧都光清の娘。母は花園左大臣家小大進。藤原伊実の妻。法橋実賢・大宮左衛門佐の母。菅原在良は母方の祖父、殷富門院大輔は母方の従妹。
四十歳頃に夫と死別し、二条天皇の下に出仕する。永万元年(1165)の天皇崩後、太皇太后多子に仕え、さらに高倉天皇に出仕した。
歌人としての活躍は宮仕え以後にみられ、永万二年(1166)の中宮亮重家歌合をはじめ、太皇太后宮亮経盛歌合、住吉社歌合、広田社歌合、右大臣兼実歌合などに参加。『無名抄』には殷富門院大輔と共に「近く女歌よみの上手」と賞されている。ことに「待つ宵の…」の歌は評判となり、「待宵の小侍従」の異名で呼ばれた。後徳大寺実定・俊成・平忠盛・西行ら多くの歌人と交遊した。歌の贈答からすると平経盛・源雅定・源頼政・藤原隆信とは特に親密だったようである。
治承三年(1179)、六十歳頃に出家。その後も後鳥羽院歌壇で活躍を続け、正治二年(1200)の院初度百首、建仁元年(1201)頃の院三度百首(千五百番歌合)などに出詠する。また三百六十番歌合にも選ばれた。家集『小侍従集』がある。千載集初出。勅撰入集は五十五首。『歌仙落書』歌仙。女房三十六歌仙。
(参考)「佐竹三十六歌仙絵」周辺(その一)
京都国立博物館の入り口。右の「小大君(こおおぎみ)」(奈良県・大和文華館・重要文化財は、2019年11月6~24日(最終日)に展示) →A図
https://artexhibition.jp/topics/news/20191021-AEJ110010/
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十五・小侍従」(東京国立博物館蔵)→ B図
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009426
上記の「小大君像」(A図)は、2019年10月12日(土)~11月24日(日)、京都国立博物館で開催された特別展「流転100年 佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」の入口の看板の「小大君像」である。
この「佐竹本三十六歌仙」の肖像画を描いたのは、「新三十六歌仙」の一人・藤原信実、その和歌の書は、これまた、「新三十六歌仙」の一人(『新古今集』の「仮名序」の起草者)である、後京極摂政前太政大臣(藤原良経)とされている。
この後京極摂政前太政大臣(藤原良経)については、「左方六」で触れている。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-02
また、藤原信実は、次回の「左方十六」で寂蓮法師(右方十六)との歌合が予定されている。なお、この「佐竹三十六歌仙」については、下記のアドレスなどが詳しい。
https://artexhibition.jp/topics/news/20191021-AEJ110010/
そして、この「佐竹本三十六歌仙」の「小大君像」(A図)と、今回の「新三十六歌仙」の「小侍従像」(B図)とが、衣装の色合いなどは異なるが、その女性の顔貌などは瓜二つといっても差し支えなかろう。
この「小大君像」(A図)と「小侍従像」(B図)との「小大君」と「小侍従」とは、全くの別人で、この「小大君(像)」(A図)は『古今集』時代(『古今集』成立=延喜五年・九〇五)、そして、「小侍従(像)」(B図)は『新古今集』時代(『新古今集』成立=元久二年・一二〇五)で、約三世紀(三百年)の時代史的スパンがある。
さらに、この『新古今集』時代の「小侍従像」(B図)を描いたのは狩野探幽で、落款からすると、探幽の「法印」時代(寛文二年・一六六二・六一歳以降)ということになり、ここでも、約四世紀(四百年)の時代史的な隔たりがある。
ということは、江戸時代初期の狩野探幽は鎌倉時代初期の歴史上の歌人「小侍従(像)」(B図)を描き、鎌倉時代初期の藤原信実は、平安時代初期の歴史上の歌人「小大君(像)」(A図)を描き、結果として、『古今集』時代の「小大君(像)」(A図)と『新古今集』時代の「小侍従(像)」(B図)とが、瓜二つの女性像という形相を呈してきたということになる。
これらの「佐竹本三十六歌仙」そして「新三十六歌仙」の「歌仙絵」は、「似絵(にせえ)」(大和絵系の肖像画)として、「細い線を重ねて顔貌を描く」描法で、「新古今時代」の、藤原隆信・信実の家系によって発展を遂げた描法とされている(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』など)。
そして、「佐竹本三十六歌仙」は、「書=後京極摂政前太政大臣(藤原良経)、画=藤原信実」の伝承が正しいと仮定するならば、藤原(九条)良経は、建永元年(一二〇六)に三十八歳で夭逝して居り、それ以前ということになろう。そして、その背後には、藤原(九条)良経の書が正しいとするならば、当時の後鳥羽院上皇の影がちらついて来るのである。
また、「新三十六歌仙」についても、「承久の乱後、九条大納言基家が三十六人を撰び、その『真影』を似絵の名手藤原信実に描かせ、隠岐に住まう後鳥羽院のもとに届けようとしている計画が藤原定家の日記『名月記』天福元年(一二三三)八月十二日条に記されている」(『歌仙絵(東京国立博物館)』所収「歌仙絵の成立について(土屋貴祐稿)」)ということから、これまた、後鳥羽院の影がちらちらするのである。
その十六)信実朝臣(藤原信実)と寂蓮法師
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十六・信実朝臣)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009409
(左方十六・信実朝臣)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019795
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十六・寂蓮法師)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009427
(バーチャル歌合)
左方十六・信実朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010706000.html
あけてみぬたが玉章もいたづらに/まだ夜をこめてかえる雁がね
右方十六・寂蓮法師
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010708000.html
かつらぎやたかまのさくらさきにけり/たつたのおくにかかるしら雲
判詞(宗偽)
藤原定家の日記『名月記』(天福元年(一二三三)八月十二日条)に「承久の乱後、九条大納言基家が三十六人を撰び、その『真影』を似絵の名手藤原信実に描かせ、隠岐に住まう後鳥羽院のもとに届けようとしている計画が記されている」(『歌仙絵(東京国立博物館)』所収「歌仙絵の成立について(土屋貴祐稿)」)ということは、「新三十六歌仙絵」関連に大きな示唆を投げかけている。
そして、この記述に登場する「九条大納言基家」については、「新三十六歌仙画帖(狩野探幽筆)」の「左方九」(「左方帖九」で既に触れている。もう一人の「似絵の名手藤原信実」が、今回の「左方十六・信実朝臣」その人なのである。
