蕪村の自賛句(その一~二十二)

蕪村の自賛句(その一・一~十四)

蕪村の自賛句(その一)

蕪村は生前に一冊の句集も出していない。蕪村没後、夜半亭二世・蕪村の後を継ぐ夜半亭三世・几董によて『蕪村句集』が刊行され、その巻末奥付けに「夜半翁発句集後編 近刻」との予告が書肆の手により掲げられていたが、几董自身によるそれは几董の逝去により実現することがなかった。これらの、蕪村自身の自選による「蕪村全集」の全貌の復元を試みようとしたものが、昭和四十九年に刊行された『蕪村自筆句帖』(尾形仂編著)である。それらの復元は、本間美術館蔵「蕪村自筆句稿貼交屏風」(略称、本間本)、諸家所蔵の蕪村自筆句帖断簡」(略称、断簡)、武田憲治郎氏旧蔵の「蕪村自筆句帖貼交屏風断簡」(略称、武田本)などを翻刻して進められた。
この復元された『蕪村自筆句帖』(尾形仂編著)の総句数は九百七十九句で、さらに、蕪村自身の手による「合点印」も復元されており、その合点印は几董の『点印論』も併せ紹介されていて、平点(一点)、珍重(一点半)、長点(二点)との区別であるという。そして、その句数は九十四句という。これらの九十四句は、蕪村の自選句のうちの蕪村自身による「自賛句・自信句」ともいえるものであろうと、尾形・前掲書には記載されている。これらの「自賛句・自信句」を尾形・前掲書によってその鑑賞を試みてみたい。
なお、句番号は、尾形・前掲書による。

三九 みの虫の古巣に沿ふて梅二輪

「本間本」所収。長点句とも珍重句とも取れる句。安永五年作。季語は、梅(春)。『蕪村全集(一)』の句意は、「蓑虫の古巣がぶら下がる同じ枝のすぐわきに、見れば梅花が二輪咲きそめた。春の到来を、昨秋来ぶら下がる蓑虫の古巣で強調する」。蓑虫は秋の季語だが、『蕪村全集(一)』では、この句の季語は梅の句として、尾形・前掲書でも「春の部」に収載されている。蓑虫は格好の俳材で、蕪村にも蓑虫の句は多い。芭蕉の句に「蓑虫の音を聞きに来よ草の庵」など。また、山口素道の「声おぼつかなまて、かつ無能なるを哀れぶ」(蓑虫説)などもある。蕪村にも、こうした格好の俳材の「みの虫」のその「古巣」と「咲きそめる梅二輪」とを対比して、その取り合わせで、この句を自賛句の一つにしているように思われる。

蕪村の自賛句(その二)

八八五 みの虫のぶらと世にふる時雨哉

「断簡」所収。「本間本」と「断簡」・「武田本」では「合点印」の相違があるが、尾形・前掲書によれば珍重句。ちなみに、前句(三九)は『蕪村全集(一)』では、珍重句の合点印が注意書きに記載されているが、尾形・前掲書では長点句の合点印のようにも思われる。
明和八年の作。季語は「時雨」。この句は兼題「時雨」(高徳院)の句。「世にふるもさらに時雨の宿りかな」(宗祇)、「世にふるもさらに宗祇の宿りかな」(芭蕉)の本句取りの句。現代俳句では類想句というのは極端に排斥する傾向にあるが、俳諧の発句においては、このような本句取りの句は盛んに用いられた技法の一つで、蕪村としても、兼題「時雨」での関連での本句取りの句として、この句を好句としていることは想像するに難くない。同年作の「六一九 みのむしの得たりかしこし初しぐれ」(本間本)には合点印はない。そして、この句も「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり」の本句取りの句とも解せられる。これらのことからしても、いかに、蕪村が作句する時に芭蕉の句を常に意識していたかということも想像するに難くない。なお、掲出の句には、「ことば書(がき)有(あり)」との前書きがあるが、蕪村の小刷物に「感遇(偶)ことば書略す 夜行」との前書きのある「化そうな傘さす寺の時雨哉」との関連の注意書きが『蕪村全集(一)』に記載されている。『蕪村全集(一)』の句意は次の通り。「蓑虫は無為無能、細い糸にぶらりとぶら下がって疎懶に世を送り、降りかかる時雨にも平気な顔だ。無常観や風狂・漂泊の象徴とされてきた時雨の詩情に疎懶の楽しみを加えたもの。実はこの年、俳友大祇・鶴英を失った無常の思いの中で老懶の境地に居直った、蕪村自身の自画像」。この句意の「老懶の境地に居直った」というよりは、「老懶の境地の感偶」程度と解したい。なお、「世にふる」の「ふる」は「経る」と「降る」とが掛けられている。

蕪村の自賛句(その三)

八八七 古傘の婆娑(ばさ)と月夜の時雨哉

「断簡」所収。珍重句。季語は「時雨」(冬)。明和八年の作。この句は「古傘の婆娑としぐるゝ月夜哉」の句形で、安永六年に几董宛ての書簡に次のような記載が見られる。「月婆娑と申事は、冬夜の月光などの木々も荒蕪したる有さまニ用ひる候字也。秋の月に不用(もちひず)、冬の月ニ用ひ候字也と、南郭先生被申候キ(まうされさうらひき)。それ故遣ひ申事。ばさと云(いふ)響き、古傘に取合(とりあわせ)よろしき歟(か)と存(ぞんじ)候。何ニもせよ、人のせぬ所ニて候」。この書簡からして、掲出の句は安永六年の句形に改められているのかも知れない。『蕪村全集(一)』では、両方の句形(九六一・一九二〇)で収載している。いずれにしろ、明和八年から安永六年の六年の歳月を経ても、この句に執着していることからも、蕪村の自賛句の一つと蕪村自身が考えていたことは明らかなことであろう。そして、その自賛句の一つとした理由が、上記の几董宛ての書簡ではっきりと蕪村が指摘しているのである。即ち、「ばさと云(いふ)響き、古傘に取合(とりあわせ)よろしき歟(か)と存(ぞんじ)候。何ニもせよ、人のせぬ所ニて候」と、「取り合わせ」と「新味」との妙がこの句にはあるというのである。このことからこの句を蕪村は自賛句としているのであろう。『蕪村全集(一)』の掲出の句意は次の通り。「冬月が寒林を照らす荒涼の景に、突如として時雨が走ってきた。バサッと開いた古傘が月光に翻り、傘打つ音またバサッと鳴って、荒涼の感ここに極まる」。

蕪村の自賛句(その四)

八八三 音なせそたゝくは僧よふくと汁

「断簡」所収。珍重句。明和八年作。季語は「ふくと汁」(季語)。「ふくと汁」は「河豚汁」のこと。『蕪村全集(一)』・尾形・前掲書のいずれにおいも「ふぐと汁」と濁点は打たれていないが、濁点を付けて詠んでもさしつかえないものと解する。この河豚汁には、芭蕉の世によく知られた、「あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁」の句がある。この掲出の句も芭蕉のその句が背景にあろう。それだけではなく、中七の「たゝくは僧よ」は、「僧敲月下門」(賈島)の漢詩がその背景にあろう。『蕪村全集(一)』の句意は次の通り。「シイッ、物音を立てるな、門をたたいているのは、あのやかましい和尚だよきっと。せっかくの河豚汁の最中に殺生戒を振りかざされては、たまらんからな」。この句意にも見られる、この滑稽味の面白さを、蕪村は注目しているのであろう。蕪村の友人の三宅嘯山の『俳諧新選』にも収載されている句である。 

(追記その一) 上記の三九「みの虫の古巣に沿ふて梅二輪」・八八七「古傘の婆娑(ばさ)と月夜の時雨哉」・八八三「音なせそたゝくは僧よふくと汁」は几董の『蕪村句集』に収載されている句で、このうち、「八八七・八八三」の句については、尾形・前掲書においては
句上に「珍重句」の印があり、句下に「平点印」があるが、この句下の「平点印」は『蕪村句集』に収載されている句の印であろうとされている(尾形・前掲書)。そして、「三九」
については、句下のこの「平点印」はなく、句上に付したもののようでもあり、そのことからすると、「三九」は「長点句」ではなく、『蕪村全集(一)』の注意書きにある「珍重句」と解すべきものと思われる。また、上記の八八五「みの虫のぶらと世にふる時雨哉」の句が句下に「平点印」がなく、即ち、几董の『蕪村全集』には収載されていないことは特記しておく必要があるように思われる。

(追記その二) 六五五「ふく汁の我活(い)キて居る寝覚(ねざめ)哉」・七二六「鰒汁の宿赤々と灯しけり」(本間本)は、几董の『蕪村全集』には収載されているが、句上・句下にもその収載の印の「平点印」はない。

蕪村の自賛句(その五)

六六七 ふく汁や五侯の家のもどり足

「本間本」所収。安永四年作。珍重句。季語は「ふく汁」(冬)。『蕪村全集(一)』の句意は次の通り。「ふぐ汁を馳走になっての帰り道。まるで五候の邸に招かれての珍味の饗宴にあずかったのごとく、腹も満ち足り酔歩まんさくとして定まらない」。そして、「五候 漢の成帝の時、同日に諸侯に封ぜられた皇太后王氏の一族五人をいう。五候、客の歓心を得んと競って珍膳を供した(西京雑記巻二)」との頭注が施されている。そして、この句は、蕪村没後に、蕪村の跡を継ぐ几董の『蕪村全集』には収録されていないで、河東碧梧桐の『蕪村十一部集』(昭和四年刊行)に収載されているところの『蕪村遺稿』に収録されている句なのである。即ち、几董が多分に蕪村自身が句集を編纂するとしたらとそれとなく準備をしていたと推測される、いわゆる、蕪村自選集ともいうべき『蕪村自筆句帖』を、蕪村没後に目にした時には、蕪村自身の自賛句の合点印の付いているこの句に、几董の目は留まらなかったということなのである。さらに付け加えるならば、几董は蕪村が自賛句としているこの句をそれほどのものとは考えていなかったとも思われるのである。そして、同時の頃の作とされている、「冬ごもり壁をこころの山に倚(よる)」などの句を、その『蕪村全集』に収録しているのである。掲出句とこの「冬ごもり」の二句を比較して、蕪村は「ふく汁」からの漢書の「五候」への連想ということを評価しているのに対して、几董は、「冬ごもり」の句の背景の「冬ごもりまた寄り添はんこの柱」(曠野)の芭蕉の句への連想などをより評価している、その差異のようにも思われるのである。そして、現在、これらの二句を比較して、蕪村の自賛句の掲出の句よりも、几董の『蕪村全集』に入っている蕪村自身の平点句の方が、より馴染み深いということを指摘しておきたいのである。そして、明治に入って「俳句革新」を成し遂げた正岡子規は、几董の『蕪村全集』の蕪村の句を高く評価して、この掲出の句の収載されている『蕪村遺稿』は知らずして亡くなってしまったのである。これらのことから、知らず知らずのうちに、几董や子規好みの蕪村の句を、現代人は多くの関心をもって、もう一面の、この「ふく汁と五候の取り合わせ」に「してやったり」と得意がっている蕪村のもう一面の姿というのを亡失しがちであるということは注意する必要があるということを特記しておきたいのである。

蕪村の自賛句(その六)

一 ほうらいの山まつりせむ老(おい)の春

 「本間本所収」。安永四年(六十歳)作。平点句(『蕪村自筆句帖(筑摩書房刊))』 の解説の部には平点句の印がないが影印の部にはその合点印が読み取れ、『蕪村全集(一)』・『蕪村句集(岩波文庫)』でも合点句としている)。季語は「老の春」。几董の『蕪村句集』収録の、その冒頭の一句である。句意は「めでたく春を迎え歳(よわい)を一つ重ねたが、蓬莱飾りの蓬莱山を華やかにお祭りして、わが老いの春を祝いたい。人の生死を司る神として道家が祭る泰山府君の祭事に擬し、長寿の意をこめた」(『蕪村全集(一)』)。ここにおいても、「蓬莱」・「山まつり」と蕪村の南画の主題のようなものがこの句の眼目となっており、現代俳句という観点から鑑賞すると、やはり、蕪村の時代の南画家の元旦の句のような印象を受ける。ただ一つ、この句が蕪村の六十歳の還暦の元旦の句で、そういう観点から鑑賞すると、このときのこの句を作句している蕪村の姿が見えてくる。しかし、同年作の「海手より日は照(てり)つけて山ざくら」(合点印無し)の句の方が、現代人の好みであろう。しかし、こういう、何らの技巧が施されていない句については、蕪村自身は自賛句とは考えていないのである。やはり、これらの句に接すると江戸時代の蕪村との距離は大きいという感を深くするのである。

蕪村の自賛句(その七)

六 春をしむ人の榎(えのき)にかくれけり

「本間本」所収。明和六年(五十四歳)作。平点句。季語は「春をしむ」。この句は几董の『蕪村句集』には収載されていない。句意は「行く春を惜しんで郊行を楽しむ人の姿が、夏の木すなわち榎に隠れて見えなくなった。もう半分夏の世界の人となったらしい」(『蕪村全集(一)』)。この句意からも明瞭のように、蕪村がこの句を自賛句としているのは、「榎」が「夏」の「木」という「文字遊び」をしながら、「春」から「夏」へと移行する頃の「惜春」を主題にして、しかも、その榎に「人がかくれけり」と「おかしみ」の世界へ誘っているところにある。やはり、この句も単純な写生だけの句ではなく、当時の俳諧の、その豊穣な「笑い」の系譜に属するということに注目する必要があろう。

蕪村の自賛句(その八)

一九六 海手より日は照(てり)つけて山ざくら

「本間本」所収。安永四年(蕪村六十歳)の作。季語「山ざくら」。この句について、同年作の「一 ほうらいの山まつりせむ老(おい)の春」のところで「合点印」のない無点句として紹介したが、それは『蕪村全集(一)』(講談社)・『蕪村俳句集』(岩波文庫)のいずれにおいても、「合点印」が記載されていなかったということによる。ところが、『蕪村自筆句帖』(筑摩書房)の「影印」・「翻印」の両者においても「平点句」の表示がなされ、これはあきらかに『蕪村全集(一)』(講談社)・『蕪村俳句集』(岩波文庫)の記載漏れで、平点句と理解すべきである(それ故、「蕪村の自賛句その六」のその箇所はここで訂正)。
『蕪村全集(一)』の句意は次の通り。「海に面した山腹に山桜が満開だ。海上の朝日が光の束を投げ掛けるように、強烈に照らしている。海・山を一望にした大観の中で、山桜の最も美しいありようをとらえた」。この句意で十分であろうが、中村草田男は「蕪村は含蓄・余情・余韻などを一切考慮せず、青年のごとく単純に光の歓喜に酔っているいるのである。(中略)俳句は蕪村に至って初めて『青春』を持ったと言うことができる」(『蕪村集』)と指摘している。この草田男をして「俳句が初めて『青春』を持った」という、その「青春」に満ち溢れたこの句を、蕪村は晩年の六十歳のときに作句しているのである。そして、蕪村の絵画の絶頂期を迎える「謝寅」の号の時代はその三年後の、安政七年の頃からなのである。すなわち、いかに、蕪村が「画・俳二道」において晩成の人であったということが、この一事を取っても理解できるところであろう。この句に接すると、「馬酔木」の三羽烏の一人といわれた高屋窓秋の「ちるさくら海青ければ海へちる」が想起されてくる。蕪村のこの掲出の句は、蕪村自身の「平点句」ではあるが、蕪村の傑作句の一つとして、これからも詠み継がれていく一句と理解であろう。

蕪村の自賛句(その九)

一五六 三椀の雑煮かゆるや長者ぶり

「本間本」所収。『蕪村俳句集』(岩波文庫)では合点印のある句。平点句(「本間本」の写真版には合点印があるが、『蕪村自筆句帳』の解説文には合点印がない。『蕪村全集(一)』にも合点印の記載がない。転記漏れと思われる)。季語は「雑煮」(新年)。几董の『蕪村句集』にも採られている。安永元年(一七七二)、五十七歳のときの句。「貧しくとも、こうして達者な家族たちとともに新年を祝い、ちょっとした長者を気取って雑煮を三杯もお代わりすることよ。貧しいながら満ち足りた思い」が『蕪村全集(一)』の句意であるが、この「三椀」は「三杯もお代わりする」というよりも、「三重ねの椀で雑煮を食べる」という意味も込められていて、その「三椀」と「長者」との取り合わせの面白さに、蕪村はこの句に平点印を付したように思われる。蕪村の俳諧の師匠の早野巴人の句に「耕さず織らず雑煮の三笠山」というのがあり、この三笠山というのが「三重ね山」とを掛けていて、その巴人の句などが、この句の背景にあると理解したいのである。すなわち、この句も、蕪村の句の特質の、景気(叙景)・不用意(無作為)・高邁洒落(離俗)の、その洒落をより多く利かせている句と理解したいのである。

蕪村の自賛句(その十)

一二三 七(なな)くさやはかまの紐の片結び

「本間本」所収の句。平点句。但し、『蕪村自筆句帖』の写真版には平点印が付されているが、その解説文においては付されていない(記載洩れと思われる)。季語は「七くさ」(新年)。安永五年(一七七六)、六十一歳のときの句。几董の『蕪村句集』には「人日」(正月七日のこと)との前書きがあり、題詠の句と思われる。句意は「日ごろ袴など縁遠い年男が七草を打つのは儀式だからと袴姿でかしこまったものの、その紐は無造作な片結びになっている」(『蕪村全集(一)』)。この「人日」の句は蕪村の師の早野巴人などにも見られ、そして、内容的にも、その巴人や、巴人の師にあたる其角流の江戸座的な機智的な笑いを狙っての句作りで、現代俳人には決して好意的には見られない句でもあろう。そして、この江戸座の流れの俳人は「俳力」(俳諧本来の笑い)ということを重視しており、この句も
その範疇に入るものであろう。

蕪村の自賛句(その十一)

一○五 青柳や芹生(せりふ)の里の芹の中

「本間本」所収の句。平点句。安永六年(一七七七)、六十二歳のときの句。季語は「青柳」(春)。「芹」も春の季語だが、主たる季語の働きは「青柳」。「芹生の里」は洛北大原西方寂光院付近の古称で歌枕。西行の「大原は芹生を雪の道に開けてよもには人も通はざりけり」(山家集)を背景にしての一句。そして、地名の「芹生」と七草の一つの「芹」との言葉遊びも意識していることであろう。句意は「雪深く寂しい芹生の里にも、春ともなれば芹の群生する中に青柳が美しい翠色を見せている」(『蕪村全集(一)』)。この句もまた、この句の背景となっている西行の歌や芹生の地名と植物の芹との連想などの、いわゆる古典的な俳諧本来の手法を駆使してのもので、子規以降の俳人達は決して蕪村の代表句とは見なしてはいない。そして、蕪村やその俳諧の師の早野巴人などは、この掲出句に見られるように「季重なり」ということを厭わずに作句している例を多く見かける。

蕪村の自賛句(その十二)

四〇   鴈(かり)行(ゆき)て門田(かどた)も遠くおもはるゝ
一二七  鴈立(たち)て驚破(ソヨヤ)田にしの戸を閉(とづ)ル

 「本間本」所収の句。この一二七の句については平点よりも上、長点よりも下の、「珍重の印」の珍重句。四〇の句は『蕪村自筆句帖』の写真版を見ては平点句のように思われる(『蕪村全集(その一)』)では珍重句の印が校注にある)。この二句とも几董編の『蕪村全集』に収載されている。四〇の句意は「今まで門前の田で餌をあさる雁の姿に親しんできたのに、春になって北へ飛び去ると、門田も寂しく心に遠い眺めになった」(『蕪村全集(その一)』)。一二七の句意は「田面の雁が北へ帰る。その羽音にビックリした田螺はスワ異変発生とばかり慌てて殻を閉じる」(『蕪村全集(その一)』)。この「驚破(ソヨヤ)」は白楽天の「驚破霓裳羽衣曲」(長恨歌)に由来があるという。それよりもなによりも、四〇の「帰雁」の句というよりも、この一二七の句は「田にし」の句なのである。そして、現代の俳句愛好者がこの二句を並列して鑑賞した場合、前者の「帰雁」の句の方を良しとする人の方が多いのではなかろうか。しかし、蕪村の時代においては、この滑稽句の一二七の「田にし」の句の方が歓迎されたのかも知れない。この二句とも安永五年(一七七六)の六十一歳の時の作である。この一二七の句に関連して、其角の句に、「鉦カンカン驚破郭公草の戸に」(五元集)があり、蕪村は、芭蕉・其角・巴人の江戸座の流れの俳人であったことを痛感すると共に、やはり、江戸時代の享保・安永時代の俳人であったことを痛感する。

蕪村の自賛句(その十三)

九八 夜桃林を出(いで)て暁嵯峨の桜人

 「本間本」所収。珍重句。この句には「暁台伏水・嵯峨に遊べるに伴ひて」との前書きがある。この句も安永五年、蕪村六十一歳の時のものである。几董編の『蕪村全集』にも収載されている。そして、この句もまた現代俳句では余り歓迎されない「言葉遊び」的な技巧が隠されているのである。この「夜」は自分自身の号の「夜半亭」、そして、「暁」は尾張の俳人で蕪村一派と親交のあった、蕪村と並び称せられる中興俳壇の雄・加藤暁台のの号の「暁」を意味しているのである。しかも、「夜」と朝の「暁」をも意味していて、こういう句作りは、蕪村の俳諧の師の早野巴人も得意とするものであった。こういう技巧に技巧を凝らした挨拶句が、当時の俳人が競って作句したものなのであろう。句意は「昨日は遅くまで伏見の桃林に遊び、夜、桃林を出て、今日は早朝から嵯峨の桜花の下の人となっている」(『蕪村全集(一)』)と、どうにも、その句意を知って、こういう句を蕪村の数ある名句と称せられるものは度外視して、ことさらに自選句のうちの自賛句の印を伏している蕪村を思うと、今まで抱いて「郷愁の詩人・与謝蕪村」というようなイメージとかけ離れてくる印象は拭えないのである。

蕪村の自賛句(その十四)

五〇 花の香や嵯峨の燈火きゆる時

 本間本所収。珍重句。安永六年、蕪村六十二歳のときの作。この句意は「夜桜見物の人も去って嵯峨の燈火が消えるころ、かすかな花の香が漂って来て、花の精に触れる思いがする」(『蕪村全集(一)』)。この句に出会ってやっと蕪村らしい句にひさびさにお目にかかったという思いである。これまで、蕪村が自分自身の手による自選句のうちで、さらに、長点・珍重・平点の、いわゆる点印を句頭に施したものは、技巧的な背後にその句に接する人に何かしらの謎解きを強いるような知的な作句姿勢というものが見て取れるものがほとんどであった。しかし、この句にはそういう他者に「句の巧みさや、人を驚かせるような作為的な操作」などを強いるものではなく、自分自身の「その時の感情や心の動き」を一句に託するという、作句するときの最もメインとするものを、この句に接する人に素直に語りかけてくるからに他ならない。この句については、蕪村自身愛着を持っていた一句のようで、「扇面自画賛」や几董宛の書簡なども残されている。そして、この句については、「華の香や夜半過行(すぎゆく)嵯峨の町」の別案の句もあり、相当に推敲を施した句であることも了知されるのである。

