雨華庵の四季(その一~その十八)

その一「春(一)」

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酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(一)」東京国立博物館蔵
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【酒井抱一 四季花鳥図巻 二巻 文化十五年(一八一八) 東京国立博物館
「春夏の花鳥」「あきふゆのはなとり」の題箋に記され、二巻にわたり、四季の花鳥に描き連ねた華麗な図巻。琳派風の平面的な草花から極めて写実的に描かれる植物まで多様な表現を試みる。横長に巻き広げる巻物の特性を利用して、季節の移ろいを流れるように展開し、蔓や細かい枝を効果的に配す。燕や蝶、鈴虫など鳥や虫も描き込まれ、以前の琳派にはない新しい画風への取り組みが顕著に示されている。
絹本著色:二巻:上巻三一・二×七一二・五:下巻三一・二×七〇九・三: 文化十五年(一八一八): 東京国立博物館 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説(一五六)(岡野智子稿)」)

上記の図は、右から「福寿草・すぎな(つくし)・薺・桜草・蕨・菫・蒲公英・木瓜」(『日本の美術№186酒井抱一(千澤梯治編)』)のようである。

福寿草(新年・「元日草」)「福寿草は、花のこがね色とその名がめでたいことから新年の花とされる。元日草ともいわれるように、古くから元日に咲くように栽培されてきた。」
 小書院のこの夕ぐれや福寿草   太祗 「太祗句選」
 朝日さす弓師が見せや福寿草   蕪村 「蕪村遺稿」
 ふく寿草蓬にさまをかくしけり  大江丸 「はいかい袋」
 帳箱の上に咲きけり福寿草    一茶 「九番日記」
 ※福寿草硯にあまる水かけん   晩得 「哲阿弥句藻」
 暖炉たく部屋暖かに福寿草    子規 「子規句集」
https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-05-03

「佐藤晩得(さとうばんとく)=享保十六~寛政四年(一七三一~九二)、俳号=哲阿弥など、別号に朝四・堪露・北斎など。俳諧は右江渭北門のち馬場存義門」なのである。この佐藤晩得が、抱一の後見人のような大和郡山藩主を勤め、俳号・米翁として名高い「柳沢信鴻(やなぎざわのぶとき)=柳沢吉里の次男」と親交が深く、当時、酒井家部屋住みの抱一の後ろ盾のような関係にあり、この晩得が亡くなった追善句集『哲阿弥句藻』に、抱一は跋文を寄せるほど深い絆で結ばれていたのである。

つくし(仲春・「土筆・つくづくし・つくしんぼ・筆の花」)「杉菜の胞子茎をいう。三月ごろから日のあたる土手や畦道に生える。」
 佐保姫の筆かとぞみるつくづくし雪かきわくる春のけしきは 藤原為家「夫木和歌抄」
 真福田が袴よそふかつくづくし    芭蕉 「花声」
 見送りの先に立ちけりつくづくし  丈草 「射水川」
 つくづくしここらに寺の趾もあり  千代女「松の声」
 つくつくしほうけては日の影ぼうし 召波 「春泥発句集」

すぎな(晩春・「杉菜・接ぎ松・犬杉葉」)「春に胞子茎をだす。これが土筆である。胞子茎が枯れると、栄養茎が杉の葉のように伸びるが、これは茎であって、葉は退化している。」
 今まではしらで杉菜の喰ひ覚え  惟然 「鳥の道」
 杉苗に杉菜生そふあら野かな   白雄 「白雄句集」
 すさまじや杉菜ばかりの丘一つ  子規 「寒山落木」

薺(新年・「なずな・なづな・ぺんぺんくさ・三味線草」)「七種粥に入れる春の七草の一つ。」
 六日八日中に七日の齊かな    鬼貫 「鬼貫句選」
 一とせに一度摘まるゝ齊かな   芭蕉 「芭蕉句選」   
 濡縁や齊こぼるる土ながら    嵐雪 「続猿蓑」
 沢蟹の鋏もうごくなづなかな   蓼太 「蓼太句集」

桜草(晩春・「プリムラ・常盤桜・乙女桜・雛桜・一花桜・楼桜」)「江戸時代にも武士階級で流行。花は淡紅色、紅紫色。花びらは筒状の先が五つに大きく裂け、さらにそれぞれの先が二つに割れてサクラに似ている。」
 我国は草もさくらを咲きにけり  一茶 「文政版句集」
 わがまへにわが日記且桜草    万太郎「流寓抄」

蕨(仲春・「岩根草・山根草・早蕨・干蕨・蕨飯」)「山肌の日当たりの良いところにみられる春を代表する山菜。」
 石(いは)ばしる垂水のうへの早蕨の萌え出づる春になりにけるかも 志貴皇子「万葉集」
 いはそそぐ清水も春の声たてて打ちてや出づる谷の早蕨 藤原定家「拾遺愚草」
 蕨採りて筧に洗ふひとりかな   太祗 「太祗句選後篇」
 わらび野やいざ物焚ん枯つゝじ  蕪村 「蕪村句集」
 めぐる日や指の染むまでわらび折る 白雄 「白雄句集」
 折りもちて蕨煮させん晩の宿   蝶夢 「草根発句集」
 そゞろ出て蕨とるなり老夫婦   茅舎 「川端茅舍句集」 

菫(三春・「菫草・花菫・相撲花・一夜草・ふたば草・壺すみれ・姫すみれ」)「菫は春、濃い紫色の花をさかせる。花の形が、大工道具の『墨入れ』に似ていることから「すみれ」
の名がついたという。」
 春の野にすみれ摘みにと来しわれそ野をなつかしみ一夜寝にける 山部赤人「万葉集」
 山路来て何やらゆかしすみれ草   芭蕉 「のざらし紀行」
 骨拾ふ人にしたしき菫かな     蕪村 「蕪村句集」
 地車におつぴしがれし菫哉     一茶 「文化句帳」
 菫ほどな小さき人に生まれたし   漱石 「夏目漱石全集」

蒲公英(仲春・「たんぽ・たんぽぽ・鼓草・蒲公英の絮」)「蒲公英は黄色い太陽形の花。花が終わると、絮が風に飛ばされる。」
 たんぽぽや折ゝさます蝶の夢   千代女 「千代尼発句集」
 たんぽぽに東近江の日和かな   白雄  「白雄句集」
 馬借りて蒲公英多き野を過る   子規  「子規句集」

木瓜(晩春・「木瓜の花・緋木瓜・白ぼけ・花木瓜」)「開花期は十一月から四月にかけて。
十一月頃咲くものは寒木瓜と呼ばれる。瓜のような実がなることから木瓜と呼ばれる。枝には棘があり、春、葉に先立って五弁の花を咲かせる。」
 紬着る人見送るや木瓜の花    許六 「住吉物語」
 順礼の子や煩ひて木瓜の花    樗堂 「萍窓集」
 木瓜咲くや漱石拙を守るべく   漱石 「夏目漱石全集」

その二「春(二)」

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酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(二)」東京国立博物館蔵
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(同上:部分拡大図)

 上図は、「春(一)」に続いて、その「春(一)」で描いた「蒲公英・木瓜・菫・すぎな(つくし)・薺・白桜草」などに、新たに「虎杖(いたどり)」と「雉(きじ)と母子草」を描いている(『日本の美術№186酒井抱一(千澤梯治編)』)。
 この中央の雉が、小さな母子草を見ているのは、芭蕉の「父母のしきりに恋ひし雉子の声」などを想起させるような雰囲気を有している。

虎杖(仲春・「いたどり・みやまいたどり・さいたづま」)「春先、赤味を帯びた新芽が出
て節のある太い茎が一メートル程に直立し目立つ。茎は成長するにつれ木質化する。夏に白い小さな花を沢山つける。」
 春日野にまだうら若きさいたづま妻籠(ごも)るともいふ人やなき 藤原実氏「玉葉集」
 虎杖や到来過ぎて餅につく   一茶 「九番日記」
 山陰に虎杖森の如くなり    子規 「子規句集」

雉(三春・「雉子・きぎす・きぎし、雉子の声、焼野の雉子」)「雄は全体的に緑色をおびており、目の周りに赤い肉腫がある。雌は全体的に茶褐色。雌雄ともニワトリ似て尾は長い。繁殖期の雄は赤い肉腫が肥大し、なわばり争いのため攻撃的になり、ケンケンと鳴いて翼を体に打ちつける『雉のほろろ』と呼ばれる行為をする。」
 春の野にあさる雉(きぎし)の妻恋ひにおのがあたりを人に知れつつ 大友家持「万葉集」
 春の野のしげき草葉の妻恋ひに飛び立つ雉のほろろとぞ鳴く 平貞文「夫木和歌抄」
 父母のしきりに恋ひし雉子の声      芭蕉 「笈の小文」
 うつくしき顔かく雉の距(けづめ)かな  其角 「其袋」
 遅キ日や雉子の下りゐる橋の上    蕪村 「蕪村句集」
 雉啼くや暮を限りの舟渡し     几菫 「晋明集二稿」
 雉子の尾の飛さにみたる野風かな    白雄 「白雄句集」

母子草(晩春・「御形蓬(おぎょうよもぎ)・鼠麹草(ほうこぐさ)」)「ヘラ形の葉の間からのびた花茎に、小さなつぶつぶの黄色い頭頂花を球状につける。春の七草のオギョウは母子草のロゼット(根出葉)である。」
  すりこぎや父はおそろし母子草  路通 「雷盆木」
  跡訪はん塚も母子の草の時    沾峨 「吐屑庵句集」
  老いて尚なつかしき名の母子草  虚子 「虚子句集」

【 落款は上巻巻頭に署名「抱一暉真」「抱弌」(朱文重郭方印)、下巻巻末に「文化戌寅晩春 抱一暉真寫之」の隷書による署名と「雨華」(朱文内鼎外方印)「文詮」(朱文瓢印)がある。文政に改元直前の文化十五年(一八一八)三月に描かれたことが知られる。抱一の共箱で、蓋表に「四季花鳥巻物 二軸」蓋裏に「抱一暉真筆」「文詮」(朱文瓢印)がある。巻子及び箱の体裁は極めて上質で、四季が廻るという吉祥画題とともに、高位の家の吉事を祝う制作とうかがわれる。
 同時に、本図は抱一が光琳の模倣にとどまらず、新たな表現を志した記念碑的作品でもある。植物の描写は、琳派風の平面的な草花から極めて写実的に描かれる植物まで多様な表現を試みており、同一作品ながら異なる表現が混在して変化に富む。横に巻き広げる巻物の特性を利用して、季節の移ろいを流れるように展開し、蔓や細い枝は画面に対角線上に配して、視線が自然と画面の先、つまり次の季節に及ぶように誘っている。
 また本図には上下巻合わせて植物六十種、禽鳥八種、昆虫九種が描かれる。宗達や光琳は鳥や虫を草花に取り合わせることはなかったが、抱一は本図で鳥や虫を積極的に起用している。例えば枝垂桜の枝を飛び交う燕や、菊の上によじ登る蟷螂、青木の葉裏の蝉の抜け殻など、こまやかな季節の移ろいを告げるキーパーソンを彼らが務めている。
 草花図に華麗な鳥やさまざまな虫を描くことは、中国では伝統的に行われており、特に清の沈南蘋の弟子たちには鮮やかな花鳥草花図巻が多く見出される。本図の上巻「藤に蜂の巣」の部分などにはそうした清の画巻の影響が顕著である。
 一方、下巻冒頭の「萩に鈴虫、松虫」では虫を描くことによってその音色までも想起させようという、極めて日本的な導入を用意する。このように抱一は、中国の花鳥草虫図巻に構想を借りながら、日本の四季の情趣をさまざまに描いている。宗達・光琳が抑制してきた自然の趣を抱一は新たに琳派様式に取り入れ、江戸琳派がここに確立された。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「作品解説(一五六)(岡野智子稿)」)

その三「春(三)」

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酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(三)」東京国立博物館蔵
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(同上:部分拡大図)

 上図は、右から「春(二)」に続く「薺・杉菜」の次に、「菜の花」(晩春)・「大根の花」(晩春)、そして「蚕豆(そらまめ)の花」(晩春)・「蚕豆」(初夏)、さらに、その大根の花の上に「蜆蝶」(三春の「蝶」の子季語)、菜の花には「紋白蝶」(三春の「蝶」の子季語)が停まっている。
 「蝶」は「三春」(初春・仲春・晩春))の季語だが、「初蝶」(初春)、「揚羽蝶・夏の蝶」(三夏)、「秋の蝶」(三秋)、「冬の蝶」(三冬)、「凍蝶」(晩冬)と、四季にわたって詠まれている。
 上図の左端の「枝垂れ桜」は、「仲春」の季語で、全体としては「春の景」であるが、この「蝶」(蜆蝶と紋白蝶)が、これまでの「春の景」を「夏の景」へと誘っている雰囲気を有している。
 また、これまでの「春(一)」と「春(二)」が、地面上の「地の景」とすると、ここから、蝶が舞い飛ぶ「天の景」へと視点を転回させている。

蝶(三春・「蝶々・胡蝶・春の蝶・小灰蝶・蜆蝶・白蝶・緋蝶・だんだら蝶」)「蝶は彩りあざやかな大きな翅をもつ昆虫。花の蜜を求めてひらひらと舞ふ。」
 散りぬれば後はあくたになる花を思ひ知らずもまどふ蝶かな 僧正遍照「古今集」
 蝶の飛ぶばかり野中の日影かな   芭蕉 「笈日記」
 うつゝなきつまみごゝろの胡蝶哉  蕪村 「蕪村句集」
 夕風や野川を蝶の越しより     白雄 「白雄句集」
 ひらひらと蝶々黄なり水の上    子規 「子規全集」
初蝶(初春・「はつちょう・はつてふ」)「春になって初めて目にする蝶のこと。」
 たちいでて初蝶見たり朱雀門    大江丸「俳懺悔」
 初蝶来何色と問ふ黄と答ふ     虚子 「六百五十句」
揚羽蝶(三夏・「黒揚羽・烏揚羽・烏蝶」)「春はやや小さめだが夏になると一回り大きくなる。」
 黒揚羽花魁草にかけり来る     虚子「虚子全集」
 我が来たる道の終りに揚羽蝶    耕衣「驢鳴集」
夏の蝶(三夏・「夏蝶・梅雨の蝶」)「夏に見かける蝶のこと。単に蝶では春の季語となる。」
 まことちさき花の草にも夏の蝶   石鼎 「原石鼎全句集」
秋の蝶(三秋・「秋蝶・老蝶」)「立秋を過ぎてから見かける蝶のこと。春や夏の蝶にから比べるといくらか弱々しい印象を受ける。」
 薬園の花にかりねや秋の蝶     支考 「梟日記」
 山中や何をたのみに秋の蝶     蝶夢 「三夜の月の記」
 あきの蝶日の有るうちに消えうせる 暁台 「暁台日記」
 しらじらと羽に日のさすや秋の蝶  青蘿 「青蘿発句集」
 秋のてふかがしの袖にすがりけり  一茶 「七番日記」
冬の蝶(三冬・「冬蝶・越年蝶」)「冬に見かける蝶のこと。その蝶も寒さが強まるにしたがい飛ぶ力もなくなり、じっと動かなくなってしまう。」
 落つる葉に撲(う)たるる冬の胡蝶かな  几董 「晋明集二稿」
凍蝶(晩冬・蝶凍つ))「寒さのため凍てついたようになる蝶のこと。哀れさという点では「冬の蝶」より差し迫った感じがある。」
 石に蝶もぬけもやらで凍てしかな     白雄 「白雄句集」

大根の花(晩春・「菜大根の花、種大根」)「大根の種を採るために畑に残した株に薹が立ち、白い十字型の花を咲かせる。紫がかったものもある。」
 まかり出て花の三月大根かな   一茶 「題叢」  
 花大根黒猫鈴をもてあそぶ    茅舍 「川端茅舍句集」

蚕豆(そらまめ)(初夏・「空豆、はじき豆」)「お多福の形をした薄緑の大きな豆。莢(さや)が空に向かってつくためこの名がある。また、莢の形が蚕に似ていることから蚕豆という字をあてることもある。」
 そら豆やただ一色に麦のはら   白雄 「題葉集」
 假名かきうみし子にそらまめをむかせけり 久女 「杉田久女句集」
蚕豆(そらまめ)の花(晩春)「春の盛りの頃葉腋に白色又は薄紫色の蝶形花を数個ずつつける。」
 そら豆の花の黒き目数知れず   草田男 「長子」
 蚕豆の花の吹き降り母来て居り  波郷  「惜命」 

菜の花(晩春・「花菜・菜種の花・油菜」)「菜種の黄色い花。一面に広がる黄色の菜の花畑は晩春の代表的な景色。近世、菜種油が灯明として用いられるようになってから、関西を中心に栽培されるようになった。」
 菜畠に花見顔なる雀哉      芭蕉 「泊船集」
 菜の花や月は東に日は西に    蕪村 「続明烏」
 なの花の中に城あり郡山     許六 「韻塞」
 菜の花やかすみの裾に少しづつ  一茶 「七番日記」
 菜の花や淀も桂も忘れ水     言水 「珠洲之海」
 菜の花の中に小川のうねりかな  漱石 「夏目漱石全集」

枝垂桜(仲春・「糸桜・しだり桜・紅枝垂」)「薄紅色の花を、細くて垂れ下った枝につける。樹齢は長い。」
 目の星や花をねがひの糸桜   芭蕉 「千宣理記」
 糸桜則ち是か華の雨      淡々 「華の日」
 影は滝空は花なり糸桜     千代女 「千代尼句集」
 いとざくら枝も散るかと思ひけり 嘯山 「葎亭句集」
 ゆき暮れて雨もる宿やいとざくら 蕪村 「蕪村句集」

【 抱一は寛政九年(一七九七)、三十七歳で江戸下向中の西本願寺十八世文如(もんにょ)上人より得度を受け、権大僧都として僧となった。その後十二年ほどの間に転居を繰り返したが、文化六年(一八〇九)の年末、吉原にほど近い下谷金杉大塚村(台東区根岸五丁目辺り)に小鸞女史とともに庵を結ぶ。後に雨華庵と呼ばれるこの小さな庵は、その後抱一の絵画活動の拠点となるとともに、僧としての務めを果たす場所でもあった。
 弟子の田中抱二(一八一四~八四)が明治十六年(一八八三)に描いた「雨華庵図」は、七十二歳になった抱二が往年の師宅を思い出して描いたもの。それによれば雨華庵は、玄関、台所のほかは座敷、仏間、茶間、画所の四室ばかりであった。抱二のメモによれば、ここで六月二日の光琳忌には扇合(おおぎあわせ)が、十一月五日には御花講が営まれたという。
 また抱一には「二尊庵」という号があり、六十歳前後から使用されていたようだが、これは雨華庵の本尊が阿弥陀如来像二尊であったことによる。朝夕に読経も行われ、抱一は案外真面目に仏事にも励んでいたらしい。浄土真宗西本願寺派の末弟、等覚院文詮暉真(とうかくいんもんせんきしん)こと抱一上人の勤行の場であった。
 さらに、雨華庵二世を継いだ鶯蒲は大田南畝ゆかりの市ヶ谷浄栄寺の出身だが、その過去帳の抱一の項には唯信寺開祖とあり、雨華庵をして唯信寺を寺号としていた形跡が認められる。雨華庵三世の鶯一もまた浄栄寺の血縁に連なる者であった。つまり抱一は、江戸琳派の画風の継承と、仏事を営み抱一を供養する立場とを別次元で考えていたひとが明らかである。
 このように、抱一が後半生を市井の僧として暮らしたことで、画業にも新たな展開が生まれた。さまざまな仏画を積極的に手掛けるようになったのである。 】
(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一(仲町啓子監修)』所収「画僧抱一の仏画(岡野智子稿)」中「勤行の場でもあった画房『雨華庵』」)

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【 田中抱二「雨華庵図」 1883(明治16)年 紙本着色 26.5×37.8
 抱一が大塚村(現在の台東区根岸五丁目辺り)に構えた画房は、1817(文化14)年に「雨華庵」の号を掲げるようになった。抱一没後も弟子が集まり一門を呈したが、1865(慶應元)年8月21日夜、火災で焼失してしまう。これは抱一の弟子の田中抱二(1814~84)が記憶を頼りに描いた雨華庵の見取り図で、画塾としての様子をうかがう貴重な資料である。(松尾知子稿) 】
(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一(仲町啓子監修)』所収「<風>をつかまえた絵師(仲町啓子稿)」)

 この「雨華庵図」の右上に、次のような記載が書かれている。

【植木 大樹 赤松・かしは(柏)・ぬるて(白膠木)・にしき(錦木)・あちさい(紫陽花)
    艸(草)はき(萩)・すゝき(薄)・女郎花・なてしこ(撫子)・かるかや(刈萱)
    大樹 梅・ひのき(檜)・さゝさんか(山茶花)    】

 これは、抱一の晩年の弟子の田中抱二(抱一の六十四歳時に十三歳で入門)が、晩年(七
十二歳時)に往時を回顧しての覚書きのようなものなのであろう。
 この植木関係では、「艸(草)」が、秋の七草の「萩・薄・女郎花・撫子」(「葛・藤袴・桔梗又は朝顔」は書いてない)と「刈萱」が書かれており、これは、春には、春の七草の「芹・薺・御形(ごぎょう・母子草)・繁縷(はこべら)・仏の座(タビラコ)・菘(すずな・蕪)・蘿蔔(すずしろ・大根)」なども植えられていたようにも思えてくる。
 そして、それらは、この両巻合わせて十四メートル余の長大な「四季花鳥図巻」の「植物
(六十種)」の大部分が、「樹木」ではなく「草花」であることと何処かしら結びついているように思えるのである。
 それらのことは、この後に続く、「夏・秋・冬」の草花が、どのように描かれているのか
を見ていくことによって、より鮮明になってくるであろう
 ここで、「雨華庵」屋内の間取りを見ていくと、その母屋は左側から「画所(えどころ)・
茶間(居間)・仏間・座敷」の四部屋(「画所」の上部に「前室」)と、その「画所」の離
れ屋風に「茶室」がある。この「茶室」に面した庭に「赤松斗(バカ)リ」と書かれ、「座敷」
の庭に面した所に「ヒサシ(庇)アリ」と書かれている。また、庭の池には、「魚・ヒ
鯉(緋鯉)・金魚」と書かれている。
 これらを、先の「勤行の場であった画房『雨華庵』」(岡野智子稿)と重ね合わせると、
「画所と茶室」スペースが「雨華庵画房」、「仏間・座敷」スペースが「二尊庵(後に寺号の「唯信寺」)、その両者の共通スペースが「茶間(二か所の「間仕切り」あり)」と考えることも出来るであろう。
 そして、この画房「雨庵庵」と僧房「二尊庵」との、この両者を結びつけるものが、「雨華庵・二尊庵」の自然(四季の「景物=花・鳥」)ととらえることも可能であろう。

その四「春(四)」

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酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(四)」東京国立博物館蔵
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(同上:部分拡大図)

 上図の中央は、枝垂れ桜の樹間の枝の合間を二羽の燕が行き交わしている図柄である。右側には「春(三)」の続きの地上に咲く黄色の菜の花、左側には、これまた、右側の菜の花に対応して、黄色の連翹の枝が、地上と空中から枝を指し伸ばしている。
この行き交う二羽の燕が、これまでの地面・地上から空中へと視点を移動させる。さらに、枝垂れ桜のピンクの蕾とその蕾が開いた白い花、それらを右下の黄色の菜の花と、左上下の黄色の連翹、さながら色の協奏を奏でている雰囲気である。その色の協奏とともに、この二羽の燕の協奏とが重奏し、見事な春の謳歌の表現している。


燕(仲春・「乙鳥(おつどり)・つばくら・つばつくめ・つばくろ・飛燕・濡燕・川燕・群燕・夕燕・初燕」)「燕は春半ば、南方から渡ってきて、人家の軒などに巣を作り雛を育てる。初燕をみれば春たけなわも近い。」
 燕来る時になりぬと雁がねは国思ひつつ雲隠り鳴く 大伴家持「万葉集」
 盃に泥な落しそむら燕      芭蕉 「笈日記」
 海づらの虹をけしたる燕かな   其角 「続虚栗」
 蔵並ぶ裏は燕の通ひ道      凡兆 「猿蓑」
 大和路の宮もわら屋もつばめかな 蕪村 「蕪村句集」
 夕燕我にはあすのあてはなき   一茶 「文化句帖」
 滝に乙鳥突き当らんとしては返る 漱石 「夏目漱石全集」
夏燕(三夏)「夏に飛ぶ燕である。燕は、春、南方から渡ってきて繁殖活動に入る。四月下旬から七月にかけて二回産卵する。雛を育てる頃の燕は、子燕に餌を与えるため、野や町中を忙しく飛び回る。」
 山塊を雲の間にして夏つばめ   蛇笏 「家郷の霧」
 夏つばめ遠き没り日を見つつゐる 誓子 「炎昼」

連翹(仲春・「いたちぐさ・いたちはぜ」)「半つる性植物。枝が柳のように撓み、地につくとそこから根を出す。葉に先立って鮮やかな黄色の花を枝先まで付ける。その様子が鳥の長い尾に似ているのでこの名がついた。」
 連翹や黄母衣の衆の屋敷町    太祇 「新五子稿」
 連翹に一閑張の机かな      子規 「子規句集」

【 抱一は、文化十四年(一八一七)の秋、住み慣れた庵居に「雨華庵」の額を掲げた。以来、「雨華」の号を署名に印章にと多く用いるようになった。四の「雨華時代Ⅰ」の始まりである。この「雨華」の語の出典は、同じ年の六月に剃髪した小鸞女史の法名「妙華尼」と合わせて、「天雨妙華」という語句から採られたとつとにいわれている。これは「大無量寿経」上の「讃仏偈(さんぶつげ)の最後に現れる語句で、次に『浄土三部経 上』(岩波文庫)をテキストとして上段に魏(ぎ)訳、下段に梵文(ぼんぶん)和訳を上げることにする。

 応時普地、六種震動、天雨妙華  大地は震動し、花は雨と降り、
 以散其上、自然音楽、空中讃言  数百の楽器は空中に奏でられた。
             (天の甘美な栴檀の抹香は撒かれた)
 決定必成無上正悟    (声あっていう)『(かれは)来世に仏となるであろう』と。

 すべての願いが成就したときに、この大地が震動し、雨のように降り注ぐ花の歓喜のイメージこそが「雨華」なのである。「大無量寿経」は、日本人に極楽浄土の姿を伝える経典として、平安時代より重要な役割を担ってきた。極楽浄土には種々の河が流れ、宝石でかざられた花束を流し、種々の甘美な声や響きがあり、七宝でかざられた樹や花や池や砂があること。いろいろな鳥が妙なる鳴き声をあげ、四季の区別もなく、暑からず寒からず、常に和らぎ調い適すること。そうした絢爛豪華な極楽浄土の様相は、いつしか中国的な四季の揃った庭園のイメージと重なり、浄土の表象としての四季折々の自然美が日本では定着していくことになる。室町時代以降、さかんに描かれた四季花鳥図の金屏風が、きらびやかな浄土に重ね合わされた四季の景物画であることは、最近の美術史研究ではほとんど認められている。「日本の伝統的な絵画で、四季のモティーフを含まないものは少ない。私たちは、今や数少なくなった床の間に、四季の移り変わりに合わせて掛け換える。季節がそれによって部屋に持ち込まれる。日本人が心に描く浄土には四季がある」(辻惟雄氏、千葉市美術館『祝福された四季展』カタログ)のである。そして、抱一の画房でも多くの四季の花鳥、花木、草花の絵が描かれた。それは、典型的といえるほど固定した素材によって描かれている。

春は、土筆・蒲公英・蓮華草・蕨・桜草・紅梅・白梅・山桜
夏は、芍薬・白百合・紫陽花・仙翁花・撫子・沢瀉・河骨・燕子花・立葵・昼顔
秋は、龍胆・桔梗・薄・女郎花・葛・朝顔・紅菊・白菊・芙蓉・柿・藤袴・蔦・漆
冬は、雪の被った芦・檜・藪柑子・水仙

 自生植物と園芸植物の混ざった多様の花や木や草は、屏風・図巻・画帖・掛物とあらゆる画面形式に描き継がれ、優美な曲線に誘われ、鮮烈な色彩に覆い尽くされ、愛らしい宝石のような形象がちりばめられた。このような多種多様な花園を生み出す自分のアトリエに、抱一は「雨華」と名付けたのである。抱一の花鳥図・草花図が極楽浄土のイメージと無関係であるはずがないであろう。抱一にとって次々と工房で画を創り出すことは、すべての世界が歓喜して、花びらが空中に舞う姿にも重なっていたのである。(以下略)  】
(『新潮日本美術文庫18酒井抱一(玉蟲敏子著)』所収「抱一 ―江戸の精華譜(つれづれにしき)」中「雨華 ―見立ての浄土」)

その五「春(五)」

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酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(四)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035816

花鳥図巻春五拡大.jpg

(同上:部分拡大図)

 上図の右側は、「春(三)」に続く黄色の連翹の花、そこに、白い辛夷の花を対比させている。この白い辛夷の花の周囲には、白い点々の藤の花を添えている。そして、中央に紫の藤の花を三房バランスよく描いている。その紫の藤房の空間に、飛んでいる小さな足長蜂を一匹丁寧に描いて、思わず、この一点に視線が集中するような巧みな構成となっている。この小さな蜂に目を奪われていると、この図の左上の端に、蜂の巣があり、そこに留まっている一匹の足長蜂と対比になっていることに気付いてくる。そして、その蜂の巣の下に白い辛夷の花が添えられている。

蜂(三春・「足長蜂・熊蜂・地蜂・土蜂・穴蜂・似我蜂・山蜂・花蜂・蜜蜂・姫蜂・雀蜂・女王蜂・雄蜂など」)「く見られるミツバチは、女王蜂を中心に生活が営まれる。スズメバチやアシナガバチなどは、巣を守るためひとを襲うこともある。」
 腹立てて水呑む蜂や手水鉢     太祇 「太祇句選」
 土舟や蜂うち払ふみなれ棹     蕪村 「遺稿」
 木ばさみのしら刃に蜂のいかりかな 白雄 「白雄句集」
 一畠まんまと蜂に住まれけり    一茶 「七番日記」
 指輪ぬいて蜂の毒吸ふ朱唇かな   久女 「杉田久女句集」
 蜂の尻ふわふわと針をさめけり   茅舎 「川端茅舎句集」

辛夷(仲春・「木筆・山木蘭・幣辛夷・田打桜」)「早春、葉が出る前に、六弁の白い花を枝先につける。莟の形が赤子のこぶしを連想させるのでこぶしと名づけられた。」
 咲く枝を折る手もにぎりこぶしかな   重頼 「犬子集」
 雉一羽起ちてこぶしの夜明けかな    白雄 「白雄句集」
 花籠に皆蕾なる辛夷かな        子規 「子規全集」

藤(晩春・「ふじ・ふぢ・山藤・野藤・白藤・八重藤・赤花藤・藤の花・南蛮藤・ 藤波・藤棚・藤房」)「藤は晩春、房状の薄紫の花を咲かせる。芳香があり、風にゆれる姿は優雅。木から木へ蔓を掛けて咲くかかり藤は滝のようである。」
 恋しけば形見にせむと我がやどに植ゑし藤波今咲きにけり  山部赤人「万葉集」
 よそに見てかへらむ人に藤の花はひまつはれよ枝は折るとも 僧正遍照「古今集」
 くたびれて宿借るころや藤の花   芭蕉 「笈の小文」
 水影やむささびわたる藤の棚    其角 「皮籠摺」
 蓑虫のさがりはじめつ藤の花    去来 「北の山」
 しなへよく畳へ置くや藤の花    太祇 「太祇句選」
 月に遠くおぼゆる藤の色香かな   蕪村 「連句会草稿」
 しら藤や奈良は久しき宮造り    召波 「春泥発句集」
 藤の花長うして雨ふらんとす    子規 「子規全集」

歌麿・蜂・毛虫.jpg

喜多川歌麿//筆、宿屋飯盛<石川雅望>//撰『画本虫ゑらみ』国立国会図書館蔵
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288345
【『画本虫撰』宿屋飯盛撰 喜多川歌麿画 二冊 天明八年(一七八八) 千葉市美術館
精細きわまる植物と虫の絵は、若き喜多川歌麿によるもの。虫の羽の透けの表現に雲母摺りを施すなど美麗な本で、虫の歌合の趣向で三十名の狂歌と競演する。蜂と毛虫の歌合に、尻焼猿人こと抱一が登場。「こハごハに とる蜂のすの あなにえや うましをとめを みつのあち(ぢ)ハひ」とある。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説(三三)(松尾知子稿)」)

 この『画本虫撰』が刊行された天明八年(一七八八)時は、抱一、二十八歳、歌麿、三十六歳の頃で、当時の狂歌名は、抱一が「尻焼猿人(しりやけのさるんど)、歌麿は「筆綾丸(ふでのあやまろ)」である。
 この二人とも、この『画本虫撰』の出版元の「蔦重」こと、蔦屋重三郎の所属する「吉原連」と深い関係にあると解して差し支えなかろう。ちなみに、蔦屋重三郎の狂歌名は「蔦唐丸(つたのからまる)」である。

【 江戸の都市の繁栄は、狂歌、黄表紙、浮世絵(錦絵)といった新しい文化を育んだが、世に天明狂歌運動とも呼ばれるムーブの担い手の多くは、下級の幕臣の大田南畝をはじめとする二、三十代の青年たちであった。才気渙発な抱一が、酒井家の屋敷の外側で繰り広げられる同世代の若者による自由闊達な活動に敏感でないはずがない。蔦屋重三郎版の狂歌絵本『吾妻曲(あずまぶり)狂歌文庫』(宿屋飯盛撰、山東京伝画、天明六(一七八六)年刊)、続編の『古今狂歌袋(宿屋飯盛撰、山東京伝画、天明七(一七八七)年刊)、『画本虫撰(えほんむしえらみ)』(宿屋飯盛撰、喜多川歌麿画、天明八(一七八九)年刊)などに、抱一は立て続けに、「 尻焼猿人」の狂歌名を名乗って登場する。大田南畝は大手門前の酒井家上屋敷で部屋住みの生活を送る抱一の下を訪ねており、天明八年正月十五日の上元の宴では、抱一の才を七言絶句の漢詩を詠んでいる。その書き出しには「金馬門(きんばもん)前白日開」とあり、中国漢代の末央宮の門を気取って、江戸城の大手門をペンダントリーに「金馬門」と呼んでいる。この謂いは、抱一と南畝らの間で交わされた暗号のようなものだったらしく、現存しないが、抱一も最初に編んだ句集の名を「金馬門」の和語から「こがねのこま」としていたようだ。
 好奇心旺盛な若き抱一が、最初期の画業として取り組んだのは浮世絵美人画で、画風の一致から、その師匠は記録のとおり歌川派の開祖のと歌川豊春であると考えられる。南畝はたびたび抱一筆の美人画に漢詩や狂歌を書き付けているが、天明五(一七八五)年初冬作の「調布の玉川図」はのちに、当時の抱一の絵が少しも古びていないことを称え、古歌をもじった賛を執筆したものである。賛の狂歌と本歌を挙げておこう。
 玉川にさらす調布(たつくり)さらさらにむかしの筆とさらに思はず
  → 玉川にさらす調布さらさらにむかしの人のこひしきやなそ
                (『拾遺和歌集』巻第十㈣恋四 よみ人しらず)  
二人の交流は晩年まで長く続き、南畝は抱一にとって最古参の友人の一人であった。 】

 太田南畝(狂歌名=四方赤良)は、寛延二年(一七四九)の生まれ、抱一よりも十二歳年長で、抱一の狂歌の師匠格に当たるというよりも、当時の天明狂歌運動の中心的な人物であった。
上記の『画本虫撰』の撰者は、宿屋飯盛(家業=宿屋、国学者=石川雅望)であるが、飯盛は南畝門であり、この『画本虫撰』の背後に南畝が控えていることは、この画本のトップに、上記の「抱一(猿人)の蜂」の狂歌に「南畝(赤良)の毛虫」の狂歌の「歌合(うたあわせ)」を持ってきていることからも明瞭であろう。この南畝(赤良)の狂歌は、次のものである。

 毛をふいてきずやもとめんさしつけて 
  きみがあたりにはひかかりなば (四方赤良)

 これらのことについては、下記のアドレスでも触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-28

 ここで特記して置きたいことは、抱一と抱一一門では、数多くの「四季花鳥図」あるいは「十二か月花鳥図」を、屏風・図巻・画帖・掛物とあらゆる画面形式に描き継がれているが、こと、「蜂と蜂の巣」が取り上げられているのは、この冒頭の、文化十五年(一八一八)、抱一、五十八歳時の作「四季花鳥図巻」のものの他、殆ど見掛けないということなのである。
 そして、この抱一五十八歳時の、抱一代表作の一つの、この「四季花鳥図巻」の「蜂と蜂の巣」は、紛れもなく、抱一二十八歳時の狂歌名・尻焼猿人の名で登場する『画本虫撰』の、上記の歌麿の描いた「蜂と蜂の巣」を、直接・間接とかを問わずモデルとしているように思えるのである。
 抱一の花鳥図の、殊に、その鳥や虫の描写には、やや年代が遡る京都画壇の写生派の元祖・円山応挙や奇想派の巨匠・伊藤若冲などの影響については夙に指摘されているところであるが、同世代且つ同土俵上の先輩絵師にして狂歌師の歌麿の影響というのも大きかったということを特記して置きたい。
 これらのことに関し、『画本虫撰』との観点は、上記アドレス(国立国会図書館蔵)で相互に検討することが出来るが、その『絵本百千鳥』などの挿絵などに関しては、次のアドレス(国立国会図書館蔵)のものとの相互検討が必要となって来る。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8943229

 上記のアドレスで紹介されているもののうち、今回の抱一の『四季花鳥図巻』で前回までに取り上げている「雉(きじ)」と「燕(つばめ)」のものを掲載して置きたい。

歌麿・雉と燕(正).jpg

赤松金鶏撰・喜多川歌麿画『絵本百千鳥(上)』の「雉子と燕」(国立国会図書館蔵)
http://www.photo-make.jp/hm_2/utamaro_momochidori.html

 上記掲載中の「燕子と雉」に関する狂歌は次のとおりである。

燕  酒月米人 つばめにも身をかへてまし下紐を ときはにながくねんとおもへば
雉子 桐一葉  あふときハけんもほろゞな返事して いひ出ん事のはねもすぼめり

その六「夏(一)」

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酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「夏(一)」東京国立博物館蔵
https://image.tnm.jp/image/1024/C0035817.jpg

花鳥巻夏一拡大.jpg

(同上:部分拡大図)

 これまでの「春」(一~五)から「夏」への「季移り」(「連歌・俳諧=連句で、ある季から他の季に雑(ぞう)の句(季語のない句)を挟まずに付けること)の絵図である。右側は前の白い辛夷の花と蕾に続いて、その下側に、朱色の「姫百合」(仲夏の季語)が描かれている。
 その左脇に黄塾した穂麦(初夏の季語)が二本屹立し、その大きな葉を左右に垂らしている。その黄塾した左の葉に交叉して、白い一輪の「罌粟の花」(初夏の季語)の蕾が、右端上部の白い辛夷の花と蕾、そして、左端上部の白い斑点が浮き彫りになっている紫陽花の花(仲夏の季語)と、逆三角形の空間を構成している。
 その逆三角形の空間の、紫陽花の花よりに、真っ赤な大輪の罌粟の花が一輪咲き誇り、その蕊は薄緑と黄で丁寧に描いている。その右脇にひょろりと細く背の高い一輪の罌粟坊主が紫褐色に描かれ、これがまた、その右側の二本の黄褐色の穂麦(その穂麦の無数の毛)と恰も会話しているように描かれている。

百合の花(仲夏・「姫百合・鬼百合・鉄砲百合・笹百合・車百合・山百合・鹿の子百合・透百合・白百合」)「白に紅の斑がある山百合、黄赤に紫の斑がある鬼百合、花が大砲の筒のような鉄砲百合など、原種だけでも百種以上を数える。『ゆり』の語源は『揺り』で、『百合』の字を当てるのは、ゆり根の鱗茎の重なりあうさまからきている。姫百合は山地に自生し、広漏斗形の花を二、三個上向きにつける。花色は黄赤色、濃赤色まれに黄色で、斑点がある。」
 夏の野の茂みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものぞ 坂上郎女「万葉集」
 百合の花折られぬ先にうつむきぬ    其角 「其角発句集」
 飴売の箱にさいたや百合の花      嵐雪 「玄峰集」
 ひだるさをうなづきあひぬ百合の花   支考 「喪の名残」
 かりそめに早百合生けたり谷の房    蕪村 「蕪村句集」

麦(初夏・「大麦・小麦・黒麦・麦の穂・麦畑、・麦生・麦の波・穂麦・熟れ麦」)「晩秋から初冬に蒔かれ、冬を越して晩春には青々とした穂が出る。これが穂麦で、初夏に黄熟し刈り取られる。」
 山賤(しづ)のはたに刈り干す麦の穂のくだけてものを思ふころかな 曾根好忠「曾丹集」
 行駒の麦に慰むやどり哉    芭蕉 「甲子吟行」
 麦の穂を便につかむ別かな   芭蕉 「有磯海」
 いざともに穂麦喰はん草枕   芭蕉 「野ざらし紀行」

罌粟の花(初夏・「芥子の花・花罌粟、薊罌粟、白罌粟」)「五月頃、茎の頂に大輪の花を一つつける。花の色は鮮やかで真紅や純白などがある。「罌粟」として詠まれるのは、ヒナゲシが多い。花径は十センチくらいの一日花である。罌粟その坊主といわれる未熟の果実に傷をつけ、そこから採れる樹脂が阿片の原料となる。
 白芥子や時雨の花の咲きつらん   芭蕉 「鵲尾冠」
 海士の顔先づ見らるゝやけしの花  芭蕉 「笈の小文」
 白げしに羽もぐ蝶の形見哉     芭蕉 「甲子吟行」
 散るときの心やすさよ芥子の花   越人 「猿蓑」
 けしの花見てゐるうちは散らざりし 白雄 「白雄句集」
 僧になる子の美しや芥子の花    一茶 「九番日記」

紫陽花(仲夏・「あじさい・あぢさゐ・かたしろぐさ、四葩の花、七変化、刺繍花、瓊花」)「花びらのような四枚の萼の中心に粒状の花をつけ、これが集まって毬を形づくる。ピンク、白、青紫と花種も多く、また色が変わるので「七変化」ともよばれる。」
 飛ぶ蛍ひかり見え行く夕暮にまほ色残る庭にあぢさゐ 衣笠内大臣「夫木和歌抄」
 紫陽花や藪を小庭の別座敷     芭蕉 「別座鋪」
 紫陽花や帷子時の薄浅黄      芭蕉 「陸奥鵆」
 あぢさゐを五器に盛らばや草枕   嵐雪 「杜撰集」
 あぢさゐに喪屋の灯うつるなり   暁台 「暁台句集」
 あぢさゐや仕舞のつかぬ昼の酒   乙二 「乙二発句集」
 紫陽花やはなだにかはるきのふけふ 子規 「子規全集」

歌麿・蜻蛉・蝶.jpg

喜多川歌麿//筆、宿屋飯盛<石川雅望>//撰『画本虫ゑらみ』国立国会図書館蔵
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288345

 『画本虫撰』中の「蝶と蜻蛉(あきつむし)」の狂歌合わせのものである。

蝶 稀年成
  夢の間は蝶とも化して吸(すひ)みむ恋しき人の花のくちびる
(『荘子』斉物論の「胡蝶の夢」を踏まえている。)
蜻蛉(あきつむし) 一冨士二鷹
  人ごゝろあきつむしともならばなれはなちはやらじとりもちの竿
(「あきつむし」は「蜻蛉」の異名。「飽きる」と掛けての用例である。)

 蜻蛉の尾に触れているのは、「罌粟坊主」(罌粟の実)で、晩夏の季語となる。その罌粟坊主の下に赤と白の斑色の罌粟の花、そして、蝶のとまっているのは白罌粟であろう。この蜻蛉と蝶もさることながら、この罌粟の緻密な描写(木版画・多色摺り)も見事で、これらは冒頭の抱一の『四季花鳥図』・「夏(一)」の罌粟の図(肉筆画)と比較して、例えば、抱一の黄褐色の大麦の穂の色の感じを、この『画本虫撰』・「蝶と蜻蛉」の罌粟図の葉に塗り染めている印象すら抱かせるほど、これが木版画なのかという思いがしてくる。
 この歌麿の『画本虫撰』が刊行されたのは、天明八年(一七八八)、続く、『百千鳥狂歌合』(寛政二年=一七九〇頃刊)と『潮干のつと』(寛政元年=一七八九頃か)、この歌麿の「花鳥図(狂歌歌合)三部作」は、歌麿の無名時代の最期を飾るもので、この後に続く、歌麿の名を不動にする「美人大首絵」時代以降、この種のものは、歌麿は手掛けていない。
 そして、抱一は、この歌麿とは正反対に、その出発点は、歌麿が最終地点に到達した美人画(一枚摺りの錦絵と肉筆画)、その浮世絵美人画(抱一=肉筆画)から画道に目覚め、その最終地点は、歌麿が放棄した、上記の「花鳥図」(「花鳥図三部作」の『画本虫撰』・『百千鳥狂歌合』・『潮干のつと』)の世界であったと、そういう理解も可能であろう。

その七「夏(二)」

花鳥図巻夏二.gif

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「夏(二)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035818

花鳥巻夏二拡大.jpg

(同上:部分拡大図)

 右端は、紫陽花(仲夏・「あじさい・あぢさゐ・かたしろぐさ、四葩の花、七変化、刺繍花、瓊花」)「花びらのような四枚の萼の中心に粒状の花をつけ、これが集まって毬を形づくる。ピンク、白、青紫と花種も多く、また色が変わるので「七変化」ともよばれる。」(再掲「夏一」)。
 左端は、黒揚羽。先の「春三」関連の、揚羽蝶(三夏・「黒揚羽・烏揚羽・烏蝶」)「春はやや小さめだが夏になると一回り大きくなる。」(再掲)。
 この「紫陽花」と「黒揚羽」との間の草花は、右から、「草紫陽花(ピンク)・鉄線花(紫に白)・芍薬(白と赤)」であろう。この鉄線花(花弁六片)は「鉄線蓮(轉子蓮・風車の花)」(花弁八片)なのかどうかは判然としない(『日本の美術№186酒井抱一(千澤梯治編)』)。

芍薬(初夏・「夷草・貎佳草=かおよぐさ」)「牡丹に似ているが、牡丹は木、芍薬は草である。花色も純白から深紅まで、変化に富む。」
 芍薬の蕊の湧き立つ日南(ひなた)かな   太祇 「誹諧新選」
 芍薬に紙魚(しみ)うち払ふ窓の前     蕪村 「新花摘」
 芍薬やおくに蔵ある浄土寺         大江丸「俳懺悔」
 芍薬や四十八夜に切りつくす        白雄 「白雄句集」
 芍薬のつんとさきけり禅宗寺        一茶 「八番日記」

鉄線花(初夏・「てつせんかづら・鉄線・クレマチス」)「初夏、紫または白の六弁の花を咲かせる。花びらが八枚のものは日本原産でクレマチス。蔓が細くて針金のようであることから鉄線と名づけられた。」
 てつせんは花火の花のたぐひかな      季吟 「山の井」
 御所拝観の時鉄線の咲けりしか       子規 「寒山落木」
 鉄線の花さき入るや窓の穴         龍之介「澄江堂句集」

梅園・風車花.jpg

『梅園草木花譜夏之部. 1』(毛氏江元寿梅園直脚<毛利梅園>//書画并撰著)
「風車の花」(鉄線蓮・轉子蓮) 国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286769/34

