蕪村の「謝寅」時代の句

蕪村の「謝寅」時代の句(その一~その十一)

蕪村の「謝寅」時代」の句(その一・一~十一)

(その一)

○ 痩脛(やせはぎ)や病より立つ鶴寒し

 蕪村は画俳二道を行く老成の人であった。その絵画の絶頂期は、「謝寅(しゃいん)」の号を用いる安政七年(一七七八)の六十三歳以降というのが、誰しもが認めるところのものであろう。その「謝寅」の号を始めて用いたのは、その年の七月の「山水図」に、「戊戌秋七月写於夜半亭 謝寅」と記したのが最初であろう。そして、掲出の句は、その年の十一月十三日に没した、蕪村門の異才・吉分大魯(たいろ)に宛てた、「大魯が病の復常をいのる」の前書きのある一句である。句意は、「病にめげず立ち上がるその鶴のその痩せ細ろいた脛、その痩せ細ろいだ脛ですくっと立つ鶴の何と寒々とした光景であることか」でもなるのであろうか。快癒を祈っての鶴の最後の踏ん張りを期待する句なのであろうが、それ以上に、病に臥す痩せ細ろいだ大魯の姿が眼前に浮かんでくる一句である。そして、蕪村よりも十歳前後若いその異才の開花が期待された大魯は没した。その大魯の死に前後して、蕪村は「謝寅」の号をもって、この句の鶴のように「寒風の中にすくっと最後の花を咲かせる」、その時を迎えたのである。

(その二)

○ 泣(なき)に来て花に隠るゝ思ひかな

 『蕪村全集(一)」(講談社)に次のとおりの「左注」がある。
[『華の旅』(寛政六)に「清夫亡人のひめ置(おき)し反故の中に此(この)一順あり。芦陰舎(大魯)今年十七回忌の折からなれば爰(ここ)にしるす」と編者夏雄の前書。大魯(安永七年十一月十三日没)の追悼吟。この年の作か。]

この「清夫亡人」の「夫」は「未亡人」の「未」の誤植なのであろうか。また、「この年の作か」として、この句を安永七年作としているが、「花」の季語から、「翌春(推定)」(『蕪村事典(桜楓社)』)とする理解の方が素直であろう。いずれにしろ、蕪村の「謝寅」時代の大魯追悼吟ということになる。句意は、「大魯追悼の泣きに来て、折からの花に隠れて思い切り泣きたい心境をいかんともしがたい」ということであろう。思えば、大魯の没した安永七年の三月に、蕪村は几董を伴って、当時、兵庫県に居を移していた大魯を見舞っているのである。蕪村はどれほどこの蕪村門では異端視されたこの大魯の才能を高くかっていたことであろうか。この大魯追悼吟の「花」には、大魯が没したこの年の、大魯と一緒に見たであろう「花」が見え隠れしている。

(その三)

○ 狐啼(ない)てなの花寒き夕べ哉

 安永八年(一七七九)の作。季語は「なの花」(春)。蕪村には「菜の花」の傑作句が多い。「なの花や月は東に日は西に」・「菜の花や遠山鳥の尾上まで」・「なの花や昼一しきり海の音」・「菜の花や鯨もよらず海くれぬ」・・・、どれも蕪村の句らしい印象鮮明な句である。しかし、この掲出句は、印象鮮明の句というよりも、何故か、蕪村の謎の生い立ちを暗示するような、「寒々とした不気味な菜の花畑」を連想させる。それは一にかかって、上五の「狐啼て」にある。これは蕪村の生まれた頃の、蕪村の脳裏に焼き付いている実景なのではなかろうか。蕪村の若い頃の句の「菜の花や和泉河内の小商ひ」の、その「和泉河内」の「菜の花」畑に通ずるような雰囲気なのである。そして、蕪村は、「菜の花や油乏しき小家がち」とも詠う。家々の灯りの元になる「菜種油」を産出する「菜の花畑」・・・、その菜の花畑の傍らで、狐がコンコンと啼いている風景・・・、それを六十四歳となった蕪村は、その蕪村の原風景を回想している違いない。

(その四)

