蕪村が描いた芭蕉翁像(七~九)

その七)江東区立芭蕉記念館の「芭蕉翁像」(蕪村筆)

 先に(その一で)、蕪村が描いた芭蕉像は、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』では、下記の十一点が収録されていることについて触れた。

① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九作。金福寺蔵)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)
⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)

 前回(その六)の金福寺の「芭蕉自画賛」(蕪村筆)は、上記の「③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九作。金福寺蔵)」である。
 今回は、「① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)」について触れたい。
 なお、『図説日本の古典14芭蕉・蕪村』所収「芭蕉から蕪村へ(白石悌三稿)」によると、上記の、金福寺の「芭蕉自画賛」(蕪村筆)に関連して、蕪村は、同時に、芭蕉像を他に二点ほど描いているということについて触れたが、この他の二点というのは、上記の「① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作)と「② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作)」を指しているのかも知れない。
 そして、この三点のうち、①②は円筒型(丸頭巾型)の白帽子、③は長方形型(角頭巾型)の白帽子と、何れも白帽子であることが興味深い。

芭蕉記念館・芭蕉像(蕪村筆).jpg

江東区立芭蕉記念館蔵「芭蕉翁像」(蕪村筆・部分)

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「86『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

絹本淡彩 一幅 九三・九×四〇・〇cm
款 「夜半亭蕪村拝写 干時安永己亥冬十月十三日」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛 下掲
安永八年(一七七九) 江東区立芭蕉記念館蔵
(賛)
(上段)
ほうらいに聞はやいせの初便
※花にうき世我我酒白く飯黒し
※ふる池やかはす飛こむ水の音
※ゆく春や鳥啼魚の目は泪
※夏ころもいまた虱をとりつくさす
※おもしろふてやかてかなしきうふね哉
※いてや我よき衣着たり蝉衣
さみたれに鳰のうき巣を見に行む
馬に寝て残夢月遠し茶の煙    ※※
此道を行人なしに秋のくれ
※名月や池をめぐりてよもすから
※はせを野分して盥に雨をきく夜かな
※世にふるもさらに宗祇のやとりかな
曙や白魚白き事一寸
寒きくや粉糠のかゝる臼のはた
としくれぬ笠着て草鞋はきなから

(中段)
  杜牧か早行の残夢小夜の
  中山にいたりて忽驚く
馬に寝て残夢月遠し茶の煙    ※※ 
  三井秋風か鳴滝の山家をとひて
梅白しきのふや鶴をぬすまれし
   伏み西岸寺任口上人をとふ
我衣にふしみのもゝの雫せよ
   人の短を言事なかれ
   おのれか長をとくことなかれ
もの云へは唇寒し秋の風

(下段)※※
早行残夢の句 一喝三嘆口吟しやむことあ
たはす されははしめに書したるを忘れて
又書す こいねかはくは其再復をとかむる
事なかれ 夜半亭(花押)

(説明)
 上記の※の句は、「88『芭蕉像』画賛」にも記されている句である。※※の句は、蕪村が間違って、上段と中段に二度記しているものである。そして、下段の※※で、その間違ったことを記している。
 これらの賛が、上記の上に、三段に分けて(上段・中段・下段)、記されている。

(その八)『蕪村(潁原退蔵著・創元選書)』口絵で紹介された「芭蕉翁像」(蕪村筆)

 『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』で紹介されている、先に触れた「② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)」は、『蕪村(潁原退蔵著・創元選書)』口絵で紹介されたものである。
 その「後記」で、「第二図(口絵の第二図)は蕪村筆の芭蕉翁像で、京都堀井静氏の蔵にかゝる。蕪村の筆になる芭蕉の像は、すでに知られたものがかなり多いが、これは本書によって初めて紹介された作である」と記されている。
 初版発行は、昭和十八年(一九四三)一月二十日で、太平洋戦争の真っ只中の頃である。この年の十月、明治神宮外苑競技場で「学徒出陣壮行会」が挙行された年である。
 この著の「序」(昭和十七年秋)で、「共に蕪村を語った若い友は、今召されて南支の野にある。もう間もなくこの書も世に出るであらう。友の武運のめでたさを祈りながら、まづ一本を遠く彼の野に送りたいと思つて居る」と記されている。
 蕪村が、この「芭蕉翁像」を描いたのは、その落款に「安永己亥冬十月十三日写」とあり、安永八年(一七七九)十月十三日の作で、この落款の日付は、江東区立芭蕉記念館蔵の「芭蕉翁像」の「干時安永己亥冬十月十三日」と、全く同じ日の作ということになる。
 さらに、金福寺蔵の「芭蕉翁像」の落款が、「安永己亥冬十月写」で、この三本の作品は、同一時の作品群と解して差し支えなかろう。
 それにしても、その一本が、その制作時より一世紀半以上の時の経過の後に、謂わば、学徒出陣の若き学徒に捧げられたということは、名状しがたき感慨が去来して来る。

選書・芭蕉像.jpg

『蕪村(潁原退蔵著・創元選書)』口絵「芭蕉翁像」


『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「87『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

絹本淡彩 一幅
款 「安永己亥冬十月十三日写 於夜半亭 蕪村拝」
印 一顆(印文不詳) 「春星」(白文方印)
賛 下掲
安永八年(一七七九)『蕪村』(創元選書)
(賛)
※ほうらいに聞はやいせの初便
※※花にうき世我我酒白く飯黒し
うぐいすの笠落したる椿かな
※※行春や鳥啼魚の目はなみだ
※※夏ころもいまた虱をとりつくさす
ゆふかほや秋はいろいろの瓢かな
※※おもしろふてやかてかなしきうふねかな
この辺目に見ゆるものみな涼し
  杜牧か早行の残夢小夜の
  中山にいたりて忽おとろく
※馬に寝て残夢月遠し茶の煙    
※この道を行人なしに秋のくれ
※※はせを野分して盥に雨をきく夜かな
※※名月や池をめぐりて通宵
※※世にふるもさらに宗祇のやとりかな
海くれて鴨の声ほのかに白し
  三井秋風か鳴滝の山家をとひて
※梅白しきのふや鶴をぬすまれし
  伏見西岸寺任口上人を訪
※我衣にふしみのもゝの雫せよ
※さみたれに鳰のうき巣を見に行む
粟稗にまつしくもあらす艸の菴
※寒きくや粉糠のかゝる臼のはた
※としくれぬ笠着て草鞋はきなから

(説明)
上記の※の句は、「86『芭蕉像』画賛」にも記されているもの。※※の句は、「86『芭蕉像』画賛」と「88『芭蕉像』画賛」との両方に記されているものである。また、『蕪村(潁原退蔵著・創元選書)』も『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』とも、白黒の写真だが、この画は「絹本淡彩」であり、「86『芭蕉像』画賛」(絹本淡彩)と同じ日に制作されていることに鑑みて、それと同じ色調の淡彩仕上げのものであろう。

(その九)許六に倣った全身像の「芭蕉翁図」(蕪村筆)

許六倣芭蕉像.jpg

『蕪村展(茨城県立歴史館 1997)』)所収「44芭蕉翁図」(蕪村筆) 

 平成九年(一九九七)十月十日から十一月十三日に茨城県立歴史館で開催された特別展「蕪村展」で、蕪村が渇望した百川筆「芭蕉翁像(「七〇 参考 芭蕉翁像 彭城百川筆 紙本墨画 )が初公開された、その図録中に、それと並列して、この「四四 芭蕉翁図」が収載されている。

 その作品解説は次のとおりである

[ 蕪村は、多くの芭蕉翁図を描いたようで、『蕪村事典』(桜楓社) によれば、それらの総数十二点にも及ぶ。これは、蕪村の芭蕉翁図中最も優れた作品である。賛中の「これは五老井か図せる蕉翁の像なり」の五老井とは、森川許六のこと。芭蕉門下の俳人で、狩野派の画技にすぐれ、信頼に足る芭蕉画像を遺したという。その許六の芭蕉翁像に倣ったとあるから、芭蕉の風貌をよく伝える作品ということになる。なおこの作品については、「芭蕉翁図」について(一〇二頁)と、彭城百川が描く芭蕉翁像(七〇)も、併せて参照されたい。百川の描く僧衣をまとった芭蕉翁像に対し、蕪村は、唐服姿の芭蕉像を描いた。ついでながら、本作品とは顔の向きとその風貌のみを異なにし、他の構成をほぼ同じくする作品、「芭蕉翁立像図」(逸翁美術館蔵)が伝わることを付記しておきたい。  ]

 この「作品解説」中の「『芭蕉翁図』について(一〇二頁)」は、「結城下館時代の蕪村について二、三」(茨城県立歴史館学芸員 北畠健稿)の「『芭蕉翁図』について」で、その内容は次のとおりである。

[ (前略) 蕪村書簡に、「愚老むかし関東に於て、許六が画の肖像に素堂の賛有之物を見申候 厳然たる真蹟 伝来正きものに候 其像之面相は 杉風が画たる像とは大同小異有之候 許六が画たるも 翁現世の時之画と相見え候 杉風・許六二画の内、いづれが真にせまり候や 無覚束候 愚老が今写する所は、右二子の画たる像を参合して写出候 (略) 」
と記されている。
 ここで言う関東とは、江戸のことか、あるいは江戸以外の関東のことか分からないが、とにかく、関東において見た「芭蕉翁像」の記憶を基にして、今、自分の芭蕉翁像を描くという、非常に興味深い内容である。「芭蕉翁像」といえば、百川が描いた「芭蕉翁像」のことがよく取り沙汰されるが、蕪村は、許六の、さらには杉風の作品をも念頭において、「芭蕉翁像」を制作していたのである。許六は、最も信頼に足る「芭蕉翁像」を遺したことでも知られているから、その意味でも、蕪村の「芭蕉翁像」を再考して見る必要があるように思われる。また、関東時代にこのような優れた作品に接し、いよいよ、画嚢を豊かにしていたことをも窺わせる書簡ではある。 ]

 ここに引用されている蕪村書簡は、安永末年(一七八〇)から天明三年(一七八三)の間と推定される、大津の俳人、(伊東)子謙宛てのものであるが、この書簡に出て来る「許六が画の肖像に素堂の賛有之物」は、現存していないようである(『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)』)。
 また、「作品解説」中の、「本作品とは顔の向きとその風貌のみを異なにし、他の構成をほぼ同じくする作品、『芭蕉翁立像図』(逸翁美術館蔵)が伝わる」とされているが、この逸翁美術館蔵の「芭蕉翁立像図」は、次回(その十)で取り上げるが、細長い杖を片手に抱えている旅姿の芭蕉像で、この許六に倣ったとされる全身像の「芭蕉翁図」とは、「ほぼ構成を同じくする」ということについては、否定的に解したい。
 ただ、賛の前書きと発句とは同じであるが、この許六に倣ったとされる「芭蕉翁図」は、その後書きに、「これは五老井か図せる蕉翁の像なり/句は めい月や池をくりて終夜 也/それを坐右の銘の句に書かへ侍る」とあり(逸翁美術館蔵「芭蕉翁立像図」には無い)、この後書きに、蕪村特有の「遊び心」が見え隠れしているということを付記しておきたい。
 それは、蕪村の、この画を描いた許六と、それに賛をした素堂への挨拶句的なことと捩り句的なこととを包含した賛のように理解をしたいのである。
 すなわち、「芭蕉翁の高弟・許六先生が描いた空を見上げている『芭蕉翁図』に、翁の盟友・素堂先生が、名月を見ていると解して、『めい月や池をめぐりてよもすがら』の賛をしているが、私(蕪村)は、この許六先生の『芭蕉翁図』に、素堂先生の名月ならず、翁の『座右之銘/人の短をいふことなかれ/おのれが長を説ことなかれの』の前書きがある『もの云へば唇寒し秋の風』の句を、その前書きともども、この図の賛にしたい。その心は、この翁は、『よけいなことをしゃべっている』わいと、ただ、『秋風が吹いて、唇が寒々としている』だけなのです・・・、と、『どうでしょうか、みなさん』・・・」と、其角→巴人→蕪村に連なる「江戸座」の、夜半亭蕪村の賛のように解したいのである。

 なお、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「92『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

紙本墨画 一幅半切 一三六・〇×三五・〇cm
款 「蕪村写」
印 「謝長庚」「春星氏」(白文連印)
賛  人の短をいふことなかれ
   おのれか長を説ことなかれ
  もの云へは唇寒し秋風
   これは五老井か図せる蕉翁の像なり
   句は めい月や池をめくりて終夜 也
   それを坐右の銘の句に書かへ侍る
『蕪村遺方』


蕪村が描いた芭蕉翁像(四~六)

その四 若冲周辺と若冲の「松尾芭蕉図」

 2015年3月18日(水)~5月10日(日)まで、サントリー美術館で、「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展が開催された。その出品作の一つに、若冲の「松尾芭蕉図」がある。その図と解説記事などを掲載して置きたい。

「102 松尾芭蕉図」(石田佳也「作品解説」)
伊藤若冲筆 三宅嘯山賛 紙本墨画 一幅 江戸時代 寛政十二年(一八〇〇)筆 寛政十一年(一七九九)賛 一〇九・〇×二八・〇
 若冲が描いた芭蕉像の上方に、三宅嘯山(一七一八~一八〇一)が、芭蕉の発句二句を書く。三宅嘯山は漢詩文に長じた儒学者であったが、俳人としても活躍し宝暦初年には京都で活躍していた蕪村とも交流を重ねた。彼の和漢にわたる教養は、蕪村らが推進する蕉風復興運動に影響を与え、京都俳壇革新の先駆者の一人として位置づけられている。
 なお、嘯山の賛は八十二歳の時、寛政十一年(一七九九)にあたるが、一方、若冲の署名は、芭蕉の背中側に「米斗翁八十五歳画」とあり「藤汝鈞印」(白文方印)、「若冲居士」(朱文円印)を捺す。この署名通りに、若冲八十五歳、寛政十二年(一八〇〇)の作とみなせば、「蒲庵浄英像」(作品166)と同様に、嘯山が先に賛を記し、その後に若冲が芭蕉像を描き添えたことになる。しかし改元一歳加算説に従えば、嘯山が賛をする前年の若冲八十三歳、寛政十年に描かれたことになり、若冲の落款を考察する上では重要な作例となっている。
  「爽吾」(白文長方印)    芭蕉
    春もやゝけしき調ふ月と梅
    初時雨猿も小蓑をほしけなり
                八十二叟
                 嘯山書
  「芳隆之印」(朱文方印) 「之元」(白文円印)

若冲・芭蕉像3.jpg

 この若冲の「松尾芭蕉図」の創作年次は、上記の「作品解説」の「改元一歳加算説に従えば、嘯山が賛をする前年の若冲八十三歳(注・嘯山は二歳下で八十一歳だが、賛には八十二叟とある)、寛政十年に描かれた」ものと解したい。
 この若冲の「松尾芭蕉図」は、先に紹介した『知られざる南画家百川(名古屋市博物館 1984 3/10 – 4/8特別展)』図録所収「芭蕉翁肖像 倣杉風筆 丙寅年三月十八日八僊観主人摸写 於洛東双林寺」をモデルにしていることは、一目瞭然である。
 この百川筆と若冲筆とでは、細かい点では異なるが、特に、芭蕉の髭面が、若冲のそれは濃墨で、それに比して、百川のそれは顎髭がやや濃墨なだけで、やはり、それぞれの芭蕉観というのは察知される。
 そして、ここには、当時、最も多くの「松尾芭蕉像」を描いた、若冲と同年齢の蕪村の影響の影は微塵もない。
即ち、若冲に取っての「松尾芭蕉像」は、共に、「売茶翁ネットワーク」(売茶翁を主軸とする連=サロン)の、年齢的に先輩格にあたる彭城百川が描くところの「芭蕉像」ということに他ならない。
即ち、同年齢の、江戸(関東)そして浪速(大阪)出身の、同じ京都の四条烏丸近辺に住む、謂わば、「余所者(よそもの)」の蕪村が描く「芭蕉像」は、若冲の眼中には無いということに他ならない。
そもそも、蕪村書簡というのは、現に五百通以上存在していると言われているが、その書簡中には、若冲を話題にしたものは皆無なのである。おそらく、この二人の直接的な交遊関係というのは存在していなかったというのが正当な見方なのであろう。
しかし、若冲の交遊関係と蕪村の交遊関係と、その枠を拡大して行くと、「池大雅・円山応挙・上田秋成・皆川淇園・木村蒹葭堂」等々と、二人の接点というのはかなりの面で交差して来る。
この冒頭に紹介した若冲の「松尾芭蕉図」に賛をしている三宅嘯山は、若冲より蕪村との交遊関係がより濃密に認められる人物と解して差し支えなかろう。

 先に、宝暦元年(一七五一)の蕪村上洛について、百川を私淑してのものということについて触れたが、蕪村が上洛して最初に訪れた先は、蕪村の師の宋阿(巴人)門の高弟、望月宋屋で、当時、宋屋は六十五歳の高齢で、京都俳壇の古老の一人であった。そして、嘯山は、この宋屋門の俳人なのである。
 即ち、蕪村と嘯山との出会いは、この宋屋を介してのものであろう。嘯山は質商を営む傍ら、宋屋に俳諧を、慧訓和尚に詩を学んだ。後に、京都俳壇で重きをなすが、漢詩人としても『嘯山詩集(十巻)』(現存八巻)を残している。
 その漢学の素養から仁和寺や青蓮院の侍講を勤めた。蕪村(そして若冲)より二歳年下であるが、蕪村との親密な交際ぶりは、百池自筆『四季発句集』に、「滄浪居士(嘯山)の大人(うし=先生)世に在(いま)す頃は老師蕪村叟とは錦繡の交はりにて常に席を同じうす」(『蕪村と其周囲(乾猷平著)』)と記されている。
 蕪村が、宝暦六年(一七五六)に丹後の宮津から京都の嘯山宛てに送った書簡が今に残っている(下記「参考」のとおり)。

 冒頭の、若冲の「松尾芭蕉図」に嘯山が賛をしたのは、寛政十年(一七九八)とすると、蕪村が没した天明三年(一七八三)から十五年後ということになる。若冲も嘯山も、最晩年の頃で、おそらく、嘯山が、当時の京都画壇の最右翼に位置していた若冲に「松尾芭蕉図」を依頼し、その絵図に、「春もやゝけしき調ふ月と梅」(『続猿蓑』)と「初時雨猿も小蓑をほしげなり」(『猿蓑』)との二句の賛をしたのであろう。
 この芭蕉の「春もやゝけしき調ふ月と梅」の句は、許六を画の師と仰いだ芭蕉が、許六と合作した梅月画賛のために詠まれた元禄六年(一六九三)の作で、その芭蕉真筆の自画賛が何点か在り、後世、芭蕉の画賛句として珍重されていることに因るのであろう。
 また、「初時雨猿も小蓑をほしけ(げ)なり」の句は、蕉門の最高峰を成す撰集『猿蓑』の、その巻頭の一句である。これまた、許六の「猿蓑は俳諧の古今集也、初心の人去来が猿蓑より当流俳諧に入るべし」(『宇陀法師』)とを意識してのものであろう。
 とすると、嘯山の芭蕉観というのは、永遠の放浪の旅人を象徴化した許六の動的なイメージの句に対して、やや、この若冲の「松尾芭蕉図」は、京都以外に旅をした経験の皆無の、何処となく、「売茶翁ネットワーク」の百川の「松尾芭蕉図」を、静的なイメージとして、それをモデルとしているという思いが拭えない。
 なお、天明二年(一七八二)版の『平安人物史』上における、若冲と蕪村とに関係する「画家」と「学者」とに搭載している人達は次のとおりである。

(画家の部)

藤応挙 (円山主水)、号(僊斎 一嘯 夏雲 仙嶺)、住所(四条堺町東入町)、(1733~1795)
滕汝鈞 (滕若冲)、号(若冲)、住所(高倉四条上ル町)、(1716~1800)
謝長庚(与謝蕪村)、号(春星・三菓・宰鳥・夜半亭)、住所(仏光寺烏丸西入町)、(1716~1783)
長沢(長沢芦雪)、住所(御幸町御池下ル町)、(1754~1799)
巌郁(梅亭)、住所(高辻新町西入町)、(1734~1810)

(学者の部)

三宅方隆 (三宅嘯山)、号(蒼浪・嘯山・葎亭・滄浪居・橘斎・鴨流軒・碧玉山)、住所(中長者町新町西入町)、(1718~1801)
皆川愿 (皆川文蔵)、号(淇園 有斐斎 呑海子)、住所(中立売室町西入町)、(1734~1807)
源敬義(樋口源左衛門)、号(芥亭・道立・柴庵・自在庵)、住所(下立売釜座西入町)、(1738~1812)
毛惟亮(雨森正廸) 、号(陶丘)、住所(白川橋三条下ル町)
釋慈周(六如)、号(白楼・無着庵) 、住所(安井門前)、(1734~1801)
釋竺常(蕉中・梅荘)、号(大典 蕉中 東湖)、住所(近江神埼郡伊庭)、(1719~1801)

(参考)  蕪村の嘯山宛ての書簡(書簡A)

(書簡A)

書簡A.png

 上記の書簡は、宝暦七年(一七五七)、蕪村、四十二歳時の、丹後の宮津(現・京都府宮津市)から京都の知友・三宅嘯山宛てに、丹後滞在中の近況を報じたものの後半の部分で、その文面は次のとおりである。

「俳諧も折々仕候。当地は東花坊が遺風に化し候て、みの・おはりなどの俳風にておもしろからず候。一両人巧者も在之候。(瓢箪図)先生、嘸老衰いたされ候半存候。宜被仰達可被下候。詩は折々仕候。帰京之節可及面談候。御家内宜奉願候。頓首 卯月六日 蕪村(花押) 嘯山公 」
(訳「俳諧も折々やっています。当地は各務支考の影響に染まっていて、美濃・尾張の俳風で面白くありません。一・二人巧者もおります。瓢箪先生(望月宋屋)、さぞかし、御齢を召されたことと思います。宜しくお伝え下さい。漢詩も時折作っています。京に帰りましたら早速お邪魔したいと思います。奥様によろしく。頓首 四月七日 蕪村 三宅嘯山公」)

 この書簡の宛名の三宅嘯山は、京で質商を営み、仁和寺や青蓮院宮の侍講をしていた。漢詩と中国白話(現代中国語)に通じた多才の人で、享保三年(一七一八)の生まれ、蕪村よりも二歳年下である。
蕉門俳人木節の子孫を娶ったのを機に俳諧を学び、蕪村の早野巴人門の兄弟子に当たる宋屋門に入り、後に点者(宗匠・指導者)の一人となっている。別号に葎亭など、その『俳諧古選』『俳諧新選』などの編著によって、京俳壇等に大きく貢献した一人である。
 蕪村と嘯山との出会いは、宝暦元年(一七五一)に蕪村が上京し、その秋の頃、宋屋と歌仙を巻いており(『杖の土(宋屋編)』)、その上京して間もない頃と思われる。爾来、この二人は、「錦繍の交はりにて常に席を同じうす」(『四季発句集(百池自筆)』)と肝胆相照らす知友の関係を結ぶこととなる。
 この書簡中の、(瓢箪図)先生こと、望月宋屋は、師(早野巴人)を同じくする画俳二道を歩む蕪村を高く評価しており、巴人没後の延享二年(一七四五)の奥羽行脚の際、その途次で結城に立ち寄り蕪村に会おうとしたが、蕪村が不在で出会いは叶わなかった。翌年の帰途に再び結城に立ち寄ったが、またしても、蕪村は不在で、江戸の増上寺辺りに居るということで、江戸でも探したが、そこでも二人の出会いはなかった。
 それから五年の後の二人の初めての出会いである。宝暦元年(一七五一)の蕪村上洛の大きな理由の一つは、この巴人門の最右翼の俳人宋屋を頼ってのものであったのであろう。
 宋屋は、蕪村(前号・宰鳥)について、その『杖の土』で次のように記している。

「宰鳥が日頃の文通ゆかしきに、結城・下館にてもたづね遭はず、赤鯉に聞くに、住所は増上寺の裏門とかや。馬に鞭して僕どもここかしこ求むるに終に尋ねず。甲斐なく芝明神を拝して品川へ出る。後に蕪村と変名し予が草庵へ尋ね登りて対顔年を重ねて花洛に遊ぶも因縁なりけらし。」
(訳「宰鳥(蕪村)の日頃の便りに心引かれるものがあり、結城・下館に行ったおり訪ねたが遭えず、赤鯉に聞いたところ、住所は増上寺の裏門とか。馬を走らせて下僕に捜させたが終に遭えなかった。止む無く、芝の大神宮に参拝し品川を後にした。後に、蕪村と名を改めて、私の草庵を訪ねて来て初めて対顔した。そのまま年を重ねて京都に遊歴しているのも何かの縁であろう。」)

 この宋屋の文面の「日頃の文通ゆかしきに」からして、巴人が在世中の頃から巴人と京都の巴人門との連絡役を蕪村が勤めていて、そんなことが、この両者を取り持つ機縁となっていたのであろう。また、「年を重ねて花洛に遊ぶ」ということは、当時の蕪村が京都に永住するのかどうかは不確かなことで、事実、上洛して三年足らずの、宝暦四年(一七五四)には丹後に赴き、この書簡を送る頃までの三年余を丹後に滞在している。  
 ここで、上記の嘯山宛ての書簡で注目すべき一つとして、蕪村と署名して、その後に、
蕪村の終生の花押となる、何やら、槌のような形をしたものが書かれていることである。
 この花押は、蕪村の十年余に及ぶ関東放浪時代には見られない。おそらく、この書簡が出された丹後時代から使い始めたもののように思われる。
蕪村の落款は、関東放浪時代は無款のものが多いが、「子漢・浪華四明・浪華長堤四明山人・霜蕪村」、印章は「四明山人・朝滄・渓漢仲」などで、これが丹後時代になると、落款は、主として、「朝滄(朝滄子・四明朝滄・洛東閑人朝滄子)」が用いられ、その他に、「嚢道人(囊道人蕪村)・魚君・孟冥」、印章は「朝滄・四明山人・囊道・馬秊」などが用いられている。
これらの落款・印章の「四明」は、比叡山の四明ヶ岳に因んでのもので、当時は蕪村の故郷の摂津(大阪)の毛馬の堤から比叡山が望めたということで、「浪華長堤」(毛馬長堤)と共に望郷の思いを託したものなのであろう。
 そして、この「朝滄」は、蕪村の師筋に当たる宝井其角の畏友・英一蝶(初号・朝湖、俳号・暁雲)の「狩野派風の町絵師」として活躍していた頃の号「朝湖」に由来するものなのであろう。
 宝暦元年(一七五一)に上洛して間もなく、蕪村は「嚢道人」という号を使い始める。丹後時代の大画面の屏風絵(十三点)中、六曲半双「田楽茶屋図」は、英一蝶流の町狩野系統の近世的な軽妙な風俗画として知られているが、落款は「嚢道人蕪村」、印章は「朝滄・四明山人」である。
 上記書簡中の花押は、「囊道人蕪村」の「蕪村」の「村」から作った花押という見解(『俳画の美(岡田利兵衛)』があり、この「囊」は、蕪村が上洛して「東山麓に卜居」していた「洛東東山の知恩院袋町」(池大雅の生家の所在地)の「袋」に因んでのものと、その見解に続けられている。
 この「蕪村」の「村」から作った花押という見解(岡田利兵衛)に対して、「槌」を図案化したものという見解(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)がある。この「槌」を図案化したという見解を裏付ける記述は見られないが、上洛前の寛延年間(一七四八~一七五一)、江戸在住の頃の無宛名(結城の早見桃彦か下館の中村風篁宛て)の書簡(書簡B)に、「槌」を描いたものがあり、それらと関係のある花押という理解なのかも知れない。
そもそも、蕪村が俳人そして画人(挿絵画家)として初めて世に登場するのは、元文三年(一七三八)、二十三歳時の絵俳書『卯月庭訓(豊島露月他編)』に於いてで、そこに「鎌倉誂物」と前書きのある「尼寺や十夜に届く鬢葛」の発句を記した自画賛が収められている。それは立て膝で手紙を読む洗い髪姿の女性像で、そこに「宰町自画」と、蕪村の最初期の号「宰町」で登場する。
この『卯月庭訓』の編者・豊島露月は、蕪村の師・早野巴人と親交のあった俳人の一人で、観世流謡師匠でもあり、その絵俳書の刊行は、享保七年(一七二二)の『俳度曲(はいどぶり)』から延享二年(一七四五)の『宝の槌』まで十一点に及んでいる。
その露月編の絵俳書シリーズの一番目を飾る『俳度曲』は、謡曲名を題として、それに画と句を配したもので、そのトップを飾るのは、今に浮世絵師として名高い鳥居清倍(きよすえ)の画に、蕉風俳諧復興運動の先駆けとなる『五色墨』のメンバーの一人・松木珪琳(けいりん)の蓮之(れんし)の号での句が添えられている。それに続く二番目の画は、英一蝶(二世か?一世英一蝶は蕪村の師筋に当たる其角の無二の知友)のもので、この一蝶画に、『続江戸筏』の編者の石川壺月の句が添えられている。
これらの画人の画には、落款又は花押が施されており、おそらく、蕪村の、槌を図案化したような花押は、この露月の絵俳書のシリーズと深く関係しているように思われる。  
ちなみに、蕪村が宰町の号で登場する『卯月庭訓』は、このシリーズの九番目にあたるもので、この蕪村の自画賛には花押は押されていない。この頃の蕪村(宰町)は全くのアマチュア画家で、落款や花押を施すような存在ではなかったのであろう。

その五 呉春(月渓)の描いた芭蕉像(四画像)

 『呉春(財団法人逸翁美術館)』には、四点ほど「芭蕉像」が紹介されている。

52 呉春筆 芭蕉像 蝶夢賛 絹本墨画 37.5×22
(賛) 禅法ハ仏頂和尚に 参して三国相承 験記につらなり 風雅は西行上人を 
   慕うて続扶桑隠逸 伝に載せぬ
蝶夢阿弥陀仏謹書
(解説) 呉春が芭蕉翁の正面像をクローズアップしてえがき、その上に蝶夢法師が上の賛を記している。呉春は筆意謹厳でしたため、翁の容貌はいつも彼がえがく翁の顔である。蝶夢は僧侶であるが後半は誹諧に執心し、芭蕉顕賞に多くの業績をのこした。寛政七年(一七九五)没。

53 月渓筆 芭蕉像 紙本墨画 82×41

54 月渓筆 芭蕉像 嘯山賛 紙本墨画 127×29
(賛) 海島圓浦長汀唫 
あつみ山吹浦かけて夕すゞみ 汐こしや鶴脛ぬれて海すゞし あらうみや佐渡によこたふあまの河 早稲の香や分入右は磯海
明石夜泊
蛸壺やはかなき夢を夏の月
 このつかい這わたるほどといへば
蝸牛角ふり分よ須磨明石
 右芭蕉翁作           嘯山

55 呉春筆 芭蕉像 紙本墨画 98×28

呉春の芭蕉像.jpg

右上(52 呉春筆 芭蕉像 蝶夢賛 絹本墨画 37.5×22)
右下(53 月渓筆 芭蕉像 紙本墨画 82×41)
中央(54 月渓筆 芭蕉像 嘯山賛 紙本墨画 127×29)
左上(55 呉春筆 芭蕉像 紙本墨画 98×28)

 『呉春(財団法人逸翁美術館)』所収の「呉春略年表」によると、「天明二(一七八二)三一歳 池田で迎春、呉春と改む。剃髪」とあり、「月渓」の号を「呉春」と改めたのは、天明二年(一七八二)ということになる。
 しかし、「月渓」と「呉春」とを併用している期間が、寛政元年(一七八九)の応挙の写生画に完全に転向するまでの間には認められるので、この天明二年(一七八二)から寛政元年(一七八九)までの間のものは、蕪村風(南画風)のものには「月渓」、そして、応挙風(写生画風=円山四条派風)のものには「呉春」と、大まかに使い分けしていると理解して差し支えなかろう。
 このような観点から、上記の芭蕉像のうち、呉春の署名のある「52 呉春筆」と「55 呉春筆」のものは、寛政元年(一七八九)以降の創作と理解したい。そして、月渓の署名のある「53 月渓筆」は、落款に「丙午十月十二日月渓拝写」とあり、天明六年(一七八六)の作で、呉春と改号しているが、月渓の署名でしているものと理解をしたい。なお、この「53 月渓筆」は、安永八年(一七七九)、蕪村が金福寺の芭蕉庵再興(再興は安永五年で、再興後の芭蕉忌に因んでのもの)に際しての掛物の「蕪村筆芭蕉像」をモデルにしてのものであろう。
 さて、この中央の「54 月渓筆 芭蕉像 嘯山賛」のものであるが、この異様な無精髭の、眉の濃い、そして、何処となく旅の疲れで窶(やつ)れている感じの芭蕉像は、この芭蕉像の作者、妻と実父の不慮の死に遭遇して、京都から池田へと隠棲した頃の、月渓の風貌を醸し出している雰囲気で無くもない。
 因みに、天明五年(一七八五)十一月二十五日には、池田で田福主催の夜半亭(蕪村)三回忌が執行され、その折りの月渓は、「雲水月渓」の、「雲水」(行脚僧)の二字を、己が号の「月渓」に冠しているのである。
 その「雲水月渓」の描いた「雲水芭蕉像」の雰囲気でも無くもない。そして、それに賛する、蕪村の畏友の嘯山の芭蕉の選句(「奥の細道・笈の小文」)もまた、その「雲水月渓」の、その当時の月渓を思い巡らしているような雰囲気で無くもない。

その六 金福寺の「洛東芭蕉庵再興記」(蕪村書)と「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)

 安永五年(一七七六)四月、樋口道立の発起により、洛東一乗寺村の金福寺に芭蕉庵が再建された。但し、この時の草庵は天明元年(一七八一)に改築されているから、その実は仮小屋のようなものであったらしい(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。
 この芭蕉庵再建発起を機に、蕪村門の有志が集まって「写経社」という俳諧結社が誕生し、その八月に『写経社集(道立編)』が成り、その巻頭に蕪村の「洛東芭蕉庵再興記」が収載されている。
 これらのことに関して、その蕪村の「洛東芭蕉庵再興記」の末尾の頃に、蕪村は次のように記している。

[ よしや、さは追ふべくもあらず(注・金福寺には芭蕉と関係している書画・文献などは存在しないが)、たゞかゝる勝地に、かゝるたとき名(注・道立の曽祖父の伊藤担庵の知人が「芭蕉」を名乗っていた)ののこりたるを、あいなくうちすておかんこと、罪さへおそろしく侍れば、やがて同志の人々をかたらひ、かたちのごとくの一草庵を再興して、ほとゝぎす待つ卯月のはじめ、をじか啼く長月のすゑかならず此の寺に会して、翁の高風を仰ぐことゝはなりぬ(注・芭蕉の蕉風俳諧を仰ぐ「写経社」会を結成した)。再興発起の魁首は、自在庵道立子(注・樋口道立)なり、道立子の大祖父担庵(注・伊藤担庵)先生は、蕉翁のもろこしのふみ(注・漢学)学びたまひける師にておはしけるとぞ。されば道立子の今此興にあづかり(注・芭蕉庵再興の発起に関係される)給ふも、大かたならぬすくせ(注・前世)のちぎりなりかし。
安永丙申五月望前二日(注・安永五年五月十三日) 平安 夜半亭蕪村 慎記 ]

 この道立が再建した芭蕉庵の傍らに、翌年の安永六年(一七七七)、「芭蕉顕彰碑」が建立された。その全文は次のとおりである。

「芭蕉翁以諧歌聞於海内 諧歌即世所謂俳諧者 翁之履歴人往往詳之 盖伊賀人罷仕隠於 江戸 又住江之大津遷於摂而終 翁没七十余年高士韻人与夫諧歌者流思慕稱賛不已」
(芭蕉翁、諧歌を以て海内に聞こゆ。諧歌は即ち世の俳諧と謂ふ所のものなり。翁の履歴は人往々にしてこれを詳らかにす。盖し、伊賀の人、仕を罷めて江戸に隠る。又、江の大津に住み、摂に遷りて終る。翁没して七十余年、高士韻人とその諧歌者の流れ、思慕称賛すること已まず。)

「翁冢所在有之 姪道卿新建於東山詩仙堂南金福寺中 請予銘焉 予義祖伊藤担菴先生亦与翁交 担菴集中有謝翁邀飲詩 亦可以想翁為人矣」
(翁の冢所在にこれ有れど、姪道卿、新たに東山詩仙堂の南金福寺中に建て、予に銘を請ふ。予の義祖、伊藤担菴先生は亦た翁と交はる。『担菴集』中に「翁に謝して邀飲す」の詩有れば、亦た以て翁の人と為りを想ふべし。)

「今之諧歌要有二端 牛鬼蛇神眩耀蒿目 打油釘鉸脂韋莠口 野服葛巾風標如仙 而明人所謂 那白雲常飛卓程屋上」
(今の諧歌、要二端有り。牛鬼蛇神、眩耀して蒿目し、打油釘鉸、脂韋して莠口す。野服葛巾、風標仙の如し。而れば明人の所謂「那白雲常飛卓程屋上」たり。)

「翁作諧歌 清新不俗 澹有骨力 庶幾詩家陶韋 抑又上援杜陵 下伴香山 亦或可擬 世傳翁風 神散朗侯鯖 如茶泓崢 之寄杖□(尸にギョウニンベンと婁) 千里可謂進于技者矣」
(翁の作りし諧歌、清新して俗ならず。澹として骨力あれば、詩家陶韋に庶幾たり。抑又、上は杜陵を援き、下は香山を伴ふ。亦た或は擬ふべし、世に伝ふる翁の風。神散朗として侯鯖、茶の泓崢たるが如し。これ杖□(尸の中ギョウニンベンと婁)を寄せて、千里技に進む者と謂ふべきや。)

「道卿名敬義 予仲氏第二子 出嗣樋口氏 為吾藩同宗川越侯源公知京邸事 慧而不苛 介而能円 多諸技芸 其於諧歌 盖亦有師 受淵源云 道卿与翁生不並 世出處異轍 而心酔不已 至有斯挙 盖有臭味相契於衷者」
(道卿、名は敬義。予が仲氏の第二子なり。出でて樋口氏を嗣ぎ、吾が藩の同宗、川越侯源公が為に京邸の事を知す。慧くして苛せず、介にして能く円かなり。諸ろの技芸を多くす。其れ諧歌に於いては、盖し亦た師有り、淵源を受くと云ふ。道卿、翁と生は並ばず。世に出づるに処は轍を異にすれど、心酔して已まざれば、斯かる挙の有るに至る。盖し臭味有りて、衷に相契る者なり。)

「嗚呼 翁者予義祖所交 而道卿尸祝焉 予豈漠然 銘曰 才□(ニクヅキに叟)貌□(ヤマイダレに瞿) 錦心綉腸 行雲流水 十暑三霜 野老争席 桃李門墻 人与骨朽 言与誉長 勒珉此處 建冢多方 維斯名寺 風水允揚 卜隣高士 魂其帰蔵 雖非桑梓 維翁之郷 越国文学播磨清 絢撰
安永丁酉夏五月      平安處士  永忠原書 」
(嗚呼、翁は予の義祖が交、道卿の尸祝する所なり。予、豈に漠然たらんや。銘に曰く、
  才□貌□[サイシボウク]  錦心綉腸[キンシンシュウチョウ]
  行雲流水[コウウンリュウスイ]  十暑三霜[ジッショサンソウ]
  野老は席を争う  桃李の門墻
  人と骨とは朽つとも  言と誉れとは長ず
  珉を此処に勒り  冢を建つ多方
  維れ斯の名寺  風水允に揚ぐ
  高士を卜隣すれば  魂それ帰蔵す
  桑梓に非ずといえども  維れ翁の郷
越国文学播磨     清絢撰
安永丁酉夏五月    平安処士 永忠原書      )

 この「芭蕉顕彰碑」の碑文の撰者は、「越国文学播磨(越前福井藩儒学者・播磨出身) 清絢(清田絢)撰」で、道立の叔父の清田(せいだ)憺叟(たんそう)である。
明和五年(一七六八)版『平安人物史』「学者」の部には、道立、道立の父・江村北海、そして、この清田憺叟の名も収載されている。
 また、この碑文の書は、その『平安人物志』「学者」と「書家」の項に「永忠原 字俊平号東皋上長者町千本東ヘ入町 永田俊平」で出て来る永田俊平の書である。そして、この二人とも、道立に連なる当時の京都の名士なのである。
 この「芭蕉顕彰碑」の日付の「安永丁酉夏五月」は、安永六年(一七七七)五月で、芭蕉庵が再建された翌年ということになる。 
 そして、翌々年の安永八年(一七七九)に、蕪村は「芭蕉翁自画賛」を描き、それを金福寺に奉納する。これは、頭陀袋を前に掛けた座像で、その上部に芭蕉の発句十五句が加賛されている。その上に、清田憺叟が、上記の「芭蕉顕彰碑」の一部を加賛している。

金福寺芭蕉像.jpg

金福寺「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)

 この金福寺の「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)の下部には、「安永巳亥十月写於夜半亭 蕪村拝」との落款が記されている。この「安永巳亥」は、安永八年(一七七九)に当たる。この時に、蕪村は、同時に、芭蕉像を他に二点ほど描き、その二点には、芭蕉の発句が二十句加賛されているという(『図説日本の古典14芭蕉・蕪村』所収「芭蕉から蕪村へ(白石悌三稿)」)。
 この安永八年(一七七九)は、蕪村が没する四年前の、六十四歳の時で、晩年の蕪村の円熟した筆さばきで、崇拝して止まない、晩年の芭蕉の柔和な風姿を見事にとらえている。
 先に紹介した、月渓の「芭蕉像」(53 月渓筆 芭蕉像 紙本墨画 82×41)は、この蕪村の「芭蕉翁自画賛」をモデルとして描いたものであろう。そして、この両者を比べた時に、蕪村と月渓とでは、その芭蕉に対する理解の程度において、月渓は蕪村の足元にも及ばないということを実感する。
 さて、金福寺の芭蕉庵は、天明元年(一七六一)に改築再建され、この改築再建に際して、蕪村は、先に紹介した安永五年(一七七六)の『写経社集(道立編)』に収載した「洛東芭蕉庵再興記」を自筆で認めて、金福寺に奉納する。
 これらの、上記の「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)と「洛東芭蕉庵再興記」(蕪村書)とが、今に、金福寺に所蔵されている。

(補説)
『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「88『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

紙本淡彩 一幅 一二八・一×二七・九cm
款 「安永己亥冬十月写於夜半亭 蕪村拝」
印 「春星氏」(白文方印) 「東成」(白文方印)
賛 下掲
安永八年(一七七九) 金福寺蔵
(賛)
才□(ニクヅキに叟)貌□(ヤマイダレに瞿) 錦心綉腸 
行雲流水 十暑三霜
野老争席 桃李門墻
人与骨朽 言与誉長
勒珉此處 建冢多方
維斯名寺 風水允揚
卜隣高士 魂其帰蔵 
雖非桑梓 維翁之郷 
 越国文学播磨 清絢撰

こもを着て誰人います花の春
花にうき世我酒白く飯黒し
ふる池やかはす飛こむ水の音
ゆく春や鳥啼魚の目はなみた
おもしろふてやかてかなしきうふねかな
いてや我よきゝぬ着たり蝉衣
子とも等よ昼かほさきぬ瓜むかん
夏ころもいまた虱をとり尽きす
名月や池をめぐりてよもすから
はせを野分して盥に雨をきく夜かな
あかあかと日はつれなくも秋のかせ
いな妻や闇のかたゆく五位の声
世にふるもさらに宗祇の時雨かな
年の暮線香買に出はやな
(口絵)

金福寺芭蕉像・部分.jpg

金福寺「芭蕉翁画賛」(一幅・部分)




蕪村が描いた芭蕉翁像(一~三)

(その一) 蕪村が描いた芭蕉翁像

 さまざまな俳人あるいは画人が芭蕉像を描いている。代表的なものは、芭蕉と面識のある門人の杉山杉風と森川許六、面識はないが芭蕉門に連なる彭城百川(各務支考門)、そして、画俳二道を究めた与謝蕪村(宝井其角・早野巴人門)などの作が上げられる。

 杉風の描いた芭蕉像は、①端座の像(褥に端座・左向き) ②脇息の像(左向き) ③火桶にあたる像(左向き) ④竹をえがく像(左向き) ⑤馬上の像(笠をかぶり右方へ進行)などで、この①のものは「すべての芭蕉像の基盤」になっており、杉風筆像は、温雅で「おもながのおだやかな面相である」と評されている(『岡田利兵衛著作集1芭蕉の書と画』所収「画かれた芭蕉」)。

 蕪村の描いた芭蕉像は、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』には十一点が収録されている。

① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九9作。金福寺蔵)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)
⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)

 しかし、これらは、いわゆる「画賛形式」(画と賛が一体となっている条幅・色紙等)のもののうち、芭蕉単身像の条幅もので(上記の十一点のうち、⑦は一幅半切(紙本墨画)で、他は長さに異同はあるが一幅もので、①②⑤⑥は絹本淡彩、③と⑩は紙本淡彩、④は紙本墨画である。
 これらの芭蕉単身像では無帽のものはなく、宗匠頭巾のようなものを被っているが、それぞれ制作時に関係するのか、それぞれに特徴がある。上記の①②は、円筒型(丸頭巾型)の白帽子、③④⑥が長方形型(角頭巾型)の白帽子、⑤は長方形型(角頭巾型)の黒帽子、⑥は長方形型(角頭巾型)の黒(薄墨)帽子の感じのものである。