【『梅園百花画譜』毛利梅園・画 文政八年(一八二五)
毛利梅園は江戸築地に旗本の子として生まれ、二十歳代から博物学に関心を抱き、動植物の精緻で美しいスケッチを数多く残した。他人の絵の模写が多い江戸時代の博物図譜のなかにあって、その大半が実写であることが特色で、動植物を知る良い資料として後世に伝えられている。】(『江戸の動植物図譜(狩野博幸監修・河出書房新社)』) 

 毛利梅園は、寛政十年(一七九八)の生まれ、年代的には歌麿や抱一の次の年代になるが、没したのは嘉永四年(一八五一)で、歌麿はともかくとして、抱一、そして、抱一一門の花鳥画への影響というのは、その程度の差はあれ、何らかの接点はあるような雰囲気を有している。
 例えば、冒頭の抱一の『四季花鳥図巻』の「鉄線花(あるいは「鉄線蓮」)」は、この梅園の描く「風車花」(鉄線蓮)に極めて近い印象を有している。

その八「夏(三)」

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酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「夏(三)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035819

 この絵図の右側は、前回の続きの「芍薬と黒揚羽」の図柄である。前回までの白と赤の芍薬の花の、その赤い花の頭上の揚羽蝶に見合うように、二つの蕾を左上がりの対角線上に描き、それが左端の流水の曲線と結びつくような空間処理を構成している。
 その中央の下部に、「黄色い河骨の花と大きな特徴のある二枚の葉、その二枚の緑葉の中央に、その葉と同じ位の大きさの黒褐色の鷭(ばん)」が描かれている。そして、その左側には、「琳派」の象徴的な花の「燕子花(かきつばた)」が描かれ、その上部には、これまた「琳派」の象徴的な「流水(水紋)」の一部が描かれている。

花鳥巻夏三拡大.jpg

(同上:部分拡大図)

河骨(仲夏・「こうほね・かうほね・かはほね」)「水のきれいな沼、池、川などの浅い所に自生する。太く白い根が白骨のように見える。六~七月頃水中から花茎をのばし、水面上に黄色い花をつける。葉はさといもの葉に似ている。」
 河骨の終にひらかぬ花盛り    素堂 「いつを昔」
 河骨の二もとさくや雨の中    蕪村 「蕪村句集」
 河骨の金鈴ふるふ流れかな    茅舎 「華厳」

鷭(三夏・「大鷭・小鷭・誰首鶏=ばんしゅけい)「草深い水辺に繁殖する夏鳥。全体が黒褐色で額から嘴にかけて赤い。嘴の先端は黄色で脚が長い。大鷭は嘴と額板が白い。小鷭は額板と嘴の基部が赤い。上図は小鷭のようである。」
 雨催ひ鷭の翅に猶暗し        嘯山 「葎亭句集」
 舟ゆけば蒲(かば)綾なすや鷭のこゑ 波郷 「鶴」

燕子花(仲夏・)「尾形光琳の『燕子花図屏風』に描かれている水辺の花。剣のような葉と紫の花で一目でこの花と分かる。『燕子花』字は花の姿が燕の姿を思わせるところからきている。」
 杜若語るも旅のひとつ哉       芭蕉 「笈の小文」
 杜若われに発句の思ひあり      芭蕉 「千鳥掛」
 有難きすがた拝まんかきつばた    芭蕉 「泊船集」
 杜若にたりやにたり水の影      芭蕉 「続山の井」
 朝々の葉の働きや燕子花       去来 「俳諧古選」
 宵々の雨に音なし杜若        蕪村 「蕪村句集」

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『十二か月花鳥図(抱一筆)』五月「燕子花に鷭図」(「宮内庁三の丸尚蔵館蔵=宮内庁本」)

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『十二か月花鳥図(抱一筆)』五月「燕子花・河骨・鴨図」(「出光美術館蔵=出光本」)

 抱一の画業の最期を飾るものは、十二ケ月に因む花と鳥を組み合わせた「十二か月花鳥図」の連作である。それらは、「宮内庁三の丸尚蔵館蔵=宮内庁本、出光美術館蔵=出光本、畠山記念館本、香雪美術館本、ブライス・コレクション本・ファインバーグ・コレクション本」などを目にすることが出来る。それらの根底を為すものが、この「四季花鳥図巻」のように解せられる。

その九「夏(四)」

花鳥巻夏四.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「夏(四)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035820

 この『四季花鳥図巻(上=春夏)』の巻末の図柄は、抱一が畏敬して止まない尾形光琳の「燕子花と流水」を念頭に置いたものであろう。

燕子花・紅白梅.jpg

「尾形光琳300年忌記念特別展燕子花と紅白梅光琳デザインの秘密」(出光美術館)
http://www.nezu-muse.or.jp/jp/exhibition/past2015_n03.html

花鳥巻夏四拡大.jpg

(『四季花鳥図巻(上=春夏)』「夏(四)」同上:部分拡大図)

 この左端の燕子花の上に咲いている白い花は「沢瀉(おもだか)」であろう。

沢瀉(仲夏・「面高・花慈姑=はなくわい・生藺=なまい」)「沼、池等の水中に自生する。根から矢じり形の特徴のある葉が出て葉の間から花茎をのばし三片の白い涼しげな花を咲かせる。」

 破れ壺におもだか細く咲きにけり   鬼貫 「大丸」
沢瀉や花の数添ふ魚の泡       太祇 「太祇句選」
 沢瀉は水のうらかく矢尻かな     蕪村 「落日庵句集」

夏草図屏風.jpg

尾形光琳筆「夏草図屏風」二曲一双 紙本金地着色 根津美術館蔵 
署名「法橋光琳」 印章「方祝」朱文円印 各一六九・七×一七八・二cm

 この右上から左下への大胆な対角線構図は、「紅白梅図屏風」の流水を草花に置き換えたものとして夙に知られている。この左下に、燕子花と沢瀉が描かれている。この右上から左下に流れるように描かれている草花は、上から「※菫・石蕗(つわぶき)・※土筆・※蒲公英・※薺・都忘(みやこわすれ)・※桜草・穂反萱(ほかえりかや)・二輪草・薊・牡丹・春菊・※芥子・海老根・撫子・※母子草・八重葎・立葵・石竹・※鉄砲百合・銭葵・檜扇・※風車・黄蜀葵(とろろあおい)・岩菲(がんぴ)・擬宝珠・※燕子花・※沢瀉・水葵」などのようである(『特別展 光琳と乾山 芸術家兄弟・響き合う美意識(根津美術館)』)。
 ここであらためて抱一の『四季花鳥図巻(上=春夏)』と比較すると、上記の※印のものは、その中で書かれているものである。そして、この『四季花鳥図巻(上=春夏)』では描かれていないものも、抱一の他の「四季花鳥図屏風」や「十二か月花鳥図」などで描かれているものばかりなのである。
 しかし、光琳には、「草・花と鳥・虫」などの相互の関係を密にしたものは見当たらない。そして、光琳の実弟の尾形乾山が、「色絵定家詠十二ケ月和歌花鳥図角皿」で「木・花・草と鳥」(狩野探幽の「定家詠十二ケ月和歌花鳥図画帖(出光美術館蔵)」の図様を参考にしている)とを見事に結実させ、京都の乾(北西)の鳴滝泉谷に開いた「鳴滝窯」のヒット商品として世に出している。そして、乾山はこの画題を終世愛好し、晩年の江戸に出て来てからも、この画題での掛幅ものを今に遺している。
 抱一の、この光琳・乾山へのオマージュとその顕彰の軌跡は次のとおりである。

【 文化3年(1806年)2月29日、抱一は追慕する宝井其角の百回忌にあたって、其角の肖像を百幅を描き、そこに其角の句を付け、人々に贈った。これがまもなく迎える光琳の百回忌を意識するきっかけになったと思われ、以後光琳の事績の研究や顕彰に更に努める。
其角百回忌の翌年、光琳の子の養家小西家から尾形家の系図を照会し、文化10年(1813年)これに既存の画伝や印譜を合わせ『緒方流略印譜』を刊行。落款や略歴などの基本情報を押さえ、宗達から始まる流派を「緒方流(尾形流)」として捉えるという後世決定的に重要な方向性を打ち出した。
 光琳没後100年に当たる文化12年(1815年)6月2日に光琳百回忌を開催。自宅の庵(後の雨華庵)で百回忌法要を行い、妙顕寺に「観音像」「尾形流印譜」金二百疋を寄附、根岸の寺院で光琳遺墨展を催した。この展覧会を通じて出会った光琳の優品は、抱一を絵師として大きく成長させ大作に次々と挑んでいく。琳派の装飾的な画風を受け継ぎつつ、円山・四条派や土佐派、南蘋派や伊藤若冲などの技法も積極的に取り入れた独自の洒脱で叙情的な作風を確立し、いわゆる江戸琳派の創始者となった。
 光琳の研究と顕彰は以後も続けられ、遺墨展の同年、縮小版展覧図録である『光琳百図』を出版する。文政2年(1819年)秋、名代を遣わし光琳墓碑の修築、翌年の石碑開眼供養の時も金二百疋を寄進した。抱一はこの時の感慨を、「我等迄 流れをくむや 苔清水」と詠んでいる。
 文政6年(1823年)には光琳の弟尾形乾山の作品集『乾山遺墨』を出版し、乾山の墓の近くにも碑を建てた。死の年の文政9年(1826年)にも、先の『光琳百図』を追補した『光琳百図後編』二冊を出版するなど、光琳への追慕の情は生涯衰えることはなかった。これらの史料は、当時の琳派を考える上での基本文献である。また、『光琳百図』は後にヨーロッパに渡り、ジャポニスムに影響を与え、光琳が西洋でも評価されるのに貢献している。 】

https://ja.wikipedia.org/wiki/酒井抱一

その十「秋(一)」

花鳥巻秋一.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「秋(一)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035821

 ここから『四季花鳥図巻』の下巻(秋冬)がスタートする。中央のやや左寄りの上空に、満月の半円(下部)が描かれている。四季の景物を代表するものが、「花(晩春の季語)と月(三秋の季語)」で、連歌・俳諧(連句)では,懐紙各折の表裏(用紙を半折にし、その裏・表)にもれなく配するための規定である。
 懐紙四折を用いる百韻(百句形式の連歌・連句)では,各折に花、各折の表裏に月、但し最後の折の裏の月は省略して「四花七月」とする制(決まり)が定まっている。懐紙二折を用いる歌仙(三十六形式の連歌・連句)では,これに準じて「二花三月」との制(決まり)が定まっている。
 その上空の銀色の月から右下がりの対角線状に紅色の萩、そして左下がりの対角線状に白の萩が垂れ下がっている。その白萩の下に一羽の「あおじ(蒿雀・青鵐)」が描かれている。
 その「あおじ」の左脇には、紺色の朝顔と黄色の花(岩菲=がんび?)が咲いている。

花鳥巻秋一拡大.jpg

同上:部分拡大図

 この「あおじ(蒿雀・青鵐)」の右側に描かれているのは「鈴虫」(初秋の季語)、そして、この(「拡大図」)の右端の赤萩にとまっているのは「松虫」(初秋の季語)と区別しているのかも知れない((『日本の美術№186酒井抱一(千澤梯治編)』)では「松虫」の記述はない)。

月(三秋・「四日月、五日月、八日月、十日月、月更くる、月上る、遅月、月傾く、月落つ、月の秋、月の桂、桂男、月の兎玉兎、月の蛙、嫦娥、孀娥、月の鼠、月の都、月宮殿、月の鏡、月の顔、胸の月、心の月、真如の月、袖の月、朝月日、夕月日、月の出潮、月待ち、昼の月、薄月、月の蝕、月の暈、月の輪、月の出、月の入、月渡る、秋の月、月夜、月光、月明、月影、月下、上弦、下弦、弓張月、半月、有明月」)「秋の月である。春の花、冬の雪とともに日本の四季を代表する。ただ月といえば秋の月をさすのは、秋から冬にかけて空が澄み、月が明るく大きく照りわたるからである。新月が朔日(一日)で満月がだいたい十五日となる。したがってどの月も、満月は十五日ころになる。月の形は新月から三日月、上弦の月、満月、下弦の月(弓張月)、新月と変化する。」
 こぞ見てし秋の月夜は照らせども相見し妹はいや年さかる 柿本人麻呂「万葉集」
 あまの原ふりさけ見れば春日なるみかさの山に出でし月かも 安倍仲麿「古今集」
 鎖(ぢやう)あけて月さし入れよ浮御堂      芭蕉 「笈日記」
 月さびよ明智が妻の話せん            芭蕉 「勧進牒」
 われをつれて我影帰る月夜かな          素堂 「其袋」
 声かれて猿の歯白し峰の月            其角 「句兄弟」
 家買ひて今年見初むる月夜かな          荷兮 「炭俵」
 月に来よと只さりげなき書き送る         子規 「新俳句」

名月(仲秋・「明月、満月、望月、望の月、今日の月、月今宵、今宵の月、三五の月、三五夜、十五夜、芋名月、中秋節」)「旧暦八月十五日の月のこと。団子、栗、芋などを三方に盛り、薄の穂を活けてこの月を祭る。」
 水の面に照る月なみを数ふれば今宵ぞ秋のも中なりける 源順「拾遺集」
 名月や池をめぐりて夜もすがら     芭蕉 「孤松」
 名月や北国日和定めなき        芭蕉 「奥の細道」
 命こそ芋種よ又今日の月        芭蕉 「千宜理記」
 たんだすめ住めば都ぞけふの月     芭蕉 「続山の井」
 木をきりて本口みるやけふの月     芭蕉 「江戸通り町」
 蒼海の浪酒臭しけふの月        芭蕉 「坂東太郎」
 盃にみつの名をのむこよひ哉      芭蕉 「真蹟集覧」
 名月の見所問ん旅寝せん        芭蕉 「荊口句帳」
 三井寺の門たゝかばやけふの月     芭蕉 「酉の雲」
 名月はふたつ過ても瀬田の月      芭蕉 「酉の雲」
 名月や海にむかかへば七小町      芭蕉 「初蝉」
 明月や座にうつくしき顔もなし     芭蕉 「初蝉」
 名月や兒(ちご)立ち並ぶ堂の縁    芭蕉 「初蝉」
 名月に麓の霧や田のくもり       芭蕉 「続猿蓑」
 明月の出るや五十一ヶ条        芭蕉 「庭竈集」
 名月の花かと見えて棉畠        芭蕉 「続猿蓑」
 名月や門に指しくる潮頭        芭蕉 「三日月日記」
 名月の夜やおもおもと茶臼山      芭蕉 「射水川」
 名月や海もおもはず山も見ず      去来 「あら野」
 名月や畳の上に松の影         其角 「雑談集」
 むら雲や今宵の月を乗せていく     凡兆 「荒小田」
 名月や柳の枝を空へふく        嵐雪 「俳諧古選」
 名月やうさぎのわたる諏訪の海     蕪村 「蕪村句集」
 山里は汁の中迄名月ぞ         一茶 「七番日記」
 名月をとつてくれろと泣く子かな    一茶 「成美評句稿」
 名月や故郷遠き影法師         漱石 「漱石全集」

萩(初秋・「鹿鳴草・鹿妻草・初見草・古枝草/・見草・月見草・萩原・萩むら・萩の下風・萩散る・こぼれ萩・乱れ萩・括り萩・萩の戸・萩の宿・萩見」)「紫色の花が咲くと秋と言われるように、山萩は八月中旬から赤紫の花を咲かせる。古来、萩は花の揺れる姿、散りこぼれるさまが愛され、文具、調度類の意匠としても親しまれてきた。花の色は他に白、黄。葉脈も美しい。」
 白露もこぼさぬ萩のうねりかな     芭蕉 「栞集」
 一家に遊女もねたり萩と月       芭蕉 「奥の細道」
 行々てたふれ伏すとも萩の原      曽良 「奥の細道」
 小狐の何にむせけむ小萩はら      蕪村 「落日庵句集」
 萩散りぬ祭も過ぬ立仏         一茶 「享和句集」
 白萩のしきりに露をこぼしけり     子規 「寒山落木」

鈴虫(初秋・「金鐘児(すずむし)・月鈴子(すずむし)」)「かつては鈴虫を松虫、松虫を鈴虫と逆に呼んでいた。鈴を振る、経る、古る、降るなど掛詞として和歌の世界でも愛されてきた。」
 鈴虫や松明先へ荷はせて        其角 「いつを昔」
 更るほど鈴虫の音や鈴の音       之道 「あめ子」
 よい世とや虫が鈴ふり鳶が舞ふ     一茶 「七番日記」
 飼ひ置きし鈴虫死で庵淋し       子規 「子規全集」

松虫(初秋・「金琵琶・青松虫・ちんちろ・ちんちろりん」)「実際(現実)の松虫は、やや赤みをおびた黒色(飴色)で、鳴き声は「チンチロリン」。鈴虫は蟋蟀(コオロギ)に似た黒色で、鳴き声は「りーんりーん」。これが、江戸時代(『甲子夜話』)は、「松むしといへるは色くろく、鈴むしはあかきをいへり」と、松虫=黒、鈴虫=飴色で、現在と逆に理解されていたようである。上記の抱一のものは(部分拡大図)、地面で鳴いているのが「鈴虫=飴色」で、萩にとまって鳴いているのが「松虫=黒色」と、鈴虫と松虫とを峻別して描いているように思われる。
 まくり手に松虫さがす浅茅かな     其角 「句兄弟」
 松虫のりんとも言はず黒茶碗      嵐雪 「風俗文選」 
 松虫のなくや夜食の茶碗五器      許六 「鯰橋」
 松虫も馴れて歌ふや手杵臼       卓袋 「続有磯海」

あおじ(三夏・「蒿雀・青鵐」)「背は緑褐色であるが、喉から腹は黄色で黒い小斑点がとび、地面に降り立つ時などはその黄色が目につく。」
 青鵐鳴き新樹の霧の濃く淡く      秋櫻子「古鏡」
 青鵐鳴き野あやめ霧にしづくせり    秋櫻子「蘆雁」
 林ゆき青鵐が鳴けり初日さす      秋櫻子「雪蘆抄」

岩菲(初夏・「がんぴ・岩菲仙翁=がんぴせんのう」)「葉は長卵形で厚く、黄赤色の五弁花を開く。白い花のものもある。」
 から絵もやうつすがんぴの花の色    季吟「山の井」
 蜘蛛の糸がんぴの花をしぼりたる    虚子「虚子全集」
 たまに来るがんぴの花のしじみ蝶    立子「ホトトギス」

歌麿・松虫・蛍.jpg

喜多川歌麿//筆、宿屋飯盛<石川雅望>//撰『画本虫ゑらみ』国立国会図書館蔵
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288345

 松虫  土師掻安
  蚊帳つりて人まつ虫はなくばかりなにおもしろきねどころじやない
  (「人まつ虫」=「人待つ」と「松虫」の掛け。「ねどころじやない」=「音(ね)」と「寝    どころ」を掛けている用例。)
 蛍   洒楽斎瀧麿
  佐保川の水も汲まず身は蛍中よしのはのくされゑんとて
(「中よし」=「仲良し」と「なか葦の葉」の掛け。「くされゑん」=「腐れ」と「腐れ縁
  を掛けている用例。)

歌麿・松虫拡大.jpg

同上:部分拡大図

 上図の歌麿の『画本虫撰』の「松虫と蛍」の絵図は、夜の風景で、全体を「雲英(きら)摺り」(雲母の粉を絵具に応用して摺ったり刷毛でひいたりして余白をつぶす浮世絵版画の技法)で仕上げている。左側の飛んでいる蛍と草に停まって蛍の尻が白く光っている。また、右の花に停まっている「松虫」(部分拡大図)は、現在の「鈴虫」(黒色)で、冒頭の抱一の「松虫」と向き恰好は違うが、形状は同じものと思われる。そして、抱一の地面上の虫は「松虫」(飴色)で、現在の「鈴虫(黒色)・松虫(飴色)」と逆に理解すべきなのであろう。

その十一「秋(二)」

花鳥巻秋二.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「秋(二)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035822

花鳥巻秋二拡大.jpg

同上:部分拡大図

 右から、前図に続く「朝顔」と、その上の黄色い花は、尾形光琳の「夏草図屏風」に連なる「岩菲の花」はそのままにして置きたい。そして、朝顔の下の白い蕾のようなものは、白い「綿の実」(「部分拡大図」の右脇)と解したい。そして、それに連なる黄色い一輪の花は「綿の花」と解したい。そして、それに続く、「白い大輪(蕊はピンク)・蕾二つ」は「木槿」であろう。その脇の大きな朱の花は「鶏頭」で下部に小花を咲かせている。木槿や鶏頭の背後に描かれているピンクの粒状の花は「蓼の花」であろう。

朝顔(初秋・「牽牛花・西洋朝顔」)「朝顔は、秋の訪れを告げる花。夜明けに開いて昼にはしぼむ。旧暦七月(新暦では八月下旬)の七夕のころ咲くので牽牛花ともよばれる。花の色は、白、紫、紅、藍などさまざま。日本で鑑賞用に改良され、大輪や変わり咲き、斑入りなど多くの園芸種がある。山上憶良の「萩の花尾花葛花撫子の花女郎花また藤袴朝顔の花」『万葉集』の「朝顔」は桔梗または木槿の花であるとされる。」
 高円の野辺の容花おもかげに見えつつ妹は忘れかねつも   大伴家持「万葉集」
 うちつけにこしとや花の色を見むおく白露の染むるばかりを 矢田部名実「古今集」 
 朝貌や昼は錠おろす門の垣          芭蕉 「炭俵」
 あさがほに我は飯くふおとこ哉        芭蕉 「虚栗」
 あさがほの花に鳴行蚊のよわり        芭蕉 「句選拾遺」
 朝顔は酒盛知らぬさかりかな         芭蕉 「笈日記」
 蕣(あさがほ)は下手の書くさへ哀也     芭蕉 「続虚栗」
 蕣や是も又我が友ならず           芭蕉 「今日の昔」
 三ケ月や朝顔の夕べつぼむらん        芭蕉 「虚栗」
 わらふべし泣くべし我朝顔の凋(しぼむ)時 芭蕉 「真蹟懐紙」
 僧朝顔幾死かへる法の松 芭蕉 「甲子吟行」
 朝がほや一輪深き淵のいろ         蕪村 「蕪村句集」
 あさがほや夜は葎のばくち宿        去来 「菊の香」
 蚊屋ごしに蕣見ゆる旅寝哉         士朗 「枇杷園句集」
 朝顔の垣や上野の山かつら         子規 「子規句集」
 朝貎や咲いた許りの命哉          漱石 「漱石全集」
 朝がほや濁り初めたる市の空        久女 「杉田久女句集」

木槿(初秋・「きはちす・はなむくげ」)「紅紫色を中心に、白やしぼりの五弁の花を咲かせる。朝咲いて夕暮れには凋む。はかないものの例えにもなる。」
 道のべの木槿は馬に食はれけり       芭蕉 「野ざらし紀行」
 花むくげはだか童のかざし哉        芭蕉 「東日記」
 手をかけて折らで過ぎ行く木槿哉      杉風 「炭俵」
 川音や木槿咲く戸はまだ起きず       北枝 「卯辰集」
 修理寮の雨にくれゆく木槿かな       蕪村 「落日庵句集」
 蜘(くも)の網かけて夜に入る木槿哉     希因 「暮柳発句集」
 かまくらやむくげのうえの大仏       大江丸「はいかい袋」

鶏頭(三秋・「鶏頭花・鶏冠・からあゐ」)「一メートル弱の茎先にニワトリのとさかのような真っ赤な細かい花をつける。黄や白の花もある。庭先などに植えられ、花が少なくなる晩秋までその姿を楽しませてくれる。江戸期までは若葉を食用にしていた。」
 鶏頭や雁の来る時尚あかし         芭蕉 「初蝉」
 鶏頭や松にならひの清閑寺         其角 「五元集」
 味噌で煮て喰ふとは知らじ鶏頭花      嵐雪 「玄峰集」
 鶏頭の昼をうつすやぬり枕         丈草 「東華集」
 錦木は吹倒されてけいとう花        蕪村 「夜半叟句集」
 鶏頭や一つはそだつこぼれ種        太祇 「太祇句選」
 ぼつぼつと痩せけいとうも月夜なり     一茶 「文化句帖」
 鶏頭の十四五本もありぬべし        子規 「俳句稿」

蓼の花(初秋・「蓼の穂・穂蓼・蓼紅葉」)「花は赤と白がある。ままごとの赤飯として使わ
れ、アカノママという種類もある。田の畦や道端など人の暮らしの近くに自生するが観賞用としても栽培される。粒状の小さな花をつけた花穂が可愛いらしい。」
 草の戸を知れや穂蓼に唐辛子        芭蕉 「笈日記」
 醤油くむ小屋の境や蓼の花         其角 「末若葉」
 三径の十歩に尽て蓼の花          蕪村 「蕪村句集」
 浅水に浅黄の茎や蓼の花          太祇 「俳諧新選」
 溝川を埋めて蓼のさかりかな        子規 「子規句集」

綿の花(晩夏)「盛夏の頃、葉のわきに白、淡黄色の大きな美しい五弁花を開く。花のあと球形の果実となり、熟すと綿毛を持つ種をとばす。」
 丹波路や綿の花のみけふもみつ       蘭更 「半化坊発句集」
 大坂の城見えそめてわたの花        几薫 「晋明集四稿」

綿取(三秋・「綿取る・綿の桃・綿摘む・綿摘・綿干す・綿繰・綿打・綿打弓・綿弓・綿初穂)「綿の実から綿の繊維をとること。棉は、その実が熟すと裂けて綿の繊維を吹き出す。これをとって綿と種とに分け、さらに不純物を取り除き、綿糸の原料にする。」
 国富むや薬師の前の綿初尾         鬼貫 「犬居士」
 綿弓や琵琶に慰む竹の奥          芭蕉 「野ざらし紀行」
 生綿取る雨雲たちぬ生駒山         其角 「陸奥鵆」
 山の端の日の嬉しさや木綿とり       浪化 「草苅笛」
 綿取りや犬を家路に追ひ帰し        蕪村 「落日庵句集」
 綿とりのうたうて出たる日和かな      蝶夢 「草根発句集」
 門畑や下駄はきながら木わた取       樗良 「几董日記」
 洪水のあとに取るべき綿もなし       子規 「新俳句」

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円山応挙筆「子犬に綿図」(岡田美術館蔵)
https://www.museum.or.jp/modules/im/index.php?content_id=1058

 円山応挙の「子犬・狗子(くし)」図は何種類もあって、「応挙の狗(いぬ)」として夙に知られている。これは「子犬」と「黄色い綿の花・白い綿の実」の取り合わせのものであって、冒頭の抱一の絵図の「白い綿の実と黄色い花」を鑑賞する一つの足掛かりになる。

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円山応挙筆「秋・「朝顔狗子図杉戸」(東京国立博物館蔵)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/heritagebig/234084/0/1

 こちらは「応挙の狗(いぬ)」の「子犬」と「地を這う朝顔」のものである。この朝顔も、冒頭の抱一の絵図の「朝顔」を鑑賞する一つの足掛かりになる。

その十二「秋(三)」

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酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「秋(三)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035823

花鳥巻秋三拡大.jpg

同上:部分拡大図
https://image.tnm.jp/image/1024/C0035823.jpg

 右の「葡萄」は前図に続いている。その葡萄の蔓は左下がりの対角線状に描かれ、それが次の図柄の「水引草」の右上がり対角線状の蔓と対比する空間に、二羽の小さな鳥(「菊戴」)が飛翔している。その菊戴は、あたかも、細い水引草の小さい粒状の花を啄むようで、この微小な水引の花に、微小な小鳥の菊戴がよく似合っている。その菊戴の侵入を阻止するかのように、左端の上空に「蟷螂(とうろう・かまきり)」が、鎌のような肢を折り曲げている。
 その蟷螂(かまきり)の下には、ピンク色の酔芙蓉が咲いている。蟷螂(かまきり)は、その酔芙蓉の先にとまっているのか、それとも、この左図から伸びている菊の葉の上にとまっているのかは定かではない。この蟷螂(かまきり)は、明らかに、中央を飛翔している菊戴よりも大きい感じで、これはメルヘンの世界という雰囲気である。
 「 夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
   水引草に風が立ち
   草ひばりのうたひやまない
   しづまりかへつた午(ひる)さがりの林道を 」
 (立原道造『萱草に寄す』所収「のちのおもひに」) 

葡萄(仲秋・「黒葡萄・葡萄園・葡萄棚・葡萄狩」)「蔓性でどんどん伸びる。葉は心臓形でぎざぎざしている。緑色の粒状の花をつける。八月から十月にかけて実が熟す。」
 枯れなんとせしをぶだうの盛りかな    蕪村 「夜半叟句集」
 後の月葡萄に核の曇り哉         成美 「成美家集」
 黒葡萄天の甘露をうらやまず       一茶 「九番日記」
 黒きまで紫深き葡萄かな         子規 「子規句集」
 亀甲の粒ぎつしりと黒葡萄        茅舎 「川端茅舎句集」

水引の花(仲秋・「水引草・水引・金線草・銀水引・御所水引・金糸草・毛蓼」)「八月頃花軸をのばし、赤い小花を無数につける。花の下側が白く、紅白の水引のように見えることからこの名がついた。」
 かひなしや水引草の花ざかり      子規 「季語別子規俳句集」
 木もれ日は移りやすけれ水引草     水巴 「水巴句集」

芙蓉(初秋・「木(もく)芙蓉・白芙蓉・紅芙蓉・花芙蓉・酔芙蓉」)「八月から十月にかけて白、あるいは淡紅色の五弁の花を咲かせるが、夕方にはしぼんでしまう。咲き終わると薄緑色の莟のような実ができる。」
 枝ぶりの日ごとにかはる芙蓉かな    芭蕉 「後れ馳」
 霧雨の空を芙蓉の天気哉        芭蕉 「韻塞」
 日を帯びて芙蓉かたぶく恨みかな    蕪村 「遺草」
 芙蓉さく今朝一天に雲もなし      紫暁 「鴈風呂」
 松が根になまめきたてる芙蓉かな    子規 「子規句集」

菊戴(晩秋・「きくいただき・まつむしり」)「体長は十センチくらいで、日本で最小の鳥といわれる。冬場は里に移動する。頭の黄色い冠羽が菊の花を思わせるためこの名がある。」
 群来るや菊戴のかつき染        柳居 「類題発句集」 

かまきり(三秋・「蟷螂=たうらう・鎌切・斧虫・いぼむしり・いぼじり・祈り虫」)「頭は三角形、前肢は鎌状の捕獲肢となり、他の虫を捕えて食す。緑色または褐色。」
 蟷螂や露引きこぼす萩の枝       北枝 「北枝発句集」
 蟷螂が片手かけたりつり鐘に      一茶 「七番日記」
 蟷螂は馬車に逃げられし馭者のさま   草田男 「来し方行方」

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伊藤若冲筆『玄圃瑤華』所収「冬葵」(紙本拓版各28.2×17.8㎝)
https://intojapanwaraku.com/jpart/1252/

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伊藤若冲筆・桂州道倫賛「鶏頭に蟷螂図(部分図)」(紙本着色103.1×55.5cm)
https://i.pinimg.com/originals/9b/49/16/9b4916ddda5417adda39ad2efb98d80f.jpg

カマキリ・糸瓜.jpg

伊藤若冲筆「糸瓜群虫図(部分図)」(紙本着色111.5×48.2cm)細見美術館蔵
http://takannex.fc2web.com/11insect2.html

上記の『玄圃瑤華』所収のものは、抱一の『手鑑帖』の何点(十一点?)かで、それを改変して創作していることが明瞭になっている(『別冊太陽 江戸琳派の粋人・酒井抱一』所収「手鑑帖 抱一が見せた技の多彩さ(仲町啓子稿)」)。

『玄圃瑤華』所収「芭蕉」 → 『手鑑帖』所収「芭蕉の花に蟻図」
(若冲の「破れたり虫に食われている葉や不気味なハサミ虫」を、抱一は「墨の濃淡のみで破れや虫食いなどの痕跡を取り除き穏やかなもの」に修正し、「ハサミムシは蟻」に変えている。)

『玄圃瑤華』所収「大豆」 → 『手鑑帖』所収「葛に蜥蜴と蚊図」
(若冲の「大豆」は抱一が得意とした「葛」に変えられている。取り入れたのは「蜥蜴」の形状だが、それを着色して見事に転換している。)

 この若冲の『玄圃瑤華』(四十二図)の「玄圃」は仙人の居どころ、「瑤華」は玉のように美しい花という意のようで、それらは「拓版画」の、さながら若冲の「モノクロ・ミクロ動植画」の世界とすると、抱一の『手鑑帖』(七十二図)は、抱一の一門への「手鑑」(名家の筆跡等を集めて筆跡鑑定等の見本としたもの)とすべき、広いレパートリーの、さながら抱一の「ミクロ・マニュアル動植彩画」の世界のものということになる。

その十三「秋(四)」

花鳥巻秋四.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「秋(四)」東京国立博物館蔵
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花鳥巻秋四拡大.jpg

同上:部分拡大図

 右側に三種類の菊(白とピンク掛かった厚物の菊と白の御紋章菊」)、そして左側には小さな野菊(青紫色の「嫁菜」)が咲いている。その間に、刈萱や薄が右側の白菊の方に靡き、落葉(楓の紅葉と銀杏の黄葉)も描かれている。そして、この絵図のメインの左側の楓の木に大きく啄木鳥が描かれ、その楓の紅葉した枝が右側の白菊に呼応しているように描かれている。

菊(三秋・「白菊・黄菊・一重菊・八重菊・大菊・中菊・小菊・厚物咲・初菊・乱菊・懸崖菊・菊の宿・菊の友・籬の菊)「秋を代表する花として四君子(梅竹蘭菊)の一つでもある。江戸時代になって観賞用としての菊作りが盛んになる。香りよく見ても美しい。」
 菊の香や奈良には古き仏達     芭蕉 「杉風宛書簡」
 菊の花咲くや石屋の石の間     芭蕉 「翁草」
 琴箱や古物店の背戸の菊      芭蕉 「住吉物語」
 白菊の目にたてゝ見る塵もなし   芭蕉 「笈日記」
 黄菊白菊其の外の名はなくもなが  嵐雪 「其袋」
 手燭して色失へる黄菊かな     蕪村 「夜半叟句集」
 あるほどの菊抛げ入れよ棺の中   漱石 「漱石全集」
 御空より発止と鵙や菊日和     茅舎 「川端茅舎句集」

野菊(仲秋・「紺菊・野紺菊・竜脳菊・油菊」)「山野に咲く菊の総称。色もさまざまで、野路菊は白、油菊は黄、野紺菊は淡い紫、海辺に咲く白い浜菊も美しい。」
 撫子の暑さ忘るる野菊かな     芭蕉 「旅館日記」
 名もしらぬ小草花咲く野菊かな   素堂 「嚝野句集」
 重箱に花なき時の野菊哉      其角 「句兄弟」
 朝見えて痩たる岸の野菊哉     支考 「其便」
 なつかしきしをにがもとの野菊哉  蕪村 「蕪村句集」
 足元に日のおちかかる野菊かな   一茶 「文化句帖」
 湯壷から首丈出せば野菊かな    漱石 「漱石全集」

刈萱(仲秋・「雌刈萱・雄刈萱」)「メガルカヤとオガルカヤ(スズメカルカヤ)があり、カルカヤは二種の総称。昔は屋根を葺くために用いられた。イネ科の多年草で日本各地の山野に自生する。高さは一メートル前後。」
 刈萱は淋しけれども何とやら    重頼 「藤枝集」
 かるかやや滝より奥のひと在所   蒼虬 「蒼虬翁句集」

芒(三秋・「薄・糸薄・鬼薄・芒原・むら薄・薄の糸・薄野・乱れ草・縞薄」)「月見のおそなえとして秋の代表的な植物。秋の七草のひとつでもある。」
 糸薄蛇にまかれてねまりけり    芭蕉 「句解参考」
 何ごともまねき果たるすゝき哉   芭蕉 「続深川集」
 行く秋の四五日弱るすすきかな   丈草 「猿蓑」
 一雨のしめり渡らぬ薄かな     支考 「西の雲」
 山は暮て野は黄昏の薄哉      蕪村 「蕪村句集」
 夕闇を静まりかへるすすきかな   暁台 「暁台句集」
 猪追ふや芒を走る夜の声      一茶 「句帖」
 取り留むる命も細き薄かな     漱石 「漱石全集」

楓(晩秋・「かへるで・山紅葉/・かへで紅葉」)「楓は色づく樹々の中で特に美しく代表的なもの。その葉の形が蛙の手に似ていることから古くは「かえるで」とも。」
 楓橋は知らず眠さは詩の心     支考 「東西夜話」
 紅楓深し南し西す水の隈      几菫 「井華集」

紅葉かつ散る(晩秋・「色葉散る・木の葉かつ散る」)「紅葉しながら、ちりゆく紅葉のこと。」
 かつ散りて御簾に掃かるる栬(もみぢ)かな   其角  「続虚栗」

銀杏黄葉(晩秋・「いちょうもみじ・いてふもみぢ」)「銀杏が色づくこと。日を浴びて黄落するさまは荘厳でさえある。」
 いてふ葉や止まる水も黄に照す         嘯山 「葎亭句集」
 北は黄にいてふぞ見ゆる大徳寺         召波 「春泥句集」 

啄木鳥(三秋・「けら・赤げら・青げら・小げら・山げら」「小げら、赤げら、青げらなどキツツキ科の鳥の総称。餌を採るときの木を叩く音と、目立つ色彩が、晩秋の雑木林などで印
象的。」
 木啄の入りまはりけりやぶの松         丈草 「有磯海」
 木つつきのつつき登るや蔦の間         浪化 「柿表紙」
 手斧打つ音も木ぶかし啄木鳥          蕪村 「明和八年句稿」
 木つつきの死ねとて敲く柱かな         一茶 「文化句帖」
 啄木鳥の月に驚く木の間かな          樗堂 「萍窓集」

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『十二か月花鳥図(抱一筆)』十二月「檜に啄木鳥図」(「宮内庁三の丸尚蔵館蔵=宮内庁本」)
【絹本着色 十二幅 (一~四、九~十二月 各一四〇・二×四九・三cm) (五~八月 各一三九・五×五〇・五cm) 文政六年(一八二三) 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂刊)』)

檜・啄木鳥二.jpg

同上:部分拡大図

【 宮内庁本の「十二か月花鳥図」の冬「十二月」に描かれた花鳥は「檜に藪柑子」そしてあしらい(注・俳諧用語「会釈」)の鳥は「啄木鳥」である。このうち「檜」も「藪柑子」も冬の季語とされるので「十二月」の「花」として扱われることは問題はない。 だが「啄木鳥」は基本的には秋の季語とされている。(中略)俳諧的感覚としてみれば季語性の「ずれ」が生じているのである。玉蟲氏(注・「酒井抱一の”新”十二か月花鳥図をめぐってー花鳥画の衣更えの季節」の筆者)は、抱一の花鳥画において、このような「ずれ」が生じた理由を、「(抱一画では)主要画材は色彩、構成上きわだたせるために、その素材の季節があまり重視されなかった」ためだと考察している。(中略)俳人抱一でさえも、その個々の素材の季語性を無視する姿勢を 時代的に広重に先んじてすでに持っていた、という点である。またこれを言い換えれば、抱一も広重も、対象とする題材が狙っていた季語という慣習(コンヴェンション)をもはや重視せず、自らが描こうとする題材、すなわち「花」と「鳥」それ自体に対する興味を、明らかに強く意識しているということなのである。 】
(『江戸の花鳥画 今橋理子著 講談社学術文庫』所収「浮世絵花鳥版画の詩学」)

 上記のことに関連して、次のことを特記して置きたい。

一 抱一の『四季花鳥図巻』では、例えば、「松虫・鈴虫の音色」とか、「水引草を靡かせる微かな風音・茅や薄を靡かせるやや強い風音」など「音の世界」を描こうとする意図が感知される。ここで、啄木鳥を大きく描いたのも、その「音の世界」への誘いであろう。

二 と同時に、ここで、抱一が、啄木鳥を大きく描いたのは、季語性重視の、「紅葉かつ散る」(晩秋の季語)の、「啄木鳥の木を叩く音」が「楓の紅葉(朱)の一葉と銀杏の黄葉(黄)の一葉を散らす」を描きたいという、その意図の一端を暗示しているものと解したい。

三 『十二か月花鳥図(抱一筆)』十二月「檜に啄木鳥図」の啄木鳥は、「留鳥(季節による移動をせず一年中同一地域にすむ鳥)」でこの図でいくと、「雪」(晩冬)「藪柑子」(三冬)との取り合わせで「冬の啄木鳥」ということになる。抱一自身としては、「季語性の『ずれ』」というよりも、ここでも「啄木鳥の木を叩く音」が根元の「雪」を払って、赤い「藪柑子の実」を覗かせているという意を含んでいるように解して置きたい(抱一が「檜」を冬の季語と解しているかどうかは否定的に解したい)。

その十四「秋(五)」

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酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「秋(五)」東京国立博物館蔵
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同上:部分拡大図

 この絵図の右側から、前回の続きの「楓・野菊」の上に「楓の紅葉・銀杏の黄葉」、そして、その左脇に、「女郎花(枯)」と「蟻」らしきものが描かれている(拡大図)。
 これは、どうやら、能の「女郎花」(紀貫之の「かな序」の注釈書である「三流抄」に記された女郎花の説話を典拠とする「夢幻能」)と「蟻通」(和歌<紀貫之>によって神が慰められるという和歌を賞賛する内容とする四の尉物に分類される能)の世界の暗示のようなのである。
 この枯女郎花の左方に秋の実をぶら下げた「榛(はしばみ)」(榛の実=仲秋の季語)が、上部で枯女郎花に触れ合うように描かれている。そして、右方の野菊から左方の榛まで下部の地表を這うように描かれているのは、藍色の実(萼)を付けた蔓状の「いしみかわ」(和名=石見川、漢名=杠板帰)であろう。
 「楓・野菊・楓の紅葉・銀杏の黄葉」は前図で触れている。「榛(はしばみ)」は、「榛の花」は仲春の季語だが「榛の実」は晩秋の季語となる。「いしみかわ」は、ここでは「草の実」で三秋の季語と解したい。
 「女郎花」は、秋の七草の一つで初秋の季語だが、「枯女郎花」は「名の草枯る」で三冬の季語となる。「蟻」は三夏の季語で、「蟻穴を出づ」は仲春の季語、「秋の蟻」で「蛇穴に入る」(仲秋)などと同じ仲秋の季語と解したい。

女郎花(初秋・「をみなめし・粟花・血目草」)「秋の七草のひとつ。日あたりの良い山野に自生する。丈は一メートルほどになり茎の上部に粒状の黄色い小花をたくさんつける。」
 見るに我も折れるばかりぞ女郎花     芭蕉 「続連珠」
 ひよろひよろと猶露けしや女郎花     芭蕉 「曠野」
 牛に乗る嫁御落とすな女郎花       其角 「句兄弟」
 女郎花牛が通ればたふれけり       蝶夢 「草根発句集」

名草枯る(三冬・「名草枯る・枯葭・枯薊・枯鶏頭・枯萱・枯竜胆・枯葛・水草枯る)「女郎花や葛、鶏頭等の名前のついている草が枯れたことを詠むことであって、『名の草枯る』という語自体を詠むことではない。」
 かなぐれば枝に跡あり枯かづら       杉風 「喪の名残」
 まぎれぬや枯れて立つても女郎花      一茶 「八番日記」

蟻(三夏・「山蟻・女王蟻・雄蟻・大蟻・蟻の道・蟻の列・蟻の塔・蟻塚」)「夏の間、集団で食料を集める働き者の小さな虫。甘いものや昆虫の死骸などに群がる。」
 蟻の道雲の峰よりつづきけん        一茶 「おらが春」

蟻穴を出づ(仲春・「蟻出づ・蟻穴を出る」)「春、暖かくなって蟻が地下から出てくること。餌を求めて盛んに動き回るさまには、春を迎えた喜びが感じられる。」
 蟻出るやごうごうと鳴る穴の中      鬼城「ホトトギス雑詠選集」

榛(はしばみ)の実(晩秋・「つのはしばみ・せいようはしばみ」)「三月から四月にかけて紐状の褐色の花を咲かせる。黄褐色の実は硬く、一センチから二セ」ンチくらいの大きさ。総苞に包まれている。」
 榛をこぼして早し初瀬川          梅里 「類題発句集」

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伊藤若冲筆『玄圃瑤華』所収「行者の水」(紙本拓版各28.2×17.8㎝)
https://paradjanov.biz/jakuchu/hanga/1203/

 若冲の『玄圃瑤華』の中の「行者の水」と題するものである。「行者の水」とは、ブドウ科の蔓性落葉樹「三角蔓」の別名である。葉は三角形から卵状三角形で互生し、縁には歯牙状の浅い鋸歯がある。雌雄異株で、五月から六月ごろ、葉と対生して円錐花序をだし、小さな淡黄緑色の花を咲かせる。果実は液果で黒く熟し、食べることができる。
 この若冲の「行者の水」に、蟻(?)が取り合わせになっているのが、何とも修験行者の若冲に相応しい印象を深くする。この「行者の水」は、抱一の『四季花鳥図巻(下=秋冬)』の「いしみかわ」と同じような雰囲気で、これも「草の実」の三秋の季語と解したい。
 抱一は、この『玄圃瑤華』中の植物や昆虫などを念頭に置いて創作しているものが見受けられるのだが、この若冲の「行者の水と蟻(?)」も目にしていることであろう。として、抱一の蟻は、「夢幻能」の紀貫之に由来する「女郎花」に、目を凝らしても見えないような「蟻(?)」らしきものを添えている。そして、この蟻は、同じく紀貫之に由来する「蟻通」(四番物)に示唆を受けているように思われる。
 というのは、抱一の、この『四季花鳥図巻』が、ここに来て、「枯女郎花」(三冬の季語)と「蟻」(三夏の季語)と、これまで季節の移ろいを「連歌・俳諧(連句)」の季語という慣習(コンヴェンション)に従って流れるように展開していたものが、異常に破綻して来るのである。
 これは、丁度、「蟻通」の場面ですると、「紀貫之一行が、蟻通明神の 社地に馬も下りずに通ろうとして、それまで順調に進んでいたものが、お咎めを受け、馬が前に進まない」場面ということになる。
 この場面は、『四季花鳥図巻』を、「舞楽・能楽の構成形式の『序・破・急』の三部構成」ですると、「春(序)」「夏(破の一)」「秋(破の二)」「冬(急)」の展開の、「秋(破の二)」の最後の「趣向の場」(暴れ所)ということになる。
 ここでの江戸座俳諧(洒落俳諧)の宗匠(「座・連」のリーダー、「俳諧興行の進行者」=捌き)である抱一は、抱一が得意とする古典(和歌・俳諧・能・茶華道・故事一般など)ものを典拠とする謎掛け的趣向を施していることになる。
 その謎掛け的趣向の一つが、「女郎花」(初秋の季語だが、ここは「紅葉且つ散る」と「榛の実」の前後の関係から晩秋の季語)に託して、能楽「女郎花」の「紀貫之」の登場である。
 その謎掛け的趣向の「女郎花」を紐解く仕掛けとして、「蟻」(三夏の季語だが、前後の季節に合わせ晩秋の「蟻穴に入る」の季語)を登場させ、その蟻に、能楽「蟻通」の「紀貫之」の仕掛けを暗示させている。
 この場面(絵図)を、単純に「枯女郎花」(「名草枯る」の三冬の季語)や「行者の水を呑む蟻」(三夏の季語?)として鑑賞すると、ここで、これまでの一連の流れは暗礁に乗り上げることになる(これらのことに関し、能楽の「女郎花」と「蟻通」の「あらすじ」などを参考として掲げて置きたい)。

