若き日の蕪村(一~三)

若き日の蕪村(その一)

若き日の蕪村

(一)

○ 尼寺や十夜にとどくさねかづら(元文二年)

 画俳二道を極めた与謝蕪村が、宰町の号をもって始めて世に登場するのは、元文二年(一七三七)、二十二歳のときの、掲出の句(手紙を見る女性像とあわせ)がその初出である。
この蕪村の画と句は、当時、七十歳となる豊島露月の賀集の『卯月庭訓』に寄稿したものである。この句には、「鎌倉誂物」との前書きがあり、「鎌倉誂物」とは、鎌倉へ届けるよう特に注文した品の意である。この掲出句の「尼寺」は、鎌倉尼五山の一つの東慶寺を指し、離縁を望む縁切り寺として知られていた。すなわち、この句意は、「鎌倉の東慶寺にいる尼のところに、ゆかりの男から、そろそろ還俗だねと、さねかづらが届いて、折しも、皮肉なことには、念仏の声が響きわたる十夜の日であった」という、どうにも、その後の蕪村を暗示するような、男と女の世話物の一場面を現出するようなものが、そのスタートなのであった。この句と一緒の、「宰町自画」とある草画(挿絵のようなもの)は、蕪村が最も得意としたもので、その萌芽が、この初出の句と共に、その後の蕪村の画業をしのばせるに十分なものであった。蕪村は、寛保元年(一七一六)に、今の大阪の毛馬(都島区毛馬町)で生まれたということがほぼ定説となっているが、この西国生まれの蕪村が、その二十歳前後には、東国に下っていて、そして、東国の江戸に居て、東国の鎌倉幕府の、その源の、「鎌倉誂物」で登場してくるというのは、これまた、見ようによっては、その生涯が謎につつまれている、いかにも蕪村らしい思いがするのである。

(二)

○ 君が代や二三度したるとしわすれ(元文二年)

 この句は、元文三年(一七三八)正月に刊行された、蕪村の師・夜半亭宋阿(早野巴人)の江戸再帰後の初歳旦帖『夜半亭発句帖』に、宰町名で収載されている句である。句意は、「年に一度の忘年会を、一度ならず、二度も三度もして、これも一重に、天下泰平の、御時世のお陰だ」という、歳旦帖にふさわしいお目出度いものである。この歳旦帖には、宋阿は、「皇都に遊ぶ事凡(およそ)十余年/ことし古園に春を迎〈え〉て」と前書きして、「新しき友の外にも花の春」の句を寄せている。この元文三年の春には、宰町こと蕪村は、その前年の六月頃に、京都より江戸(日本橋本石町三丁目)に帰ってきた宋阿の夜半亭に移り住んでいて、そこで、師匠の宋阿とともに新しい年を迎えたのであろう。そもそも、当時の蕪村の号の「宰町」は、この夜半亭があった日本橋本石町の、その「本石町」を「宰」(とりしきる)というような意味合いも込められているような雰囲気なのである。とにもかくにも、蕪村、二十二・三歳の頃、俳諧宗匠としては、江戸・京都・大阪で活躍して、その名をとどろかせていた夜半亭一世・宋阿の内弟子として、公私ともに、そのお世話をするという立場にいて、こと俳壇においては知る人ぞ知るという環境にはあったのであろう。と同時に、その俳壇の活躍以上に、その主力は、画壇の方に向いていたということも容易に想像ができるところのものである。

(三)

 この夜半亭一世・宋阿が江戸に再帰して移り住んだ、日本橋本石町については、後に、蕪村は次のとおりに記している。次の記事は、下記のアドレスによる。

http://busonz.ld.infoseek.co.jp/kokutyo1.html

与謝蕪村「むかしを今ノ序」(安永三年)より
○ 師や、昔武江の石町なる鐘楼の高く臨めるほとりに、あやしき舎(やど)りして市中に閑をあまなひ、霜夜の鐘におどろきて、老のねざめのうき中にも、予とヽもに俳諧をかたりて、世の上のさかごとなどまじらへきこゆれば、耳つぶしておろかなるさまにも見えおはして、いといと高き翁にてぞありける。
○ 先生は、昔江戸は石町の鐘撞堂が高く見える辺りの、見苦しい家に住み、町中でも閑静なのに満足し、霜夜に響く鐘の音に目を覚まして、老いのため眠れなくて辛いときには、私と共に俳諧の事を語り合い、私が世間の俗事などとり混ぜて申し上げると、聞こえぬふりをして老いぼけたような振りをしていらっしゃって、いよいよ高潔な翁でいらっしゃることだ。
○ 在京十年あまりの巴人が元文二年(一七三七)四 月三十日江戸へ帰着し、旧友豊島露月(本石町住)の世話で、鐘楼下の「夜半亭」に入ったのは六月十日頃。蕪村は早く内弟子として随仕し、薪水の労を助け、俳諧の執筆(しゅひつ)役をつとめた。 
引用・・・『新潮日本古典集成 与謝蕪村集』清水孝之校注。

また、当時の古地図が、次のアドレスに記されている。

http://busonz.ld.infoseek.co.jp/nihonbasi2.html

(四)

 安永三年(一七七四)、蕪村、五十九歳のときの、『むかしの今』(序)は、続いて、次のように蕪村は記している。

○ある夜、危坐して予にしめして曰く、「夫(それ)、俳諧のみちや、かならず師の法に泥(なづ)むべからず。時に変じ時に化し、忽焉として前後相かへりみざるがごとく有るべし」とぞ。予、此の一棒下に頓悟して、やゝはいかいの自在を知れり。
○ある夜、師の巴人先生は、正座して私こと蕪村にはっきりと、「そもそも、俳諧というものは、必ず、師の教えに拘泥するものではありません。時に応じて作風を変えて、前例も後のことなども頓着しないで、瞬時にして作句するということが望まれる」と示されました。私こと蕪村は、禅僧の教えのごとく、この師のお言葉で、少しは俳諧自在ということを悟りました。

 どちらかというと、若き日の蕪村は、いわゆる、若き日の芭蕉がそうであったように、漢詩流の「虚栗」(みなしぐり)調の理屈ぽっい新風を狙っての作風(麦水の「新虚栗」調)をよしとしていたのであろうが、作句するときの座の雰囲気にあわせ、その雰囲気に違和感を与えるようなことではなく、臨機応変にやられるべきものという、いわゆる、「俳諧自在」ということを、この夜半亭で、その師の宋阿と一緒に寝起きして、悟ったということなのであろう。当時の、蕪村こと宰町の発句においては、どちらかというと、師の師にあたる、其角の江戸座風の技巧的な機知を好む洒落風の句が目立つが、いわゆる、俳諧(連句)の付句(その長句と短句)には、当時の若き日の蕪村の作風の多様性ということを垣間見ることができる。

(五)

  発句 染(そむ)る間の椿はおそし霜時雨         雪雄
  脇    汐引〈く〉形(ナ)リに芦は枯臥(かれふす)  宰鳥
  第三 稽古矢の十三歳をかしらにて            宋阿 

 元文四年(一七七五)に巻かれた歌仙「染る間の」の発句・脇・第三の抜粋である。この脇句の作者、宰鳥は、宰町こと蕪村の別号である。宰町を宰鳥と改号したのか、それとも、宰町と宰鳥とを併用していたのかどうかは定かではないが、この元文四年以降になると、宰鳥の号が使われ出してくる。この歌仙には、「宋阿興行」という前書きがあり、宋阿が中心になって、その捌きなどをやられたことは明らかなところである。「客、発句、亭主、脇」で、興行の亭主格の宋阿が、脇句を詠むのが、俳諧(連句)興行の定石であるが、その脇句を、若干、二十三歳の、蕪村こと宰鳥が担当しているということは、名実ともに、師の宋阿に代わるだけの力量を有していたということであろう。この歌仙は、宋阿編の「俳諧桃桜」の右巻(下巻)に収録されており、こと、俳諧(連句)の連衆の一人として、蕪村(宰鳥)が登場する初出にあたるものである。この雪雄の発句は、「芭蕉七回忌」との前書きのある、嵐雪の「霜時雨それも昔や坐興庵」を踏まえてのものであろう。坐興庵とは、嵐雪が芭蕉門に入門した頃の、芭蕉の桃青時代の庵号でもあった。それらを踏まえて、其角・嵐雪の三十三回忌の追悼句集「俳諧桃桜」の右巻(嵐雪追悼編)の歌仙の一つの、雪尾の発句なのである。その発句に対して、若き日の蕪村(宰鳥)は、「汐引(く)形(ナ)リに芦は枯臥(かれふす)」と、蕪村開眼の一句の「柳散清涸石処々(ヤナギチリ シミズカレ イシトコロドコロ)」に通ずる脇句を付ける。そして、夜半亭一門の主宰者・宋阿が、蕪村の荒涼たる叙景句を、「稽古矢の十三歳をかしらにて」と、元服前後の稽古矢に励んでいる人事句をもって、応えているのである。こういう歌仙の応酬の中に、当時の若き日の蕪村の姿というのが彷彿としてくるのである。

(六の一)

  四   豆腐を見れば飛上(トビア)る犬           少我
  五  暮〈れ〉かゝる宿(シュク)をのぞけばつげ(柘植)の月 宰鳥
  六   大(オホキ)な石の露しづかなり           雪尾

 歌仙「染(そむ)る間の」の四句目から六句目の句である。この四句目の少我の句は、三句目の景を犬追物の場と見定めての付けで、その犬が臆病になっていて「豆腐を見ても飛び上がる」という滑稽句である。こういう滑稽句に対して、次の宰鳥は、滑稽句で応酬せず、日暮れの宿場にかかる月という叙景句を付けている。この「つげ(柘植)の月」は、柘植の木の間にチラチラと垣間見える月と柘植の櫛のような三日月とが掛けられているのだろう。そういう技巧的なことは、当時の比喩俳諧の特徴の一つではあるが、それよりも、当時の蕪村(宰鳥)の美意識というものをも感じさせる一句である。こういう美意識は、後の蕪村の唯美主義的傾向の萌芽ともいえるものであろう。続く、雪雄の「大(オホキ)な石の露しづかなり」の句も、宰鳥の前句の美意識を醸し出している雰囲気に合わせ、格調のある付け句という雰囲気である。

(六の二)

 七  山びこに団扇をあげる西の方               少我
 八   無事かと背中つゝく国者                宋阿

 七句目の「団扇(うちは)」は、夏の季語だが、前句が「露」の秋の句で、歌仙のルールに、秋の句は三句以上続けるということからすると、この団扇は、相撲(秋)の軍配団扇の句と解せられる。句意は、「山彦が聞こえる山間地方の相撲の場で、西の方に軍配をあげた。その行司の声が山彦と照応している」ということであろうか。次の八句目は、前句の相撲の場で、国者(田舎者または同郷の人)が、「負けた力士に、大丈夫かと背中をたたきながら、声をかけている」という光景であろう。このように、一句だけの俳句(発句)と違って、連句の鑑賞は、前後の関係から、俳句の鑑賞よりも具体的な光景が読み取れるということを、しばしば経験する。それだけではなく、その連句をやられている連衆(メンバー)の遣り取りなども垣間見ることができる。こういう連句の場で、その中心となる宗匠(捌きをする人)の助手役(執筆)というようなことを、若き日の蕪村(宰鳥)は、夜半亭の宗匠の宋阿(巴人)のもとで、俳諧の修業を積んでいたのであろう。

(七)

 九 小箪笥を是非ともくれるおも(思)ひ病み      雪尾
 一〇  卯月のほこり御所の塗笠             宰鳥
 一一 如意が嶽芥子は散れども雪はまだ          宋阿

 歌仙「染(そむ)る間の」の九句目から十一句目で、この九句目は、雪尾の恋の句である。「おも(思)ひ病み」は、恋患いのこと。この「小箪笥」は化粧道具などを入れるものであろう。前句が、「無事かと背中つゝく国者」ということで、その「国者」(田舎者)が、郭にあがる景のようである。すなわち、「その田舎者は、馴染みの遊女に恋患いをしてしまい、化粧具入れをあげるると言って無理強いをしている」というものであろうか。それに対して、宰鳥(蕪村)は、「卯月のほこり御所の塗笠」ということで、前句の遊女を御所に仕える女房に見立て替えをしている付句である。句意は、「その女性は、御所の塗り笠を被っていて、その塗り笠には、初夏の卯月の埃がかかっている」と、いかにも、後の蕪村の、いわゆる、王朝趣味を漂わせている句である。さらに、その宰鳥の句に、夜半亭一門の宗匠の宋阿が、「如意が嶽芥子は散れども雪はまだ」と、この「如意ヶ嶽」とは、京都東山三峰の主峰のことで、一名「大文字山」、その積雪が白く大の字を現すのを「雪大文字」といい、それが背景にある句である。句意は、「その女性は、塗り笠のふちを上げて、雪の大文字山ともいわれている、如意が嶽を仰いだが、芥子の花が散ったころの夏の季節で、雪のころの風情はなく、今一つ精彩に欠いている」ということであろうか。雪尾(芭蕉門の一人の斎部路通門の京都出身の俳人。若き日の蕪村と交遊関係にあり、蕪村は後に「莫逆の友也」との記述を残している。別号、大夢、毛越)、宰鳥(蕪村)、そして、宋阿(巴人)の、この三人は、この歌仙に出てくる「如意が嶽」が仰ぎ見られる京都と深い関係にあり、この三人の関係、そして、その周辺を探っていくことも、これまた、興味のつきないところである。

(八の一)

 一二  喧嘩の相手見物となる             少我
 一三 青貝の蒸籠一つやきもち(焼餅)屋        宰鳥
 一四  座頭の自剃(ジゾリ)不思議でもなし     ゆきを

 歌仙の十二句目から十四句目は、表(六句)、裏(十二句)の、裏の六句目から九句目に当たる。歌仙の流れの「序(導入)・破(展開)・急(集結)」の流れでいくと、前半の「破」の局面である。少我の「喧嘩の相手見物となる」は、前句の宋阿の「芥子は散れども」から「喧嘩の場面」をイメージして、「喧嘩の仲裁人が何時の間にか喧嘩の当事者となり、喧嘩の当事者の一人が見物人になってしまった」という人事の滑稽句なのであろう。それに対して、蕪村こと宰鳥は、「青貝の蒸籠一つ」と、高価な色彩も鮮やかな螺鈿の蒸し菓子入れの句で、その前句の喧嘩の「ちぐはぐさ」を象徴しての「焼餅屋」の景の句に仕立てている。この句などは、やはり、画家という視点を感じさせる一句である。次の「ゆきを」は「雪尾」で、雪尾は時折この「ゆきを」を用いる。これなども、芭蕉門の路通の晩年の弟子の一人と思われる雪尾が、師の師の芭蕉の「ばせを」をもじっているような感じを抱かせる。さらに、この歌仙「染(そむ)る間の」は、宋阿・雪尾・宰鳥・少我の四吟で四人で興行されているのだが、この少我とは、蕪村の俳詩として名高い「北寿老仙を悼む」(晋我追悼の和詩)の、結城の俳人、早見晋我の「晋我」と関係のある俳人のようにも思われるのである。早見晋我は、宋阿と同じく其角門(後に介我門)で、其角に、其角の別号・「晋子」の「晋」の一字を許されたという著名な俳人でもあった。こうして、点を線としてつないでいくと、若き日の、当時の蕪村の姿がチラチラと見えてくる趣なのである。

(八の二)

一五  はつ花や手向(タムケ)のこりを提(サゲ)て来(クル) 少我
一六   空ふく竹にきれとまる几巾(タコ)          宋阿

 十五句目は、少我の花(はつ花)の句である。花の定座は、十七句目なのだが、ここに引き上げている。花の定座は引き上げることはあっても、その定座の後に出すという、いわゆる「こぼす」ということはない。そして、十四句目は、月の定座なのであるが、この歌仙では、その十四句目の月の定座を、十七句目にこぼしている。この月の定座は、前に持ってくる「引き上げる」ことも、また、後に「こぼす」こともフリーとなっている。このように、定座を引き上げたり、こぼしたりする理由というのは、花の句なり、月の句を連衆にバランスよく担当させるという座の雰囲気の配慮などによるものなのであろう。ここでは、発句を雪尾、脇句が宰鳥で、その関係で、十四句目の雪尾は月の定座をこぼして、先に、少我に、花の句を出すように誘っているのかもしれない。この歌仙の捌き(主宰者)は、おそらく、宋阿がやられているだろうから、雪尾、宰鳥、そして、少我の三人には、捌きの宋阿が、それぞれ、歌仙の流れを見て、それらの配慮を誘引しているということであろうか。もう一つ、この歌仙の一番最後の三十六句目の挙句の作者名が、「筆」となっており、これは「執筆」のことで、この歌仙の連衆(宋阿・雪尾・宰鳥・少我)の他に、もう一人、「執筆」がいるのか、それとも、「雪尾・宰鳥・少我」のうちの誰か一人が、それを兼ねているのかどうか不明である。感じとしては、この挙句の「筆」は、夜半亭に宋阿の内弟子として仕えている宰鳥が、句数の関係などから担当したようにも思われるし、当時の宰鳥の立場からして、そう考えるのが自然なのかもしれない。なお、掲出の十五句目の句意は、「座頭が自分の頭を剃っている前を仏に手向ける初花の残りを提げて来る」ということか。そして、十六句目は、「初花を散らしそうな強い春風のせいだろうか、竹林の竹に糸の切れた凧が引っかかかっている」ということであろう。

(九)

 一七 十日ほど宇治の人なり朧月          雪を
 一八  草履の〆(シメ)を切て投出す       宰鳥
 一九 髪置にうつくしきもの松の霜         宋阿

 この十七句目から十九句目の展開は、裏の十一句目と折端から名残の表の折立の展開である。歌仙三十六句のうち、丁度、前半と後半との折り返しの局面で、句数からすると山場ということになる。その十七句目は、本来は花の定座なのであるが、この歌仙では、十五句目に引き上げられており、そして、本来は十四句目の月の定座をここにこぼしているという異例の展開となっている。その雪尾の月の句は、「十日ほど宇治の人なり朧月」と、『源氏物語』の「宇治十帖」が背景にあるような句で、おそらく、京都から江戸の夜半亭に来て、しばらく滞在している自分(雪尾)をもイメージしてのものなのかもしれない。そして、次の宰鳥(蕪村)の折端の句、「草履の〆(シメ)を切て投出す」の短句(七七句)は、蕪村の五十三歳(明和五年)のときの、「宿かせと刀投出す雪吹(フブキ)哉」を彷彿させるような、ドラマ趣向の、後年の蕪村の一面を如実に感じさせるような句作りなのである。この歌仙が巻かれたのは、元文四(一七三九)年、ときに、宰鳥(蕪村)二十四歳のときで、実に、三十年近くの時間的な経過が、この両者の間には存在する。すなわち、後年の蕪村の作風というものは、この歌仙が巻かれたころの、江戸の日本橋の夜半亭に巴人の内弟子として滞在していたころに、その全ての萌芽があるといえるであろう。さて、十九句目の、宋阿(巴人)の、「髪置にうつくしきもの松の霜」とは、「髪置」(幼児が髪を初めて伸ばす折の儀式で、三歳の陰暦十一月十五日にすることが多い。式は頭に白粉を塗り、白髪綿と呼ばれる綿帽子をかぶせ、櫛で左右の鬢を三度掻くなどし、その後産土の社に詣でるもの)の句で、その髪置の日、庭の松が、その髪置の白髪綿のように美しい霜を戴いているというのである。いかにも、老練な夜半亭一世・宋阿らしい句作りである。

(十)

 二〇  小づかひ帳の役はこしもと           少我
 二一 糸屑の絶ぬたもとは静也             宰鳥
 二二  牛馬の影は七つより前             雪尾

 名残の表の二句目から四句目の展開である。この少我、宰鳥、そして、雪尾とは、年齢的には殆ど同年齢程度なのではなかろうか。この歌仙を巻いた元文四年(一七七五)は、蕪村こと宰鳥は二十三歳なのであるが、京都出身の雪尾は宰鳥よりも若干年齢的には上のようにも思われるけれども、後に、宝暦元年(一七五一)、蕪村三十六歳の、再び、京都に帰ったときのことについて、「名月摺物の詞書」に次のような記述が見られる(大礒義男「評伝蕪村」・『国文学解釈と鑑賞:昭和五三・三』)。

「予、洛に入りて先づ毛越を訪ふ。越、東都に客たりし時、莫逆の友也。」(私は、京都に再帰して最初に毛越(雪尾)を訪ねました。毛越とは、毛越が江戸に居られたときに、意気投合したきわめて親密な友人であります。)

 この毛越こと雪雄の、この毛越という号は、芭蕉の『おくのほそ道』の平泉中尊寺・毛越寺の「毛越」とは関係があるのだろうか。雪尾の師とされている斎部路通は、当初、その奥の細道の随行を予定されていたのであるが、曽良が代わって随行し、その後、路通は不祥事などで芭蕉の怒りを受け、それを避けるため奥羽行脚を決行するのであった。すなわち、芭蕉門でも、こと『おくのほそ道』に関連しては、路通は最も関係している一人といえよう。それをもう一歩進めて、想像を逞しくするならば、その路通の晩年の弟子の雪尾は、この歌仙を巻いているころ、芭蕉や師の路通の奥羽行脚の偲びながら、京都より奥羽行脚を決行して、その行脚の前後の江戸の滞在というのが、今回の、この歌仙の、宋阿や宰鳥との再会(これも推測の域を出ないが)に繋がっているのではなかろうか(このことについては、関連して後で触れていきたい)。掲出の句の句意は、「小づかひ帳の役はこしもと」は、「前句の髪置の子の小遣い帳をとりしきる役は腰元の役です」ということ。「糸屑の絶ぬたもとは静也」は、「その腰元は針仕事に余念がなく、絶えぬ糸屑も散らさず、針を動かしていても静かで手並みがあざやかである」と、そして、「牛馬の影は七つより前」は、「裁縫に励むその女性は、夜を徹して、もう明け方の四時頃となる。通りでは牛馬の影が見られる」というようなことであろう。

(十一)

二三 手入れ菊橋場へ通ふかんこ鳥           少我
二四  あみだへ後(ウシ)ロ向(ムケ)てけんどむ   宋阿
二五 けふは留守きのふはあまり早過る         雪尾

 名残の表の五句目から七句目である。少我の句の「橋場」は、現台東区今戸の橋場で、橋場の渡しで知られている所、その東橋場には火葬場があった。現在のその近辺の地図は次のアドレスの通り。

http://vip.mapion.co.jp/front/Front?uc=1&nl=35/43/20.010&el=139/48/37.486&grp=excite&scl=20000

 句意は、前句の「七つ」を午後の「七つ」(現在の四時頃)と見立て替えして、「その牛馬の影が見えるところは、かんこ鳥が鳴くような侘びしい火葬場のある橋場付近で、その侘びしい所で菊の手入れをしている」というところ。次の宋阿の句は、その菊を手入れしているもの侘びしい人物を、慳貪(盛り切りうどん)を食べている情景と転じて、句意は、「その男は阿弥陀さまに背を向けて、一人もの侘びしく慳貪うどんを食べている」と滑稽句の付句であろう。その宋阿の付句に対して、雪尾は、客人に合わぬ邪険な男に見立て替えして、「その男は、昨日は時刻が早いといい、今日は約束の時に留守をして、どうにも始末が困る」というのであろうか。何とも他愛のない付句の応酬といえばそれまでだが、当時の夜半亭一門を取り巻く環境の一端や、その日常生活などが、これらの付句の応酬の背景を通して透けて見えてくるという雰囲気である。

(十二)

 二六  帋(カミ)に紅葉を包む挨拶         宰鳥
二七 帰るには有明月のたのものしき         宋阿
二八  一人の母をもちし虫売            少我

 名残の表は八句目から十句目の展開である。宰鳥の句は、「紅葉狩りに行った人が、あいにく留守で、手紙に紅葉を添えて置いていった」という光景。さりげなく手紙の句を出して、恋文を連想させ、次の句に恋句を呼び出している、「恋の呼び出し」の句という雰囲気である。次の宋阿の句は、その宰鳥の恋の呼び出しの句を受けての、後朝の恋の句である。前句の紅葉を添えての手紙の送り主を、後朝の別れの女性と見立てて、その女性と早朝の別れをする男性は、「帰途につくのには、早朝の有明の月が丁度良い按配である」というのであろう。二十九句目(名残の表十一句目)の月の定座を引き上げて、有明月の句にしている。次の少我の句は、その帰途につく男性を虫売りの男性と特定して、「その虫売りは母一人待つ家に帰っていく」という光景であろう。紅葉狩りの風雅人から、後朝の別れの王朝風へと転じ、さらに、日常市井の虫売りの景へと、それぞれが、前句を受けて、十分に持ち味を出しているいるという雰囲気である。この歌仙が巻かれた元文四年(一七三九)は、夜半亭宋阿こと、早野巴人は六十四歳で、その三年後の寛保二年(一七四二)の六月六日に六十七歳で亡くなる。この元文四年の、『俳諧桃桜』(左巻「其角追善集」、右巻「嵐雪追善集」)は、宋阿の最後の大きな上梓といえるものであろう。この年、夜半亭宋阿の後継者の一人と目されていた、京都の俳人、宋屋(当時の号は富鈴)は『梅鏡』を上梓し、宋阿はそれに序文を寄せている。しかし、この宋屋は、宋阿亡き後、夜半亭二世を引き継ぐことなく、その二世を引き継ぐのは、明和七年(一七七〇)の、その三十年後の、五十五歳の宰鳥こと与謝蕪村、その人であった。

(十三)

二九  奉公の名におもしろきおぐしあげ        宰鳥
三〇   杭より西のそばたちやさしき        ゆきを 
三一  肴荷に菜の氷つく朝嵐             少我

 名残の表十一句目・折端から名残の裏折立の展開である。宰鳥の句は、前句に対する逆付け(向付け)で、虫売りの女性から御髪上げ(貴人の髪を結うこと)の高家の女性へと転じて、「奉公の名が御髪上げとはこれまたおもしろい」という句意。次の雪尾の句は、「その御髪上げの女性は、西国の領地に住むお方はさすがに東国育ちとは違って上品である」というのであろう。そして、少我の句は、「その高家の台所の肴の荷と一緒の菜には氷がついているような寒い日で、外では朝嵐が吹いている」という光景であろう。京都の俳人、後の毛越こと、ゆきを(雪尾)の師は芭蕉門の斎部路通については先に簡単に触れたが、この路通は、この歌仙が巻かれた前年(元文三年)に九十歳で没している。この路通は、この晩年には京都に多く住んでいたとのことであるが、大阪にも居たようで、もとより一戸を構えての生活ではなく、他家に寄食しての生活で、『猿蓑』での路通の代表句の一つにもされている、「いねいねと人にいはれつ年の暮」というような生涯であったのであろう。
雪雄が、この路通を俳句の師とし、そして、この師の路通が亡くなった翌年に、江戸に出て来て、おそらく、路通とは面識があった宋阿のもとで、この歌仙を巻いているということは、何か興味がひかれるところである。
 なお、斎部(八十村)路通については、下記のアドレスにより、次のように紹介されている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/rotsu.htm

「八十村氏。近江大津の人。三井寺に生まれ、古典や仏典に精通していた。蕉門の奇人。放浪行脚の乞食僧侶で詩人。後に還俗。元禄2年の秋『奥の細道』 では、最初同行者として芭蕉は路通を予定したのだが、なぜか曾良に変えられた。こうして同道できなかった路通ではあったが、かれは敦賀で芭蕉を出迎え て大垣まで同道し、その後暫く芭蕉に同行して元禄3年1月3日まで京・大坂での生活を共にする。路通は、素行が悪く、芭蕉の著作権に係る問題(註・芭蕉が、加賀の門人からの依頼で書いた付け合い十七体を後になって反故にした。これを路通が勝手に使用して公開してしまった。これで芭蕉の勘気をこうむった 。元禄七年、芭蕉の死の床には路通がいた)を出来し、勘気を蒙ったことがある。元禄3年、陸奥に旅立つ路通に、芭蕉は『草枕まことの華見しても来よ』と説教入りの餞の句を詠んだりしてもいる。貞亨2年春に入門。貞亨5年頃より深川芭蕉庵近くに居住したと見られている。『俳諧勧進帳』、『芭蕉翁行状記』がある。

路通の代表作

我まゝをいはする花のあるじ哉 (『あら野』)
はつ雪や先草履にて隣まで (『あら野』)
元朝や何となけれど遅ざくら (『あら野』)
水仙の見る間を春に得たりけり (『あら野』)
ころもがへや白きは物に手のつかず (『あら野』)
鴨の巣の見えたりあるはかくれたり (『あら野』)
芦の穂やまねく哀れよりちるあはれ (『あら野』)
蜘の巣の是も散行秋のいほ (『あら野』)
きゆる時は氷もきえてはしる也 (『あら野』)
いねいねと人にいはれつ年の暮 (『猿蓑』)
鳥共も寝入てゐるか余吾の海 (『猿蓑』)
芭蕉葉は何になれとや秋の風 (『猿蓑』   」

(十四)

三二   棒をつきつきはや桶の供          宋阿
三三  かすがいの額をせがまれ胡粉とく       雪尾
三四   筧のふしん台どころ迄           少我

名残の裏二句目から四句目の展開である。 宋阿の句の句意は、「その朝嵐の中を棒をつきつき粗末な棺桶の供がやってくる」という光景であろう。雪尾の句は、「その粗末な棺桶の野辺送りの一方、一方では、鎹(かすがい)の額を懇請された画工が胡粉をといている」と場面を転じている。そして、少我は、その鎹の額の作業から家普請の光景に転じて、「筧を台所まで引く家普請の最中である」というのであろう。これらの場面の「はや桶」・「胡粉」・「筧」と、これらは全て当時の風物詩であろう。この歌仙が巻かれた元文四年(一七三九)の頃の、江戸の背景史的な一端は、次のとおりである。

http://homepage2.nifty.com/mitamond/nenpyo/nenpyo_genbun.htm

1736(享保21/元文元)
01月 お半の方、徳川宗春の愛妾となる<天守閣の音>
春 徳川宗春、奇妙なカラクリ使いの香具師と知り合う<天守閣の音>
初夏 加賀藩出頭人・大槻伝蔵、刺客に襲われたところを家士・六兵衛に救われる<虎乱>
六兵衛の子・小市、父に代わって伝蔵に仕える<虎乱>
04月28日 元文に改元
夏 謎の香具師、名古屋城の天守閣に登る<天守閣の音> 雲切仁左衛門、尾張城下で捕らえられる<天守閣の音>
07月02日 荷田春満(68)没
08月12日 大岡忠相、江戸町奉行から寺社奉行となる
11月19日 香林院(大石りく)没
冬 大岡忠相配下の同心・三田村元八郎、将軍宣下に関わる陰謀を追い京へ向かう<竜門の衛> この年 徳川家治の異母兄・下村左源太誕生<将棋大名>
1737(元文2)
04月11日 中御門上皇(37)、没
05月03日 江戸で大火。寛永寺本坊焼失
   22日 徳川家治誕生
11月07日 各地で煙のようなものが吹き出し、火事のように見える[武江年表]
1738(元文3)
02月01日 江戸で夜5時頃、光り物が飛ぶ[武江年表]
   23日 漁師の網に人魚がかかる
04月07日 幕府、大坂に銅座を設置
夏 栗山定十郎、播州の一揆に関係して故郷を追われる<妖星伝>
10月18日 幕府、大筒役を新設
11月01日 幕府、鎌倉で大砲を試射
12月16日 但馬国生野銀山で打壊し
この年 奥丹波の農家の女が京都参詣の帰途、応声虫の病にかかり、腹でものを言い出す[閑田耕筆] 江戸本所の沼を埋め立てようとしたところ、 沼の蝦蟇が老人の姿で現れ、埋め立て中止を進言する[江戸塵拾]
1739(元文4)
01月12日 幕府、尾張藩主徳川宗春に蟄居を命じる
03月08日 青木昆陽、幕府に仕える
09月21日 玉川上水を開いた玉川庄右衛門、水配分に不正ありとして江戸払となる
1740(元文5)
05月 鳥海山噴火
08月03日 後桜町天皇誕生
09月 幕府、青木昆陽を甲信二州に派遣し古文書を採訪させる
この年 芸州の家士五太夫

(十五)

三五  一家中花なき軒もなかり鳧(けり)      宰鳥
三六   四本がゝりの暮遅きあし           筆

 名残の裏五句目から挙句の最終局面である。宰鳥の句の句意は、前句の家普請の景を受けて、「その一族のどの家でも花のない家はなく、その花は爛漫と咲き誇っている」というところであろう。その「一家中」には、この歌仙を巻いている「夜半亭一門」の意味も言外に込められているであろう。そして、執筆の句の句意は、その花爛漫の句を受けて、それを蹴鞠の景に転じて、「その広い屋敷の庭では、蹴鞠の四本掛かりの『松・楓・柳・桜』が植えられていて、春日遅々、蹴鞠に興じている」という光景であろう。そして、この歌仙の最後を飾る挙句には、この歌仙の四吟も終わろうとしている意味合いも込められていて、その意味合いでの「四本がかり」(蹴鞠)を利かせていると解せられるのである。さて、この挙句の作者(執筆)は、この四吟の連衆とは別の他の誰かなのであろうか。それとも、この四吟のうちの誰かが、いわゆる「執筆」(捌きの助手役)を兼ねていたのであろうか?
この歌仙は、夜半亭一門の主宰者の宋阿が、京都から江戸に出て来ている雪尾を囲んでの、宋阿の近辺にいる一門の宰鳥と少我とを誘っての内輪の歌仙興行のように思われ、当時、夜半亭に住み込んで宋阿の内弟子のような境遇にあった、宰鳥こと、若き日の蕪村が、宋阿の手足となって、その執筆の役に当たっていたのではなかろうか?  ここは句数からすると、雪尾九句、宰鳥九句、少我九句、そして、宋阿が八句で、宋阿の挙句が順当なのであるが、当時六十四歳の夜半亭俳諧の宗匠である宋阿が、おそらく、宰鳥(当時二十四歳)と同年齢の若手の雪尾(少我も若手俳人のように思われる)らの、この連衆の中にあって、この歌仙の「あっさりと巻き納める」挙句を担当するであろうか?  ここは、四吟で、順番からすると宋阿の番のようにも思われるけれども、その宋阿が、連衆の一人の、最も当時宋阿の近くに仕えていた、宰鳥に向かって、ここは、「執筆」の名で、「この歌仙の巻き納めをせよ」と、そんな配慮をしたのではなかろうか? これは推測であり、もとよりそれを証しする術もないけれども、ただ一つ、この挙句の季語が、「春遅き」(遅日・遅き日・暮遅し・暮れかぬる・夕長し・春日遅々)であり、この季語の「遅日」こそ、蕪村が生涯にわたって好んで用いたものというのが、その足掛かりのように思えるのである。大正・昭和にかけての近代詩壇の寵児であった、萩原朔太郎が、その著『郷愁の詩人 与謝蕪村』の作品鑑賞の冒頭に持ってきた、次の一句とその解説が、この挙句に接して去来したのである。

○ 遅き日のつもりて遠き昔かな

 蕪村の情緒。蕪村の詩境を単的に詠嘆していることで、特に彼の代表作と見るべきだろう。この句の詠嘆しているものは、時間の遠い彼岸における、心の故郷に対する追憶であり、春の長閑な日和の中で、夢見心地に聴く子守唄の思い出である。そしてこの「春日夢」こそ、蕪村その人の抒情詩であり、思慕のイデアが吹き鳴らす「詩人の笛」に外ならないのだ(萩原朔太郎)。

若き日の蕪村(その二)

若き日の蕪村(その二)

晋我追悼曲の謎

(十六)

   君あしたに去りぬ
   ゆふべの心千々(ちぢ)に何ぞ遙(はる)かなる。
   君を思うて岡の辺(べ)に行きつ遊ぶ
   岡の辺(べ)なんぞかく悲しき

 この詩の作者を名をかくして、明治年代の若い新体詩人の作だと言っても、人は決して怪しまないだろう。しかもこれが百数十年も昔、江戸時代の俳人与謝蕪村によって試作された新詩体の一節であることは、今日僕らにとって異常な興味を感じさせる。実際こうした詩の情操には、何らか或る新鮮な、浪漫的な、多少西欧の詩とも共通するところの、特殊な水々しい精神を感じさせる。そしてこの種の情操は、江戸時代の文化に全くなかったものなのである(萩原朔太郎)。

 『郷愁の詩人 与謝蕪村』(萩原朔太郎著)の冒頭の書き出しの部分である。この著が刊行された当時(昭和十一年)には、朔太郎のいう、この蕪村の新詩体は、この新詩体に出てくる「君」こと、結城の俳人・早見晋我が亡くなった延享二年(一七四五)正月二十八日逝去の追悼のもので、蕪村、三十歳の頃の作とされていた。また、そう解することに何らの疑いも持たれずに、そして、今でもそう解することが当然としてそのように解しておられる方々も多く見かけられる。この蕪村の延享時代の作とする考え方に対して、この作は、ずうと後の、安永六年(一七七七)の蕪村、六十二歳当時の、晋我三十三回忌追悼のものであろうとする考え方が、尾形仂氏によってなされ(『蕪村の世界』所収「北寿老仙を悼む」)、今では、この尾形仂氏の考え方に賛同する方を多く見かけるようになった。ここら辺のところに焦点をあてながら、この蕪村の「北寿老仙を悼む」(別名「晋我追悼曲」)を見ていくことにする。

(十七)

北寿老仙をいたむ

君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
何ぞはるかなる
君をおもふ(う)て岡のべに行(いき)つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき
蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲(さき)たる
見る人ぞなき
雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞(きけ)ば
友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき
へげのけぶりのはと打(うち)ちれば西吹(ふく)風の
はげしくて小竹原(をざさはら)真(ま)すげはら
のがるべきかたぞなき
友ありき河をへだてゝ住(すみ)にきけふは
ほろゝともなかぬ
君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず
花もまい(ゐ)らせずすごすごと彳(たたず)める今宵(こよひ)
ことにたう(ふ)とき 

釈蕪村百拝書

これが「北寿老仙をいたむ」の全文である。この末尾の「釈蕪村百拝書」の「釈」は仏弟子としての姓で、この新詩体(俳詩)に出てくる「君」(北寿老仙)こと、結城の俳人・早見晋我が亡くなつた享延享二年(一七四五)当時は、蕪村(三十歳頃)は結城の弘教寺(ぐきょうじ)に寄寓していて、すでに法体をしていたということであろう。この署名が無ければ、これは、まさしく、萩原朔太郎が、「この詩の作者を名をかくして、明治年代の若い新体詩人の作だと言っても、人は決して怪しまないだろう」ということを実感する。と同時に、この作品を生んだ蕪村という人物は、何ともミステリーな人物に思えてくるのである。

(十八)

この「北寿老仙をいたむ」を、細部にこだわらずに意訳してみると次のとおりとなる。

北寿老仙をいたむ

今朝あなたは突然亡くなってしまった 
今夕わたしの心は乱れに乱れています
どうにもあなたははるか彼方へ行かれたことか
どうにも氣が滅入ってなりません
あなたを偲び 思い出の岡の辺に行きました 
あてどなくさまよい歩きました
何とその思い出の岡の辺は もの悲しいことであつたことか
たんぽぽは黄色に輝き なずなは白く輝いていました
それなのに もう 誰ひとり見る人もおりません
あなたの声でしょうか それとも 雉子でしょうか 
しきりに鳴いています それを聞いています
あなたという友がいて、わたしとあなたは 河をへだてて住んでいました
不思議な煙が一瞬たちこめてきて 西の彼岸の方へ吹く風が
激しく 小笹の原を 真菅の原を 揺さぶり
それでは もう あなたは その雉子は 何処にも逃れる術とてないでしょう
あなたという友がいて、わたしとあなたは 河をへだてて住んでいました
今朝は もう ほろろとも 鳴き声 ひとつしません
今朝あなたは突然亡くなってしまった 
今夕わたしの心は乱れに乱れています
どうにもあなたははるか彼方へ行かれたことか
どうにも氣が滅入ってなりません
わたしは家に引き籠もり 阿弥陀さまに灯明もあげずに  
そして 花もあげずに しょんぼりと 打ち萎れております
なぜか 今宵は ことのほか 阿弥陀さまが 神々しく見えてなりません

この意訳をするに際して、若干、語釈などの留意点をあげておきたい。「去(さり)ぬ」は「去(い)ぬ」・「去(ゆき)ぬ」の詠みもあろう。「何ぞはるかなる」は、「何ぞ杳(はるか)なる」で「何とも暗い」とも解せられるが(『蕪村全集四』)、「何ぞ遙かなる」(距離または年月の遠くへだたっているさま。程度の甚だしいさま。気持の上でかけはなれたさま。気が進まないさま。また、何とも遠い彼岸の人になられてしまった)の意も含ませて意訳したい。「へげのけぶり」は「変化(へんげ)のけぶり」の意に解して(前掲書)、「不思議なけぶり」と意訳したい。「西吹(ふく)風」は、「黄泉・彼岸へ吹く風」の意もあろう。「あみだ仏(阿弥陀仏)」は蕪村が帰依した浄土教の本尊で、この衆生の救済を本願としている阿弥陀仏の賛仰ということは、意訳するうえで心がけておく必要があるように思われる。なお、「千々に」(さまざまに)についても、安永五年六月九日付の暁台宛の書簡(「夏の月千々の波ゆく浅瀬かな」の句あり)などと関連して考察する必要があるのかもしれない。

(十九)

 この「北寿老仙をいたむ」は、蕪村の死後の寛永五年(一七九三)に上梓された、桃彦(二世晋我)編の晋我(一世晋我)五十回忌追善集『いそのはな』に収載されている。早見晋我(一世晋我)は、本名次郎左衛門。下総結城の酒造家で、「北寿」はその隠居号。「老仙」は老仙人の意で蕪村が呈した敬称である。初め、其角、のちに、介我門。結城俳壇の古老として重きをなしていた。蕪村、三十歳の延享二年(一七四五)、七十五歳で没。その妻は、蕪村が二十七歳で師の宋阿と死別後身を寄せた同地の砂岡(いさおか)雁宕(がんとう)の伯母かという(『蕪村全集四』)。これらのことについて、ネット関連のものを調べていたら、次のアドレスで、下記のとおり紹介されており、参考に関連するところを抜粋しておきたい。

http://www.kyosendo.co.jp/rensai/rensai31-40/rensai39.html

※蕪村は享保元年(一七一六)攝津国東成郡毛馬村に生まれた。彼は享保年中(~一七三五)に江戸へ出て来て、二十二才の時に、早野巴人(宋阿)の門に入り俳諧を学ぶと同時に、絵画や漢詩の勉強もしたという。寛保二年(一七四二)、師の巴人が亡くなった後、同門の下総結城の砂岡雁宕(いさおかがんとう)の許に身を寄せ、その後十年、関東、奥羽の各地を廻り歩く。北寿の晋我は結城で代々酒造業を営む素卦家で、通稱を早見治郎左衛門と云い、俳諧は其角の門下で、其角の没後、その弟子の佐保介我に師事したという。晋我は結城俳壇の主要メンバーの一人で、蕪村のよき理解者だったが、延享二年(一七四五)に七十五才でこの世を去った。その時、蕪村は三十才だった。「北寿老仙をいたむ」は、その晋我の追悼詩だが、この詩が実際に世に出たのは、その五十年近く後の寛政五年(一七九三)で、晋我の嗣子、桃彦(とうげん)が亡父の五十回忌に当たり出版した俳諧撰集『いそのはな』の中で、「庫のうちより見出しつるままに右にしるし侍る」と付記があるという。この詩は晋我が死んだ延享二年の作といわれているが、その時、三十才だった蕪村が七十五才の晋我に対して「君」と呼びかけ、「友ありき」などというのは不自然だとして、尾形仂(おがたつとむ)氏は次のような説を述べている。蕪村は三篇の俳詩をものしているが、「北寿老仙をいたむ」以外の二篇、「春風馬堤曲」と「澱河歌」(でんがか)はいずれも安永六年(一七七七)出版の『夜半楽』に収められている。安永六年は晋我の三十三回忌に当たることから、晋我の三十三回忌の記念出版が企てられ、嗣子の桃彦から寄稿の要請を受けて作ったものではないか、というのである。「すでに蕪村は、老境の悲しみを知り、心理的にかっての長上晋我を『友』と遇し『君』と呼んでもそれほど不自然ではない老齢に達していた」(『蕪村俳句集』の解説)、時に蕪村、六十二才である。しかし、その三十三回忌の出版は何らかの理由で中止になり、蕪村の原稿は五十回忌の『いそのはな』の出版時まで桃彦の家の庫の中に収まったまま眠っていた、というのである。なる程、そう考えると、確かに辻褄があう。いずれ、この説が立証されるかもしれない。(上記のネット記事)

(二十)

 ここで、「北寿老仙をいたむ」が収載されている『いそのはな』を上梓した、桃彦(二世晋我)宛ての蕪村(三十六歳)の、宝暦元年(一七五一)十一月□二日付けの書簡を紹介しておきたい(□は虫食いなどによる不明箇所。以下、読みのルビなどは新仮名遣いで括弧書き。新字体に直したところには次に※を付する)。

□椹木(さわらぎ)町□屋与八殿迄
右之処※付ニ而(て)御登可被下候(おのぼせくださるべくそうろう)
此書付壁ニ張付被差置(さしおかれ)
無御失念(ごしつねんなく)御登(おのぼ)せ可被下候
平林氏一行もの、或ハれん二三枚御もらい(ひ)可被下候
当※地庵※中ニ掛(かけ)申度候
外ニ風流ヨリ※達而(たって)所望いたされ候
何とぞ二三枚貴公御徳を以(もって)
拝裁(戴)奉願候(はいたいねがいたてまつりそうろう)
一生之御たのミニ御坐候
大黒したゝめ御礼ニ相下可申候(あいくだしもうすべくそうろう)
京都所々廻見(めぐりみ)
さてさて※おもしろく相暮候(あいくらしそうろう)
先頃臥見(ふしみ)ニ参上 滞留いたし候
□の貴公 夜踊ニ御出被成(おいでなされ)候事思ひだし独※笑(どくしょう)仕候
俳かいも折々仕(つかまつり)候
いまだ何かといそがしく 取とゞめ候事も無之(これなく)候
一両年なじミ候ハバ
一入(ひとしお)面白候半(そうらわん)とたのしミ罷有候(まかりありそうろう)
先々平林公の墨跡 かならずかならず※奉頼(たのみたてまつり)候
是非々々相待申(あいまちもうし)候
鴛見(おしみ)
お(を)し鳥に美をつくしてや冬木立
その外あまた有之(これあり)候 略※いたし候
ゆふき田洪いかゞ候や
御ゆかしく候 以上
霜月□二日

(二十一)

□椹木(さわらぎ)町□屋与八殿迄
右之処※付ニ而(て)御登可被下候(おのぼせくださるべくそうろう)
此書付壁ニ張付被差置(さしおかれ)
無御失念(ごしつねんなく)御登(おのぼ)せ可被下候
平林氏一行もの、或ハれん二三枚御もらい(ひ)可被下候

 蕪村は結城・下館・宇都宮を中心に関東遊歴十年の後、宝暦元年(一七五一)八月、木曽路を経て京に再帰した。時に、三十六歳であった。当時は、人生八十年ではなく五十年というスパンであろうから、もはや、中年といってもよいであろう。そういう年齢に達していても、蕪村は未だ独身で、一家を構えることもなく、京に再帰して、「□椹木(さわらぎ)町□屋与八殿」の家に寄寓しているというのであろう。「此書付壁ニ張付被差置(さしおかれ) 無御失念(ごしつねんなく)御登(おのぼ)せ可被下候」とは、「この手紙を壁に貼り付けて、忘れることなく、必ずお返事ください」と、この手紙の宛先の桃彦と蕪村とは、蕪村が兄で桃彦が弟のような、何か身内同士のやりとりのようにも思えるのである。また、事実、そういう関係にあったのであろう。「右之処※付ニ而(て)御登可被下候(おのぼせくださるべくそうろう)」とは、「右の宛名で、ご返事下さい」と、書き出しから、「ご返事下さい」と、そして「平林氏一行もの、或ハれん二三枚御もらい(ひ)可被下候」(平林氏の書の一行もの、あるいは、左右対になっている聯もの二・三枚貰ってください)、そして、それを京都の「□椹木(さわらぎ)町□屋与八殿迄」(蕪村まで)送ってくださいというのである。随分と厚かましい内容の書簡なのである。平林氏とは、「平林静斎」のことで、「父は鍵屋清左衛門。十二歳の時、父に伴われて広沢の門に入る。別名、消日居士、桐江山人、東維軒。王義之、王献子に学び、他に漢、魏、随、唐の名家の書を学んで広沢門下四天王の一人と言われた。門人二千人。宝暦三年、五十八歳没。当時人気の絶頂にあった書家である」(村松友次著『蕪村の手紙』)という。