蕪村の自賛句(その二・十五~二十二)

蕪村の自賛句(その十五)

五二 水にちりて花なくなりぬ岸の梅 

本間本所収。この句は最高点の印の長点句。安永六年(一七七七)、蕪村、六十二歳のときの作。「水にちりて花なくなりぬ崖の梅」(霞夫書簡)、「水に散ッて花なくなりぬ岸の梅」(『夜半叟句集』)との句形がある。この霞夫宛の書簡には、「此句、うち見ニはおもしろからぬ様ニ候。梅と云(いふ)ニ落花いたさぬはなく候。されども、樹下ニ落花のちり舗(しき)たる光景は、いまだ春色も過行かざる心地せられ候。恋々の情之有候。しかるに、此江頭の梅は、水ニ臨ミ、花が一片ちれば、其まゝ流水に奪(うばひ)て、流れ去り去りて、一片の落花も木の下ニハ見ぬ、扨も他の梅と替(かは)りて、あわ(は)れ成(なる)有さま、すごすごと江頭ニ立(たて)るたゝずまゐ(ひ)、とくと御尋思候へば、うまみ出候」との記載が見られる。蕪村がこの句を自分の句のうちで最高の作としているのは、「此江頭の梅は、水ニ臨ミ、花が一片ちれば、其まゝ流水に奪(うばひ)て、流れ去り去りて、一片の落花も木の下ニハ見ぬ」という、この着眼点がこの句の新味で、それに着眼したことに蕪村自身が満足の意を表しているのである。句意は「岸辺の梅は、地上に散り敷いて名残りを惜しませるよすがとてなく、水上に落ちるそばから流水に奪われたちまち流れ去ってしまう。後には老樹が寂しく残るばかり。『行くものはかくのごときか』と、花を伴って去った非常な時間を思う老蕪村の孤独な心境の表白」(『蕪村全集(一)』)。蕪村は、老成の画・俳二道を極めたものとして、この「行くものはかくのごときか」ということに大きな関心事があった。そして、一見して平凡なこの掲出句には、その老いていくものの老愁というものを託していることを、この「水にちりて」の上五から汲んで欲しいというのであろう。いかにも、蕪村らしい着眼点ではあるが、なかなかそこまで汲み取って鑑賞するのは至難の業のようにも思われる。

蕪村の自賛句(その十六)

六六 大門のおもき扉や春の暮

本間本所収。この句も最高点の印の長点句。天明元年(一七八一)、蕪村、六十六歳のときの作。「大門」の詠みは、『蕪村自筆句帖』では「だいもん」で、『蕪村全集(一)』では「おほもん」であるが、次の「おもき扉や」と呼応しての後者の詠みとしたい。この句は几董編の『蕪村句集』には収載されてはいない。句意は「春日もようやく暮れて、夕闇の中に寺の総門の大きな扉を閉ざすギィーッという鈍い音が吸い込まれてゆく。重さの感覚と春愁との調和」(『蕪村全集(一)』)。その句意の頭注に「春深遊寺客 花落閉門僧」(『詩人玉屑巻二〇』)に典拠があるとの関連記載が見られる。しかし、その漢詩文の典拠の背景は必須のものではなく、蕪村の絵画的な句の一つとして、そのイメージは鮮明に伝わってくる。蕪村がこの句を長点句としている理由は、その漢詩文の典拠に基づくものではなく、「大門のおもき扉」と「春の暮」との取り合わせの妙のように思われる。それは、「重さの感覚と春愁との調和」というよりも、「重さの聴覚的な音の世界から春愁の視覚的な映像の世界への誘い」というようなことを蕪村は感じとっているのではなかろうか。そう解することによって、この「大門のおもき扉や」の「中七や切り」の余情が活きてくるものと解したい。

蕪村の自賛句(その十七)

八五 祇(ぎ)や鑑(かん)や花に香炷(たか)ん草むしろ

本間本所収。この句も最高点の印の長点句。安永八年(一七七九)、蕪村、六十四歳のときの作。この句には「や鑑や髭に落花を捻りけり」という異形のものもある。は飯尾宗祇、鑑は山崎宗鑑で、共に、連歌・俳諧の始祖とも仰がれている人物である。「香炷かん」・「髭に落花」は、宗祇が髭に香を炷き込めた逸話(扶桑隠逸伝)に由来するものであろう。掲出の句意は「いにしえの先達、宗祇、宗鑑は香り高い風雅の足跡を残した。今の世の宗祇・宗鑑とも呼ぶべき諸子よ、私たちも花下に俳筵を繰り広げその遺薫を継ごう」(『蕪村全集(一)』)。いかにも高踏主義の文人好みの蕪村らしい句ではあるが、こういう句を、蕪村自身が、「これが私の俳諧(俳句)です」と後世に伝えようとして、自賛句の最高点の長点印を付けていることに、いささか戸惑いすら感じる。これが、当時の蕪村の一面の「晴れ」の世界であるとしたら、同年の作の「洟(はな)たれて独(ひとり)碁をうつ夜寒かな」の偽らざる「褻(け)」の日常諷詠の世界に、より多くの親近感を覚えるのである。そして、蕪村が密かに句集を編まんとして、そのうちの自信作と思っていた作品というのは、この掲出の句のような、特定の、そして、上辺だけの「晴れ」の世界のものが多いということも心すべきことなのかもしれない。

蕪村の自賛句(その十八)

一五二 飢鳥(うゑどり)の花踏みこぼす山ざくら

本間本所収。この句も最高点の印の長点句。安永三年(一七七四)、蕪村、五十九歳のときの作。この年には「なの花や月は東に日は西に」という夙に蕪村の句として世に知られている句がつくられているが、この有名な句には何らの点印も施されていない。しかし、几董編の『蕪村句集』には収載されており、そして、この掲出の花の句は『蕪村句集』には収載されていない。夜半亭二世・蕪村と夜半亭三世・几董とでは、やはり、それぞれの好みがあり、それらが反映された結果のことなのであろうか。掲出の句意は「人里離れた山桜の樹上に、餌に飢えた鳥が群がって荒々しく花を踏みこぼし、時ならぬ落花の景を現出している」(『蕪村全集(一)』)。この句の「飢鳥の」という蕪村の視線は鋭いし、全体的に画人・蕪村の句という雰囲気を有している。この年には「ゆく春やおもたき琵琶の抱心(だきごころ)」や、関東遊歴時代の思い出に連なる「ゆく春やむらさきさむる筑波山」
(結城の城址にこの句の句碑がある)など名句が多い。掲出の句もそれらの名句のうちの一つにあげられるものであろう。

蕪村の自賛句(その一九)

一六三 なのはなや魔爺(まや)を下れば日のくるゝ

本間本所収。最高点の長点句。安永二年(一七七三)、蕪村、五十八歳のときの作。この句は几董編の『蕪村句集』には収載されていない。この句は「菜の花や摩耶を下れば暮(くれ)かゝる」との句形のものもある。「摩耶」は六甲連邦の一つの摩耶山のこと。その山上に釈迦の母・摩耶夫人を祀る天上寺がある。句意は「摩耶山を参詣して山を下ってくると、春の日もようやく暮れかかり、摂津平野を埋めた一面の菜の花も、先刻までの明るい黄色から黄昏へと次第に変わってゆく」(『蕪村全集(一)』)。この句と同時の作に「菜の花や油乏しき小家がち」がある。この句の方が掲出の句よりも名の知られた句なのであるが、そこには何らの印も付されていない。この掲出句の眼目は、摩耶山と摂津平野を埋め尽くした
一面の菜の花との取り合わせの妙にあるのであろう。余り蕪村の佳句としては取り上げられていない句であるが、いかにも、摂津平野の淀川べりに生まれた蕪村の、その郷愁のようなものと、画人・蕪村の視点のようなものが感知される一句である。

蕪村の自賛句(その二〇)

一七〇 ゆくはるや同車の君のさゝめごと

本間本所収。最高点の長点句。安永九年(一八〇七)、蕪村、六十五歳のときの作。この句も几董編の『蕪村句集』には収載されていない。蕪村の王朝趣味の一句として名高い。「同車の君」は貴族の牛車に同乗する女性。「ささめごと」はひそひそ話のこと。句意は「晩春の都大路を、女性の同乗した牛車が静かに行く。牛車の中で身を寄せた佳人が、尽きることなき睦言をささやき続けている。暮春の情と車中のささめ言との照応」(『蕪村全集(一)』)。
蕪村俳諧の一面の特色として、実生活とはまったく関係のない古典趣味・貴族趣味・王朝趣味・空想的虚構趣味のものが顕著な句があげられる、この句もそうした類のものであろう。そして、こういう句は芭蕉などには見ることができず、蕪村の独壇場という趣すらある。そして、蕪村自身、こういう句を得意としていて、また、好みの世界のものであったのであろう。そういう意味では、蕪村自身が、この句に長点印を付したことは十分に頷けるところのものである。

蕪村の自賛句(その二一)

一七一 春おしむ座主の聯句に召されけり

本間本所収。平点より上で長点よりした珍重の印のある句。前句(その二〇)と同時の頃の作。「座主」とは一山の寺務を総理する者。また、比叡山の天台座主の専称のこと。この句は「春ををしむ座主の聯句や花のもと」という句形のものもある。句意は「天台座主の催された惜春の連句の会に連衆として召された。その光栄はもとより、近江・山城の春景を眼下にした眺望はいかにも春を惜しむにふさわしく、詩情そぞろなるものがある」(『蕪村全集(一)』)。蕪村が実際に天台座主の興行の連句会に召されたのかどうかは不明。この句は蕪村か亡くなる一年前の作なのであるが、蕪村は晩成の人で、この年には夜半亭三世となる几董との文音による両吟歌仙に取り組むなど、画・俳二道にわたって絶頂期にあり、その二道においてその名をとどろかさせたいた頃で、実際にこういうことがあったのかもしれない。しかし、前句(その二〇)の「同車の君のささめごと」といい、この掲出句の「座主の連句」といい、いかにも、蕪村の世界のものという印象とともに、やはり、蕪村は江戸時代の京都を中心にして活躍した人という印象を深くする。 

蕪村の自賛句(その二二)

一九八 海棠や白粉(おしろい)に紅をあやまてる

本間本所収。長点句。安永四年(一七七五)、蕪村六十歳のときの作。海棠は「睡れる花」という異名を持つ。この異名は楊貴妃の故事に由来があるとされている。この句も海棠を見ての嘱目的な句ではなく、その楊貴妃の故事を背景としての見立ての作句といえる。句意は「うつむきがちに桜よりも濃くほんのりと紅を含んだ海棠の花。酒に酔った楊貴妃のしどけない寝起きの化粧のように、白粉と誤って紅をは刷いたのか」(『蕪村全集(一)』)。
蕪村の時代はともかくとして、海棠を見て楊貴妃の故事に結びつけて作句するということは、現代においてはほとんどなさなれないことであろう。掲出句の視点の「酒に酔った楊貴妃のしどけない寝起きの化粧のように、白粉と誤って紅をは刷いたのか」ということになると、どちらかというと滑稽句に近いものになる。そして、その滑稽味を蕪村は佳としているのであろうが、同時の頃の作の「遅き日のつもりて遠きむかし哉」に比すると、後者に軍配をあげざるを得ないのである。そして、几董編の『蕪村句集』には掲出句は収載されていないが、後者の句は収載されていて、夜半亭二世・蕪村と夜半亭三世・蕪村との選句姿勢の違いなども感知されるのである。

蕪村の「謝寅」時代の句

蕪村の「謝寅」時代の句(その一~その十一)

蕪村の「謝寅」時代」の句(その一・一~十一)

(その一)

○ 痩脛(やせはぎ)や病より立つ鶴寒し

 蕪村は画俳二道を行く老成の人であった。その絵画の絶頂期は、「謝寅(しゃいん)」の号を用いる安政七年(一七七八)の六十三歳以降というのが、誰しもが認めるところのものであろう。その「謝寅」の号を始めて用いたのは、その年の七月の「山水図」に、「戊戌秋七月写於夜半亭 謝寅」と記したのが最初であろう。そして、掲出の句は、その年の十一月十三日に没した、蕪村門の異才・吉分大魯(たいろ)に宛てた、「大魯が病の復常をいのる」の前書きのある一句である。句意は、「病にめげず立ち上がるその鶴のその痩せ細ろいた脛、その痩せ細ろいだ脛ですくっと立つ鶴の何と寒々とした光景であることか」でもなるのであろうか。快癒を祈っての鶴の最後の踏ん張りを期待する句なのであろうが、それ以上に、病に臥す痩せ細ろいだ大魯の姿が眼前に浮かんでくる一句である。そして、蕪村よりも十歳前後若いその異才の開花が期待された大魯は没した。その大魯の死に前後して、蕪村は「謝寅」の号をもって、この句の鶴のように「寒風の中にすくっと最後の花を咲かせる」、その時を迎えたのである。

(その二)

○ 泣(なき)に来て花に隠るゝ思ひかな

 『蕪村全集(一)」(講談社)に次のとおりの「左注」がある。
[『華の旅』(寛政六)に「清夫亡人のひめ置(おき)し反故の中に此(この)一順あり。芦陰舎(大魯)今年十七回忌の折からなれば爰(ここ)にしるす」と編者夏雄の前書。大魯(安永七年十一月十三日没)の追悼吟。この年の作か。]

この「清夫亡人」の「夫」は「未亡人」の「未」の誤植なのであろうか。また、「この年の作か」として、この句を安永七年作としているが、「花」の季語から、「翌春(推定)」(『蕪村事典(桜楓社)』)とする理解の方が素直であろう。いずれにしろ、蕪村の「謝寅」時代の大魯追悼吟ということになる。句意は、「大魯追悼の泣きに来て、折からの花に隠れて思い切り泣きたい心境をいかんともしがたい」ということであろう。思えば、大魯の没した安永七年の三月に、蕪村は几董を伴って、当時、兵庫県に居を移していた大魯を見舞っているのである。蕪村はどれほどこの蕪村門では異端視されたこの大魯の才能を高くかっていたことであろうか。この大魯追悼吟の「花」には、大魯が没したこの年の、大魯と一緒に見たであろう「花」が見え隠れしている。

(その三)

○ 狐啼(ない)てなの花寒き夕べ哉

 安永八年(一七七九)の作。季語は「なの花」(春)。蕪村には「菜の花」の傑作句が多い。「なの花や月は東に日は西に」・「菜の花や遠山鳥の尾上まで」・「なの花や昼一しきり海の音」・「菜の花や鯨もよらず海くれぬ」・・・、どれも蕪村の句らしい印象鮮明な句である。しかし、この掲出句は、印象鮮明の句というよりも、何故か、蕪村の謎の生い立ちを暗示するような、「寒々とした不気味な菜の花畑」を連想させる。それは一にかかって、上五の「狐啼て」にある。これは蕪村の生まれた頃の、蕪村の脳裏に焼き付いている実景なのではなかろうか。蕪村の若い頃の句の「菜の花や和泉河内の小商ひ」の、その「和泉河内」の「菜の花」畑に通ずるような雰囲気なのである。そして、蕪村は、「菜の花や油乏しき小家がち」とも詠う。家々の灯りの元になる「菜種油」を産出する「菜の花畑」・・・、その菜の花畑の傍らで、狐がコンコンと啼いている風景・・・、それを六十四歳となった蕪村は、その蕪村の原風景を回想している違いない。

(その四)

○ 松島で古人となる歟(か)年の暮

 蕪村の亡くなる前年(天明二年)の謝寅時代の句である。
「世人が俗塵の中で悪戦苦闘する年の暮れに、風流のメッカ松島で故人となるのは、何ともうらやましい」(『蕪村全集一』)というのが、通説的な解である。この通説的な解の背景は、この句は、「松島で死ぬ人もあり冬籠」の別案と、比較的、この句の制作された背景が明らかになっていることと大きく関係している(「青荷」充て書簡)。しかし、そういう背景を抜きにして、この句単独の素直の解は、次のような解にもなるだろう。「この年の暮れに、風流のメッカ・松島で死ぬことができたら、どんなに素晴らしいことであるか」。
 とするならば、蕪村が、自分の死を予感しての、あるいは、蕪村が、自分の死を覚悟しての作のようにも理解できる。この句は、「西むきにいほりをたてゝ冬ごもり」と同一時の
作ともされている。即ち、「冬籠もり」の題詠の一つというのが、その背景である。この「西むきに」というのは、「西方浄土へ向かって」ということであり、この同一時の句の背景からしても、掲出の句が、蕪村の「死への願望、死への期待」の句という理解は、これらの句の背景として、理解しておく必要があるのかも知れない。
 蕪村の絵画は、その晩年の「謝寅(しゃいん)」の号を用いた頃から「本当の蕪村」が誕生したといわれている。そして、そのことは、こと俳諧(俳句)に限ってはどうかということになると、必ずしも、当てはまらないけれども、当然のこととして、「生と死」を必然的に意識しての、創作活動ということになると、その晩年の「謝寅」時代の、画・俳二道の創作活動を注ししていきたいとという衝動にかられてくるのである。そして、蕪村の句としては余り話題とされていない、この掲出の句も、蕪村の晩年の「謝寅時代」の一つの句として、そして、蕪村の、「生と死」とを扱った句の一つとして理解しておく必要があるのかも知れない。

(その五)

○ 松島で死ぬ人もあり冬籠(ふゆごもり)

 この蕪村(六十七歳の時の作)の句は、「松島で古人となる歟(か)年の暮」と同一時の作とされている。『蕪村全集一』の解によれば、「風流行脚の途次、松島で死の本懐をとげる人もある。そんなうらやましい人のことを心に思いながら、自分はぐうたらと火燵行脚の冬ごもりを極め込んでいる」とある。蕪村には「冬籠り」の句が実に多い。 蕪村は若い時の関東放浪の旅を経験して以来、その後は、仕事で讃岐への遠出があるくらいで、ずうと、京都の地で、それこそ、「冬籠り」のような人生に終始した。蕪村が「籠り居の詩人」と呼ばれるのも、そんなことが原因の一つであろう。しかし、若い関東放浪の時代に、足を伸ばして、芭蕉の「奥の細道」の行脚を決行して、この松島での一句が残されている。その蕪村(二十八歳の時)の句は「松島の月見る人やうつせ貝」というもので、この「うつせ貝」は和歌で用いられる「むなし」に掛かる枕詞で、技巧的な句作りである。、その句意は、「松島の月を句にしようとしても、余りにも絶景で、ただむなしく眺めるだけだ」とでもなるのであろうか。そして、蕪村は、死ぬ前年の、ある句会で、「冬籠り」という題を得て、掲出の句を作句したのであろう。そして、その六十七歳の晩年の蕪村に、かって、若い時に決行した奥羽行脚やその途次での松島行脚のことが、きっと、その脳裏にあったに違いない。そして、できることなら、その風流のメッカの、かって訪れたことのある「松島で死の本懐をとげたい」と願ったことであろう。蕪村は京都の街の片隅で、ひっそりと、その小さな家から一歩も出ず、「籠り居」の中で、画・俳二道の創作に終始した。その蕪村の姿を如実に表わしている「冬籠り」の一句がある。

  冬ごもり妻にも子にもかくれん坊

(その六)

○ 菜の花や鯨もよらず海くれぬ

 安永七年(一七七八)の作。蕪村六十三歳。『蕪村全集一」の解は次のとおり。
「見渡せば残照に黄金色に映える一面の菜の花の海。沖には鯨が近づくといった異変も起こらず、海面は平穏に暮れてゆく。壮大な菜の花の大観。」
 蕪村には「菜の花」の句が多いが、この掲出句のように「菜の花と海」との取り合わせの句は、安永三年の作にもある。

○ 菜の花や昼しときり海の音

 そして、この句は蕪村の代表句の「菜の花や月は東に日は西に」と同時の作とされているのである。この作は大阪平野の菜種栽培地帯での大観の作とされている(前掲書)。
 とすると、冒頭の「菜の花や鯨もよらず海くれぬ」についても、蕪村は実際には、「海」は見ていずに、かっての「菜の花や月は東に日は西に」、そして、「菜の花や昼しときり海の音」との延長線上での、大阪平野の菜種栽培地帯に想いを馳せての作のように思われるのである。すなわち、「菜の花の一面の菜畑」を「海」ととらえて、そして、「鯨」とか「海の音」とかは、その「菜の花の一面の菜畑」がいかに大観であることかの効果的な、蕪村のレトリック的なものと思われるのである。そして、この何処までも海のように続く、大阪平野の菜の花の海は、蕪村の生まれた原風景の一つなのであろう。そして、その蕪村の原風景は、何時しか「鯨や海の音」を伴いながら、美しく蕪村の心に定着し、美化していったのではなかろうか。

(その七)

○ 草の戸に消(きえ)なで露の命かな

 天明三年(一七八三)の作。蕪村六十八歳。この年に蕪村は亡くなる。季語は露(秋)。草の戸は粗末な住いのこと。「草」と「露」と「消」とが縁語の技巧的な句作りである。句意は「粗末な草のような庵で余命いくばくもない露のような命をかろうじて保っている日々だ。」晩年の蕪村の姿を詠出しているような句だ。

(その八)

○ 我門(かど)や松はふた木を三(みつ)の朝

 蕪村が亡くなる天明三年(一七八三)の元旦の句である。「三(みつ)の朝」というのは、年・月・日の始めの意味での「元旦」と「見つ」とを掛けている用語のようである。元旦の句というのはこういう技巧的な句が多いのであろう。「松はふた木」は、芭蕉の『おくのほそ道』の「桜より松は二木を三月越し」の「武隈の松」(宮城県の歌枕)をイメージしているのであろう。句意は、「元旦に我が家の門に武隈の松のような二股の見事な松を確かに見たことだ。(それは幻影なのであろうか)。」とでもなるのであろうか。そして、この句は芭蕉の「桜より松は二木を三月越し」を完全に意識して作句していることが見てとれるということなのである。そして、この句の「ふた木の松を見た」という蕪村の幻影は、「そのふた木の松を句にした芭蕉翁」の幻影を見たということなのではなかろうか。蕪村の作句の背景には常に芭蕉の幻影が見え隠れしているのである

(その九)