(「蟻通」のあらすじ)

http://www.noh-kyogen.com/story/a/aridoushi.html

紀貫之が従者を伴い和歌の神をまつる紀伊国の玉津島へ参詣に行く途中、俄に大雨が降り出し 馬も動かず困り果てます。すると老人が手に傘と松明を持ち現れたので声を掛けると、蟻通明神の 社地に馬も下りずに通ろうとしたお咎めであろうと言われます。鳥居や神殿に気付かなかった貫之 は畏れ入り、老人が勧めるままに歌を詠ずると、老人は歌を褒め和歌の六義を物語ります。貫之 が和歌の謂れを述べると馬も再び起上り、神のお許しがあったと喜び、宮守に祝詞をあげてくれる よう頼みます。宮守は祝詞を奏して神楽を舞い、実は自分は蟻通明神であると告げ消え失せます。 奇特を見た貫之は感激し、夜明けと共に再び旅立ちます。

(「女郎花」のあらすじ)

http://www.tessen.org/dictionary/explain/ominameshi

旅の僧(ワキ)が男山を訪れると、女郎花が美しく咲いていた。一つ手折ろうとすると、花守の老人(前シテ)が現れ、古歌を引いて咎めるので、僧も古歌を引いて応酬し、二人は風流な歌問答を交わす。所の古歌をよく知る僧に対して、老人は特別に手折ることを許し、二人は石清水八幡宮に参詣する。その後、老人は男塚・女塚という古墳へと僧を案内すると、そこに葬られている夫婦の霊の供養を頼んで姿を消す。僧が弔っていると、小野頼風(後シテ)とその妻(ツレ)の夫婦の霊が現れ、生前夫を恨んだ妻が自殺したこと、その妻の墓から一輪の女郎花が咲いたこと、頼風も妻の後を追って自殺したことなどを明かす。頼風は、恋の妄執ゆえに死後地獄に堕ちたことを述べ、僧に救済を願うのだった

その十五「冬(一)」

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酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「冬(一)」東京国立博物館蔵
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同上:部分拡大図

 右から「榛(の実)」「野菊」に続き、赤い実を付けた「青木の実」(三冬の季語)が登場する。その青木の葉の一枚に「蝉の抜け殻」(空蝉=晩夏の季語)を描いている(部分拡大図)。この「空蝉」は、前図の、能の「女郎花」「蟻通」の連想と同じく、『源氏物語』の「空蝉」(第三帖)を暗示しているものと解せられる。
 その左脇に、赤い蔦を這わせた「冬柏」が大きく左対角線上に描かれている。この冬柏も、『源氏物語』の「柏木」(第三十五帖)に由来するものであろう。その柏木の枯れた葉に「尉鶲(じょうびたき)」が、あたかも、『源氏物語』の柏木(官位の「衛門府」)の未亡人落葉の宮が詠む和歌「柏木に葉守の神はまさずとも人ならすべき宿の梢か」の、その梢を見ている雰囲気である。

青木の実(三冬・「桃葉珊瑚」)「青木はミズキ科の常緑低木。冬に楕円形のつややかな真紅の実をつける。冬でも青々とした葉ともあいまってその色は美しい。」
 長病のすぐれぬ日あり青木の実    風生「松籟」
 雪降りし日も幾度よ青木の実     汀女「汀女句集」

空蝉(晩夏・「蝉の殻、蝉の抜殻、蝉のもぬけ」)「蝉のぬけ殻のこと。もともと『現し身』『現せ身』で、生身の人間をさしたが、のちに、『空せ身』空しいこの身、魂のぬけ殻という反対の意味に転じた。これが、「空蝉」蝉のぬけ殻のイメージと重なった。」
 空蝉の殻は木ごとに留(とど)むれど魂の行くへを見ぬぞ悲しき 詠人知らず「古今集」
 梢よりあだに落ちけり蝉のから    芭蕉 「六百番発句会」

冬柏(三冬・「柏の枯葉・枯柏」)「ブナ科の落葉高木。冬に葉が枯れても、落ちないで枝について越冬する。その立ち姿や風に鳴る葉音は印象的で、『柏木の葉守の神』と古歌にあるように、神宿る木とされるのも頷ける。」
 柏木に葉守りの神はまさずとも人ならすべき宿のこずゑか 『源氏物語』「柏木」
 顔寄せて馬が暮れをり枯柏       亜浪 「亜浪句集」

蔦(三秋・「蔦紅葉・蔦の葉・錦蔦・蔦かずら」)「晩秋には紅葉して木や建物を赤々と染め上げる。青蔦は夏の季語。」
 桟やいのちをからむ蔦かづら     芭蕉 「更科紀行」 
 蔦植て竹四五本のあらし哉      芭蕉 「野ざらし紀行」
 苔埋む蔦のうつゝの念仏哉      芭蕉 「花の市」
 夜に入らば灯のもる壁や蔦かづら   太祇 「太祇句集」

色鳥(三秋・「秋小鳥」)「秋に渡ってくる美しい小鳥のことをいう。花鶏(あとり)や尉鶲(じょうびたき)、真鶸(まひわ)など。」
 色鳥のわたりあうたり旅やどり    園女 「小弓俳諧集」
 色鳥の中に黄なるはしづかなり    一青 「蓬路」
 鳥に先ず色を添へたる野山かな    浪化 「白扇集」

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酒井抱一筆「扇面夕顔図」 一幅 個人蔵 
【現在の箱に「拾弐幅之内」と記されるように、本来は横物ばかりの十二幅対であった。全図が『抱一上人真蹟鏡』に収載されており、本図は六月に当てられている。扇に夕顔を載せた意匠は、「源氏物語」の光源氏が夕顔に出会う場面に由来する。細い線で輪郭を括り精緻だが畏まった描きぶりは、この横物全般に通じる。模写的性質によるためか。「雨花抱一筆」と款し「抱弌」朱方印を押す。 】 (『酒井抱一と江戸琳派の全貌 求龍堂』)

抱一画集『鶯邨画譜』所収「紫式部図」

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-11-18

抱一筆「花街柳巷図巻」のうち「五月(五月雨)」(『源氏物語』の「空蝉」と「竹河」に関連するもの)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-04-21

(参考)酒井抱一画に出てくる『源氏物語』

第三帖 空蝉 → 巻名は光源氏と空蝉の歌「空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな」および「空蝉の羽におく露の木がくれてしのびしのびにぬるる袖かな」による。

https://ja.wikipedia.org/wiki/空蝉_(源氏物語)

第四帖 夕顔 → 巻名及び人物名の由来はいずれも同人が本帖の中で詠んだ和歌「心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花」による。「常夏(ナデシコの古名)の女」とも呼ばれる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/夕顔_(源氏物語)

第三十六帖 柏木 → 巻名は作中で柏木の未亡人落葉の宮が詠む和歌「柏木に葉守の神はまさずとも人ならすべき宿の梢か」に因む。「柏木衛門督」とも呼ぶ。頭中将(内大臣)の長男。「柏木」とは王朝和歌における衛門府、衛門督の雅称である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/柏木_(源氏物語)

第五十四帖 竹河 → 巻名は薫と藤侍従の和歌「竹河のはしうち出でしひとふしに深きこころのそこは知りきや」および「竹河に夜をふかさじといそぎしもいかなるふしを思ひおかまし」に由来する。

https://ja.wikipedia.org/wiki/竹河

の十六「冬(二)」

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酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「冬(二)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035827

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同上:部分拡大図

 上図の右側は、前図の冬柏の枯葉の枝に停まっている尉鶲(じょうびたき)で、それが突然、雪を被った尾花の景に様変わりする。左端の雪を被った梅の枝は、次図の一部分、中央の尾花の下部に描かれている赤い実は、山帰来(サルトリイバラ)の実であろうか。この絵図ですると、「冬柏」(枯柏葉=三冬)から雪を被った尾花の「雪」(晩冬)への季移りということになろう。この絵巻の全体からすると、この前図の「青木の実」(三冬)から冬の景で、冬でも青々としている「青木の葉」から、赤の「蔦紅葉」を這わせた冬柏、そして、秋に越冬するために渡ってきた「尉鶲」と枯葉をつけたままの「冬柏」への、「緑 → 赤 → 茶 」の世界から、この絵図の「雪尾花」の「雪」の「白」への変遷である。

雪(晩冬・「六花・雪の花・雪の声・深雪・雪明り・粉雪・細雪・小米雪・餅雪・衾雪・今朝の雪・根雪・積雪・べと雪・雪紐・筒雪・冠雪・雪庇・水雪・雪華・雪片・しまり雪 ・
ざらめ雪・湿雪・雪月夜・雪景色・暮雪・雪国・銀化・雪空・白雪・明の雪・新雪」)「雪は春の花、秋の月と並んで冬の美を代表する。雪国と呼ばれる日本海沿岸の豪雪地帯では雪は美しいものであるどころか、白魔と恐れられる。」
 たふとさや雪降らぬ日も蓑と笠     芭蕉 「芭蕉句選拾遺」 
 足あとは雪の人也かはかぶり      芭蕉 「むつのゆかり」
 市人よこの笠売らう雪の傘       芭蕉 「野ざらし紀行」
 馬をさへながむる雪の朝哉       芭蕉 「甲子吟行」
 二人見し雪は今年も降りけるか     芭蕉 「笈日記」
 雪の中に兎の皮の髭作れ        芭蕉 「いつを昔」 
 貴さや雪降らぬ日も蓑と笠       芭蕉 「己が光」
 酒のめばいとゞ寝られぬ夜の雪     芭蕉 「勧進牒」
 我雪とおもへば軽し笠のうへ      其角 「雑談集」
 花となり雫となるやけさの雪      千代女 「千代尼発句集」
 うつくしき日和となりぬ雪のうへ    太祇 「太祇句選」
 宿かさぬ火影や雪の家つづき      蕪村 「蕪村句集」 
 灯ともさん一日に深き雪の庵      白雄 「白雄句集」
 魚くふて口なまぐさし昼の雪      成美 「成美家集」
 寝ならぶやしなのゝ山も夜の雪     一茶 「旅日記」
いくたびも雪の深さを尋ねけり     子規 「子規句集」

尾花(三秋・「花薄・穂薄・薄の穂・初尾花・村尾花・尾花が袖・尾花の波」)「『芒』という季語が葉、茎、花の全体像を指すのに対し、『尾花』は芒の花だけをさす季語である。夏から秋にかけて二十センチから三十センチほどの、黄金色で箒状の花穂をつける。花穂は熟すにしたがって白っぽくなり、晩秋には白い毛の生えた種を風に飛ばす。動物の尾に似ているところから尾花といわれる。」
 花すすき寺あればこそ鉦が鳴る     末山 「続今宮草]
 武蔵野や鑓持もどく初尾花       言水 「誹枕」
 おもかげの尾花は白し翁塚       浪化 「そこの花」
 出帆まねく遊女も立てりはな薄     蓼太 「蓼太句集三稿」
 野の風や小松が上も尾花咲く      太祗 「俳諧新選」
 伸び上る富士のわかれや花すすき    几董 「井華集」
 むら尾花夕こえ行けば人呼ばふ     暁台 「暁台句集」
 猪をになひ行く野やはなすすき     白誰 「白雄句集」
 秋の日やうすくれなゐのむら尾花    青蘿 「青蘿句集」

草の実(三秋・「草の実飛ぶ」)「殆どの雑草は、花の終わった秋にそれぞれの実をつける。形や大きさはいろいろだが、その秋草の実をまとめて草の実という。」
 籠り居て木の実草の実拾はばや     芭蕪 「後の旅」
 草の実も人にとびつく夜道かな     一茶 「九番目記」

山帰来の花(晩春・「さるとりいばらの花・がめの木の花)「ユリ科の蔓性小低木。さるとりいばらを指す。蔓は固く、強い棘がある。晩春、葉腋から散形花序をだし、黄緑色の小花を球状につける。冬になると赤い実がとても良く目立つ。古くから生活に密着した植物で地方名が多い。」
 岩の上に咲いてこぼれぬ山帰来     鬼城 「定本鬼城句集」
 山帰来石は鏡のごとくなり         茅舎 「華厳」

其一・芒野図屏風.jpg

鈴木其一筆「芒野図屏風」二曲一隻 紙本銀地墨画 千葉市美術館蔵
一四㈣・二×一六五・六cm
【 二曲一隻の画面に芒の生い茂る野原が広がる。芒の穂先が形作る線は単調でありながら、しなやかで心地よいリズムを奏でている。中央にたなびく霞は、銀箔地の上に銀泥と墨を使い分けることによって表現されており、月光と霞によって幽暗な光がたちこめる芒野の静けさを醸し出している。この作品には「白椿に薄図屏風」(フリア美術館)という其一が描いた同工異曲の画面を含む屏風が存在する。これはとくに近代日本画を思わせる明快な色調と空間構成を備えた作例として早くから注目されてきたが、金地に白椿を描いた表絵に対して、薄(芒)の野原を銀地の裏絵として描いたもので、現在は二曲一双に改装されている。その対比的な取り合わせは、光琳が描いた金地の「風神雷神図屏風」(東京国立博物館)に対して、抱一が裏絵として描いた銀地の「夏秋草図屏風」(東京国立博物館)との関係を想起させるが、この「芒野図屏風図」に関しては、銀地のみを選んで微妙に改変させた作例として位置づけられている。画面には「為三堂」(朱文瓢印)と「其壱」が捺されている。其一の理知的なデザイン感覚を雄弁に物語る、印象的な屏風である。 】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手(読売新聞社刊)』所収「作品解説50(石田佳也稿)」)

 上記の解説中の「霞」とあるのは、「冬霧」と解すると、冒頭の、抱一の『四季花鳥図巻』の「雪を被った尾花図」と、色調、そして、雰囲気が二重写しになってくる。
 なお、この「芒野図屏風」(千葉市美術館蔵)と同工異曲の「フーリア美術館蔵」のものについては、下記のアドレスで触れている。

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035827

その十七「冬(三)」

花鳥図巻冬三.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「冬(三)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035828

花鳥図巻冬三拡大.jpg

同上:部分拡大図

 「雪中白梅に鶯図」である。「雪」は三冬の季語だが、「梅」は「初春」の季語、そして、「鶯」は「三春」の季語である。上記の左側の「水仙」(次の図に続く)は「晩冬」の季語で、今回の「雪中白梅に鶯図」は、「雪中の白梅」「雪中の鶯」の冬の景にしないと、連歌・俳諧(連句)上の「季戻り」(同じ季の句が数句続く中で、後句が前句よりも時季の早い内容であること。たとえば晩春に早春を付けるなど)になり、式目(ルール)の順調の流れにそぐわないことになる。
 鶯は、別名「春告鳥(はるつげどり)」(春を告げる鳥)で、さらに、「梅に鶯」は『万葉集』以来の詠題で(新元号「令和」にも由来する)、この絵図単独では、こと、「連歌・俳諧(連句)」を抜きにして、絵画オンリーの世界でも、初春の景のものにして鑑賞するのが一般的であろう。
 それに付け加え、その前(前図)は、「蕭条たる『枯れ柏(その上の「秋の渡り鳥の尉鶲(じょうびたき)」)』の冬の景で、この前図と後図とを考慮すると、「冬(枯れ柏)→春(梅に鶯)→冬(水仙花)」の所謂、最も(特に「連歌・俳諧」の世界で)避けるべき「観音開き」(繰返し・停滞・後戻りを嫌うため観音開きは忌避される)の流れとなってくる。ここは、「雪中梅」、そして、次図の「水仙(花)」の別名の「雪中花」に対応しての「雪中鶯」の晩冬の鶯として鑑賞をしていいきたい。
 その上で、上図の「雪中梅鶯図」にぴったりの催馬楽の一節がある。

  梅が枝(え)に 来居(い)る鶯 や 春かけて はれ
  春かけて 鳴けどもいまだ や 雪は降りつつ
  あはれ そこよしや 雪は降り降りつつ
                   催馬楽(「梅が枝」)

 この催馬楽の「梅枝」(梅が枝)は、この『四季花鳥図巻』で先に出てきた「蝉の抜け殻(冬一)」(『源氏物語(第三帖)』「空蝉」)、「紅葉した蔦を這わせての冬柏(冬一)」(『源氏物語(第三十五帖)』「柏木」)に続く、『源氏物語』第三十二帖「梅枝」(梅が枝)、そして、その「梅枝」に登場する、『源氏物語』第十三帖「明石」(明石の姫君)を背景としているものと解したい。
 ここまで来ると、この「春・夏・秋・冬」の、その最終場面(「冬」)で、何故に「鶯」(春告鳥)を登場させたのかということは、この抱一の『四季花鳥図巻』は、この『四季花鳥図巻』を所持する方(この『四季花鳥図巻』の制作依頼者の意図)は、和歌・連歌・俳諧に通じた、そして、その根底に流れている王朝文化の精髄である『源氏物語』などに精通している、殊に、男性というよりも女性、例えば、妙華尼(抱一の伴侶「小鶯女史」)や喜代姫(十一代将軍・徳川家斉の息女=姫路藩主酒井家五代・忠学の妻)周辺に起因しているが故であると解したい。

鶯(三春・「うぐいす・うぐひす・黄鶯・匂鳥・歌よみ鳥・経よみ鳥・花見鳥・春告鳥・初音・鶯の谷渡り・ここは・人来鳥」)「鶯は、春を告げる鳥。古くからその声を愛で、夏の時鳥、秋の雁同様その初音がもてはやされた。梅の花の蜜を吸いにくるので、むかしから『梅に鶯』といわれ、梅につきものの鳥とされてきた。最初はおぼつかない鳴き声も、春が長けるにしたがって美しくなり、夏鶯となるころには、けたたましいほどの鳴き声になる。」
 鶯や柳のうしろ藪の前         芭蕉 「続猿蓑」
 鶯や餅に糞する縁のさき        芭蕉 「葛の松原」
 鶯を魂にねむるか矯柳(たうやなぎ)  芭蕉 「虚栗」
 鶯のあちこちとするや小家がち     蕪村 「蕪村句集」
 鶯の声遠き日も暮にけり        蕪村 「蕪村句集」
 鶯のそそうがましき初音哉       蕪村 「蕪村句集」
 鶯を雀かと見しそれも春        蕪村 「蕪村句集」
 鶯や賢過たる軒のむめ         蕪村 「蕪村句集」
 鶯の日枝をうしろに高音哉       蕪村 「蕪村句集」
 鶯や家内揃うて飯時分         蕪村 「蕪村句集」
 鶯や茨くゞりて高うとぶ        蕪村 「蕪村句集」
 鶯の啼やちいさき口明て        蕪村 「蕪村句集」
 鶯や朝寝を起す人もなし        子規 「寒山落木」

梅(初春・「文木、花の兄、春告草、匂草、風待草、初名草、野梅、梅が香、梅暦、梅の宿、梅の里」)「梅は早春の寒気の残る中、百花にさきがけて白色五弁の花を開く。『花の兄』『春告草』とも呼ばれ、その気品ある清楚な姿は、古くから桜とともに日本人に愛され、多くの詩歌に詠まれてきた。香気では桜に勝る。」 
※春されば先づ咲く宿の梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ 山上億良「万葉集八一八」 
※※わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも 大伴旅人「万葉集八二二」
※梅の花散らくはいづくしかすがにこの基の山に雪は降りつつ 大伴百代「万葉集八二三」
※梅の花散らまく惜しみわが園の竹の林にうぐひす鳴くも 阿部奥島「万葉集八二四」
※春されば木末隠れてうぐひすぞ鳴きて去ぬなる梅が下枝に 山口若麻呂「万葉集八二七」
※春の野に鳴くやうぐひす馴けむとわが家の園に梅が花咲く 志紀大道「万葉集八三七」
※梅の花散りまがひたる岡びにはうぐひす鳴くも春かたまけて 榎氏鉢麿「万葉集八三八」
※春の野に霧立ちわたり降る雪と人の見るまで梅の花散る 田辺真上「万葉集八三九」
※うぐひすの音聞くなへに梅の花 我家の園に咲きて散る見ゆ 高氏老「万葉集八㈣一」
※わがやどの梅の下枝に遊びつつ鶯鳴くも散らまく惜しみ 高氏海人「万葉集八㈣二」
※妹が家に雪かも降ると見るまでにここだもまがふ梅の花かも 小野国堅「万葉集八㈣四」
※鶯の待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ子がため 門部石足「万葉集八㈣五」
 梅若菜鞠子の宿のとろろ汁     芭蕉 「猿蓑」
 山里は万歳遅し梅の花       芭蕉 「瓜畠集」
 梅が香にのつと日の出る山路かな  芭蕉 「炭俵」
 二もとの梅に遅速を愛すかな    蕪村 「蕪村句集」
 うめ折て皺手にかこつかをりかな  蕪村 「蕪村句集」
(注 上記の※は、新元号「令和」に由来する『万葉集巻五』「梅花の歌三十二首」中の「旅人の歌※※」と「雪・鶯が詠出されている歌」の抜粋)

(参考)

『源氏物語』「第十三帖 明石」の「あらすじ」

https://ja.wikipedia.org/wiki/明石_(源氏物語)

須磨は激しい嵐が続き、光源氏は住吉の神に祈ったが、ついには落雷で邸が火事に見舞われた。嵐が収まった明け方、源氏の夢に故桐壺帝が現れ、住吉の神の導きに従い須磨を離れるように告げる。その予言どおり、翌朝明石入道が迎えの舟に乗って現れ、源氏一行は明石へと移った。
入道は源氏を邸に迎えて手厚くもてなし、かねて都の貴人と娶わせようと考えていた一人娘(明石の御方)を、この機会に源氏に差し出そうとする。当の娘は身分違いすぎると気が進まなかったが、源氏は娘と文のやり取りを交わすうちにその教養の深さや人柄に惹かれ、ついに八月自ら娘のもとを訪れて契りを交わした。この事を源氏は都で留守を預かる紫の上に文で伝えたが、紫の上は「殿はひどい」と嘆き悲しみ、源氏の浮気をなじる内容の文を送る。紫の上の怒りが堪えた源氏はその後、明石の御方への通いが間遠になり明石入道一家は、やきもきする。
一方都では太政大臣(元右大臣)が亡くなり、弘徽殿大后も病に倒れて、自らも夢で桐壺帝に叱責され眼病を患い、気弱になった朱雀帝はついに源氏の召還を決意した。息子の決断に弘徽殿大后はショックを受け、「ついに源氏を追い落とせなかった」と悔し泣き。晴れて許された源氏は都へ戻ることになったが、その頃既に明石の御方は源氏の子を身ごもっており、別れを嘆く明石の御方に源氏はいつか必ず都へ迎えることを約束するのだった。

『源氏物語』「第五十三帖 梅枝(梅が枝)」の「あらすじ」

https://ja.wikipedia.org/wiki/梅枝

光源氏39歳の春の話。
東宮の元服に合わせ、源氏も明石の姫君の裳着の支度を急いでいた。源氏は女君たちに薫物の調合を依頼し、自分も寝殿の奥に引きこもって秘伝の香を調合する。雨の少し降った2月10日、蛍兵部卿宮を迎えて薫物合わせの判者をさせる。どの薫物も皆それぞれに素晴らしく、さすがの蛍宮も優劣を定めかねるほどだった。晩になって管弦が催され、美声の弁少将が「梅枝」を歌った。
翌日、明石の姫君の裳着が盛大に行われ、秋好中宮が腰結いをつとめた。姫の美しさに、目を細める中宮。(さすがは大臣の愛娘であること)と感心していた。源氏は本来ならば明石の御方も出席させるべきであったものの、噂になることを考えて、出席させられなかった事を悔やむ。東宮も入内を待ちかねていたが、源氏は他の公卿たちが遠慮して娘を後宮に入れることをためらっていると知り、敢えて入内を遅らせる。局は淑景舎(桐壺)と決め、華麗な調度類に加えて優れた名筆の手本を方々に依頼する源氏だった。
そんな華やかな噂を聞きながら、内大臣は雲居の雁の処遇に相変わらず悩んでいた。源氏も夕霧がなかなか身を固めないことを案じており、親として自らの経験を踏まえつつ訓戒し、それとなく他の縁談を勧める。その噂を父の内大臣から聞かされた雲居の雁は衝撃を受け、あっさり忘れられてしまう自分なのだと悲しむ。久しぶりに人の目を忍んで届いた夕霧からの文に、夕霧の冷淡さを恨む返歌をし、心変わりした覚えのない夕霧はどうして雲居の雁がこんなに怒っているのかと考え込む。

その十八「冬(四)」

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酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「冬(四)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035829

花鳥図巻冬四拡大.jpg

同上:部分拡大図

 酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』)の、その「上・下」の最終を飾るものである。雪を被った梅の木の背後に、雪除けの菰(こも)かぶりの「水仙」が鮮やかに描かれている。その左脇に、「文化戊寅晩春 抱一暉真写之」の隷書による署名と、「雨華」(朱文内鼎方印)「文詮」(朱文瓢印)が捺されている。
 この「文化戊寅」は、改元されて「文政元年」(一八一九)、抱一、五十八歳の時である。この年の「年譜」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収)に、「四月、酒井鶯蒲を妙華尼(小鶯女史)の養子とする。唯信寺と号す」とある。
 「水仙花」は晩冬の季語で、「雪中花」の異称もあり、その異称は、雪の残る寒さの中に春の訪れを告げる花ということで、この上記図中の前図で紹介した「雪中鶯」「雪中梅」と三幅対という趣を有している。
 しかし、「雪中鶯」「雪中梅」は、『万葉集』以来の和歌・連歌で詠み継がれてきた、季題・季語の頂点に位置するような詠題であるのに比して、この「雪中花」の異称を有する「水仙花」が登場するのは、近世の俳諧(連句・発句=俳句)時代以降という、極めて新しい詠題ということになる。
 ちなみに、『万葉集』で詠まれている花木・草花は、「梅(九十七)・萩(九十四)、橘(四十五)、桜(三十八)、撫子(二十)、卯の花(十七)、藤(十三)、山吹(十二)、尾花・女郎花・菖蒲(七)、百合(六)」の順(上位十位)となっている『花 美への行動と日本文化(西山松之助著・NHKブックス))。
 『古今集』では、「桜、梅、女郎花、菊、萩、山吹、橘、藤袴、花薄、撫子」の順で、『源氏物語』『枕草子』では、「木の花は、紅梅・桜・藤・橘・梨・桐・楝(あふち)、草の花は、撫子・女郎花・桔梗・朝顔・苅萱・菊・壺菫・竜胆・かまつか・かにひ・萩・夕顔」などで盛んに「歌合せ」が興じられているとの記述がなされている(『西山・前掲書』)。
 ここで、スタート時点に戻って、この『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』の全絵図を見て行くと、「花木・草花」関連のものは、上記の『万葉集』『古今集』『源氏物語』『枕草子』などに顔を出している、所謂、「和歌・連歌」以来の景物という印象が強いのだが、この最終ゴール地点の、この「水仙花・雪中花」は、所謂、次の時代の新しい「俳諧(連句・発句=俳句)」の、その夜明けを告げるような景物という印象を深くする。

【 「絵画の世界」山根有三氏(美術史学者)
奈良時代の絵には花や草木がない。平安の大和絵には四季にわたる草花が描かれたが、それらを主題にした絵は工芸品の模様のほかにはない。鎌倉末期から室町にかけて漢画の影響による「花鳥画」が現れた。水墨画が入ってきたことによって、日本の自然観も変化も生じ、松の枝ぶりのよさに対する目は、宋元水墨画によって開かれたといってよい。安土桃山時代には花鳥画から花木図が独立し、絢爛たる花の饗宴・美しい色の乱舞する明るく健康な世界が現出した。桃山の武将たちは、松・檜・桜などの大木も、町衆たちは草花を愛した。宗達は町衆で彼ほど多くの草花を描いた者はいない。彼は草花と遊んだ。しかし、光琳は自然を深く鋭い目で観察し、それを組合わせる構成のきびしさをもっていた。情趣や季節感も失いたくないが、光琳のきびしさをもちたい。  】
(『西山・前掲書』所収「花と日本文化」)

四季屏風冬拡大.png

酒井抱一筆「四季花鳥図屏風(左隻部分拡大図)」六曲一双 陽明文庫蔵
文化十三年(一八一六)
【「文化丙子晩冬抱一写鶯邨書房」と三行にわたる大きな落款、その書きぶりからも、光琳百回忌から一年、抱一は五十六歳、大きな晴れの機会を得て決定的な型を打ち出そうとした感がある。各種の箔や砂子で複雑な輝きをつくる金地に制度の高い鮮烈な色彩が冴え、各所に効果的に配された白色などは眩しいほどである。  】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「図版解説(松尾知子稿))

 ここに、『四季花鳥図巻』最終ゴール地点の「水仙花・雪中花」が描かれている。この「水仙」の手前と左側の藪柑子に配した、雪を被った土坡は、宗達の土坡の応用であろう。そして、雪に覆われた藪柑子の上に描かれているの「白梅と鶯」、その左方の「枯れた榛(はしばみ)」、また、水仙の後ろの「流水」、その上方の、秋の景の「篠竹・葛・河骨・沢瀉」などは、光琳(そして、宗達)の応用なのであろう。
 ここで、前掲の「花と日本の文化」の「絵画の世界」(山根有三稿)の「宗達は町衆で彼ほど多くの草花を描いた者はいない。彼は草花と遊んだ。しかし、光琳は自然を深く鋭い目で観察し、それを組合わせる構成のきびしさをもっていた。情趣や季節感も失いたくないが、光琳のきびしさをもちたい」を、それを心底深く実践した人こそ酒井抱一ということになろう。そして、抱一は、宗達・光琳の「日本の花鳥の世界」に、新たなる、「水仙の世界」、即ち、宗達・光琳等々の「和歌・連歌」以来の世界に、新しい「俳諧(連句・発句=俳句)」の、その夜明けを告げるような世界を切り拓いていったということになる。

水仙(晩冬・「水仙花・雪中花・野水仙」)「ヒガンバナ科の多年草。花の中央には副花冠という部分が襟のように環状に立つ。ラッパ形のもの、八重のものなどがあり、すがすがしい芳香をもつ。」
 初雪や水仙の葉のたわむまで     芭蕉「あつめ句」
 水仙や白き障子のとも映り       芭蕉 「笈日記」
 その匂ひ桃より白し水仙花      芭蕉 「笈日記」
 水仙に狐遊ぶや宵月夜        蕪村 「五車反故」
 水仙や美人かうべをいたむらし    蕪村 「蕪村句集」
 水仙や鵙の草ぐき花咲ぬ       蕪村 「蕪村句集」
 水仙や寒き都のこゝかしこ      蕪村 「蕪村句集」
 水仙や花やが宿の持仏堂       蕪村 「夜半叟句集」

(参考)

新元号「令和」に由来する『万葉集巻五』「梅花の歌三十二首 序を并せたり」(全文・全句)
  (『対訳古典シリーズ万葉集(上)桜井満訳注・旺文社』)

天平二年の正月の十三日に、帥(そち)の老の宅へあつまりて、宴会(うたげ)を申(ひら)きき。
時に、初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前(きやうぜん)の粉(ふん)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香を薫らす。しかのみにあらず、曙(あけぼの)の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾(かたぶ)け、夕の岫(くき)に霜結び、鶏はうすものに封(と)ぢられて林に迷ふ。庭には舞う新蝶(しんてふ)あり、空には帰る故雁(こがん)あり。
ここに、天を蓋(やね)とし、地を坐(しきゐ)とし、膝を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす。言(こと)を一室の裏(うち)に忘れ、衿(きん)を煙霞(えんか)の外に聞く。淡然(たんぜん)に自らを放(ほしいまま)にし、快然(くわいぜん)に自ら足る。
若し翰苑(かんえん)にあらずは、何を以て情(こころ)をのべむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す。古と今とそれ何ぞ異ならむ。宜しく園の梅を賦(ふ)して、いささかに短詠(たんえい)を成すべし。

八一五 正月(むつき)立ち春の来たらばかくしこそ梅を招きつつ楽しき終へめ(大弐紀卿)
八一六 梅の花今咲けるごと散り過ぎずわが家(へ)の園にありこせぬかも(少弐小野大夫)
八一七 梅の花咲きたる園の青柳はかづらにすべくなりにけらずや(少弐粟大夫)
八一八 春さればまづ咲くやどの梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ(筑前守山上大夫)
八一九 世の中は恋繁しゑやかくしあらば梅の花にもならましものを(豊後守大伴大夫】
八二〇 梅の花 今盛りなり思ふどちかざしにしてな今盛りなり(筑後守葛井大夫)
八二一 青柳 梅との花を折りかざし飲みての後は散りぬともよし(笠沙弥)
※※八二二  わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも (主人=大伴旅人)
※八二三  梅の花 散らくはいづくしかすがにこの基の山に雪は降りつつ(大監伴氏百代)
※八二四  梅の花 散らまく惜しみわが園の竹の林にうぐひす鳴くも(少監阿氏奥島)
八二五   梅の花咲きたる園の青柳をかづらにしつつ遊び暮らさな(少監土氏百村)
八二六   うちなびく春の柳とわがやどの梅の花とをいかにかわかむ(大典史氏大原)
※八二七  春されば木末隠れてうぐひすぞ鳴きて去ぬなる梅が下枝に(少典山氏若麻呂)
八二八  人ごとに折りかざしつつ遊べどもいやめづらしき梅の花かも(大判事丹氏麻呂)
八二九 梅の花 咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや(薬師張氏福子)
八三〇 万代に年は来経とも梅の花絶ゆることなく咲きわたるべし(筑前介佐氏子首)
八三一 春なればうべも咲きたる梅の花 君を思ふと夜眠も寝なくに(壱岐守板氏安麻呂)
八三二 梅の花 折りてかざせる諸人は今日の間は楽しくあるべし(神司荒氏稲布)
八三三 毎年に春の来たらばかくしこそ梅をかざして楽しく飲まめ(大令史野氏宿奈麻呂)
八三四 梅の花今盛りなり百鳥の声の恋しき春来たるらし(少令史田氏肥人)
八三五 春さらば逢はむと思ひし梅の花今日の遊びに相見つるかも(薬師高氏義通)
八三六 梅の花手折りかざして遊べども飽き足らぬ日は日にしありけり(陰陽師礒氏法麿)
※八三七 春の野に鳴くやうぐひす馴けむとわが家の園に梅が花咲く(算師志氏大道)
※八三八 梅の花散りまがひたる岡べにはうぐひす鳴くも春かたまけて(大隅目榎氏鉢麿)
※八三九 春の野に霧立ちわたり降る雪と人の見るまで梅の花散る(筑前目田氏真上)
八四〇 春柳 かづらに折りし梅の花誰か浮かべし酒杯の上に(壱岐目村氏彼方)
※八四一 うぐひすの音聞くなへに梅の花 我家の園に咲きて散る見ゆ(対馬目高氏老)
※八四二 わがやどの梅の下枝に遊びつつ鶯鳴くも散らまく惜しみ(薩摩目高氏海人)
八四三 梅の花折りかざしつつ諸人の遊ぶを見れば都しぞ思ふ (土師氏御道)
※八四四 妹が家に雪かも降ると見るまでにここだもまがふ梅の花かも【小野氏国堅】
※八四五 鶯の待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ子がため(筑前掾門氏石足)
(注 上記の※は、「旅人の歌=※※」と「雪・鶯が詠出されている歌=※」)



江戸の粋人・酒井抱一の世界(一から二十二)

江戸の粋人・酒井抱一の世界

その一 正岡子規の酒井抱一観

 正岡子規の『病牀六尺』に、酒井抱一に関しての記述が、下記の二か所(「六」・「二十七」)に出てくる。
 この「六」に出てくる、「抱一の画、濃艶愛すべしといえども、俳句に至っては拙劣見るに堪えず」 というのが、子規の「酒井抱一観」として、夙に知られているものである。
 すなわち、「画人・抱一」は評価するが、「俳人・抱一」は、子規の「俳句革新」の見地から、断固排斥せざるを得ないということである。
 そして、子規が目指した俳句(下記の『俳句問答』の「新俳句」)と、抱一が土壌としていた俳句(下記の『俳句問答』の「月並俳句」)との違いは、次の答(●印)の五点ということになる。
 この五点の「知識偏重(機知・滑稽・諧謔偏重)・意匠の陳腐さ・嗜好的弛み・月次俳諧・宗匠俳諧の否定」の、何れの立場においても、例えば、抱一の自撰句集『屠龍之技』に収載されている句などは、「拙劣見るに堪えず」と、一刀両断の憂き目にあうことであろう。
 しかし、下記の「二十七」の、『鶯邨画譜』や、その「糸桜」に関する、子規の記述には、子規は、その画はもとより、その俳句についても、その何たるかは熟知していたという思いを深くする。

○問 新俳句と月並俳句とは句作に差異あるものと考へられる。果して差異あらば新俳句は如何なる点を主眼とし月並句は如何なる点を主眼として句作するものなりや    
●答 第一は、我(注・新俳句)は直接に感情に訴へんと欲し、彼(注・月並俳句)は往々智識(注・知識)に訴へんと欲す。
●第二は、我(注・新俳句)は意匠の陳腐なるを嫌へども、彼(注・月並俳句)は意匠の陳腐を嫌ふこと我より少なし、寧ろ彼は陳腐を好み新奇を嫌ふ傾向あり。
●第三は、我(注・新俳句)は言語の懈弛(注・たるみ)を嫌ひ彼(注・月並俳句)は言語の懈弛(注・たるみ)を嫌ふこと我より少なし、寧ろ彼は懈弛(注・たるみ)を好み緊密を嫌ふ傾向あり。
●第四は、我(注・新俳句)は音調の調和する限りに於て雅語俗語漢語洋語を問はず、彼(注・月並俳句)は洋語を排斥し漢語は自己が用ゐなれたる狭き範囲を出づべからずとし雅語も多くは用ゐず。          
●第五は、我(注・」新俳句)に俳諧の系統無く又流派無し、彼(注・月並俳句)は俳諧の系統と流派とを有し且つ之があるが為に特殊の光栄ありと自信せるが如し、従って其派の開祖及び其伝統を受けたる人には特別の尊敬を表し且つ其人等の著作を無比の価値あるものとす。我(注・新俳句)はある俳人を尊敬することあれどもそは其著作の佳なるが為なり。されども尊敬を表する俳人の著作といへども佳なる者と佳ならざる者とあり。正当に言へば我(注・新俳句)は其人を尊敬せずして其著作を尊敬するなり。故に我(注・新俳句)は多くの反対せる流派に於て俳句を認め又悪句を認む。   

【  六
〇今日は頭工合やや善し。虚子と共に枕許に在る画帖をそれこれとなく引き出して見る。所感二つ三つ。 
余は幼き時より画を好みしかど、人物画よりも寧ろ花鳥を好み、複雑なる画よりも寧ろ簡単なる画を好めり。今に至って尚其傾向を変ぜず、其故に画帖を見てもお姫様一人画きたるよりは椿一輪画きたるかた興深く、張飛の蛇矛を携えたらんよりは柳に鶯のとまりたらんかた快く感ぜらる。 
画に彩色あるは彩色無きより勝れり。墨書ども多き画帖の中に彩色のはっきりしたる画を見出したらんは萬緑叢中紅一点の趣あり。 
呉春はしゃれたり、応挙は真面目なり、余は応挙の真面目なるを愛す。
『手競画譜』を見る。南岳、文鳳二人の画合せなり。南岳の画は何れも人物のみを画き、文鳳は人物の外に必ず多少の景色を帯ぶ。南岳の画は人物徒に多くして趣向無きものあり、文鳳の画は人物少くとも必ず多少の意匠あり、且つ其形容の真に逼るを見る。もとより南岳と同日に論ずべきに非ず。 
或人の画に童子一人左手に傘の畳みたるを抱え右の肩に一枝の梅を担ぐ処を画けり。或は他所にて借りたる傘を返却するに際して梅の枝を添えて贈るにやあらん。若し然らば画の簡単なる割合に趣向は非常に複雑せり。俳句的といわんか、謎的といわんか、しかも斯の如き画は稀に見るところ。 
抱一の画、濃艶愛すべしといえども、俳句に至っては拙劣見るに堪えず。その濃艶なる画にその拙劣なる句の讃あるに至っては金殿に反故張りの障子を見るが如く釣り合わぬ事甚し。

『公長略画』なる画あり。わずかに一草一木を画きしかも出来得るだけ筆画を省略す。略画中の略画なり。しかしてこのうちいくばくの趣味あり、いくばくの趣向あり。廬雪等の筆縦横自在なれども却ってこの趣致を存せざるが如し。或は余の性簡単を好み天然を好むに偏するに因るか。 (五月十二日)  】

【 二十七
〇枕許に『光琳画式』と『鴛邨画譜』と二冊の彩色本があって毎朝毎晩それをひろげて見ては無上の楽しみとして居る。ただそれが美しいばかりでなくこの小冊子でさえも二人の長所が善く比較せられて居るのでその点も大いに面白味を感ずる。ことに両方に同じ画題〈梅、桜、百合、椿、萩、鶴など〉が多いので比較するには最も便利に出来て居る。いうまでもないが光琳は光悦、宗達などの流儀を真似たのであるとはいえとにかく大成して光琳派という一種無類の画を書き始めたほどの人であるからすべての点に創意が多くして一々新機軸を出して居るところはほとんど比肩すべき人を見出せないほどであるからとても抱一(ほういつ)などと比すべきものではない、抱一の画の趣向なきに反して光琳の画には一々意匠惨憺たるものがあるのは怪しむに足らない。そこで意匠の点はしばらく措いて筆と色との上から見たところで、光琳は筆が強く抱一は筆が弱い、色においても光琳が強い色ことに黒い色を余計に用いはせぬかと思われる。従て草木などの感じの現れ方も光琳はやはり強いところがあって抱一はただなよなよとして居る。この点においては勿論どちらが勝って居ると一概にいうことは出来ぬ。強い感じのものならは光琳の方が旨いであろう。弱い感じのものならば抱一の方が旨いであろう。それから形似の上においては草木の真を写して居ることは抱一の方が精密なようである。要するに全体の上において画家としての値打はもちろん抱一は光琳に及ばないが、草花画書きとしては抱一の方が光琳に勝って居る点が多いであろう。抱一の草花は形似の上においても精密に研究が行届いてあるし輪廓の書き具合も光琳よりは柔かく書いてあるし、彩色もまた柔かく派手に彩色せられて居る。ある人はまるで魂のない画だというて抱一の悪口をいうかも知れぬが、草花のごときは元来なよなよと優しく美しいのがその本体であって魂のないところがかえって真を写して居るところではあるまいか、この二小冊子を比較してみても同じ百合の花が光琳のは強い線で書いてあり抱一のは弱い線で書いてある。同じ萩の花でも光琳のは葉が硬いように見えて抱一のは葉が軟かく見える。つまり萩のような軟かい花は抱一の方が最も善く真の感じを現して居る。『篤邨画譜』の方に枝垂れ桜の画があってその木の枝をわずかに二、三本画いたばかりで枝全体にはことごとく小さな薄赤い蕾が付いて居る。その優しさいじらしさは何ともいえぬ趣きがあってこうもしなやかに書けるものかと思うほどである。『光琳画式』の桜はこれに比するとよほど武骨なものである。しかしながら『光琳画式』にある画で藍色の朝顔の花を七、八輪画きその下に黒と白の狗ころが五匹ばかり一緒になってからかい戯れて居る意匠などというものは別に奇想でも何でもないが、実にその趣味のつかまえどころはいうにいわれぬ旨味があって抱一などは夢にもその味を知ることは出来ぬ。 (六月八日)  】
(正岡子規著『病牀六尺』抜粋)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-09-10



(再掲)

 この『鶯邨画譜』所収「糸桜と短冊図」の「短冊」に書かれている句は、抱一句集『屠龍之技』に、次のように前書きを付して収載されている。

   墨子悲絲
 そめやすき人の心やいとざくら

 これは、抱一(俳号・屠龍)が師筋に仰いでいる其角流の「謎句」的な句作りである。そして、抱一に負けず劣らずの其角好きの蕪村にも、次の一句がある。

  恋さまざま願ひの糸も白きより (蕪村 安永六年、一七㈦七、六十二歳)

 この蕪村の句の季語は「願ひの糸」(七夕の、願いを祈る五色の糸)である。句意は、「七夕の宵に、女子たちが、さまざまな願い事を五色の糸に託しているが、今は無垢の白い糸も、やがて様々な恋模様を経て、一つのいる色に染め上げて行くことだろう。そのことを中国の墨子さんは嘆じているが、恋も人生も、その定めにあがなうことはできないであろう」というようなことであろう。

 蕪村には、もう一句ある。

  梅遠近(おちこち)南(みんなみ)すべく北(きた)すべく
                  (蕪村 安永六年、一七㈦七、六十二歳)

 「梅遠近(おちこち)」の「チ音」、「南(みんなみ)すべく北(きた)すべく」の「ク音」と、リズムの良い句である。句意は、「梅の花が近くにも遠くにも咲いている。さい、南の道を行こうか、それとも、北の道を行こうか、ほとほと困ってしまう。そのことを中国の揚子さんは嘆じているが、そういう逡巡もまた、人間の定めのようなもので、それにあがなうことはできないであろう」というようなことになろう。

 この蕪村の二句は、中国の古典の『蒙求(もうぎゅう)』に出て来る、「墨子悲絲(ぼくしひし)」、「楊朱泣岐(ようしゅきゅうき)」という故事に由来があるものである。

 淮南子曰 (えなんじにいわく)
 楊子見逵路而哭之(ようしきろをみてこれをこくす)
 為其可以南可以北(そのもってみなみにすべく、もってきたにすべきがなり)
 墨子見練絲而泣之(ぼくしれんしをみてこれをなく)
 為其可以黄可以黒(そのもってきにすべく、もってくろにすべきがなり)
 高誘曰(こういういわく)
 憫其本同而末異(きほんおなじくして、すえことなるをあわれむなり)

 蕪村は、享保元年(一七一六)の生まれ、抱一は、宝暦十一年(一七六一)の生まれ、蕪村が四十五歳年長である。抱一の俳諧の師の馬場存義は、元禄十六年(一七〇三)生まれ、
蕪村の俳諧の師の早野巴人は、延宝四年(一六七六)生まれで、巴人が亡くなった後の、実質的な巴人俳諧(夜半亭俳諧)の継承者は存義であった。
こと座を同じくする、いわば、兄弟子というような関係にある。
 すなわち、江戸時代中期の「画・俳」二道を究めた蕪村と、江戸時代後期の、これまた「画・俳」二道を究めた抱一とは、「其角・巴人・存義」を介して、こと「俳諧」の世界においては、身内のような関係にあったということになろう。

 ここまで来ると、冒頭の『鶯邨画譜』の「糸桜と短冊図」と、『屠龍之技』の「糸桜之句」については、もはや、付け加えるものもなかろう。
それよりも、抱一関連のもので「蕪村」に関するものは、まず目にすることは出来ないが、「画・俳」二道を究めた同門ともいうべき、「中興俳諧」と「日本南画」の旗手ともいうべき蕪村への、「中興俳諧(芭蕉復古俳諧)と其角俳諧(洒落・粋俳諧)との二道」と「江戸琳派(その創始者)」を目指している抱一の、一つのメッセージと解することも出来るのかも知れない。

糸桜.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「糸桜と短冊図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

その二 雨華庵(抱一庵)と根岸庵(子規庵)そして新吉原

写山楼.jpg

https://blog.goo.ne.jp/87hanana/e/5009c26242c14f72aff5e7645a2696a9


 上記は、谷文晁関係の「江戸・足立 谷家関係地図」のものであるが、ここに、「下谷三幅対」と言われた、「酒井抱一(宅)」(雨華庵)と「谷文晁(宅)」(写山楼)と「亀田鵬斎(宅)」の、それぞれの住居の位置関係が明瞭になって来る。
 その他に、「鵬斎・抱一・文晁」と密接な関係にある「大田南畝」や「市河米庵」などとの、それぞれの住居の位置関係も明瞭になって来る。その記事の中に、「文晁の画塾・写山楼と酒井抱一邸は、3キロくらい。お隣は、亀田鵬斎(渥美国泰著『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達』には、現在の台東区根岸3丁目13付近)」とある。
 この「酒井抱一宅・亀田鵬斎宅」は、旧「金杉村」で、正岡子規の「根岸庵」は、旧「谷中村」であるが、この地図の一角に表示することが出来るのかも知れない。また、当時の江戸化政期文化のメッカである「新吉原」も表示することが出来るのかも知れない。
なお、この地図に出て来る、千住宿の「千住酒合戦」については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-30