(二十二)

当※地庵※中ニ掛(かけ)申度候
外ニ風流ヨリ※達而(たって)所望いたされ候
何とぞ二三枚貴公御徳を以(もって)
拝裁(戴)奉願候(はいたいねがいたてまつりそうろう)
一生之御たのミニ御坐候
大黒したゝめ御礼ニ相下可申候(あいくだしもうすべくそうろう)
京都所々廻見(めぐりみ)
さてさて※おもしろく相暮候(あいくらしそうろう)
先頃臥見(ふしみ)ニ参上 滞留いたし候
□の貴公 夜踊ニ御出被成(おいでなされ)候事思ひだし独※笑(どくしょう)仕候
俳かいも折々仕(つかまつり)候

「当※地庵※中ニ掛(かけ)申度候」(この京都の寄寓の壁にその平林静斎の書を掛けたいのです)、「外ニ風流ヨリ※達而(たって)所望いたされ候」(その外、知り合いの風流人から是非にと所望されているのです)。「何とぞ二三枚貴公御徳を以(もって)」(ここは、桃彦さまのご人徳をもって、二三枚)、「拝裁(戴)奉願候(はいたいねがいたてまつりそうろう)」
(手に入れていただきたくよろしくお願いします)。これは、「一生之御たのミニ御坐候」(一生のお願いでございます)。平林静斎の書を送ってくださったときには、「大黒したゝめ御礼ニ相下可申候(あいくだしもうすべくそうろう)」(大黒を描いてお礼にお送りいたします)。この「大黒」とは、いわゆる七福神(恵比寿、大黒、毘沙門、弁財、布袋、福禄寿、寿老人)の大黒様で、それを描いて差し上げますと、やはり、蕪村は画家で、そういうものを、需要に応じて描いて、それで生計を立てていたのであろう。当時、蕪村が描いたと推測されている「大黒絵手本」(『蕪村全集六』所収図版一六)が、下館の中村家(当時夜半亭門の俳人・風篁)に現に所蔵されている。この中村家には、この外に、「子漢」の署名の「陶淵明三幅対」(前掲書所収図版一)、「浪華四明筆」の落款の「漁夫図」(前掲書所収図版三)、「四名」の署名の「三浦大助三幅対」(前掲書所収図版二)、杉戸絵四面の「追羽子図」(前掲書図版八)、さらに、八面貼込の模写絵の「文徴明八勝図」(前掲書図版九)などが所蔵されている。これらの当時の作品群に接すると、蕪村は、主たるウエートを絵画に置き、その絵画と同時併行して俳諧の修業をしていたことが伺える。そして、その関東出遊時代の修業時代を終え、再び、京都に帰って来て、「京都所々廻見(めぐりみ)」(京都の所々を見て回り)、「さてさて※おもしろく相暮候(あいくらしそうろう)」(とにもかくにも面白く暮らしています)と、意気盛んなのである。続いて、「先頃臥見(ふしみ)ニ参上 滞留いたし候」(先日、伏見に行って、しばらく遊んで来ました)。「□貴公 夜踊ニ御出被成(おいでなされ)候事思ひだし独※笑(どくしょう)仕候」(その折、あなたの、何時かの夜、踊りに来た時のことを思い出して、一人で苦笑していました)。「俳かいも折々仕(つかまつり)候」(俳諧の方も忘れずに折に触れては作っています)と、当時の、蕪村の姿が彷彿としてくるのである。

(二十三)

いまだ何かといそがしく 取とゞめ候事も無之(これなく)候
一両年なじミ候ハバ
一入(ひとしお)面白候半(そうらわん)とたのしミ罷有候(まかりありそうろう)
先々平林公の墨跡 かならずかならず※奉頼(たのみたてまつり)候
是非々々相待申(あいまちもうし)候
鴛見(おしみ)
お(を)し鳥に美をつくしてや冬木立
その外あまた有之(これあり)候 略※いたし候
ゆふき田洪いかゞ候や
御ゆかしく候 以上
霜月□二日

「いまだ何かといそがしく 取とゞめ候事も無之(これなく)候」(まだ、何かと忙しく、特に、記録に留めておくようなこともございません)。「一両年なじミ候ハバ」(一・二年この京都におりましたら)、「一入(ひとしお)面白候半(そうらわん)とたのしミ罷有候(まかりありそうろう)」(かならずや、面白いニュースなどもお知らせできると、楽しみにしていてください)。「先々平林公の墨跡 かならずかならず※奉頼(たのみたてまつり)候」
(とにもかくにも、平林静斎の書き物、必ず、必ず、忘れないで、よろしくお願いします)。
「是非々々相待申(あいまちもうし)候」(是非、是非、お待ちしています)。凄い、執心である。
鴛見(鴛見の句)
お(を)し鳥に美をつくしてや冬木立
(鴛鳥に彩色を使い果たしてしまったのか、冬木立は水墨画のような装いである)
「その外あまた有之(これあり)候 略※いたし候」(その外にも、このような句はありますが、省略します)。「ゆふき田洪いかゞ候や」(結城在住の、弟様の田洪はどうしておりますか)。「御ゆかしく候 以上」(とても懐かしく存じます 以上)。
霜月□二日(陰暦十一月□二日)

蕪村が京都に再帰したのは、宝暦元年(一七五一)八月(陽暦十月)のことであり、この書簡の日付からして、この桃彦あてのものは、その二ヶ月後ということになる。当時、桃彦が、結城に居たのか、それとも、江戸に居たのか(弟の田洪が結城に居て、桃彦は、平林静斎の書が手に入るような江戸在住であったのか)、詳しいことは分からない。しかし、こういう無心の書簡を出せるということは、結城の早見晋我・桃彦・田洪の、いわゆる、晋我一族とは、昵懇の間柄であったということは間違いなかろう。

(二十四)

○ 肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)

 この掲出の句は、宝暦元年(一七五一)霜月□二日(陰暦十一月□二日)の桃彦宛ての書簡に前後した頃の蕪村の句である。句意は、「僧に化けた狸が書き写したという木の葉経を己の髪の毛を噛み噛み読誦するかと思えば何とも寒々としてくる」というようなことであろうか。この句碑は現在結城市の弘経寺に建立されている。結城の檀林弘経寺は浄土宗。壽亀山松樹院弘経寺といい、所在は結城市西町、創建は文禄三年(一五九四)と伝える。徳川秀康(家康の孫)の息女松姫が六歳で没したのでその菩提寺として秀康の創建したもの。この寺は、砂岡雁宕の菩提寺で、今も雁宕の墓がある。同寺の過去帳によると、雁宕は弘教寺第二十九世成誉上人血脈である旨記されている。雁宕と同寺との特別な関係から、蕪村もしばしば同寺を訪れ、画作に精進したのであろう。同寺には、襖絵四枚「墨梅図」(『蕪村全集六』所収図版十)、同六枚「楼閣山水図」(前掲書所収図版十一)などが所蔵されている。さて、この掲出の句には、「洛東間人嚢道人釈蕪村」と、俳詩「北寿老仙をいたむ」の署名と同じ「釈蕪村」の署名があるのである。
なお、次のアドレス(蕪村ゆかりの場所:結城)に写真などが掲載されている。

弘経寺については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/gugyoji.html

木葉経句碑については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/konoha.JPG

雁宕句碑については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/gantoku.JPG

雁宕の墓については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/ganto.html

妙国寺(「北寿老仙をいたむ」の詩碑がある)については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/myokoku.html

「北寿老仙をいたむ」詩碑については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/hokujuhi.html

早見晋我の墓については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/shinga.html

蕪村筑波山句碑については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/tsukuba.JPG

(二十五)

この署名の「洛東間人嚢道人釈蕪村」の「釈蕪村」の「釈」は、仏弟子としての姓を意味するということについては先に触れた。そして、終世の俳号となる「蕪村」については、寛保四年(一七四四)の、蕪村初撰集の、いわゆる『宇都宮歳旦帖』において始めて使われた号なのである。その表題には次のとおり記載されている。

寛保四甲子 (かんぽう よん かっし)
歳旦歳暮吟 (さいたん さいぼの ぎん)
追加春興句 (ついか しゅんきょうの く)
野州宇都宮 (やしゅう うつのみや)
渓霜蕪村輯 (けいそう ぶそん しゅう) 

 この「渓霜蕪村輯(編集)」の「渓霜」は姓で、蕪村の本姓の「谷口」(中国風に「谷」)の意と解せられよう。「霜」は、先に触れた歌仙「染る間の」の巻が収載されている『俳諧桃桜』(宋阿撰集)に、宰鳥の名で収載されている発句、「摺鉢(すりばち)のみそみめぐりや寺の霜」の「霜」とも思われ、宰鳥の号の初見も、実にこの発句に置いてなのである(また、この『俳諧桃桜』の版下は、宰鳥こと蕪村その人であろうといわれている)。そして、「蕪村」の号の由来は、蕪村が敬愛した中国・六朝時代の詩人・陶淵明の「帰去来辞」によるものとされている。

帰去来兮 (帰りなんいざ)
田園将蕪 (田園まさにあれんとす)
胡不帰  (なんぞ帰らざる) 

 また、蕪村開眼の一句とされている、この『宇都宮歳旦帖』の上梓の前年あたりに決行した奥羽行脚の遊行柳での、「柳散清水涸石処々」(やなぎちりしみずかれいしところどころ)などの、その北関東や奥州の荒廃した荒れた荒蕪の村々のイメージが、この「蕪村」という号の背後に蠢いているようにも思えるのである。そして、この「洛東間人」の「間人」(荘園制下で、村落共同体の最下層に位置づけられた新来の住民。卑賤視されることが多く、近世にも名称は残存する。亡土とも書く)にも、さらには「嚢道人」の「嚢」(蕪村の絵画の号「虚洞」に通ずる無限の風を生ずるとの老荘思想に由来するもの)や「道人」(これまた老荘思想に関連する「俗世間より遁れて山間に生活する人」の意など)にも、当時の蕪村の「生き様」というのが透けて見えてくるような思いがするのである。

(二十六)

 蕪村の「肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)」の句には、次のような前書きのような一文が添えられている。

「しもつふさの檀林弘経寺といへるに、狸の書写したる木の葉の経あり。これを狸書経と云て、念仏門に有がたき一奇とはなしぬ。されば今宵閑泉亭にて百万遍すきやうせらるゝにもふで逢侍るに、導師なりける老僧耳つぶれ声うちふるいて、仏名もさだかならず。かの古狸の古衣のふるき事など思ひ出て、愚僧も又こゝに狸毛を噛て」
(下総の浄土宗の十八檀林の一つの弘経寺というところに、狸の書写したという木の葉の経文がある。この経文は狸書経と云って、浄土宗においては有り難い奇特のものとされてている。そんなこともあって今晩閑泉亭において百万遍念仏法会が執行せられるに参会いしましたところ、その法会の唱道の師の老僧は耳も聞こえず声も震えていて、仏の名すらも覚束ないありさまでした。この木の葉の経を書写したという古狸の古衣などの昔の事を思い出しまして、愚僧の私もここに、その古狸の毛を噛みなから、一句したためます。)」

 この「愚僧も又こゝに狸毛を噛て」ということについては、その署名の「洛東間人嚢道人釈蕪村」の「釈」(釈迦の弟子であることを表するために、僧侶が姓として用いる語)の姓からして、当時の蕪村その人と解して、上記のように意訳したのであるが、『蕪村全集(四)』においては、「老僧の経は自分の毛で作った筆を噛み噛み書いた木の葉経ではないか」との解である。さらに、この「閑泉亭」については、その頭注において、「あるいは『閑雲亭』の誤読か。閑雲亭とすれば宮津の鷺十の真照寺」とし、「『洛東間人嚢道人』の署名より、宝暦初年の作。あるいは丹後時代(宝暦四~七)か」の「丹後時代(宝暦四~七)」のものの可能性についても触れられている。その「丹後時代のものか」ということよりも、
「『洛東間人嚢道人』の署名より、宝暦初年の作」の、この「洛東間人嚢道人」の署名は、、宝暦初年の頃のものであり、さらに、それに続く「釈蕪村」の署名も、蕪村の宝暦年間のものであり、まして、蕪村が夜半亭二世を継いだ、明和七年(一七七〇)、蕪村、五十五歳以降に、この署名というのは、『蕪村全集』(既刊もの)を見た限りにおいては、目にすることが出来ないのである。とすれは、先に触れたところの、次のネット記事の、安永六年(一七七七)説よりも、延享二年(一七四五)説に、または、それに近い、宝暦年間のものとするのが妥当なのではなかろうか。

「晋我の嗣子、桃彦(とうげん)が亡父の五十回忌に当たり出版した俳諧撰集『いそのはな』の中で、『庫のうちより見出しつるままに右にしるし侍る』と付記があるという。この詩は晋我が死んだ延享二年の作といわれているが、その時、三十才だった蕪村が七十五才の晋我に対して『君』と呼びかけ、『友ありき』などというのは不自然だとして、尾形仂(おがたつとむ)氏は次のような説を述べている。蕪村は三篇の俳詩をものしているが、『北寿老仙をいたむ』以外の二篇、『春風馬堤曲』と『澱河歌』(でんがか)はいずれも安永六年(一七七七)出版の『夜半楽』に収められている。安永六年は晋我の三十三回忌に当たることから、晋我の三十三回忌の記念出版が企てられ、嗣子の桃彦から寄稿の要請を受けて作ったものではないか、というのである。『すでに蕪村は、老境の悲しみを知り、心理的にかっての長上晋我を『友』と遇し『君』と呼んでもそれほど不自然ではない老齢に達していた』(『蕪村俳句集』の解説)、時に蕪村、六十二才である。しかし、その三十三回忌の出版は何らかの理由で中止になり、蕪村の原稿は五十回忌の『いそのはな』の出版時まで桃彦の家の庫の中に収まったまま眠っていた、というのである。なる程、そう考えると、確かに辻褄があう。いずれ、この説が立証されるかもしれない」(先のネット関連記事)。

(二十七)

 蕪村の「肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)」の句に関連する、「木の葉経句文」について、『蕪村全集(四)』の解説・頭注は以下のとおりである。

(解説)
真蹟によって潁原退蔵編『蕪村全集』(大正十四年刊)に収録されたもの。現在、原真蹟の所在不明。「洛東間人嚢道人の署名より、宝暦初年の作。あるいは丹後時代(宝暦四~七)か。老僧の念仏の声がさだかでないところから、古狸ではないかとの幻想をいだき、弘経寺の木の葉経のことを思い起こして、老僧の経は自分の毛で作った筆を噛み噛み書いた木の葉経ではないかと興じたもの。
(頭注)
木の葉経  狸の化身である僧侶が写したといわれる経。言い伝えによれば、飯沼(水海道市)の弘経寺第二世良暁上人の徒弟の良全は仏門に入るために人の姿に化けた狸であったが、正体が露見したのを恥じて、経を遺して死んだので、上人がねんごろにとむらい、その経を寺宝にしたという。それが結城の弘経寺に伝わり、住職のほかは見ることができないとされている。

さらに、潁原退蔵編『蕪村全集』(大正十四年刊)に、次のような頭注がある。

(頭注)
遺草  これは蕪村が京都に西帰して間もなく、即ち宝暦初年の頃書きしものと思はれる。筆跡も晩年のものとはいたく異り。

この潁原退蔵編『蕪村全集』(大正十四年刊)の頭注の「これは蕪村が京都に西帰して間もなく、即ち宝暦初年の頃書きしものと思はれる。筆跡も晩年のものとはいたく異り」は、この「木の葉経句文」の署名の、「洛東間人嚢道人釈蕪村」についても、均しく指摘できるところのものであり、このこともまた、その「釈蕪村」の署名が、「安永六年(一七七七)説よりも、延享二年(一七四五)説に、または、それに近い、宝暦年間のものとする」ところの一つの証しにもなるように理解をしたいのである。

(二十八)

阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探(さぐり)て、一羽烏といふ文作らんとせしも、いたづらにして歴行する事十年の后(のち)、飄々(ひょうひょう)として西に去(さら)んとする時、雁宕が離別の辞に曰(いわ)く、再会興宴の月に芋を喰(くう)事を期せず、倶(とも)に乾坤(けんこん)を吸(すう)べきと、其(その)言をよしとして、翅書(ししょ)さへまめやかにせざりしに、ことし追悼編集の事告(つげ)来(きた)るにぞ、さすがに涙もろく、斎団扇(ときうちわ)の上に酬書(しゅうしょ)し侍る。跋とすやしらず、捨(すつ)るやしらず。 釈蕪村

(わが宋阿師が没して後、しばらくその主の無い家に居て、わが師の遺されたものを調べまして、それらを一羽烏という題にて文集を作ろうとしましたが、何をすることもなくあちこちと歴行をするばかりで十年が過ぎてしまいました。そして、当てもなくこうして京都に再帰するにあたり、兄事していた雁宕の別れの言葉に、再会月見の興宴の時には芋などを喰らっていずに、お互いに天下を一飲みに飲み干そうと言われ、その言葉を肝に銘じて、手紙もこまめにせず過ごしてきましたが、今年、宋阿師の追悼編集の連絡を受けまして、どうにも涙がこぼれてなりません。その追悼の法事に供する団扇に、こうしてその返書をしたためましたが、それが、跋文になるのものやら、それとも捨てられてしまうものやら、とにもかくにも、返書をする次第です。 釈蕪村 )

 これは、雁宕他編『夜半亭発句帖』に寄せられた蕪村の「跋文」である。『夜半亭発句帖』は、宝暦五年(一七五五)に夜半亭宋阿こと早野巴人の十三回忌にその発句(二八七句)を中心にして上梓したものである。この序文は雁宕が宝暦四年の巴人の命日(六月六日)をもって記しており、上記の蕪村の跋文もその当時に書かれたということについては動かし難いことであろう。この宝暦四年(蕪村、三十九歳)に、蕪村は京を去って丹後与謝地方に赴き、宮津の浄土宗見性寺に寄寓し、以後三年を過ごすこととなる。この丹後時代の蕪村の署名は、「嚢道人蕪村」というものが多く、この『夜半亭発句帖』の「跋文」に見られる「釈蕪村」の署名は、蕪村が京に再帰した宝暦元年(一七五一)からこの跋文が書かれた同四年頃までに多く見かけられるものである。そして、「北寿老仙をいたむ」の「北寿老仙」こと早見晋我が没したのは延享二年(一七四五)であり(その前年の延享元年に巴人亡き後の親代わりのような常磐潭北が没している)、それは巴人が没する寛保二年(一七四二)の三年後ということになる。即ち、巴人十三回忌に当たる宝暦四年前の宝暦二年前後が、晋我(また、常磐潭北)の七回忌に当たり、その頃、在りし日の北関東出遊時代のことを偲びながら、当時京都に再帰していた蕪村が、古今に稀な俳詩「北寿老仙をいたむ」を書き、そして、当時こまめに文通していた晋我の継嗣・桃彦宛てに、「釈蕪村百拝書」と署名して送ったもの、それが、「北寿老仙をいたむ」の作品の背景にあるように思えてくるのである。

(二十九)

予、洛に入(いり)て先(まず)毛越(もうをつ)を訪ふ。越(をつ)、東都に客たりし時、莫逆(ばくげき)の友也。曽(かっ)て相語る日、いざや共に世を易して、髪を薙(なぎ)、衣を振(ふるっ)て、都の月に嘯(うそぶか)む、と契りしに、露たがはず、けふより姿改(あらため)て、或は名を大夢(たいむ)と呼ブ。浮世の夢を見はてんとの趣いとたのもし、など往時を語り出(いで)ける折ふし、紅竹(こうちく)のぬし、榲桲(まるめろ)を袖にして供養せられければ、即興。
  まるめろはあたまにかねて江戸言葉   東武 蕪村

(私は、京都に帰って来まして、先ず毛越を訪れました。毛越は、江戸に来ていたときに、意気投合し心の許し合った仲間です。その当時、語り合ったことですが、手を携えて俳壇を改革しょうと、剃髪し、俗塵を脱して、再び、京都で再会したときには、月見の興宴で共に句を吟じようと、その約束通りに、今日から僧形になって、名を毛越から大夢に改め、この現世での希望を現実にするその姿勢に非常に心がうたれるものがあります。このような往時のことを語り合っていますと、俳友の紅竹が、他のものは何も上げることはできないが、せめて花梨のマルメロでも頭を丸めた二人に献じましょうと云われましたので、そこで、即興の一句です。

まるめろはあたまにかねて江戸言葉   
――「まるめろ」は「花梨のまるめろ」と「頭をまるめろ」
とを兼ねた江戸言葉です ――
江戸 蕪村 )

 蕪村が永く歴行していた江戸と関東時代に見切りをつけ京都に再帰したことと、再帰して先ず雪尾こと毛越を訪れたことについては先に触れた。上記がそれらを証しする「まるめろは」詞書(宝暦元年)の全てである。この詞書について、” 大礒義雄氏が昭和五十年ごろに入手した半紙本一冊の写本『聞書花の種』に、「名月摺物詞書」と題し、「東武 蕪村」の名で収められている(「国文学解釈と鑑賞」昭和五十三年三月号)。写真版は『図説 日本の古典 芭蕉・蕪村』(昭和五十三年十月刊)に掲げる。『聞書花の種』は俳文集で、筆録者不明だが、大礒氏によればおそらく京都の人で、あるいはこの文中に名前の見える毛越かと思われるという(「連歌俳諧研究」第五十四号、昭和五十三年一月)。この一文によって、蕪村の上京が名月のころであったことがわかる。句は他に所見がない。” と『蕪村全集(四)』で紹介されている。これらのことに関して、これまでのことと重複するかも知れないが、この京都に再帰した宝暦元年当時の蕪村の署名は、「東武 蕪村」というもので、「釈蕪村」というものは見あたらない。また、これ以前においても、「渓霜蕪村」という、いわゆる『宇都宮歳旦帖』での署名は見るが、これまた、「釈蕪村」の署名というのは見あたらない。これらのことからして、いわゆる、蕪村の俳詩「北寿老仙をいたむ」の創作時期は、北寿老仙が亡くなった延享二年という説は、何か「唐突に、釈蕪村の署名がなされている」という思いがするし、さらに、「蕪村は三篇の俳詩をものしているが、『北寿老仙をいたむ』以外の二篇、『春風馬堤曲』と『澱河歌』(でんがか)はいずれも安永六年(一七七七)出版の『夜半楽』に収められている。安永六年は晋我の三十三回忌に当たることから、晋我の三十三回忌の記念出版が企てられ、嗣子の桃彦から寄稿の要請を受けて作ったものではないか、というのである。『すでに蕪村は、老境の悲しみを知り、心理的にかっての長上晋我を『友』と遇し『君』と呼んでもそれほど不自然ではない老齢に達していた』(『蕪村俳句集』の解説)、時に蕪村、六十二才である。しかし、その三十三回忌の出版は何らかの理由で中止になり、蕪村の原稿は五十回忌の『いそのはな』の出版時まで桃彦の家の庫の中に収まったまま眠っていた」とする、いわゆる安永六年説も、この「釈蕪村」の署名に関連して、何か不自然な推論のように思えてくるのである。ここは、その「釈蕪村」の署名により、その署名が見られる宝暦四年の『夜半亭発句帖』(巴人十三回忌追悼集)の蕪村の「跋文」起草前後、そして、それは、晋我七回忌あるいは十三回忌とかと関連するものと理解をしたいのである。これらの新しい理解を提示するために、以下、稿を改めて、” 大礒義雄氏が昭和五十年ごろに入手した半紙本一冊の写本『聞書花の種』に、「名月摺物詞書」と題し、「東武 蕪村」の名で収められている(「国文学解釈と鑑賞」昭和五十三年三月号)”ことなど、大礒義雄氏の「評伝・与謝蕪村」の関連するところを忠実にフォローして見たいのである。 

若き日の蕪村(その三)

若き日の蕪村(三)

(三十)

「江戸生活その一」(「国文学 解釈と鑑賞」五五六号所収、大礒義雄稿「評伝・蕪村」抜粋)

蕪村が故郷を出て江戸へ赴いたのはいつであろうか。江戸居住の正確な年時の知れるものは元文二年、二十二歳の時である。しかしそれより二、三年さかのぼり享保の末年ではないかというのが従来の推測であり、それらしく思われる。新資料の出現や研究の進展により将来明らかにされるかもしれない。大江丸は蕪村ははじめ「江戸内田沾山に倚り、後に巴人宋阿の門人とな」ったと述べている。しかし、沾山との関係を知るべき資料は何一つ見つからない。又、蕪村ははじめ宰町・宰鳥の俳号で出てくるので、江戸座の足立来川門に西鳥という名で出ている者があり、これが同音から蕪村ではないかという西鳥初号説と来川門人説とがあるが、確実性に乏しくむしろ否定さるべきものである。巴人宋阿は下野
国那須郡烏山の人で、早くから江戸に出て其角・嵐雪の教えを受け江戸俳壇で知られた人であるが、京にのぼり止まること、十年、元文二年四月江戸に帰り、日本橋本石町三丁目の小路にある時鐘のほとりに居を定めて夜半亭と称した。この年内に蕪村が宋阿を訪れて入門したことは、翌元文三年の『夜半亭歳旦帖』に蕪村の出句があることで明瞭である。ただ、どのような縁故関係があって、宋阿門に帰したかは明瞭でない。宋阿の京住時代に交渉があったと見る説は、今後の課題であろう。
(メモ)
元文二年(一七三七) 二十二歳
四月三十日 在京十年の巴人は砂岡雁宕のすすめで江戸に帰り、六月十日頃豊島露月の世話で日本橋本石町三丁目の鐘楼下に夜半亭の居を定め、宋阿と改号。
○間もなく「宰町」が入門、内弟子として夜半亭に同居。大江丸の『はいかい袋』に「江戸内田沾山に倚り、後に巴人宋阿の門人とな」ったという記事が見える。沾山は沾徳の高弟で当時江戸座の一流俳人とされている。
元文三年(一七三八) 二十三歳
○この年刊行の巴人の『夜半亭歳旦帖』に次の句が入集されている。
    君が代や二三度したる年忘れ
続いてこの年夏刊行の、豊島露月が七十歳の賀集として撰した『卯月庭訓』には「宰町自画」として、次の句が見られる。
    尼寺や十夜に届く鬢葛

(三十一)

「「江戸生活その二」(「国文学 解釈と鑑賞」五五六号所収、大礒義雄稿「評伝・蕪村」抜粋)

宋阿は徳望家で江戸と関東一円および京都に多くの門人を擁し、人材を輩出している。京の望月宋屋などはその中で傑出しており、師に似て徳望家であってその俳諧活動もいちじるしい。この宋屋と蕪村とはやがて親密な間柄となるが、その前に毛越という人物が蕪村と急速に接近している。毛越と蕪村との接触は従来蕪村入洛の宝暦元年、毛越編『古今短冊集』から跡付けられているが、私は先頃、夜半亭において宋阿・蕪村・毛越が一座して歌仙興行をしている事実を突きとめた。元文四年冬十一月宋阿自跋、其角・嵐雪三十三回忌追善集『桃桜』に、宋阿興行とした発句雪尾(ゆきを)、脇宰鳥、第三宋阿、四句目少我の四吟歌仙一巻が載り、その発句「染る間の」の雪尾が毛越その人と考えられるのである。それは寛保二年毛越編『曠野菊』に雪尾斎毛越の名で出ているからである。確定はできないがおそらく同一人であろう。同書に守中菴産川という者が、雪尾斎は洛の産で東武に行ったり、文月の末みちのくあたりに赴いたと述べている(留別辞)。あるいは毛越が平泉毛越寺を訪れての改名かと思われるが、それはともかく巴人庵宋阿と同様な使い分けで同人であろうと思う。この雪尾は又前号雪雄であるらしく、『元文三年夜半亭歳旦帖』の中に京俳人として出句、又、元文四年春三月冨鈴(宋屋)自跋、宋阿序の『梅鏡』の中にも京俳人として出ている。従って毛越は宋阿の在京中の知人で宋屋とも親しかったと思われ、たぶん元文四年中に江戸に下って、宋阿を訪問しているのである。さきの歌仙はあるいはその歓迎句会での興行であったかもしれない。
(メモ)
元文四年(一七三九) 二十四歳
○この年刊行の巴人の『夜半亭歳旦帖』に次の句が入集されている。
   不二を見て通る人あり年の市
○十一月、宋阿編、其角・嵐雪三十三回忌追善集『桃桜』(下巻の版下は宰鳥という)に次の発句が見える。
   摺鉢のみそみめぐりや寺の霜
「宰鳥」号の初見。また、宋阿興行の歌仙に、宋阿・雪尾・少我らと、更に百太興行の
歌仙にも、宋阿。百太・故一・訥子らと一座する。

(三十二)

「関東遊歴と奥羽の旅その一」(「国文学 解釈と鑑賞」五五六号所収、大礒義雄稿「評伝・蕪村」抜粋)

宋阿晩年の門人となった蕪村は、元文三年その歳旦帖に句を見せてから、夏、絵仰書で有名な露月の『卯月庭訓』に自画に句を題して入集。続いて初秋夜半亭臨時の百韻興行に出座。連衆は宋阿をはじめ雪童・風篁・謂北・少我らの十余人。又、九月湯島における一日十百韻に参加、高点句六を得た。翌四年夜半亭・謂北・楼川の各歳旦帖に出句しており、冬になって前述の『桃桜』に発句一、宋阿興行、百太興行の各歌仙に一座している。後者の連衆は宋阿の外、百太・故一・訥子である。翌五年冬筑波の麓に滞在して、来る春を待ったことは『寛保元年夜半亭歳旦帖』によって知られそれに一句を載せるが、翌二年宋阿の逝去に逢うまで、俳書に表われた蕪村の行動の記録は意外に少ない。ただ『新花摘』によれば百万坊旨原から『五元集』の精密な模写を頼まれたこと(蕪村の能筆がわかる)、謂北(麦天)のために奔走して点者の列に入らせたことなどが知られる。さて、宋阿は寛保二年六月六日死亡した。六十六歳。蕪村は時に二十七歳である。宋屋が手向けた追善集『西の奥』(寛保三年)の自序で、蕪村と雁宕とがこれを京師の門弟・旧知に急報したとあり、蕪村はすでに宋阿の愛弟子として夜半亭にしげく出入りし、あるいは同居して薪水の労を取っていた。それだけに悲嘆痛恨は大きく夜半亭に一人籠もり師の遺稿を探って「一羽烏」という文を作ろうしたが果たさず、悄然として江戸を離れ下総結城の雁宕のもとに身を寄せるのである。
(メモ)
元文五年(一七四〇) 二十五歳
○元文年間、俳仙群会図を描く(『蕪村翁文集』所収「俳仙群会の図賛」)。その賛は次のとおり。
守武貞徳をはじめ、其角嵐雪にいたりて、十四人の俳仙を画きてありけるに、賛詞をこはれて
寛保元年(一七四一) 二十六歳
○前年の冬、筑波山麓で春を待った蕪村は、この年上梓の『夜半亭歳旦帖』に宰鳥名で次の句が入集される。
行年や芥流るゝさくら川
寛保二年(一七四二) 二十七歳
○六月六日、春の頃から口中に痛みを覚えていた夜半亭宋阿は、遂にこの日没する。宋屋編宋阿追善集『西の奥』(寛保三年刊)では六十七歳説、丈石編『俳諧家譜』では六十六歳説。(延宝四年出生説をとり、六十七歳説と解する)。

(三十三)

「関東遊歴と奥羽の旅その二」(「国文学 解釈と鑑賞」五五六号所収、大礒義雄稿「評伝・蕪村」抜粋)

雁宕は蕪村より十余歳年長か。宋阿の京在前の弟子でよく蕪村の世話をやき生活をも支えてくれた。彼は砂岡氏、結城の名家でその父我尚は其角門ついで嵐雪門。その没後は介我に師事した。この我尚・雁宕父子の縁続きには俳人すこぶる多く、まず結城俳壇の長老北寿老仙早見晋我は我尚の姉婿と推定され、俳諧は我尚と同系。その二子桃彦・田洪も俳人。雁宕の弟周午も俳人。妹の一人は下館の中村風篁の分家中村大済の妻であり、雁宕の娘は宇都宮の佐藤露鳩の妻であった。我尚の親友に那須烏山の常磐潭北がある。宋阿と同郷で其角門、蕪村に長ずること三十九年の老翁であるが、蕪村に親愛の情を抱き、上野国に同行して処々に宿りを共にしたと『新花摘』にあり、高羅の茶碗や埋れ木などの逸話も語られている。又、五色墨の一人、佐久間柳居と筑波詣でで出会って、俳席を重ねたことも同書に回想されている。奥羽行脚は寛保三年春かららしく、結城を出発して宇都宮から福島にいたり、山形に入り、羽黒を経て日本海側に出、酒田・象潟・秋田の浦々をめぐり能代を経、遠く津軽の外ヶ浜に達し、帰路は青森を経て盛岡にいたり、平泉・松島・仙台・白石・福島とたどって結城に帰着したらしい。辛酸に満ち満ちた旅であった。それ故かあまり句を残していない。寛保四年、宇都宮の露鳩に依頼されて歳旦帖を編集、表紙に「寛保四甲子歳旦歳暮吟追加春興句野州宇都宮渓霜蕪村輯」とある。処女撰集で俳号蕪村の初出の書である。
(メモ)
寛保三年(一七四三) 二十八歳
○五月、望月宋屋編『西の奥』(宋阿追善集)に次の句が宰鳥名で入集される。
   我泪古くはあれど泉かな
延享元年(寛保四年二月改元・一七四四) 二十九歳
○春、宇都宮にあって雁宕の娘婿佐藤露鳩の依頼により歳旦帖を編集、表紙に「寛保四甲子歳旦歳暮吟追加春興句野州宇都宮渓霜蕪村輯」とある。処女撰集で俳号蕪村の初出の書である。俳号蕪村の初出の発句は次のとおり。
    古庭に鶯啼きぬ日もすがら
延享二年(一七四五) 三十歳
○一月二十八日、結城の早見晋我が七十五歳で没する。其角門として晋の一字をゆるされた人物であった。蕪村は「北寿老仙を悼む」(釈蕪村)を手向ける(安永六年説、更に、釈蕪村の署名から宝暦年間説などがある)。
延享三年(一七四六) 三十一歳
○十月二十八日、宋屋は、奥羽行脚の帰途、結城・下館の蕪村を訪れたが不在であった。十一月頃江戸増上寺裏門辺りに住していたという(宋屋編『杖の土』)。
延享四年(一七四七) 三十二歳
○この頃、江戸中橋に夏行中の渡辺雲裡房(青飯法師)を訪ねる。その折の句は次のとおり。
    水桶にうなづきあふや瓜茄子
寛延元年(一七四八) 三十三歳
○大阪在住の江霜庵田鶴樹編『西海春秋』に下総結城の阿誰らと一緒に句を寄せる。その発句は次のとおり。
   川かげの一株づゝに紅葉哉
寛延二年(一七四九) 三十四歳
○麦水、江戸を発ち伊勢山田の麦浪を訪ね、更に京に赴き、稿本『東海道紀行』成る。
寛延三年(一七五〇) 三十五歳
○嵐雪『玄峰集』刊。

(三十四)

「入洛その一」(「国文学 解釈と鑑賞」五五六号所収、大礒義雄稿「評伝・蕪村」抜粋)

寛保四年(延享元年)の歳旦は露鳩一門の集であるが、追加に江戸俳人の句が見えるのは蕪村の斡旋であろう。其角系の祇丞・筆端(買明)・其川(旨原)・蝸名・存義である。蕪村はまた雁宕の紹介であろうが、下総関宿の豪家、箱島阿誰の家に滞在していた。ここで雁宕が江戸の俳友百万(旨原)、李井(存義)に依頼して、阿誰一門の撰集『反古ぶすま』を刊行した。この書には江戸座の重立った俳匠がずらりと顔を並べている。蕪村の江戸における俳環境とでも言うべきものはこうした人達だったらしい。先輩の宋屋は旅を好んだ。延享二年十月奥羽行脚の途次結城に入り、雁宕・大済・蕪村に手紙を送ったが、蕪村は不在で会えなかった。翌三年十月帰途再び結城に立寄って雁宕を訪れ下館に大済らを訪ねたが蕪村は不在、江戸に出ていて芝の増上寺の裏門あたりに住んでいると聞いて江戸でも探したが、遂に行き会えなかった。宋屋がしきりに蕪村に会いたがったのは、宋阿の身近に仕えた蕪村に、文通などによって特別に親しみを抱いていたためである。蕪村は職業画家である。俳人として俳友達から種々の便宜に預かっていたが、生活の資は画から得ていた。小成に甘んじないで画道に精励していた。それ故か延享・寛延頃の俳事はほとんど知られない。蕪村の友人に雪尾斎毛越があることは前述した。毛越の『曠野菊』に蕪村ず出ないのは、この書が祇徳の全面的な支援で成ったこと、この寛保二年が蕪村にとっては悲傷の年であったことなどと無縁ではあるまい。この書に故路通の句が載るのは注目されてよい。毛越は実に路通門人であった。このことは先頃私が入手した写本『聞書花の種』所載「路通十三回忌序跋」によって明らかである。右の『聞書花の種』には蕪村の俳文「名月摺物詞書」を収める。ここに全文を紹介しよう(省略。この「名月摺物詞書」については既に触れた)。蕪村が十七、八年におよぶ江戸と関東各地における生活を切り上げて西帰入洛した年は宝暦元年三十六歳の年であることは、先学諸家の一致した見解で私も同感である。ところがその年のいつかということになると諸説があって一致しないが、近年初冬、続いて晩秋との説が多く私もかって晩秋説を取っていた。それに対して右の一文(註・「名月摺物詞書」)は決定的な解答を用意してくれるものであった。

(三十五)

「入洛その二」(「国文学 解釈と鑑賞」五五六号所収、大礒義雄稿「評伝・蕪村」抜粋)

もともと蕪村入洛の時期については、宝暦元年と推定される霜月□二日付蕪村書簡を基としての推測と思われ、極め手となる文献資料に欠けていた。ただ最近清水孝之氏は「花洛に入て富鈴房に初而向顔 秋もはや其蜩の命かな」の句解において、この句が秋季であるために蕪村上洛の翌二年作とするのは、宋屋の温情援助を考慮すれば不自然故元年であり、秋季の句に仕立てたものかあるいは入洛の時期も秋のうちだったかと疑問を提出され、「晩秋・初冬のころ」とされたようである(『蕪村・一茶』昭五一・角川書店)。『名月摺物詞書』によって入洛の時期は、名月(八月十五日)頃と見るのが穏当であろう。仲秋である。榲桲は晩秋九月の季物であるが、この宝暦元年は六月に閏があり、仲秋は遅れるので、充分榲桲の時期に適合するのである。もう一つ問題は毛越の剃髪の時期が実は夏だったのである。毛越みずから「今年の夏落髪して市中の庵にかくれ、大夢の額をあげて判者と呼るゝ」(「詞集成こと葉書」『聞書花の種』)と言っている。これと蕪村の言う「けふより姿改て、或は名を大夢と呼ブ」とは時期が合わない。あるいは蕪村の入洛は夏かと思わされるが、蕪村自身東都での約束ごとが実現したことの喜びを強調したくてこうした表現を取ったのではあるまいか。「都の月に嘯む」も再会の時期を示す言葉である。毛越は既述のように蕪村に数年遅れて江戸に下り、寛延三年路通の十三回忌を京都で修しているから、少なくとも蕪村より一足早く京に入っているのである。両者の交情を知る初期の資料は乏しいが、蕪村が「莫逆の友也」と言い、「管鮑の交あり」(『古今短冊集』)と言った最上の言葉は、これを端的に示している。又「都の月に嘯む」という言葉からは蕪村は早くから入洛を希望していたことが察せられ、あるいは毛越の勧めなどがそれに与って力があったのかもしれないと思われる。二人が「都の月を嘯」くために、なぜ僧体になることを望み役束したのであろうか。それは日常性の脱却、離俗であって、そのような境遇に身を置いてこそ純粋に俳諧を追求できると考えたのであろうか。蕪村は早く寛保二年宋阿の没後間もなく剃髪したらしいので、毛越との約束はそれ以前のことのように思われ、あるいは宋阿の膝下に在った時のことかもしれない。『桃桜』の歌仙に同座した時のひとなども想起されよう。毛越の職業は分からないが商人のように思われ、なかなか俗務から離れられなかったのであろう。まるめろの句、まるめろという果実の名は、頭に兼ねて頭をまるめろ、に通じ、まるめろよの江戸言葉である。まるめろそのものが丸くて坊主あたまめき、しかも江戸に長く住んでいた者にとっては、耳慣れた江戸の方言を連想させるものである。発想が自然で機知に富み、東都と肩書するにふさわしい、江戸帰り早々の作者のいさぎよい句であろう。ともあれ宝暦元年という初期の句作を一つ加えることができたのは嬉しい。

(三十六)

蕪村関連の俳書などで、「釈蕪村」と署名されているものは、次のとおりである。そして、「北寿老仙をいたむ」の創作年次について、延享二年説と安永六年説とに触れ、これらの署名(釈蕪村)に関連して、蕪村が京都に再帰しての宝暦年間説とでもいうべきことについては先に触れた。ここで、それらのことについて補足をしておきたい。

一 (『いそのはな(寛政五年刊)』所収)

北寿老仙をいたむ

君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
何ぞはるかなる
君をおもふ(う)て岡のべに行(いき)つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき
蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲(さき)たる
見る人ぞなき
雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞(きけ)ば
友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき
へげのけぶりのはと打(うち)ちれば西吹(ふく)風の
はげしくて小竹原(をざさはら)真(ま)すげはら
のがるべきかたぞなき
友ありき河をへだてゝ住(すみ)にきけふは
ほろゝともなかぬ
君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず
花もまい(ゐ)らせずすごすごと彳(たたず)める今宵(こよひ)
ことにたう(ふ)とき 

釈蕪村百拝書

二 (『夜半亭発句帖(宝暦五年刊)』所収「跋」、宝暦四年推定) 

阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探(さぐり)て、一羽烏といふ文作らんとせしも、いたづらにして歴行する事十年の后(のち)、飄々(ひょうひょう)として西に去(さら)んとする時、雁宕が離別の辞に曰(いわ)く、再会興宴の月に芋を喰(くう)事を期せず、倶(とも)に乾坤(けんこん)を吸(すう)べきと、其(その)言をよしとして、翅書(ししょ)さへまめやかにせざりしに、ことし追悼編集の事告(つげ)来(きた)るにぞ、さすがに涙もろく、斎団扇(ときうちわ)の上に酬書(しゅうしょ)し侍る。跋とすやしらず、捨(すつ)るやしらず。        釈蕪村

三 (「真蹟」、宝暦初年推定)

しもつふさの檀林弘経寺といへるに、狸の書写したる木の葉の経あり。これを狸書経と云て、念仏門に有がたき一奇とはなしぬ。されば今宵閑泉亭にて百万遍すきやうせらるゝにもふで逢侍るに、導師なりける老僧耳つぶれ声うちふるいて、仏名もさだかならず。かの古狸の古衣のふるき事など思ひ出て、愚僧も又こゝに狸毛を噛て

肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)
洛東間人嚢道人 釈蕪村

四 (『反古衾(宝暦二刊)』所収)

うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥               釈蕪村 

五 (『瘤柳(宝暦二刊)』所収)

苗しろや植出せ鶴の一歩より              釈蕪村

(三十七)

当時の蕪村の署名を、「社中歳旦帖・俳諧撰集・色紙」等で見ていくと次のとおりとなる。

「関東遊歴と奥羽の旅」時代、そして、それは、蕪村の「若き日の時代」である。この時代の画号(落款等)は、「四明・子漢・魚君・虚洞・趙居・渓漢中・老山・孟溟」など。

一の一 宰町(元文二年・一七三七・二十二歳~元文四年・一七三九・二十四歳)
一の二 宰鳥(元文五年・一七四〇・二十五歳~延享元年・一七四四・二十九歳)
一の三 蕪村(延享元年・一七四四・二十九歳~寛延三年・一七五〇・三十五歳)

そして、京都に再帰して、「京生活・与謝の旅」の「丹後の時代」となる。この時代の画号(落款等)は、「朝滄・嚢道人・魚君・夜半翁」など。

二 蕪村(宝暦元年・一七五一・三十六歳~宝暦七年・一七五七・四十二歳)

再び、京都に帰り、とも女と結婚して家庭を持ったのが宝暦十年(一七六〇・四十五歳)。そして、讃岐へ赴いたのが、明和三年(一七六六・五十一歳)。その讃岐から京都に帰ってきたのが、明和五年(一七六八・五十三歳)。「京生活・讃岐の旅」の「讃岐の時代」である。この時代の画号(落款等)は、「趙居・春星・長庚・三菓軒・霊洞」など。

三 蕪村(宝暦八年・一七五八・四十三歳~明和五年・一七六八・五十三歳)

蕪村が讃岐から帰京したのは明和五年四月末か五月初めで、やがて三菓社中の句会を再開した。その明和七年(一七七〇・五十五歳)三月、先師宋阿の夜半亭の俳号を継承して夜半亭二世となり、新たに京師点者の列に加わった。そして、円熟期の絶頂期を迎え、天明三年(一七八三・六十八歳)十二月二十五日に没する。「夜半亭継承と円熟期」で、蕪村の「晩年の時代」である。この時代の画号は、「謝寅・紫狐庵」など。

四 蕪村(明和六年・一七六九・五十四歳~天明三年・一七八三・六十八歳)

以上、蕪村のその六十八年の生涯を概略四期(「若き日の時代」・「丹後の時代」・「讃岐の時代」・「晩年の時代」)に分けて、蕪村の異色の俳詩「北寿老仙をいたむ」に署名されている「釈蕪村」という署名は、現在、記録に残されているものに限ってするならば、この「丹後の時代」の前半の、宝暦元年(一七五一)から宝暦五年(一七五五)の頃にのみ見られるものなのである。すなわち、北寿老仙こと早見晋我が亡くなった、「若き日の時代」の延享二年(一七四五)当時、さらに、その「晩年の時代」の安永六年(一七七七)当時において、蕪村が、「釈蕪村」という署名の「北寿老仙をいたむ」という俳詩を今に残しているというのは、こと、この署名に限ってするならば、どうにも不自然という印象は拭えないのである。とするならば、ここは、何らの推測も推理もすることなく、単純慨然的に、その署名の「釈蕪村」ということから、これを、蕪村が京に再帰して後の、「丹後の時代」の前半の、宝暦元年(一七五一)から宝暦五年(一七五五)当時のものとするのが、最も自然なものと考えたいのである。

(三十八)

ここで、『蕪村伝記考説』(高橋庄次著)の、この「北寿老仙をいたむ」に関連するところを見てみたい。

○「蕪村」号を披露した寛保四年(延享元年)の翌二年、結城で早見晋我(別号北寿)が亡くなった。享年七十五歳、このとき蕪村は三十七歳の而立の年であった。年齢的に祖父ほどの差のある北寿こと晋我に対して蕪村は「老仙」の敬称を用いた。儒学を学んだ謹厳さと柔和な温かさをもつ晋我老人は、蕪村にとってまさに「北寿老仙」というにふさわしいイメージがあったのだろう。蕪村は北寿老仙を悼むの和詩を書いた。

 この『蕪村伝記考説』は、延享二年説といって良いであろう。

○この和詩は晋我の霊前に捧げられたが、公表されたのは晋我の子早見桃彦の手で編まれた晋我五十回忌追善集『いそのはな』(寛政五年・一七九三)においてである。蕪村の死からちょうど十年後のことだ。「北寿老仙をいたむ」と題されたこの蕪村の和詩の末尾に、「庫(くら)のうちより見出(みい)でつるままに右にしるし侍る」と桃彦が書き添えているから、この詩がいっさい公表されなかったことは間違いなく、文字通り霊前に捧げるためだけに書かれた和詩であったことがわかる。したがって、安永六年(一七七七)に発表を前提にして書かれた夜半楽三部曲(春風馬堤曲・澱河歌・老鶯児)とは本質的に異なる。

 安永六年説の否定と「夜半楽三部曲(春風馬堤曲・澱河歌・老鶯児)とは本質的に異なる」という指摘は素直に受容できる。

(三十九)

○この和詩は「釈蕪村百拝して書す」と署名して結ばれている。「釈蕪村」の釈はもちろ
ん釈迦のこと。僧が俗姓を捨てて釈氏を名乗り、釈迦の御弟子であることを示す姓だ。つまり釈氏は出家僧のこと。したがって「釈蕪村」とは釈迦の御弟子「僧蕪村」のことだ。後年蕪村は『新花摘』にこのころのことを書いているが、それによると、結城の雁宕のもとに滞在していた折、親しくしていた常磐潭北から「むくつけ法師よ」と言われたという。潭北は延享元年七月に亡くなっているから、それ以前にすでに蕪村は「法師」と呼ばれていたことがわかる。また『むかしを今』の序に蕪村は江戸石町の夜半亭で師宋阿から俳諧の教えをうけて「一棒下に頓悟」したと禅僧のようなことを言っているから、夜半亭に二十二歳で入門したときも僧だった。蕪村は故郷を出てから、生家の谷氏の俗姓を捨てて剃髪出家して釈氏を称していたのだ。