○ 春水や四条五条の橋の下

 天明元年(一七八一)の六十六歳の作。蕪村の句には「探題」の句が多い。句会などで籤のようにして、その日の自分の作る題を引いて、そして作句する。この句もそんなものの一つらしい。「春風や四条五条の橋の上」(都枝折)などの「もじり」の句なのであろ
う。「風が上なら、水は下」なとどと、また、謡曲の「四条五条の橋の上、老若男女・・・」(熊野)などを口ずさみながら、すらすらと句にする。今なら、さしずめ、「類想句あり」などのひんしゅくをかう部類のものなのであろう。しかし、本来、俳句というものは、西洋的な個人の独創力・創造力とかにウエートをおくものではなく、この句のような、即興的な機知の応酬などにウエートをおいているものなのであろう。そして、こういう即興的な機知の応酬なども、今では、どこかに置き去りにされてしまった。

(その十)

○ 烈々と雪に秋葉の焚火かな

 この蕪村の句は安永六年、蕪村、六十二歳ときの句。蕪村の最高の画号の「謝寅」が始まるのは翌年の頃なのであるが、この安永六年の蕪村の俳壇活動は一つのピークのようにも思われる。この掲出の句は、そのピーク時の蕪村の傑作句として例示したのではない。この句の「秋葉」が、「静岡県の秋葉の火祭りとして名高い」、その「秋葉」の句であるということからの引用である。蕪村は「秋葉の火祭り」は見たことがないであろう。蕪村はその若い頃の放浪の時代を経て、そして、それ以後は、殆ど、京都の市井に「篭り人」のように隠棲して過ごしたのであった。これは、蕪村の観念の作なのであろう。しかし、この句に接する人に、眼前に「雪の秋葉山の焚火」を明瞭に映し出すという、そういう作句能力を持っていた俳人という思いを強くするのである。そして、それは、画人・蕪村を見るような錯覚すら覚えるのである。  

(その十一)

○ 不動描く琢磨が庭のぼたんかな

 安永六年の作。この句もまた画人・蕪村(謝寅)の句そのものであろう。琢磨(たくま)とは平安から鎌倉にかけての絵仏師の一派の名である。その不動明王を描いて得意な琢磨の流れをくむ絵仏師の庭に、その不動明王に対峙するような見事な牡丹が咲いているというのである。こういう句は画人・蕪村(謝寅)の独壇場であろう。

蕪村の花押(その五~その七の二)

蕪村の花押(その五)

膳.jpg

「諸家寄合膳」(二十枚)のうちの「蕪村筆・翁自画賛」=A

『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM編)』所収「作品解説(3)」では、「画面左に杖を持った二人の人物を簡単な筆づかいで描く。右上に三行で『嵯峨へ帰る 人はいつこの 花にくれし』という発句を書く。『蕪村』という署名花押を書く」とある。

 この花押は、蕪村が、宝暦六年(一七五六)の丹後時代から常用している花押と明らかに相違している。
 蕪村の常用の花押については、『人物叢書 与謝蕪村(田中善信著)』では、「嘯山宛の手紙に、蕪村常用の、独特の形をした花押が書かれている(挿図の『花鳥篇』序参照)。かつてこの花押は、矢を半分にしたもので矢半(夜半)の洒落だといわれていたが、岡田利兵衛氏のように、夜半亭を継承する以前にこの花押が用いられているから、従来の説は誤りである(『俳画の美』)。岡田氏は『村』から作った花押だというが、私には槌の形に見える。花押の作り方としては異例だが、これは槌を図案化したものではなかろうか」と記されている。
 同書では、『花鳥篇』序(天理大学付属天理図書館蔵)のものの花押を例示し、別の「蕪村の大黒天図」に関連して、俵の上に乗り木槌を持った「大黒天図(中村家像)」を挿図として掲載している。

 この蕪村常用の花押について、これまでに掲載したものを、ここに併載して置きたい。

書簡A.png

蕪村書簡(三宅嘯山宛て、宝暦七年(一七五七))=B

絵図A.png

蕪村挿絵図(『はなしあいて』所収「蕪村山水略図」)=C

蕪村静御前.jpg

蕪村筆 静御前図自画賛(「生誕三百年同い年の天才絵師 若冲と蕪村」作品21) =D

 上記(B・C・D)の花押は、拡大すると、凡そ次のようなものである。

蕪村花押 .jpg

「蕪村の署名・花押」=E

冒頭の「蕪村筆・翁自画賛」=Aと、この「蕪村の署名・花押」=Eとを比較すると、署名はともかくとして、花押は似ても非なるものの印象が拭えないのである。
ここで、いわゆる「真贋」とかを話題にするというよりは、この二様の違う、蕪村の花押を、鑑識や鑑定の世界での、「これならとおる」(「見解は分かれるが、多くの人を納得させられる」)のようなものが見いだせないかという、そんな難問題への、無謀な謎解きをしたいというのが、その真相なのである。
 しかし、この謎解きに入る前に、「蕪村筆・翁自画賛」=Aに、「三行で書かれている発句」の「嵯峨へ帰る 人はいつこの 花にくれし」(安永九年・一七八〇作)に併記して、「筏士(いかだし)のみのやあらしの花衣」の「自画賛」があり、そこに、「酔蕪村 三本樹井筒屋楼上において写」と落款して、そこに花押(Eと同種の花押)が押されている。
 すなわち、「蕪村筆・翁自画賛」=Aと、極めて関連の深い「自画賛」が別に現存し、そこに花押(Eと同種)があり、さらに、この謎解きは複雑な形相を呈して来るのである。
そして、あろうことか、こちらの「筏士(いかだし)のみのやあらしの花衣」の「自画賛」には、寺村百池の詳細な箱書きがあり、それに加えて、月渓(呉春)筆の「自画賛」もあるようで、どうにも整理の仕様がないような複雑な問題が内在しているのである。
 今回は、百池の箱書きのある「自画賛」を、『蕪村全集一 発句』の、その頭注より拡大して掲載をして置きたい。

蕪村花衣.jpg

 蕪村筆「筏士自画賛」(百池の箱書きあり、花押=Eと同種)

蕪村の花押(六の一)

蕪村花衣.jpg

蕪村筆「筏士自画賛」(百池の箱書きあり・蕪村の署名はなく花押のみ)=A

 寺村百池の「箱書き」(括弧書き=読みと注)は次のとおりである。

[ これは是、老師夜半翁(蕪村)世に在(ま)す頃、四明山下金福寺に諸子会しける日、帰路三本樹(京都市上京区の地名=三本木、その南北に走る東三本木通りは、江戸時代花街として栄えた)なる井筒楼に膝ゆるめて、各三盃を傾く。時に越(こし=北陸道の古名)の桃睡(とうすい)、酔に乗じて衣を脱ぎ師に筆を乞ふ。とみに肯(うべな)ひ、麁墨(そぼく)禿筆(とくひつ)を採(とり)てかいつけ給ふものなり。余(百池)も其(その)傍に有りて燭をとり立廻(たちめぐ)りたりしが、日月梭(ひ)の如く三十年を経て、さらに軸をつけ壁上の観となし、其(その)よしをしるせよと責(せめ)けるこそ、そゞろ懐古の情に堪へず、たゞ老師の磊落(らいらく)なる事を述(のべ)て今のぬしにあたへ侍りぬ。 ]
(『蕪村全集一 発句)』所収「2377 左注・頭注・脚注」)

 さらに、『大来堂発句集』(百池の発句集)』の天明三年(一七八三)三月二十三日に、「金福寺芭蕉庵、追善之俳諧興行(風蘿念仏)に、蕪村、桃睡、百池一座」として、「雨日嵐山
に春を惜しむ」との前書きのある「み尽して雨もつ春の山のかひ」という句が所出されている。
 すなわち、蕪村が亡くなる天明三年(一七八三)の三月二十三日、上記の百池の「箱書き」に記載されている句会が、金福寺芭蕉庵で開かれて、その帰途に、三本樹の井筒楼で宴会があり、その宴席での、即興的な「席画」(宴席や会合の席上で、求めに応じて即興的に絵を描かくこと。また、その絵)が、上記の「筏士自画賛=A」なのである。
 これは、百池の「箱書き」によって、桃睡の「衣」に描いた、すなわち、「絹本墨画」の「筏士自画賛」ということになる。ところが、「紙本墨画淡彩」の「筏師画賛=B」(出光美術館蔵)も現存するのである。これは、後述することとして、その前に、上記の「筏士自画賛=A」の賛の発句や落款について触れて置きたい。
 この画中の右の冒頭に、「嵐山の花見に/まかりけるに/俄(にわか)に風雨しければ」として、「いかだしの/みのや/あらしの/花衣」の句が中央に書かれている。それに続いて、画面の左に、「酔蕪村/三本樹/井筒屋に/おいて写」と落款し、その最後に、蕪村常用の「花押」が捺されている。
 このことから、蕪村は、亡くなる最晩年にも、この独特の花押を常用していたことが明瞭となって来る。
 ここで、蕪村が最晩年の立場に立って、生涯の発句の中から後世に残すに足るものとして自撰した『自筆句帳』の内容を伝える『蕪村句集(几董編)』の「巻之上・春之部」では、「雨日嵐山にあそぶ」として「筏士(いかだし)の蓑(みの)やあらしの花衣(はなごろも)」の句形で採られている。
 この句形からすると、出光美術館所蔵の「筏師画賛=B」(「大雅・蕪村・玉堂と仙崖―『笑《わらい》のこころ』」図録中「作品38」)も「筏士画賛」のネーミングも当然に想定されたものであろう。おそらく、「筏士自画賛=A」と区別したいという意図があるのかも知れない。
 これらの、「筏士自画賛=A」と「筏師画賛=B」との比較鑑賞(考察)は、後述・別稿ですることにして、この他に、「月渓筆画賛=C」(「資料と考証六」=未見)もあるようで、そこに、
「これは先師夜半翁、二軒茶やにての句也」と付記してあるという(『蕪村全集一 発句』)。
 これは、恐らく「筏師画賛=B」に近いもので、この「筏師画賛=B」に近いものが、他に何点か、その真偽はともかくとして出回っているようである。
 ここでは、冒頭の「筏士自画賛=A」の百池「箱書き」中の、「三本樹の井筒楼」と「月渓筆画賛=C」中の「二軒茶や」と、蕪村の傑作画として名高い「夜色楼台雪万家図」と関連しての、「晩年の蕪村が足繁く通った『雪楼』」」(『水墨画の巨匠第十二巻蕪村(芳賀徹・早川聞多著)』(「夜色楼台図(早川聞多稿)」)などについて触れて置きたい。
 この「雪楼」は、百池宛て蕪村書簡(天明二年・一七八二、七月十一日付け)で、「祇園 富永楼のこと。蕪村行き付けの茶屋」(『蕪村書簡集《大谷篤蔵・藤田真一校注》』)なのである。すなわち、晩年の蕪村が足繁く通った、蕪村自身の「拙(雪)老」の捩りの「雪楼」のようである。

蕪村 夜色楼台図.jpg

 (図1 蕪村筆 「 夜色楼台図」)

 この蕪村の「夜色楼台図」の左の画面外に、百池「箱書き」の「四明山(比叡山・四明岳)下金福寺」がある。そこで、天明三年(一七八三)三月二十三日に、「金福寺芭蕉庵、追善之俳諧興行(風蘿念仏)に、蕪村、桃睡、百池一座」と、句会を開いている。その「帰路三本樹なる井筒楼に膝ゆるめて、各三盃を傾く」と、宴会があった。
 当時の「三本樹」の花街の様子が、次の『拾遺都名所図会』で紹介されている。ここに、「井筒楼」や「富永楼(雪楼)」の茶屋があった。

三本樹.png

 (図2 「 三本樹(木)」『拾遺都名所図会』 ) 

 この『拾遺都名所図会』に描かれている川は「かも川(鴨川)」である。この「かも川」付近の「井筒楼」で、冒頭の「筏士自画賛=A」が「席画」され、その主題は、「嵐山の花見に/まかりけるに/俄(にわか)に風雨しければ」と「嵐山」であり、その「嵐山」の「桂川(保津川)」の「いかだしの/みのや/あらしの/花衣」と、「筏士」ということになる。
 すなわち、この「筏士自画賛=A」は、「嵐山」の「桂川(保津川)」の「筏士」を、「鴨川」の近くの「三本樹(木)の井筒屋」で、かつて画賛にしたもの(「筏師画賛=B」)を思い出しながら、「酔蕪村」(酔っている蕪村)が、即興的に、「桃睡、百池一座」の見ている前で描いたということになろう。

 その前に描いた画賛(「筏師画賛=B」)は、次のものであろう。

蕪村・筏師・出光美術館.jpg

 蕪村筆「筏師画賛=B」(出光美術館蔵)

 この「筏師画賛=B」に簡単に触れて置くと、「筏士自画賛=A」の左に記載されている
「酔蕪村/三本樹/井筒屋に/おいて写」のような記述はない。そして、その下にあった「花押」(「蕪村」の署名はない)は、「筏師画賛=B」では、右端に「蕪村・花押」とあり、
それに続く、前書きの文言も発句の句形も、微妙に異なっている。
 そして、「筏士自画賛=A」は、棹の位置からして、右の方向に進むのだが、この「筏師画賛=B」では、左の方向に進む図柄なのである。それ以上に、種々、大きな相違点などについては、別稿で詳しく見て行くことにしたい。
 ここで、付記して置きたいことは、この「筏師画賛=B」は、「諸家寄合膳」の「蕪村筆・翁自画賛」に書かれている「嵯峨へ帰る人はいずこの花にくれし」(安永九年・一七八〇作)と同時の頃の作と思われるのである。
 さらに、この「筏師画賛=B」も「席画」で、それは、恐らく、「月渓筆画賛=C」(未見)の付記の「これは先師夜半翁、二軒茶やにての句也」の、「三本樹(木)」の「井筒楼」や「富永楼」ではなく、京都祇園社境内の二軒茶屋などのものと解したい。

補記 

『蕪村全集一 発句』の「嵯峨へ帰る人はいづこの花にくれし」の、「脚注」に「自画賛<潁原ノート>」とあり、その「左注」に「自画賛に2377(筏士のみのやあらしの花筏)と併記」とある。この「脚注」と「左注」とからすると、「嵯峨へ帰る人はいづこの花にくれし」と「筏士のみのやあらしの花筏」を併記している、蕪村筆「自画賛」(未見)もあるのかも知れない。

蕪村の花押(六の二)

蕪村・筏師・出光美術館.jpg

 蕪村筆「筏師画賛=B」(出光美術館蔵)

[【筏師画賛】一幅 与謝蕪村筆 紙本墨画淡彩 江戸時代 二七・二×六六・八㎝
嵐山の桜を愛でている最中に、急に風雨が激しくなって、筏師の蓑が風に吹かれた一瞬を花に見立てた俳画。蓑の部分は、紙を揉んで皺をつけ、その上から渇筆を擦りつけることで、蓑のごわごわとした質感をあらわしている。蓑笠だけで表された筏師のポーズは遊び心にあふれ、ほのぼのとしていながら印象的である。遊歴の俳人画家、蕪村は五十歳になってから京都に安住の地に選び、身も心も京都の人になりきって庶民の風習を楽しんだ。自己を語ることをせずに、筏師一人だけを慎み深く捉えているところに、かえって都会的な香りや郷愁を感じさせる。(出光)
(釈文)
嵐山の花にまかりけるに俄に風雨しけれは
いかたしの みのや あらしの 花衣  蕪村 (花押) ]
「大雅・蕪村・玉堂と仙崖―『笑《わらい》』のこころ」(作品解説38)

 上記の「作品解説」の中で、「蓑の部分は、紙を揉んで皺をつけ、その上から渇筆を擦りつけることで、蓑のごわごわとした質感をあらわしている」の、いわゆる、水墨画の「乾筆(かっぴつ)=墨の使用を抑え,半乾きの筆を紙に擦りつけるように描く」の技法を、この「ミの(蓑)」に駆使しているのが、この俳画のポイントのようである。
 その「蓑」に比して、「笠」の方は、「潤筆(じゅんぴつ)=十分に墨を含ませて描く」の技法の一筆描きで、この「蓑と笠」だけで「筏師のポーズ」を表現するというのは、「遊歴の俳人画家」たる蕪村の「遊び心」で、「ほのぼのとしていながら印象的である」と鑑賞している(上記の解説)。
 ここで、この「筏師画賛=B」は、何時頃制作されたのかということについては、この賛に書かれている発句「いかたしの/ミのや/あらしの/花衣」の成立時期との関連で、凡その見当はついてくるであろう。

 『蕪村句集(几董編)』の収載の順序に、成立年時を付した『蕪村俳句集(尾形仂校注・岩波文庫)』では、次のようになっている。

     日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る
一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し ※安永九年(※は推定)
一八五 花の香や嵯峨のともし火消(きゆ)る時   安永六年
     雨日嵐山にあそぶ
一八六 筏士の蓑やあらしの花衣          天明三年

 この「一八六 筏士の蓑やあらしの花衣」は、「筏士自画賛」の百池「箱書き」の内容に照らして、天明三年(一七八三)の作ではなく、「一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し」と同時の、安永九年(一七八〇)作なのではなかろうかということについては、先に触れた。ここで、この両句を、その前書きから、「一八六 → 一八四」の順にすると次のとおりとなる。

     雨日嵐山にあそぶ
一八六 筏士の蓑やあらしの花衣 
     日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る
一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し

 この順序ですると、「雨日嵐山にあそぶ」、そして、「筏士」の句などを作り、「日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る」、その帰途中で、知人と出会い、「嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し」の句を作ったということになる。
 さらに、『蕪村句集』を見て行くと、「嵯峨の雅因亭」での、次の句が収載されている。

     嵯峨の雅因が閑を訪(とひ)て
三一一 うは風に音なき麦を枕もと       ※(安永三年四月)

 この「嵯峨の雅因」は、京都島原の妓楼吉文字屋の主人で、嵐山の宛在楼に閑居し、蕪村らと親しく交遊関係を結んでいる、山口蘿人門の俳人である。しかし、この雅因は、安永六年(一七七七)十一月二十六日に没しているので、ここで、上記の「一八五 花の香や嵯峨のともし火消(きゆ)る時」(安永六年作)が、雅因への追悼句の雰囲気を伝えて来る。 いずれにしろ、上記の『蕪村句集』に収載されている、「一八四・一八五・一八六」は、相互に響き合った、何かしらの因果関係にある句と解したい。

 さらに、ここに付け加えることとして、大雅が、安永五年(一七七六)四月十三日に没していることである。
 蕪村と大雅とは、京都の近い所に住んでいながら、ほとんど没交渉のような、この二人の生前の交渉の足跡はどうにも未知数の謎のままである。
大雅が没したときの、蕪村の書簡は、「大雅堂も一作(昨)十三日古人(故人)と相成候。平安(京都)の一奇物、をしき事に候」(安永五年四月十五日付け霞夫宛て書簡)と、関心は持っていて、その才能は高く評価していたのであろうが、生粋の京都(平安)人である大雅を、潜在的に余所者意識(大阪近郊の田舎生まれ且つ江戸育ちの放浪者意識)の強い蕪村が敬遠していたという印象を拭えない。

これは、蕪村と若冲との関係にも言えることであって、丹波(京都郊外)の田舎出身の応挙とは気が合うのも、そういった蕪村の潜在的な意識と大きく関係しているのかも知れない。
ともあれ、「諸家寄合膳」の大雅筆の「梅図=二」は、安永五年(一七七六)以前のものであろうということと、蕪村筆の「翁自画賛=三」は、安永九年(一七八〇)以降のものということで、この両者は、大雅と蕪村との唯一の交叉を象徴する「十便十宣図」(二十枚)のような関係にはないということは間違いなかろう。 また、寛政十二年(一八〇〇)の若冲筆・四方真顔賛の「雀鳴子図=八」とは、全く制作年次を異にするということも、これまた指摘して置く必要があろう。

 唯一、蕪村との関連ですると、当時(安永=一七七二~天明=一七八一に掛けて)、蕪村と応挙との親密な交遊は散見され、例えば、蕪村と応挙との合筆の「『ちいもはゝも』画賛」(「広島・海の見える杜美術館」蔵)などからして、「諸家寄合膳」の蕪村筆の「翁自画賛=三」と応挙筆の「折枝図=一」とは、同時の頃の作と解しても、それほど違和感が無いのである。

 それよりも、蕪村・応挙合筆の「『ちいもはゝも』画賛」に、「猫は応挙子か(が)戯墨也/しやくし(杓子)ハ蕪村か(が)戯画也」と、画面の右に墨書し、中央の下に、「蕪村賛」と署名し、その下に、花押が書かれている。
 この花押が、何と「諸家寄合膳」の蕪村筆「「翁自画賛=三」の花押と同じものと思われるのである(下記の蕪村筆「「翁自画賛=三」)。
 ここで、蕪村の花押について、一つの仮説のようなもの提示して置きたい(詳細は、折りに触れて関連する所で後述することとしたい)。

一 蕪村の花押は、常用の花押(上記の「筏師画賛=B」などに見られる花押)と諸家(例えば、応挙など)との合筆画(それに類するもの)などに見られる花押(下記の「翁自画賛=三」)との二種類のものがある。
二 その常用の花押も、また、合筆画用の花押も、その由来となっているものは、蕪村が関東歴行時代に見切りをつけ、宝暦初年(一七五一)に上洛して間もない頃に草した「木の葉経句文」に因っているものと解したい。
三 すなわち、その「木の葉経句文」中の、末尾の「肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)」の句に草した署名、「洛東間人(かんじん)嚢道人釈蕪村」の、この「嚢道人(釈)蕪村」の、その姓号と思われる「嚢道人」を象徴する「嚢」(雲水僧が携帯している経巻用の「嚢=袋」)の図案化と解したい。

諸家寄合膳(四枚).jpg

「諸家寄合膳」(二十枚)のうち「蕪村・若冲・大雅・応挙」(四枚)
上段(左)=蕪村筆「翁自画賛=三」 上段(右)若冲筆・四方真顔賛「雀鳴子図=八」
下段(左)=大雅筆「梅図=二」 下段(右)=応挙筆「折枝図=一」


補記一

蕪村の花押(六の三)

筏師画賛.jpg

月渓(呉春)筆「筏師画賛=C」逸翁美術館蔵  34×31.5cm

 この画中の筏師の右側に書いてある賛は次のとおりである。

[ 筏しのみのやあらしの花衣 / これは先師夜半翁三軒 / 茶やにての句也又 /渡月橋にて / 月光西に / わたれば花影 / 東に歩むかな / 日くれて家に / 帰るとて / 石高な都は / 花のもどり足   ]
 筏師の左側の賛は次のとおりである。
[ 花をふみし / 草履も見へて / 朝ねかな / 身をはふらかし / よろづにおこたり / がち成ひとを / あはれみたると / はし書あり / 月渓写 ]
(『呉春(逸翁美術館・昭和五七刊)』所収「100月渓筆筏師画賛」)