 これらの芭蕉単身像のものではなく、「俳仙群会図」などの芭蕉像を加えると次のとおりとなる。

⑫ 座像(「俳仙群会図」=十四俳仙図、絹本着色、款「朝滄」、上・中・下の三段に刷り込んだ一幅。上段に「此俳仙群会の図ハ元文のむかし余弱冠の時写したるもの」とあり、元文元年(一七三五)から同五年(一七四〇)の頃の作とされているが、「その落款・印章によれば、やはりこの丹後時代の作」(『続芭蕉・蕪村(尾形仂著)』)と、宝暦四年(一七五四)から同七年(一七五七)の頃の作ともいわれている。とにもかくにも、蕪村最古の芭蕉像、無帽で右向き、蕪村の師の早野巴人が、芭蕉の左側の園女の次に宗匠頭巾を被り左向きで描かれている。柿衛文庫蔵)
⑬ 座像(「八俳仙」画賛、淡彩、一幅。宗匠頭巾、笠を持ち正面像。「物云へは唇寒し秋の風」。印は「長庚」「春星」。『山王荘蔵品展覧図録』)
⑭ 座像(「十一俳仙」)画賛、紙本墨画、一幅。宗匠頭巾、笠・頭陀袋の正面像。「名月や池をめくりて終夜」。印は「三菓居士」。個人蔵)
⑮ 座像(版本『其雪影』挿図、明和九年(一七七二)刊、宗匠頭巾、正面像。「古いけや蛙とひ込水の音」。)
⑯ 座像(版本『時鳥』挿図、安永二年(一七七三刊)、宗匠頭巾、正面像。「旅に病て夢は枯野をかけ廻る」。)
⑰ 七分身像(版本『安永三年(一七四四)春帖)』挿図、宗匠頭巾、杖、頭陀袋、笠、正面像。)

 さらに、「奥の細道」画巻(安永七年=一七七八作、京都国立博物館蔵)、「奥の細道」屏風(安永八年=一七七九)作、山形美術館蔵)、「奥の細道」画巻(安永八年=一七七九作、逸翁美術館蔵)、「奥の細道」画巻(安永七年=一七七八作、「蕪村遺芳」)、「野ざらし紀行」屏風(安永七年=一七七八作、個人蔵)などに、それぞれ特徴のある芭蕉像が描かれている。

 上記のうちで、唯一、百川筆「芭蕉翁像」と類似しているのは、「⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)」である。

 『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』の作品解説は次のとおりである。

104 「芭蕉像」画賛  一幅  一二二・一×四〇・九cm
款 「応湖南松写庵巨州需 蕪村拝写」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛 「はつしぐれ猿も小みのをほしけ也 はせを」(色紙貼付)
『大阪市青木嵩山堂入札』(昭和四・三)

蕪村・芭蕉像一.jpg

その三 百川周辺と百川が描いた芭蕉像

 彭城百川は、元禄十年(一六九七)の生まれ、没したのは 宝暦二年(一七五二)八月である。蕪村が上洛したのは、宝暦元年(一七五一)の八月で、蕪村と百川との京都での出会いがあったとすると、僅々一年という短い期間ということになる。

 蕪村の上洛の大きな理由の一つに、画・俳両道において名を成していた百川が念頭にあったことは、先に紹介した蕪村書簡(「翁像少之内御見せ可被下」)などからして想像するに難くない。
百川の本姓は榊原、名は真淵、字が百川で、号に蓬洲、僊観、八僊、八仙堂などがある。通称は土佐屋平八郎で、彭城は自称である。俳諧は美濃派の各務支考門で、後に、麦林派の中川乙由に帰依している。

 百川は町人出身の職業画家で、当時の京都の文化人ネットワークの中心人物の「売茶翁」(黄檗宗の僧で還俗後は高遊外、煎茶中興の祖)に倣い、自ら「売画自給」と称し、後に、絵師として法橋に叙せられている。

 同じく日本南画の先駆者とされる武士階級の祇園南海や柳澤淇園は、職業画家ではなくより中国の士大夫階級の余技的な絵画(文人画))という異なる面を有している。また、当時舶載の中国画や画譜類に関する造詣が深く、『元明画人考』『元明清書画人名録』などの著作を有している。

 南海、淇園、そして、百川が日本南画の先駆者とすると、池大雅と与謝蕪村とがその大成者として位置づけられる。そして、この両者も公家・武家階級ではなく町人階級出身で、職業画家という面においては、百川に近い画家ということになろう。

 特に、画・俳両道を志している蕪村にとって、当時の百川は、格好の「プトロタイプ」(原型)という存在であったろう。

 蕪村の芭蕉崇拝は夙に知られているが、百川もまた『八僊観墨なおし』(百川の第三撰集)の「墨直し」(芭蕉忌などに関連し芭蕉碑の墨直しをする儀式)を、延享二年(一七四五)に東山双林寺で修するなど、支考・乙由に連なる蕉門の一員として、やはり、芭蕉崇敬の念は人後に落ちないであろう。

 そして、芭蕉忌などの句筵興行などに際しては、「芭蕉翁像」を掲げることが通例で、百川の、その種のものは、僧衣をまとった祖師形のものに類型化されているという(『蕪村の遠近法(清水孝之)』所収「百川から蕪村へ」)。
 また、同著には、「芭蕉翁肖像」の図録はないが、次の三点が紹介されている。

一 芭蕉翁肖像 倣杉風画 丙寅年三月十一日八日八僊観主人模写於洛東双林寺

 紙本水墨の座像一幅(佐々木昌興氏旧蔵、「南画鑑賞」八ノ四)。顔貌は杉風様式を忠実に写している。この作品は『八僊観墨なおし』の翌延享三年の「墨直し会」の席上に描かれたことに注目される。双林寺の墨直し行事は、百川筆芭蕉像の声価をも高めたものではないか。かなりな数量を描いたらしく、粗放な筆法と形式化が認められる。

二 法衣に袈裟を掛け、杖を手にする芭蕉翁立像(佐々木嘉太郎氏旧蔵、「南画鑑賞」八ノ四)

 紙本水墨。前大徳大順禅師の賛があり、落款は「八僊老人写」とする。前者に比べると格段にすぐれた筆蝕に成り、草体ではあるが、百川独自の顔面描写も美しい。精魂をこめて構想し墨筆を揮ったものとして百川の芭蕉画像の佳品といえよう。(以下、略)

三 松任市の聖興寺所蔵の「八僊逸人写」すところの、僧形芭蕉像。
 これも水墨画の草画で、脇息によって斜め上方を見上げるポーズに動きがある。左上部に「いざ宵やまだ誰々も見えぬうち 尼素園」の賛句がある(日本経済新聞社載、谷信一氏稿)。

 上記の一については、『知られざる南画家百川(名古屋市博物館 1984 3/10 – 4/8特別展)』図録所収「参考図版目録」(かつて佐々木昌與氏のコレクションであった作品で、東京国立文化財研究所提供の写真による)で、下記のとおり紹介されている。

双林寺・芭蕉像.jpg

『知られざる南画家百川(名古屋市博物館 1984 3/10 – 4/8特別展)』図録所収「参考図版目録」
⑱ 芭蕉翁像 一幅 五一・二×二九・一cm
款 「芭蕉翁肖像 倣杉風筆 丙寅年三月十八日八僊観主人摸写 於洛東双林寺」
印 「平安一酒徒」
注 丙寅年=延享三年(一七四六) 

 なお、この作品については、先に紹介した茨城県立歴史館で初公開された「芭蕉翁像」の「作品解説」で、「本図と同じ構図の芭蕉翁像(名古屋市博「百川」展図録⑱)は延享三年の作と明記され、百川の来丹がその前後であることも確実となった」と記されている。

 この延享三年(一七四六)は、百川が五十歳の時で、百川の大作「前後赤壁図屏風」(岡山県立美術館蔵)が創作された年である。また、この八月には売茶翁を訪ね、「売茶翁煎茶図」も創作されていて、百川の頂点に達した頃であろう。

 一方、この頃の蕪村は、北関東の結城に居て、延享二年(一七四五)、三十歳の時に、萩原朔太郎の『郷愁の詩人与謝蕪村』で絶賛された、類い稀なる俳詩「北寿老仙をいたむ」(「晋我追悼曲)を創作した頃である。

 いずれにしろ、百川の「芭蕉翁像」というのは、この延享三年(一七四六)の洛東双林寺で描かれたものがベースになっていて、これは、「かなりな数量を描いたらしく、粗放な筆法と形式化が認められる」(『清水・前掲書』)と、それをより完成したものとした作品の一つに、茨城県立歴史館で初公開された「芭蕉翁像」が位置するという理解で差し支えなかろう。

 その他に、上記の「二・三」の系統のものとか、さらに、義仲寺の『奉扇会』関連の「芭蕉翁画像」(扇子を持つ座像)とか、「知られざる百川筆の芭蕉翁像」とかが、その背後に存在しているのであろう。

その二 蕪村と百川、そして、蕪村渇望の百川筆「芭蕉翁像」

 蕪村は、宝暦元年(一七五一)、三十六歳のときに、関東遊歴の生活を打ち切って、生まれ故郷とされている摂津(大阪市毛馬)ではなく、その隣の京都に移住して来る。以後、丹後時代と讃岐時代の数年間を除いて、死没(天明三年=一七八三=六十八歳)までの約三十年間を京都で過ごすことになる。
 この京都に移住してからの讃岐時代というのは、宝暦四年(一七五四)から同七年(一七五七)九月頃までの足掛け四年間の頃を指す(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。この丹後時代の蕪村についての百川に関する書簡が今に遺されている(『蕪村の手紙(村松友次著)』)。

[ 被仰候八僊観の翁像(オオセラレソウロウ ハッセンカンノオキナゾウ)
 少之内御見せ可被下候(スコシノウチ オミセクダサルベクソウロウ)
 其儘わすれ候得共(ソノママ ワスレソウラヘドモ)
 御払可被成思召候もの(オハライナサルベク オボシメサレソウロウモノ)
 此のものへ御見せ可被下候(コノモノヘ オミセクダサルベクソウロウ)
 他見は不仕候(タケンハ ツカマツラズソウロウ)
 おりしも吐出候発句に(オリシモハキイダシソウロウ ホックニ)
  萩の月うすきはものゝあわ(は)れなる
某(一字破損)屋嘉右衛門 様        蕪村               ]

 この八僊観こと彭城百川の描いた芭蕉像を「少しの間見せてください」と渇望した、その幻の百川筆「芭蕉像」の真蹟が、蕪村が滞在していた丹後の宮津(京都府宮津市)で、蕪村生誕三百年(平成二十八年=二〇一六)の今に引き継がれて現存している(『宮津市史通史編下巻』所収「彭城百川の芭蕉像と宮津俳壇(横谷賢一郎稿)」)。

 この経過をたどると、平成六年(一九九四)に京都府立丹後郷土資料館で特別展「与謝蕪村と丹後」が開催され、それが契機となって、宮津市在住の方から百川筆「芭蕉像」の調査依頼があり、佐々木承平京大教授らによって真筆と鑑定されたとのことである(『蕪村全集第六巻』所収「月報六・平成十年三月」)。
 これらに関して、平成九年(一九九七・九・七「朝日新聞」)に下記のような「芭蕉『幻の肖像』発見」の記事で紹介されているようである(未見)。

[ 江戸期の南画(文人画)の創始者の一人、彭城百川(さかき・ひゃくせん)(1698-1753)が描いた松尾芭蕉の肖像画の掛け軸が京都府宮津市の俳壇指導者宅に保存されていたことがわかった。この絵は、与謝蕪村(1716-1783)が「ぜひ見たい」と懇願した手紙だけが後世に伝わり、絵そのものは所在がわかっていなかった。
 掛け軸は、芭蕉の座像が水墨画で描かれ、「ものいへは 唇寒し 秋の風」の芭蕉の代表句が書き込まれている。佐々木丞平・京大教授(美術史)らが百川の真筆と鑑定した。
 百川は名古屋に生まれ、京都を拠点に活躍した。延享4年(1747年)に天橋立を詠んだ句と絵「俳画押絵貼屏風(おしえはりびようぶ)」(名古屋市立博物館蔵)があり、今度見つかったものも同時期に丹後に滞在中、描いたらしい。
 蕪村は、宝暦4年(1754年)春から3年余り宮津に滞在した間にこの掛け軸を見ることができたとみられるが、はっきりしていない。
 肖像画は宮津俳壇の宗匠(指導者)に約250年間、引き継がれてきたらしい。芭蕉の流れをくむ宗匠で同市内のはきもの商、撫松堂水波(ぶしようどう・すいは、本名・花谷光次)さん(1993年死去)の遺族から、京都府立丹後郷土資料館に問い合わせがあって存在が分かった。 ]

 この蕪村が渇望した百川筆「芭蕉翁像」が、平成九年(一九九七)十月十日から十一月十三日に茨城県立歴史館で開催された特別展「蕪村展」で初公開された。
 その図録に、「七〇 参考 芭蕉翁像 彭城百川筆 紙本墨画 一幅 八五・一×二五・一」と収載されている。その「作品解説」(京都府立丹後郷土資料館 伊藤太稿)は次のとおりである。

[ 賛  人の短をいふことなかれ
     己か長を説(とく)事なかれ
  ものいへは(ば)
      唇寒し
        秋の風
 款記  芭蕉翁肖像 倣杉風図  八僊真人写
 印章  「八僊逸人」(白文方印) 「字余白百川」(手文方印)

 彭(さか)城(き)百川(ひゃくせん)(一六九八~一七五二)は、名古屋に生まれ、後に京都を拠点として活躍した日本南画の創始者の一人と目される画家である。はじめ俳諧の道に入って各務支考の門にあり、俳画にも数々の傑作を残し、俳書をも手がけたその画俳両道にわたる活躍は、まさしく蕪村のプトロタイプと言えよう。蕪村が、この百川に私淑していたことは、「天(てん)橋図(きょうず)賛(さん)」はじめ丹後時代以降のいくつかの作品中に明記されており、注目されてきた。しかしながら、従来は、丹後における百川の実作が未確認のままで、両者の関係を具体的に跡づけることはできなかった。ところが最近になって、二点のきわめて興味深い作品の存在が明らかになった。一つは「天(あまの)橋立図(はしだてず)」を含む延享四年(一七四七)作の「十二ヶ月俳画押絵貼屏風」(名古屋市立博物館)であり、もう一つは初公開の本図である。本図は、宮津俳壇の守り本尊として代々の宗匠に伝えられてきたのであるが、添付された代々の譲状の写しは、百川が当地に来遊の折、真照寺で描いたという鷺(ろ)十(じゅう)の文に始まる。「三俳僧図」に描かれた鷺十は蕪村とともに歌仙を巻き、「天橋図賛」は真照寺で書されたことを想起したい。現在所在不明であるが、蕪村が本図を見せてほしいと懇望する某屋嘉右衛門宛ての書簡の存在も知られている。なお、本図と同じ構図の芭蕉翁像(名古屋市博「百川」展図録⑱)は延享三年の作と明記され、百川の来丹がその前後であることも確実となった(注=原文に「ルビ」「濁点」を付した)。  ]

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蕪村の奇想画(一~七)

その一 猫股

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(猫股)

 蕪村が、宝暦四年(一七五四)から七年(一七五七)にかけて寄寓していた京都・丹後・宮津・の見性寺の欄間に張られていたものと伝えられている『蕪村妖怪絵巻』(ブソンヨウカイエマキ)は、通常の蕪村画とは異質の「奇想画」と名付けても差し支えなかろう。
 その第一景は、「榊原の家臣稲葉六郎大夫と猫又(ネコマタ)」である。左側の文字は、「おれがはら(腹)のかわ(皮)をためして見おれ、にゃん、にゃん」とある。
 この「猫股」は、年をとった猫で、尾が二つに分かれ、時に化けて人に害をなすと恐れられている。この蕪村の奇想画は、彼の「戯画・酔画」のうちの、一つの余興的な作品なのであろうが、
蕪村の根っ子のところに、この系譜の「奇想画」に連ねるものが見て取れる。
 蕪村の三大俳詩の一つ「春風馬堤曲」(安永六年)に、破調の発句体の、次の句がある。

〇 古駅三両家猫児(ビョウジ)妻を呼(ヨブ)妻来(キタ)らず

その二 赤子

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(赤子)

 左側の人物が「林一角坊」、そして、「夜更けて数百人の足音して踊る体(テイ)に聞こえける故、襖を押し開け、伺いけるに、数千の赤子あつまりて、一角坊をなやまし」ている図である。この右側は「赤子」(妖怪)の群像である。
 この赤子(妖怪)は、大和国(現・奈良県)に伝わる妖怪らしい。この蕪村の「赤子(妖怪)」系列の、『ばけもの絵巻』(年代・作者不詳)もあるらしい。

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その四 産女の化物

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(産女の化物)

 右側に、「出羽の国 横手の城下 蛇の崎が橋 うぶめの化物」とあり、この図の次に、「関口五郎太夫」の図があり、その図に、「雨ふる夜、此のばけものに出合、力をさづけられるとぞ。其の後ゑぞか嶋合戦の時、其てがらあらわしけるとぞ。佐竹の家中にその子孫有」とある。
 蕪村の自叙伝の『新花摘』(安永六年作)にも、結城や宮津で狸に悪戯された話や、下館の狐の話が出て来るが、それと一緒に、秋田佐田家の家老、「梅津半右衛門ノ尉」(其角門の俳人・其雫=キダ)の四十七士討ち入りのことを報じた手紙の伝来記などが記されている。
 蕪村の「妖怪絵巻」の「産女の化物」は、その秋田佐田家地方の「産女の妖怪」と関わっているようである。
 死んだ妊婦をそのまま埋葬すると、「産女」になるという伝承は、日本の各地で様々な「産女・姑獲鳥(うぶめ・こかくちょう)」の妖怪ものを生んでいる。

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鳥山石燕『画図百鬼夜行』「姑獲鳥(うぶめ・こかくちょう)」

その三 ぬっぽり坊主

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(ぬっぽり坊主)

 「京か帷子が辻、ぬっぽり坊主のばけもの。目は鼻もなく、一つの眼、尻の穴に有りて、光ること稲妻のごとし」とある。
 ここで、蕪村の時代以後の『絵本百物語』((天保十ニ年刊)の「帷子の辻」を紹介して置きたい。それは、どうやら、「腐乱した高貴な女性の死体が見える妖怪談で、その女性が、カラスや犬に食われ、蛆が湧いていく、その様を見た人々が、うつつを抜かし行く」という図と、何やら、繋がっている感じなのである。
 とにもかくにも、この、蕪村の「ぬっぽり坊主」は、蕪村の「原風景」と深く関わるものなのであろう。

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『絵本百物語』所収「帷子の辻」

の五 銀杏の木の化物

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(銀杏の木の化物)

 この図の右側に、「鎌倉若宮八幡いてう(銀杏)の木のばけ者」と記されている。
蕪村のものは、『妖怪百物語絵巻(湯本豪一編著)』によると「老木の精霊を図像化」したものとされている。
 ここで、泉鏡花の「化銀杏(ばけいちょう)」の最終場面を掲載して置きたい。

【 諸君、他日もし北陸に旅行して、ついでありて金沢を過(よぎ)りたまわん時、好事(こうず)の方々心あらば、通りがかりの市人に就きて、化銀杏(ばけいちょう)の旅店?と問われよ。
老となく、少となく、皆直ちに首肯して、その道筋を教え申さむ。すなわち行きて一泊して、就褥(しゅうじょく)の後(のち)に御注意あれ。
 間(ま)広き旅店の客少なく、夜半の鐘声森(しん)として、凄風(せいふう)一陣身に染む時、長き廊下の最端に、跫然(きょうぜん)たる足音あり寂寞(せきばく)を破り近着き来(きた)りて、黒きもの颯(さと)うつる障子の外なる幻影の、諸君の寝息を覗うかがうあらむ。その時声を立てられな。もし咳(しわぶき)をだにしたまわば、怪しき幻影は直ちに去るべし。忍びて様子をうかがいたまわば、すッと障子をあくると共に、銀杏返(いちょうがえし)の背向(うしろむき)に、あとあし下りに入いり来りて、諸君の枕辺(まくらべ)に近づくべし。その瞬時真白なる細き面影を一見して、思わず悚然(しょうぜん)としたまわんか。トタンに件(くだん)の幽霊は行燈(あんどん)の火を吹消(ふっけ)して、暗中を走る跫音(あしおと)、遠く、遠く、遠くなりつつ、長き廊下の尽頭(はずれ)に至りて、そのままハタと留やむべきなり。
 夜(よ)はいよいよ更けて、風寒きに、怪者の再来を慮(おもんばか)りて、諸君は一夜を待(まち)明かさむ。
 明くるを待ちて主翁(あるじ)に会し、就きて昨夜の奇怪を問われよ。主翁は黙して語らざるべし。再び聞かれよ、強いられよ、なお強いられよ。主翁は拒むことあたわずして、愁然(しゅうぜん)としてその実を語るべきなり。
 聞くのみにてはあき足らざらんか、主翁に請いて一室(ひとま)に行ゆけ。密閉したる暗室内に俯向うつむき伏したる銀杏返の、その背と、裳もすその動かずして、あたかもなきがらのごとくなるを、ソト戸の透すきより見るを得(う)べし。これ蓋(けだし)狂者の挙動なればとて、公判廷より許されし、良人を殺せし貞婦にして、旅店の主翁はその伯父なり。
 されど室内に立入りて、その面おもてを見んとせらるるとも、主翁は頑として肯(がえん)ぜざるべし。諸君涙あらば強うるなかれ。いかんとなれば、狂せるお貞は爾来(じらい)世の人に良人殺しの面を見られんを恥じて、長くこの暗室内に自らその身を封じたるものなればなり。渠(かれ)は恐懼おそれて日光を見ず、もし強いて戸を開きて光明その膚(はだ)えに一注せば、渠は立処(たちどころ)に絶して万事休やまむ。
 光を厭(いとう)ことかくのごとし。されば深更一縷(いちる)の燈火(ともしび)をもお貞は恐れて吹消(ふっけし)去るなり。
 渠はしかく活(いき)ながら暗中に葬り去られつ。良人を殺せし妻ながら、諸君請う恕(じょ)せられよ。あえて日光をあびせてもてこの憐むべき貞婦を射殺(いころす)なかれ。しかれどもその姿をのみ見て面を見ざる、諸君はさぞ本意(ほい)なからむ。さりながら、諸君より十層二十層、なお幾十層、ここに本意なき少年あり。渠は活きたるお貞よりもむしろその姉の幽霊を見んと欲して、なお且つしかするを得ざるものをや 】

その六 夜なき婆

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(夜なき婆)

 右側に、「遠州のみつけの宿(現・静岡県磐田)、夜なきばゝ(婆)」とある。その左側に、男と女とが泣いている図があり、そこに、「その家にうれひ(憂い)あらんとする時、此のばけもの(化物)門口に来たりなきけるとなり。人又その声を聞きて思はずなみだ(涙)こぼしけるとぞ。かゝる事二三度に及びて、その家にかならず憂ひごと有りしと也」との文言がある。
 泣き女(なきおんな)または泣女(なきめ)または泣き屋(なきや)は、葬式のときに雇われて号泣する女性である。朝鮮の泣き女は夙に知られている。アイルランドやスコットランドに伝わる女の妖精(バンシー)の泣き声が聞こえた家では、近いうちに死者が出るとされている。

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泣女(妖精・バンシー)

その七 「真桑瓜の化物」と「西瓜の化物」

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(真桑瓜の化物)

 この図の右側に、「山城 駒のわたり 真桑瓜のばけもの」とある。これに対応して、次の「西瓜の化物」が、この絵巻の最終のものである。

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(西瓜の化物)

 この図の右側に、「大阪木津 西瓜のばけもの」とある。

 この両図を見比べると、「山城(京都) 駒のわたり(木津川の渡り)、真桑瓜のばけもの(化物)」と、「大阪(浪速) 木津(大阪市浪速区内) 西瓜のばけもの(化物)」との対比ということになる。

 もう一つ、「天王寺(浪速・大阪)」は、「蕪青(ブセイ・ブショウ・カブラ・カブ)」の産地で名が知れ渡っている。
然らば、この「妖怪絵巻」の作者、「蕪村」は、この「浪速(大阪)の「蕪」の産地の、「天王寺村」生まれに由来があるということを、暗示しているようなのである。

 それを暗示しているのは、国立国会図書館(デジタルコレクション)で公開している、『蕪村妖怪絵巻解説 : 附・化物づくし』(乾猷平著・北田紫水文庫)という貴重な文献である。

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国立国会図書館(デジタルコレクション)






蕪村の絵文字(十一~十六)

(その十一)

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『蕪村全集五 書簡』所収「四三四 安永末~天明三年 二十三日 おとも宛」柿衛文庫蔵

 末尾の「おともどのへ 用事」の「おとも」とは、蕪村の細君である。この書簡の内容は、「きのふより杉月(さんげつ)に居つゞ(続)けいたし」と、三本樹(木)の料亭、杉月楼に居続けて、「少々二日酔(ひ)」だというのである。
 そして、「けふ(今日)は東山へ参(まゐり)候」と、東山の句会に行くということらしい。
それで、「小袖・唐紙・硯箱・机の上の草稿一冊・十徳(俳諧師などが外出用に着した着物)・扇・煙草少々」を「佳棠(書肆汲古堂主人)」の「供寄せ申候」(供の者をそちらに立ち寄らせる)」から、「御越(遣)可被下候」(持たせてやって下さい)というのである。
 蕪村の亭主関白ぶりが目に見えるようである。

  身にしむやなき妻のくしを閨(ねや)に踏(ふむ)  (安永六年作)

 この句は、安永六年(一七七七)、蕪村、六十二歳の時の作とされている。それは几董の『丁酉之発句帖』(安永六年)中の「閨怨」と題する句とされていることに因る。
句意は「秋夜、暗い寝間の片隅でふと踏んだのは亡妻の櫛であった。なぜ今ごろこんな所にあったのだろう。今さらながら秋の夜の独り寝の寒さと無常の思いが身に沁みる。小説的虚構の句」(『蕪村全集一 発句(一八〇八)』)とある。

 蕪村が結婚したのは、丹後から帰洛して画名も漸く高まり、一応生活の安定が得られるようになった宝暦十年(一七六〇)、四十五歳の頃と推定されている。蕪村は晩婚で、蕪村よりもずっと年若の妻であったのであろう。
 名は、上記の書簡のとおり、「とも」といい、「とも」が亡くなったのは、金福寺の過去帳によると文化十一年(一八一四)のことで、蕪村没後三十年余も後のことである。蕪村との間に一女があって、名は「くの」(又は「きぬ(婚家先での名か)」)で、しばしば、蕪村書簡でその名が散見される。
 蕪村書簡によると、「くの」は、安永五年(一七七六)十二月に結婚して、その翌年の安永六年(一七七七)の五月には離婚している。この「くの」の離婚に関連しての蕪村の痛々しいほどの心痛を綴った几董宛ての書簡が今に遺されている。

「(前略) むすめ病気又々すぐれず候で、此方(婚家から蕪村宅へ)へ夜前(昨夜)引取養生いたさせ候。是等無拠(よんどころなき)心労どもにて、風雅(俳諧)も取失ひ候ほどに候。(後略)」(几董宛、安永六年五月)

「是等無拠(よんどころなき)心労どもにて、風雅(俳諧)も取失ひ候ほどに候」と、「風雅(俳諧)」どころではないというのである。蕪村は、この娘が離婚する一か月ほど前の、四月八日から、夏行(夏季に行われる僧侶の仏道修行の一つ)とし、一日十句の発句を作ることを志して、後半の文章篇と併せ自叙伝とも言うべき『新花摘』の執筆に取り掛かっている。
 その前半の発句篇の最後(廿四日)の前書きに、「此(この)日より所労のためよろずおこたりがちになり。発句など案じ得べうもあらねば、いく日(にち)もいたづらに過(すご)し侍る」と、上記書簡の文面と一致するような箇所がある。
 とすると、蕪村の『新花摘』は、其角の亡母追善を意図した『華(花)摘』に倣い、亡母追善(「五十回忌」説)の意図があるとされているが、それだけではなく、この「くの」の結婚そして離婚などと大きく係わっているのであろう(『新潮日本古典集成 与謝蕪村集《清水孝之校注》』所収「解説《『蕪村句集』と『新花つみ』の成立》」)。

 さて、ここで、上記の「小説的虚構の句」とされている「身にしむやなき妻のくしを閨(ねや)に踏(ふむ) 」は、妻「とも」との関連では、まさに、「小説的虚構の句」なのだが、当時、執筆していた『新花摘』の亡母や娘「くの」との関連ですると、薄幸な女性をイメージしてのものという捉え方は十分に成り立つであろう。

 さらに、冒頭の蕪村の亭主関白ぶりの書簡についてであるが、蕪村の芝居好きや茶屋遊びというのも、「老を養ひ候術(すべ)に候故(ゆえ)、日々少年行(漢詩の楽府題の一つ)、御察可被下候」(有田孫八宛・年代不詳・六月八日付)と、画業のスランプの脱出などと密接不可分のような思いを深くする。また、料亭などでの席画や依頼画の制作などで、画室外での作業なども多かったことであろう。

 そういう、当時の、画家そして俳諧宗匠を業として一家を支えている蕪村と、その画料等を唯一の家計としている「とも」との、この両者の信頼関係を抜きにしては、この書簡の真の背景を理解しているとは言えないであろう。

新花摘1.jpg

(『新潮日本古典集成 与謝蕪村集《清水孝之校注》』所収「新花つみ」)
月渓筆「渭北文台ノ主トナレリ」の挿絵
左端 宗匠(点者)となった渭北(右江氏、淡々門、淡々の「渭北」を引き継ぎ、前号は「麦天」)、この宗匠(点者)のスタイルなどが、蕪村書簡の「小袖・唐紙・硯箱・机の上の草稿一冊・十徳」などと関係して来る。宗匠(点者)の前の机が「文台」、そして、宗匠(点者)になったことを証しする儀式のことを「文台開き」と言う。

(その十二)

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『蕪村全集五 書簡』所収「二九九 天明二年一月二十八日 堺屋三右衛門(百池)宛」個人蔵

 この表書きの「さかい(堺)屋三右衛門」は、寺村百池の屋号と通称である。書簡の内容は、なかなか意味深長のものがある。
 この「御細書之(の)おもむき(趣)至極御尤(ごもつとも)之御事二(に)候」の「御細書」とは、次に続く、「しばらく絶誹(俳)可然候」と「其外(そのほか)之遊興御つゝ(慎)しみ第一ニ御座候」とのことを指しているようである。
 この「しばらく絶誹(俳)可然候」とは、百池は、「しばらく俳諧(連句興行・句会の出席など)は止めたい」ということ、そして、「其外(そのほか)之遊興御つゝ(慎)しみ第一ニ御座候」ということは、「茶屋遊びなどは一切しない」ということに、百池の師の蕪村は、「御つゝ(慎)しみ第一ニ御座候」と、それが「尤もである」と、「百池」ならず、「さかい(堺)屋三右衛門」で、書簡を認めている。
 蕪村は享保元年(一七一六)生まれ、百池は寛延元年(一七四八)生まれで、二人の年齢差は、蕪村が三十二歳年長である。因みに、月渓は宝暦二年(一七五二)の生まれで、百池より四歳年下である。この百池と月渓とが、晩年の蕪村の秘蔵子と言っても良かろう。
 ここで、この書簡の日付の天明二年(一七八二)に注目したい。この年の月渓は池田で新年を迎え、剃髪して呉春と改号した年に当たる。そして、この年の五月に蕪村は『花鳥篇』を刊行する(蕪村編集の板下も蕪村が書いている)。
 この『花鳥篇』こそ、次の年が没年となる、蕪村の最晩年の「老いの華やぎ」の一瞬の結晶とも言うべき、そして、それは、束の間の「あだ(徒・婀娜)花」(はかなく散る実を結ばない桜花)のごときものと位置付けることも可能であろう。
 この『花鳥篇』に、晩年の蕪村が親しんだ、愛人とも言われている「小いと(小糸)」と同座して巻かれた連句(十二句)が収載されている。
 その表六句は次のとおりである。

 いとによる物ならにくし凧(いかのぼり)    大阪 うめ
  さそへばぬるむ水のかも河             其答
 盃にさくらの発句をわざくれて            几董
  表うたがふ絵むしろの裏             小いと
 ちかづきの隣に声す夏の月              夜半 
  をりをりかをる南天の花              佳棠 

 この発句の前に、「みやこに住(すみ)給へる人は月花のお(を)りにつけつつ、よき事も聞(きき)給(たまは)んと、いとねたくて 蕪村様へ、文のはしに申(まうし)つかはし侍(はべる)」という前書きがある。
 この発句の作者「うめ」は大阪新地の芸妓で、後に月渓の後妻となった女性である。月渓は、この前年の天明元年(一七八一)三月晦日に愛妻雛路を海難事故で亡くしている。その八月には実父が江戸で客死するという二重に不幸に遭遇し、蕪村の計らいで、蕪村門の長老の田福(京都五条の呉服商で百池の縁戚に当たる)の別舗が池田にあり、その二階を仮の住居として転地療養をしている。
 この『花鳥篇』にも、月渓の名は見られない。
さて、この発句の句意は、表面的には、「凧は大空に自由に高く舞い上がっているようで、実は見えない糸に頼っているというのは憎たらしい」というようなことである。そして、その背後に、四句目の作者「小いと」が蕪村の愛人であることを暗にほのめかしていて、それが、前書きの「みやこに住(すみ)給へる人=小いと」が「いとねたく」、そして、発句の「凧(蕪村様)がいと(小いと)に頼りきっているのは、憎たらしい」ということを利かしている。
 また、この句は、「糸によるものならなくに別れ路の心細くも思ほゆるかな」(『古今集』)の本歌取りの技巧的な句なのである。
 次の脇句の作者「其答」は、蕪村の後継者の「几董」を捩っての、蕪村の「変名」の感じなくもないが、歌舞伎役者沢村国太郎のようである(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著))。
句意は、「人を誘って、凧が舞い上がっている野辺に行くと、賀茂川の水も春らしくなっている」ということで、この「人を誘って」の「人」は、「小いと」を指しているのであろう。
 第三の几董の句は、発句・脇句の「凧の舞い上がる賀茂川の野辺に居て、盃を重ねながら、桜の発句を吟じたい」と、第三の「て留め」だが、実質的に、この句が発句的な意味合いもあるのだろう。
 四句目は、夜半亭一門で蕪村との仲が話題となっている「小いと(小糸)」の句である。「表うたがふ絵むしろの裏」と、俳諧の「表=表面的の世界」と「裏=背後に隠されている世界」と、そして、この句意は、「表の恋模様の絵筵の、その裏は、さてさて、どのようなものなのでしょうか」と、どうにも、手の込んだ句で、おそらく夜半翁(蕪村)が手入れしての一句なのであろう。
 その前句に対して、「ちかづきの隣に声す夏の月」と、ここは月の定座で、「夏の月が空にかかり、何やら近くの親しい隣家の声が聞こえてくる」というのである。この「近づき」は、勿論、この作者の「夜半」と「小いと」との「近づきの仲」を掛けてのものなのであろう
 表六句の折端の句は、茶屋遊びの指南役の佳棠の「南天の花」の「匂い」の付けである。
勿論、「夜半翁と小いととの関係は香しい匂いが立ち込めている」というのであろう。

 この「小いと(小糸)」の名は、安永八年(一七七九)頃の蕪村書簡から散見されるが、蕪村の方が積極的であったことは、天明元年(一七八一)五月二十六日付け佳棠宛書簡の次のような文面からも窺える。

「返す返す小糸もとめならば、此方よりのぞみ候ても画き申たき物に候。右之外之画ならば、何なりとも申し遣し候様御申し伝へ下さるべく候。」

 これは、小糸が「白練」(白の練り絹)に、蕪村の「山水画」を描いてくれと佳棠を仲介にして頼まれたのだが、小糸の着物に私の山水画はどうにも似合わないので、「右之外之画」(それ以外の画)ならば、「何なりとも申し遣し」下さいと「伝え下さるべく候」というのである。
 蕪村の小糸への一通りでない気持ちが伝わって来る。そして、それが次第に周囲の目にも余るものになってきたらしい。蕪村門人で川越候松平大和守の京留守居役の樋口家を継いだ儒学者の道立から諫言され、その諫言に対して、「小糸が情も今日限り候」との蕪村の返信の書簡が今に遺されている。
 さて、冒頭の「天明二年一月二十八日付け堺屋三右衛門(百池)宛て蕪村書簡」を見ると、「百池がしばらく俳諧を止め、茶屋遊びなどの遊興を止め、本業に専心する」ということに対しての、「御細書之(の)おもむき(趣)至極御尤(ごもつとも)之御事二(に)候」という蕪村の書簡は、当時の蕪村自身の、「俳諧は几董に任せ、茶屋遊びなどの遊興を止め、本業(画業)に専心する」という、六十七歳の賀を迎えた老翁・蕪村の実像なのかも知れない。

花鳥篇2.jpg

『蕪村全集七編著・追善』所収「花鳥篇」=蕪村書・画「花ちりて身の下やみやひの木笠」

 この『花鳥篇』の「花」は「桜」、そして、「鳥」は「時鳥」を指している。もとより、季題の頂点を占める五個の景物(花・月・雪・時鳥・紅葉)の、その「花・時鳥」を書名にしていることは言うまでもない。
 そして、前半の「花桜帖」の末尾に、上記の「花ちりて身の下やみやひの木笠(夜半)」の句と挿絵(蕪村筆)が描かれている。ちなみに、後半は、「ほととぎすいかに鬼神もたしかに聞(きけ)」(宗因)の句ほ発句にして、脇句(蕪村)、第三(几董)と続く、夜半亭一門の歌仙(三十六句)が巻かれている。そして、その末尾に、慶子(中村富十郎)画の「時鳥」の挿絵が添えられている。
 この「花ちりて身の下やみやひの木笠(夜半)」の句には、次の前書きが添えられている。

「さくら見せうぞひの木笠と、よしのゝ旅にいそがれし風流はした(慕)はず、家にのみありてうき世のわざにくるしみ、そのことはとやせまし、この事はかくやあらんなど、かねておも(思)ひはか(図)りことゞもえはたさず、つい(ひ)には煙霞花鳥に辜負(こふ=そむく)するためしは、多く世のありさまなれど、今更我のみおろかなるやうにて、人に相見んおもて(面)もあらぬこゝちす」

 この前書きを踏まえると、芭蕉の「吉野にて桜見せうぞ檜木笠」(『笈の小文』)を踏まえての一句ということが察知される。句意は、「芭蕉から『桜見せうぞ』と呼びかけられた檜木笠は、花が散って、自分自身の陰が作る闇に沈んでいる。見る暇もなく散った花に、私の心はもっと暗い」(『蕪村全集一発句』所収「二二五一頭注」)。

 ここで、冒頭の天明二年(一七八二)一月二十八日の堺屋三右衛門(百池)宛書簡前後から、五月の『花鳥篇』出版までの蕪村の年譜を辿ると次のとおりとなる。

一月二十一日 春夜楼で壇林会(連句・発句会)に出席(几董『初懐紙』)。『夜半亭歳旦帖』の代わりに『花鳥篇』の刊行を計画。
一月二十八日 堺屋三右衛門(百池)宛書簡(百池の「俳諧を暫く休み、遊興を慎む」旨の書簡に返信)。
三月 田福らと念願の吉野の花見の旅をする(『夜半翁三年忌追福摺物(田福編)』、ここに「我此翁に随ひ遊ぶ事久し。よし野の花に旅寝を共にし」とある。また、「雲水 月渓」の長文の前書きを付した発句も収載されている。月渓は蕪村没後「雲水=行脚僧」であったのであろう)。 十七日 吉野の花見から帰洛(梅亭宛書簡)。
四月 金福寺句会(道立宛書簡)。
五月 『花鳥篇』出版

 この『花鳥篇』の前半の「花桜帖」には、「ナニハ うめ(梅女)」「女 ことの(琴野)」「女 小いと(小糸)」「女 石松」と、蕪村の馴染みの芸妓たちの句と共に、「慶子(中村富十郎)」「巴江(芳沢いろは)」「雷子(二世嵐三五郎)」「眠獅(嵐雛助)」「其答(沢村国太郎)」の役者、そして、江戸の「蓼太」、尾張の「暁台」等々と、誠に 華やかな顔触れの句が続き、その造本も凝りに凝った蕪村の趣向が随所に顕われている。
 しかし、この「花桜帖」の末尾を飾る「花ちりて身の下やみやひの木笠」の、この「身の下やみ」の、「蓑笠と身の陰の下の、この漆黒の闇」とは、ここに、蕪村の最晩年の「老いの華やぎ」と、その束の間の「あだ(徒・婀娜)花」と、その背後の、「滅びゆくものの、老愁と、老懶と、そして、寒々とした漆黒の闇」とが察知されるような、そんな思いを深くする。

(その十三)

道立宛書簡.jpg

『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)』所収「一一八道立宛宛」

[ 青楼(遊里)の御意見承知いたし候。御尤もの一書、御句にて小糸(蕪村なじみの芸妓)が情も今日限(かぎり)に候。よしなき風流(甲斐もなき色恋)、老(おい)の面目をうしなひ申候。禁(きんず)べし。去(さり)ながらもとめ得たる句、御披判(ごひばん)可被下候。
妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ
 これ泥に入(いり)て玉を拾ふたる心地に候。此(この)ほどの机上のたのしびぐさに候。御心切(しんせつ)之段々、忝(かたじけなく)奉存候。
   四月廿五日                    蕪村
道立 君
 尚々(なおなお)枇杷葉湯一ぷく、あまり御心づけ被下、おかしく受納いたし候。 ]

 この書簡中の句、「妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ」は、安永九年(一七八〇)の几董編『初懐紙』に収載されている。そのことから、この書簡は「安永九年」の書簡と推定されている。
 その『初懐紙(几董編)』には、「正月廿日壇林会席上探題」のところに、「琴心挑美人(きんしんもてびじんにいどむ)」の前書きを付して、「妹が垣根三味線草の花咲きぬ」の句形で収載されている。
 この「琴心挑美人(きんしんもてびじんにいどむ)」とは、「司馬相如が富豪の娘で寡婦の卓文君に琴歌に託して意を通じ妻にした故事」(『蒙求・文君当壚』)を裏返し、琴を三味線に転換してのものとの解がある(『蕪村全集一発句』所収「二〇九四頭注」)。また、「昔見し妹が垣根は荒れにけりつばな交じりの菫のみして」(藤原公実『堀河院百首』)を踏まえての句のようである。
 句意は、「恋する人の垣根に、私の恋心を伝えるかのように三味線草の花が咲いている」というようなことであろう。そもそも、この句は小糸とは関係のないものなのだが、この書簡中に置くと、「恋する人の垣根(家)に、私の恋心を伝えるかのように三味線草の花ならず、小糸の三味線の音色が伝わって来る」というようなニュアンスになって来よう。

 そして、この句の創作年次の安永九年(一七八〇)を根拠にして、この書簡も同年のものと即断するのは、必ずしも正当とは言えないであろう。事実、天明二年(一七八二)五月の『花鳥篇』(「小糸と同座しての連句が収載されている」)刊行後の、最晩年の天明三年(一七八三)と推定しているものもある(『戯遊の俳人与謝蕪村《山下一海著》』)。

 ここで、この書簡の宛名の樋口道立について触れて置きたい。

 樋口道立は、元文三年(一七三八)生まれ、文化九年(一八一二)没。本名、樋口道卿、通称、源左衛門。別号に、自在庵・紫庵・芥亭など。明和五年(一七六八)版『平安人物志』の儒者の部に「源彦倫、字道卿、号芥亭、下立売西洞院東ヘ入町、樋口源左衛門」と掲載されている。『日本詩史』の著者江村北海の第二子で、川越候松平大和守の京留守居役の樋口家を嗣いだ。安永五年(一七七六)四月、道立の発企により、洛東金福寺内に芭蕉庵再興が企てられ、写経社会が結成されると管事となっている。蕪村との交遊は二十余年に及ぶが、蕪村門人というよりも蕪村盟友という関係が相応しい。天明元年(一七八一)五月に芭蕉庵は改築再建される。

 ここで、この書簡が出された年次について、金福寺内の芭蕉庵が改築再建された天明元年(一七八一)五月二十八日前の四月二十五日というのが浮かび上がって来る。
それは、この書簡の理解に最も相応しい『几董・月居十番句合(蕪村判)』の「老(おい)そめて恋も切なる秋の暮(几董)」に対する、蕪村が判定を下した次のものに、この書簡のニュアンスが最も近いということに他ならない。

[ 老(おい)初(そめ)て身のむかしだにかなしきといふにもとづき、恋ほど切なるものはあらじといへるに、老が身の事々物々に親切なる、況(いはんや)人のきくを憚るも「年過半百(白)不称意」(年半百ニ過ギテ意ニ称ハズ)といふがごとく、かく老が恋の切なれども、秋のくれのそゞろのものゝかなしき、「眇々悲望如思何」(眇々タル悲望思ウモ如何)ともの字をもて自問自答せるなり。  ]
『蕪村全集四俳詩・俳文』所収「評巻五蕪村判、几董・月居十番句合(天明元年)」

 ここで、前回の「天明二年(一七八二)」の年譜と合作すると次のとおりとなる。

(天明元年=一七八一)
四月二十五日 道立宛書簡(「青楼(遊里)の御意見承知いたし候。御尤もの一書、御句にて小糸(蕪村なじみの芸妓)が情も今日限(かぎり)に候」)。
五月二十八日 芭蕉庵改築再建に際し、芭蕉庵再興記を自筆に記して奉納する。
八月十四日 几董・月居の十番左右句合に判す「老(おい)そめて恋も切なる秋の暮(几董)」(『反古瓢』)。
(天明二年=一七八二) 
一月二十一日 春夜楼で壇林会(連句・発句会)に出席(几董『初懐紙』)。『夜半亭歳旦帖』の代わりに『花鳥篇』の刊行を計画。
一月二十八日 堺屋三右衛門(百池)宛書簡(百池の「俳諧を暫く休み、遊興を慎む」旨の書簡に返信)。
三月 田福らと念願の吉野の花見の旅をする(『夜半翁三年忌追福摺物(田福編)』、ここに「我此翁に随ひ遊ぶ事久し。よし野の花に旅寝を共にし」とある。また、「雲水 月渓」の長文の前書きを付した発句も収載されている。月渓は蕪村没後「雲水=行脚僧」であったのであろう)。 十七日 吉野の花見から帰洛(梅亭宛書簡)。
四月 金福寺句会(道立宛書簡)。
五月 『花鳥篇』出版