 この『蕪村伝記考説』では、「一の一 宰町(元文二年・一七三七・二十二歳~元文四年・一七三九・二十四歳)」・「一の二 宰鳥(元文五年・一七四〇・二十五歳~延享元年・一七四四・二十九歳)」の時代に、既に、「生家の谷氏の俗姓を捨てて剃髪出家して釈氏を称していたのだ」と明快に既述しているが、これらについては文献上は明らかではない。と同時に、宰鳥時代の奥羽行脚の折には、既に法体であったことは、上記の指摘の『新花摘』の既述で明らかなところであるが、その当時、「釈」氏の姓であったかどうかは不明確で、それよりも、晋我が没する前年の延享元年(寛保四年二月二十一日改元)の、蕪村初撰集の、いわゆる『宇都宮歳旦帖』の表紙には、「渓霜蕪村輯」との既述があり、その姓は「釈」というよりも「渓霜」であったことは明らかなところである。

○この『寛保四年歳旦帖』(註・『宇都宮歳旦帖』)の扉には編者の名がこう書かれているからだ。 渓霜蕪村輯(輯は編集のこと) これは何だろう。「渓霜蕪村」と名乗った「渓霜」は霜に覆われた谷のことだ。ここには俗姓の「谷氏」の意がこめられていたはずだ。それは一家離散した谷氏であり、寒々と霜に覆われた故郷の生家である。

 そもそもこの『蕪村伝記考説』は、「われわれはまだ信頼しうる一貫した蕪村の伝記を手にしていない」(「あとがき」)という観点から、著者(高橋庄次)の、これまでの研究成果の総決算ともいうべき、「伝記資料の虚実をどう識別して読み解くか」(「あとがき」)という、大胆な謎解きの書でもある。それが故に、枝葉末節については余り拘泥せずに、その「叩き台づくり」(「あとがき」)ということで、大胆な謎解きをしている箇所が随時に見られるのである。この上述の、「俗姓の『谷氏』」についても、例えば、スタンダードな『蕪村事典』(松尾靖秋他編)では、「本姓谷口氏は母方の姓か」とあり、その「谷口」氏の中国風の一字の姓が「谷」氏とも解せられるが、「蕪村の生家は摂津国東成郡毛馬村の谷氏であったことは断言してよい」(几董著『から檜葉』所収「夜半翁終焉記」・大江丸著『はいかい袋』所収「蕪村伝」)と、説が幾つもあるような箇所においても、そのうちの一つの説を断定して既述しており、何もかも鵜呑みにしてしまうことは、要注意であることは言はまたない。さしずめ、「釈蕪村」の理解などにおいても、「釈蕪村」の署名は、蕪村の、京へ再帰後の、いわゆる「丹後の時代」の前半の、宝暦元年(一七五一)から宝暦五年(一七五五)の頃にのみ見られるものということについては、ここでも再確認をしておきたい。

(四十)

○連作和詩編「北寿老仙をいたむ」は、北寿の亡魂を供養するため「釈蕪村」と署名して己れの心身を僧体(清浄)にし、自作詩を詠唱して読経にかえたのであろう。「百拝して書す」と結んだのは、これは写経文のように浄書して寺に納めたことを示している。それはあくまでも仏の世界に逝った北寿と僧蕪村との密かな語らいだった。

 この『蕪村伝記考説』の、「自作詩を詠唱して読経にかえた」・「これは写経文のように浄書して寺に納めた」・「仏の世界に逝った北寿と僧蕪村との密かな語らいだった」という指摘は、この俳詩(註・連作和詩)に接して同じような感慨を抱く。そして、この感慨は、この俳詩が、晋我没後直後の延享二年に作られたものではなく、ずうと後年の、安永六年に、延享二年当時を回想して創作したものだとする、安永六年説の次の疑問を解きほぐしてくれる一つのキィーポイントと理解をしたいのである。

http://www.kyosendo.co.jp/rensai/rensai31-40/rensai39.html

※蕪村は享保元年(一七一六)攝津国東成郡毛馬村に生まれた。彼は享保年中(~一七三五)に江戸へ出て来て、二十二才の時に、早野巴人(宋阿)の門に入り俳諧を学ぶと同時に、絵画や漢詩の勉強もしたという。寛保二年(一七四二)、師の巴人が亡くなった後、同門の下総結城の砂岡雁宕(いさおかがんとう)の許に身を寄せ、その後十年、関東、奥羽の各地を廻り歩く。北寿の晋我は結城で代々酒造業を営む素卦家で、通稱を早見治郎左衛門と云い、俳諧は其角の門下で、其角の没後、その弟子の佐保介我に師事したという。晋我は結城俳壇の主要メンバーの一人で、蕪村のよき理解者だったが、延享二年(一七四五)に七十五才でこの世を去った。その時、蕪村は三十才だった。「北寿老仙をいたむ」は、その晋我の追悼詩だが、この詩が実際に世に出たのは、その五十年近く後の寛政五年(一七九三)で、晋我の嗣子、桃彦(とうげん)が亡父の五十回忌に当たり出版した俳諧撰集『いそのはな』の中で、「庫のうちより見出しつるままに右にしるし侍る」と付記があるという。この詩は晋我が死んだ延享二年の作といわれているが、その時、三十才だった蕪村が七十五才の晋我に対して「君」と呼びかけ、「友ありき」などというのは不自然だとして、尾形仂(おがたつとむ)氏は次のような説を述べている。蕪村は三篇の俳詩をものしているが、「北寿老仙をいたむ」以外の二篇、「春風馬堤曲」と「澱河歌」(でんがか)はいずれも安永六年(一七七七)出版の『夜半楽』に収められている。安永六年は晋我の三十三回忌に当たることから、晋我の三十三回忌の記念出版が企てられ、嗣子の桃彦から寄稿の要請を受けて作ったものではないか、というのである。「すでに蕪村は、老境の悲しみを知り、心理的にかっての長上晋我を『友』と遇し『君』と呼んでもそれほど不自然ではない老齢に達していた」(『蕪村俳句集』の解説)、時に蕪村、六十二才である。しかし、その三十三回忌の出版は何らかの理由で中止になり、蕪村の原稿は五十回忌の『いそのはな』の出版時まで桃彦の家の庫の中に収まったまま眠っていた、というのである。なる程、そう考えると、確かに辻褄があう。いずれ、この説が立証されるかもしれない。(上記のネット記事)

さらに、上記の『蕪村伝記考説』の指摘に、先に触れた次の事項を再確認をしたいのである。

※阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探(さぐり)て、一羽烏といふ文作ら
んとせしも、いたづらにして歴行する事十年の后(のち)、飄々(ひょうひょう)として西に去(さら)んとする時、雁宕が離別の辞に曰(いわ)く、再会興宴の月に芋を喰(くう)事を期せず、倶(とも)に乾坤(けんこん)を吸(すう)べきと、其(その)言をよしとして、翅書(ししょ)さへまめやかにせざりしに、ことし追悼編集の事告(つげ)来(きた)るにぞ、さすがに涙もろく、斎団扇(ときうちわ)の上に酬書(しゅうしょ)し侍る。跋とすやしらず、捨(すつ)るやしらず。 釈蕪村
(わが宋阿師が没して後、しばらくその主の無い家に居て、わが師の遺されたものを調べまして、それらを一羽烏という題にて文集を作ろうとしましたが、何をすることもなくあちこちと歴行をするばかりで十年が過ぎてしまいました。そして、当てもなくこうして京都に再帰するにあたり、兄事していた雁宕の別れの言葉に、再会月見の興宴の時には芋などを喰らっていずに、お互いに天下を一飲みに飲み干そうと言われ、その言葉を肝に銘じて、手紙もこまめにせず過ごしてきましたが、今年、宋阿師の追悼編集の連絡を受けまして、どうにも涙がこぼれてなりません。その追悼の法事に供する団扇に、こうしてその返書をしたためましたが、それが、跋文になるのものやら、それとも捨てられてしまうものやら、とにもかくにも、返書をする次第です。 釈蕪村 )
※※これは、雁宕他編『夜半亭発句帖』に寄せられた蕪村の「跋文」である。『夜半亭発句帖』は、宝暦五年(一七五五)に夜半亭宋阿こと早野巴人の十三回忌にその発句(二八七句)を中心にして上梓したものである。この序文は雁宕が宝暦四年の巴人の命日(六月六日)をもって記しており、上記の蕪村の跋文もその当時に書かれたということについては動かし難いことであろう。この宝暦四年(蕪村、三十九歳)に、蕪村は京を去って丹後与謝地方に赴き、宮津の浄土宗見性寺に寄寓し、以後三年を過ごすこととなる。この丹後時代の蕪村の署名は、「嚢道人蕪村」というものが多く、この『夜半亭発句帖』の「跋文」に見られる「釈蕪村」の署名は、蕪村が京に再帰した宝暦元年(一七五一)からこの跋文が書かれた同四年頃までに多く見かけられるものである。そして、「北寿老仙をいたむ」の「北寿老仙」こと早見晋我が没したのは延享二年(一七四五)であり(その前年の延享元年に巴人亡き後の親代わりのような常磐潭北が没している)、それは巴人が没する寛保二年(一七四二)の三年後ということになる。即ち、巴人十三回忌に当たる宝暦四年前の宝暦二年前後が、晋我(また、常磐潭北)の七回忌に当たり、その頃、在りし日の北関東出遊時代のことを偲びながら、当時京都に再帰していた蕪村が、古今に稀な俳詩「北寿老仙をいたむ」を書き、そして、当時こまめに文通していた晋我の継嗣・桃彦宛てに、「釈蕪村百拝書」と署名して送ったもの、それが、「北寿老仙をいたむ」の作品の背景にあるように思えてくるのである。

(四十一)

北寿老仙をいたむ

一 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
  何ぞはるかなる
二 君をおもふ(う)て岡のべに行(いき)つ遊ぶ
  をかのべ何ぞかくかなしき
三 蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲(さき)たる
  見る人ぞなき
四 雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞(きけ)ば
  友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき
五 へげのけぶりのはと打(うち)ちれば西吹(ふく)風の
  はげしくて小竹原(をざさはら)真(ま)すげはら
  のがるべきかたぞなき
六 友ありき河をへだてゝ住(すみ)にきけふは
  ほろゝともなかぬ
七 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々に
  何ぞはるかなる
八 我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず
  花もまい(ゐ)らせずすごすごと彳(たたず)める今宵(こよひ)
  ことにたう(ふ)とき 

                  釈蕪村百拝書

○この詩篇の言葉の響きも、美しい音楽を奏でる。全八章中、第二・三・四・五・八章の五章にわたって各章末を「き」で結んで脚韻を踏んでいるのがそれであり、第一・第二章の「キミ」と「ナンゾ」の繰り返しにも頭韻効果がみられる。さらに第二章の「岡の辺」の尻取り句移りや第三章の「蒲公の黄・薺の白」、第五章の「小竹原・真菅原」、第八章の「灯火も・・・せず・花も・・・せず」の繰り返しなどにも快いリズムの効果がみられる。また独特の改行の仕方で音数律を構成しているのも鮮やかな効果を上げており、行末にくる第六章の「今日は」と第八章の「今宵は」にアクセントがかかる効果もその一つだ。

『蕪村伝記考説』の著者(高橋庄次)のライフワークともいうべき「連作詩篇考」的な考察が活きている。

(四十二)

○原文は全十八行が均一に並べられていて、章と章との間を特にあけるような区切り方はしていない。しかし、各章の小主題や旋律・脚韻など総合的に判断すると、八章で構成されていることは誰の目にも明らかだ。夜半楽三部曲(春風馬堤曲・澱河歌・老鶯児)のような各章の頭に○印を付ければ章分けがはっきりしたのだろうが、この和詩篇は均一の形式で首尾一貫した旋律を奏でているので、むしろそうした区切りは詩情の自然な流れのさまたげになる。夜半楽三部曲が発句・漢詩・和詩といったさまざまな形式をモザイク状に組み上げたバラード(物語詩)であるとすれば、「北寿老仙をいたむ」はリート(独唱用小歌曲)だと言えるからだ。

 繰り返しになるが、夜半楽三部曲(春風馬堤曲・澱河歌・老鶯児)と「北寿老仙をいたむ」とは全く異質の世界である。俳詩三部作(「北寿老仙をいたむ」・「春風馬堤曲」・「澱河歌」)として、同時の頃の作とし、また、これらを並列して鑑賞するのには、違和感を覚える。

(四十三)

○この北寿追悼の和詩篇について、それぞれの章の表現を個別に吟味しながら各章のつながり方を検討してみると、一章一章を連作主題でつないでいく発想、つまり八章から成る連作詩篇の基本的発想がそこから浮かび上がってくる。日本の詩歌はまず連作形態で発生し、記紀歌謡、万葉歌以降、連作文芸が古典の基本を形成してきた。北寿追悼の和詩篇がこうした発想による連作詩篇であったからこそ、奇跡的とも思える近代抒情詩篇に成り得た。それだけに、その各章冒頭の詩句を取り出して次に並べてみると、なにか奇妙な感にうたれる。

一 君あしたに去ぬ
二 君を思うて
三 蒲公の黄に
四 雉子のあるか
五 変化の煙
六 友ありき
七 君あしたに去ぬ
八 我庵の阿弥陀仏

これらはみな申し合わせたように主題を構成することばであった。しかも、そのことばはみな横に連繋している。

 この「北寿老仙をいたむ」を、いわゆる「連作詩篇」として鑑賞することの是非はともかくとして、『蕪村伝記考説』の著者(高橋庄次)の指摘は首肯できる。

(四十四)

○この「我庵」(註・第八章)という表現からすると、蕪村は砂岡雁宕宅に寄宿していたのではなく、結城のどこかに草庵を結んでいたと考えなければならない。たぶん寺域内であろうから、結城の浄土宗の寺、つまり砂岡家の菩提寺弘経寺であったにちがいない。さきほど「釈蕪村」の署名あるものとして引用した狸の木葉経の俳文はこの弘経寺の寺宝「狸書経」について書いたものだし、この寺の襖絵も蕪村が描いているからだ。檀家の砂岡雁宕の世話で寺域内の僧庵に釈蕪村はひとり住んでいたと考えられる。釈蕪村は阿弥陀仏の本願を信じ、その願力にすがって自力を支える浄土宗念仏僧として自由自在にふるまうことができた。蕪村は浄土宗の弘経寺(寺領五十石)の僧庵に住み、法華宗の妙国寺(寺領九石)に北寿(晋我)の追善供養としてこの追悼詩を霊前に捧げたのである。

 ここでも繰り返すこととなるが、”「釈蕪村」の署名あるものとして引用した狸の木葉経の俳文はこの弘経寺の寺宝「狸書経」”については、「洛東間人嚢道人 釈蕪村」であり、蕪村が京に再帰した宝暦元年(一七五一)からこの跋文(『夜半亭発句帖』)が書かれた同四年頃までに多く見かけられるものなのである。さらに、”この「我庵」(註・第八章)という表現からすると、蕪村は砂岡雁宕宅に寄宿していたのではなく、結城のどこかに草庵を結んでいたと考えなければならない。たぶん寺域内であろうから、結城の浄土宗の寺、つまり砂岡家の菩提寺弘経寺であったにちがいない”ということについては、後年の回想録の『新花摘』の記述からして、結城の隣の下館の「中村風篁」家(『宇都宮歳旦帖』を始め蕪村絵画などの遺作を今に所蔵している)の屋敷内であったことも推測できるものであり、必ずしも、結城の弘経寺の寺域内であるということは、これまた、推測の域を出ないであろう。
なお、この『蕪村伝記考説』の著者(高橋庄次)が指摘している、先の「これは写経文のように浄書して寺に納めた」というよりも、この記述の「北寿(晋我)の追善供養としてこの追悼詩を霊前に捧げたのである」というように解したい。

(四十五)

○この和詩篇の舞台は、蕪村の草庵があったと考えられる弘経寺と北寿の墓所妙国寺とをめぐって流れる吉田用水路であったと考えられる。結城の古地図には元禄十六年(一七〇三年・『結城市史』第二巻所収)のものと享保十九年(一七三四年・結城市教育委員会写し)のものがあるので、元禄期の古地図を参考にしつつ、ここでは蕪村の結城滞在期の八年前に描かれた享保十九年の古地図を次に示した。これが北寿追悼詩篇の制作された場である。弘経寺と妙国寺が吉田用水に沿って並んでいることがわかろう。またそれらの寺を縫うようにして伸びる御朱印堀は、堀幅七・五メートル、深さ三メートルとのことである。寺領五十石の弘経寺と寺領九石の妙国寺は古地図で見るかぎり寺域は共に広く、両寺にさして大きな差はないように見える。また寺領五十三石の禅宗安穏寺には元禄期の地図には無垢庵が、享保期の地図には無垢庵と寿慶庵が図示されているが、蕪村が結城に滞在していたころには、こうした僧庵が弘経寺にもあったと思われる。蕪村は、この弘経寺の僧庵を拠点に活動していたのだろう。

 この『蕪村伝記考説』の著者(高橋庄次)は、当時の蕪村の活動拠点を弘経寺領域の僧庵としているので、その結果、この記述のとおり、「北寿老仙をいたむ」に出てくる、「友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき」の「河」を、結城市内の「吉田用水」のように解しているのだが、ここは、下館と結城との間を二分するように流れる関東有数の大河「鬼怒川」と解したい。なお、ネット関連では、次のアドレスのもので、鬼怒川と解する説(十九代中村兵左衛門説)に賛同したい。

http://ship.nime.ac.jp/~saga/buson1.html

※結城と下館のあいだに鬼怒川が流れる。下総と常陸の国境である。北寿は雁宕の近親で結城俳壇の長老、早見晋我。蕪村が深く敬愛したこの老人の死に会してなったのが、驚くべき清新の自由詩「晋我追悼曲」こと『北壽老仙をいたむ』である。詩中に「君をおもふて岡のへに行つ遊ふ」「友ありき河をへたてゝ住にき」とあるから、当然、これは鬼怒川を隔てて下館の岡に蕪村は立っているのである、というのが下館の当主、十九代中村兵左衛門氏の説である。一方、結城市内にもなにがしという小さな川が流れその脇に岡があるから、蕪村がいたのは結城であるというのが小暮係長の説であって人情の自然であろう。なお、この追悼詩は碩学潁原退藏先生の「春風馬堤曲の源流」によれば晋我歿の当時の作とされるが、その馬堤曲との詩的連関から後年京都での作とする説もある。

(四十六)

○和詩第五章の一行目は「変化(へげ)の煙(けぶり)のはと打ち散れば西吹く風の」とうたい起こされているが、これは火葬の荼毘の煙とみるほかなく、したがって西方へ吹く風から逃れたくとものがれようがないということ、つまり「のがるべき方ぞなき」とは、煙の行方は西方以外にはありえないということだ。「変化(へげ)」はそうした「生滅(しょうめつ)の法」の万物の変化相をさしている。荼毘は「火化」といい、「焼身」のことだが、浄土信仰や法華信仰が盛んになるにしたがって焼身往生が行われるようになったという。これはわが身を火に投じて供養することで、荼毘はこの焼身往生の思想によるものだ。「変化の煙のはと打ち散れば」の「はと」は、これを鮮やかに表現しているように思われる。

 この「へけ」の解については、これまでにさまざまな解釈がなされている。整理すると次のとおりとなる。
一 へげの詠みで「竈」の古言とするもの・・・潁原退蔵著『蕪村全集』他。
二 へけの詠みで「片器」の訛音とするもの・・・山本健吉著『与謝蕪村集』他。
三 へげの詠みで「木片(こっぱ)」とするもの・・・栗山理一著『蕪村集一茶集』他
四 へげの詠みで「変化」の意とするが、その意味は次のとおり分かれる。
四の一 「仏が極楽浄土へ引摂したまうこの世ならぬ煙」・・・清水孝之著『与謝蕪村集』他
四の二 「煙とも霞ともつかぬもの」・・・山下一海著『戯遊の俳人与謝蕪村』他
四の三 「不思議な」「怪しい」・・・芳賀徹著『与謝蕪村小さな世界』他
四の四 「火縄銃の煙」・・・村松友次『蕪村の手紙』他 
四の五 古典における「変化(へんげ)」の撥音無表記の形「へげ」(実際の発音はヘンゲ)
    を雅語意識のもとにヘゲの発音のままに変化(へんげ)の意に用いたもの。その実体は「四の四」   (猟師の火縄銃の煙)・・・尾形仂著『蕪村の世界』・尾形仂他校注『蕪村全集(四)』他。

この『蕪村伝記考説』の著者(高橋庄次)は、上記の「四の一」と「四の五」の折衷案
のような考え方であろう。とにもかくにも、詩を読み進める上では、上記のような語釈等はあくまでも参考であり、それ以上に、蕪村研究の先達者達がこの蕪村の俳詩に情熱を込めて様々な解を捧げていることに一驚するのである。

蕪村・若冲らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(一~三)

蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その一)  

蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その一)  

蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その一)

2015年3月18日(水)~5月10日(日)まで、サントリー美術館で、「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展が 開催された。
その冒頭(第一章「十八世紀の京都ルネッサンス」)を飾ったのが、「諸家寄合膳」(応挙・大雅・蕪村・若冲ら筆・朱塗膳・二十枚、各、二八・〇×二八・〇 高二・八)と「諸家寄合椀」(呉春・若冲ら筆・朱塗椀・十一合、各、径一二・六 高二八・八)とであった。
その図録(サントリー美術館・MIHO MUSEUM編)の紹介と若干の考察を付して置きたい。
なお、その図録中、この「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」の「作品解説」は、岡田秀之氏(MIHO MUSEUM学芸員)が担当し、その「諸家寄合膳」の「釈読」は鈴木洋保氏(書画家・書画史家)が担当している。
また、図録中、「蕪村絵画における賛の書画をめぐって」は鈴木氏、「若冲と蕪村―その共通点と相違点」は岡田氏が執筆している。

「諸家寄合膳」(二十枚)のうち「蕪村・若冲・大雅・応挙」の四枚
上左・蕪村筆「翁自画賛」 上右・若冲筆、四方真顔賛「雀鳴子図」
下左・大雅筆「梅図」   下右・応挙筆「折枝図」 

「諸家寄合椀」(十一合) 前方の中央の椀(若冲筆「梅図」)

 これらの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」の所蔵者は、その「出品目録」を見ると、空白になっており、個人蔵のようである。
 なお、その「作品解説(4「諸家寄合椀」)の末尾に、「『諸家寄合膳(作品3)と同じように『酔墨斎持』とあり、もと雨森白水(一七九三~一八八一)が所蔵していた」とある。
 この旧蔵者の雨森白水は、幕末・明治に掛けての日本画家の雨森白水であろう。
 この酔墨斎こと雨森白水は、寛政五年(一七九三)の生まれで、「若冲と蕪村 関連年表」(上記『図録』所収)」によると、その生まれた年に、若冲(七十八歳)は、「この年までに、石峰寺に隠棲」とあり、そして、没する寛政十二年(一八〇〇、八十五歳)に、「『諸家寄合椀』のうち『梅図』(作品4)、『松尾芭蕉図』(作品102)、『霊亀図』(作品223)、四月、池大雅の二十五回忌を病を理由に欠席、九月十日没」とある 
 すなわち、若冲の「諸家寄合椀」(「梅図」)は、若冲が亡くなった最晩年の遺作ともいうべきものということと、江戸中期の「若冲・蕪村・大雅・応挙」らと江戸後期から明治に掛けての「白水」とは、そもそも活躍した時代が違うということになろう。
 若冲との関連で見ていくと、若冲が晩年に隠棲し、若冲の五百羅漢で知られている石峰寺(若冲が埋葬された墓があり、その遺髪は菩提寺宝蔵寺と相国寺にも埋納されている)に、白水の墓地もあり、白水と若冲とは何らかの縁もあるような雰囲気ではある。
 しかし、この雨森白水は、金福寺の蕪村墓碑を揮毫した書家で知られている、蕪村と三十年の交友関係にあった雨森章迪の一族と解し、その雨森家が二代、三代にわたって蕪村、そして、百池や呉春、さらには木村蒹葭堂などの縁により蒐集していたものと考える方が自然であろう。
 ここで、「諸家寄合膳」(二十枚)と「諸家寄合椀」(十一合)の作者と画題などを下記に掲載して置きたい。
これによると、一番早い年代のものは、「諸家寄合椀」の「四英一峰(一六九一~一七六〇)」で、宝暦十年(一七六〇)前の絵付けということになろう。続いて、「諸家寄合膳」の「二池大雅(一七二三~七六)」の安永五年(一七七六)前のものということになる。
 一番遅いものは、「諸家寄合膳」の「十八観嵩月(一七五九~一八三〇)」の天保元年(一八三〇)前のものということになろう。
いずれにしろ、下記のものが全部出来上がるまでには、少なくとも、半世紀(五十年)以上の年数がかかっているものと解したい。

諸家寄合膳(二十枚)

一 円山応挙(一七三三~九五)筆「折枝図」
二 池大雅(一七二三~七六)筆「梅図」     
三 与謝蕪村(一七一六~一七八三)筆「翁自画賛」
四 池玉瀾(一七二八~八四)筆「松渓瀑布図」
五 鼎春嶽(一七六六~一八一一)筆、皆川淇園賛「煎茶図」
六 曽我蕭白(一七三〇~八一)筆「水仙に鼠図画賛」
七 東東洋(一七五五~一八三九)筆、八木巽処賛
八 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆、四方真顔賛「雀鳴子図」
九 福原五岳(一七三〇~一七九九)筆、三宅嘯山賛「夏山図」
十 狩野惟信(一七五三~一八〇八)筆、鴨祐為賛「富士図」
十一 岸駒(一七四九《五六》~一八三八)筆、森川竹窓賛「寒山拾得図」
十二 長沢芦雪(一七五四~一七九九)筆、柴野栗山賛「薔薇小禽図」
十三 月僊(一七四一~一八〇九)筆、慈周(六如)賛「五老図」
十四 吉村蘭洲(一七三九~一八一七)筆、浜田杏堂賛「山居図」
十五 土方稲嶺(一七三五~一八〇七)筆、木村蒹葭堂賛「葡萄図」
十六 玉潾(一七五一~一八一四)筆、慈延賛「墨竹図」
十七 紀楳亭(一七三四~一八一〇)筆、加茂季鷹賛「蟹図」
十八 観嵩月(一七五九~一八三〇)筆「鴨図」
十九 島田元直(一七三六~一八一九)筆、谷口鶏口賛「菊図」
二十 堀索道(?~一八〇二)筆、大島完来賛「牡丹図」

諸家寄合椀(十一合)

一 呉春(一七五二~一八一一)筆「燕子花郭公図」
二 高嵩谷(一七三〇~一八〇四)筆「山水図」  
三 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆「梅図」
四 英一峰(一六九一~一七六〇)筆「芦雁図」
五 黄(横山)崋山(一七八一~一八三七)筆「柳図」
六 土佐光貞(一七三八~一八〇六)筆「稚松」
七 村上東洲(?~一八二〇)筆「三亀図」
八 鶴沢探泉(?~一八〇九)筆「三鶴図」
九 森周峯(一七三八~一八二三)筆「水仙図」
十 宋紫山(一七三三~一八〇五)筆「竹図」
十一 森狙仙(一七四七~一八二一)筆「栗に猿図」

蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その二)

蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その二)

蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その二)

諸家寄合膳(二十枚) 上から「一段目~五段目」
一段目(右~左)「一円山応挙」・「二池大雅」・「三与謝蕪村」・「四池玉瀾
二段目(右~左)「五鼎春嶽・皆川淇園賛」・「六曽我蕭白」・「七東東洋・八木巽処賛」
・「八伊藤若冲・四方真顔賛」
三段目(右~左)「九福原五岳・三宅嘯山賛」・「十狩野惟信・鴨祐為賛」・「十一岸駒・森川竹窓賛」・「十二長沢芦雪・柴野栗山賛」
四段目(右~左)「十三月僊・慈周(六如)賛」・「十四吉村蘭洲・浜田杏堂賛」・「十五土方稲嶺・木村蒹葭堂賛」・「十六玉潾・慈延賛」
五段目(右から左)「十七紀楳亭・加茂季鷹賛」・「十八観嵩月」・「十九島田元直・谷口鶏口」
・「二十堀索道・大島完来賛」

 江戸時代を、前期(十七世紀)・中期(十八世紀)・後期(十九世紀)の三区分ですると、
「諸家寄合膳」の絵の作者、それに賛を草した者(別記一)は、主として、十八世紀の、そして、ほぼ京都で活躍した人達であると解して差し支えなかろう。
 これらの人達を、「十八世紀の京都ルネッサンス」(「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展のスタートの第一章のネーミング)のもとに、「諸家寄合膳」そして「諸家寄合椀」の作者・賛者として、その「膳」(二十枚)・「椀」(十一合)を展示したのは圧巻であった。

 ここで、「十八世紀の京都ルネッサンス」とは、いかなるものなのか。絵付けをした、「応挙・大雅・若冲・蕪村・玉瀾・春嶽・蕭白・東洋・五岳・惟信・岸駒・芦雪・月僊・蘭州・稲嶺・玉潾・楳亭・嵩月・元直・索道」のニ十人、賛を草した「淇園・巽処・真顔・嘯山・祐為・竹窓・栗山・慈周・杏堂・蒹葭堂・慈延・季鷹・鶏口・完来」の十四人の、この錚々たる顔ぶれの画人・文人達が活躍した、十八世紀の京都というのは、どのようなものであったのかと、実に、これは興味をかきたてるものがある。
 もちろん、この三十四人は、十八世よりもより十九世紀に掛けて活躍した人も、また、京都よりも浪華(大阪)や江戸や仙台で活躍した人も居られる。それ以上に、これらの人達は、当時の画人・文人達の、ほんの一部であって、例えば、明和五年(一七六八)版『平安人物史』に登載されている者は、六部門で延べ百五十三名、最も多い文政十三年(一八三〇)版では、部門も三十部門以上に激増し、八百名近くの文化人が登載されている。
 すなわち、十八世紀(そして十九世紀)は、江戸(東京)の徳川幕藩体制のもと、文化の東漸運動が著しく進展した時代であったが、依然として文化の中心地は遠く平安時代からの京都がその一翼を担っているということを意味している。
 そして、象徴的なことは、十七世紀から十八世紀に掛けての「元禄文化」の中心的な京都の画人・尾形光琳が、徳川吉宗が将軍となった享保元年(一七一六)に、その五十九年の生涯を閉じ、その同じ年に、若冲(正徳六年=一七一六)と蕪村(享保元年=一七一六)とが誕生していることである。
 すなわち、光琳の後の、若冲・蕪村の時代は、享保の時代であり、それは幕藩体制の強化の時代でもあった。しかし、それは、その反動として、武士階級や公家階級の文化ではなく、新しく勃興しつつあった商人階級を基盤にしての、「旧きものを破壊し、新しいものを生み出す」転換期の時代でもあった。
 これらのことが、「十八世紀の京都ルネッサンス」の正体であり、その背景でもある。すなわち、上記の「諸家寄合膳」に登場する三十四人は、その強弱はあれ、いずれも、「十八世紀(そして十九世紀)の京都の新しい文化の夜明け(ルネッサンス)」を告げる「明烏(あけがらす)」(蕪村七部集の一つ『明烏』《几董編》の書名)が、その正体なのである。
 さらに、これらに付け加えるならば、上記の三十四人の一人の、六如庵慈周(「別記一」の十三のニ、「六如」・「慈周」)の、その賛を、ここに掲げて置きたい。

[ 盧山東南五老峰、中有真人寄玄踪、玄踪茫々不可覓、青天仰望金芙蓉  六如
(読み下し)
 盧山ノ東南五老峰、中ニ真人有リテ玄踪ニ寄ス、玄踪茫々ニシテ覓(もと)ムベカラズ、青天ヲ仰ギ望ム 金芙蓉
(訳)
盧山の東南に五老峰が見える。山中には真人がいて、奥深く足跡を残す。その奥深い足跡はかすかで、求めても求められない。ただ、青天に、金芙蓉と言われる山容を仰ぎ見るだけである。]
(『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM編)』
所収「作品解説(3)鈴木洋保(訳読)・「読み下し」は平仮名表記を片仮名表記にしてある」)

 この十八世紀の日本の京都の六如(慈周)の賛の意味するところのものは、十九世紀のドイツの詩人「カール・ブッセ」の次の詩と同じ意のものと解したい(「カール・ブッセ」の詩の「幸(さいわひ)」を「六如」の賛の「金芙蓉=新しい時代の創造・文化」と置き換えたい)。

Ueber den Bergen  Carl Busse     山のあなた(カール・ブッセ《以下「上田敏訳」》))

Ueber den Bergen, weit zu wandern      山のあなたの空遠く
Sagen die Leute, wohnt das Glueck.      幸(さいはひ)住むと人のいふ
Ach, und ich ging im Schwarme der andern, 噫(あゝ) われひとと尋(と)めゆきて
kam mit verweinten Augen zurueck.      涙さしぐみ かへりきぬ
Ueber den Bergen, weit weit drueben     山のあなたになほ遠く
Sagen die Leute, wohnt das Glueck.       幸(さいはひ)住むと人のいふ

 この十八世紀の京都で、その名が知られている六如は、売茶翁が若冲に呈した「丹青活手妙通神(丹青ノ活手ノ妙神ニ通ズ)」を捩って、当時の新進気鋭の応挙に、「丹青天下無双手(丹青ノ天下ノ無双ノ手ナリ)」と高く評価した、天台宗の学僧で、伴蒿蹊の『近世畸人伝』の「序」を草した、その人である。
 そして、この六如(慈周)は、蕪村の追悼句文集『から檜葉』(上・下)の、その巻末の、蕪村への「哭文・哭詩」を草した、雨森章迪と同じ文化圏にあったことを伝えている文献(『日本文学研究資料叢書 蕪村・一茶』所収「蕪村周辺の人々(植谷元稿)」)がある。

(別記一)「諸家寄合膳」作者・賛者一覧

一 円山応挙(まるやま おうきょ) 享保十八年(一七三三)~ 寛政七年(一七九五)。江戸時代中期の絵師。姓は円山、名は岩次郎、後に主水。夏雲、雪汀、一嘯、仙嶺、僊斎、星聚館、鴨水漁史、攘雲、洛陽仙人と号す。丹波穴太(あのお)村(現・京都府亀岡市)出身。明和三年(一七六六年)の頃から「応挙」を名乗り始め、この頃から三井寺円満院の祐常門主の知遇を得る。「写生」を重視した平明な画風で、三井家を始めとする富裕な町人層に好まれた。著名な弟子には呉春・長沢蘆雪・森徹山・源琦などがいる。応挙を祖とするこの一派は「円山四条派」と称され、現代にまでその系譜を引く京都画壇の源流となっている。
二 池大雅(いけの たいが) 享保八年(一七二三)~ 安永五年(一七七六)。江戸時代中期の絵師(文人画家)・書家。幼名は又次郎(またじろう)など。諱(いみな)は勤(きん)、無名(ありな)、字は公敏(こうびん)、貨成(かせい)。日常生活には池野 秋平(いけの しゅうへい)の通称を名乗った。雅号は数多く名乗り、大雅堂(たいがどう)、待賈堂(たいかどう)、三岳道者(さんがくどうしゃ)、霞樵(かしょう)などが知られている。妻の玉瀾も画家。弟子に、福原五岳・木村兼葭堂などがいる。与謝蕪村と共に、日本の文人画(南画)の大成者とされる。
三 与謝蕪村(よさ ぶそん) 享保元年(一七一六)~ 天明三年(一七八四)。江戸時代中期の絵師(文人画家)で且つ俳人(中興俳諧の巨匠)。本姓は谷口、のちに「与謝」。「蕪村」は号で、名は信章。画号は「春星」・「謝寅(しゃいん)」など多数ある。俳号も多く、蕪村以外では「宰鳥」、紫狐庵」「夜半亭(二世)」など。画家の弟子に、呉春(蕪村没後応挙門)・紀楳亭など。俳人の弟子に、高井几董・黒柳召波・江森月居など。池大雅と共に、日本の文人画(南画)の大成者とされる。摂津国毛馬(けま)村(今の大阪市都島区)生まれ。江戸で俳諧などを学んだ後、京都を拠点に活動し、丹後や讃岐も訪れた。
四 池玉瀾(いけの ぎょくらん) 享保十二年(一七二七)~天明四年(一七八四)。江戸時代中期の女流絵師。文人画家池大雅の妻。柳沢淇園,のち大雅に学ぶ。山水の扇面画に優れる。母百合(ゆり)、祖母梶(かじ)は共に歌人。本姓は徳山。名は町。
五の一鼎春嶽(かなえ しゅんがく)  明和三年(一七六六)~ 文化八年(一八一一)。江戸時代中期の日本の南画・篆刻家。池大雅の門人・福原五岳に師事。浪華の人。
五の二皆川淇園(みながわ きえん) 享保十九年(一七三五)~ 文化四年(一八〇七)。江戸時代中期の儒学者。父は皆川成慶(春洞、白洲)で、実弟に国学者富士谷成章(層城、北辺)、甥に国学者富士谷御杖がいる。淇園は号で、名は愿(げん)、字は伯恭(はくきょう)、通称は文蔵(ぶんぞう)、別号に有斐斎(ゆうひさい)がある。京都の人。絵画の腕も卓越しており、山水画の師は円山応挙。
六 曽我蕭白(そが しょうはく) 享保十五年(一七三〇年)~ 天明元年(一七八一)。江戸時代中期の絵師。蛇足軒と自ら号した。京都の人。蕭白は高田敬輔や望月玉蟾に師事したとの説が古くからある。蕭白自身は室町時代の画家曾我蛇足の画系に属すると自称し、落款には「蛇足十世」などと記している。蕭白の逸話として、「画が欲しいなら自分に頼み、絵図が欲しいなら円山主水(応挙)が良いだろう」などが知られている。
七の一 東東洋(あずま とうよう) 宝暦五年(一七五五年)~ 天保十年(一八三九)。江戸時代中期から後期の絵師。最初の号は、玉河(玉峨)で、別号に白鹿洞。仙台の人。二十歳の頃、京都の上り、池大雅を訪ねる。後に、長崎に赴き、中国人画家に学んだとされる。各地を遊歴の後帰洛し、妙法院真仁法親王の支援を受け、絵師の応挙や呉春、歌人の小沢蘆庵や伴蒿蹊、学者の皆川淇園らと親交を結ぶ。文政八年(一八二五)七十一歳で仙台に帰郷。享年八十五。墓は仙台と京都にある。
七の二 八木巽処(やぎ せんしょ) 明和八年(一七七一)~天保七年(一八三六)。 江戸時代中期から後期の儒者、書画家。木村蒹葭堂と親しく、浪華の人か。
八の一 伊藤若冲(いとう じゃくちゅう) 正徳六年(一七一六)~ 寛政十二年(一八〇〇)。江戸時代中期の絵師。名は汝鈞(じょきん)、字は景和(けいわ)。別号に、斗米庵(とべいあん)、米斗翁(べいとおう)、心遠館(しんえんかん)など。京・錦小路にあった青物問屋「枡屋」(家名と併せて通称「枡源(ますげん)」)の長男として生を受ける。四十歳代の約十年を費やして完成させた「釈迦三尊像(三幅)」と共に相国寺に寄進した「動植綵絵(三十幅)」(一八八九年に皇室に献納)が代表作である。,売茶翁や梅荘顕常など黄檗僧たちとも交わり、信仰の念は生涯厚かった。独身を通し、晩年は深草の石峰寺に隠棲した。
八の二 四方真顔(よもの まがお) 宝暦三年(一七五三)~ 文政十二年(一八二九)。江戸時代中期から後期の狂歌師・戯作者。姓は鹿津部で、鹿津部真顔(しかつべ まがお)。通称は北川嘉兵衛。別号に狂歌堂などがある。家業は江戸数寄屋橋河岸の汁粉屋で、大家を業としていた。江戸の人。全国的に門人が多く、晩年には、京都から宗匠号を授けられている。
九の一 福原五岳(ふくわら ごがく) 享保十五年(一七三〇)~ 寛政十一年(一七九九)。江戸時代中期の文人画家。池大雅の高弟。号は五岳のほかに玉峰・楽聖堂など。通称・大助。備後尾道の人。
九の二 三宅嘯山(みやけ しょうざん) 享保三年(一七一八)~享和元年(一八〇一)。 江戸時代中期の儒者・俳人。三宅観瀾の一族で、京都の質商。夜半亭巴人(早野巴人)門の望月宋屋に俳諧を学ぶ。宝暦元年(一七五一)の頃から蕪村と親交を結ぶ。「俳諧古選」などの評論で元禄期への復帰をとなえる。漢詩にも優れ、中国白話小説にも通じた。別号に葎亭・,滄浪居など。
十の一狩野惟信(かのう これのぶ) 宝暦三年(一七五三)~ 文化五年(一八〇八)。江戸時代中期から後期の木挽町家狩野派七代目の絵師である。号は養川(法眼時代)、養川院(法印時代)、玄之斎。号と合わせて養川院惟信と表記されることも多い。 
十の二 鴨祐為(かもの すけため) 元文五年(一七四〇)から享和元年〈一八〇一)。江戸時代中期から後期の京都の神官、歌人。代々上賀茂神社の神官を務める賀茂氏の流を汲む梨木)家に生れる。幼少の頃より和歌を好み冷泉為村に師事し、その生涯を通して十万首を超える和歌を詠んだといわれる。
十一の一 岸駒(がんく) 宝暦六年(一七五六)または寛延二年(一七四九)~ 天保九年(一八三九)。江戸時代中期から後期の絵師。姓は佐伯。名は昌明。初期の号は岸矩。岸派の祖である。出身地は越中高岡と加賀金沢との二説がある。安永七年(一七七八)の頃から上洛し、天明四年(一七八四)に有栖川宮家の近習となり、有栖川宮の庇護のもと、京都を代表する絵師の一人となる。
十一の二 森川竹窓(もりかわ ちくそう) 宝暦十三年(一七六三)~ 文政十三年(一八三〇)。江戸時代中期・後期の書家・画家・篆刻家である。 号は竹窓の他に良翁・墨兵・天遊など。大和の人。浪華に移住し、京都で没する。上田秋成と親交が深い。
十二の一 長沢芦雪(ながさわ ろせつ) 宝暦四年(一七五四)~ 寛政十一年(一七九九)。江戸時代中期の絵師。円山応挙の高弟。別号に千洲漁者、千緝なども用いた。円山応挙の弟子で、師とは対照的に、大胆な構図、斬新なクローズアップを用い、奇抜で機知に富んだ画風を展開した「奇想の絵師」の一人。丹波篠山に生まれ、安永七年(一七七八)、二十五歳の頃、応挙門に入る。「後年応挙に破門された」とかの流説があるが、事実は不明。
十二の二柴野栗山(しばの りつざん) 元文元年(一七三六)~ 文化四年(一八〇七)。
江戸時代中期・後期の儒学者・文人。讃岐の生まれ、寛政の三博士(寛政期に昌平黌の教官を務めた朱子学者三人、古賀精里・尾藤二洲・柴野栗山)の一人として知られる。
十三の一 月僊(げっせん) 元文六年(一七四一)~ 文化六年(一八〇九)。江戸時代中期から後期にかけての画僧。俗姓は丹家氏。名は玄瑞・元瑞。字は玉成。尾張名古屋の生まれ。江戸へ出て増上寺に入り月僊の号を与えられる。応挙・蕪村に私淑。画料を貪るなど「乞食月僊」との呼称もあるが、晩年その財を投じ伊勢山田の寂照寺を再興。著書『月僊画譜』など。
十三の二 慈周(じしゅう・六如=りくにょ) 享保十九年(一七三四)~ 享和元年(一八〇一)・江戸中期の天台宗の僧・漢詩人。近江の生まれ。医者・苗村介洞の子。白楼・無着菴と号する。初め天台宗武蔵明静院の学僧であったが、野村東皐に詩文を学び、のち江戸に出て宮瀬龍門に師事した。また儒者・皆川淇園らと親交があった。内外の書に精通し、仏儒に兼通するが、殊に詩学で知られる。晩年には京都に落ち着いて、嵯峨の長床坊に隠棲したという。
十四の一吉村蘭洲(よしざわ らんしゅう) 元文四年(一七三九)から文化十三年(一八一三)。江戸時代中期-後期の画家。京都の人。石田幽汀のち円山応挙に学び,西本願寺絵師となる。円山応挙晩年の弟子で、応門十哲の一人に数えられる。
十四の二 浜田杏堂(はまだ きょくどう) 明和三年(一七六六)~ 文化十一年(一八一五)。江戸時代中期後期の画家・漢方医。本姓は名和氏。号は杏堂・痴仙。浪華の人。
十五の一 土方稲嶺(ひじかた とうれい) 享保二十年(一七三五)または寛保元年(一七四一)~ 文化四年(一八〇七)。江戸時代中期から後期の絵師。因幡出身。号は臥虎軒、虎睡軒。稲嶺の号は、地元の名所稲葉山に因んだという。
十五の二 木村蒹葭堂(きむら けんかどう) 元文元年(一七三六)~ 享和二年(一
八〇二は、江戸時代中期の文人、文人画家、本草学者、蔵書家、コレクター。大坂北堀江瓶橋北詰の造り酒屋と仕舞多屋(家賃と酒株の貸付)を兼ねる商家の長子として生まれる。呉は蒹葭堂の他に、巽斎(遜斎)など。通称は 坪井屋吉右衛門。人々の往来を記録した『蒹葭堂日記』には多数の来訪者の記録があり、当時の漢詩人・作家・学者・医者・本草学者・絵師・大名等など幅広い交友が生まれ、一大文化サロンを形成している。この「諸家寄合膳」・「諸家寄合椀」に出てくる作者のほとんどが、蒹葭堂と何らかの関係を有している。
十六の一 玉潾(ぎくりん) 宝暦元年(一七五一)~文化十一年(一八一四)。江戸時代中期・後期の画僧。近江の人。京都永観堂の画僧玉翁の法弟で洛東山科に住した。画を師に学び、墨竹を得意とした。公卿や名門の人々と交わって画名をあげ、茶道・華道・蹴鞠の道も究めたという。俗姓は馬場。法号は曇空。別号に墨君堂・淵々斎。
十六の二 慈延(じえん) 寛延元年(一七四八)~ 文化二(一八〇五)。江戸時代中期・後期天台宗の僧・歌人。父は儒医兼漢学者塚田旭嶺。尾張藩明倫堂の督学を務めた儒学者塚田大峯の弟。字は大愚。号は吐屑庵。小沢蘆庵・澄月・伴蒿蹊とともに平安和歌四天王の一人に数えられている。信濃の生まれ、比叡山で出家して天台教学を学び、円教院に住した。
十七の一 紀楳亭(きの ばいてい) 享保十九年(一七三四)~ 文化七(一八一〇)。江戸時代中期・後期の絵師。与謝蕪村の高弟で師の画風を忠実に継承し、晩年大津に住んだため、近江蕪村と呼ばれた。山城鳥羽出身。俗称は立花屋九兵衛。楳亭は画号(当初は画室の号)で、俳号は梅亭。
十七の二 加茂季鷹(かもの すえたか) 宝暦四年(一七五四)~天保十二年(一八四一)。江戸後期の国学者。京都の生まれ。姓は山本、号を生山・雲錦。和歌を有栖川宮職仁親王に学ぶ。江戸では加藤千蔭・村田春海ら歌人・文人と交わり、京に帰って上賀茂の祠官となる。狂歌を得意とし、居を雲錦亭と名づけ歌仙堂を設け、また文庫に数千巻の書を蔵した。
十八 観嵩月(かん すうげつ) 宝暦五年(一七五五)~ 文政十三年(一八三一)。江戸時代後期に活躍した英派の絵師。高嵩谷の門人。高氏、名は常雄。別号に蓑虫庵・景訥など。江戸深川六軒堀の生まれ。
十九の一 島田元直(しまだ もとなお) 元文元年(一七三六)~文政2年(一八一九)。江戸中・後期の絵師。京都の生まれ。姓は紀、字は子方・子玄、別号に鸞洞(らんどう)など。円山応挙に師事。
十九の二 谷口鶏口(たにぐち けいこう) 享保三年(一七一八)~享和二年(一八〇二)。谷口楼川・谷口田女の養子。江戸神田の人。養父母とともに馬場存義側の点者をつとめる。楼川の跡をついで木樨庵2世となった。別号に獅子眠(ししみん)。
二十の一 堀索道(ほり さくどう) 生年未詳~享和二年(一八〇二)。江戸時代中期・後期の絵師。狩野)派の鶴沢)探山に学ぶ。寛政の内裏造営に際し,障壁画制作に加わった。法橋。名は守保。
二十の二 大島完来(おおしま かんらい) 寛延元年(一七四八)~文化十四年(一八一七)。 江戸時代中期・後期の俳人。伊勢津藩士。大島蓼太に学び、のち養子となって、雪中庵四世を継いだ。本姓は富増。通称は吉太郎。別号に震柳舎,野狐窟など。

蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その三)

蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その三)

蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その三)

「諸家寄合椀」(十一合)のうちの「若冲筆・梅図」

『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM編)』
所収「作品解説(4)」では、「朱塗りの椀の外側に墨で絵付けをした作品。十一合あり」
とし、その「三、伊藤若冲筆『梅図』」で、「署名は身部分に『米斗翁八十五戯画』とあり、左下に花押と思われる墨書がある。署名より、寛政十ニ年(一八〇〇)亡くなる年の絵付けである」としている。
 この「米斗翁八十五戯画」の書名は、「諸家寄合膳」の「伊藤若冲筆、四方真顔賛『雀鳴子図』にもあり、この両者は同時の作のようである。 
 そして、「若冲と蕪村関連年表」(上記書所収)の若冲の項に、「寛政十ニ年(一八〇〇)
八五 『諸家寄合膳』のうち『梅図』(作品4)、『松尾芭蕉図』(作品102)※、『霊亀図』
(作品223) 四月、池大雅の二十五回忌を病を理由に欠席 九月十日没」とあり、若冲が亡くなった年の作とされている。
 この年表の注意事項に、「年齢は数え年で、制作年に関しては若冲、蕪村ともに落款にある年齢や年代の表記にしたがった。※は、款記と賛の年が異なることを示す」とあり、その※のある「松尾芭蕉図」(伊藤若冲筆 三宅嘯山賛)の「作品解説102」は、次のとおりである。

[ 若冲が描いた芭蕉像の上方に、三宅嘯山(一七一八~一八〇一)が芭蕉の発句二句を書く。三宅嘯山は漢詩文に長じた儒学者であったが、俳人としても活躍し宝暦初年には京都で活躍していた蕪村とも交流を重ねた。彼の和漢にわたる教養は、蕪村らが推進する蕉風復興運動に影響を与え、京都俳壇革新の先駆者の一人として位置づけられる。
なお、嘯山の賛は八十ニ歳の時、寛政十一年(一七九九)にあたるが、一方、若冲の署名は、芭蕉の背中側に「米斗翁八十五戯画」とあり「藤汝鈞印」(白文方印)、「若冲居士」(朱文円印)を捺す。この署名通りに、若冲八十五歳、寛政十二年(一八〇〇)の作とみなせば、「蒲庵浄英像」(作品166)と同様に、嘯山が先に賛を記し、その後に若冲が芭蕉像を描き添えたことになる。しかし改元一歳加算説に従えば、嘯山が賛をする前年の若冲八十三歳、寛政十年に描かれたことになり、若冲の落款を考察する上では重要な作例となっている。
「爽吾」(白文方印)     芭蕉
春もやゝけしき調ふ月と峰
初時雨猿も小蓑をほしけなり
            八十二叟
             嘯山書
「芳隆之印」(朱文方印)「之元」(白文円印)       ]
(『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM編)』
所収「作品解説(102)・石田佳也稿」)

  ここに出て来る「改元一歳加算説」というのは、「若冲還暦以後改元年齢加算説」(『若冲《伊藤若冲画、狩野博幸 監修・執筆、紫紅社》』)のことで、狩野博幸氏の主唱しているものである。
 確かに、若冲が亡くなる寛政十二年(一八〇〇)の、「四月、池大雅の二十五回忌を病を理由に欠席 九月十日没」の短い期間に、「諸家寄合膳」のうちの「梅図」(作品4)、「松尾芭蕉図」(作品102)、「霊亀図」(作品223)などを手掛けるということは至難のことだという思いがして来る。また、画と賛との関係からしても、「若冲還暦以後改元年齢加算説」が、自然のように思われる。
 しかし、その説が極めて自然で、正鵠を得たものとしても、現に存在する落款の署名に明記しているものを基礎に据えることは、これまた基本的なことなのであろう。

 それにしても、蕪村が初めて『平安人物史』に登場する明和五年(一七六八)版の「画家」の部で登載されている順序は、「円山応挙・伊藤若冲・池大雅・与謝蕪村」の順であり、その若冲が、先の「諸家寄合膳」では八番目、この「諸家寄合椀」では三番目で、何故、若冲のみ「応挙・大雅・蕪村」に並列しないで別扱いにしているのだろうか。また、何故、若冲のみ、「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」の両方にあるのだろうか、次から次と疑問が湧いて来る。
 とすると、全くの類推以外の何物でもないのだが、これらは、例えば、明和八年(一七七一)の大雅と蕪村との合作の「十便十宣帖」のように、明確なテーマのもとに作者・賛者を人選しての綿密な企画を立ててスタートしたものではなく、結果的に、今日のような、「諸家寄合膳」(二十枚)、そして、「諸家寄合椀」(十一合)のみのものが、現にセットになって伝えられているもののような思いを抱くのである。
 すなわち、例えば、若冲が、京都の「青物問屋」の「枡屋」(家名と併せて通称『枡源』)」の大旦那であった画人とすると、それらに類する、京都の「漆問屋」(「画具・紅染・漆商」等の問屋)などが介在しての、極端に言うと、今でいう特定の文人・趣味人向けの、言わば「陳列品・グッズ商品」の逸品のようなもので、それらが、たまたま「旧蔵者」として箱書きにある日本画家の江戸時代末期から明治期に掛けての「雨森白水」の手に渡ったようなものなのかも知れない。
 そして、この種のものは、完全にオリジナル(他の手を煩わせていない作者・賛者の真筆)なものなのかどうかという一抹の疑問すら拭えないのである。
 すなわち、またまた、類推以外の何物でもないのだが、例えば、晩年の若冲の、石峰寺の五百羅漢のように、若冲が「下絵」を描き、石工が仕上げるというように、この種の「朱塗膳・朱塗椀」の作製の絵付けなどにおいては、塗師(塗り師)の何らかの支援が必須なのではないのかという、そんな素朴な思いを抱くのである。
 なお、この「諸家寄合椀」の絵師(十二人)については、別記二のとおりである。これらの絵師は、「諸家寄合膳」に比すると、狩野派(英派・鶴沢派)や土佐派の旧派系の者が多く、新派(南画・写生派・奇想派)の絵師も、比較的狩野派に近い者が多い感じである。

(補記一)

「関西大学創立120周年記念講演会 大坂画壇の絵画」(中谷伸生氏の講演記録―「関西大学学術リポトリジ」)の中で、「一 大坂画壇の評価について 二 木村蒹葭堂の画業と生涯 三 蒹葭堂と大坂画人による合作 四 蒹葭堂と交際した大坂の画家たち 五 岡田半江とその周辺の文人画 六 大坂の画家たちとその評価」について簡潔に触れられていた。その「三 蒹葭堂と大坂画人による合作」の中で、関西大学図書館所蔵の「大坂文人合作扇面」(紙本墨画淡彩)と共に、個人蔵(海外)の「諸名家合作(松本奉時に依る)」(紙本墨画淡彩・ 111.0×60.0㎝)が紹介されている。ここに登場する何人かの画人は、「諸家寄合膳」「諸家寄合椀」に登場する画人と一致する。ちなみに、「諸名家合作(松本奉時に依る)」の画人は、次のとおりである。

慈雲飲光、日野資技、西依成斉、中井竹山、六如慈周、細合半斉、皆川淇園、墨江武禅、福原五岳、中江杜徴、森周峯、圓山応瑞、奥田元継、森祖仙、木村蒹葭堂、伊藤若冲、伊藤東所、長沢芦雪、月僊、上田耕夫、篠崎三嶋、呉春

(補記二)

上記の『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM編)』所収「作品解説(102)・石田佳也稿」で紹介されている「三宅嘯山」については、「蕪村の花押(その一)」の冒頭で取り上げている。そこで取り上げた蕪村書簡(嘯山宛て)の署名の後の花押(「槌」のような、「経巻」のような、「嚢」のような、謎めいた花押)の周辺を探りたいというのが、そもそもの発端であった。その花押と、現に取り上げている「諸家寄合膳」(三 蕪村筆「翁自画賛」)での蕪村花押がどうに「一致しないのである(これは、後日取り上げていくことになる)。ここで、「蕪村の花押(その一)」で取り上げた蕪村書簡(嘯山宛て)を再掲して置きたい。

  蕪村書簡(三宅嘯山宛て、宝暦七年(一七五七))

(別記二)「諸家寄合椀」作者一覧

一 呉春(ごしゅん、宝暦二年・一七五二~文化八年・一八一一) 江戸時代中期・後期の絵師。四条派の始祖。本姓は松村(まつむら)、名は豊昌。通称を文蔵、嘉左衛門。号には呉春のほかに月溪(げっけい)、可転、蕉雨亭など。初期の号の松村月渓も広く知られる。京都堺町の生まれ。安永二年(一七七三年)の頃に、与謝蕪村の内弟子として入門、俳諧や南画(文人画)を学ぶ。天明元年(一七八一)の頃、身内の不幸に遭い、蕪村門下の俳人・川田田福を頼り、現在の大阪府池田市に転地療養し、この地の古名である「呉服(くれは)の里」に因み、呉春を名乗るようになる。蕪村没後、蕪村と交流があった応挙が、呉春の画才を高く評価し、「共に学び、共に励む」の客分待遇で、応挙門となり、応挙没後は、京都画壇の中心となり、その画派は呉春の住む場所から四条派と呼ばれた。後に師の応挙と合わせて円山・四条派と呼称され、近現代にまで連なる京都日本画壇の遠祖となった。
二 高嵩谷(こう すうこく、享保十五年・一七三〇~文化元年・一八〇四) 江戸時代中期の絵師。佐脇嵩之の門人。江戸の人。高久氏。名は一雄。明和頃から主に英一蝶風の洒脱な肉筆画や役者絵などを描いている。高嵩月は門人。
三 伊藤若冲(いとう じゃくちゅう、正徳・一七一六~寛政十二年・一八〇〇)
(別記一)「諸家寄合膳」作者一覧に記載。
四 英一峰(はなぶさ いっぽう、元禄四年・一六九一~宝暦十年・一七六〇) 江戸時代中期の絵師。英一蝶の高弟。
五 黄(横山)崋山(よこやま かざん、天明元年・一七八一~天保八年・一八三七) 江戸時代後期の絵師。名は暉三、または一章。京都出身(越後出身説あり)。福井藩松平家の藩医の家に生まれる。西陣織業を営む横山家の分家横山惟聲の養子となり、本家が支援した曾我蕭白に私淑。長じて岸駒に師事、のちに円山応挙や四条派の呉春の影響を受けた。
六 土佐光貞(とさ みつさだ、元文三年・一七三八~文化三年・一八〇六) 江戸時代中期の絵師。宝暦四年(一七五四)に分家して、土佐宗家の兄とともに絵所預(えどころあずかり)となる。寛政二年(一七九〇)の内裏造営の際,宗家の土佐光時(みつとき)をたすけ,障壁画の制作にあたった。号は廷蘭。
七 村上東洲(むらかみ とうしゅう、?~文化三年・一八二〇) 江戸中期・後期の絵師。京都の生まれ。名は成章、字は秀斐。僧鼇山(一説には大西酔月)に学び、人物・山水を能くした。
八 鶴沢探泉(?~文化十三年・一八〇九) 江戸時代中期・後期の画家。父は鶴沢探索。狩野派鶴沢家四代。法眼。名は守之。
九 森周峯(もり しゅうほう、元文三年・一七三八~文化六年・一八二三) 江戸時代中期・後期の大坂画壇で活躍した森派の絵師の一人。姓は森、名は貴信。俗称は林蔵。周峰(峯)、杜文泰、鐘秀斎と号す。森如閑斎の次男であり、森陽信の弟、森狙仙の兄であった。
十 宋紫山(そう しざん、享保十八年・一七三三~文化二年・一八〇五) 江戸中期・後期の画家。江戸の生まれ。父は宋紫石、子は紫岡。姓は楠本。名は白圭、別号に雪渓(二世)・雪湖(二世)など。画を父に学び、山水花鳥を能くする。
十一 森狙仙(もり そせん、寛延元年・一七四七~文化四年・一八二一) 江戸時代中期・後期の絵師。通称は八兵衛、名を守象、号としては祖仙、如寒斎、霊明庵、屋号の花屋も用いた。狩野派や円山応挙などの影響を受けながら独自の画風を追求し、養子森徹山へと連なる森派の祖となった。主として動物画を描き、とりわけ得意とした猿画の代表作として『秋山遊猿図』がある。

蕪村画像(呉春筆・雨森章迪賛)

呉春筆・雨森章迪賛の「蕪村画像」

呉春(月渓)筆・雨森章迪賛の「蕪村画像」


雨森章迪賛 紙本墨書一枚 二五・六×三七・三

署名「盟弟雨森章迪慟泣拝書」 印章「章」「迪」(白文連印) 

呉春筆 紙本墨画淡彩 一幅 二五・七×一四・三
署名「辛酉十二月廿五日 呉春拝写」 印章「呉」「春」(白文連印)  


 平成二十年(二〇〇八)三月十五日から六月八日(日)にかけてMIHO MUSEUMで開催された春季特別展「与謝蕪村―翔(か)けめぐる創意(おもい)」に出品されたものである。
 その図録の「作品解説」(岡田秀之)は次のとおりである。


[ 呉春(松村月渓)が宗匠頭巾をかぶる蕪村の右側からみた姿を描いた作品。落款から没後十八年の享和元年(一八〇一)に、蕪村の命日十二月二十五日に描かれたことがわかる。この図の上部には本来雨森章迪の賛があり、蕪村追善集『から檜葉』天明四年(一七八四)に載る追悼文とほぼ同じで、現在は、絵と賛が別になっている。この作品の外箱には、鉄斎の筆で「謝蕪村翁肖像 呉月渓/雨森章迪画賛 鉄斎外史題」とあり、鉄斎はこの図をもとに蕪村の肖像画を数点描いている。
賛 (略)  ]
(『与謝蕪村―翔(か)けめぐる創意(おもい)』図録所収「作品解説(169)」)


 上記の「作品解説(169)」に掲載されている「賛」(漢文)を、「から檜葉」(『蕪村全集七・講談社』所収)のもので、読みと簡単な注を付し(括弧書き)掲載して置きたい。


(雨森章迪「賛」)


[ 哭(「画賛」では「奉哭」)
謝蕪村先生(画賛」では「蕪村謝先生」)
先生ノ文(俳諧)墨(画)ノ伎ニ於ケル、只独リ描事ニコレ力(つと)メ、晩ニシテ事業愈(いよいよ)長ズ。
刻画(細かく輪郭づけて描く北宗画)似不似ノ論ニ唾シ、終(つひ)ニ模写倣傚(ほうこう=真似)、牽率(一派を率いる)シテ成ル者トハ大イニ異ル。
而シテ自ラ謝氏一家ノ墨(画)ト称シ、倣然(ごうぜん)トシテ世ト乖張(かいちょう=反旗を張る)ス。
宛(さなが)ラ婆蘿林(釈迦の入滅した娑羅の林)中ノ最後ノ説法ノ如シ。
六師(六師外道=異端の徒)幺魔(幼魔=心無い輩)、聴ク者益(ますます)懼(おそ)ル。
今年﨟月(臘月=陰暦十二月)念(一瞬=急に)五病ニ罹(かか)リテ卒(しゅつ=死)ス。
嗚呼(ああ)天斯(こ)ノ人ニ殃(わざわい=神の咎め)シ、斯の道に殃ス。
迪(てき=雨森章迪)ヤ三十年ノ旧盟(旧い同志)ニシテ、楚惜(耐え難い惜別)の念、噬臍(ぜいせい=臍を噛む)尽キズ。
哭詩二章ヲ奠(てん=供え祀る)シ、聊(いささ)カ悲痛牢騒(ろうそう=牢固たる騒ぎ)ノ万一ヲ
舒(の)ブルト云ウ。


江山一墨生痕ヲ溌シ、画禅ニ晤入(ごにゅう)シテ独尊ト称ス。
元是レ天然ノ大才子、周行七歩謝蕪村。


倏(たちま)チ三冬臥病ノ身ト作(な)リ、硯墨(けんぼく)ニ親マズ薬ニ惟(こ)レ親ム。
没却(もっきゃく)ス江山筆々ノ春


                          盟弟 雨森章迪拝書  ] 


 蕪村は天明三年(一七八三)十二月二十五日、六十八歳で没したが、その没後七々日(四十九日)を限りとして、諸家から寄せられた句文・詞章を集めた追善集『から檜葉(上下)』が、その翌年の一月、後に、夜半亭蕪村の後を継ぎ、夜半亭三世となる高井几董によって編まれた。書名は、蕪村の死の翌日に夜半亭で興行した一順追善俳諧の発句「から檜葉の西に折るゝや霜の声(几董)」から取られている。
 上巻には、主として夜半亭・春夜社(几董の社)中の悼句を収め、その跋文は、蕪村が葬られる金福寺の、その金福寺に蕪村が在世中に再興した芭蕉庵の、その再興の要となった樋口道立(漢詩人・江村北海の次男、川越藩京都留守居役の要職にあった儒者にして俳人)が起草している。
 下巻には、暁台の悼句を立句とする几董以下一門の歌仙、さらに杜口・蝶夢・闌更・旧国(大江丸)・無腸(上田秋成)・蓼太らの句文を収め、その跋文は、蕪村が葬られた後に、金福寺境内に蕪村句碑を建立した、蕪村門最大の後援者であった糸物問屋「堺屋」の惣領にして俳人の寺村百池である。蕪村百回忌には、その孫の百遷によって「蕪村翁碑」が、その境内に建立されている。
 この百地の跋文に続いて、上記の、雨森章迪の「哭文・哭詩」が、すなわち、蕪村追悼集『から檜葉』の「上・下」巻の総まとめのスタイルで起草されているのである。
 そして、その「哭文・哭詩」のまえに、その「序文」のようなものが認められている。その章迪の序文(漢文)は次のとおりである。
 上記の「賛」(「哭文・哭詩」)と同じく、「から檜葉」(『蕪村全集七・講談社』所収)に因り、その漢文書下し文のものを掲載して置きたい。


(雨森章迪「哭文・哭詩」の「序文」)


[ 夜半謝先生没スルヤ、門生高几董諸子ノ哭歌(こくか)ヲ鳩(あつ)メ、檜葉集ヲ撰ス。句々咸(みな)先生誹諧ノ奇ヲ以テ称嗟ス。呉月渓・梅嵒(ばいがん)亭余ニ謂ヒテ曰ク、先生描画ニ鳴リ、誹諧ニ波余ス。而(しか)モ一言ノ画ニ及ブ橆(な)シ。遺恨是レ之ヲ何如ト謂ハン。僕等(ら)画業ヲ先生ニ授カリシ者、世ノ識ル所ナリ。今ヤ筆ヲ立テ以テ其ノ妙ヲ言ハント欲スルモ、悲涙洋々トシテ、紙上海ノ如シ。幸イナルカナ君ノ哭詩、都(すべ)テ絵事ニ渉(わた)ル。冀(こいねが)ハクハ之ヲ巻末ニ置キ、僕等ノ筆に代ヘンコトヲ。余謝スルニ疣贅(ゆうぜい)ヲ以テス。可(き)カズ。併(あわ)セテ同社ノ二三子懇求シ、竟(つい)ニ写シテ呉・嵒二生(にせい)ニ与フルノミ。   ]


 この「序文」に出て来る「呉月渓」は、「呉春」(松村月渓)その人であり、「梅嵒(ばいがん)亭」は、呉春と共に、画業における蕪村門の二大双璧の「紀楳亭(きのばいてい)」(俳号・梅亭)である。
 呉春は、蕪村没後、蕪村と交流のあった円山応挙に迎えられ、後に「四条派」を形成し、応挙と共に、「円山・四条派」は、近・現代の京都日本画壇の主流を占めるに至る。また、
楳亭は、天明の大火で近江(大津)に移住し、後に、「近江の蕪村」と称せられるに至る。
 呉春も楳亭も、与謝蕪村門の画人として、当時の京都画壇の一角を占めていたが、同時に、俳人としても、蕪村の夜半亭社中の一角を占めている。そして、何よりも、この両者は、蕪村の臨終の最期を看取ったことが、『から檜葉』(上)に、次の前書きのある句で物語っている。


  師翁、白梅の一章を吟じ終て両眼を閉(とじ)、今ぞ世を辞す
  べき時也。夜はまだ寒きや、とあるに、万行の涙を払ふて
明(あけ)六ツと吼(ほえ)て氷るや鐘の声            月渓
夜や昼や涙にわかぬ雪ぐもり                梅亭


 これに続いて、「奉哭」と題して、夜半亭一門の句が収載されている。この登載の順序は、恐らく、年齢や俳歴などに因っての、序列などを意味していると解せられる。


雪はいさ師走の葉(はて)のねはん哉              田福
折(おれ)て悲し請(こふ)看(みよ)けさの霜ばしら         鉄僧
師は去りぬ白雲寒きにしの空                 自笑
かなしさや猶(なお)消(け)ぬ雪の筆の跡             維駒
雪にふして栢(かや)の根ぬらす涙かな             百池
(以下略)


  田福は、享保六年(一七二一)の生まれ、蕪村より五歳年少で、一門の最長老格なのであろう。京都五条町で呉服商を営み、摂津池田に出店があった。百池の寺村家とは姻戚関係にあり、宝暦末年までは貞門系の練石門に属し、練石没後蕪村門に投じている。三菓社句会には、明和五年(一七六八)七月より、その名が見える。
 鉄僧は、詳細不明だが、雨森章迪の俳号との説がある(『人物叢書 与謝蕪村《田中善信著》』・「国文白百合27号」所収「蕪村と鉄僧《田中善信稿》」)。それによると、「章迪は医を業としたが、書にも巧みで、京都の金福寺に現存する蕪村の墓碑の文字を書いた人物として知られている。後に蕪村のパトロンとなる百池は彼に書を学んだという。章迪は天明二年の『平安人物史』に毛惟亮の名で医者として登載されている(但し、『平安人物史』には医者の項目はなく、「学者」の部に登載されている)。住所は、「白川橋三条下ル町」である。
 章迪は、天明六年(一七八六)に、享年五十五で没しており、逆算して、享保十六年(一七三一)の頃の生まれとすると、田福に次ぐ、蕪村門の長老ということになる。蕪村門の俳歴からすると、鉄僧が章迪の俳号とすると、明和三年(一七六六)の第一回参加者句会から参加しており、次に出てくる「自笑」と共に最古参ということになる。
 とすると、この鉄僧こと雨森章迪が、この蕪村追悼集『から檜葉』の巻末の「哭文・哭詩」を草することと併せ、金福寺の蕪村墓碑の揮毫をする、その理由が明らかとなって来る。即ち、当時の蕪村の最大の支援者であり理解者であったのが、鉄僧こと雨森章迪ということになる。
 次の自笑(初号は百墨)は京都の人で、浮世草子の出版で有名な八文字屋の三代目である。三菓社句会の初回から加わり、蕪村門での俳歴は長い。後に、寛政初年(一七八九)の大火で大阪に移住している。
 続く、維駒は、蕪村門の最高弟であった黒柳召波の遺児で、安永六年(一七七七)に父の遺句を集めて『春泥句集』、蕪村が没する天明十三年(一七八三)、父の十三回忌に追善集『五車反古』を刊行し、この二書は同門中における維駒の名を重からしめた。この『五車反古』の「序」に、「病(びょう)夜半題(題ス)」と署名し、この『五車反句』の「序」が、蕪村の絶筆となった。
 次の百池は、姓は寺村、名は雅晁、通称は堺屋三右衛門、のち助右衛門と改めた。別号に大来堂など。祖父の代に京に上り、繡匠をもって業とした。河原四条に居を定め、大いに家業を興し、巨万の富を積んだ。父三貫が、蕪村の師の早野巴人門で、三貫自身、蕪村門に投じている。百池は、明和七年(一七七〇)の頃に蕪村門に初号の百稚の名で入門している。蕪村の有力な経済的支援者であると共に、穏健静雅な句風によって同門中に重きをなしている。また、百池没後の多くの遺構類は、「寺村家伝来与謝蕪村関係資料」として、今に遺されている。


 さて、冒頭の「呉春筆・雨森章迪賛の『蕪村画像』」に戻って、呉春が、この「蕪村画像」を描いたのは、蕪村没後十八年の享和元年(一八〇一)で、この時には、賛を書いた雨森章迪(鉄僧)は、天明六年(一七八六)に没している。
 従って、この賛は、呉春が、章迪(鉄僧)の遺構類のものをもって、この「蕪村画像」の上に合作して一幅としたものなのであろう(『与謝蕪村―翔(か)けめぐる創意(おもい)』図録所収「作品解説(169)」では「現在は、絵と賛が別になっている」との記述があるが、その一幅となっていた前の形態は、「絵と賛が別々」であったのであろう)。
 最後に、雨森章迪の筆による、蕪村墓碑」(金福寺)を掲載して置きたい。


(補記)


 2015年3月18日(水)~5月10日(日)まで、サントリー美術館で、「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展が開催された。その折出品された、「諸家寄合膳」(応挙・大雅・蕪村・若冲ら筆・朱塗膳・二十枚、各、二八・〇×二八・〇 高二・八)と「諸家寄合椀」(呉春・若冲ら筆・朱塗椀・十一合、各、径一二・六 高二八・八)は、旧蔵者の「雨森白水」との関連で、最初に、これらを企画し、蒐集したのは、蕪村、そして、呉春と親交の深い、鉄僧こと、雨森章迪ということも、十分に有り得ることであろう。
 なお、『日本文学研究資料叢書 蕪村・一茶』所収「蕪村周辺の人々(植谷元稿)」に、「処士雨森章迪誌銘」(皆川淇園に因る墓誌銘)が紹介されており、その中に、「無子(子無シ)」とあり、章迪は継嗣を失っており、その継嗣を失った時の賛(「般若心経」)が月渓(呉春)の「羅漢図」にあるようである。また、章迪の「号は多数」で、その中に、寺村百池の別号の「大来堂」もあり、章迪の別号の「大来堂」を百池が譲り受けたのかも知れない。とすると、第一回の「三菓社」句会は、鉄僧(章迪)の「大来堂」で行われたということなのかも知れない(『人物叢書 与謝蕪村(田中善信著)』では、「鉄僧の居宅大来堂で行われた」としている)。

(雨森章迪筆 「与謝蕪村墓碑」)

蕪村と若冲(二題)


蕪村と若冲(その一)

蕪村と若冲

(その一) 『平安人物史』上の蕪村と若冲

 蕪村が明和五年(一七六八)刊行の『平安人物史』に載ったのは、宝暦七年(一七五七)三年間に及ぶ丹後・宮津逗留に終止符を打って、それ以前に寓居していた京都に再帰して十年余りが過ぎた、五十三歳の時であった。

 この宝暦七年(一七五七)から明和五年(一七六八)にかけての蕪村の歩みを振り返ると、讃岐逗留(明和三年=一七六六~明和五年=一七六八)を含む「三菓社時代(宝暦九年=一七五九~明和七年=一七七〇)」ということになろう。

 「三果」というのは、蕪村の画室(アトリエ)の庵号で、「三果園・三果軒・三果亭・三菓堂」などと、安永五年(一七七六)頃までの長期にわたり断続的に用いられている。その前身は、「朱瓜楼」で、「朱瓜」は「烏瓜・唐朱果」の烏瓜のことで、蕪村の画室から見られる、その種の「三果樹」などに由来があるのであろう。

 「三果社」の「社」は、詩社(片山北海の「混沌社」など)の名称にならったもので、蕪村を中心とした俳諧結社名ということになろう。その第一回目の句会は、明和三年(一七六六)六月に、鉄僧(医師・雨森章迪の俳号)の居宅の太来堂で行われ、その時のメンバーは、蕪村・太祇(炭太祇)・召波(黒柳召波)・鉄僧(雨森章迪)・百墨(自笑)・竹洞・以南・峨眉の八人である。

 この「三果」の庵号が初めて登場するのは、宝暦九年(一七五九)の「牧馬図」の落款においてで、「己卯(宝暦九年)冬、三果書堂ニ於イテ写ス 東成趙居」と、その署名は「東成趙居」である。この「東成」は、蕪村の生まれ故郷の「淀川河口に近い摂津国東成郡毛馬村(現、大阪市都島区毛馬街)」の「東成」の意が込められているのかも知れない。後の、蕪村晩年の「謝寅」時代に見られる「日本東成謝寅」「日東東成謝寅」の落款の、「西(中国)」に対する「東(日本)」の意は、未だ包含していないであろう。

 この「趙居」は、宝暦七年(一七五七)に丹後宮津を去って京都に再帰してからの蕪村の画号で、宝暦十年(一七六〇)の「謝長庚」が登場して、以後見られなくなる(但し、「趙」という一字の印章は晩年まで用いられている)。

 大雑把な「三果社時代」の画業の中心をなすのは、宝暦十三年(一七六三)から明和三年(一七六〇)にかけての「屏風講(蕪村の屏風など大作を購入する同好会)時代」で、そのメンバーは、三果社のメンバーが基礎になっていたのであろう。

 この屏風講時代に創作された絖本(こうほん・ぬめ張り)・絹本の屏風絵は次の通りである。

○山水図屏風(絖本、出光美術館蔵) 宝暦十三年四月碧雲洞での作。(落款)謝長庚。東成謝長庚。(印章)溌墨生痕・謝長庚・春星氏・謝長庚印・春星・東成。

○野馬図屏風(絖本、京都国立博物館蔵) 宝暦十三年八月三果軒および碧雲洞での作。(落款)東成謝春星・東成謝長庚。(印章)春星・謝長庚印。

○山水図屏風(絖本、文化庁蔵) 明和元年夏三果亭での作。(落款)謝長庚。(印章)謝長庚印・春星・溌墨生痕・三果居士。

○山水図屏風(絖本、個人蔵) 明和九年・十月三果亭での作。(落款)東成謝長庚・謝長庚。(印章)謝長庚印・春星・謝長庚・謝春星。

○柳塘晩霽図屏風(絖本、フリーア美術館蔵) 明和元年十一月三果亭での作。(落款)謝
長庚・東成謝春星。(印章)謝長庚・謝春星・謝長庚印・春星・溌墨生痕。「柳塘晩霽図 陳霞狂筆ニ擬ス」と記す。

○青楼清遊図屏風(絹本、個人蔵) 明和二年六月作。(落款)春星。

○蘭亭曲水図屏風(絖本、東京国立博物館蔵) 明和二年作。(落款)謝長庚・溌墨生痕・山水自清言。

○草廬三顧・蕭何追韓信図屏風(絖本、野村文華財団蔵) 製作年次不明。(落款)謝長庚。(印章)謝春星・謝長庚。

○龍山勝会・春夜桃李園図屏風(絖本、MOA美術館蔵) 製作年次不明。三果堂での作。(落款)謝長庚、東成謝長庚。(印章)溌墨生痕・謝長庚印・謝長庚・謝春星。
                (『人物叢書 与謝蕪村(田中善信著・吉川弘文館)』)

 そもそも、宝暦七年(一七五七)、蕪村が四十二歳の時に、丹後宮津から京に再帰する以前の前半生というのは、大阪・江戸・北関東・東北・京都・丹後各地を、一所不在の放浪の日々で、それは同時に、画(画人)・俳(俳人)の二道を極めんとしての修業・修練の日々でもあった。

 そして、その前半生の放浪・修練の日々は、「釈蕪村」と僧籍にある「釈」氏を名乗り、浄土宗の遊行僧として雲水行脚の日々であったとしても差し支えなかろう。

 その放浪の雲水行脚の日々に終止符を打って、還俗して俗姓の「与謝」氏を名乗り、結婚して京都での定住の生活に入ったのは、宝暦十年(一七六〇)の四十五歳の頃で、この時期を境にして、蕪村の絵の落款は「謝長庚」「謝春星」と「謝」氏となり、この「謝」は「与謝」という姓の中国風に一字のものにしたものと解して差し支えなかろう。

 上記の、蕪村の一時代を画することになる屏風講時代の大作は、いずれも、「謝長庚・謝春星」の落款を用いての、京都に定住して創作されたものということになる。そして、蕪村が、名実共に京都の画人として世に認められた証しが、冒頭に掲げた明和七年(一七六八)刊行の『平安人物史』の「画家」の部に、「大西酔月・円山応挙・伊藤若冲・池大雅・蕪村」の順で、全部で十六人中、五番目に搭載されたことが、何よりの証左ということになろう。

 ここで、蕪村と同年(正徳六・寛保元年=一七一六)に誕生した若冲との関連を、「蕪村と若冲関連年表」(『生誕三百年同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM 編集)』所収)でビックアップすると次のとおりである。

宝暦七年(一七五七)四二歳 (若冲)高遊外、「売茶翁像」(作品一五二)に賛する。(蕪村)九月、鷺十の閑雲山真照寺にて「天橋立図」(作品二七)を描く。丹後与謝から京に戻る。帰洛後、氏を与謝と改める。

宝暦八年(一七五八)四三歳 (若冲)「動植綵絵」(宮内庁三の丸尚蔵館)の制作をはじめる(前年からか)。春、「梅花小禽図」(動植綵絵)。

宝暦十年(一七六〇)四五歳 (若冲)梅荘顕常や池大雅らと京郊外の梅を見る(翌年か)。八月、「花鳥蔬菜図押絵貼屏風」(作品一五一)。十一月、「四季花鳥押絵貼屏風」(作品六四)。十二月冬至、「動植綵絵」を見た高遊外から「丹青活手妙通神」の一行書を与えられる。
「髑髏図」(作品七四)に高遊外の賛。(蕪村)六月、「維摩・龍・虎図」(作品五〇)。十二月、「倣王叔明山水図屏風」(作品一四二)。冬、「双馬図」(作品一二六)。この頃、結婚するか。 
宝暦十三年(一七六三)四八歳 (若冲)『売茶翁偈語』に高遊外の肖像を描く。(蕪村)この頃、屏風講をはじめ、屏風を多数制作。

明和二年(一七六五)五〇歳 (若冲)九月十九日、末弟宗寂没(享年不明)。九月二十九日、「釈迦三尊像」三幅(宮内庁三の丸尚蔵館)、「動植綵絵」二十四幅を相国寺に寄進。十一月十一日、宝蔵寺に宗寂の墓建立。十二月二十八日、相国寺と死後永代供養の契約を結ぶ。

明和五年(一七六八)五三歳 (若冲)五月、『玄圃遙華』(作品七九)。十一月一日、東本願寺光遍上人、「動植綵絵」の一覧を相国寺に願い、貸与を許可される。三月、『平安人物史』(作品一)の画家の部に載る。住所は「高倉錦小路上ル町」。『素絢帖』(作品七八)跋。
(蕪村)三月、『平安人物史』(作品一)の画家の部に載る。住所は「四条烏丸東ヘ入町」。
四月、讃岐を去り、帰京する。五月六日、三果社中句会を再開する。

 上記の「関連年表」で、まずもって注目したいことは、宝暦七年(一七五七)に蕪村が京都に再帰した、その年に、若冲の畢生の傑作シリーズの「動植綵絵」の製作がスタートを切ったということである。この若冲の「動植綵絵」(三十幅)と「釈迦三尊図(三幅対)との全貌は別記の通りである。

 そして、この「動植綵絵」は、明和二年(一七六五)九月に、妻子のいない若冲の跡取りとして期待をかけていた末弟宗寂が亡くなったのを機に、いまだ未完成のままに、「釈迦三尊」(三幅)と「動植綵絵」(二十四幅)を臨済宗相国寺派大本山相国寺に寄進し、生家の伊藤家の菩提寺宝蔵寺(浄土宗)の宗寂の墓を建立している(父母の墓も若冲が建立している)。

 何故、生家の菩提寺宝蔵寺ではなく相国寺に寄進したのかは、若冲より三歳年下の、生涯にわたって精神的支柱と仰いでいた、後の、相国寺百十三世住持となる大典顕常和尚(梅荘顕常)と、その相国寺の塔頭の林光院を住居としていた売茶翁(漢詩人・高遊外、臨済・曹洞の二禅を極め、さらに律学をも修した当代一流の黄檗僧・月海元昭、その僧籍を捨てて、「通仙亭」で煎茶を売る「売茶翁」の名で知られている)との二人の縁に因るものなのであろう。

 この若冲の精神的二大支柱の梅荘顕常と高遊外の二人が、宝暦十年(一七六〇)に、若冲のアトリエ(「独楽窩」でなく「心遠館」か)を訪れて、「将ニ花鳥三十幅ヲ作リ、以テ世ニ遺サントス。而シテ十有五幅既ニ成レリ」((大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」))と、その時に完成していた十五幅を見たとの記事を残している。

 それだけではなく、この時に梅荘顕常に同行していた高遊外は、「宝暦庚辰(十年)冬極月/丹青活手妙通神/八十六翁高遊外書付/若冲隠士」という一行書(書A)を認め、若冲に与えたのである。

この高遊外が「八十六翁」の八十六歳とすると、若冲、四十五歳、梅荘顕常、四十二歳の時となる。即ち、高遊外と若冲・梅荘顕常とは、四十歳以上の歳の開きがあったということになる。
若冲は、この一行書の「丹青活手妙通神(丹青活手の妙神に通ず)」の七文字を二行にわかって印刻し、生涯にわたってそれを使用し続けた。「動植綵絵」においても、別記の「17・蓮池遊魚図(れんちゆうぎょず)」「22・牡丹小禽図(ぼたんしょうきんず)」「23・池辺群虫図(ちへんぐんちゅうず)に、その印影を見ることが出来る。

 さらに続けると、梅荘顕常の「藤景和画記」には、この「而シテ十有五幅既ニ成レリ」の、その十五幅について、漢字四字の題名をつけて、それぞれに、その図様の解説を漢文で記している。それと、現存する「動植綵絵」(三十幅)を照合すると、別記の「1・芍薬群蝶図(しゃくやくぐんちょうず)」から「12・老松鸚鵡図(ろうしょうおうむず)」の十二幅は一致し、三幅(「秋扇涼影」「寒華凝凍」「群囲攻昧」)は該当するものがなく、その三幅は「墨画」と明記されている。

 すなわち、若冲の当初のプランでは、着色画(カラー)十五幅と水墨画(モノクロ)十五幅とを対にするものであったが、製作途中で、全てを着色画として、明確に「動植綵絵」の全体にかかわる題名を付して、宝暦十三年(一七六三)に、その二十四幅と「釈迦三尊像」(三幅対)を相国寺に寄進したということになる(『若冲 広がり続ける宇宙(狩野博幸著・角川文庫)』)。

 そして、明和七年(一七七〇)十月、父親の三十三回忌の折りに、自分と父母の戒名と、「動植綵絵」(六幅)を追加し三十幅として、その寄進を完了させ、併せて、永代供養の宿願を刻した位牌を相国寺に寄進したというのが、現存する「釈迦三尊像」「動植綵絵」との顛末ということになる。

 ここで、この「釈迦三尊像」「動植綵絵」の三十三幅は、観音菩薩が「三十三応身」として衆生を救うという教えが意識されているということと、これらの「動植綵絵」の総体が、この世のありとあらゆるものが仏性を備えていて成仏できるという「草木国土悉皆成仏」の思想を具現化しているという指摘(『生誕三百年記念 若冲百図(小林忠監修)』所収「伊藤若冲の生涯(小林忠稿)」)は、誰しもが実感するものであろう。

 この「動植綵絵」の「綵絵」という語は、単なる彩色を施した絵という意味ではなく、「
仏教的なニュアンスを持っていた(元の仏画で発願者がそれらを綵絵させたと記す用例がある)」という指摘もある(『もっと知りたい伊藤若冲 生涯と作品(佐藤康宏著)』)。

 と同時に、これらの「「釈迦三尊像」「動植綵絵」にかかわる一部始終を見て行くと、若冲の作画の意図というのは、この「動植綵絵」(三十幅)の途次(二十四幅)で寄進した、明和二年(一七六五)九月晦日付け相国寺宛て寄進状(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)の、次の大意(原文は漢文)に、全て網羅されていることを実感する。

「私は常日ごろ丹青に心を尽し、草木や羽根の形状をことごとく描こうとして、あまねく題材を集め、以て一家をなしました。また嘗て張思恭(ちょうしきょう)画くところの釈迦文殊普賢像が巧妙無比なのを見て、何とか摹倣(もほう)したいと思い立ち、遂に三尊三幅を写し、動植綵絵二四幅を作りました。もとより、世俗的な動機でこれをなしたのではありませんので、相国寺へ喜捨いたし、寺の荘厳具(しょうごんぐ)として永久に伝わることになればと存じます。ちなみに私自身も百年の形骸を終(つい)に斯の地に埋めたいと心から念願しますので、そのための手筈として、いささかの費用(祠堂金)を謹んで投じ、香火の縁を結びたいと思います。ともに御納めいただけることを伏して望みます。」
 (『若冲(辻惟雄著・講談社学術文庫)』) 

(印章A 蕪村愛用の遊印「潑墨生痕」)

(書A「一行書 丹青活手妙通神  売茶翁作 )

 さて、若冲と蕪村とが、明和五年(一七六八)刊行の『平安人物史』の画家の部に、当時勃興しつつあった、新しい写生画的「花鳥画」の旗手として、応挙と若冲、そして、日本の文人画の旗手として、大雅と蕪村とが、当時の京都画壇のビックファイブとして、登載されるに至ったと解して差し支えなかろう。

 そして、当時の若冲の代表的な作品としては、煎茶中興の祖として仰がれている売茶翁(漢詩人・高遊外、法名・月海)をして、「丹青活手妙通神」とまで激賞された、釈迦三尊図(三幅対)と「動植綵絵」(三十幅のうちの二十四幅)、そして、蕪村の代表的な作品としては、
宝暦十年(一七六〇)、還俗して与謝姓を名乗った頃から晩年に至るまで、蕪村が好んで愛用した印章(遊印)の「潑墨生痕(はつぼくせいこん)」が捺されている、屏風講時代ですれば、先に掲げた「山水図屏風」(絖本、出光美術館蔵)、「山水図屏風」(絖本、文化庁蔵)、「柳塘晩霽図屏風」(絖本、フーリア美術館蔵)などが挙げられよう。

 この「柳塘晩霽図」には、「陳霞狂(ちんかきょう)ニ倣フ」の款記があり、その「陳霞狂
(汝文)の「古木短篷(こぼくたんぽう)」と題(落款)する画中に、「潑墨生痕」(白文方印)が捺されており、蕪村はこれに倣ったのではなかろうかと推測されている(『特別展没後二百年記念 与謝蕪村 名作展(大和文華館編)』所収「蕪村画の魅力(早川聞多稿)」)。

 続けて、この「潑墨生痕」の意味について、「『潑墨』とは一般に墨をそそぐやうにして描く水墨画の描法をさすが、ここではその描法から見て、描く勢ひを象徴するものと私には思はれる。そして『生痕』とは生きた跡、生の証(あかし)といふことであらう。つまり「自らの筆勢の裡に生きてゐる証を描きたい」といふ願ひが、この遊印には籠められててゐると、私は想像するのである」(早川聞多・前掲書)としている。

 ここで、この蕪村の「潑墨生痕」(印章A)に、先の、若冲の「寄進状」や、売茶翁が若冲に呈した一行書(書A)を重ね合わせると、明和五年(一七六八)刊行の『平安人物史』の画家の部に登載された、若冲と蕪村との二人が見事にクローズアップされて来る。

(別記)     動植綵絵(三十幅)宮内庁三の丸尚蔵館蔵

1・芍薬群蝶図(しゃくやくぐんちょうず)
宝暦七年(一七五七)頃の作(絹本着色)。画面左上に「平安城若冲居士藤汝鈞画於錦街陋室」、署名下に「汝鈞」(白文方印)」・「藤氏景和」(朱文方印)。画面右上に「出新意於法度之中」(朱文長方印)。題名「艶霞香風」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。

2・梅花小禽図(ばいかしょうきんず)
宝暦八年(一七五八)作(絹本着色)。画面右上に「宝暦戌寅春居士若冲製」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文円印)。題名「碧波粉英」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。

3・雪中鴛鴦図(せっちゅうえんおうず)
宝暦九年(一七五九)作(絹本着色)。画面左上に「宝暦己卯仲春若冲居士製」、下に「藤女鈞字景和」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「寒渚聚奇」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。

4・秋塘群雀図(しゅうとうぐんじゃくず)
宝暦九年(一七五九)作(絹本着色)。画面左上に「宝暦己卯仲秋若冲居士製」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「野田楽生」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。

5・向日葵雄鶏図(ひまわりゆうけいず)
宝暦九年(一七五九)作(絹本着色)。画面左下に「宝暦己卯仲秋若冲製」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「初陽映発」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。

6・紫陽花双鶏図(あじさいそうけいず)
宝暦九年(一七五九)作(絹本着色)。画面左中央に「宝暦己卯秋平安錦街居士若冲造」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「堆雲畳霞」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。

7・大鶏雌雄図(たいけいしゆうず)
宝暦九年(一七五九)作(絹本着色)。画面左上に「宝暦己卯年平安錦街居士若冲造」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「聯歩祝々」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。

8・梅花皓月図(ばいかこうげつず)
宝暦十年(一七六〇)作(絹本着色)。画面右に「居士若冲製」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「羅雲寒色」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。

9・老松孔雀図(ろうしょうくじゃくず)
宝暦十年(一七六〇)作(絹本着色)。画面右に「居士若冲製」、下に「汝鈞」(白文方印)・「藤氏景和」(朱文方印)。題名「芳時媚景」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。

10・芙蓉双鶏図(ふようそうけいず)
宝暦十年(一七六〇)作(絹本着色)。画面右下に「心遠館若冲居士造」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「芳園翔歩」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。

11・老松白鶏図(ろうしょうはっけいず)
宝暦十年(一七六〇)作(絹本着色)。画面右に「若冲居士製」、下に「汝鈞」(白文方印)・「藤氏景和」(朱文方印)。題名「晴旭三唱」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。

12・老松鸚鵡図(ろうしょうおうむず)
宝暦十年(一七六〇)作(絹本着色)。画面左に「心遠館主人若冲写」、画面左に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「隴客来集」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。

13・芦鵞図(ろがず)
宝暦十一年(一七六一)作(絹本着色)。署名はなく、画面右に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。

14・南天雄鶏図(なんてんゆうけいず )
明和二年(一七六五)作(絹本着色)。署名はなく、画面左下に「汝鈞」(白文方印)・「藤氏景和」(朱文方印)。

15・梅花群鶴図(ばいかぐんかくず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面左下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。右上に「丹青不知老将至」。

16・棕櫚雄鶏図(しゅろゆうけいず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面右下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。

17・蓮池遊魚図(れんちゆうぎょず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。画面左に「斗米
葊主若冲」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。右上に「丹青活手妙通神」(朱文長方印)。

18・桃花小禽図(とうかしょうきんず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。画面左上に「若冲居士」、下に「藤汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。

19・雪中錦鶏図(せっちゅうきんけいず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。画面左下に「錦街若冲製」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。

20・群鶏図  (ぐんけいず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面右上に「藤汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。

21・薔薇小禽図(ばらしょうきんず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。画面左上に「心遠館若冲画」、下に「藤汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。

22・牡丹小禽図(ぼたんしょうきんず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年頃(一七六五)の作(絹本着色)。画面右下に「若冲」、下に「汝鈞」(白文方印)。右中央に「丹青活手妙通神」(朱文長方印)。

23・池辺群虫図(ちへんぐんちゅうず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。画面右下に「斗米
葊若冲」、下に「藤汝鈞」(白文方印)若冲居士」(朱文円印)。左上に「丹青活手妙通神」(朱文長方印)。

24・貝甲図(ばいこうず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面左上に「汝鈞」(白文円印)・「若冲居士」(朱文円印)。

25・老松白鳳図(ろうしょうはくほうず)
明和二年(一七七五)~明和三年(一七六六)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面右下に「藤汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文円印)。

26・芦雁図  (ろがんず)
宝暦十一年(一七六一)作(絹本着色)。画面右下に「宝暦辛巳春居士若冲造」、下に「汝鈞」(白文方印)・「藤氏景和」(朱文方印)。

27・群魚図・蛸(ぐんぎょず・たこ)
明和二年(一七七五)~明和三年(一七六六)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面右中央に「藤汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文円印)。

28・群魚図・鯛(ぐんぎょず・たい)
明和二年(一七七五)~明和三年(一七六六)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面左上に「藤汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文円印)。