 呉春(松村月渓)は宝暦二年(一七五二)、京都の堺町四条下ル町で生まれた。本姓松村、名は豊昌、通称嘉左衛門、別号に可転など、軒号に蕉雨亭・百昌堂など、のち蕪村から「三菓軒」の号を譲られている。
 蕪村に入門をしたのは、明和八年(一七七一)十九歳の頃で、この年に、蕪村門の最右翼の高弟黒柳召波が亡くなっている。
 池大雅が亡くなった安永五年(一七七六)の二十五歳の頃は、蕪村社中の『初懐紙』『写経社集』などに続々入集し、画道共に俳諧活動も活発であった。
 上記の「筏師画賛=C」の制作年次は明らかではないが、その画賛中の「筏しのみのやあらしの花衣」の蕪村の句から類推すると、安永九年(一七八〇)二十九歳の頃から剃髪して呉春と改号した天明二年(一七八二)三十一歳前後の間のものであろう。
 月渓が呉春と改号した翌年、天明三年(一七八三)十二月二十五日に蕪村が没する(呉春、三十二歳)。蕪村没後の夜半亭社中は、俳諧は几董、そして、画道は呉春が引き継ぐという方向で、呉春も、漢画・俳画の蕪村の師風を堅持している。
 天明六年(一七八六)に、呉春の良き支援者であった雨森章迪が没し、その翌年の天明七年(一七八七)に、呉春は応挙を訪うなど、応挙の円山派への関心が深くなって来る。
 その翌年、天明八年正月二十九日、京都の大火で呉春の京都の家(当時の本拠地は摂津池田)が焼失し、偶然にも避難所の五条喜雲院で応挙と邂逅し、暫く応挙の世話で二人は同居の生活をする。
 この時、応挙が呉春に「御所方や御門跡に出入りを希望するなら、狩野派や写生の画に精通する必要がある」ということを諭したということが伝えられている(『古画備考』)。
 これらが一つの契機となっているのだろうか、明けて寛政元年(一七八九)五月、池田を引き払い、京都四条を本拠地としている。そして、その十二月、俳諧の方の夜半亭を引き継いだ、呉春の兄貴分の盟友几董が、四十九歳の若さで急逝してしまう。
 ここで、呉春は画業に専念し、応挙の門人たらんとするが、応挙は「共に学び、共に励むのみ」(『扶桑画人伝』)と、師というよりも同胞として呉春を迎え入れる。その応挙は、寛政七年(一七九五)に、その六十三年の生涯を閉じる。この応挙の死以後、呉春は四条派を樹立し、以後、応挙の円山派と併せ、円山・四条派として、京都画壇をリードしていくことになる。
 呉春が亡くなったのは、文化八年(一八一一、享年六十)で、城南大通寺に葬られたが、後に、大通寺が荒廃し、明治二十二年(一八八九)四条派の画人達によって、蕪村が眠る金福寺に改葬され、蕪村と呉春とは、時を隔てて、その金福寺で師弟関係を戻したかのように一緒に眠っている。

 上記の「筏師画賛=C」賛中の、蕪村の句関連は、次のような構成を取っている。

 筏士のみのやあらしの花衣
  これは先師夜半翁、三軒茶やにての句也 (後書き)
   (又)
  渡月橋にて (前書き)
 月光西にわたれば花影東に歩むかな
  日くれて家に帰るとて (前書き)
 石高な都は花のもどり足

 花をふみし草履も見へて朝ねかな
  花鳥のために身をは(ほ)ふらかし
  よろづにおこたりがち成(なる)ひとを
  あはれみたりとはし書(がき)あり  (後書き) 月渓写

 ここに出て来る四句は、月渓(呉春)に取っては、忘れ得ざる先師夜半翁(蕪村)の句ということになる。

 筏士のみのやあらしの花衣(天明三年=一七八三作とされているが、安永九年=一七八〇作)
 月光西にわたれば花影東に歩むかな(安永六年=一七七七作)
 石高(いしだか)な都は花のもどり足(安永九年=一七八〇作、石高=石高道のこと)
 花をふみし草履も見へて朝ねかな(安永五年=一七七六作)

 これらの四句に見える安永五年(一七七六)~安永九年(一七八〇)は、蕪村が最も輝いた時代で、同時に、蕪村と月渓(呉春)との師弟関係が最も張り詰めた年代であった。
 ここで繰り返すことになるが、この安永五年(一七七六)、蕪村六十一歳、そして、呉春二十五歳の時に、大雅(享年=五十二)が没した年で、この年に、蕪村の夜半亭門の総力を挙げての、金福寺境内の「芭蕉庵」が再建された年なのである。
 そして、この安永九年(一七八〇)、その翌年の四月、天明元年(一七八一)となり、この端境期の三月晦日に、月渓(呉春)は、最愛の妻・雛路を瀬戸内の海難事故失い、それに加えて、その年の八月に、これまた、最大の理解者であり支援者であった父が江戸で客死するという、二重の悲劇に見舞われる。
その時に、蕪村は月渓(呉春)に、蕪村門長老の川田田福(京都五条の呉服商、百池家と縁戚)の別舗のある摂津池田に転地療養させる。この池田の地は別名「呉服(くれは)の里」と言い、その「呉」と亡き愛妻の「春」そして師蕪村の雅号「春星」の「春」を取って、月渓は三十一歳の若さで剃髪して「呉春」と改号する。
 しかし、呉春と改号後も、蕪村の夜半亭を継承した几董在世中は、月渓の号も併称していた。几董の夜半亭継承は、天明六年(一七八六)で、上記の「筏師画賛=C」賛中の「これは先師夜半翁三軒茶やにての句也」からすると、几董が夜半亭三世を継承した以後に制作されたものなのかも知れない。
 そして、この「三軒茶や」は、嵐山三軒茶屋ということについては先に触れた。ここで、画人・松村月渓(呉春)の生涯を大きく分けると、安永・天明年間(一七七二~一七八八)の「月渓時代」と寛政・文化八年年間(一七八九~一八一一)の「呉春時代」と二大別することも一つの見方であろう。
 そして、この「月渓時代」は、蕪村との師弟関係にあった時代で、「呉春時代」は応挙門と深い関係にあった時代ということになろう。この「月渓時代」を「学習模索期・完成期前半」の時代とすると「呉春時代」は「完成期後半・大成期」という時代区分になるであろう。
 また、この「月渓時代」は、蕪村風の「漢画」と「俳画」が中心で、「呉春時代」は応挙風を加味しての「四条派画」(「円山派の平明で写実的な作風に俳諧的な洒脱みを加えた画風」)と明確に区別されることになる。
 上記の「筏師画賛=C」は、蕪村風の「俳画」そのもので、その賛の書蹟も全く蕪村の書蹟と瓜二つで、殆ど両者を区別することが出来ないと言って良かろう。その俳画の描写筆法も、これまた蕪村風そのもので、こういう師風そのものに成りきるという才能は、月渓(呉春)の天性的なものなのであろう。
 ここで、この月渓(呉春)の「筏師画賛=C」の元になっている、蕪村の「筏士自画賛=A(百池の箱書きあり・蕪村の署名はなく花押のみ)」を、『蕪村 その二つの旅』」図録
所収「81『いかだしの』の自画賛=A-2」のものを再掲して置きたい。

いかだし自画賛.jpg

蕪村筆「『いかだしの』自画賛=A-2」個人蔵 絹本墨画 掛幅装一軸四五・七×六一・二
(『蕪村 その二つの旅』図録=監修、佐々木丞平・佐々木正子、編集発行、朝日新聞社)

 なお、「都名所図会」(長谷川貞信・浮世絵)中の「嵐山三軒茶屋より眺望」を下記に掲載して置きたい。

三軒茶屋.jpg



     雨日嵐山にあそぶ
一八六 筏士の蓑やあらしの花衣          (『蕪村句集』)
     日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る
一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し  (『蕪村句集)

 この二句について、『蕪村書簡集(岩波文庫)』所収の「二四〇 無宛名(二月二十一日付)」の中に、「愚老(蕪村)生涯嵐山の句也とつぶやくことに候」と認められており、蕪村の自信作でもあり、また、蕪村の夜半亭社中でも、話題になっていた句のようである。なお、嵐山を流れる大堰川(桂川・保津川)は、当時の蕪村は、「大井(ゐ)川」と表記しているようである。

補記二 

 同じく、『蕪村書簡集(岩波文庫)』所収の「一一五 几董宛(安永九年三月七日付)」の中に、「筏士が蓑もあらしの花衣」の句形で、この句が出て来て、「帰路は杉月楼(さんげつろう)」に寄ったとの文言が見られる。先に紹介した、「三本樹(木)」の、「井筒楼」・「富永楼(雪楼)」の他に、この「杉月楼」も、蕪村行きつけの茶屋なのであろう。

補記三

 先に、「月渓筆画賛=C」(未見)の付記の「これは先師夜半翁、二軒茶やにての句也」(『蕪村全集一 発句』所収「2377=P515)に関連して、「『三本樹(木)』」の『井筒楼』」や『富永楼』ではなく、京都祇園社境内の二軒茶屋などのものと解したい」と記したが、この『月渓筆画賛=C』を、『呉春(逸翁美術館・昭和五七刊)』所収「100月渓筆筏師画賛」で確認することが出来た。それに因ると、「これは先師夜半翁、三軒茶やにての句也」と、祇園 の二軒茶屋ではなく、嵐山の三軒茶屋での作句というのが正解のようである。
 そして、その図柄は、先の蕪村筆の「筏士自画賛=A」に近いもので、冒頭の「筏師画賛=B」(出光美術館蔵)のものではないことも確認出来た(これらのことは、また別稿といたしたい)。

補記四

 さらに、『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「95『筏士の』の付言(天明三年)」(真蹟=月渓筆の蕪村画像に貼付。『蕪村名画譜』<昭和八年一月刊>所収)で、この句に関連しての、「『袋草紙』に伝える公任の歌よりも勝っていると、(蕪村が)俳諧自在を自負したもの」というものも確認出来た(これも、また、別稿で出来れば取り上げたい)。

補記五

「筏士自画賛=A」については、『蕪村全集六 絵画・遺墨』所収「110『いかだしの』自画賛」で確認できた。しかし、肝心の、この画賛に付随する、百池の「箱書き」などには、当然のことながら(編集方針・スペースなど)、一言も触れられてはいない。

補記六

 しかし、『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「『風蘿念仏』序(天明元年十月)」で、その「筏士自画賛=A」に関連する、「『大来堂発句集』(百池の発句集)』の天明三年(一七八三)三月二十三日に、『金福寺芭蕉庵、追善之俳諧興行(風蘿念仏)に、蕪村、桃睡、百池一座』」の、この「風蘿念仏」に関する、蕪村の「序」が全文収載されている(中興俳諧の二巨頭の京都の蕪村と名古屋の暁台との交遊などを背景にしたもの)。
 これらのことを背景とすると、次の二句とそれに関する「画賛」などは、兄弟句(姉妹編)と解して差し支えなかろう。

     雨日嵐山にあそぶ
一八六 筏士の蓑やあらしの花衣          (『蕪村句集』)
     日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る
一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し  (『蕪村句集』)

蕪村の花押(その七の一)

「老なりし」合作画賛.jpg

『蕪村全集六 絵画・遺墨』所収「『老なりし』月渓合作賛=D-2」

 ここに出て来る蕪村の賛は次の通りである(『蕪村全集五 書簡(講談社刊)』所収「七九 安永三年 日付なし 乙総宛」に因る)。

  老なりし鵜飼ことしは見えぬかな  紫狐庵(花押)

 すべての賛の絵をかく事、画者のこゝろえ(心得)有(ある)べき事也。右の句に此(この)画はとり合(あは)ず候。此画にて右の句のあはれ(哀れ)を失ひ、むげ(無下)のことにて候。か様(やう)句には、只(ただ)篝(かがり)などをたき(焼き)すてたる光景、しかる(然る)べく候。

  これは門人月渓に申(まうし)たることを、直ニ其(その)席にて書(かき)つけま  
  い(ゐ)らせ候。かゝる心得は万事にわたることにて候。
 乙ふさ(総)子                    蕪村

(『蕪村全集五 書簡(講談社刊)』所収「七九 安永三年 日付なし 乙総宛」)

 上記の「月渓画・蕪村賛(乙総宛て書簡)」は、冒頭の『蕪村全集六 絵画・遺墨』(『蕪村全集六 絵画・遺墨』所収「参考図二『老なりし』月渓合作賛=D-1」)の通りに収録されていて、そこでは「『老なりし』月渓合作賛=D-2」(一幅、一〇六・三×二八・二cm、 款、「紫狐庵」(花押)、印、なし 賛=上記と同じ)の、月渓と蕪村の合作画賛となっている。

 しかし、これは、単純な「月渓・蕪村合作画賛」なのではない。これは、蕪村の、夜半亭社中(ここでは、月渓と乙総の二人)への、賛にある「絵をかく事、画者のこゝろえ(心得)有(ある)べき事也」の、その「画者の心得」を具体的に示したものなのである。

 すなわち、この蕪村・月渓合作の、この画賛は、まず、蕪村が紫狐庵の署名で、「老なりし鵜飼ことしは見えぬかな」という句を書き、それに、蕪村常用の花押を書いて、この句に相応しい「絵をかく」ように、門人の月渓に命じたのである。
 何故、紫狐庵の署名にしたかというと、この句は、安永三年(一七七四)四月十七日の紫狐庵での句会のもので、その紫狐庵の庵号で署名したのであろう。
 その蕪村の指示を受け、月渓は大きな魚籠と数匹の鮎を描いて、師の蕪村に差し出したところ、「此の句に此の画はとり合はず(釣り合わない)、此の画にては此の句の哀れ(情趣)を失ふ、無下(甚だ拙い)也」と酷評され、「か様(やう=よう)の句には、只(あっさりと)鵜飼をする篝火などの光景が、然るべし(相応しい)」と諭され、画者の心得としてメモを取っておくように指導されたのである。
 後日、蕪村は、この蕪村・月渓合作の画賛の左上に、月渓に指導したことを書面に認め、その書簡付きの合作画賛を、但馬(兵庫県)出石の門人、乙総宛てに、送ったというのが、この合作画賛の背景ということになる。
 この乙総は、蕪村門の但馬の代表的な俳人、霞夫(芦田氏)の弟で、霞夫は、醸造業を営み、別号に馬圃・如々庵などと称した。この霞夫と乙総は、蕪村書簡にしばしば出て来る、蕪村と親しい俳人で且つ蕪村の支援者でもあった。

 この「書簡付き蕪村・月渓合作画賛=D」の賛中の「画者のこゝろえ(心得)」というのは、主として「俳画の心得」であって、この「俳画」は、蕪村の言葉ですると、「はいかい(俳諧)物の草画」ということになる。

 蕪村は、この「はいかい物之草画」に関しては、「凡(およそ)海内に並ぶ者覚(おぼえ)無之候」(天下無双の日本一である)と、画・俳両道を極めている蕪村ならではの自負に満ちた書簡を今に残している(安永五年八月十一日付け几董宛て書簡)。
 「俳画」という名称自体は、蕪村後の渡辺崋山の『俳画譜』(嘉永二年=一八一九刊)以後に用いられているようで、一般的には「俳句や俳文の賛がある絵」などを指している。

 さて、この「書簡付き蕪村・月渓合作画賛=D」で、蕪村が月渓や乙総に伝えようとしたのは、俳諧(連句)用語ですると、「余情付(よじょうづけ)」(前句《賛》の余韻・余情が付句《絵》)のそれと匂い合って、情感の交流が感じられるような付け方《賛に対する絵の描き方》)のような「賛と絵との有り様」を目指すべきであるということなのであろう。
 蕪村が俳諧の道に入ったのは、元文二年(一七賛七)、二十二歳の頃で、爾来、俳諧師としての修業は、画業に専念してからも、これを怠りにはせず、明和七年(一七七〇)、五十五歳の時に、夜半亭二世(夜半亭俳諧=江戸座の其角門の早野巴人を祖とする俳諧)を継承して、芭蕉の次の時代の中興俳諧の一方の雄なのである。
 まさに、「はいかい(俳諧)物之草画(大まかな筆づかいで簡略に描いた墨絵や淡彩画)」においては、「凡(およそ)海内に並ぶ者覚(おぼえ)無之候」(天下無双の日本一である)という蕪村の自負は、決して独り善がりのものではなく、いや、俳画というのは蕪村から始まると極言しても差し支えなかろう。
 この俳画第一人者の蕪村が、これはという門人の月渓や乙総に、その「俳画の心得」を伝授しようとしているのが、この「書簡付き蕪村・月渓合作画賛=D」なのである。
 中でも、蕪村の月渓への期待というのは、「此(この)月渓と申(まうす)者は至て篤実之君子にて、(略) 画は当時無双の妙手」(天明三年九月十四日付け士川宛て書簡)と、まさに、月渓は、蕪村の秘蔵子と言っても差し支えなかろう。
 蕪村だけではなく、蕪村没後に同胞として迎え入れた応挙も、「近畿の画家為すあるに足るものなし、只恐るべきは月渓といふ若者なり」と、月渓を高く評価しているのである(『呉春(逸翁美術館・昭和五七刊)』)。

 ここで、冒頭の「書簡付き蕪村・月渓合作画賛=D」に戻り、この月渓の「画(絵)」は、紫狐庵(蕪村)の賛の「老なりし鵜飼ことしは見えぬかな」の「句(発句)」に対して、大きな魚籠と数匹の鮎を描いて(俳諧の付け合いでは「物付(ものづけ)=言葉尻を捉える付け方」)、この「老なりし・鵜飼」の「老なりし」の、この句の主題に対する、何らの「余情」も感じられないというのが、蕪村の酷評した、その主たるものなのであろう。

 こういう蕪村の特訓を受けて、月渓の俳画というのは、見事に開花して行く。
次に掲げる蕪村の書簡(芭蕉の時雨の句に関する書簡)に付した呉春(月渓)の「窓辺の蕪村(像)」ほど、「憂愁なる詩人・嚢道人蕪村」その人の風姿を伝えるものを知らない。

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 「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨の句などに関する書簡)=『蕪村全集五 書簡』所収「口絵・書簡三五一」

蕪村の花押(その七の二)

蕪村像.jpg

「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨忌などに関する書簡)=『蕪村全集五 書簡』所収「口絵・書簡三五一」

 上記の「窓辺の蕪村(像)」の軸物は、上段が蕪村の書簡で、その書簡の下に、月渓(呉春)が「窓辺の宗匠頭巾の人物」を描いて、それを合作の軸物仕立てにしたものである。  
 この下段の月渓(呉春)の画の左下に、「なかばやぶれたれども夜半翁消そこ(消息=せうそこ)うたがひなし。むかしがほなるひとを写して真蹟の証とする 月渓 印 印 」と、月渓(呉春)の証文が記されている。

 上段の蕪村の書簡(天明元年か二年十月十三日、無宛名)は、次のとおりである。

   早速相達申度候(さっそくあひたっしまうしたくさうらふ)
 昨十二日は、湖柳会主にて洛東ばせを(芭蕉)菴にてはいかい(俳諧)有之候。扨
 もばせを庵山中の事故(ゆゑ)、百年も経(ふ)りたるごとく寂(さ)びまさり、殊勝な
 る事に候。どふ(う)ぞ御上京、御らん(覧)可被成(なさるべく)候。
  其日(そのひ)の句
 窓の人のむかし(昔)がほ(顔)なる時雨哉
  探題
  初雪 納豆汁 びわ(は)の花
 雪やけさ(今朝)小野の里人腰かけよ
  納豆、びは(枇杷)はわすれ(忘れ)候
 明日は真如堂丹楓(紅葉したカエデ)、佳棠、金篁など同携いたし候。又いかなる催(も
 よほし)二(に)や、無覚束(おぼつかなく)候。金篁只今にて平九が一旦那と相見え
 候。平九も甚(はなはだ)よろこび申(まうす)事に候。平九も毎々貴子をなつかしが
 り申候。いとま(暇)もあらば、ちよと立帰りニ(に)御安否御尋(たづね)申度(ま
 うしたく)候。しほらしき男にて。かしく かしく かしく

 この蕪村書簡に出てくる「湖柳・佳棠・金篁・平九」は蕪村門あるいは蕪村と親しい俳人達である。また、この書簡の冒頭の「昨十二日は」の「十二日」は、芭蕉の命日の、「十月(陰暦)十二日」を指しており、この芭蕉の命日は、「芭蕉忌・時雨忌・翁忌・桃青忌」と呼ばれ、俳諧興行では神聖なる初冬の季題(季語)となっている。

 この書簡は、蕪村の「窓の人のむかしがほなる時雨哉」を発句として、「はいかい(俳諧)有之候」と歌仙が巻かれたのであろう。この発句の「むかしがほ(昔顔)」は、当然のことながら、俳聖芭蕉その人の面影を宿しているということになる。

 世にふるは苦しきものを槙の屋にやすくも過ぐる初時雨 二条院讃岐 『新古今・冬』
 世にふるもさらに時雨のやどり哉           宗祇     連歌発句
 世にふるもさらに宗祇のやどり哉           芭蕉    『虚栗』

 この芭蕉の句は、天和三年(一六八三)、三十九歳の時のものである。この芭蕉の句には、宗祇の句の「時雨」が抜け落ちている。この談林俳諧の技法の「抜け」が、この句の俳諧化である。その換骨奪胎の知的操作の中に、新古今以来の「時雨の宿りの無常観」を詠出している。

 旅人と我が名呼ばれん初時雨   芭蕉 『笈の小文』

 貞享四年(一六八七)、芭蕉、四十四歳の句である。「笈の小文」の出立吟。時雨に濡れるとは詩的伝統の洗礼を受けることであり、そして、それは漂泊の詩人の系譜に自らを繋ぎとめる所作以外の何ものでもない。

 初時雨猿も小蓑を欲しげなり   芭蕉 『猿蓑』

 元禄二年(一六八九)、芭蕉、四十六歳の句。「蕉風の古今集」と称せられる、俳諧七部集の第五集『猿蓑』の巻頭の句である。この句を筆頭に、その『猿蓑』巻一の「冬」は十三句の蕉門の面々の句が続く。まさに、「猿蓑は新風の始め、時雨はこの集の眉目(美目)」なのである(『去来抄』)。

 芭蕉の「時雨」の発句は、生涯に十八句と決して多いものでないが、その殆どが芭蕉のエポック的な句であり、それが故に、「時雨忌」は「芭蕉忌」の別称の位置を占めることになる。

 楠の根を静(しづか)にぬらすしぐれ哉     蕪村 (明和五年・『蕪村句集』)
 時雨(しぐる)るや蓑買(かふ)人のまことより 蕪村 (明和七年・『蕪村句集』)
 時雨(しぐる)るや我も古人の夜に似たる    蕪村 (安永二年・『蕪村句集』)
 老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな   蕪村 (安永三年・大魯宛て書簡)
 半江(はんこう)の斜日片雲の時雨哉      蕪村 (天明二年・青似宛て書簡)

