其角の『句兄弟・上』
芭蕉が没した元禄七年(一六九四)に成った、其角の『句兄弟』(上・中・下)の、其角の序(句兄弟序)の全文は次のとおりである。
(参考文献)
一 『句兄弟・上』夏見知章・大谷恵子・山尾規子・関野あや子編著
二 「句兄弟」(『蕉門俳諧集二』・古典俳文学大系七)今栄蔵校注
(句兄弟序)
○点ハ転ナリ、転ハ反なりと註せしによりて案ズルに、句ごとの類作、新古混雑して、ひとりことごとくには、諳(ソラン)じがたし。然るを一句のはしりにて聞(きき)なし、作者深厚の吟慮を放狂して、一転の付墨をあやまる事、自陀(他)の悔(くやみ)且暮にあり。さればむかし今の高芳の秀逸なる句品、三十九人を手あひにして、お(を)かしくつくりやはらげ、おほやけの歌のさま、才ある詩の式にまかせて、私に反転の一躰をたてゝ、物めかしく註解を加へ侍る也。此(この)後俳諧の転換、その流俗に随ひ侍らば、一向壁に馬なる句躰なりとも、聊(いささか)の逃(にげ)道を工夫して等類の難をのがれぬべし。尤(もっとも)、古式のゆるしごとくに、貴人・少人・女子・辺鄙の作に於(おい)ては、切字ひとつの違(ちがひ)にして当座の逸興ならしめんは、祝蛇(原文は魚扁)が侫(ねい)なかるべし。此(この)道の譬喩方便なれば、諸作一智也、諸句兄弟也、とちなめるまゝ遠慮なく書の名とし侍る。
元禄七甲戌稔(年)寿星初五 晋 其角
(参考)一 「点ハ転ナリ、転ハ反なり」=点は点化の意で漢詩作法から来た語。点化は古人の詩句を換骨奪胎して自句を成す法で、転・反というも等しい。当時俳人にも読まれた明の梁公済著『氷川(ひょうせん)詩式』に作句法の一として「点化句法」が見えるが、其角は元禄七年刊『其便』に「点化句法」と表示する発句を出しており、漢詩法に学んだ作句法を試みていることが分かる(今・前掲書)。『俳文学大辞典』では「反転の法」の項目での説明あり。また、『去来抄』では、「打ち返し」の用例も見る。
二 おほやけの歌のさま=歌道における本歌取りのこと。『細川幽斎聞書全集』巻之一には「本歌可取様之事」として、次の六法がある。
① 常に取る本歌の詞にあらぬ物にとりなしてといへり
② 本歌の心をとりて風をかへたる
③ 本歌に贈答したる躰
④ 本歌の心になりかへりてしかも本歌をへつらはずして新しき心を読める躰
⑤ 詞一つをとりたる歌
⑥ 本歌二首を以て読める躰
三 壁に馬なる=諺「壁に馬を乗りかけたよう」。物事を出し抜けにやること、また無理無体にやることのたとえ。
四 祝蛇(原文は魚扁)=中国春秋時代、衛の人。『論語』に出てくる。後世、弁舌の巧みな者をたとえていう。
五 元禄七甲戌稔(年)寿星初五=元禄七甲戌年八月五日
(句合せ一)
※ 『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html
※ (謎解き・五十二)http://yahantei.blogspot.com/2007/03/blog-post_24.html
一番
兄 貞室
これはこれはとばかり花の吉野山
弟 晋子(其角)
これはこれはとばかり散るも桜哉
(兄句の句意)これは、これは、まことに驚くばかりの花一色の吉野山であることよ。
(弟句の句意)これは、これは、まことに驚くばかりに落花の桜も美しいことであるよ。
(判詞の要点)兄句の「これはこれとばかり」をそのままに、それに唱和するようなスタイルで、「花の吉野山」を「散るも桜哉」と反転せている。それも、単に、「咲いた桜」に対して「散る桜」と反転させただけではなく、「これは、これはと驚くばかりに激しく散る桜の美しさ」も、花(桜)の「(物の)本性」(『徒然草』第百三十七段の「花の前後」の心に通ずる)で、その心をもって反転させたところに、ここでの弟句の句作りの要諦がある。
(参考)安原貞室(やすはらていしつ:1610年(慶長15年) – 1673年3月25日(延宝元年2月7日))は、江戸時代前期の俳人で、貞門七俳人の一人。名は正明(まさあきら)、通称は鎰屋(かぎや)彦左衛門、別号は腐俳子(ふはいし)・一嚢軒(いちのうけん)。京都の紙商。1625年(寛永2年)、松永貞徳に師事して俳諧を学び、42歳で点業を許された。貞門派では松江重頼と双璧をなす。貞室の「俳諧之註」を重頼が非難したが、重頼の「毛吹草」を貞室が「氷室守」で論破している。自分だけが貞門の正統派でその後継者であると主張するなど、同門、他門としばしば衝突した。作風は、貞門派の域を出たものもあり、蕉門から高い評価を受けている。句集は「玉海集」など。
(句合せ三)
※ 『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html
※ (謎解き・五十四)http://yahantei.blogspot.com/2007/03/blog-post_24.html
三番
兄 素堂
又これより青葉一見となりにけり
弟 (其角)
亦是より木屋一見のつゝし(じ)哉
(兄句の句意)花が落花して、また、これからは「青葉一見」の季節になったことよ。
(弟句の句意)「植木屋一見」の花の季節から、また、これからは「つつじ」の季節になったことよ。
(判詞の要点)兄句・弟句とも春の名残を惜しむことにおいては同じであるが、兄句の「青葉」を「木屋」に、「となりにけり」を「つゝし(じ)かな」と変転させることによって、句の表面の字面も句意も随分と様変わりしている。特に、この「下五の云かへにて」で、両句は「強弱の躰をわかつもの」となっている。両句の背景には、賈島「暁賦」詩中の「遊子行残月」(『和漢朗詠集』所収)がある。
(参考)山口素堂(やまぐち そどう、寛永19年(1642年) – 享保元年8月15日(1716年9月30日))は、江戸時代前期の俳人・治水家。本名は信章。通称勘兵衛。[経歴] 生れは甲斐国で、家業は甲府魚町の酒造家。20歳頃で家業の酒造業を弟に譲り、江戸に出て漢学を林鵞峰に学んだ。俳諧は1668年(寛文8年)に刊行された「伊勢踊」に句が入集しているのが初見。1674年(延宝2年)京都で北村季吟と会吟し、翌1675年(延宝3年)江戸で初めて松尾芭蕉と一座し以後互いに親しく交流した。晩年には「とくとくの句合」を撰している。また、治水にも優れ、1696年(元禄9年)には甲府代官櫻井政能に濁川の治水について依頼され、山口堤と呼ばれる堤防を築いている。