 また、次のアドレスで「下谷の三幅対」(鵬斎・抱一・文晁)について触れているが、そのうちの「谷文晁を巡る人物群像」などを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-28

(再掲)

「谷文晁を巡る人物群像」
松平楽翁→木村蒹葭堂→亀田鵬斎→酒井抱一→市河寛斎→市河米庵→菅茶山→立原翠軒→古賀精里→香川景樹→加藤千蔭→梁川星巌→賀茂季鷹→一柳千古→広瀬蒙斎→太田錦城→山東京伝→曲亭馬琴→十返舎一九→狂歌堂真顔→大田南畝→林述斎→柴野栗山→尾藤二洲→頼春水→頼山陽→頼杏坪→屋代弘賢→熊阪台州→熊阪盤谷→川村寿庵→鷹見泉石→蹄斎北馬→土方稲嶺→沖一峨→池田定常→葛飾北斎→広瀬台山→浜田杏堂
(文晁門四哲) 渡辺崋山・立原杏所・椿椿山・高久靄厓
(文晁系一門)島田元旦・谷文一・谷文二・谷幹々・谷秋香・谷紅藍・田崎草雲・金子金陵・鈴木鵞湖・亜欧堂田善・春木南湖・林十江・大岡雲峰・星野文良・岡本茲奘・蒲生羅漢・遠坂文雍・高川文筌・大西椿年・大西圭斎・目賀田介庵・依田竹谷・岡田閑林・喜多武清・金井烏洲・鍬形蕙斎・枚田水石・雲室・白雲・菅井梅関・松本交山・佐竹永海・根本愚洲・江川坦庵・鏑木雲潭・大野文泉・浅野西湖・村松以弘・滝沢琴嶺・稲田文笠・平井顕斎・遠藤田一・安田田騏・歌川芳輝・感和亭鬼武・谷口藹山・増田九木・清水曲河・森東溟・横田汝圭・佐藤正持・金井毛山・加藤文琢・山形素真・川地柯亭・石丸石泉・野村文紹・大原文林・船津文淵・村松弘道・渡辺雲岳・後藤文林・赤萩丹崖・竹山南圭・相沢石湖・飯塚竹斎・田能村竹田・建部巣兆

 吉原の太鼓聞こえて更くる夜にひとり俳句を分類すれば (正岡子規・明治三十一年)
 虫鳴(なく)や俳句分類の進む夜半          (同上・ 明治三十年) 


この短歌と句とは、「俳句革新・短歌革新」を目指した正岡子規の、その本拠地たる「病牀六尺」の、その「根岸庵」(子規宅)でのものである。

 この句の、明治三十年(一八九七)の「正岡子規関係年表」(『子規山脈(坪内稔典著)』)には、「三月二十七日に腰部の手術。四月二十日、医師に講話を禁止される。四月下旬、再手術。四月十三日、『日本』に『俳人蕪村』の連載を始める(十二月二十九日まで十九回)」とある。時に、子規、三十一歳の時で、子規の「俳人蕪村再発見」のスタートの年であった。
 続く、その翌年の、この歌を作った明治三十一年(一八九七)には、「二月十二日、『日本』に『歌よみに与ふる書』を発表(三月四日まで十回)」と、「俳句革新」に続く、「短歌革新」の、その狼煙を上げた年である。

 よし原に花を咲かせて早帰り        (谷文晁)
 居過(いすご)して花のあはれを聞く夜かな (酒井抱一)

 『本朝画人伝巻一(村松削風著)』で紹介されている、若き日の文晁と抱一との吉原での作である。そこで、「文晁は遊里に足を入れても相方は一夜限り、(中略)抱一は正反対、登楼したとなると帰ることを忘れて流連荒亡日のたつも知らないのである」と、両者の相違を紹介しての、文晁と抱一の応酬の句が上記のものである。
 しかし、抱一については、『『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達(渥美国泰著)』で、次のような記述もなされている。

「よし原へ泊り給ふ事ハ一夜もなく、四ツ時(今の午後十時頃)前ニ御帰り被成ける。與助と中下男、酒に酔て歩行覚束なき時ハ、與助壱人駕籠へ乗せ、御自身ハ歩行ミて帰り給ふ」

 ほれもせずほれられもせずよし原に
          酔うてくるわの花の下蔭  (尻焼猿人=酒井抱一)

 この狂歌は、『絵本詞の花』(宿屋飯盛撰 喜多川歌麿画)所収の、天明七年、抱一、二十七歳の頃の作である。

吉原の抱一.jpg

国立国会図書館デジタルコレクション『絵本詞の花』(版元・蔦屋重三郎編)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533129

 上記は、吉原引手茶屋の二階の花見席を描いた喜多川歌麿の挿絵である。この花見席の、左端の後ろ向きになって顔を見せていないのが、「尻焼猿人=酒井抱一」のようである(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂刊)』)。

 酒井抱一は、ともすると、上記の『本朝画人伝巻一(村松削風著)』のように、「吉原遊興の申し子」のように伝聞されているが、その実態は、この狂歌の、「ほれもせずほれられもせずよし原に 酔うてくるわの花の下蔭」の、この「花の下蔭」(姫路城主酒井雅樂頭家の「次男坊」)という、「日陰者」(「日陰者」として酒井家を支える)としての、そして、上記の、「よし原へ泊り給ふ事ハ一夜もなく」、そして、「與助壱人駕籠へ乗せ、御自身ハ歩行ミて帰り給ふ」ような、常に、激情に溺れず、細やかな周囲の目配りを欠かさない、これぞ、「江戸の粋人(人情の機微に通じたマルチタレント)」というのが、その実像のように思われて来る。

 そして、酒井抱一を、「江戸の粋人(人情の機微に通じた時代を先取りするマルチタレント)」とするならば、正岡子規は、同じ、江戸(東京)の、四国(松山藩)から出て来た、その「江戸(東京)」の、その「下谷根岸」の、その「東京の粋人(時代を先取りするマルチタレント)」であったという思いを深くする。

 上記の、江戸の粋人の「吉原の尻焼猿人(酒井抱一)」に対しての、東京の粋人の「正岡子規」のそれは、次の、「野球姿の正岡子規像」が、それに相応しい。

子規像.jpg

正岡子規、野球姿の銅像(道後放生園)
http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-1872.html

その三 下谷の三幅対(三人組)「鵬斎・抱一・文晁」と「建部巣兆」(「千住連」宗匠)

写山楼.jpg

https://blog.goo.ne.jp/87hanana/e/5009c26242c14f72aff5e7645a2696a9

 前回に引き続き、この谷文晁関係の「江戸・足立 谷家関係地図」を見て行くと、この上部の「坂川屋鯉隠(りいん)」は、日光街道の宿場町「千住宿」の「青物問屋坂川屋主人・山崎利右衛門」の雅号(俳号)である。
 この千住宿には、亀田鵬斎の義弟の俳人・建部巣兆(たけべそうちょう)が、俳諧グループ「千住連」を主宰していて、鯉隠は、そのグループの有力メンバーの一人なのである。
 この鯉隠が中心になって、「千住酒合戦」のイベントが興行されたことは、先に触れた。そのイベント合戦記「高陽闘飲図鑑(こうようとういんずかん)」(大田南畝記・歌川季勝画)が、次のアドレスで見ることができる。

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/wo06/wo06_01594/index.html

高陽闘飲図一.jpg

「高陽闘飲図巻」(大田南畝記・歌川季勝画)(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01594/wo06_01594_p0007.jpg

 上記のイベント会場入り口の看板「不許悪客下戸理窟入菴門(下戸・理屈ノ悪客菴門ニ入ルコトヲ許サズ)」の書は「抱一書」(酒井抱一書)のようである。左端の「後水鳥記」は、大田南畝のイベント観戦記のようである。
 この「後水鳥記」の出だしの、「文化十二のとし」(一八一五)十月二十一日に、このイベントは興行された。この一年前の、文化十一年(一八一四)十一月十七日に、建部巣兆は亡くなっている、享年、五十四歳で、巣兆は抱一と同じく、宝暦十一年(一七六一)の生まれである。
 そして、上記のイベント会場の入り口の看板「「不許悪客下戸理窟入菴門(下戸・理屈ノ悪客菴門ニ入ルコトヲ許サズ)」は、巣兆の俳諧グループ「千住連」の本拠地の、巣兆の庵「秋香園」に掲げられていたものを、そのイベント会場の入り口に掲げたようである(増田昌三郎稿「江戸の画俳人建部巣兆とその歴史的背景」)。

  悼巣兆 
 栴檀(せんだん)の木屑に残る寒さかな(『軽居館句藻』「氷の枝」) 

 この句は、抱一の巣兆が亡くなった時の悼句である。この句の「栴檀」は、「栴檀は双葉より芳し(大成する人は幼少のときから優れている)」を踏まえてのものであろう。

  二月十七日追福秋香庵巣兆
 名は残る楝(おうち)の実の木すえ(木末)哉(増補版『屠龍之技』国立国会図書館蔵)

 この句は、抱一の巣兆の百箇日の追善の句である。この句の「楝(樗)」は「栴檀の古名」で、先の悼句を踏まえたものであろう。そして、この両句とも、「巣兆の『栴檀は双葉より芳し』の名声は、その死後も、永遠に変わることがない」というようなことであろう。

高陽闘飲図二.jpg

「高陽闘飲図巻」(大田南畝記・歌川季勝画)(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01594/wo06_01594_p0014.jpg

 この「高陽闘飲図巻」中の、桟敷席で酒合戦を観覧しているのは、右から、「文晁・鵬斎・抱一」の下谷の三幅対(三人組)の面々であろう。そして、鵬斎と抱一との間の人物は、大田南畝、抱一の後ろ側の女性と話をしている人物は、文晁の嗣子・谷文一なのかも知れない。
 そして、この抱一像は、法衣をまとった「権大僧都等覚院文詮暉真(ぶんせんきしん)・抱一上人」の風姿で、鵬斎も文晁も、共に、羽織り・袴の正装であるが、この酒合戦の桟敷の主賓席では一際異彩を放ったことであろう(その上に、抱一は「下戸」で酒は飲めないのである)。
 この時の、抱一像について、別種の「文晁(又は文一)作」とされているものを、下記のアドレスで紹介している(しかし、当日の写生図は、この図巻の「文晁・文一合作」のものが基本で、それを模写しての数種の模本のものなのかも知れない)。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-30

 ここで、文化十二年(一八一五)の、この海外にまで名を馳せている(ニューヨーク公共図書館スペンサーコレクション蔵本)、この「千住酒合戦」(「高陽闘飲」イベント)は、
「酒飲みで、酒が足りなくなると羽織を脱いで妻に質に入れさせ、酒に変えたという」(増田昌三郎稿「江戸の画俳人建部巣兆とその歴史的背景」・ウィキペディア)の、「千住連」の俳諧宗匠・「秋香庵巣兆」(建部巣兆)の、その一周忌などに関連するイベントのような、そんな思いもして来る。
 さらに、続けて、この「高陽闘飲図巻」の、次の「太平餘化」の「題字」は、谷文晁の書のようである。

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「高陽闘飲図巻」(大田南畝記・歌川季勝画)(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01594/wo06_01594_p0002.jpg

 この文晁書の「太平餘化」が何を意味するのかは不明であるが、建部巣兆の義兄の、そして「下谷三幅対(鵬斎・抱一・文晁)」の長兄たる亀田鵬斎の雅号の一つの「太平酔民」などが背景にあるもののように思われる。

高陽闘飲図四.jpg

「高陽闘飲図巻」(大田南畝記・歌川季勝画)(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01594/wo06_01594_p0003.jpg

 これは、文晁の題字「太平餘化」の後に続く、鵬斎の「高陽闘飲序」(序文)である。ここには、巣兆に関する記述は見当たらない。「千寿(住)駅中六亭主人(注・「中六」こと飛脚問屋「中屋」の隠居・六右衛門)」の「還暦を祝う酒の飲み比べの遊宴」ということが紹介されている。
 この「高陽闘飲」の「高陽」は『史記』に出典があって、「われは高陽の酒徒、儒者にあらず」に因るものらしく、「千住宿の酒徒」のような意味なのであろうが、この「序」を書いた鵬斎自身を述べている感じでなくもない。
 この鵬斎の「序」に、前述の抱一の会場入り口の看板「不許悪客下戸理窟入菴門(下戸・理屈ノ悪客菴門ニ入ルコトヲ許サズ)」の図があって、次に、南畝の「後水鳥記」が続く。
 この「後水鳥記」の「水鳥」は、「酒」(サンズイ=水+鳥=酉)の洒落で、この「後」は、延喜年間や慶安年間の「酒合戦記」があり、それらの「後水鳥記」という意味のようである。
 そして、この南畝の「後水鳥記」と併せ、「酒合戦写生図」(谷文晁・文一合作)が描かれている。
 この「酒合戦写生図」(谷文晁・文一合作)の後に、大窪詩仏の「題酒戦図」の詩(漢詩)、狩野素川筆の「大盃(十一器)」、そして、最後に、市河寛斎の「跋」(漢文)が、この図巻を締め括っている。
 この図巻に出てくる「抱一・鵬斎・文晁・文一・南畝・詩仏・素川・寛斎」と、さながら、江戸化政期のスーパータレントが、当時の幕藩体制の封建社会の身分制度(男女別・士農工商別)に挑戦するように、この一大イベントに参加し、その「高陽闘飲図巻」を合作しているのは何とも興味がつきないものがある(これらに関して、下記アドレスのものを再掲して置きたい)。
 なお、この「高陽闘飲図巻」については、全文翻刻はしていないが、『亀田鵬斎(杉村英治著・三樹書房)』が詳しい。
 また、大窪詩仏などについては、下記のアドレスの『江戸流行料理通大全』・ 「食卓を囲む文人たち」で触れている。なお、この図中の「酒井抱一」とも見られていたのは、「鍬形蕙斎」であることは特記して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-25

 さて、冒頭の、谷文晁関係の「江戸・足立 谷家関係地図」に戻って、その左上に書かれている「船津文渕」については、『日本史リブレット人054酒井抱一(玉蟲敏子著)』の「足立・千住と抱一門の関わり」の中で、「近年の足立区立郷土博物館の調査研究」などを踏まえての記述がなされている。

(再掲)
 これらの、江戸の文人墨客を代表する「鵬斎・抱一・文晁」が活躍した時代というのは、それ以前の、ごく限られた階層(公家・武家など)の独占物であった「芸術」(詩・書・画など)を、四民(士農工商)が共用するようになった時代ということを意味しよう。
 それはまた、「詩・書・画など」を「生業(なりわい)」とする職業的文人・墨客が出現したということを意味しよう。さらに、それらは、流れ者が吹き溜まりのように集中して来る、当時の「江戸」(東京)にあっては、能力があれば、誰でもが温かく受け入れられ、その才能を伸ばし、そして、惜しみない援助の手が差し伸べられた、そのような環境下が助成されていたと言っても過言ではなかろう。
 さらに換言するならば、「士農工商」の身分に拘泥することもなく、いわゆる「農工商」の庶民層が、その時代の、それを象徴する「芸術・文化」の担い手として、その第一線に登場して来たということを意味しよう。
 すなわち、「江戸(東京)時代」以前の、綿々と続いていた、京都を中心とする、「公家の芸術・文化」、それに拮抗しての全国各地で芽生えた「武家の芸術・文化」が、得体の知れない「江戸(東京)」の、得体の知れない「庶民(市民)の芸術・文化」に様変わりして行ったということを意味しょう。


(追記)「後水鳥記」(大田南畝記)

http://www.j-texts.com/kinsei/shokuskah.html#chap03

 後水鳥記
  文化十二のとし乙亥霜月廿一日、江戸の北郊千住のほとり、中六といへるものの隠家にて酒合戦の事あり。門にひとつの聯をかけて、
不許悪客〔下戸理窟〕入庵門 南山道人書
としるせり。玄関ともいふべき処に、袴きたるもの五人、来れるものにおのおのの酒量をとひ、切手をわたして休所にいらしめ、案内して酒戦の席につかしむ。白木の台に大盃をのせて出す。其盃は、江島杯五合入。鎌倉杯七合入。宮島杯一升入。万寿無彊盃一升五合入。緑毛亀杯二升五合入。丹頂鶴盃三升入。をの/\その杯の蒔絵なるべし。
干肴は台にからすみ、花塩、さゝれ梅等なり。又一の台に蟹と鶉の焼鳥をもれり。羹の鯉のきりめ正しきに、はたその子をそへたり。これを見る賓客の席は紅氈をしき、青竹を以て界をむすべり。所謂屠龍公、写山、鵬斎の二先生、その外名家の諸君子なり。うたひめ四人酌とりて酒を行ふ。玄慶といへる翁はよはひ六十二なりとかや。酒三升五合あまりをのみほして座より退き、通新町のわたり秋葉の堂にいこひ、一睡して家にかへれり。大長ときこえしは四升あまりをつくして、近きわたりに酔ひふしたるが、次の朝辰の時ばかりに起きて、又ひとり一升五合をかたぶけて酲をとき、きのふの人々に一礼して家にかへりしとなん。掃部宿にすめる農夫市兵衛は一升五合もれるといふ万寿無彊の杯を三つばかりかさねてのみしが、肴には焼ける蕃椒みつのみなりき。つとめて、叔母なるもの案じわづらひてたづねゆきしに、人より贈れる牡丹餅といふものを、囲炉裏にくべてめしけるもおかし。これも同じほとりに米ひさぐ松勘といへるは、江の島の盃よりのみはじめて、鎌倉宮島の盃をつくし萬寿無彊の杯にいたりしが、いさゝかも酔ひしれたるけしきなし。此の日大長と酒量をたゝかはしめて、けふの角力のほてこうてをあらそひしかば、明年葉月の再会まであづかりなだめ置きけるとかや。その証人は一賀、新甫、鯉隠居の三人なり。小山といふ駅路にすめる佐兵衛ときこえしは、二升五合入といふ緑毛亀の盃にて三たびかたぶけしとぞ。北のさと中の町にすめる大熊老人は盃のの数つもりて後、つゐに萬寿の杯を傾け、その夜は小塚原といふ所にて傀儡をめしてあそびしときく。浅草みくら町の正太といひしは此の会におもむかんとて、森田屋何がしのもとにて一升五合をくみ、雷神の門前まで来りしを、其の妻おひ来て袖ひきてとゞむ。其辺にすめる侠客の長とよばるゝ者来りなだめて夫婦のものをかへせしが、あくる日正太千住に来りて、きのふの残り多きよしをかたり、三升の酒を升のみにせしとなん。石市ときこえしは万寿の杯をのみほして酔心地に、大尽舞のうたをうたひまひしもいさましかりき。大門長次と名だゝるをのこは、酒一升酢一升醤油一升水一升とを、さみせんのひゞきにあはせ、をの/\かたぶけ尽せしも興あり。かの肝を鱠にせしといひしごとく、これは腸を三杯漬とかやいふものにせしにやといぶかし。ばくろう町の茂三は緑毛亀をかたぶけ、千住にすめる鮒与といへるも同じ盃をかたぶけ、終日客をもてなして小杯の数かぎりなし。天五といへるものは五人とともに酒のみて、のみがたきはみなたふれふしたるに、おのれひとり恙なし。うたひめおいくお文は終日酌とりて江の島鎌倉の盃にて酒のみけり。その外女かたには天満屋の美代女、万寿の盃をくみ酔人を扶け行きて、みづから酔へる色なし。菊屋のおすみは緑毛亀にてのみ。おつたといひしは、鎌倉の盃にてのみ、近きわたりに酔ひふしけるとなん。此外酒をのむといへども其量一升にもみたざるははぶきていはず。写山、鵬斎の二先生はともに江の島鎌倉の盃を傾け、小杯のめぐる数をしらず。帰るさに会主より竹輿をもて送らんといひおきてしが、今日の賀筵に此わたりの駅夫ども、樽の鏡をうちぬき瓢もてくみしかば、駅夫のわづらひならん事をおそれしが、果してみな酔ひふしてこしかくものなし。この日調味のことをつかさどれる太助といへるは、朝より酒のみてつゐに丹頂の鶴の盃を傾けしとなん。一筵の酒たけなはにして、盃盤すでに狼籍たり。門の外面に案内して来るものあり。たぞととへば会津の旅人河田何がし、此の会の事をきゝて、旅のやどりのあるじをともなひ推参せしといふ。すなはち席にのぞみて江の島鎌倉よりはじめて、宮島万寿をつくし、緑毛の亀にて五盃をのみほし、なほ丹頂の鶴の盃のいたらざるをなげく。ありあふ一座の人々汗を流してこれをとゞむ。かの人のいふ。さりがたき所用ありてあすは故郷に帰らんとすれば力及ばす。あはれあすの用なくば今一杯つくさんものをと一礼して帰りぬ。人々をして之をきかしむるに、次の日辰の刻に出立せしとなん。この日文台にのぞみて酒量を記せしものは、二世平秩東作なりしとか。
むかし慶安このとし、大師河原池上太郎左衛門底深がもとに、大塚にすめる地黄坊樽次といへるもの、むねとの上戸を引ぐしおしよせて酒の戦をしき。犬居目礼古仏座といふ事水鳥記に見えたり。ことし鯉隠居のぬし来てふたゝびこのたゝかひを催すとつぐるまゝに、犬居目礼古仏座、礼失求諸千寿野といふ事を書贈りしかば、其の日の掛物とはせしときこへし。かゝる長鯨の百川を吸ふごときはかりなき酒のともがら、終日しづかにして乱に及ばず、礼儀を失はざりしは上代にもありがたく、末代にまれなるべし。これ会主中六が六十の寿賀をいはひて、かゝる希代のたはむれをなせしとなん。かの延喜の御時亭子院に酒たまはりし記を見るに、その筵に応ずるものわづかに八人、満座酩酊して起居静ならず。あるは門外に偃臥し、あるは殿上にえもいはぬものつきちらし、わづかにみだれざるものは藤原伊衡一人にして、騎馬をたまはりて賞せられしとなん。かれは朝廷の美事にして、これは草野の奇談なり。今やすみだ川のながれつきせず、筑波山のしげきみかげをあふぐ武蔵野のひろき御めぐみは、延喜のひじりの御代にたちまさりぬべき事、此一巻をみてしるべきかも。
               六十七翁蜀山人
               緇林楼上にしるす


その四 根岸の「抱一・蠣潭・其一」と千住の「建部巣兆」

根岸略図.jpg

国立国会図書館デジタルコレクション「根岸略図」(文政三年刻)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9369588

 これは、文政三年(一八二〇)版の「根岸略図である。時に、抱一は六十歳であった、抱一が、この根岸の里に引っ越して来たのは、文化六年(一八〇九)、四十九歳の時で、『本朝画人伝巻一(村松削風著)』では、次のように記述されている。

「文化六年抱一は根岸大塚(一名鶯塚)へ移った。現今の下根岸である。居宅を新築したわけではなく、従来あった農家を購ってこれに茶席を建て増したのみであった。これぞ名高き『雨華庵』である。また、これより地名になぞられて『鶯邨(村)』とも号した。誰袖(たがそで)を入れて采箒の任をとらしめたのもこのころのことであろう。誰袖は本名おちか、号小鸞(しょうらん)女史、のちに剃髪して妙華尼と号した。彼女も抱一の画弟子であった。抱一は同時に新造禿(かむろ)まで引取って依然として廓(さと)言葉を使わせていたのである。」

 上記の地図の「抱一」の下に「其一」とある。この其一は、抱一門の筆頭格の高弟・鈴木其一(宅)であろう。其一が抱一の内弟子となったのは、文化十年(一八一三)、十八歳の時で(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収「年譜」)、この家は、当初、其一が養子となり跡継ぎとなる鈴木蠣潭(当時十八歳)が、「(酒井家)十三人扶持・中小姓」として抱一の「御用人(付人)」となっているので(同上「年譜)、抱一の最古参弟子の鈴木蠣潭が、移り住んでいた家なのかも知れない。
 この蠣潭は、文化十四年(一八一七)、二十六歳の若さで急逝し、その年の「年譜」に、「鈴木其一、抱一の媒介で、蠣潭の姉りよと結婚し、鈴木家を継ぐ。抱一の付人となり、下谷金杉石川屋敷に住む」と記載されている。
 蠣潭の急逝について、「亀田鵬斎年譜」(『亀田鵬斎(杉村英治著)』)に、「六月二十五日、鈴木蠣潭没す。年二十六、抱一に侍して執事を勤め、絵画を学ぶ。墓に、鵬斎の碑文、抱一書の辞世の句を刻む。なみ風もなくきへ行(ゆく)や雲のみね 蠣潭」と記載されている。
 この辞世の句からして、蠣潭は俳諧も抱一から薫陶を受けていたことが了知される。蠣潭は、抱一の書簡などから、抱一の代作などをしばしば依頼されており、単なる付人というよりも、抱一の代理人(「亀田鵬斎年譜」の「執事」)のような役割を担い、抱一が文化十二年(一八一五)に主宰した光琳百回忌事業などにおいても、実質的な作業の中心になっていたことであろう。
 また、この「鵬斎年譜」から、蠣潭の墓石に、鵬斎が碑文を書き、蠣潭の辞世の句(「なみ風もなくきへ行(ゆく)や雲のみね」)を書していることからすると、鵬斎と「抱一・蠣潭」とは、親しい家族ぐるみの交遊関係にあったことが了知される。
 その「鵬斎(宅)」が、冒頭の「根岸略図」の中央(抱一・其一宅の右下方向)に出ている。その左隣の「北尾」は、浮世絵や黄表紙の挿絵で活躍した北尾重政(宅)で、重政の俳号は「花覧(からん)」といい、俳諧グループに片足を入れていたのであろう(『日本史リブレット人054酒井抱一(玉蟲敏子著)』)。
  この同書(玉蟲著)の別の「下谷根岸時代関係地図」を見ていくと、冒頭の「根岸略図」
(部分図)の上部の道路は「金杉通り」で、下部の蛇行した川は「音無(おとなし)川」のようである。この「金杉通り」の中央の上部に、「吉原トオリ」というのが「〇囲みの東」の方に伸びている。この路を上っていくと「新吉原」に至るのであろう。
 また、この地図の上部の左端に「日本ツツミ」とあり、これは「新吉原」そして、隅田川に通ずる「日本堤」なのであろう。その隅田川に架橋する千住大橋を渡ると、建部巣兆らの「千住連」(俳諧グループ)の本拠地たる宿場町・千住に至るということになる。

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『曽波可理 / 巣兆 [著] ; 国むら [編]』「鵬斎・叙」(早稲田大学図書館蔵)
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『曽波可理 / 巣兆 [著] ; 国むら [編]』「抱一・巣兆句集序一」(早稲田大学図書館蔵)
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『曽波可理 / 巣兆 [著] ; 国むら [編]』「抱一・巣兆句集序二」(早稲田大学図書館蔵)
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『江戸文芸之部第27巻日本名著全集俳文俳句集』所収「曽波可理(そばかり)」から、上記の抱一の「巣兆句集序」の翻刻文を掲載して置きたい。

【 巣兆句集序
秋香庵巣兆は、もと俳諧のともたり。花晨月夕に句作して我に問ふ。我も又句作して彼に問ふ。彼に問へば彼譏(そし)り、我にとへば我笑ふ。我畫(かか)ばかれ題し、かれ畫ば我讃す。かれ盃を挙げれば、、われ餅を喰ふ。其草稿五車に及ぶ。兆身まかりて後、国村師を重ずるの志厚し。一冊の草紙となし梓にのぼす。其はし書きせよと言ふ。いなむべきにあらず。頓(とみ)に筆を採て、只兆に譏られざる事をなげくのみなり
文化丁丑五日上澣日        抱一道人屠龍記 (文詮印)   】

 ついでに、上記の「巣兆発句集 自撰全集」の冒頭の句も掲載して置きたい。

【 巣兆発句集 自撰全集
   歳旦
 大あたま御慶と来けり初日影
  俊成卿
   玉箒はつ子の松にとりそへて
      君をそ祝う賤か小家まで
 けふとてぞ猫のひたひに玉はゝき
 竈獅子が頤(あご)ではらひぬ門の松          】

 建部巣兆は、加舎白雄に俳諧を学び、その八大弟子の一人とされ、夏目成美・鈴木道彦と共に江戸の三大家に数えられ、俳人としては、名実共に、抱一を上回るとして差し支えなかろう。
 抱一は、姫路城十五万石の上流武家の生まれ、巣兆の父は、書家として知られている山本龍斎(山本家江戸本石町の名主)、その生まれた環境は違うが、その生家や俗世間から身を退き(隠者)、共に、傑出した「画・俳」両道の「艶(優艶)」の世界に生きた「艶(さや)隠者」という面では、その生き方は、驚くほど共通するものがある。
 鵬斎は、上記の巣兆句集『曽波可理』の「叙」の中で、巣兆を「厭世之煩囂」(世の煩囂(はんきょう)を厭ひて)「隠干関屋之里」(関谷の里に隠る)と叙している。抱一は、三十七際の若さで「非僧非俗」の本願寺僧の身分を取得し、以後、「艶隠者」としての生涯を全うする。
 この同じ年齢の、共に、この艶隠者としての、この二人は、上記の抱一の「序」のとおり、その俳諧の世界にあって、共に、「花晨月夕に句作して我(抱一)に問ふ。我も又句作して彼(巣兆)に問ふ。彼に問へば彼譏(そし)り、我にとへば我笑ふ。我畫(かか)ばかれ題し、かれ畫ば我讃す。かれ盃を挙げれば、、われ餅を喰ふ」と、相互に肝胆相照らし、そして、相互に切磋琢磨する、真の同朋の世界を手に入れたのであろう。
 これは、相互の絵画の世界においても、巣兆が江戸の「蕪村」を標榜すれば、抱一は江戸の「光琳」を標榜することとなる。巣兆は谷文晁に画技を学び、文晁系画人の一人ともされているが、そんな狭い世界のものではない。また、抱一は、光琳・乾山へ思慕が厚く、「江戸琳派」の創始者という面で見られがちであるが、それは、上方の「蕪村・応挙」などの多方面の世界を摂取して、いわば、独自の世界を樹立したと解しても差し支えなかろう。
 ここで、特記して置きたいことは、享和二年(一八〇二)に、上方の中村芳中が江戸に出て来て『光琳画譜』(加藤千蔭「序」、川上不白「跋」)を出版出来た背後には、上方の木村蒹葭堂を始めとする俳諧グループと巣兆を始めとする江戸の俳諧グループとの、そのネットワークの結実に因るところが多かったであろうということである。
 そして、巣兆と中村芳中との接点は、寛政十二年(一八〇〇)に出版された斬新な編纂による撰集『徳萬歳(巣兆編)』の挿絵は芳中の「徳萬歳」なのである。
この撰集の斬新さは、巣兆の序(「名寄せの大例」)で、「句作と作者を引(ひき)わかちて」その句作のみを「心しづかにことごとの句意を感味すべく」それによって「初心と手だれの趣向を知る事」もまた「よき修行ならずや」と考えて、こうした奇抜な編纂を思いついたと述べている。
 「目次」に当たるところに「作者」のみの記載があり、「本文)」のところには無名の「句作」が羅列されていて、その「句作」を観賞しながら、その「作者」が誰かを推量させると、どうにも、洒落っ気も度が過ぎているような感じでなくもない。
 その「目次」(俳人名)を見て行くと、「作者倣句順」(八十七名)中に、「千影(加藤千蔭?)・大江丸(大伴大江丸)・芳中(中村芳中)・文兆(谷文晁?)・道彦(鈴木道彦)」、「都八十余人」中に、「成美(夏目成美)・完来(大島完来)・長翠(常世田長翠)・士朗(井上士朗)」など、当時の名立たる俳人の中に、芳中(中村芳中)の名も出て来る。
 こういう撰集を、当時、四十歳の巣兆が刊行しているということは、単に、江戸の俳人というよりも、全国に名の知れ渡っている、当時の代表的な俳人の一角を占めていたと解することも出来よう。

  白梅の梅の香に我ならぬ袂かな (「笠やどり・二十三句目)・冥々(酒井抱一?)

 『徳萬歳(巣兆編)』の「目次」(「都八十余人」)の中に、「冥々」(二十三番目)の名が出て来る。この「冥々」は、当時の抱一の庵号の「溟(冥)々居」の「冥々」のように思われる。抱一の俳号は「白鳧(はくふ)・濤花後に杜陵(綾)・屠龍(とりょう)」など。画号は「軽挙道人・庭柏子・溟(冥)々居・楓窓・鶯村(邨)・雨華庵・抱一」など。狂句名は「尻焼猿人」(「浮世絵美人画も同じ)などが使われている。
 この『徳万歳』の抱一「序」の「彼に問へば彼譏(そし)り、我にとへば我笑ふ」と、この二人が、俳諧の世界で真に切磋琢磨し合ったのは、この『徳万歳』が刊行された寛政十二年(一八〇〇)、共に、四十歳の不惑の年の頃を指しているのではなかろうか。
 この翌年の享和元年(一八〇一)に、この当時の傑作画「燕子花図屏風」(出光美術館蔵)を完成させている。この「燕子花図屏風」は、下記のアドレスで紹介している。この時の落款は、「庭柏子『抱一(朱文円印)』『冥々居(白文方印)』で、「冥々居」の印が用いられている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-07-27

 ここで、改めて実感することは、「鵬斎・抱一・文晁・南畝」のネットワークは、この「巣兆」のネットワークなどと重層しながら、一大ネットワークを形成していたであろうということである。
 この文晁の「俳諧ネットワーク」などと関連して、『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達(渥美国泰著)』の「鈴木其一」の中に、「鶯巣(おうそう)は彼の俳号である」との記述が見られるが、この「鶯巣」の「鶯」は抱一の「鶯村(邨)」の「鶯」、そして、その「巣」は建部巣兆の「巣」なのではなかろうか。
 巣兆が亡くなった宝暦十一年(一八一四)、この時に、鈴木蠣潭は二十三歳、其一は十九歳で、其一はその前年に抱一の内弟子になっている。蠣潭も其一も、抱一の薫陶を受けて俳諧も嗜むが、そこに、巣兆が一枚加わっているような、そんな思いを深くする。

  我庵はよし原霞む師走哉 (巣兆『曽波加里』)

 巣兆没後に刊行された巣兆句集『曽波加里』の最後を飾る一句である。この句は、「よし原」の「よし」が、「良し」「葦(よし)・原」「吉(よし)・原」の掛詞となっている。句意は、「我が関屋の里の秋香園は良いところで、隅田川の葦原が続き、その先は吉原で、今日は、霞が掛かっているようにぼんやりと見える。もう一年を締めくくる師走なのだ」というようなことであろう。
 そして、さらに付け加えるならば、「その吉原の先は、根岸の里で、そこには、雨華庵(抱一・蠣潭・其一)、義兄の鵬斎宅、そして、写山楼(文晁・文一)と、懐かしい面々が薄ぼんやりと脳裏を駆け巡る」などを加えても良かろう。
 これは、巣兆の最晩年の作であろう。この巣兆句集『曽波加里』の前半(春・夏)の部は巣兆の自撰であるが、その中途で巣兆は没し、後半(秋・冬)の部は巣兆高弟の加茂国村が撰し、そして、国村が出版したのである。
 巣兆俳諧の後継者・国村が師の巣兆句集『曽波加里』の、その軸句に、この句を据えたということは、巣兆の絶句に近いものという意識があったように思われる。巣兆は、文化十一年(一八一四)十一月十四日、その五十四年の生涯を閉じた。

(追記)『徳萬歳(巣兆著)』・『品さだめ(巣兆撰・燕市編)』の挿絵「徳萬歳」(中村芳中画)

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『品さだめ(巣兆撰・燕市編)』中「徳萬歳(中村芳中画)」(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06709/he05_06709.html

一 『徳萬歳(巣兆著)』と『品さだめ(巣兆撰・燕市編)』とは、書名は異なるが、内容は全く同じものである。上記のアドレスの書名の『俳諧万花』は「旧蔵者(阿部氏)による墨書」で為されたものである。

二 『徳萬歳(巣兆著)』は、『日本俳書大系(第13巻)』に収載されているが、その解題でも、この『品さだめ』との関連などは触れられていない。

三 燕市(燕士・えんし)は、「享保六年(一七二一)~寛政八年(一七九六)、七十六歳。
石井氏。俗称、塩屋平右衛門。別号に、燕士、二月庵。豊後国竹田村の商人。美濃派五竹坊・以哉(いさい)坊門。編著『みくま川』『雪の跡』」とある(『俳文学大辞典』)。

四 「艶隠者」については、下記のアドレスでも触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-07-04-1

(再掲)

『扶桑近代艶(やさ)縁者(第三巻)』(西鷺軒橋泉 [作] ; 西鶴 [序・画])所収「嵯峨の風流男(やさおとこ)」

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he13/he13_03265/he13_03265_0003/he13_03265_0003.html

上記の西鶴の「嵯峨の風流男(やさおとこ)」は、乾山をモデルにしていて、若くして隠遁者(隠者)として、俗世間との縁を断ち切る生活に入るが、それは、一見、「ストイック」(禁欲的に自己を律する姿勢)的に見られるが、その本質は、それに甘んじている、一種の「エピキュリアン」(享楽主義者)的な面が濃厚であるというのである。
 それを図解した挿絵が、上記のもので、左側の女性に囲まれて遊興三昧の男が、光琳をモデルした男、それを見ていて、その中には足を踏み入れない右側の人物が乾山をモデルにしている「嵯峨の風流男(やさおとこ)」、すなわち、「艶(やさ)隠者」乾山、その人という見方である。

その五 江戸俳諧ネットワーク(巣兆・抱一)と上方俳諧ネットワーク(蒹葭堂・芳中)そして仲介人(大江丸)

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谷文晁筆「木村蒹葭堂肖像画」絹本着色(六九×四二cm) 享和二年(一八〇二)作
大阪府教育委員会蔵(重要文化財)

 『江戸百夢―近世図像学の楽しみ(田中優子著)』で、この肖像画の人物・木村蒹葭堂を「浪花の大ネットワーカー」と題して、次のような指摘をしている。

【 江戸時代において人格および人格的影響力を身につけるには、何も偉大な哲学者や厳しい修行僧になる必要はない。江戸時代の基本的な価値観である、「私(わたくし)しない」ことを守れば、それで良いのだ。「私しない」とは、自分の財産、才能、家族、仕事、立場、地位などを、自分のためだけに使わない、という意味である。自分と自分の持っているものを、社会(世間)に向かって開いておく、世間のために使う、世間の媒体(メディア)になりきる、という意味である。蒹葭堂は根っからそういう人間であり、人は蒹葭堂を通してつながり合い、知識に触れ、成長していった。谷文晁の描いた顔はまさにそのような人物の顔である。そのような人格者をかつては「大愚」と言った。  】

 「下谷の三幅対」(鵬斎・抱一・文晁)の中で、この木村蒹葭堂と面識があり、折に触れて文通をしていたのは、谷文晁である。文晁は、寛政元年(一七八九)、二十六歳の頃、長崎遊学の途につき、その長崎では折から当地へ来ていた張秋穀(ちょうしゅうこう)に入門などをしている。その帰途に大阪の木村蒹葭堂を訪ねて、それ以降、相互に情報交換などをしていたことの書簡などが、下記のアドレスで紹介されている。

http://www.og-cel.jp/issue/cel/__icsFiles/afieldfile/2017/10/24/117all.pdf#page=19

 上記の蒹葭堂の肖像画は、蒹葭堂が亡くなった享和二年(一八〇二)一月二十五日の二ヶ月を経過した三月二十五日に描かれたことがその右端の賛に記されている。
当時、文晁は、四十歳の頃で、抱一関連の「年譜」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「酒井抱一と江戸琳派関係年表」(松尾知子編)」)に、「五月、君山君積の案内で、谷文晁、亀田鵬斎らと、常州若芝の金龍寺に旅し、江月洞文筆『蘇東坡像』を閲覧する」と記されている。
 即ち、「下谷の三幅対」の「亀田鵬斎(五十一歳)・酒井抱一(四十二歳)・谷文晁(四十歳)」の三人トリオが、現在の、茨城健竜ケ崎市の金龍寺の宝物、江月洞文(こうげつどうぶん)筆「蘇東坡像」を見に行った年なのである。
 さらに、この年は、中村芳中の『光琳画譜』が刊行された年でもあった。芳中は、寛政十一年(一七九八)に、上方から江戸へ下向して来るが、この時には、亡き木村蒹葭堂が芳中のための餞別の宴に参加している(同上「年譜」)。
 この「年譜」には記載されていないが、芳中は蒹葭堂が亡くなった、即ち、『光琳画譜』を刊行した年に、江戸滞在を切り上げて、亡き蒹葭堂を弔うように上方への帰途につくのである。
 さて、木村蒹葭堂が、「私しない」(大愚)の「浪花の大ネットワーカー」とすると、「江戸の大ネットワーカー」且つ「私しない」(大愚)の代表格は亀田鵬斎ということになろう。

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谷文晁筆・亀田鵬斎賛「亀田鵬斎像」(北村探僊宿模)個人蔵 文化九年(一八一二)作

 この「亀田鵬斎像」は、文化九年(一八一二)四月六日、鵬斎還暦の賀宴が開かれ、越後北蒲原郡十二村の門人曽我左京次がかねてから師の像を文晁に依頼して出来たものであるという。そして、その文晁画に、鵬斎は自ら自分自身についての賛を施したのである。
 その賛文と訳文とを、『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達(渥美国泰著)』から抜粋して置きたい。

 這老子  其頸則倭 其服則倭  この老人  頭は日本  服も日本だ
 爾為何人 爾為誰氏 仔細看来  どんな人で 誰かと見れば 鵬斎だ
 鵬斎便是 非商非工 非農非士  商でなく 工でなく 農でなく 士でもない
 非道非佛 儒非儒類       道者でなく 仏者でなく 儒類でもない
 一生飲酒 終身不仕       一生酒を飲んで過ごし 仕官もしない
 癡耶點耶 自視迂矣       ばかか わるか 気の利かぬ薄のろさ
  壬申歳四月六十一弧辰月題
   関東亀田興 麹部尚書印

 もとより、木村蒹葭堂も亀田鵬斎も俳諧師ではなく、また、特定の俳諧グループなどを主宰しているけではない。
 また、「巣兆・抱一」が、当時の江戸俳諧グループの代表格のメンバーという位置付けではなく、まして、「蒹葭堂・芳中」は、上方俳諧グループの代表格のメンバーではさらさらない。
 ここでは、江戸の「巣兆・抱一」の俳諧グループの背後には、広く江戸ネットワークの中心的人物の一人の亀田鵬斎が控えているということと、同様に、広く上方ネットワークの中心人物として、木村蒹葭堂が控えているということ、そして、狭く江戸俳諧グループと上方俳諧グループを相互に交流させる役割を担った人物として、上方俳諧グループ出身の、大伴大江丸が挙げられるだろうということなのである。
 大伴大江丸は、享保七年(一七二二)生まれ、木村蒹葭堂は、元文元年(一七三六)の生まれで、この二人に比すると、亀田鵬斎は、宝暦二年(一七五二)生まれで、年齢的には相当な開きがある。
 しかし、大江丸が没したのは、文化二年(一八〇五)で、晩年の大江丸と鵬斎の義弟の建部巣兆とは、太い線で結ばれていることが、例えば、寛政五年(一七九三)に成った巣兆撰集『せきや(関屋)帖』などから明瞭に了知されるのである。
 また、蒹葭堂と鵬斎とは、寛政二年(一七九〇)に、いわゆる、老中筆頭松平定信が推進した「寛政の改革」により、蒹葭堂は「酒造統制違反(醸造石高の超過)」そして、鵬斎は「異学の禁」の「異学の五鬼」として弾圧される憂き目に遭遇するなど、二人は交互に交差していると解して差し支えなかろう。
 ここで、「享保(七年生)・元文・寛保・延享・宝暦・・明和・安永・天明・寛政・享和・文化(二年没)」の、江戸中期から後期にかけての俳諧の生き字引のような三度飛脚(江戸・大坂間を毎月三回定期的に往復した飛脚)の問屋を業としていた「大伴大江丸」に焦点を当てたい。

大江丸像.jpg

「大江丸像」(『若葉集』所載)(『評釈江戸文学叢書七俳諧名作集(潁原退蔵著)』)
賛=うつくしきむねのさはぎやはつざくら 八十五才大江丸(実際の年齢に一歳加算している)

『評釈江戸文学叢書七俳諧名作集(潁原退蔵著)』での作者紹介は次のとおりである。

【 本名安井正胤、通称大和屋善右衛門、大阪の人。江戸飛脚問屋を業とした。初号芥室、旧国。青年時代多くの俳士を歴訪して教を乞うたが、後蓼太の門に帰した。蕪村、几董とも交わり遊俳として天明寛政の俳壇に独特の位置を占め、その交友の範囲は頗る広かった。文化二年没、年八十四。俳話句集『俳ざんげ』『はいかい袋』の撰がある。 】

  竹の子やあまりてなどが人の庭 (大江丸『はいかい袋』)

 この句は、『後撰集』(源等)の「浅茅生の小野の篠原しのぶれどあまりてなどか人の恋しき」の「捩り」の一句である。この句などに関して同書では次のような評釈をしている。

【 大江丸の本業は飛脚問屋であった。彼が始めて俳諧を志したのも、尾張の千代倉鉄叟の状を、半時庵淡々の許に届けたのが縁となったのであるという。その後諸家に教を乞うて東西し、遂に俳壇の一名流として知られるに至ったのであるが、しかも彼の俳諧に対する態度は、あくまでも余技として以上に出なかった。
  然れども家のわざに大事をふみ、三十余年は此の道を捨てざるばかり。その日その日
  の勤めを怠らじと守りつゝ、云々
と自らを語って居るのである。すでに余技であるから、必ずしも一派に偏したり、徒に高遠の理を唱えたりする要はない。たゞ俗中に雅趣を求めて楽しめばそれで宣い。
  俳諧をもて修身斉家の道にあて、或は老佛の心に通わして高妙に説きなす者あるこそ心得ぬ。その道を高くせんとして、却って知れる人の誹をひく。俳諧更にさようのものならず。佛語聖言によらずして俗中の風雅を述べ、別に趣はある事なり。
とも言っている。これは「予が風雅は夏炉冬扇の如し」と喝破した芭蕉の本意と、多く悖
るものではない。けれども大江丸は芭蕉の如く、斯の道に一生を託する人ではなかった。
彼が求めた俗中の雅は、結局こうした軽い滑稽や、文字の技巧等を専らとするに至った。
とはいえ、その円転滑脱の機才と明朗軽快な格調は、また俳壇の一異彩とするに足るべく、
所謂遊俳の士としては、彼が俳諧史を通じて、最もすぐれた一人と称すべきである。 】

 この「評釈(潁原)」に、「大伴大江丸(大谷篤蔵)」(『俳句講座三俳人評伝下』所収)により、「評伝(大谷)」を補足的に付け加えて置きたい。

【 寛延二年(二十八歳)五代善右衛門の没した後は家業を一手に引き受けて出精した結果、最初は「江戸店同業のうちにて三四間(軒)目、大阪店は人も知らぬほどの事にて、一曲輪の人数男女二百人内外」であったのが、「出店共に七ケ所(中略)今二万余の家督とし、業は三都のうちの第一と称せられ、家族店中の男女千人」という大をなし、(以下略) 】

 大江丸は、「業は三都(江戸・京都・大阪)のうちの第一と称せられ、家族店中の男女千人」と大マネージャーなのである。

【 家業のため、諸国を旅行し、寛政二年(六十九歳)『俳懺悔』に「東都の往返五十度に及ぶ 百不二や月雪花にほととぎす」の句があり、さらに十年後の寛政十二年(七十九歳)には、八年ぶりで東海道を江戸に下り奥州・関東地方を歴遊、「百二十四日四百五十三里」の大旅行を試みた。(以下略)  】