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『蕪村全集四俳詩・俳文』(第四巻月報「老が恋・芳賀徹稿」所収)

 上記は、安永三年(一七七四)九月二十三日付大魯宛書簡の後半部分である。『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)』によると、次のとおりである。

[ 狐火の燃えつくばかりかれ尾花 
是は塩からき(趣向・技法の古くさい)様なれど、いたさねばならぬ事にて候。御観察可被下候。
几董会 当座 時雨
 老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな
  しぐれの句、世上皆景気(叙景の句)のみ案(あんじ)候故、引違(ひきちがえ)候ていたし見申候。「真葛(まくず)がはらの時雨」とは、いさゝか意匠違ひ候。
  右いづれもあしく候へども、書付ぬも荒涼に候故、筆之序(ついで)にしるし候。
  余は期重便(じゅうびんをごし)候。頓首
   九月二十三日          蕪村
大魯 様                      ]

 この書簡中の「真葛(まくず)がはらの時雨」というのは、慈円の「わが恋は松を時雨の染めかねて真葛が原の風騒ぐなり」(『新古今・巻十一』)を指し、その「風が吹いて葛が白っぽい裏を見せる、恨み(裏見)で心の落ち着かない恋心」と、「老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな」の「老(おい)が恋」とを、「時雨」が同じだからと言って、同じように取って貰っては困るというようなことであろう。
 とすると、この「老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな」の句は、先に紹介した『花鳥篇』の「花ちりて身の下やみやひの木笠」の「花ちりて」に近いもので、その背後に、式子内親王の「花は散りてその色となく詠(なが)むればむなしき空に春雨ぞふる」(『新古今・春下・一四九』)の、「花は散り=人生の終わり」「むなしき空=虚空」を意識している雰囲気で無くもない。
 同様に、「老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな」の「わすれんとすれば」の字余りは、式子内親王の「花は散りて」の字余りを意識してのものなのかも知れない。

  老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな(安永三年大魯宛書簡)
  妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ
       (安永九年『初懐紙《几董編》』・天明元年道立宛書簡) 
  花ちりて身の下やみやひの木笠(天明二年『花鳥篇』)

 蕪村が「老(おい)が(の)恋」を主題にしたのは、安永三年(一七七四)、五十九歳の頃である。爾来、没する天明三年(一七八三)、六十八歳までの、約十年間の主題であり続けた。
その間、冒頭の天明元年(一七八一)の道立宛書簡のように、「よしなき風流(甲斐もなき色恋)、老(おい)の面目をうしなひ申候。禁(きんず)べし」と自戒の書簡を認めることもあった。
 しかし、その書簡に記すが如き、「妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ」、それが、「泥に入(いり)て玉を拾ふたる心地に候。此(この)ほどの机上のたのしびぐさに候」と、この「老(おい)が恋」は、表面的には形を失せても、内面的には益々、蕪村の主題としてあり続けたのである。
 そして、そのエッポクメーキング(それを示す象徴的なもの)が、天明二年(一七八二)の『花鳥篇』なのである。
 そこに収載されている蕪村(夜半)の句は、「花ちりて身の下やみやひの木笠」、どうにも、「花ちりて」「身のしたやみ(闇)や」と、「名状し難き陰鬱」した「老(おい)が恋」なのである。
 しかし、その「名状し難き陰鬱」した「老(おい)が恋」の、その底流に流れているものが、実は、『花鳥篇』の中に、さりげなく記されている。

[ 寂(さび)・しをりをもはら(専)とせんよりは、壮麗に句をつくり出(いで)さむ人こそこゝろにくけれ。かの伏波将軍(ふくはしやうぐん)が老当益壮といへるぞ、よろずの道にわたりて致(おもむき)を一にすべし。古(いにしへ)、市河(川)栢筵(はくえん)、今の中むら(村)慶子などは、よくその道理をわきまへしりて、年どしに優伎(いうぎ)のはなやかなるは、まことに堪能(かんのう)の輩(ともがら)と云ふべし。  ]
『蕪村全集七編著・追善』所収「花鳥篇」

 ここに出て来る「伏波将軍(ふくはしやうぐん)」とは、『後漢書(馬援伝)』に出て来る馬援のことで、その馬援の言葉の「老当益壮(ろうとうえきそう)=老イテハ当(まさ)ニ益(ますます)壮(さかん)ナルベシ」こそ、蕪村の「老(おい)が恋」の底流に流れているものなのであろう。
 それは、実生活上でのものというよりも、芭蕉俳諧の「さび・しをり」に対して、蕪村俳諧は「壮麗」を目指したいという、蕪村の創作理念とも言うべきものなのであろう。
そして、その「壮麗」の具体例として、立役の名優二代目市川団十郎(俳号栢筵)と女形の名優初代中村富十郎(俳号慶子)の歌舞伎役者を挙げ、彼らは年齢に関係なく壮麗・華麗な優伎を現出させており、それを範とすべきと言うのであろう。

 この「老当益壮」の視点から、冒頭の「道立宛書簡」を読むと、蕪村の真意が明瞭となって来る。

一 「青楼(遊里)の御意見承知いたし候。御尤もの一書、御句にて小糸(蕪村なじみの芸妓)が情も今日限(かぎり)に候。よしなき風流(甲斐もなき色恋)、老(おい)の面目をうしなひ申候。禁(きんず)べし。」 → ご意見承知いたしました。
二 「去(さり)ながらもとめ得たる句、御披判(ごひばん)可被下候。
妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ   」 → 然しながら、その風流で得た句の、「妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ」を、
どうか、ご批判下さい。
三 「これ泥に入(いり)て玉を拾ふたる心地に候。此(この)ほどの机上のたのしびぐさに候。」→ この句は、泥の中から玉を拾ったような気持ちです。外出もせず、画室にて、この句より得た「「老当益壮」の「壮麗なる句そして画」を構想してるのが、今の楽しみであります。

 また、この「尚なお書き」の「枇杷葉湯一ぷく、あまり御心づけ被下、おかしく受納いたし候」からすると、道立の「御意見」というのは、当時の金福寺内の芭蕉庵再興という大きな懸案事項を抱えていて、「健康第一を旨として戴きたい」というようなことが包含されているような感じに受け取りたい。
 それに対して、「多情を戒める枇杷葉湯を頂戴し、これは、まさに俳諧(滑稽)です」というのは、蕪村と道立との信頼関係における成り立つ「遊び心」の表現なのであろう。

(補説一)

 上記の『花鳥篇』の「寂(さび)・しをりをもはら(専)とせんよりは、壮麗に句をつくり出(いで)さむ人こそこゝろにくけれ。(攻略)」について、『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』では、次のように記している。

これは蕪村の手で天明二年に刊行された『花鳥篇』に収める六十七歳の老蕪村の壮麗論である。芭蕉一門の「さび・しをり」に対して、蕪村はここで「壮麗」を対立理念として提唱した。その基本にあるのは「老当益壮」(老イテハマサニマスマス壮(さか)ンナルベシ)ということだ。門人の几董はこういう師の蕪村について、「もとより懶惰(らんだ)なりといへども、老イテハ当(まさ)ニ益々壮(さか)ンナルベシと、つねに伏波将軍の語をつぶやき」と言っている。『後漢書』馬援伝に見える言葉で、伏波将軍とはこの馬援のこと。蕪村の青春の詩は五十代から六十代にかけて花を咲かせた。蕪村が祇園の妓女小糸と、生涯で最も熱烈に恋をしたのは六十五歳から六十八歳の死までである。「老」という人生の喪(ほろ)びを前にした壮麗論だ。それは落日が黄昏(たそがれ)に近いがゆえに限りなく美しかったようにである。老いの喪びゆえに、壮麗な美しさを見せる落日の美学だ。(『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』所収「落日庵蕪村の詩論」)

(補説二)

上記の『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』中の、蕪村の「懶惰(らんだ)」そして「老当益壮」関連については、やはり、蕪村の最高傑作詩篇とされている、安永六年(一七七七)二月の春興帖『夜半楽』の三部作(「春風馬堤曲」・「澱河歌」・「老鶯児」)と、さらに、安永四年(一七七五)作の「うき我にきぬたうて今は又(また)止ミね」の「憂き我・老懶」などの関連で、再構築が必要となって来よう。その再構築(メモ)の一端を下記に掲げて置きたい。

一 蕪村の安永四年(一七七五)の「うき我にきぬたうて今は又(また)止ミね」の句は、芭蕉の「うき我をさびしがらせよかんこどり」(『嵯峨日記』)を、さらには、「砧打(うち)てわれをきかせよ坊が妻」(『野ざらし紀行』)を念頭にあったのことは言をまたない。

二 芭蕉は、「憂い・老懶」に、真っ向から対峙している。「閑古鳥」の鳴き声を、「ある寺に独(ひとり)居て云(いひ)し句なり」と、さらに、「さびしがらせよ」と一歩も退いていない。さらには、「憂い・老懶」の増すなかにあって、「砧を打ちてわれを聞かせよ」と、その「憂い・老懶」の正体を正面から凝視し、傾聴しようとしている。それに比して、蕪村は、日増しに増す「憂い・老懶」の日々にあって、芭蕉と同じように、「うき我にきぬたうて」としながらも、「今は又(また)止ミね」(今は又止めて欲しい)と、その「憂い・老懶」の中に身を沈めてしまう。

三 蕪村の安永五年(一七七六)の「去年より又さびしいぞ秋の暮」の句もまた、芭蕉の佳吟中の佳吟「この秋は何で年寄る雲に鳥」(『笈日記』)に和したものであろう(『蕪村全集(一)』)。芭蕉は、この芭蕉最後の旅にあって、その健康が定かでないなかにあって、「憂い・老懶」の真っ直中にあって、「何で年寄る」と完全な俗語の呟きをもって、「雲に鳥」と、連歌以来の伝統の季題の、「鳥雲に入る」・「雲に入る鳥」・「雲に入る鳥、春也」と、次に来る「春」を見据えている。

四 それに比して、蕪村は、芭蕉の「憂い・老懶」の「寂寥感」に耐えられず、「去年より又さびしいぞ」と、その「老懐」に、これまた身を沈めてしまうのである。そして、蕪村は、その翌年の春を迎え、その春の真っ直中にあって、「春もやゝあなうぐひすよむかし声」と、いよいよ、その「憂い・老懶」に苛まれていくのである。

五 さればこそ、この「憂い・老懶」を主題とする「老鶯児」の一句を、巻軸として、異色の俳詩、「春風馬堤曲」・「澱河歌」の二扁の序奏曲をもって、「華麗な華やぎ」を詠い、その後に、真っ向から、「憂い・老懶」の自嘲的な、「老鶯児」と題する、「「春もやゝあなうぐひすよむかし声」の一句を、この『夜半楽』の、「老い」の「夜半」の「楽しみ」としつつ、そして、いよいよ募る「憂い・老懶」に、「琴心挑美人(きんしんもてびじんにいどむ)」たる、「伏波将軍(ふくはしやうぐん)」の「老当益壮(ろうとうえきそう)=老イテハ当(まさ)ニ益(ますます)壮(さかん)ナルベシ」を以てしたのではなかろうか。

(その十四)

時雨.jpg

『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)』所収「二〇三後旦宛・口絵写真」(野村美術館蔵)

 書簡の全文は次のとおりである。

[ 貴墨辱(かたじけなく)拝覧。まことにきのふはおもひもよらぬしぐれにて、御立寄申候処、ゆるゆる御茶下(くだ)され、相たのしみ候。ことにこゝろよき御茶碗、銘は「霜夜」とやら、折から一しほおもしろく、今更存出候。帰路ますます、
(時雨の絵)
からかさ恩借かたじけなく候。其節の御ホ句おかしく。ワキを付申候。
  小しぐれに借す傘(からかさ)や神無月  後旦
   頭巾まぶかにまこと顔(がお)なる   蕪村
京極黄門の「よのまこと」よりおもひつゞけ候。
  (傘の絵) 御返却いたし候。
余は期拝眉(はいびをごし)可申残候。 以上
  上
後旦 様               夜半亭        ]

 ここに出て来る「後旦」は、京都の俳人で、蕪村が夜半亭を襲号した翌明和八年(一七七一)の春興帖『明和辛卯春(めいわしんぼうのはる)』(蕪村編)に、その名が出て来る俳人である。
 書簡の内容は、「時雨に遭って、思いがけずお寄りしたところ、お茶を頂戴し、その上、傘を借用いたし、有難うございました。その折の発句に脇句を付けました」というようなものである。
 この書簡中の「京極黄門」とは、京極中納言の藤原俊成の別称である。その「よのまこと」とは、「偽のなき世なりけり神無月たがまことよりしぐれそめけん」(『続御拾遺集・冬』)が、その背景にある。

これは、蕪村好みのドラマ(能、そして、歌舞伎の世界)なのである。

(以下)「定家・三番目物 金春禅竹」の記事(参考)


定家   三番目物 金春禅竹

北国に僧一行が、都に上り千本辺りで時雨が降り出し、庵で晴れ間を待つ間女が現れ、ここが定家卿の時雨亭と教え、蔦葛にまとわれた式子内親王の墓に案内する。内親王は定家との秘めた恋が世間に漏れ始めたため、二度と会わずにこの世を去ったが、定家は、思いは晴れず、死後の執心が蔦葛となって墓にまとわりついていると語り、自分こそ内親王と告げ、救いを求めて姿を消す。所の者が僧の問いに答えて定家葛の由来を語り、供養を勧めて退く。

その夜読経し弔っていると、痩せ衰えた内親王の霊が現れ、薬草喩品の功徳で呪縛が解け、苦しみが和らいだと喜び報恩の舞を舞い、再び墓の中に消えると定家葛がまとわりつく。
ワキ・ワキツレ 山より出づる北時雨、山より出づる北時雨、行ゑや定めなかるらん。

ワキ 是は北國より出たる僧にて候、我未だ都を見ず候程に、此度思ひ立都に上り候。
ワキ・ワキツレ 冬立つや、旅の衣の朝まだき、旅の衣の朝まだき、雲も行違遠近の、山又山を越過て、紅葉に殘る眺めまで、花の都に着にけり、花の都に着にけり。
ワキ 急候程に、是ははや都千本あたりにて有げに候、暫く此あたりに休らはばやと思ひ候。

ワキ 面白や比は神無月十日あまり、木々の梢も冬枯れて、枝に殘りの紅葉の色、所々の有樣までも、都の氣色は一入の、眺め殊なる夕かな、荒笑止や、俄に時雨が降り來りて候、是に由有げなる宿りの候、立寄り時雨を晴らさばやと思候。

シテ女 なふなふ御僧、其宿りへは何とて立ち寄り給ひ候ぞ
ワキ 唯今の時雨を晴らさむために立寄りてこそ候へ、扨ここをばいづくと申候ぞ
女 それは時雨の亭とて由ある所なり、其心をも知ろしめして立寄らせ給ふかと思へばかやうに申なり。

ワキ げにげに是なる額を見れば、時雨の亭と書かれたり、折から面白うこそ候へ、是はいかなる人の立置かれたる所にて候ぞ。
女 是は藤原の定家卿の建て置き給へる所なり、都のうちとは申ながら、心凄く、時雨物哀なればとて、此亭を建て置き、時雨の比の年々は、爰にて歌をも詠じ給ひしとなり、古跡といひ折からといひ、其心をも知ろしめして、逆縁の法をも説き給ひ、彼御菩提を御とぶらひあれと、勧め參らせん其ために、これまで顯れ來りたり
ワキ 扨は藤原の定家卿の建て置き給へる所かや、扨々時雨を留むる宿の、歌は何れの言の葉やらん
女 いや何れとも定めなき、時雨の比の年々なれば、分きてそれとは申がたし去ながら、時雨時を知るといふ心を、偽のなき世なりけり神無月、誰がまことより時雨れ初めけん、此言書に私の家にてと書かれたれば、若此歌をや申べき
ワキ 實あはれなる言の葉かな、さしも時雨は偽の、なき世に殘る跡ながら
女 人は徒なる古事を、語れば今も假の世に
ワキ 他生の縁は朽ちもせぬ、是ぞ一樹の陰の宿り
女 一河の流を汲みてだに
ワキ 心を知れと
女 折からに
同 今降るも、宿は昔の時雨にて、宿は昔の時雨にて、心すみにし其人の、哀を知るも夢の世の、實定めなや定家の、軒端の夕時雨、古きに歸る涙かな、庭も籬もそれとなく、荒れのみ増さる草むらの、露の宿りも枯れ/\に、物凄き夕べ成りけり、物凄き夕べ成りけり。

女 今日は心ざす日にて候ほどに、墓所へ參り候、御參候へかし。
ワキ それこそ出家の望にて候へ、頓而參らふずるにて候。
女 なふなふ是なる石塔御覧候へ
ワキ 不思議やな是なる石塔を見れば、星霜古りたるに蔦葛這ひ纏ひ、形も見えず候、是は如何なる人のしるしにて候ぞ
女 是は式子内親王の御墓にて候、又此葛をば定家葛と申候
ワキ 荒面白や定家葛とは、いかやうなる謂れにて候ぞ御物語候へ
女 式子内親王始めは賀茂の齋の宮にそなはり給ひしが、程なく下り居させ給しを、定家卿忍び/\御契り淺からず、其後式子内親王ほどなく空しく成給ひしに、定家の執心葛となつて御墓に這ひ纏ひ、互ひの苦しび離れやらず、共に邪婬の妄執を、御經を読み弔ひ給はば、猶々語り參らせ候はん。

同 忘れぬものをいにしへの、心の奧の信夫山、忍びて通ふ道芝の、露の世語由ぞなき。
女 今は玉の緒よ、絶えなば絶えねながらへば
同 忍ぶることの弱るなる、心の秋の花薄、穂に出初めし契りとて、また離れ/\の中となりて

女 昔は物を思はざりし
同 後の心ぞ、果てしもなき
同 あはれ知れ、霜より霜に朽果てて、世々に古りにし山藍の、袖の涙の身の昔、憂き戀せじと禊せし、賀茂の齋院にしも、そなはり給ふ身なれ共、神や受けずも成にけん、人の契りの、色に出けるぞ悲しき、包むとすれど徒し世の、徒なる中の名は洩れて、外の聞えは大方の、空恐ろしき日の光、雲の通路絶え果てて、乙女の姿留め得ぬ、心ぞ辛きもろともに

女 實や歎く共、戀ふ共逢はむ道やなき
同 君葛城の峰の雲と、詠じけん心まで、思へばかかる執心の、定家葛と身は成て、此御跡にいつとなく、離れもやらで蔦紅葉の、色焦がれ纏はり、荊の髪も結ぼほれ、露霜に消えかへる、妄執を助け給へや
地 古りにし事を聞からに、今日もほどなく呉織、あやしや御身誰やらむ
女 誰とても、亡き身の果ては淺茅生の、霜に朽にし名ばかりは、殘りても猶由ぞなき
地 よしや草場の忍ぶ共、色には出でよ其名をも
女 今は包まじ
地 この上は、われこそ式子内親王、是まで見え來れ共、まことの姿はかげろうふの、石に殘す形だに、それ共見えず蔦葛、苦しびを助け給へと、言ふかと見えて失せにけり、言ふかと見えて失せにけり

<中入>

ワキ・ワキツレ 夕も過ぐる月影に、夕も過ぐる月影に、松風吹て物凄き、草の陰なる露の身を、念ひの玉の數々に、とぶらふ縁は有難や、とぶらふ縁は有難や。
後女 夢かとよ、闇のうつつの宇津の山、月にも辿る蔦の細道
女 昔は松風蘿月に詞を交はし、翠帳紅閨に枕を並べ
地 樣々なりし情の末
女 花も紅葉も散々に
地 朝の雲
女 夕の雨と
同 古言も今の身も、夢も現も幻も、共に無常の、世となりて跡も殘らず、なに中々の草の陰、さらば葎の宿ならで、そとはつれなき定家葛、是見給へや御僧

ワキ 荒痛はしの御有樣やあらいたはしや、佛平等説如一味雨 随衆生性所受不同
女 御覽ぜよ身は徒波の立ち居だに、亡き跡までも苦びの、定家葛に身を閉ぢられて、かかる苦しび隙なき所に、有難や
シテ 唯今讀誦給ふは薬草喩品よなふ
ワキ 中々なれや此妙典に、洩るる草木のあらざれば、執心の葛をかけ離れて、佛道ならせ給ふべし
女 荒有難や、げにもげにも、是ぞ妙なる法のへ
ワキ 普き露の惠みを受けて
女 二つもなく
ワキ 三つもなき。
同 一味の御法の雨の滴り、皆潤ひて草木国土、悉皆成佛の機を得ぬれば、定家葛もかかる涙も、ほろ/\と解け広ごれば、よろ/\と足弱車の、火宅を出でたる有難さよ。この報恩にいざさらば、ありし雲井の花の袖、昔を今に返すなる、其舞姫の小忌衣

女 面無の舞の
地 あり樣やな
女 面無の舞の有樣やな

同 面無や面映ゆの、有樣やな
女 本より此身は
地 月の顏はせも
女 曇りがちに
地 桂の黛も
女 おちぶるる涙の
同 露と消えても、つたなや蔦の葉の、葛城の神姿、恥づかしやよしなや、夜の契りの、夢のうちにと、有つる所に、歸るは葛の葉の、もとのごとく、這ひ纏はるるや、定家葛、這ひ纏はるるや、定家葛の、はかなくも、形は埋もれて、失せにけり
※巻第十一 戀歌一 百首歌の中に忍恋を 式子内親王
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ることの弱る
※巻第四 秋歌上 百首歌に 式子内親王
花薄まだ露ふかし穂に出でばながめじとおもふ秋のさかりを
※第十五 戀歌五 和歌所の歌合に逢不遇戀のこころを 皇太后宮大夫俊成女 異本歌
夢かとよ見し面影も契りしも忘れずながらうつつならねば
※第十 羇旅歌 駿河の國宇都の山に逢へる人につけて京にふみ遣はしける 在原業平朝臣
駿河なる宇都の山邊のうつつにも夢にも人に逢はぬなりけり
※続古今集 小野小町
夢ならばまた見る宵もありなまし何中々のうつつなるらむ 
第八 哀傷歌 六條攝政かくれ侍りて後植ゑ置きて侍りける牡丹の咲きて侍りけるを折りて女房のもとより遣はして侍りければ 大宰大貳重家
形見とて見れば歎のふかみぐさ何なかなかのにほひなるらむ

(その十五)

八半.jpg

『蕪村全集五 書簡』所収「四一七 天明元~三年 夏 百池宛て」

 上記の書簡について、先に(「蕪村の絵文字・その一」)下記の(参考)とおり記した。しかし、『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』では、蕪村の恋の句関連の書簡として、概略、次のとおりの鑑賞をしている。

一 夏山はつもるべき塵もなかりけり

 この蕪村の句は、「君なくて塵つもりぬる床夏(とこなつ)のつゆ打ちはらひ幾夜寝ぬらん」(『源氏物語(葵)』)を背景としている。この歌は「常夏(とこなつ)」に「床(とこ)」を言いかけたもので、これは妻の葵の上を失った源氏の独り寝を「塵つもりぬる床」と表現したものである。
 また、「塵をだにすゑじとぞ思ふ咲きしより妹(いも)とわが寝(ぬ)るとこ夏の花」(『古今集』・巻三)の歌は、「塵のつもりぬる床」の逆で、「塵をだにすゑじ床」の意となる。
 これらの歌を背景とすると、上記の句は、「塵の積もるはずの独り寝の床にあって、その積もるはずの塵さえないほどに、悶々とした日々を送っている」ので、今日の遊びに「御誘引を賜りたい」と続くとの鑑賞のようである。

二 「池」「ち」「千」の羅列は、「百池→百ち→百千→百千鳥」の連想を誘っている

 俳諧入門書の『俳諧独稽古』に「三字中略は千鳥(ちどり)を塵(ちり)と取る」とあるように、「チドリ」の三字を中略して「チリ」を発句としている。蕪村のこの書簡は、この「賦物」形式を利用して、発句に「塵」を詠んで「千鳥」の名を暗示し、そこから、「百池→百ち→百千→百千鳥」の連想を誘っている。
(そして、蕪村の「千鳥」の句には、妓楼の情緒を含んでいるようなニュアンスなのである。以下は、『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』の引用ではなく、『蕪村全集一発句』所収「明和五年(一七六八)作『千鳥』の句」を挙げて置きたい。)

二六四 磯ちどり足をぬらして遊びけり
二六五 打(うち)よする浪や千鳥の横歩き
二六六 湯揚(あが)りの舳先(へさき)に立ツや村衛
二六七 風呂と見て小船漕(こぎ)よる千鳥哉
二六八 風雲のよすがら月のちどり哉
二六九 浦ちどり草も木もなき雨夜哉
二七〇 羽織着て綱もきく夜や河ちどり
二七一 むら雨に音行(ゆき)違ふ衛かな
二七二 ふられたる其(その)夜かしこき川千鳥
二七三 鳥叫(ない)て水音暮るゝ網代かな
二七四 わたし呼(よぶ)女の声や小夜ちどり
二七五 小夜千鳥君が鎧に薫(たきもの)す
二七六 鎧来て粥を汲む夜や村千鳥

 そして、橘南谿の『北窓瑣談』(文政十二年、一八二九)に、「加茂川の西岸三条辺に、冬のころ暫し住みしことのありしに、夜は川千鳥はなはだ多く啼く。久しく京に住みながら、かく千鳥の多きことを始めて知りたり」とあるように、鴨川には千鳥が群をなして鳴いていたのである。そうした鴨川の千鳥の情緒が、祇園の妓楼を包んでいたと言うのである。

※ 「蕪村の絵文字」ということで、「蕪村書簡」中の、「絵が描かれている書簡、謎を秘めているような書簡」などを見て来たが、そのスタート時点の、この書簡からして、上記の『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』のように、どうにも、「謎が謎を生んで行く」気配で無くもない。
 しばらくは「蕪村書簡」(蕪村の絵文字)にはのめり込まないことが肝要なことなのかも知れない(丁度「その十五」は、その「潮時」に相応しいのかも知れない)。

(参考) 蕪村の絵文字(その一)

 「半」を八つ書いて、「八半」=「夜半(蕪村)」の駄洒落。
 「池・ち・千」を「百」(「百」はない。「百」の意に使っているか?)書いて=「百池」の駄洒落。

  夏山やつもるべき塵もなかりけり   蕪村の句

 『蕪村全集一 発句』所収「二六六一の頭注」は、「夏山は澄みきった青空の下、深緑の偉容を見せている。『塵も積もって山となる』などという俗謡とは無縁に」と格調の高い解がなされている。
どうも、書簡の内容からすると、「夏山」を「百池」に見立てて、「百池さんや、夜半は、『塵も積もって山となる』の、その塵(お金)一つない、金欠病にかかっている」という駄洒落の句の感じが濃厚である。
 「雪居」は、百池の一族で、書簡からすると何か貰い物をした蕪村のお礼の文面のようである。
 「佳東」は、「佳棠」のことで、蕪村門の俳人且つ蕪村のパトロンの一人である。「書肆・汲古堂」の大檀那で、蕪村は、佳棠の招待で、京の顔見世狂言などを見物し、役者の克明な芸評などをしている書簡がある。
 蕪村門には、もう一人、八文字屋本の版元として知られている、「八文舎自笑」が居る。
「百墨・素玉・凌雲堂」などと号した。三菓社句会の古参で、蕪村門の長老格である。明和四年(一七六七)に父祖伝来の版権を他に譲渡し、わずかに役者評判記や俳書などを出版していた。蕪村没後の寛政初年(一七八九)の大火で大阪に移住して、文化十二年(一八一五)で没している。
 さて、冒頭に戻って、「池・ち・千」と、書簡の宛名の「百池」を、この三種類の字体で書いたのも、江戸座の「其角→巴人」の流れを汲む、俳諧師・蕪村ならではの、何かしらの謎を秘めている雰囲気で無くもない。どうも、「一文銭・四文銭・十文銭」(一文=二十五円?)とか「銭貨・銀貨・金貨」などと関係していると勘ぐるのは、野暮の骨頂なのかも知れない。


蕪村の絵文字(六~十)

(その六)

暁台警戒1.jpg

『蕪村の手紙(村松友次著)』所収「一六 あらやかましのはいかいせんぎやな」

 『蕪村の手紙(村松友次著)』では、安永七年(一七七八)十一月十六日付け百池宛ての書簡としているが(上記の西暦=一七五一は誤記)、『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)岩波文庫』では、「暁台・士朗の冬期上洛の年と考え、安永七年と推定」としている。

 また、この書簡は、暁台(百池宛二通)と士朗(百池宛一通)の書簡、定雅の由来書、そして、蕪村筆の「時雨三老翁図」(田福・月渓・百池が時雨の中に立つ像を描き、各人が自筆で句を賛したもの)と共に一軸に合装してある(『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)岩波文庫』では「九七百池宛書簡」「参考資料一定雅由来書」「参考資料二百池宛暁台書簡」「参考資料三百池宛士朗書簡」「参考資料四百池宛暁台書簡」とその全容が収載されている)。

 さて、冒頭の百池宛蕪村書簡は、十一月十六日付け書簡の一部分なのであるが、その書簡中の「所詮、尾(び=尾張の意)と愚老(蕪村)とハ俳風少々相違有之」の「尾(び=尾張の意)」とは「尾張の加藤暁台」を指している。

 さらに、その書簡の中ほどに、「あらやかましのはいかいせんぎやな」(ああやかましい俳諧詮議やな)と、暁台は小うるさく理屈をこねくり回しているとの文言が出て来る。

 この書簡関連の経過は概略次のようなものである。

一 百池と士朗とが文音(手紙のやり取り)で連句を巻くことになり、発句・脇・第三が次のようなものであった。

発句 西山の棚曇りより時雨哉    百池
脇   火棚持出る活草の上     士朗
第三 雀百干飯の中をわたり来て   士朗

二 士朗より、この流れの書簡が来て、そこに、この発句の「哉」留めが、暁台師匠より「まずい」ということで、別途連絡があるということであった。

三 追っ付け、暁台から書簡があって、この発句では「棚曇り・より(方向のより)」の「から」の意に取れず、「棚曇り・より(比較の「より」)・時雨哉(時雨の方が良い)」ということになり、この「哉」を推敲するように指示があった。

四 それで、百池が蕪村の意見を求めたものの、蕪村の返信が上記の書簡なのである。そこで、蕪村は、百池に、次のようなことを伝えるのである。

1 蕪村俳諧と暁台俳諧とは、そもそも俳風が相違する。

2 暁台俳諧は、理屈の俳諧で、そういう指導があったら、「料簡次第に御直し」して置きなさい。

3 「西山の棚曇りより時雨来ぬ」などと直したら、これは「くそ(糞)のごとくニ候」で、「哉」の方が「留まり候事也」だが、「所詮とやかくと理屈をこるねほどの句ニても無之候」と突き放している。

4 しかし、理屈屋の暁台に、こんなことを伝えたら、「とんでもない」ことになるから、他言は「決して御無用」と念を押している。

五 最終的には、暁台と百池とのやり取りがあって、「西山のたな曇りより夕しぐれ」で、暁台の「夕字千金ニ御座候」と、決着するが、蕪村は、武家出身の体面を重んずる業俳(俳諧を業としている)の暁台の本質を見抜いていて、「面従腹背」の姿勢を貫いているのである。

 この蕪村と暁台とが、「芭蕉に帰れ」を旗印とした安永・天明時代の「中興俳諧再興」の数多き諸家の中でも二大支柱とされるのが常であるが、「暁台は遊女の風なり。人に思はるゝの姿をつくしたれと(ど)も、人の思ふ実情薄し」(『無孔笛・鈴木道彦編』)という評価は、蕪村の上記の書簡の評価と重なるものがあろう。

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蕪村筆「時雨三老翁図」(左より「百池・月渓・田福」)=書簡と合装して一軸となっている。 

(その七)

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蕪村筆「時雨三老翁図」(左より「百池・月渓・田福」)・『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)岩波文庫』

 「時雨三老翁図」の左端の後ろ向きの人物が百池で、その上の百池の句(百池直筆)は「西山の棚曇よりしぐれ哉」、真ん中の人物が月渓で、その上の月渓の句(月渓直筆)は「其夢のかれ野も匂ふ小春かな」、そして、右端の人物は田福で、その上の田福の句(田福直筆)は「薄月夜山は霽(しぐれ)の影法師」である。

 田福(川田氏)は、享保六年(一七二一)の生まれ、蕪村より五歳年少で、蕪村門の長老格である。田福の川田家と百池の寺村家とは姻戚関係にあり、京都五条室町で呉服商を営み、摂津池田に出店があった。俳諧のほか、謡曲・蹴鞠・絵画をよくし、「識度超越・百事を解し・器物の鑑賞に長じていた」(川田祐作居士遺愛碣)と、超一流の教養人であったのであろう。
 月渓(松村氏)は、宝暦二年(一七五二)に京都堺町通四条下ルで生まれ、松村家は代々金座の重役で、月渓も若くして金座の平役を勤めている。後に、明和末年(一七七一)より画・俳共に蕪村に師事した。金座の廃止、妻と父の不慮の死などに遭遇し、天明元年(一七八一)より摂津池田に移り、田福の庇護を受けた。蕪村の信頼は厚く、「篤実の君子」「画には天授の才有之」などの蕪村が月渓を評した書簡が残されている。この上記の剃髪前の大たぶさを結った眉の太い月渓の風姿は、摂津池田に移り、田福の庇護を受けていた頃の雰囲気で無くもない(剃髪前の月渓像は唯一、この「時雨三老翁像」のみである)。
 百池(寺村氏)は、寛延元年(一七四八)に、京都河原町四条上ルの糸物問屋「堺屋」に生まれ、父は巴人門の酒白窓三貫、二代にわたり与謝蕪村に師事した。蕪村の百池に対する信頼はあつく、多くの百池宛書簡が伝わっている。他方、加藤暁台一派とも親しく、蕪村と暁台交友の接点ともなっている。俳諧のほかに、画を円山応挙に、茶を藪内比老斎に学んだ。

 この「時雨三老翁図」の左に「右 夜半亭蕪村翁戯画 門生百池證 印」の端書が書せられている。この蕪村戯画は、蕪村から百池に与えられ、百池が、自分の句を自書し、田福と月渓に、それぞれ句を自書して頂いたものなのであろう。
 蕪村は、田福と月渓の二人には、その横顔を描いて、百池だけは頭巾を被っての後ろ姿だけを描いたのは、これも蕪村の「抜け」(省略)的な俳諧化的な趣向なのであろう。しかし、この百池の後ろ姿だけを見ても、百池が家業にも俳諧にも、若くして棟梁的な雰囲気を漂わせているのは、やはり、蕪村の手練の為せる技なのであろう。

 さて、この百池の句が、安永七年(一七七八)十一月十六日付け百池宛ての書簡に関連する、百池宛士朗書簡(安永七年十一月八日付)に記載するところの、次の発句であることが面白い。
 すなわち、この百池の発句の「哉」を推敲するように指示した暁台とのやり取りで治定した「西山のたな曇りより夕しぐれ」ではなく、蕪村が、この「哉」で良しとする、その句形のままに、蕪村の戯画に、百池が自薦句として自書しているところに興味が惹かれる。

発句 西山の棚曇りより時雨哉    百池
脇   火棚持出る活草の上     士朗
第三 雀百干飯の中をわたり来て   士朗

(その八)

几董宛書簡.jpg

『蕪村の手紙(村松友次著)』所収「一九 へんしう(偏執)多き人心」

 『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)岩波文庫』では、「一三〇几董宛(安永九年)」に、その全文が収載されている。

 上記の書簡中の、「只さへへんしう(偏執)多き人心(ひとごころ)に候」というのは、「只でさえ偏見我執の多いのが人間の常ですが」というような意で、次の「こと更(さら)尾(び)の輩などハ何がな疵(きづ)を見出し候にてあしざまニ沙汰せんと、手ぐすミいたし居(をり)候おもむきニ候」に掛かるのであろう。

 この「尾(び)」とは、暁台の尾張俳壇を指していることは言うまでも無い。暁台と几董では、十歳程度、暁台が年長である。そして、几董は、夜半亭二世蕪村が、その生前に夜半亭三世を継ぐことを宣言している、巴人→蕪村と続く「夜半亭俳諧」の正統な継承者なのである。

 蕪村が没したのは、天明三年(一七八三)十二月二十五日の未明、明けて天明四年(一七八四)の春、几董は、蕪村追悼集『から檜葉(几董編)』を刊行し、その十二月二十五日に、『蕪村句集(几董撰)』を刊行する。

 さらに、天明五年(一七八五)に、夜半亭二世与謝蕪村が、生前に、師の夜半亭一世早野巴人の『一夜松』に倣い『続一夜松』を編纂しようとして叶わなかったことに思いを致し、義仲寺で薙髪して江戸に下り、当時の日本俳壇のトップに位置していた大島蓼太の推薦を得て、夜半亭三世を継承し、その冬に、『続一夜松』(『前集』「序」=蓼太、「跋」=自跋、『後集』「序」=重厚、「跋」=道立、『後集』の刊行=天明六年)を刊行し、それらを北野天満宮に奉納する。

 ここに、名実共に、夜半亭俳諧は、二世蕪村から三世几董へと引き継がれることになる。
この夜半亭俳諧の継承には、蓼太と共に大きな勢力を形成していた暁台との関わりは見られない。その背景には、蕪村の、この冒頭の書簡に見られる、暁台俳諧に対する名状し難き感情の縺れが、蕪村の継承者の几董へと引き継がれている思いを深くする。

 安永二年(一七七三)当時の、蕪村が暁台と初めて接した頃は、蕪村は暁台を「百世の知己」「実にはいかい(俳諧)の伯楽」「丁寧家懇情の人」とまで評価し、期待をかけていたのだが、この書簡の安永九年(一七八〇)の頃には、「へんしう(偏執)多き人心/こと更(さら)尾(び)の輩」と不信感を露わにしている。

 この不信感は、「暁台を批判する蕪村書簡」(大阪俳文学会会報第二十号、昭和六一年九月)になると、「なごや(名古屋)のはいかい(俳諧)けしからぬ物に相成候」「いやみの第一」「むねの悪き事」「目も当らぬ次第にて候」「暁台もいけぬものに候」とまで増大して来る。

 しかし、表面的には、この蕪村の暁台に対する不信感は顕現化せず、天明元年(一七八一)十月には、蕪村は暁台編の『風蘿念仏』の「序」を書き、亡くなる天明三年(一七八三)三月の「洛東安養寺及び金福寺における暁台主催芭蕉百回忌取越し追善俳諧興行」に全面的に支援し、蕪村の夜半亭一門と暁台の尾張一門との交流は絶えることはなかったのである。

 そして、その年の暮れ、十二月二十五日に蕪村が没するや、明けて天明四年(一七八四)一月二十五日、暁台は尾張より急遽上洛して、洛東金福寺の本葬に参列し、追悼の辞を草する共に、夜半亭一門との一順歌仙を霊前に手向けているのである。

 この蕪村の夜半亭一門と暁台の尾張一門との交流の影の立役者は、蕪村と暁台の両巨匠に絶大なる信頼があった、寺村百池の存在を抜きにしては考えられないであろう。それは、蕪村没後も、暁台の信任は厚く、また、蕪村の後継者几董亡き後も、同門中で重きを成している一事を取っても、容易に窺がい知れるところである。

 それは、「堺屋」を背景とする豊富な財力や経営力と共に、自筆の『大来堂句集(十一巻)』に見られる穏健清雅な句風、そして、蕪村の句稿をまとめた「落日庵句集」「夜半叟句集」、さらには、夜半亭一門の句筵控えの「夏より」「高徳院発句会」「月並発句集」「紫狐庵発句集」「耳たむし」などの稿本(『蕪村全集三 句集、句稿・句会稿』に収載されている)などを目にする時、蕪村と蕪村一門の俳諧の中で、百池が果たした役割というのは、想像を絶するものがある。

 百池は、晩年薙髪して「紹賀・大来堂・微雨楼・九隠斎・閑柳亭・竹外」などと号したが、その晩年の百池像は下記のとおりである。

寺村百池肖像2.jpg

(晩年の薙髪後の「寺村百池肖像」=早稲田大学図書館蔵)

(その九)

几董宛書簡2.jpg

『蕪村の手紙(村松友次著)』所収「六 京師之人心、日本第一之悪性」

 『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)岩波文庫』では、「三几董(推定)宛(日付なし)」に、その全文が収載されている。
 この書簡の中ほどに、「名角(なにか)ニ付(つけ)京師之人心(けいしのじんしん)、日本第一之悪性(あくしやう)ニ而(て)候」という文言が出て来る。意味は、すばり「何かにつけて京都の人間の心は日本第一の悪性(悪い性質)であります」と、蕪村の強烈な京都人への痛罵なのであろう。
 この蕪村の書簡は、蕪村が夜半亭二世を襲名し、俳諧宗匠の仲間入りをした、明和七年(一七七〇)三月以降の、その蕪村の夜半亭継承に関連する書簡のようである。
 冒頭の「御細書(さいしよ)御厚意之趣(おもむき)相心得候」というのは、「細々としたお手紙、私(蕪村)に対するお心遣いよく承知しました」ということで、「蕪村が夜半亭二世を継承したのは、若い几董に夜半亭三世を継承させるための繋ぎ役なのだ」ということについては、「夜半亭社中で不満に思っている方がおられますから、その点の御配慮をお願いします」というような、几董の書簡の返信のようなのである。
 それに対して、「社中ニ左様之不平をいだき被申候(まうされさうらふ)仁(じん=人)、たれ(誰)ニ而(て)候哉(や)」と、「その不満をいだいている人とは誰なんだ」として、「京師之人心、日本第一之悪性」という文言が続くのである。
 そして、この書簡の後半に、「何ぞ可焉(かえん)・来川(らいせん)が輩」と、「夜半亭一世(郢月泉)早野巴人」に連なる古参俳人の「可焉(上阪氏)」と「来川(来川庵小川由至)」との名が出て来る。

 ここで出て来る「可焉(上阪氏)」は、現在、早野巴人の唯一の墓(詣墓=まいりばか)である京都の俗称椿寺で知られている昆陽山地蔵院の「宋阿早野巴人墓」の建立者なのである。
 夜半亭宋阿(早野巴人)は、寛保二年(一七四二)六月六日、江戸日本橋石町で没する(享年六十七)。当時、宰鳥を名乗っていた門人蕪村は二十七歳の夏である。宋阿(巴人)は浅草幡随院門前の即随寺に埋葬された。その即随寺は、文政年間の火災及び関東大震災によって打撃を受けて、千葉県市川市に移転していて、過去帳は遺っているようだが、墓碑は不明のようである(『与謝蕪村の俳景―太祇を軸として― 谷地快一著・新典社』所収「京都の早野巴人墓碑覚書―俳諧寺可焉と蕪村」)。
 寛政九年(一七九七)刊行の『誹諧家譜後拾遺』で、可焉について「明和九年(一七七二)九月十三日没 年七十五」とか(『谷地・前掲書)、それで生年を逆算すると、元禄十年(一六九七)生まれ、彭城百川と同じ年ということになる。いずれにしろ、蕪村よりも相当年配な、京都在住時代の早野巴人門下の一人であることは間違いない。
 宋阿(巴人)が江戸を出立して上洛したのは、享保十年(一七二五)の、五十歳の頃で、再び、江戸に帰って来たのは、元文二年(一七三七)、六十二歳の時である。従って、宋阿(巴人)の関西(主として京都)移住は、十二年間程度で、この京都時代に、宋屋(富鈴)と几圭(宋是)とが、巴人門の高足である。
 宋屋は、望月氏、初め百葉泉・富鈴・机墨庵などを号とした。宋阿(巴人)帰東後は一門を率いて、淡々系俳家など他流と広く交際し、京俳壇の一方の雄となっている。門人も多く、嘯山(三宅氏)・武然(望月氏)・蝶夢(睡花堂・五升庵・泊庵)など、宋屋後もそれぞれ一派を成している。
 几圭は、高井氏、庵号は郢月居(巴人の庵号の郢月泉と関係があるか)、薙髪して宋是を名乗る(これも巴人の別号の宋阿と関係があるか)。蕪村の後継者となる几董は、几圭の次男で、几董の初号は雷夫である。
 京都椿寺の地蔵院に在る「宋阿早野巴人墓」の建立者の可焉は、宋屋よりも几圭に近い俳人のように思われるが、蕪村が夜半亭二世を継承した明和七年(一七七〇)当時には、宋屋(明和三年=一七六六没)も几圭(宝暦十年=一七六〇)も亡き京都の巴人門の中では、最古参の俳人の一人だったのであろう。
 そして、蕪村は、「愚老ひろめの事(文台開きの事=宗匠になったことを世間に知らせる儀式)も、滞りなく相済み候間、御安心下さるべく候」(明和七・一七七〇年三月二十二日付の召波宛書簡)と、宋阿(巴人)没後二十八年の後に、夜半亭誹諧が京都で蘇ったのであるが、その夜半亭継承に関連しては、いろいろと複雑なことがあったのであろう。
 この蕪村が夜半亭誹諧を継承した明和七年(一七七〇)から可焉が没した明和九年(一七七二)の、この二年間という短い期間前後に、可焉は、「宋阿(巴人)敬慕の墓守を自らに命ずる意味で俳諧寺を名乗り、詣墓を建てた」とする推測も十分に成り立つであろう(『谷地・前掲書)。
 なお、この可焉について、『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)岩波文庫』では、
「安永三年=一七七四没」「上坂(『誹諧家譜後拾遺』)氏は上阪氏の表記」と、『誹諧家譜後拾遺』とは違った記述をしている。