とすれば、上記の定家の『名月記』の記載が真実とするならば、上記の「信実朝臣像」は、信実が自らを描いた「自画像」そのものの模写絵ということになり、その模写絵は、江戸狩野派の実質的な総帥・狩野探幽が模写したということになる。
これに対する「右方十六・寂蓮法師」は、いわゆる、藤原俊成(釈阿)の「御子左家」と深く関係し、俊成の猶子で、俊成の二男・定家とは従兄弟(兄=寂蓮、弟=定家)との間柄である。そして、「似絵の名手藤原信実」の父「隆信」は、俊成の再婚の妻(美福門院加賀)の子で、俊成家で育った定家の異父兄(兄=隆信、弟=定家)との間柄となる。
こうして見てくると、藤原俊成(釈阿)の「御子左家」の「歌道」の家系は、「寂蓮→定家」、「画道」の家系は「隆信→信実」の家系ということになる。
それにしても、この「真実の堪能見えき・歌詠み人」(『後鳥羽上皇御口伝』)の寂蓮と、年恰好は親子ほどもある「似絵の名手」(『名月記』)の信実との番いは、これは、隠岐に配流されている後鳥羽院が、「九条大納言基家が三十六人を撰び」(『名月記』)の、その「新三十六歌仙」(「基家」原案)を目にして、それに手入れをしての組み合わせのような思いを深くする。
左 持
あけてみぬたが玉章(たまづさ)もいたづらに/まだ夜をこめてかえる雁がね(信実)
(『新古今』=入撰無、『名月記』加算=後鳥羽院・基家・定家・宗偽)
右
かつらぎやたかまのさくらさきにけり/たつたのおくにかかるしら雲(寂蓮)
(『新古今』、〇=後鳥羽院、「ア」=有家撰、「イ」=家隆撰、「マ」=雅経撰)
判詞
右方は、後鳥羽院の「春・夏=ふとくおほきによむべし」「秋・冬=からびほそく読むべし」「恋・旅=ことに艶によむべし」(三体和歌)の注文付きの「ふとくおほきによむべし」(大胆にして長け高く詠むべし)に応答しての一首である。この一首に接して、後鳥羽院は「いざたけある歌詠まむとて、『龍田の奧にかかる白雲』と三躰の歌に詠みたりし、恐ろしかりき」(『後鳥羽院御口伝』)と記している。
左方は、この後鳥羽院の「三体和歌」の「ことに艶によむべし」(本意に加えて優艶に詠むべし)の恋の歌として、「あけて見ぬ」「誰が」「玉章(恋文)も」「徒に」/「未だ」「夜を籠めて=まだ暗いうちに」「かえる雁がね」と「真実の堪能と見えき・恐ろしき」(『後鳥羽院御口伝』)一首と解したい。
さらに、この歌は、「夜をこめて鳥の空音(そらね)ははかるともよに逢坂(あふさか)の関はゆるさじ」(清少納言『百人一首62』『後拾遺集雑二』)の本歌取りの一首とするならば、その「鳥の空音(そらね)」(鳥の鳴き真似)を「かえる雁がね」(帰雁の季の詞)と転換し、さらに、「秋風に初雁がねぞ聞こゆなる誰(た)が玉づさをかけて来つらむ(紀友則『古今207』))を踏まえていることも明瞭となってくる。
とすると、後鳥羽院が定家の歌について「いささかも事により折によるといふ事なし」(『後鳥羽院御口伝』)と評した意に関連して、後鳥羽院流(場・状況などの「制作の場」と作者の置かれている「境涯」にも配慮する)の立場でも、定家流(「歌そのもの=三十一文字で毅然として屹立(きつりつ)していなければならぬ」)の立場に立っても、和歌の伝統的な手法の「本歌取り」の一首として、ここは「持」といたしたい。
寂蓮法師の一首
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和歌所にて歌つかうまつりしに、春の歌とてよめる
葛城(かづらき)や高間の桜咲きにけり立田の奥にかかる白雲(新古87)
【通釈】葛城の高間山の桜が咲いたのだった。竜田山の奧の方に、白雲がかかっているのが見える。
【語釈】◇葛城や高間の 「葛城」は奈良県と大阪府の境をなす金剛葛城連山。「高間の山」はその主峰である金剛山(標高1100メートル余)の古名とされる。◇立田 龍田山。奈良県生駒郡三郷町の龍田神社背後の山。葛城連山は龍田山の南に列なる山脈であり、京都や奈良から見ると「立田の奧」が葛城にあたるのである。◇白雲 山桜を白雲に喩える。
【補記】建仁二年(1202)三月の三体和歌六首の一。主催者の後鳥羽院より「ふとくおほきによむべし」と注文されて詠んだ春の歌。『後鳥羽院御口伝』に「寂蓮は、なほざりならず歌詠みし者なり。あまり案じくだきし程に、たけなどぞいたくは高くはなかりしかども、いざたけある歌詠まむとて、『龍田の奧にかかる白雲』と三躰の歌に詠みたりし、恐ろしかりき」の評がある。
【他出】三体和歌、自讃歌、定家十体(長高様)、時代不同歌合(初撰本)、歌枕名寄、六華集、心敬私語
【参考歌】紀貫之「古今集」
桜花咲きにけらしもあしびきの山のかひより見ゆる白雲
寂蓮の「三体和歌六首」(参考)
『三体和歌会』は、後鳥羽院の主催で建仁2年(1202)3月20日に仙洞御所で催され、参加した歌人は、後鳥羽院・良経・慈円・定家・家隆・長明・寂連の7人で、雅経と有家も召されたが病気を理由に辞退している。
(御所に朝夕候ひし頃、常にも似ず珍しき御会ありき。「六首の歌にみな姿を詠みかへてたてまつれ」とて、「春・夏は、太くおおきに、秋・冬は細く乾らび、恋・旅は艶に優しくつかうまつれ。もし思ふやうに詠みおほせずは、そのよしをありのままに申し上げよ。歌のさま知れるほどを御覧ずべきためなり」とおほせられしかば、いみじき大事にて、かたへは辞退す。心にくからぬ人をおばまたもとより召されず。かかればまさしくその座にまいりて連なれる人、殿下・大僧正御房・定家・家隆・寂連・予と、わずかに六人ぞ侍りし。)
(『無名抄(鴨長明)』)
〔春の歌をあまた詠みて、寂連入道に見せ申し時、この高間の歌を「よし」とて、点合はれたれしかば、書きてたてまつりき、すでに講ぜらるる時に至りてこれを聞けば、かの入道の歌に、同じ高間の花をよまりたりけり。わが歌に似たらば違へむなど思ふ心もなく、ありのままにことわられける、いとありがたき心なりかし。さるは、まことの心ざまなどをば、いたく神妙なる人ともいわれざれしを、わが得つる道なれば心ばへもよくなるなり」〕
(『無名抄(鴨長明)』)
春 ふとくおほきによむべし
かづらきやたかまの桜さきにけりたつたのおくにかかる白雲
(現代語訳:葛城連山の高間の山(※)の桜の花が咲いたことよ。龍田山の奥の方にかかっている白雲と見えるのは、その桜の花に相違ない)
夏 太くおおきに読むべし
夏の夜の有明の空に郭公月よりおつる夜半の一声
(現代語訳:夏の夜の明けようとする頃の空に、郭公の月の内より出てくるかと思われる夜半の一声がする)
秋 からびほそく読むべし
軒ちかき松をはらふか秋の風月は時雨の空もかはらで
(現代語訳:時雨の降っている音かと思って見ると、空の月は明るくて変わっていないで、軒近くの松を払っているのか秋風の音のすることよ。)
冬 からびほそく読むべし
山人のみちのたよりもおのづから思ひたえねと雪は降りつつ
(現代語訳:山人の頼みとする道も跡絶えてしまって、いつのまにか思い切れと雪は降り続いていることよ。)
恋 ことに艶によむべし
うきながらかくてやつひにみをつくしわたらでぬるるえにこそ有りけれ
(現代語訳:せつない嘆きのままで、こうして終わりには身をほろぼして、渡らないで濡れてしまった江であることよ。〔実際には契りを交わさない浅い縁でありながら、契りを交わしたようになってしまって、切ない嘆きのままでこうしてしまいには身を滅ぼしてしまうことよ。〕)
旅 ことに艶によむべし
むさしのの露をば袖に分けわびぬ草のしげみに秋風ぞふく