29・菊花流水図(きっかりゅうすいず )
明和二年(一七七五)~明和三年(一七六六)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面左上に「藤汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文円印)。

30・紅葉小禽図(こうようしょうきんず)
明和二年(一七七五)~明和三年(一七六六)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面右下に「藤汝鈞印」(白文方印)・「若冲居士」(白文方印)。

釈迦三尊図(三幅対)京都・相国寺蔵

31・釈迦如来像(しゃかにょらいぞう)
明和二年(一七七五)以前の作(絹本着色)。画面右下に「平安藤汝鈞亝宿拝写」、下に「汝鈞」(白文方印)・「藤景和印」(朱文方印)。

32・普賢菩薩像(ふげんぼさつぞう)
明和二年(一七七五)以前の作(絹本着色)。画面右下に「平安藤汝鈞亝宿拝写」、下に「汝鈞」(白文方印)・「藤景和印」(朱文方印)。

33・文殊菩薩像(もんじゅぼさつぞう)
明和二年(一七七五)以前の作(絹本着色)。画面左下に「平安藤汝鈞亝宿拝写」、下に「汝鈞」(白文方印)・「藤景和印」(朱文方印)。


(『若冲百図 生誕三百年記念(小林忠監修・別冊太陽)』・『若冲 名宝プライスコレクションと花鳥風月(狩野博幸監修・別冊宝島)』)

若冲と蕪村の「蝦蟇・鉄拐図」  

若冲と蕪村の「蝦蟇・鉄拐図」

 若冲は「名遂(と)げぬ。事畢(おわ)りぬ」(「碣銘」)の、「釈迦三尊像」(三幅)そして「動植綵絵」(三十幅)完成以後の五十代、六十代の作品は多く残らない。
明和七年(一七七〇)十月、父の三十三回忌に当たり、その三尊(三幅)および綵絵(三十幅)の寄進の全てが終わる(「位牌銘」)前年(明和六年=一七六九)六月十七日の相国寺の「閣懺(かくせん)」(相国寺三門で行われる儀式)に合わせ、これらの全てが方丈に掛けられ、一般の人々も、その全貌を知るに至ったのである。
この年(明和六年=一七六九)に、これが若冲の作なのかと疑うほどに、何とも奇妙奇天烈な、ユーモアに溢れた水墨画の「蝦蟇・鉄拐図」(双幅)を制作している。 

(若冲「蝦蟇・鉄拐図」)

(光琳「蹴鞠布袋図」)

 この若冲の「蝦蟇・鉄拐図」は、光琳の「蹴鞠布袋図」に想を得たのではないかとされている(「日本の美術9(NO.256)伊藤若冲(佐藤康宏稿)」)。
 この「蝦蟇図」の月遷浄潭の賛は、「失魄無依附餓莩尸。元非其質。人争得知。海雲山人形賛書」、「鉄拐図」の寂照の賛は、「露形遙至無為境。吐気獨遊不老仙。泉南叟書」。

 月遷浄潭(じょうだん)は、海雲山法蔵寺住持(黄檗僧)で、この明和六年(一七六九)に没している。また、泉南(せんなん)叟は、「平安人物志」(明和五年版)に出て来る「学者・書家」の「釈寂照(号)・泉南(字)」で、若冲と親交があったのであろう。
 「蝦蟇図」の蝦蟇仙人(劉海蟾=りゅうかいせん)、そして、「鉄拐図」の鉄拐仙人(李鉄拐=りてっかい)は、中国の仙人で、不老不死の術を修めた、超人的な能力を持つ人々である。
蝦蟇仙人は、三本足の白いカエルと共に描かれ、このカエルは「青蛙神(せいあじん)」との別名で、この青蛙神が訪れると幸運・金運に恵まれるなどの伝承がある。
一方、鉄拐仙人は、物乞いの体を借りて蘇ったことから、破れた衣を着て、鉄の杖を持ち、その口元をすぼめて、自分の分身を吹き出しているポーズなどで描かれている。
 さて、若冲が描く右双の「鉄拐仙人」は、実に奇妙奇天烈なポーズで、「杖を両手で握りしめ、顔らしき『顎と目玉二つと鼻ならず口と顎髯』とが、天を仰いで、その天に何やら、その分身の杖を持っている河童らしきものが描かれている」。これに賛する「露形遙至無為境。吐気獨遊不老仙」。この「泉南叟書」とは、「泉南叟=釈寂照」の「書(賛)」で、この「露形遙至無為境。吐気獨遊不老仙」とは、「この何とも表現できないような図画の、この気を吐いている仙人は、『獨楽窩(どくらくか)』と自称しているアトリエで、『丹青不知老将至(たんせいまさにおいのいたるをしらず)』なるものを遊印として使用している『若冲居士(仙人)』さんさながらですね」というような意が込められているのかも知れない。

 そして、若冲が描く左双の「蝦蟇仙人」は、三本足の「青蛙神」を河童の頭のような禿げ頭に乗せて、その「青蛙神」が天を仰いでいる。その仰いでいる方向に、「失魄無依附餓莩尸。元非其質。人争得知。海雲山人形賛書」が書かれている。
 この「失魄無依附餓莩尸。元非其質」は、鉄拐仙人にかかわる故事の、「魂を失うて依るべき所なし、一餓莩(ウヒ)の尸(シカバネ)を起し之に附す。元(以前の)其の質(カタチ=肉体)に非ず」(「鉄拐一日老君と約して華山に赴かんとす、即ち其徒に約して曰く我が魂此に在り、若し游魂七日にして返らずんば汝吾が魂と化すべしと、徒母疾あるを以く迅く帰り、六日にして之に化す、鉄拐七日に至りて帰るも已に魂を失うて依るべき所なし、一餓莩の尸を起し之に附して起つという、形跛悪なる是れがためなり)に因っているのであろう。

 この若冲の「蝦蟇・鉄拐図」の「鉄拐図」(右双)の基になっているという、尾形光琳の「蹴鞠布袋図」の「布袋」は、日本の「七福神」(恵比寿・大黒天・毘沙門天・弁財天・寿老人・布袋)の一柱で、大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれるのが通例である。それを光琳は、その大きな袋を放り投げて、蹴鞠に夢中になっている布袋で、その布袋が、頭上高く舞い上がっている蹴鞠を仰いで構図である。
 その日本の「七福神」の一柱の「布袋」を、中国の「八仙人」(呂洞寶=ろどうひん、李鉄拐=りてっかい、鐘離権=しょうりけん、張果老=ちょうかろう、藍菜和=らんさいか、曹国舅=そうこくきゅう、何仙姑=かせんこ)の一柱の「(李)鉄拐」に転回しているのである

 その「鉄拐図」(右双)の「鉄拐(仙人)」が吐き出す霊気の中の「分身」が、光琳の「蹴鞠布袋図」の宙に浮いている「蹴鞠」の見立てで、今度は、その「蹴鞠」の如き「鉄拐(仙人)」の「分身」は、「蝦蟇図」(左双)の「蝦蟇仙人」(河童頭のみ表示されている)と転回し、その「蝦蟇(仙人)」が連れ歩く「青蛙神」(三本足の蝦蟇)が、「蝦蟇仙人」の頭上で、天を仰いで、光琳の「蹴鞠」ならず、月遷浄潭の賛の「失魄無依附餓莩尸。元非其質。人争得知。海雲山人形賛書」を仰いているのである。
 これは、光琳の「蹴鞠布袋図」と若冲の「蝦蟇・鉄拐図」との見事な連携プレーで、蕪村の俳諧の世界でするならば、見事な「付け合い」ということになる。
 さらに、この若冲の「鉄拐図」(右双)の、若冲の「図」とそれに賛する寂照の賛「露形遙至無為境。吐気獨遊不老仙」とは、俳諧(連句)の世界でするならば、発句(若冲「図」)に対する、脇句(その発句を受けての挨拶句の趣)の「賛」という雰囲気である。

 そして、この若冲の「蝦蟇図」(左双)は、右双の「若冲図・寂照賛の『鉄拐図賛』」に対して、その「鉄拐図賛(若冲図と寂照賛)」に比しての、「蝦蟇図賛(若冲図と月遷浄潭の賛)」の、この「青蛙神」(三本足の蝦蟇)が見上げている、月遷浄潭の賛の「失魄無依附餓莩尸。元非其質」(魂ヲ失イテ依ルトコロ無シ、餓死シタル屍ニ附ク、元、其ノ質ニ非ズ)という、この月遷浄潭の賛こそ、これら一連の図と賛との「結句」のように思われる。
 それは、「肉体は無になっても、魂は無にならない」というようなことを暗示していて、これらのことを、光琳の「蹴鞠布袋図」と若冲の「蝦蟇・鉄拐図」との関連に当て嵌めて見ると、「光琳の『蹴鞠布袋図』の魂は、若冲の『蝦蟇・鉄拐図』において、その形状は消えていても、その魂は生き続けている」ということになる。
 事実、若冲は、天明九年、改元して、寛政二年(一七九〇)の、七十五歳の晩年に於いて、光琳が得意とする金壁障屛画の如き「仙人掌群鶏図(さぼてんぐんけいず)」(襖六面・紙本金地着色・各一七七.二×九二.二cm)として結実して来る。

(若冲「仙人掌群鶏図」) 

  さて、蕪村には「蝦蟇・鉄拐図」と題する作品はない。ただ、蕪村の丹後時代(宝暦四年=一七五四~同七年=一七五五)の作「十二神仙図」(六曲一双)の一扇(面)に、「蝦蟇(仙人)・鉄拐(仙人)」を描いたらしきものが残っている。
 これらの各扇(面)の「押絵貼(おしえばり)」で描かれた人物の特定は難しいが、その右隻の第三扇(面)は、「右側は足が悪いながら魂を自在に離脱させた李鉄拐(りてっかい=鉄拐仙人)、その隣は左手に桃を持ち右手に銭差しらしき紐を握ることから劉海蟾(りゅうかいせん=蝦蟇仙人)」と鑑賞しているものもある(『与謝蕪村―翔けめぐる創意(MIHO MUSEUM編)』図録所収「作品解説」)。

(蕪村「十二神仙図屏風」、右隻=六扇、その第三扇=「鉄拐仙人(右)・蝦蟇仙人(左)」)

 この「十二神仙図」の右隻の第三扇(右から三番目)、これが蕪村の「「鉄拐仙人(右)・蝦蟇仙人(左)」である。鉄誘仙人の口から吐き出される霊気の中には、その分身は描かれていない。それは、おそらく、その分身が戻るべき肉体が焼かれて、飢え死にした肉体に宿って再生したということを暗示しているのであろう。
 また、蝦蟇仙人には、三本足の「青蛙神」は居らず、代わりに、不老不死や邪気を払う蟠桃(ばんとう)と金運を象徴する銭差しを持っている。これらも中国または日本の版本(絵手本など)から示唆を受けたものなのであろうが、蕪村の趣向というのが窺える。

 ちなみに、この「十二神仙図」は、享保五年(一七二〇)に刊行それた大岡春卜の『画本手鑑』に掲載されている図と類似するものがあるとの指摘がある(『南画鑑賞(八―十、一九三九年)所収「蕪村の画系を訪ねて(人見少華稿)」)。

 この大岡春卜は、若冲の最初の師とされ、若冲も、この大岡春卜の版本などから多くのものを学んでのであろう。若冲自身は、「狩野氏ノ技ヲ為ス者ニ従ヒテ」と、春卜その人の名を明らかにはしていないが、続いて、若冲は、「不如舎(舎=捨テルニ如カズ)」と、全てを断ち切り、「周(アマネ)ク草木ノ英(エイ)、羽毛虫魚ノ品(ヒン)、ニ及ンデゾ貌(カタチ)ヲ悉(ツク)シ、ソノ「神」ニ会シ、心得テ手応ズ」と「物」を「写実」することを基本に据える。

 一方、蕪村は、「吾に師なし、古今の名書画をもって師と為す」と、画道において終生師として仰ぐものを持たなかった。ただ、目標としていた画と俳(俳諧)との二道の面において、当時、京都在住の、その先駆的な一方の雄であった彭城百川を慕って、宝暦元年(一七五一)、三十六歳のときに、十年余に及ぶ関東遊歴時代に終止符を打って上洛して来たという事実は紛れもないことであろう。しかし、その百川は、蕪村が上洛した翌年(宝暦二年=一七五二)八月二十五日に、その五十六年の生涯を閉じてしまうのである。

 この百川の逝去が一つの動機となっているのだろうか、その逝去の二年後、宝暦四年(一七五四)の春か夏の頃、百川も嘗て足を止めていた丹後の宮津へ移住し、百川が標榜していた「売画自給」(画業で自立する)の実践の途を決行することになる。この時、蕪村、不惑の齢の一年前、三十九歳であった。

 上記の「十二神仙図屏風」は、蕪村が不惑の齢を迎えた、その翌年(宝暦五年=一七五五)の頃の作であろうか。この掲出の右隻の第四扇と第六扇とに、杜甫の詩に由来する「丹青不知老(将)至」(丹青=画ハ将ニ老イノ至ルヲ不知=知ラズ)の遊印(好みの語句などを彫った印)を捺している。
ちなみに、この右隻(六扇)の署名と印章は次のとおりである。

第一扇 署名「四明」、印章「馬孛」(白文方印)、「四明山人」(朱文方印)
第二扇 署名「四明」、印章「四明山人」(朱文方印)、「朝子」(白文方印)
第三扇 署名「四明」、印章「四明山人」(朱文方印)
第四扇 署名「四明」、印章「丹青不知老至」(白文方印)、「朝」「滄」(朱白文連印)
第五扇 署名「四明写」、印章「馬孛」(白文方印)、「四明山人」(朱文方印)
第六扇 署名「四明図」、印章「丹青不知老至」(白文方印)、「朝子」(白文方印)

 この署名の「四明」は、比叡山の二峰の一つ、四明岳(しめいがたけ)に由来があるとされている。そして、安永六年(一七七六)の蕪村の傑作俳詩「春風馬堤曲」に関連させて、蕪村の生まれ故郷の「大阪も淀川河口に近い摂津国東成郡毛馬村(現、大阪市都島区毛馬街)」からは「遠く比叡山(四明山)の姿を仰ぎ見られたことだろう」(『蕪村の世界(尾形仂著)所収「蕪村の自画像」)とされている、その比叡山の東西に分かれた西の山頂(四明岳)ということになろう。

 そして、この四明岳は、中国浙江(せっこう)省の東部にある霊山で、名は日月星辰に光を通じる山の意とされる「四明山」に由来があるとされ、蕪村は、これらの和漢の「四明岳(山)」を、この画号に潜ませているのであろう。
 また、印章の「馬孛(ばはい)」の「馬」にも、蕪村の生まれ故郷の「毛馬村」の「馬」の意を潜ませているのかも知れない。事実、蕪村は、宝暦八年(一七五八)の頃に、「馬塘趙居」の落款が用いられ、この「馬塘」は、毛馬堤に由来があるとされている(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。

そして、この「馬孛(ばはい)」の「孛」は、「孛星(はいせい)=ほうきぼし、この星があらわれるのは、乱のおこる前兆とされた」に由来があり、「草木の茂る」の意味があるという(『漢字源』など)。

とすると、「馬孛(ばはい)」とは、「摂津東成毛馬」の出身の「孛星(ほうき星)=乱を起こす画人」の意や、生まれ故郷の「摂津東成毛馬」は「草木が茂る」、荒れ果てた「蕪村」と同意義の「馬孛」のようにも解せられる。

 そして、この「孛星(ほうき星)」に代わって、宝暦十年(一七六〇)の頃から「長庚(ちょうこう・ゆうづつ=宵の明星=金星)」という落款が用いられる。
この「長庚(金星)」は、しばしば「春星」と併用して用いられ、「長庚・春星」時代を現出する。ちなみに、「蕪村忌」のことを「春星忌」(冬の季語、陰暦十二月二十五日の蕪村忌と同じ)とも言う。

この「春星」は、「長庚」の縁語との見解があるが(『俳文学と漢文学(仁枝忠著)』所収「蕪村雅号考」)、「春の長庚(金星)」を「春星」と縁語的に解しても差し支えなかろう。と同時に、「長庚・春星(春の長庚)」の、この「金星」は、別名「太白星」で、李白の生母は、太白(金星)を夢見て李白を懐妊したといわれ(「草堂集序」)、李白の字名(通称)なのである。

 また、この「朝子・朝・滄」の印章は、「四明」と同じく画号で、蕪村の師筋に当たる宝井其角の畏友・英一蝶(初号・朝湖、俳号・暁雲)の「狩野派風の町絵師」として活躍していた頃の号「朝湖」に由来するものなのであろう。

 関東放浪時代は、落款(署名)がないものが多く、それは「アマチュア画家として頼まれるままに絵を描いているうちに画名が高くなり、やがて専門家並みに落款を用いるようになった」というようなことであろう(『田中・前掲書』)。

 その関東放浪時代の落款(署名)は、「子漢」(後の「馬孛(ばはい)=ほうき星」「春星・長庚=金星」の号からすると「天の川」の意もあるか)、「浪華四明」、「浪華長堤四明山人」、「霜蕪村」の五種で、印章は「四明山人」、「朝滄」(二種)、「渓漢仲」の四種のようである(『田中・前掲書』)。

 こうして見て来ると、蕪村の関東放浪時代と丹後時代というのは、落款(署名)そして印章からして、俳諧関係(俳号)では「蕪村」、そして絵画(画号)では「四明」「朝滄」が主であったと解して差し支えなかろう。

その中にあって、上記(掲出)の「十二神仙図屏風」右隻の第四扇と第六扇との「丹青不知老(将)至」(丹青=画ハ将ニ老イノ至ルヲ不知=知ラズ)の遊印は、これは、蕪村の遊印らしきものの、初めてのものと解して、これまた差し支えなかろう。
 そして、あろうことか、この「丹青不知老(将)至」(蕪村の遊印には「将」は省略されている)の文字が入っている遊印を、何と、若冲も蕪村とほぼ同じ時期に使用し始めているのである(細見美術館蔵「糸瓜群虫図」など)。

 この遊印を捺す作品の中で、制作時期が判明できる最も新しい若冲作は、「己卯」(宝暦九年=一七五九)の賛(天龍寺の僧、翠巌承堅(すいげんしょうけん)の賛)のある「葡萄図」で、蕪村作では、庚辰(宝暦十年=一七六〇)の落款のある「維摩・龍・虎図」(滋賀・五村別院蔵)である。

 しかし、この蕪村の「維摩・龍・虎図」の制作以前の、丹後時代の宝暦九年(一七五九)前後に、上記(掲出)の「十二神仙図屏風」は制作されており、そして、この「十二神仙図屏風」中の、この遊印の「丹青不知老(将)至」が使用さている右隻の第四扇の図柄などは、この遊印のの由来となっている、杜甫の「丹青の引(うた)、曹将軍(そうしょうぐん)に贈る詩」などと深く関係しているようにも思われるのである。

 すなわち、この右隻の第四扇は、「龍に乗る呂洞寶(りょどうひん)」とされているが(『生誕二百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村』図録)、呂洞寶としても、杜甫の「丹青引曽将軍贈」の詩の二十三行目に、「斯須九重真龍出」と「龍」(龍の語源の由来は「速い馬」)が出て来るし、それに由来して、七行目の「丹青不知老(將)至」の遊印を使用しているということは十分に考えられる。

さらに、この右隻の第四扇は、呂洞寶ではなく「龍の病を治した馬師皇(ばしこう)」としているものもある(『与謝蕪村―翔けめぐる創意(MIHO MUSEUM編)』図録所収)。確かに、呂洞寶は剣を背にして描かれるのが一般的で、蕪村の描く「十二神仙図押絵貼屏風」中の右隻の第四扇の人物は、病気に罹った龍を治したとされる「馬師皇」がより適切なのかも知れない。

そして、これを馬師皇とすると、杜甫の詩の「丹青引曽将軍贈」の内容により相応しいものとなって来るし、蕪村の遊印の「丹青不知老至」を、この人物が描かれたものに押印したのかがより鮮明になって来る。

さらに、この「作品解説」(『与謝蕪村―翔けめぐる創意(MIHO MUSEUM編)』図録所収)で重要なことは、『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM 編集)』図録所収)の「作品解説」の、「大岡春卜の『和漢名筆 画本手鑑』(享保五年=一七二〇刊)の掲載図など、版本の図様を参考にした可能性が指摘されている」を、「右隻第一扇の黄初平図が、享保五年(一七二〇)に刊行された大岡春卜(一六八〇~一七六三)の『画本手鑑』に載る『永徳筆黄初平図』に類似するとの指摘もあり(人見少華『蕪村の画系を訪ねて』『南画鑑賞』八―一〇、一九三九年)、示唆に富む。右隻第四扇の龍も、同書の『秋月筆雲龍図』とよく似ており、こうした版本の図様を参考にした可能性も考えられよう」と、具体的に解説されているところである。


蕪村の連句(序)・その一

蕪村の連句(序)

蕪村の連句(序)

 俳諧史上三大俳人といわれる芭蕉・蕪村・一茶の俳句(発句)の数は、井本農吉著の『芭蕉とその方法』(「連句の変化とその考察」)によれば、芭蕉・約一千句、蕪村・約二千八百五十句、そして、一茶は、実に、約一万八千句という。そして、これが連句(俳諧)になると、芭蕉・約三百八十巻、蕪村・約百十二巻、そして、一茶二百五十巻となる。続けて、同著によれば、「大雑把であり伝存の限りのことだが、連句に対して発句の比重の高まる大勢は察せられる」としている。                                

 芭蕉・蕪村・一茶という、点から点を結ぶ俳諧史において、明治に入り、正岡子規の俳句革新によって、俳諧(連句)が葬り去られる以前において、俳諧(連句)から俳句(発句)へという道筋は、ほぼはっきりとしていたということであろうか。

 これらのことに関して、丸山一彦氏は、「蕪村を契機として、それ以後になると兼題(けんだい)・席題( せきだい)による発句の会が盛んとなり、連句の制作というのはむしろ敬遠される傾向にあり、一茶の連句になると、芭蕉や蕪村のそれと比べて付味も粗雑で作品としても整っていない」との指摘もしている(丸山一彦・「一茶集・連句編」・『完訳日本の古典 蕪村・一茶集』所収)。          

 ということは、俳諧(連句)というものは、芭蕉・蕪村・一茶という、点から点を結ぶ俳諧史において、それは、蕪村までで、それ以降のものは、芭蕉の俳諧(連句)鑑賞ほどに、その鑑賞に耐えるものは、ほとんど存在しないということがいえるのであろうか。                    

 それにしても、これら三人の俳句(発句)に関する鑑賞・解説の類はほぼ完備されつつあるのに比して、こと連句(俳諧)のそれになると、これは、芭蕉を除いて甚だ未開拓の分野といわざるを得ないのである。蕪村の連句(俳諧)のそれにしても、その全体像を明らかにし、それに、やや詳細な校注を加えたものは、昭和五十年代の、大谷篤蔵・岡田利兵衛・島居清校注・『蕪村集 全』(古典俳文学体系12)においてであった。そして、個人で、これらの鑑賞・解説の類の、ほぼ全容にわたって挑戦したものは、わずかに、これも、昭和五十年代の、野村一三著『蕪村連句全注釈』を数える以外に、それを例を見ない。                    

 そして、『蕪村集 一茶集』(暉峻康隆校注・完訳日本の古典58)の「蕪村 連句編」などで、芭蕉とは異質の、高踏的な文人趣味の、いわゆる蕪村調の連句(俳諧)の幾つかについて、それをかいま見るだけで、この文献の少なさが、逆に、無性に、蕪村一派のそれを見たいという衝動にかられてくる。            

 と同時に、これらの蕪村の連句(俳諧)の文献に接してみると、必ずや、昭和の初期の頃刊行された、潁原退蔵編著・『改定 蕪村全集』につきあたる。この著書の、この分野に与えた影響は、それは想像以上に大きなものがある。しかし、その原著に直接接するということも、その刊行以来、半世紀以上が立つ今日において、これもまた、はなはだ困難な状況にあるということも認めざるを得ない。                    

 また、蕪村一派の俳諧(連句)といわず、その一派の俳句(発句)の魅力にとりつかれると、どうしても、これまた、その発句に対すると同程度の連句の世界をかいま見たいという衝動にかられてくるのである。そして、夜半亭二世を継ぐ与謝蕪村は、夜半亭一世宋阿(早野巴人)そして夜半亭三世を継ぐ高井几菫とその周辺の俳人達には、実に、興味を駆り立てる群像が林立しているのである。                      

 いや、それだけではなく、蕪村の連句(俳諧)を知るということは、これは、芭蕉の連句(俳諧)が、どのように変遷していったのかか、さらにはまた、連句(俳諧)が省みられなくなった今日において、その連句(俳諧)の再生ということは可能なのであろうか等の問題点について、何かしら解答が、その中にあるような予感がしてならないのである。                                 
このような観点から、そしてまた、「芭蕉に帰れ」と中興俳諧の中心人物となった蕪村とその周辺の俳人達の群像はどうであったのか、そんなことを問題意識にしながら、蕪村の連句(俳諧)の概括を試みることとする。 この蕪村の連句(俳諧)の概括するに当たっては、その全体像の百十二巻のうちの五十六巻について頭注等を施している、この分野の唯一の古典たる潁原退蔵編著の『改定 蕪村全集(昭和八年改定増補版)』をその中心に据え、その私解的鑑賞を試みることとする。                

 (参考文献)                                           
① 『改定 蕪村全集』・潁原退蔵編著・更生閣・昭和八年改定増補版                ② 『蕪村集 全』(古典俳文学体系12)・大谷篤蔵・岡田利兵衛・鳥居清校注・集英社・昭和五〇   
③ 『蕪村連句全注釈』・野村一三著・笠間書院・昭和五〇 ④ 『蕪村集 一茶集』(完訳日本の古典58)「蕪村 連句編」・暉峻康隆校注・小学館・昭和五八    
⑤ 『座の文芸 蕪村連句』・暉峻康隆監修・小学館・昭和五三                   ⑥ 『此ほとり 一夜四歌仙評釈』・中村幸彦著・角川書店・昭和五五                                
(補注)                                             
① 参考文献の校注等については、右の文献等から適宜取捨選択をしており、必ずしも、統一はされていない。 また、⑤の『此ほとり 一夜四歌仙評釈・中村幸彦著』など、詳細な解説がなされているものは、極力、その 著書からの引用するように心がけている。                              
② 特殊文字等の幾つかについて、平仮名を使用している。その箇所については、☆印を付している。    

柳ちりの巻 (延享・寛延年中、一七四四~一七五〇)

柳ちりの巻 (延享・寛延年中、一七四四~一七五〇

 宝暦二年(一七五二)、その前の年に京へ帰っていた蕪村は、三十七歳であった。この年の七月に、蕪村の関東時代の実質的な後見者であり、同じ巴人門の先輩に当たる結城の砂岡雁宕そして関宿の箱島阿誰(あすい)が編集した『反古衾(ほごぶすま)』が刊行された。この『反古衾』は、その「襖・冬の季語」の表題が示すとおり、歌仙の立句を含めて、冬の発句ばかり集めた撰集である。                       

 その撰集者の雁宕と阿誰は、関東における夜半亭巴人門の中心的人物で、蕪村の先輩筋に当たる俳人ということになるが、巴人没後は、江戸座俳人グループとの交流を深めていった。そして、この『反古衾』は、その江戸座俳人の有力者・馬場存義(李井・りせい)が、序を、小原旨原(百万・ひゃくまん)が跋を担当した。そして、若き蕪村は、釈として登場する。                                    
 ちなみに、山下一海氏によれば、蕪村の俳諧の生涯を、次の六つの時期に分けている。          

① 元文二年(二十二歳) 江戸日本橋本石町の夜半亭宋阿(巴人)門の入門。         
② 寛保二年(二十七歳) 六月六日、師・宋阿の没。                         
③ 寛保四年(二十九歳) 春、下野宇都宮にあって『歳旦帖』編纂。                
④ 寛延四年(三十六歳) 秋、江戸を離れ京へ。                           
⑤ 明和三年(五十一歳) 六月二日、寺村鉄僧の大来堂において三菓社発句会発表。    
⑥ 明和七年(五十五歳) 夜半亭二世継承                               

 この区分において、蕪村の関東出遊時代とは、①から④までの、約十四年の歳月ということになる。この間の寛延三年(一七四三)、蕪村、二十八歳の時に、下野の芦野の歌枕で有名な遊行柳を詠じた開眼の一句、「柳ちり清水かれ石ところどころ」が誕生する。この句は晩年の自撰句集に至るまで愛着を持ち続けた自信作でもあった。そして、この開眼の一句の初出が、実に、雁宕と阿誰の撰集の『反古衾』(蕪村・二句、李井・十四句、百百・十三句・阿誰七句の四吟)の発句として収められている。                           

一 柳ちり清水かれ石ところどころ(☆)           蕪村                       

発句、「清水かれ」で冬の句と思われるが、蕪村は「蕪村自筆句稿貼交屏風」等で、秋の部に収載しており、「柳ちり」(秋)を季語として意識していたと思われ、ここは「柳ちり」で秋の句。  
〔句意〕西行が、芭蕉が訪ねた、この下野の遊行柳も、今は、柳は散り、清水は涸れ、石がごろごろしているばかりだ。                                                                                                  

( 柳ちり清水かれ石ところどころ(☆) )                                
二 馬上の寒さ詩に吼(ほゆ)る月             李井                                                                   

脇句、「月」で秋。月の定座は五句目だが、ここに引き上げている。発句が、「山高ク月小ニシテ水落チテ石出ル」(蘇東坡・『後赤壁賦』)をベースにしており、このことを受けてか、李井も、「詩に吼る月」と漢詩的な付けである。                                      
〔句意〕その寒々とした光景の中を、馬に乗り、月に向かって、漢詩を吟じて行きます。                                                               

( 馬上の寒さ詩に吼(ほゆ)る月 )                                 
三 茶坊主を貰ふて帰る追出(おひだ)シに       百万                                                                   

第三、雑の句(心は、前句を受け秋の季)。「追出シ」とは、芝居などの終わりなどに、その打ち出す太鼓の合図のことらしい。第三は、転じの妙というが、一気に場面転換という感じである。 
〔句意〕芝居も追い出しの太鼓の合図だ。芝居小屋の茶坊主と一緒に、家にでも帰り、芝居の話の続きなどをしよう。                                                                                                   

( 茶坊主を貰ふて帰る追出(おひだ)シに )                               四 ざらりざらり(☆)と納屋のこのしろ(☆)          村                                                                   

オ・四句目、雑の句。一順して蕪村の付けである。前句に対する、その状況の時宣の付けであろう。 原本には、「このしろ」は「〓」の漢字が用いられている。                    
〔句意〕芝居小屋から、ざらり、ざらりと、鮗(このしろ)のようにくっついて芝居見物の人達が出てきます。                                                     

( ざらりざらり(☆)と納屋のこのしろ(☆) )                           
五 大汐に足駄とられし庭の面                 井                                                                   

オ・五句目、雑の句。月の定座だが、二句目に引き上げられている。「ざらりざらりと」からの大潮の連想であろうか。                                             
〔句意〕ざらりざらりと大潮が、庭まで来て、下駄を取られて、どうにも困りました。                                                               

( 大汐に足駄とられし庭の面 )                                     
六 枕かいって起す邯鄲(かんたん)              万                                                                   

オ・折端、雑の句。先ほど、李井の漢詩的な脇に対して、その漢詩のニュアンスにそっぽを向いた百万が、ここは、「邯鄲の夢・蘆生の夢」などの古事を基にして句にしている。          
〔句意〕庭先で、大潮に下駄を取られたように、ふっと、枕をかえったら、丁度、夢で人生の栄枯盛衰の無情さを知った邯鄲の夢のような思いに囚われて眠れませんでした。                                                                      

( 枕かいって起す邯鄲(かんたん) )                                
七 余所(よそ)へ出ぬ土用の中も冬に似て           万                                                                   

ウ・折立、「土用」で夏。前句の邯鄲の夢のような思いに囚われたことからの連想であろうか。 〔句意〕なに、邯鄲の夢に囚われた--、それは、この暑い土用の暑さの中を、まるで、冬籠りのように、一歩も外に出ないから、そんなことに囚われるのだよ。                                                                               

( 余所(よそ)へ出ぬ土用の中も冬に似て )                             
 八 陳皮(ちんぴ)一味に薬研(やげん)ごしごし(☆)     井                                                                   

ウ・二句目、その人の姿情などを説明している其人の付けであろう。「陳皮」とは、蜜柑の皮などを乾かして作る薬用品。「薬研」とは、薬種を細かな粉末にする道具のこと。            
〔句意〕冬籠りのように、まるで、土用籠りをしている人は、それは、陳皮などを、汗をふきふき、薬研で  ゴシゴシ粉末にしている様のようですね。                                                                                    

( 陳皮(ちんぴ)一味に薬研(やげん)ごしごし(☆))                        
九 墨の手で拭(のご)ふ涙の手習ひ子             井                                                                   

ウ・三句目、雑の句。蕪村が抜けて李井と百万との両吟による進行なのだが、李井の,この句、前句とは、似ても似つかない、ほのぼのとした句に仕立てている。                   
〔句意〕薬研でゴシゴシしている様ね--、それは、手習い子が、墨の付いた手で、ゴシゴシ、涙を吹いている様にも思われますね。                                                                                            

( 墨の手で拭(のご)ふ涙の手習ひ子 )                                
 一〇 死ンだ雀を竹に埋(うめ)けり               万                                                                   

ウ・四句目、雑の句。抒情的な句に抒情的な付けである。                        〔句意〕その手習い子の腕白小僧は、死んだ雀を、やさしく、竹の根元に埋めてやりました。                                                        

( 死ンだ雀を竹に埋(うめ)けり )                                 
一一 萩すゝきひしこ(☆)の培(こえ)に色ぞよき        万                                                                   

ウ・五句目、「萩薄」で秋。「ひしこ」は背黒鰯の子供で、肥料の材料。原本は「異体字」の漢字。   〔句意〕竹の根元に、雀を埋めて肥やしになったように、ここの萩と薄は、ひしこの肥やしで、実に色が鮮やかです。                                                                                                   

( 萩すゝきひしこ(☆)の培(こえ)に色ぞよき )                            
一二 休意とついて楽らく(☆)の秋                井                                                                   

ウ・六句目、「秋」で秋。萩と薄からの連想の付けであろうか。「休意」とは、心を安んじること。 
〔句意〕萩と薄の風情のある所で、心を安んじて、安楽の秋を堪能しております。                                                      

( 休意とついて楽らく(☆)の秋 )                                 
一三 釜の坐にやつを隠して後の月                井                                                                   

ウ・七句目、「後の月」で秋。月の定座は次句であるが、一句引き上げている。恋の呼び出しの句とも。
〔注・「釜の坐」は京都三条通新町西入の町名で「かまんざ」との頭注がある。〕     
〔句意〕陰暦九月十三日の後の月の、安楽の秋を堪能なさっている方は、京都の釜の坐の別宅に、大事な人を。  

 ( 釜の坐にやつを隠して後の月 )                                    一四 酒で嗽(すすぐ)も床のたのしみ               万                 

ウ・八句目、雑の恋の句。月の定座は、前句に引き上げられている。                
〔句意〕その大事なお方と月見の後、お二人で酒を使って口を嗽ぎながら、お床でお楽しみになるのでしょう。

( 酒で嗽(すすぐ)も床のたのしみ )                                
一五 三途(さんず)川たばこに酔ふて渡る也           万                                                                   
ウ・九句目、雑の句。恋句は二句続けるとすれば、ここは、恋句か。                 

〔句意〕どうも、楽しみ過ぎて、三途の川を、煙草に酔って、ふらふら渡るような有り様でした。                                                          

( 三途(さんず)川たばこに酔ふて渡る也 )                               
一六 花には去らぬ毛氈の蛇                     井                                                                   

ウ・十句目、「花」で春。花の定座は次句だが、ここに引き上げている。                〔句意〕三途の川を、煙草に酔って渡るとは、それは、丁度、花見の席の赤い毛氈の所を、ここが良いと、そこを一歩も退かない蛇のようですね。                                                                                    

( 花には去らぬ毛氈の蛇 )     
一七 山吹に莚(むしろ)下ゲたる厠(かはや)の戸        井                                                                   

ウ・十一句目、「山吹」で春。花の定座だが、前句に引き上げられている。               〔句意〕その図々しい蛇に比べて、この山中の貧しい家の厠には、人目をはばかるように筵が下げられている。その脇の山吹が美しい。                                                                                           

( 山吹に莚(むしろ)下ゲたる厠(かはや)の戸 )                            
一八 つれづれ(☆)読(よみ)の笠も幾春             万                                                                   

ウ・折端、「春」で春。「つれづれ読」は、徒然草の講釈師の類であろうか。              〔句意〕その山中のあばら屋の、徒然草の講釈師の笠も古ぼけて、みるからに年輪を感じさせる。そして、また、幾度目かの春が来た。 

( つれづれ(☆)読(よみ)の笠も幾春 )                              
一九 橋守が人形売(うる)も古風なり                井                                                                   

ナオ・折立、雑の句。隠栖者から橋守の連想か。                           
〔句意〕その山中のあばら屋の徒然草の講釈師とどこか趣が似かよっているのだが、橋守をしながら人形を売っている人もいる。そして、それらの姿は、何やら古風で、何やら風情がある。                                                            

( 橋守が人形売(うる)も古風なり )                                  
二〇 振らする後へふらぬ大名                  阿誰                                                                   

ナオ・二句目、雑の句。ここで、阿誰が加わり、三吟となる。阿誰の最初の句、なかなか、意味の取り辛い句である。橋を大名行列が通っていくということからの其場の付けであろうか。    
〔句意〕その橋を、賑やかに、槍を振りながら行く大名がいるかと思えば、静かに、槍など振らず通り過ぎる大名もいる。それぞれ十人十色だ。                                   

( 振らする後へふらぬ大名 )     
二一 清水(きよみづ)も十日の上野ことさらに          万                                                                  

ナオ・三句目、雑の句。「清水」は、上野寛永寺の清水堂のこと。                   〔句意〕大名行列の賑わいといえば、この十日の花の盛りの頃は、上野寛永寺の清水堂の辺りも、非常な賑わいになりますね、                                                                                               

( 清水(きよみづ)も十日の上野ことさらに )                              
二二 唐縮緬のすみ染の尼                      井                                                                 

ナオ・四句目、雑の句。前句の「ことさらに」などの言葉のあやによる起情の付けと思われる。 〔句意〕花の盛りに終わりがあるように、その人も、唐縮緬などを着て華やかな時もあったが、今では、すみ染めの尼の姿になってしまいました。                                  

( 唐縮緬のすみ染の尼 )                                      
二三 松風と共に経る世のゆがみ形(な)リ             誰                                                                 

ナオ・五句目、雑の句。前句の人の姿情を見定め付ける其人の付けか。              〔句意〕その尼の人は、浜の松風を聞きながら、日々の暮らしをするまでに、生活が一変してしまいました。                                                   

( 松風と共に経る世のゆがみ形(な)リ )                              
 二四 面ンをかぶって掛乞(かけごひ)に逢ふ          万                                                                 

ナオ・六句目、雑の句。「掛乞」は、借金取りのこと。                        
〔句意〕その日暮らしの貧乏暮らしで、外に出ましたら、生憎と借金取りに出会っちゃいまして、思わず、面を被って、その場をしのぎました。                                                                                        

( 面ンをかぶって掛乞(かけごひ)に逢ふ )                             
二五 酒毒とてなかがひ(☆)ほどに出来にけり          井                                                                 

ナオ・七句目、雑の句。前句の「面ンをかぶって」からの連想であろう。原本には「なかがひ」は「異体字」の漢字。                                  
〔句意〕面を被ったのは、借金逃れではなく、酒の毒で、大きなおできが出来て、それで、面を被ったのでしょう。                                                                                                    

( 酒毒とてなかがひ(☆)ほどに出来にけり )                              
二六 眠るうなゐに神おはします                  誰                                                                 

ナオ・八句目、雑の句。「うなゐ」は、髪をうないにした幼子のこと。前句の人物に別人をもってくる向付であろう。                                              
〔句意〕親父は、酒毒でどうしょもないが、その幼子は、髪をゆないにしていて、すやすやと眠っていて、まるで、神様が側にいるようです。                                                                                         

( 眠るうなゐに神おはします )                                   
二七 夕蝉に土間で糸とる藁庇(わらびさし)           万                                                                 

ナオ・九句目、「夕蝉」で夏。親父、幼子ときて、その母親を出す向付か。               〔句意〕親父は酒毒、その幼子は神様のように眠っている。そして、その母親は、貧しい藁庇の家で、一心不乱に、糸を紡いでいます。どこからか夕蝉の声がします。                                                                           

( 夕蝉に土間で糸とる藁庇(わらびさし) )                               
二八 泣せて恋をしたる説教                    井                                                                 

ナオ・十句目、雑の恋の句。その母親の姿情を見定める其人の付けであろう。「説教」は中世に流行した説教節との類と思われる。
〔句意〕中世に流行した説教節にもあるではありませんか、「ホロリと泣かせて恋をした」とね-、あの糸を紡いでいる人は、あの酒毒の男の口説きにあって、ほろりとさせられて、それでいい仲になったのですよ。

( 泣せて恋をしたる説教 )                                     
二九 月影をよぎ(☆)ともおもふ仇まくら               誰                                                                 

ナオ・十一句目、「月影」で秋。月の定座での恋の句。原本の「よぎ」は、「異体字」の漢字。       〔句意〕その恋し合った二人は、月の美しい夜、その月影を夜着として、かりそめの一夜を過ごしたのです。                                                   

( 月影をよぎ(☆)ともおもふ仇まくら )                                
三〇 鎧のうへに米を背負フ露                   誰                                                                 

ナオ・折端、「露」で秋。これも、現在の境涯を句にしている時宣の付けであろう。          〔句意〕今では、その二人は、落武者が、鎧の上に米を背負って、荒野の露に濡れながら歩いているさまに似ています。                                                                                                   

( 鎧のうへに米を背負フ露 )                                    
三一 道閉(とづ)る戎境(えびすざかひ)の岩もみぢ      万                                                                 

ナウ・折立、「岩もみぢ」で秋。前句の落武者からの連想であろう。                  〔句意〕その落武者達の行手には、それは、人の住まわぬような辺境で、岩紅葉が幾重にも重なり、完全に道を閉ざしているのでした。                                                                                           

( 道閉(とづ)る戎境(えびすざかひ)の岩もみぢ )                           
三二 笹折敷(をりしき)て坐禅する僧               井                                                                 

ナウ・二句目、雑の句。落武者に対して座禅する僧をもって付ける向付であろう。         〔句意〕その苦難の落武者達と同じように、こちらの座禅僧も、これまた、笹を折り、それを敷いて、その上 の大変な苦行であります。                                                                                           

( 笹折敷(をりしき)て坐禅する僧 )                                
三三 剃刀に反古(ほうご)の文字の錆付(つき)て        誰                                                                 

ナウ・三句目、雑の句。ここは、関連するもので軽くあしらっている会釈の付けか。        
〔句意〕その座禅僧の痛ましい姿は、それは、剃刀に錆びたまま付いている反古紙の文字のように、もう、どうにもならない状況です。                                                                                           

( 剃刀に反古(ほうご)の文字の錆付(つき)て )                            
三四 波も俗なる湯屋の彫物                    万                                                                 

ナウ・四句目、雑の句。これも前句と同じように、会釈の付けと思われる。               〔句意〕その、どうしょうもない姿は、風呂屋の、あの俗ぽい、松とか波の彫り物と同じで、これは様になりませんね。                                                                                                   

( 波も俗なる湯屋の彫物 )                                     
三五 芝居見む花に云(いひ)し雨のひま             井                                                                 

ナウ・五句目、花の定座で、「花」で春。どうも、終盤にきて、其人付け、会釈の付けとかに終始したきらいもあり、その反省もこめ、遁句的な、最後の花の句とも解せられる。            
〔句意〕どうも、湿っぽい話ばかりで、雨もやみました。どうです--、花見と洒落て、その道筋で、芝居でも見物して、派手に、これまでの憂さでも晴らしませんか。                                                                           

( 芝居見む花に云(いひ)し雨のひま )                            
三六 小鮎を詰(つめ)てぬぐふ重箱                 誰

ナウ・挙句、「小鮎」で春。前句の句勢にぴったりの、拍子付けの挙句と解したい。
〔句意〕そうだ。そうだ。花見と、芝居見物と・・・、それは素晴らしい。さてと、小鮎を重箱に入れてね・・・、あれ、小鮎の出汁が・・・、それを拭ってと・・・、芝居よりも、花よりも、酒と小鮎と・・・、花より団子だね。


蕪村の自賛句(その一~二十二)

蕪村の自賛句(その一・一~十四)

蕪村の自賛句(その一)

蕪村は生前に一冊の句集も出していない。蕪村没後、夜半亭二世・蕪村の後を継ぐ夜半亭三世・几董によて『蕪村句集』が刊行され、その巻末奥付けに「夜半翁発句集後編 近刻」との予告が書肆の手により掲げられていたが、几董自身によるそれは几董の逝去により実現することがなかった。これらの、蕪村自身の自選による「蕪村全集」の全貌の復元を試みようとしたものが、昭和四十九年に刊行された『蕪村自筆句帖』(尾形仂編著)である。それらの復元は、本間美術館蔵「蕪村自筆句稿貼交屏風」(略称、本間本)、諸家所蔵の蕪村自筆句帖断簡」(略称、断簡)、武田憲治郎氏旧蔵の「蕪村自筆句帖貼交屏風断簡」(略称、武田本)などを翻刻して進められた。
この復元された『蕪村自筆句帖』(尾形仂編著)の総句数は九百七十九句で、さらに、蕪村自身の手による「合点印」も復元されており、その合点印は几董の『点印論』も併せ紹介されていて、平点(一点)、珍重(一点半)、長点(二点)との区別であるという。そして、その句数は九十四句という。これらの九十四句は、蕪村の自選句のうちの蕪村自身による「自賛句・自信句」ともいえるものであろうと、尾形・前掲書には記載されている。これらの「自賛句・自信句」を尾形・前掲書によってその鑑賞を試みてみたい。
なお、句番号は、尾形・前掲書による。

三九 みの虫の古巣に沿ふて梅二輪

「本間本」所収。長点句とも珍重句とも取れる句。安永五年作。季語は、梅(春)。『蕪村全集(一)』の句意は、「蓑虫の古巣がぶら下がる同じ枝のすぐわきに、見れば梅花が二輪咲きそめた。春の到来を、昨秋来ぶら下がる蓑虫の古巣で強調する」。蓑虫は秋の季語だが、『蕪村全集(一)』では、この句の季語は梅の句として、尾形・前掲書でも「春の部」に収載されている。蓑虫は格好の俳材で、蕪村にも蓑虫の句は多い。芭蕉の句に「蓑虫の音を聞きに来よ草の庵」など。また、山口素道の「声おぼつかなまて、かつ無能なるを哀れぶ」(蓑虫説)などもある。蕪村にも、こうした格好の俳材の「みの虫」のその「古巣」と「咲きそめる梅二輪」とを対比して、その取り合わせで、この句を自賛句の一つにしているように思われる。

蕪村の自賛句(その二)

八八五 みの虫のぶらと世にふる時雨哉

「断簡」所収。「本間本」と「断簡」・「武田本」では「合点印」の相違があるが、尾形・前掲書によれば珍重句。ちなみに、前句(三九)は『蕪村全集(一)』では、珍重句の合点印が注意書きに記載されているが、尾形・前掲書では長点句の合点印のようにも思われる。
明和八年の作。季語は「時雨」。この句は兼題「時雨」(高徳院)の句。「世にふるもさらに時雨の宿りかな」(宗祇)、「世にふるもさらに宗祇の宿りかな」(芭蕉)の本句取りの句。現代俳句では類想句というのは極端に排斥する傾向にあるが、俳諧の発句においては、このような本句取りの句は盛んに用いられた技法の一つで、蕪村としても、兼題「時雨」での関連での本句取りの句として、この句を好句としていることは想像するに難くない。同年作の「六一九 みのむしの得たりかしこし初しぐれ」(本間本)には合点印はない。そして、この句も「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり」の本句取りの句とも解せられる。これらのことからしても、いかに、蕪村が作句する時に芭蕉の句を常に意識していたかということも想像するに難くない。なお、掲出の句には、「ことば書(がき)有(あり)」との前書きがあるが、蕪村の小刷物に「感遇(偶)ことば書略す 夜行」との前書きのある「化そうな傘さす寺の時雨哉」との関連の注意書きが『蕪村全集(一)』に記載されている。『蕪村全集(一)』の句意は次の通り。「蓑虫は無為無能、細い糸にぶらりとぶら下がって疎懶に世を送り、降りかかる時雨にも平気な顔だ。無常観や風狂・漂泊の象徴とされてきた時雨の詩情に疎懶の楽しみを加えたもの。実はこの年、俳友大祇・鶴英を失った無常の思いの中で老懶の境地に居直った、蕪村自身の自画像」。この句意の「老懶の境地に居直った」というよりは、「老懶の境地の感偶」程度と解したい。なお、「世にふる」の「ふる」は「経る」と「降る」とが掛けられている。