 ここで、明和七年(一七七〇)の蕪村の夜半亭継承について、別な観点からすると、次のような環境にあったということが言えるであろう。

一 宋阿(巴人)俳諧の継承者の第一は、宋屋であったが、宋屋は、明和三年(一七六六)に没し、その宋屋誹諧は、宋屋の高足の武然(望月氏)に引き継がれている。
二 この宋屋に次ぐ几圭は、宝暦十年(一七六〇)に没しているが、生前に、宋阿(巴人)の別号である「郢月泉」に因んでの「郢月居」を別号としており、その几圭誹諧は、遺児の几董が引き継ぐとすると、几董が、宋阿(巴人)俳諧の、「郢月泉」なり「夜半亭」を継承することは一つの自然の流れであろう。
三 明和七年(一七七〇)当時、宋阿(巴人)の「夜半亭」の継承者としては、江戸と京都の巴人門の中で、蕪村より年長者の結城の俳人雁宕(砂岡氏)が健在であったが(安永二年=一七七三没)、雁宕は江戸俳壇関連の人で、京都俳壇とは極めて遠い存在で、「夜半亭」の継承者としては、やや難点があったことであろう。
四 明和六年(一七六九)に、『江戸廿歌仙』(湖十等編)に比すべく『平安二十歌仙』(三宅嘯山等編)が刊行され、その発句の部(「追加 四季混雑」)で、その筆頭に蕪村の四句が収載されている。この『平安二十歌仙』は、太祇(紀逸門)・嘯山(宋屋門)・随古(巴人門)の三吟二十巻が主たるもので、発句には、太祇(四句)、嘯山(四句)、随古(二十二句)と、最も句数が多いのは随古(湯浅氏)で、この三人が当時の京都俳壇の最右翼に位置していたのであろう。そして、この三人は、当時の蕪村と親交が厚く、特に、太祇は、当時の蕪村の三菓社句会の実質的なリーダー格的な役割を果たしていた。この三人は、蕪村の夜半亭継承に大きな役割を果たしたであろうことは、想像するに難くない。
五 この『平安二十歌仙』の発句の部にも、「可焉・来川」の名は見られない。また、几董の亡父几圭十三回忌を早めて、明和九年(一七七二)に刊行した、蕪村七部集の筆頭を飾る『其雪影(几董編)』にも、その名は見られない。そして、この『其雪影』こそ、夜半亭二世蕪村とその三世を引き継ぐことが約束されている几董とが、世に問うた第一の俳諧撰集ということになろう。

 さて、冒頭の蕪村書簡に戻って、蕪村が「京師之人心(けいしのじんしん)、日本第一之悪性(あくしやう)ニ而(て)候」と痛罵したのは、生粋の京都人の几董宛て書簡の中であり、当時の夜半亭誹諧(三菓社社中)の主だった面々(随古・召波・烏西・峨眉・図大・田福・百池・鶴英・子曳・自笑・鉄僧・杜口・馬南=大魯・維駒・郢里等々)の殆どが、京都人であることに鑑みると、故郷喪失者(「浪速江近きに生を享け、若くして江戸放浪の身となり、京に定住しても余所者意識の強い、帰るべき母郷と決別している「故郷喪失者」)としての、「やるかたなきよりうめき出(いで)たる実情」(安永六・一七七七年二月二十三日付、柳女・賀瑞宛書簡)の吐露に近いものであったという思いを深くする。

早野巴人墓.jpg

京都・俗称椿寺で知られている地蔵院の「宋阿早野巴人墓」
左側=墓碑(正面に「宋阿墓」、碑影に「こしらへて有とはしらす西の奥/俳諧寺可焉建之)
右側=記念碑(側面に「巴人晩年宋阿ト号ス其角ノ門人ニシテ蕪村ノ師ナリ享保ノ中頃京ニ来往後江戸ニ帰リ寛保二年六月六日歿享年六十七/昭和七年七月 藤井紫影)

(その十)

其雪影.jpg

『天明俳諧集(新日本古典文学大系)・岩波書店』所収「其雪影(下巻)」=「巴人・几圭対座像」

 『蕪村七部集』のスタートを飾る『其雪影(几董編)』は、巻首(上巻)と巻尾(下巻)との二巻から成り、明和九年(一七七二)に刊行されている。この俳諧撰集は、宝暦十二年(一七六二)十二月二十三日に没した父几圭の十三回忌追善のために編んだものであるが、几圭の実際の十三回忌は安永三年(一七七四)で、それを二年引き上げている。
 それは、明和七年(一七七〇)三月の、蕪村の夜半亭二世継承と大きく関係していることであろう。この六月より、几董は俳諧修行のため句稿を書き始め、その第一集が『日発句集』(明和七年歳旦より翌八年六月に至るまでの「発句・連句・俳文・紀行等」の記録集)である。
 その『日発句集』の「発端」には、「巴人(夜半亭一世)・几圭(巴人門の高足で几董の父)・蕪村(夜半亭二世)」の三人を、「師祖(巴人)・亡父(几圭)・蕪師(蕪村)」とし、その三人の句を「巻のかしら(頭)」とするということで、その「数十章」の句が列記されている。
 この几董の『日発句集』を目の当たりにすると、蕪村は夜半亭二世を継承する時に、その三世は、「師祖(巴人)・亡父(几圭)・蕪師(蕪村)」の、この「亡父(几圭)」の遺児(几董)にバトンタッチをするということで、蕪村に懇請をされたものであろう。
 几董は、明和七年(一七七〇)七月に、この蕪村の懇請を受けて、夜半亭社中(三菓社中)に、馬南(後の大魯)と共に参加する。蕪村は、将来の夜半亭社中を、この二人に託するという意味合いもあったのであろう。

 当時の夜半亭社中の連衆(会衆)は次のとおりである。

(明和三年三菓社句会の初回からの連衆)
 蕪村・太祇・召波・鉄僧・竹洞・印南・峨嵋・百墨(後の自笑)
(明和三年七月~明和五年七月、蕪村讃岐行のため休会)
(明和五年三菓社句会再開、以降の新参加者)
 鶴英(伏見、明和五年六月~)、田福(明和五年七月~)、五雲(江戸より移住、明和五年十二月~)、図太(江戸より移住、明和六年~)、鷺喬(伏見、明和六年六月~)、竹護(江戸より移住、明和七年六月~)
 几董・馬南(後の大魯)=明和七年七月~
 泰里(江戸より上京)・嘯山(泰里の上京中参加)=昭和七年七月~九月

 蕪村が、夜半亭二世を継承したのは、明和七年(一七七〇)三月であるが、その翌年の明和八年(一七七一)八月に、盟友太祇が没(享年六十三)、秋に伏見の鶴英没、そして、十二月に、召波没(享年四十五)と、悲報が続く。そういう悲報と併せ、上記の三菓社中は夜半亭社中に移行し、三菓社句会は高徳院(知恩院の一院の名)発句会に衣替えをして行く。この高徳院発句会の新参加者は次のとおりである。

(明和八年四月~) 百池、その他几董社中数名
(明和八年八月~) 武燃(宋屋門)、重厚(蝶夢門)、維駒(十一月~)

 この明和八年(一七七一)の春に、蕪村は『明和辛卯春』の春興帖を刊行し、その翌年の明和九年・安永元年(一七七二)、上記で紹介した『其雪影(几董編)』が、単なる几圭追善集ではなく、夜半亭一門の実質的な俳諧撰集として広く世に問うことなる。
 この翌年の安永二年(一七七三)に、几董は「春夜楼」という俳諧結社を結成し、独自に『初懐紙』と称する歳旦帖を出している。すなわち、几董は、蕪村の夜半亭社中から独立して、俳諧宗匠(点者)の道を歩み始める。
 この几董の独立と歩調を併せ、馬南(大魯)が、大阪で「蘆陰社」という俳諧結社を結成する。馬南(大魯)が俳諧宗匠(点者)となったのは、蕪村よりも早く、明和七年(一七七〇)の在京俳諧宗匠(点者)六十余人中、馬南(大魯)は五十七番目、蕪村は六十四番目で、宗匠(点者)としては大魯が先輩格であるが、その業俳(俳諧を業とする)のままに、蕪村の夜半亭社中に参加し、蕪村を師と仰ぐのである。
 そして、この安永二年(一七七三)に、几董と馬南(大魯)の両吟歌仙一巻を筆頭にした、『蕪村七部集』の第二集に当たる『あけ烏(几董編)』が刊行される。この『あけ烏』は、蕉風復興を志向し、俳諧の新風を世に示すものであった。同時に、几董一門の歌仙二巻が収載され、几董の「「春夜楼」俳諧のスタートを意味するものであった。
 これらの夜半亭一門の几董や大魯の動きと並行して、当時、二十二歳の月渓(松村氏)が蕪村の句会に参加している(『耳たむし』)。それは、その翌年の安永三年(一七七四)からスタートする、「高徳院発句会」から「月並発句会」への衣替えと繋がっている。
 この夜半亭一門の「月並発句会」の連衆(会衆)は、従来からの、「蕪村・几董・田福・鉄僧・自笑・百池・佳棠・我則・五雲・維駒」等の他に、「月渓・道立・柳女・賀瑞・正名・東瓦」等が参加して来る。

 さて、冒頭に掲げた『其雪影(几董編)』の「巴人・几圭対座像」について触れて置きたい。

この右上の画像は、巴人像で、その上に、「郢月泉巴人 後以巴人為菴号 更名宋阿 別号夜半亭」(郢月泉巴人、後ニ巴人ヲ以テ菴号ト為シ、名ヲ宋阿ニ更メ、別ニ夜半亭ヲ号ス)と、説明書きがしてある。その左に、次の巴人の句が記述されている。

 啼(なき)ながら川こす蝉の日影哉

 その巴人に対座しての左下の画像は、几圭像で、その右に、「高几圭 後更名宋是 号几圭菴」(高《井》几圭 後ニ名ヲ宋是ニ更メ、几圭菴ト号ス)と説明書きがあり、左上に次の几圭の句が記述されている。

  凩のそこつはあらでんめ(梅)の花

 巴人像の文台の右下に、「夜半亭蕪村画 門人高几董書」とあり、蕪村が画像を描いて、書は几董筆であることが記述されている。

 実は、この「巴人・几圭対座像」の前に、「芭蕉・晋子(其角)・嵐雪像」があり、そこに、次の三句が記述されている。

  古いけや蛙とび込(こむ)水の音   芭蕉翁
  稲妻やきのふは東けふは西      晋其角
  黄ぎく白菊そのほかの名はなくも哉  雪中菴嵐雪

 この「芭蕉・晋子(其角)・嵐雪像」と「巴人・几圭対座像」とにより、蕪村が継承した夜半亭俳諧は、「芭蕉→其角・嵐雪→巴人→几圭」に連なり、「蕪村→几董」に継承されて行くことを示唆している。この「芭蕉・晋子(其角)・嵐雪像」は、次のとおりである。

芭蕉・其角・嵐雪像.jpg

『天明俳諧集(新日本古典文学大系)・岩波書店』所収「其雪影(下巻)」=「芭蕉・晋子(其角)・嵐雪像」





蕪村の絵文字(一~五)

(その一)

八半.jpg

『蕪村全集五 書簡』所収「四一七 天明元~三年 夏 百池宛て」

 「半」を八つ書いて、「八半」=「夜半(蕪村)」の駄洒落。
 「池・ち・千」を「百」(「百」はない。「百」の意に使っているか?)書いて=「百池」の駄洒落。

  夏山やつもるべき塵もなかりけり   蕪村の句

 『蕪村全集一 発句』所収「二六六一の頭注」は、「夏山は澄みきった青空の下、深緑の偉容を見せている。『塵も積もって山となる』などという俗謡とは無縁に」と格調の高い解がなされている。
どうも、書簡の内容からすると、「夏山」を「百池」に見立てて、「百池さんや、夜半は、『塵も積もって山となる』の、その塵(お金)一つない、金欠病にかかっている」という駄洒落の句の感じが濃厚である。

 「雪居」は、百池の一族で、書簡からすると何か貰い物をした蕪村のお礼の文面のようである。
 「佳東」は、「佳棠」のことで、蕪村門の俳人且つ蕪村のパトロンの一人である。「書肆・汲古堂」の大檀那で、蕪村は、佳棠の招待で、京の顔見世狂言などを見物し、役者の克明な芸評などをしている書簡がある。
 蕪村門には、もう一人、八文字屋本の版元として知られている、「八文舎自笑」が居る。
「百墨・素玉・凌雲堂」などと号した。三菓社句会の古参で、蕪村門の長老格である。明和四年(一七六七)に父祖伝来の版権を他に譲渡し、わずかに役者評判記や俳書などを出版していた。蕪村没後の寛政初年(一七八九)の大火で大阪に移住して、文化十二年(一八一五)で没している。

 さて、冒頭に戻って、「池・ち・千」と、書簡の宛名の「百池」を、この三種類の字体で書いたのも、江戸座の「其角→巴人」の流れを汲む、俳諧師・蕪村ならではの、何かしらの謎を秘めている雰囲気で無くもない。どうも、「一文銭・四文銭・十文銭」(一文=二十五円?)などと関係していると勘ぐるのは、野暮の骨頂なのかも知れない。

(その二)

節季.jpg

『蕪村書簡集 岩波文庫』所収「一八九 佳棠宛(十二月二十七日)・年代不詳」

 この図柄(絵文字というより素描)は、浄瑠璃「ひらがな盛衰記」第四段、傾城梅ケ枝が、「ア、金がほしいなアー」と手水鉢を無間の鐘に見立てて、柄杓で打てば、「其の金ここに」と、小判三百両が二階の障子の内から、ぱらりと投げ出される。その梅ケ枝の身振りとか(脚注一)。
 書簡の内容は、「此の節季」の「節季」(十二月の年末)に関してのものである。その年末に、「けふはあまりのことに手水鉢にむかい、かゝる身ぶりをいたし候得共、『其の金ここに』、といふ人なきを恨み候」と、新しい年を迎える金がないということと思いしや、「されども此の雪、只も見過ごしがたく候」と、年末の忙しい時に、折りからの雪を見て、「雪見酒」の宴会をやりたいという文面のようである。
 場所は、「二軒茶や中村やへと出かけ可申候」というのである。嵐山は三軒茶屋だが、こちらは、祇園南楼門前の二軒茶屋、東を中村屋、西を藤屋というとか(脚注二)、その中村屋(祇園豆腐が名高いとか)を、御指名している。
 この蕪村書簡の宛名は、「佳棠福人」とある。この「佳棠」は、先(その一)に触れた、書肆田中汲古堂のこと「佳棠」大檀那であり、「福人」という敬称は、「雪見酒の金主を頼む故」のものとか(脚注三)。

 さて、冒頭の蕪村書簡に戻って、その書簡にある図柄(素描)は、「蕪村」その人の風姿なのであるが、当時の蕪村は、明和八年(一七七一)の歳旦帖『明和辛卯春』に、「浪花の鯉長、江戸の梅幸・雷子・慶子」らの俳優連が、それぞれの句を寄せているほどの、その俳優連の熱烈なファンの最たるものだったのである。
 その芝居好きの蕪村の最も良き相方が、この書簡の宛名にある「佳棠」その人である。

 ちなみに、「ひらがな盛衰記」第四段の傾城梅ケ枝の「あらすじ」は次のとおりである。

「勘当された源太と千鳥のその後の運命を綴ったのが四段目の「辻法印」「神崎揚屋」である。源太を養うため千鳥は神崎の廓に身を沈め、梅ヶ枝と名乗る遊女になった。折しも一の谷で合戦が起こり、源太は梅ヶ枝に預けていた産衣の鎧を取りにくる。しかし梅ヶ枝は、源太の揚代を作るため、鎧を質に入れてしまっていた。百計尽きた梅ヶ枝は、小夜の中山の無間の鐘の言い伝えを思い出し、庭の手水鉢を鐘に見立てて柄杓で打とうとした。その時二階から質受けに必要な三百両の金が降ってきた。客に化けていた母延寿の、思いがけない情の金であった。」

傾城梅ケ枝.jpg

[左から]傾城梅ヶ枝(中村福助)、梶原源太景季(中村信二郎) 平成15年9月歌舞伎座

(その三)

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『蕪村全集五 書簡』所収「四一明和九年一月四日 無宛名」

 書簡の冒頭に、この謎めいた絵文字が出て来る。この右上に書いてある文言は「わたしはお前の兄さんのむすめでござんす」で、左下の文言は、「これはそのほうにたのむ。大事な物じや。かならずかならず失ふな。ナ合点歟。かならずかならず失ふな」と書いてある。
 そして、書簡の出だしに、「『一(わたしはお前の兄さんのむすめでござんす)』の『二(これはそのほうにたのむ。大事な物じや。かならずかならず失ふな。ナ合点歟。かならずかならず失ふな)』の御慶、めでたく申納候。御家内様御揃御平安被成御越年、奉賀候」と続くのである。
 その書簡の末尾には、次の「歳暮」の句が出て来る。

   歳暮
  張子房と云(いへ)る題を探りて
 石公(せきこう)へ五百目戻すとし(年)のくれ(くれ) 蕪村

 この句は、『蕪村全集一 発句(八三六)』に「題 沓(くつ)」で収載されている。句意は、「年末の借銭を返すのに、張良が石公に沓の片方を拾って戻したのに倣い、半分を返して済ますことにしよう。故事の俳諧化」とある。
 この句意を得て、この書簡は、「歳暮(年末)・歳旦(新年)」の挨拶の書簡ということと、やはり、「歳暮の借銭返し」に関連するものという背景が浮かび上がっている。
 『蕪村全集五 書簡』では、「冒頭の絵文字は解読できない」(頭注)とあるのだが、この書簡は、いわゆる、「判じ物」(当時流行していた「絵」を見て「答」を探る「謎々遊び」)のようである。
 そのヒントは、『蕪村全集六 絵画・遺墨』所収「書簡等挿絵・絵文字『五無宛名書簡絵文字(判じ物)』・『六右書簡添句挿絵』」にあるようである。

絵文字2.jpg

『蕪村全集六 絵画・遺墨』所収「書簡等挿絵・絵文字『五無宛名書簡絵文字(判じ物)』・『六右書簡添句挿絵』」

 すなわち、この書簡の冒頭の「絵文字」(謎々は?=『五無宛名書簡絵文字(判じ物)』)の、その答えは、この書簡の末尾の「絵文字」(『六右書簡添句挿絵(答)』)ということになる。

(その四)

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『蕪村書簡集 岩波文庫』所収「二三三 ふくえん宛(十月十五日付)

 この図柄の女性は、表書きに、「十月五日 ふくえんさま ぶそん」とあり、蕪村一門の行き付けの「ふくえん(伏渕)」の女将宛てのものなのであろう。この「日付け」が面白く、この書状は、「十月五日」に書かれたものであるが、この画は、「廿七日夜」に書かれているのである。
 すなわち、十月五日、この文面にあるとおり、「百池・佳棠」と「伏渕」で書状のとおりの「飲み会」となり、その折、その飲み会のお知らせの十五日付けの書状に、宴の半ばにて、その伏渕の女将は、蕪村に画を描くように懇請したのであろう。
 その宴席(十五日)では、蕪村は即座に描かずに、その書状を持ち帰り、「廿七日夜」に、この画を描いて、女将に差し上げたというのが、この「絵」付きの「書簡」の背景ということになる。
 この「廿七日夜」に描いた絵の脇に、「ふくえん/おはぐろつぼへてつきうのおれを入(いれ)るところ」と添書きがしてある。
 この「おはぐろつぼ」は「お歯黒壺」、「てつきう」は「鉄灸」、「おれ」は「折れ」を平仮名で書いている。「ふくえん(伏渕)」の女将は「お歯黒」の美人だったのであろう。

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原書簡の蕪村の筆跡(部分)=『蕪村の手紙(村松友次著)』(表紙画より)=柿衛文庫蔵

(その五)

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『蕪村全集五 書簡』所収「安永七年十月十一日 暁台・士朗宛書簡」(名古屋市博物館蔵)

  この書簡の内容は、以下のようなことである。

一 名古屋俳諧の巨匠・暁台が、士朗・閭毛(りょうもう)を伴って、安永七年(一七七八)十月に上洛するが、慌ただしく帰国する。その早々の帰国は何か気に障るようなことがあったのかと一抹の懸念を伝えている。
二 蕪村門の「道立・我則・月居・維駒」が亭主役になって歌仙を巻く準備していたが、それが出来なくて心残りである。
三 士朗注文の絵を揮毫したこと。また、暁台の庵名の「龍門」の額字が出来たこと。
三 暁台が仲介役になっている名古屋の富商達の依頼品も近日中に揮毫すること。「おくのほそ道」画巻を完成させて近々送付すること。
四 此の書簡は、暁台と士朗のお二人宛てになっているが、閭毛にも御伝声をお願いしたい。
五 日付は、「十月十一日」(安永七年は推定)。
六 宛名は、「暮雨(暁台の別号)主盟(同盟の主宰者)・士朗国手(医者の尊称)」。
七 蕪村は、次の二句を文末に記して、暁台と士朗の意見を徴している。
    茶の花や石をめぐりて道を取(とる)
    道を取(とり)て石をめぐればつゝじ(躑躅)かな
八 その後に、上記の「蕪村写於雪楼中」の落款のある蕪村の戯画が描かれている。

 この戯画中の、「朱樹台」は士朗の別号で、真ん中の人物が士朗であろう。その左の女性と肩を組んでいるのは暁台で、「ヨウ こちのこちの カウモ有(アロ)ウ 尾張名古家(屋)は 士朗(城)でもつ」は、士朗と「口合」(洒落・語呂合わせ)をしていて、「名古屋の暁台俳諧は『士朗』で持っている」というような意であろう。
 真ん中の人物の士朗が、「朱樹台(士朗の別号)を已来(以来)やくたい(「益体も無い遊びに熱中する」の「益体」)と改メマショウ」と、駄洒落を連発して、酒宴を盛り上げている。
 この「久村(暁台の別姓)キヤウトイ キヤウトイ」は、その士朗を見て、「キヤウトイ(気疎し=きやうとし=きやうとい=「えらい・けなげだ」)・キヤウトイ」と名古屋弁で暁台が囃しているのであろう。
 さて、右端の人物は、「歯の痛(いたみ)も とんと忘れた」の文言から、「書簡一九〇に蕪村が歯の痛みに悩んだ記事がある。この戯画の人物は蕪村か」(頭注)と、蕪村としているのだが(『蕪村全集五(三〇四頁)』、これは蕪村ではなく、この時の暁台・士朗と一緒に上洛した閭毛であろう。

 安永七年(一七七八)当時の蕪村は、六十三歳、京都俳壇の大宗匠且つ文人画の大家(この年に最晩年の栄光の画号「謝寅」を使い始める)で名を轟かせている、「画・俳」両道の世界では、最右翼に位置していたと言っても過言でなかろう。
 そして、名古屋俳諧を牛耳っている加藤暁台は、京都俳壇・画壇で名を馳せている与謝蕪村とでは、年齢にして、十六歳も、蕪村が年長ということになる。また、江戸俳壇と京都俳壇の狭間に位置する名古屋俳壇は、まだまだ、新興勢力ということになろう。
 ただ、暁台は尾張藩の武家出身で、諸国を遊歴して、江戸の蓼太(大島氏)と共に門人の数などからすると、蕪村門よりも大きな集団を成していたようである。
 その尾張の暁台門の筆頭が、士朗(井上氏)で、年齢的には、暁台より十歳程度年下である。閭毛については詳細不明だが、士朗に次ぐ暁台門人ということになろう。
 この、上記の「蕪村写於雪楼中」の落款のある蕪村の戯画は、京都俳壇の蕪村と蕪村門の面々(この書簡中にその名がある「道立・我則・月居・維駒」、後に、暁台と親しくなる百池などの面々)の前で、名古屋俳壇の盟主暁台とその高弟の士朗・閭毛が踊りを披露しているのであろう。
 そして、この三人の主役は暁台で、士朗と閭毛は、その師匠の太鼓持ちのような引き立て役を演じている。この酒席の最長老の蕪村が、この踊りの列に加わり、年下の暁台の太鼓持ちのようになって、暁台に媚びているような踊りを披露することは有り得ないことであろう。
 問題は、この右端の閭毛と思われる人物の上の「歯の痛(いたみ)も とんと忘れた」であるが、これは、閭毛の発言と取るのが自然であろう。また、蕪村の発言と取って、この時の閭毛の踊りの恰好や仕草が、「歯の痛(いたみ)も とんと忘れた」ほど面白かったとする解もあろう。
 ちなみに、この暁台と肩を組んでいる女性は、「雪楼」こと祇園「富永楼」の女将「お雪」さんの風姿なのかも知れない。





蕪村と月渓が描いた陶淵明像

 蕪村は、延享元年(一七四二、寛保四年二月二十一日に延享と改元)に、野州(栃木県)宇都宮において、『寛保四年宇都宮歳旦帖』(紙数九枚・十七頁、中村家蔵)という小冊子の歳旦帖を出し、俳諧宗匠として名乗りを上げる。そこに「巻軸」と前書きを付して、「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の自句で締めくくり、それまでの「宰鳥」の号に代わり、初めて「蕪村」の号を用いる。すなわち、この初歳旦帖は、蕪村の改号披露を兼ねてのものということになる(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。

 この「蕪村」の号は、陶淵明の「帰去来兮辞(ききょらいのじ)」の「田園将(まさ)ニ蕪(あ)レナントトス胡(なん)ゾ帰ラザル」に由来し、「蕪は荒れるの意味であり、『蕪村』は荒れ果てた村」の意ということになろう。すなわち、蕪村にとって、生まれ故郷は「帰るに帰れない」、その脳裏にのみ存在するものであった(田中・前掲書)。

 蕪村没後、蕪村の画俳二道の後継者の一人に目せられていた月渓(呉春)が、亡き師の机上にあった『陶靖(せい)節(せつ)(淵明)詩集』に挟まれていた、師自筆の「桐火桶無弦の琴(きん)の撫でごころ」の栞を見付けて、これに画(陶淵明像)と賛(蕪村自筆であることの証文など)を付した「嫁入手(よめいりて)蕪村筆栞・月渓筆陶淵明図」(逸翁美術館蔵)が今に伝存されている。

 この「嫁入手」とは、蕪村の遺児の「婚資捻出のために」、蕪村の「自筆句稿・冊子・巻物・色紙・栞」などに、月渓等の直弟子が画賛などを付して、蕪村の落款(サイン)に代えた作品の題名に便宜上付せられているものである。

呉春・陶淵明図1.jpg

 この月渓の賛(括弧書きは注)は次のとおりである。

[ 師翁(蕪村)物故の後、余(月渓)ひさしく夜半亭(京都の蕪村が没した住居=夜半亭)にありて、机上なる陶靖節(陶淵明)の詩集を閲(えっす)るに、半(なかば)過るころ此(この)しほり(栞)を得たり。これ全(すべて)淵明(陶淵明)のひとゝなりをしたひてなせる句なるべし。 
 天明甲辰(三年=一七八三)春二月(蕪村=二月二十五日未明没)写於夜半亭 月渓(松村月渓=呉春) ]

 この月渓(呉春)の描く陶淵明像は、蕪村の数ある陶淵明像の中で、おそらく、蕪村門の直弟子にあっては、一番身近な「陶淵明像」(『安永三年(一七七四)春帖』中の直弟子の一人「馬圃(まほ)」(芦田霞夫(かふ)/醸造業/俳人) →の「我(あ)とヽもに琴(きん)かき撫(なで)る柳かな」に付した蕪村画の「陶淵明像」)を参考にしていると思われる。

陶淵明像.jpg

 そして、この一筆書きのような略画の「草絵」(俳画)の「陶淵明像」は、実に、安永三年(一七七四)の、蕪村、六十三歳時、師の夜半亭二世宋阿こと早野巴人の三十三回忌に当たる年の作である。

 その巴人が没した寛保二年(一七四二)、そして、初歳旦帖を編み「蕪村」の号を使い始めた延享元年(寛保四年=一七四四)の翌年の頃、すなわち、結城・下館在住の頃の、「子漢」と款する「陶淵明山水図」(絹本淡彩三幅対)中の「陶淵明図」がある。これが、まさしく、
無弦琴を奏でている陶淵明図なのである。

 そして、これが文人画家・蕪村のスタートを飾った作品ともいえるものであろう(この「陶淵明山水図・中村美術サロン蔵」が『蕪村全集六絵画・遺墨』の第一番目に登載されている)。

buson_touenmeisansuizu.jpg

 この他の蕪村の陶淵明像などを『蕪村全集六』より記しておきたい。

一 絵画・模索期(宝暦八~明和六年)

48 陶淵明図 紙本淡彩 一幅 款「河南超居写」 国立博物館蔵
80 陶淵明聴松風図 双幅 款「東成謝長庚写」「辛巳冬写於三菓軒中謝長庚」 宝暦十
一年 「当市西陣平尾氏、上京井上氏旧蔵品入札」(大正六・四)
163 陶淵明図 淡彩一幅 款「謝長庚」 「倉家並某旧家什器入札」(昭四・六)
164  陶淵明図 淡彩一幅 款「謝長庚」 「大阪市某氏入札」(大十五・三)

二 絵画・完成期(明和七~安永六)

220 五柳先生図 一幅 款「写於夜半亭謝春星」 「第五回東美入札」(昭五四・三)
221 五柳先生図 絹本着色 一幅 款「謝春星写於三菓堂中」 「題不明入札(大阪)」(昭二十九・十) 
437 後赤壁賦・帰去来辞図 紙本淡彩 双幅 款「日東謝寅画幷書」「日東々成謝寅画且 
   書」 逸翁美術館蔵
556 柳下陶淵明図 絹本淡彩 一幅 款「謝寅」 「七葉軒、不老庵入札」(昭四・四)
557 陶靖節図 絹本着色 一幅 款「倣張平山筆意 日東謝寅」 「松坂屋逸品古書籍書画幅大即売会目録」(昭和五十二・六)

その他

山水図(出光美術館)六曲一双 重要文化財 1763年
十便十宜図(川端康成記念会)画帖 国宝 1771年 池大雅との競作。蕪村は十宜図を描く。
紅白梅図(角屋もてなしの文化美術館)襖4面、四曲屏風一隻 重要文化財
蘇鉄図(香川・妙法寺)四曲屏風一双(もと襖) 重要文化財
山野行楽図(東京国立博物館)六曲一双 重要文化財
竹溪訪隠図(個人蔵)掛幅 重要文化財
奥の細道図巻(京都国立博物館)巻子本2巻 重要文化財 1778年
野ざらし紀行図(個人蔵)六曲一隻 重要文化財
奥の細道図屏風(山形美術館)六曲一隻 重要文化財 1779年
奥の細道画巻(逸翁美術館)巻子本2巻 重要文化財 1779年
新緑杜鵑図(文化庁)掛幅 重要文化財
竹林茅屋・柳蔭騎路図(個人蔵)六曲一双 重要文化財
春光晴雨図(個人蔵)掛幅 重要文化財
鳶烏図(北村美術館)掛幅(双幅) 重要文化財
峨嵋露頂図(法人蔵)巻子 重要文化財
夜色楼台図(個人蔵)掛幅 国宝
富嶽列松図(愛知県美術館)掛幅 重要文化財
柳堤渡水・丘辺行楽図(ボストン美術館)六曲一双 紙本墨画淡彩
蜀桟道図(シンガポールの会社) 1778年

(追記)

 平成二十八年十月二十九日(土)~十二月二十一日(日)まで、佐野市立吉沢記念美術館で、「特別企画展 東と西の蕪村―伊藤若冲『菜蟲譜』期間限定公開」が開催された。
 そこで、「陶淵明・山水図」(蕪村筆)が公開されていた。その作品解説は次のとおりである。

[ 最初期の彩色作品で、下館に伝来。「子漢」の款記は本作が唯一。印は捺されない。陶淵明は中国・六朝の詩人で、「帰去来辞」「桃花源記」などが知られる。「蕪村」号は「帰去来辞」の「田園将蕪(マサニアレナントス)」に由来することが有力視されるほか、詩画ともに桃源郷を投影した作品が晩年まで頻出するなど、蕪村にとって重要な詩人。
中幅の陶淵明は、酒に酔う毎に「無弦の琴」を撫でたという故事による。左右幅は「帰去来辞」の「舟は遙々として以て軽くあがり、風は飄々として衣を吹く」「雲は無心に以て峰を出で、鳥は飛ぶに倦きて還るを知る」を描く、明るい光を含んでかすむ海、藍と淡墨の葉を重ねて描かれた風に騒ぐ竹林など、後半の蕪村画の要素が見える。]
(『東と西の蕪村(佐野市立吉沢記念美術館遍)』)

(特記事項)

※ この「陶淵明」図中、左下に、花押のように、小さな「鈴」のようなものが描かれていた。これは、陶淵明の「無弦琴」に関連して、「琴の爪」のようなのである。この「琴の爪」と蕪村の花押(「槌」・「経巻」・「頭陀袋(嚢)」のような、蕪村の謎めいた花押)は、この「琴爪」に、その由来があるような、そんな示唆を受けたことを特記して置きたい。

回想の蕪村(四~六)

回想の蕪村(四~六)

回想の蕪村(四・四十一~四十九)

回想の蕪村(四)

(四十一)

 蕪村の『夜半楽』の「春風馬堤曲」の冒頭に、下記のとおり、「謝蕪邨」との署名が見られる。

※春風馬堤曲
             謝蕪邨

  余一日問耆老於故園。渡澱水
  過 馬堤。偶逢女帰省郷者。先
  後行数里。相顧語。容姿嬋娟。
  癡情可憐。因製歌曲十八首。
  代女述意。題曰春風馬堤曲。
 (余一日(いちじつ)耆老(きらう)ヲ故園ニ問フ。澱水(でんすい)ヲ渡リ
  馬堤ヲ過グ。偶(たまたま)女(じよ)ノ郷ニ帰省スル者ニ逢フ。先
  後シテ行クコト数里、相顧ミテ語ル。容姿嬋娟(せんけん)トシテ
  癡情(ちじやう)憐(あはれ)ムベシ。因リテ歌曲十八首ヲ製シ、
  女(じよ)ニ代ハリテ意ヲ述ブ。題シテ春風馬堤曲ト曰フ。)

 そして、『夜半楽』の奥書に、「門人 宰鳥校」との署名が見られる。この署名に関して、先に、次のことについて紹介した。

※『夜半楽』板行を思い立った六十二歳翁蕪村の胸中には、彼が俳人としての初一歩をしるした日の師と同齢に達した感慨がつよく働いている。春興帖は、その心をこめて亡師巴人に捧げられたものであろう。『門人宰鳥校』として宰町としなかったのは、元文四年の冬にはすでに宰鳥号に改め、宰町はいわばかりの号に過ぎなかったのである」(安東次男著『与謝蕪村』)との評がなされてくる。すなわち、上記の『夜半楽』(序)の「吾妻の人」とは、夜半亭一世宋阿(早野巴人)その人というのである(その関係で、奥書の「門人 宰鳥校」を理解し、この「門人」は、「夜半亭一世宋阿門人」と解するのである)。

 これらのことについては、寛保四年(一七四四)の蕪村の初撰集『宇都宮歳旦帖』の「渓霜蕪村輯」の署名でするならば、この安永六年(一七七七)の蕪村の春興帖の『夜半楽』の署名は「夜半亭蕪村輯」とでもなるところのものであろう。それを何故、「門人 宰鳥校」としたのか、確かに、上記のとおり、「夜半亭宋阿門人」という理解も一つの理解であろう。
しかし、「門人 宰鳥校」の「校」が気にかかるのである。「校」とは「校合」(写本や印刷物などで、本文などの異同を、基準とする本や原稿と照らし合せること)とか「校訂」(古書などの本文を、他の伝本と比べ合せ、手を入れて正すこと)とかのの意味合いのものであろう。「門人 宰鳥撰」とか「門人 宰鳥輯」の、「編集」を意味する「撰」とか「輯」とかとは、やはり一線を画してのものなのであろう。それを遜っての表現ととれなくもないが、この『夜半楽』には、夜半亭一世・宋阿(巴人)の名はどこにも見られず、唐突に、この奥書に来て、この序文の「吾妻の人」を宋阿その人と理解して、「宋阿門人」と理解するには、やや、無理があるようにも思えるのである。ここは、『夜半楽』所収の異色の三部作の「春風馬堤曲」(署名・謝蕪邨)・「澱河歌」(署名なし)・「老鶯児」(署名なし)の、その「謝蕪邨」(この「引き道具」の狂言の座元・作者である「与謝蕪村」を中国名風に擬したもの)を受けて、「吾妻の人」風に「洒落風」に、「(謝蕪邨)門人 宰鳥校」と、蕪村自身が号を使い分けしながら、いわば、一人二役をしてのものと理解をしたいのである。 そもそも、蕪村の若き日の号の「宰町」(巴人門に入門した頃の「夜半亭」のあった「日本橋石町」の「町」を主宰する)を「宰鳥」(「宰鳥」から「蕪村」の改号の転機となった『宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の「鶯」の句に関連しての「鳥・鶯」を主宰する)へと改号したことは、当時の居所の「日本橋石町」から師巴人に連なる其角・嵐雪の師の芭蕉が句材として余りその成功例を見ないところの「鳥・鶯」への関心事の移動のようにも思えるのである。それと同時に、この安永六年の『夜半楽』の巻軸の句に相当する「老鶯児」の理解には、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の、その蕪村の号を初めて使用したところの「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の句と、それ以後の、歳旦帖・春興帖を編むときに、必ず登場してくるところの「鳥・鶯」の句と、同一線上のものと理解をしたいのである。そして、そう解することによって、始めて、この『夜半楽』の「老鶯児」の句の意味と、蕪村の絶吟の、「冬鶯むかし王維が垣根哉」・「うぐひすや何こそつかす藪の霜」・「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」の、この三句の意味合いが鮮明になってくると、そのように理解をしたいのである。

(四十二)

 そもそも、この『夜半楽』は安永六年(一七七七)の夜半亭二世・与謝蕪村の「春興帖」
である。それが故に、その他の蕪村の「歳旦帖」・「春興帖」との関連で見てきた。しかし、それだけでは足りず、より正しい理解のためには、当時の俳壇における「歳旦帖」・「春興帖」との関連で見ていく必要があろう。このような見地での基調な文献として、『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)所収の幾多の論稿がある。ここで、それらのことについて、その要点となるようなことについて、紹介をしておきたい。

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その一)

○ここで蕪村一門の春帖と呼ぶ時、その対象には、蕪村編のもの(『明和辛卯春』『安永三年蕪村春興帖』『安永四年夜半亭歳旦』『夜半楽』『花鳥篇』)、几董編のもの(安永五年『初懐紙』、安永九年『初懐紙』、安永十年『初懐紙』、『壬寅初懐紙』『初卯初懐紙』『甲辰初懐紙』、天明五年『初懐紙』、天明六年『初懐紙』、天明七年『初懐紙』、寛政元年『初懐紙』)、呂蛤編のもの(寛政三年『はつすゞり』他)、紫暁編のもの(寛政五年『あけぼの草子』他)などと、多くの俳書が含まれることになろう。さらに説明を加えるなら、蕪村編の春帖には、この他にも寛保四年(一七四四)に宇都宮で刊行した歳旦帖があるし、また伝存は不明ながら、『紫狐庵聯句集』には「明和辛卯春」「安永発巳」と題した三ツ物や春興歌仙が記録されており、空白の二年の刊行についても刊行が察せられる。また几董編の春帖についても、天明七年の『初懐紙』で几董が、「としどしかはらぬ初懐紙をもよほす事、かぞふれば十余リ五とせになりぬ。其いとぐちより繰返し見れば……」と回顧して、発巳(安永二年)から丁未(天明七年)に至る各年の巻頭発句を列挙するように、今日未確認の『初懐紙』が、安永二・三・四・六・七・八の各年にも刊行されたことが知られる。しかしここでは、伝存の有無にかかわらずその多くを措き、時を蕪村在世中の一時期に絞り、主として『明和辛卯春』と安永五年『初懐紙』の二書をとりあげる。
※ここに紹介されている明和八年(一七七一)に刊行した蕪村編の『明和辛卯春』については先に触れた。この春興帖は、明和七年に亡師巴人の夜半亭を襲号した蕪村が、その襲号の披露を兼ねて、広く夜半亭一門の俳諧を世に問うたもので、夜半亭二世・蕪村の代表的な春興帖である。そして、夜半亭二世・蕪村に継いで夜半亭三世となる几董が、蕪村存命中に、安永六年の『夜半楽』刊行一年前に刊行した春興帖が、安永五年『初懐紙』で、この両者の春興帖としての比較検討が、この「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」の骨子なのである。

(四十三)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その二)

○まず『明和辛卯春』から検討を始めよう。(中略) 現存の弧本は原表紙を欠き、書名は内題「明和辛卯春 / 歳旦」による仮称である。横本一冊。表紙の他にも欠損の丁が多いが、元来は本文全十四丁であった。一見して気付くのは、蕪村板下による書体の風格と匡郭および各行を画する罫の緑色の鮮やかさ(今は退色しているが)である。相俟って壮麗の感を与える。次にその内容をつくと、まず一丁目表は先の内題に続いて、蕪村・召波・子曳による三ツ物一組、一丁目裏は同じ三人による三ツ物二組を収める。(中略) 今これを仮に三ツ物三組形式と呼ぶことにする。この三ツ物三組に続く二丁目以下は、同門あるいは他門の歳旦・歳暮の発句を主とし、その発句群に交えて都合二巻の歌仙が収録されている。すなわち、三丁目裏から始まる「鳥遠く……」の一巻、十二丁目裏から始まる「風鳥の……」の一巻で、巻頭と巻尾の近くに配するが、決して巻頭でも巻尾でもない。(後略)
※この蕪村の『明和辛卯春』は「都市系歳旦帖」(其角・巴人に連なる江戸座などの都市系蕉門の流れによる春興帖)に属するとされるのだが(後述)、ここで、注目すべきことがらは、この春興帖に収録されている二巻の歌仙が、共に、「鳥」を句材としての発句ということなのである。その発句・脇・第三を例示すると次のとおりである。
(春興)
発句 鳥遠く日に日に高し春の水        子曳
脇   人やすみれの一すじ(ぢ)の道     蕪村
第三 紅毛の珍陀葡萄酒ぬるみ来て       太祗
(春興可仙)
発句 風鳥の喰ラひこぼすや梅の風       蕪村
脇   名もなき虫の光る陽炎         田福
第三 明キのかたわするゝ斗(ばかり)春たけて 斗文
 さらに、蕪村は、この『明和辛卯春』で立机を宣言するかのように「夜半亭」の号で次の「鶯」の句を公示している。
(洛東の大悲閣にのぼる)
    鶯を雀歟(か)と見しそれも春    夜半亭
(春興追加)
    鶯の粗相がましき初音かな      夜半亭 
 これらのことは、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の「三ツ物」七組で始まり、その卷軸の蕪村の号の初出の「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」とこの『明和辛卯春』の六年後に刊行する『夜半楽』の「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」と同一線上にあることを、蕪村は明確に公示していると思われるのである。

(四十四)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その三)

○続いて、安永五年(一七七六)『初懐紙』(略)に目を移してみよう。まず半紙本(一冊)という判型が『明和辛卯春』に対照的で、薄茶色の表紙の披いても十七丁の本文には匡郭や罫を見ず、版面の著しい相違にまた驚くのである。同様なことは内容にもあって、巻頭は勿論、書中どこにも三ツ物を見出すことはできない。すなわち、この書の巻頭には一丁分の序があり、続いて端作備わる歌仙(後半を略した半歌仙)を掲げる。端作は「安永五丙申春正月十一日於春夜楼興行」と記し、歌仙は几董の発句に始まり、脇以下を連衆が一句ずつ詠んで一巡するもの。そして歌仙の後には「各詠」と標題されて、連衆の各人一句を列ねた一群の発句が配置されている。言うまでもなく、これは由緒正しい俳諧興行の開式に則るものなのである。各詠発句の後には「其引」と標題した蕪村等(右歌仙に欠座)の発句が並ぶが、『明和辛卯春』では、この「其引」の発句は三ツ物三組の直後に並んでいた。このことから察しても、几董が、正式興行の歌仙と各詠発句を巻頭に配し、これを三ツ物三組に代えたことは疑えないだろう。(中略) このように『明和辛卯春』と安永五年『初懐紙』を比較してみると、俳書の性格において、両書がきわめて鋭い対照を示すことに気付かざるを得ない。すなわち、それは①判型、②匡郭と罫の有無、③巻頭形式(三ツ物三組と正式俳諧興行)、④句の性格(歳旦・歳暮句と春・冬句)、⑤連句の扱い(重視の程度)の五点において、著しく異なっているのである。(後略)
※この「一『明和辛卯春』と『初懐紙』との隔たり」の後、「二 都市系歳旦帖の性格」(略)・「三 都市系俳壇風の『明和辛卯春』」(略)と続き、続く、「四 地方系蕉門色の『初懐紙』」として、次のような記述が見られる。「(前略)また歳旦帖は、長い伝統に培われて、特定俳系の特色を明瞭に示すので、編者の帰属意識をとらえるのに好都合と考えたからである。その検討り結果は右の通りであったが、ここで私は、都市系の性格を帯びた『明和辛卯春』形式の歳旦帖が安永五年(一七七六)以降刊行されず、蕪村によって全く放棄されてしまった事実を、きわめて重く見るのである」(田中・前掲書)。そして、この都市系俳壇風形式の歳旦帖に代わって、蕪村が次に編纂したものこそ、安永六年(一七七七)の『夜半楽』に他ならない。こういう、蕪村の歳旦帖・春興帖の変遷を背景として、その『夜半楽』の次の「序」を見ていくと、「形式的には従前の都市系俳壇風の春興帖形式と当時の一般的な地方蕉門色の春帖形式とを混交させながら、内容的には、より都市系俳壇風に、より自由自在に異色の俳詩などを織り交ぜ、特色ある春興帖を意図している」ということが言えよう。
※※『夜半楽』(序)
祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは
不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず)
蕉門のさびしをりは
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし)
さればこの日の俳諧は
わかわかしき吾妻の人の
口質(こうしつ)にならはんとて
(訳)京都の祇園会のお囃子は秋風の風韻には調和しない。それと同じく、蕉門の寂び撓(しをり)は新春のお目出度い席では避けた方がよい。だから、この日の新春の俳諧は若々しい東国の人の口調に倣っている。