(現代語訳:武蔵野の草葉においている露をたやすく分けることができなかったことよ。草の茂っているところに秋風が吹いて草葉の露を払ってしまうけれど、私の袖の露(涙)は払うことのできないことよ。)
〔寂連は、なほざりならず歌詠みし者なり。あまり案じくだきし程に、たけなどぞいたくはたかくなりしかども、いざたけある歌詠まむとて、「龍田の奥にかかる白雲」と三躰の歌に詠みたりし、恐ろしかりき。
折りにつけて、きと歌詠み、連歌し、ないし狂歌までも、にはかの事に、故あるように詠みし方、真実の堪能と見えき〕(『後鳥羽院御口伝』)
参考文献:『日本の作家100人〜人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版
『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫
藤原信実(ふじわらののぶざね) 治承元~文永二(1177-1265) 法名:寂西
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藤原北家長良流。為経(寂超)・美福門院加賀の孫。隆信の子。母は中務小輔長重女。名は初め隆実。娘の藻壁門院少将・弁内侍・少将内侍はいずれも勅撰集入集歌人。男子には従三位左京権大夫に至り画家としても名のあった為継ほかがいる。中務権大輔・備後守・左京権大夫などを務め、正四位下に至る。
和歌は父の異父弟にあたる藤原定家に師事し、若くして正治二年(1200)後鳥羽院第二度百首歌の詠進歌人に加えられ、同年九月の院当座歌合にも参加するなどしたが、院歌壇では評価を得られず、新古今集入撰に洩れた。建保期以降は順徳天皇の内裏歌壇や九条家歌壇などに迎えられ、建保五年(1217)九月の「右大臣家歌合」、同年十一月の「冬題歌合」、承久元年の「内裏百番歌合」、承久二年(1220)以前の「道助法親王家五十首」などに出詠した。承久の乱後も九条家歌壇を中心に活躍、貞永元年(1232)の「洞院摂政(教実)家百首」「光明峯寺摂政(藤原道家)家歌合」「名所月歌合」などに参加。寛元元年(1243)には自ら「河合社歌合」を主催している。また同四年(1246)、蓮性(藤原知家)勧進の「春日若宮社歌合」に出詠し、建長三年(1251)には「閑窓撰歌合」を真観(葉室光俊)と共撰するなど、反御子左家勢力とも親交があった。後嵯峨院歌壇では歌壇の長老的存在として、宝治元年(1247)の「宝治歌合」、宝治二年(1248)の「宝治百首」、建長三年(1251)の「影供歌合」などに詠進。八十歳を越えても作歌を持続し、建長八年(1256)藤原基家主催の「百首歌合」、弘長元年(1261)以降の「弘長百首」、文永二年(1265)の「八月十五夜歌合」などに出詠している。家集に『信実朝臣家集』がある(宝治初年頃の自撰と推測される)。新勅撰集初出。物語集『今物語』の作者。新三十六歌仙。
画家としては似絵の名人で、建保六年(1218)八月、順徳天皇の中殿御会の様を記録した『中殿御会図』、水無瀬神宮に現存する「後鳥羽院像」の作者と見られる。また佐竹本三十六歌仙絵の作者とする伝がある。
寂蓮(じゃくれん) 生年未詳~建仁二(1202) 俗名:藤原定長 通称:少輔入道
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生年は一説に保延五年(1139)頃とする。藤原氏北家長家流。阿闍梨俊海の息子。母は未詳。おじ俊成の猶子となる。定家は従弟。尊卑分脈によれば、在俗時にもうけた男子が四人いる。
官人として従五位上中務少輔に至るが、承安二年(1172)頃、三十代半ばで出家した。その後諸国行脚の旅に出、河内・大和などの歌枕を探訪した。高野山で修行したこともあったらしい。建久元年(1190)には出雲大社に参詣、同じ頃東国にも旅した。晩年は嵯峨に住み、後鳥羽院より播磨国明石に領地を賜わって時めいたという(源家長日記)。
歌人としては出家以前から活動が見られ、仁安二年(1167)の太皇太后宮亮経盛歌合、嘉応二年(1170)の左衛門督実国歌合、同年の住吉社歌合などに出詠。出家後は治承二年(1178)の別雷社歌合、同三年の右大臣兼実歌合に参加した。また文治元年(1185)頃の無題百首、同二年西行勧進の二見浦百首、同三年の殷富門院大輔百首、同年の句題百首、建久元年(1190)の花月百首、同二年の十題百首など、多くの百首歌に参加し、定家・良経・家隆ら新風歌人と競作した。建久四年(1193)頃、良経主催の六百番歌合では六条家の顕昭と激しい論戦を展開するなど、御子左家の一員として九条家歌壇を中心に活躍を見せる。後鳥羽院歌壇でも中核的な歌人として遇され、正治二年初度百首・仙洞十人歌合・老若五十首歌合・新宮撰歌合・院三度百首(千五百番歌合)などに出詠。建仁元年(1201)には和歌所寄人となり、新古今集の撰者に任命される。しかし翌年五月の仙洞影供歌合に参加後まもなく没し、新古今の撰集作業は果せなかった。家集に『寂蓮法師集』がある。千載集初出。勅撰入集は計百十六首。
(参考)「佐竹三十六歌仙絵」周辺(その二)
鈴木其一筆「三十六歌仙図」一幅 一九〇・〇×七〇・〇㎝ 出光美術館蔵 →A図
酒井抱一筆「三十六歌仙図屏風」二曲一双 一六四・五×一八〇・〇㎝ ブライスコレクション(心遠館コレクション)→B図(下記のA図(歌仙名入り)と下記のメモ番号に一致)
A図(歌人名入り)
http://melonpankuma.hatenablog.com/entry/2018/07/06/200000
(藤原公任撰「三十六歌仙」)・(藤原公任撰「三十六歌仙」右方・左方)・(「百人一首)
のメモ(A図=歌人名・B図番号と一致、「左・右」は「歌合」番号、「百」=『百人一首』)
女流歌人(5)
28 伊勢:裳だけなので袖の色数が少ない、右手を顔に 右二 → 百19
15 小野小町:裳唐衣。顔を最も隠しぎみ。額に手を当てる 右六 → 百 9
36 斎宮女御:几帳に隠れる 左一〇
6 小大君:裳唐衣で左向き 左一六
33 中務:裳唐衣で右手に扇、もしくは、顔が下向き 右一八
僧侶(2)
27 僧正遍昭:赤黄色の法衣で右上を向く 右四 → 百12
12 素性法師:画面左向き 左五 → 百21
武官(4)
2 在原業平:青衣で矢を背負い右手を顎 左四 → 百17
19 藤原高光:赤衣で矢を背負う 右八
9 壬生忠岑:黒衣か白衣。片膝付き足裏を見せた背姿 右九 → 百30
34 藤原敏行:黒衣の武官姿、文官姿の時は右手を顔に 左一二→ 百18
翁(5)
7 柿本人麻呂:腕を開き、くつろいだ姿勢で画面左上を向く 左一 →百3
23 山部赤人:目尻に皺。狩衣で画面右を向き両手を膝 右三 →百4
11 猿丸太夫:黒袍か狩衣で画面左向きの横顔 左六 →百5
22 源順:白狩衣か赤袍で画面右向きの横顔 右一三
24 坂上是則:立てた笏を右手で押さえ画面右を振返る 左一五 →百31
文官(20)
直衣・狩衣(9)
35 源重之:正面向き。左膝を立て扇を持った左手で頬杖 右一一
30 源信明:左手で頬杖をつき画面右方向に体を横に傾けて思案顔 右一二
5 藤原清正:画面右を振返る 左一三
18 藤原興風:左膝を立て手を顎に。衣冠束帯の時は左向きの横顔 左一四 →百34
17 清原元輔:赤衣もしくは画面右上を見て右手の笏を肩にかつぐ 右一四 →百42
13 藤原元真:太め。右もしくは右上を向いた横顔で萎烏帽子が前に倒れる 右一五
20 藤原仲文:右を向いた横顔で萎烏帽子が後に倒れる 右一六