 大江丸は、「七十九歳で、「百二十四日四百五十三里」の大旅行を試みた」と大フットワーカーなのである。

【 『はいかい袋』には、道の先達として竹阿・二柳・鳥酔・蒼狐・麦水・後川・蕪村・無腸・闌更・竹巣(別本は烏明)・嘯山・呑秋・青蘿・完来・八千坊(舎桲カ)を挙げ、『みちのしるべの友』として、入楚・蝶蘿(別本は几董・月居)・成美(別本になし)・午心・東瓦(別本になし)・雨什・春蟻・一無庵丈左・喜斎・木朶をあげている。俳壇の趨勢は、天明から寛政になると俳人の交流激しくなり、門派にとらわれず、地域に限らず、広く交を訂し句を求める風がおこり、全国的な俳壇が形成され、俳人名録の類が続々出版されるようになる。(中略)しかも俳人のみに限らす、狂歌師・戯作者・俳優・力士など、広範囲にわたる。自身、歌舞伎は見功者、角力は通、洒落本に句を寄せ、団十郎を訪ねる。多趣味な文化人、当時のことばでいえば「聞人(ぶんじん)」である。多年実務を掌理して得た世間知、円転洒脱の寛厚の長者、その座談はさぞ面白かったろうと思われる。江戸の通人の鋭さとは違って、上方風のおおらかさと温かさがある。 】

 大江丸は、「多年実務を掌理して得た世間知、円転洒脱の寛厚の長者」と大ネットワーカーなのである。

   山寺や蜂に刺されて更衣  (巣兆『曽波可理』)

 この巣兆の句などについて、『評釈(潁原)』では、次のように記述している。

【 巣兆は亀田鵬斎・酒井抱一等とも親交があり、当時の最も洗練された江戸趣味を、充分に理解し体得した人であった。而してこの江戸趣味なるものは、洒脱優雅な気品には富んで居るが、強く人に迫る力がない。どこかに遊びの気分が漂って居る。それは鵬斎の書、抱一の畫、巣兆の俳諧、それらを通じて明らかに見られることである。 】

 大江丸が「遊俳」(趣味・余技)の極致とするならば、抱一もまた、画業が主で、俳諧は「遊俳」のものという位置づけが妥当なのかも知れない。しかし、抱一は、『江戸座続八百韻』(屠龍編・三十六歳時)を刊行し、江戸座に連なる「業俳」(俳諧師)たる自負を生涯にわたって持ち続けていたように思われる。
巣兆に至っては、その後半生は、その「秋香庵俳諧」に全てを捧げるような、壮絶な「業俳」という一面を有し続けたといっても過言でなかろう。
 しかし、抱一、そして、巣兆の俳諧は、一言でするならば、上記の「評釈(潁原)」の「江戸趣味(洒脱優雅な気品には富んでいるが、強く人に迫る力がない)」の世界のものであって、上記の「評伝(大谷)」の「江戸の通人」、そして、それは「江戸の粋人」の世界のものというのは、これまた、厳然たる一面であろう。
 そして、それは、上記の「評伝(大谷)」の、「江戸の通人の鋭さ」(抱一・巣兆の世界)と、「上方風のおおらかさと温かさ」(大江丸の世界)とが、好対照を成しているということにもなろう。

その六 「大江丸の吉原」そして「抱一と加保茶元成(大文字屋市兵衛)」

大江丸像.jpg

「大江丸像」(『若葉集』所載)(『評釈江戸文学叢書七俳諧名作集(潁原退蔵著)』)
賛=うつくしきむねのさはぎやはつざくら 八十五才大江丸(実際の年齢に一歳加算している)

 うつくしきむねのさはぎやはつざくら(大江丸「大江丸像・『若葉集』所載・賛の句」)


 この「大江丸像(賛の句)」が収載されている『若葉集』というのは、享和三年(一八〇三)に刊行された、俳人俳画集(当代の俳人、三十六人の画像と一人一句および発句一〇三、歌仙一、半歌仙一を収める)のようである(『俳文学大辞典』)。
 もとより、この句が、大江丸のどの撰集や句集などに収載されているのかは皆目分からない。
 しかし、感じとして、寛政十二年(一八〇〇)の秋、江戸関東奥州を旅した紀行句文集『あがたの三月四月』の、「吉原大文字屋の遊女ひともととの一夕の艶話」「(『俳句講座三俳人評伝下』所収「大伴大江丸(大谷篤蔵)」)と、何処となく関係している雰囲気なのである。
 この大江丸の「遊女ひともととの一夕の艶話」に関して、『江戸諷詠散歩 文人たちの小さな旅(秋山忠彌著)』で紹介されているので、長文になるが、下記に抜粋をして置きたい。

【 大江丸は七十歳で隠居した。寛政十二年(一八〇〇)七十九歳のときのことである。職業柄、七十余度も往復したという江戸への旅を思い立ち、東海道を下った。そして江戸滞在中のある日、正確には九月十七日のこと。浅草寺へ詣でたおり、堂にかかげられた絵馬の前に足を止め、じっと見入る。書かれている見事な歌と筆づかいに魅せられてしまったのである。奉納した主が吉原の遊女ひともとだと知り、むしょうに会いたくなった。ひともとの抱え主は、大文字屋市兵衛である。市兵衛は、狂名は加保茶元成(かぼちゃもとなり)といい、幸いなことに大江丸とは狂歌を通じて知己であった。さっそくに大江丸は、同じく狂歌仲間の烏亭焉馬(うていえんば)らにも同伴してもらい、大文字屋でひともとに会うことになる。あくまでも元成の客人という扱いで、元成の居室で対面した。大江丸は喜びにふるえながら、思いのたけを込めた一句を、ひともとに差し出す。

  ひともとの菊こそつゆの置所(おくどころ)

 菊にやどった露は、これを飲むと邪気を払い、齢(よわい)を保つとされた。ひともとは、はるばる浪花からの客人への返し句に、

  ゆめとよみしなにはゆかしと秋ながう

と詠んだ。大江丸は、年甲斐もなくうれしさに気持がたかぶり、なぜ若いときに会えなかったのかと、悔し涙を流さんばかりに、

 手ざはりの繻子我秋を泣かせるか

と、再び句をしたためて差し出した。   】

大文字屋.jpg

酒井抱一筆「大文字屋市兵衛図」一幅 板橋区立美術館蔵
【おどけた表情がユニークなこの小柄の男は、吉原京町大文字屋の初代主人、村田市兵衛。かぼちゃに似た市兵衛の顔立ちは宝暦の頃ざれ唄になり囃されたが、彼は自らこれを歌って人気を得たという。抱一は二代市兵衛(一七五四~一八二八、狂名加保茶元成)やその子三代市兵衛(村田宗園)と親しく、くだけた姿の初代の肖像も、そのゆかりで描いたものだろう。 】(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』「作品解説・岡野智子稿」)

 大江丸の「遊女ひともととの一夕の艶話」は、二代市兵衛(一七五四~一八二八、狂名加保茶元成)の時代で、大江丸が二代市兵衛(狂名加保茶元成)と知己であるということは、即、酒井抱一とも程度の差はあれ知己の間柄であったと解するのが自然であろう。
 大江丸に同伴した烏亭焉馬は、戯作者・浄瑠璃作家で、落語中興の祖として知られているが、俳諧や狂歌、そして、市川団十郎(五代目、俳号=白猿、狂歌名=花道のつらね)を後援する「三枡連(みますれん)」結成の中心的人物でもある。
 この市川団十郎と抱一とは昵懇の関係であり、狂歌連としては、吉原大文字屋の加保茶元成が主宰する「吉原連」とは、それぞれが程度の差はあれ何らかの関係にあったということになろう。

 上記の「大文字屋市兵衛図について、同書(岡野智子稿)で、詳細な「作品解説99」も掲載している。

【 吉原京町大文字屋の初代主人、村田市兵衛をモデルとする小品。市兵衛の風貌はかぼちゃに似て、宝暦の頃ざれ唄になり囃されたが、彼は自らこれを歌って人気を得たという。市兵衛が歌い踊る酔興な姿は白隠画にもあるが(永青文庫蔵)、本図は大田南畝『仮名世話』『耽奇漫録』に見出される西村重長原画の大文字屋かぼちゃ像をほぼ踏襲している。賛はそのざれ唄の歌詞。署名は「郭遊抱一戯画」「文詮」(朱文円印) 抱一は二代目市兵衛(一七五四~一八二八、狂名加保茶元成)やその子三代市兵衛(村田宗園)と親しく、二代目市兵衛の千束の別宅に千蔭と遊び、庭内の人丸堂で人麿影供を行うなど、吉原を離れての私的な集まりに参じていたという指摘もある。もとより大文字屋は小鶯を身請けした妓楼であり、抱一のパトロン的存在でもあった。長年にわたる交際により抱一と大文字屋を結ぶ作品が遺され、吉原通の抱一の姿を伝えている。
(賛)      
十にてうちん
 の花むらさきの
  ひも付で
   かさりし
玉や女らう衆かこいの
 すこもりもんな
 つるのまるよいわいないわいな
        其名を 市兵へと 申します   】

 ここに出て来る、三代目市兵衛(村田宗園)は、抱一に絵の手ほどきを受けていたと伝えられ、抱一が吉原で描いた淡彩による俳画集『柳花帖』(姫路市美術館蔵)には、その三代目市兵衛が箱書きをしている。
 その『柳花帖』の賛に書かれた発句一覧などについては、下記のアドレスで触れている。それを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-09-05

(再掲)

酒井抱一俳画集『柳花帖』(一帖 文政二年=一八一九 姫路市立美術館蔵=池田成彬旧蔵)の俳句(発句一覧)
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「酒井抱一筆「柳花帖」俳句一覧(岡野智子稿)」) ※=「鶯邨画譜」・その他関連図(未完、逐次、修正補完など) ※※=『屠龍之技』に収載されている句(「前書き」など)

  (画題)      (漢詩・発句=俳句)
1 月に白梅図   暗香浮動月黄昏(巻頭のみ一行詩) 抱一寫併題  ※四「月に梅」
2 白椿図     沽(うる)めやも花屋の室かたまつはき
3 桜図      是やこの花も美人も遠くより ※「八重桜・糸桜に短冊図屏風」
4 白酒図     夜さくらに弥生の雪や雛の柵
5 団子に蓮華図  一刻のあたひ千金はなのミち
6 柳図      さけ鰒(ふぐ)のやなきも春のけしきかな※「河豚に烏賊図」(『手鑑帖』)
7 ほととぎす図  寶(ほ)とゝきすたゝ有明のかゝみたて
8 蝙蝠図     かはほりの名に蚊をりうや持扇  ※「蝙蝠図」(『手鑑帖』)
9 朝顔図     朝かほや手をかしてやるもつれ糸  ※「月次図」(六月)
10 氷室図    長なかと出して氷室の返事かな
11 梨図     園にはや蜂を追ふなり梨子畠   ※二十一「梨」
12 水鶏図    門と扣く一□筥とくゐなかな   
13 露草図    月前のはなも田毎のさかりかな
14 浴衣図    紫陽花や田の字つくしの濡衣 (『屠龍之技』)の「江戸節一曲をきゝて」
15 名月図    名月やハ聲の鶏の咽のうち
16 素麺図      素麺にわたせる箸や天のかは
17 紫式部図    名月やすゝりの海も外ならす   ※※十一「紫式部」
18 菊図      いとのなき三味線ゆかし菊の宿  ※二十三「流水に菊」 
19 山中の鹿図   なく山のすかたもみへす夜の鹿  ※二十「紅葉に鹿」
20 田踊り図     稲の波返て四海のしつかなり
21 葵図       祭見や桟敷をおもひかけあふひ  ※「立葵図」
22 芥子図      (維摩経を読て) 解脱して魔界崩るゝ芥子の花
23 女郎花図     (青倭艸市)   市分てものいふはなや女郎花
24 初茸に茄子図    初茸や莟はかりの小紫
25 紅葉図       山紅葉照るや二王の口の中
26 雪山図       つもるほと雪にはつかし軒の煤
27 松図        晴れてまたしくるゝ春や軒の松  「州浜に松・鶴亀図」   
28 雪竹図       雪折れのすゝめ有りけり園の竹  
29 ハ頭図      西の日や数の寶を鷲つかみ   「波図屏風」など
30 今戸の瓦焼図    古かねのこまの雙うし讃戯画   
            瓦焼く松の匂ひやはるの雨 ※※抱一筆「隅田川窯場図屏風」 
31 山の桜図      花ひらの山を動かすさくらかな  「桜図屏風」
  蝶図        飛ふ蝶を喰わんとしたる牡丹かな      
32 扇図        居眠りを立派にさせる扇かな
  達磨図       石菖(せきしょう)や尻も腐らす石のうへ
33 花火図       星ひとり残して落ちる花火かな
  夏雲図       翌(あす)もまた越る暑さや雲の峯
34 房楊枝図    はつ秋や漱(うがい)茶碗にかねの音 ※其一筆「文読む遊女図」(抱一賛)
  落雁図       いまおりる雁は小梅か柳しま
35 月に女郎花図    野路や空月の中なる女郎花 
36 雪中水仙図     湯豆腐のあわたゝしさよ今朝の雪  ※※「後朝」は
37 虫籠に露草図    もれ出る籠のほたるや夜這星
38 燕子花にほととぎす図  ほとときすなくやうす雲濃むらさき 「八橋図屏風」
39 雪中鷺図      片足はちろり下ケたろ雪の鷺 
40 山中鹿図      鳴く山の姿もミヘつ夜の鹿
41 雨中鶯図      タ立の今降るかたや鷺一羽 
42 白梅に羽図     鳥さしの手際見せけり梅はやし 
43 萩図        笠脱て皆持たせけり萩もどり
44 初雁図       初雁や一筆かしくまいらせ候
45 菊図        千世とゆふ酒の銘有きくの宿  ※十五「百合」の
46 鹿図        しかの飛あしたの原や廿日月  ※「秋郊双鹿図」
47 瓦灯図       啼鹿の姿も見へつ夜半の聲
48 蛙に桜図      宵闇や水なき池になくかわつ
49 団扇図       温泉(ゆ)に立ちし人の噂や涼台 ※二十二「団扇」
50 合歓木図     長房の楊枝涼しや合歓花 ※其一筆「文読む遊女図」(抱一賛)
51 渡守図       茶の水に花の影くめわたし守  ※抱一筆「隅田川窯場図屏風」
52 落葉図      先(まず)ひと葉秋に捨てたる団扇かな ※二十二「団扇」

その七 山東京伝(身軽折輔)の「手拭合」と抱一(尻焼猿人)のデビュー

手拭い一.jpg

山東京伝画『手拭合』一冊 天明四年(一七八四)国立国会図書館蔵
【当時各界の文化人著名人が、紙上で手拭いのデザインを競う趣向の本で、巻頭には大名子弟が紹介される。抱一は「杜綾公」として三人目に登場。すぐ前の「香蝶公」は兄の宗雅で、酒井家の剣酢漿草(けんかたばみ)の紋とお好みの笹蔓紋様があしらわれている。京伝は「御記文は書顕されとも能ある鷹の御趣向は自かくれなし」と、爪を隠す能ある鷹と抱一の姿を重ねて説明を記した。  】(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』「作品解説・岡野智子稿」)
国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2537594

【 天明四年(一七八四)の旧暦六月二十一日は、新暦では八月六日であった。さぞかし暑い江戸だったろう。それでも少しは涼しい風が吹いてきそうな不忍池のほとりの、とある寺で、そのイベントは開かれた。題、して「たなぐひ合はせの会」。主催は黒鳶(くろとび)式部という十四歳の女性だった。「合わせ」といえば「歌合わせ」が思い浮かぶ。歌を詠みながら合わせものは九世紀の宮廷サロンで始まり、草合わせ、花合わせ、鳥合わせ、絵合わせ、物語合わせ、扇合わせなど、次々と合わせが開かれていった。合わせすなわち、サロンと競技が一緒になったようなものだが、ものやお金を賭けて賭事にすることもあった。この合わせものは、連の江戸時代にはぴったりで、江戸が文化の中心になる一八世紀後半には「宝合わせ」だの「団扇合わせ」だの「浴衣合わせ」だのが開かれてゆく。ただし、江戸のことだ。優雅なものなぞにはしない。すべて宮廷の合わせもののパロディである。宝合わせには、絶対ほんもののお宝は登場しない。がらくたをいかに「宝」と言いくるめるか、その饒舌が競技の対象となる。団扇や浴衣も日常生活に使うもので、ふだんそのへんにごろごろしているもののデザインを、いかに面白く考えつくかを、競うのだ。たなぐひ、つまり手拭いも毎日使うもの。黒鳶式部なんていう優雅な名前の女性を立てて主催者に仕立て上げはしても、ほんとの主催者は皆お見通しの山東京伝。黒鳶式部とは、京伝が眼に入れてもいたくないほどかわいがった妹の「よね」のことである。よねは病弱な少女で、この数年後に亡くなっている。出品者は歌舞伎役者の市川団十郎、ご存じ喜多川歌麿、浮世絵師の北尾重政、能役者で戯作者の芝全交、姫路藩主の弟で琳派の酒井抱一、松江藩主の弟・松平雪川、蘭学者の森島中良、煙草屋で戯作者の平秩東作、幕臣で狂歌師の大田南畝、吉原遊郭・扇屋の主人、吉原の遊女や芸者やたいこもちたち、そして力士等々、町人、芸人、武士入り乱れてのデザイン大会である。 】(『江戸百夢―近世図像学の楽しみ(田中優子著)』)

上記画像の「香蝶(公)」は、抱一の実兄の、姫路藩酒井家第二代当主酒井忠以(ただざね)の号(茶名=宗雅、俳名=銀鵞)で、酒井家の「剣酢漿草(けんかたばみ)の紋とお好みの笹蔓紋様」があしらわれている。
 この忠以が、マルチタレントで、三十二種に及ぶ文武両道の免許皆伝の腕前が、酒井家文書により記録されている。その免許皆伝などのリストの一部は、「無辺流の槍術・起倒流の柔術・自鏡流の居合・金剛流の能・茶道(師・松平不味)・俳諧(師・馬場存義)・絵画(師・中橋狩野家の永徳高信)」等々である。
 これに続く「杜陵(公)」は、忠以より六歳下の抱一(本名・忠因=ただなお)の号(杜綾、後に屠龍=俳号)である。抱一のマルチタレントは、兄・忠以に負けず劣らずで、その師系は、ほぼ、兄と同じと解して差し支えなかろう(『日本史リブレット人054酒井抱一(玉蟲敏子著)』)。
 この「杜陵公」と同年齢(宝暦十一年=一七六一生れ)の、この『手拭合』の作者(企画者・画作も同じ)「山東京伝」(浮世絵画名=北尾政演)は、当時の「杜陵公」(抱一)をして、「能ある鷹の御趣向は自(おのずから)かくれなし」と、当時の抱一を、酒井家の当主・忠以こと「香蝶公」の影武者のように目立たないが、その本来の力量は、「能ある鷹」の、その力量を兄以上であろうということを喝破していると解して、これまた、差し支えなかろう。
 「香蝶公」(忠以公)、そして、「杜陵公」(忠因公=抱一)の酒井家には、茶会や俳諧の場などのサロンが形成されていた。忠以公(茶人=尾花庵宗雅)の茶会には、尾形乾山の画幅が掛けられ、本阿弥光悦の茶碗や花筒、尾形乾山の香合などが使用されていたことが、その『逾好(ゆこう)日記』(酒井家上屋敷茶室に因む茶会記録)に記されている。
 この酒井家の、両親を早くに亡くした忠以・抱一兄弟の後ろ盾に成った一人に、大和郡山藩第二代当主で、柳沢吉保の孫の柳沢信鴻(のぶとき)が居る。信鴻は、儒学・漢詩・絵画・俳諧・芝居などの造詣が深く、中でも、俳諧は岡田米仲に学び、「米翁(べいおう)」と称し、句集に『蘇明山荘発句藻』を有している。
 抱一の自撰句集『屠龍之技』には、この米翁の亡くなった時の追悼句と三周忌に寄せる句が収載されている。

    悼米翁老君
  聰(さと)き人も耳なし山や呼子鳥  (「こがねのこま」)
    米翁老君の三周に
  高宗が三年(みとせ)ははやし桃李   (「かぢのおと」)
  松山の花のけむりや春の風       (「同上」)

手拭い二.jpg

国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2537594

 「香蝶公」と「杜陵公」の前に、この「雪川公」(松平不味=出雲松江藩の第七代藩主・松平治郷=はるさとの弟)の、上図のものが掲載されている。この手拭いのデザインは、
「雪川」の「雪」を暗示する「白」の部分に着目すると、三本の「白」が「川」に見えるという、粋で洒落たデザインなのである。
「雪川(せつせん)」は俳号で、本名は「衍親(のぶちか)」である。茶人大名として名高い兄の不昧(ふまい)公は雪川のために支藩を作ろうとしたが、臣下に止められ断念したとされている。雪川は諸芸に通じ、特に俳諧に優れ、雪川没後に不昧公により『為楽庵雪川発句集』・『為楽庵俳諧文集』などが刊行されている。
 雪川は、宝暦三年(一七五三)の生まれで、忠以・抱一兄弟よりも年長であるが、忠以は、寛政二年(一七九〇)、三十六歳、そして、雪川は、享和三年(一八〇三)に、五十一歳で夭逝している。
 もう一人、松前藩十三代当主松前道広の弟、松前文京(俳号=泰郷)との、この三人が、当時の吉原の「粋人・道楽子弟の三公子」として、「ときやうさん」(抱一=杜陵=杜龍=とりょう)、「つまさん(駒=子馬)」(雪川=幼名・駒次郎)そして「ぶんきやうさん」(文京=ぶんきょう)と、その名を馳せていたようである。
 さらに、この松前道広の異母兄が、松前藩家老で画家として名高い蠣崎波響(かきざきはきょう)が居る。この蠣崎波響は、京都の円山応挙を始め、岸駒、円山四条派の呉春(月渓)等や、また、木村兼葭堂を通じての、大名家では増山正賢や松浦静山等とも交流があり、江戸の抱一とも知己の関係にある。
 これらの一部については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-19

 ここで、特記して置きたいことは、「抱一(屠龍)・雪川・泰卿(文京)」の、この三人は、狂歌の世界以上に、俳諧の世界で名を馳せており、「抱一(俳号=屠龍)・文京(俳号=泰卿)」は、江戸座俳諧宗匠存義(馬場氏)を師とし、「雪川」は、一世・二世旨原(小栗氏)を師とし、そして、それぞれが、大和郡山藩主柳沢米翁と深い結び付きを有しているようである。
 さらに、米翁の『美濃守日記』、『宴遊日記』、『松鶴日記』などから、その米翁の俳諧サロンは、伊勢神戸藩主本多清秋、尼崎藩主松平忠告(俳号=亀文)、松代藩主真田菊貫、伊予松山藩主松平定国(俳号=皐禽)、秋田藩江戸留守役佐藤晩得などの大名や上流武家層と結びつき、それらが重層しての一つの大きな俳諧サロンを形成していたのであろう。
 関連して、この伊予松山藩主松平定国(俳号=皐禽)は、寛政の改革を推進する松平定信の実兄であり、天明七年(一七八七)に、定信が老中に就任した時には、定信の家臣を呼び付け、定信の政治方針に異論を唱えるなど、アンチ定信の筆頭格なのである。
 さらに、関連して、この松平定信の寛政の改革により、上記の「たなぐひ合はせの会」の出品者の、「歌舞伎役者の市川団十郎、ご存じ喜多川歌麿、浮世絵師の北尾重政、能役者で戯作者の芝全交、姫路藩主の弟で琳派の酒井抱一、松江藩主の弟・松平雪川、蘭学者の森島中良、煙草屋で戯作者の平秩東作、幕臣で狂歌師の大田南畝」等々が、その手足を封じられたのは、周知の自明のところのものであろう。
 そして、浮世絵師・北尾政演こと、戯作者の、この「たなぐひ合はせの会」のプランナー兼実行者の山東京伝は、定信の、その寛政の改革の、その出版統制により手鎖の処罰を受けたことも、周知の自明のところのものであろう。
 ここで、抱一の前半生と後半生の分岐点となった、寛政二年(一七九〇)、三十歳時の、実兄・忠以が亡くなった当時のことの一端を、『琳派―響きあう美―(河野元昭著)』から下記に抜粋して置きたい。

【 抱一がしばしば点取りのために百韻や二百韻、さらに千句を米翁に寄せ、ともに歌仙を巻いているのに対し、絵画に関する記事が非常に少ないのは、この時期、抱一の主力が俳諧に注がれていたことを示している。米翁の日記によってはじめて知られた事実のうち、もっとも興味深い寛政二年十二月の一条を紹介しておこう。俳人屠龍すなわち抱一の邸に松平雪川・松前泰卿が集まって、いわゆる三公子の揃い踏み、そこに米翁・晩得といった当時の有名俳人が加わって、抱一の得意たるや目に見えるようである。
 八日 晩得より愈々明日屠龍方俳諧に雪川も行るゝ由、消息来る。
 九日 四時半より浜町屠龍邸へ行。供村井
 (以下六名)本郷通り昌平橋、朝日山に休み、お玉が池、新材木町、楽屋新道永楽の門へ寄、留守也。大阪町より、どうかむ堀屠龍門へ入る。晩得・沾山・岩松・神稲来在。初て呑舟に逢ふ。程なく未白、八過雪川来らる。干菓子味噌漬鯛参らす。 
 雪川・屠龍・呑舟・雁々・神稲・沾山・岩松・米木十一吟俳諧
 晩得は点者に定めし故、二階次間に
て予が点の歌仙。七半頃、泰卿来る。
六時駕にて帰る。どうかん堀よりあらめ橋、新材木町より前路を帰る。  】

手拭い三.jpg

国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2537594

 こちらの右側は、山東京伝自身がデザインした手拭いの図柄である。山東京伝の戯作に登場する分身的な人気キャラクターの、獅子鼻(?)の「艶次郎」が、舞台袖から客席をのぞいている。

【 山東京伝はヘンな人だ。江戸にはおかしな人間がいくらでもいるが、これほどの人は、そういるものではない。深川の質屋に生まれ、のちに煙草道具屋をやることになるこの人は、幼いころから文を読むことが好きで十八歳で黄表紙絵師となり、金を使わず遊郭に出入りし、二度までも遊女を妻とした。(中略)京伝はその洒落本を読んでいると、三味線、唄、踊りはもちろん、漢文漢詩古典和歌書画狂歌狂詩はひととおりできるし、ファッションの最前線に敏感、酒好き、デザインの才あり、身のまわりの道具のセンスは行き届いて、浮世絵はプロフェショナル、しかもイヤミな「通人」ではなくして自分をも笑い飛ばし、遊女に陰でおとしめられるような人間ではなくて、やたらともてる。――そのような、醒めた都会人としてのほぼ完璧な像が浮かび上がってくる。(後略)  】(『江戸はネットワーク(田中優子著)』)

 山東京伝は、その分身的な人気キャラクターの、獅子鼻(?)の「艶次郎」の風姿とは真逆に、これぞ、江戸の粋人という色男中の色男なのである。

山東京伝.jpg

鳥橋斎栄里筆『江戸花京橋名取・ 山東京伝』

その八 南畝(四方赤良)と抱一(尻焼猿人)との交遊

抱一・調布.jpg

抱一(屠龍)筆「調布の玉川図(布晒らし図)」絹本著色 一幅 款記「乙巳初冬 楓窓屠龍画」/「屠龍之印」(白文方印) 大田南畝賛 天明五年(一七八五)作

【 江戸の都市の繁栄は、狂歌、黄表紙、浮世絵(錦絵)といった新しい文化を育んだが、世に天明狂歌運動とも呼ばれるムーブの担い手の多くは、下級の幕臣の大田南畝をはじめとする二、三十代の青年たちであった。才気渙発な抱一が、酒井家の屋敷の外側で繰り広げられる同世代の若者による自由闊達な活動に敏感でないはずはない。蔦屋重三郎版の狂歌絵本『吾妻曲(あずまぶり)狂歌文庫』(宿屋飯盛撰、山東京伝画、天明六(一七八六)年刊)、続編の『古今狂歌袋』(宿屋飯盛撰、山東京伝画、天明七(一七八七)年刊)、『画本虫撰』天明八(一七八八)年刊、宿屋飯盛撰、喜多川歌麿画 )などに、抱一は立て続けに、「尻焼猿人」の狂歌名を名乗って登場する。大田南畝は、大手門前の酒井家上屋敷で部屋住みの生活を送る抱一の下を訪ねており、天明八年正月十五日の上元の宴では、抱一の才を讃えて七言絶句の漢詩を詠んでいる(『南畝集七』)。その書き出しには「金馬門前白日開」とあり、中国漢代の末央宮(びおうきゅう)の門を気取って、江戸城の大手門をペンダントリ―に「金馬門」と呼んでいる。この謂いは、抱一と南畝らの間で交わされた暗号のようなものだったらしく、現存しないが、抱一も最初に編んだ句集の名を「金馬門」の和語の「こがねのこま」としたようだ。 】(『日本史リブレット人054酒井抱一(玉蟲敏子著)』)

「酒井抱一と江戸琳派関係年表」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収)の「文化九 一八一二壬申 五二」の欄に、「十月、自撰句集『屠龍之技』編集、亀田鵬斎序、酒井忠実・大田南畝跋。刊行は翌年か」とある、抱一の自撰句集『屠龍之技』(その全体構成は別記のとおり)の、冒頭の編(第一)は、「こがねのこま」の編名なのである。
 この「こがねのこま」は、この『屠龍之技』の元になっている『軽挙館(観)句藻』(現存二一冊あるいは二〇冊)には見当たらないもので、この編名の由来や、これが何故冒頭にあることなど、謎の多いところなのであるが、上記の、酒井家上屋敷の前の「江戸城の大手門をペダントリ―に『金馬門』(和語の「こがねのこま」)と呼んでいる」に由来があるという指摘は、特記して置く必要があろう。
 すなわち、名門譜代大名家の酒井家二男の抱一は、その酒井家の出自という矜持を、この冒頭(第一)の編名に託していると解したいのである。

(別記)
【『屠龍之技』の全体構成(『日本の美術№186酒井抱一(千澤楨治編)』等により作成)
序(亀田鵬斎)(文化九=一八一二)=抱一・五二歳
第一こがねのこま(寛政二・三・四)=抱一・三〇歳~三二歳
第二かぢのおと (寛政二・三・四)=同上
第三みやこおどり(寛政五?~?)=抱一・三三歳?~
第四椎の木かげ (寛政八~十年)=抱一・三六~三八歳 
第五千づかのいね(享和三~文化二年)=抱一・四三~四五歳
第六潮のおと  (文化二)=抱一・四五歳 
第七かみきぬた (文化二~三)=抱一・四五歳~ 
第八花ぬふとり (文化七~八)=抱一・五〇~五一歳
第九うめの立枝 (文化八~九)=抱一・五一~五二歳
跋一(春来窓三)
跋二(太田南畝) (文化発酉=一八一三)=抱一・五三歳  】

 大田南畝は、寛延二年(一七四九)の生まれで、抱一よりも十二歳年長である。上記の、抱一の自撰句集『屠龍之技』の「跋」文を書いた頃は、六十五歳と高齢であるが、「息子の定吉が支配勘定見習として召しだされるも、心気を患って失職。自身の隠居を諦め働き続けた」と、幕府の支払勘定の役を続けていた頃に当たる。
 翻って、抱一と南畝との出会いは、天明三年(一七八三)、抱一、二十一歳(南畝=三十三歳)の、『狂歌三十六人撰』(四方赤良=南畝編・丹丘画、尻焼猿人=抱一の肖像画あり)の頃にまで遡る。
 当時の、天明狂歌運動の中心的人物の一人の四方赤良(南畝)に、姫路藩酒井家第二代当主酒井忠以の実弟の、狂歌人・尻焼猿人(抱一)が、その運動のシンボリックのスターの一人として祭り上げられたということを意味しよう。
 ここで、「天明狂歌運動」の「狂歌」とは、「和歌の国=和歌の前の平等の国=大和(倭)=日本(徳川太平の「パクス・トクガワーナ」)」のパロディ(日本の本歌取り・狂歌・替え歌など)という「文学や絵画、歴史についての幅広い興味を持つ人たちがサークルを作り、真面目な和歌や絵画のパロディを作って笑いあったり、謎解きをしあったり、さらには仲間内で本を作って出版したりと、お洒落な遊びの文化」の世界のものなのである。
 この江戸時代の、「パロディ文化」の、「遊びの文化」の典型的なものとして、この文芸における「狂歌」の世界と、表裏一体を成す、絵画の世界の「浮世絵」という世界がある。
この「浮世絵」の世界においても、冒頭の「調布の玉川図(布晒らし図)」(楓窓屠龍画=抱一画)のとおり、「屠龍=杜陵=尻焼猿人=酒井抱一」は、「天明浮世絵」作家の一人に目せられているということになる。

  玉川にさらす調布(たつくり)さらさらにむかしの筆とさらに思はず (蜀山人)

 この蜀山人の狂歌は、次の『拾遺和歌集』の「本歌取り」の一首なのである。

  玉川にさらす調布(たつくり)さらさらにむかしの人のこひしきやなそ
                (『拾遺和歌集』巻第十四・恋四・よみ人しらず)

 ここで、注目をしたいのは、この蜀山人のパロディの狂歌の一首の、その署名(作者名)の「蜀山人」なのである。
この「蜀山人」の号は、「享和元年(一八〇一)大阪銅座詰となった南畝は、この年から蜀山人という号を用いた」(『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達(渥美国泰著)』)と、この抱一(屠龍)筆の「調布の玉川図(布晒らし図)」が制作された天明五年(一七八五)には、南畝は「寝惚子(先生)・四方赤良」等の号で、「蜀山人」(号の由来は、中国で銅山を「蜀山」といったことに因っている)の号は、使われない。
すなわち、この「調布の玉川図(布晒らし図)」の蜀山人(南畝)の賛は、この絵が制作された後の、享和元年(一八〇一)以降に、書き添えられたものと思われる。とすると、この一首の、「むかしの筆とさらに思はず」は、「抱一の若書きの絵とは少しも思えないほどの、見事な出来栄えである」というようなことになろう。
これが、「四方赤良」などの署名ならば、抱一の浮世絵時代の「天明の頃は浮世絵師歌川豊春の風を遊ハしけるが(後略)」(「等覚院御一代」)などの、「歌川豊春」関連の「むかしの筆とさらに思はず」の歌意などになって来よう。
これらの、南畝の「四方赤良から蜀山人へ」、そして、抱一の、この「浮世絵時代の終焉」の時代史的な背景は、「大名家に生まれて 浮世絵、俳諧にのめりこむ風狂(内藤正人稿)」(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収)から、下記に抜粋して置きたい。

【 天明年間(一七八一~八八)に爛熟の時を迎えた浮世絵は、時の田沼政権の突如終止符が打たれるとともに、一時冷水を浴びせられる。一七八七(天明七)年からいわゆる寛政の改革を断行した松平定信が老中首座に就いたことにより、厳しい風俗統制が加えられ、それまで絢爛と咲き誇った庶民文化の華である卑俗な文芸や浮世絵にもさまざまな規制の網がかけられるのである。抱一の場合、もともと錦絵など浮世絵版画の版下絵制作を手掛けることはなかったにせよ、おそらく譜代大名、酒井雅樂頭の弟君の遊蕩も、天明の末にはもはや潮時という雰囲気が取り巻いていたようだ。あるいは、実はそれが多分に重要な理由なのかもしれないが、抱一自身もしばらく巷間に遊ぶなかで、その当初から熱心ではあっても、ほぼ豊春画模倣に終始するという点で決して創造性豊かな作画には取り組んでこなかった美人画制作にやや倦んでいた、という側面もあるだろう。ちょうどこの頃、一七九〇(寛政二)年に三十路に入った抱一は、蠣殻(かきがら)町の酒井家中屋敷に移り住んでいる。ところが、ほどなくして、藩主だった六歳年上の兄忠以が急逝し、彼を取り巻く環境は急変する。自ら最大の理解者である兄という大きな後ろ盾を亡くし、甥の忠道が大藩の家督を継ぐという流れから、数多くの家臣団を含めて急速に代替わりが進んでいく酒井雅樂頭家の新たな状況も多分に影響してか、抱一もその三年後には本所番場の多田薬師の近くに、あわただしく転居することとなる。長年嗜んだ浮世絵美人画からり離脱、その反対に俳諧への一段と深い傾倒といった抱一の心境の変化も、そうした彼の身辺を取り巻く状況とまったく無縁であろうはずがない。だが、抱一が一連の当世美人画の制作で垣間見せた熱い情熱、すなわち、自らが何かを描きたい、という意欲は、すでにこの頃から溢れんばかりで、まったくとどまるところを知らなかった。それが、寛政後期からの光琳画との運命的な澥逅(かいこう)を経て、一気に花開いていくことになる。新たな琳派絵師、酒井抱一の誕生まで、あと少しだけ時間が必要だった。 】
(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「大名家に生まれて 浮世絵、俳諧にのめりこむ風狂(内藤正人稿)」)

 詩は詩仏書は鵬斎に狂歌おれ芸者小勝に料理八百善  (伝「南畝」)

 「詩は詩仏(大窪詩仏)」「書は鵬斎(亀田鵬斎)に」「狂歌おれ(大田南畝)」「芸者小勝(吉原の芸者?)に」「料理八百善」(四代目八百屋善四郎)の狂歌は大田南畝の作とされている。この狂歌を詠んだ頃の「詩仏・鵬斎・南畝・鍬形蕙斎(酒井抱一ともいわれていた)」の紹真(鍬形蕙斎の号)の署名のある挿絵がある(下記のとおり)。

料理通.jpg

八百屋善四郎著『料理通(初編)』 文政五年(一八二二)刊 
https://www.library.metro.tokyo.jp/collection/features/digital_showcase/008/04/

 右側の小女の脇の敷居に片手をついて硝子の盃を持っているのが南畝である。南畝が話をしている相手の坊主頭が鍬形蕙斎(浮世絵師・北尾正美、後に、津山侯の御用絵師)である(この家紋は「立三橋」で、酒井家の紋ではない)。中央の立膝をして拳を広げているのが鵬斎である。左端の鵬斎のお相手をしているのが詩仏である。
 この四代目八百屋善四郎著の『料理通(初編)』 が刊行された文政五年(一八二二)の翌年の文政六年(一八二三)に、南畝は、その七十五年の波乱に富んだ生涯を閉じている。
 ここで、松平定信の「寛政の改革」(その「異学の禁)」に関連しての、「鵬斎・抱一・文晁・南畝」に関しての身の処し方などについて、下記に記して置きたい。

【「異学の禁」に猛然と反対して、酒徒となって己の意地を押し通した鵬斎、幕府の統制禁欲の政策に憤然として意を唱え、主家へのおもんばかりからか、剃髪して閑居した抱一。時の第一人者の画人として画壇の頂点に立ちながら、突然のごとく片雲の風に誘われて遊興風流の世界に遊飛した文晁。そして、ここに、その遊興界の三幅対に、もう一人、したたかに本格的な酔興の人物(大田南畝)が加わることになる。】(『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達(渥美国泰著)』)

 この見方に関して、次のようなことを付記して置きたい。

一 「異学の禁」というのは、幕府の正学として昌平坂学問所の朱子学を中心に据え、「天下一体一流」としてその一本化を図り、それ以外の「徂徠派・折衷学派」などの学派を「異学の禁」として締め出すという、一種の思想統制以外の何ものでもない。折衷学派に身を置く亀田鵬斎が、その折衷学派(折衷学派=井上金峨門)の「要は己に得るにあり」(個の確立)の思想を貫徹し、「正学・異学」論争から身を退き、「関東第一風顛(ふうてん)生」として、アンチ松平定信に終始したことは、紛れもない事実であろう。そして、「抱一・文晁・南畝・詩仏・蕙斎」等々が、多かれ少なかれ、この「鵬斎贔屓派」であることは間違いなかろう。

二 播州姫路十五万石の藩主酒井雅樂頭家の次男として生まれた抱一にしても、松平定信が推進した奢侈禁止令や出版・風俗等に関する統制令などに批判的であったことは、当の定信一派が、「抱一(俳号=屠龍)・雪川(出雲松江藩第七代藩主・松平不味の弟)・泰郷(松前藩十三代当主松前道広の弟)」の三人を、当時の吉原の「粋人・道楽子弟の三公子」として標的にしていたことからしても、自明のところのものであろう。しかし、上記の「幕府の統制禁欲の政策に憤然として意を唱え、主家へのおもんばかりからか、剃髪して閑居した抱一」とまでは言い切れるかどうかは、さらに吟味が必要となって来よう。

三 この、アンチ定信派に位置する鵬斎・抱一に比して、「下谷三幅対」のもう一人の谷文晁は、定信の出身家の田安家の経儒で漢詩人を父に持つ環境からして、能吏派を重視する定信の庇護下にあった。その定信の庇護下にあって、定信に従って諸国を巡歴し、『集古十種』の挿図を描き、また、『歴代名公画譜』『名山画譜』『本朝画纂』などを編纂するなど、江戸末期の画壇の大御所として、その七十八年の生涯を閉じている。この親定信派の文晁が、また、「鵬斎・抱一」贔屓で、その末弟よろしく、その晩年は、「中年迄は酒を禁じ、後年殊の外酒をたしなみ、日々朝より酒宴始、夜に入迄もたえず、来客にもすゝめ、若しいなむ者は大いに不興也」(『写山楼の記(野村文紹)』)と、上記の「片雲の風に誘われて遊興風流の世界に遊飛」するという一面を見せているのである。すなわち、単純な「親定信派」ではなく、極めて、「鵬斎・抱一」の世界に共感を有していたということも紛れもない事実であろう。

四、さて、大田南畝に関しては、この谷文晁以上に、どうにも説明できないような、鬱積した晦渋に充ちているのである。「天明七年(一七八七)六月、老中首席となった松平定信の寛政の改革、とりわけ文武奨励・文芸統制をしたその政策に、泰平の夢を破られた寝惚先生こと大田南畝は、ここでいち早く変身し、巧妙な保身の術を駆使して、その危機を見事に潜り抜けた。定信の新政権が寛政六年に実施した学問の奨励と人材登用のための学問吟味の試験には、白髪まじりの頭で半ば自嘲しながら望んだのである。その水際だった豹変ぶりは目を見張るものがある。(中略)しかもこの人材登用では南畝は見事首席で合格し、幕府の勘定役に抜擢されるのである。享和元年(一八〇一)大阪銅詰となった南畝は、この年から蜀山人という号を用い始めた。銅の異名を蜀山居士ということからきているらしいが、公儀の忌避に触れた狂歌狂詩のかつての盛名を避けるためのカモフラージュであったともいわれている(『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達(渥美国泰著)』)。
 このことに関しては、南畝の「カモフラージュ」(人目を誤魔化すため仮面を被っている)ではなく、この二面性(「公人と私人」など)こそ、南畝の生来のように思われる。しかし、この二面性も、「鵬斎・抱一・文晁」と同じく、「私がない(私心がない)」ところに、南畝の南畝たる所以があるように思われる。

五、これらの「私がない(私心がない)」ところの、「鵬斎・抱一・文晁・南畝」に比すると、「北斎は俺の真似ばかりしている」と豪語した鍬形蕙斎も、「楽易(らくい)」(楽して易しいこと)を自他共に目標とした大窪詩仏とは、やはり、これらの二人は、「鵬斎・抱一・文晁・南畝」の後塵を拝することであろう。

その九 江戸の粋人たち(南畝・抱一・山東京伝)の伴呂(吉原の才媛たち)

四方赤良.jpg

宿屋飯盛撰・北尾政演(山東京伝)画『吾妻曲狂歌文庫』所収「四方赤良(大田南畝)」
http://www.dh-jac.net/db1/books/results-thum.php?f1=Atomi-000900&f12=1&-sortField1=f8&-max=40&enter=portal

 大田南畝は、寛延二年(一七四九)、牛込御徒組屋敷(新宿区中町三七番地)で生まれた。御徒組とは歩兵隊であり、江戸城内の要所や将軍の外出の警護を任とする下級武士の集団で、組屋敷にはその与力や同心が住んでいた。
 十五歳の頃、牛込加賀町の国学者内山賀邸に学んだ。この賀邸の門から、後に江戸狂歌三大家と呼ばれる、「大田南畝(おおたなんぼ)・唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)・朱楽菅江(あっけらかんこう)」が輩出した。
 明和四年(一七六七)南畝一代の傑作、狂詩集『寝惚先生文集』が刊行された。その「序」は、「本草学者・地質学者・蘭学者・医者・殖産事業家・戯作者・浄瑠璃作者・俳人・蘭画家・発明家」として名高い「平賀源内」(画号・鳩渓=きゅうけい、俳号・李山=りざん、戯作者・風来山人=ふうらいさんじん、浄瑠璃作者・福内鬼外=ふくうちきがい、殖産事業家・天竺浪人=てんじくろうにん)が書いている。
 この狂詩集は当時の知識階級だった武士たちの共感を得て大ヒットする。時に、南畝は、弱冠十九歳にして、一躍、時代のスターダムにのし上がって来る。
 上記の『吾妻曲(あづまぶり)狂歌文庫』(宿屋飯盛撰・北尾政演(山東京伝)画)は、天明六年(一七八六)に刊行された。南畝が三十七歳の頃で油の乗り切った意気盛んな時代である。その頃の南畝の風姿を、北尾政演(山東京伝)は見事に描いている。
 この「四方赤良」(南畝の狂歌号)の賛は次のとおりである。

  あな うなぎ いづくの 山のいもと背を さかれて後に 身をこがすとは

 この赤良(南畝)の狂歌は、なかなかの凝った一首である。「あな=穴+ああの感嘆詞」「うなぎ=山芋変じて鰻となる故事を踏まえる」「いも=芋+妹(恋人)」「せ=瀬+背」「わかれ=分かれ(割かれ)+別れ」「こがす=焦がす(焼かれる)+(恋焦がれる)」などの掛詞のオンパレードなのである。
 「鰻」の歌とすると、「穴の鰻よ、いずこの山の芋なのか、その瀬で捕まり、背を割かれ、身をば焼かれて、ああ蒲焼となる」というようなことであろうか。そして、「恋の歌」とすると、「ああ、白きうなじの吾が妹よ、いずこの山家の出か知らず、恋しき君との、その仲を、引き裂かれたる、ああ、この焦がれる思いをいかんせん」とでもなるのであろうか。
 事実、この当時、大田南畝(四方赤良)は、吉原の遊女(三穂崎)と、それこそ一生一大の大恋愛に陥っているのである。その「南畝の大恋愛」を、『江戸諷詠散歩 文人たちの小さな旅(秋山忠彌著)』から、以下に抜粋をして置きたい。

【 狂歌といえば、その第一人者はやはり蜀山人こと大田南畝である。その狂歌の縁で、南畝は吉原の遊女を妾とした。松葉屋抱えの三穂崎である。天明期(一七八一~八九)に入って、狂歌が盛んとなり、吉原でも妓楼の主人らが吉原連なる一派をつくり、遊郭内でしばしば狂歌の会を催した。その会に南畝がよく招かれていたのである。吉原連の中心人物は、大江丸が想いをよせた遊女ひともとの主人、大文字屋の加保茶元成だった。南畝が三穂崎とはじめて会ったのは、天明五年(一七八五)の十一月十八日、松葉屋へ赴いた折であった。どうも南畝は一目惚れしたらしい。その日にさっそく狂歌を詠んでいる。
   香爐峰の雪のはたへをから紙のすだれかゝげてたれかまつばや
 三穂崎の雪のように白い肌に、まず魅かれたのだろうか。年が明けて正月二日には、
   一富士にまさる巫山の初夢はあまつ乙女を三保の松葉や
と詠み、三穂崎を三保の松原の天女に見立てるほどの惚れようである。三穂崎と三保の松原と松葉屋、この掛詞がよほど気に入ったとみえ、
   きてかへるにしきはみほの松ばやの孔雀しぼりのあまの羽ごろ裳
とも詠んでいる。そしてその七月、南畝はついに三穂崎を身請けした。ときに南畝は三十八歳(三十七歳?)、三穂崎は二十余歳だという。妾としてからは、おしづと詠んだ。当時の手狭な自宅に同居させるわけにもいかず、しばらくの間、加保茶元成の別荘に住まわせていた。いまもよく上演される清元の名曲「北州」は、この元成ら吉原連の求めに応じて、南畝が作詞したと伝えられている。 】