○ 松島で古人となる歟(か)年の暮

 蕪村の亡くなる前年(天明二年)の謝寅時代の句である。
「世人が俗塵の中で悪戦苦闘する年の暮れに、風流のメッカ松島で故人となるのは、何ともうらやましい」(『蕪村全集一』)というのが、通説的な解である。この通説的な解の背景は、この句は、「松島で死ぬ人もあり冬籠」の別案と、比較的、この句の制作された背景が明らかになっていることと大きく関係している(「青荷」充て書簡)。しかし、そういう背景を抜きにして、この句単独の素直の解は、次のような解にもなるだろう。「この年の暮れに、風流のメッカ・松島で死ぬことができたら、どんなに素晴らしいことであるか」。
 とするならば、蕪村が、自分の死を予感しての、あるいは、蕪村が、自分の死を覚悟しての作のようにも理解できる。この句は、「西むきにいほりをたてゝ冬ごもり」と同一時の
作ともされている。即ち、「冬籠もり」の題詠の一つというのが、その背景である。この「西むきに」というのは、「西方浄土へ向かって」ということであり、この同一時の句の背景からしても、掲出の句が、蕪村の「死への願望、死への期待」の句という理解は、これらの句の背景として、理解しておく必要があるのかも知れない。
 蕪村の絵画は、その晩年の「謝寅(しゃいん)」の号を用いた頃から「本当の蕪村」が誕生したといわれている。そして、そのことは、こと俳諧(俳句)に限ってはどうかということになると、必ずしも、当てはまらないけれども、当然のこととして、「生と死」を必然的に意識しての、創作活動ということになると、その晩年の「謝寅」時代の、画・俳二道の創作活動を注ししていきたいとという衝動にかられてくるのである。そして、蕪村の句としては余り話題とされていない、この掲出の句も、蕪村の晩年の「謝寅時代」の一つの句として、そして、蕪村の、「生と死」とを扱った句の一つとして理解しておく必要があるのかも知れない。

(その五)

○ 松島で死ぬ人もあり冬籠(ふゆごもり)

 この蕪村(六十七歳の時の作)の句は、「松島で古人となる歟(か)年の暮」と同一時の作とされている。『蕪村全集一』の解によれば、「風流行脚の途次、松島で死の本懐をとげる人もある。そんなうらやましい人のことを心に思いながら、自分はぐうたらと火燵行脚の冬ごもりを極め込んでいる」とある。蕪村には「冬籠り」の句が実に多い。 蕪村は若い時の関東放浪の旅を経験して以来、その後は、仕事で讃岐への遠出があるくらいで、ずうと、京都の地で、それこそ、「冬籠り」のような人生に終始した。蕪村が「籠り居の詩人」と呼ばれるのも、そんなことが原因の一つであろう。しかし、若い関東放浪の時代に、足を伸ばして、芭蕉の「奥の細道」の行脚を決行して、この松島での一句が残されている。その蕪村(二十八歳の時)の句は「松島の月見る人やうつせ貝」というもので、この「うつせ貝」は和歌で用いられる「むなし」に掛かる枕詞で、技巧的な句作りである。、その句意は、「松島の月を句にしようとしても、余りにも絶景で、ただむなしく眺めるだけだ」とでもなるのであろうか。そして、蕪村は、死ぬ前年の、ある句会で、「冬籠り」という題を得て、掲出の句を作句したのであろう。そして、その六十七歳の晩年の蕪村に、かって、若い時に決行した奥羽行脚やその途次での松島行脚のことが、きっと、その脳裏にあったに違いない。そして、できることなら、その風流のメッカの、かって訪れたことのある「松島で死の本懐をとげたい」と願ったことであろう。蕪村は京都の街の片隅で、ひっそりと、その小さな家から一歩も出ず、「籠り居」の中で、画・俳二道の創作に終始した。その蕪村の姿を如実に表わしている「冬籠り」の一句がある。

  冬ごもり妻にも子にもかくれん坊

(その六)

○ 菜の花や鯨もよらず海くれぬ

 安永七年(一七七八)の作。蕪村六十三歳。『蕪村全集一」の解は次のとおり。
「見渡せば残照に黄金色に映える一面の菜の花の海。沖には鯨が近づくといった異変も起こらず、海面は平穏に暮れてゆく。壮大な菜の花の大観。」
 蕪村には「菜の花」の句が多いが、この掲出句のように「菜の花と海」との取り合わせの句は、安永三年の作にもある。