14 壬生忠見:丸顔、右手に扇 右一七 →百41
8 平兼盛:太め。㉕と比べてより丸顔で体を傾ける 左一八 →百40
衣冠束帯(11)
21 紀貫之:立てた笏を左手で押さえる 右一 →百35
4 凡河内躬恒:笏を持つ左手を顎に左膝を立てて振返る 左二 →百29
16 大伴家持:右手に笏を持ち、画面右を振返る 左三 →百 6
32 紀友則:両手を腹の前で組んで目をつぶる 右五 →百33
3 藤原兼輔:右手笏を持ち顔の前に立てる 左七 →百27
31 藤原朝忠:瓜実顔もしくは太めで笏を持つ横顔 右七 →百44
1 藤原敦忠:手をかざして画面右を振返る 左八 →百43
10 源公忠:立てた笏を右手で押さえる 左九
25 大中臣頼基:大きく太めの体。画面右向きで持ち物なし 右一〇
29 源宗于:画面左向きで丸顔 左一一 →百28
18 大中臣能宣:画面左向き。もしくは、笏を両手で構える 左一七 → 百49
(狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」、撰者=藤原基家原案・後鳥羽院撰? ※=下記と一致
左一 ※後鳥羽院、右一※ 式子内親王、左二※土御門院、右二※俊成卿女、左三※順徳院、右三 ※源通光、左四※ 仁和寺宮(道助法親王)、右四 前大納言忠良(粟田口忠良)、左五 後後法性寺入道前関白太政大臣(藤原兼実)、右五※ 土御門内大臣(源通親)、左六※後京極摂政太政大臣良経(九条良経)、右六 前大僧正慈鎮、左七※ 西園寺入道前太政大臣(西園寺公経) 右七※ 右衛門督通具(源通具)、左八 後徳大寺左大臣(藤原実定)、右八 藤原清輔朝臣、左九 権大納言其家(藤原基家)、右九 宜秋門院丹後、左一〇※ 前中納言定家(藤原定家)、右一〇※従二位家隆(藤原家隆)、左一一※参議雅経(藤原雅経・飛鳥井雅経)、右一一 二條院讃岐、左一二※ 前大納言為家(藤原為家)、右一二 藤原隆祐朝臣、左一三
※藤原有家朝臣、右一三※ 源具親朝臣、左一四※ 宮内卿、右一四※藤原秀能、左一五 殷冨門院大輔、右一五 小侍従、左一六※ 信実朝臣、右一六 寂蓮法師、左一七※源家長、右一七 俊恵法師、左一八 皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)、右方一八西行法師
(「新三十六歌仙」撰者?)※=上記と一致
※後鳥羽院、※土御門院、※順徳院、後嵯峨院、雅成親王、宗尊親王、※源通光、※式子内親王、※九条良経、九条道家、※西園寺公経、※道助親王、西園寺実氏、源実朝、※藤原基家、九条家良、慈円、行意、※源通具、※藤原定家、八条院高倉、※俊成卿女、藤原光俊、藻壁門院少将、※藤原為家、※飛鳥井雅経、※藤原家隆、藤原知家、※宮内卿、※藤原有家、※藤原信実、※源具親、※源家長、鴨長明、※藤原隆祐、※藤原秀能。
(「女房三十六人歌合」撰者?)※=三十六歌仙 ※※=新三十六歌仙
※小野小町、※伊勢、※中務、※斎宮女御、右近、右大将道綱母、馬内侍、赤染衛門、和泉式部、三条院女御蔵人左近、紫式部、小式部内侍、伊勢大輔、清少納言、大弐三位、高内侍、一宮紀伊、相模、※※宮内卿、周防内侍、※※俊成卿女、待賢門院堀河、※※宜秋門院丹後、嘉陽門院越前、※※二条院讃岐、※※小侍従、後鳥羽院下野、弁内侍、少将内侍、※※殷富門院大輔、土御門院小宰相、八条院高倉、後嵯峨院中納言典侍、式乾門院御匣、藻壁門院少将。
(「中古三十六歌仙」=藤原範兼撰「後六々撰」)
和泉式部、相模、恵慶法師、赤染衛門、能因法師、伊勢大輔、曾禰好忠、道命阿闍梨、藤原実方、藤原道信、平定文、清原深養父、大江嘉言、源道済、藤原道雅、増基法師、藤原公任、大江千里、在原元方、大中臣輔親、藤原高遠、馬内侍、藤原義孝、紫式部、藤原道綱母、藤原長能、兼賢王、上東門院中将、藤原定頼、在原棟梁、文屋康秀、藤原忠房、菅原輔昭、大江匡衡、安法法師、清少納言。
(集外三十六歌仙)
左方
1平常縁 2津守国豊 3浄通尼 4柴屋宗長 5月村斎宗碩 6永閑 7釈正徹 8釈正広 9耕閑斎兼載 10太田持資 11三好長慶 12宗羪 13伊達政宗 14兼与 15里見玄陳 16佐川田昌俊 17尚証 18木下長嘯子
右方
1種玉庵宗祇 2心敬 3基佐 4牡丹花肖柏 5蜷川親当 6安達冬康 7紹巴 8宗牧 9細川玄旨 10心前 11毛利元就 12北条氏康 13武田信玄 14北条氏政 15今川氏真 16昌叱 17小堀政一 18松永貞徳
(その十七)家永朝臣(源家永)と俊恵法師
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十七・家永朝臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009410
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十七・俊恵法師」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009428
(バーチャル歌合)
左方十七・家永朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010707000.html
春雨に野沢の水はまさらねど/もえいづるくさぞふかくなり行
右方十七・俊恵法師
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010709000.html
故郷の板井の清水み草ゐて/月さへすまずなりにける哉
判詞周辺(宗偽)
「源家永」(?-1234))と「俊恵法師」(1113-?)との番いは全くの意表を突くものである。この俊恵法師は、『方丈記』の作者として名高い「鴨長明」の歌道の師として長明の歌論書『無名抄』に頻繁に登場する。
時代史的には、「後鳥羽院・定家・家隆」時代よりも、その一昔前の「藤原俊成」(1114-1204))・「西行法師」(1118~1190)時代の歌人ということになろう。
一方の家永は、「建仁元年(1201)八月には和歌所開闔(かいこう)となって新古今和歌集の編纂実務の中心的役割を果し」、「建久七年(1196)、非蔵人の身分で後鳥羽院に出仕。蔵人・右馬助・兵庫頭・備前守などを経て、建保六年(1218)一月、但馬守。承久三年(1221)の変後、官を辞す。安貞元年(1227)一月、従四位上に至る。文暦元年(1234)、死去」と、その生涯は、後鳥羽院の側近中の側近ということになる。
その家永の『家永日記』に、鴨長明について、「すべて、この長明みなし子になりて、社の交じらひもせず、籠り居て侍りしが、歌の事により、北面に參り、やがて、和歌所の寄人になりて後、常の和歌の会に歌參らせなどすれば、まかり出づることもなく、夜昼奉公怠らず」と、後鳥羽院(二十二歳)に「和歌所寄人(役人)」に抜擢された当時の長明(四十七歳)のことについて好意的に記している。
しかし、長明は地下の一社人(鴨神社の禰宜の出)で、後鳥羽院に見出された歌人であっても、宮中の歌会などでも他の寄人とは同席は出来ず、また、禰宜の途も一族の反対で叶わず、元久元年(一二〇四)、五十歳の頃、大原へ隠遁・出家(法名=蓮胤)する。
そして、『方丈記』が成ったのは、建暦二年(一二一二)、五十八歳、そして、建保四年(一二一六)に六十四歳で没した時に、後鳥羽院は、三十七歳で、「仙洞百首和歌」をまとめた年で、長明は、後鳥羽院の承久の乱も隠岐への配流などは知らないのである。