蕪村の自賛句(その三)

八八七 古傘の婆娑(ばさ)と月夜の時雨哉

「断簡」所収。珍重句。季語は「時雨」(冬)。明和八年の作。この句は「古傘の婆娑としぐるゝ月夜哉」の句形で、安永六年に几董宛ての書簡に次のような記載が見られる。「月婆娑と申事は、冬夜の月光などの木々も荒蕪したる有さまニ用ひる候字也。秋の月に不用(もちひず)、冬の月ニ用ひ候字也と、南郭先生被申候キ(まうされさうらひき)。それ故遣ひ申事。ばさと云(いふ)響き、古傘に取合(とりあわせ)よろしき歟(か)と存(ぞんじ)候。何ニもせよ、人のせぬ所ニて候」。この書簡からして、掲出の句は安永六年の句形に改められているのかも知れない。『蕪村全集(一)』では、両方の句形(九六一・一九二〇)で収載している。いずれにしろ、明和八年から安永六年の六年の歳月を経ても、この句に執着していることからも、蕪村の自賛句の一つと蕪村自身が考えていたことは明らかなことであろう。そして、その自賛句の一つとした理由が、上記の几董宛ての書簡ではっきりと蕪村が指摘しているのである。即ち、「ばさと云(いふ)響き、古傘に取合(とりあわせ)よろしき歟(か)と存(ぞんじ)候。何ニもせよ、人のせぬ所ニて候」と、「取り合わせ」と「新味」との妙がこの句にはあるというのである。このことからこの句を蕪村は自賛句としているのであろう。『蕪村全集(一)』の掲出の句意は次の通り。「冬月が寒林を照らす荒涼の景に、突如として時雨が走ってきた。バサッと開いた古傘が月光に翻り、傘打つ音またバサッと鳴って、荒涼の感ここに極まる」。

蕪村の自賛句(その四)

八八三 音なせそたゝくは僧よふくと汁

「断簡」所収。珍重句。明和八年作。季語は「ふくと汁」(季語)。「ふくと汁」は「河豚汁」のこと。『蕪村全集(一)』・尾形・前掲書のいずれにおいも「ふぐと汁」と濁点は打たれていないが、濁点を付けて詠んでもさしつかえないものと解する。この河豚汁には、芭蕉の世によく知られた、「あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁」の句がある。この掲出の句も芭蕉のその句が背景にあろう。それだけではなく、中七の「たゝくは僧よ」は、「僧敲月下門」(賈島)の漢詩がその背景にあろう。『蕪村全集(一)』の句意は次の通り。「シイッ、物音を立てるな、門をたたいているのは、あのやかましい和尚だよきっと。せっかくの河豚汁の最中に殺生戒を振りかざされては、たまらんからな」。この句意にも見られる、この滑稽味の面白さを、蕪村は注目しているのであろう。蕪村の友人の三宅嘯山の『俳諧新選』にも収載されている句である。 

(追記その一) 上記の三九「みの虫の古巣に沿ふて梅二輪」・八八七「古傘の婆娑(ばさ)と月夜の時雨哉」・八八三「音なせそたゝくは僧よふくと汁」は几董の『蕪村句集』に収載されている句で、このうち、「八八七・八八三」の句については、尾形・前掲書においては
句上に「珍重句」の印があり、句下に「平点印」があるが、この句下の「平点印」は『蕪村句集』に収載されている句の印であろうとされている(尾形・前掲書)。そして、「三九」
については、句下のこの「平点印」はなく、句上に付したもののようでもあり、そのことからすると、「三九」は「長点句」ではなく、『蕪村全集(一)』の注意書きにある「珍重句」と解すべきものと思われる。また、上記の八八五「みの虫のぶらと世にふる時雨哉」の句が句下に「平点印」がなく、即ち、几董の『蕪村全集』には収載されていないことは特記しておく必要があるように思われる。

(追記その二) 六五五「ふく汁の我活(い)キて居る寝覚(ねざめ)哉」・七二六「鰒汁の宿赤々と灯しけり」(本間本)は、几董の『蕪村全集』には収載されているが、句上・句下にもその収載の印の「平点印」はない。

蕪村の自賛句(その五)

六六七 ふく汁や五侯の家のもどり足

「本間本」所収。安永四年作。珍重句。季語は「ふく汁」(冬)。『蕪村全集(一)』の句意は次の通り。「ふぐ汁を馳走になっての帰り道。まるで五候の邸に招かれての珍味の饗宴にあずかったのごとく、腹も満ち足り酔歩まんさくとして定まらない」。そして、「五候 漢の成帝の時、同日に諸侯に封ぜられた皇太后王氏の一族五人をいう。五候、客の歓心を得んと競って珍膳を供した(西京雑記巻二)」との頭注が施されている。そして、この句は、蕪村没後に、蕪村の跡を継ぐ几董の『蕪村全集』には収録されていないで、河東碧梧桐の『蕪村十一部集』(昭和四年刊行)に収載されているところの『蕪村遺稿』に収録されている句なのである。即ち、几董が多分に蕪村自身が句集を編纂するとしたらとそれとなく準備をしていたと推測される、いわゆる、蕪村自選集ともいうべき『蕪村自筆句帖』を、蕪村没後に目にした時には、蕪村自身の自賛句の合点印の付いているこの句に、几董の目は留まらなかったということなのである。さらに付け加えるならば、几董は蕪村が自賛句としているこの句をそれほどのものとは考えていなかったとも思われるのである。そして、同時の頃の作とされている、「冬ごもり壁をこころの山に倚(よる)」などの句を、その『蕪村全集』に収録しているのである。掲出句とこの「冬ごもり」の二句を比較して、蕪村は「ふく汁」からの漢書の「五候」への連想ということを評価しているのに対して、几董は、「冬ごもり」の句の背景の「冬ごもりまた寄り添はんこの柱」(曠野)の芭蕉の句への連想などをより評価している、その差異のようにも思われるのである。そして、現在、これらの二句を比較して、蕪村の自賛句の掲出の句よりも、几董の『蕪村全集』に入っている蕪村自身の平点句の方が、より馴染み深いということを指摘しておきたいのである。そして、明治に入って「俳句革新」を成し遂げた正岡子規は、几董の『蕪村全集』の蕪村の句を高く評価して、この掲出の句の収載されている『蕪村遺稿』は知らずして亡くなってしまったのである。これらのことから、知らず知らずのうちに、几董や子規好みの蕪村の句を、現代人は多くの関心をもって、もう一面の、この「ふく汁と五候の取り合わせ」に「してやったり」と得意がっている蕪村のもう一面の姿というのを亡失しがちであるということは注意する必要があるということを特記しておきたいのである。

蕪村の自賛句(その六)

一 ほうらいの山まつりせむ老(おい)の春

 「本間本所収」。安永四年(六十歳)作。平点句(『蕪村自筆句帖(筑摩書房刊))』 の解説の部には平点句の印がないが影印の部にはその合点印が読み取れ、『蕪村全集(一)』・『蕪村句集(岩波文庫)』でも合点句としている)。季語は「老の春」。几董の『蕪村句集』収録の、その冒頭の一句である。句意は「めでたく春を迎え歳(よわい)を一つ重ねたが、蓬莱飾りの蓬莱山を華やかにお祭りして、わが老いの春を祝いたい。人の生死を司る神として道家が祭る泰山府君の祭事に擬し、長寿の意をこめた」(『蕪村全集(一)』)。ここにおいても、「蓬莱」・「山まつり」と蕪村の南画の主題のようなものがこの句の眼目となっており、現代俳句という観点から鑑賞すると、やはり、蕪村の時代の南画家の元旦の句のような印象を受ける。ただ一つ、この句が蕪村の六十歳の還暦の元旦の句で、そういう観点から鑑賞すると、このときのこの句を作句している蕪村の姿が見えてくる。しかし、同年作の「海手より日は照(てり)つけて山ざくら」(合点印無し)の句の方が、現代人の好みであろう。しかし、こういう、何らの技巧が施されていない句については、蕪村自身は自賛句とは考えていないのである。やはり、これらの句に接すると江戸時代の蕪村との距離は大きいという感を深くするのである。

蕪村の自賛句(その七)

六 春をしむ人の榎(えのき)にかくれけり

「本間本」所収。明和六年(五十四歳)作。平点句。季語は「春をしむ」。この句は几董の『蕪村句集』には収載されていない。句意は「行く春を惜しんで郊行を楽しむ人の姿が、夏の木すなわち榎に隠れて見えなくなった。もう半分夏の世界の人となったらしい」(『蕪村全集(一)』)。この句意からも明瞭のように、蕪村がこの句を自賛句としているのは、「榎」が「夏」の「木」という「文字遊び」をしながら、「春」から「夏」へと移行する頃の「惜春」を主題にして、しかも、その榎に「人がかくれけり」と「おかしみ」の世界へ誘っているところにある。やはり、この句も単純な写生だけの句ではなく、当時の俳諧の、その豊穣な「笑い」の系譜に属するということに注目する必要があろう。

蕪村の自賛句(その八)

一九六 海手より日は照(てり)つけて山ざくら

「本間本」所収。安永四年(蕪村六十歳)の作。季語「山ざくら」。この句について、同年作の「一 ほうらいの山まつりせむ老(おい)の春」のところで「合点印」のない無点句として紹介したが、それは『蕪村全集(一)』(講談社)・『蕪村俳句集』(岩波文庫)のいずれにおいても、「合点印」が記載されていなかったということによる。ところが、『蕪村自筆句帖』(筑摩書房)の「影印」・「翻印」の両者においても「平点句」の表示がなされ、これはあきらかに『蕪村全集(一)』(講談社)・『蕪村俳句集』(岩波文庫)の記載漏れで、平点句と理解すべきである(それ故、「蕪村の自賛句その六」のその箇所はここで訂正)。
『蕪村全集(一)』の句意は次の通り。「海に面した山腹に山桜が満開だ。海上の朝日が光の束を投げ掛けるように、強烈に照らしている。海・山を一望にした大観の中で、山桜の最も美しいありようをとらえた」。この句意で十分であろうが、中村草田男は「蕪村は含蓄・余情・余韻などを一切考慮せず、青年のごとく単純に光の歓喜に酔っているいるのである。(中略)俳句は蕪村に至って初めて『青春』を持ったと言うことができる」(『蕪村集』)と指摘している。この草田男をして「俳句が初めて『青春』を持った」という、その「青春」に満ち溢れたこの句を、蕪村は晩年の六十歳のときに作句しているのである。そして、蕪村の絵画の絶頂期を迎える「謝寅」の号の時代はその三年後の、安政七年の頃からなのである。すなわち、いかに、蕪村が「画・俳二道」において晩成の人であったということが、この一事を取っても理解できるところであろう。この句に接すると、「馬酔木」の三羽烏の一人といわれた高屋窓秋の「ちるさくら海青ければ海へちる」が想起されてくる。蕪村のこの掲出の句は、蕪村自身の「平点句」ではあるが、蕪村の傑作句の一つとして、これからも詠み継がれていく一句と理解であろう。

蕪村の自賛句(その九)

一五六 三椀の雑煮かゆるや長者ぶり

「本間本」所収。『蕪村俳句集』(岩波文庫)では合点印のある句。平点句(「本間本」の写真版には合点印があるが、『蕪村自筆句帳』の解説文には合点印がない。『蕪村全集(一)』にも合点印の記載がない。転記漏れと思われる)。季語は「雑煮」(新年)。几董の『蕪村句集』にも採られている。安永元年(一七七二)、五十七歳のときの句。「貧しくとも、こうして達者な家族たちとともに新年を祝い、ちょっとした長者を気取って雑煮を三杯もお代わりすることよ。貧しいながら満ち足りた思い」が『蕪村全集(一)』の句意であるが、この「三椀」は「三杯もお代わりする」というよりも、「三重ねの椀で雑煮を食べる」という意味も込められていて、その「三椀」と「長者」との取り合わせの面白さに、蕪村はこの句に平点印を付したように思われる。蕪村の俳諧の師匠の早野巴人の句に「耕さず織らず雑煮の三笠山」というのがあり、この三笠山というのが「三重ね山」とを掛けていて、その巴人の句などが、この句の背景にあると理解したいのである。すなわち、この句も、蕪村の句の特質の、景気(叙景)・不用意(無作為)・高邁洒落(離俗)の、その洒落をより多く利かせている句と理解したいのである。

蕪村の自賛句(その十)

一二三 七(なな)くさやはかまの紐の片結び

「本間本」所収の句。平点句。但し、『蕪村自筆句帖』の写真版には平点印が付されているが、その解説文においては付されていない(記載洩れと思われる)。季語は「七くさ」(新年)。安永五年(一七七六)、六十一歳のときの句。几董の『蕪村句集』には「人日」(正月七日のこと)との前書きがあり、題詠の句と思われる。句意は「日ごろ袴など縁遠い年男が七草を打つのは儀式だからと袴姿でかしこまったものの、その紐は無造作な片結びになっている」(『蕪村全集(一)』)。この「人日」の句は蕪村の師の早野巴人などにも見られ、そして、内容的にも、その巴人や、巴人の師にあたる其角流の江戸座的な機智的な笑いを狙っての句作りで、現代俳人には決して好意的には見られない句でもあろう。そして、この江戸座の流れの俳人は「俳力」(俳諧本来の笑い)ということを重視しており、この句も
その範疇に入るものであろう。

蕪村の自賛句(その十一)

一○五 青柳や芹生(せりふ)の里の芹の中

「本間本」所収の句。平点句。安永六年(一七七七)、六十二歳のときの句。季語は「青柳」(春)。「芹」も春の季語だが、主たる季語の働きは「青柳」。「芹生の里」は洛北大原西方寂光院付近の古称で歌枕。西行の「大原は芹生を雪の道に開けてよもには人も通はざりけり」(山家集)を背景にしての一句。そして、地名の「芹生」と七草の一つの「芹」との言葉遊びも意識していることであろう。句意は「雪深く寂しい芹生の里にも、春ともなれば芹の群生する中に青柳が美しい翠色を見せている」(『蕪村全集(一)』)。この句もまた、この句の背景となっている西行の歌や芹生の地名と植物の芹との連想などの、いわゆる古典的な俳諧本来の手法を駆使してのもので、子規以降の俳人達は決して蕪村の代表句とは見なしてはいない。そして、蕪村やその俳諧の師の早野巴人などは、この掲出句に見られるように「季重なり」ということを厭わずに作句している例を多く見かける。

蕪村の自賛句(その十二)

四〇   鴈(かり)行(ゆき)て門田(かどた)も遠くおもはるゝ
一二七  鴈立(たち)て驚破(ソヨヤ)田にしの戸を閉(とづ)ル

 「本間本」所収の句。この一二七の句については平点よりも上、長点よりも下の、「珍重の印」の珍重句。四〇の句は『蕪村自筆句帖』の写真版を見ては平点句のように思われる(『蕪村全集(その一)』)では珍重句の印が校注にある)。この二句とも几董編の『蕪村全集』に収載されている。四〇の句意は「今まで門前の田で餌をあさる雁の姿に親しんできたのに、春になって北へ飛び去ると、門田も寂しく心に遠い眺めになった」(『蕪村全集(その一)』)。一二七の句意は「田面の雁が北へ帰る。その羽音にビックリした田螺はスワ異変発生とばかり慌てて殻を閉じる」(『蕪村全集(その一)』)。この「驚破(ソヨヤ)」は白楽天の「驚破霓裳羽衣曲」(長恨歌)に由来があるという。それよりもなによりも、四〇の「帰雁」の句というよりも、この一二七の句は「田にし」の句なのである。そして、現代の俳句愛好者がこの二句を並列して鑑賞した場合、前者の「帰雁」の句の方を良しとする人の方が多いのではなかろうか。しかし、蕪村の時代においては、この滑稽句の一二七の「田にし」の句の方が歓迎されたのかも知れない。この二句とも安永五年(一七七六)の六十一歳の時の作である。この一二七の句に関連して、其角の句に、「鉦カンカン驚破郭公草の戸に」(五元集)があり、蕪村は、芭蕉・其角・巴人の江戸座の流れの俳人であったことを痛感すると共に、やはり、江戸時代の享保・安永時代の俳人であったことを痛感する。

蕪村の自賛句(その十三)

九八 夜桃林を出(いで)て暁嵯峨の桜人

 「本間本」所収。珍重句。この句には「暁台伏水・嵯峨に遊べるに伴ひて」との前書きがある。この句も安永五年、蕪村六十一歳の時のものである。几董編の『蕪村全集』にも収載されている。そして、この句もまた現代俳句では余り歓迎されない「言葉遊び」的な技巧が隠されているのである。この「夜」は自分自身の号の「夜半亭」、そして、「暁」は尾張の俳人で蕪村一派と親交のあった、蕪村と並び称せられる中興俳壇の雄・加藤暁台のの号の「暁」を意味しているのである。しかも、「夜」と朝の「暁」をも意味していて、こういう句作りは、蕪村の俳諧の師の早野巴人も得意とするものであった。こういう技巧に技巧を凝らした挨拶句が、当時の俳人が競って作句したものなのであろう。句意は「昨日は遅くまで伏見の桃林に遊び、夜、桃林を出て、今日は早朝から嵯峨の桜花の下の人となっている」(『蕪村全集(一)』)と、どうにも、その句意を知って、こういう句を蕪村の数ある名句と称せられるものは度外視して、ことさらに自選句のうちの自賛句の印を伏している蕪村を思うと、今まで抱いて「郷愁の詩人・与謝蕪村」というようなイメージとかけ離れてくる印象は拭えないのである。

蕪村の自賛句(その十四)

五〇 花の香や嵯峨の燈火きゆる時

 本間本所収。珍重句。安永六年、蕪村六十二歳のときの作。この句意は「夜桜見物の人も去って嵯峨の燈火が消えるころ、かすかな花の香が漂って来て、花の精に触れる思いがする」(『蕪村全集(一)』)。この句に出会ってやっと蕪村らしい句にひさびさにお目にかかったという思いである。これまで、蕪村が自分自身の手による自選句のうちで、さらに、長点・珍重・平点の、いわゆる点印を句頭に施したものは、技巧的な背後にその句に接する人に何かしらの謎解きを強いるような知的な作句姿勢というものが見て取れるものがほとんどであった。しかし、この句にはそういう他者に「句の巧みさや、人を驚かせるような作為的な操作」などを強いるものではなく、自分自身の「その時の感情や心の動き」を一句に託するという、作句するときの最もメインとするものを、この句に接する人に素直に語りかけてくるからに他ならない。この句については、蕪村自身愛着を持っていた一句のようで、「扇面自画賛」や几董宛の書簡なども残されている。そして、この句については、「華の香や夜半過行(すぎゆく)嵯峨の町」の別案の句もあり、相当に推敲を施した句であることも了知されるのである。

蕪村の自賛句(その二・十五~二十二)

蕪村の自賛句(その十五)

五二 水にちりて花なくなりぬ岸の梅 

本間本所収。この句は最高点の印の長点句。安永六年(一七七七)、蕪村、六十二歳のときの作。「水にちりて花なくなりぬ崖の梅」(霞夫書簡)、「水に散ッて花なくなりぬ岸の梅」(『夜半叟句集』)との句形がある。この霞夫宛の書簡には、「此句、うち見ニはおもしろからぬ様ニ候。梅と云(いふ)ニ落花いたさぬはなく候。されども、樹下ニ落花のちり舗(しき)たる光景は、いまだ春色も過行かざる心地せられ候。恋々の情之有候。しかるに、此江頭の梅は、水ニ臨ミ、花が一片ちれば、其まゝ流水に奪(うばひ)て、流れ去り去りて、一片の落花も木の下ニハ見ぬ、扨も他の梅と替(かは)りて、あわ(は)れ成(なる)有さま、すごすごと江頭ニ立(たて)るたゝずまゐ(ひ)、とくと御尋思候へば、うまみ出候」との記載が見られる。蕪村がこの句を自分の句のうちで最高の作としているのは、「此江頭の梅は、水ニ臨ミ、花が一片ちれば、其まゝ流水に奪(うばひ)て、流れ去り去りて、一片の落花も木の下ニハ見ぬ」という、この着眼点がこの句の新味で、それに着眼したことに蕪村自身が満足の意を表しているのである。句意は「岸辺の梅は、地上に散り敷いて名残りを惜しませるよすがとてなく、水上に落ちるそばから流水に奪われたちまち流れ去ってしまう。後には老樹が寂しく残るばかり。『行くものはかくのごときか』と、花を伴って去った非常な時間を思う老蕪村の孤独な心境の表白」(『蕪村全集(一)』)。蕪村は、老成の画・俳二道を極めたものとして、この「行くものはかくのごときか」ということに大きな関心事があった。そして、一見して平凡なこの掲出句には、その老いていくものの老愁というものを託していることを、この「水にちりて」の上五から汲んで欲しいというのであろう。いかにも、蕪村らしい着眼点ではあるが、なかなかそこまで汲み取って鑑賞するのは至難の業のようにも思われる。

蕪村の自賛句(その十六)

六六 大門のおもき扉や春の暮

本間本所収。この句も最高点の印の長点句。天明元年(一七八一)、蕪村、六十六歳のときの作。「大門」の詠みは、『蕪村自筆句帖』では「だいもん」で、『蕪村全集(一)』では「おほもん」であるが、次の「おもき扉や」と呼応しての後者の詠みとしたい。この句は几董編の『蕪村句集』には収載されてはいない。句意は「春日もようやく暮れて、夕闇の中に寺の総門の大きな扉を閉ざすギィーッという鈍い音が吸い込まれてゆく。重さの感覚と春愁との調和」(『蕪村全集(一)』)。その句意の頭注に「春深遊寺客 花落閉門僧」(『詩人玉屑巻二〇』)に典拠があるとの関連記載が見られる。しかし、その漢詩文の典拠の背景は必須のものではなく、蕪村の絵画的な句の一つとして、そのイメージは鮮明に伝わってくる。蕪村がこの句を長点句としている理由は、その漢詩文の典拠に基づくものではなく、「大門のおもき扉」と「春の暮」との取り合わせの妙のように思われる。それは、「重さの感覚と春愁との調和」というよりも、「重さの聴覚的な音の世界から春愁の視覚的な映像の世界への誘い」というようなことを蕪村は感じとっているのではなかろうか。そう解することによって、この「大門のおもき扉や」の「中七や切り」の余情が活きてくるものと解したい。

蕪村の自賛句(その十七)

八五 祇(ぎ)や鑑(かん)や花に香炷(たか)ん草むしろ

本間本所収。この句も最高点の印の長点句。安永八年(一七七九)、蕪村、六十四歳のときの作。この句には「や鑑や髭に落花を捻りけり」という異形のものもある。は飯尾宗祇、鑑は山崎宗鑑で、共に、連歌・俳諧の始祖とも仰がれている人物である。「香炷かん」・「髭に落花」は、宗祇が髭に香を炷き込めた逸話(扶桑隠逸伝)に由来するものであろう。掲出の句意は「いにしえの先達、宗祇、宗鑑は香り高い風雅の足跡を残した。今の世の宗祇・宗鑑とも呼ぶべき諸子よ、私たちも花下に俳筵を繰り広げその遺薫を継ごう」(『蕪村全集(一)』)。いかにも高踏主義の文人好みの蕪村らしい句ではあるが、こういう句を、蕪村自身が、「これが私の俳諧(俳句)です」と後世に伝えようとして、自賛句の最高点の長点印を付けていることに、いささか戸惑いすら感じる。これが、当時の蕪村の一面の「晴れ」の世界であるとしたら、同年の作の「洟(はな)たれて独(ひとり)碁をうつ夜寒かな」の偽らざる「褻(け)」の日常諷詠の世界に、より多くの親近感を覚えるのである。そして、蕪村が密かに句集を編まんとして、そのうちの自信作と思っていた作品というのは、この掲出の句のような、特定の、そして、上辺だけの「晴れ」の世界のものが多いということも心すべきことなのかもしれない。

蕪村の自賛句(その十八)

一五二 飢鳥(うゑどり)の花踏みこぼす山ざくら

本間本所収。この句も最高点の印の長点句。安永三年(一七七四)、蕪村、五十九歳のときの作。この年には「なの花や月は東に日は西に」という夙に蕪村の句として世に知られている句がつくられているが、この有名な句には何らの点印も施されていない。しかし、几董編の『蕪村句集』には収載されており、そして、この掲出の花の句は『蕪村句集』には収載されていない。夜半亭二世・蕪村と夜半亭三世・几董とでは、やはり、それぞれの好みがあり、それらが反映された結果のことなのであろうか。掲出の句意は「人里離れた山桜の樹上に、餌に飢えた鳥が群がって荒々しく花を踏みこぼし、時ならぬ落花の景を現出している」(『蕪村全集(一)』)。この句の「飢鳥の」という蕪村の視線は鋭いし、全体的に画人・蕪村の句という雰囲気を有している。この年には「ゆく春やおもたき琵琶の抱心(だきごころ)」や、関東遊歴時代の思い出に連なる「ゆく春やむらさきさむる筑波山」
(結城の城址にこの句の句碑がある)など名句が多い。掲出の句もそれらの名句のうちの一つにあげられるものであろう。

蕪村の自賛句(その一九)

一六三 なのはなや魔爺(まや)を下れば日のくるゝ

本間本所収。最高点の長点句。安永二年(一七七三)、蕪村、五十八歳のときの作。この句は几董編の『蕪村句集』には収載されていない。この句は「菜の花や摩耶を下れば暮(くれ)かゝる」との句形のものもある。「摩耶」は六甲連邦の一つの摩耶山のこと。その山上に釈迦の母・摩耶夫人を祀る天上寺がある。句意は「摩耶山を参詣して山を下ってくると、春の日もようやく暮れかかり、摂津平野を埋めた一面の菜の花も、先刻までの明るい黄色から黄昏へと次第に変わってゆく」(『蕪村全集(一)』)。この句と同時の作に「菜の花や油乏しき小家がち」がある。この句の方が掲出の句よりも名の知られた句なのであるが、そこには何らの印も付されていない。この掲出句の眼目は、摩耶山と摂津平野を埋め尽くした
一面の菜の花との取り合わせの妙にあるのであろう。余り蕪村の佳句としては取り上げられていない句であるが、いかにも、摂津平野の淀川べりに生まれた蕪村の、その郷愁のようなものと、画人・蕪村の視点のようなものが感知される一句である。

蕪村の自賛句(その二〇)

一七〇 ゆくはるや同車の君のさゝめごと

本間本所収。最高点の長点句。安永九年(一八〇七)、蕪村、六十五歳のときの作。この句も几董編の『蕪村句集』には収載されていない。蕪村の王朝趣味の一句として名高い。「同車の君」は貴族の牛車に同乗する女性。「ささめごと」はひそひそ話のこと。句意は「晩春の都大路を、女性の同乗した牛車が静かに行く。牛車の中で身を寄せた佳人が、尽きることなき睦言をささやき続けている。暮春の情と車中のささめ言との照応」(『蕪村全集(一)』)。
蕪村俳諧の一面の特色として、実生活とはまったく関係のない古典趣味・貴族趣味・王朝趣味・空想的虚構趣味のものが顕著な句があげられる、この句もそうした類のものであろう。そして、こういう句は芭蕉などには見ることができず、蕪村の独壇場という趣すらある。そして、蕪村自身、こういう句を得意としていて、また、好みの世界のものであったのであろう。そういう意味では、蕪村自身が、この句に長点印を付したことは十分に頷けるところのものである。

蕪村の自賛句(その二一)

一七一 春おしむ座主の聯句に召されけり

本間本所収。平点より上で長点よりした珍重の印のある句。前句(その二〇)と同時の頃の作。「座主」とは一山の寺務を総理する者。また、比叡山の天台座主の専称のこと。この句は「春ををしむ座主の聯句や花のもと」という句形のものもある。句意は「天台座主の催された惜春の連句の会に連衆として召された。その光栄はもとより、近江・山城の春景を眼下にした眺望はいかにも春を惜しむにふさわしく、詩情そぞろなるものがある」(『蕪村全集(一)』)。蕪村が実際に天台座主の興行の連句会に召されたのかどうかは不明。この句は蕪村か亡くなる一年前の作なのであるが、蕪村は晩成の人で、この年には夜半亭三世となる几董との文音による両吟歌仙に取り組むなど、画・俳二道にわたって絶頂期にあり、その二道においてその名をとどろかさせたいた頃で、実際にこういうことがあったのかもしれない。しかし、前句(その二〇)の「同車の君のささめごと」といい、この掲出句の「座主の連句」といい、いかにも、蕪村の世界のものという印象とともに、やはり、蕪村は江戸時代の京都を中心にして活躍した人という印象を深くする。 

蕪村の自賛句(その二二)

一九八 海棠や白粉(おしろい)に紅をあやまてる

本間本所収。長点句。安永四年(一七七五)、蕪村六十歳のときの作。海棠は「睡れる花」という異名を持つ。この異名は楊貴妃の故事に由来があるとされている。この句も海棠を見ての嘱目的な句ではなく、その楊貴妃の故事を背景としての見立ての作句といえる。句意は「うつむきがちに桜よりも濃くほんのりと紅を含んだ海棠の花。酒に酔った楊貴妃のしどけない寝起きの化粧のように、白粉と誤って紅をは刷いたのか」(『蕪村全集(一)』)。
蕪村の時代はともかくとして、海棠を見て楊貴妃の故事に結びつけて作句するということは、現代においてはほとんどなさなれないことであろう。掲出句の視点の「酒に酔った楊貴妃のしどけない寝起きの化粧のように、白粉と誤って紅をは刷いたのか」ということになると、どちらかというと滑稽句に近いものになる。そして、その滑稽味を蕪村は佳としているのであろうが、同時の頃の作の「遅き日のつもりて遠きむかし哉」に比すると、後者に軍配をあげざるを得ないのである。そして、几董編の『蕪村句集』には掲出句は収載されていないが、後者の句は収載されていて、夜半亭二世・蕪村と夜半亭三世・蕪村との選句姿勢の違いなども感知されるのである。

蕪村の「謝寅」時代の句

蕪村の「謝寅」時代の句(その一~その十一)

蕪村の「謝寅」時代」の句(その一・一~十一)

(その一)

○ 痩脛(やせはぎ)や病より立つ鶴寒し

 蕪村は画俳二道を行く老成の人であった。その絵画の絶頂期は、「謝寅(しゃいん)」の号を用いる安政七年(一七七八)の六十三歳以降というのが、誰しもが認めるところのものであろう。その「謝寅」の号を始めて用いたのは、その年の七月の「山水図」に、「戊戌秋七月写於夜半亭 謝寅」と記したのが最初であろう。そして、掲出の句は、その年の十一月十三日に没した、蕪村門の異才・吉分大魯(たいろ)に宛てた、「大魯が病の復常をいのる」の前書きのある一句である。句意は、「病にめげず立ち上がるその鶴のその痩せ細ろいた脛、その痩せ細ろいだ脛ですくっと立つ鶴の何と寒々とした光景であることか」でもなるのであろうか。快癒を祈っての鶴の最後の踏ん張りを期待する句なのであろうが、それ以上に、病に臥す痩せ細ろいだ大魯の姿が眼前に浮かんでくる一句である。そして、蕪村よりも十歳前後若いその異才の開花が期待された大魯は没した。その大魯の死に前後して、蕪村は「謝寅」の号をもって、この句の鶴のように「寒風の中にすくっと最後の花を咲かせる」、その時を迎えたのである。

(その二)

○ 泣(なき)に来て花に隠るゝ思ひかな

 『蕪村全集(一)」(講談社)に次のとおりの「左注」がある。
[『華の旅』(寛政六)に「清夫亡人のひめ置(おき)し反故の中に此(この)一順あり。芦陰舎(大魯)今年十七回忌の折からなれば爰(ここ)にしるす」と編者夏雄の前書。大魯(安永七年十一月十三日没)の追悼吟。この年の作か。]

この「清夫亡人」の「夫」は「未亡人」の「未」の誤植なのであろうか。また、「この年の作か」として、この句を安永七年作としているが、「花」の季語から、「翌春(推定)」(『蕪村事典(桜楓社)』)とする理解の方が素直であろう。いずれにしろ、蕪村の「謝寅」時代の大魯追悼吟ということになる。句意は、「大魯追悼の泣きに来て、折からの花に隠れて思い切り泣きたい心境をいかんともしがたい」ということであろう。思えば、大魯の没した安永七年の三月に、蕪村は几董を伴って、当時、兵庫県に居を移していた大魯を見舞っているのである。蕪村はどれほどこの蕪村門では異端視されたこの大魯の才能を高くかっていたことであろうか。この大魯追悼吟の「花」には、大魯が没したこの年の、大魯と一緒に見たであろう「花」が見え隠れしている。

(その三)

○ 狐啼(ない)てなの花寒き夕べ哉

 安永八年(一七七九)の作。季語は「なの花」(春)。蕪村には「菜の花」の傑作句が多い。「なの花や月は東に日は西に」・「菜の花や遠山鳥の尾上まで」・「なの花や昼一しきり海の音」・「菜の花や鯨もよらず海くれぬ」・・・、どれも蕪村の句らしい印象鮮明な句である。しかし、この掲出句は、印象鮮明の句というよりも、何故か、蕪村の謎の生い立ちを暗示するような、「寒々とした不気味な菜の花畑」を連想させる。それは一にかかって、上五の「狐啼て」にある。これは蕪村の生まれた頃の、蕪村の脳裏に焼き付いている実景なのではなかろうか。蕪村の若い頃の句の「菜の花や和泉河内の小商ひ」の、その「和泉河内」の「菜の花」畑に通ずるような雰囲気なのである。そして、蕪村は、「菜の花や油乏しき小家がち」とも詠う。家々の灯りの元になる「菜種油」を産出する「菜の花畑」・・・、その菜の花畑の傍らで、狐がコンコンと啼いている風景・・・、それを六十四歳となった蕪村は、その蕪村の原風景を回想している違いない。

(その四)

○ 松島で古人となる歟(か)年の暮

 蕪村の亡くなる前年(天明二年)の謝寅時代の句である。
「世人が俗塵の中で悪戦苦闘する年の暮れに、風流のメッカ松島で故人となるのは、何ともうらやましい」(『蕪村全集一』)というのが、通説的な解である。この通説的な解の背景は、この句は、「松島で死ぬ人もあり冬籠」の別案と、比較的、この句の制作された背景が明らかになっていることと大きく関係している(「青荷」充て書簡)。しかし、そういう背景を抜きにして、この句単独の素直の解は、次のような解にもなるだろう。「この年の暮れに、風流のメッカ・松島で死ぬことができたら、どんなに素晴らしいことであるか」。
 とするならば、蕪村が、自分の死を予感しての、あるいは、蕪村が、自分の死を覚悟しての作のようにも理解できる。この句は、「西むきにいほりをたてゝ冬ごもり」と同一時の
作ともされている。即ち、「冬籠もり」の題詠の一つというのが、その背景である。この「西むきに」というのは、「西方浄土へ向かって」ということであり、この同一時の句の背景からしても、掲出の句が、蕪村の「死への願望、死への期待」の句という理解は、これらの句の背景として、理解しておく必要があるのかも知れない。
 蕪村の絵画は、その晩年の「謝寅(しゃいん)」の号を用いた頃から「本当の蕪村」が誕生したといわれている。そして、そのことは、こと俳諧(俳句)に限ってはどうかということになると、必ずしも、当てはまらないけれども、当然のこととして、「生と死」を必然的に意識しての、創作活動ということになると、その晩年の「謝寅」時代の、画・俳二道の創作活動を注ししていきたいとという衝動にかられてくるのである。そして、蕪村の句としては余り話題とされていない、この掲出の句も、蕪村の晩年の「謝寅時代」の一つの句として、そして、蕪村の、「生と死」とを扱った句の一つとして理解しておく必要があるのかも知れない。

(その五)

○ 松島で死ぬ人もあり冬籠(ふゆごもり)

 この蕪村(六十七歳の時の作)の句は、「松島で古人となる歟(か)年の暮」と同一時の作とされている。『蕪村全集一』の解によれば、「風流行脚の途次、松島で死の本懐をとげる人もある。そんなうらやましい人のことを心に思いながら、自分はぐうたらと火燵行脚の冬ごもりを極め込んでいる」とある。蕪村には「冬籠り」の句が実に多い。 蕪村は若い時の関東放浪の旅を経験して以来、その後は、仕事で讃岐への遠出があるくらいで、ずうと、京都の地で、それこそ、「冬籠り」のような人生に終始した。蕪村が「籠り居の詩人」と呼ばれるのも、そんなことが原因の一つであろう。しかし、若い関東放浪の時代に、足を伸ばして、芭蕉の「奥の細道」の行脚を決行して、この松島での一句が残されている。その蕪村(二十八歳の時)の句は「松島の月見る人やうつせ貝」というもので、この「うつせ貝」は和歌で用いられる「むなし」に掛かる枕詞で、技巧的な句作りである。、その句意は、「松島の月を句にしようとしても、余りにも絶景で、ただむなしく眺めるだけだ」とでもなるのであろうか。そして、蕪村は、死ぬ前年の、ある句会で、「冬籠り」という題を得て、掲出の句を作句したのであろう。そして、その六十七歳の晩年の蕪村に、かって、若い時に決行した奥羽行脚やその途次での松島行脚のことが、きっと、その脳裏にあったに違いない。そして、できることなら、その風流のメッカの、かって訪れたことのある「松島で死の本懐をとげたい」と願ったことであろう。蕪村は京都の街の片隅で、ひっそりと、その小さな家から一歩も出ず、「籠り居」の中で、画・俳二道の創作に終始した。その蕪村の姿を如実に表わしている「冬籠り」の一句がある。

  冬ごもり妻にも子にもかくれん坊

(その六)

○ 菜の花や鯨もよらず海くれぬ

 安永七年(一七七八)の作。蕪村六十三歳。『蕪村全集一」の解は次のとおり。
「見渡せば残照に黄金色に映える一面の菜の花の海。沖には鯨が近づくといった異変も起こらず、海面は平穏に暮れてゆく。壮大な菜の花の大観。」
 蕪村には「菜の花」の句が多いが、この掲出句のように「菜の花と海」との取り合わせの句は、安永三年の作にもある。

○ 菜の花や昼しときり海の音

 そして、この句は蕪村の代表句の「菜の花や月は東に日は西に」と同時の作とされているのである。この作は大阪平野の菜種栽培地帯での大観の作とされている(前掲書)。
 とすると、冒頭の「菜の花や鯨もよらず海くれぬ」についても、蕪村は実際には、「海」は見ていずに、かっての「菜の花や月は東に日は西に」、そして、「菜の花や昼しときり海の音」との延長線上での、大阪平野の菜種栽培地帯に想いを馳せての作のように思われるのである。すなわち、「菜の花の一面の菜畑」を「海」ととらえて、そして、「鯨」とか「海の音」とかは、その「菜の花の一面の菜畑」がいかに大観であることかの効果的な、蕪村のレトリック的なものと思われるのである。そして、この何処までも海のように続く、大阪平野の菜の花の海は、蕪村の生まれた原風景の一つなのであろう。そして、その蕪村の原風景は、何時しか「鯨や海の音」を伴いながら、美しく蕪村の心に定着し、美化していったのではなかろうか。

(その七)

○ 草の戸に消(きえ)なで露の命かな

 天明三年(一七八三)の作。蕪村六十八歳。この年に蕪村は亡くなる。季語は露(秋)。草の戸は粗末な住いのこと。「草」と「露」と「消」とが縁語の技巧的な句作りである。句意は「粗末な草のような庵で余命いくばくもない露のような命をかろうじて保っている日々だ。」晩年の蕪村の姿を詠出しているような句だ。

(その八)

○ 我門(かど)や松はふた木を三(みつ)の朝

 蕪村が亡くなる天明三年(一七八三)の元旦の句である。「三(みつ)の朝」というのは、年・月・日の始めの意味での「元旦」と「見つ」とを掛けている用語のようである。元旦の句というのはこういう技巧的な句が多いのであろう。「松はふた木」は、芭蕉の『おくのほそ道』の「桜より松は二木を三月越し」の「武隈の松」(宮城県の歌枕)をイメージしているのであろう。句意は、「元旦に我が家の門に武隈の松のような二股の見事な松を確かに見たことだ。(それは幻影なのであろうか)。」とでもなるのであろうか。そして、この句は芭蕉の「桜より松は二木を三月越し」を完全に意識して作句していることが見てとれるということなのである。そして、この句の「ふた木の松を見た」という蕪村の幻影は、「そのふた木の松を句にした芭蕉翁」の幻影を見たということなのではなかろうか。蕪村の作句の背景には常に芭蕉の幻影が見え隠れしているのである

(その九)

○ 春水や四条五条の橋の下

 天明元年(一七八一)の六十六歳の作。蕪村の句には「探題」の句が多い。句会などで籤のようにして、その日の自分の作る題を引いて、そして作句する。この句もそんなものの一つらしい。「春風や四条五条の橋の上」(都枝折)などの「もじり」の句なのであろ
う。「風が上なら、水は下」なとどと、また、謡曲の「四条五条の橋の上、老若男女・・・」(熊野)などを口ずさみながら、すらすらと句にする。今なら、さしずめ、「類想句あり」などのひんしゅくをかう部類のものなのであろう。しかし、本来、俳句というものは、西洋的な個人の独創力・創造力とかにウエートをおくものではなく、この句のような、即興的な機知の応酬などにウエートをおいているものなのであろう。そして、こういう即興的な機知の応酬なども、今では、どこかに置き去りにされてしまった。

(その十)

○ 烈々と雪に秋葉の焚火かな

 この蕪村の句は安永六年、蕪村、六十二歳ときの句。蕪村の最高の画号の「謝寅」が始まるのは翌年の頃なのであるが、この安永六年の蕪村の俳壇活動は一つのピークのようにも思われる。この掲出の句は、そのピーク時の蕪村の傑作句として例示したのではない。この句の「秋葉」が、「静岡県の秋葉の火祭りとして名高い」、その「秋葉」の句であるということからの引用である。蕪村は「秋葉の火祭り」は見たことがないであろう。蕪村はその若い頃の放浪の時代を経て、そして、それ以後は、殆ど、京都の市井に「篭り人」のように隠棲して過ごしたのであった。これは、蕪村の観念の作なのであろう。しかし、この句に接する人に、眼前に「雪の秋葉山の焚火」を明瞭に映し出すという、そういう作句能力を持っていた俳人という思いを強くするのである。そして、それは、画人・蕪村を見るような錯覚すら覚えるのである。  

(その十一)

○ 不動描く琢磨が庭のぼたんかな

 安永六年の作。この句もまた画人・蕪村(謝寅)の句そのものであろう。琢磨(たくま)とは平安から鎌倉にかけての絵仏師の一派の名である。その不動明王を描いて得意な琢磨の流れをくむ絵仏師の庭に、その不動明王に対峙するような見事な牡丹が咲いているというのである。こういう句は画人・蕪村(謝寅)の独壇場であろう。

蕪村の花押(その五~その七の二)

蕪村の花押(その五)

膳.jpg

「諸家寄合膳」(二十枚)のうちの「蕪村筆・翁自画賛」=A

『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM編)』所収「作品解説(3)」では、「画面左に杖を持った二人の人物を簡単な筆づかいで描く。右上に三行で『嵯峨へ帰る 人はいつこの 花にくれし』という発句を書く。『蕪村』という署名花押を書く」とある。

 この花押は、蕪村が、宝暦六年(一七五六)の丹後時代から常用している花押と明らかに相違している。
 蕪村の常用の花押については、『人物叢書 与謝蕪村(田中善信著)』では、「嘯山宛の手紙に、蕪村常用の、独特の形をした花押が書かれている(挿図の『花鳥篇』序参照)。かつてこの花押は、矢を半分にしたもので矢半(夜半)の洒落だといわれていたが、岡田利兵衛氏のように、夜半亭を継承する以前にこの花押が用いられているから、従来の説は誤りである(『俳画の美』)。岡田氏は『村』から作った花押だというが、私には槌の形に見える。花押の作り方としては異例だが、これは槌を図案化したものではなかろうか」と記されている。
 同書では、『花鳥篇』序(天理大学付属天理図書館蔵)のものの花押を例示し、別の「蕪村の大黒天図」に関連して、俵の上に乗り木槌を持った「大黒天図(中村家像)」を挿図として掲載している。

 この蕪村常用の花押について、これまでに掲載したものを、ここに併載して置きたい。

書簡A.png

蕪村書簡(三宅嘯山宛て、宝暦七年(一七五七))=B

絵図A.png

蕪村挿絵図(『はなしあいて』所収「蕪村山水略図」)=C

蕪村静御前.jpg

蕪村筆 静御前図自画賛(「生誕三百年同い年の天才絵師 若冲と蕪村」作品21) =D

 上記(B・C・D)の花押は、拡大すると、凡そ次のようなものである。

蕪村花押 .jpg

「蕪村の署名・花押」=E

冒頭の「蕪村筆・翁自画賛」=Aと、この「蕪村の署名・花押」=Eとを比較すると、署名はともかくとして、花押は似ても非なるものの印象が拭えないのである。
ここで、いわゆる「真贋」とかを話題にするというよりは、この二様の違う、蕪村の花押を、鑑識や鑑定の世界での、「これならとおる」(「見解は分かれるが、多くの人を納得させられる」)のようなものが見いだせないかという、そんな難問題への、無謀な謎解きをしたいというのが、その真相なのである。
 しかし、この謎解きに入る前に、「蕪村筆・翁自画賛」=Aに、「三行で書かれている発句」の「嵯峨へ帰る 人はいつこの 花にくれし」(安永九年・一七八〇作)に併記して、「筏士(いかだし)のみのやあらしの花衣」の「自画賛」があり、そこに、「酔蕪村 三本樹井筒屋楼上において写」と落款して、そこに花押(Eと同種の花押)が押されている。
 すなわち、「蕪村筆・翁自画賛」=Aと、極めて関連の深い「自画賛」が別に現存し、そこに花押(Eと同種)があり、さらに、この謎解きは複雑な形相を呈して来るのである。
そして、あろうことか、こちらの「筏士(いかだし)のみのやあらしの花衣」の「自画賛」には、寺村百池の詳細な箱書きがあり、それに加えて、月渓(呉春)筆の「自画賛」もあるようで、どうにも整理の仕様がないような複雑な問題が内在しているのである。
 今回は、百池の箱書きのある「自画賛」を、『蕪村全集一 発句』の、その頭注より拡大して掲載をして置きたい。

蕪村花衣.jpg

 蕪村筆「筏士自画賛」(百池の箱書きあり、花押=Eと同種)

蕪村の花押(六の一)

蕪村花衣.jpg

蕪村筆「筏士自画賛」(百池の箱書きあり・蕪村の署名はなく花押のみ)=A

 寺村百池の「箱書き」(括弧書き=読みと注)は次のとおりである。

[ これは是、老師夜半翁(蕪村)世に在(ま)す頃、四明山下金福寺に諸子会しける日、帰路三本樹(京都市上京区の地名=三本木、その南北に走る東三本木通りは、江戸時代花街として栄えた)なる井筒楼に膝ゆるめて、各三盃を傾く。時に越(こし=北陸道の古名)の桃睡(とうすい)、酔に乗じて衣を脱ぎ師に筆を乞ふ。とみに肯(うべな)ひ、麁墨(そぼく)禿筆(とくひつ)を採(とり)てかいつけ給ふものなり。余(百池)も其(その)傍に有りて燭をとり立廻(たちめぐ)りたりしが、日月梭(ひ)の如く三十年を経て、さらに軸をつけ壁上の観となし、其(その)よしをしるせよと責(せめ)けるこそ、そゞろ懐古の情に堪へず、たゞ老師の磊落(らいらく)なる事を述(のべ)て今のぬしにあたへ侍りぬ。 ]
(『蕪村全集一 発句)』所収「2377 左注・頭注・脚注」)