尻焼猿人一.jpg

宿屋飯盛撰・北尾政演(山東京伝)画『吾妻曲狂歌文庫』所収「尻焼猿人(酒井抱一)」
http://www.dh-jac.net/db1/books/results-thum.php?f1=Atomi-000900&f12=1&-sortField1=f8&-max=40&enter=portal

【 大田南畝率いる四方(よも)側狂歌連の、あたかも紳士録のような肖像集。色摺の刊本で、狂歌師五十名の肖像を北尾政演(山東京伝)が担当したが、その巻頭に、貴人として脇息に倚る御簾(みす)越しの抱一像を載せる。芸文世界における抱一の深い馴染みぶりと、グループ内での配慮のなされ方とがわかる良い例である。「御簾ほどになかば霞のかゝる時さくらや花の王とみゆらん」。】(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「作品解説・内藤正人稿」)

【 抱一の二十代は、一般に放蕩時代とも言われる。それはおそらく、松平雪川(大名茶人松平不昧の弟)・松前頼完といった大名子弟の悪友たちとともに、吉原遊郭や料亭、あるいは 互いの屋敷に入り浸り、戯作者や浮世絵たちと派手に遊びくらした、というイメージが大きく影響しているようなだ。だが、この時代、部屋住みの身であった彼は、ただただ酒色に溺れて奔放に暮らしていたわけではない。一七七七(安永六)年、兄の子でのちに藩主を継ぐ甥の忠道(ただひろ)が誕生したことで、数え年十七歳の抱一が酒井家から離脱を余儀なくされ、急激に軟派の芸文世界に接近していったことは確かである。だが、その後の彼の美術や文学の傾注の仕方は尋常ではない。その証拠に、たとえば後世に天明狂歌といわれる狂歌連の全盛時代に刊行された狂歌本には、若き日の抱一の肖像が収められ、並行して多くのフィクション、戯作小説のなかに彼の号や変名が少なからず登場する。さらにまた、喜多川歌麿が下絵を描いた、美しき多色刷りの狂歌集である『画本虫撰(えほんむしえらみ)』(天明八年刊)にもその狂歌が入集するなど、「屠龍(とりゅう)」「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」の両号で知られる抱一の俗文芸における存在感は大きかった。このうちの狂歌については、俳諧のそれほど高い文学的境地に達し切れなかったとはいえ、同時代資料における抱一の扱われ方は、二十代の彼の文化サロンにおける立ち位置を教えてくれる。 】(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「大名家に生まれて・内藤正人稿」)

 御簾ほどに なかば 霞のかゝる時 さくらや 花の王と見ゆらん (尻焼猿人)

 これは、尻焼猿人(抱一)が、この己の肖像画(山東京伝「画」)を見て、即興的に作った一首なのであろうか。とすると、この狂歌の歌意は、次のとおりとなる。

「京都の公家さんの御簾ならず、江戸前のすだれが掛かると、ここ吉原の霞の掛かった桜が、『花の王』のような風情を醸し出すが、そのすだれ越しの人物も、どこやらの正体不明の『花の王』のように見えるわい」というようなことであろうか。

 これが、「宿屋飯盛撰」の、「宿屋飯盛」(石川雅望 )作とするならば、歌意は明瞭となってくる。

「この『尻焼猿人』さんは、尊いお方で、御簾越しに拝顔すると、半ば霞が掛かった、その桜花が『百花の王』のように見えるように、なんと『江戸狂歌界の王』のように見えるわい」というようなことであろう。

 ほれもせず ほれられもせず よし原に 酔うて くるわの 花の下かげ(尻焼猿人)

 この狂歌は、『絵本詞の花』(宿屋飯盛撰・喜多川歌麿画、天明七年=一七八七)での尻焼猿人(抱一)の一首である。この時、抱一、二十七歳、その年譜(『酒井抱一と江戸琳派全貌(求龍堂)』所収)に、「十月十三日、忠以、徳川家斉の将軍宣下のため、幕府日光社参の名代を命じられ出立。抱一も随行。十六日に日光着。二十日まで。このとき、号「屠龍」。(玄武日記別冊)」とある。
 この頃は、兄の藩主忠以の最側近として、常に、酒井家を支える枢要な地位にあったことであろう。そして、上記の、「『屠龍(とりゅう)』『尻焼猿人(しりやけのさるんど)』の両号で知られる抱一の俗文芸における存在感は大きく」、且つ、「二十代の彼の文化サロンにおける立ち位置」は、極めて高く、謂わば、それらの俗文芸(狂歌・俳諧・浮世絵など)の箔をつけるために、その名を実態以上に喧伝されたという面も多かろう。
 そして、それらのことが、この「俗文芸」と密接不可分の関係にあった「吉原文化」と結びつき、上記の、「抱一の二十代は、一般に放蕩時代とも言われる。それはおそらく、松平雪川(大名茶人松平不昧の弟)・松前頼完といった大名子弟の悪友たちとともに、吉原遊郭や料亭、あるいは 互いの屋敷に入り浸り、戯作者や浮世絵たちと派手に遊びくらした、というイメージが大きく影響している」というようなことが増幅されることになるのであろう。
 しかし、その実態は、この、「ほれもせず ほれられもせず よし原に 酔うて くるわの 花の下かげ」のとおり、「この時代、部屋住みの身であった彼は、ただただ酒色に溺れて奔放に暮らしていたわけではない」ということと、後に、抱一は、吉原出身の「小鶯女史」を伴侶とするが、この当時は、吉原の花柳界の憧れのスターの一人であったが、抱一側としては、常に、酒井家における立つ位置ということを念頭に、分を弁えた身の処し方をしていたように思われる。
 これらのことについては、この『絵本詞の花』の画像と共に、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-06

 また「抱一と小鶯女史」については、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-28

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-09-01

 上記のアドレスの、「酒井抱一筆『紅梅図』(小鸞女史賛)・文化七年(一八一〇)作細見美術館蔵」関連のものを下記に再掲をして置きたい。

(再掲)

【 抱一と小鸞女史は、抱一の絵や版本に小鸞が題字を寄せるなど(『花濺涙帖』「妙音天像」)、いくつかの競演の場を楽しんでいた。小鸞は漢詩や俳句、書を得意としたらしく、その教養の高さが抱一の厚い信頼を得ていたのである。
小鸞女史は吉原大文字楼の香川と伝え、身請けの時期は明らかでないが、遅くとも文化前期には抱一と暮らしをともにしていた。酒井家では表向き御付女中の春條(はるえ)として処遇した。文化十四年(一八一七)には出家して、妙華(みょうげ)と称した。妙華とは「天雨妙華」に由来し、『大無量寿経』に基づく抱一の「雨華」と同じ出典である。翌年には彼女の願いで養子鶯蒲を迎える。小鸞は知性で抱一の期待によく応えるとともに、天保八年(一八三七)に没するまで、抱一亡きあとの雨華庵を鶯蒲を見守りながら保持し、雨華庵の存続にも尽力した。
本図は文化六年(一八〇九)末に下谷金杉大塚村に庵(後に雨華庵と称す)を構えてから初の、記念すべき新年に描かれた二人の書き初め。抱一が紅梅を、小鸞が漢詩を記している。抱一の「庚午新春写 黄鶯邨中 暉真」の署名と印章「軽擧道人」(朱文重郭方印)は文化中期に特徴的な踊るような書体である。
「黄鶯」は高麗鶯の異名。また、「黄鶯睨睆(おうこうけいかん)」では二十四節気の立春の次候で、早い春の訪れを鶯が告げる意を示す。抱一は大塚に転居し辺りに鶯が多いことから「鶯邨(村)」と号し、文化十四年(一八一七)末に「雨華庵」の扁額を甥の忠実に掲げてもらう頃までこの号を愛用した。
梅の古木は途中で折れているが、その根元近くからは新たな若い枝が晴れ晴れと伸びている。紅梅はほんのりと赤く、蕊は金で先端には緑を点じる。老いた木の洞は墨を滲ませてまた擦筆を用いて表わし、その洞越しに見える若い枝は、小さな枝先のひとつひとつまで新たな生命力に溢れている。抱一五十歳の新春にして味わう穏やかな喜びに満ちており、老いゆく姿と新たな芽吹きの組み合わせは晩年の「白蓮図」に繋がるだろう。
「御寶器明細簿」の「村雨松風」に続く「抱一君 梅花画賛 小堅」が本図にあたると思われ、酒井家でプライベートな作として秘蔵されてきたと思われる。
(賛)
「竹斎」(朱文楕円印)
行過野逕渡渓橋
踏雪相求不憚労
何處蔵春々不見惟 
聞風裡暗香瓢
 小鸞女史謹題「粟氏小鸞」(白文方印)    】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「作品解説96(岡野智子稿)」)

 この小鸞女史の漢詩の意などは、次のようなものであろう。

行過野逕渡渓橋(野逕ヲ過ギ行キ渓橋ヲ渡リ → 野ヲ過ギ橋ヲ渡リ)
踏雪相求不憚労(相イ求メ雪踏ムモ労ヲ憚ラズ → 雪ノ径二人ナラ労ハ厭ワズ) 
何處蔵春々不見惟(何處ニ春々蔵スモ惟イ見ラレズ → 春ガ何処カソハ知ラズ) 
聞風裡暗香瓢(暗裡ノ風ニ聞ク瓢ノ香リ → 暗闇ノ梅ノ香ヲ風ガ知ラスヤ)

山東京伝・吉原.jpg

北尾政演(山東京伝)著『〔新〕美人合自筆鏡』(「吉原傾城新美人合自筆鏡」)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288343

 この北尾政演(山東京伝)著『〔新〕美人合自筆鏡』(「吉原傾城新美人合自筆鏡」)についても、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-09

 この時代の抱一をして、「吉原文化の申し子」((『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「抱一の心の拠り所『吉原』・岡野智子稿」)とするならば、この抱一以上に、抱一と同年齢の、この山東京伝(浮世絵師・北尾政演)こそ、その名に相応しいであろう。
  安永八年(一七七九)、当時十九歳の山東京伝は、吉原・扇屋の菊園を知り、以後、かよいつめて、寛政二年(一七九〇)に、菊園を身請けし正式に妻に迎え入れる。しかし、この菊園は、寛政五年(一七九三)に、三十歳の若さで夭逝してしまう。
 その菊園の夭逝後、寛政九年(一七九七)、三十七歳の京伝は、吉原・弥八玉屋の玉の井を知り、寛政十ニ年(一八〇〇)に、妻に迎え、その名を百合と呼び、その弟と妹をも自分の家に引き取っているのである。
 何故、それほどに、山東京伝を始め、大田南畝、そして、出家後の、酒井抱一などの面々が、吉原の遊女たちを、己の伴侶とするのか、その一端は、上記の、北尾政演(山東京伝)著『〔新〕美人合自筆鏡』(「吉原傾城新美人合自筆鏡」)の全容を紐解くことによって了知されるであろう。

その十 山東京伝の「吉原傾城新美人合自筆鏡」と抱一の「吉原月次風俗図」など

山東京伝・吉原.jpg

北尾政演(山東京伝)著『〔新〕美人合自筆鏡』(「吉原傾城新美人合自筆鏡」)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288343

 この「吉原傾城新美人合自筆鏡」は、北尾政演(後の山東京伝)の作である。天明三年(一七八三)、版元は蔦屋重三郎で、「青楼名君自筆集」として大判二枚続きの作品として刊行された。その翌年、画帖仕立てにして、「序」は四方山人(大田南畝)、「跋」は朱楽館主人(朱楽菅江)が書き、「吉原傾城新美人合自筆鏡」として売りに出された。
 「傾城」とは、遊女のことで、「吉原傾城新美人合自筆鏡」とは、その名のとおり、吉原の遊女を描いた美人画集である。太夫(最高位の遊女)と新造(若い見習いの遊女)や禿(遊郭の住み込みの童女)などを、一図に五・六人の遊女を描き、太夫の自筆とされる詩歌などを図に添えている。
 繰り返しになるが、この作者の北尾政演は、浮世絵師・北尾重政の門人で、黄表紙(江戸小説の一種)の挿絵を中心に美人画や役者絵などを手掛ける一方、山東京伝の戯作号で、黄表紙、洒落本、合巻、読本など幅広いジャンルの執筆活動を行った、マルチタレントの典型的な人物である。
 月の大半を遊所で過ごしたとされ、吉原に親しんだ政演は、浮世絵師・北尾政演、また、戯作者・山東京伝として、版元の蔦屋重三郎と深い関係にあった。
この蔦屋重三郎は、政演よりも十一歳年長で、江戸吉原で生まれ育ち、その吉原大門口で、貸本・小売を主体とする本屋(耕書堂)を開業し、『吉原細見』(遊郭情報誌)を刊行し、大ヒットさせる。そして、次第に出版の内容を広げ、狂歌・戯作界の中心的人物の大田南畝と親交を深め、それらの作品を独占的に手掛けるようになる。
 さらに、寛政四年(一七九二)に、喜多川歌麿による美人大首絵を刊行、また、寛政六年(一七九四)、東洲斎写楽による役者似顔大首絵を刊行し、歌麿・写楽の名を今に轟かせている原動力となっている。北斎もまた、重三郎の狂歌絵本から出てきた新人で、今日の、これらの浮世絵師の名声は、名プロデューサーの蔦屋重三郎の名を抜きにしては語られないと言っても過言でなかろう。
浮世絵師・北尾政演もまた、この名プロデューサー・蔦屋重三郎の企画ものの、この「吉原傾城新美人合自筆鏡」によって、その名を不動のものにしたと言って、これまた過言でなかろう。
さて、そのトップを飾る、上記の「吉原傾城新美人」の太夫(花魁)は、中央の立膝をしているのが、「よつめ屋(四つ目屋)」の「なゝ里(七里)」で、その左に立って筆を執っているのが、同じ「よつめ屋(四つ目屋)」の「うた川(歌川)」のようである。

 右上部に書かれている「なゝ里(七里)」の歌の、「みよし野のかはへ(川辺)にさけるさくら花」の出だしは、古今和歌集の「みよし野の山辺に咲ける桜花・雪かとのみぞあやまたれける」(紀友則)のパロディの一首のようである。その下の句は、「ちりかかるをや」(散りかかるをや+塵かかるをや)「にごる(濁る)といふらむ(言ふらむ)」(『古今集』の伊勢のパロディ)の、そんな雰囲気の歌のようである。
 それに比して、左上部に書かれている「うた川(歌川)」の発句(俳句)は、「雨帯(び)てうこかぬ(動かぬ)梅のにほひ(匂ひ)かな」と比較的詠み易い感じである。これも、誰かの句のパロディの一句なのであろう。

 この「よつめ屋(四つ目屋)の「七里と歌川の二人」(三頁)に続き「四頁(二人)~九頁(二人)」と、合計すると、十四人の「太夫(花魁)」が、この「吉原傾城新美人合自筆鏡」には登場する。
 そして、この「九頁の右側の松葉屋の瀬川」については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-09

 上記のアドレスのものを再掲して置きたい。

(再掲)

北尾政演作「吉原傾城新美人合自筆鏡」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2014.html

江戸時代後期の流行作家山東京伝は、北尾政演(きたおまさのぶ)という画名で浮世絵を描いていました。その政演の最高傑作が、天明四年(1784)に出版された『吉原傾城新美人合自筆鏡』です。当時評判だった遊女の姿を描き、その上に彼女たち自筆の詩歌を載せています。右の遊女は松葉屋の瀬川で、彼女は崔国輔の詩「長楽少年行」の後半を書いていますが、他の遊女たちは自作の和歌を書いています。

上記の紹介文で、流行作家(戯作者)「山東京伝(さんとうきょうでん)」と浮世絵師「北尾政演(きたおまさのぶ)とで、浮世絵師・北尾政演は、どちらかというと従たる地位というものであろう。
 しかし、安永七年(一七七八)、十八歳の頃、そのスタート時は浮世絵師であり、その活躍の場は、黄表紙(大人用の絵草紙=絵本)の挿絵画家としてのものであった。そして、自ら、その黄表紙の戯作を書くようになったのは、二十歳代になってからで、「作・山東京伝、絵・北尾政演」と、浮世絵師と戯作者との両刀使いというのが、一番相応しいものであろう。
 しかも、上記の『吉原傾城新美人合自筆鏡』は、天明四年(一七八四)、二十四歳時のもので、その版元は、喜多川歌麿、東洲斎写楽を世に出す「蔦重」(蔦屋重三郎)その人なのである。
さらに、この浮世絵版画集ともいうべき絵本(画集)の「序」は、「四方山人(よもさんじん)=太田南畝=蜀山人=山手馬鹿人=四方赤良=幕府官僚=狂歌三大家の一人」、「跋」は、「朱楽管江(あけらかんこう)=准南堂=俳号・貫立=幕臣=狂歌三大家の一人」が書いている。
その上に、例えば、この絵図の右側の遊女は、当時の吉原の代表的な妓楼「松葉屋」の六代目「瀬川」の名跡を継いでいる大看板の遊女である。その遊女・瀬川の上部に書かれている、その瀬川自筆の盛唐の詩人・崔国輔の「長楽少年行」の後半(二行)の部分は次のとおりである。

章台折揚柳 → 章台(ショウダイ)揚柳(ヨウリュウ)ヲ折リ
春日路傍情 → 春日(シュンジツ) 路傍(ロボウ)ノ情(ジョウ)

吉原・元旦.jpg

(紙本淡彩、旧状は押絵貼六曲一双・現状は十ニ幅に改装、個人蔵)
「抱一筆『吉原月次風俗図』の背景(井田太郎稿)」所収「琳派・第五巻」挿図

 この抱一筆「吉原月次風俗図」の正月の図に大書されている「花街柳巷(かがいりゅうこう)」は、李白の詩などに由来する「花街」(遊郭・色里)の意で、この図の左側の賛(発句=俳句)「元日やさてよし原はしヅかなり」からすると、「吉原」(新吉原)」ということになろう。
 この「花街柳巷」にぴったりの、広重(初代)が描く「吉原(花街吉原・大門)・巷(衣紋坂)・柳(見返り柳)・日本堤(隅田川土手)」の絵図がある。


雪の吉原.jpg

広重筆「銀世界東十二景 新吉原雪の朝」(国立国会図書館蔵)
https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail275.html?keywords=snow

吉原・桜.jpg

広重筆「東都名所 新吉原」(国立国会図書館蔵)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1303523

 上の「新吉原雪の朝」の、右下が、「吉原の大門」で、「くの字の小道(巷)」が「衣紋坂」、その「くの字の巷」と「日本堤」との合流する所に「見返り柳」が描かれている。雪の朝で閑散とした吉原のスナップである。
 下の「新吉原」は、花見時のスナップで、手前に、吉原大門は描かれていず「吉原郭内図」、そして「くの字の衣紋坂」の一部、その先に「見返り柳」が描かれている。「日本堤」には、猪牙舟(ちょきぶね)で乗り付けて来た日本堤から吉原へ向かう遊客の群れが描かれている。
 新吉原は、明暦三年(一六五七)に、現在の日本橋人形町の旧(元)吉原から引っ越して来て、爾来、この吉原が江戸文化の中心地となり、明治五年(一八七二)の「娼妓解放令」が出た時の記録には、「百八十軒の遊女屋、百二十一軒の引手茶屋、三千四百四十八人の遊女、百七十一人の芸者、二十五人の幇間が居て、郭内の人口は一万人を超えていたという(『お江戸吉原ものしり帖(北村鮭彦著)』)。
 その郭内には、日常生活に必要な雑貨、小間物、荒物、魚屋などの食品を扱う店、仕出屋、菓子屋、銭湯、医師、書道指南、幇間(たいこもち)・音曲師匠、三味線師、大工、左官などの一般の町人、職人、芸人などと、まさに、当時の江戸の縮図のような賑わいを呈していたのであろう。
 上記の遊女屋というのは、「妓楼・青楼」、そして、引手茶屋というのは、遊客を遊女屋に案内する茶屋で、郭内の中央のメインの「仲の町通り」(大門から水道尻までの吉原一の大通り)の両側に軒を連ねており、上記の「新吉原」の桜並木(植木)に面した二階家が引手茶屋であろう。
 この引手茶屋は、上級の遊客が利用し、単純に遊女と遊ぶ面々は大通りから横町に入っての「張見世」、さらに、「浄念河岸」と「羅生門河岸」の「切見世」「銭見世」などを利用することになる。
 遊女のランクも、元吉原時代の「太夫・格子・端」の三ランクの区分も、新吉原時代になると、「太夫・格子・散茶・局(梅茶)・切見世」の五ランク、そして、新吉原時代後期
になると、「呼出・昼三・附廻・座敷持・部屋持・切見世」の六ランクにと変容するようである(「国文学解釈と鑑賞:川柳・遊里誌:昭和三八・二」など)。
 さて、ここで、冒頭の、北尾政演(後の山東京伝)が描く「吉原傾城新美人合自筆鏡」の主要な遊女(花魁)は、「太夫・格子・端」のランクの、その当時の名称の如何を問わず、最高級の「太夫」クラスであることは言うまでもない。
 と同時に、「山東京伝(北尾政演)・酒井抱一(屠龍・尻焼猿人)・大田南畝(四方赤良))らが吉原詣でするのは、この引手茶屋(妓楼・蔦屋耕書堂などのサロンを含む)などで繰り広げられる「文化サロン」(「連」「宴」「遊びの場」「交遊・ネットワーク」等々)での人との交歓が主で、単なる、いわゆる「傾城(遊女)」との「男女間の情愛」などを直接的に意図してのものではないということなのである。

  美しい花をちらすと二十七 (『柳多留一四』三一)
  二十八才で人間界へ出る  (『柳多留二八』一七)
  二十八からふんどしが白くなり(『柳多留二五』一〇)

 吉原というのは、良くも悪くも、三千人を超える遊女中心の世界であって、その遊女による「宴=晴」の空間であると同時に、その遊女の働きに因って一万人以上の人間が生活しているという「娑婆=褻」の空間でもある。
 そして、この吉原の主役の遊女は、厳しい年齢制限があって、二十七歳で「人間界=娑婆」へ出て、二十八歳からは、「赤い湯文字(ふんどし)」から「白い湯文字」を着けなければならないという、厳然たる事実の中に身を置いているのである。

 ここで、またまた、前回に引き続き、「山東京伝を始め、大田南畝、そして、出家後の、酒井抱一などの面々が、吉原の遊女たちを、己の伴侶とするのか」という問い掛けに対して、「その一端は、上記の、北尾政演(山東京伝)著『〔新〕美人合自筆鏡』(「吉原傾城新美人合自筆鏡」)を紐解けば合点が行くように、当時の最高級の女性が、この吉原に結集していたことと、今回、取り上げた、この吉原の女性の年齢制限も、大きく関係していると思われることも、付記して置きたい。

その十一 江戸の粋人・抱一の描く「その一・吉原月次風俗図(元旦)」など

吉原・元旦.jpg

酒井抱一筆「吉原月次風俗図」その一(正月「元旦」)
十二幅うち一幅(旧六曲一双押絵貼屏風) 紙本淡彩 九七・三×二九・二(各幅)落款「抱一書畫一筆」(十二月)他 印章「抱一」朱文方印(十二月)他
【もと六曲一双の屏風に各扇一図ずつ十二図が貼られていたものを、現在は十二幅の掛幅に改装され、複数の個人家に分蔵されている。吉原の十二か月の歳時を軽妙な草画に表わし、得意の俳句もこれまた達意の仮名書きで添えたもので、抱一ならではの詩書画三絶ぶりが全開されている。
 正月(元旦)「花街柳巷 雨華道人書之」の隷書体の題字に「元旦やさてよし原はしつかなり」の句。立ち並ぶ屋根に霞がなびき、朝鴉が鳴き渡っている。】
(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

 酒井抱一には、文政二年(一八一九)、五十九歳時の自跋がある「吉原」(新吉原)に関する「俳画集」とも言うべき『柳花帖』(全一冊・五十六丁・五十六図・五十五発句)がある。その跋文は次のとおりである。

【 夜毎郭楼に遊ひし咎か 予にこの双帋へ画かきてよ とのもとめにまかせ やむなくも酒に興して ついに筆とり初ぬ つたなき反古を跡にのこすも憂しと乞ひしに うけかひなくやむなくも 恥ちなから乞ひにまかせ ついに五十有餘の帋筆をつゐやしぬ ときに文政卯としはるの末へにそありける 雨花抱一演「文詮」(朱文重郭方印)  】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収「抱一の内なる世界 姫路市立美術館蔵 酒井抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』と『柳花帖』をめぐって:岡野智子稿」)

 この『柳花帖』には、「箱書」があり、そこには、次のように記載されている。

【 抱一上人筆句集
屠龍の技
  天保丁酉初春日 可保茶宗園題画 「大文字や」(朱文方印)  】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収「抱一の内なる世界 姫路市立美術館蔵 酒井抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』と『柳花帖』をめぐって:岡野智子稿」)

 この箱書きをした「可保茶宗園」は、吉原大文字屋三世南瓜宗園で、宗園は抱一に絵のてほどきを受けていたという(俳諧・狂歌なども手ほどきを受けていたと思われる)。そして、抱一が若い時から親交が厚かったのは、二世可保茶元成で、その元成ために戯画したとも伝えられている初代「大文字屋市兵衛図」については、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-23

 そこで、この『柳花帖』についても触れているが、その『柳花帖』の俳句(発句一覧)について、ここでも、再掲をして置きたい。

(再掲)

酒井抱一俳画集『柳花帖』(一帖 文政二年=一八一九 姫路市立美術館蔵=池田成彬旧蔵)の俳句(発句一覧)
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「酒井抱一筆「柳花帖」俳句一覧(岡野智子稿)」) ※=「鶯邨画譜」・その他関連図(未完、逐次、修正補完など) ※※=『屠龍之技』に収載されている句(「前書き」など)

  (画題)      (漢詩・発句=俳句)
1 月に白梅図   暗香浮動月黄昏(巻頭のみ一行詩) 抱一寫併題  ※四「月に梅」
2 白椿図     沽(うる)めやも花屋の室かたまつはき
3 桜図      是やこの花も美人も遠くより ※「八重桜・糸桜に短冊図屏風」
4 白酒図     夜さくらに弥生の雪や雛の柵
5 団子に蓮華図  一刻のあたひ千金はなのミち
6 柳図      さけ鰒(ふぐ)のやなきも春のけしきかな※「河豚に烏賊図」(『手鑑帖』)
7 ほととぎす図  寶(ほ)とゝきすたゝ有明のかゝみたて
8 蝙蝠図     かはほりの名に蚊をりうや持扇  ※「蝙蝠図」(『手鑑帖』)
9 朝顔図     朝かほや手をかしてやるもつれ糸  
10 氷室図    長なかと出して氷室の返事かな
11 梨図     園にはや蜂を追ふなり梨子畠   ※二十一「梨」
12 水鶏図    門と扣く一□筥とくゐなかな   
13 露草図    月前のはなも田毎のさかりかな
14 浴衣図    紫陽花や田の字つくしの濡衣 (『屠龍之技』)の「江戸節一曲をきゝて」
15 名月図    名月やハ聲の鶏の咽のうち
16 素麺図      素麺にわたせる箸や天のかは
17 紫式部図    名月やすゝりの海も外ならす   ※※十一「紫式部」
18 菊図      いとのなき三味線ゆかし菊の宿  ※二十三「流水に菊」 
19 山中の鹿図   なく山のすかたもみへす夜の鹿  ※二十「紅葉に鹿」
20 田踊り図     稲の波返て四海のしつかなり
21 葵図       祭見や桟敷をおもひかけあふひ  ※「立葵図」
22 芥子図      (維摩経を読て) 解脱して魔界崩るゝ芥子の花
23 女郎花図     (青倭艸市)   市分てものいふはなや女郎花
24 初茸に茄子図    初茸や莟はかりの小紫
25 紅葉図       山紅葉照るや二王の口の中
26 雪山図       つもるほと雪にはつかし軒の煤
27 松図        晴れてまたしくるゝ春や軒の松  「州浜に松・鶴亀図」   
28 雪竹図       雪折れのすゝめ有りけり園の竹  
29 ハ頭図      西の日や数の寶を鷲つかみ   「波図屏風」など
30 今戸の瓦焼図    古かねのこまの雙うし讃戯画   
            瓦焼く松の匂ひやはるの雨 ※※抱一筆「隅田川窯場図屏風」 
31 山の桜図      花ひらの山を動かすさくらかな  「桜図屏風」
  蝶図        飛ふ蝶を喰わんとしたる牡丹かな      
32 扇図        居眠りを立派にさせる扇かな
  達磨図       石菖(せきしょう)や尻も腐らす石のうへ
33 花火図       星ひとり残して落ちる花火かな
  夏雲図       翌(あす)もまた越る暑さや雲の峯
34 房楊枝図 はつ秋や漱(うがい)茶碗にかねの音 ※其一筆「文読む遊女図」(抱一賛)
  落雁図       いまおりる雁は小梅か柳しま
35 月に女郎花図    野路や空月の中なる女郎花 
36 雪中水仙図     湯豆腐のあわたゝしさよ今朝の雪  ※※「後朝」は
37 虫籠に露草図    もれ出る籠のほたるや夜這星
38 燕子花にほととぎす図  ほとときすなくやうす雲濃むらさき 「八橋図屏風」
39 雪中鷺図      片足はちろり下ケたろ雪の鷺 
40 山中鹿図      鳴く山の姿もミヘつ夜の鹿
41 雨中鶯図      タ立の今降るかたや鷺一羽 
42 白梅に羽図     鳥さしの手際見せけり梅はやし 
43 萩図        笠脱て皆持たせけり萩もどり
44 初雁図       初雁や一筆かしくまいらせ候
45 菊図        千世とゆふ酒の銘有きくの宿  ※十五「百合」の
46 鹿図        しかの飛あしたの原や廿日月  ※「秋郊双鹿図」
47 瓦灯図       啼鹿の姿も見へつ夜半の聲
48 蛙に桜図      宵闇や水なき池になくかわつ
49 団扇図       温泉(ゆ)に立ちし人の噂や涼台 ※二十二「団扇」
※50 合歓木図     長房の楊枝涼しや合歓花 ※其一筆「文読む遊女図」(抱一賛)
51 渡守図       茶の水に花の影くめわたし守  ※抱一筆「隅田川窯場図屏風」
52 落葉図      先(まず)ひと葉秋に捨てたる団扇かな ※二十二「団扇」

 さて、ここで特記をして置きたいことは、この「吉原大文字楼三世南瓜(可保茶)宗園」の箱書きの「天保丁酉」は、天保八年(一八三七)で、「酒井抱一と江戸琳派関係年表」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』)に、「十月二十七日、妙華尼没(浄栄寺過去帳)」とあり、抱一の伴侶・小鶯女史(俗名=おちか、御付女中名=春篠・春条《はるえ》?、遊女名=香川・一本《ひともと》?・誰ケ袖?)が亡くなった年なのである。
 さらに、その年に、「『柳花集』其一挿絵」とあり、この狂歌集『柳花集』(村田元就・遊女浅茅生撰、村片相覧・鈴木其一画)の撰者の「村田元就」は、「吉原大文字楼三世南瓜(可保茶)宗園」であろう。そして、この「遊女浅茅生」は、抱一の伴侶の妙華尼と何らかの縁があるように思われるのである。
 ここで、大胆な推測をすると、「吉原大文字楼三世南瓜(可保茶)宗園」の懇請により描かれたとされている、この抱一の俳画集『柳花帖』は、何らかの機縁で、抱一の伴侶・妙華尼が手元に所持していて、亡くなる時に、「吉原大文字楼三世南瓜(可保茶)宗園」の再び元に戻ったように解したい。
 として、この『柳花帖』は、抱一と小鶯女史との思い出深い画帖と解したいのである。そして、この抱一と小鶯女史との、その深い関わりに陰に陽に携わった、その人こそ、抱一の後継者の第一人者・鈴木其一と解したいのである。
 これらのことについては、下記のアドレスで、上記の『柳花帖』の「※50 合歓木図     長房の楊枝涼しや合歓花」に関連しての「抱一・小鶯女史・其一」との、この三者の深い関わりについて触れている。ここで、その「※其一筆『文読む遊女図』(抱一賛)」関連のものも再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-28

(再掲)

其一・文読む遊女図.jpg

鈴木其一筆「文読む遊女図」 酒井抱一賛 紙本淡彩 一幅 九㈣・二×二六・二㎝
細見美術館蔵
【 若き日の其一は、師の抱一に連れられて吉原遊郭に親しんだのだろうか。馴染み客からの文を読む遊女のしどけない姿に、「無有三都 一尺楊枝 只北廓女 朝々玩之」「長房の よふし涼しや 合歓花」と抱一が賛を寄せている。 】(『別冊太陽 江戸琳派の美』所収「江戸琳派における師弟の合作(久保佐知恵稿)」)
【 其一の遊女図に、抱一が漢詩と俳句を寄せた師弟の合作。其一は早くから『花街漫録』に、肉筆浮世絵写しの遊女図を掲載したり、「吉原大門図」を描くなど、吉原風俗にも優れた筆を振るう。淡彩による本図は朝方客を見送り、一息ついた風情の遊女を優しいまなざしで的確に捉えている。淡墨、淡彩で略筆に描くが、遊女の視線は手にした文にしっかりと注がれており、大切な人からの手紙であったことを示している。賛は房楊枝(歯ブラシ)を、先の広がっているその形から合歓の花になぞらえている。合歓は夜、眠るように房状の花を閉じることから古来仲の良い恋人、夫婦に例えられた。朝帰りの客を見送った後の遊女のしっとりとした心情をとらえた作品である。草書体の「其一筆」の署名と「必菴」(朱文長方印)がある。
(賛)
無有三都 
一尺楊枝 
只北廓女 
朝々玩之

長房の 
よふし涼しや 
合歓花
       抱一題「文詮」(朱文瓢印)  】  
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説(岡野智子稿))」

 上記の解説文で、上のものは「簡にして要を得る」の典型的なもので、これだけでは、何とも「謎」の多い「文読む遊女図」のものとしては、やや不親切の誹りを受けるのかも知れない。
 ということで、下のものは、その「謎」解きの一つの、「房楊枝(歯ブラシ)」が「合歓の花」の比喩(別なものに見立てる)であることについて触れている点は、親切なのだが、しかし、その後の、「朝帰りの客を見送った後の遊女のしっとりとした心情をとらえた作品である」となると、やや、説明不足の印象が拭えない。

昼は咲き夜(よる)は恋ひ寝(ぬ)る合歓木(ねぶ)の花君のみ見めや戯奴(わけ)さへに見よ (紀女郎・『万葉集・巻八(一四六一)』)

 この万葉集の「紀女郎」の歌の「君」は、「紀女郎」自身であり、「戯奴(わけ・たわむれやっこ)は、年下の恋人の大伴家持である。

 これに対して、家持の返歌は次のとおり。

 我妹子(わぎもこ)が形見の合歓は花のみに咲きてけだしく実にならじかも (大伴家持
『万葉集』巻八・一四八三) 

 冒頭の「文読む遊女図」(其一筆・抱一賛)には、この『万葉集』の相聞歌などが背景にあり、「君=紀郎女=遊女香川=小鸞女史(抱一夫人=妙華尼)」と「戯奴=大伴家持=抱一(雨華庵)」とを、その走り使いの其一が、一幅ものにしたような、そんな雰囲気を漂わせている。

  象潟や雨に西施がねむの花  芭蕉

 芭蕉の、この『おくのほそ道』での句は、蘇東坡の詩句を受けてのもので、上記の『万葉集』の相聞歌とは関係がないが、抱一に見受けされて、終の棲家の「雨華庵」で、晩年の抱一を支え続けた小鸞女史のイメージは、花魁香川というイメージよりも、控え目な西施風のイメージが強いであろう。

 抱一は、宝暦十一年(一七六一)の生まれ、其一は、寛政八年(一七九六)の生まれ、両者の年齢差は、三十五歳と、親子ほどの開きがある。抱一が、新吉原大文字屋花魁・香川を、見受けして、表向きは御付女中・春條(はるえ)とし、「雨華庵」で同棲を始めたのは、文化八年(一八〇九)、其一が抱一の内弟子となったのは、文化十年(一八一三)の頃である。
 文化八年(一八〇九)の、抱一の内弟子になる以前の其一は、おそらく、抱一の中小姓として仕えていた鈴木蠣潭の下で、抱一の小間使いのようなこともしていたように思われる。
 すなわち、冒頭の「文読む遊女図」の遊女は、其一が知っている遊女図というよりも、主君のような存在の抱一と、その御付女中・春條として迎え入れられた「遊女(花魁)・香川」図のように理解して来ると、この「文読む遊女図」(其一筆)の、抱一の賛(漢詩と発句)が、始めて、その正体を現してくるような感じなのである。
 それらのことを念頭にして、抱一の賛(漢詩と発句)を読み解くと、次のようになる。

 無有三都  (三都に有や無しや)
 一尺楊枝  (見よ この一尺の歯楊枝を 即ち この一尺の合歓の花を)
 只北廓女  (只に 北に咲く合歓の花 即ち 只に 新吉原の廓女を)
 朝々玩之  (朝々に これを愛ずり 朝々に これと交歓す)

 長房の    (長い房の その歯楊枝の如き)
 よふし涼しや (夜を臥して涼やかに そは夜を共寝して涼やかに)
 合歓花    (合歓の花 そは西施なる妙なる花ぞ)

 其一が生まれた寛政八年(一七九六)、抱一、三十六歳時に、「俳諧撰集『江戸続八百韻』を世に出し、其角・存義に連なる江戸座の俳諧宗匠の一人として名をとどめ、爾来、抱一は、その俳諧の道と縁を切ってはいない。
 その俳風は、芭蕉門の最右翼の高弟、宝井其角流の、洒落俳諧・比喩(見立て)俳諧の世界で、その元祖の芭蕉俳諧(「不易流行」の「不易」に重きを置く)とは一線を画している。

  象潟や雨に西施がねむの花  芭蕉
  長房のよふし涼しや合歓花  抱一

 芭蕉の句の、この「西施」なる字句の背景に、蘇東坡の漢詩が蠢いているが、それが、この句の眼目ではなく、歌枕の「象潟」を目の当たりにして、その「象潟」の、永遠なるもの(流行に根ざす不易なるもの)への「感慨・憧憬」と、その地霊的なものへの「挨拶」が、
この芭蕉の句の眼目となってくる。
 それに比して、抱一の句は、「長房の」の「長房」(「長い房」と「長い歯楊枝」との掛け)、「よふし涼しや」の「よふし(「夜臥す」と「夜閉じる」との掛け)の、「洒落・見立ての面白さ」が、この句の眼目になっている。そして、それは、下五の「合歓の花」に掛かり、全体として、「合歓の花」を見ての、刹那的(不易なるものより一瞬に流れ行くもの)な「感慨・憧憬」を、言霊(ことだま)的な「挨拶」となって、一種の謎句的なイメージが、この抱一の句の眼目となってくる。

  雨の日やまだきにくれてねむの花  蕪村

 蕪村も、抱一と同じく、其角・巴人の「江戸座」の「洒落・比喩俳諧」の流れに位する俳人の一人である。しかし、抱一と違って、「其角好き」の一方、無類の「芭蕉俳諧の信奉者」なのである。
 この蕪村の句も、「まだきくれて」(まだ時間でもないのに日が暮(昏)れる)というところに、其角・抱一と同じように、掛け言葉の比喩俳諧的な世界に根ざしている。この句は、「虎雄子が世を早うせしをいたむ」との前書きがあって、芦陰社中の俳人虎雄への悼句なのである。すなわち、「若くして夭逝した俳友」を、この眼前の「雨の日のまだきにくれゆく合歓の花」に見立てているということになる。


 翻って、抱一と小鶯女史とが、下谷根岸大塚村の鶯の里に定住したのは、文化六年(一八〇九)、抱一、四十九歳、そして、小鶯女史は、「年明き」「身請け」などを考慮して、二十七・八歳の頃と推定される。
 それから八年後の文化十四年(一八一七)に、その鶯の里の庵居に「雨華庵」の額を掲げ、抱一は、以来「雨華」の号を多用するようになる。そして、この年、小鶯女史は剃髪して「妙華尼」を名乗るようになる(「等覚院御一代」)。
 そして、上記に紹介した、抱一の吉原に関する俳画集『花柳帖』が制作されたのは、文政二年(一八一九)、抱一、五十九歳の頃である。
 ここで、特記したいことは、この吉原に関する抱一の俳画集『花柳帖』では、吉原の代名詞とも言うべき遊女などの人物像は一切排除されて、上記に再掲した画題の通り、「月に白梅・白椿・桜・蓮華・柳・朝顔・梨・露草・菊・葵・芥子・女郎花・初茸に茄子・紅葉・松・雪竹・八頭・水仙・燕子花・萩・合歓木」「ほととぎす・蝙蝠・水鶏・蝶・落雁・初雁・鶯」などの、抱一絵画特有の「花鳥画」の、さながら、俳画集「絵手鑑」の趣を呈しているということである。
 この俳画集『花柳帖』を基礎にして、冒頭に紹介した「吉原月次風俗図」(十二幅・旧六曲一双押絵貼屏風)、そして、その「吉原月次風俗図」を図巻にしたような「花街柳巷図巻」は制作されたものと思われ、これら抱一の「吉原三部作」は、文政二年(一八一九)を前後にしての、同一時期の制作のように思われる。
 ここで、これらの抱一の「吉原三部作」(『花柳帖』「吉原月次風俗図」「花街柳巷図巻」)に、遊女類の人物像が排除されていることについて、「抱一が美人画の画家でなかったのも一因」(「抱一筆『吉原月次風俗図』の背景(井田太郎稿)」)との見方もあるが、これは、吉原の遊女出身の、今は剃髪して「妙華尼」を名乗っている小鶯女史への、抱一流の情愛の細やかな配慮が、その背景にあるように解したい。
 そして、この細やかな配慮こそ、「江戸の粋人」の「粋(すい)」に通ずるもののように解したい。ちなみに、この「粋(すい)」について、「水は方円の器に従う。(中略)『粋』に『いき』の訓はない。(中略)江戸初期には『水』『推』『帥』などと、いろいろな文字が宛て字として用いられた。なかでも『水』が最も多い。(中略)遊興生活を営む上において、見事な平衡感覚を備えた人の意である。そういう人は当然、他人の志向をよく推量するから『推』、そして、そのような人は自然と重んじられて一軍の将帥となるから『帥』であり、(中略)まじりけのない『純粋』な、良質の『精粋』な人の意」(『江戸文化評判記(中野三敏著)』)と喝破した見方を是としたい。

(追記一)「夜色楼台図(蕪村画)」と「吉原月次風俗図のうち元旦図(抱一画)」・「花街柳巷図巻のうち元旦図(抱一画)」

蕪村 夜色楼台図.jpg

「夜色楼台図(蕪村画)」

花柳図巻元旦.jpg

「花街柳巷図巻のうち元旦図(抱一画)」

 蕪村の水墨画(横長)の傑作「夜色楼台図」は、京都の東山をバックに祇園 の妓楼と京の街並みの雪の夜の「屋根・屋根」の光景である。そして、抱一の淡彩画(水墨画に近い)の「縦長」の「吉原月次風俗図のうち元旦図」(冒頭に掲載)と「横長」の「花街柳巷図巻のうち元旦図」(上記の下の図)も、江戸の吉原の妓楼などの「屋根・屋根」の光景である。
この抱一の「吉原月次風俗図のうち元旦図」について、「抱一ならではの詩書画三絶ぶりが全開されている」(冒頭の「小林忠稿」)とすれば、蕪村の「夜色楼台図」もまた、「蕪村ならではの詩書画三絶ぶりが全開されている」との評が当て嵌まるであろう。
 しかし、続けて、抱一の「吉原月次風俗図のうち元旦図」について、「立ち並ぶ屋根に霞がなびき、朝鴉が鳴き渡っている」(冒頭の「小林忠稿」)は、「立ち並ぶ吉原の郭内の屋根、そして、雪の朝の一刷毛の描写、そして、その雪空に閑古鳥が飛んでいる」としたい。
 ちなみに、「抱一筆『吉原月次風俗図』の背景(井田太郎稿)」では、「よし原の元日ばかりかんこ鳥」(『俳諧觽《けい》二十二編)が紹介されている。この『俳諧觽』は、江戸座俳人・抱一に近い「沾洲・紀逸らの点者(宗匠)の高点付句集」であり、これまた、「江戸の粋人・抱一」に相応しいであろう。

(追記二)「吉原月次風俗図のうち元旦図(抱一画)」・「花街柳巷図巻のうち元旦図(抱一画)」と「東山清音・江天暮雪(大雅画)」そして「銀世界東十二景 新吉原雪の朝(広重画)」

東山清音9 (2).png

「東山清音・江天暮雪図(大雅画)」

 この大雅の「江天暮雪図」については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-04-25

 そこで、『新潮日本美術文庫11池大雅』所収「作品解説(武田光一稿)」の、下記の鑑賞文を紹介した。

[ 紙本墨画 一帖 全十六面 各二〇・〇×五二・〇cm
 本図にのみ「九霞山樵写」と落款が入っているので、八景の締めくくりの図である。たっぷりと水墨を含んだ太めの筆を、左側から数回ゆったりと走らせ、たちまちにして主山と遠山を描いてしまう。画面が湾曲している扇面形に、これらの主山、遠山の形と配置だけでもじつは難しいのであるが、大雅の筆にはいささかな迷いもなく、ごく自然に、これしかないという形で決まっている。太い墨線の墨がまだ乾かないうちに水を加えて、片側をぼかしている。白い雪、ふわっとした質感の表現であるが、まさに妙技といえる。折しも、一陣の風に、降り積もった新雪が舞い上がる。図25の《江天暮雪図》(注=掲載省略)と比較しても、本図においてはまた一段と円熟味が増しており、堂々たる風格を備わっていることがわかる。 ]
(『新潮日本美術文庫11池大雅』所収「作品解説(武田光一稿)」)

 この鑑賞文ですると、上記の「吉原月次風俗図のうち元旦図(抱一画)」・「花街柳巷図巻のうち元旦図(抱一画)」の、その「屋根・屋根」の上とその下の刷毛のような線は、「たっぷりと水墨を含んだ太めの筆を、左側から数回ゆったりと走らせた」という表現となって来よう。そして、「水墨を含んだ太めの筆」の運びが、先に紹介した、「銀世界東十二景 新吉原雪の朝(広重画)」を連想させるのである。

雪の吉原.jpg

広重筆「銀世界東十二景 新吉原雪の朝」(国立国会図書館蔵)
https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail275.html?keywords=snow

その十二 江戸の粋人・抱一の描く「その二 吉原月次風俗図(二月・初午)」

花街柳巷二.jpg

酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(二月「初午」)十二幅うち一幅(旧六曲一双押絵貼屏風) 紙本淡彩 九七・三×二九・二(各幅)落款「抱一書畫一筆」(十二月)他 印章「抱一」朱文方印(十二月)他
【二月(初午)「きさらぎ 初のうま 当社の御額は廣澤老住のくろすけいなりと七字を記せり/青柳や 稲荷の額のあふな文字」と賛があり、「黒助いなり大明神」と墨書した提灯を掛け並べた様が描かれる。黒助稲荷は遊里の繁栄とそこに暮らす人々の幸運を頼む小社であった。】
(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

二月.jpg

(上の図の「上部(賛)」の部分図)