(四十五)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その四)

○ここでようやく『初懐紙』の内容的性格に言及する段階に至った。私は先に、その編纂形式の斬新さを指摘したが、内容的性格はそれ以上に際だってユニークであった。都市系・地方系を問わず、従来の春帖に全く例を見ぬものであった。その特色というのは、集中どこにも歳旦句・歳暮句を収めぬことである。「聖節」「東君」等の題は勿論、「歳旦」「歳暮」の題も見出せぬことはすでに述べたが、題のみならず、元朝を賀し家の春を言祝ぐ類の発句を見ず、年頭の祝意は、わずかに「あらたまのとし立かへる……」という序文に託されるにすぎない。同様に、歳末の生活感情をとらえる句も見当たらぬのである。これに代わるものは、
    早春
 うぐひすや梢ほのめくあらし山    几董
 鶯に終日遠し畑の人         蕪村
といった、春の訪れを喜び春の自然を讃えるみずみずしい情感であり、またそれを表現する句であって、これが『初懐紙』の基調をなす。歳暮句に代わって「冬」の句は少々あるが、『初懐紙』も後年ほどその数を減じ、後には春句のみで編まれる年も出る。つまり『初懐紙』はもっぱら春を詠む俳書として、それも人事の春ではなく自然の春を詠む俳書として登場したのであり、特に早春の初々しい感情が重視される。(後略)
※この几董編の『初懐紙』は、蕪村編の『夜半楽』刊行一年前に刊行されたものである。この『夜半楽』を刊行する三年前の、安永三年(一七七四)の六月に、蕪村は宋阿(夜半亭巴人)三十三回忌の追善法要を営み、追善集『むかしを今』を刊行する。その『むかしを今』は、夜半亭二世蕪村と夜半亭三世となる几董との二巻の歌仙を収めている。それは、宋阿の句を発句とする脇起こし歌仙で、その発句・脇・三十五句目(挙句前の花の句)を例示すると次の通りである。

発句   啼(なき)ながら川越す蝉の日影哉      宋阿居士
脇      行人少(まれ)にところてん見世(みせ) 蕪村
三十五  宋阿仏匂ひのこりて花の雲          几董

発句   啼(なき)ながら川越す蝉の日影哉      宋阿居士
脇      蚋(ぶと)に香たく艸(くさ)の上風   几董
三十五  雲に花普化(ふけ)玄峯に宋阿居士      蕪村

 この蕪村の三十五句目の「普化」は其角、そして、「玄峯」は嵐雪のことである。すなわち、蕪村も几董も、其角・嵐雪、そして宋阿に連なる都市系蕉門に属しているという公示でもある。この二人はその都市系蕉門の中心的俳人の其角崇拝では人後に落ちなかった。蕪村は、其角の『花摘』に倣い『新花摘』を刊行し、几董は、其角の『雑談集』に倣い『新雑談集』を刊行し、其角の「晋子」の号に模して「晋明」の号をも称している。しかし、几董の春帖(歳旦帖・春興帖)の『初懐紙』には、其角・嵐雪・宋阿、そして、蕪村のそれとは違った編纂スタイルをとっているのである。それも、一重に、歳旦帖・春興帖の時代史的な変遷であるとともに、都市系俳壇と地方系俳壇との融合、そして、それがまた、蕪村らの「蕉風復興運動」の文学史的意義であったのだという(田中・前掲書・「蕉風復興運動の二潮流」)。このような大きな流れを背景にして、始めて、蕪村の「諸流を尽シてこれを一嚢中に貯へ」(『春泥句集』序)という意義が鮮明となってくる。ともあれ、蕪村在世中の安永五年の、夜半亭三世となる几董の『初懐紙』の中において、上記の「早春」と題する「鶯」の句を、蕪村と几董とが肩を並べて作句していることが、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の、その蕪村の号を初めて使用したところの「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の句と、それ以後の、歳旦帖・春興帖を編むときに、必ず登場してくるところの「鳥・鶯」の句、そして、安永六年の『夜半楽』の「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」の句と、さらには、蕪村の絶吟の、「冬鶯むかし王維が垣根哉」・「うぐひすや何こそつかす藪の霜」・「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」の句と、またしても交差してくるのである。

(四十六)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その五)

○(前略)『初懐紙』の編纂刊行を几董に任せた蕪村は、安永五年には自編の春帖を持たない。煩わしさも減じたが、一方では、『初懐紙』が地方系蕉門風に傾くのあまり、蕪村にとって飽き足らぬ思いも残った。そこで蕪村が、半ば興じ半ば真剣に、自らの趣味を充分盛り込んで編んだ春興帖が、安永六年(一七七七)の『夜半楽』だったと思われる。したがって同書は、『初懐紙』をモデルとしながら(半紙本一冊。〔序に代わる題辞→春興発句群→巻末の歌仙に代わる仮名詩三編〕という内容構成)、『初懐紙』の世界から『明和辛卯春』の方向に半歩後退し、都市俳諧的趣向性を横溢させながら、しかもなお豊に春景を描き出すものとなる。後退して、かえってそこに独自の作品世界を作り上げ得たのである。それは几董的ではなく、まさに蕪村的な春興集であった。たとえば、巻頭にすえられた歌仙の奇妙な冒頭部、

  歳旦はしたり皃(がほ)なる俳諧師     蕪村
   脇は何者節の飯帒(はんたい)      月居
  第三はたゞうち霞みうち霞み        月渓

をどう解すべきであろうか。それぞれの句頭に「歳旦」「脇」「第三」の語を折り込む趣向には、安永四年まで三ツ物の歳旦句になじんでいた蕪村が、心の隅にかすかな抵抗を覚えながら始めて春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)を巻く、半ば照れ半ばおどけた表情さえ思い浮かぶようである。このように考えると、かの太祗の句を引く「春風馬堤曲」もまた、蕪村らしい趣向に溢れた独自の春景句、しかも郊外散策のそれであった。『明和辛卯春』などと同様に匡郭と罫を刷り込み、巻頭に「…… / わかわかしき吾妻の人の / 口質にならはんとて」と揚言して、巻尾に「門人宰鳥校」と署名する意識には、江戸俳壇で育った蕪村の、京俳壇の新動向の中で独自の道を歩まんとする自負がにじむようである。思えば『明和辛卯春』などの匡郭と罫の緑墨も、画家らしい好みとともに、江戸俳壇の寛闊を伝えるさかしらではなかったか。ともあれ夜半亭一門の春興集は、京の都市民に自然愛の俳諧を供し、同門のその後の俳風を決定づけ、俳壇に長く影響を及ぼすことになったのである。
※これまでに、いろいろな角度から蕪村の異色の俳詩を包含している『夜半楽』を見てきたが、上記の、「安永四年まで三ツ物の歳旦句になじんでいた蕪村が、心の隅にかすかな抵抗を覚えながら始めて春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)を巻く、半ば照れ半ばおどけた表情さえ思い浮かぶようである」という指摘には、全く同感である。そして、それが故に、この『夜半楽』の、巻頭の「…… / わかわかしき吾妻の人の / 口質にならはんとて」との揚言や、巻尾のおどけた調子の「門人宰鳥校」の署名も、「江戸俳壇で育った蕪村の、京俳壇の新動向の中で独自の道を歩まんとする自負がにじむようである」として、十分に頷けるところのものである。また、「春風馬堤曲」の太祗の句の引用も、「江戸俳壇で育った蕪村」を象徴するようなものとして、これまた、蕪村の真意が見えてくるような思いがするのである。その「春風馬堤曲」に続く、「澱河歌」もまた、それらの「若き日の蕪村」(わかわかしき吾妻の人)に連なる「官能的な華やぎのエロス」の「仮名書きの詩」(俳詩)として、それに続く、「老鶯児」の発句の背景と思える「老懶(ろうらん)」(老いのもの憂さ)の前提となる世界のものとして、これまた、十分に首肯できるところのものである。さらに、些事に目を通せば、上記の「春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)」の発句(蕪村)に続く脇(月居)・第三(月渓)の「月居・月渓」が、三十五句目(挙句前の花の句)の几董、挙句の大魯に比して、その、ともすると「地方系蕉門風」の「几董・大魯」に続く、その次を担う夜半亭門の若き俊秀たちであることに注目すると、これまた、蕪村の真意というのが伝わってくる思いがするのである。上記の、「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」において、ただ一つ不満なことは、この『夜半楽』の卷軸の句と思われる「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」について言及していないことなのだが、これは項を改めて触れていくことにしたい。


(四十七)

「郊外散策の流行・蕪村の『春風馬堤曲』(田中道雄稿)」

 『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)所収には「郊外散策の流行」と題する論稿があり、「蕪村の『春風馬堤曲』」という項立ての中に次のような記述がある。

○(前略)蕪村は郊行詩の盛行現象に応じながら、しかもそれを独自の形態で表現した。それこそ俳諧詩「春風馬堤曲」であった。「春風馬堤曲」の郊行詩的性格を、まず伝統的概念から確かめとどうなるか。ある人物が郊外(馬堤)を通行し、その人物が風景を受容して行く過程が描かれる。まずこれが確かめられよう。ただし人物は、詞書中のみ作者、ということになるが、道が細くて曲がることが多い。これは「路(みち)三叉(さんさ)中に捷径(せふけい)あり」「道漸(やうや)くくだれり」から察せられる。詩を詠むことがある、これは詞書中での作者の行為として出る。風景として天象・地勢・植物・家畜家禽・構築物・人はいずれも含まれよう。続いて、安永天明期郊行詩の条件を満たし得るものか。第一の作風の新しさの一として、田園描写の精細があった。「蒲公(たんぽぽ)茎短(みじかう)して乳(ちち)をあませり」の観察は秀抜、「呼雛籬外鶏……」に見る鳥類の母性活写は、「野雉一声覷(うかが)ヘドモ不見(みえず)、菜花深キ処雛ヲ引テ行ク」(『六如庵詩鈔』五五)、「野鳥雛ヲ将(ひきゐ)テ巧に沙ニ浴ス」(『北海詩鈔』三六二)に通うものがあろう。二の田園風景における人為的素材や人はどうか。茶店、老婆、客の行動、猫や鶏など豊に含まれる。三の自然に向かって昂揚する感情は、三、四首目、少女の水辺行動に喜びが溢れよう。第二の素材・用語面での新しさはどうか。一の歩行については、詞書に「先後行数理」、本文では「渓流石点々 踏石撮香芹」と若々しい跳躍姿で描かれる。二の飲食は、茶店の客の「酒銭擲三緡」がそれを暗示しよう。この客もまた野懸け、つまり郊行の人なのである。三の日は「黄昏」がこれに代わる。第三、第四を措いて第五に移ると、冒頭の「浪花(なには)を出(いで)て長柄川(ながらがは)」は都市から郊外への方向性を明示し、作の前半は、都市あるいは世事からの解放の喜びを含む。そして馬堤は「本(もと)をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅」と、二項的把握に立って離郷を嘆く場ともなる。このように見て来ると、本作は、安永天明期郊行詩の条件をもほとんど具備していることになる。なお、『詩語砕金』の「春日郊行」項には「傍堤ツツミニツイテ」とあり、安永中と覚しき百池・几董の三ツ物に「馬堤吟行」の題を見る。本作の郊行詩的性格は、蕪村自らの意図によるのである。(中略) それにしても、郊行詩が詩人たちに清新な感情で迎えられる潮流、”郊外”という新しい場の成立、このことを抜きにして果たしてこの作品は成ったろうか。春日郊行の俳諧は、蕪村の「春風馬堤曲」に極まるのである。
※上記の「郊行詩的性格を伝統的概念から確かめる」の「伝統的概念」というのは、明代の作詩辞典の『円機活法』を指している。その伝統的な「郊行詩」の概念は、一「ある人物(通常作者)の郊行通行という行動を基本に据え」、二「場である郊外は、平野または村落から成り、道は細く曲がることが多い」、三「通行手段は、徒歩・馬・輿」、四「風景は、自然的素材としての天象、人為的素材としての農地・作物・家畜家禽・構築物など」となり、この作詩辞典の『円機活法』や詩語集の『詩語砕金』の「春日郊行」などが、蕪村の「春風馬堤曲」に大きく影響しているというのである。これまで、この「回想の蕪村」のスタートの時点において、「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵稿)を見てきたが、それに、この天明・安永期の「郊外散策の流行」・「郊行詩の盛行」ということを付記する必要があるということなのであろう。すなわち、唐突に、蕪村の異色の俳詩「春風馬堤曲」は誕生したのではなく、当時の漢詩の流行、そして、その影響下における俳諧の流行を背景にして、生まれるべくして、生まれてきた、換言するならば、「春日郊行の俳諧は、蕪村の『春風馬堤曲』に極まるのである」ということなのであろう。
なお、『円機活法』については、下記のアドレスなどが参考となる。

http://sousyu.hp.infoseek.co.jp/ks700/ks700.html

(四十八)

「祇園南海の詩論・影写説」・「中興諸家の場合、ことに蕪村の遠近法」(田中道雄稿)

 若き日の蕪村が、日本文人画の祖ともいわれている漢詩人・祇園南海に傾倒したことについては、先に触れた。

http://yahantei.blogspot.com/2006/07/blog-post_115354603992727424.html

 この祇園南海の詩論・影写説が、少なからず、蕪村の作句などに多くの影響を与えているのではないかとする論稿がある(『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著))。以下、簡単にそれらについて要約して紹介をしておきたい。

○(祇園)南海の影写説が一般に拡まるのは、その没後に刊行された『明詩俚評』によってであった。(中略) 捉え難い情趣(作者主体の考える美的価値)を読者に伝えるため、捉え易い景気・客体の客観的描写を創作の方法として選んだことになる。つまり情趣構成法を示したのである。作品の内なる情趣構成法を示したのである。(中略) ここで著者(註・南海)は、「表」「裏」の対義語を用い、「表」で詠物や叙景を試みる一方、「裏」に寓意を込める作例を示す。また「裏」は、色々の深い意味や感情つまり「余情」を含む部分があると言う。従って詩の解釈は「表バカリ解」して「裏ハ推シテ知ベ」きものであり、反対に「裏」の意を解すると「余情」を失うことになる。この解釈法は創作法にも応用され、詩の創作は心を凝らしてまず「表バカリ作ル」こととなる。(「祇園南海の詩論・影写説」)
○『加佐里那止』(註・白雄の姿情説が説かれている明和八年刊行の著書)の論は、これまで見て来た影写説に極めてよく対応する。「姿」を「表」に「情」を「裏」に置き換えれば、そのまま影写説の理論構造に近づく 影写説は本来姿先情後論に近い理論構造を持ち、それ故に鳥酔らに迎えられたのであろう。ところが『寂栞』(註・白雄の姿情説が説かれている文化九年刊行の著書)は、情先姿後論は論外であり、姿先情後論をも明確に否定する。姿と情を、天・地の如く同列一対に見る。それを「物の姿」と「己の心」とを相対立させる形で置く。ここで注目すべきは、「物の」「己が」という修飾限定の語を伴う点であろう。対象(物)と主体(己)との位相の違いが、ここで明瞭に示される。位相が異なれば、先後は意味を失う。この二極分解を促したのは、おそらくは対象の描写にかかわる意識の発達、主体の表出にかかわる意識の発達だったと思われる。中でも、主体の「情」が相対的に強まったのではなかろうか。そして得られたのが、(「鳥酔系俳論への影響」・「姿先情後論から姿情並立論へ」)
○蕪村こそ、その主客対立の構造を、先駆的かつもっとも鋭く作品に示した人だった。(中略) 蕪村の影写説の影響を思わせるものは、次の二書簡がある。
  鮒ずしや彦根の城に雲かゝる
(中略) (安永六年五月十七日付大魯宛)
  水にちりて花なくなりぬ岸の梅
(中略) (安永六年二月二日付何来宛)
(中略) 蕪村の発想の二重構造は、次の書簡も裏付けてくれる。
  山吹や井手を流るゝ鉋屑
(中略) (天明三年八月十四日付嘯風・一兄宛)
この句、裏に加久夜長帯刀(かくやたちはきのをさ)の能因見参の故事を含みつつ、表は景気として鑑賞すると言う。しかもこの二重鑑賞法は詩の解釈に見るものと言う。やはり影写説に学ぶものと推定できよう。(「中興諸家の場合、ことに蕪村の遠近法」)
※これらの論稿は〔「我」の情の承認-二元的な主客の生成-〕の中のものなのであるが、中興諸家の多くの俳人が、祇園南海の「影写説」の影響を受けていて、その「影写説」が、「姿先情後論から姿情並立論へ」と向かい、そして、その「我」の情の優位が確立し、「情を「己」の側、姿を「物」の側に分けるという、二元的把握の成立だったのである。それは従来の姿―情という関係の内容を、物―己という関係に組み替えるものであった」というのである。そして、蕪村もまた、この「影写説」の影響や主我意識の発達の中で、「風景を一望するため自己の位置を一点に定め、対象に一定の「隔り」を置くという、いわゆる「遠近法」を自家薬籠中のものにしていたというのである。そして、この遠近法が「遠」の詩情の問題に深く関わり、それが、蕪村の浪漫精神に連なっているというのが、この論稿の骨子であった。ともあれ、蕪村の発句の鑑賞や、俳詩「春風馬堤曲」の鑑賞にあっては、この祇園南海の「影写説」などを常に念頭に置く必要があるように思えるのである。

(四十九)

「蕪村の手法の特性 -“ 趣向の料としての実情”― 」(田中道雄稿)

○「蕪村発句の新しい解釈」
(前略)新たな理解は、清登典子氏の、「梅ちるや螺鈿こぼるゝ卓の上」 の解釈にも見られる。(中略) 単なる嘱目句ではなく、古典(註・『徒然草』八十二段)によって奥行きを与えた、趣向ある叙景句なのである。
○「かくされた出典の存在」
(前略)表面上一応の解釈はつくのに、検討を加えると、背景をなす古典の存在が明らかになる、ということであった。それはあたかも、それぞれが映像を持つ二つの透明スクリーンを隔て置き、手前から眺め観る趣きである。つまり二重写し、この出典の発見によって句解も多少変るが、より重要なのは、古典場面の付加によって、一句に新たな情が加わることである。(中略)蕪村が祇園南海の詩論”影写説”を受容していた、という事実に基づく、(中略)表は景気句として味わい、裏では故事を察して味わうという、二重鑑賞の実例を示していた。先の私解三例(省略)は、この鑑賞理論に沿ってみたのであった。
○「景の重層化の意図」(省略)
○「皆川淇園の思想との類似」
蕪村の発句制作において”景の重層化”とも呼ぶべき手法があることを指摘した。蕪村はこれを方法として充分に自覚し、利用にはある意図が存したと考えられる。(中略)私見(註・田中道雄)では、前節(註・「景の重層化の意図」)に見る発句の手法は、その発想が、当時京都の儒学界に新風を起こした、皆川淇園の思想に相似ており、或いは関連を持つかと思われる。蕪村は、この淇園の思想を逸早く受ける立場にあり、恐らく何がしかの影響を受けていよう。(後略)
○「趣向と情との拮抗関係」
(前略)蕪村は、趣向を第一に置き、これに情を付随させる方法、別な言い方をすれば、情がより現れる形での趣向中心主義を採った、と考えられる。これまでの句解例(省略)によれば、第二節(「かくされた出典の存在」)の古典を用いる方法が、何よりもそのことを物語る。裏に典拠を持つというのは、伝統的な趣向の方法であり、これらの句は、そこに基盤を置いて成立している。従って作品の価値は、何よりもこの趣向の面白さにあり、その間ににじみ出る情が評価されるのも、あくまでも趣向に伴っての出現、と理解されていたと思われる。(後略)
○「『春風馬堤曲』の方法」
(前略)当作品の魅力の中心は、浪花から故園に至る少女の道行にある。勿論この少女の設定が、当作の趣向の要である。しかも、この趣向は、それが二重の筋で利くことになる。その一は、第三章(註・「郊外散策の流行・蕪村の『春風馬堤曲』)にも述べたように、当時流行した春日郊行あるいは春日帰家と題する漢詩を念頭に置き、文人好みの郊外という舞台を、文人に代わって藪入りの少女に歩ませる、という趣向である。(中略)その二は、帰郷の少女を望郷の作者の分身として歩ませる、という趣向である。(中略)この二重の意味での趣向は、作者の情を盛り込む上でも、きわめて効果的であった。(中略)こうした本作の趣向の巧みは、その末尾にも現れる。末尾では、道行を終えた少女が漸く生家に近づくが、その場面は突如打ち切られ、代って作者が再登場する。そしてあろうことか、他者の作品を加えて一篇を結ぶ。(中略)当代詩壇では望郷詩が多作され、中には「夢帰故郷」(註・夢ニ故郷ニ帰ル)の題の下、夢中の場面がリアルに描かれることもあった。本作は、蕪村による「夢帰故郷」の詩と見倣し得る。(中略)確かに本作の情は、作者に内発したものであった。しかし作者は、この個人の情の文芸的表現を自ら求めながら、一方、自らの美意識に立ってそのあらわな表現を抑制した。その矛盾を自解に「うめき出たる実情」と滲ませるものの、老練さすがに心得て、「狂言の座元」の如く全体を統制し、実情を趣向に隠し込める形で処理したのである。(後略)
○「”趣向の料としての実情”」(省略)
○「結び」(省略)
※「蕪村の手法の特性」ということでの著者(田中道雄)の論稿を要約すると上記のとおりとなる(句例の解説などを全て省略し、充分にその意図を伝達できないきらいがあるが、その骨格となっているものは、上記のとおりである)。ここで、蕪村は、きわめて「趣向」を重視した画・俳の二道の達人であったということと、「詩を語るべし。子、もとより詩を能くす。他にもとむべからず」(『春泥句集』序)の、漢詩を「かな書き」でしたところの、まぎれもなく、「かな書きの詩人」であったという思いである。この意味において、蕪村をよく知る上田秋成の、蕪村の追悼句ともいうべき、「かな書(がき)の詩人西せり東風(こち)吹て」(『から檜葉』所収の難華・無腸の署名の句)という思いをあらためて反芻するのである。そして、その異色の俳詩「春風馬堤曲」こそ、蕪村の手法が全て網羅されている、蕪村ならではの「かな書き」の詩ということになろう。と同時に、この安永六年(一七七七)の『夜半楽』に収録されている俳詩の、「春風馬堤曲」並びに「澱河歌」は、服部南郭の「影写説」並びに皆川淇園の「景の重層化」の、いわゆる当代の漢詩の詩論の影響下での、蕪村独自の世界の展開といえよう。そして、それは、蕪村のこれらの俳詩の創作の中心となる「写意」ともいうべき「情」を、その「裏」に閉じこめての、華麗なまでにも「表」の「趣向」を現出した、いわば、「趣向詩」とでもいうべき装いを施しているということなのである。この意味において、その「表」の「趣向」よりも、「裏」の蕪村の内なる「情」を綴った、蕪村のもう一つの俳詩、「北寿老仙を悼む」(「晋我追悼曲」)とは、一線を画すべきものとの理解をも付記しておきたいのである。

回想の蕪村(五・五十一~六十五)

回想の蕪村五・五十~六十五

(五十)

安永六年(一七七七)の春興帖『夜半楽』は、「春風馬堤曲」(十八首)、「澱河歌」(三首)そして「老鶯児」(一首)の三部作をもって、あたかも一篇の連作詩篇を構成するかのごとき体裁をとっている。その三部作の「澱河歌」は、「春風馬堤曲」の盛名に隠れて、ともすると、その「春風馬堤曲」の従属的な作品と解されがちであるが、これまた、「春風馬堤曲」と同じく、実に多くの謎を秘めている興味の尽きない、これまた、異色の俳詩である。
この異色の俳詩「澱河歌」は、その初案と思われる、「澱河曲」と題するものと「澱河歌」と題するものとの二つの「扇面自画賛」が今に残されているのである。その二つの「扇面自画賛」は次のとおりである(『蕪村全集六』)。

「澱河曲」自画賛
  紙本淡彩 扇面 一幅 一七・八×五〇・八センチ
  款 右澱河歌曲 蕪村
  印 東成(白文方印)
  賛 遊伏見百花楼送帰浪花人代妓
    春水浮梅花南流菟合澱
    錦纜君勿解急瀬舟如電
    菟水合澱水交流如一身
    船中願並枕長為浪花人
    君は江頭の梅のことし
    花 水に浮て去ること
    すみやか也
    妾は水上の柳のことし
影 水に沈て
したかふことあたはす

「澱河歌」自画賛
  紙本淡彩 扇面 一幅 二三・〇×五五・〇センチ
  款 夜半翁蕪村
  印 趙 大居(白文方印)
  賛 澱河歌 夏
    若たけやはしもとの遊
    女ありやなし
    澱河歌 春
    春水浮梅花南流菟合澱
    錦纜君勿解急瀬舟如電
    菟水合澱水交流如一身
    船中願同寝長為浪花人
    君は江頭の梅のことし
    花 水に浮て去事すみ
    やか也
    妾は岸傍の柳のことし
影 水に沈てしたかふ
ことあたはす

(五十一)

 ここで、もう一度、『夜半楽』所収の「澱河歌」を再掲して置きたい。

  澱河歌三首
○春水浮梅花 南流菟合澱
 錦纜君勿解 急瀬舟如電
(春水(しゆんすい)梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
 錦纜(きんらん)君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟電(でん)ノ如シ)
○菟水合澱水 交流如一身
 船中願同寝 長為浪花人
(菟水澱水ニ合シ 交流一身(いつしん)ノ如シ
 船中願ハクハ寝(しん)ヲ同(とも)ニシ 長ク浪花(なには)ノ人ト為(な)ラン)
○君は水上の梅のごとし花(はな)水に
 浮(うかび)て去(さる)こと急(すみや)カ也
 妾(せふ)は江頭(かうとう)の柳のごとし影(かげ)水に
 沈(しづみ)てしたがふことあたはず

(五十二)

 先に紹介した、「澱河曲」自画賛は、昭和四十三年十月、羽黒山における第二十回俳文学会全国大会を記念して酒田市の本間美術館で開催された「芭蕉と蕪村と一茶展」で、出品されたので、尾形仂著『座の文学』所収の「蕪村」(「澱河歌」の周辺)において、次のように紹介されている。
「この扇面自画賛は、戦前の蕪村関係の諸画集はもとより、戦後催された日本経済新聞社主催の蕪村展(昭和三二)、逸翁美術館の蕪村特別展(昭和三八)、同蕪村総合展(昭和四一)、東京国立博物館の日本文人画展(昭和四〇)、毎日新聞社主催の蕪村展(昭和四一)等の目録にも載っていない珍品として、当時の参会者の注目を引いたので、その図柄を記憶にとどめている人も多かろう。今では森本哲郎氏の『詩人与謝蕪村の世界』(昭和四五)の口絵にカラーで収められて、ひろく一般にも知られている。画は、右手に持った扇子で顔を隠しつつ立ち去り行く遊客と、それをうらめしげに見送る遊女を描く。遊女は「奥の細道」の画巻や屏風に見える市振の遊女と筆意も同じこうがい髷で、元禄袖のうちかけをはおり、右袖で口もとをおおっている。遊客は五分月代(さかやき)の額ぎわを角(すみ)に抜き、髪に元結(もとゆい)を巻きたてた、いわゆる丹前風に頭を結い、羽織のかげからはことごとしい太刀の柄をのぞかせている。この名古屋山三まがいの顔つきは、蕪村の俳画にはめずらしいが、男女いずれも江戸初期の擬古的風姿による戯画で、当代風俗のスケッチではない。女に後を向けた遊客の背中の丸みは、例の「時雨三老像」中の月渓像の艶冶(えんや)を思わせ、その淡彩を施した洒脱な描線は、安永五年八月十一日付几董宛書簡にみずから「はいかい物之草画、凡(およそ)海内に並ぶ者覚無之候(おぼえこれなくそうろう)」と誇示する蕪村俳画をうかがわしむるに十分である。」
 そして、これに続けて、先に紹介した、蕪村真蹟の賛を紹介している。この「澱河曲」画賛は、紛れもなく蕪村の『夜半楽』所収の「澱河歌」の一異文と解して差し支えないものであろう。

(五十三)

 蕪村の『夜半楽』所収の「澱河歌」のミステリーなのは、昭和四十三年十月に新しく世に公表された、その初案とも思われる、扇面に描かれた「澱河曲」自画賛(上記のとおり)の他に、もう一つの、「澱河歌」自画賛(扇面)が出現したということなのである(尾形仂著『蕪村の世界』)。これが、上記で、その全容を紹介したところの「澱河歌」自画賛である。ここでは、「澱河曲」画賛の男女の図柄ではなく、「中央やや右寄りに舟をさす船頭の姿を描き、舟の後部は画面左下にさし出た近景の柳の葉蔭に隠れて見えない」(尾形・前掲書)と、船頭と柳の図柄なのである。そして、和詩の部分の「『江頭』の措辞は初稿の『澱河曲』に一致し、『岸傍』の措辞は『夜半楽』「澱河曲」のいずれとも一致しない。漢詩句が『夜半楽』と一致していることからいって、全体としては「澱河曲」から『夜半楽』所収の定稿に移る中間過程に位置するものといえようか」とし、「注目されるのは、詩題に『澱河歌 春』と見え、さらに画面右の空白部に『澱河歌 夏』として、『若たけや / はしもとの遊女 / ありやなし』の句が配されていることである。「若たけや」の句は『続明烏』(安永五)所収。もと安永四年五月二十一日、几董庵での月並句会の兼題『若竹』によって成った作か。『蕪村遺芳』その他所収の自画賛で名高い。橋本は現京都府八幡市内。当時、淀川に沿う大阪街道の宿駅で、旅籠屋にわずかの宿場女を抱えた下級の遊所があった。付近には竹林が多いが、右の自画賛の画面(註・『蕪村遺芳』)は風にそよぐ竹林の奥に二、三の矛屋を描いたもので、現実の遊所のスケッチとは違う。蕪村が竹林の奥に幻視したものは『撰集抄』に見える『江口・橋本など云(いふ)遊女のすみか』で、橋本の遊女への追憶は『新花摘』に『ほとゝぎす哥よむ遊女聞ゆなる』の追悼の句を捧げた亡母への慕情と遠くつながっていた。竹林の風景は、蕪村にとって、郷里毛馬のなつかしい思い出への通路であったといえる。扇面自画賛(註・「澱河歌」自画賛)か描かれた扁舟は、今、京の春を見返りつつ、橋本より毛馬へと棹さし下そうとしているところだろうか。となれば蕪村は、伏見での送別の場で「澱河曲」(註・「澱河曲」自画賛)が成った後、これを推敲して『夜半楽』に収めるまでのどの時点でか、『澱河歌』の題のもとに、郷愁のモチーフにもとづく淀川の四季の連作詩篇の作成を企画していたことになる。はたして秋・冬の画面には、どんな作が配されていたのか(あるいは配そうとしていたのか)。蕪村の句集をひもときながら、それらをあれこれと思いめぐらしてみることは、私ども後世の読者に託された夜半の楽しみといってもいいだろう」(尾形・前掲書)と続けている。これらの、『座の文学』・『蕪村の世界』所収の「澱河歌」周辺のことなどについて、そのミステリーの部分を、さらに紹介をしていきたい。

(五十四)

○ 送友人帰浪華(友人ノ浪華ニ帰ルヲ送ル)
  今夜到伏水 明朝直帰郷(今夜伏水(フシミ)ニ到ル。明朝直チニ郷ニ帰ラン。)
  舟中作何夢 惜別断我腸(舟中何ノ夢ヲカ作(ナ)ス。別レヲ惜シミテ我ガ腸(ハラワタ)ヲ断ツ。)

 上記は、几董の『丙申之句帖』(へいしんのくじょう)の中のもので、これらについて、
尾形仂氏は『座の文学』で詳細に論じ、そして、その後の『座の文学』で再度論じて、こ
の几董の漢詩の「送友人帰浪華」の「友人」は、上田秋成(無腸)その人であると特定し
ている。ここのところを、『座の文学』(「学術文庫版付記」)で、氏は次のように記してい
る。

○ 本稿執筆の時点では、「澱河曲」を贈った相手を特定するにいたらなかったが、その後
『丙申之句帖』の記載順序や暦日などを再検討した結果によれば、これは安永五年二月十日、上田秋成送別の宴席で成ったものかと推定される(拙著『蕪村の世界』参照)。

 ここのところを『蕪村の世界』で見ていくと次のとおりである。

○蕪村の題詞の「伏見百花楼ニ遊ビテ」(註・「澱河曲」画賛の「遊伏見百花楼」)と几董の起句の「今夜伏水(フシミ)ニ到ル」、同じく「浪花ニ帰ル人ヲ送ル」(註・「澱河曲」画賛の「送帰浪花人」)と几董の詩題の「友人ノ浪華ニ帰ルヲ送ル」、蕪村の詩句の「舟中願ハクハ枕ヲ並ベ」と几董の転句の「舟中何ノ夢ヲカ作(ナ)ス」、蕪村の和句の「影水に沈てしたがふことあたはず」と几董の結句の「別レヲ惜シミテ我ガ腸(ハラワタ)ヲ断ツ」といった、字句・内容の類似を見れば、両者を同じ時、同じ人を送っての作と断定して、ほぼ、間違いないであろう。そういえば、几董が三月十日の紫狐庵会の「梨花」の兼題に対して、「春の恨(うらみ)梅速くして梨花遅し」(『月並発句帖』)と詠んでいるのも、蕪村の「花水に浮て去ことすみやか也」の詩句の余響を受けたものと解されないではない。両者は、はたして、いつ、だれを送っての作であるのか。(『蕪村の世界』)

(五十五)

○几董の詩は『丙申之句帖』の「上巳」と前書する発句三句と、「三月十日紫狐庵会」と前書する発句三句との間に、「春夜」と題する次の七言古詩とともに記されている。
茅舎寂寥無客来(茅舎寂寥客来無シ)
孤燈不挑夢初回(孤燈挑ゲズ夢初メテ回ル)
読書倦去出窓外(読書倦ミ去リ窓外ニ出ヅレバ)
半月朧朧鐘磬催(半月朧朧鐘磬催ス)
(中略) 「半月」は陰暦七・八・九日または二十一・二十二・二十三日の月をいうが(『滑稽雑談』)、詩の内容と月出時間に照らせば、ここは前者(前者の上弦の場合、月は真夜中過ぎまで空に残るが、下弦の場合、月出は真夜中過ぎになる)。ただし、この年、前年の十二月に閏があったため、三月七日は陰暦の四月二十四日に当たり、もはや「半月朧朧」の空を仰ぐことはできなかったはずだ。歳時記では「朧月」は仲春とするものが多く、(中略)
「春夜」の詩につづく伏見における送別の詩は、「二月十四日菴中会」(句帖でそれ以前の句稿はすべて抹消してある)に先立つ、二月十日前後の作ということになる。ちなみに、「几董句稿」によれば、几董は安永三年には二月十三日(陽暦三月二十四日)、安永六年には二月十四日(陽暦三月二十三日)に伏見の観梅に出掛けており、伏見送別の詩が二月十日(陽暦三月三十日)ごろに成ったとすれば、「春水ニ梅花浮カビ」という蕪村の詩の景況にピッタリ合う(『蕪村の世界』)

(五十六)

○ここで思い合わされるのは、二月十二日付で几董に宛てた書簡に次のように見えることである。
(前略)
美人出帳独徘徊(美人帳ヲ出デテ独リ徘徊ス)
春色頻辞窗下梅(春色頻リニ辞ス窗下ノ梅)
却恨落花浸斂鬚(却ツテ恨ム落花ノ斂鬚ヲ侵スヲ)
一花払去一花来(一花払ヒ去レバ一花来ル)
かくなんいたし申候。此節徘(ママ)情すくなき折ふし、けく(結句)ましならんとも存候。(中略) 此のせつのほ句、二三申遺し候
ん(う)め咲やどれがんめやらむめじ(ぢ゛)ややら
んめ咲て帯買ふ室の遊女かな
(下略)
 南賀の梅の刷り物の出句依頼に対して七言絶句(中略)を作って贈ったことを報じているのは、几董の送別の詩を意識してのことではないか。(中略) 「春夜」の詩との関係からおおよそに割り出した二月十日という想定は、この書簡の日付けから見ても間違っていなかった(『蕪村の世界』)。

(五十七)

○もう一つ、この書簡の巻末に添えた「うめ咲や」の句は、几董編の『蕪村句集』には次のような形で収められている。

あらむつかしの仮名遣ひやな。字儀に害あら
ずんば、アヽまヽよ。
  梅咲ぬどれがむめやらうめじ(ぢ)ややら

 この年、安永五年正月、本居宣長は京都の銭屋利兵衛ほかから『字音仮名用格』を刊行し、その中で”ン”音を “む”と書くべきことを主張した。日本の古代には”ン”という音がなかったというこの宣長の説に対しては、上田秋成が反駁して、宣長との間に書簡の往復を重ね、宣長の『呵刈葭』後篇(写本)に収める論争に発展する。『蕪村句集』の詞書を参看すれば、「どれがむめやらうめじ(ぢ)ややら」の句は、一面満開の梅の花に対する理屈を越えた無条件の賛美を、この両者の論争に対する揶揄の形で表現したるものと見ることができるだろう。ところで、蕪村・几董はみの春、大阪からもと加島(今の西淀川区内)の住人秋成(俳号、無腸)を迎え、面話をとげている。(中略) 秋成の上京に関して、『丙申之句帖』では、二月十八日の記事と二十日が定例の紫狐庵会の発句との中間に、「香島(加島)の隠士無腸をとゞめて夜もすがら風談あるは題を探る」としてその折の自句三句を録しているが、(中略)十八日の時点では秋成はすでに大阪に戻っていた。「一昨夜の楼酒」「からうた一章」「うめ咲や」の句、という脈絡をたどってくれば、二月十日、伏見百花楼で、蕪村・几董が「澱河曲」と五言古詩を競作して「浪華ヘ帰ル」を送った相手は、もしかしたらその秋成ではなかったか(『蕪村の世界』)。

(五十八)

○花柳の巷に出入し「浮浪子(のらもの)」と交わる狂蕩の青年期の体験を持つ一方、和漢の学に詳しく、蕪村からは「奇異のくせ者」(『也哉抄』序)、几董からは「詩をよくし(中略)無双の才子」(東皐宛書簡)と評されるとともに、蕪村の死に際しては「かな書の詩人西せり東風(こち)吹て」(『から檜葉』)と悼んだ秋成ならば、艶冶の趣を帯びた和漢混交の詩篇や五言古詩を贈る相手として、いかにもふさわしい。逆に言えば、送別の相手が秋成だったからこそ、その座の雰囲気の中から、それら異端の作が生み出されたのだ、といえる。(中略)もし送別の相手がはたして秋成だったとすれば、蕪村が扇面に配するに、ことごとしい太刀をたばさんだ、五部月代の丹前風遊冶郎の絵をもってしたことは、「妓ニ代ハリテ」という設定とともに、自分も相手も虚構化し現実の送別の宴席を歌舞伎舞台の一場面へと転化させたものとして、その俳諧的趣向の奔放さには瞠目せざるを得ない。いずれにしても、こうした「澱河曲」が「澱河歌」の前身であり、かつそれが、安永五年二月十日、几董とともに伏見の妓楼で浪花へ帰る友人を送る宴席での即興として成ったものであることが確認される以上、これを娘くのの婚家や蕪村自身の秘められた情事と絡め、もしくは安永六年に成った「馬堤曲」創造の余勢の中から生まれた作として読もうとする従来の鑑賞は、大きな変更を迫られざるを得ないであろう(『蕪村の世界』)。
※蕪村の異色の俳詩「澱河歌」の前身に当たる扇面に描かれた「澱河曲」は、浪花に帰る上田秋成(俳号・無腸)に送る送別の宴席のものであったとする尾形仂氏の論拠を見てきた。もし、それが秋成のものであったとするならば、秋成の蕪村追悼の一句(「かな書の詩人西せり東風(こち)吹て」(『から檜葉』))と重ね合わせて、間違いなく秋成は蕪村の一面(「かな書の詩人」)を正鵠に見抜いていたという思いを深くする。それ以上に、安永六年の春興帖『夜半楽』に収載されている「澱河歌」は、その前身に当たる二葉の扇面の自画賛(「澱河曲」・「澱河歌」)が今に残されていることに鑑みて、蕪村の「春風馬堤曲」に続く、「淀川」幻想詩ともいうべき、蕪村の「淀川」への「かな書の詩」であるという思いを更に深くするのである。

(五十九)

○「澱河歌」の成立については、もう一つ触れておかなければならぬ周辺的事実がある。それは、この前後、几董の句帖の中に、前記二作のほかにもなお漢詩の作の記載が見えることである。すなわち春の部の末尾には「於東山下詩会 鴨河惜春」の詩、四月「金福寺 題残照亭」の詩が録されているが、これは例年にないことであった。(中略)それとともに、二月二十日の紫狐庵会の出句の次に、次のような詩題発句が録されているりも、また見落とせない。(註・「題草廬先生四時歌」を略)。「草廬先生」は、片山北海の混沌社と相対峙して平安に詩名を馳せた幽蘭社の龍公美の号である。草廬は初め徂徠の学をよろこび明詩をきわめたが、のち李・杜・高・岑らの盛唐諸家の風潮に従うべきことを提唱した。「平安四時歌」は、宝暦三年(一七五三)の序・跋をもって『艸廬集』初篇巻之五に収められている。蕪村がかって俳諧の要諦を問われて、答うるに離俗の法をもってし「詩を語るべし」を告げた春泥社召波が、草廬社中の逸足であったことについては、潁原退蔵博士の「召波」(創元選書『蕪村』)の稿に詳しい。(中略)漢詩の高邁を慕った夜半亭一門の人々が、「離俗の則」をつちかうよすがとして、『艸廬集』をひもとくべき機縁は十分に熟していたといっていい(『蕪村の世界』)。
※蕪村は、画・俳二道を極めた特異の俳諧師でもあった。その画はいわゆる南画(中国画)で、いわゆる漢詩と不可分の関係にあり、自ずから、蕪村の俳諧もまた、その「離俗の則」の要諦の「詩(漢詩)を語るべし」を俟つまでもなく、漢詩と密接不可分の関係にあることは言を俟たない。そして、その「詩(漢詩)を語るべし」は、蕪村が最も信頼をおいていた夜半亭門の逸足の春泥社召波に向かって言われた蕪村語録であり、その召波が当時の京都の詩(漢詩)壇の雄であった滝公美(号・草廬)の逸足であり、更に、その草廬が蕪村が私淑して止まなかった荻生徂徠と関係があったということは、蕪村、そして、その一門の夜半亭俳諧というもの見ていくうえで、どうしても避けて通れないキィーポイントのようなものであろう。そして、そのことは、蕪村の『夜半楽』、そして、そこに収載されている、和漢混合の異色の俳詩、「春風馬堤曲」・「澱河歌」を鑑賞するうえで、これまた避けて通れないキィーポイントのようなものであろう。

(六十)

○試みに、几董の跡を追って『艸廬集』初篇をひもとけば、その巻之二「七言古詩」の中に、次のような一篇が見出される。(中略) 「生駒山人」(註・漢詩の中に出てくる「生駒山人ガ舟ニ泛ンデ南ニ帰ルヲ送ル」の「生駒山人」)は、日下世傑(中略)の号、草廬の友人で生駒山の近くに住んでいた。『艸廬集』の右の詩を巻之二「七言古詩」九首中に収めたのは、『唐詩選』巻之二「七言古詩」三十二首中に岑参(しんじん)の詩(詩は省略)を収めるものを襲ったものにほかならない。そして蕪村が「送帰浪花人」詩に「澱河曲」ないし「澱河歌」と名づけたものは、草廬の「澱水歌送生駒山人泛舟南帰」(註・「澱」は異体字で、「ヨドカハ」とのルビがある)のひそみにならったものではなかろうか。「歌」「曲」ともに楽府に発する古詩の一体である。もと民謡に始まり、楽曲を伴う詩として創作された。唐代に至って文人の手により読式詩として擬作されるようになっても、謡われる詩としての心持ちは離れなかったらしく、長短句において著しい発達をとげたという。「澱水歌」(「澱」は異体字)もまた、五言・七言を長短錯雑して用いている。蕪村が「澱河曲」に、五言古詩二章(註・「春水浮梅花南流菟合澱  錦纜君勿解急瀬舟如電」・「菟水合澱水交流如一身 船中願並枕長為浪花人」)につづけ、第三章に五言・六言の詩句を訓読した形の和詩(註・「君は江頭の梅のことし 花 水に浮て去ること すみやか也」・「妾は水上の柳のことし 影 水に沈て したかふことあたはす」)を配したのは、楽府題詩における長短句を下敷にしながら、その新しい変奏を試みたものと見ることができるだろう。心持ちとしては、淀川沿岸の人々の間で謡われた民謡の曲によった、宴席の唄のつもりだったといっていい(『蕪村の世界』)。
○これらの尾形仂氏の一連の考察を見て、『唐詩選』の岑参の漢詩、その漢詩に基づく草廬の漢詩などが、蕪村・几董らの夜半亭一門の面々に影響を与え、その影響下にあって、蕪村の「澱河歌」が誕生したということが、理解されてくる。さらに、尾形仂氏の、これらの考察の前身ともいうべき『座の文学』所収の「『澱河歌』の周辺」の、「『澱河歌』という作品は、いわれるごとく詩人の”晩年の春情”という”ひとり心”の詩であるよりも、より多く、几董らとの漢詩熱の交響という、連衆心の所産として鑑賞されなければならぬことになるだろう」という指摘は、蕪村の「澱河歌」鑑賞上の必須のものであるという思いを深くする。