 蕪村の「時雨」の句は、六十七句が『蕪村全集一 発句』に収載されている。そして、それらの句の多くは、芭蕉の句に由来するものと解して差し支えなかろう。
 蕪村は、典型的な芭蕉崇拝者であり、安永三年(一七七四)八月に執筆した『芭蕉翁付合集』(序)で、「三日翁(芭蕉)の句を唱(とな)へざれば、口むばら(茨)を生ずべし」と、そのひたむきな芭蕉崇拝の念を記している。
 この蕪村の芭蕉崇拝の念は、安永五年(一七七六)、蕪村、六十一歳の時に、洛東金福寺内に芭蕉庵の再興という形で結実して来る。
 この冒頭の「「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨忌などに関する書簡)ですると、上段の『蕪村の書簡』の「窓の人のむかし(昔)がほ(顔)なる時雨哉」の「昔顔」は芭蕉の面影なのだが、下段の月渓(呉春)が描く「窓の人」は、芭蕉を偲んでいる蕪村その人なのである。
 そして、その「芭蕉を偲んでいる蕪村」は窓辺にあって、外を眺めている。その眺めているのは、「時雨」なのである。この「時雨」を、芭蕉の無季の句の「世にふるもさらに宗祇のやどり哉」の「抜け」(省略する・書かない・描かない)としているところに、「芭蕉→蕪村→月渓(呉春)」の、「漂泊の詩人」の系譜に連なる詩的伝統が息づいているのである。
 蕪村の俳画の大作にして傑作画は、「画・俳・書」の三位一体を見事に結実した『奥の細道屏風図』(「山形県立美術館」蔵など)・『奥の細道画巻』(「京都国立博物館」蔵など)を今に目にすることが出来るが、その蕪村俳画の伝統は、下記の「月渓筆 芭蕉幻住庵記画賛」(双幅 紙本墨画 各一二六×五二・七cm 逸翁美術館蔵 天明六年=一七九四作)で、その一端を見ることが出来る。

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「月渓筆 芭蕉幻住庵記画賛」(双幅 紙本墨画 各一二六×五二・七cm 逸翁美術館蔵 天明六年=一七九四作)=(『呉春(逸翁美術館・昭和五七刊)』所収)



蕪村の花押(その一~その四)

蕪村の花押

(その一)

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(書簡A)

 上記の書簡は、宝暦七年(一七五七)、蕪村、四十二歳時の、丹後の宮津(現・京都府宮津市)から京都の知友・三宅嘯山宛てに、丹後滞在中の近況を報じたものの後半の部分で、その文面は次のとおりである。

「俳諧も折々仕候。当地は東花坊が遺風に化し候て、みの・おはりなどの俳風にておもしろからず候。一両人巧者も在之候。(瓢箪図)先生、嘸老衰いたされ候半存候。宜被仰達可被下候。詩は折々仕候。帰京之節可及面談候。御家内宜奉願候。頓首 卯月六日 蕪村(花押) 嘯山公 」
(訳「俳諧も折々やっています。当地は各務支考の影響に染まっていて、美濃・尾張の俳風で面白くありません。一・二人巧者もおります。瓢箪先生(望月宋屋)、さぞかし、御齢を召されたことと思います。宜しくお伝え下さい。漢詩も時折作っています。京に帰りましたら早速お邪魔したいと思います。奥様によろしく。頓首 四月七日 蕪村 三宅嘯山公」)

 この書簡の宛名の三宅嘯山は、京で質商を営み、仁和寺や青蓮院宮の侍講をしていた。漢詩と中国白話(現代中国語)に通じた多才の人で、享保三年(一七一八)の生まれ、蕪村よりも二歳年下である。
蕉門俳人木節の子孫を娶ったのを機に俳諧を学び、蕪村の早野巴人門の兄弟子に当たる宋屋門に入り、後に点者(宗匠・指導者)の一人となっている。別号に葎亭など、その『俳諧古選』『俳諧新選』などの編著によって、京俳壇等に大きく貢献した一人である。
 蕪村と嘯山との出会いは、宝暦元年(一七五一)に蕪村が上京し、その秋の頃、宋屋と歌仙を巻いており(『杖の土(宋屋編)』)、その上京して間もない頃と思われる。爾来、この二人は、「錦繍の交はりにて常に席を同じうす」(『四季発句集(百池自筆)』)と肝胆相照らす知友の関係を結ぶこととなる。
 この書簡中の、(瓢箪図)先生こと、望月宋屋は、師(早野巴人)を同じくする画俳二道を歩む蕪村を高く評価しており、巴人没後の延享二年(一七四五)の奥羽行脚の際、その途次で結城に立ち寄り蕪村に会おうとしたが、蕪村が不在で出会いは叶わなかった。翌年の帰途に再び結城に立ち寄ったが、またしても、蕪村は不在で、江戸の増上寺辺りに居るということで、江戸でも探したが、そこでも二人の出会いはなかった。
 それから五年の後の二人の初めての出会いである。宝暦元年(一七五一)の蕪村上洛の大きな理由の一つは、この巴人門の最右翼の俳人宋屋を頼ってのものであったのであろう。
 宋屋は、蕪村(前号・宰鳥)について、その『杖の土』で次のように記している。

「宰鳥が日頃の文通ゆかしきに、結城・下館にてもたづね遭はず、赤鯉に聞くに、住所は増上寺の裏門とかや。馬に鞭して僕どもここかしこ求むるに終に尋ねず。甲斐なく芝明神を拝して品川へ出る。後に蕪村と変名し予が草庵へ尋ね登りて対顔年を重ねて花洛に遊ぶも因縁なりけらし。」
(訳「宰鳥(蕪村)の日頃の便りに心引かれるものがあり、結城・下館に行ったおり訪ねたが遭えず、赤鯉に聞いたところ、住所は増上寺の裏門とか。馬を走らせて下僕に捜させたが終に遭えなかった。止む無く、芝の大神宮に参拝し品川を後にした。後に、蕪村と名を改めて、私の草庵を訪ねて来て初めて対顔した。そのまま年を重ねて京都に遊歴しているのも何かの縁であろう。」)

 この宋屋の文面の「日頃の文通ゆかしきに」からして、巴人が在世中の頃から巴人と京都の巴人門との連絡役を蕪村が勤めていて、そんなことが、この両者を取り持つ機縁となっていたのであろう。また、「年を重ねて花洛に遊ぶ」ということは、当時の蕪村が京都に永住するのかどうかは不確かなことで、事実、上洛して三年足らずの、宝暦四年(一七五四)には丹後に赴き、この書簡を送る頃までの三年余を丹後に滞在している。  
 ここで、上記の嘯山宛ての書簡で注目すべき一つとして、蕪村と署名して、その後に、
蕪村の終生の花押となる、何やら、槌のような形をしたものが書かれていることである。
 この花押は、蕪村の十年余に及ぶ関東放浪時代には見られない。おそらく、この書簡が出された丹後時代から使い始めたもののように思われる。
蕪村の落款は、関東放浪時代は無款のものが多いが、「子漢・浪華四明・浪華長堤四明山人・霜蕪村」、印章は「四明山人・朝滄・渓漢仲」などで、これが丹後時代になると、落款は、主として、「朝滄(朝滄子・四明朝滄・洛東閑人朝滄子)」が用いられ、その他に、「嚢道人(囊道人蕪村)・魚君・孟冥」、印章は「朝滄・四明山人・囊道・馬秊」などが用いられている。
これらの落款・印章の「四明」は、比叡山の四明ヶ岳に因んでのもので、当時は蕪村の故郷の摂津(大阪)の毛馬の堤から比叡山が望めたということで、「浪華長堤」(毛馬長堤)と共に望郷の思いを託したものなのであろう。
 そして、この「朝滄」は、蕪村の師筋に当たる宝井其角の畏友・英一蝶(初号・朝湖、俳号・暁雲)の「狩野派風の町絵師」として活躍していた頃の号「朝湖」に由来するものなのであろう。
 宝暦元年(一七五一)に上洛して間もなく、蕪村は「嚢道人」という号を使い始める。丹後時代の大画面の屏風絵(十三点)中、六曲半双「田楽茶屋図」は、英一蝶流の町狩野系統の近世的な軽妙な風俗画として知られているが、落款は「嚢道人蕪村」、印章は「朝滄・四明山人」である。
 上記書簡中の花押は、「囊道人蕪村」の「蕪村」の「村」から作った花押という見解(『俳画の美(岡田利兵衛)』があり、この「囊」は、蕪村が上洛して「東山麓に卜居」していた「洛東東山の知恩院袋町」(池大雅の生家の所在地)の「袋」に因んでのものと、その見解に続けられている。
 この「蕪村」の「村」から作った花押という見解(岡田利兵衛)に対して、「槌」を図案化したものという見解(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)がある。この「槌」を図案化したという見解を裏付ける記述は見られないが、上洛前の寛延年間(一七四八~一七五一)、江戸在住の頃の無宛名(結城の早見桃彦か下館の中村風篁宛て)の書簡(書簡B)に、「槌」を描いたものがあり、それらと関係のある花押という理解なのかも知れない。
そもそも、蕪村が俳人そして画人(挿絵画家)として初めて世に登場するのは、元文三年(一七三八)、二十三歳時の絵俳書『卯月庭訓(豊島露月他編)』に於いてで、そこに「鎌倉誂物」と前書きのある「尼寺や十夜に届く鬢葛」の発句を記した自画賛が収められている。それは立て膝で手紙を読む洗い髪姿の女性像で、そこに「宰町自画」と、蕪村の最初期の号「宰町」で登場する。
この『卯月庭訓』の編者・豊島露月は、蕪村の師・早野巴人と親交のあった俳人の一人で、観世流謡師匠でもあり、その絵俳書の刊行は、享保七年(一七二二)の『俳度曲(はいどぶり)』から延享二年(一七四五)の『宝の槌』まで十一点に及んでいる。
その露月編の絵俳書シリーズの一番目を飾る『俳度曲』は、謡曲名を題として、それに画と句を配したもので、そのトップを飾るのは、今に浮世絵師として名高い鳥居清倍(きよすえ)の画に、蕉風俳諧復興運動の先駆けとなる『五色墨』のメンバーの一人・松木珪琳(けいりん)の蓮之(れんし)の号での句が添えられている。それに続く二番目の画は、英一蝶(二世か?一世英一蝶は蕪村の師筋に当たる其角の無二の知友)のもので、この一蝶画に、『続江戸筏』の編者の石川壺月の句が添えられている。
これらの画人の画には、落款又は花押が施されており、おそらく、蕪村の、槌を図案化したような花押は、この露月の絵俳書のシリーズと深く関係しているように思われる。  
ちなみに、蕪村が宰町の号で登場する『卯月庭訓』は、このシリーズの九番目にあたるもので、この蕪村の自画賛には花押は押されていない。この頃の蕪村(宰町)は全くのアマチュア画家で、落款や花押を施すような存在ではなかったのであろう。

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(書簡B)

ここで、上記の、寛延年間(一七四八~一七五一)、蕪村が江戸在住の頃の無宛名(結城の早見桃彦か下館の中村風篁宛て)の書簡(書簡B)の文面と訳を添えて置きたい。

「快晴に相成候。弥御壮栄奉祝候。誠に先夜はいろいろ相願候処、御深重之思辱仕合奉存候。何分宜敷奉候。然ば其節御約束之(槌の図)幷大黒天、旧年甲子夜子刻に相認候内、槌は多認候得共、大黒天は三四枚計御座候。御笑留可被下候。伊勢御下向は未に候哉。定て御用多と奉存候得共、御寸暇も御座候はば御光栄奉待候。今日大安日に候得ば、右之画為福差上候。楠公も一両日に出来仕候。先は右申上度、余は拝眉万々可申上候。早々結尾
二月廿二日  蕪村  二白 御存之義奉存候得共、先刻岡田兄御帰□□□ 」
(訳「快晴に相成りました。いよいよ御壮栄のこととお祝い申し上げます。誠に先夜は色々お願いをいたしましたところ、御深重なおぼしめしを頂き、かたじけなく有難うございました。今日は大安日ですので、右の画(槌)を福があるということで差し上げます。先ずは左様なことを申し上げ、その他お会いした時重々申し上げたいと存じます。では早々 二月廿二日 蕪村 追伸 御存知のこととは存じますが、先刻岡田兄御帰□□□) 

その二)


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(絵図A=『はなしあいて』所収「蕪村山水略図」)

 この「蕪村山水略図」は、『はなしあいて(宋是編)』下巻の冒頭の宋是(高井几圭)の「序」の次に掲載されているもので、「山が三つ中央にあり、その麓に木立と人家、その手前に一本の線による川が描かれている」、何とも単純な俳画の見本のような省筆画の極致という趣である。そして、真ん中の山の右端に、蕪村と署名し、その下に、蕪村の花押が書かれている。
 この『はなしあいて(噺相手)』は、宝暦七年(一七五七)、宋是(几圭)が六十九歳で行った文台開きと薙髪をかねて祝した記念の賀集で、几圭は京都の夜半亭門(巴人門)の宋屋と双璧をなす重鎮で、後に夜半亭二世となる蕪村の承継者、夜半亭三世几董の父である。
 宝暦元年(一七五一)、三十六歳の時に、蕪村は関東・東北歴行の生活に終止符を打ち上洛した。上洛した理由などについての直接的な記述はないが、寛保二年(一七四二)六月六日の宋阿(巴人)が没して、江戸の夜半亭一門は消滅し、その大半は馬場存義一門に吸収された(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)ことと大きく関係して来よう。
 そういう環境下にあって、京都の夜半亭一門は、望月宋屋と高井几圭を両翼として、宋阿(巴人)が京都に移住して当時そのままに健在であった。また、一時江戸に住んでいた「莫逆の友」の毛越(江戸在住時代の号は雪尾)など知友の多くが京都とその周辺を活動の拠点としていた。
 これらの京都の夜半亭一門並びにその影響下にある知友達のもとにあって、心機一転の再スタートを切りたいということが、蕪村上洛の大きな理由であったことであろう。これらのことについて、宝暦五年(一七五五)に刊行された、宋阿(巴人)十三回忌追善俳諧遺句集『夜半亭発句帖(雁宕ら編)』に寄せた蕪村の「跋」は次のとおりである。

「阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探て一羽烏といふ文作らんとせしもいたづらにして歴行十年の后、飄々として西に去んとする時、雁宕が離別の辞に曰、再会興宴の月に芋を喰事を期せず、倶に乾坤を吸べきと。(以下略)」
(訳「師の夜半亭宋阿(巴人)が亡くなった時、その夜半亭の空屋で、師の遺稿をまとめて一羽烏という遺稿集を作ろうとしたが、何もすることが出来ずに、ついつい関東・東北を歴行すること十年の後に、あてどなく西帰の上洛をしようとした際の、兄事する雁宕の離別の言葉は、「今度再開して宴を共にする時には、月を見て芋を喰らうような風雅のことではなく、お互いに、天地を賭しての勝負をしたことなどを話題にしたい」ということでした。)

 この蕪村の「跋」に出て来る、「雁宕が離別の辞」は、東西の夜半亭一門の実質上のまとめ役の、当時の雁宕の姿を如実に著わしている。雁宕は、後に、東日本に於ける俳壇の大勢を動かしている雪中庵(嵐雪系)三世を継いでいる大島蓼太に対し、江戸の夜半亭一門の、其角・巴人・存義に連なる江戸座(其角・沾徳系)の一角を代表して、延享二年(一七四五)に刊行された『江戸廿歌仙(延享二十歌仙)』)に端を発した長年に亘っての論争を展開する。
 こういう雁宕の俳諧一筋の精進に比して、蕪村の関心事は画(文人画・俳画等)と俳(俳諧)との二道で、その二道のうち、主たる関心事は画道にあり、俳諧はあくまでも余技的な従たるものというのが真相であろう。
 そして、蕪村が上洛をした真の狙いは、当時、京都に居を構え、文人画の先駆者の一人で、且つ、中国古典の教養を幅広く持ち、さらに、各務支考系の俳人としても名を馳せている彭城百川の膝下で、画人としての再スタートを期したいということにあったように理解できるのである。
 しかし、百川は、蕪村が上洛した宝暦元年(一七五一)に、当時舶載された中国画人を集大成した『元明画人考』を刊行し、さらに、多武峰談山神社の慈門院に一群の障壁画(国の重要文化財)を描き、それが最期の頂点のままにして、その翌年の八月二十五日に、その五十六年の生涯を閉じるのである。
 即ち、蕪村と百川とが、この宝暦元年(蕪村上洛=秋)から同二年八月(百川没)の間に、この両者の対面があったのかどうかは、甚だ曖昧模糊として居り、未だに謎のまた謎という状態である(否定的見解=『潁原退蔵著作集第十三巻』所収「蕪村と百川)」、肯定的見解=『蕪村の遠近法(清水孝之著)』所収「百川から蕪村へ」)。
 百川は、元禄十年(一六九七)、名古屋本町の薬種商八仙堂の生まれとされているが(婿養子ともいわれている)、その前半生は明らかではない。本姓は榊原、通称を土佐屋平八郎というが、自ら彭城を名乗った。名は真淵、字が百川、号に蓬洲、僊観、八僊、八仙堂。中国風に彭百川と称した。
 俳諧では各務支考に就き、俳号は、始め松角、後に昇角と号した。京都に出て活動を始めたのは、享保十三年(一七二八)、三十二歳の頃からで、その生涯は、伊勢・大坂・金沢・岡山・高知・長崎・大和など、画業を主とし、俳諧を従としての旅を重ね、その晩年は京都で過ごすものであった。
 百川は町人出身の職業画家で、自ら「売画自給」と称しており、同じく文人画の先駆者とされる祇園南海(紀州藩儒)や柳澤淇園(大和郡山藩士)の、語学・文学・学術・諸芸に長け、中国趣味の風雅の中で画道に精進するという、所謂、本来の士大夫による「文人画」の世界ではなく、その「文人画」を職業として描く「文人画派の絵画」の世界での創作活動であったということも言えよう(『文人画の鑑賞基礎知識(佐々木丞平・佐々木正子著)』)。
 日本文人画を大成したとされる池大雅も与謝蕪村も、その出身からすると町人出身の百川と同じような環境下にあっての「文人画派の画家」であり、この二人のうち、大雅は、文人画の筆法や画面構成のスタイルを独自なものとして大成したとするならば、蕪村は詩画一体を目指すという文人画の精神を実現した、まさに画俳二道を究めた達人ということになろう。
 そして、その蕪村が目指した画俳二道を先駆的に歩んでいる、その人こそ百川ということになる。そして、蕪村が上洛した宝暦元年(一七五一)には、百川は京都に在住しており、当時、蕪村より七歳年下の大雅は、『池大雅家譜(蒹葭堂竹居編)』によると百川と面識があり、延享二年(一七四五)には、蕪村よりも三歳年下の建部綾足(当時の号・葛鼠)が、百川を訪ねて上洛し、「百川に俳諧ばかりでなく生きる姿勢の上でも大きく影響」を受け、俳諧を百川の指導により、野坡門から伊勢派に転向したという(『彩の人建部彩足(玉城司著)』)。
 綾足も、俳人・絵師・小説家・国学者等々多才の人であったが、百川は、「詩・文・書・画・俳諧」(『本朝八仙集』獅子房=支考序)に亘る「和漢に多芸の優人」(『和漢文操』二見文台絵序)と、そのマルチニストぶりは、蕉門随一の論客家の獅子房こと支考が、後に、両者は諍いを起こすことになるが、絶賛している。
 その本業である絵画のレパートリーも、漢画(中国の「宋・元・明」の山水・花鳥・人物等多彩に亘る絵画の摂取)、和画(狩野派・土佐派・英派等)、和洋化(長崎風=黄檗派・南蘋派・長崎版画等の摂取、その和洋化)、俳画(詩書画一体の俳画の先駆的な創作)、挿絵(俳書・絵俳書に描かれた絵)、俳書の装画などのデザイン(絵文字・扉絵など俳書のデザインと編纂)など多岐にわたっている。
 この百川の多岐・多様な世界について、「自己の創造に必要なものは何でも画嚢に取り入れてしまう」、その「雑食性」こそ、百川の大きな特色であるとしている(『知られざる南画家百川(名古屋市博物館編)』所収「百川と初期南画(河野元昭稿)」)。
 まさに、この百川の「雑食性」とその絵画のレパートリーの多岐性の世界は、まさに、蕪村の世界と軌を一にするものと言って差し支えなかろう。そして、百川の先駆的な土台の上に立って、その未完・未消化の世界を完成した人こそ、それが蕪村であったという思いを深くする。

さて、冒頭に掲げた『はなしあいて』所収の「蕪村山水略図」(絵図A)は、これは上記のレパートリーの「挿絵」の世界のものなのであるが、このシンプル化の極致のような省筆画の世界の先駆的な試みは、百川が既に様々に実践して居り、蕪村は、その百川の省筆の挿絵から多大な示唆を受けて、それをアレンジしていると言っても過言でなかろう(清水『前掲書』・「国文学(1996/12 41巻14号)」所収「挿絵画家蕪村(雲末末雄稿)」、この「挿絵画家蕪村」の中で、次の絵図B・Cとの類似性を指摘している)。

絵図B.png

(絵図B=「百川・杜鵑図)        

絵図C.png

(絵図C=「百川・旭日雪景図」)

 この絵図B=「百川・杜鵑図」と絵図C=「百川・旭日雪景図」は『俳諧節文集(何尾亭童平編・享保十八年=一七三五)』所収で百川の署名はなされていないが、その扉文字や「花鳥風月」のデザイン文字が百川のものであり、この絵図(A・B)は、百川作であることは間違いないとされている(雲英『前掲書』・田中『前掲書』)。
 ここで、改めて、上記絵図Aの「蕪村山水図」は、宝暦七年(一七五七)の、蕪村、四十二歳の時の作で、百川の作とされている、上記B「杜鵑図」と上記C「旭日雪景図」は、享保十八年(一七三三)、百川、三十七歳の作である。
 百川は、享保十四年(一七二九)に、『俳諧ながら川(嘯鳥舎有琴編)』に、「四季鵜飼図」の四枚の挿絵を載せているが、その「春図」(絵図D)と「秋図」(絵図E)は次のとおりで、
いかに、「杜鵑図」(絵図B)・「旭日雪景図」(絵図C)が、単純化・省筆化されているかが、感知される。

絵図D.png

(絵図D=百川・春図)      

絵図E.png

(絵図E=百川・秋図)

 先に触れた、蕪村が俳人そして画人(挿絵画家)として初めて世に登場する、元文三年(一七三八)、二十三歳時の絵俳書『卯月庭訓(豊島露月他編)』に掲載されている、「鎌倉誂物」(絵図F)と冒頭に掲げた、宝暦七年(一七五七)の、蕪村四十二歳の時の「蕪村山水図」(絵図A)とを比較すると、いかに、蕪村が百川から多くのものを摂取して行ったかの、その一端が明らかとなって来る。
 そして、この冒頭の「蕪村山水図」(絵図A)の署名と花押が、この山水図の絵柄の一部を構成していて、その署名は木立、そして、花押は人家のような趣を呈しているかが明瞭となって来る。