 「吉原月次風俗図」(二月「初午」)の上部に書かれている、この賛が、「きさらぎ 初のうま 当社の御額は 廣澤老住の くろすけいなりと 七字を記せり/青柳や稲荷の額のあふな文字」との抱一の書である。
 そして、この抱一の発句(俳句)、「青柳や稲荷の額のあふな文字」の「おふな(女)文字」というのは、「女性が書いた文字」の意ではなく、その前段の前書きに書かれている、「廣澤老住の『くろすけいなり』」の、「平仮名の文字」の意なのであろう。

【 二月 初午。「伊勢屋いなりに犬の糞」といわれた江戸には稲荷の社が特に多かった。吉原にも四隅に四社の稲荷が祀られ、中でも京町一丁目の隅の九郎助稲荷が繁盛であった。「此夜江戸町一丁め二丁め京丁新丁の通りの中へ、家々の女郎の名を書きつけたる大提灯をともす事おひたゞし、是はいなりへの奉納の為なり、…… 客女郎打まじりさんけいはなはだくんじゆす」(吉原大全) 】
(「国文学解釈と鑑賞:川柳・遊里誌:昭和三八・二」)

吉原図.jpg

『吉原御免状(隆慶一郎著)』
https://choitoko.com/geino/rakugo/post-5241/

 上記の「新吉原見取り図」の左上隅が「黒助(九郎助)稲荷」で、その郭内の四隅には稲荷が祀られている。なお、廓内の「茶屋」は「引手茶屋」、廓外の「編傘茶屋」(顔を隠す編笠を貸していた茶屋」)は「外茶屋」(「水茶屋」「田楽茶屋」「料理茶屋」など)で、廓内の茶屋とは区別される。この廓外の「吉徳稲荷」が明治になって合祀され「吉原神社」となっている。

 初午は角ミつこばかりさわがしい    (『柳多留一七』二三)
 きつねさへしろうとでない所なり    (『柳多留一九』二一)
 九郎介へ化けて出たいの願(がん)ばかり(『柳多留拾遺一四』)
 九郎介を見かぎるような願(がん)ばかり(『柳多留拾遺一四』)
 九郎介はどうぞと思ふ願(がん)ばかり (『柳多留拾遺一四』)
 九郎介へ代句だらけの絵馬の上     (『柳多留初編』二)

 この「黒助(九郎助)稲荷」は「縁結び」の稲荷として知られ、また、遊女が「俳句などを奉納した」句なども見られる。

  青柳や稲荷の額のあふな文字  (抱一)

 この抱一の句の「あふな(女)文字」にも、吉原の遊女たちの「願(がん)掛け」の、その「願(がん)」が聞き入れられるようにとの意を含ませての、抱一の視点のようにも解せられる。また、この「黒助(九郎助)稲荷」も、抱一と小鶯女史との何らかの所縁の深い所なのかも知れない。
 さらに、この「吉原月次風俗図」(二月「初午」)の「平仮名(女文字)」の賛は、その前に書かれている「正月(元旦)」の、次の「隷書体(男文字)」の題字と、いわゆる、連歌・俳諧(連句)上の「四道」(添・随・放・逆)の「逆付け」を踏まえてのような雰囲気も有している。

一月部分図.jpg

「吉原月次風俗図」(正月「元旦」)の題字

その十三 江戸の粋人・抱一の描く「その三 吉原月次風俗図(三月・夜桜)」

 前回(「その二 吉原月次風俗図(二月・初午」)に続く、「吉原月次風俗図(三月(夜桜)」というのは、『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』などには収載されていない。
 その同書中の、「花街柳巷図巻」(個人蔵)で、下記の通り、その概要を見ることが出来る(また、同書中の「作品解説(小林忠稿)」は次の通り)。

三月.jpg

抱一筆「花街柳巷図巻」のうち「三月(夜桜)」
【三月(夜桜) 「夜さくらや筥てうちんの鼻の穴 楼上に居續したるあした起よ今朝 うへ野の四ツそ花の雨」の賛と、仲の町に植えられた桜の木と柵の絵」(「作品解説(小林忠稿)」)。】

 この図と、この作品解説だけでは、抱一の「吉原月次風俗図(三月・夜桜)」「花街柳巷図巻(三月・夜桜)」をイメージするのは無理かも知れない。吉原の仲の町通り(メインの大通り)に植えられる桜(開花の時に植えられ、散ると撤去される)と箱提灯(筥てうちん:下図では花魁道中の先頭の人が持っている提灯)は、下記の「東都名所画 吉原の夜桜(渓斎英泉筆)」などによるとイメージがし易い。

英泉・夜桜.jpg

渓斎英泉筆「東都名所画 吉原の夜桜」(太田記念美術館蔵)

   夜ざくらや筥てふちんの鼻の上  (抱一・「三月・夜桜」の賛)

【 三月の図は春の人寄せのイベントである夜桜が描かれます。画賛の一つは「夜ざくらや筥でうちんの鼻の穴」です。春の吉原は、仲之町通りに鉢植えの桜を置きます。この画賛の初案の頭註には、『史記』「周本紀」第四に載る字句「后稷生巨跡」に拠ったとあります。后稷には、母親の姜原が巨人の足跡を踏んで妊娠したという伝説があります。つまり、「筥でうちんの鼻の穴」という小さい穴は、后稷が生まれた巨人の足跡に見立てられています。そこからうまれたものは「夜ざくら」と、描かれない多数の見物客です。つまり、筥提灯の上部の空気穴から光が漏れる。その光に照らしだされた夜桜と多数の見物客が、后稷に見立てられます。ここでは画賛は、夜桜の賑わいを補完する機能を担わされています。 】(「抱一筆『吉原月次風俗図』の背景(井田太郎稿)」)

どうにも、難解な、抱一の師筋に当たる、宝井其角の「謎句」仕立ての句である。この句の前書きのような賛に書かれているのだろうが、『史記』の「后稷(こうしょく)」伝説に由来している句のようである。
「后稷(こうしょく)」伝説とは、「〔「后」は君、「稷」は五穀〕 中国、周王朝の始祖とされる伝説上の人物。姓は姫(き)、名は棄(き)。母が巨人の足跡を踏んでみごもり、生まれてすぐに棄(す)てられたので棄という。舜(しゆん)につかえて人々に農業を教え、功により后稷(農官の長)の位についた」を背景にしているようである。
 ここは、余り詮索しないで、上記の、渓斎英泉筆「東都名所画 吉原の夜桜」ですると、「花魁道中を先導する男衆の持つ箱提灯の上部の穴からの光が、鮮やかに夜桜や人影を浮かび上がらせる」というようなことなのであろう。

  吉原の夜見せをはるの夕ぐれは入相の鐘に花やさくらん 四方赤良(大田南畝)
  廓(さと)の花見は入相が日の出なり  (『柳多留六三』)
  夜桜へ巣をかけて待つ女郎蜘蛛     (『柳多留七三』)
  年々歳々客を呼ぶために植え      (『柳多留六二』)
  里馴れて来ると桜はひんぬかれ     (『柳多留一〇七』) 

 これらの狂歌や川柳(前句付)の風刺的な「捩り」の、抱一の一句と解することも出来るのかも知れない。

  起よ今朝うへ野の四ツぞ花の雨    (抱一・「三月・夜桜」の賛)

 冒頭の作品解説中にある、「夜ざくらや筥てふちんの鼻の上」に続く、「楼上に居續したるあした起よ今朝 うへ野の四ツそ花の雨」の賛も、「(楼上に居續したるあした) 起よ今朝うへ野の四ツそ花の雨」と、「前書き=楼上に居續したるあした=吉原の妓楼に意続けての朝方」・「発句=起よ今朝うへ野の四ツぞ花の雨」と、これも、「朝方四ツ=吉原の朝方十時、うえ野=上野の山、花の雨=花の散りかかる頃の雨」の発句の賛のようである。

  夜ざくらや筥てふちんの鼻の上  (「吉原」の「夜桜」を昨夜はたっぷり堪能した)
  起よ今朝上野の四ツぞ花の雨(起きよ今朝四ツ時ぞ「上野」の「花の雨」の見物だ)

 これは、「吉原の夜桜見物」と、「居続け」にして、「上野の山の昼の花の雨見物」へと、次々と「ハシゴ(梯子)」する、抱一らの「江戸座俳諧」特有の洒落句(滑稽句)としての二句なのかも知れない。

  桜から桜へこける面白さ (『柳多留二五』)
  女房へ嘘つく桜咲にけり (『俳諧觽三』)
  居続けのばかばかしくも能(よ)い天気 (『柳多留三』)
  よくよくの馬鹿吉原に三日居る (『柳多留一八』)

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鈴木其一筆「吉原大門図」一幅 ニューオータニ美術館大谷コレクション蔵
【 吉原大門からつづく仲の町通りを東から眺め、入ってすぐの引手茶屋「山口巴屋」の様子や、吉原に行き交う人々の諸相をとらえる。花魁、芸者、禿、酔客、按摩、老人、若侍などと、各種の人々を等しく観察し一か所に集めた。其一は群像の表現にもはやくから関心を寄せ習熟していることを示すが、「其一戯画」と意識的な署名をし、他に使用例のない「毀誉不動(毀誉に動ぜず)」印を捺している。この意識は晩年まで続く。】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収「作品解説二〇三(岡野智子稿))

 抱一には、このような「風俗図」「群像図」は余り見られない。その抱一の右腕とも言うべき抱一門の第一人者・鈴木其一は、この種の「風俗図」「群像図」を手掛けている。しかし、上記の解説にあるとおり、この種のものの署名の「戯画」、落款印の「毀誉不動(毀誉に動ぜず)」などからすると、抱一門では、「仏画制作」を主要画業の一つにしているので、この種のものはスタンダードの分野ではないのかも知れない。
 この其一の「吉原大門図」は、抱一・其一時代の「吉原」の情景を的確に描写している。大門を入ってすぐ右手の引手茶屋が最も格式のある茶屋で七軒茶屋と呼ばれ、その筆頭格が「山口巴屋」で、その座敷に、「花魁(簪の数が多い)・新造(部屋持ちと振袖)・禿(少女)・芸者(三味線を持っている)・客人」などが描かれている。
 その大門近くの辻行燈の前に、「箱提灯を持った男衆・花魁・禿・新造」が馴染み客を出迎えるための立って待っている光景、その辻行燈の後方は「番所」(四郎兵衛)で、大門口の見張り(遊女の外出の取締り・一般女子も切手=通行証が必要、男子は自由)などをしている所であろう。その他、酔客・按摩・杖を持った老人、二本差しの侍など、これは、まさしく、典型的な「吉原風俗図」と解して差し支えなかろう。
 それに比して、抱一の「吉原月次風俗図」は、この其一の「吉原大門図」に出て来る「大門・番所・引手茶屋・辻行燈・箱提灯」などの主たる景物も、さらには、「花魁・新造・禿・芸者・幇間・男衆・遊客」などの主たる人物像も、この月次十二図の中には、何処にも出て来ないのである。
 ここで、抱一の、この「吉原月次風俗図」というネーミングは、抱一の意図することを斟酌すると、これは「吉原月次俳画図」ともいう分野のもので、それも、先ず、俳句(発句)があって、その「俳句(発句)」に、「べた付け」(画と句とが「付かず離れず」(響き合う)がベターとすると「べったり付き過ぎる」関係)を、極力排しての「画」作りをしているということなのである。
 ずばり、今回のように、「吉原月次風俗図」の「三月・夜桜」の一幅ものを見ていなくても、その「花街柳巷図巻」の「三月・夜桜」の「賛(前書きと句)」と「画」とにより、それらに接した者が、例えば、渓斎英泉筆「東都名所画 吉原の夜桜」や、鈴木其一筆「吉原大門図」などを連想し得たということならば、恐らく、抱一の、これらの、「吉原月次風俗図」の「三月・夜桜」、そして、「花街柳巷図巻」の「三月・夜桜」を制作した、その抱一の真意の一端に触れていることであろう。

その十四 江戸の粋人・抱一の描く「その四 吉原月次風俗図(四月・蜀魂《ほととぎす》)」

花街柳巷四.jpg

酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(四月「鏡立て)
【四月(鏡立て)「蜀魂たゝあり明の鏡たて」の句に合せて、室内に鏡立てが一基描かれ、空をほととぎす(蜀魂)が鳴き渡る。】
(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

【 四月の図には、「蜀魂(ほととぎす)たゞあり明の鏡たて」という発句がそえられ、鏡立てと檽子(れんじ)窓、落款と鏡にひっかけた糠袋に点じた朱がなまめかしく、夜明けの静謐さと遊里の色っぽさが表現されています。この図と比較するのによいのは、『狂歌左鞆絵』から取った窪俊満の絵(下図一)です。吉原の二階で、遊女が鏡に向かって髪を結っています。窓の外には蜀魂が一羽います。比較すると、抱一は人間を消しています。しかし、蜀魂を消さなかったのは、描かないとよくわからない絵になるからです。さらに、ダメ押しのように「蜀魂」を大書します。大書した文字を図像のように扱う例は、管見の限りでは一渓宗什筆・狩野常信画「夢一字」図(根津美術館蔵)のようなものがあります。もちろん、画題は荘子の胡蝶の夢です。抱一にも類似作があります。兄忠以(ただざね)と合作した「夢・蝶」図(姫路神社蔵)です(下図二)。

鏡立て.jpg

(図一)窪俊満画『狂歌左鞆絵』(早稲田大学図書館蔵)

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(図二)酒井宗雅(忠以)筆・酒井抱一(忠因)画「夢・蝶」(姫路神社蔵)

 ここで本来見えない「蜀魂」を装飾的な大字で表現し、画面を引き締め、主題は「蜀魂」であると明示されます。これは、屋根ばかりを描いて主題がよく了知けされない正月の図で、画賛には「吉原」とありながら、「花街柳巷」とダメ押しのように大書したのと同理由でしょう。さて、抱一の画賛「蜀魂たゞあり明の鏡たて」は、其角の「蜀魂只有明の狐落(ち)」(『五元集』)を典拠とします。抱一の句は舌足らずで、「蜀魂」と鏡台の結びつきが解りません。舌足らずなのは、名詞に名詞を並べただけの発句という理由があります。では、この発句の場合、取り合わせに問題がありそうです。「蜀魂」と鏡を取り合わせた他の抱一の例から、これらの取り合わせに付与された意味を探りましょう。

 只有明の 鏡にも影ハ残さずほとゝぎす(『句藻』「梶の音」夏之部一九一) 

 上の頭註(前書き)「只有明の」は、「蜀魂鳴きつるかたをながむればただあり明の月ぞのこれる」という名歌を指します。「鏡にも影ハ残さず」とは物理的な問題のみならず、「蜀魂」の鳴き声は、時間の経過を刻むという鏡にも姿を残さないほど非常に短いというわけです。抱一の画面では、鏡がさながら朝ぼらけの月の形状のように描かれている点も興味深い点です。和歌では後朝の恋を主題として、蜀魂は有明の月とよく詠まれます。有明の月は、形状の類似もあって鏡に擬せられた例も多く、漢詩でも鏡は時間の経過を認識させるモチーフであります。
 抱一は「有明の月」を「有明の鏡」と俳諧化しますが、句賛の音律面でのコノテーション(注:言外の意味・暗示的意味など)として取り入れた其角のイメージと相俟って、吉原の遊蕩の雰囲気を演出します。しかし、其角の「蜀魂只有明の狐落(ち)」とは別種の世界を築きあげています。其角句だと、「蜀魂」の声でどんちゃん騒ぎからさめるわけですが、抱一の画賛は「蜀魂」が去った後朝の有明の廓(さと)景色のみならず、夜の明け易さをなげくというイメージの中にあります。
 ここで皆さまのご注意を喚起したいのですが、こういった発句は現代語に翻訳するばあい、非常に難しい。つまり、コノテーション、文化的な含意が占める割合が大きい。名詞に名詞だけで発句になっているのは、こういった文化的なコノテーションに立脚しているからであります。かくして、抱一の発句は成立しています。
 以上のとおり、画面では人物あるいは喧噪に焦点をあてる浮世絵の視線とは一線を劃し、人物が留守模様にされたことで吉原の鄙びた雰囲気に焦点が当てられます。モチーフ面からは煌びやかな行事に筆ほ偏せず、四月や五月、さして行事のない十月などを見ると、都会の中の閑雅が描かれているのが解ります。京伝の『錦之裏』の影響を受けた喜多川歌麿の『青楼十二時』のように吉原の裏世界を描いたわけでもなく、「吉原月次風俗図」は、遊びなれた客の視線から描かれています。
 当時の絵画は、基本的には注文制作です。享受者がいる以上、理解されなければならない存在となります。もっとも、抱一は身分が下の人間に対しては、モチーフを自由に変えた事例もあります。鑑賞者が見たがるオーソドックスな吉原の行事を外した本作にも、そういった側面があります。市中の隠の楽しみを、五月の碁、九月の稲掛けで表現している部分もあります。
 画面では人をぬいて、静かな雰囲気に仕立てています。しかし、画面の背景には<都市>性を主張するかのように華やかと評される其角の句があります。画賛は人事句が殆どで、画面と逆の方向性をとります。その画賛は、言葉が一次的に示す意味だけで意味が解る発句、つまり、デノテーション(注:裏の意味ではなく、文字通りの直接的な意味)で構成されている発句ではありません。
 一般に言外にあるコノテーションとは、それを共有するグループの外の人間には解りにくいものです。其角をコノテーションとして取り込んだテクストがあるからこそ、其角の句を知識の前提条件として持つ抱一周辺の特定の享受層には、まさに言葉と図像の交響が存したであろうと推測され、理解されたのであります。あるいは、画面の静かさと画賛のにぎやかさが対比的で面白かったでしょう。
 画賛がなければ、これらの重層したイメージは当然ながら機能しません。抱一は本作で、言葉と図像を近接させる、いわゆる「べたづけ」をする芭蕉などとは全く違った面白いアプローチを行っているといえるでしょう。
 確かに文政期の年紀を持つ抱一の絵画作品は、雅の味わいが強い。発句も同じです。しかし、それは一色ではなく、本作では<俗>な都市が画面で閑雅に描かれつつ、画賛では其角のコノテーションとして取り込まれいる点から、<雅>一辺倒といえないのは確認できるかと考えられます。 】 (「抱一筆『吉原月次風俗図』の背景(井田太郎稿)」)

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蕪村筆「岩くらの」自画賛 紙本淡彩 一幅 三八・六×六四・三㎝
款「蕪村」 印「謝長庚」「春星氏」(白文連印) 個人蔵
賛「岩くらの狂女恋せよほとゝきす」  (『蕪村全集六』所収)
【季語:ほとゝぎす(夏) 語釈:岩倉=京都市左京区内。同所大雲寺境内の滝は、狂気を治す効果ありとされた。岩倉と時鳥は付け合い。句意:時鳥の裂帛の鳴き声の中に、岩倉のうら若い狂女が恋人を慕って号泣する俤を幻想し、あたかも物狂いの能のワキがシテの狂女に呼び掛けるように、もっともっと恋に狂ってその哀艶の声を聞かせてほしいと望んだもの。】(『蕪村全集六』所収)

 蕪村の時代には、俳画は、「はいかい(俳諧)物之草画」と呼ばれ、蕪村自身、この分野で、「凡(およそ)海内に並ぶ者覚(おぼえ)無之候」(天下無双の日本一である)と、画・俳両道を極めている蕪村ならではの自負に満ちた書簡を今に残している(安永五年八月十一日付け几董宛て書簡)。
 「俳画」という名称自体は、蕪村後の渡辺崋山の『俳画譜』(嘉永二年=一八一九刊)以後に用いられているようで、一般的には「俳句や俳文の賛がある絵」などを指している。
 これらのことについては、下記のアドレスで、「余情付け」「物付け」などを含めて触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-06-21

 ここで、「余情付け(匂付け)」(前句の余情と付句の余情が匂い合うような付け方)と「物付け(詞付け)」(掛詞や物・詞の縁などによる付け方)との関連で、蕪村の「ほととぎす」の「句(賛)と画」、そして、抱一の「蜀魂(ほととぎす)」の「句(賛)と画」とに触れて置きたい。

一 蕪村の句の「岩くらの狂女恋せよほとゝぎす」に、その上部の「ほととぎす」の画は、「物付け」で、そのものずばりの「べた付け」である。抱一の句の「蜀魂(ほととぎす)たゞあり明けの鏡立て」では、左の上部に米粒程度の「蜀魂(ほととぎす)」が描かれ、その賛(句)に、「蜀魂(ほととぎす)」を隷書体で大書したのは、これまた、「物付け」(詞付け)で、これまた、「べた付け」である。そして、蕪村も抱一も、其角流の江戸座の洒落俳諧・比喩俳諧を、その句作りの基本に据えているのだが、抱一は蕪村よりも、其角流の洒落俳諧が顕著である。

二 蕪村の、この左下の「紫陽花(四葩の花、七変化)」は、「岩くらの狂女恋せよほとゝぎす」の句の「狂女」の心の変化(七変化)を暗示するような「余情付け」である。さらに、この「紫陽花」の背後には、藤原家良の「飛ぶ蛍日影見えゆく夕暮になほ色まさる庭のあぢさゐ」(『夫木和歌抄』)の和歌などを暗示している「俤付け・面影付け」である。抱一の、この下部の「鏡立て」は、「蜀魂たゞあり明の鏡立て」の、「鏡立て」は「物付け」だが、「あり明けの鏡立て」の「有明」は、その鏡のまん丸い形状からの「余情付け」ということになる。ここでも、抱一は蕪村よりも、技巧的な洒落俳諧が顕著ということになる。
 しかし、この句の背後にも、「ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる」(後徳大寺左大臣『千載集』)、そして、「ほととぎす消え行く方や嶋一ツ」(芭蕉『『笈の小文』) 
を典拠にしている「俤付け・面影付け」である。全体的に、蕪村と抱一とは、蕪村が、「其角→巴人→蕪村」とすると、抱一は、「其角→存義→抱一」と、同じ流れで、さらに、巴人が江戸で没したときに、江戸の巴人門は、存義一門に吸収されたような経過を踏まえると、両者の「句と画」との創作姿勢は、極めて近いという印象を受ける。

三 さらに、抱一の、この「吉原月次風俗図」(「花街柳巷図巻」を含む)は、下記の通りの配列(「漢=男文字=漢字」と「和=女文字=平仮名」の俳諧的な運びによる配列)になっていることも付記して置きたい。

一月(漢=「花街柳巷」)→二月(和=「きさらぎ初のうま」)→三月(和=「夜さくら」)
→四月(漢=「蜀魂」)→五月(和=「さみだれ」)→六月(和=「富士参り」)→七月(漢=「乞功尊」)→八月(漢=「俄」)→九月(和=「干稲」)→十月(和=「しぐれ」)→十一月(和=「酉の日」)→十二月(和=「狐舞い」)

その十五 江戸の粋人・抱一の描く「その五 吉原月次風俗図(五月・五月雨)」

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抱一筆「花街柳巷図巻」のうち「五月(五月雨)」
【五月(五月雨)
「竹川もうつ蝉も碁やさつきあめ」の句の下に碁盤と一通の文とが描かれる。無人の室内に打ち捨てられた感のあるそれらが、五月雨が降りつづく梅雨の頃の遊里の寂しさを暗示する。」】(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」

 抱一の、「吉原月次風俗図」、そして、「花街柳巷図巻」の、その「賛(句)と画」とは、いわゆる、「連歌・俳諧(連句)」の「付合(付け合い)」のルール(「規則」=(「運び」と「付け」の「物付け」と「余情付け」など)を踏まえていることについては、前回までに触れてきた。そして、その全体の運び(流れ)は、次の通りということについて、触れて来た。

【 一月(漢=「花街柳巷」)→二月(和=「きさらぎ初のうま」)→三月(和=「夜さくら」)→四月(漢=「蜀魂」)→五月(和=「さみだれ」)→六月(和=「富士参り」)→七月(漢=「乞巧奠(きこうでん)」)→八月(漢=「俄(にわか)」)→九月(和=「干稲=稲干す」)→十月(和=「しぐれ」)→十一月(和=「酉の日」)→十二月(和=「狐舞い」)】

 この運び(流れ)を、季語に焦点を合わせると、次のとおりとなる。

【 一月(元日)→二月(初うま)→三月(夜ざくら)→四月(ほととぎす)→五月(さみだれ・さつきあめ」→六月(富士詣で)→七月(七夕飾り)→八月(※俄狂言)→九月(干稲=稲干す)→十月(しぐれ)→十一月(酉の日)→十二月(※狐舞い)  】

 吉原の三大景物(三大廓行事)は、「三月(夜ざくら)・七月(玉菊灯籠)・八月(俄)」である。

    傾廓
  夜ざくらや筥提灯の鼻の穴 (抱一『屠龍之技』「第一こがねのこま」)
  桜迄つき出しに出る仲の町 (『柳多留七』)
    傾廓
  灯籠も鶍(いすか)の嘴(はし)と代りけり(抱一『屠龍之技』「第二かぢのおと」)
  玉菊の魂(たましい)軒へぶらさがり(『柳多留一』)
    俄
  獅々の坐に直るや月の音頭とり(抱一「吉原月次風俗図・八月」)
  灯籠が消へて俄にさわぐ也 (『柳多留四六』)
  祇園ばやしで京町を浮く俄 (『柳多留一三三』)

 抱一の自撰句集『屠龍之技』の前書きに出て来る「傾廓」は、其角の次の句の前書きに由来があるのであろう。

    傾廓
  時鳥暁傘を買わせけり (其角『五元集』)

 この「傾廓」は、「傾城」「傾国」と同じような意であろうか。それとも、「傾城の遊女が居る廓=吉原」の意であろうか。この其角の句は、吉原の朝帰りの句である。抱一の吉原の句は、この種の其角の句に極めて近い。
 なお、上記の「吉原月次風俗図」に出て来る季語のうち、吉原特有のものは、※印の「八月=俄」と「十二月=狐舞い」だけで、その他のものは、連歌・俳諧の主要な季語(季題)ばかりである。

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「空蝉」(『源氏物語』)
http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined03.1.html#paragraph1.3

  竹川もうつ蝉も碁やさつきあめ (抱一「吉原月次風俗図・五月・五月雨」)

 抱一の「吉原月次風俗図」の「五月(五月雨)」画賛の、この句は、どうやら、『源氏物語』の「空蝉」(第三帖)や「竹河」(第四十四帖)などの囲碁の場面に関連しているようである。

「 碁打ち果てて、結(だめ)さすわたり、心とげに見えて、きはぎはとさうどけば、奥の人はいと静かにのどめて、『待ちたまへや。そこは持(せき)にこそあらめ。このわたりの劫(こう)をこそ』など言へど、『 いで、このたびは負けにけり。隅のところ、いでいで』と指をかがめて、『十(とを)、 二十(はた)、三十(みそ)、四十(よそ)』などかぞふるさま、伊予の湯桁もたどたどしかるまじう見ゆ。すこし品おくれたり。』(「空蝉」三段)

「中将など立ちたまひてのち、君たちは、打ちさしたまへる碁打ちたまふ。昔より争ひたまふ桜を賭物にて、『三番に、数一つ勝ちたまはむ方には、なほ花を寄せてむ』と、戯れ交はし聞こえたまふ。 暗うなれば、端近うて打ち果てたまふ。御簾巻き上げて、人びと皆挑み念じきこゆ。折しも例の少将、侍従の君の御曹司に来たりけるを、うち連れて出でたまひにければ、おほかた人少ななるに、廊の戸の開きたるに、やをら寄りてのぞきけり。」(「竹河」第二章七段)

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「竹河」(『源氏物語』)
http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined44.2.html#paragraph2.7

「竹川もうつ蝉も碁やさつきあめ」の、この「竹川」は、吉原近辺の川の名などと解すると意味不明となって来る。また、この「うつ蝉」を「打つ蝉」などと解すると、これまた迷宮入りする。
 素直に、「竹川」と「うつ蝉」を、吉原の遊女の「源氏名」(妓名)などと解すると、句意が鮮明になり、同時に、拍子抜けするほど、「他愛ない」句ということに気付いて来る。
 句意は、「吉原の遊女二人が、五月雨が続き、お客さんが無く、無聊を慰めるため囲碁に興じている」ということになり、それに対応するように、「碁盤と馴染み客への登楼催促の文」が描かれているということになる。
 その後で、この「竹川」と「うつ蝉」が、『源氏物語』の、囲碁場面の、「空蝉」と「竹河」に由来しているとなると、抱一の、「してやったり」の洒落っ気と、技巧に技巧を凝らした句という思いがして来る。
 そして、これらの抱一の句や、その「賛(句)と画」との付け合いというのは、例えば、其角の、次のような句の世界に極めて近いという印象を深くする。

   時鳥暁傘を買わせけり (其角『五元集』)

その十六 江戸の粋人・抱一の描く「その六 吉原月次風俗図(六月・富士参り図)」

花街柳巷六.jpg

酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(六月「富士参り図」)
【六月(富士参り) 賛は「水無月一日参詣の人々を見て これよりして御馬かへしや羽織富士」。絵は六月朔日の富士参りの日に参詣の土産物として売られた麦藁蛇と青鬼灯である。麦藁蛇は家に持ち帰って井戸や台所に飾ると虫がわかないと信じられた。 】
(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

  これよりして御馬かへしや羽織富士 抱一(「吉原月次風俗図(六月・富士参り図)」)
  それよりして夜明烏や蜀魂(ほととぎす)其角(『句兄弟』『五元集』)

 抱一の句は、其角の句を念頭に置いて作句していることは明瞭である。しかし、其角の句のパロディ(パクリ=剽窃)そのものかかというと、そうではなく、其角の世界とは異質の世界を、「本句取り」の手法などで、パロディ化(文体・韻律などの特色を一見して分かるように残したまま,全く違った内容を表現して、風刺・滑稽を感じさせるように作り変える手法)を意図している世界のものということになろう。
 このパロディ(パクリ=剽窃)とパロディ化(「本句取り」の手法など)との一線は、極めて、微妙な問題であるが、その分岐点の判定の基準は、其角、その人が、微に入り細に入り論じている『句兄弟(上)』(末尾の「参考」など)などを一つの手掛かりする他は術がないのかも知れない。
「類句・類想句・当類・同巣」等々、このパロディ(剽窃=パクリ)とパロディ化(「本句取り」の手法など)を巡っては、どうにも手の施しようがない。しかし、この問題に正面から取り組んだ先達者としては、其角その人というのも厳然たる事実であろう。
『去来抄』では、其角と凡兆との「等類(類句)と同巣(類似句)」論争があり、「されど兄より生れ勝(まさり)たらん、又格別也」(去来)が一つの基準(「先行句より後発句に新風が見られる」かどうかの基準)との記述が見られるが、その去来の基準も甚だ主観的なものということになる。
 抱一は、自他ともに認める「其角派」の世界での俳諧活動であったことは、その俳諧日誌ともいうべき『軽挙観(館)句藻』、そして、その自撰句集の『屠龍之技』からして、これまた、一目瞭然たるものがあろう。
 その一例として、上記の其角の「それよりして夜明烏や蜀魂(ほととぎす)」は、其角の『句兄弟(上)』での句形で、この「蜀魂(ほととぎす)」は、『五元集』(旨原編)では「郭公(ほととぎす)」の、この句形を抱一は採っていない。
 それ以上に、この「吉原月次風俗図」の「四月・蜀魂(ほととぎす)」と、『句兄弟(上)』の「蜀魂(ほととぎす)」を大書して、この「蜀魂」(「蜀の望帝の魂が化したという伝説から」の「ほととぎす」の異名)を前面に出していることも、抱一が、其角の『句兄弟(上・中・下)』を自家薬籠中にしていることが窺える。

 ここで、其角の「それよりして夜明烏や蜀魂(ほととぎす)」の句意を、「蜀の帝の魂が化したといわれるほととぎすが鳴き、それよりして夜が明けるという。そのほととぎすのように夜明け烏が鳴いている。」(下記「参考一」の句意)とすると、抱一の「これよりして御馬かへしや羽織富士」の句意は、「富士詣の帰りのお馬返しの後ろ姿が『羽織富士』のように見える。その『羽織富士』を背にして、これより、お馬返しの、その足先は吉原へと向いている」というようなことであろう。

 として、この画の、「麦藁蛇と青鬼灯」について触れたい。

(富士詣:仲夏: 富士道者/富士行者/富士禅定/山上詣/富士講/浅間講/お頂上:「冨士登山を行い、富士権現の奥の院に参詣すること。及び駒込・浅草などの富士権現の山開き(陰暦六月朔日)に参詣することをいった。」 )

(江戸浅間祭=えどせんげんまつり:仲夏:浅草富士詣/冨士山開:『栞草』に六月一日として所出し、「江戸浅間の社は、浅草砂利場にあり。これを浅草の富士といふ。また、駒込にも浅間の社あり。また、本所六ツ目やよび高田の馬場、また鉄砲洲等にも同社あり。祭るところ、いずれも駿河に同じ。今日、麦藁にて竜蛇を作り、これを篠(ささ)に付けてひさぐ者多し。参詣の人、これを買ひて土産とす」とある。)

 この『栞草』(江戸幕末の「俳諧歳時記」)に出て来る「江戸浅間祭」の「疫病除け・水あたりよけの免符」として作られたものが「麦藁蛇」で、それが土産品として売られていた。抱一が、この「六月・富士参り図」で描いたものは、この「江戸浅間祭」などの土産品としての「麦藁蛇と青鬼灯」ということになろう。

   富士と吉原は江戸でも近所也 (『柳多留二十』)  浅草の富士
   吉原へ不二の裾から息子抜け (『柳多留五十一』) 浅草の富士
   真桑瓜富士で売るのは月足らず(『柳多留三』)駒込の富士(走り真桑瓜を売る)
   浅草は道中なれた不二まへり (『柳多留四十』)  浅草の富士 
   一日は蛇の道になる衣紋坂  (『柳多留二十四』) 六月一日の麦藁蛇
   不二みやげ舌ったらずのきりぎりす(『柳多留三』) 虫売りも出る
   富士みやげ舌はあつたりなかつたり (『柳多留二十六』)麦藁蛇の舌
   富士みやげ女房からんた事を言ふ(『柳多留五』)  吉原行きを疑う

富士講.jpg

『江戸名所図会』「六月朔日富士詣」(「浅草浅間神社」ではなく「駒込浅間神社」)
https://ameblo.jp/benben7887/entry-12384403655.html

(参考)

『句兄弟上(其角著)』(「『句兄弟・上』注解:夏見知章他編著:武庫川女子大学国文研究室)

三十五番
   兄 宇白
 ほとゝぎす一番鶏のうたひけり
   弟 (其角)
 それよりして夜明烏や蜀魂

(兄句の句意)夏の夜明けに、ほととぎすが一声し、そして一番鶏が時を告げた。

(弟句の句意)蜀の帝の魂が化したといわれるほととぎすが鳴き、それよりして夜が明けるという。そのほととぎすのように夜明け烏が鳴いている。

(判詞の要点など)兄の句は、夏の短夜を恨んで、古今和歌集の「夏のよのふすかとすればほととぎすなく一こゑにあくるしののめ」(紀貫之)の風情に連なるものがある。この形は、ほととぎすの伝統的な手法を離れていないけれども、ほととぎすという題は、縦題(和歌の題)、横題(俳諧の題)と分けて、縦題として賞翫されるべきものであるから、横題の俳諧から作句するのは筋が違ってくる。夏の風物詩として感じ入る心を詠むにも、縦題のやさしい風情が見えるように詠むべきものであろう。
  ほととぎす鳴くなく飛ぶぞいそがほし   芭蕉
  若鳥やあやなき音にも時鳥        其角
この句のスタイルは、横題の俳諧から深く思い入れをしてのものである。もし、これらの作句法をよく会得しようとする人は、縦題・横題が入り混じっているにしても、それぞれの句法に背いてするべきものではない。縦題は、花・時鳥・月・雪・柳・桜の、その折々の風情に感興を催して詠まれるもので、詩歌・俳諧共に用いられるところの本題である。横題は、万歳・藪入りのいかにも春らしい事から始まって、炬燵・餅つき・煤払い・鬼うつ豆など数々ある俳諧題を指していうのであるから、縦の題としては、古詩・古歌の本意を取り、連歌の法式・諸例を守って、風雅心のこもった文章の力を借り、技巧に頼った我流の詞を用いることなく、一句の風流を第一に考えてなされるべきである。横の題にあっては、蜀の帝の魂がほととぎすになったという理知的なものでも、いかにも自分の思うことを自由に表現すべきなのである。一つひとつを例にとっての具体的な説明は難しい。縦題であると心得て、本歌を作為なくとって、ほととぎすの発句を作ったなどと、丁度こじつけたような考え方をするのは残念である。句の心に、縦題、横題があるということを知って貰うために、ほんの少し考えを述べたままである。自分から人の師になろうとするものではない。先達を師として、それを模範として、自分を磨こうとするものである。

その十七 江戸の粋人・抱一の描く「その七 吉原月次風俗図(七月・七夕飾)」

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酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(七月「七夕飾」)
【「乞巧尊」の題字に「袖ふるはくるわの軒や星の竹」の句賛。その下に、色紙形や短冊形、それに瓢箪の形に切った紙片が置かれてある。もとより竿に吊るす七夕飾りのための料紙である。 】(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」

【乞巧奠(きこうでん)
「きっこうでん」ともいう。七夕(たなばた)祭の原型で、七月七日の行事。牽牛(けんぎゅう)・織女(しょくじょ)の二星が天の川を渡って一年一度の逢瀬(おうせ)を楽しむ、という伝説が中国から伝わり、わが国の棚機(たなばた)姫の信仰と結合して、女子が機織(はたおり)など手芸が上達することを願う祭になった。『万葉集』に数首歌われているが、持統(じとう)天皇(在位六八六~六九七)のころから行われたことは明らかである。平安時代には、宮中をはじめ貴族の家でも行われた。宮中では清涼殿の庭に机を置き、灯明を立てて供物を供え、終夜香をたき、天皇は庭の倚子(いし)に出御し、二星会合を祈ったという。貴族の邸(やしき)では、二星会合と裁縫や詩歌、染織など、技芸が巧みになるようにとの願いを梶(かじ)の葉に書きとどめたことなども『平家物語』にみえる。 】(「出典:小学館・日本大百科全書(ニッポニカ)」)

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鈴木春信画「七夕飾りをする男女」(豊田市美術館蔵)

 袖ふるはくるわの軒や星の竹  抱一(「吉原月次風俗図(七月・七夕飾)」)

鈴木春信(享保十年〈一七二五?〉- 明和七年〈一七七〇〉)は、蕪村や大雅らと同時代の、抱一らの一時代前の江戸時代中期に、木版多色摺りの錦絵の草創期に一世を風靡した浮世絵師である。
 この春信が没した明和七年(一七七〇)に刊行された『絵本青楼美人合』(彩色摺美濃本五冊・国立国会図書館蔵など)は、吉原の遊女、百六十六名を四季風俗に沿って描かれ、下記のアドレスで、その全貌を見ることが出来る。

https://www.ndl.go.jp/exhibit/50/html/catalog/c054.html

 上記の「七夕飾りをする男女」の図が、吉原であるかどうかは定かではないが、抱一の上記の句には、ぴったりの感じなのである。
 吉原の妓楼は二階家で、一階は生活スペース、二階が宴会・座敷などのメインスペースである。その二階の軒下の柱に、「星の竹」(七夕竹)をセットし、願い事を書いた短冊や瓢箪形の料紙などを取り付けている図である。
 抱一の句は、「吉原の妓楼(廓)の軒下の七夕飾りの短冊が、あたかも袖を振って、お出で、お出でをしている」ということであろう。そして、その絵図の方は、七夕飾り用の「短冊と瓢箪形の料紙」のみが描かれているということになる。
 これが、下記の安藤(歌川)広重(初代)の「名所江戸百景 市中繁栄七夕祭」では、どうにも様にならない。

広重・七夕.jpg

安藤(歌川)広重(初代)画「名所江戸百景 市中繁栄七夕祭」(東京芸術大学蔵)

 この安藤(歌川)広重(初代)画「名所江戸百景」の全貌は、下記のアドレスで見ることが出来る。

https://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2007/collection200707/index.htm

  七夕は土手から見える紋日也 (『柳多留一二』) 日本堤から吉原の七夕が見える
  日本から京の短冊竹がミへ(『川傍柳一』)日本堤から吉原(京町)の七夕が見える

大門は団扇と虫が入れかわり (『柳多留四』) 吉原の七月の景(夏から秋へ)

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歌川国貞(初代)画「江戸自慢 仲の町燈籠」(部分画) 千葉市美術館蔵
制作年:文政二~四年(一八一九-二一) 技法:大判錦絵揃物 寸法:賛七.二x二五.六cm
【江戸の夏五月から初秋七月頃にかけての行事を画中の額絵に描き、その行事にやつした女性風俗をテーマとした十枚揃である。七月一日より始まり、十三・四日を中休みとし、さらに十五日から七月晦日まで吉原仲の町の茶屋では趣向を凝らした灯籠や作り物が展示されて賑わった。これは享保十一年に亡くなった吉原の遊女玉菊を追善して始められた行事で、図は、暑いこの時期の遊女の風体で、琳派の画家酒井抱一の名のはいったコウモリの絵柄の団扇を持っている。】
http://www.ccma-net.jp/search/index.php?app=shiryo&mode=detail&list_id=53895&data_id=3835

 この国貞が描く吉原の花魁が持っている団扇(「蝙蝠」の図)は、抱一の作なのである。この国貞の「江戸自慢 仲の町燈籠」が制作された、「文政二-四年(一八一九~二一)」は、抱一の「五十九歳~六十一歳」の頃で、この文政二年(一八一九)が、先に紹介した『柳花帖』が制作された年なのである(その抱一自身の「跋」文と「蝙蝠」図関連の発句を再掲して置きたい)。

(再掲)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-04-12 【 夜毎郭楼に遊ひし咎か 予にこの双帋へ画かきてよ とのもとめにまかせ やむなくも酒に興して ついに筆とり初ぬ つたなき反古を跡にのこすも憂しと乞ひしに うけかひなくやむなくも 恥ちなから乞ひにまかせ ついに五十有餘の帋筆をつゐやしぬ ときに文政卯としはるの末へにそありける 雨花抱一演「文詮」(朱文重郭方印)  】

8 蝙蝠図    かはほりの名に蚊をうつや持扇   ※「蝙蝠図」(『手鑑帖』)

(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収「抱一の内なる世界 姫路市立美術館蔵 酒井抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』と『柳花帖』をめぐって:岡野智子稿」)

その十八 江戸の粋人・抱一の描く「その八 吉原月次風俗図(八月・俄)」

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酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(八月「俄」)
【八月(俄)
仲秋の名月の下で、吉原俄の余興が楽しまれている。賛は「俄」の題字に、「としとしのことなからおもとか獅々の音頭を聞く度にめつらしく誠に廓中伽羅なり 獅々の坐に直るや月の音頭とり」。】(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

   としとしのことなから      (年々のことながら)
   おもとが獅々の音頭を聞く度に  (御許<女衆>が獅子の音頭を聞く度に)
   めつらしく誠に廓中伽羅なり   (珍しく誠に廓中伽羅<極上もの>なり) 
  獅々の坐に直るや月の音頭とり 抱一(「吉原月次風俗図・八月月・俄」)

  この抱一の句意は、「仲秋の名月の八月一杯に繰り広げられ吉原の『俄』の催し物は、誠に極上のもので、男装した芸者衆などが演ずる獅子舞を目の当たりにすると、夜空の月さえ、音頭をとっているような心地がしてくる」というようなことであろう。

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『吉原青楼年中行事(上・下)』(十返舎一九著 : 喜多川歌麿画)
早稲田大学図書館蔵
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01494/wo06_01494_0001/wo06_01494_0001.html

 喜多川歌麿は、宝暦三年(一七五三)?頃の生まれ、抱一よりも八歳年上で、文化三年(一八〇六)、抱一が四十六歳時の宝井其角百年忌を修する頃に亡くなっている。
この『吉原青楼年中行事』が刊行されたのは、文化元年(一八〇四)で、この年に、歌麿は、豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした浮世絵「太閤五妻洛東遊観之図」(大判三枚続)を描いたことがきっかけとなり、手鎖五十日の処分を受け、この刑が死期を早めたともいわれ、没したのはその二年後のことである。
 十返舎一九は、明和二年(一七六五)生まれで、抱一より四歳下で、享和二年(一八〇二)、中村芳中が江戸に出て来て『光琳画譜』を刊行した年に、『東海道中膝栗毛』が大ヒットし、爾来、文化五年(一八二二)まで、二十一年間、その続編を書き続けている。
 このお二人は、抱一・山東京伝・大田南畝・加保茶元就と親交の深かった一大の版元、蔦屋重三郎門であり、歌麿は、その浮世絵師ネットワークの雄である。
 そして、十返舎一九は、その浮世絵師ネットワークと狂歌師ネットワークを交差させた「蔦屋工房」(版元=出版社)に寄宿し、「筆耕・版下書き・挿絵描き」など出版全般に携わり、三十七歳の若さで、滑稽本『東海道中膝栗毛』を大ヒットさせるのである。
 歌麿と十返舎一九の合作は、この『吉原青楼年中行事』(絵本)の他に『聞風耳学問』(黄表紙)がある程度で、その門下の「喜多川月麿」などの合作の方が多く見かけられる。
 さて、この十返舎一九が、その『吉原青楼年中行事』の中で、この「吉原俄」について、次のとおり記述しているようである。

【 毎年八月朔日より、祭式おこなハれて、練物(祭礼時に行われる練り歩く行列のこと)、にわか(俄=「俄狂言」を指し、座敷や街頭などで行われた即興的で滑稽な寸劇など)等を出す事、連綿と怠慢なし(連綿とおろそかにされずに続いている)。此節燈篭客(「玉菊燈篭」見物客)、仁和哥客(「俄」見物客)と号して、恒に倡門(「娼門」=娼家)に履(履物)を納ざるものも、倶に倡行(廓内に来る)せられて、来往の錯乱(入り乱れ)美賤(身分の上下なく)混じ、夜毎に湧出するがごとし。 】(「青楼絵本考—『吉原青楼年中行事』の出版効果—(岩城一美稿)」)

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『吉原青楼年中行事(上)』(十返舎一九著 : 喜多川歌麿画)p29 p30
早稲田大学図書館蔵
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http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01494/wo06_01494_0001/wo06_01494_0001_p0030.jpg

この『吉原青楼年中行事』の「仁和哥(俄)」について、『吉原はスゴイ 江戸文化を育んだ魅惑の遊郭(堀口茉純著・PHP新書)』では、現代風に下記のとおり紹介されている。

【 八月いっぱいかけて行われるイベント・俄(にわか)は日中にも出し物があったようで、仲の町の往来が開放されて、一般女性や子供の見学も多かった。俄は現代のハロウィンやコミケを彷彿とさせるコスプレイベント。芸者や幇間(ほうかん)、禿や子供たちといった吉原の裏方関係者が主体となり、歌舞伎の役柄や歴史上の人物、昔話の登場人物などの扮装をして、茶番劇(即興芝居)や練り物、踊り、演奏などの出し物をしながら仲の町を練り歩くパレードだった。 】(『吉原はスゴイ 江戸文化を育んだ魅惑の遊郭(堀口茉純著・PHP新書)』)

 この分かり易い記述の、「芸者や幇間(ほうかん)、禿や子供たちといった吉原の裏方関係者が主体となり」というのがポイントで、上記の歌麿の「仁和哥之図」で行くと、「男装の芸者と女装のままの芸者」の獅子頭を持って練り歩く図で、先頭の男装の芸者が拍子木で音頭を打っているのが、抱一の句の「獅々の坐に直るや月の音頭とり」に相応しいような雰囲気を有している。
 しかし、抱一の、この「俄」の図柄は、上記のコスプレイベントで行くと、「禿や子供たち」が主役のようで、ここでも、遊女や芸者衆の「青楼美人群像」をオフリミットし、抱一ならでは俳画風に仕立ているのは、歌麿と好対照をなし、この「吉原月次風俗図」の中でも群れを抜いている印象を深くする。