ここで、後鳥羽院との関係からすると、どう見ても、「新三十六歌仙」は俊恵法師よりも鴨長明がより適役かと思うのだが、この「「新三十六歌仙画帖(狩野探幽筆)の「新三十六歌仙」には、何故か、鴨長明の名前はない。
しかし、『新編国歌大観』に搭載されている、一般に「新三十六歌仙」(「歌合」形式ではなく一歌仙に十首収載=「歌仙」方式)と称せられるものには、「俊恵法師」の名前はなく、「鴨長明」が、次の十首を以て、今に伝えられている。
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#35
鴨長明
ながむれば千千に物思ふ月に又わが身ひとつの峰の松かぜ
ながめてもあはれとおもへ大かたの空だにかなしあきの夕ぐれ
松島やしほくむあまの秋のそで月は物思ふならひのみかは
初瀬山かねのひびきにおどろけばすみける月の有明の空
夜もすがらひとりみ山の槙のはにくもるもすめる有明の月
たのめおく人もながらの山にだにさ夜更けぬればまつ風のこゑ
袖にしも月かかれとは契りおかずなみだはしるやうつの山越
見れば又いとどなみだのもろかづらいかにちぎりてかけはなれけむ
いかにせむつひの煙のすゑならで立ちのぼるべき道しなければ
住みわびぬいざさはこえんしでの山さてだに親のあとをふむやと
そして、その「新三十六歌仙」(「歌仙(一歌仙十首)」方式)での、「源家永」の十首は、次のとおりである。
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#34
前但馬守源家長朝臣
春雨に野沢の水はまさらねどもえ出づる草ぞふかくなり行く
あづさ弓いそべのうらの春の月あまのたくなはよるも引くなり
秋の月しのに宿かるかげたけてをざさが原に露ふけにけり
秋の月ながめながめて老が世も山のはちかくかたぶきにけり
紅葉葉の散りかひくもる夕しぐれいづれか道とあきのゆくらむ
今日も又しらぬ野原に行暮れていづれの山か月はいづらむ
きぬぎぬのつらきためしに誰なれて袖のわかれをゆるしそめけむ
いづくにもふりさけ今やみかさやまもろこしかけて出づる月かげ
もしほ草かくともつきじ君が代の数によみおく和かの浦なみ
生駒山よそになるをの沖に出でてめにもかからぬ峰のしら雲
ここで、家永と俊恵法師との二首を見ていきたい。
左 勝
春雨に野沢の水はまさらねど/もえいづるくさぞふかくなり行(家永)
右
故郷の板井の清水み草ゐて/月さへすまずなりにける哉(俊恵法師)
判詞
右の下の句の「月さへすまず」の「澄まず」・「住まず」の掛詞、いささか常套の感じで、左句の下の句の「もえいづるくさぞふかくなり行(く)」の「いづる」と「なりゆく」の、このリフレーン的な用言の動的な手法に一手をあげたい。
源家永の一首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ienaga.html
春歌の中に
春雨に野沢の水はまさらねど萌え出づる草ぞふかくなりゆく(新後拾遺61)
【通釈】しとしとと降る春雨に、野沢の水が増水したようには見えないけれども、萌え出た草は、日に日に色が深くなってゆく。
【語釈】◇ふかく 「水」または「水まさる」と縁のある語。
俊恵法師の一首
故郷月をよめる
古郷の板井の清水みくさゐて月さへすまずなりにけるかな(千載1011)
【通釈】古びた里の板井の清水は水草が生えて、月さえ住まず、昔のような澄んだ光を宿さないようになってしまった。
【語釈】◇板井の清水 板で囲った井戸の清水。◇みくさゐて 水草が生えて。◇すまず 水面に映る月の光が「澄まず」、月の姿が水面に「住まず」、の掛詞。
【補記】『林葉集』の詞書は「故郷月」。
【本歌】よみ人しらず「古今集」
我が門の板井の清水里遠み人しくまねば水草おひにけり
源家長(みなもとのいえなが) 生年未詳~文暦元(?-1234)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ienaga.html
醍醐源氏。大膳大夫時長の息子。後鳥羽院下野を妻とする。子には家清・藻壁門院但馬ほかがいる。生年は嘉応二年(1170)説、承安三年(1173)説などがある。早く父に死に別れ、承仁法親王(後白河院皇子)に仕える。建久七年(1196)、非蔵人の身分で後鳥羽院に出仕。蔵人・右馬助・兵庫頭・備前守などを経て、建保六年(1218)一月、但馬守。承久三年(1221)の変後、官を辞す。安貞元年(1227)一月、従四位上に至る。文暦元年(1234)、死去。六十余歳か。
後鳥羽院の和歌活動の実務的側面を支え、建仁元年(1201)八月には和歌所開闔となって新古今和歌集の編纂実務の中心的役割を果した。歌人としても活躍し、正治二年(1200)の「院後度百首」、建仁元年(1201)の「千五百番歌合」、元久元年(1204)の「元久詩歌合」、承久二年(1220)以前の「道助法親王五十首」などに出詠した。承久の変後は、妻の実家である近江国日吉に住むことが多く、ここでたびたび歌会を催した。また寛喜二年(1230)頃の「洞院摂政百首」、同四年の「日吉社撰歌合」などに参加。定家や家隆との親交は、晩年まで続いたようである。後鳥羽院に仕えた日々を回想し、院の威徳への賞讃を綴った日記『源家長日記』がある。新古今集初出。勅撰入集三十六首。新三十六歌仙。
俊恵(しゅんえ) 永久一(1113)~没年未詳 称:大夫公
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syune.html
源俊頼の息子。母は木工助橘敦隆の娘。兄の伊勢守俊重、弟の叡山阿闍梨祐盛も千載集ほかに歌を載せる歌人。子には叡山僧頼円がいる(千載集に歌が入集している)。大治四年(1129)、十七歳の時、父と死別。その後、東大寺に入り僧となる。
永暦元年(1160)の清輔朝臣家歌合をはじめ、仁安二年(1167)の経盛朝臣家歌合、嘉応二年(1170)の住吉社歌合、承安二年(1172)の広田社歌合、治承三年(1179)の右大臣家歌合など多くの歌合・歌会に参加。白川にあった自らの僧坊を歌林苑と名付け、保元から治承に至る二十年ほどの間、藤原清輔・源頼政・登蓮・道因・二条院讃岐ら多くの歌人が集まって月次歌会や歌合が行なわれた。ほかにも源師光・藤原俊成ら、幅広い歌人との交流が知られる。私撰集『歌苑抄』ほかがあったらしいが、伝存しない。弟子の一人鴨長明の歌論書『無名抄』の随所に俊恵の歌論を窺うことができる。家集『林葉和歌集』がある(以下「林葉集」と略)。中古六歌仙。詞花集初出。勅撰入集八十四首。千載集では二十二首を採られ、歌数第五位。
(その十八)皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)と西行法師
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十八・皇太后宮大夫俊成」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009411
(左方十八・皇太后宮大夫俊成)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019796
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十八・西行法師」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009429