(六十一)

 先に(「五十六」で)、二月十二日付け几董宛て蕪村書簡(尾形仂氏は『座の文学』で「本書簡の染筆年次は安永五年」としている)中の下記の蕪村作の漢詩に関わることにについて紹介した。

○美人出帳独徘徊(美人帳ヲ出デテ独リ徘徊ス)
春色頻辞窗下梅(春色頻リニ辞ス窗下ノ梅)
却恨落花浸斂鬚(却ツテ恨ム落花ノ斂鬚ヲ侵スヲ)
一花払去一花来(一花払ヒ去レバ一花来ル)
かくなんいたし申候。此節徘(ママ)情すくなき折ふし、けく(結句)ましならんとも存候。(中略) 此のせつのほ句、二三申遺し候

 この漢詩の前に、次のような一節がある。

○今朝いろいろと案じ候も、さのみ新調なく、先刻思案をかへ、李白を客とし、杜子美をさそひて、からうた一章、一作仕候。又、おかしく存候ゆへ、申遣し候。 

 この書簡の「今朝いろいろと案じ候も、さのみ新調なく、先刻思案をかへ」というのは、「今朝いろいろと発句を作ろうとしていたが、どうしても目新しいものが浮かばず、ついつい考えを変え」というような意である。次の「李白」は「白髪三千丈」などで名高い「詩仙」と仰がれている中国盛唐の詩人、「杜子美」は、「国破山河在」などで名高い「詩聖」と仰がれている中国盛唐の詩人「杜甫」のこと。そして、蕪村は、これらの漢詩を「からうた」と称しているのである。当時、夜半亭一門においては、蕪村・几董を始め、俳諧だけではなく、この「からうた」作りにも相当な関心があったということであろう。そして、蕪村にとっては、『夜半楽』所収の「春風馬堤曲」も、はやまた、「澱河歌」も、ほんの余興の「からうた」の変形の和漢混合のお遊びという趣であったのかも知れない。

(六十二)

○蕪村は右の書簡(註・安永五(?)年二月十二日付け几董宛て書簡)で自作を披露するに、「李白を客とし、杜子美をさそひて」と言って、あたかも擬古派の詩人のごとき口吻を弄じている。一つには、蕪村に句をあつらえた南雅(註・上記の書簡に出てくる人物)の師の三宅嘯山を意識するところからきたものであろう。(中略) 嘯山の『俳諧古選』(宝暦一三)における評語が、擬古派の聖典とされる『唐詩選』や『滄浪詩話』から出ていることについては、田中道雄氏の指摘(昭和四五・一〇、俳文学会研究発表)がある。そしてまた、李・杜を宗とすることは、徂徠・南郭の流れを汲みながら、その明詩模倣をしりぞけ、盛唐の詩を絶対視した龍公美(りゅうこうび)の立場とも相通ずるものであった(『座の文学』)。 
※この龍公美とは、先に紹介したところの「草廬先生」こと、幽蘭社の龍公美その人である。先に紹介したところを下記に再掲しておくこととする。
○「草廬先生」は、片山北海の混沌社と相対峙して平安に詩名を馳せた幽蘭社の龍公美の号である。草廬は初め徂徠の学をよろこび明詩をきわめたが、のち李・杜・高・岑らの盛唐諸家の風潮に従うべきことを提唱した。「平安四時歌」は、宝暦三年(一七五三)の序・跋をもって『艸廬集』初篇巻之五に収められている。蕪村がかって俳諧の要諦を問われて、答うるに離俗の法をもってし「詩を語るべし」を告げた春泥社召波が、草廬社中の逸足であったことについては、潁原退蔵博士の「召波」(創元選書『蕪村』)の稿に詳しい。(中略)漢詩の高邁を慕った夜半亭一門の人々が、「離俗の則」をつちかうよすがとして、『艸廬集』をひもとくべき機縁は十分に熟していたといっていい(『蕪村の世界』)。

(六十三)

○だが、蕪村の披露する梅花の詩(註・上記書簡中の漢詩)は、かならずしも李・杜の風潮とは似ない。その艶冶の体は、むしろ白楽天を宗とした公安派の詩風を思わせる。おそらくはきちんと梳(くしけず)り整えた鬢(びん)を意味する「斂鬢(れんびん)」の語は『杜甫索引』『李白索引』『佩文韻府』のたぐいにも見出だすことができない。そうした典拠をもたない造語を自由にまじえて用いているところも、反擬古派的といえるだろう。この年、洛東金福寺境内に芭蕉庵を再興する際の発企者樋口道立は、反擬古派の先駆者清田儋叟(せいたたんそう)の甥であり、江村北海の第二子である。蕪村はみずからものした「魂帰来賦(こんきらいふ)」の末に、芭蕉庵再興のおり儋叟の撰文の一節を添えている。(中略) 高邁と磊落とを標榜する蕪村の立場は自在であった。そうした姿勢は、一方で、もはら蕉翁の風韻を慕いながら、世に跋扈する当世蕉門の徒の「しさいらしき句作り」を排斥し、暁台に対しては「拙老はいかいは敢(あへ)て蕉翁之語風を直ちに擬候にも無之、只心の適するに随(したがひ)、きのふにけふは風調も違ひ候を相楽み」とうそぶき、『夜半楽』序に「蕉門のさびしをりは可避春興盛席」と謳(うた)った、俳諧における自在の姿勢とも共通する(『座の文学』)。
※先に、『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)について見てきたが、そこで、安永六年の『夜半楽』が編纂された頃の、几董の春興帖『初懐紙』との関連について触れた。それらと、今回の尾形仂氏の『座の文学』・『蕪村の世界』とを照合しながら見ていくと、まさに、蕪村の『夜半楽』そして、その異色の俳詩といわれている「春風馬堤曲」・「澱河歌」は、まぎれもなく、尾形仂氏の上記で指摘する「俳諧における自在の姿勢」を強く訴えていることを痛感するのである。ここでも、再確認の意味合いも兼ねて、田中道雄氏の次の論稿を再掲しておきたい。
○(前略)『初懐紙』の編纂刊行を几董に任せた蕪村は、安永五年には自編の春帖を持たない。煩わしさも減じたが、一方では、『初懐紙』が地方系蕉門風に傾くのあまり、蕪村にとって飽き足らぬ思いも残った。そこで蕪村が、半ば興じ半ば真剣に、自らの趣味を充分盛り込んで編んだ春興帖が、安永六年(一七七七)の『夜半楽』だったと思われる。したがって同書は、『初懐紙』をモデルとしながら(半紙本一冊。〔序に代わる題辞→春興発句群→巻末の歌仙に代わる仮名詩三編〕という内容構成)、『初懐紙』の世界から『明和辛卯春』の方向に半歩後退し、都市俳諧的趣向性を横溢させながら、しかもなお豊に春景を描き出すものとなる。後退して、かえってそこに独自の作品世界を作り上げ得たのである。それは几董的ではなく、まさに蕪村的な春興集であった。たとえば、巻頭にすえられた歌仙の奇妙な冒頭部、

  歳旦はしたり皃(がほ)なる俳諧師     蕪村
   脇は何者節の飯帒(はんたい)      月居
  第三はたゞうち霞みうち霞み        月渓

をどう解すべきであろうか。それぞれの句頭に「歳旦」「脇」「第三」の語を折り込む趣向には、安永四年まで三ツ物の歳旦句になじんでいた蕪村が、心の隅にかすかな抵抗を覚えながら始めて春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)を巻く、半ば照れ半ばおどけた表情さえ思い浮かぶようである。このように考えると、かの太祗の句を引く「春風馬堤曲」もまた、蕪村らしい趣向に溢れた独自の春景句、しかも郊外散策のそれであった。『明和辛卯春』などと同様に匡郭と罫を刷り込み、巻頭に「…… / わかわかしき吾妻の人の / 口質にならはんとて」と揚言して、巻尾に「門人宰鳥校」と署名する意識には、江戸俳壇で育った蕪村の、京俳壇の新動向の中で独自の道を歩まんとする自負がにじむようである。思えば『明和辛卯春』などの匡郭と罫の緑墨も、画家らしい好みとともに、江戸俳壇の寛闊を伝えるさかしらではなかったか。ともあれ夜半亭一門の春興集は、京の都市民に自然愛の俳諧を供し、同門のその後の俳風を決定づけ、俳壇に長く影響を及ぼすことになったのである(『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)所収「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容」)。

(六十四)

○ひとしく「俗を離れて俗を用ゆ」る工夫を求めて漢詩熱の交響を楽しみながら、この点(註・俳諧の自在に対する姿勢)がおそらく几董と蕪村とを大きく分かつゆえんだろう。几董があくまでも草廬にならって唐詩の高邁につこうとするのに対して、蕪村はそれを意識に入れながら、あえて艶冶の体を採って磊落の調に遊ぼうとする。伏見百花楼での「澱河曲」の擬作は、あたかも連句の席で連衆に和しつつ相手を言いまかしはぐらかそうとする付合の呼吸にも似た、目に見えない火花を伝えている。几董が「別レヲ惜しシンデ我ガ腸を断ツ」と、唐詩硫の悲哀を表に立ててきまじめに惜別の情を吐露しているのに対して、「妓ニ代ハリテ」という設定を施し、「妾は水上の柳のごとし。影水に沈みてしたがふことあたはず」という纏綿たる妓女の恋情に託して自己の思いを述べたところに、蕪村の俳諧的趣向がある。(中略) 几董が「今夜伏水に到ル、明朝直グニ郷ニ帰ラン」と直叙したところを、(中略) 「錦纜(きんらん)君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟電(でん)ノ如シ」と艶冶の色を点ずる。「菟水澱水ニ合シ 交流一身(いつしん)ノ如シ」とは、すなわち、劉廷芝「公子行」の「与君(君ト)相向(相向カッテ)転(ウタタ)相親(相親シミ)、与君(君ト)双棲(双ビ棲ンデ)共一身(一身を共ニセン)」(『唐詩選』二)や曹子建「七哀詩」の「願(願ハクハ)為西南風(西南ノ風ト為リテ)、長逝(長ク逝キテ)入君懐(君ガ懐ニ入ラン)」(『文選』五)などの詩句を下敷きにしながら、几董の「舟中何ノ夢ヲカ作ス」の「夢」をもどいて散曲ふうに展開してみせたものにほかならない(『座の文学』)。

※ここで、「春風馬堤曲」・「澱河歌」が収められている『夜半楽』の目録と、その歌仙の主立った俳人を再掲すると次のとおりである。

夜半楽

目録
歌仙    一巻
春興雑題  四十三首
春風馬堤曲 十八首
澱河歌   三首
老鶯児   一首

安永丁酉春 初会
歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師     蕪村 表    ※(発句) 
脇は何者節(せち)の飯帒(はんたい)    月居      ※(脇)  
第三はたゞうち霞うち霞         月渓       ※(第三) 
十日の月の出(いで)おはしけり      鉄僧      ※(月)
谷の坊花もあるかに香に匂ふ       道立  裏    ※(花)
かけ的(まと)の夕ぐれかけて春の月    正白      ※(月) 
暁の月かくやくとあられ降(ふる)     維駒 名残の表 ※(月)
花の頃三秀院に浪花人          几董 名残の裏 ※(花)
都を友に住(すみ)よしの春        大魯      ※(挙句) 

 この歌仙でも一目瞭然のごとく、夜半亭二世・蕪村が発句、そして、歌仙一巻中最右翼の役とされている、名残の裏の花(匂いの花)は、夜半亭三世を継承されていることが約束されている几董と、この二人が夜半亭俳諧の主宰・副主宰の関係にある。そして、主宰者たる蕪村が副主宰者たる几董に、蕪村が持っている全てのものを、後継者の几董に伝授しようと、そういう蕪村の意気込みというものを、上記の尾形仂氏の指摘により、まざまざと再確認を強いられるような思いがするのである。ここでも、上記の歌仙にかかわる蕪村と几董との関連などのことについて、下記に再掲をしておきたい。

○ この歌仙(三十六句からなる連句)が一同に会してのものなのか、それとも、回状を回して成ったものなのかどうかは定かではないが、おそらく後者によるものと思われる。この歌仙は、一人一句で、三十六人がその連衆で、夜半亭一門の代表的俳人の三十六歌仙(三十六人の傑出した俳人)という趣である。発句は夜半亭一門の宗匠、夜半亭二世・与謝蕪村で、「歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師」(歳旦の句を快心の作とばかり得意顔の俳諧師である)と、新年祝賀の句を、若き日の東国に居た頃の宰鳥になった積りでの作句と得意満面の蕪村その人の自画像の句であろう。脇句の江森月居が蕪村門に入門したのは安永五年(一七七六)年の頃で、入門早々で脇句を担当したこととなる。当時、二十二歳の頃であろう。続く、第三の松村月渓は、月居よりも四歳年長で、呉春の号で知られている、蕪村の画・俳二道のよき後継者であった。この二人がこの歌仙を巻く蕪村の手足となっているように思われる。この歌仙の挙句を担当した吉分大魯は、夜半亭三世を継ぐ高井几董と、夜半亭門の双璧の一人で、この安永六年当時は京都の地を離れ大阪に移住していた頃であろう。この挙句の前の花の句(匂いの花)を担当したのは、几董で蕪村よりも二十四歳も年下ではあるが、蕪村はこの几董が夜半亭三世を継ぐということを条件として、夜半亭二世を継ぐのであった。もう一つの花の座(枝折りの花)を担当した樋口道立は、川越藩松平大和守の京留守居役の樋口家を継いだ名門の出で、当時、夜半亭一門で重きをなしていた。また、月の座を担当した、鉄僧(医師)、正白(後に正巴)、黒柳維駒(父は蕪村門の漢詩人でもある蕪村の良き理解者であった召波)と、この歌仙に名を連ねている連衆は、夜半亭一門の代表的な俳人といってよいのであろう。そして、それは、京都を中心として、大坂・伏見・池田・伊丹・兵庫と次の春興に出てくる夜半亭一門の俳人の世話役ともいうべき方々という趣なのである
(十九・再掲)。

(六十五)

○「澱河曲」の題名は、蕪村の「懐旧のやるかたなきよりうめき出た」「親里迄の道行」十八首が、これも楽府の名題である「大堤曲」になぞらえて「春風馬堤曲」と名づけられたとき、文字の重複をいとって「澱河歌」と改められ、詞書の「代妓」の文言は、「代女述意」と敷衍されて「馬堤曲」の前文に組み入れられる。それと同時に、「春水梅花浮」(春水ニ梅花浮カビ)を「春水浮梅花」(春水梅花ヲ浮カベ)と改めて、承句の「南流シテ」と主語の統一をはかり、「並枕」(枕ヲ並ベ)の措辞の和臭をきらって「同寝」(寝ヲトモニシ)と改めるとともに「江頭の梅」「水上の柳」の対句を「水上の梅」「江頭の柳」と置き換えるなどの推敲も施された。「代妓」の文言を削っても、連衆たちはその艶冶の体から「馬堤曲」の「代女述意」を「澱河歌」にもかけて読むであろう。また、「送帰浪花人」の詞書を省いても、「澱水歌」の存在を知る同好の人々は、これを送別の擬作と受け取るであろう。「澱河歌」は、説かれるごとく、そのまま「馬堤曲」の反歌とはならない(『座の文学』)。
※尾形仂氏の謎解きであるが、蕪村の「澱河歌」を創作するときの背景として、その謎解きが真実味を帯びてくる。趣向の人・蕪村ならば、これらのことは当然にあり得るという趣でなくもない。とするならば、「『澱河歌』は、説かれるごとく、そのまま『馬堤曲』の反歌とはならない」という指摘についても、「あたかも、この『澱河歌』を、『馬堤曲』の反歌のような趣向をも、蕪村は意識している」と推理することも可能であろう。
○ただし、蕪村は挨拶や月次(つきなみ)の句座の発句を、連作に構成し直すことによって、新しい世界を創造することを得意とした作家である。ここでも蕪村が、「さればこの日の俳諧はわかわかしき吾妻の人の口質(くちつき)にならはんとて」と前書する新春初会の歌仙を巻頭に据え、「春風馬堤曲 十八首」「澱河歌 三首」「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)と配列した『夜半楽』のコンテクストを通じて、「澱河歌」の上に、伏見百花楼の宴席の場におけるとはまた若干異なった色合いを加えようとしているのを閑却することはできぬだろう。「妓」「女」の「意」の上に重ねられた老蕪村の郷愁の情を中心とする鑑賞がそこから生まれる。私はそうした鑑賞を否定しようとは思わない(『座の文学』)。
※蕪村の『夜半楽』所収の「春風馬堤曲」、そして、「澱河歌」がいろいろに鑑賞されてきたのは、一に、蕪村の「挨拶や月次(つきなみ)の句座の発句を、連作に構成し直すことによって、新しい世界を創造することを得意とした作家である」ということに大きく起因している。そして、「春風馬堤曲 十八首」「澱河歌 三首」「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)の、この配列は、「春風馬堤曲 十八首」の反歌として「澱河歌 三首」、そして、「澱河歌 三首」の反歌として「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)と配列しるように思えるのである。と解すると、「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)の持つ比重というのは増してくる。

回想の蕪村(六・六十六~七十)

回想の蕪村六

(六十六~七十)

 これまで、『夜半楽』の三部作、「春風馬堤曲」・「澱河歌」・「老鶯児」のうち、異色の俳詩といわれている「「春風馬堤曲」並びに「澱河歌」を見てきた。ここで、『夜半楽』の巻軸の句(巻物の軸に近い部分。すなわち一巻の末尾。巻中の最も優れた句)の「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)に触れることにする。『蕪村全集(一)』(講談社)の句意等は次のとおりである。

○ 春もやゝあなうぐひすよむかし声

季語=うぐひす(春)。「あな憂」と掛ける。語釈 ○春もやゝ=下に「闌(た)け」を利かせる。○むかし声=老いた声。句意=春もようやく深まった今日このごろ、なんていやらしい鶯よ。すっかりふけこんだ古臭い声でさえずって。老鶯の声に託し、蕉風全盛の今、時代遅れの江戸座的詠風をひけらかしている老年の自分を自嘲的に詠むことで、一四八八(註・次の句)との照応を完成させた。 

○ 祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは
不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず)
蕉門のさびしをりは
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし)
さればこの日の俳諧は
わかわかしき吾妻の人の
口質(こうしつ)にならはんとて

安永丁酉春 初会
歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師

季語=歳旦(春)。歳旦開きに作る句。語釈 ○祇園会=京都八坂神社の祭礼。六月七日から七日間。鉾の上での鉦・笛・太鼓の囃しが名物。○秋風=秋風楽。雅楽曲の一。○音律=雅楽の音の調子。○さび・しをり=蕉門亜流の遵法する俳諧理念。○春興盛席=華やかな初春の俳席。○吾妻の人の口質=江戸座の亡師巴人の詠みぶり。したり皃=得意げな表情。「歳旦をしたり」と掛ける。句意=こんな古くさい掛け詞を織り込んだ歳旦句を、さもうまくやったとばかり得意顔をしている俳諧師よ、蕉門亜流全盛の俳壇を、俳諧本来の笑いの回復をもって一新しようとの抱負を裏返した、自嘲的自画像。

(六十七)

『蕪村全集(一)』(発句)は、尾形仂氏が担当したので、上記の句意等の解説は、尾形仂氏のものと理解して差し支えなかろう。ここで、『蕪村の世界』(尾形仂著)の解説などを見ていくことにする。
○「春もやゝ」の句は、『夜半楽』の総巻軸として、「春もようやく深まった今日このごろ、なんていやらしい鶯よ、すっかりふけこんだ古臭い声でさえずって」と、老鶯の声にかこつけ、蕉風花ざかりの今、時代遅れの江戸座的詠風をひけらかしている老年の自分を自嘲的に詠むことで、巻頭の「歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師」との照応を完成したもの。その巻頭・巻軸の照応を通して、蕉門亜流全盛の俳壇を、俳諧本来の笑いの回復をもって一新しようとする抱負を逆説的に利かせたのである(『蕪村の世界』)。
※蕪村の安永六年の春興帖・『夜半楽』が極めて構成的に編集されていることについては、これまで見てきたところであり、その意味で、「巻頭の『歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師』との照応を完成したもの」という指摘は十分に首肯できる。しかし、その他に、蕪村の脳裏には、蕪村の初撰集の『宇都宮歳旦帖』の軸句に登場する「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の鶯(そして、この鶯は、蕪村のその後の「歳旦帖・春興帖」には陰に陽に登場する)、その鶯との照応もあったことであろう(このことについては、前にも触れたが、ここでも、それらのことについて下記に再掲をしておきたい)。さらに、「その巻頭・巻軸の照応を通して、蕉門亜流全盛の俳壇を、俳諧本来の笑いの回復をもって一新しようとする抱負を逆説的に利かせたのである」という指摘については、これはより多く、「蕉門亜流全盛の俳壇」というよりも、これまでの自分を含めての「夜半亭一門俳諧」についての、安永六年の年頭に当たっての新たなスタート点の確認というような意味合いを有していることも付記しておきたい。
※ これらのことについては、寛保四年(一七四四)の蕪村の初撰集『宇都宮歳旦帖』の「渓霜蕪村輯」の署名でするならば、この安永六年(一七七七)の蕪村の春興帖の『夜半楽』の署名は「夜半亭蕪村輯」とでもなるところのものであろう。それを何故、「門人 宰鳥校」としたのか、確かに、上記のとおり、「夜半亭宋阿門人」という理解も一つの理解であろう。しかし、「門人 宰鳥校」の「校」が気にかかるのである。「校」とは「校合」(写本や印刷物などで、本文などの異同を、基準とする本や原稿と照らし合せること)とか「校訂」(古書などの本文を、他の伝本と比べ合せ、手を入れて正すこと)とかのの意味合いのものであろう。「門人 宰鳥撰」とか「門人 宰鳥輯」の、「編集」を意味する「撰」とか「輯」とかとは、やはり一線を画してのものなのであろう。それを遜っての表現ととれなくもないが、この『夜半楽』には、夜半亭一世・宋阿(巴人)の名はどこにも見られず、唐突に、この奥書に来て、この序文の「吾妻の人」を宋阿その人と理解して、「宋阿門人」と理解するには、やや、無理があるようにも思えるのである。ここは、『夜半楽』所収の異色の三部作の「春風馬堤曲」(署名・謝蕪邨)・「澱河歌」(署名なし)・「老鶯児」(署名なし)の、その「謝蕪邨」(この「引き道具」の狂言の座元・作者である「与謝蕪村」を中国名風に擬したもの)を受けて、「吾妻の人」風に「洒落風」に、「(謝蕪邨)門人 宰鳥校」と、蕪村自身が号を使い分けしながら、いわば、一人二役をしてのものと理解をしたいのである。 そもそも、蕪村の若き日の号の「宰町」(巴人門に入門した頃の「夜半亭」のあった「日本橋石町」の「町」を主宰する)を「宰鳥」(「宰鳥」から「蕪村」の改号の転機となった『宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の「鶯」の句に関連しての「鳥・鶯」を主宰する)へと改号したことは、当時の居所の「日本橋石町」から師巴人に連なる其角・嵐雪の師の芭蕉が句材として余りその成功例を見ないところの「鳥・鶯」への関心事の移動のようにも思えるのである。それと同時に、この安永六年の『夜半楽』の巻軸の句に相当する「老鶯児」の理解には、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の、その蕪村の号を初めて使用したところの「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の句と、それ以後の、歳旦帖・春興帖を編むときに、必ず登場してくるところの「鳥・鶯」の句と、同一線上のものと理解をしたいのである。そして、そう解することによって、始めて、この『夜半楽』の「老鶯児」の句の意味と、蕪村の絶吟の、「冬鶯むかし王維が垣根哉」・「うぐひすや何こそつかす藪の霜」・「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」の、この三句の意味合いが鮮明になってくると、そのように理解をしたいのである(「回想の蕪村」四十一・再掲)。

(六十八)

○ かづらきの帋(かみ)子脱(ぬが)ばや明の春(『明和辛卯春』・巻頭句)
○ 鶯の粗々がましき初音かな(同上・軸句)
○ 出る杭を打うとしたりや柳哉(同上)

 蕪村が五十五歳で夜半亭二世を継いだ翌年の明和八年(一七七一)の、襲号を記念して編んだ春興帖の巻頭句と軸句(二句)である。そして、それから六年後の安永七年(一七七七)の春興帖の巻頭句と軸句は次のとおりである。

○ 歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師(『夜半楽』・巻頭句)
○ 春もやゝあなうぐひすよむかし声(同上・軸句)

『蕪村の世界』(尾形仂著)では、この『明和辛卯春』と『夜半楽』とを視野に入れながら、上記の『夜半楽』所収の巻頭句と軸句との鑑賞を試み(上記六十六・六十七)、さらに、上記の『明和辛卯春』の軸句の一つの「鶯の粗々がましき初音かな」について、次のように鑑賞している。

○初音の鶯がまだホウホケキョウと正しく鳴くことができず、お粗末さまといった鳴き声だという、一見初鶯に優しい愛情を寄せたと取れる句の裏面からは、新参の宗匠として初の歳旦帖を出しは出したが、いかにも不十分な出来でお見苦しい次第だという、謙遜の挨拶の寓意が伝わってくる。

 そして、もう一つの軸句の「出る杭を打うとしたりや柳哉」について、次のような鑑賞文を続けている。

○そうなれば、この句もまた、単なる嘱目ではなく、「打(うた)うと」とする主体は京
俳壇の古参宗匠たち、「柳」に自身を擬した新参宗匠としての挨拶の句、ということになってくる。生意気にしゃしゃり出た邪魔者、エィ、頭をたたいてやれ、というところかも知れませんが、どっこい、私は今芽吹こうとしている柳、大きくなっても、”風の柳”で、けっして皆様方にさからったり邪魔になったりしませんので、何分にもお手柔らかに、どなた様もよろしく、といった具合に。その卑下の挨拶の裏には、むろん、旧套一新、新しい一歩を踏み出そうとの意を寓した巻頭吟(註・「かづらきの帋(かみ)子脱(ぬが)ばや明の春」の句)に応ずる、これから芽吹こうとする者の決意が隠されている。あえて「打(うた)うとしたりや」という民謡調の俗語表現を採ったのも、「かづらきの帋(かみ)子脱(ぬが)ばや」という巻頭吟のおどけた身ぶりに応じ、そうした寓意を笑いに紛らわせようがたるではなかったか。

 蕪村の「歳旦帖」・「春興帖」は、それぞれがそれぞれに呼応し、同じような色調・構成を帯び、そこに収載されている「巻頭句」や「軸句」も、それぞれがそれぞれに呼応し、同じような色調と寓意とを秘めているということであろうか。かく解することによって、安永六年の春興帖『夜半楽』とそこに収載されている二大俳詩の「春風馬堤曲」・「澱河歌」、そして、その最後を飾る総巻軸句の「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」に、蕪村が託した創意というのが見えてくる。

(六十九)

○ 古庭に鶯啼きぬ日もすがら (『宇都宮歳旦帖』軸句・寛保四年)
○  鶯の粗々がましき初音かな (『明和辛卯春』軸句・明和八年) 
○ 春もやゝあなうぐひすよむかし声 (『夜半楽』軸句・安永六年)
○ 冬鶯むかし王維が垣根哉(『から檜葉』臨終三句の第一句・天明三年)
○ うぐひすや何ごそつかす藪の中(『から檜葉』臨終三句の第二句・天明三年)
○ しら梅に明る夜ばかりとなりにけり(『から檜葉』臨終三句の絶吟・天明三年)

 蕪村が、蕪村の号をはじめて名乗ったのは、寛保四年(二十九歳)の『宇都宮歳旦帖』の鶯の句であった。そして、蕪村が、名実共に夜半亭俳諧の総帥として夜半亭二世となり、その翌年の明和八年(五十六歳)の『明和辛卯春』に夜半亭と署名したのも、鶯の句であり、そして、安永六年(六十二歳)に、異色の俳詩二編(「春風馬堤曲」・「澱河歌」)とともに、老鶯児と題しての一句も、鶯の句であった。それから六年の後の天明三年(六十八歳)の臨終三句のうちの二句が鶯の句であり、その二句の鶯の句の後に、「初春」との題をおくように命じての「しら梅に」(白むめの)の句が、その絶吟となったのである。その絶吟を後世に伝えたのが、夜半亭三世・高井几董の『から檜葉』であり、その几董の「夜半翁終焉記」には、その臨終三句について、次のように記している。

○此三句を生涯語の限りとし、睡れるごとく臨終正念にして、めでたき往生をとげたまひけり。(此の三句を生涯の作品の最後として、眠るように臨終を迎え、めでたい往生をとげられたのであった。)

 こうしたものを見ていくときに、これらの鶯は蕪村その人の分身であり、その分身である鶯が、そのエポック、エポックに、蕪村その人の映像として、これらの句に接する者に語りかけてくるように思えるのである。そして、『夜半楽』所収の「老鶯児」と題する鶯の句も、単に、自嘲的自画像(尾形仂著『蕪村の世界』)という理解から、何故か、「老懶(ろうらん)」の「老いていことのもの憂さ」というようなものを語りかけているように思えてならないのである。そして、それは、その前年(安永五年)の「老懐」と題する次の一句と交響しているように思えてならないのである。

○ 去年より又さびしいぞ秋の暮(安永五年正名宛・短冊)

 さらには、その一年前(安永四年)の次の「老懶」の一句と交響しているように思えてならないのである。

○ うき我にきぬたうて今は又(また)止ミね(『続明烏』・『新虚栗』)

(七十)

○ うき我にきぬたうて今は又(また)止ミね(安永四年・『続明烏』・『新虚栗』)
○ 去年より又さびしいぞ秋の暮(安永五年正名宛・短冊)
○ 春もやゝあなうぐひすよむかし声(安永六年『夜半楽』軸句)

 安永四年の「うき我にきぬたうて今は又(また)止ミね」の句は、芭蕉の「うき我をさびしがらせよかんこどり」(『嵯峨日記』)を、さらには、「砧打(うち)てわれをきかせよ坊が妻」(『野ざらし紀行』)を念頭にあったのものであることは言をまたないであろう。芭蕉は、「憂い・老懶」に、真っ向から対峙している。「閑古鳥」の鳴き声を、「ある寺に独(ひとり)居て云(いひ)し句なり」と、さらに、「さびしがらせよ」と一歩も退いていない。さらには、「憂い・老懶」の増すなかにあって、「砧を打ちてわれを聞かせよ」と、その「憂い・老懶」の正体を正面から凝視し、傾聴しようとしている。それに比して、蕪村は、日増しに増す「憂い・老懶」の日々にあって、芭蕉と同じように、「うき我にきぬたうて」としながらも、「今は又(また)止ミね」(今は又止めて欲しい)と、その「憂い・老懶」の中に身を沈めてしまう。安永五年の「去年より又さびしいぞ秋の暮」の句もまた、芭蕉の佳吟中の佳吟「この秋は何で年寄る雲に鳥」(『笈日記』)に和したものであろう(『蕪村全集(一)』)。芭蕉は、この芭蕉最後の旅にあって、その健康が定かでない中にあって、「憂い・老懶」の真っ直中にあって、「何で年寄る」と完全な俗語の呟きをもって、「雲に鳥」と、連歌以来の伝統の季題の、「鳥雲に入る」・「雲に入る鳥」・「雲に入る鳥、春也」と、次に来る「春」を見据えている。それに比して、蕪村は、芭蕉の「憂い・老懶」の「寂寥感」に耐えられず、「去年より又さびしいぞ」と、その「老懐」に、これまた身を沈めてしまうのである。そして、蕪村は、その翌年の春を迎え、その春の真っ直中にあって、「春もやゝあなうぐひすよむかし声」と、いよいよ、その「憂い・老懶」に苛まれていくのである。さればこそ、この「憂い・老懶」を主題とする「老鶯児」の一句を、巻軸として、異色の俳詩、「春風馬堤曲」・「澱河歌」の二扁の序奏曲をもって、「華麗な華やぎ」を詠い、その後に、真っ向から、「憂い・老懶」の自嘲的な、「老鶯児」と題する、「「春もやゝあなうぐひすよむかし声」の一句を、この『夜半楽』の、「老い」の「夜半」の「楽しみ」も、所詮、「憂い・老懶」が増すばかりと、その最後に持ってきたのではなかろうか。

回想の蕪村(一~三)

回想の蕪村(一~十七)

回想の蕪村2006/08/03

(一)

 蕪村には三大俳詩がある。「北寿老仙をいたむ」(晋我追悼曲)、「春風馬堤曲」そして「澱河歌」である。次のアドレスに、それらの三つについて紹介されている。

http://ship.nime.ac.jp/~saga/txtbuson.html

北寿老仙をいたむ

君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき
蒲公の黄に薺のしろう咲きたる
見る人ぞなき
雉子のあるかひたなきに鳴を聞ば
友ありき河をへだてゝ住にき
へげのけぶりのはと打ちれば西吹風の
はげしくて小竹原真すげはら
のがるべきかたぞなき
友ありき河をへだてゝ住にきけふは
ほろゝともなかぬ
君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
我庵のあみだ仏ともし火もものせず
はなもまいらせずすごすごと彳める今宵は
ことにたうとき
                      釈蕪村百拝書

 この「北寿老仙」については、「若き日の蕪村」で見てきたところである。以下のものは、グーグルのブログに再掲したものであるが、参照するときは、エンコードを(Unicode)にして適宜参照していただきたい。この「回想の蕪村」では、この「北寿老仙をいたむ」は従として、その他の二編の俳詩、「春風馬堤曲」並びに「澱河歌」を中心として見ていくことにする。

「若き日の蕪村」(その二)
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_114946097401984177.html

「若き日の蕪村」(その三)
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_06.html

「若き日の蕪村」(その四)
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_08.html

「若き日の蕪村」(その五)
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_09.html

「若き日の蕪村」(その六)
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_11.html

(二)

 蕪村の三大俳詩の「春風馬堤曲」の全文は次のとおりである。

http://ship.nime.ac.jp/~saga/txtbuson.html

春風馬堤曲
             謝蕪邨

  余一日問耆老於故園。渡澱水
  過 馬堤。偶逢女帰省郷者。先
  後行数里。相顧語。容姿嬋娟。
  癡情可憐。因製歌曲十八首。
  代女述意。題曰春風馬堤曲。
 (余一日(いちじつ)耆老(きらう)ヲ故園ニ問フ。澱水(でんすい)ヲ渡リ
  馬堤ヲ過グ。偶(たまたま)女(じよ)ノ郷ニ帰省スル者ニ逢フ。先
  後シテ行クコト数里、相顧ミテ語ル。容姿嬋娟(せんけん)トシテ
  癡情(ちじやう)憐(あはれ)ムベシ。因リテ歌曲十八首ヲ製シ、
  女(じよ)ニ代ハリテ意ヲ述ブ。題シテ春風馬堤曲ト曰フ。)

   春風馬堤曲十八首

○やぶ入や浪花(なには)を出(いで)て長柄川(ながらがは)
○春風や堤長うして家遠し
○堤下摘芳草 荊与棘塞路
 荊棘何無情 裂裙且傷股
(堤ヨリ下リテ芳草ヲ摘メバ 荊(けい)ト棘(きよく)ト路(みち)ヲ塞グ
 荊棘何ゾ無情ナル 裙(くん)ヲ裂キ且ツ股(こ)ヲ傷ツク)
○渓流石点々 踏石撮香芹
 多謝水上石 教儂不沾裙
(渓流石(いし)点々 石ヲ踏ンデ香芹(かうきん)ヲ撮(と)ル
 多謝ス水上ノ石 儂(われ)ヲシテ裙(くん)ヲ沾(ぬ)ラサザラシム)
○一軒の茶見世の柳老(おい)にけり
○茶店の老婆子(らうばす)儂(われ)を見て慇懃に
 無恙(ぶやう)を賀し且(かつ)儂(わ)が春衣を美(ほ)ム
○店中有二客 能解江南語
 酒銭擲三緡 迎我譲榻去
(店中二客有リ 能(よ)ク解ス江南(かうなん)ノ語
 酒銭三緡(さんびん)ヲ擲(なげう)チ 我ヲ迎ヘ榻(たふ)ヲ譲ツテ去ル)
○古駅三両家猫児(べうじ)妻を呼(よぶ)妻来(きた)らず
○呼雛籬外鶏 籬外草満地
 雛飛欲越籬 籬高堕三四
(雛ヲ呼ブ籬外(りぐわい)ノ鶏 籬外草(くさ)地ニ満ツ
 雛飛ビテ籬(かき)ヲ越エント欲ス 籬高ウシテ堕(お)ツルコト三四 )
○春艸(しゆんさう)路(みち)三叉(さんさ)中に捷径(せふけい)あり我を迎ふ
○たんぽゝ花咲(さけ)り三々五々五々は黄に
 三々は白し記得(きとく)す去年此(この)路(みち)よりす
○憐(あはれ)ミとる蒲公(たんぽぽ)茎短(みじかう)して乳(ちち)をあませり
○むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
 慈母の懐袍(くわいほう)別に春あり
○春あり成長して浪花にあり
 梅は白し浪花橋辺(けうへん)財主の家
 春情まなび得たり浪花風流(ぶり)
○郷を辞し弟(てい)負(そむ)く身三春(さんしゆん)
 本(もと)をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅
○故郷春深し行々(ゆきゆき)て又 行々(ゆきゆく)
 揚柳(やうりう)長堤道漸(やうや)くくだれり
○矯首(けうしゆ)はじめて見る故園の家黄昏(くわうこん)
 戸に倚(よ)る白髪の人弟を抱(いだ)き我を
 待(まつ)春又春
○君不見(みずや)古人太祗が句
   薮入の寝るやひとりの親の側

(三)

 蕪村の三大俳詩の「澱河歌」の全文は次のとおりである。

http://ship.nime.ac.jp/~saga/txtbuson.html

澱河歌

  澱河歌三首
○春水浮梅花 南流菟合澱
 錦纜君勿解 急瀬舟如電
(春水(しゆんすい)梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
 錦纜(きんらん)君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟電(でん)ノ如シ)
○菟水合澱水 交流如一身
 船中願同寝 長為浪花人
(菟水澱水ニ合シ 交流一身(いつしん)ノ如シ
 船中願ハクハ寝(しん)ヲ同(とも)ニシ 長ク浪花(なには)ノ人ト為(な)ラン)
○君は水上の梅のごとし花(はな)水に
 浮(うかび)て去(さる)こと急(すみや)カ也
 妾(せふ)は江頭(かうとう)の柳のごとし影(かげ)水に
 沈(しづみ)てしたがふことあたはず

(四)

 「春風馬堤曲」並びに「澱河歌」の鑑賞に入る前に、この世に始めて「俳詩」というものを定着させたところの潁原退蔵著『蕪村』所収の「春風馬堤曲の源流」(『潁原退蔵著作集第十三巻』所収)が、次のアドレスで紹介されているので、その全文を分説して紹介をしておきたい。なお、潁原退蔵氏のプロフィールは次のとおりである。

http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/study/ebarataizo.html

(潁原退蔵プロフィール)

潁原退蔵(えばら たいぞう) 国文学者 1894.2.1 – 1948.8.30 長崎県に生まれる。近世文学ことに与謝蕪村研究に比類なき先駆的業績を積んだ碩学、編著『蕪村全集』は今なお金字塔である。 掲載作は、昭和十三年(1938)以降四編の論文を整備して名著『蕪村』(昭和十八年<1943>一月創元社刊)に所収、初めて「俳詩」という項目の確立された画期的論考として知られる。

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その一)

安永六年(1777)の正月、蕪村は『夜半楽』と題した春興の小冊を出した。その中に「春風馬堤曲」十八首と「澱河歌」三首とが収められてある。それは一見俳句と漢詩とを交へて続けたやうなものであるが、実は必ずしもさうではない。言はば一種の自由詩である。しかも格調の高雅、風趣の優婉、連句や漢詩とはおのづから別趣を出すものがあつて、人をして愛誦せしめるに足る。その体は日本韻文史上にも独特の地位を占むべきもので、ひとり形式の特異といふ点のみでなく、一の文藝作品として確かに高度の完成した美を示して居ると言つて宜(よ)い。而(しか)してこの特殊な韻文の形式を、蕪村はどこから学んで来たのであらうか。それとも全く彼が独創的に案出したものであつたらうか。蕪村にはなほ同様な韻文体の作「北寿老仙をいたむ」の一篇が残されてある。下総結城(しもふさゆふき)の人、早見晋我(しんが)の死を悼んだ曲である。晋我が歿したのは延享二年(1745)のことであるから、曲もすなはち当時の作にかゝるものであらう。それは、

     北寿老仙をいたむ

  君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
  何ぞはるかなる
  君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ
  をかのべ何ぞかくかなしき
  蒲公の黄に薺(なづな)のしろう咲たる
  見る人ぞなき
  雉子(きゞす)のあるかひたなきに鳴を聞(きけ)ば
  友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき
  へげのけぶりのぱと打ちれば西吹風(にしふくかぜ)の
  はげしくて小竹原真すげはら
  のがるべきかたぞなき
  友ありき河をへだてゝ住にきけふは
  ほろゝともなかぬ
  君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
  何ぞはるかなる
  我庵(わがいほ)のあみだ仏ともし火もものせず
  花もまゐらせずすごすごと彳(たゝず)める今宵は
  ことにたふとき
    (晋我五十回忌追善『いそのはな』)

といふので、これには漢語の句は全く含まないけれども、その韻律は極めて自由であり、詞章もまた頗る高雅の気に富んで居る。「春風馬堤曲」の源流が夙(はや)くこゝに存することは、何人(なんぴと)もこれを認めるにちがひない。少くとも蕪村の心にはかうした韻文への創作欲が、若い頃から動いて居たのである。ではこの「北寿老仙をいたむ」の風体を、彼はやはり別に学ぶ所があつて得たのであらうか。問題は更に溯らねばならない。

(五)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その二)

俳諧に於ける韻文の一体といへば、誰しも想ひ到るのは支考一派の間に行はれた所謂(いはゆる)仮名詩である。それは支考が自ら新製の一格として世に誇示した所であるが、要するに漢詩の絶句・律の体に倣ひ、十字を以て五言とし、十四字を以て七言とするやうな規矩を設け、更に五十音図の横列によつて仮名の押韻までも試みようとしたものである。その実作は『本朝文鑑』『和漢文操』等にも、特に類を分ち目(もく)を立てて多く収めてあるから、こゝに詳しく説くにも及ばないが、例へば、

     逍遙遊 五言   蓮二房
  よしあしの葉の中に   寝れば我さむればとり
  鳥さしはさもあれや   かく痩(やせ)て風味なし

     山中尋酒 七言  得巴兮
  門の杉葉に酒をたづぬれば  畚(フゴ)ふり捨(すて)て麦刈にとや
  樽はつれなく店に寝ころびて 臼引音(うすひくおと)の庭にさびしさ

     和漢賞花 五言律
  花はよし花ながら    見る人おなじからず
  ぼたんには蝶ねむり   さくらには鳥あそぶ
  たのしさを鼓にさき   さびしさを鐘にちる
  唐にいさ芳野あらば   詩をつくり歌よまむ

     和漢賞月 七言律
  我日のもとの明月の夜は   もろこし人も皆こちらむく
  詩には波間の玉をくだきて  哥(うた)に木末の花やちるらん
  雪か山陰の友をおもへば   露も更科の姥(うば)ぞなくなる
  さはれ杜子美が閨にあらずも 芋とし見れば物も思はず

の如く八句から成つて居る。に・り・し、ば・や・さ等と、伊列又は阿列の音を句尾に置いて、所謂仮名の韻を押すやうな技巧は、流石(さすが)に支考らしい工案(くあん)ではあるが、ともあれ普通の俳諧とは全く異つた形式を用ゐて、しかもその中に俳味の掬(きく)すべきものがなしとしない。もしこのやうな一体の韻文が、真摯(しんし)な文藝精神の下に展開を遂げたならば、それは俳諧から派生した一の特殊な文藝として、俳文よりももつと注意すべき近世文藝の一分野を占めることが出来たであらう。

(六)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その三)

そして自由な韻律と格調とをもつた新韻文の形式は、明治の新体詩をまたずして十分成長し得た筈である。しかし支考の例のことごとしいあげつらひは、徒(いたづ)らに体制の上に無用の指を立てるやうな事のみに急で、真に文藝的な完成への努力を怠つた。例へば仮名に真名(まな)の韻を用ゐる一格と称して、

     田家ノ恋    蓮二房
  さをとめの名のいかにつゆ(露)けき(濃)
  花もかつみのよしやよ(俗)の中
  浅香にあらぬ沼のかげ(影)さへ(副)
  鏡の山のそこにはづ(慚)かし(通)

の如く、一句の終に特に漢字を宛てて、こゝに押韻(あふゐん)する方法を案じたりした。のみならずこの漢字についても、俗中は日本紀により、影副は万葉に出で、慚通は真字伊勢物語に基くなどと一々勿体をつけて居る。果ては、

     祝草餅    桐左角
  若菜は君が為とよみしかど(廉)  
  蓬はけふの餅につかれしを(塩)
  名も鴬のいろにめでけむ(剣)
  げに花よりと見れば見あかね(兼)

の如きかどを廉にしをを塩に宛てるなど、殆ど遊戯文字と選ぶ所のないやうな作までも試みて居る。こゝに至つては折角の万葉の体も、律法の新製も、その愚や及ぶべからずである。
 美濃派の俳人の間には、その後もなほ仮名詩の作は行はれて居た。同派の俳書を繙(ひもと)くならば、享保以後ずつと後年に至るまで、屡々その作が試みられて居ることを知るであらう。中には見るべきものもないのではない。也有(やいう)の『鶉衣』に収むる「鍾馗画讃」や「咄々房挽歌」等も、また仮名詩の流を汲むものであつた。だからやはり仮名の韻を押し、又毎句末に漢字を宛てたりして居るのであるが、「咄々房挽歌」の如きは、