絵図F.png

   (絵図F=宰町(蕪村)自画賛・鎌倉誂物)

蕪村の花押(その三)

蕪村静御前.jpg

       (絵図G=蕪村筆「静御前図自画賛」)

 2015年3月18日~5月10日までサントリー美術館で開催された「生誕三百年同い年の天才絵師 若冲と蕪村」(以下『若冲と蕪村展図録』)で出品されたものの一つである。その「作品解説(21)」は次のとおりである。

「 与謝蕪村筆 紙本墨画 一幅 江戸時代 十八世紀 三二・一×四一・一
 立烏帽子を被って、からだの前にもつ女性を簡単な筆づかいで描く。この女性は、兄頼朝と対立した源義経とともに雪の舞う吉野を旅した静御前の旅姿でる。画面上の空白に三行にわたって大きな字で「雪の日やしづかといへる白拍子」と書かれている。静御前を暗示する「しづか」を発句のなかに詠むことで、この女性が静御前であることを暗示しているところは、蕪村の俳画としては説明的である。しかし、「白拍子」と体言止めにすることで、この後義経と別れたあと捕えられ、頼朝の前で踊ることになる静の運命を暗示させる点は、晩年の俳画の名品に通底している。画面左に花押があり、印章は押されていない。丹後地方の旧家に伝わっており、確認できる蕪村の俳画ではもっとも早い肉筆の作品。 」

 蕪村の丹後滞在は、宝暦四年(一七五四)の三十九歳から宝暦七年(一七五七)の四十一歳の、凡そ三年間ということになる。この丹後時代は、蕪村は多くの絵を残しているが、特に注目すべきは屏風絵で、六曲一双・六曲半双などの大作が十点以上も今に遺っている。
このうち、和画系統のものは、「静舞図」(六曲半双、落款「洛東閑人朝滄子描)、「田楽茶屋図」(六曲半双、落款「囊道人蕪村」)などで、漢画系統のものが圧倒的に多い。
 この「静舞図」は、画面の右に、静と侍者、左に、鼓を打つ工藤祐経、笛を吹く僧形の男、大拍子を扇子で打つ畠山重忠の、五人の人物が向かい合う構図である。小川破笠など大和絵に接近した江戸狩野派の影響を色濃く宿しているという(『蕪村 その二つ旅図録(朝日新聞社)』)。この静の緋袴など、関東歴行時代(結城時代)に下館で描いた「追羽根図」(杉戸絵四面、無落款)と同一傾向の作品であろう。
 冒頭に掲げた「静御前自画賛」(絵図G)は、立烏帽子を被っての旅姿の静御前で、同じ丹後時代の作でも、「静舞図」とは異質の世界のものである。どちらかというと、蕪村最初期(宰町時代)の、刊本の挿絵「宰町(蕪村)自画賛・鎌倉誂物」(絵図G)の女性像(目・鼻・口等)と驚くほど類似している。
 この「静御前自画賛」(絵図G)は、淡彩による丁寧の描写など、「静舞図」よりも、英一蝶の影響が指摘されている、次の「田楽茶屋図屏風」(絵図F)などと同一系統のものと思われる。

田楽茶屋図屏風A.jpg

        (絵図F=蕪村筆「田楽茶屋図屏風」)

 『若冲と蕪村展図録』の「田楽茶屋図屏風」・「作品解説(23)」は、次のとおりである。

「与謝蕪村筆 紙本墨画淡彩 六曲一双 江戸時代 十八世紀 一二八・〇×二八八・六
蕪村の丹後時代を代表する作品。茶屋の店先と、その前を往来する人々を描く。本図の人物描写については、元禄時代を中心に活躍した絵師・英一蝶(一六五二~一七二四)や大津絵からの影響が指摘されてきたが、具体的には、英一蝶筆「故事人物図巻」のうち「田楽を買い食いする奴たち」(リンデン民族博物館)のなかに、本図の田楽を焼く女、および床几に座り田楽を頬張る男と同じポーズをとる人物が認められる。「故事人物図巻」は一蝶が弟子の教育のために制作した絵手本であり、蕪村がこのような絵手本のひとつか、あるいは英派の弟子が描いた模本などを目にし、図様に取り入れたと考えられる。また、画面右端で扇を振る男については、一蝶筆「田園風俗図屏風」(フリーア美術館)に似た人物が描かれており、この一蝶の屏風を参考にした彭城百川の「田植図」(東京国立博物館)が残っている。蕪村は「天橋立図」(作品27)の賛において、自らを「嚢道人蕪村」と称し、絵画・俳諧の先達である百川について言及しており、同じ「嚢道人蕪村」の署名を記す本屏風の制作過程においても「田植図」のような百川画を意識された可能性がある。一方、本図の図様については、大岡春卜(1680~1763)『和漢名画苑』(寛延三年=一七五〇刊)の「土佐光純筆 ぎおん会」図を参照としたとする分析があり(尾形仂『蕪村の世界』岩波書店、一九九三年)、烏帽子や鎧など、仮装的な扮装の人物が見られることから、祭礼後の場面を描いたとも推測されている。樹木や人物を描く線はまだ初々しいが、淡彩による丁寧な施彩や、人々の豊かな表情など、蕪村が作品と真摯に向き合っている様子が見て取れる。なお、「蕪村」の署名は主に俳画に用いられたもので、本図に蕪村の俳画の萌芽を見る見解がある。印章は「朝滄」(白文方印)、「四明山人」(朱文方印)。」

 この「作品解説(23)」で注目すべきことは、蕪村のみならず百川もまた、英一蝶の影響を色濃く受けているということである。ここで紹介されている、百川の「田植図」(東京国立博物館)は、次のとおりである。

百川・田植図b.jpg

          (絵図G=百川筆「田植図(部分図)」)

 この百川の「田植図」は、蕪村に大きな影響を与えた作品のように思われる。それは、先に紹介した、高井几圭(前号=宋是)の文台開きと薙髪を兼ねて祝した記念集『はなしあいて』(宋是=几圭編集)に、蕪村は挿絵一葉(絵図A)と発句を二句寄せている。
その挿絵(絵図A)は、百川の省筆画(草画)の影響を大きく受けていることについては、先に触れた。ここで、その発句の二句について触れて置きたい。

 離(さ)別(られ)れたる身を踏(ふん)込(ごん)で田植哉    蕪村(『はなしあいて(下)』)
 とかくして一(いち)把(は)に折(おり)ぬ女郎花        ゝ (同) 

 この蕪村の発句二句の前に「夏秋」とあり、一句目夏の句、二句目は秋の句ということになろう。しかし、この二句とも、嘱目の叙景句ではなく、挨拶性と虚構性の強い人事句ということになろう。
 挨拶性と虚構性の強い人事句というのは、生涯に亘って蕪村が最も得意とした領域でもあった。挨拶性というのは、他(人・所・物等)に対する問い掛けであり、虚構性というのは、現実の体験でないものを、あたかも自分の実体験の如くに表現するということを意味する。
上記の二句ですると、一句目の「田植」の句は、当時の蕪村の最も多くの関心事であった、画・俳二道の先達者、百川とその傑作画「田植図」に寄せる蕪村の思い入れの表明である。そして、その思い入れ(挨拶性)が、「田植」(季題)・「田植え女」・「離(さ)別(られ)れたる身」(夫に離縁された身)・それをさらに「踏(ふん)込(ごん)で」という口語的な表現で具象化して、全体として一篇のドラマ(物語=虚構性の創作)として結実することになる。
 二句目の「女郎花」の句は、能楽の太鼓方几圭と能楽の演目「女郎花」に対する挨拶(問い掛け)と、几圭・蕪村の共通の俳諧の師である夜半亭宋阿(巴人)の「女郎花折や観世が駕のうち」(『夜半亭発句帖』)の延長線上のドラマ(物語=虚構性の創作)化ということになろう。
 ここでは、百川の「田植図」が、その背景となっているような一句目に注目をしたいのである。
この百川の「田植図」に触発されたような、この一句は、その「実」と「虚」との「虚構性」の彼方に、蕪村の「実」たる原風景の一端(丹後の生まれとの口碑のある薄幸な亡母のイメージなど)を物語っているような、そんな雰囲気が、後の、蕪村六十二歳の時の回想録『新花つみ』(安永六年=一七七六刊)の、異常なまでの、次の「田植」の句に関連させると、浮かび上がって来る・

 さみだれの田ごとの闇に成(なり)にけり         (『新花つみ』発句一〇五)
 水深き深田に苗(なえ)のみどりかな           (『同』同一二六)
 けふはとて娵(よめ)も出(いで)たつ田植哉        (『同』同一二七)
 泊りがけの伯母(おば)もむれつゝ田うゑ哉        (『同』同一二八)
 をそ(獺)の住む水も田に引ク早苗(さなえ)哉      (『同』同一二九)
 参(み)河(かわ)(三河)なる八橋(やばし)もちかき田植かな(『同』同一三〇)
 午(うま)の貝田うた音なく成(なり)にけり        (『同』同一三二)
 をそ(獺)を打(うち)し翁(おきな)を誘ふ田うゑかな   (『同』同一三三)
 鯰(なまず)得てもどる田植の男哉            (『同』同一三五)
葉ざくらの下陰(したかげ)たどる田草取(とり)     (『同』同一三六)
早乙女やつげのをぐしはさゝで来(こ)し       (『同』同一三七)

 もとより、これらの、安永六年(一七七六)、蕪村六十二歳時の『新花つみ』所収の句は、其角の亡母追善集『花摘』を念頭においての、蕪村の亡母五十回忌追善のために発起されたものとされている(『大磯・前掲書』)。
 そもそも、蕪村の母の丹後出身説は、次の二つの説に由来されている。その一は、京都金福寺に建立されている「蕪村翁碑」の「幼養於母氏生家(幼クシテ母氏の生家ニ養ワル)、生家在丹後国与謝邨(生家ハ丹後国与謝邨ニ在リ)、因更謝(因ッテ謝と更タム)」の記述に因るものである。
 その二は、現在の京都府与謝郡加悦町地方の口碑に因るもので、その口碑は、「蕪村の母は丹後国与謝郡加悦の人で、名はげんといい、摂津国東成郡毛馬村(現在の大阪市都島区毛馬町)に奉公に出たが、主人の子を孕んで帰郷し蕪村を出産。その後蕪村を連れて宮津で再婚したが、蕪村は養父と衝突し、与謝村の真言宗の古刹、施薬寺の小僧となった。その母の墓が加悦町に現存している」というものである(『蕪村の丹後時代(谷口謙著)』)。
 この二つの説ともこれを裏付ける確証に乏しく、蕪村自身固く口を閉ざしているので、
どうにも謎のままであるというのが実状であろう。
しかし、上記の『新花つみ』に収載されている、蕪村の吐息のような、「田植」「早乙女」に関する句に接すると、その出生地は、蕪村自身が書簡に認めている「馬堤は毛馬塘(づつみ)也。即余が故園也」(安永六年二月二十三日付柳女・賀瑞宛書簡)の、大阪の淀川近郊の毛馬村としても、その母のイメージは丹後の与謝地方の口碑などと深い関わりがあるように思われて来る。
 そして、これらの『新花つみ』に収載されている「田植」「早乙女」の句の、はるか以前の、丹後宮津から帰洛した翌年の宝暦八年(一七五八)に出版された『はなしあいて』所収の上掲の句、「離別れたる身を踏込で田植哉」は、蕪村の心中に、この薄幸な亡母のイメージが深く宿っていたということを、どうしても拭い去ることが出来ないのである。
 ここで、改めて、冒頭の「静御前図自画賛」(絵図G)を見てみると、この「静御前」は、『平家物語』・『義経記』などに登場する悲劇のヒロインで、義経の子を宿しつつ、その義経討伐の令を下す兄・頼朝の面前で、鶴岡八幡宮の舞を奉ずるという伝承が、同時の頃に描かれた「静舞図」(紙本着色・六曲屏風一隻)である。
 この「静御前図自画賛」(絵図G)は、立烏帽子の旅姿で、その左端に、署名もなく、蕪村独特の「槌」又は「経巻」のような花押が描かれ、その花押の方に、静御前の視線が注がれているのは、静御前の将来を暗示しているような、そんな趣で無くもない。
 と同時に、この悲劇のヒロインの静御前に関する伝承は、上記の蕪村の母に関する口承と、これまた二重写しになることは、どうにも、避けられないような、そんなことも暗示しているように思えるのである。

蕪村の花押(その四)

蕪村 天橋立図.png

(絵図H=蕪村筆「天橋立図」)

 『若冲と蕪村展図録』のの「天橋立図」の「作品解説(27)」は、次のとおりである。

[ 与謝蕪村筆 紙本墨画 一幅 江戸時代 宝暦七年(一七五七) 八五・八×二七・八

画面上部に記された長文の賛によって、蕪村が宝暦四年(一七五四)に訪れ滞在していた丹後を、宝暦七年(一七五七)九月にいよいよ離れるにあたり、宮津の閑雲山真照寺で制作したことが判明する。真照寺には丹後滞在中に蕪村と親しく交流していた鷺十(一七一五~九〇)がおり、俳友でもあった彼のために揮毫されたのであろう。絵は、砂洲の上に松林が並ぶ簡略なもので、幅の広い刷毛を用いて一気に描かれた淡墨の砂洲の上に、淡墨で松林の幹を並べ、淡墨でリズミカルに松の葉叢を描いている。あたかも天橋立の一部を切り取って拡大したかのような風情である。
 上記の賛では、文人画家として俳諧師としても蕪村の先達であり、丹後にも滞在したことのある彭城百川と自らを対比させている。とくに百川の画風を「明風を慕ふ」と評するのに対し、自らの画風を「漢流に擬す」と位置づけている点が注目されよう。

  八僊観百川丹青をこのむで明風を慕ふ。嚢道人蕪村、画図をもてあそんで漢流に擬す。はた俳諧に遊むでともに蕉翁より糸ひきて、彼ハ蓮ニに出て蓮ニによらず。我は晋子にくミして晋子にならハず、されや竿頭に一歩すゝめて、落る処ハまゝの川なるべし。又俳諧に名あらむことをもとめざるも、同じおもむきなり鳧(けり)。されば百川いにしころ、この地にあそべる帰京の吟に、
はしだてを先にふらせて行秋ぞ
 わが今留別の句に、
せきれいの尾やはしだてをあと荷物
 かれは橋立を前駈して、六里の松の肩を揃へて平安の西にふりこみ、われははしだてを殿騎として洛城の東にかへる。ともに此道の酋長にして、花やかなりし行過ならずや。
  丁丑九月嚢道人蕪村書於閑雲洞中 印章「馬孛(バハイ)」(白文方印)、「四明山人」(白文方印)]

 長文の賛の簡単な訳と語注を付して置きたい。

(訳)八僊観こと彭城百川は彩色画を好んで、明代の中国画を模範としている。嚢道人こと与謝蕪村は、特定の流派にこだわらず広く絵画を愛して中国画全般から学んでいる。また、共に俳諧を嗜み、芭蕉門に連なるが、百川は支考門から出て美濃派に止まっていない。
同様に、私こと蕪村も其角門であるが其角に全面的に加担はしていない。だから、二人ともさらに前向きに向上工夫を重ねること旨とし、その結末がどうなろうとかの頓着はしていない。また、その俳諧の世界で名を上げようとも思ってはいないことも、二人は全く同じ趣なのである。
 ということで、百川がだいぶ前のことだが、この丹後の地に遊歴して帰京する時に、次の一句を残している。
 はしだてを先にふられて行秋ぞ(海中に長く突き出ている天の橋立を先触れとして、秋闌ける丹後を後にして京に帰っていくことよ)
 この百川の句を踏まえて私の留別の句は次のとおりである。
 せきれいの尾やはしだてをあと荷物(天の橋立名物の鶺鴒が長い尾を振って別れを惜しんでいる。この地を今去るに当たって、振り分けた荷物のように天の橋立の鶺鴒を名残り惜しみつつ、京に帰って行くことよ)
 これらの句のように、百川は、天の橋立を先駆けとして、その六里の松に肩を並べ馬で
京の西へと向かうが、蕪村は、その天の橋立を後にしながら、京の東へと向かう。共に、
これからの中国画、即ち、文人画の先頭に立ちたく、さながら、百川と蕪村との華やかな
の道行き道中ということではなかろうか。
 丁丑(宝暦七年)九月 嚢道人蕪村書ス於閑雲洞中

(語注) ○「蓮二」は支考、「晋子」は其角の別号。
○「丹青」は赤と青で彩色画。「画図」は図柄。
○「漢流」は和画に対しての中国画。
○「竿頭に一歩」は禅語でさらに向上工夫して前進すること。
○「まゝの川」は儘の川で自然の流れ。
○「留別」は旅立つ人が残る人に告げる別れ。
○「前駈」は前に駈けること。
○「殿騎」は殿(しんがり)を駆けること。
○「此道の酋長」は未開地扱いの文人画の首領の意。

 この長文の賛は、蕪村が百川について記した文献的にも貴重なもので、蕪村が深く百川に傾倒していたことが如実に示されている。また、この落款の年月日から、蕪村が丹後を去ったのが、宝暦七年(一七五二)、四十二歳の時であったことが明らかとなって来る。
 蕪村が、江戸から京都に上洛したのは宝暦元年(一七五一)、そして、百川が没したのは翌年の宝暦二年(一七五二)八月十五日のことで、両者の出会いがあったのかどうかは、その一年間という短い期間に於いてである。
 そして、その百川が亡くなると、嘗て百川が遊歴した丹後の宮津へと赴くのが、宝暦四年(一七五四)のことで、蕪村の丹後時代というのは、足掛け四年ということになる。
 ここで、この賛文中の、百川が「平安の西にふりこみ」は、百川が、京の「賀茂川以西に住んでいた晩年の八僊観の住居」を指し、蕪村の「洛城の東」は、京の「東山の僧房住まいであったと覚しい」住居を指し、蕪村は百川の住所を知っていて、生前の百川と蕪村とは面識があったという見解がある(『蕪村の遠近法(清水孝之著)所収「百川から蕪村へ」)。
 確かに、蕪村が関東での十五年余に及ぶ歴行の生活に終止符を打って上洛した大きな理由の一つに、蕪村が理想としていた画と俳との二道に於いて、その頂点に位置しているとも思われる百川への思慕があったことは厳然たる事実であろう。
 そして、蕪村の親しき交遊関係にある、亡き師の夜半亭宋阿(早野巴人)に連なる、京都俳壇の一角を担っている、宋屋・几圭等との関係に於いて、さらに、百川(前号=松角・昇角)と支考門を同じくする渡辺雲裡坊(前号=杉夫、蕪村が上洛する前年に義仲寺に無名庵の五世となり、芭蕉の幻住庵を再興している)との関係からして、蕪村と百川との出会いというのは、それが、直接的な裏付けるものがないとしても、それを否定的に解する見解よりも、上記の「生前に百川と蕪村との面識があった」という見解(清水・前掲書)を是といたしたい。
 しかし、この賛における「平安の西」そて「洛城の東」というのは、単に、平安・洛城(京都)の「西と東」とを意味するのではなく、この百川の「平安の西にふりこみ」というのは、「「平安(京都)に『西せり』(「西方浄土」に赴く)」の意と、そして、この蕪村の「洛城の東にかへる」の「洛城」は、蕪村が私淑して止まない唐詩人の李白「春夜洛城聞笛(春夜洛城ニ笛ヲ聞ク)」の、次の七言絶句が背景にあると解したい。

 誰家玉笛暗飛声 (誰ガ家ノ玉笛ゾ 暗ニ声ヲ飛バス)
 散入春風満洛城 (散ジテ春風ニ入リテ 洛城ニ満ツ)
 此夜曲中聞折柳 (此ノ夜曲中 折柳ヲ聞ク)
 何人不起故園情 (何人カ 故園ノ情ヲ起コサザラン)

 この四句目の「折柳」とは、別離の曲であり、この五句目の「故園」とは生まれ故郷を指す。この一句目の「誰家」は、落款にある「於閑雲洞中」を指し、そして、その二句目の「洛城」は、李白の詩では「洛陽の街」を指すが、ここでは「京都の街」を指すのであろう。そして、その背後には、五句目の「故園」(生まれ故郷)を利かしているように解したい。
 その上で、この「天橋立」の落款の下に押印されている印章(款印)、「馬孛(バハイ」(白文方印)、「四明山人(シメイサンジン)」(白文方印)に注目したい。この「四明山人」の「四明」は、「四明朝滄」とか、しばしば用いられるもので、比叡山の二峰の一つ四明岳に由来があるとされている。そして、安永六年(一七七六)の蕪村の傑作俳詩「春風馬堤曲」に関連させて、蕪村の生まれ故郷の「大阪も淀川河口に近い摂津国東成郡毛馬村(現、大阪市都島区毛馬街)」からは「遠く比叡山(四明山)の姿を仰ぎ見られたことだろう」(『蕪村の世界(尾形仂著)所収「蕪村の自画像」)とされている、その「比叡山(四明山)」ということになろう。
 とすると、「馬孛(バハイ)」の「馬」は、蕪村の生まれ故郷の「毛馬村」の「馬」に由来するものなのではなかろうか。事実、先に紹介した、宝暦八年(一七五八)の几圭薙髪記念集『はなしあいて』に、挿絵一葉、発句二句、三吟百韻(鈳丈・几圭・蕪村)が収録されている頃(その前年)、「馬塘趙居」の落款が用いられ、この「馬塘」は、毛馬堤に由来がある(『田中・前掲書』)。
なお、この「馬孛(バハイ)」の款印を「馬秊(バネン)」としているものがあるが(『田中・前掲書』)、下記の「印譜2」(『特別展没後二百年記念与謝蕪村名作展(大和文華館編集)などからして、「馬孛(バハイ)」と解すべきであろう。
 そして、この「馬孛(バハイ)」の「孛」は、「孛星(ハイセイ)=ほうきぼし、この星があらわれるのは、乱のおこる前兆とされた」に由来があり、「草木の茂る」の意味があるという(『漢字源』など)。
 とすると、「馬孛(バハイ)」とは、「摂津東成毛馬」の出身の「孛星(ほうき星)=乱を起こす画人」の意や、生まれ故郷の「摂津東成毛馬」は「草木が茂る」、荒れ果てた「蕪村」と同意義の「馬孛」のようにも解せられる。しかし、この号(款印)は、この「天橋立図」以外に、その例を見ない。
 そして、この「孛星(ほうき星)」に代わって、宝暦十年(一七六〇)の頃から「長庚(チョウコウ・ゆうづつ=宵の明星=金星)」という落款が用いられる。この「長庚(金星)」は、しばしば「春星」と併用して用いられ、「長庚・春星」時代を現出する。ちなみに、「蕪村忌」のことを「春星忌」(冬の季語、陰暦十二月二十五日の蕪村忌と同じ)とも言う。
 この「春星」は、「長庚」の縁語との見解があるが(『俳文学と漢文学(仁枝忠著)』所収「蕪村雅号考」)、春の「長庚(金星)」を含め、春の「孛星(ほうき星)」「子漢(蕪村の号=子の刻の天漢・長漢・銀漢=天の川)等の、季題の「星月夜」の「秋星(シュンセイ)=秋の星」ならず「春星(シュンセイ)=春の星」のもじりとも解せられる。
 と同時に、この「春星」は、上記の李白の「春夜洛城聞笛(春夜洛城に笛を聞く)」の「春夜」に輝いている「星」(太白星=長庚=金星)と響き合っているようにも思えるのである。
というのは、この七言絶句(四行詩)の作者・李白の生母は、太白(金星)を夢見て李白を懐妊したといわれ(「草堂集序」)、その字名(通称)は「太白=金星」で、蕪村の号(款印名)の「長庚=金星」と同じなのである。そして、その「春の長庚(金星)」を「春星」と縁語的に解しても差し支えなかろう。