(バーチャル歌合)
左方十八・皇太后宮大夫俊成
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010710000.html
又や見むかた野のみのゝ桜がり/はなのゆきちるはるのあけぼの
右方十八・西行法師
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010711000.html
をしなべて花のさかりになりにけり/やまのはごとにかゝるしらくも
判詞周辺(宗偽)
「新三十六歌仙画帖(狩野探幽筆)」による「新三十六歌仙」の「歌合」は、第一回の「後鳥羽院対式子内親王」によりスタートして、その最終回(十八回)が、この「俊成(釈阿)対西行」を以て、そのゴール地点ということになる。
*
「俊頼が後には、釈阿・西行なり。姿殊にあらぬ躰なり。釈阿は、やさしく艶に、心も深く、あはれなるところもありき。殊に愚意に庶幾する姿なり。西行は、おもしろくて、しかも心も殊に深く、ありがたくいできがたき方も共に相兼ねて見ゆ。生得の哥人とおぼゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき哥にあらず。不可説の上手なり。」」(後鳥羽院『後鳥羽院御口伝』)
*
この『後鳥羽院御口伝』の「(源)俊頼」(1055~1129)は『金葉集』の撰者で、次に出て来る「釈阿(俊成・1114~1204)・西行(1118~1190)」より、やや先の時代の歌人ということになる。この俊頼の子に、前回の「俊恵(1113~没年未詳)」が居り、この「釈阿(俊成・1114~1204)・西行(1118~1190)・俊恵(1113~没年未詳)」が、同時代の歌人という位置づけとなってくる。
そして、この「釈阿(俊成・1114~1204)・西行(1118~1190)」が、後鳥羽院歌壇、強いては、『新古今集』の基調をなすべき歌風と解することも出来よう。この二人について、「釈阿(俊成)は優艶で、心情に満ち、憐み深いところがり、ことに私の好み理想とする歌風である。西行は機知に富み、しかも歌心が誠に深く、なかなか世にめずらしい歌風であり、余人の真似難いようにも思われ、生れつきの歌人というべきであろう。ただし、初心の人が真似して学ぶような歌ではなく、言葉に尽くし難い名手なのである」というようなことであろう。
これは、後鳥羽院の「釈阿(俊成)・西行」観として夙に知られているものだが、もっと具体的なこととして、西行が出家をしたのは、保延六年(1140)、二十三歳の時、以降、歌僧としての七十三歳の生涯をおくる。一方の俊成が出家して釈阿になったのは、安元二年(1176)、六十三歳の時で、以降も、九十一年の宮廷歌人の生涯を全うしている。
西行が「生得の歌人」というのは、西行が若くして北面の武士(武官)も家族をも放下し、謂わば、「自由人・西行」として、「晴(ハレ)と褻(ケ)」の「褻(ケ)=私的空間」での
「歌は禅定の修業なり」(『三五記』)の、その終生の詠歌信条と深く関わりを有するものであろう。
それに対して、釈阿(俊成)は、藤原道長の六男・正二位権代納言・長家を祖とする「御子左家」の総帥(次男・定家、甥=猶子・寂蓮、孫娘・俊成女など)として、謂わば、時の「宮廷歌人第一人者・俊成(釈阿)」での、終始、「晴(ハレ)と褻(ケ)」の「晴(ハレ)=公的空間」で「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事也」(『六百番歌合』)との、その宮廷歌人としての信条を全うした歌人ということになろう。
*
「 『(建久四年)六百番歌合』冬・上
十三番 枯野 左勝 女房(後鳥羽院)
見し秋を何に残さん草の原ひとつに変る野辺のけしきに
右 隆信朝臣(藤原隆信)
霜枯の野辺のあはれを見ぬ人や秋の色には心とめけむ
右方申云、「草の原」、聞きつかず。左申云、右歌、ふるめかし。
判云、左、「何に残さん草の原」といへる、艶にこそ侍めれ。右方人「草の原」難申之條、頗るうたたあるにや。紫式部、歌詠みの程よりも物書く筆は殊勝之上、「花の宴」の巻は、殊に艶なる物也。源氏見ざる歌詠みは遺恨事也。右、心詞悪しくは見えざるにや。但、常の体なるべし。左歌己宜、尤可為勝。(判者 入道従三位皇太后大夫藤原朝臣俊成(法名・釈阿))」(『日本古典文学大系74歌合集』所収「建久四年六百番歌合(抄)」)
*
芭蕉筆「許六離別の詞」(柿衞文庫蔵)縦 19.1 ㎝ 横 59.1㎝
「去年(こぞ)の秋、かりそめに面(おもて)をあはせ、今年五月の初め、深切に別れを惜しむ。その別れにのぞみて、一日草扉をたたいて、終日閑談をなす。その器(許六をさす)、画(ゑ)を好む。風雅(俳諧)を愛す。予こころみに問ふことあり。『画は何のために好むや』、『風雅のために好む』と言へり。『風雅は何のために愛すや』、『画のために愛す』と言へり。その学ぶこと二つにして、用をなすこと一なり。まことや、『君子は多能を恥づ』」といへれば、品二つにして用一なること、感ずべきにや。画はとって予が師とし、風雅は教へて予が弟子となす。されども、師が画は精神徹に入り、筆端妙をふるふ。その幽遠なるところ、予が見るところにあらず。予が風雅は、夏炉冬扇のごとし。衆にさかひて、用ふるところなし。
ただ釈阿・西行の言葉のみ、かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも、あはれなるところ多し。後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも『これらは歌にまことありて、しかも悲しびを添ふる』とのたまひはべりしとかや。されば、この御言葉を力として、その細き一筋をたどり失ふことなかれ。なほ、『古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ』と、南山大師の筆の道にも見えたり、『風雅もまたこれに同じ』と言ひて、燈火をかかげて、柴門の外に送りて別るるのみ。元禄六孟夏末 風羅坊芭蕉 印 」
(芭蕉『風俗文選』所収「柴門の辞」・『韻塞』所収「許六離別の詞」)
*
これは、芭蕉(1644~1694)が亡くなる一年前の元禄六年(一六九三・五十歳)に、江戸在勤の彦根藩士・森川許六が帰郷するに際して贈った「許六離別の詞」の全文である。
ここに、芭蕉語録が満載している。
「予が風雅は、夏炉冬扇のごとし。衆にさかひて、用ふるところなし。」
「ただ、釈阿・西行の言葉のみ、かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも、あはれなるところ多し。」
「後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも『これらは歌にまことありて、しかも悲しびを添ふる』とのたまひはべりしとかや。されば、この御言葉を力として、その細き一筋をたどり失ふことなかれ。」
「古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ。」
「風雅もまたこれに同じ。」
これらの芭蕉語録の根底に、近世の放浪俳諧師・芭蕉の、中世の放浪歌人・西行への限りなく思慕が横たわっている。それは、天和三年(一六八三・四十歳)の、次の其角編『虚栗』跋文に表われている。