  木曽路に仮の旅とて別(わかれ)しが
     武蔵野に、長きうらみとは成ぬる(留)
    呼べばこたふ松の風
    消てもろし水の嶇(=正しくはサンズイヘン)
  わすれめや   茶に語し月雪の夜
  おもはずよ   菊に悲しむ露霜の秋
    庵は鼠の巣にあれて   蝙蝠群て遊
    垣は犬の道あけて    蟋蟀啼て愁
      昔の文なほ残    老の涙まづ流
  よしかけ橋の雪にかゝらば
  招くに魂もかへらんや不(イナヤ)

と、句脚に尤(いう)の韻を用ゐる為にかなり無理な点が見られるにもかゝはらず、そのリズムは頗(すこぶ)る自由でしかも一種の高雅な風韻が感ぜられる。又天明・寛政の頃小夜庵五明の門人是胆斎野松は和詩の作を好み、その編した『和詩双帋(わしざうし)』には盧元坊以下の人々の作を集めてあるが、誦するに堪へる佳作も少しとしない。今五明と野松の作一篇づゝを抜いて見よう。

(七)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その四)

  秋香亭の夕顔を題して   小夜庵
  垣根に長く作り垂しは   我が手に墨し窓切らんとや
  月を眺むる便りならねば  いけては壁に花を見る哉

     題雨中の桜        野松
  降りくらす桜の雨     雨匂ふ鐘のおと
  蝶と散るもおしむまじ   鳥と笑むも仇(あだ)なるを
  露深く昼をうらみ     霞に立つ俤(おもかげ)も
  物言はん色と見れば    花にもあらで我が心

 これらは依然として仮名の韻をふみ、支考の製した旧格を守つて居るが、とにかく発句や連句とは異つた形に於いて一種の詩情を味ははしめる。蕪村の「北寿老仙をいたむ」や「春風馬堤曲」が、俳諧から出た韻文の一格と見られるとすれば、結局それは支考一派のかうした仮名詩に因縁(いんえん)を求めねばならないものだらうか。それにしても支麦(しばく)の平俗を甚しく厭つた蕪村の事である。かりに「春風馬堤曲」を仮名詩の展開の中に位置づけるとしても、彼が直接『本朝文鑑』や『和漢文操』に範を得たとは思はれない。さうかと言つて、也有や五明に学んだ点も見られないのである。
 俳諧に仮名詩の一流が長く伝はつたにしても、蕪村の「春風馬堤曲」は恐らくそれとは没交渉に生れたものであらう。彼の孤高な離俗の精神は、支麦の徒が奉じた俳諧理念と相容れる事は出来なかつた。たとひ仮名詩の中に二、三の詩情豊かなものがあつたにせよ、「春風馬堤曲」はやはり蕪村がひとり住む浪漫的な抒情の世界であつた。しかしかの自由な詩の一格は、必ずしも彼の創案になるものではない。実は夙く享保・元文の交から、江戸俳人の間に仮名詩とは全く別趣な一種の韻文が行はれて居たのである。それらの作品の中で、管見に入つた最も古いものは、享保二十一年(1736)三月刊行の『茶話稿』(紫華坊竹郎撰)に載(の)する左の一篇である。

(八)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その五)

     立君の詞   楼川
  よるはありたや   雨夜はいやよ
  ふればふらるゝ   此ふり袖も
  草の野上の     野の花すゝき
  まねきよせたら   まくらにかそよ
  かさにかくれて   ふたりで寝よに
  ござれござれよ   月の出ぬまに

 七七調の連続は仮名詩の所謂十四字七言の体に類するが、これは六句から成つて居て、絶句にも律にも当らない。又特に一定の韻をふんだあとも認められない。詠む所は市井卑俚(しせいひり)の景物を捉へて、しかも賤陋猥雑に堕することなく、一脈幽婉可憐の情趣を掬(きく)せしめるものがある。軽妙の才はあるいは也有の『鶉衣拾遺』に収められた仮名詩「辻君」に一籌(いつちう)を輸(ゆ)するかもしれないが、これは小唄めいた律調を交へて、よく俳諧の境地に即して居る。この一作が支考の新製と全く関する所なくして生れたか否か、それは今日から容易に推定を下すことは出来ない。しかし少くとも楼川(ろうせん)の俳系から考へると、彼が故(ことさ)らに所謂田舎蕉門の顰(ひそみ)に倣はうとする筈もない。晩得の『古事記布倶路』にも右の楼川の作を採録して、「仮名詩のやうなれども少し風流あり」と評して、美濃派の作とは似て非なることを認めて居る。今試みにこのやうな作が生れた一の契機について説くならば、当時江戸俳人の間には、従来俳文の体に賦・説・辞・解等の煩雑な形式的分類が行はれながらも、その実体に変化がなく千変一律なのに倦(あ)いて、何等か新しい一体を得ようとする機運が動いて居たのではあるまいか。江戸俳壇に於けるさうした要求に基く動きは、前掲の『茶話稿』に収められた二、三の文章にも認められる。又かの吉原に関する一の俳文集ともいふべき『洞房語園集』(元文三年<1738>刊)の如きも、従来の分類と同様な序・賛・引・頌・説・記等の名目に従つては居るが、実は必ずしもそれらの名目に捉はれない自由な態度が見られるのである。この間から河東節(かとうぶし)の作者が出たりして居るのも、あるいはさうした曲詞にまで俳諧文章の進出を意味するつもりであつたかも知れない。ともあれ楼川の「立君の詞」は、支考の仮名詩に系を引くものとするよりは、新しい俳文の一体を得ようとする江戸俳人の要求に基いたと見るべきであらう。
 芭蕉俳諧に於けるさびや細みは、それが軽みの理念の十分な理解を伴はない場合、あまりに形式的な枯淡閑寂を強ひる傾(かたむき)を生じた。事実「今の芭蕉風といへる句を察するに、古池やのばせをが句の一図(一途)と聞ゆる也」(不角『江戸菅笠』序)と評されねばならなかつた。このやうな実状の間にあつて、沾洲・淡々・不角等の俗情を脱し、しかも蕉風の形骸的枯淡を厭つて、より豊かな抒情の詩を求める人々は、こゝに何等かの新しい発想の形式を欲したであらう。江戸の俳人が一般に複雑な人事趣味を喜んだのも、蕉風以来の単調を破るべき反動である。だがその人事趣味は叙事的であるよりも常に抒情的であつた。新しい俳文の一体として抒情詩の発想を得る事は、彼等の望むところであつたらう。夙(はや)く元禄・宝永の頃に溯つて、素堂の「蓑虫説」や嵐雪の「黒茶碗銘」の如きには、すでに一種の自由な散文詩とも見るべき形式を具へて居た。支考の仮名詩がむしろ理論的に案出されたのに比して、素堂や嵐雪の散文詩は抒情のおのづからなる発露であつた。だから享保期に於ける江戸俳人の新しい詩の発想形式は、こゝにその源流を求めてもよかつたのである。今率直な立言(りふげん)を試みるならば、楼川(ろうせん)の「立君の詞」は即ち素堂・嵐雪の散文詩に発するもので、蕪村の「春風馬堤曲」はまた楼川の詩心を承けるものだと言へないであらうか。少くともある文藝精神の継承展開としてそれは肯定されるであらう。それにしても楼川と蕪村との作の間に、直接的な交渉を認める為には、今少し明確な論拠を与へねばならない。それには年代の近接と格調の相似とで、両者を必然に繋ぐべきなほ幾つかの作品の存在を知ることが必要である。しかし今はまだそこに十分の資料を提供することが出来ない。これまでに知り得たのは、わづかに次の二つの作にすぎない。その一は寛保元年(1741)十二月刊行の『園圃録』(雪香斎尾谷撰)に載するものである。この書は当時の江戸俳人の発句・連句を集録した乾坤二冊、紙数百余丁の大冊であるが、その中に若干の文章をも収めてある。それらの俳文に伍して、次の如き一篇の韻文を見るのである。

(九)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その六)

    胡蝶歌   尾谷
  賎(しづ)が小庭の菜種の花は
             乳房とぞ思ふ
  梅の薫りを   紅梅はおぼへたるべし
  風のさそひて散行(ちりゆく)花を
   追ふて行身(ゆくみ)も共に花なるや
             羽もかろげなり
   江南の橘の虫の化すとも伝へし
   本朝にては何か化すらん
             妓女が夏衣も涼しげなれば
  夢の周たる歟(か)
   桔梗朝顔の花にたはれて
             老やわすれぬ
   尾花小萩の花にあそびて
             秋もおぼへぬ
   うとく見るらん   松虫は鳴に
   うらぶれてなけ   蝶よ胡蝶よ

 その格調の軽妙自由なのは、楼川の「立君の詞」に比して更に目を刮(かつ)せしめるものがあり、詞章の優雅高逸なのに至つてはもとより遥かに挺(ぬき)んでて居る。今様にあらず、仮名詩にあらず、河東の曲にあらず、別に一体を出して朗々誦するに足るのである。今一つは延享二年(1745)三月、江戸の麦筵(ばくえん)谷茂陵の撰んだ『雛之章』に載せられてある。この書は諸家の雛の句を集めて、終に撰者の独吟歌仙等を添へた小冊子であるが、その中に次の一作が見える。

(一〇)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その七)

  袖浦の歌   依長干行韻  文喬
  けふばかり汐干に見へて
  袖の浦わのうらみ忘れめ
  霞をくゝる山の手の駕籠
  淡かとまよふ海ごしの安房
  烟管くはへて磯より招き
  扇子かざして沖より望む
  君家住何処
  妾住在横塘

 長干行は楽府(がふ)の題であるが、これは唐詩選などに収められた崔かう(景ヘンに頁)の作をさして居り、最後の漢句二句は即ち崔_の、長干行百章の起句と承句とをそのまゝ用ゐたのである。忘・房・望・塘と押韻したのなどは、支考の所謂和詩を学んだやうでもあるが、その趣は全く異ると言つて宜い。品川あたりの汐干の景を叙し、最後に漢詩の句をそのまゝ借り来(きた)つて、桑間濮上の情趣を点じた手法は誠に面白い。蕪村の「澱河歌」と通ずる所が極めて多いことは、何人(なんぴと)も直ちに認めるであらう。
「胡蝶歌」の作者尾谷(びこく)は盤谷(ばんこく)の門であり、盤谷は談林系の人である。もとより俳系上蕪村との交渉は全く無い。しかし『園圃録』に見るその交游の範囲は、当時の江戸俳人の知名の士に亙(わた)り、蕪村が江戸にあつた元文・寛保の頃、親しく識ることを得た人々も少くなかつたと思はれる。それらの人々の間には、尾谷の外にもかうした作の試みがなほあつたかも知れない。ともあれ蕪村は当時尾谷のこの作について、恐らく知る所があつたであらう。「袖浦の歌」の作者文喬については、遺憾ながら今全く知る所がない。『雛之章』には序文をものして居り、その序によれば同書の撰にも与(あづか)つて力があつたらしい。而して『雛之章』に句を列ねた人々は、四時観の系に属するものが多いやうで、これまた俳系上蕪村と直接の関係は認められない。しかし四時観の徒は江戸の俳壇に一種の高踏的な態度を持し、所謂(いはゆる)通(つう)を誇つてむしろ趣味に婬する傾(かたむき)があつたとはいへ、譬喩俳諧の末流や支麦(しばく)の平俗とはおのづから選を異(こと)にして居た。『雛之章』にしてもその装幀は細長形の唐本仕立(じたて)で、見るからに高雅な趣味を漂はせて居る。このやうな好みをもつ人々に対して、蕪村はもとより白眼視しては居なかつたであらう。而して文喬の「袖浦の歌」と蕪村の「北寿老仙をいたむ」とは、殆ど時を同じうして成つて居るのである。楼川から尾谷、文喬、蕪村と、彼等の手に成る一種の韻文を通覧する時、その間に一の系脈の存することを肯定し得ないであらうか。少くともそこにある共通の精神が存することは、これを認めるに何人(なんぴと)も吝(やぶさ)かでないであらう。彼等の諸作の単なる先蹤(せんしよう)として、支考の仮名詩や和詩をあげることは差支(さしつかへ)ない。それは年代的に見て確かに先に現はれたものであり、また江戸の俳人たちはその存在を十分知つて居たのだから。現に紀逸の『雑話抄』(宝暦四年<1754>刊)には、「ちかきころ仮名の詩といふことを人々言出(いひいで)侍るを」とあつて、当時江戸に仮名詩が行はれたことを述べて居るのである。さうして彼自ら「たはぶれに作」と言つてあげた数編の作は、四句一章の形式が全く支考の仮名詩と同一である。しかも彼はそれだけで満足せず、和讃の体で三首の作を示し、更に次のやうな一作をものして居る。

(一一)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その八)

   放鳥辞
 鶸々 籠中の鶸(ひは) 汝久しく籠にこめられて 雲を乞(こふ)るうらみやむ時なし
 我又久しく病に労(いたづき)て 遠く遊(あそば)ざる愁(うれひ) 日々にあり
 鶸々 籠中の鶸 今汝をもて我にあて 我をして汝を思ふにしのびず
 みづから起(たち)て籠を開て 汝をはなさん
 鶸々 籠中の鶸、五柳先生の古郷をしたへるおもひ 慈鎮和尚の籠上にそゝげるなみだ 律のいましめにかなひて みづから起て籠を開て 汝を放さん
 鶸々 籠中の鶸 今幸にして籠の中をのがれ 野外に遊ぶとも
 飢を貪(むさぼつ)てますら雄の網に入(い)る事なかれ 遠く翔(とび)て箸鷹の爪にかゝる事なかれ
 鶸々 籠中の鶸 長く千歳の松にあそびて 共に千歳のことぶきを囀るべし
 鶸々 籠中の鶸

 これは正しく遠く素堂の「蓑虫説」に踵(きびす)を接し、それより更に自在を得た体と言ふべきであらう。紀逸はそれを特に韻文の体とことわつては居ないが、仮名詩や和讃の作につゞけて掲げたのは、やはり普通の俳文とはちがつた作として試みたものだからであると思ふ。即ちこゝにはまた支考の仮名詩の外に、このやうな抒情の発想を求めずに居れない精神があつたのである。それは楼川の「立君の詞」からつゞいた同じ抒情の詩の流(ながれ)であつたらう。
 天明の俳諧が元禄の俳諧に比して特殊とされる性格は、言ふまでもなくそれが近世の新しい浪漫精神に立つ所に求められねばならぬ。その精神はまた芭蕉俳諧に於ける抒情性の新たな発想への要求として動いた。さうした際にあの楼川や尾谷によつて試みられた自由な詩の形が、蕪村の心に大きな魅力となり、また自らさうした詩形の上に彼の新しい抒情を託さうとする誘惑を感じなかつたであらうか。享保以後明和・安永に至るまで、この種の自由詩は少い数ではあるにせよ、これを作り試みる者はなほ絶えなかつたのである。蕪村がそれに倣つて「北寿老仙をいたむ」や「春風馬堤曲」の作をなしたと考へる事は、もはや誤(あやまり)のない推測であらう。それは彼の浪漫精神の現れとして注意されるのみならず、天明俳諧の性格をまた最もよく示す事実でもあつた。蕪村ばかりが作つたのではない。暁台にもまた几董(きとう)の死を悼んだ次の如き一曲の作がある。

(一二)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その九)

    蒿里歌(かうりのうた)
 夜半の鐘の おと絶て めにみるよりも 霜の声 きく耳にこそ しみはすれ 
     友ちどり 呼子鳥 都鳥 はかなし はかなしや みやこ鳥
 きのふ墨水(ぼくすゐ)に杖を曳て
 柳条に月をかなしび
 けふは杖を黄泉に曳て
 弘誓(ぐぜい)の棹哥(たうか)に遊ぶかし
     夜半の鐘の おと絶て むなしき松を まつのかぜ
 聖護院の杜(もり)の空巣には
 妻鳥こそまどふらめ
 難波江の芦の浮巣には
 友鳥こそわぶらめ
     わぶらめやいたいたし   伊丹のいめぢいたいたし
     さらでだもしぐれの雨は降ものを
     心に雲の行かひて晴ぬは誠なるかも
 友ちどり 呼子どり あゝ都鳥はかなしや 都鳥はかなしや

 これまた全く自由な形態と発想とをもつた一篇の抒情詩である。又(松村)月渓が池田に滞在中、同地の名物である池田炭・池田酒・猪名川鮎・呉服祭に因(ちな)んで作つたといふ「池田催馬楽(さいばら)」の如きも、

     魚
 猪名の笹原を 秋風の驚かして 猪名川の鮎は あはれ 落ち尽したり 酒袋の渋や流れけむ あはれ 渋や流れけむ

     炭
 雄櫟(をくのぎ)はつれなしや 兜巾頭(ときんがしら)のかたくなや 雌櫟(めくのぎ)はふすぼりて あはれ 何をもゆる思ひや

     酒
 新搾(にひしぼ)りの にほひよしや 待つらむ君は 君は 花に紅葉に もみぢばを 逃げつゝ行かむ 東路(あづまぢ)に 菰(こも)かぶりて行かむ

     祭
 呉服(くれは)の御祭の 小酒たふべて 舞ひ狂ふや すぢりもぢりて かざしの袖を あや綾服絹(あやはぎぬ) 紅(くれなゐ)の呉服絹(くれはぎぬ)

といふので、催馬楽(さいばら)の調(しらべ)に摸(も)したとはいふものの、実はやはり天明俳人の求めた抒情の新しい詩形であつた。

(一三)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その十)

明治の新体詩はその発生に於いて全く西洋詩の移植であつたのみならず、その展開もまた西洋詩に影響されることが最も多かつた。初めて新体詩といふ名称の下に公にされたかの『新体詩抄』の序には、

 コノ書ニ載スル所ハ詩ニアラズ、歌ニアラズ、而シテ之ヲ詩ト云フハ、泰西ノポヱトリート云フ語、即チ歌ト詩トヲ総称スルノ名ニ当ツルノミ。古(イニシヘ)ヨリイハユル詩ニアラザルナリ。

と、明かに泰西の詩に当るべき新体の創始たる事を語つて居る。もとよりその表現が日本語による以上、国語特有の性質––特に韻律的性質を無視することは出来なかつた。だからそのリズムは日本古来の歌謡に普遍な七五、又は五七調がそのまゝ用ゐられたのである。しかもまた、

 コノ書中ノ詩歌皆句(ヴエルス)と節(スタンザ)トヲ分チテ書キタルハ、西洋ノ詩集ノ例ニ倣ヘルナリ。

とあるので、当時いかに出来るかぎりの西洋詩模倣に努めたかは知られるであらう。このやうにして生れた新体詩である。それが明治から大正を経て今日に至るまで、わが国の詩歌の中で最も西洋的な発想法をとつて来たことは当然とも言へる。けれども当初西洋詩のそのまゝの移植であつたにせよ、そして西洋風の培養を多く受けたにせよ、すでに日本の土に根を下したものである。それが日本的な成長を見るべきは、これまた更に当然なことと言はねばならぬ。明治以来のすぐれた詩人たちの詩が、意識的にも無意識的にも日本の詩としての完成へ向つて進んで来たことは、極めて明かな事実である。さうして日本の詩が真に日本の詩であるべき自覚は、今に於いて最も、高度に要求されて居る。所謂(いはゆる)新体詩は、西洋詩の模倣として発生したにちがひないが、今日から回顧すればそれは単に自由清新な詩形を求める動きにすぎなかつた。日本の詩と詩精神はすでに新体詩以前、遥かに古い世から存して居たのである。しかも明治の詩人たちが求めた自由清新な詩形すら、実は決して新体詩以前に存しないのではなかつた。「春風馬堤曲」の源流を探る間に、その事実は文献的に明かにされた。「日本の詩は日本の詩である」といふ厳(おごそ)かな自覚の下(もと)に、天明俳人の賦した一篇の詩は、いかなる意味で省みられねばならないであらうか。今日の詩人の魂を揺り動かすものが、そこには必ず見出されるにちがひないのである。

(一四)

 「春風馬堤曲」の現代語訳を試みたい。

春風馬堤曲
             謝蕪邨

  余一日問耆老於故園。渡澱水
  過 馬堤。偶逢女帰省郷者。先
  後行数里。相顧語。容姿嬋娟。
  癡情可憐。因製歌曲十八首。
  代女述意。題曰春風馬堤曲。
 (余一日(いちじつ)耆老(きらう)ヲ故園ニ問フ。澱水(でんすい)ヲ渡リ
  馬堤ヲ過グ。偶(たまたま)女(じよ)ノ郷ニ帰省スル者ニ逢フ。先
  後シテ行クコト数里、相顧ミテ語ル。容姿嬋娟(せんけん)トシテ
  癡情(ちじやう)憐(あはれ)ムベシ。因リテ歌曲十八首ヲ製シ、
  女(じよ)ニ代ハリテ意ヲ述ブ。題シテ春風馬堤曲ト曰フ。)
(訳)
  私はある日老人を訪ねて故郷に帰った。淀川を渡り
  毛馬堤を歩いて行った。たまたま帰省中の女性に遇った。
  先になったり後になったりして、しばらくして、話し合うようになった。
  容姿端麗の女性で、その端麗さに心を奪われた。
  そんなことで、歌曲十八首を作り、
  その女性の心に託して心情を吐露した。
  題して、「春風馬堤ノ曲」という。

 「謝蕪邨」は与謝蕪村の中国風の表現。「一日」はある日のこと。「耆老」の「耆」は六十歳以上のことで、老人のこと。蕪村は時に六十二歳である。「澱水」は淀川。「嬋娟」は色ぽっいこと。蕪村がこの「歌曲十八首」を「春風馬堤曲」と題したことについては、楽府中の「大堤曲」の曲名に因っており、この詩編が楽府の歌曲スタイルに擬した艶詩であることを示しているという(尾形仂著『蕪村の世界』)。

(一五)

   春風馬堤曲十八首

一 ○やぶ入や浪花(なには)を出(いで)て長柄川(ながらがは)
(訳)藪入りで大阪の奉公先を出て、今長柄川にさしかかりました。
二 ○春風や堤長うして家遠し
(訳)春風の中、堤はどこまでも続き、家ははるか彼方です。
三 ○堤下摘芳草 荊与棘塞路
荊棘何無情 裂裙且傷股
(堤ヨリ下リテ芳草ヲ摘メバ 荊(けい)ト棘(きよく)ト路(みち)ヲ塞グ
 荊棘何ゾ無情ナル 裙(くん)ヲ裂キ且ツ股(こ)ヲ傷ツク)
(訳)堤を下りて芳しい草を摘みますと、棘のある茨が路を塞ぎ、その棘は無情にも裾を裂いて、股を傷つけます。
四 ○渓流石点々 踏石撮香芹
   多謝水上石 教儂不沾裙
(渓流石(いし)点々 石ヲ踏ンデ香芹(かうきん)ヲ撮(と)ル
 多謝ス水上ノ石 儂(われ)ヲシテ裙(くん)ヲ沾(ぬ)ラサザラシム)
(訳)渓流には石が点々とあり、その石を伝わって香りのよい芹を摘む。水上の石に感謝し、そのおかげで裾を濡らさずにすんだのだ。
五 ○一軒の茶見世の柳老(おい)にけり
(訳)一軒の茶店があり、かっての柳も老木になっています。
六 ○茶店の老婆子(らうばす)儂(われ)を見て慇懃に
   無恙(ぶやう)を賀し且(かつ)儂(わ)が春衣を美(ほ)ム
(訳)茶店のお婆さんは、私を見て丁寧に挨拶をして、元気であることを喜び、私の春の晴れ着をほめてくれました。
七 ○店中有二客 能解江南語
   酒銭擲三緡 迎我譲榻去
(店中二客有リ 能(よ)ク解ス江南(かうなん)ノ語
 酒銭三緡(さんびん)ヲ擲(なげう)チ 我ヲ迎ヘ榻(たふ)ヲ譲ツテ去ル)
(訳)茶店には二人のお客がおり、色里の言葉などをよく解していて、酒代を三さしぽんと出して、私に席を譲ってくれました。
八 ○古駅三両家猫児(べうじ)妻を呼(よぶ)妻来(きた)らず
(訳)古い集落で、二・三軒の家があり、雄猫は雌猫を呼んでいるが、雌猫は現れない。
九 ○呼雛籬外鶏 籬外草満地
   雛飛欲越籬 籬高堕三四
(雛ヲ呼ブ籬外(りぐわい)ノ鶏 籬外草(くさ)地ニ満ツ
 雛飛ビテ籬(かき)ヲ越エント欲ス 籬高ウシテ堕(お)ツルコト三四 )
(訳)垣根の外の鶏が雛を呼び、その垣根の外には草が地に満ちていて、雛が垣根を越えようとしていますが、垣根が高く、三・四羽の雛は越えらず落ちたりしています。

 この「春風馬堤曲」は、第一章(第一場)は、発句体の第一首(一)・第二首(二)と漢詩体の第三首(三)・第四首(四)とから成る。第二章(第二場)は、発句体の第五首(五)、漢文訓読体の第六首(六)そして漢詩体の第七首(七)から成り、第三章(第三場)は、発句体の第八首(八・漢詩文調)と漢詩体の第九首(九)から成っている。第一首(一)の「長柄川」は淀川の分流中津川の古称。第二首(二)の「春風」の読みは「しゅんぷう」ではなく「はるかぜ」としたい(尾形・前掲書)。第三首(三)の「無情」は「妬情」が定稿で推敲されてのものという(尾形・前掲書)。第四首(四)の「香芹」は香りのよい芹のこと。第六首(六)の「美(ほ)ム」も「羨む」を定稿で推敲されたという(尾形・前掲書)。第七首(七)の「江南語」は中国の揚子江以南の土地の総称だが、淀川を「澱水」、曾根崎新地を「北里・北州」と中国風に呼ぶと同じような用例で、遊里(郭)言葉のような意も利かしている(尾形・前掲書)。「三緡(ぴん)」は銭百文をつないだものが一緡で、三百文になる。第八首(八)の「古駅」は、古い宿場のこと。

(一六)

一〇 ○春艸(しゆんさう)路(みち)三叉(さんさ)中に捷径(せふけい)あり我を迎ふ
(訳)春草の野路は三つに分かれ、その中の近道が私を迎えてくれました。
一一 ○たんぽゝ花咲(さけ)り三々五々五々は黄に
    三々は白し記得(きとく)す去年此(この)路(みち)よりす
(訳)蒲公英が咲き、三々五々に黄色い花もあれば白い花もあります。去年もこの路を通ったのを覚えています。
一二 ○憐(あはれ)ミとる蒲公(たんぽぽ)茎短(みじかう)して乳をあませり
(訳)懐かしさの余り蒲公英の花を折りとると茎が短く折れて白い乳がでました。
一三 ○むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
    慈母の懐袍(くわいほう)別に春あり
(訳)幼い昔のころがしきりに思いだされ、優しい母の恩が思い起こされてきます。優しい母の懐は、この世のものとは思われいような、別天地の春のようです。
一四 ○春あり成長して浪花にあり
    梅は白し浪花橋辺(けうへん)財主の家
    春情まなび得たり浪花風流(ぶり)
(訳)その別天地の春ような母の恩を受けて成長し、今、大阪に住んでいます。その梅が白く咲いている浪波橋のお大尽さんの家に奉公して、その梅の花のように青春を謳歌し、すっかり大阪っ子の華美な暮らしに慣れ親しんでいます。
一五 ○郷を辞し弟(てい)負(そむ)く身三春(さんしゆん)
    本(もと)をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅
(訳)私は故郷を離れ、弟を家に残して、こうして大阪に出て、もう三年目の春を迎えてしまいました。これはまことに、根の親木を忘れて、末の枝先で花を咲かせているだけの接ぎ木の梅のようです。
一六 ○故郷春深し行々(ゆきゆき)て又 行々(ゆきゆく)
    揚柳(やうりう)長堤道漸(やうや)くくだれり
(訳)何と故郷は春の深さの中にあることか。その春のまっただ中を歩き歩き、また歩いて行きますと、柳並木の長い堤の路となって、ようやく下り坂となります。
一七 ○矯首(けうしゆ)はじめて見る故園の家黄昏(くわうこん)
    戸に倚(よ)る白髪の人弟を抱(いだ)き我を
    待(まつ)春又春
(訳)その坂道を下りながら、首を上げるとまぎれもなく故郷の家が見えるではないか。黄昏れ時で、その故郷の家の戸口に、白髪の人が弟を抱いて、私を待っていてくれたのだ。
何時の春でも、そうして待っていてくれたのであろう。
一八 ○君不見(みずや)古人太祗が句
    薮入の寝るやひとりの親の側
(訳)あなたも知っていることでしょう。今は亡き太祗にこんな句があります。「薮入の寝るやひとりの親の側」(藪入りの子が、ひとりの親のそばで、心おきなく寝入っている。)

 「春風馬堤曲」の第四章(第四場)は、発句体の第一〇首(一〇・漢詩文調)と漢文訓読体の第一一首(一一)とから成り、第五章(第五場)は、発句体の第一二首(一二・漢詩文調)と漢文訓読体の第一三首(一三)・第一四首(一四)・第一五首(一五)とから成る。そして、最終の第六章(第六場)が、漢文訓読体の第一六首(一六)・第一七首(一七)と発句体(一八・前書きあり)とから成る。第一〇首の「捷径」は近道のこと。第一一首の「記得す」は覚えているの意。第一二首の「憐みとる」は慈しんでそっと採ること。第一三首の「懐袍」の「袍」は布子の綿入れの意。「別に春あり」は季節や衣服の春の暖かさとは別の愛情の春の暖かさがあったということ。第一四首の「財主の家」は財産のある家(お金持ち)のこと。「浪花橋」は天満と北浜とを結ぶ難波橋。第一五首の「辞す」は去るの意。第一六首の「揚柳」の「揚」はハコヤナギ、「柳」はシダレヤナギで、蕪村の描く中国風邪の山水図の景。第一七首の「矯首」は首を上げること。第一八首の「君不見(君見ズヤ)」は楽府の詩などにしばしば見られる用例という(尾形・前掲書)。

(一七)

澱河歌の現代語訳は次のとおりである。

  澱河歌三首

○春水浮梅花 南流菟合澱
 錦纜君勿解 急瀬舟如電
(春水(しゆんすい)梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
 錦纜(きんらん)君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟電(でん)ノ如シ)
(訳)春の水は梅の花を浮かべ、南へ流れ、宇治川は淀川と合流する。君、錦のともづなを解かないでください。流れの早さに舟は稲妻のように流されてしまいますから。
○菟水合澱水 交流如一身
 船中願同寝 長為浪花人
(菟水澱水ニ合シ 交流一身(いつしん)ノ如シ
 船中願ハクハ寝(しん)ヲ同(とも)ニシ 長ク浪花(なには)ノ人ト為(な)ラン)
(訳)宇治川は淀川と合流し、交わり流れ一身のようです。舟の中でも共寝をし一身になりたい。そのまま、大阪に下り、一生大阪人で暮らしたい。
○君は水上の梅のごとし花(はな)水に
 浮(うかび)て去(さる)こと急(すみや)カ也
 妾(せふ)は江頭(かうとう)の柳のごとし影(かげ)水に
 沈(しづみ)てしたがふことあたはず
(訳)君は水に浮かぶ花のようで、その花は水に浮かび、慌ただしく去っていってしまうばかりです。私は川辺の柳のように、その水上に影を投げかけ、その影は水に沈んでついてくこともできません。

 「春風馬堤曲」に比し、漢詩体二章と漢文訓読体一章の計三章とシンプルであり、その対比が著しい。しかし、両者とも女性に代わって作をしているということは共通しており、「春風馬堤曲」が淀川土堤のものであれば、「澱河歌」は文字どおり、淀川そのものの作といえよう。「菟」は宇治川、「澱」は淀川の中国風の表現。「錦纜」は錦のともづなのこと。
「春風馬堤曲」も「澱河歌」も、『夜半楽』に収載され、その目次には、「春風馬堤曲 十八首」・「澱河歌 三首」・「老鶯児 一首」の三編が並べて掲げられており、この三編をもって、一つの組詩のような構成をとっている。この最後の「老鶯児」は次の発句一句である。

○ 春もややあなうぐひすよむかし声

 この三編の組詩は、「春風馬堤曲」は十八章三十二行、「澱河歌」は三章八行、「老鶯児」は一章一行で、章数は、「春風馬堤曲」の六分の一が「澱河歌」、その三分の一が「老鶯児」、そして、行数は、「春風馬堤曲」の四分の一が「澱河歌」、その八分の一が「老鶯児」と、
十分に意図されたものであることが理解される。さらに、「春風馬堤曲」は藪入りの少女に代わってのもの、続く、「澱河歌」はその少女の成人した艶冶な女性に代わってのもの、そして、最後の「老鶯児」が、その晩年の老婦人に代わってのものと、即ち、女の一生のようなことをイメージしてのものともとれなくもないのである。

回想の蕪村(十八~二十六)

(一八)

 『夜半楽』は、安永六年(一七七七)、蕪村六十二歳の春に刊行した春興帖である。春興帖は、歳旦・歳暮の吟に限らず、当年の新春初会の作を中心に春季の句を集めて知友間に贈答するものである。『夜半楽』の「夜半」が夜半亭を意味していることはいうまでもないであろう。すなわち、『夜半楽』とは、夜半亭一門の春を言祝ぐ楽曲ということになろう。その構成は次のとおりとなる。

夜半楽

目録
歌仙    一巻
春興雑題  四十三首
春風馬堤曲 十八首
澱河歌   三首
老鶯児   一首

 この「目録」に継いで、次のような序文が記されている。

祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは
不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず)
蕉門のさびしをりは
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし)

さればこの日の俳諧は
わかわかしき吾妻の人の
口質(こうしつ)にならはんとて

 はじめの四行は序詩のような形をとり、「京都の祇園会のお囃子は秋風の風韻には調和しない。それと同じく、蕉門の寂び撓(しをり)は新春のお目出度い席では避けた方がよい」というようなことであろう。それに続けて、「だから、この日の新春の俳諧は若々しい東国の人の口調に倣っている」というのである。

(一九)

安永丁酉春 初会

歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師     蕪村  オ ※(発句) 
 脇は何者節(せち)の飯帒(はんたい)   月居  ※(脇)  
第三はたゞうち霞うち霞         月渓   ※(第三)  
 艤(ふなよそほひ)のとかくしつゝも   自笑  
こゝかしこ旅に新酒を試(こころみ)て   百池  
 十日の月の出(いで)おはしけり     鉄僧  ※(月)
纏頭(かづけもの)給ふぬきでの身の白き  田福  ウ 
 廊下の翠簾(みす)や夢のうきはし    斗文  
目ふたぎて聖の尿(くそ)を覆(おほふ)らん  子曳  
 紀の川上にくちなはのきぬ        集馬  
うの花に萩の若枝(わかえ)もうちそよぎ  三貫  
門(かど)をたゝけば隣家に声す     帯川  
着つゝなれて犬もとがめぬ裘(かはごろも) 致郷  
 貢(みつぎ)の使(つかひ)白雲に入(いる)  士恭  
谷の坊花もあるかに香に匂ふ       道立  ※(花)
 藪うぐひすの啼(なか)で来にけり    晋才  
かけ的(まと)の夕ぐれかけて春の月    正白  ※(月)  
 三本の傘は婿の定紋(ぢやうもん)    舎六   
初がつをあはや大磯けはひ坂       我即  ナオ 
 淡き薬に身をたのみたる        故郷   
暮まだき燭(しよく)の光をかこつらし   嬰夫   
 竹をめぐれば行尽(ゆきつく)す道     舎員
新田に不思儀や水の涌出(ゆしゆつ)して   菊尹
 儒医(じゆい)時に記す孝子の伝(つたへ) 賀瑞
かりそめの小くらのはかま二十年     呑獅
 往来(ゆきき)まれなる関をもりつゝ   呑周
餅買(かふ)て猿も栖(すみか)に帰るらん   柳女
 錫(しやく)と ゞまれば鉢が飛出る    延年
暁の月かくやくとあられ降(ふる)     維駒 ※(月)
 金山ちかき霜の白浪          樵風
つくづくと見れば真壁の平四郎      東瓦 ナウ
 酒屋に腰を掛川の宿(しゆく)      左雀
空高く怒れる蜂の飛去(しびさり)て    乙総
 岡部の畠けふもうつ見ゆ        霞夫
花の頃三秀院に浪花人          几董 ※(花)
 都を友に住(すみ)よしの春       大魯  ※(挙句)  

 この歌仙(三十六句からなる連句)が一同に会してのものなのか、それとも、回状を回して成ったものなのかどうかは定かではないが、おそらく後者によるものと思われる。この歌仙は、一人一句で、三十六人がその連衆で、夜半亭一門の代表的俳人の三十六歌仙(三十六人の傑出した俳人)という趣である。発句は夜半亭一門の宗匠、夜半亭二世・与謝蕪村で、「歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師」(歳旦の句を快心の作とばかり得意顔の俳諧師である)と、新年祝賀の句を、若き日の東国に居た頃の宰鳥になった積りでの作句と得意満面の蕪村その人の自画像の句であろう。脇句の江森月居が蕪村門に入門したのは安永五年(一七七六)年の頃で、入門早々で脇句を担当したこととなる。当時、二十二歳の頃であろう。続く、第三の松村月渓は、月居よりも四歳年長で、呉春の号で知られている、蕪村の画・俳二道のよき後継者であった。この二人がこの歌仙を巻く蕪村の手足となっているように思われる。この歌仙の挙句を担当した吉分大魯は、夜半亭三世を継ぐ高井几董と、夜半亭門の双璧の一人で、この安永六年当時は京都の地を離れ大阪に移住していた頃であろう。この挙句の前の花の句(匂いの花)を担当したのは、几董で蕪村よりも二十四歳も年下ではあるが、蕪村はこの几董が夜半亭三世を継ぐということを条件として、夜半亭二世を継ぐのであった。もう一つの花の座(枝折りの花)を担当した樋口道立は、川越藩松平大和守の京留守居役の樋口家を継いだ名門の出で、当時、夜半亭一門で重きをなしていた。また、月の座を担当した、鉄僧(医師)、正白(後に正巴)、黒柳維駒(父は蕪村門の漢詩人でもある蕪村の良き理解者であった召波)と、この歌仙に名を連ねている連衆は、夜半亭一門の代表的な俳人といってよいのであろう。そして、それは、京都を中心として、大坂・伏見・池田・伊丹・兵庫と次の春興に出てくる夜半亭一門の俳人の世話役ともいうべき方々という趣なのである。

(二十)

春興
うぐひすにうかれ烏のうき世哉         道立
汀より月を動かす蛙(かはづ)かな         正白
もろこしの一里も遠き霞かな           田福
寝んとしては寝ずも居るや春の雨         維駒

墨の香や此(この)梅の奥誰が家       浪花 霞東
春風や縄手過(すぎ)行(ゆく)傀儡師     ゝ  志慶

あたゝかい筈の彼岸の頭巾かな         月居
剰(あまつさへ)松に隣れる柳かな         集馬
雪霜の古兵(ふるつはもの)よ梅の花       自笑

寺に寝て起(おき)おき梅の匂(にほひ)かな  浪花 正名

春雨や隣つからの小豆飯          ゝ 銀獅

遠里に人声こもるかすみかな        ゝ 延年

彳(たたず)めば誰か袖引やみの梅   但出石 乙総
うぐひすや声引(ひき)のばす舌の先    ゝ 霞夫

神風の春かぜさそふ夜明かな          呑獅
蝶々や衛士の箒にとまりけり          呑周
凧引(ひく)や夕がすみたつ処々        声々
うぐひすや茶臼の傍にしゆろ箒         徳野
鶯や折よく簀戸(すど)の明はなし       文革
うぐひすに枕かへすや朝まだき         舞閣
黄鳥(うぐひす)や樹々も色吹(ふく) 真葛原 管鳥
芹喰(くひ)に鶴のをり来る野川哉       春爾

里や春梅の夕と 成(なり)にけり   敏馬浦 士川
夕凪や柳が下の二日月          ゝ  佳則

植木屋の連翹更に黄なる哉           斗文
路斜(ななめ)野ずゑの寺や夕霞        菊尹
梅さくや陶(すゑもの)つくる老が業      舎員
青柳や野ごしの壁の見へがくれ         嬰夫
畠ある屋しき買(かひ)たり梅の花       子曳
二日聞(きき)てうぐひすに今は遠ざかる    柳女
日数経てやゝ痩梅の花咲(さき)ぬ       賀瑞
 一株の梅うつし植てあらたに春を迎ふ 
けさ梅の白きに春を見付(つけ)たり      鉄僧

深屮(くさ)の梅の月夜や竹の闇        月渓
連翹の花ちるや蘭の葉がくれに         晋才

たへず匂ふ梅又もとの香にあらず        旧国

舟遅きおぼろ月也江の南            九湖
比枝下りて西坂本の梅の花           亀郷
培(つちかひ)し樹々の雫や春の雨       万容
梅咲て何やらものをわすれけり         白砧

草臥(くたびれ)てもどる山路の雉子の声  伊丹 東瓦
 尾刕(びしう)の客舎にて
茶売去(さり)て酒売来たり梅の花       百池
黄昏や梅がゝを待(まつ)窗(まど)の人    大魯
白梅や吹(ふか)れ馴(なれ)たる朝嵐     几董   

 夜半亭一門の四十三人の春興の句である。前年の安永五年(一七七六)に、道立の発企により、洛東金福寺内に芭蕉庵を再興して、「写経社会」を結成している。この写経社会の中心人物の道立の句を冒頭にして、その締め括りは、大魯・几董という夜半亭門の双璧の二人の句をもってきている。ここに登場する四十三人衆は夜半亭俳諧の頂点を極めた当時の豪華メンバーと解して差し支えなかろう。この後に、「春風馬堤曲」(十八首)、「澱河歌」(三首)そして「老鶯児」(一首)と続くのである。

(二十一)

 次に続く「春風馬堤曲」については、年次不明二月二十三日付けの柳女・賀瑞宛て蕪村書簡で、この詩を書いた消息を今に残している。

さてもさむき春にて御座候。いかゞ御暮被成候や、御ゆかしき奉存候。しかれば春興小冊漸出板に付、早速御めにかけ申候。外へも乍御面倒早々御達被下度候。延引に及候故、片時はやく御届可被下候。

(訳)さてさて寒い春でございます。いかがお過ごしでございましょうか、お尋ねをする次第です。さて、春興帖小冊、ようやく出版の運びとなりましたので、早速お目にかける次第です。外の方々へもご面倒をおかけしますが早々にお渡しを頂きたく存じます。延引になっておりましたので、片ときも早くお届け頂ければと存じます。

 この柳女・賀瑞は伏見の蕪村門人で、先の歌仙や春興の句にその名が出てくる。そしてこの「春興小冊」こそ、『夜半楽』にほかならない。そして、この『夜半楽』の実際の発行日は二月二十日過ぎで、予定よりも遅れての出版であることが了知されるのである。この年の一月晦日(三十日)付け霞夫宛ての書簡もあり、そこでは、「春帖近日出し早々相下可申候」との文面もあり、蕪村は予定より遅れての出版を気にしていたのであろう。この霞夫宛ての書簡は、「水にちりて花なくなりぬ崖の梅」に関連するもので、当時六十歳を超えた蕪村にとっては、親しい太祗や召波、さらには、絵画のよきライバルであった池大雅を失って、ことのほか老残の思いにかられていたということも察知されるのである。また、それらの親しい人の別れとともに、その前年に、一人娘を嫁がせたみことなどの淋しさをかこっていた書簡なども今に残されているのである。

(二十二)

一 春風馬堤曲 馬堤ハ毛馬塘(つつみ)也。則余が故園也。
余、幼童之時、春日清和の日ニハ、必(かならず)友どちと此堤上にのぼりて遊び候。水ニハ上下ノ船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ。其中ニハ、田舎娘の浪花ニ奉公して、かしこく浪花の時勢(はやり)粧(すがた)に倣(なら)ひ、髪すたちも妓家(ぎか)の風情をまなび、□伝しげ太夫の心中のうき名をうらやみ、故郷の兄弟を恥(はぢ)いやしむもの有(あり)。されども、流石(さすが)故園ノ情に不堪(たへず)、偶(たまたま)親里に帰省するあだ者成(なる)べし。浪花を出てより親里迄の道行にて、引(ひき)道具ノ狂言、座元夜半亭と御笑ひ可被下候。実ハ愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出(いで)たる実情ニて候。
(訳)一 春風馬堤曲 馬堤は毛馬堤です。すなわち、私の故郷です。私が幼童の頃、春日清和の日には、必ず友達とこの堤に登って遊んだものです。水上には上下に往来する船があり、堤には往来する旅人がありました。その中には、田舎娘で、浪花に奉公に出て、健気にも浪花の流行の風姿を真似て、髪かたちも妓楼の風情そのもので、また、繁太夫節の心中物の浮名を羨んだりして、故郷の田舎くさい兄弟を恥じて蔑む者もおりました。けれども、さすがに望郷の念にかられてのことなのか、故郷に帰省する粋な女性でありましょうか、そんな女性にたまたま遭遇したのです。この春風馬堤曲はそんな浪花を出て故郷に帰る迄の道行を述べたものでして、引き道具の狂言、座元夜半亭とお笑いください。実を言えば、これは愚老の懐旧の念のやるかたなき心の奥底から呻き出たところの実情なのです。