 ここで、「謝長庚」「謝春星」、その「長庚・春星」に次いで、安永七年(一七七八)、蕪村、六十三歳の最晩年に近い頃から用いられる「謝寅」の「謝」は、「与謝」という姓の一字を省略したものとみて間違いあるまい(『田中・前掲書)。
 すなわち、上掲の「天橋立」を創作して丹後を後にした宝暦七年(一七五七)、その翌年(宝暦八年=一七五八、几圭薙髪賀集『はなしあいて』を刊行)の、その翌々年(宝暦十年=一七三〇、雲裡坊に筑紫行きを誘われるが、同行せず、この頃結婚し還俗したと思われる)の頃までに、蕪村は、出家していた「釈蕪村」から、以後の姓名となる「与謝蕪村」を称したということになろう。
その上で、この「与謝」の一字の姓の中国風の「謝」は、中国の文人(詩人・画人等)に多く見られる「謝」の姓だが、これまた、蕪村の脳裏には、李白の、「秋登宣城謝脁北楼(秋宣城ノ謝脁北楼ニ登ル)」や「宣州謝脁楼餞別校書叔雲(宣州ノ謝脁楼ニテ校書叔雲ニ餞別ス)」の詩に出て来る六朝時代の山水詩人として名高い「謝脁(元暉))や謝脁と共に「三謝」と称せられている「謝霊雲・謝恵連」などが当然にあったことであろう。
 続けて、蕪村の最晩年の傑作絵画中に必ず見られる落款の署名、「謝寅」の「寅」は、明時代の画家「唐寅(号=伯虎)」に由来していることは定説となっている(『田中・前掲書』)。  
この唐寅は「江南第一風流子」と署した人物で、書画文章は何れも当時高名であったという(『仁枝・前掲書』)。
 ここで、上掲李白の「春夜洛城聞笛(春夜洛城ニ笛ヲ聞ク)」中の「春風」(二句中)、「折柳」(三句中)、「故園」(四句中)と、この唐寅の「江南第一風流子」の「江南」の語句は、これまた、関東遊歴・丹後時代に用いられた比叡山の別称の「四明」が、蕪村の俳詩「春風馬堤曲」と関係していると解せられるように、これらの李白・唐寅の語句は、その「春風馬堤曲」(十八首)を読み解く重要なキーワードでもある。

○ 春風や堤長うして家遠し     (二首目の「春風」)
○ 店中二客有リ。能ク解ス江南ノ語 (七首目の「江南」)
○ 揚柳長堤漸くくだれり      (十六首目の「揚柳」=楽府の「折揚柳」=「折柳」)
○ 矯首はじめて見る故園の家    (十七首目の「故園」) 

この発句体(六句、『夜半楽』の表記の「十八首」の表記では六首)、擬漢詩体(四首)そして漢文訓読調の自由詩(八首)の、日本文学史上他に例を見ない独特のスタイルの「春風馬堤曲」に関して、蕪村自身が「馬堤は毛馬塘なり。即ち余が故園なり」と記し、この作品(「春風馬堤曲」)は「愚老、懐旧のやるかたなきよりうめき出でたる実情」と認めている書簡が今に残されている(安永六年=一七七六、柳女・賀瑞宛書簡)。
 蕪村が自分の故郷を明記したのは、この書簡のみであり、望郷の思いを表出したのも、この時だけである。しかし、その萌芽の一端は、蕪村が丹後を後にして再帰洛する宝暦七年(一七五七)の、上掲の「天橋立図」の長文の賛の背景となっていると思量される、李白の「春夜洛城聞笛(春夜洛城ニ笛ヲ聞ク)」の、「何人不起故園情(何人カ故園ノ情ヲ起コサザラン)」の中に、明瞭にその痕跡を残しているように思えるのである。
 ここで、下記印譜中、「四明・馬孛・長庚・春星・謝」については触れたので、触れていないものについて若干の付記をして置きたい。
 「朝滄」については、先に、「蕪村の師筋に当たる宝井其角の畏友・英一蝶(初号・朝湖、俳号・暁雲)の「狩野派風の町絵師」として活躍していた頃の号「朝湖」に由来するものであろう」と記したが、別に、「漢滄溟」という号も使用しており、『唐詩選』の著者の李
于鱗の『滄溟集』などの関連もあるのかも知れない(『仁枝・前掲書』)。
 「囊道(人)」についても、先に間接的に触れているが、「囊=袋」の意であることは、字義的に間違いなかろう。「道・道人」は、「儒教・道教・神仙を修めた人」というよりも、「俗事を捨てた人」のような用例なのかも知れない(『仁枝・前掲書)。しかし、「仏道の修業する人」の意もあり、当時、蕪村は「嚢道人釈蕪村」と俗性を捨てて「釈」姓を名乗っていたことに関連するものなのかも知れない。とすると、この「嚢」は「頭陀袋」の意なのかも知れない(『与謝蕪村集(清水孝之校注)』)。
 そして、『春泥句集(維駒編)』の「序」(安永六年=一七七六)の、「諸流を尽シてこれを一嚢中に貯へ」の「一嚢」などと深く関わるものなのかも知れない。

(蕪村印譜)

蕪村印譜.jpg

一段目  左  1 四明山人
   中  2  馬孛 
右 3 朝滄
二段目  左 4 朝滄
   中 5 朝滄
右 6 嚢道
三段目  左 7 趙   
  中 8  東成 
  右 9  謝長庚印 
四段目 左 10 春星
  中 11  春星氏 
  右 12  謝長庚

 「趙」は、宝暦七年(一七五七)に京都に戻り、その翌年の「戌寅(宝暦八年)秋、平安城南朱瓜楼中ニ於イテ写ス 馬塘趙居」の落款のある「山水図」(東京国立博物館蔵)などから見られるものである。この時期から、「馬塘」の他に「淀南」(淀川南)、「河南」(淀南と同意)と蕪村の生まれ故郷(淀川河口の毛馬)と関係ある文字が用いられる。「趙居」とは、「趙李」(実を結ばないの意)の「居」で、「蕪村の居常借家住まい」に由来するとか、山水画を善くした南宋から元の時代の書画詩文で名高い「趙孟頫」に因っているとかとされている(『仁枝・前掲書』)。
 この「趙孟頫」は、「秋耕飲馬図」「浴馬図」「調良図」など、馬を描いた屈指の画家としても知られているが、蕪村もまた「近世南画家にあって彼程多くの馬を描いてゐる画家は他に例を見ない」(『蕪村の芸術(清水孝之著)』)ほどの馬の傑作画を残している。しかし、その馬の絵でも、蕪村は「馬ハ南蘋ニ擬シ人ハ自家ヲ用ユ」(牧馬図))など、清時代の画家で長崎に滞在したこともある、円山応挙や伊藤若冲などに多大な影響を及ぼした「沈南蘋」の、いわゆる、長崎派の写実画の影響を匂わせている。
 しかし、中国の宮廷画家の院体画に対して、士大夫層出身の儒教の学問と文学の教養を備えた文人(知識人)の、「詩・書・画」が一体としての「文人画」を復興した中心人物の「趙孟頫」の蕪村に与えた影響は、専門画家としての「沈南蘋」の影響よりも、より全般的且つ深いものがあったことであろう。
 この「趙孟頫」の別号は「甲寅人」で、蕪村の晩年の号「謝寅」は、先にふれた「唐寅」だけではなく、この「趙孟頫」の「甲寅人」の「寅」なども含まれているような雰囲気でなくもない。
 「東成」は、蕪村の生まれ故郷の「淀川河口に近い摂津国東成郡毛馬村(現、大阪市都島区毛馬街)」の「東成」の意と、晩年の「謝寅」時代に見られる「日本東成謝寅」「日東東成謝寅」の落款からして、「西(中国)」に対する「東(日本)」の意をも包含してのものなのであろう。

 その他に、上記の款印の以外の蕪村の、未だ触れていない号(号・印)などについて簡単に触れて置きたい。

「蕪村」は、陶淵明の「帰去来兮辞」の「田園將ニ蕪レナントス/胡ゾ帰ら去ル」に基づくものであろう。
「宰町」は、蕪村の師の夜半亭宋阿(早野巴人)が江戸に戻って、日本橋本石町に夜半亭と庵を号した、その「町を主宰する」の意で、その巴人の「夜半亭」は、時の鐘を衝く鐘楼があり、張継の「楓橋夜泊」の「夜半ノ鐘声客船ニ到ル」に由来している。

「宰鳥」は、「宰町」の次の号だが、この「鳥」は、若き日の李白が、峨眉山に棲む隠者(巴人の見立て)の下で鳥を飼育しながら修業し、その鳥が李白になついだとの逸話などに関係するものか、また、巴人が没した時、「遺稿を探りて一羽烏といふ文作らん」とした「烏」(其角の「それよりして夜明け烏や不如帰」の「烏」に通ずる)などに関係するものなのかも知れない。そして、これらの号が、師の巴人が命名したものであるならば、この「宰(町)・宰(鳥)」の「宰(主宰する)」から、若き蕪村に期待するものが大きかったような印象を深くする。

「三果軒(三果園・三果居士)」は、その前身の「朱瓜楼又は朱果楼」からして、蕪村の画室の庵号なのであろう。後に、蕪村を中心として俳諧愛好家のグループが出来て、蕪村夜半亭俳諧を継承後の中心メンバーになっていく。「朱瓜」は烏瓜(唐朱瓜)の別なであるが、やはり、其角・巴人に連なる「三果樹」などに由来するものなのであろうか。
「紫狐庵」の「紫狐」は、野狐のこと(『仁枝・前掲書』)。やはり、俗世間より遁れての隠者的姿勢に由来するものであろう。

 さて、冒頭の「天橋立図」((絵図H)に戻って、この蕪村の百川と自らを対比させている、この長文の賛のある貴重な作品は、百川の「石橋白鷺図」(絵図I)と構図的に類似志向にあるように思われる。

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(絵図I=百川筆「石橋白鷺図)

(絵図H=蕪村「天橋立図」、紙本墨画、八五・八×二七・八)に対し、(絵図I=百川「石橋白鷺図、紙本墨画、一〇四・五×二八・四)と、百川の「石橋白鷺図」の方が、縦の長さが大きいが、同一趣向の作品である。蕪村の作品は、丹後の天橋立での作で、その松原が下段に、実に簡略に描かれている。そして、百川の作品は、能登の島山(越中万葉の故地)での作で、その石橋が下段に、上記の蕪村が見本にしたように簡略に描かれている。
 この百川の石橋の下に書かれている賛・款印などは次のとおりである。

「 一とせ能登の島山に雪を/詠んと松間の橋に船を繋ぐ/雪片大さ鷺のごとしいへる/王世貞が詩膓を得たり/しら鷺のまよひ子もあり雪のくれ 八僊法橋/八僊逸人(白文方印)/「字余日百川(朱文方印)/得意一千画(関防印・朱文長方印) 」

 この「得意一千画」は、遊印(好みの文句を印文したもの)だが、賛の冒頭の右側に押印する「関防印」(引首印)に当り、落款の後など押印する「遊印」(押脚印・圧角印)と区別される場合がある。
 この百川の「石橋白鷺図」(絵図I)で注目される点は、この賛にある「雪片大さ鷺のごとしいへる/王世貞が詩膓を得たり」の、明の文人(明代の作詩用の辞書『円機活法』の校正者として知られる)王世貞の「雪片は鷺のごとく大きい」の詩句(文)の一節で、画面の三分の二近い上部のスペースを使い、それを象徴する「白鷺」(画)を描き、「文を画に反転」している点である。
 そして、蕪村の「天橋立図」(絵図H)は、この百川の「石橋白鷺図」(絵図I)の「文(明の王世貞の詩句)を画(能登の白鷺)に反転」しているのを、さらに、「百川の画(能登の白鷺)を文(蕪村の丹後・天橋立への留別吟と百川との交遊関係)に反転」させているのである。
 すなわち、百川の「石橋白鷺図」(絵図I)と蕪村の「天橋立図」(絵図H)とは、蕪村の師筋に当たる其角の「句兄弟」との視点で見るならば、「画兄弟」ということになる。
ここで特記して置きたいことは、百川の賛に出てくる王世貞は、蕪村が常時活用していたとされている詩作等の辞書『円機活法』の校訂者として知られ、この百川の「石橋白鷺図」(絵図I)と蕪村の「天橋立図」(絵図H)とは、この王世貞を介在しても、両者の間には深い絆で結ばれていることが察知されるということである。

 すなわち、蕪村の「天橋立図」の長文の賛の、「俳諧に名あらむことをもとめざる」とは、単に、「画道が主で、俳諧で名を立てようとは思っていない」というだけではなく、「こと俳諧においても、狭い俳人意識よりも、広く、中国の漢詩に通ずる文人意識を優先している」という、百川と蕪村との共通意識を強調しているように思われる。

 なお、この蕪村「天橋立図」(絵図H)には、「馬孛(バハイ)」(白文方印)と「四明山人」(白文方印)の款印が押印されていて、花押はないが、当時蕪村は、「嚢道人釈蕪村」と出家しての僧体で、俗姓を捨てていたことと関連し、蕪村の特異な、槌を図案化したような花押は、「嚢道人」の「嚢」(頭陀袋の「嚢」と詩嚢・画嚢)の「嚢」)の図案化のようにも思える。



夜色楼台図

    
   

 (図1  「 夜色楼台図」 蕪村筆)

 蕪村の水墨画の二大傑作画は、「夜色楼台図」と「峨嵋露頂図」が、その双璧を為すことであろう。「夜色楼台図」(紙本墨画淡彩、一幅、二八・〇×一二九・五cm)が、蕪村の、その生涯の実生活を背景としている「実」たる「俗」の「京都の東山」をモチーフとしているならば、「峨嵋露頂図」(紙本墨画淡彩、一巻、二八.九×二四〇.三cm)は、蕪村が、その生涯にわたって憧憬して止まなかった中国の詩人中の一人・李白の「峨嵋山月歌」に、その想を得ての、脳裡に去来する「虚」たる「雅」の「中国四川省の峨眉山」をイメージしてのものということになろう。
 この「夜色楼台図」について、「左に登りゆく山稜は比叡山に連なり、右に下る山並みは伏見に至るものであり、麓の家並みは祇園から岡崎にかけての町並みと見ればいい。(略)
 三本樹の水楼にのぼりて斜景に対す
   雲の端に大津の凧や東山
   大文字の谿間のつつじ燃えんとす
 よすがらの三本樹の水楼に宴して
   明けやすき夜をかくしてや東山
 詞書にある三本樹とは、賀茂川西岸の丸太町と荒神口の間の地名で、『烏丸仏光寺西入ル町』の蕪村の家から歩いて三十分という所である。当時、この界隈に多くの料亭が立ちならび、晩年の蕪村が足繁く通った「雪楼」もこの地にあった」と『水墨画の巨匠第十二巻蕪村(芳賀徹・早川聞多著)』(「夜色楼台図(早川聞多稿)」)では記されている。
 続けて、それは「見えるがままに描いた実景」ではなく、絵画的にデフォルメした世界で、「本図が一見水墨画のように見えて、実はその原則を密かに破っている」とし、「画法における『雅俗』の混在」(胡粉や代赭による即物的描写や、胡粉の下塗り、墨のたらし込みといった技法は、『水墨画』の本来かにすると邪道)と「都会の雪景色」(「一見山水画のように見せながら、『俗気』の象徴である都会を主題としての『山水画』の原則からの逸脱)との二点を挙げている。

       (図2 「 三本樹(木)」 『拾遺都名所図会』 )

 ここで取り上げられている「雅・俗」というのは、絵画表現上の「雅・俗」ということで、その根底には、永遠性に連なる「雅」(「完成」の「既に存在する表現」などに美意識を求める理念=「不易流行」の「不易」に近い理念)と日常性に連なる「俗」(「無限」の「未開拓の未知の表現」などに美意識を求める理念=「不易流行」の「流行」に近い理念)との二元論的な把握を基調としている(『日本文学史・小西甚一著・講談社学術文庫』『俳句の世界・小西甚一著・講談社学術文庫』)。

 蕪村の俳諧・絵画の基本的姿勢を述べたものとして、門人、黒柳召波の『春泥句集』の「序」に寄せた、いわゆる「離俗論」が夙に知られている。

[ 俳諧は、俗語を用ひて俗を離るヽを尚ぶ、俗を離れて俗を用ゆ、離俗ノ法最かたし。
(略)  却ッテ問フ、「叟(注・蕪村)が示すところの離俗の説、その旨玄なりといへども、なほ是工案をこらして、我よりして求むるものにあらずや。しかじ彼もしらず、我もしらず、自然に化して俗を離るるの捷径ありや。答ヘテ曰ク、「あり、詩を語るべし。子(注・召波)もとより詩を能す、他に求むべからず」。彼(注・召波)疑ヒ敢ヘテ問フ。「夫、詩と俳諧といささか其の致を異にす。さるを俳諧をすてて詩を語れと云。迂遠なるにあらずや。
夫詩と俳諧といささか其の致を異にす。さるを俳諧をすてて詩を語れと云ふ。迂遠なるにあらずや」。答ヘテ曰ク、「画家に去俗論あり、曰ク、『画去俗無他法子(画ノ俗ヲ去ルニ他ノ法ナシ)、多読書則書巻之気上升(多クノ書ヲ読メバ即チ書巻ノ気上昇シ)市俗之気下降矣(市俗ノ気下降ス)、学者其慎旃哉(学者其レ旃(これ)オ慎シマンカナ)』。それ、画の俗を去るだも、筆を投じて書を読ましむ、況んや、詩と俳諧と何の遠しとする事あらんや」。波(召波)、すなはち悟す。]
 (『与謝蕪村集(清水孝之著)』新潮日本古典集成)

 この蕪村の「離俗論」について、『俳句の世界(小西甚一著)』では、次のように解説している。

[ 蕪村が有名な離俗論を提唱したのも、この頃(注:明和五年(一七六八)・五十三歳)だったらしい。蕪村によると、俳諧は、俗語によって表現しながら、しかも俗を離れるところが大切なのである。この離俗論は、画道から啓発されたもので、当時著名だった『芥子園畫傳』初集の去俗説を承け、俳諧を修行することは、結局、その人の心位を高めることによって完成されるのだと主張する。その実際的方法としては、古典をたくさんよむことが第一である。古典のなかにこもる精神の高さを自分のなかに生かすこと、それが俳諧修行の基礎でなくてはならない。古典といっても、何も俳諧表現に関係のあるものだけに限らない。むしろ表現とは関係がなくても、人格をみがき識見をふかめるための「心の糧」こそ俳諧にとっていちばん大切なのである―。(略) この離俗の立場からは、単なる俗っぽさは、手ぎびしく排斥されなくてはならない。俗なるものを詠んでも、その俗をぬけ出たおもむきがなくてはならない。]
  (『俳句の世界・小西甚一著・講談社学術文庫』)

 蕪村の「離俗論」については、一般的には、上記のようなことなのであるが、蕪村の「離俗論」の大事な要諦は、その『春泥集』(序)の、先の引用文に続く、次のところにあるように思われる。

[ 俳諧に門戸なし。只是れ俳諧門といふを以テ門とす。(略) 諸流を尽シてこれを一嚢中に貯へ、みずから其のよきものを撰び用に随ひて出す。唯自己ノ胸中いかんと顧みるの外、他の方なし。 ] 
   (『与謝蕪村集(清水孝之著)』新潮日本古典集成)

 この「みずから其のよきものを撰び用に随ひて出す」という蕪村の姿勢は、若き日の蕪村を育んだ、蕪村の俳諧の師、夜半亭一世早野巴人(宋阿)の、その三十三回忌に編んだ『むかしを今』の「序」の、「『夫、俳諧のみちや、かならず師の句法に泥(なづ)むべからず、時に変じ時に化し、忽焉として前後相かへりみざるがごとし』とぞ。予(注・蕪村)、此の一棒下に頓悟して、やゝはいかい(注・俳諧)の自在を知れり」の、この「俳諧自在」(自由自在の心)と、その「俳諧自在」の因って立つ地盤は、「唯自己の胸中」(己が心)に在るという、
これが、蕪村の「離俗の法」の本態なのであろう。
 また、この「諸流を尽シてこれを一嚢中に貯へ」に関連して、蕪村自身が、画や画人を題材にして詠んだ句は、次のようなものが挙げられる(『蕪村全集六 絵画・遺墨』「栞「女雪信と蕪村(滝沢栗郎稿)」)。

1 時鳥絵に啼け東四郎次郎  宝暦二(一七五二・三十七歳)  狩野光信
2 手すさびの団(うちは)画ん草の汁 明和五(一七六八・五十三歳) 草画、絵具
3 新右衛門蛇足を誘ふ冬至かな   同上 曽我蛇足 
4 守信と瓢に書けよ鉢たゝき    同上 狩野探幽
5 雪信が蠅打払ふ硯かな      明和六(一七六九・五十四歳) 清原雪信
6 呂記が目の届かぬ枝に閑古鳥   明和八(一七七一・五十六歳) 明人、花鳥画
7 絵団扇のそれも清十郎にお夏哉  同上 浮世絵
8 雪舟の不二雪信が佐野いずれ歟(か)寒き 同上 漢画と大和絵
9 御勝手に春正が妻か梅の月  明和年間  蒔絵師
10 不動画く宅摩が庭の牡丹かな  安永六(一七七七 六十二歳) 古画、仏画
11 南蘋を牡丹の客や福済寺    同上 清人、長崎派
12 茗長が机のうへのざくろかな  同上 染物師
13 相阿弥の宵寐おこすや大もんじ 同上 室町水墨画
14 鬼灯や清原の女が生写し    同上 写生画
15 大津絵に糞落しゆく燕かな   安永七(一七七八 六十三歳) 大津絵
16 筆灌ぐ応挙が鉢に氷哉     安永九(一七八〇 六十五歳) 円山派
17 又平に逢ふや御室の花ざかり  年不詳  土佐派、俳画