 さらに、『大来堂発句集』(百池の発句集)』の天明三年(一七八三)三月二十三日に、「金福寺芭蕉庵、追善之俳諧興行(風蘿念仏)に、蕪村、桃睡、百池一座」として、「雨日嵐山
に春を惜しむ」との前書きのある「み尽して雨もつ春の山のかひ」という句が所出されている。
 すなわち、蕪村が亡くなる天明三年(一七八三)の三月二十三日、上記の百池の「箱書き」に記載されている句会が、金福寺芭蕉庵で開かれて、その帰途に、三本樹の井筒楼で宴会があり、その宴席での、即興的な「席画」(宴席や会合の席上で、求めに応じて即興的に絵を描かくこと。また、その絵)が、上記の「筏士自画賛=A」なのである。
 これは、百池の「箱書き」によって、桃睡の「衣」に描いた、すなわち、「絹本墨画」の「筏士自画賛」ということになる。ところが、「紙本墨画淡彩」の「筏師画賛=B」(出光美術館蔵)も現存するのである。これは、後述することとして、その前に、上記の「筏士自画賛=A」の賛の発句や落款について触れて置きたい。
 この画中の右の冒頭に、「嵐山の花見に/まかりけるに/俄(にわか)に風雨しければ」として、「いかだしの/みのや/あらしの/花衣」の句が中央に書かれている。それに続いて、画面の左に、「酔蕪村/三本樹/井筒屋に/おいて写」と落款し、その最後に、蕪村常用の「花押」が捺されている。
 このことから、蕪村は、亡くなる最晩年にも、この独特の花押を常用していたことが明瞭となって来る。
 ここで、蕪村が最晩年の立場に立って、生涯の発句の中から後世に残すに足るものとして自撰した『自筆句帳』の内容を伝える『蕪村句集(几董編)』の「巻之上・春之部」では、「雨日嵐山にあそぶ」として「筏士(いかだし)の蓑(みの)やあらしの花衣(はなごろも)」の句形で採られている。
 この句形からすると、出光美術館所蔵の「筏師画賛=B」(「大雅・蕪村・玉堂と仙崖―『笑《わらい》のこころ』」図録中「作品38」)も「筏士画賛」のネーミングも当然に想定されたものであろう。おそらく、「筏士自画賛=A」と区別したいという意図があるのかも知れない。
 これらの、「筏士自画賛=A」と「筏師画賛=B」との比較鑑賞(考察)は、後述・別稿ですることにして、この他に、「月渓筆画賛=C」(「資料と考証六」=未見)もあるようで、そこに、
「これは先師夜半翁、二軒茶やにての句也」と付記してあるという(『蕪村全集一 発句』)。
 これは、恐らく「筏師画賛=B」に近いもので、この「筏師画賛=B」に近いものが、他に何点か、その真偽はともかくとして出回っているようである。
 ここでは、冒頭の「筏士自画賛=A」の百池「箱書き」中の、「三本樹の井筒楼」と「月渓筆画賛=C」中の「二軒茶や」と、蕪村の傑作画として名高い「夜色楼台雪万家図」と関連しての、「晩年の蕪村が足繁く通った『雪楼』」」(『水墨画の巨匠第十二巻蕪村(芳賀徹・早川聞多著)』(「夜色楼台図(早川聞多稿)」)などについて触れて置きたい。
 この「雪楼」は、百池宛て蕪村書簡(天明二年・一七八二、七月十一日付け)で、「祇園 富永楼のこと。蕪村行き付けの茶屋」(『蕪村書簡集《大谷篤蔵・藤田真一校注》』)なのである。すなわち、晩年の蕪村が足繁く通った、蕪村自身の「拙(雪)老」の捩りの「雪楼」のようである。

蕪村 夜色楼台図.jpg

 (図1 蕪村筆 「 夜色楼台図」)

 この蕪村の「夜色楼台図」の左の画面外に、百池「箱書き」の「四明山(比叡山・四明岳)下金福寺」がある。そこで、天明三年(一七八三)三月二十三日に、「金福寺芭蕉庵、追善之俳諧興行(風蘿念仏)に、蕪村、桃睡、百池一座」と、句会を開いている。その「帰路三本樹なる井筒楼に膝ゆるめて、各三盃を傾く」と、宴会があった。
 当時の「三本樹」の花街の様子が、次の『拾遺都名所図会』で紹介されている。ここに、「井筒楼」や「富永楼(雪楼)」の茶屋があった。

三本樹.png

 (図2 「 三本樹(木)」『拾遺都名所図会』 ) 

 この『拾遺都名所図会』に描かれている川は「かも川(鴨川)」である。この「かも川」付近の「井筒楼」で、冒頭の「筏士自画賛=A」が「席画」され、その主題は、「嵐山の花見に/まかりけるに/俄(にわか)に風雨しければ」と「嵐山」であり、その「嵐山」の「桂川(保津川)」の「いかだしの/みのや/あらしの/花衣」と、「筏士」ということになる。
 すなわち、この「筏士自画賛=A」は、「嵐山」の「桂川(保津川)」の「筏士」を、「鴨川」の近くの「三本樹(木)の井筒屋」で、かつて画賛にしたもの(「筏師画賛=B」)を思い出しながら、「酔蕪村」(酔っている蕪村)が、即興的に、「桃睡、百池一座」の見ている前で描いたということになろう。

 その前に描いた画賛(「筏師画賛=B」)は、次のものであろう。

蕪村・筏師・出光美術館.jpg

 蕪村筆「筏師画賛=B」(出光美術館蔵)

 この「筏師画賛=B」に簡単に触れて置くと、「筏士自画賛=A」の左に記載されている
「酔蕪村/三本樹/井筒屋に/おいて写」のような記述はない。そして、その下にあった「花押」(「蕪村」の署名はない)は、「筏師画賛=B」では、右端に「蕪村・花押」とあり、
それに続く、前書きの文言も発句の句形も、微妙に異なっている。
 そして、「筏士自画賛=A」は、棹の位置からして、右の方向に進むのだが、この「筏師画賛=B」では、左の方向に進む図柄なのである。それ以上に、種々、大きな相違点などについては、別稿で詳しく見て行くことにしたい。
 ここで、付記して置きたいことは、この「筏師画賛=B」は、「諸家寄合膳」の「蕪村筆・翁自画賛」に書かれている「嵯峨へ帰る人はいずこの花にくれし」(安永九年・一七八〇作)と同時の頃の作と思われるのである。
 さらに、この「筏師画賛=B」も「席画」で、それは、恐らく、「月渓筆画賛=C」(未見)の付記の「これは先師夜半翁、二軒茶やにての句也」の、「三本樹(木)」の「井筒楼」や「富永楼」ではなく、京都祇園社境内の二軒茶屋などのものと解したい。

補記 

『蕪村全集一 発句』の「嵯峨へ帰る人はいづこの花にくれし」の、「脚注」に「自画賛<潁原ノート>」とあり、その「左注」に「自画賛に2377(筏士のみのやあらしの花筏)と併記」とある。この「脚注」と「左注」とからすると、「嵯峨へ帰る人はいづこの花にくれし」と「筏士のみのやあらしの花筏」を併記している、蕪村筆「自画賛」(未見)もあるのかも知れない。

蕪村の花押(六の二)

蕪村・筏師・出光美術館.jpg

 蕪村筆「筏師画賛=B」(出光美術館蔵)

[【筏師画賛】一幅 与謝蕪村筆 紙本墨画淡彩 江戸時代 二七・二×六六・八㎝
嵐山の桜を愛でている最中に、急に風雨が激しくなって、筏師の蓑が風に吹かれた一瞬を花に見立てた俳画。蓑の部分は、紙を揉んで皺をつけ、その上から渇筆を擦りつけることで、蓑のごわごわとした質感をあらわしている。蓑笠だけで表された筏師のポーズは遊び心にあふれ、ほのぼのとしていながら印象的である。遊歴の俳人画家、蕪村は五十歳になってから京都に安住の地に選び、身も心も京都の人になりきって庶民の風習を楽しんだ。自己を語ることをせずに、筏師一人だけを慎み深く捉えているところに、かえって都会的な香りや郷愁を感じさせる。(出光)
(釈文)
嵐山の花にまかりけるに俄に風雨しけれは
いかたしの みのや あらしの 花衣  蕪村 (花押) ]
「大雅・蕪村・玉堂と仙崖―『笑《わらい》』のこころ」(作品解説38)

 上記の「作品解説」の中で、「蓑の部分は、紙を揉んで皺をつけ、その上から渇筆を擦りつけることで、蓑のごわごわとした質感をあらわしている」の、いわゆる、水墨画の「乾筆(かっぴつ)=墨の使用を抑え,半乾きの筆を紙に擦りつけるように描く」の技法を、この「ミの(蓑)」に駆使しているのが、この俳画のポイントのようである。
 その「蓑」に比して、「笠」の方は、「潤筆(じゅんぴつ)=十分に墨を含ませて描く」の技法の一筆描きで、この「蓑と笠」だけで「筏師のポーズ」を表現するというのは、「遊歴の俳人画家」たる蕪村の「遊び心」で、「ほのぼのとしていながら印象的である」と鑑賞している(上記の解説)。
 ここで、この「筏師画賛=B」は、何時頃制作されたのかということについては、この賛に書かれている発句「いかたしの/ミのや/あらしの/花衣」の成立時期との関連で、凡その見当はついてくるであろう。

 『蕪村句集(几董編)』の収載の順序に、成立年時を付した『蕪村俳句集(尾形仂校注・岩波文庫)』では、次のようになっている。

     日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る
一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し ※安永九年(※は推定)
一八五 花の香や嵯峨のともし火消(きゆ)る時   安永六年
     雨日嵐山にあそぶ
一八六 筏士の蓑やあらしの花衣          天明三年

 この「一八六 筏士の蓑やあらしの花衣」は、「筏士自画賛」の百池「箱書き」の内容に照らして、天明三年(一七八三)の作ではなく、「一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し」と同時の、安永九年(一七八〇)作なのではなかろうかということについては、先に触れた。ここで、この両句を、その前書きから、「一八六 → 一八四」の順にすると次のとおりとなる。

     雨日嵐山にあそぶ
一八六 筏士の蓑やあらしの花衣 
     日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る
一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し

 この順序ですると、「雨日嵐山にあそぶ」、そして、「筏士」の句などを作り、「日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る」、その帰途中で、知人と出会い、「嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し」の句を作ったということになる。
 さらに、『蕪村句集』を見て行くと、「嵯峨の雅因亭」での、次の句が収載されている。

     嵯峨の雅因が閑を訪(とひ)て
三一一 うは風に音なき麦を枕もと       ※(安永三年四月)

 この「嵯峨の雅因」は、京都島原の妓楼吉文字屋の主人で、嵐山の宛在楼に閑居し、蕪村らと親しく交遊関係を結んでいる、山口蘿人門の俳人である。しかし、この雅因は、安永六年(一七七七)十一月二十六日に没しているので、ここで、上記の「一八五 花の香や嵯峨のともし火消(きゆ)る時」(安永六年作)が、雅因への追悼句の雰囲気を伝えて来る。 いずれにしろ、上記の『蕪村句集』に収載されている、「一八四・一八五・一八六」は、相互に響き合った、何かしらの因果関係にある句と解したい。

 さらに、ここに付け加えることとして、大雅が、安永五年(一七七六)四月十三日に没していることである。
 蕪村と大雅とは、京都の近い所に住んでいながら、ほとんど没交渉のような、この二人の生前の交渉の足跡はどうにも未知数の謎のままである。
大雅が没したときの、蕪村の書簡は、「大雅堂も一作(昨)十三日古人(故人)と相成候。平安(京都)の一奇物、をしき事に候」(安永五年四月十五日付け霞夫宛て書簡)と、関心は持っていて、その才能は高く評価していたのであろうが、生粋の京都(平安)人である大雅を、潜在的に余所者意識(大阪近郊の田舎生まれ且つ江戸育ちの放浪者意識)の強い蕪村が敬遠していたという印象を拭えない。

これは、蕪村と若冲との関係にも言えることであって、丹波(京都郊外)の田舎出身の応挙とは気が合うのも、そういった蕪村の潜在的な意識と大きく関係しているのかも知れない。
ともあれ、「諸家寄合膳」の大雅筆の「梅図=二」は、安永五年(一七七六)以前のものであろうということと、蕪村筆の「翁自画賛=三」は、安永九年(一七八〇)以降のものということで、この両者は、大雅と蕪村との唯一の交叉を象徴する「十便十宣図」(二十枚)のような関係にはないということは間違いなかろう。 また、寛政十二年(一八〇〇)の若冲筆・四方真顔賛の「雀鳴子図=八」とは、全く制作年次を異にするということも、これまた指摘して置く必要があろう。

 唯一、蕪村との関連ですると、当時(安永=一七七二~天明=一七八一に掛けて)、蕪村と応挙との親密な交遊は散見され、例えば、蕪村と応挙との合筆の「『ちいもはゝも』画賛」(「広島・海の見える杜美術館」蔵)などからして、「諸家寄合膳」の蕪村筆の「翁自画賛=三」と応挙筆の「折枝図=一」とは、同時の頃の作と解しても、それほど違和感が無いのである。

 それよりも、蕪村・応挙合筆の「『ちいもはゝも』画賛」に、「猫は応挙子か(が)戯墨也/しやくし(杓子)ハ蕪村か(が)戯画也」と、画面の右に墨書し、中央の下に、「蕪村賛」と署名し、その下に、花押が書かれている。
 この花押が、何と「諸家寄合膳」の蕪村筆「「翁自画賛=三」の花押と同じものと思われるのである(下記の蕪村筆「「翁自画賛=三」)。
 ここで、蕪村の花押について、一つの仮説のようなもの提示して置きたい(詳細は、折りに触れて関連する所で後述することとしたい)。

一 蕪村の花押は、常用の花押(上記の「筏師画賛=B」などに見られる花押)と諸家(例えば、応挙など)との合筆画(それに類するもの)などに見られる花押(下記の「翁自画賛=三」)との二種類のものがある。
二 その常用の花押も、また、合筆画用の花押も、その由来となっているものは、蕪村が関東歴行時代に見切りをつけ、宝暦初年(一七五一)に上洛して間もない頃に草した「木の葉経句文」に因っているものと解したい。
三 すなわち、その「木の葉経句文」中の、末尾の「肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)」の句に草した署名、「洛東間人(かんじん)嚢道人釈蕪村」の、この「嚢道人(釈)蕪村」の、その姓号と思われる「嚢道人」を象徴する「嚢」(雲水僧が携帯している経巻用の「嚢=袋」)の図案化と解したい。

諸家寄合膳(四枚).jpg

「諸家寄合膳」(二十枚)のうち「蕪村・若冲・大雅・応挙」(四枚)
上段(左)=蕪村筆「翁自画賛=三」 上段(右)若冲筆・四方真顔賛「雀鳴子図=八」
下段(左)=大雅筆「梅図=二」 下段(右)=応挙筆「折枝図=一」


補記一

蕪村の花押(六の三)

筏師画賛.jpg

月渓(呉春)筆「筏師画賛=C」逸翁美術館蔵  34×31.5cm

 この画中の筏師の右側に書いてある賛は次のとおりである。

[ 筏しのみのやあらしの花衣 / これは先師夜半翁三軒 / 茶やにての句也又 /渡月橋にて / 月光西に / わたれば花影 / 東に歩むかな / 日くれて家に / 帰るとて / 石高な都は / 花のもどり足   ]
 筏師の左側の賛は次のとおりである。
[ 花をふみし / 草履も見へて / 朝ねかな / 身をはふらかし / よろづにおこたり / がち成ひとを / あはれみたると / はし書あり / 月渓写 ]
(『呉春(逸翁美術館・昭和五七刊)』所収「100月渓筆筏師画賛」)

 呉春(松村月渓)は宝暦二年(一七五二)、京都の堺町四条下ル町で生まれた。本姓松村、名は豊昌、通称嘉左衛門、別号に可転など、軒号に蕉雨亭・百昌堂など、のち蕪村から「三菓軒」の号を譲られている。
 蕪村に入門をしたのは、明和八年(一七七一)十九歳の頃で、この年に、蕪村門の最右翼の高弟黒柳召波が亡くなっている。
 池大雅が亡くなった安永五年(一七七六)の二十五歳の頃は、蕪村社中の『初懐紙』『写経社集』などに続々入集し、画道共に俳諧活動も活発であった。
 上記の「筏師画賛=C」の制作年次は明らかではないが、その画賛中の「筏しのみのやあらしの花衣」の蕪村の句から類推すると、安永九年(一七八〇)二十九歳の頃から剃髪して呉春と改号した天明二年(一七八二)三十一歳前後の間のものであろう。
 月渓が呉春と改号した翌年、天明三年(一七八三)十二月二十五日に蕪村が没する(呉春、三十二歳)。蕪村没後の夜半亭社中は、俳諧は几董、そして、画道は呉春が引き継ぐという方向で、呉春も、漢画・俳画の蕪村の師風を堅持している。
 天明六年(一七八六)に、呉春の良き支援者であった雨森章迪が没し、その翌年の天明七年(一七八七)に、呉春は応挙を訪うなど、応挙の円山派への関心が深くなって来る。
 その翌年、天明八年正月二十九日、京都の大火で呉春の京都の家(当時の本拠地は摂津池田)が焼失し、偶然にも避難所の五条喜雲院で応挙と邂逅し、暫く応挙の世話で二人は同居の生活をする。
 この時、応挙が呉春に「御所方や御門跡に出入りを希望するなら、狩野派や写生の画に精通する必要がある」ということを諭したということが伝えられている(『古画備考』)。
 これらが一つの契機となっているのだろうか、明けて寛政元年(一七八九)五月、池田を引き払い、京都四条を本拠地としている。そして、その十二月、俳諧の方の夜半亭を引き継いだ、呉春の兄貴分の盟友几董が、四十九歳の若さで急逝してしまう。
 ここで、呉春は画業に専念し、応挙の門人たらんとするが、応挙は「共に学び、共に励むのみ」(『扶桑画人伝』)と、師というよりも同胞として呉春を迎え入れる。その応挙は、寛政七年(一七九五)に、その六十三年の生涯を閉じる。この応挙の死以後、呉春は四条派を樹立し、以後、応挙の円山派と併せ、円山・四条派として、京都画壇をリードしていくことになる。
 呉春が亡くなったのは、文化八年(一八一一、享年六十)で、城南大通寺に葬られたが、後に、大通寺が荒廃し、明治二十二年(一八八九)四条派の画人達によって、蕪村が眠る金福寺に改葬され、蕪村と呉春とは、時を隔てて、その金福寺で師弟関係を戻したかのように一緒に眠っている。

 上記の「筏師画賛=C」賛中の、蕪村の句関連は、次のような構成を取っている。

 筏士のみのやあらしの花衣
  これは先師夜半翁、三軒茶やにての句也 (後書き)
   (又)
  渡月橋にて (前書き)
 月光西にわたれば花影東に歩むかな
  日くれて家に帰るとて (前書き)
 石高な都は花のもどり足

 花をふみし草履も見へて朝ねかな
  花鳥のために身をは(ほ)ふらかし
  よろづにおこたりがち成(なる)ひとを
  あはれみたりとはし書(がき)あり  (後書き) 月渓写

 ここに出て来る四句は、月渓(呉春)に取っては、忘れ得ざる先師夜半翁(蕪村)の句ということになる。

 筏士のみのやあらしの花衣(天明三年=一七八三作とされているが、安永九年=一七八〇作)
 月光西にわたれば花影東に歩むかな(安永六年=一七七七作)
 石高(いしだか)な都は花のもどり足(安永九年=一七八〇作、石高=石高道のこと)
 花をふみし草履も見へて朝ねかな(安永五年=一七七六作)

 これらの四句に見える安永五年(一七七六)~安永九年(一七八〇)は、蕪村が最も輝いた時代で、同時に、蕪村と月渓(呉春)との師弟関係が最も張り詰めた年代であった。
 ここで繰り返すことになるが、この安永五年(一七七六)、蕪村六十一歳、そして、呉春二十五歳の時に、大雅(享年=五十二)が没した年で、この年に、蕪村の夜半亭門の総力を挙げての、金福寺境内の「芭蕉庵」が再建された年なのである。
 そして、この安永九年(一七八〇)、その翌年の四月、天明元年(一七八一)となり、この端境期の三月晦日に、月渓(呉春)は、最愛の妻・雛路を瀬戸内の海難事故失い、それに加えて、その年の八月に、これまた、最大の理解者であり支援者であった父が江戸で客死するという、二重の悲劇に見舞われる。
その時に、蕪村は月渓(呉春)に、蕪村門長老の川田田福(京都五条の呉服商、百池家と縁戚)の別舗のある摂津池田に転地療養させる。この池田の地は別名「呉服(くれは)の里」と言い、その「呉」と亡き愛妻の「春」そして師蕪村の雅号「春星」の「春」を取って、月渓は三十一歳の若さで剃髪して「呉春」と改号する。
 しかし、呉春と改号後も、蕪村の夜半亭を継承した几董在世中は、月渓の号も併称していた。几董の夜半亭継承は、天明六年(一七八六)で、上記の「筏師画賛=C」賛中の「これは先師夜半翁三軒茶やにての句也」からすると、几董が夜半亭三世を継承した以後に制作されたものなのかも知れない。
 そして、この「三軒茶や」は、嵐山三軒茶屋ということについては先に触れた。ここで、画人・松村月渓(呉春)の生涯を大きく分けると、安永・天明年間(一七七二~一七八八)の「月渓時代」と寛政・文化八年年間(一七八九~一八一一)の「呉春時代」と二大別することも一つの見方であろう。
 そして、この「月渓時代」は、蕪村との師弟関係にあった時代で、「呉春時代」は応挙門と深い関係にあった時代ということになろう。この「月渓時代」を「学習模索期・完成期前半」の時代とすると「呉春時代」は「完成期後半・大成期」という時代区分になるであろう。
 また、この「月渓時代」は、蕪村風の「漢画」と「俳画」が中心で、「呉春時代」は応挙風を加味しての「四条派画」(「円山派の平明で写実的な作風に俳諧的な洒脱みを加えた画風」)と明確に区別されることになる。
 上記の「筏師画賛=C」は、蕪村風の「俳画」そのもので、その賛の書蹟も全く蕪村の書蹟と瓜二つで、殆ど両者を区別することが出来ないと言って良かろう。その俳画の描写筆法も、これまた蕪村風そのもので、こういう師風そのものに成りきるという才能は、月渓(呉春)の天性的なものなのであろう。
 ここで、この月渓(呉春)の「筏師画賛=C」の元になっている、蕪村の「筏士自画賛=A(百池の箱書きあり・蕪村の署名はなく花押のみ)」を、『蕪村 その二つの旅』」図録
所収「81『いかだしの』の自画賛=A-2」のものを再掲して置きたい。

いかだし自画賛.jpg

蕪村筆「『いかだしの』自画賛=A-2」個人蔵 絹本墨画 掛幅装一軸四五・七×六一・二
(『蕪村 その二つの旅』図録=監修、佐々木丞平・佐々木正子、編集発行、朝日新聞社)

 なお、「都名所図会」(長谷川貞信・浮世絵)中の「嵐山三軒茶屋より眺望」を下記に掲載して置きたい。

三軒茶屋.jpg



     雨日嵐山にあそぶ
一八六 筏士の蓑やあらしの花衣          (『蕪村句集』)
     日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る
一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し  (『蕪村句集)

 この二句について、『蕪村書簡集(岩波文庫)』所収の「二四〇 無宛名(二月二十一日付)」の中に、「愚老(蕪村)生涯嵐山の句也とつぶやくことに候」と認められており、蕪村の自信作でもあり、また、蕪村の夜半亭社中でも、話題になっていた句のようである。なお、嵐山を流れる大堰川(桂川・保津川)は、当時の蕪村は、「大井(ゐ)川」と表記しているようである。

補記二 

 同じく、『蕪村書簡集(岩波文庫)』所収の「一一五 几董宛(安永九年三月七日付)」の中に、「筏士が蓑もあらしの花衣」の句形で、この句が出て来て、「帰路は杉月楼(さんげつろう)」に寄ったとの文言が見られる。先に紹介した、「三本樹(木)」の、「井筒楼」・「富永楼(雪楼)」の他に、この「杉月楼」も、蕪村行きつけの茶屋なのであろう。

補記三

 先に、「月渓筆画賛=C」(未見)の付記の「これは先師夜半翁、二軒茶やにての句也」(『蕪村全集一 発句』所収「2377=P515)に関連して、「『三本樹(木)』」の『井筒楼』」や『富永楼』ではなく、京都祇園社境内の二軒茶屋などのものと解したい」と記したが、この『月渓筆画賛=C』を、『呉春(逸翁美術館・昭和五七刊)』所収「100月渓筆筏師画賛」で確認することが出来た。それに因ると、「これは先師夜半翁、三軒茶やにての句也」と、祇園 の二軒茶屋ではなく、嵐山の三軒茶屋での作句というのが正解のようである。
 そして、その図柄は、先の蕪村筆の「筏士自画賛=A」に近いもので、冒頭の「筏師画賛=B」(出光美術館蔵)のものではないことも確認出来た(これらのことは、また別稿といたしたい)。

補記四

 さらに、『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「95『筏士の』の付言(天明三年)」(真蹟=月渓筆の蕪村画像に貼付。『蕪村名画譜』<昭和八年一月刊>所収)で、この句に関連しての、「『袋草紙』に伝える公任の歌よりも勝っていると、(蕪村が)俳諧自在を自負したもの」というものも確認出来た(これも、また、別稿で出来れば取り上げたい)。

補記五

「筏士自画賛=A」については、『蕪村全集六 絵画・遺墨』所収「110『いかだしの』自画賛」で確認できた。しかし、肝心の、この画賛に付随する、百池の「箱書き」などには、当然のことながら(編集方針・スペースなど)、一言も触れられてはいない。

補記六

 しかし、『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「『風蘿念仏』序(天明元年十月)」で、その「筏士自画賛=A」に関連する、「『大来堂発句集』(百池の発句集)』の天明三年(一七八三)三月二十三日に、『金福寺芭蕉庵、追善之俳諧興行(風蘿念仏)に、蕪村、桃睡、百池一座』」の、この「風蘿念仏」に関する、蕪村の「序」が全文収載されている(中興俳諧の二巨頭の京都の蕪村と名古屋の暁台との交遊などを背景にしたもの)。
 これらのことを背景とすると、次の二句とそれに関する「画賛」などは、兄弟句(姉妹編)と解して差し支えなかろう。

     雨日嵐山にあそぶ
一八六 筏士の蓑やあらしの花衣          (『蕪村句集』)
     日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る
一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し  (『蕪村句集』)

蕪村の花押(その七の一)

「老なりし」合作画賛.jpg

『蕪村全集六 絵画・遺墨』所収「『老なりし』月渓合作賛=D-2」

 ここに出て来る蕪村の賛は次の通りである(『蕪村全集五 書簡(講談社刊)』所収「七九 安永三年 日付なし 乙総宛」に因る)。

  老なりし鵜飼ことしは見えぬかな  紫狐庵(花押)

 すべての賛の絵をかく事、画者のこゝろえ(心得)有(ある)べき事也。右の句に此(この)画はとり合(あは)ず候。此画にて右の句のあはれ(哀れ)を失ひ、むげ(無下)のことにて候。か様(やう)句には、只(ただ)篝(かがり)などをたき(焼き)すてたる光景、しかる(然る)べく候。

  これは門人月渓に申(まうし)たることを、直ニ其(その)席にて書(かき)つけま  
  い(ゐ)らせ候。かゝる心得は万事にわたることにて候。
 乙ふさ(総)子                    蕪村

(『蕪村全集五 書簡(講談社刊)』所収「七九 安永三年 日付なし 乙総宛」)

 上記の「月渓画・蕪村賛(乙総宛て書簡)」は、冒頭の『蕪村全集六 絵画・遺墨』(『蕪村全集六 絵画・遺墨』所収「参考図二『老なりし』月渓合作賛=D-1」)の通りに収録されていて、そこでは「『老なりし』月渓合作賛=D-2」(一幅、一〇六・三×二八・二cm、 款、「紫狐庵」(花押)、印、なし 賛=上記と同じ)の、月渓と蕪村の合作画賛となっている。

 しかし、これは、単純な「月渓・蕪村合作画賛」なのではない。これは、蕪村の、夜半亭社中(ここでは、月渓と乙総の二人)への、賛にある「絵をかく事、画者のこゝろえ(心得)有(ある)べき事也」の、その「画者の心得」を具体的に示したものなのである。

 すなわち、この蕪村・月渓合作の、この画賛は、まず、蕪村が紫狐庵の署名で、「老なりし鵜飼ことしは見えぬかな」という句を書き、それに、蕪村常用の花押を書いて、この句に相応しい「絵をかく」ように、門人の月渓に命じたのである。
 何故、紫狐庵の署名にしたかというと、この句は、安永三年(一七七四)四月十七日の紫狐庵での句会のもので、その紫狐庵の庵号で署名したのであろう。
 その蕪村の指示を受け、月渓は大きな魚籠と数匹の鮎を描いて、師の蕪村に差し出したところ、「此の句に此の画はとり合はず(釣り合わない)、此の画にては此の句の哀れ(情趣)を失ふ、無下(甚だ拙い)也」と酷評され、「か様(やう=よう)の句には、只(あっさりと)鵜飼をする篝火などの光景が、然るべし(相応しい)」と諭され、画者の心得としてメモを取っておくように指導されたのである。
 後日、蕪村は、この蕪村・月渓合作の画賛の左上に、月渓に指導したことを書面に認め、その書簡付きの合作画賛を、但馬(兵庫県)出石の門人、乙総宛てに、送ったというのが、この合作画賛の背景ということになる。
 この乙総は、蕪村門の但馬の代表的な俳人、霞夫(芦田氏)の弟で、霞夫は、醸造業を営み、別号に馬圃・如々庵などと称した。この霞夫と乙総は、蕪村書簡にしばしば出て来る、蕪村と親しい俳人で且つ蕪村の支援者でもあった。

 この「書簡付き蕪村・月渓合作画賛=D」の賛中の「画者のこゝろえ(心得)」というのは、主として「俳画の心得」であって、この「俳画」は、蕪村の言葉ですると、「はいかい(俳諧)物の草画」ということになる。

 蕪村は、この「はいかい物之草画」に関しては、「凡(およそ)海内に並ぶ者覚(おぼえ)無之候」(天下無双の日本一である)と、画・俳両道を極めている蕪村ならではの自負に満ちた書簡を今に残している(安永五年八月十一日付け几董宛て書簡)。
 「俳画」という名称自体は、蕪村後の渡辺崋山の『俳画譜』(嘉永二年=一八一九刊)以後に用いられているようで、一般的には「俳句や俳文の賛がある絵」などを指している。

 さて、この「書簡付き蕪村・月渓合作画賛=D」で、蕪村が月渓や乙総に伝えようとしたのは、俳諧(連句)用語ですると、「余情付(よじょうづけ)」(前句《賛》の余韻・余情が付句《絵》)のそれと匂い合って、情感の交流が感じられるような付け方《賛に対する絵の描き方》)のような「賛と絵との有り様」を目指すべきであるということなのであろう。
 蕪村が俳諧の道に入ったのは、元文二年(一七賛七)、二十二歳の頃で、爾来、俳諧師としての修業は、画業に専念してからも、これを怠りにはせず、明和七年(一七七〇)、五十五歳の時に、夜半亭二世(夜半亭俳諧=江戸座の其角門の早野巴人を祖とする俳諧)を継承して、芭蕉の次の時代の中興俳諧の一方の雄なのである。
 まさに、「はいかい(俳諧)物之草画(大まかな筆づかいで簡略に描いた墨絵や淡彩画)」においては、「凡(およそ)海内に並ぶ者覚(おぼえ)無之候」(天下無双の日本一である)という蕪村の自負は、決して独り善がりのものではなく、いや、俳画というのは蕪村から始まると極言しても差し支えなかろう。
 この俳画第一人者の蕪村が、これはという門人の月渓や乙総に、その「俳画の心得」を伝授しようとしているのが、この「書簡付き蕪村・月渓合作画賛=D」なのである。
 中でも、蕪村の月渓への期待というのは、「此(この)月渓と申(まうす)者は至て篤実之君子にて、(略) 画は当時無双の妙手」(天明三年九月十四日付け士川宛て書簡)と、まさに、月渓は、蕪村の秘蔵子と言っても差し支えなかろう。
 蕪村だけではなく、蕪村没後に同胞として迎え入れた応挙も、「近畿の画家為すあるに足るものなし、只恐るべきは月渓といふ若者なり」と、月渓を高く評価しているのである(『呉春(逸翁美術館・昭和五七刊)』)。

 ここで、冒頭の「書簡付き蕪村・月渓合作画賛=D」に戻り、この月渓の「画(絵)」は、紫狐庵(蕪村)の賛の「老なりし鵜飼ことしは見えぬかな」の「句(発句)」に対して、大きな魚籠と数匹の鮎を描いて(俳諧の付け合いでは「物付(ものづけ)=言葉尻を捉える付け方」)、この「老なりし・鵜飼」の「老なりし」の、この句の主題に対する、何らの「余情」も感じられないというのが、蕪村の酷評した、その主たるものなのであろう。

 こういう蕪村の特訓を受けて、月渓の俳画というのは、見事に開花して行く。
次に掲げる蕪村の書簡(芭蕉の時雨の句に関する書簡)に付した呉春(月渓)の「窓辺の蕪村(像)」ほど、「憂愁なる詩人・嚢道人蕪村」その人の風姿を伝えるものを知らない。

蕪村像.jpg

 「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨の句などに関する書簡)=『蕪村全集五 書簡』所収「口絵・書簡三五一」

蕪村の花押(その七の二)

蕪村像.jpg

「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨忌などに関する書簡)=『蕪村全集五 書簡』所収「口絵・書簡三五一」

 上記の「窓辺の蕪村(像)」の軸物は、上段が蕪村の書簡で、その書簡の下に、月渓(呉春)が「窓辺の宗匠頭巾の人物」を描いて、それを合作の軸物仕立てにしたものである。  
 この下段の月渓(呉春)の画の左下に、「なかばやぶれたれども夜半翁消そこ(消息=せうそこ)うたがひなし。むかしがほなるひとを写して真蹟の証とする 月渓 印 印 」と、月渓(呉春)の証文が記されている。

 上段の蕪村の書簡(天明元年か二年十月十三日、無宛名)は、次のとおりである。

   早速相達申度候(さっそくあひたっしまうしたくさうらふ)
 昨十二日は、湖柳会主にて洛東ばせを(芭蕉)菴にてはいかい(俳諧)有之候。扨
 もばせを庵山中の事故(ゆゑ)、百年も経(ふ)りたるごとく寂(さ)びまさり、殊勝な
 る事に候。どふ(う)ぞ御上京、御らん(覧)可被成(なさるべく)候。
  其日(そのひ)の句
 窓の人のむかし(昔)がほ(顔)なる時雨哉
  探題
  初雪 納豆汁 びわ(は)の花
 雪やけさ(今朝)小野の里人腰かけよ
  納豆、びは(枇杷)はわすれ(忘れ)候
 明日は真如堂丹楓(紅葉したカエデ)、佳棠、金篁など同携いたし候。又いかなる催(も
 よほし)二(に)や、無覚束(おぼつかなく)候。金篁只今にて平九が一旦那と相見え
 候。平九も甚(はなはだ)よろこび申(まうす)事に候。平九も毎々貴子をなつかしが
 り申候。いとま(暇)もあらば、ちよと立帰りニ(に)御安否御尋(たづね)申度(ま
 うしたく)候。しほらしき男にて。かしく かしく かしく

 この蕪村書簡に出てくる「湖柳・佳棠・金篁・平九」は蕪村門あるいは蕪村と親しい俳人達である。また、この書簡の冒頭の「昨十二日は」の「十二日」は、芭蕉の命日の、「十月(陰暦)十二日」を指しており、この芭蕉の命日は、「芭蕉忌・時雨忌・翁忌・桃青忌」と呼ばれ、俳諧興行では神聖なる初冬の季題(季語)となっている。

 この書簡は、蕪村の「窓の人のむかしがほなる時雨哉」を発句として、「はいかい(俳諧)有之候」と歌仙が巻かれたのであろう。この発句の「むかしがほ(昔顔)」は、当然のことながら、俳聖芭蕉その人の面影を宿しているということになる。

 世にふるは苦しきものを槙の屋にやすくも過ぐる初時雨 二条院讃岐 『新古今・冬』
 世にふるもさらに時雨のやどり哉           宗祇     連歌発句
 世にふるもさらに宗祇のやどり哉           芭蕉    『虚栗』

 この芭蕉の句は、天和三年(一六八三)、三十九歳の時のものである。この芭蕉の句には、宗祇の句の「時雨」が抜け落ちている。この談林俳諧の技法の「抜け」が、この句の俳諧化である。その換骨奪胎の知的操作の中に、新古今以来の「時雨の宿りの無常観」を詠出している。

 旅人と我が名呼ばれん初時雨   芭蕉 『笈の小文』

 貞享四年(一六八七)、芭蕉、四十四歳の句である。「笈の小文」の出立吟。時雨に濡れるとは詩的伝統の洗礼を受けることであり、そして、それは漂泊の詩人の系譜に自らを繋ぎとめる所作以外の何ものでもない。

 初時雨猿も小蓑を欲しげなり   芭蕉 『猿蓑』

 元禄二年(一六八九)、芭蕉、四十六歳の句。「蕉風の古今集」と称せられる、俳諧七部集の第五集『猿蓑』の巻頭の句である。この句を筆頭に、その『猿蓑』巻一の「冬」は十三句の蕉門の面々の句が続く。まさに、「猿蓑は新風の始め、時雨はこの集の眉目(美目)」なのである(『去来抄』)。

 芭蕉の「時雨」の発句は、生涯に十八句と決して多いものでないが、その殆どが芭蕉のエポック的な句であり、それが故に、「時雨忌」は「芭蕉忌」の別称の位置を占めることになる。

 楠の根を静(しづか)にぬらすしぐれ哉     蕪村 (明和五年・『蕪村句集』)
 時雨(しぐる)るや蓑買(かふ)人のまことより 蕪村 (明和七年・『蕪村句集』)
 時雨(しぐる)るや我も古人の夜に似たる    蕪村 (安永二年・『蕪村句集』)
 老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな   蕪村 (安永三年・大魯宛て書簡)
 半江(はんこう)の斜日片雲の時雨哉      蕪村 (天明二年・青似宛て書簡)

 蕪村の「時雨」の句は、六十七句が『蕪村全集一 発句』に収載されている。そして、それらの句の多くは、芭蕉の句に由来するものと解して差し支えなかろう。
 蕪村は、典型的な芭蕉崇拝者であり、安永三年(一七七四)八月に執筆した『芭蕉翁付合集』(序)で、「三日翁(芭蕉)の句を唱(とな)へざれば、口むばら(茨)を生ずべし」と、そのひたむきな芭蕉崇拝の念を記している。
 この蕪村の芭蕉崇拝の念は、安永五年(一七七六)、蕪村、六十一歳の時に、洛東金福寺内に芭蕉庵の再興という形で結実して来る。
 この冒頭の「「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨忌などに関する書簡)ですると、上段の『蕪村の書簡』の「窓の人のむかし(昔)がほ(顔)なる時雨哉」の「昔顔」は芭蕉の面影なのだが、下段の月渓(呉春)が描く「窓の人」は、芭蕉を偲んでいる蕪村その人なのである。
 そして、その「芭蕉を偲んでいる蕪村」は窓辺にあって、外を眺めている。その眺めているのは、「時雨」なのである。この「時雨」を、芭蕉の無季の句の「世にふるもさらに宗祇のやどり哉」の「抜け」(省略する・書かない・描かない)としているところに、「芭蕉→蕪村→月渓(呉春)」の、「漂泊の詩人」の系譜に連なる詩的伝統が息づいているのである。
 蕪村の俳画の大作にして傑作画は、「画・俳・書」の三位一体を見事に結実した『奥の細道屏風図』(「山形県立美術館」蔵など)・『奥の細道画巻』(「京都国立博物館」蔵など)を今に目にすることが出来るが、その蕪村俳画の伝統は、下記の「月渓筆 芭蕉幻住庵記画賛」(双幅 紙本墨画 各一二六×五二・七cm 逸翁美術館蔵 天明六年=一七九四作)で、その一端を見ることが出来る。

幻住庵記.jpg

「月渓筆 芭蕉幻住庵記画賛」(双幅 紙本墨画 各一二六×五二・七cm 逸翁美術館蔵 天明六年=一七九四作)=(『呉春(逸翁美術館・昭和五七刊)』所収)



蕪村の花押(その一~その四)

蕪村の花押

(その一)

書簡A.png

(書簡A)

 上記の書簡は、宝暦七年(一七五七)、蕪村、四十二歳時の、丹後の宮津(現・京都府宮津市)から京都の知友・三宅嘯山宛てに、丹後滞在中の近況を報じたものの後半の部分で、その文面は次のとおりである。

「俳諧も折々仕候。当地は東花坊が遺風に化し候て、みの・おはりなどの俳風にておもしろからず候。一両人巧者も在之候。(瓢箪図)先生、嘸老衰いたされ候半存候。宜被仰達可被下候。詩は折々仕候。帰京之節可及面談候。御家内宜奉願候。頓首 卯月六日 蕪村(花押) 嘯山公 」
(訳「俳諧も折々やっています。当地は各務支考の影響に染まっていて、美濃・尾張の俳風で面白くありません。一・二人巧者もおります。瓢箪先生(望月宋屋)、さぞかし、御齢を召されたことと思います。宜しくお伝え下さい。漢詩も時折作っています。京に帰りましたら早速お邪魔したいと思います。奥様によろしく。頓首 四月七日 蕪村 三宅嘯山公」)

 この書簡の宛名の三宅嘯山は、京で質商を営み、仁和寺や青蓮院宮の侍講をしていた。漢詩と中国白話(現代中国語)に通じた多才の人で、享保三年(一七一八)の生まれ、蕪村よりも二歳年下である。
蕉門俳人木節の子孫を娶ったのを機に俳諧を学び、蕪村の早野巴人門の兄弟子に当たる宋屋門に入り、後に点者(宗匠・指導者)の一人となっている。別号に葎亭など、その『俳諧古選』『俳諧新選』などの編著によって、京俳壇等に大きく貢献した一人である。
 蕪村と嘯山との出会いは、宝暦元年(一七五一)に蕪村が上京し、その秋の頃、宋屋と歌仙を巻いており(『杖の土(宋屋編)』)、その上京して間もない頃と思われる。爾来、この二人は、「錦繍の交はりにて常に席を同じうす」(『四季発句集(百池自筆)』)と肝胆相照らす知友の関係を結ぶこととなる。
 この書簡中の、(瓢箪図)先生こと、望月宋屋は、師(早野巴人)を同じくする画俳二道を歩む蕪村を高く評価しており、巴人没後の延享二年(一七四五)の奥羽行脚の際、その途次で結城に立ち寄り蕪村に会おうとしたが、蕪村が不在で出会いは叶わなかった。翌年の帰途に再び結城に立ち寄ったが、またしても、蕪村は不在で、江戸の増上寺辺りに居るということで、江戸でも探したが、そこでも二人の出会いはなかった。
 それから五年の後の二人の初めての出会いである。宝暦元年(一七五一)の蕪村上洛の大きな理由の一つは、この巴人門の最右翼の俳人宋屋を頼ってのものであったのであろう。
 宋屋は、蕪村(前号・宰鳥)について、その『杖の土』で次のように記している。

「宰鳥が日頃の文通ゆかしきに、結城・下館にてもたづね遭はず、赤鯉に聞くに、住所は増上寺の裏門とかや。馬に鞭して僕どもここかしこ求むるに終に尋ねず。甲斐なく芝明神を拝して品川へ出る。後に蕪村と変名し予が草庵へ尋ね登りて対顔年を重ねて花洛に遊ぶも因縁なりけらし。」
(訳「宰鳥(蕪村)の日頃の便りに心引かれるものがあり、結城・下館に行ったおり訪ねたが遭えず、赤鯉に聞いたところ、住所は増上寺の裏門とか。馬を走らせて下僕に捜させたが終に遭えなかった。止む無く、芝の大神宮に参拝し品川を後にした。後に、蕪村と名を改めて、私の草庵を訪ねて来て初めて対顔した。そのまま年を重ねて京都に遊歴しているのも何かの縁であろう。」)

 この宋屋の文面の「日頃の文通ゆかしきに」からして、巴人が在世中の頃から巴人と京都の巴人門との連絡役を蕪村が勤めていて、そんなことが、この両者を取り持つ機縁となっていたのであろう。また、「年を重ねて花洛に遊ぶ」ということは、当時の蕪村が京都に永住するのかどうかは不確かなことで、事実、上洛して三年足らずの、宝暦四年(一七五四)には丹後に赴き、この書簡を送る頃までの三年余を丹後に滞在している。  
 ここで、上記の嘯山宛ての書簡で注目すべき一つとして、蕪村と署名して、その後に、
蕪村の終生の花押となる、何やら、槌のような形をしたものが書かれていることである。
 この花押は、蕪村の十年余に及ぶ関東放浪時代には見られない。おそらく、この書簡が出された丹後時代から使い始めたもののように思われる。
蕪村の落款は、関東放浪時代は無款のものが多いが、「子漢・浪華四明・浪華長堤四明山人・霜蕪村」、印章は「四明山人・朝滄・渓漢仲」などで、これが丹後時代になると、落款は、主として、「朝滄(朝滄子・四明朝滄・洛東閑人朝滄子)」が用いられ、その他に、「嚢道人(囊道人蕪村)・魚君・孟冥」、印章は「朝滄・四明山人・囊道・馬秊」などが用いられている。
これらの落款・印章の「四明」は、比叡山の四明ヶ岳に因んでのもので、当時は蕪村の故郷の摂津(大阪)の毛馬の堤から比叡山が望めたということで、「浪華長堤」(毛馬長堤)と共に望郷の思いを託したものなのであろう。
 そして、この「朝滄」は、蕪村の師筋に当たる宝井其角の畏友・英一蝶(初号・朝湖、俳号・暁雲)の「狩野派風の町絵師」として活躍していた頃の号「朝湖」に由来するものなのであろう。
 宝暦元年(一七五一)に上洛して間もなく、蕪村は「嚢道人」という号を使い始める。丹後時代の大画面の屏風絵(十三点)中、六曲半双「田楽茶屋図」は、英一蝶流の町狩野系統の近世的な軽妙な風俗画として知られているが、落款は「嚢道人蕪村」、印章は「朝滄・四明山人」である。
 上記書簡中の花押は、「囊道人蕪村」の「蕪村」の「村」から作った花押という見解(『俳画の美(岡田利兵衛)』があり、この「囊」は、蕪村が上洛して「東山麓に卜居」していた「洛東東山の知恩院袋町」(池大雅の生家の所在地)の「袋」に因んでのものと、その見解に続けられている。
 この「蕪村」の「村」から作った花押という見解(岡田利兵衛)に対して、「槌」を図案化したものという見解(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)がある。この「槌」を図案化したという見解を裏付ける記述は見られないが、上洛前の寛延年間(一七四八~一七五一)、江戸在住の頃の無宛名(結城の早見桃彦か下館の中村風篁宛て)の書簡(書簡B)に、「槌」を描いたものがあり、それらと関係のある花押という理解なのかも知れない。
そもそも、蕪村が俳人そして画人(挿絵画家)として初めて世に登場するのは、元文三年(一七三八)、二十三歳時の絵俳書『卯月庭訓(豊島露月他編)』に於いてで、そこに「鎌倉誂物」と前書きのある「尼寺や十夜に届く鬢葛」の発句を記した自画賛が収められている。それは立て膝で手紙を読む洗い髪姿の女性像で、そこに「宰町自画」と、蕪村の最初期の号「宰町」で登場する。
この『卯月庭訓』の編者・豊島露月は、蕪村の師・早野巴人と親交のあった俳人の一人で、観世流謡師匠でもあり、その絵俳書の刊行は、享保七年(一七二二)の『俳度曲(はいどぶり)』から延享二年(一七四五)の『宝の槌』まで十一点に及んでいる。
その露月編の絵俳書シリーズの一番目を飾る『俳度曲』は、謡曲名を題として、それに画と句を配したもので、そのトップを飾るのは、今に浮世絵師として名高い鳥居清倍(きよすえ)の画に、蕉風俳諧復興運動の先駆けとなる『五色墨』のメンバーの一人・松木珪琳(けいりん)の蓮之(れんし)の号での句が添えられている。それに続く二番目の画は、英一蝶(二世か?一世英一蝶は蕪村の師筋に当たる其角の無二の知友)のもので、この一蝶画に、『続江戸筏』の編者の石川壺月の句が添えられている。
これらの画人の画には、落款又は花押が施されており、おそらく、蕪村の、槌を図案化したような花押は、この露月の絵俳書のシリーズと深く関係しているように思われる。  
ちなみに、蕪村が宰町の号で登場する『卯月庭訓』は、このシリーズの九番目にあたるもので、この蕪村の自画賛には花押は押されていない。この頃の蕪村(宰町)は全くのアマチュア画家で、落款や花押を施すような存在ではなかったのであろう。

書簡B.png

(書簡B)