 この書簡で、「馬堤ハ毛馬塘(つつみ)也。則余が故園也」と、蕪村の故園(故郷)は毛馬村であることを蕪村自身はっきりと記録に残しているのである。蕪村の出生地について、摂津の天王寺村とか丹後の与謝とかもいわれているが、この書簡からして摂津国東成郡毛馬村と解して差し支えなかろう。そして、このことは、初期の絵画の「浪華長堤四明」とも一致し、蕪村の胸中には、この「春風馬堤曲」の長堤が常に存在していたということは特記しておく必要があろう。さらに、書簡中の「□伝しげ太夫」の「□」は虫食いで、ここを「正」の「正伝」としたり「阿」として「阿伝」(尾形仂)としたり解されているが、「しげ太夫」は、豊後節の「繁太夫節」であることは異論がなかろう。その繁太夫節は「おさん・茂兵衛 道行」とか心中物を得意として(尾形・前掲書)、それらが背景になっていると解したい。そういう背景にあって、「引(ひき)道具ノ狂言、座元夜半亭と御笑ひ可被下候」と、すなわち、「回り舞台の狂言の座元(興行主)こそ夜半亭蕪村」と、「春風馬堤曲」の真相を蕪村自身がはっきりと記録に残していることも、これまた、特記しておく必要があろう。

(二十三)

 さて、この「春風馬堤曲」について、『蕪村の手紙』(村松友次著)の「春風馬堤曲源流考」(補説三)で、次のように記述している。

※「春風馬堤曲」は「北風老仙をいたむ」と共に日本文学史上特筆すべき異色の名作である。このような斬新な詩形の創出はまさに蕪村の天才によるところであるが、全く無から生じたのではなかろう。それではこれに先行するものが何であったか。すでに「北寿老仙をいたむの項(註・補説一)で触れたが、潁原退蔵は支考に源を発する仮名詩の流れを考え、蕪村の青年時代、江戸俳人の間に流行していた小唄、端唄に類したような一種の韻文の存在を指摘する(註・この潁原退蔵の「春風馬堤曲源流考」については先に全文紹介している)。しかし一見類似しているようであるが、読者の心を打つ詩情の直截さ純粋さにおいて蕪村の作は江戸俳人の諸作とは全く異質と言ってよいほどすぐれている。これらの作よりももっと近い影響をもつ文学作品はなかったか。清水孝之は服部南郭の『朝来詞(ちょうらいし)』(いたこことば)と、荻生徂徠の『絶句解』(享保十七序、延享三・宝暦十三版あり)の中の「江南楽八首」(徐禎卿作)を指摘する(鑑賞日本古典文学『蕪村・一茶』および、新潮日本古典集成『与謝蕪村集』)。

 この荻生徂徠の『絶句解』(享保十七序、延享三・宝暦十三版あり)の中の「江南楽八首」(徐禎卿作)の影響(蕪村の「春風馬堤曲」などへの影響)はやはり注目すべきものの一つであろう。

(二十四)

江南楽八首。代内作(江南楽八首。内に代りて作る)

成長して江南に在り 江北に住することを愛せず
家は閶門(しやうもん)の西に在り 門は双柳樹を垂る
陽春二月の時 桃李(とうり)花参差(しんし)
言(こと)を寄す諸姉妹 悪風をして吹(ふ)か遣(しむ)ること莫(なか)れ
郷に環(かへ)る信に自ら楽し 近くして望み転於(うたたを)邑(いふ)す
阿母、児が帰るを見ば 定て自ら儂(わ)れを持して泣(なか)ん
野鳧(やふ)、雛を生ずる時 乃(すなは)ち河沚(かし)の中に在り
憐(あはれ)む可(べ)し羽翼を生じて 各自菰叢(こそう)を恋ふることを
橘(きつ)、江上の洲(す)に生ず 江を過(すぐ)れば化して枳(き)と為る
情性、本と殊(こと)なるに非ず 風土相似ず
人は言ふ江南薄しと 江南信に自ら楽し
桑を采(とり)て蚕糸を作(な)す 羅綺儂(わ)が着るに任す
郎と水程を計るに 三月定て家に到らん
庭中の赤芍薬 爛漫として斉(ひとし)く花を作(なさ)ん
江南道理長し 荊襄(けいじやう)何れの処にか在る
郎が昨夜の語を聞くに 五月瀟湘(せうしやう)に去(さら)ん

 この徐禎卿の「江南楽八首代内作」について、荻生徂徠は次のように解説をしているという(村松・前掲書)。

江南楽……曲ノ名。西曲ニ江陵楽、寿陽楽有リ。後人之ニ擬シテ設ク。
代内…… 其ノ妻ヲ謂フ。
 八首須(スベカラ)ク連続スベシ。意思断続。方(マサ)ニ妙ヲ見ル。

(二十五)

 この荻生徂徠の、徐禎卿の「江南楽八首代内作」についての解説の、「八首須(スベカラ)ク連続スベシ。意思断続。方(マサ)ニ妙ヲ見ル」ということは、まさに、蕪村の「春風馬堤曲」の「十八首須(スベカラ)ク連続スベシ。意思断続。方(マサ)ニ妙ヲ見ル」と置き換えても差し支えないほど、「春風馬堤曲」の本質を言い当てている指摘といえよう。
また、
「江南楽」の「代内作」(内に代りて作る)は、「春風馬堤曲」の「代女述意」(女(じよ)ニ代ハリテ意ヲ述ブ)に、
「江南楽」の「家は閶門(しやうもん)の西に在り 門は双柳樹を垂る」は、
「春風馬堤曲」の「梅は白し浪花橋辺(けうへん)財主の家」に、
「江南楽」の「郷に環(かへ)る信に自ら楽し 近くして望み転於(うたたを)邑(いふ)す」・「阿母、児が帰るを見ば 定て自ら儂(わ)れを持して泣(なか)ん」は、
「春風馬堤曲」の「むかしむかししきりにおもふ慈母の恩」・「慈母の懐袍(くわいほう)別に春あり」・「矯首(けうしゆ)はじめて見る故園の家黄昏(くわうこん)」・「戸に倚(よ)る白髪の人弟を抱(いだ)き我を待(まつ)春又春」に、
「江南楽」の「野鳧(やふ)、雛を生ずる時 乃(すなは)ち河沚(かし)の中に在り」・「憐(あはれ)む可(べ)し羽翼を生じて 各自菰叢(こそう)を恋ふることを」は、
「春風馬堤曲」の「雛ヲ呼ブ籬外(りぐわい)ノ鶏 籬外草(くさ)地ニ満ツ」・「雛飛ビテ籬(かき)ヲ越エント欲ス 籬高ウシテ堕(お)ツルコト三四」に、
「江南楽」の「橘(きつ)、江上の洲(す)に生ず 江を過(すぐ)れば化して枳(き)と為る」・「情性、本と殊(こと)なるに非ず 風土相似ず」は、
「春風馬堤曲」の「春情まなび得たり浪花風流(ぶり)」・「本(もと)をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅」に、
「江南楽」の「江南道理長し」は、
「春風馬堤曲」の「春風や堤長うして家遠し」に、
等々、それぞれの「内容」・「語句」・「気分」などの上で多くの類似点を見出すことができるのである(村松・前掲書)。
 さらに、荻生徂徠の『絶句解』では、この「江南楽」に続いて、「隴頭流水ノ歌」(子を失った女の心を作者が代わって詠んだ……代内作……)の詩が続き、これは、「春風馬堤曲」の後に「澱河歌」を続けている蕪村のそれと、まさに、その配列を同じくしているという(松村前掲書)。また、徂徠の『絶句解』に見られる「衛河八絶」(王世貞作)は、服部南郭の『潮来詞』に影響を及ぼし、その南郭の『潮来詞』が、蕪村の「春風馬堤曲」に影響を及ぼしているだけではなく(清水・前掲書)、この「衛河八絶」は、ストレートとに、蕪村の「春風馬堤曲」に影響を及ぼしているという見方もある(村松・前掲書)。いずれにしろ、蕪村が、『夜半楽』、そして、その「春風馬堤曲」・「澱河歌」を創作した背後には、荻生徂徠の『絶句解』が、常に、蕪村の座右にあったことだけは想像に難くない(村松・前掲書)。

(二十六)

 蕪村が荻生徂徠に傾倒したことについては、先に、「若き日の蕪村」で触れた。

http://yahantei.blogspot.com/2006/07/blog-post_115354603992727424.html

 それは、蕪村が二十歳前後で江戸に出てくる以前の青少年の頃から、そして、この「春風馬堤曲」を執筆する六十歳過ぎての老年期に到るまで、終始、蕪村に大きな影響を与え続けたということは容易に想像できるところのものである。その影響の最たるものは、先に触れた、『蕪村 画俳二道』(瀬木慎一著)の「荻生徂徠の影響」の、次のようなことであった。

○徂徠の学問的立場は、通常「古文辞学」と呼ばれれているように、明の文学における「古文辞」に先例を求めたものであるが、それが単なる復古運動にとどまるものでなかったことは吉川幸次郎の説明によって了解される。
「……精神のもっとも直接的な反映は、言語であるとする思想である。したがって精神の理解は、言語と密着してなすことによってのみ、果たされるとする思想である。」
そこで古典を読むばかりでなく、自分も古典の言葉で書き、考え、そしてその精神を把握することをめざしたわけである。その結果明らかになることは、儒者共の説く人為的な道徳律の虚妄さであり、それを排除するとき「理は定準なきなり」という世界観に到達する。つまり、世界は多様性において成り立っているのであり、そこに生きる人間の個々の機能を尊重するという考え方である。「人はみな聖人たるべし」という宋学の命題とは正反対に、徂徠は、「聖人は学びて至るべからず」という方向を提示し、人が個性に生き、学問によって、自己の気質を充実させ、個性を涵養しうる可能性を強調している。

 この「古典を読むばかりでなく、自分も古典の言葉で書き、考え、そしてその精神を把握する」という徂徠の姿勢を、蕪村ほど生涯にわたって実践し続けた俳人にして画人は殆ど希有であるといっても過言ではなかろう。そして、この「春風馬堤曲」そのものが、その徂徠の『絶句解』所収の「自分も古典(「江南楽八首」(徐禎卿作)など)の言葉で書き、考え、そして、その精神を把握した」、その結果の類い希なる異色の俳詩という創造の世界にほかならない。

回想の蕪村(四・四十一~四十九)

回想の蕪村(四)

(四十一)

 蕪村の『夜半楽』の「春風馬堤曲」の冒頭に、下記のとおり、「謝蕪邨」との署名が見られる。

※春風馬堤曲
             謝蕪邨

  余一日問耆老於故園。渡澱水
  過 馬堤。偶逢女帰省郷者。先
  後行数里。相顧語。容姿嬋娟。
  癡情可憐。因製歌曲十八首。
  代女述意。題曰春風馬堤曲。
 (余一日(いちじつ)耆老(きらう)ヲ故園ニ問フ。澱水(でんすい)ヲ渡リ
  馬堤ヲ過グ。偶(たまたま)女(じよ)ノ郷ニ帰省スル者ニ逢フ。先
  後シテ行クコト数里、相顧ミテ語ル。容姿嬋娟(せんけん)トシテ
  癡情(ちじやう)憐(あはれ)ムベシ。因リテ歌曲十八首ヲ製シ、
  女(じよ)ニ代ハリテ意ヲ述ブ。題シテ春風馬堤曲ト曰フ。)

 そして、『夜半楽』の奥書に、「門人 宰鳥校」との署名が見られる。この署名に関して、先に、次のことについて紹介した。

※『夜半楽』板行を思い立った六十二歳翁蕪村の胸中には、彼が俳人としての初一歩をしるした日の師と同齢に達した感慨がつよく働いている。春興帖は、その心をこめて亡師巴人に捧げられたものであろう。『門人宰鳥校』として宰町としなかったのは、元文四年の冬にはすでに宰鳥号に改め、宰町はいわばかりの号に過ぎなかったのである」(安東次男著『与謝蕪村』)との評がなされてくる。すなわち、上記の『夜半楽』(序)の「吾妻の人」とは、夜半亭一世宋阿(早野巴人)その人というのである(その関係で、奥書の「門人 宰鳥校」を理解し、この「門人」は、「夜半亭一世宋阿門人」と解するのである)。

 これらのことについては、寛保四年(一七四四)の蕪村の初撰集『宇都宮歳旦帖』の「渓霜蕪村輯」の署名でするならば、この安永六年(一七七七)の蕪村の春興帖の『夜半楽』の署名は「夜半亭蕪村輯」とでもなるところのものであろう。それを何故、「門人 宰鳥校」としたのか、確かに、上記のとおり、「夜半亭宋阿門人」という理解も一つの理解であろう。
しかし、「門人 宰鳥校」の「校」が気にかかるのである。「校」とは「校合」(写本や印刷物などで、本文などの異同を、基準とする本や原稿と照らし合せること)とか「校訂」(古書などの本文を、他の伝本と比べ合せ、手を入れて正すこと)とかのの意味合いのものであろう。「門人 宰鳥撰」とか「門人 宰鳥輯」の、「編集」を意味する「撰」とか「輯」とかとは、やはり一線を画してのものなのであろう。それを遜っての表現ととれなくもないが、この『夜半楽』には、夜半亭一世・宋阿(巴人)の名はどこにも見られず、唐突に、この奥書に来て、この序文の「吾妻の人」を宋阿その人と理解して、「宋阿門人」と理解するには、やや、無理があるようにも思えるのである。ここは、『夜半楽』所収の異色の三部作の「春風馬堤曲」(署名・謝蕪邨)・「澱河歌」(署名なし)・「老鶯児」(署名なし)の、その「謝蕪邨」(この「引き道具」の狂言の座元・作者である「与謝蕪村」を中国名風に擬したもの)を受けて、「吾妻の人」風に「洒落風」に、「(謝蕪邨)門人 宰鳥校」と、蕪村自身が号を使い分けしながら、いわば、一人二役をしてのものと理解をしたいのである。 そもそも、蕪村の若き日の号の「宰町」(巴人門に入門した頃の「夜半亭」のあった「日本橋石町」の「町」を主宰する)を「宰鳥」(「宰鳥」から「蕪村」の改号の転機となった『宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の「鶯」の句に関連しての「鳥・鶯」を主宰する)へと改号したことは、当時の居所の「日本橋石町」から師巴人に連なる其角・嵐雪の師の芭蕉が句材として余りその成功例を見ないところの「鳥・鶯」への関心事の移動のようにも思えるのである。それと同時に、この安永六年の『夜半楽』の巻軸の句に相当する「老鶯児」の理解には、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の、その蕪村の号を初めて使用したところの「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の句と、それ以後の、歳旦帖・春興帖を編むときに、必ず登場してくるところの「鳥・鶯」の句と、同一線上のものと理解をしたいのである。そして、そう解することによって、始めて、この『夜半楽』の「老鶯児」の句の意味と、蕪村の絶吟の、「冬鶯むかし王維が垣根哉」・「うぐひすや何こそつかす藪の霜」・「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」の、この三句の意味合いが鮮明になってくると、そのように理解をしたいのである。

(四十二)

 そもそも、この『夜半楽』は安永六年(一七七七)の夜半亭二世・与謝蕪村の「春興帖」
である。それが故に、その他の蕪村の「歳旦帖」・「春興帖」との関連で見てきた。しかし、それだけでは足りず、より正しい理解のためには、当時の俳壇における「歳旦帖」・「春興帖」との関連で見ていく必要があろう。このような見地での基調な文献として、『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)所収の幾多の論稿がある。ここで、それらのことについて、その要点となるようなことについて、紹介をしておきたい。

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その一)

○ここで蕪村一門の春帖と呼ぶ時、その対象には、蕪村編のもの(『明和辛卯春』『安永三年蕪村春興帖』『安永四年夜半亭歳旦』『夜半楽』『花鳥篇』)、几董編のもの(安永五年『初懐紙』、安永九年『初懐紙』、安永十年『初懐紙』、『壬寅初懐紙』『初卯初懐紙』『甲辰初懐紙』、天明五年『初懐紙』、天明六年『初懐紙』、天明七年『初懐紙』、寛政元年『初懐紙』)、呂蛤編のもの(寛政三年『はつすゞり』他)、紫暁編のもの(寛政五年『あけぼの草子』他)などと、多くの俳書が含まれることになろう。さらに説明を加えるなら、蕪村編の春帖には、この他にも寛保四年(一七四四)に宇都宮で刊行した歳旦帖があるし、また伝存は不明ながら、『紫狐庵聯句集』には「明和辛卯春」「安永発巳」と題した三ツ物や春興歌仙が記録されており、空白の二年の刊行についても刊行が察せられる。また几董編の春帖についても、天明七年の『初懐紙』で几董が、「としどしかはらぬ初懐紙をもよほす事、かぞふれば十余リ五とせになりぬ。其いとぐちより繰返し見れば……」と回顧して、発巳(安永二年)から丁未(天明七年)に至る各年の巻頭発句を列挙するように、今日未確認の『初懐紙』が、安永二・三・四・六・七・八の各年にも刊行されたことが知られる。しかしここでは、伝存の有無にかかわらずその多くを措き、時を蕪村在世中の一時期に絞り、主として『明和辛卯春』と安永五年『初懐紙』の二書をとりあげる。
※ここに紹介されている明和八年(一七七一)に刊行した蕪村編の『明和辛卯春』については先に触れた。この春興帖は、明和七年に亡師巴人の夜半亭を襲号した蕪村が、その襲号の披露を兼ねて、広く夜半亭一門の俳諧を世に問うたもので、夜半亭二世・蕪村の代表的な春興帖である。そして、夜半亭二世・蕪村に継いで夜半亭三世となる几董が、蕪村存命中に、安永六年の『夜半楽』刊行一年前に刊行した春興帖が、安永五年『初懐紙』で、この両者の春興帖としての比較検討が、この「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」の骨子なのである。

(四十三)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その二)

○まず『明和辛卯春』から検討を始めよう。(中略) 現存の弧本は原表紙を欠き、書名は内題「明和辛卯春 / 歳旦」による仮称である。横本一冊。表紙の他にも欠損の丁が多いが、元来は本文全十四丁であった。一見して気付くのは、蕪村板下による書体の風格と匡郭および各行を画する罫の緑色の鮮やかさ(今は退色しているが)である。相俟って壮麗の感を与える。次にその内容をつくと、まず一丁目表は先の内題に続いて、蕪村・召波・子曳による三ツ物一組、一丁目裏は同じ三人による三ツ物二組を収める。(中略) 今これを仮に三ツ物三組形式と呼ぶことにする。この三ツ物三組に続く二丁目以下は、同門あるいは他門の歳旦・歳暮の発句を主とし、その発句群に交えて都合二巻の歌仙が収録されている。すなわち、三丁目裏から始まる「鳥遠く……」の一巻、十二丁目裏から始まる「風鳥の……」の一巻で、巻頭と巻尾の近くに配するが、決して巻頭でも巻尾でもない。(後略)
※この蕪村の『明和辛卯春』は「都市系歳旦帖」(其角・巴人に連なる江戸座などの都市系蕉門の流れによる春興帖)に属するとされるのだが(後述)、ここで、注目すべきことがらは、この春興帖に収録されている二巻の歌仙が、共に、「鳥」を句材としての発句ということなのである。その発句・脇・第三を例示すると次のとおりである。
(春興)
発句 鳥遠く日に日に高し春の水        子曳
脇   人やすみれの一すじ(ぢ)の道     蕪村
第三 紅毛の珍陀葡萄酒ぬるみ来て       太祗
(春興可仙)
発句 風鳥の喰ラひこぼすや梅の風       蕪村
脇   名もなき虫の光る陽炎         田福
第三 明キのかたわするゝ斗(ばかり)春たけて 斗文
 さらに、蕪村は、この『明和辛卯春』で立机を宣言するかのように「夜半亭」の号で次の「鶯」の句を公示している。
(洛東の大悲閣にのぼる)
    鶯を雀歟(か)と見しそれも春    夜半亭
(春興追加)
    鶯の粗相がましき初音かな      夜半亭 
 これらのことは、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の「三ツ物」七組で始まり、その卷軸の蕪村の号の初出の「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」とこの『明和辛卯春』の六年後に刊行する『夜半楽』の「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」と同一線上にあることを、蕪村は明確に公示していると思われるのである。

(四十四)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その三)

○続いて、安永五年(一七七六)『初懐紙』(略)に目を移してみよう。まず半紙本(一冊)という判型が『明和辛卯春』に対照的で、薄茶色の表紙の披いても十七丁の本文には匡郭や罫を見ず、版面の著しい相違にまた驚くのである。同様なことは内容にもあって、巻頭は勿論、書中どこにも三ツ物を見出すことはできない。すなわち、この書の巻頭には一丁分の序があり、続いて端作備わる歌仙(後半を略した半歌仙)を掲げる。端作は「安永五丙申春正月十一日於春夜楼興行」と記し、歌仙は几董の発句に始まり、脇以下を連衆が一句ずつ詠んで一巡するもの。そして歌仙の後には「各詠」と標題されて、連衆の各人一句を列ねた一群の発句が配置されている。言うまでもなく、これは由緒正しい俳諧興行の開式に則るものなのである。各詠発句の後には「其引」と標題した蕪村等(右歌仙に欠座)の発句が並ぶが、『明和辛卯春』では、この「其引」の発句は三ツ物三組の直後に並んでいた。このことから察しても、几董が、正式興行の歌仙と各詠発句を巻頭に配し、これを三ツ物三組に代えたことは疑えないだろう。(中略) このように『明和辛卯春』と安永五年『初懐紙』を比較してみると、俳書の性格において、両書がきわめて鋭い対照を示すことに気付かざるを得ない。すなわち、それは①判型、②匡郭と罫の有無、③巻頭形式(三ツ物三組と正式俳諧興行)、④句の性格(歳旦・歳暮句と春・冬句)、⑤連句の扱い(重視の程度)の五点において、著しく異なっているのである。(後略)
※この「一『明和辛卯春』と『初懐紙』との隔たり」の後、「二 都市系歳旦帖の性格」(略)・「三 都市系俳壇風の『明和辛卯春』」(略)と続き、続く、「四 地方系蕉門色の『初懐紙』」として、次のような記述が見られる。「(前略)また歳旦帖は、長い伝統に培われて、特定俳系の特色を明瞭に示すので、編者の帰属意識をとらえるのに好都合と考えたからである。その検討り結果は右の通りであったが、ここで私は、都市系の性格を帯びた『明和辛卯春』形式の歳旦帖が安永五年(一七七六)以降刊行されず、蕪村によって全く放棄されてしまった事実を、きわめて重く見るのである」(田中・前掲書)。そして、この都市系俳壇風形式の歳旦帖に代わって、蕪村が次に編纂したものこそ、安永六年(一七七七)の『夜半楽』に他ならない。こういう、蕪村の歳旦帖・春興帖の変遷を背景として、その『夜半楽』の次の「序」を見ていくと、「形式的には従前の都市系俳壇風の春興帖形式と当時の一般的な地方蕉門色の春帖形式とを混交させながら、内容的には、より都市系俳壇風に、より自由自在に異色の俳詩などを織り交ぜ、特色ある春興帖を意図している」ということが言えよう。
※※『夜半楽』(序)
祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは
不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず)
蕉門のさびしをりは
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし)
さればこの日の俳諧は
わかわかしき吾妻の人の
口質(こうしつ)にならはんとて
(訳)京都の祇園会のお囃子は秋風の風韻には調和しない。それと同じく、蕉門の寂び撓(しをり)は新春のお目出度い席では避けた方がよい。だから、この日の新春の俳諧は若々しい東国の人の口調に倣っている。

(四十五)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その四)

○ここでようやく『初懐紙』の内容的性格に言及する段階に至った。私は先に、その編纂形式の斬新さを指摘したが、内容的性格はそれ以上に際だってユニークであった。都市系・地方系を問わず、従来の春帖に全く例を見ぬものであった。その特色というのは、集中どこにも歳旦句・歳暮句を収めぬことである。「聖節」「東君」等の題は勿論、「歳旦」「歳暮」の題も見出せぬことはすでに述べたが、題のみならず、元朝を賀し家の春を言祝ぐ類の発句を見ず、年頭の祝意は、わずかに「あらたまのとし立かへる……」という序文に託されるにすぎない。同様に、歳末の生活感情をとらえる句も見当たらぬのである。これに代わるものは、
    早春
 うぐひすや梢ほのめくあらし山    几董
 鶯に終日遠し畑の人         蕪村
といった、春の訪れを喜び春の自然を讃えるみずみずしい情感であり、またそれを表現する句であって、これが『初懐紙』の基調をなす。歳暮句に代わって「冬」の句は少々あるが、『初懐紙』も後年ほどその数を減じ、後には春句のみで編まれる年も出る。つまり『初懐紙』はもっぱら春を詠む俳書として、それも人事の春ではなく自然の春を詠む俳書として登場したのであり、特に早春の初々しい感情が重視される。(後略)
※この几董編の『初懐紙』は、蕪村編の『夜半楽』刊行一年前に刊行されたものである。この『夜半楽』を刊行する三年前の、安永三年(一七七四)の六月に、蕪村は宋阿(夜半亭巴人)三十三回忌の追善法要を営み、追善集『むかしを今』を刊行する。その『むかしを今』は、夜半亭二世蕪村と夜半亭三世となる几董との二巻の歌仙を収めている。それは、宋阿の句を発句とする脇起こし歌仙で、その発句・脇・三十五句目(挙句前の花の句)を例示すると次の通りである。

発句   啼(なき)ながら川越す蝉の日影哉      宋阿居士
脇      行人少(まれ)にところてん見世(みせ) 蕪村
三十五  宋阿仏匂ひのこりて花の雲          几董

発句   啼(なき)ながら川越す蝉の日影哉      宋阿居士
脇      蚋(ぶと)に香たく艸(くさ)の上風   几董
三十五  雲に花普化(ふけ)玄峯に宋阿居士      蕪村

 この蕪村の三十五句目の「普化」は其角、そして、「玄峯」は嵐雪のことである。すなわち、蕪村も几董も、其角・嵐雪、そして宋阿に連なる都市系蕉門に属しているという公示でもある。この二人はその都市系蕉門の中心的俳人の其角崇拝では人後に落ちなかった。蕪村は、其角の『花摘』に倣い『新花摘』を刊行し、几董は、其角の『雑談集』に倣い『新雑談集』を刊行し、其角の「晋子」の号に模して「晋明」の号をも称している。しかし、几董の春帖(歳旦帖・春興帖)の『初懐紙』には、其角・嵐雪・宋阿、そして、蕪村のそれとは違った編纂スタイルをとっているのである。それも、一重に、歳旦帖・春興帖の時代史的な変遷であるとともに、都市系俳壇と地方系俳壇との融合、そして、それがまた、蕪村らの「蕉風復興運動」の文学史的意義であったのだという(田中・前掲書・「蕉風復興運動の二潮流」)。このような大きな流れを背景にして、始めて、蕪村の「諸流を尽シてこれを一嚢中に貯へ」(『春泥句集』序)という意義が鮮明となってくる。ともあれ、蕪村在世中の安永五年の、夜半亭三世となる几董の『初懐紙』の中において、上記の「早春」と題する「鶯」の句を、蕪村と几董とが肩を並べて作句していることが、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の、その蕪村の号を初めて使用したところの「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の句と、それ以後の、歳旦帖・春興帖を編むときに、必ず登場してくるところの「鳥・鶯」の句、そして、安永六年の『夜半楽』の「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」の句と、さらには、蕪村の絶吟の、「冬鶯むかし王維が垣根哉」・「うぐひすや何こそつかす藪の霜」・「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」の句と、またしても交差してくるのである。

(四十六)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その五)

○(前略)『初懐紙』の編纂刊行を几董に任せた蕪村は、安永五年には自編の春帖を持たない。煩わしさも減じたが、一方では、『初懐紙』が地方系蕉門風に傾くのあまり、蕪村にとって飽き足らぬ思いも残った。そこで蕪村が、半ば興じ半ば真剣に、自らの趣味を充分盛り込んで編んだ春興帖が、安永六年(一七七七)の『夜半楽』だったと思われる。したがって同書は、『初懐紙』をモデルとしながら(半紙本一冊。〔序に代わる題辞→春興発句群→巻末の歌仙に代わる仮名詩三編〕という内容構成)、『初懐紙』の世界から『明和辛卯春』の方向に半歩後退し、都市俳諧的趣向性を横溢させながら、しかもなお豊に春景を描き出すものとなる。後退して、かえってそこに独自の作品世界を作り上げ得たのである。それは几董的ではなく、まさに蕪村的な春興集であった。たとえば、巻頭にすえられた歌仙の奇妙な冒頭部、

  歳旦はしたり皃(がほ)なる俳諧師     蕪村
   脇は何者節の飯帒(はんたい)      月居
  第三はたゞうち霞みうち霞み        月渓

をどう解すべきであろうか。それぞれの句頭に「歳旦」「脇」「第三」の語を折り込む趣向には、安永四年まで三ツ物の歳旦句になじんでいた蕪村が、心の隅にかすかな抵抗を覚えながら始めて春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)を巻く、半ば照れ半ばおどけた表情さえ思い浮かぶようである。このように考えると、かの太祗の句を引く「春風馬堤曲」もまた、蕪村らしい趣向に溢れた独自の春景句、しかも郊外散策のそれであった。『明和辛卯春』などと同様に匡郭と罫を刷り込み、巻頭に「…… / わかわかしき吾妻の人の / 口質にならはんとて」と揚言して、巻尾に「門人宰鳥校」と署名する意識には、江戸俳壇で育った蕪村の、京俳壇の新動向の中で独自の道を歩まんとする自負がにじむようである。思えば『明和辛卯春』などの匡郭と罫の緑墨も、画家らしい好みとともに、江戸俳壇の寛闊を伝えるさかしらではなかったか。ともあれ夜半亭一門の春興集は、京の都市民に自然愛の俳諧を供し、同門のその後の俳風を決定づけ、俳壇に長く影響を及ぼすことになったのである。
※これまでに、いろいろな角度から蕪村の異色の俳詩を包含している『夜半楽』を見てきたが、上記の、「安永四年まで三ツ物の歳旦句になじんでいた蕪村が、心の隅にかすかな抵抗を覚えながら始めて春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)を巻く、半ば照れ半ばおどけた表情さえ思い浮かぶようである」という指摘には、全く同感である。そして、それが故に、この『夜半楽』の、巻頭の「…… / わかわかしき吾妻の人の / 口質にならはんとて」との揚言や、巻尾のおどけた調子の「門人宰鳥校」の署名も、「江戸俳壇で育った蕪村の、京俳壇の新動向の中で独自の道を歩まんとする自負がにじむようである」として、十分に頷けるところのものである。また、「春風馬堤曲」の太祗の句の引用も、「江戸俳壇で育った蕪村」を象徴するようなものとして、これまた、蕪村の真意が見えてくるような思いがするのである。その「春風馬堤曲」に続く、「澱河歌」もまた、それらの「若き日の蕪村」(わかわかしき吾妻の人)に連なる「官能的な華やぎのエロス」の「仮名書きの詩」(俳詩)として、それに続く、「老鶯児」の発句の背景と思える「老懶(ろうらん)」(老いのもの憂さ)の前提となる世界のものとして、これまた、十分に首肯できるところのものである。さらに、些事に目を通せば、上記の「春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)」の発句(蕪村)に続く脇(月居)・第三(月渓)の「月居・月渓」が、三十五句目(挙句前の花の句)の几董、挙句の大魯に比して、その、ともすると「地方系蕉門風」の「几董・大魯」に続く、その次を担う夜半亭門の若き俊秀たちであることに注目すると、これまた、蕪村の真意というのが伝わってくる思いがするのである。上記の、「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」において、ただ一つ不満なことは、この『夜半楽』の卷軸の句と思われる「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」について言及していないことなのだが、これは項を改めて触れていくことにしたい。


(四十七)

「郊外散策の流行・蕪村の『春風馬堤曲』(田中道雄稿)」

 『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)所収には「郊外散策の流行」と題する論稿があり、「蕪村の『春風馬堤曲』」という項立ての中に次のような記述がある。

○(前略)蕪村は郊行詩の盛行現象に応じながら、しかもそれを独自の形態で表現した。それこそ俳諧詩「春風馬堤曲」であった。「春風馬堤曲」の郊行詩的性格を、まず伝統的概念から確かめとどうなるか。ある人物が郊外(馬堤)を通行し、その人物が風景を受容して行く過程が描かれる。まずこれが確かめられよう。ただし人物は、詞書中のみ作者、ということになるが、道が細くて曲がることが多い。これは「路(みち)三叉(さんさ)中に捷径(せふけい)あり」「道漸(やうや)くくだれり」から察せられる。詩を詠むことがある、これは詞書中での作者の行為として出る。風景として天象・地勢・植物・家畜家禽・構築物・人はいずれも含まれよう。続いて、安永天明期郊行詩の条件を満たし得るものか。第一の作風の新しさの一として、田園描写の精細があった。「蒲公(たんぽぽ)茎短(みじかう)して乳(ちち)をあませり」の観察は秀抜、「呼雛籬外鶏……」に見る鳥類の母性活写は、「野雉一声覷(うかが)ヘドモ不見(みえず)、菜花深キ処雛ヲ引テ行ク」(『六如庵詩鈔』五五)、「野鳥雛ヲ将(ひきゐ)テ巧に沙ニ浴ス」(『北海詩鈔』三六二)に通うものがあろう。二の田園風景における人為的素材や人はどうか。茶店、老婆、客の行動、猫や鶏など豊に含まれる。三の自然に向かって昂揚する感情は、三、四首目、少女の水辺行動に喜びが溢れよう。第二の素材・用語面での新しさはどうか。一の歩行については、詞書に「先後行数理」、本文では「渓流石点々 踏石撮香芹」と若々しい跳躍姿で描かれる。二の飲食は、茶店の客の「酒銭擲三緡」がそれを暗示しよう。この客もまた野懸け、つまり郊行の人なのである。三の日は「黄昏」がこれに代わる。第三、第四を措いて第五に移ると、冒頭の「浪花(なには)を出(いで)て長柄川(ながらがは)」は都市から郊外への方向性を明示し、作の前半は、都市あるいは世事からの解放の喜びを含む。そして馬堤は「本(もと)をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅」と、二項的把握に立って離郷を嘆く場ともなる。このように見て来ると、本作は、安永天明期郊行詩の条件をもほとんど具備していることになる。なお、『詩語砕金』の「春日郊行」項には「傍堤ツツミニツイテ」とあり、安永中と覚しき百池・几董の三ツ物に「馬堤吟行」の題を見る。本作の郊行詩的性格は、蕪村自らの意図によるのである。(中略) それにしても、郊行詩が詩人たちに清新な感情で迎えられる潮流、”郊外”という新しい場の成立、このことを抜きにして果たしてこの作品は成ったろうか。春日郊行の俳諧は、蕪村の「春風馬堤曲」に極まるのである。
※上記の「郊行詩的性格を伝統的概念から確かめる」の「伝統的概念」というのは、明代の作詩辞典の『円機活法』を指している。その伝統的な「郊行詩」の概念は、一「ある人物(通常作者)の郊行通行という行動を基本に据え」、二「場である郊外は、平野または村落から成り、道は細く曲がることが多い」、三「通行手段は、徒歩・馬・輿」、四「風景は、自然的素材としての天象、人為的素材としての農地・作物・家畜家禽・構築物など」となり、この作詩辞典の『円機活法』や詩語集の『詩語砕金』の「春日郊行」などが、蕪村の「春風馬堤曲」に大きく影響しているというのである。これまで、この「回想の蕪村」のスタートの時点において、「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵稿)を見てきたが、それに、この天明・安永期の「郊外散策の流行」・「郊行詩の盛行」ということを付記する必要があるということなのであろう。すなわち、唐突に、蕪村の異色の俳詩「春風馬堤曲」は誕生したのではなく、当時の漢詩の流行、そして、その影響下における俳諧の流行を背景にして、生まれるべくして、生まれてきた、換言するならば、「春日郊行の俳諧は、蕪村の『春風馬堤曲』に極まるのである」ということなのであろう。
なお、『円機活法』については、下記のアドレスなどが参考となる。

http://sousyu.hp.infoseek.co.jp/ks700/ks700.html

(四十八)

「祇園南海の詩論・影写説」・「中興諸家の場合、ことに蕪村の遠近法」(田中道雄稿)

 若き日の蕪村が、日本文人画の祖ともいわれている漢詩人・祇園南海に傾倒したことについては、先に触れた。

http://yahantei.blogspot.com/2006/07/blog-post_115354603992727424.html

 この祇園南海の詩論・影写説が、少なからず、蕪村の作句などに多くの影響を与えているのではないかとする論稿がある(『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著))。以下、簡単にそれらについて要約して紹介をしておきたい。

○(祇園)南海の影写説が一般に拡まるのは、その没後に刊行された『明詩俚評』によってであった。(中略) 捉え難い情趣(作者主体の考える美的価値)を読者に伝えるため、捉え易い景気・客体の客観的描写を創作の方法として選んだことになる。つまり情趣構成法を示したのである。作品の内なる情趣構成法を示したのである。(中略) ここで著者(註・南海)は、「表」「裏」の対義語を用い、「表」で詠物や叙景を試みる一方、「裏」に寓意を込める作例を示す。また「裏」は、色々の深い意味や感情つまり「余情」を含む部分があると言う。従って詩の解釈は「表バカリ解」して「裏ハ推シテ知ベ」きものであり、反対に「裏」の意を解すると「余情」を失うことになる。この解釈法は創作法にも応用され、詩の創作は心を凝らしてまず「表バカリ作ル」こととなる。(「祇園南海の詩論・影写説」)
○『加佐里那止』(註・白雄の姿情説が説かれている明和八年刊行の著書)の論は、これまで見て来た影写説に極めてよく対応する。「姿」を「表」に「情」を「裏」に置き換えれば、そのまま影写説の理論構造に近づく 影写説は本来姿先情後論に近い理論構造を持ち、それ故に鳥酔らに迎えられたのであろう。ところが『寂栞』(註・白雄の姿情説が説かれている文化九年刊行の著書)は、情先姿後論は論外であり、姿先情後論をも明確に否定する。姿と情を、天・地の如く同列一対に見る。それを「物の姿」と「己の心」とを相対立させる形で置く。ここで注目すべきは、「物の」「己が」という修飾限定の語を伴う点であろう。対象(物)と主体(己)との位相の違いが、ここで明瞭に示される。位相が異なれば、先後は意味を失う。この二極分解を促したのは、おそらくは対象の描写にかかわる意識の発達、主体の表出にかかわる意識の発達だったと思われる。中でも、主体の「情」が相対的に強まったのではなかろうか。そして得られたのが、(「鳥酔系俳論への影響」・「姿先情後論から姿情並立論へ」)
○蕪村こそ、その主客対立の構造を、先駆的かつもっとも鋭く作品に示した人だった。(中略) 蕪村の影写説の影響を思わせるものは、次の二書簡がある。
  鮒ずしや彦根の城に雲かゝる
(中略) (安永六年五月十七日付大魯宛)
  水にちりて花なくなりぬ岸の梅
(中略) (安永六年二月二日付何来宛)
(中略) 蕪村の発想の二重構造は、次の書簡も裏付けてくれる。
  山吹や井手を流るゝ鉋屑
(中略) (天明三年八月十四日付嘯風・一兄宛)
この句、裏に加久夜長帯刀(かくやたちはきのをさ)の能因見参の故事を含みつつ、表は景気として鑑賞すると言う。しかもこの二重鑑賞法は詩の解釈に見るものと言う。やはり影写説に学ぶものと推定できよう。(「中興諸家の場合、ことに蕪村の遠近法」)
※これらの論稿は〔「我」の情の承認-二元的な主客の生成-〕の中のものなのであるが、中興諸家の多くの俳人が、祇園南海の「影写説」の影響を受けていて、その「影写説」が、「姿先情後論から姿情並立論へ」と向かい、そして、その「我」の情の優位が確立し、「情を「己」の側、姿を「物」の側に分けるという、二元的把握の成立だったのである。それは従来の姿―情という関係の内容を、物―己という関係に組み替えるものであった」というのである。そして、蕪村もまた、この「影写説」の影響や主我意識の発達の中で、「風景を一望するため自己の位置を一点に定め、対象に一定の「隔り」を置くという、いわゆる「遠近法」を自家薬籠中のものにしていたというのである。そして、この遠近法が「遠」の詩情の問題に深く関わり、それが、蕪村の浪漫精神に連なっているというのが、この論稿の骨子であった。ともあれ、蕪村の発句の鑑賞や、俳詩「春風馬堤曲」の鑑賞にあっては、この祇園南海の「影写説」などを常に念頭に置く必要があるように思えるのである。

(四十九)

「蕪村の手法の特性 -“ 趣向の料としての実情”― 」(田中道雄稿)

○「蕪村発句の新しい解釈」
(前略)新たな理解は、清登典子氏の、「梅ちるや螺鈿こぼるゝ卓の上」 の解釈にも見られる。(中略) 単なる嘱目句ではなく、古典(註・『徒然草』八十二段)によって奥行きを与えた、趣向ある叙景句なのである。
○「かくされた出典の存在」
(前略)表面上一応の解釈はつくのに、検討を加えると、背景をなす古典の存在が明らかになる、ということであった。それはあたかも、それぞれが映像を持つ二つの透明スクリーンを隔て置き、手前から眺め観る趣きである。つまり二重写し、この出典の発見によって句解も多少変るが、より重要なのは、古典場面の付加によって、一句に新たな情が加わることである。(中略)蕪村が祇園南海の詩論”影写説”を受容していた、という事実に基づく、(中略)表は景気句として味わい、裏では故事を察して味わうという、二重鑑賞の実例を示していた。先の私解三例(省略)は、この鑑賞理論に沿ってみたのであった。
○「景の重層化の意図」(省略)
○「皆川淇園の思想との類似」
蕪村の発句制作において”景の重層化”とも呼ぶべき手法があることを指摘した。蕪村はこれを方法として充分に自覚し、利用にはある意図が存したと考えられる。(中略)私見(註・田中道雄)では、前節(註・「景の重層化の意図」)に見る発句の手法は、その発想が、当時京都の儒学界に新風を起こした、皆川淇園の思想に相似ており、或いは関連を持つかと思われる。蕪村は、この淇園の思想を逸早く受ける立場にあり、恐らく何がしかの影響を受けていよう。(後略)
○「趣向と情との拮抗関係」
(前略)蕪村は、趣向を第一に置き、これに情を付随させる方法、別な言い方をすれば、情がより現れる形での趣向中心主義を採った、と考えられる。これまでの句解例(省略)によれば、第二節(「かくされた出典の存在」)の古典を用いる方法が、何よりもそのことを物語る。裏に典拠を持つというのは、伝統的な趣向の方法であり、これらの句は、そこに基盤を置いて成立している。従って作品の価値は、何よりもこの趣向の面白さにあり、その間ににじみ出る情が評価されるのも、あくまでも趣向に伴っての出現、と理解されていたと思われる。(後略)
○「『春風馬堤曲』の方法」
(前略)当作品の魅力の中心は、浪花から故園に至る少女の道行にある。勿論この少女の設定が、当作の趣向の要である。しかも、この趣向は、それが二重の筋で利くことになる。その一は、第三章(註・「郊外散策の流行・蕪村の『春風馬堤曲』)にも述べたように、当時流行した春日郊行あるいは春日帰家と題する漢詩を念頭に置き、文人好みの郊外という舞台を、文人に代わって藪入りの少女に歩ませる、という趣向である。(中略)その二は、帰郷の少女を望郷の作者の分身として歩ませる、という趣向である。(中略)この二重の意味での趣向は、作者の情を盛り込む上でも、きわめて効果的であった。(中略)こうした本作の趣向の巧みは、その末尾にも現れる。末尾では、道行を終えた少女が漸く生家に近づくが、その場面は突如打ち切られ、代って作者が再登場する。そしてあろうことか、他者の作品を加えて一篇を結ぶ。(中略)当代詩壇では望郷詩が多作され、中には「夢帰故郷」(註・夢ニ故郷ニ帰ル)の題の下、夢中の場面がリアルに描かれることもあった。本作は、蕪村による「夢帰故郷」の詩と見倣し得る。(中略)確かに本作の情は、作者に内発したものであった。しかし作者は、この個人の情の文芸的表現を自ら求めながら、一方、自らの美意識に立ってそのあらわな表現を抑制した。その矛盾を自解に「うめき出たる実情」と滲ませるものの、老練さすがに心得て、「狂言の座元」の如く全体を統制し、実情を趣向に隠し込める形で処理したのである。(後略)
○「”趣向の料としての実情”」(省略)
○「結び」(省略)
※「蕪村の手法の特性」ということでの著者(田中道雄)の論稿を要約すると上記のとおりとなる(句例の解説などを全て省略し、充分にその意図を伝達できないきらいがあるが、その骨格となっているものは、上記のとおりである)。ここで、蕪村は、きわめて「趣向」を重視した画・俳の二道の達人であったということと、「詩を語るべし。子、もとより詩を能くす。他にもとむべからず」(『春泥句集』序)の、漢詩を「かな書き」でしたところの、まぎれもなく、「かな書きの詩人」であったという思いである。この意味において、蕪村をよく知る上田秋成の、蕪村の追悼句ともいうべき、「かな書(がき)の詩人西せり東風(こち)吹て」(『から檜葉』所収の難華・無腸の署名の句)という思いをあらためて反芻するのである。そして、その異色の俳詩「春風馬堤曲」こそ、蕪村の手法が全て網羅されている、蕪村ならではの「かな書き」の詩ということになろう。と同時に、この安永六年(一七七七)の『夜半楽』に収録されている俳詩の、「春風馬堤曲」並びに「澱河歌」は、服部南郭の「影写説」並びに皆川淇園の「景の重層化」の、いわゆる当代の漢詩の詩論の影響下での、蕪村独自の世界の展開といえよう。そして、それは、蕪村のこれらの俳詩の創作の中心となる「写意」ともいうべき「情」を、その「裏」に閉じこめての、華麗なまでにも「表」の「趣向」を現出した、いわば、「趣向詩」とでもいうべき装いを施しているということなのである。この意味において、その「表」の「趣向」よりも、「裏」の蕪村の内なる「情」を綴った、蕪村のもう一つの俳詩、「北寿老仙を悼む」(「晋我追悼曲」)とは、一線を画すべきものとの理解をも付記しておきたいのである。