「侘(わび)と風雅のその生(つね)にあらぬは、西行の山家をたづねて、人の拾はぬ蝕栗(むしくひ)也。」(其角編「虚栗」跋文)
さらに、それは、貞享四年(一六八七・四十四歳)の、次の『笈の小文』(序文)と連なっている。
「百骸九竅の中に物有り、かりに名付て風羅坊といふ。誠にうすものゝのかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好こと久し。 終に生涯のはかりごとゝなす。ある時は倦で放擲せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたゝかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立むことをねがへども、これが為にさへられ、暫ク學で愚を曉ン事をおもへども、是が為に破られ、つひに無能無藝にして只此一筋に繫る。西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の繪における、利休の茶における、其貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る處花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。」(『笈の小文』序)
ここから、冒頭の「許六離別の詞」に連なり、そこに、芭蕉は「風羅坊芭蕉」と署名するのである。この「風蘿坊」とは、西行の「浮かれいづる心」、そして、宗祇の臨終の吟の「浮かるる心」と軌を一にするものであろう。
浮かれいづる心は身にもかなはねばいかなりとてもいかにかはせむ(『山家集』)
眺むる月に立ちぞ浮かるる(『宗祇終焉記』)
そして、それは、「西行→宗祇→芭蕉」と連なる「漂泊の詩人」の系譜を物語るものであろう。
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る(『枯尾花』)
この芭蕉の絶吟(病中の吟)の「枯野をかけ廻(めぐ)る」は、「枯野を廻(めぐ)る夢心」との二案が芭蕉の脳裏にあったことを、其角は書き取っている。この「夢心」は、西行、そして、宗祇の「浮かれいづる心・浮かるる心」と軌を一にするものであろう。
「ただ壁をへだてて命運を祈る声の耳に入りけるにや、心細き夢のさめたるはとて、『旅に病で夢は枯野をかけ廻る』、また、枯野を廻るゆめ心、ともせばやともうされしが、是さへ妄執ながら、風雅の上に死ん身の道を切に思ふ也」(『枯尾花』)
そして、この芭蕉の「枯野」も、これまた、西行の、例えば、次の歌に連なっているように思われる。
朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野のすすき形見にぞ見る(『新古今集792』『山家集』)
「みちのくにへまかりける野中に、目にたつ様なる塚の侍りけるを問はせ侍りければ、『これなむ中将の塚と申す』と答へければ、『中将とはいづれの人ぞ』と問ひ侍りければ、『実方朝臣の事』となむ申しけるに、冬の事にて、霜枯の薄ほのぼの見えわたりて、折ふし物悲しう覚え侍りければ」(『新古今集792』「詞書(前書き)」)
左 持
又や見むかた野のみのゝ桜がり/はなのゆきちるはるのあけぼの(釈阿=俊成)
右
をしなべて花のさかりになりにけり/やまのはごとにかゝるしらくも(西行法師)
判詞
左の歌の評の、「めでたし、詞めでたし、狩は、雪のちる比する物なるを、その狩をさくらがりにいひなし、其雪を花の雪にいひなせる、いとおもしろし」(本居宣長) の筆法でいくと、右の歌は、「めでたし、詞のめでたし、『やまのはごと』(山の端毎)は、「山端」と「山際」の「地と空」に、「しらくも」(「白雲」と「桜花」)が、あたかも、「大和は国のまほろば ただなづく青垣 山隠れる 大和しうるわし」を奏でているようで、いとおもしろし」と相成る。「敷島の道」の宣長が、左を「おもしろし」とするならば、右を「おもしろし」とし、「持」とす。
藤原俊成の一首
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syunzei2.html
摂政太政大臣家に、五首歌よみ侍りけるに
またや見む交野(かたの)の御野(みの)の桜がり花の雪ちる春の曙(新古114)
【通釈】再び見ることができるだろうか、こんな光景を。交野の禁野に桜を求めて逍遙していたところ、雪さながら花の散る春の曙に出遭った。
【語釈】◇またや見む 再び見ることができるだろうか。ヤは反語でなく疑問。◇交野 河内国の歌枕。今の大阪府枚方市あたり。禁野があった。カタに難い意を掛ける。◇桜がり 花見。冬にする鷹狩を桜狩に置き換えた趣向。
【補記】伊勢物語八十二段を踏まえる。「今狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし云々」。建久六年(1195)二月、九条良経邸歌会での作。俊成八十二歳、最晩年の秀逸。『長秋詠藻』に文治六年(1190)女御入内御屏風和歌として以下のように掲載する歌を、改作したもの。
野辺に鷹狩したる所
又もなほ人に見せばや御狩する交野の原の雪の朝を
【他出】慈鎮和尚自歌合、定家八代抄、近代秀歌、詠歌大概、詠歌一体、和漢兼作集、歌枕名寄、三五記、井蛙抄、六華集、耕雲口伝
【鑑賞】「めでたし、詞めでたし、狩は、雪のちる比する物なるを、その狩をさくらがりにいひなし、其雪を花の雪にいひなせる、いとおもしろし」(本居宣長『美濃の家苞(いえづと)』)。
【主な派生歌】
またや見む明石の瀬戸のうき枕波間の月のあけがたの影(藤原忠良[正治初度百首])
忘れめや片野の花もかつ見ゆる淀のわたりの春の明けぼの(千種有功)
西行の一首
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花の歌あまたよみけるに(七首)
おしなべて花のさかりになりにけり山の端ごとにかかる白雲(64)[千載69]
【通釈】世はあまねく花の盛りになったのだ。どの山の端を見ても、白雲が掛かっている。
【補記】山桜を白雲になぞらえる旧来の趣向を用い、満目の花盛りの景をおおらかに謳い上げた。藤原俊成は西行より依頼された『御裳濯河歌合』の判詞に「うるはしく、丈高く見ゆ」と賞賛し、勝を付けている。
【他出】治承三十六人歌合、御裳濯河歌合、山家心中集、西行家集、定家八代抄、詠歌大概、御裳濯和歌集、詠歌一体、三百六十首和歌、井蛙抄、六華集、東野州聞書
【主な派生歌】
白雲とまがふ桜にさそはれて心ぞかかる山の端ごとに(藤原定家)
この頃は山の端ごとにゐる雲のたえぬや花のさかりなるらん(洞院公賢)
藤原俊成(ふじわらのとしなり(-しゅんぜい)) 永久二年~元久元年(1114-1204) 法号:釈阿 通称:五条三位
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藤原道長の系譜を引く御子左(みこひだり)家の出。権中納言俊忠の子。母は藤原敦家女。藤原親忠女(美福門院加賀)との間に成家・定家を、為忠女との間に後白河院京極局を、六条院宣旨との間に八条院坊門局をもうけた。歌人の寂蓮(実の甥)・俊成女(実の孫)は養子である。