ここで、上記の、寛延年間(一七四八~一七五一)、蕪村が江戸在住の頃の無宛名(結城の早見桃彦か下館の中村風篁宛て)の書簡(書簡B)の文面と訳を添えて置きたい。

「快晴に相成候。弥御壮栄奉祝候。誠に先夜はいろいろ相願候処、御深重之思辱仕合奉存候。何分宜敷奉候。然ば其節御約束之(槌の図)幷大黒天、旧年甲子夜子刻に相認候内、槌は多認候得共、大黒天は三四枚計御座候。御笑留可被下候。伊勢御下向は未に候哉。定て御用多と奉存候得共、御寸暇も御座候はば御光栄奉待候。今日大安日に候得ば、右之画為福差上候。楠公も一両日に出来仕候。先は右申上度、余は拝眉万々可申上候。早々結尾
二月廿二日  蕪村  二白 御存之義奉存候得共、先刻岡田兄御帰□□□ 」
(訳「快晴に相成りました。いよいよ御壮栄のこととお祝い申し上げます。誠に先夜は色々お願いをいたしましたところ、御深重なおぼしめしを頂き、かたじけなく有難うございました。今日は大安日ですので、右の画(槌)を福があるということで差し上げます。先ずは左様なことを申し上げ、その他お会いした時重々申し上げたいと存じます。では早々 二月廿二日 蕪村 追伸 御存知のこととは存じますが、先刻岡田兄御帰□□□) 

その二)


絵図A.png

(絵図A=『はなしあいて』所収「蕪村山水略図」)

 この「蕪村山水略図」は、『はなしあいて(宋是編)』下巻の冒頭の宋是(高井几圭)の「序」の次に掲載されているもので、「山が三つ中央にあり、その麓に木立と人家、その手前に一本の線による川が描かれている」、何とも単純な俳画の見本のような省筆画の極致という趣である。そして、真ん中の山の右端に、蕪村と署名し、その下に、蕪村の花押が書かれている。
 この『はなしあいて(噺相手)』は、宝暦七年(一七五七)、宋是(几圭)が六十九歳で行った文台開きと薙髪をかねて祝した記念の賀集で、几圭は京都の夜半亭門(巴人門)の宋屋と双璧をなす重鎮で、後に夜半亭二世となる蕪村の承継者、夜半亭三世几董の父である。
 宝暦元年(一七五一)、三十六歳の時に、蕪村は関東・東北歴行の生活に終止符を打ち上洛した。上洛した理由などについての直接的な記述はないが、寛保二年(一七四二)六月六日の宋阿(巴人)が没して、江戸の夜半亭一門は消滅し、その大半は馬場存義一門に吸収された(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)ことと大きく関係して来よう。
 そういう環境下にあって、京都の夜半亭一門は、望月宋屋と高井几圭を両翼として、宋阿(巴人)が京都に移住して当時そのままに健在であった。また、一時江戸に住んでいた「莫逆の友」の毛越(江戸在住時代の号は雪尾)など知友の多くが京都とその周辺を活動の拠点としていた。
 これらの京都の夜半亭一門並びにその影響下にある知友達のもとにあって、心機一転の再スタートを切りたいということが、蕪村上洛の大きな理由であったことであろう。これらのことについて、宝暦五年(一七五五)に刊行された、宋阿(巴人)十三回忌追善俳諧遺句集『夜半亭発句帖(雁宕ら編)』に寄せた蕪村の「跋」は次のとおりである。

「阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探て一羽烏といふ文作らんとせしもいたづらにして歴行十年の后、飄々として西に去んとする時、雁宕が離別の辞に曰、再会興宴の月に芋を喰事を期せず、倶に乾坤を吸べきと。(以下略)」
(訳「師の夜半亭宋阿(巴人)が亡くなった時、その夜半亭の空屋で、師の遺稿をまとめて一羽烏という遺稿集を作ろうとしたが、何もすることが出来ずに、ついつい関東・東北を歴行すること十年の後に、あてどなく西帰の上洛をしようとした際の、兄事する雁宕の離別の言葉は、「今度再開して宴を共にする時には、月を見て芋を喰らうような風雅のことではなく、お互いに、天地を賭しての勝負をしたことなどを話題にしたい」ということでした。)

 この蕪村の「跋」に出て来る、「雁宕が離別の辞」は、東西の夜半亭一門の実質上のまとめ役の、当時の雁宕の姿を如実に著わしている。雁宕は、後に、東日本に於ける俳壇の大勢を動かしている雪中庵(嵐雪系)三世を継いでいる大島蓼太に対し、江戸の夜半亭一門の、其角・巴人・存義に連なる江戸座(其角・沾徳系)の一角を代表して、延享二年(一七四五)に刊行された『江戸廿歌仙(延享二十歌仙)』)に端を発した長年に亘っての論争を展開する。
 こういう雁宕の俳諧一筋の精進に比して、蕪村の関心事は画(文人画・俳画等)と俳(俳諧)との二道で、その二道のうち、主たる関心事は画道にあり、俳諧はあくまでも余技的な従たるものというのが真相であろう。
 そして、蕪村が上洛をした真の狙いは、当時、京都に居を構え、文人画の先駆者の一人で、且つ、中国古典の教養を幅広く持ち、さらに、各務支考系の俳人としても名を馳せている彭城百川の膝下で、画人としての再スタートを期したいということにあったように理解できるのである。
 しかし、百川は、蕪村が上洛した宝暦元年(一七五一)に、当時舶載された中国画人を集大成した『元明画人考』を刊行し、さらに、多武峰談山神社の慈門院に一群の障壁画(国の重要文化財)を描き、それが最期の頂点のままにして、その翌年の八月二十五日に、その五十六年の生涯を閉じるのである。
 即ち、蕪村と百川とが、この宝暦元年(蕪村上洛=秋)から同二年八月(百川没)の間に、この両者の対面があったのかどうかは、甚だ曖昧模糊として居り、未だに謎のまた謎という状態である(否定的見解=『潁原退蔵著作集第十三巻』所収「蕪村と百川)」、肯定的見解=『蕪村の遠近法(清水孝之著)』所収「百川から蕪村へ」)。
 百川は、元禄十年(一六九七)、名古屋本町の薬種商八仙堂の生まれとされているが(婿養子ともいわれている)、その前半生は明らかではない。本姓は榊原、通称を土佐屋平八郎というが、自ら彭城を名乗った。名は真淵、字が百川、号に蓬洲、僊観、八僊、八仙堂。中国風に彭百川と称した。
 俳諧では各務支考に就き、俳号は、始め松角、後に昇角と号した。京都に出て活動を始めたのは、享保十三年(一七二八)、三十二歳の頃からで、その生涯は、伊勢・大坂・金沢・岡山・高知・長崎・大和など、画業を主とし、俳諧を従としての旅を重ね、その晩年は京都で過ごすものであった。
 百川は町人出身の職業画家で、自ら「売画自給」と称しており、同じく文人画の先駆者とされる祇園南海(紀州藩儒)や柳澤淇園(大和郡山藩士)の、語学・文学・学術・諸芸に長け、中国趣味の風雅の中で画道に精進するという、所謂、本来の士大夫による「文人画」の世界ではなく、その「文人画」を職業として描く「文人画派の絵画」の世界での創作活動であったということも言えよう(『文人画の鑑賞基礎知識(佐々木丞平・佐々木正子著)』)。
 日本文人画を大成したとされる池大雅も与謝蕪村も、その出身からすると町人出身の百川と同じような環境下にあっての「文人画派の画家」であり、この二人のうち、大雅は、文人画の筆法や画面構成のスタイルを独自なものとして大成したとするならば、蕪村は詩画一体を目指すという文人画の精神を実現した、まさに画俳二道を究めた達人ということになろう。
 そして、その蕪村が目指した画俳二道を先駆的に歩んでいる、その人こそ百川ということになる。そして、蕪村が上洛した宝暦元年(一七五一)には、百川は京都に在住しており、当時、蕪村より七歳年下の大雅は、『池大雅家譜(蒹葭堂竹居編)』によると百川と面識があり、延享二年(一七四五)には、蕪村よりも三歳年下の建部綾足(当時の号・葛鼠)が、百川を訪ねて上洛し、「百川に俳諧ばかりでなく生きる姿勢の上でも大きく影響」を受け、俳諧を百川の指導により、野坡門から伊勢派に転向したという(『彩の人建部彩足(玉城司著)』)。
 綾足も、俳人・絵師・小説家・国学者等々多才の人であったが、百川は、「詩・文・書・画・俳諧」(『本朝八仙集』獅子房=支考序)に亘る「和漢に多芸の優人」(『和漢文操』二見文台絵序)と、そのマルチニストぶりは、蕉門随一の論客家の獅子房こと支考が、後に、両者は諍いを起こすことになるが、絶賛している。
 その本業である絵画のレパートリーも、漢画(中国の「宋・元・明」の山水・花鳥・人物等多彩に亘る絵画の摂取)、和画(狩野派・土佐派・英派等)、和洋化(長崎風=黄檗派・南蘋派・長崎版画等の摂取、その和洋化)、俳画(詩書画一体の俳画の先駆的な創作)、挿絵(俳書・絵俳書に描かれた絵)、俳書の装画などのデザイン(絵文字・扉絵など俳書のデザインと編纂)など多岐にわたっている。
 この百川の多岐・多様な世界について、「自己の創造に必要なものは何でも画嚢に取り入れてしまう」、その「雑食性」こそ、百川の大きな特色であるとしている(『知られざる南画家百川(名古屋市博物館編)』所収「百川と初期南画(河野元昭稿)」)。
 まさに、この百川の「雑食性」とその絵画のレパートリーの多岐性の世界は、まさに、蕪村の世界と軌を一にするものと言って差し支えなかろう。そして、百川の先駆的な土台の上に立って、その未完・未消化の世界を完成した人こそ、それが蕪村であったという思いを深くする。

さて、冒頭に掲げた『はなしあいて』所収の「蕪村山水略図」(絵図A)は、これは上記のレパートリーの「挿絵」の世界のものなのであるが、このシンプル化の極致のような省筆画の世界の先駆的な試みは、百川が既に様々に実践して居り、蕪村は、その百川の省筆の挿絵から多大な示唆を受けて、それをアレンジしていると言っても過言でなかろう(清水『前掲書』・「国文学(1996/12 41巻14号)」所収「挿絵画家蕪村(雲末末雄稿)」、この「挿絵画家蕪村」の中で、次の絵図B・Cとの類似性を指摘している)。

絵図B.png

(絵図B=「百川・杜鵑図)        

絵図C.png

(絵図C=「百川・旭日雪景図」)

 この絵図B=「百川・杜鵑図」と絵図C=「百川・旭日雪景図」は『俳諧節文集(何尾亭童平編・享保十八年=一七三五)』所収で百川の署名はなされていないが、その扉文字や「花鳥風月」のデザイン文字が百川のものであり、この絵図(A・B)は、百川作であることは間違いないとされている(雲英『前掲書』・田中『前掲書』)。
 ここで、改めて、上記絵図Aの「蕪村山水図」は、宝暦七年(一七五七)の、蕪村、四十二歳の時の作で、百川の作とされている、上記B「杜鵑図」と上記C「旭日雪景図」は、享保十八年(一七三三)、百川、三十七歳の作である。
 百川は、享保十四年(一七二九)に、『俳諧ながら川(嘯鳥舎有琴編)』に、「四季鵜飼図」の四枚の挿絵を載せているが、その「春図」(絵図D)と「秋図」(絵図E)は次のとおりで、
いかに、「杜鵑図」(絵図B)・「旭日雪景図」(絵図C)が、単純化・省筆化されているかが、感知される。

絵図D.png

(絵図D=百川・春図)      

絵図E.png

(絵図E=百川・秋図)

 先に触れた、蕪村が俳人そして画人(挿絵画家)として初めて世に登場する、元文三年(一七三八)、二十三歳時の絵俳書『卯月庭訓(豊島露月他編)』に掲載されている、「鎌倉誂物」(絵図F)と冒頭に掲げた、宝暦七年(一七五七)の、蕪村四十二歳の時の「蕪村山水図」(絵図A)とを比較すると、いかに、蕪村が百川から多くのものを摂取して行ったかの、その一端が明らかとなって来る。
 そして、この冒頭の「蕪村山水図」(絵図A)の署名と花押が、この山水図の絵柄の一部を構成していて、その署名は木立、そして、花押は人家のような趣を呈しているかが明瞭となって来る。

絵図F.png

   (絵図F=宰町(蕪村)自画賛・鎌倉誂物)

蕪村の花押(その三)

蕪村静御前.jpg

       (絵図G=蕪村筆「静御前図自画賛」)

 2015年3月18日~5月10日までサントリー美術館で開催された「生誕三百年同い年の天才絵師 若冲と蕪村」(以下『若冲と蕪村展図録』)で出品されたものの一つである。その「作品解説(21)」は次のとおりである。

「 与謝蕪村筆 紙本墨画 一幅 江戸時代 十八世紀 三二・一×四一・一
 立烏帽子を被って、からだの前にもつ女性を簡単な筆づかいで描く。この女性は、兄頼朝と対立した源義経とともに雪の舞う吉野を旅した静御前の旅姿でる。画面上の空白に三行にわたって大きな字で「雪の日やしづかといへる白拍子」と書かれている。静御前を暗示する「しづか」を発句のなかに詠むことで、この女性が静御前であることを暗示しているところは、蕪村の俳画としては説明的である。しかし、「白拍子」と体言止めにすることで、この後義経と別れたあと捕えられ、頼朝の前で踊ることになる静の運命を暗示させる点は、晩年の俳画の名品に通底している。画面左に花押があり、印章は押されていない。丹後地方の旧家に伝わっており、確認できる蕪村の俳画ではもっとも早い肉筆の作品。 」

 蕪村の丹後滞在は、宝暦四年(一七五四)の三十九歳から宝暦七年(一七五七)の四十一歳の、凡そ三年間ということになる。この丹後時代は、蕪村は多くの絵を残しているが、特に注目すべきは屏風絵で、六曲一双・六曲半双などの大作が十点以上も今に遺っている。
このうち、和画系統のものは、「静舞図」(六曲半双、落款「洛東閑人朝滄子描)、「田楽茶屋図」(六曲半双、落款「囊道人蕪村」)などで、漢画系統のものが圧倒的に多い。
 この「静舞図」は、画面の右に、静と侍者、左に、鼓を打つ工藤祐経、笛を吹く僧形の男、大拍子を扇子で打つ畠山重忠の、五人の人物が向かい合う構図である。小川破笠など大和絵に接近した江戸狩野派の影響を色濃く宿しているという(『蕪村 その二つ旅図録(朝日新聞社)』)。この静の緋袴など、関東歴行時代(結城時代)に下館で描いた「追羽根図」(杉戸絵四面、無落款)と同一傾向の作品であろう。
 冒頭に掲げた「静御前自画賛」(絵図G)は、立烏帽子を被っての旅姿の静御前で、同じ丹後時代の作でも、「静舞図」とは異質の世界のものである。どちらかというと、蕪村最初期(宰町時代)の、刊本の挿絵「宰町(蕪村)自画賛・鎌倉誂物」(絵図G)の女性像(目・鼻・口等)と驚くほど類似している。
 この「静御前自画賛」(絵図G)は、淡彩による丁寧の描写など、「静舞図」よりも、英一蝶の影響が指摘されている、次の「田楽茶屋図屏風」(絵図F)などと同一系統のものと思われる。

田楽茶屋図屏風A.jpg

        (絵図F=蕪村筆「田楽茶屋図屏風」)

 『若冲と蕪村展図録』の「田楽茶屋図屏風」・「作品解説(23)」は、次のとおりである。

「与謝蕪村筆 紙本墨画淡彩 六曲一双 江戸時代 十八世紀 一二八・〇×二八八・六
蕪村の丹後時代を代表する作品。茶屋の店先と、その前を往来する人々を描く。本図の人物描写については、元禄時代を中心に活躍した絵師・英一蝶(一六五二~一七二四)や大津絵からの影響が指摘されてきたが、具体的には、英一蝶筆「故事人物図巻」のうち「田楽を買い食いする奴たち」(リンデン民族博物館)のなかに、本図の田楽を焼く女、および床几に座り田楽を頬張る男と同じポーズをとる人物が認められる。「故事人物図巻」は一蝶が弟子の教育のために制作した絵手本であり、蕪村がこのような絵手本のひとつか、あるいは英派の弟子が描いた模本などを目にし、図様に取り入れたと考えられる。また、画面右端で扇を振る男については、一蝶筆「田園風俗図屏風」(フリーア美術館)に似た人物が描かれており、この一蝶の屏風を参考にした彭城百川の「田植図」(東京国立博物館)が残っている。蕪村は「天橋立図」(作品27)の賛において、自らを「嚢道人蕪村」と称し、絵画・俳諧の先達である百川について言及しており、同じ「嚢道人蕪村」の署名を記す本屏風の制作過程においても「田植図」のような百川画を意識された可能性がある。一方、本図の図様については、大岡春卜(1680~1763)『和漢名画苑』(寛延三年=一七五〇刊)の「土佐光純筆 ぎおん会」図を参照としたとする分析があり(尾形仂『蕪村の世界』岩波書店、一九九三年)、烏帽子や鎧など、仮装的な扮装の人物が見られることから、祭礼後の場面を描いたとも推測されている。樹木や人物を描く線はまだ初々しいが、淡彩による丁寧な施彩や、人々の豊かな表情など、蕪村が作品と真摯に向き合っている様子が見て取れる。なお、「蕪村」の署名は主に俳画に用いられたもので、本図に蕪村の俳画の萌芽を見る見解がある。印章は「朝滄」(白文方印)、「四明山人」(朱文方印)。」

 この「作品解説(23)」で注目すべきことは、蕪村のみならず百川もまた、英一蝶の影響を色濃く受けているということである。ここで紹介されている、百川の「田植図」(東京国立博物館)は、次のとおりである。

百川・田植図b.jpg

          (絵図G=百川筆「田植図(部分図)」)

 この百川の「田植図」は、蕪村に大きな影響を与えた作品のように思われる。それは、先に紹介した、高井几圭(前号=宋是)の文台開きと薙髪を兼ねて祝した記念集『はなしあいて』(宋是=几圭編集)に、蕪村は挿絵一葉(絵図A)と発句を二句寄せている。
その挿絵(絵図A)は、百川の省筆画(草画)の影響を大きく受けていることについては、先に触れた。ここで、その発句の二句について触れて置きたい。

 離(さ)別(られ)れたる身を踏(ふん)込(ごん)で田植哉    蕪村(『はなしあいて(下)』)
 とかくして一(いち)把(は)に折(おり)ぬ女郎花        ゝ (同) 

 この蕪村の発句二句の前に「夏秋」とあり、一句目夏の句、二句目は秋の句ということになろう。しかし、この二句とも、嘱目の叙景句ではなく、挨拶性と虚構性の強い人事句ということになろう。
 挨拶性と虚構性の強い人事句というのは、生涯に亘って蕪村が最も得意とした領域でもあった。挨拶性というのは、他(人・所・物等)に対する問い掛けであり、虚構性というのは、現実の体験でないものを、あたかも自分の実体験の如くに表現するということを意味する。
上記の二句ですると、一句目の「田植」の句は、当時の蕪村の最も多くの関心事であった、画・俳二道の先達者、百川とその傑作画「田植図」に寄せる蕪村の思い入れの表明である。そして、その思い入れ(挨拶性)が、「田植」(季題)・「田植え女」・「離(さ)別(られ)れたる身」(夫に離縁された身)・それをさらに「踏(ふん)込(ごん)で」という口語的な表現で具象化して、全体として一篇のドラマ(物語=虚構性の創作)として結実することになる。
 二句目の「女郎花」の句は、能楽の太鼓方几圭と能楽の演目「女郎花」に対する挨拶(問い掛け)と、几圭・蕪村の共通の俳諧の師である夜半亭宋阿(巴人)の「女郎花折や観世が駕のうち」(『夜半亭発句帖』)の延長線上のドラマ(物語=虚構性の創作)化ということになろう。
 ここでは、百川の「田植図」が、その背景となっているような一句目に注目をしたいのである。
この百川の「田植図」に触発されたような、この一句は、その「実」と「虚」との「虚構性」の彼方に、蕪村の「実」たる原風景の一端(丹後の生まれとの口碑のある薄幸な亡母のイメージなど)を物語っているような、そんな雰囲気が、後の、蕪村六十二歳の時の回想録『新花つみ』(安永六年=一七七六刊)の、異常なまでの、次の「田植」の句に関連させると、浮かび上がって来る・

 さみだれの田ごとの闇に成(なり)にけり         (『新花つみ』発句一〇五)
 水深き深田に苗(なえ)のみどりかな           (『同』同一二六)
 けふはとて娵(よめ)も出(いで)たつ田植哉        (『同』同一二七)
 泊りがけの伯母(おば)もむれつゝ田うゑ哉        (『同』同一二八)
 をそ(獺)の住む水も田に引ク早苗(さなえ)哉      (『同』同一二九)
 参(み)河(かわ)(三河)なる八橋(やばし)もちかき田植かな(『同』同一三〇)
 午(うま)の貝田うた音なく成(なり)にけり        (『同』同一三二)
 をそ(獺)を打(うち)し翁(おきな)を誘ふ田うゑかな   (『同』同一三三)
 鯰(なまず)得てもどる田植の男哉            (『同』同一三五)
葉ざくらの下陰(したかげ)たどる田草取(とり)     (『同』同一三六)
早乙女やつげのをぐしはさゝで来(こ)し       (『同』同一三七)

 もとより、これらの、安永六年(一七七六)、蕪村六十二歳時の『新花つみ』所収の句は、其角の亡母追善集『花摘』を念頭においての、蕪村の亡母五十回忌追善のために発起されたものとされている(『大磯・前掲書』)。
 そもそも、蕪村の母の丹後出身説は、次の二つの説に由来されている。その一は、京都金福寺に建立されている「蕪村翁碑」の「幼養於母氏生家(幼クシテ母氏の生家ニ養ワル)、生家在丹後国与謝邨(生家ハ丹後国与謝邨ニ在リ)、因更謝(因ッテ謝と更タム)」の記述に因るものである。
 その二は、現在の京都府与謝郡加悦町地方の口碑に因るもので、その口碑は、「蕪村の母は丹後国与謝郡加悦の人で、名はげんといい、摂津国東成郡毛馬村(現在の大阪市都島区毛馬町)に奉公に出たが、主人の子を孕んで帰郷し蕪村を出産。その後蕪村を連れて宮津で再婚したが、蕪村は養父と衝突し、与謝村の真言宗の古刹、施薬寺の小僧となった。その母の墓が加悦町に現存している」というものである(『蕪村の丹後時代(谷口謙著)』)。
 この二つの説ともこれを裏付ける確証に乏しく、蕪村自身固く口を閉ざしているので、
どうにも謎のままであるというのが実状であろう。
しかし、上記の『新花つみ』に収載されている、蕪村の吐息のような、「田植」「早乙女」に関する句に接すると、その出生地は、蕪村自身が書簡に認めている「馬堤は毛馬塘(づつみ)也。即余が故園也」(安永六年二月二十三日付柳女・賀瑞宛書簡)の、大阪の淀川近郊の毛馬村としても、その母のイメージは丹後の与謝地方の口碑などと深い関わりがあるように思われて来る。
 そして、これらの『新花つみ』に収載されている「田植」「早乙女」の句の、はるか以前の、丹後宮津から帰洛した翌年の宝暦八年(一七五八)に出版された『はなしあいて』所収の上掲の句、「離別れたる身を踏込で田植哉」は、蕪村の心中に、この薄幸な亡母のイメージが深く宿っていたということを、どうしても拭い去ることが出来ないのである。
 ここで、改めて、冒頭の「静御前図自画賛」(絵図G)を見てみると、この「静御前」は、『平家物語』・『義経記』などに登場する悲劇のヒロインで、義経の子を宿しつつ、その義経討伐の令を下す兄・頼朝の面前で、鶴岡八幡宮の舞を奉ずるという伝承が、同時の頃に描かれた「静舞図」(紙本着色・六曲屏風一隻)である。
 この「静御前図自画賛」(絵図G)は、立烏帽子の旅姿で、その左端に、署名もなく、蕪村独特の「槌」又は「経巻」のような花押が描かれ、その花押の方に、静御前の視線が注がれているのは、静御前の将来を暗示しているような、そんな趣で無くもない。
 と同時に、この悲劇のヒロインの静御前に関する伝承は、上記の蕪村の母に関する口承と、これまた二重写しになることは、どうにも、避けられないような、そんなことも暗示しているように思えるのである。

蕪村の花押(その四)

蕪村 天橋立図.png

(絵図H=蕪村筆「天橋立図」)

 『若冲と蕪村展図録』のの「天橋立図」の「作品解説(27)」は、次のとおりである。

[ 与謝蕪村筆 紙本墨画 一幅 江戸時代 宝暦七年(一七五七) 八五・八×二七・八

画面上部に記された長文の賛によって、蕪村が宝暦四年(一七五四)に訪れ滞在していた丹後を、宝暦七年(一七五七)九月にいよいよ離れるにあたり、宮津の閑雲山真照寺で制作したことが判明する。真照寺には丹後滞在中に蕪村と親しく交流していた鷺十(一七一五~九〇)がおり、俳友でもあった彼のために揮毫されたのであろう。絵は、砂洲の上に松林が並ぶ簡略なもので、幅の広い刷毛を用いて一気に描かれた淡墨の砂洲の上に、淡墨で松林の幹を並べ、淡墨でリズミカルに松の葉叢を描いている。あたかも天橋立の一部を切り取って拡大したかのような風情である。
 上記の賛では、文人画家として俳諧師としても蕪村の先達であり、丹後にも滞在したことのある彭城百川と自らを対比させている。とくに百川の画風を「明風を慕ふ」と評するのに対し、自らの画風を「漢流に擬す」と位置づけている点が注目されよう。

  八僊観百川丹青をこのむで明風を慕ふ。嚢道人蕪村、画図をもてあそんで漢流に擬す。はた俳諧に遊むでともに蕉翁より糸ひきて、彼ハ蓮ニに出て蓮ニによらず。我は晋子にくミして晋子にならハず、されや竿頭に一歩すゝめて、落る処ハまゝの川なるべし。又俳諧に名あらむことをもとめざるも、同じおもむきなり鳧(けり)。されば百川いにしころ、この地にあそべる帰京の吟に、
はしだてを先にふらせて行秋ぞ
 わが今留別の句に、
せきれいの尾やはしだてをあと荷物
 かれは橋立を前駈して、六里の松の肩を揃へて平安の西にふりこみ、われははしだてを殿騎として洛城の東にかへる。ともに此道の酋長にして、花やかなりし行過ならずや。
  丁丑九月嚢道人蕪村書於閑雲洞中 印章「馬孛(バハイ)」(白文方印)、「四明山人」(白文方印)]

 長文の賛の簡単な訳と語注を付して置きたい。

(訳)八僊観こと彭城百川は彩色画を好んで、明代の中国画を模範としている。嚢道人こと与謝蕪村は、特定の流派にこだわらず広く絵画を愛して中国画全般から学んでいる。また、共に俳諧を嗜み、芭蕉門に連なるが、百川は支考門から出て美濃派に止まっていない。
同様に、私こと蕪村も其角門であるが其角に全面的に加担はしていない。だから、二人ともさらに前向きに向上工夫を重ねること旨とし、その結末がどうなろうとかの頓着はしていない。また、その俳諧の世界で名を上げようとも思ってはいないことも、二人は全く同じ趣なのである。
 ということで、百川がだいぶ前のことだが、この丹後の地に遊歴して帰京する時に、次の一句を残している。
 はしだてを先にふられて行秋ぞ(海中に長く突き出ている天の橋立を先触れとして、秋闌ける丹後を後にして京に帰っていくことよ)
 この百川の句を踏まえて私の留別の句は次のとおりである。
 せきれいの尾やはしだてをあと荷物(天の橋立名物の鶺鴒が長い尾を振って別れを惜しんでいる。この地を今去るに当たって、振り分けた荷物のように天の橋立の鶺鴒を名残り惜しみつつ、京に帰って行くことよ)
 これらの句のように、百川は、天の橋立を先駆けとして、その六里の松に肩を並べ馬で
京の西へと向かうが、蕪村は、その天の橋立を後にしながら、京の東へと向かう。共に、
これからの中国画、即ち、文人画の先頭に立ちたく、さながら、百川と蕪村との華やかな
の道行き道中ということではなかろうか。
 丁丑(宝暦七年)九月 嚢道人蕪村書ス於閑雲洞中

(語注) ○「蓮二」は支考、「晋子」は其角の別号。
○「丹青」は赤と青で彩色画。「画図」は図柄。
○「漢流」は和画に対しての中国画。
○「竿頭に一歩」は禅語でさらに向上工夫して前進すること。
○「まゝの川」は儘の川で自然の流れ。
○「留別」は旅立つ人が残る人に告げる別れ。
○「前駈」は前に駈けること。
○「殿騎」は殿(しんがり)を駆けること。
○「此道の酋長」は未開地扱いの文人画の首領の意。

 この長文の賛は、蕪村が百川について記した文献的にも貴重なもので、蕪村が深く百川に傾倒していたことが如実に示されている。また、この落款の年月日から、蕪村が丹後を去ったのが、宝暦七年(一七五二)、四十二歳の時であったことが明らかとなって来る。
 蕪村が、江戸から京都に上洛したのは宝暦元年(一七五一)、そして、百川が没したのは翌年の宝暦二年(一七五二)八月十五日のことで、両者の出会いがあったのかどうかは、その一年間という短い期間に於いてである。
 そして、その百川が亡くなると、嘗て百川が遊歴した丹後の宮津へと赴くのが、宝暦四年(一七五四)のことで、蕪村の丹後時代というのは、足掛け四年ということになる。
 ここで、この賛文中の、百川が「平安の西にふりこみ」は、百川が、京の「賀茂川以西に住んでいた晩年の八僊観の住居」を指し、蕪村の「洛城の東」は、京の「東山の僧房住まいであったと覚しい」住居を指し、蕪村は百川の住所を知っていて、生前の百川と蕪村とは面識があったという見解がある(『蕪村の遠近法(清水孝之著)所収「百川から蕪村へ」)。
 確かに、蕪村が関東での十五年余に及ぶ歴行の生活に終止符を打って上洛した大きな理由の一つに、蕪村が理想としていた画と俳との二道に於いて、その頂点に位置しているとも思われる百川への思慕があったことは厳然たる事実であろう。
 そして、蕪村の親しき交遊関係にある、亡き師の夜半亭宋阿(早野巴人)に連なる、京都俳壇の一角を担っている、宋屋・几圭等との関係に於いて、さらに、百川(前号=松角・昇角)と支考門を同じくする渡辺雲裡坊(前号=杉夫、蕪村が上洛する前年に義仲寺に無名庵の五世となり、芭蕉の幻住庵を再興している)との関係からして、蕪村と百川との出会いというのは、それが、直接的な裏付けるものがないとしても、それを否定的に解する見解よりも、上記の「生前に百川と蕪村との面識があった」という見解(清水・前掲書)を是といたしたい。
 しかし、この賛における「平安の西」そて「洛城の東」というのは、単に、平安・洛城(京都)の「西と東」とを意味するのではなく、この百川の「平安の西にふりこみ」というのは、「「平安(京都)に『西せり』(「西方浄土」に赴く)」の意と、そして、この蕪村の「洛城の東にかへる」の「洛城」は、蕪村が私淑して止まない唐詩人の李白「春夜洛城聞笛(春夜洛城ニ笛ヲ聞ク)」の、次の七言絶句が背景にあると解したい。

 誰家玉笛暗飛声 (誰ガ家ノ玉笛ゾ 暗ニ声ヲ飛バス)
 散入春風満洛城 (散ジテ春風ニ入リテ 洛城ニ満ツ)
 此夜曲中聞折柳 (此ノ夜曲中 折柳ヲ聞ク)
 何人不起故園情 (何人カ 故園ノ情ヲ起コサザラン)

 この四句目の「折柳」とは、別離の曲であり、この五句目の「故園」とは生まれ故郷を指す。この一句目の「誰家」は、落款にある「於閑雲洞中」を指し、そして、その二句目の「洛城」は、李白の詩では「洛陽の街」を指すが、ここでは「京都の街」を指すのであろう。そして、その背後には、五句目の「故園」(生まれ故郷)を利かしているように解したい。
 その上で、この「天橋立」の落款の下に押印されている印章(款印)、「馬孛(バハイ」(白文方印)、「四明山人(シメイサンジン)」(白文方印)に注目したい。この「四明山人」の「四明」は、「四明朝滄」とか、しばしば用いられるもので、比叡山の二峰の一つ四明岳に由来があるとされている。そして、安永六年(一七七六)の蕪村の傑作俳詩「春風馬堤曲」に関連させて、蕪村の生まれ故郷の「大阪も淀川河口に近い摂津国東成郡毛馬村(現、大阪市都島区毛馬街)」からは「遠く比叡山(四明山)の姿を仰ぎ見られたことだろう」(『蕪村の世界(尾形仂著)所収「蕪村の自画像」)とされている、その「比叡山(四明山)」ということになろう。
 とすると、「馬孛(バハイ)」の「馬」は、蕪村の生まれ故郷の「毛馬村」の「馬」に由来するものなのではなかろうか。事実、先に紹介した、宝暦八年(一七五八)の几圭薙髪記念集『はなしあいて』に、挿絵一葉、発句二句、三吟百韻(鈳丈・几圭・蕪村)が収録されている頃(その前年)、「馬塘趙居」の落款が用いられ、この「馬塘」は、毛馬堤に由来がある(『田中・前掲書』)。
なお、この「馬孛(バハイ)」の款印を「馬秊(バネン)」としているものがあるが(『田中・前掲書』)、下記の「印譜2」(『特別展没後二百年記念与謝蕪村名作展(大和文華館編集)などからして、「馬孛(バハイ)」と解すべきであろう。
 そして、この「馬孛(バハイ)」の「孛」は、「孛星(ハイセイ)=ほうきぼし、この星があらわれるのは、乱のおこる前兆とされた」に由来があり、「草木の茂る」の意味があるという(『漢字源』など)。
 とすると、「馬孛(バハイ)」とは、「摂津東成毛馬」の出身の「孛星(ほうき星)=乱を起こす画人」の意や、生まれ故郷の「摂津東成毛馬」は「草木が茂る」、荒れ果てた「蕪村」と同意義の「馬孛」のようにも解せられる。しかし、この号(款印)は、この「天橋立図」以外に、その例を見ない。
 そして、この「孛星(ほうき星)」に代わって、宝暦十年(一七六〇)の頃から「長庚(チョウコウ・ゆうづつ=宵の明星=金星)」という落款が用いられる。この「長庚(金星)」は、しばしば「春星」と併用して用いられ、「長庚・春星」時代を現出する。ちなみに、「蕪村忌」のことを「春星忌」(冬の季語、陰暦十二月二十五日の蕪村忌と同じ)とも言う。
 この「春星」は、「長庚」の縁語との見解があるが(『俳文学と漢文学(仁枝忠著)』所収「蕪村雅号考」)、春の「長庚(金星)」を含め、春の「孛星(ほうき星)」「子漢(蕪村の号=子の刻の天漢・長漢・銀漢=天の川)等の、季題の「星月夜」の「秋星(シュンセイ)=秋の星」ならず「春星(シュンセイ)=春の星」のもじりとも解せられる。
 と同時に、この「春星」は、上記の李白の「春夜洛城聞笛(春夜洛城に笛を聞く)」の「春夜」に輝いている「星」(太白星=長庚=金星)と響き合っているようにも思えるのである。
というのは、この七言絶句(四行詩)の作者・李白の生母は、太白(金星)を夢見て李白を懐妊したといわれ(「草堂集序」)、その字名(通称)は「太白=金星」で、蕪村の号(款印名)の「長庚=金星」と同じなのである。そして、その「春の長庚(金星)」を「春星」と縁語的に解しても差し支えなかろう。

 ここで、「謝長庚」「謝春星」、その「長庚・春星」に次いで、安永七年(一七七八)、蕪村、六十三歳の最晩年に近い頃から用いられる「謝寅」の「謝」は、「与謝」という姓の一字を省略したものとみて間違いあるまい(『田中・前掲書)。
 すなわち、上掲の「天橋立」を創作して丹後を後にした宝暦七年(一七五七)、その翌年(宝暦八年=一七五八、几圭薙髪賀集『はなしあいて』を刊行)の、その翌々年(宝暦十年=一七三〇、雲裡坊に筑紫行きを誘われるが、同行せず、この頃結婚し還俗したと思われる)の頃までに、蕪村は、出家していた「釈蕪村」から、以後の姓名となる「与謝蕪村」を称したということになろう。
その上で、この「与謝」の一字の姓の中国風の「謝」は、中国の文人(詩人・画人等)に多く見られる「謝」の姓だが、これまた、蕪村の脳裏には、李白の、「秋登宣城謝脁北楼(秋宣城ノ謝脁北楼ニ登ル)」や「宣州謝脁楼餞別校書叔雲(宣州ノ謝脁楼ニテ校書叔雲ニ餞別ス)」の詩に出て来る六朝時代の山水詩人として名高い「謝脁(元暉))や謝脁と共に「三謝」と称せられている「謝霊雲・謝恵連」などが当然にあったことであろう。
 続けて、蕪村の最晩年の傑作絵画中に必ず見られる落款の署名、「謝寅」の「寅」は、明時代の画家「唐寅(号=伯虎)」に由来していることは定説となっている(『田中・前掲書』)。  
この唐寅は「江南第一風流子」と署した人物で、書画文章は何れも当時高名であったという(『仁枝・前掲書』)。
 ここで、上掲李白の「春夜洛城聞笛(春夜洛城ニ笛ヲ聞ク)」中の「春風」(二句中)、「折柳」(三句中)、「故園」(四句中)と、この唐寅の「江南第一風流子」の「江南」の語句は、これまた、関東遊歴・丹後時代に用いられた比叡山の別称の「四明」が、蕪村の俳詩「春風馬堤曲」と関係していると解せられるように、これらの李白・唐寅の語句は、その「春風馬堤曲」(十八首)を読み解く重要なキーワードでもある。

○ 春風や堤長うして家遠し     (二首目の「春風」)
○ 店中二客有リ。能ク解ス江南ノ語 (七首目の「江南」)
○ 揚柳長堤漸くくだれり      (十六首目の「揚柳」=楽府の「折揚柳」=「折柳」)
○ 矯首はじめて見る故園の家    (十七首目の「故園」) 

この発句体(六句、『夜半楽』の表記の「十八首」の表記では六首)、擬漢詩体(四首)そして漢文訓読調の自由詩(八首)の、日本文学史上他に例を見ない独特のスタイルの「春風馬堤曲」に関して、蕪村自身が「馬堤は毛馬塘なり。即ち余が故園なり」と記し、この作品(「春風馬堤曲」)は「愚老、懐旧のやるかたなきよりうめき出でたる実情」と認めている書簡が今に残されている(安永六年=一七七六、柳女・賀瑞宛書簡)。
 蕪村が自分の故郷を明記したのは、この書簡のみであり、望郷の思いを表出したのも、この時だけである。しかし、その萌芽の一端は、蕪村が丹後を後にして再帰洛する宝暦七年(一七五七)の、上掲の「天橋立図」の長文の賛の背景となっていると思量される、李白の「春夜洛城聞笛(春夜洛城ニ笛ヲ聞ク)」の、「何人不起故園情(何人カ故園ノ情ヲ起コサザラン)」の中に、明瞭にその痕跡を残しているように思えるのである。
 ここで、下記印譜中、「四明・馬孛・長庚・春星・謝」については触れたので、触れていないものについて若干の付記をして置きたい。
 「朝滄」については、先に、「蕪村の師筋に当たる宝井其角の畏友・英一蝶(初号・朝湖、俳号・暁雲)の「狩野派風の町絵師」として活躍していた頃の号「朝湖」に由来するものであろう」と記したが、別に、「漢滄溟」という号も使用しており、『唐詩選』の著者の李
于鱗の『滄溟集』などの関連もあるのかも知れない(『仁枝・前掲書』)。
 「囊道(人)」についても、先に間接的に触れているが、「囊=袋」の意であることは、字義的に間違いなかろう。「道・道人」は、「儒教・道教・神仙を修めた人」というよりも、「俗事を捨てた人」のような用例なのかも知れない(『仁枝・前掲書)。しかし、「仏道の修業する人」の意もあり、当時、蕪村は「嚢道人釈蕪村」と俗性を捨てて「釈」姓を名乗っていたことに関連するものなのかも知れない。とすると、この「嚢」は「頭陀袋」の意なのかも知れない(『与謝蕪村集(清水孝之校注)』)。
 そして、『春泥句集(維駒編)』の「序」(安永六年=一七七六)の、「諸流を尽シてこれを一嚢中に貯へ」の「一嚢」などと深く関わるものなのかも知れない。

(蕪村印譜)

蕪村印譜.jpg

一段目  左  1 四明山人
   中  2  馬孛 
右 3 朝滄
二段目  左 4 朝滄
   中 5 朝滄
右 6 嚢道
三段目  左 7 趙   
  中 8  東成 
  右 9  謝長庚印 
四段目 左 10 春星
  中 11  春星氏 
  右 12  謝長庚

 「趙」は、宝暦七年(一七五七)に京都に戻り、その翌年の「戌寅(宝暦八年)秋、平安城南朱瓜楼中ニ於イテ写ス 馬塘趙居」の落款のある「山水図」(東京国立博物館蔵)などから見られるものである。この時期から、「馬塘」の他に「淀南」(淀川南)、「河南」(淀南と同意)と蕪村の生まれ故郷(淀川河口の毛馬)と関係ある文字が用いられる。「趙居」とは、「趙李」(実を結ばないの意)の「居」で、「蕪村の居常借家住まい」に由来するとか、山水画を善くした南宋から元の時代の書画詩文で名高い「趙孟頫」に因っているとかとされている(『仁枝・前掲書』)。
 この「趙孟頫」は、「秋耕飲馬図」「浴馬図」「調良図」など、馬を描いた屈指の画家としても知られているが、蕪村もまた「近世南画家にあって彼程多くの馬を描いてゐる画家は他に例を見ない」(『蕪村の芸術(清水孝之著)』)ほどの馬の傑作画を残している。しかし、その馬の絵でも、蕪村は「馬ハ南蘋ニ擬シ人ハ自家ヲ用ユ」(牧馬図))など、清時代の画家で長崎に滞在したこともある、円山応挙や伊藤若冲などに多大な影響を及ぼした「沈南蘋」の、いわゆる、長崎派の写実画の影響を匂わせている。
 しかし、中国の宮廷画家の院体画に対して、士大夫層出身の儒教の学問と文学の教養を備えた文人(知識人)の、「詩・書・画」が一体としての「文人画」を復興した中心人物の「趙孟頫」の蕪村に与えた影響は、専門画家としての「沈南蘋」の影響よりも、より全般的且つ深いものがあったことであろう。
 この「趙孟頫」の別号は「甲寅人」で、蕪村の晩年の号「謝寅」は、先にふれた「唐寅」だけではなく、この「趙孟頫」の「甲寅人」の「寅」なども含まれているような雰囲気でなくもない。
 「東成」は、蕪村の生まれ故郷の「淀川河口に近い摂津国東成郡毛馬村(現、大阪市都島区毛馬街)」の「東成」の意と、晩年の「謝寅」時代に見られる「日本東成謝寅」「日東東成謝寅」の落款からして、「西(中国)」に対する「東(日本)」の意をも包含してのものなのであろう。

 その他に、上記の款印の以外の蕪村の、未だ触れていない号(号・印)などについて簡単に触れて置きたい。

「蕪村」は、陶淵明の「帰去来兮辞」の「田園將ニ蕪レナントス/胡ゾ帰ら去ル」に基づくものであろう。
「宰町」は、蕪村の師の夜半亭宋阿(早野巴人)が江戸に戻って、日本橋本石町に夜半亭と庵を号した、その「町を主宰する」の意で、その巴人の「夜半亭」は、時の鐘を衝く鐘楼があり、張継の「楓橋夜泊」の「夜半ノ鐘声客船ニ到ル」に由来している。

「宰鳥」は、「宰町」の次の号だが、この「鳥」は、若き日の李白が、峨眉山に棲む隠者(巴人の見立て)の下で鳥を飼育しながら修業し、その鳥が李白になついだとの逸話などに関係するものか、また、巴人が没した時、「遺稿を探りて一羽烏といふ文作らん」とした「烏」(其角の「それよりして夜明け烏や不如帰」の「烏」に通ずる)などに関係するものなのかも知れない。そして、これらの号が、師の巴人が命名したものであるならば、この「宰(町)・宰(鳥)」の「宰(主宰する)」から、若き蕪村に期待するものが大きかったような印象を深くする。

「三果軒(三果園・三果居士)」は、その前身の「朱瓜楼又は朱果楼」からして、蕪村の画室の庵号なのであろう。後に、蕪村を中心として俳諧愛好家のグループが出来て、蕪村夜半亭俳諧を継承後の中心メンバーになっていく。「朱瓜」は烏瓜(唐朱瓜)の別なであるが、やはり、其角・巴人に連なる「三果樹」などに由来するものなのであろうか。
「紫狐庵」の「紫狐」は、野狐のこと(『仁枝・前掲書』)。やはり、俗世間より遁れての隠者的姿勢に由来するものであろう。

 さて、冒頭の「天橋立図」((絵図H)に戻って、この蕪村の百川と自らを対比させている、この長文の賛のある貴重な作品は、百川の「石橋白鷺図」(絵図I)と構図的に類似志向にあるように思われる。

Office Lens_20160520_071521_processed.jpg

(絵図I=百川筆「石橋白鷺図)

(絵図H=蕪村「天橋立図」、紙本墨画、八五・八×二七・八)に対し、(絵図I=百川「石橋白鷺図、紙本墨画、一〇四・五×二八・四)と、百川の「石橋白鷺図」の方が、縦の長さが大きいが、同一趣向の作品である。蕪村の作品は、丹後の天橋立での作で、その松原が下段に、実に簡略に描かれている。そして、百川の作品は、能登の島山(越中万葉の故地)での作で、その石橋が下段に、上記の蕪村が見本にしたように簡略に描かれている。
 この百川の石橋の下に書かれている賛・款印などは次のとおりである。

「 一とせ能登の島山に雪を/詠んと松間の橋に船を繋ぐ/雪片大さ鷺のごとしいへる/王世貞が詩膓を得たり/しら鷺のまよひ子もあり雪のくれ 八僊法橋/八僊逸人(白文方印)/「字余日百川(朱文方印)/得意一千画(関防印・朱文長方印) 」

 この「得意一千画」は、遊印(好みの文句を印文したもの)だが、賛の冒頭の右側に押印する「関防印」(引首印)に当り、落款の後など押印する「遊印」(押脚印・圧角印)と区別される場合がある。
 この百川の「石橋白鷺図」(絵図I)で注目される点は、この賛にある「雪片大さ鷺のごとしいへる/王世貞が詩膓を得たり」の、明の文人(明代の作詩用の辞書『円機活法』の校正者として知られる)王世貞の「雪片は鷺のごとく大きい」の詩句(文)の一節で、画面の三分の二近い上部のスペースを使い、それを象徴する「白鷺」(画)を描き、「文を画に反転」している点である。
 そして、蕪村の「天橋立図」(絵図H)は、この百川の「石橋白鷺図」(絵図I)の「文(明の王世貞の詩句)を画(能登の白鷺)に反転」しているのを、さらに、「百川の画(能登の白鷺)を文(蕪村の丹後・天橋立への留別吟と百川との交遊関係)に反転」させているのである。
 すなわち、百川の「石橋白鷺図」(絵図I)と蕪村の「天橋立図」(絵図H)とは、蕪村の師筋に当たる其角の「句兄弟」との視点で見るならば、「画兄弟」ということになる。
ここで特記して置きたいことは、百川の賛に出てくる王世貞は、蕪村が常時活用していたとされている詩作等の辞書『円機活法』の校訂者として知られ、この百川の「石橋白鷺図」(絵図I)と蕪村の「天橋立図」(絵図H)とは、この王世貞を介在しても、両者の間には深い絆で結ばれていることが察知されるということである。

 すなわち、蕪村の「天橋立図」の長文の賛の、「俳諧に名あらむことをもとめざる」とは、単に、「画道が主で、俳諧で名を立てようとは思っていない」というだけではなく、「こと俳諧においても、狭い俳人意識よりも、広く、中国の漢詩に通ずる文人意識を優先している」という、百川と蕪村との共通意識を強調しているように思われる。

 なお、この蕪村「天橋立図」(絵図H)には、「馬孛(バハイ)」(白文方印)と「四明山人」(白文方印)の款印が押印されていて、花押はないが、当時蕪村は、「嚢道人釈蕪村」と出家しての僧体で、俗姓を捨てていたことと関連し、蕪村の特異な、槌を図案化したような花押は、「嚢道人」の「嚢」(頭陀袋の「嚢」と詩嚢・画嚢)の「嚢」)の図案化のようにも思える。