 蕪村は、俳諧の世界においては、江戸と京都で、宝井其角の江戸座の宗匠の一人として名を馳せていた夜半亭宋阿(巴人)の内弟子として仕え、生涯に亘って師と仰いでいたが、画業の世界においては、「われに師なし、古今の名画をもって師とす」(「書画戯之記」)との伝聞があるとおり、生涯にわたって仰ぐべき師を持たなかった。
 ただ、宋阿(巴人)が寛保二年(一七四二)に病死した後、いわゆる「関東・奥羽遊歴時代」(寛保二十年《一七三五・二十歳》から寛延三年《一七五〇・三十五歳》)に見切りをつけて、宝暦元年(一七五一)の初冬に京都に上ってきた、その大きな理由の一つに、当時、京都に在住して画(文人画の先駆者・絵師として法橋に叙せられている)・俳(各務支考門の美濃派後に中川乙由の伊勢派系の宗匠の一人)の二道の世界で最右翼を極めていた彭城百川が念頭にあったことであろう。
 百川は、元禄十年(一六九八)、尾張名古屋の生まれ(支考書簡による入婿説もある)、姓は榊原、名は真淵、字が百川、号に蓬洲、僊観、八僊、八仙堂。中国風に彭百川と称した(その祖は帰化人と伝えられ、『元明画人考』を編しているほどに漢学の素養があった。また、自称の「彭城」の姓は、中国江蘇省彭城の出身と伝えられている)。
 俳諧では蕉門の各務支考に師事し、松角、次いで昇角と号した。後に、師の美濃派の支考との間に亀裂を生じ、反旗を翻して伊勢派の乙由門に転じている。三十二歳の頃から京都を拠点として北陸や長崎に遊び、四十八歳の頃からは「売画自給」と称して絵を職業とする生活に入り、元文年間には法橋位を得るに至っている。
 百川の多芸振りは、「詩・文・書・画・俳諧」(『本朝八仙集』「序」)に亘る「和漢に多芸の優人」(『和漢文操』「序」)と、晩年の支考に重宝がられ格別の厚遇を受けていたことからも推察される。
 この他に、百川は、「俳書のデザイン(扉や題字等)」「挿絵」「俳画(俳趣のある簡略な画《草画》)」「実景図」「地図」など、その多種・多様な多才振りは、画・俳の両道を目途としている蕪村を、魅了して止まないものがあったことは想像に難くない。
 蕪村が江戸から上洛したのは、宝暦元年(一七五一)、そして、百川が没したのは、その翌年の宝暦二年(一七五二)の八月であった。蕪村と百川との出会いがあったとしたら、宝暦元年から二年にかけての一年足らずの期間に於いてということになる。
これらのことについて、蕪村は何ら記してはいないが、蕪村は、宝暦七年(一七五七)九月に、丹後宮津から京都に再帰する時に、「天の橋立画賛」の残し、その賛文に次のように百川のことについて記している。

[ 八僊観百川丹青をこのむで明風を慕ふ。嚢道人蕪村、画図をもてあそんで漢流に擬す。はた俳諧に遊むでともに蕉翁より糸ひきて、彼ハ蓮二に出て蓮二によらず。我は晋子にくミして晋子にならハず、されや竿頭に一歩すゝめて、落る処ハまゝの川なるべし。又俳諧に名あらむことをもとめざるも、同じおもむきなり鳧。されば百川いにしころ、この地にあそべる帰京の吟に、はしだてを先にふらせて行秋ぞ  わが今留別の句に、せきれいの尾やはしだてをあと荷物。かれは橋立を前駈して、六里の松の肩を揃へて平安の西にふりこみ、われははしだてを殿騎として洛城の東にかへる。ともに此道の酋長にして、花やかなりし行過ならずや。
  丁丑九月嚢道人蕪村書於閑雲洞中  ]

 この百川の「明風に慕ふ」の「明風」は、『元明画人考』の著を有する百川への「明画」風に対して、蕪村は「漢流」(「狩野派」の意とする見解もあるが、中国画全般の「漢流」の意)で、特定の画風にこだわらないというようなことなのであろう。
 また、俳諧の方では、百川は蕉門の「蓮二(支考)」の流れに比して、蕪村は同じ蕉門でも、「晋子(其角)」の流れ(其角門の巴人の系譜)であるが、共に、その流派にこだわらない点が共通しているし、また、俳人として名声を求めない姿勢も共通しているというようなことであろう。
 蕪村と百川との出会いの確たる形跡は見当たらないが、「当時中国画研究の第一人者であり、伊勢風の俳人としても有名であった百川を八僊観に訪問しないとすれば、それこそ不可解である」(『蕪村の遠近法(清水孝之著)』「百川から蕪村へ」)という指摘を拒否する理由も定かではないであろう。
 これらのことに関して、蕪村の江戸時代の知己で、延享四年(一七四七)に近江の義仲寺の無名庵五世となっている渡辺雲裡坊(前号・杉夫)は、名古屋時代の百川(昇角)と共に支考門で、両者は旧知の関係にある。
そして、その雲裡坊は、宝暦五年(一七五五)に、京都から丹後へ移住している蕪村を訪ね、さらに、宝暦十年(一七六〇)に、京都に再帰した蕪村に筑紫行脚の同行を勧誘するなど、年下の蕪村への配慮は格別なものがあり、京都での蕪村と百川との出会いや、百川亡き後の蕪村の丹後移住などに関して、何らかの関係があるように思われることも特記して置く必要があろう。
さらに、蕪村の晩年の絵画に署名される栄光の雅号「謝寅」は、中国明代の画家唐寅に倣ったものとされているが(『俳画の美(岡田利兵衛著)』)、百川の「春秋江山図屏風」の左隻に、この唐寅(伯虎)に倣ったことが書かれており(『知られざる南画家 百川(名古屋博物館)』「百川と初期南画(河野元昭稿)」)、これらのことを加味すると、百川の画・俳その他全般に亘る生涯は、蕪村の生涯を先取りした趣すらして来る。
この百川について、『知られざる南画家 百川(名古屋博物館)』「百川と初期南画(河野元昭稿)」では、「自己の創造に必要なものを何でも画嚢に取り入れてしまう性質」を「雑食性」と名付け、この「雑食性」のほかに、「町人出身の専門画家」であったこと、「俳画と真景図に新生面を開いた」ことを、百川の特質ととらえて、それらが、次の時代の大雅と蕪村の日本南画(文人画)の大成に大きく寄与しているとしている。
 百川が文人画家の先駆者として、その文人画を大成したとされる大雅と蕪村への与えた影響ということの他に、「売画自給」を標榜した百川の、その姿勢は、異色の花鳥画家とされている伊藤若冲の精神的支柱であった「売茶翁」(黄檗宗の僧、法名は月海、還俗後は高遊外)に連なるものなのであろう。
 江戸時代を、前期(十七世紀)・中期(十八世紀)・後期(十九世紀)の三区分ですると、売茶翁は、延宝五年(一六七五)の生まれ、蕪村の師巴人(延宝四年=一六七六)と同年齢時代の、前期に生を享けたことになる。
 若冲(正徳六年=一七一六)・蕪村(享保元年=一七一六)・大雅(享保八年=一七二三)は、中期、そして、百川は元禄十年(一六九七)の生まれで、十七世紀の後半に生を享けたが、その活躍したのは十八世紀の中期ということになろう。
 この百川は、延享二年(一七四五)、四十九歳のときに、「売茶翁煎茶図・売茶翁題偈」という作品を残しており、売茶翁に連なる京都文化人の一人と数えて差し支えなかろう。この売茶翁に連なる京都文化人の面々は、売茶翁と共に若冲の支援者であり続けた、相国寺第百十三世の詩僧・大典顕常、数多くの儒学者を育てた大儒・宇野明霞、書家の亀田窮楽
、画壇では、池大雅、伊藤若冲、そして、蕪村もまた、「小鼎煎茶画賛」を残しており、直接的な繋がりはないが、やはり売茶翁に共鳴した一人と解して、これまた差し支えなかろう。
 宝暦十三年(一七六三)、売茶翁は、その八十八年の生涯を閉じるが、その年に刊行された『売茶翁偈語』の伝記は、大典顕常、その売茶翁の自題は大雅、口絵の売茶翁の半身像は若冲と、売茶翁と親しかった、三人の名が肩を並べている。
 若冲の別号の「米斗翁」(「絵代は米一斗」に由来する)は、売茶翁の「茶銭は黄金百鎰(注・小判二千両)より半文銭までくれしだい。 ただにて飲むも勝手なり。ただよりほかはまけ申さず」に由来があるものなのであろう。そして、「大雅」の別号の「待賈」は「賈(価)を待つ=商人」の、これまた、売茶翁が「茶を売る翁」に因んでの「絵を売る」、百川の「売画自給」と同じ意なのであろう。
 この売茶翁の、「仏弟子の世に居るや、その命の正邪は心に在り。事跡には在らず。そも、袈裟の仏徳を誇って、世人の喜捨を煩わせるのは、私の持する志とは異なる」(大典顕常の「売茶翁伝」の遺語)に由来するところの、その売茶翁の「売茶」という、その実践に由来するもの、それが、百川の「売画自給」の意味するものなのであろう。
そして、その百川に続く、京都の画人達(大雅・若冲・蕪村等々)は、「雅」の「非日常性・不易なもの・虚なるもの」と「俗」の「日常性・刻々変化するもの・実なるもの」との、その「雅と俗」との、その葛藤こそ、それぞれの「売画自給」の日々の実践の証しということになろう。
 ここまで来ると、蕪村の「夜色楼台図」の全てが見えて来る。この「夜色楼台図」の根底には、上半分の「雅」たる「夜空と山並み(東山)」、そして、下半分の「俗」たる「積雪の楼台と家並み(京の街並み)」との、その「二極対比」と、その「雅俗混交」の「鬩(せめ)ぎあい」での末の、安らぎにも似た「雅俗融合」の極致の世界が、見事に浮き彫りにされている。
さらに、細かく見ていけば、「黒(闇)と白(明かり)」、「代赭(華やぎと温もりの灯影)と胡粉(寂として消えて行く雪片)」、全体の「横長の広大なパノラマの『水平視(平遠法)』的視点」、下半分の人家の景を「見下ろす『俯瞰視(深遠法)』的視点」、そして上半分の山並みと空とを「仰ぎ見る『仰角視(高遠法)』的視点」、それらは、「画(「無声の詩」=「画中に詩有り」)」と「詩(「有声の画」=「詩中に画有り」)」との、見事な「画・俳」、そして、「画・俳・書」の、その合致の到達点を物語っている。
 この横長の絵巻風の「夜色楼台図」の、その冒頭の「夜色楼/臺(台)雪萬(万)/家」の、この「夜色楼台雪万家」の画題なるものは、『水墨画の巨匠(第十二巻)蕪村』の「図版解説(早川聞多稿)」では、若き日の蕪村が私淑した服部南郭に連なる詩僧の万庵原資の、「遊東山詠落花(東山ニ遊ビテ落花ヲ詠ズ)」の「湖上楼台雪万家」と「中秋含虚亭ノ作」での「夜色楼台諸仏座」の一節に由来があることなどが紹介されている(さらに、『生誕三百年同いの天才画家 若冲と蕪村』では、『皇明七才詩集註解』の明代の李攀龍による「宗子を懐う」に「夜色楼台雪万家」の一節があることも新説として挙げられている)。
 何れにしろ、この「夜色楼台雪万家」の主題は、「夜・楼台・雪・万家」の「夜(闇)・楼台(「華やぎ=灯影」)・雪(「無常=雪の切片)・万家(「「人家」の「無数の『生』の営み」)、その中でも、上半分の「雅」たる「山と空」と下半分の「俗」たる「人家」とを融合させている「雪」こそ、この「夜色楼台図」の主要なテーマなのではなかろうか。
 蕪村には、目白押しの「雪」の句の中から「二極対比」の句を抽出して見たい。

1          宿かさぬ灯影や雪の家つゞき  明和五年(一七六八・五十三歳) 灯影と雪
2          雪国や粮(かて)たのもしき小家がち  同上          小家と雪
3          宿かせと刀投出す吹雪哉       同上         武士と吹雪
4          初雪や上京は人のよかりけり  明和六年(一七六九・五十四歳) 上京(洛)と初雪
5          物書(かい)て鴨に換けり夜の雪    同上        王義之(前書き)と雪
6          祐成をいなすや雪のかくれ蓑  明和七年(一七七〇・五十五歳) 曽我十郎祐成と雪
7          繋馬雪一双の鐙(あぶみ)かな     同上          馬の鐙と雪
8          雪の河豚鮟鱇の上にたゝんとす 明和八年(一七七一・五十六歳) 河豚と雪
9          雪の松折るるや琴の裂る音      同上          松と雪
10       としひとつ積るや雪の小町寺  安永三年(一七七四・五十九歳) 小町寺(洛北)と雪
11       雪の旦母屋のけぶりのめでたさよ   同上          母屋の煙と雪
12       鍋さげて淀の小橋を雪の人      同上          淀の小橋と雪
13       愚に耐(たへ)よと窓暗(くらう)す雪の竹  同上     貧窮老懶の自画像と雪
14       初雪や草の戸を訪(と)ふわら草履  安永六年(一七七七・六十ニ歳) 風狂の友と雪
15       木屋町の旅人訪ん雪の朝       同上    木屋町(旅館・料亭が多い)と雪
16       住吉の雪にぬかづく遊女哉    同上  住吉大社(浪花・遊女の信仰が厚い)と雪
17       雪白し加茂の氏人馬でうて 安永七年(一七七八・六十三歳)  加茂神社の社人と雪
18       雪折やよしのゝゆめのさむる時  同上          吉野(奈良吉野山)と雪
19       雪折も聞えてくらき夜なる哉   同上          闇夜と雪(白居易の詩)
20       登蓮が雪に蓑たく竈(かま)の下 天明二年(一七八二・六十七歳)  登蓮(歌僧)と雪
21       雪を踏で熊野詣の乳母かな    同上              熊野詣と雪
22       風呂入に谷へ下るや雪の笠   年次未詳             湯治場と雪
23       水と鳥のむかし語りや雪の友   同上         「酒」(水偏の鳥)と雪
24       雪の暮鴫はもどつて居るような  同上           鴫(西行の鴫)と雪
25       雪消ていよいよ高し雪の亭    同上            雪亭(庵号)と雪

 蕪村の二大水墨画の、もう一つの「峨嵋露頂図巻」(二八・九×二四〇・三cm、紙本墨画淡彩一巻)は、「夜色楼台図」(二七・三×一二九・三cm、紙本墨画淡彩一幅)の、横長に倍の長さ(条幅紙一枚分)で、こちらは図巻(一巻)で、それを横長の掛幅とするならば、これは、一大のパノラマ仕立てになる。
 「夜色楼台図」が、日本の詩僧・万庵原資の詩と『唐詩選』を編纂したとも言われている明代の詩人・李攀龍の詩に由来があるとすれば、「峨嵋露頂図巻」は、李白の七言絶句の「峨嵋山月歌」とこれまた李攀龍(号=滄溟)の「滄溟ガ詩ヲ評ス『峨嵋天外雪中ニ看ル』」(『唐詩選国字解(服部南郭解)』「跋(荻生徂徠)」)に由来があるとされている(『水墨画の巨匠第十二巻蕪村(芳賀徹・早川聞多著)』(「図版解説(早川聞多稿)」) 。
 ここまで来ると、「夜色楼台図」と「峨嵋露頂図」とは、同時期に書かれた、「雪」を主題とする蕪村の連作であったということを実感する。
そして、この二大傑作水墨画は、蕪村が六十八年の生涯を閉じた、天明三年(一七八三)の作とされており、「蕪村絵画年譜」(『日本の美術六 与謝蕪村(佐々木丞平編)』)では、その順序は、「夜色楼台図」が先で、その年の「謝寅落款のあるもの」の最後に、「峨嵋露図」が掲載されている。

  (図3-1  「峨嵋露頂図」(右半分) 蕪村筆「落款・謝寅」)

  (図3-2   「峨嵋露頂図」(左半分) 蕪村筆)

 ここに、冒頭の「夜色楼台図」(図1)を掲載して置きたい。

 (図1・再掲 「夜色楼台図」 蕪村筆「落款・謝寅書」 )

 これらの「夜色楼台図」と「峨嵋露頂巻」との落款は、主に、蕪村の漢画系統のものの落款「謝寅」で、「夜色楼台図」は「謝寅書」、そして、「峨嵋露頂図」は「謝寅」と署名されている。
 それに対して、蕪村の和画系統のものの落款「蕪村」の署名で、「夜色楼台図」と「峨嵋露頂図巻」と共に、横長の三大水墨画の一つに数えられている「富岳列松図」(二九・六×一三八・〇cm、紙本墨画多彩一幅)が、「夜色楼台図」と「峨嵋露頂図巻」と同年(蕪村が没する天明三年=一七八三)に制作されている。
 そして、この「富岳列松図」もまた、「雪」が主題のもので、真っ白な「富士」が赤松並木の上に浮かび上がっている。そして、墨の濃度の違いによって、その墨色で、あたかも、松の緑と空の青とを描いているかのようなのである。

 ( 図4   富岳列松図  蕪村筆「落款・蕪村」 )

 ここで、「峨嵋露頂図」で紹介した、李攀龍(号=滄溟)の「滄溟ガ詩ヲ評ス『峨嵋天外雪中ニ看ル』」(『唐詩選国字解(服部南郭解)』「跋(荻生徂徠)」)に関連して、徂徠の『蘐園随筆』「序(安藤東野)」に触れながら、蕪村の、「峨嵋露頂図」「富岳列松図」、そして、「夜色楼台図」を三部作として、次のように、その関連を考察したものを紹介して置きたい。

[「峨嵋を天半の雪中に看る」とは、王世貞(注・明時代の学者・政治家、号は弇州山人《えんしゅうさんじん》)が李攀龍(注・明時代の詩人・文人、号は滄溟)の詩風を、峨嵋山の雪にたとえてたたえる句である。(略) あわれむべし彼等は、峨嵋山を知るだけで、わが富士山を知らない。先生(注・荻生徂徠)は実に富士の白雪である。(吉川幸次郎著『仁斎・徂徠・宣長』より)
 この一節は徂徠の愛弟子、安藤東野(注・徂徠門の儒学者)が、師(注・徂徠)の学問のすばらしさを讃えたものである。ここで注目すべきことは、「天半の峨嵋山」と李攀龍(注・蕪村が生涯に亘って愛した詩人)、「白雪の富士山」を荻生徂徠(注・蕪村の漢詩理解の源となっている服部南郭の師、「夜色楼台図」の由来となっている詩を作った万庵原資も徂徠門)というイメージの提示である。(略)
 両図(注・「峨嵋露頂図巻」「富岳列松図」)とも本図(注・「夜色楼台図」)と同様、横長の画面形式をとっており、その熟練した筆致から制作時期も本図と同時期のものと推定される。また、これら三図はいずれも山と雪を主要なモチーフとしている。
 このようにその共通性に注目するならば、これら三図は三部作として描かれた可能性があるといえる。もし、「峨嵋露頂図巻」の「天半の峨嵋」が李攀龍を、「富岳列松図」の「白雪富士」が荻生徂徠(注・徂徠と徂徠の古文辞学派=蘐園学派の服部南郭《儒者・詩人・画家》等の一門)を象徴としているならば、では一体、「夜色楼台図」の東山は誰を象徴しているのであろうか。(略)
 画(注・「夜色楼台図」)左の山稜をたどれば、そこは法然・親鸞が修行した比叡山であり、その山下の一乗寺村には親鸞が六角堂に通った百日別行の旧跡がある。そして、正面の山麓には法然ゆかりの法然院、金戒光明寺、知恩院が建ち並び、画面右端には親鸞の遺骨を納めた大谷の廟所がある。(略)
 さらに付け加えるならば、親鸞百日別行跡の隣の金福寺には、蕪村がその再興に関与した芭蕉庵があり、その記念碑が立っており、蕪村は、
   我も死して碑にほとりせん枯尾花
の一句を手向けたのである。そしてその願い通り、天明三年(一七八三)の暮に亡くなった蕪村の遺骨は、翌四年一月には、まさしく「祖翁之碑」の隣に納められ、同十月には「与謝蕪村墓」と刻まれた墓碑が、門人たちによって建てられたのであった。  
 このように見てくると、晩年の蕪村が眺める東山連峰は、まことに複雑なイメージを帯びていたといえよう。
 そこは自らが四季折おりを楽しむところである同時に、雪が降れば徂徠の学恩を、山麓の楼閣を見れば法然の法恩を思い、その山陰は己が人生を決定づけた親鸞と芭蕉の俤を宿す場所であった。
 そして、そこはまた、蕪村自らが「終(つい)の住処(すみか)」と思い定めた場所であった。すなわち、この一枚の画(注・「夜色楼台図」)によって、「聖」と「俗」の狭間に生きた蕪村の人生そのものが象徴されているといえよう。 ]
 (『水墨画の巨匠第十二巻蕪村(芳賀徹・早川聞多著)』(「《この一枚》夜色楼台図《早川聞多稿》)」) 。

 蕪村の、横長のパノラマ的眺望を描出している、「峨嵋露頂図巻」「富岳列松図」「夜色楼台図」を、同時期に制作された三部作として、「峨嵋露頂図巻」と李攀龍(号・滄溟)、「富岳列松図」と荻生徂徠(徂徠門服部南郭等)とを、南郭の『『唐詩選国字解』等を通して探り当てた点は卓見であろう。

 それに続けて、「夜色楼台図」は、別稿「「水墨画の俳諧化―雅俗融合の生涯《早川聞多稿》」に於いて、「僧に非ず俗にゐて俗にも非ず」(親鸞の『教行信証』)等を引用し、併せ、上掲の蕪村自身の「我も死して碑にほとりせん枯尾花」(「枯尾花」は其角の芭蕉追善集の名)句をも引きながら、「芭蕉・親鸞・法然上人」の俤を重ねたのは、やはり、この評者(早川聞多)の、この「夜色楼台図」に寄せる思い入れの深さの証左であろう。

 この親鸞の「僧に非ず俗にゐて俗に非ず」は、「俗中に生きてこそ、『聖俗』を超える契機を見出し得る」とし、そして、この親鸞の「聖俗」論は、即、蕪村の「俗を用いて俗を離れ、俗を離れて俗を用いる」(離俗論)と表裏一体を為すものなのであろう。
 即ち、親鸞は「聖俗」の人であり、蕪村は「雅俗」の人であり、親鸞の生涯が「聖俗融合」の生涯であったとするならば、蕪村の生涯は、市井に生きた「雅俗融合」の生涯だったということになろう。

 そして、この「夜色楼台図」は、まさしく、その蕪村の「雅俗融合」の生涯を、象徴的に物語っている「この一枚」ということになろう。