保安四年(1123)、十歳の時、父俊忠が死去し、この頃、義兄(姉の夫)にあたる権中納言藤原(葉室)顕頼の養子となる。これに伴い顕広と改名する。大治二年(1127)正月十九日、従五位下に叙され、美作守に任ぜられる。加賀守・遠江守を経て、久安元年(1145)十一月二十三日、三十二歳で従五位上に昇叙。同年三河守に遷り、のち丹後守を経て、久安六年(1150)正月六日、正五位下。同七年正月六日、従四位下。久寿二年(1155)十月二十三日、従四位上。保元二年(1157)十月二十二日、正四位下。仁安元年(1166)八月二十七日、従三位に叙せられ、五十三歳にして公卿の地位に就く。翌年正月二十八日、正三位。また同年、本流に復し、俊成と改名した。承安二年(1172)、皇太后宮大夫となり、姪にあたる後白河皇后忻子に仕える。安元二年(1176)、六十三歳の時、重病に臥し、出家して釈阿と号す。元久元年(1204)十一月三十日、病により薨去。九十一歳。
長承二年(1133)前後、丹後守為忠朝臣家百首に出詠し、歌人としての活動を本格的に始める。保延年間(1135~41)には崇徳天皇に親近し、内裏歌壇の一員として歌会に参加した。保延四年、晩年の藤原基俊に入門。久安六年(1150)完成の『久安百首』に詠進し、また崇徳院に命ぜられて同百首和歌を部類に編集するなど、歌壇に確実な地歩を固めた。六条家の藤原清輔の勢力には圧倒されながらも、歌合判者の依頼を多く受けるようになる。治承元年(1177)、清輔が没すると、政界の実力者九条兼実に迎えられて、歌壇の重鎮としての地位を不動とする。寿永二年(1183)、後白河院の下命により七番目の勅撰和歌集『千載和歌集』の撰進に着手し、息子定家の助力も得て、文治四年(1188)に完成した。建久四年(1193)、『六百番歌合』判者。同八年、式子内親王の下命に応じ、歌論書『古来風躰抄』を献ずる。この頃歌壇は後鳥羽院の仙洞に中心を移すが、俊成は院からも厚遇され、建仁元年(1201)には『千五百番歌合』に詠進し、また判者を務めた。同三年、院より九十賀の宴を賜る。最晩年に至っても作歌活動は衰えなかった。詞花集に顕広の名で初入集、千載集には三十六首、新古今集には七十二首採られ、勅撰二十一代集には計四百二十二首を入集している。家集に自撰の『長秋詠藻』(子孫により増補)、『長秋草』(『俊成家集』とも。冷泉家に伝来した家集)、『保延のころほひ』、他撰の『続長秋詠藻』がある。歌論書には上述の『古来風躰抄』の外、『萬葉集時代考』『正治奏状』などがある。
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「俊頼が後には、釈阿・西行なり。釈阿は、やさしく艶に、心も深く、あはれなるところもありき。殊に愚意に庶幾する姿なり」(後鳥羽院「後鳥羽院御口伝」)。
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「ただ釈阿・西行の言葉のみ、かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも、あはれなるところ多し。後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも『これらは歌にまことありて、しかも悲しびを添ふる』とのたまひはべりしとかや。されば、この御言葉を力として、その細き一筋をたどり失ふことなかれ」(芭蕉「許六別離の詞」)。
西行(さいぎょう) 元永元~建久元(1118~1190) 俗名:佐藤義清 法号:円位
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藤原北家魚名流と伝わる俵藤太(たわらのとうた)秀郷(ひでさと)の末裔。紀伊国那賀郡に広大な荘園を有し、都では代々左衛門尉(さえもんのじょう)・検非違使(けびいし)を勤めた佐藤一族の出。父は左衛門尉佐藤康清、母は源清経女。俗名は佐藤義清(のりきよ)。弟に仲清がいる。
年少にして徳大寺家の家人となり、実能(公実の子。待賢門院璋子の兄)とその子公能に仕える。保延元年(1135)、十八歳で兵衛尉に任ぜられ、その後、鳥羽院北面の武士として安楽寿院御幸に随うなどするが、保延六年、二十三歳で出家した。法名は円位。鞍馬・嵯峨など京周辺に庵を結ぶ。出家以前から親しんでいた和歌に一層打ち込み、陸奥・出羽を旅して各地の歌枕を訪ねた。久安五年(1149)、真言宗の総本山高野山に入り、以後三十年にわたり同山を本拠とする。仁平元年(1151)藤原顕輔が崇徳院に奏上した詞花集に一首採られるが、僧としての身分は低く、歌人としても無名だったため「よみびと知らず」としての入集であった。五十歳になる仁安二年(1167)から三年頃、中国・四国を旅し、讃岐で崇徳院を慰霊する。治承四年(1180)頃、源平争乱のさなか、高野山を出て伊勢に移住、二見浦の山中に庵居する。文治二年(1186)、東大寺再建をめざす重源より砂金勧進を依頼され、再び東国へ旅立つ。途中、鎌倉で源頼朝に謁した。
七十歳になる文治三年(1187)、自歌合『御裳濯河歌合』を完成、判詞を年来の友藤原俊成に依頼し、伊勢内宮に奉納する。同じく『宮河歌合』を編み、こちらは藤原定家に判詞を依頼した(文治五年に完成、外宮に奉納される)。文治四年(1188)俊成が撰し後白河院に奏覧した『千載集』には円位法師の名で入集、十八首を採られた。最晩年は河内の弘川寺に草庵を結び、まもなく病を得て、建久元年(1190)二月十六日、同寺にて入寂した。七十三歳。かつて「願はくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃」と詠んだ願望をそのまま実現するかの如き大往生であった。
生涯を通じて歌壇とは距離を置き、当時盛行した歌合に参席した記録は皆無である。大原三寂と呼ばれた寂念・寂超・寂然とは若年の頃より交流があり、のち藤原俊成や慈円とも個人的に親交を持った。また、待賢門院堀河を始め待賢門院周辺の女房たちと親しく歌をやりとりしている。家集には自撰と見られる『山家集』、同集からさらに精撰した『山家心中集』、最晩年の成立と見られる小家集『聞書集(ききがきしゅう)』及び『残集(ざんしゅう)』がある。また『異本山家集』『西行上人集』『西行法師家集』などの名で呼ばれる別系統の家集も伝存する(以下「西行家集」と総称)。勅撰集は詞花集に初出、新古今集では九十五首の最多入集歌人。二十一代集に計二百六十七首を選ばれている。歌論書に弟子の蓮阿の筆録になる『西行上人談抄』があり、また西行にまつわる伝説を集めた説話集として『撰集抄』『西行物語』などがある。
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「西行はおもしろくて、しかも心もことに深くてあはれなる、有難く出来がたき方も共に相兼ねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。これによりておぼろげの人のまねびなんどすべき歌にあらず、不可説の上手なり」(『後鳥羽院御口伝』)。
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「和歌はうるはしく詠むべきなり。古今集の風体を本として詠むべし。中にも雑の部を常に見るべし。但し古今にも受けられぬ体の歌少々あり。古今の歌なればとてその体をば詠ずべからず。心にも付けて優におぼえん其の風体の風理を詠むべし」「大方は、歌は数寄の深(ふかき)なり。心のすきて詠むべきなり」(「深」を「源」とする本もある)「和歌はつねに心澄むゆゑに悪念なくて、後世(ごせ)を思ふもその心をすすむるなり」(『西行上人談抄』)。