○ 菜の花や昼しときり海の音

 そして、この句は蕪村の代表句の「菜の花や月は東に日は西に」と同時の作とされているのである。この作は大阪平野の菜種栽培地帯での大観の作とされている(前掲書)。
 とすると、冒頭の「菜の花や鯨もよらず海くれぬ」についても、蕪村は実際には、「海」は見ていずに、かっての「菜の花や月は東に日は西に」、そして、「菜の花や昼しときり海の音」との延長線上での、大阪平野の菜種栽培地帯に想いを馳せての作のように思われるのである。すなわち、「菜の花の一面の菜畑」を「海」ととらえて、そして、「鯨」とか「海の音」とかは、その「菜の花の一面の菜畑」がいかに大観であることかの効果的な、蕪村のレトリック的なものと思われるのである。そして、この何処までも海のように続く、大阪平野の菜の花の海は、蕪村の生まれた原風景の一つなのであろう。そして、その蕪村の原風景は、何時しか「鯨や海の音」を伴いながら、美しく蕪村の心に定着し、美化していったのではなかろうか。

(その七)

○ 草の戸に消(きえ)なで露の命かな

 天明三年(一七八三)の作。蕪村六十八歳。この年に蕪村は亡くなる。季語は露(秋)。草の戸は粗末な住いのこと。「草」と「露」と「消」とが縁語の技巧的な句作りである。句意は「粗末な草のような庵で余命いくばくもない露のような命をかろうじて保っている日々だ。」晩年の蕪村の姿を詠出しているような句だ。

(その八)

○ 我門(かど)や松はふた木を三(みつ)の朝

 蕪村が亡くなる天明三年(一七八三)の元旦の句である。「三(みつ)の朝」というのは、年・月・日の始めの意味での「元旦」と「見つ」とを掛けている用語のようである。元旦の句というのはこういう技巧的な句が多いのであろう。「松はふた木」は、芭蕉の『おくのほそ道』の「桜より松は二木を三月越し」の「武隈の松」(宮城県の歌枕)をイメージしているのであろう。句意は、「元旦に我が家の門に武隈の松のような二股の見事な松を確かに見たことだ。(それは幻影なのであろうか)。」とでもなるのであろうか。そして、この句は芭蕉の「桜より松は二木を三月越し」を完全に意識して作句していることが見てとれるということなのである。そして、この句の「ふた木の松を見た」という蕪村の幻影は、「そのふた木の松を句にした芭蕉翁」の幻影を見たということなのではなかろうか。蕪村の作句の背景には常に芭蕉の幻影が見え隠れしているのである

(その九)

○ 春水や四条五条の橋の下

 天明元年(一七八一)の六十六歳の作。蕪村の句には「探題」の句が多い。句会などで籤のようにして、その日の自分の作る題を引いて、そして作句する。この句もそんなものの一つらしい。「春風や四条五条の橋の上」(都枝折)などの「もじり」の句なのであろ
う。「風が上なら、水は下」なとどと、また、謡曲の「四条五条の橋の上、老若男女・・・」(熊野)などを口ずさみながら、すらすらと句にする。今なら、さしずめ、「類想句あり」などのひんしゅくをかう部類のものなのであろう。しかし、本来、俳句というものは、西洋的な個人の独創力・創造力とかにウエートをおくものではなく、この句のような、即興的な機知の応酬などにウエートをおいているものなのであろう。そして、こういう即興的な機知の応酬なども、今では、どこかに置き去りにされてしまった。

(その十)

○ 烈々と雪に秋葉の焚火かな

 この蕪村の句は安永六年、蕪村、六十二歳ときの句。蕪村の最高の画号の「謝寅」が始まるのは翌年の頃なのであるが、この安永六年の蕪村の俳壇活動は一つのピークのようにも思われる。この掲出の句は、そのピーク時の蕪村の傑作句として例示したのではない。この句の「秋葉」が、「静岡県の秋葉の火祭りとして名高い」、その「秋葉」の句であるということからの引用である。蕪村は「秋葉の火祭り」は見たことがないであろう。蕪村はその若い頃の放浪の時代を経て、そして、それ以後は、殆ど、京都の市井に「篭り人」のように隠棲して過ごしたのであった。これは、蕪村の観念の作なのであろう。しかし、この句に接する人に、眼前に「雪の秋葉山の焚火」を明瞭に映し出すという、そういう作句能力を持っていた俳人という思いを強くするのである。そして、それは、画人・蕪村を見るような錯覚すら覚えるのである。  

(その十一)

○ 不動描く琢磨が庭のぼたんかな

 安永六年の作。この句もまた画人・蕪村(謝寅)の句そのものであろう。琢磨(たくま)とは平安から鎌倉にかけての絵仏師の一派の名である。その不動明王を描いて得意な琢磨の流れをくむ絵仏師の庭に、その不動明王に対峙するような見事な牡丹が咲いているというのである。こういう句は画人・蕪村(謝寅)の独壇場であろう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。