その十九 江戸の粋人・抱一の描く「その九 吉原月次風俗図(九月・干稲)」

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抱一筆「花街柳巷図巻」のうち「九月(干稲)」
【九月(干稲)
吉原遊郭は江戸の北郊に位置し、周囲は田で囲まれていた。収穫の時期には稲を架けて干す寂びた田園の風情も、二階座敷から望み見ることができたのである。賛は「京町あたりの奥座敷からさしのそけは 鷹も田に居馴染むころや十三夜」。 】(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」

     京町あたりの奥座敷からさしのぞけば
   鷹も田に居馴染むころや十三夜    抱一「花街柳巷図巻・九月(干稲)」

 この句の前書きの「京町(一丁目)」には、下記のアドレスなどで度々紹介している加保茶元成(大文字屋市兵衛)の妓楼「大文字屋」が見世を構えている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-23

 『吉原はスゴイ 江戸文化を育んだ魅惑の遊郭(堀口茉純著・PHP新書)』では、「楼主と
加保茶元成(初代・大文字屋市兵衛)」などについて、下記のとおり紹介している。

【 楼主は妓楼の経営のトップで、忘八(ぼうはち)と呼ばれる。『吉原大全』によると、その由来は、仁・義・礼・智・忠・信・考・悌といった八つの徳目を忘れさせるほど面白い場所を提供する人ということにな っているが、実際には遊女たちをこき使い、遊客から金をむしり取る、八つの徳目を忘れた人非人という、さげすみの意味も含まれていたらしい。大文字屋の初代楼主・市兵衛は伊勢から江戸へ出て、吉原で一旗上げようとやってきた人で、初めはお歯黒溝(どぶ)沿いに河岸見世を開くも、なんとか五丁町に進出したいと遊女の食事をすべて安いカボチャにして、経費を節減。ヒドイ! しかし、これが功を奏して、見事京町一丁目に店を構えたため、「カボチャ」とあだ名された。当時子供たちの間で流行っていた歌に「ここ京町大文字屋のカボチャとて、その名を市兵衛と申します。せいが低くて、ほんまに猿まなこ、かわいいな、かわいいな♪」とあるように、ユニークな外見だったよう。名物社長といったところか。ちなみに、彼は園芸を愛する文化人でもあり、跡を継いだ二代目も加保茶元成のペンネームで天明狂歌壇の一翼を担う教養人だった。花魁を中心に見世をいかにプランディングしてゆくか手腕を問われる妓楼の経営には、情緒的価値を理解するセンスが求められたのだ。 】(『吉原はスゴイ 江戸文化を育んだ魅惑の遊郭(堀口茉純著・PHP新書)』)

 ここに出て来る大文字屋の初代楼主・(村田)市兵衛は、安永九年(一七八〇)、抱一が二十歳の時に亡くなっている。抱一と親交の深かったのは、跡を継いだ二代目・村田市兵衛(狂歌名・加保茶元成<一世>)で、大田南畝(狂歌名・四方赤良)、そして、吉原出身の版元・蔦屋重三郎(狂歌名・蔦唐丸)と昵懇の間柄で、吉原の狂歌連(グループ)の中心的な人物であった。
 そして、その二代目・村田市兵衛(狂歌名・加保茶元成<一世>)の跡を継いだのが三代目・村田市兵衛(狂歌名・加保茶元成<二世>、画号に加保茶宗園)で、この三代目は抱一の門人
で、江戸節にも優れ、嵯峨様の書もよくし、野呂松人形にも秀でているという多芸多才の人物であった。
 抱一が、狂歌名・尻焼猿人で、蔦屋重三郎版の狂歌絵本『吾妻曲狂歌文庫』(宿屋飯盛撰、山東京伝画)に登場するのは、天明六年(一七八六)、二十六歳の酒井家部屋住みの頃である。
その酒井家部屋住みの抱一が、自前でこれらの吉原の狂歌連に出入りし、そして、自前で吉原遊郭内での遊蕩三昧の日々を送るなどということは土台有り得ないことであろう。その背後には、吉原の三代にわたる妓楼・大文字屋(楼主・村田市兵衛、狂歌名・加保茶元成)、特に、二代目加保茶元成(狂歌人としては一世)が、そのパトロン(支援者)として控えていたということであろう。
そして、その加保茶元成の背後に控えている大立者が、蔦唐丸(蔦屋重三郎)と四方赤良(大田南畝)の御両人ということになる。

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恋川春町画・作『吉原大通会(よしわらだいつうえ)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9892509

(『吉原大通会』関連)
https://blog.goo.ne.jp/edomanga/e/1e80b15744cccdfbf5696358b123f7d2

(メモ)

※恋川春町=延享元~寛政元年(一七四四‐八九)、 狂名:酒上不埒(さけのうえのふらち)。
江戸中期の黄表紙作者、狂歌師。駿河小島藩士。寛政の改革を風刺した「鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)」に関わる召喚に出頭せず、その年死んだことから、自殺説も伝えられる。上記の図には登場しない(上記の図は大文字屋(一次会)から菊場屋(二次会:松葉屋の仮名か?)に会場を移しての場面で、その菊場屋の別室で『吉原大通会』を書いているか?)。この『吉原大通会』では、「天狗が化けた通人=天通」として登場している。

蔦唐丸(狂名:つたのからまる)=寛延三~寛政九年(一七五〇‐九七)、蔦屋重三郎、江戸中期の地本問屋、蔦屋の主人。通称蔦重(つたじゅう)。上記の図は「狂歌より、どうか一幕の狂言をお書きください」と硯と紙を差し出している。他の登場人物は全員仮装しているのだが、後から駆けつけて来て普通の格好をしている(普通の格好は「手柄岡持」との二人のようである)。

△加保茶元成(狂名:かぼちゃのもとなり)=宝暦四~文政十一年(一七五四-一八二八)、江戸新吉原の妓楼大文字屋の初代村田市兵衛の養子となる。天明狂歌壇の一翼として活躍し、吉原連を主宰した。上記の図は「人さまに見せない『加保茶元成』振りは、先代が歌って踊ったとおりです」と、顔を覆面で覆っている。この集まりは、当初、加保茶元成の大文字屋での各人が扮装しての狂歌会だったのだが、菊場屋(松葉屋の仮名?)に居た恋川春町と手柄岡持が、二次会にと大文字屋から菊場屋へと場所を移させたようである。

※四方赤良(狂名:よものあから)=寛延二~文政六年(一七四九‐一八二三)、江戸後期の狂歌師。洒落本、滑稽本作者。別号に大田南畝(おおたなんぽ)、蜀山人(しょくさんじん)、寝惚(ねぼけ)先生など。江戸幕府に仕える下級武士。上記の図は、漏斗(ろうと・じょうご)を頭に載せているようである(脳から狂歌を注ぎたい洒落か?)唐丸が「春さんが」と赤良に問い掛けると「春とは誰だ。恋川春町か」と唐丸に問い質している。

※手柄岡持(狂名:てがらのおかもち)=享保二〇~文化一〇年(一七三五‐一八一三)。江戸後期の戯作者。狂歌師。秋田(久保田)佐竹藩士(佐竹藩江戸留守居役)。別号に朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)。寛政の改革の時、君侯の命で筆を絶っている。この『吉原大通会』の主役(「すき成」)として登場し、上記の図の場面は、天通(恋川春町)の神通力で、大文字屋で狂歌会をやっていたメンバーを、「天通とすき成」が居た菊場屋(松葉屋か?)に引き連れて来て、「それがし、つりが『すき成』なれば、「手がらの岡もち」(手柄岡持)と名をつきましょう」との科白を吐いている。普通の格好をしているのは、唐丸と岡持の二人だけで、この二人は、春町(天通)と一緒に、菊場屋(松葉屋?)に居たような感じである。

※大屋裏住(狂名:おおやのうらずみ)=享保十九~文化七年(一七三四‐一八一〇)。江戸中期の狂歌師。号は萩廼屋(はぎのや)。江戸で更紗染屋から貸家を業とした。手柄岡持(朋誠堂喜三二)や酒上不埒(恋川春町)らの属している本町連を主宰している。上記の図は「土の車の吾らまで、かかる時節に大屋裏住」と能「土車」の科白を吐いている。

△腹唐秋人(狂名:はらからのあきんど)=宝暦八~文政四年(一七五八~一八二一)、狂歌を大屋裏住に学び本町連に入り、中井董堂(なかいとうどう)の号で書家としても知られている。上記の図は「俺の着ているのは、竜紋という上等の絹物だ」と嘯いている。

△元木綱(狂名:もとのもくあみ)=享保九~文化八年(一七二四‐一八一一)。江戸後期の狂歌師。湯屋を業とした。狂歌最古参の一人。その門下を落栗連と称した。上記の図は「(赤良の格好を見て)さすがに趣向の人だね。当方は名前のとおり普段のままだ」と頭に手をやっている。

※朱楽菅江(狂名:あけらかんこう)=元文三~寛政一〇年(一七三八‐一七九八)、江戸後期の狂歌師、洒落本作者。江戸生まれた幕臣。上記の図は天神様の格好のようで、清盛風の酒盛入道常閑に向かって、上記の図は「襟巻は良いが、掻巻は似合わないね」とケチをつけている。

※紀定丸(狂名:きのさだまる)=宝暦十~天保十二年(一七六〇-一八四一)、四方赤良の甥。幕臣で精励な能吏で旗本となった。上記の図は「何時も気が定まらず、思案に暮れている」と自嘲している。

※平原屋東作(狂名:へいげんやとうさく)=享保十一~寛政元年(一七二六‐八九)。「平秩東作(へずつとうさく)の名で知られている。内藤新宿で家業の馬宿、たばこ商を営んだ。幕府の事業にも手をそめるが、寛政の改革により、幕府の咎めを受ける。上記の図は「(煎餅袋を逆さに被って)へいげん屋東作にあらず、べいせん屋頓作の座興だ」とソッポを向いている。

大腹久知為(狂名:おおはらくちい)=『徳和歌後満載集(一巻)』(四方赤良編著)に「大原久知位」で一首、『同(九巻)』に「大原久知為」で一首、『同(巻十)』に「大原久ちゐ」で一首、計三首の狂歌が収載されている。上記の図は「おお原くちいから、お茶でいこう。眠い。眠い」とぼやいている。

酒盛入道常閑(狂名:さかもりにゅうどうじょうかん)=未詳。上記の図は「(菅江が常閑の襟巻は褒め、掻巻にはケチを付けたので)菅江の袖頭巾の梅は良いが、水仙はお粗末だ」とお返しをしているようである。

 この恋川春町の自画・自作の黄表紙(絵入りの草双紙)『吉原大通会』は、天明四年(一七八四)、抱一が二十四歳の時に刊行された。その二年後の天明六年(一七八六)に刊行された『吾妻曲狂歌文庫』(宿屋飯盛撰、山東京伝画、蔦屋重三郎版元)の、その天明狂歌壇の名手五十人中の、その冒頭に、抱一は、狂歌名・尻焼猿人の名で、その狂歌と肖像画が掲載されたことなどについては、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-04-03

 その『吾妻曲狂歌文庫』中の、その天明狂歌壇を代表する五十人の中に、上記の『吉原大通会』の、その十三名の中で、※印を付している方(七名)は収載されている。また、△印を付している方(三名)も、『徳和歌後万歳集』(天明五年=一七八五)には十首以上の狂歌が収載されている。
 残りの三名の方は、一人は蔦唐丸(蔦屋重三郎)で、もうお二人の「大原久知為・酒盛入道常閑」も、いわゆる、天明狂歌の三大家「四方赤良・朱楽菅江・唐衣橘州」を中心とする「天明狂歌壇」の中で、別号などでよく知られている方のように思われる。
 そして、この十三人の中で、いわゆる、松平定信が断行した「寛政の改革」により弾圧された方が、「酒上不埒(恋川春町)・蔦唐丸(蔦屋重三郎)・四方赤良(大田南畝)・手柄岡持(朋誠堂喜三二)・平原屋東作(平秩東作)」と多く、その他の方々も、何らかの余波は受けていることであろう。
 さらに、この『吉原大通絵』の主人公として登場する「すき也」こと、「手柄岡持(朋誠堂喜三二)」は、秋田(久保田)佐竹藩士(佐竹藩江戸留守居役)で、その前任者(天明三年=一七八二・五月交代)が、「佐藤晩得(さとうばんとく)=享保十六~寛政四年(一七三一~九二)、俳号=哲阿弥など、別号に朝四・堪露・北斎など。俳諧は右江渭北門のち馬場存義門」なのである。
 この佐藤晩得が、抱一の後見人のような大和郡山藩主を勤め、俳号・米翁として名高い「柳沢信鴻(やなぎざわのぶとき)=柳沢吉里の次男」と親交が深く、当時、酒井家部屋住みの抱一の後ろ盾のような関係にあり、この晩得が亡くなった追善句集『哲阿弥句藻』に、抱一は跋文を寄せるほど深い絆で結ばれていたのである。
 そして、その佐藤晩得は、吉原で、その俳号を捩っての「朝四大尽(ちょうしだいじん)」と呼ばれ、この『吉原大通会』では、次のクライマックスの場面で、登場しているようである。

吉原大通会・荻江節.jpg

恋川春町画・作『吉原大通会(よしわらだいつうえ)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9892509

 この場面は、天通(恋川春町)の神通力で、当時の名のある大通(吉原通いの大通人=お大尽)を一同に集めて、「荻江節」(吉原の遊郭で座敷歌風に三味線に合わせて唄う長唄=めりやす=長唄の短い独吟物)が、その創始者・荻江露友(「おうぎ江西林」の名で登場)によって、その「九月がや」(作詞家・佐藤晩得=朝四=朝四大尽、ここでは「蝶四といふ大通」の名で登場)が披露されている場面のようである。
 上記の図の花魁の右脇の立膝をしている方が、初代荻江露友のようで、その右脇の三味線を弾いているのは芸者衆であろう。そして、その芸者衆から左周りに花魁まで大通(お大尽)衆が並び、中央の荻江露友と正面向きになっている武士風の大通は、蝶四(朝四大尽=佐藤晩得)のように思われる。この場面は、荻江節の初代荻江露友より、自分の作詞した「九月がや」の節付けなどの指導を受けているように解して置きたい。
 そして、この初代荻江露友(作曲家)と佐藤朝四(作詞家)を囲んでの大通(お大尽)衆は、「吝株(しわかかぶ)の貧通(ひんつう)は大費とぞ惜しみける」などの、この『吉原大通会』の作者・恋川春町の文章を見ると、そもそも、この戯作の『吉原大通会』の「大通」は、「大通人」(吉原に精通している大通人)を意味していて、ここでは、「荻江節愛好大通
人」と解した方が、上記の図を理解するのには良いのかも知れない。
 これらのことに関連し初代荻江露友について、下記のアドレスで次のように記述している。

https://www.kyosendo.co.jp/essay/125_tamaya_1/

【初代露友はめりやすの作曲もやっていて、佐竹藩留守居役の佐藤朝四の作詞「九月がや」、山東京伝作詞の「素顔」、大和郡山藩の隠居、柳澤信鴻作詞の「賓頭盧」(びんずる)の節付けをしたことが知られている。】

鷹も田に居馴染むころや十三夜    抱一「花街柳巷図巻・九月(干稲)」
   稲懸けて里しづかなり後の月     蓼太「蓼太句集」

 季語の「十三夜」は「後の月」(晩秋の季語)、子季語として「名残の月、月の名残、二夜の月、豆名月、栗名月、女名月、後の今宵」など。語意は「旧暦九月十三夜の月。八月十五夜は望月を愛でるが、秋もいよいよ深まったこの夜は、満月の二夜前の欠けた月を愛でる。この秋最後の月であることから名残の月、また豆や栗を供物とすることから豆名月、栗名月ともいう。」
 抱一の句と同じ視点(「田・干稲と十三夜」と「干稲・里と後の月」)の句として、蓼太の句(「稲懸けて里しづかなり後の月」)などが上げられよう。
 抱一の句の句意は、デノテーション(裏の意味ではなく、文字通りの直接的な意味)的には、「十三夜の頃になると、鷹も山よりも稲懸けの田が点在する里の方が居馴染んでいるようで、よく見掛けるようになる」というようなことであろう。
 しかし、前書きの「京町あたりの奥座敷からさしのぞけば」や、この賛のある画の「干稲」などからのコノテーション(言外の意味・暗示的意味など)的な句意は、下記のように大きな広がりを有してくるであろう。
そして、この「鷹」には、部屋住み時代の抱一が、吉原という「士農工商の身分的差別もなく、俗界から隔離された聖なる場所(アジール)=公界での交遊・交友の場、そして、そのネットワークの広がり、さらに、新興都市『江戸』の新しい文化の息吹き(浮世絵・文人画・黄表紙・滑稽本・狂歌・俳諧・川柳・歌舞伎・音曲等々)の発信地」での、その切磋琢磨した「遊客」(粋人・通人)の、それらのイメージが隠されているものと解したい。
具体的には、上記で縷々触れてきた『吉川大通会』の、「狂歌通人」(恋川春町・蔦唐丸・加保茶元成・四方赤良・手柄岡持・大屋裏住・腹唐秋人・元木綱・朱楽菅江・紀定丸・平秩東作・大腹久知為・酒盛入道常閑)、そして、「荻江節通人」(荻江露友・佐藤朝四・柳澤信鴻・山東京伝)などのメンバーである。
とすると、この抱一の句のコノテーション的な句意は次のとおりとなる。

「この懐かしい吉原京町・大文字屋の二階の奥座敷から、十三夜の後の月と、その月光の下に広がる干稲などを見ていると、ここで過ごした懐かしい面々の面影が過って来る。既に他界している方が多いが、思い起こせば、寛政の改革などで命を絶った方、筆を断った方、財産を没収された方、手鎖の刑に処せられた方、左遷された方等々、それぞれが、この里の鷹のように、それぞれの土地で、思い思いに、今頃は、居馴染んで過ごしていることであろう。」

(追記一) 抱一をめぐる女性たち (『もっと知りたい 酒井抱一(玉蟲敏子著)』)

 抱一は部屋住みの身分の後、出家遁世したので正式な結婚をしたことはない。下谷大塚村の庵では、元大文字屋の遊女香川とも伝えられている小鶯女史(出家後の法名は妙華尼)と同居し、文政初めに酒井鶯蒲(おうほ)がその養子となったという。鶯蒲が抱一を「御父(トゝ)様」と呼んだので酒井家から窘められたというエピソードを朝岡興禎編著の『古画備考』巻三十五の鶯蒲の条は伝えている。鶯蒲は抱一没後、雨華菴を継承する。
 抱一の吉原通いは終生続き、山谷の料亭、駐春亭主人の田川氏の聞き書きに多く基づく『閑談数刻』(東京大学総合図書館)という資料は、抱一が吉原で贔屓にした遊女として、大文字屋の一もと、松葉屋半蔵抱えの粧(よそおい)、弥八玉屋の白玉、鶴屋の大淀などの名前を挙げている。このうち、粧は音曲を好まず、唐様の書家の中井董堂から書、広井宗微から茶、抱一から和歌・発句を学んだという才色兼備の遊女で、蕊雲(ずいうん)、文鴛(ぶんおう)という雅号を持っていた。抱一は彼女のために年中の着物の下絵を描いたという。   
 鏑木清方筆「抱一上人」(永青文庫)には、そんな女性に囲まれて遊里に耽溺する抱一のイメージが視覚化されている。左右の足のポーズにやや無理があるが、朱壁にもたれて三味線を弾く抱一の眼差しには、一抹の寂寥感が漂っている。

抱一上人.jpg

(鏑木清方筆 三幅対の中幅 縦四〇・五㎝ 横三五・〇㎝ 明治四十二年<一九〇九>
  永青文庫蔵 )


(追記二)抱一作「朝顔」(荻江節)

https://www.kyosendo.co.jp/essay/125_tamaya_1/

見しをりのつゆわすられぬ、
あさがほのはなの盛は、
ももとせもかはらぬ今のかたみとて、
むかしかたりにあらばこそ、
見れば、
うつつに水くきのあとは尽せぬ玉菊の、
ひとよふた代ををなしなの、
あいよりいでてなをあをきるりのせかいや、
花のおもか」

「玉菊が描き置し香包ありて、朝顔の花を描きて最しほらかりしを、不図雨花庵(抱一)の大人に見せければ、元来好事といひ常々廓中に入ひたりて画に用ひられて取はやさるる身は人々のすすめも黙止(もだし)がたく、彼香包の色絵より朝顔といふめりやすの唄を作り、名ある画客会合し衆評の上節を付、伊能永鯉もたびたび引出されて、一節伐(ひとよぎり)を合せ、その外鼓弓筝笛尺八つづみ太鼓にいたるまで、名だたる人々一同に合奏して、夜な夜な遊君ひともとの座敷に錬磨しけるが、その後はなばなしく追善の式ありし沙汰を聞ず、伝え聞に、それぞれの配(くばり)もの四季着(しきせ)付届振舞以下弐百両余の失墜あればなり、依て玉菊が墓所を修理して苔提所に於て読経作善いと念頃なりしとかや」


その二十 江戸の粋人・抱一の描く「その十 吉原月次風俗図(十月・時雨)」

抱一・吉原・十月.jpg

酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(十月「時雨」)
【 十月(時雨)
時雨にまじって紅葉の楓の葉が二、三飛ぶ図に、「飛ふ駕やしくれくる夜の膝かしら」と「来ぬ夜なく千鳥や虎か裾もよふ」の二句が添えられる。】
(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

  飛ぶ駕(かご)やしぐれくる夜の膝がしら 抱一(「吉原月次風俗図(十月・時雨)」)
  来ぬ夜なく千鳥や虎が裾もよふ       抱一( 同上 ) 

 この両句は、書画の「対幅(ついふく)」(一対に仕立てられた書画の掛け物)形式になっていて、一句目が上に、二句目が下に書かれている。図柄は、「小夜時雨に紅葉の楓の葉が二三枚飛び散っている」ものとなっている。
 時雨は、「朝時雨・夕時雨・小夜時雨・村時雨・北時雨・横時雨」などの時分や態様によるものの他、比喩的な時雨(偽物の時雨)の「川音の時雨・松風の時雨・木の葉の時雨・涙の時雨・袖の時雨・袂の時雨」も、連歌や俳諧の世界では季語として認知されている。
 一句目の時雨(「しぐれくる夜の」・初冬)は、「夜の時雨・小夜時雨」で、二句目は「千鳥」(「小夜千鳥」・三冬)の句だが、下五の「虎が裾もよふ」が「虎が雨」(「虎が涙雨」=曽兄弟の仇討の虎御前の涙雨=仲夏)を言外に匂わせている。
 そして、一句目は、本歌取り(和歌などを念頭に置いての句作り)の句というよりも、本句取り(俳諧の句などを念頭においての句作り)の句という雰囲気である。

  山城へ井手の駕籠かるしぐれ哉  芭蕉(『蕉尾琴』) 
  あれ聞けと時雨来る夜の鐘の声  其角(『猿蓑』)

 この一句目が、本句取りの句の雰囲気を有しているのに比して、二句目の句は、本歌取りの句の雰囲気である。

  千鳥鳴く佐保の河瀨のさざれ浪
    やむ時もなしわが恋ふらくは(大伴坂上郎女『万葉集・巻六』)
  思ひがね妹がり行けば冬の夜の
       川風さむみ千鳥鳴くなり  (紀貫之『拾遺集・巻四』)

 その上で、この一句目と二句目とを併せ鑑賞して行くと、京都島原の遊郭内に不夜庵(俳諧)を主宰し、与謝蕪村と交流の深かった炭太祇の、次の句などが想起されて来る。

   行く秋や抱けば身に添ふ膝頭   (『太祇句選』秋)
   傘焼し其の日も来けり虎が雨   (『同上』夏)
   行く女袷着なすや憎きまで    (『同上』夏) 
   しぐるゝや筏の棹のさし急ぎ   (『同上』冬)
   うぐひすのしのび歩行や夕時雨  (『同上』冬)
   ちどり啼く暁もどる女かな    (『同上』冬) 
   年とるもわかきはおかし妹が許  (『同上』冬) 

 ここで、この一句目と二句目との、デノテーション(裏の意味ではなく、文字通りの直接的な意味)的な句意は、次のとおりとなる。

   飛ぶ駕(かご)やしぐれくる夜の膝がしら 

「時雨の夜に、(待ち人に逢うために)駕籠を飛ばして、その駕籠の中で丸くなって膝頭を抱えている。」

   来ぬ夜なく千鳥や虎が裾もよふ 

「(待ち人が)来ない夜に鳴く千鳥は、『曽我兄弟の仇討』で、愛する人を失った虎御前の涙で裾までも濡らしたように悲しげに聞こえる。」

 そして、この両句を、一対の句と解すると、それは、和歌における「贈答歌」(贈句と答歌=反歌)の構成になろう。連歌・俳諧では「対句付け・相対付け」という「長句(五七五)と短句(七七)」の付合いのルールがあるが、発句(長句)と発句(長句)との場合は、「贈答歌」に倣い「贈答句」(あるいは「二句唱和」)の世界のものなのと解して置きたい。
そして、これらのルールは、「贈歌(贈句=前句)」の「言葉などをうまく織り込み、さらに、新味を加えて切り返す」のが「答歌(答句=付句)」のポイントということになろう。

   飛ぶ駕(かご)やしぐれくる夜の膝がしら (贈句=前句)
   来ぬ夜なく千鳥や虎が裾もよふ      (答句=付句) 

 この「贈句」は男性の句の感じで、この男の「くる夜」に対して、「答句」の方は男を待っている女性の感じで、「来ぬ夜」で受けている。そして、「贈句」の「しぐれ」(初冬)に対して「千鳥」(三冬)で応じ、「贈句」の「膝がしら」に対して、「答句」は、何とも、造語的な「虎が裾もよふ」(「虎が雨(?)」+「裾時雨(?)+「雨模様(?)+「虎模様(?)」)と、切り返している雰囲気なのである。
 として、この一対のデノテーション的句意は、次のとおりとなる。

【(贈句=男)時雨の夜、恋人に逢いたいと、駕籠を飛ばしています。その駕籠が余りにも揺れますので、必死に背を丸くして膝頭を抱えています。
(答句=女)待てども待てども貴方は来ない。外の闇夜で千鳥が鳴いています。その千鳥の鳴き声は、『虎が雨』とも『涙の裾時雨』とも聞こえてきます。 】

 そして、これらのコノテーション(言外の意味・暗示的意味など)的句意は、この一対のデノテーション的句意の、その男を「抱一自身」、そして、その女を「抱一の相方(小鶯女史)」とすると、実に、臨場感溢れる、抱一の自作自演の「贈答句」となって来る。
 その句意は、上記の句意に、下記のアドレスで紹介した、次の「墨梅図」(抱一画、小鶯女史賛)関連(再掲)のものを加味することになろう。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-09-01

(再掲)

紅梅図.jpg

酒井抱一筆「紅梅図」(小鸞女史賛) 一幅 文化七年(一八一〇)作 細見美術館蔵
絹本墨画淡彩 九五・九×三五・九㎝
【 抱一と小鸞女史は、抱一の絵や版本に小鸞が題字を寄せるなど(『花濺涙帖』「妙音天像」)、いくつかの競演の場を楽しんでいた。小鸞は漢詩や俳句、書を得意としたらしく、その教養の高さが抱一の厚い信頼を得ていたのである。
 小鸞女史は吉原大文字楼の香川と伝え、身請けの時期は明らかでないが、遅くとも文化前期には抱一と暮らしをともにしていた。酒井家では表向き御付女中の春條(はるえ)として処遇した。文化十四年(一八一七)には出家して、妙華(みょうげ)と称した。妙華とは「天雨妙華」に由来し、『大無量寿経』に基づく抱一の「雨華」と同じ出典である。翌年には彼女の願いで養子鶯蒲を迎える。小鸞は知性で抱一の期待によく応えるとともに、天保八年(一八三七)に没するまで、抱一亡きあとの雨華庵を鶯蒲を見守りながら保持し、雨華庵の存続にも尽力した。
 本図は文化六年(一八〇九)末に下谷金杉大塚村に庵(後に雨華庵と称す)を構えてから初の、記念すべき新年に描かれた二人の書き初め。抱一が紅梅を、小鸞が漢詩を記している。抱一の「庚午新春写 黄鶯邨中 暉真」の署名と印章「軽擧道人」(朱文重郭方印)は文化中期に特徴的な踊るような書体である。
 「黄鶯」は高麗鶯の異名。また、「黄鶯睨睆(おうこうけいかん)」では二十四節気の立春の次候で、早い春の訪れを鶯が告げる意を示す。抱一は大塚に転居し辺りに鶯が多いことから「鶯邨(村)」と号し、文化十四年(一八一七)末に「雨華庵」の扁額を甥の忠実に掲げてもらう頃までこの号を愛用した。
 梅の古木は途中で折れているが、その根元近くからは新たな若い枝が晴れ晴れと伸びている。紅梅はほんのりと赤く、蕊は金で先端には緑を点じる。老いた木の洞は墨を滲ませてまた擦筆を用いて表わし、その洞越しに見える若い枝は、小さな枝先のひとつひとつまで新たな生命力に溢れている。抱一五十歳の新春にして味わう穏やかな喜びに満ちており、老いゆく姿と新たな芽吹きの組み合わせは晩年の「白蓮図」に繋がるだろう。
 「御寶器明細簿」の「村雨松風」に続く「抱一君 梅花画賛 小堅」が本図にあたると思われ、酒井家でプライベートな作として秘蔵されてきたと思われる。

(賛)

「竹斎」(朱文楕円印)
行過野逕渡渓橋
踏雪相求不憚労
何處蔵春々不見惟 
聞風裡暗香瓢
 小鸞女史謹題「粟氏小鸞」(白文方印)    】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「作品解説96(岡野智子稿)」)

 この小鸞女史の漢詩の意などは、次のようなものであろう。

行過野逕渡渓橋(野逕ヲ過ギ行キ渓橋ヲ渡リ →  野ヲ過ギ橋ヲ渡リ)
踏雪相求不憚労(相イ求メ雪踏ムモ労ヲ憚ラズ → 雪ノ径二人ナラ労ハ厭ワズ) 
何處蔵春々不見惟(何處ニ春々蔵スモ惟イ見ラレズ → 春ガ何処カソハ知ラズ) 
聞風裡暗香瓢(暗裡ノ風ニ聞ク瓢ノ香リ → 暗闇ノ梅ノ香ヲ風ガ知ラスヤ)

(追記)上記の小鶯女史の漢詩(賛)について、『もっと知りたい 酒井抱一(玉蟲敏子著)』では、次のとおりの和訳されている。

 野逕(やけい)を行き過ぎ   渓橋(けいきょう)を渡る
 雪を踏み 相求(もとむ)るに 労を憚(はばか)らず 
 何処(いずこ)か春を蔵さん  春見へず
 惟(た)だ聞く 風裡(ふうり)暗香(あんこう)の瓢(ひょう)

その二十一 江戸の粋人・抱一の描く「その十一 吉原月次風俗図(十一月・酉の日)」

花街柳巷十一.jpg

酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(十一月「酉の日」)
【 十一月(酉の日)
「酉の日や数の寶と鷲つかみ」の句に、酉の市で買った縁起物の熊手を描く。】
(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

酉の市.jpg

歌川広重画「名所江戸百景 浅草田甫酉の町詣」(絵師:広重 出版者:魚栄 刊行年:
安政四=一八五七):国立国会図書館蔵(「錦絵でたのしむ江戸の名所)  
https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail267.html

 広重の「名所江戸百景」は、安政三年(一八五六)から同五年(一八五八)にかけて制作された連作浮世絵名所絵(全一一九枚)で、上記の「浅草田圃酉の町詣」は「冬の部(一〇二)」の「吉原妓楼より見た風景:背後の森は正燈寺」である。
 この図は、吉原妓楼の人気の無い部屋から猫が、浅草長国寺境内社の鷲(おおとり)神社に、十一月の酉の日に参詣する行列を見ているものである。十一月最初の酉の日は「一の酉」、次は「二の酉」、さらに、「三の酉」がある年は火災が多いとか、吉原遊郭に異変があるなどの俗信が言い伝えられている。
 以前は「酉の祭(とりのまち)」と呼ばれていたものが、その「祭」に「市」が立って、「酉の市(まち・いち)」が一般的な呼称となっている。広重は、この「名所江戸百景」の他にも、江戸のガイドブックとも言える『絵本江戸土産』(第六編)の中でも「浅草酉の町」と題して、下記のような隅田川方面からの鷲大明神に参詣する群衆を描いている。
 そこに、次の文章が書かれている。

「浅草大音寺前に在り日蓮宗長國寺に安置したまふ鷲大明神と世にはいへど、実は破軍星を祀りしなりとぞ、十一月の酉の日には参詣の諸人群衆なし、熊手と唐の芋をひさぐを当社の例いとす。」

酉の市二.jpg

国立国会図書館デジタルコレクション『絵本江戸土産』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8369311?tocOpened=1

 縁起物の熊手も色々の種類があり、時代とともに形も飾り物も変わってきている。江戸中期より天保初年頃までは柄の長い実用品の熊手におかめの面と四手をつけたもので、上記の広重の『絵本江戸土産』での左の熊手のものは、その種のものであろう。
 冒頭の抱一の図柄は、その長い柄の熊手(商売繁盛を掻っ込む)と唐(頭)の芋(八頭を篠で輪にしたもの=子孫繁栄)を、人物を一切排除し、また、熊手などもお多福などの飾り物をオフリミットして、句(発句)と画(図柄)とを、「付かず離れず」の、連歌・俳諧の付合(付け合い)の要領に意を用いている。

  酉の日や数の寶と鷲つかみ   抱一

 季語は「酉の日」(酉の市・酉の町詣・一の酉・二の酉・三の酉・熊手市など)、「数の宝」は、「数多の宝」の意、そして、この「鷲つかみ」は、「鷲(おおとり)神社」と「鷲掴み=手のひらを大きく開いて荒々しくつかむこと」を掛けての用例であろう。
 句意は、「十一月の酉の市、熊手やお福面やら数多の縁起物を、鷲(おおとり)大明神に因んで、鷲(わし)掴みしよう」というようなことであろう。
 この「酉の市」関連の句としては、「抱一の画、濃艶愛すべしといえども、俳句に至っては拙劣見るに堪えず」と酷評した正岡子規の作句例が極めて多い。また、浅草生まれの、江戸情緒豊かに、芥川龍之介をして「東京の生んだ<嘆かひ>の発句」と評された、久保田万太郎に佳句が多い。

  お宮迄行かで歸りぬ酉の市   正岡子規
  お酉樣の熊手飾るや招き猫     同上
  世の中も淋しくなりぬ三の酉   同上
  傾城に約束のあり酉の市      同上
  傾城の顏見て過ぬ酉の市      同上
  吉原てはくれし人や酉の市    同上
  吉原を始めて見るや酉の市     同上  
  夕餉すみて根岸を出るや酉の市  同上
  女つれし書生も出たり酉の市    同上
  子をつれし裏店者や酉の市     同上
  時雨にもあはず三度の酉の市    同上
  畦道や月も上りて大熊手      同上
  縁喜取る早出の人や酉の市     同上
  遙かに望めば熊手押あふ酉の市 同上
  酉の市小き熊手をねぎりけり    同上
  雜鬧や熊手押あふ酉の市     同上
  めッきりとことしの冬や酉の市  久保田万太郎
  外套の仕立下しや酉の市      同上
  提灯のちやうちんや文字酉の市   同上
  松葉屋の女房の円髷や酉の市    同上
  酉の市はやくも霜の下りしかな   同上
  龍泉寺町のそろばん塾や酉の市   同上
  くもり来て二の酉の夜のあたゝかに 同上
  たかだかとあはれは三の酉の月   同上
  三の酉しばらく風の落ちにけり   同上
  三の酉つぶるゝ雨となりにけり   同上
  二階よりたまたま落ちて三の酉   同上

その二十二 江戸の粋人・抱一の描く「その十一 吉原月次風俗図(十二月・狐舞」

花街柳巷十ニ.jpg

酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(十二月「狐舞」)
【十二月(狐舞)
「此としもきつね舞せてこへにけり」の句と、かしこまった狐舞の図で、十二か月月次の書画をしめくくっている。最終図として「抱一書畫一筆」の署名も加えられている。】(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

 この抱一の描く「狐舞い図」は、白狐の面をかぶり、赤熊(しゃぐま)という真っ赤な毛の鬘をつけ、錦の衣装で幣(ぬさ)を肩にし、右手で鈴を振って厄払いの舞いをしている、妓楼の座敷などで演じている「かしこまった狐舞の図」というイメージであろう。

 此(この)としもきつね舞せてこへにけり 抱一(「吉原月次風俗図・十二月「狐舞」)

この抱一の句に関して、デノテーション(裏の意味ではなく、文字通りの直接的な意味)やコノテーション(言外の意味・暗示的意味など)などの詮索は無用である。

 酉の市はやくも霜の下りしかな   久保田万太郎
 くもり来て二の酉の夜のあたゝかに 同上
 三の酉しばらく風の落ちにけり   同上
 此(この)としもきつね舞せてこへにけり 酒井抱一

(追記一)「吉原・狐舞い」関連メモ

北斎・狐舞い.jpg

葛飾北斎画『隅田川両岸一覧』(国立国会図書館デジタルコレクション)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533332

刊本(木版色刷)全三冊上・中・下  享和元年刊行  葛飾北斎画 上中下各8丁の美麗彩色画に狂歌(狂歌絵本) 上に壷十楼成安、序に北斎 此頃隅田川両岸の勝地を模写し、これに仙鶴堂の勧めにより歌をそえている。 本書は、隅田川両岸の風景や賑いを色刷りの版画で描いたもので、遊女から職人まで描かれており、江戸の諸相を知ることができる。

「其以前は知らず。新吉原に限り、年越大晦日に獅子舞は壱組もなく、狐の面をかぶり、幣と鈴を振り、笛太鼓の囃子にて舞こむ。是を吉原の狐舞とて、杵屋の長唄の中にも狐舞の文句をものせしあり。抱一上人が吉原十二ヶ月の画中又此の狐舞を十二月に画かれたり。狐は白面にして、赤熊の毛をかむり錦の衣類をつけたるまま、いとも美事なり。世間の不粋は、当所大晦日の狐舞を見しものなしとなり」(『絵本風俗往来』)

『絵本風俗往来』等によると、吉原という町には獅子舞では無く「狐舞ひ」が現れ、笛や太鼓の囃子を引き連れ、遊女たちを囃し立て、追いかけまわしたとされている。遊女たちの間では、この狐に抱きつかれてしまうと子を身ごもるとの噂があり、身ごもっては商売ができない遊女たちは、おひねり(「御捻り」の意味は神社や寺に供えたり他人に与えたりするために、小銭を紙にくるんでひねったもののこと。)を撒いて抱きつかれるのを防いだという、一種の鬼ごっこのようなものが「狐舞ひ」のルーツとなっている。


山東京伝・狐舞い.jpg

Fox Dance in the Yoshiwara, from the album Spring in the Four Directions (Yomo no haru) 四方の巴流 吉原の狐舞
Japanese Edo period 1796 (Kansei 8)
Artist Kitao Masanobu (Santô Kyôden) (Japanese, 1761–1816)
(ボストン美術館蔵)
https://www.mfa.org/search?search_api_views_fulltext=11.14987%2C+11.14989&=Search

狂歌集『四方の巴流』(作者 鹿都(津)部真顔〔編〕、山東京伝〔ほか画〕)

『四方の巴流(よものはる)』(狂歌堂真顔撰)
狂歌堂真顔による狂歌春興帖(寛政七年に大田南畝の四方赤良から四方姓を継ぐ)。題簽「四方の巴流」。「五明楼花扇」(吉原江戸町一丁目扇屋抱え花扇)による扉書、「路考」(三代目瀬川菊之丞)、「市川団十郎」(五代目市川団十郎)の挿絵とともに、京伝による挿絵と狂歌一首が載る。


歌麿・花扇.jpg

喜多川歌麿筆「高名美人六家撰_扇屋花扇」(東京国立博物館蔵)
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0028221

花扇(はなおうぎ)は、吉原遊廓の遊女屋、扇屋の高級遊女の源氏名です。この名は代々襲名されていますが、この絵をはじめ、歌麿の描く花扇は、大部分が四代目です。四代目の花扇は、書をよくし、酒を好んだと伝えられていますが、寛政6年に客と駆け落ちしてしまいました。すぐに連れ戻されますが、駆け落ち直後に出されたと思われるこの絵の後摺りでは、名を出すことを避けてか、花扇の名が「花」とされています。喜多川歌麿は、天明・寛政期(1781〜1801)の浮世絵の黄金時代を代表する絵師で、美人画のシリーズものの名作が多数あります。

https://www.jti.co.jp/Culture/museum/collection/other/ukiyoe/u3/index.html

(追記二)「抱一・鵬斎・文晁と七世・市川団十郎」関連メモ

【酒井抱一の『軽挙館句藻』の文化十三年のところに、  
正月九日節分に市川団十郎来たりければ、扇取り出し発句を乞ふに、「今こゝに団十郎や鬼は外」といふ其角の句の懸物所持したる事を前書して、
  私ではござりませんそ鬼は外   七代目三升
折ふし亀田鵬斎先生来りその扇に
  追儺の翌に団十郎来りければ
  七代目なを鬼は外団十郎     鵬斎
谷文晁又その席に有て、其扇子に福牡丹を描く、又予に一句を乞ふ
  御江戸に名高き団十郎有り
  儒者に又団十郎有り
  畫に又団十郎有り
  その尻尾にすがりて
 咲たりな三幅対や江戸の花     抱一    】
(『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達・渥美国泰著』)

(追記三)「抱一と吉原そして駐春亭(宇右衛門)・八百善(八百屋善四郎)・向島百花園(佐原鞠塢)」関連メモ

(抱一と吉原)

【けれども薄暮のころになると、筆を置き、あんぽつ駕籠に揺られて吉原へ行くのが例であった。一年中一夕でもひと廻り廓中を廻ることをやめたことはなかった。廓中いたるところ、花魁、楼主、幇間、歌妓、遣手、禿にいたるまで、抱一の知人でない者はいなかった。そのうえ傾城の女弟子さえ数多あるので、抱一にとってはこの別天地はわが家のごとき思いがあったのであろう。遊女の年季がすんで身を寄せるところがない者が、雨華庵へ来て、居候していることがたびたびあった。それを抱一自ら媒介して知己や門弟にめあわせた者も十余人におよんだくらいであった。 】(『本朝画人伝巻一・村松梢風』所収「酒井抱一」)

(抱一と駐春亭宇右衛門)

【毎日夕景になると散歩に出掛ける廓の道筋、下谷龍泉寺町の料亭、駐春亭の主人田川屋のことである。糸屋源七の次男として芝で生れ、本名源七郎。伯母の家を継いで深川新地に茶屋を営む。俳名は煎蘿、剃髪して願乗という。龍泉寺に地所を求めて別荘にしようとしたところ、井戸に近辺にないような清水が湧き出して、名主や抱一上人にも相談して料亭を開業した。座敷は一間一間に釜をかけ、茶の出来るようにしてはじめは三間。風呂場は方丈、四角にして、丸竹の四方天井。湯の滝、水の滝を落として奇をてらう。(中略)上人が毎日せっせと通っていたわけがこれで分かる。開業前からの肩入れであったのである。「料理屋にて風呂に入る」営業を思いつき、「湯滝、水滝」「浴室の内外額は名家を網羅し」「道具やてぬぐいのデザインはすべて抱一」】「鉢・茶器類は皆渡り物で日本物はない」当時としては凝った造り、もてなしで評判であったろう。これもすべて主人田川屋の風流才覚、文人たちの応援があったればこそである。 】(『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達・渥美国泰著』)

 ◯田川屋(料理屋)
 △「田川屋料理  金杉大恩寺
    風炉場は浄め庭に在り  酔後浴し来れば酒乍ち醒む
    会席薄(ウス)茶料理好し  駐春亭は是れ駐人の亭
 □「下谷大恩寺前 会席御料理 駐春亭宇右衛門」

http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/ukiyoeyougo/e-yougo/yougo-edomeibutu-tenpou7.html

☆ 上人が毎日せっせと「吉原」へ歩を向けたのは、この駐春亭で、夕食をとり、風呂に入
るのが、主たる目的であったのかも知れない。(yaha memo)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/

「抱一の吉原通いは終生続き、山谷の料亭、駐春亭主人の田川氏の聞き書きに多く基づく『閑談数刻』(東京大学総合図書館)という資料は、抱一が吉原で贔屓にした遊女として、大文字屋の一もと、松葉屋半蔵抱えの粧(よそおい)、弥八玉屋の白玉、鶴屋の大淀などの名前を挙げている。このうち、粧は音曲を好まず、唐様の書家の中井董堂から書、広井宗微から茶、抱一から和歌・発句を学んだという才色兼備の遊女で、蕊雲(ずいうん)、文鴛(ぶんおう)という雅号を持っていた。抱一は彼女のために年中の着物の下絵を描いたという。」   

『閑談数刻』(東京大学総合図書館)は、駐春亭宇右衛門の聞き書きによるものなのである。

(抱一と八百屋善四郎)

【福田屋といい、新鳥越二丁目に住み、俳諧を好み、三味線も巧みであった。なかなかの文学趣味もあって端唄を作詞し、「江戸鳶」には自身で三味線の手も付けたという。またつくる発句は何れも都会人好みの洒落た句で、才人ぶりを発揮していた。一代で築いた料理屋としての名は江戸中に轟いていて、「料理見世、深川二軒茶屋、洲崎ますや、ふきや町河岸打や、向じま太郎けの類なり。近頃にいたり、追々名高き料理見世所々に多く出来る。八百善など、一箇年の商ひ二千両づゝありと云う。新鳥越名主の物語なり」などと、青山白峰の『明和誌』に載る八百善は宝暦の頃の開業といわれる。いわば、江戸料理屋のはしりである。吉原の道筋でもあり、風流人や富商などの客筋が絶えず、いきおい高級料理の名を高めた。(以下略 )  】(『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達・渥美国泰著』)

◯八百善(料理屋)
△「八百善仕出  新鳥越 
    八百善の名は海東に響く        年中の仕出し太平の風
    此の家の塩梅の妙なるを識らんと欲せば 請ふ見よ数編の料理通」
□「新鳥越二丁目 御婚礼向仕出し仕候 御料理 八百屋膳四郎」
◎「八百善の家に余慶の佳肴あり」(一〇三6)
 〔蜀山人狂歌〕「詩は五山役者は杜若傾はかの藝者はおかつ料理八百善」(『大田南畝全集』⑲279(書簡225)
〈当代の人気者、菊池五山・岩井半四郎・遊女かの・芸者お勝。『料理通』(文政五年刊)の序文は南畝が蜀山人名で書いている〉

http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/ukiyoeyougo/e-yougo/yougo-edomeibutu-tenpou7.html

八百屋善四郎著『料理通(初編)』 文政五年(一八二二)刊 

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-28

(抱一と佐原鞠塢=きくう・「向島百花園」)

佐原鞠塢.jpg

佐原鞠塢肖像、「園のいしぶみ」より

http://www.city.sumida.lg.jp/sisetu_info/siryou/kyoudobunka/tenzi/h16/kikakuten_hyakkaen.html

【百花園の開園者、佐原鞠塢(きくう)
百花園を開いた佐原鞠塢は、奥州仙台の農民の出で、俗称を平八といった。明和元年(1764年)生まれという説があるが不詳。天明年間(1781年から1789年)に江戸に出てきて、中村座の芝居茶屋・和泉屋勘十郎のもとで奉公した。その後、財を蓄え、それを元手に寛政8年(1796年)頃、日本橋住吉町に骨董屋の店を開き、名を北野屋平兵衛(北平とも)と改めた。芝居茶屋での奉公、骨董商時代の幅広いつき合いがもとで、当代の文人たちとの人脈を形成し、その過程で自らも書画・和歌・漢詩などを修得した。鞠塢は、商才のある人であったらしく、文人たちを集めて古道具市をしばしば開催したが、値をあげるためのオークション的な商法が幕府の咎めを受けたという。
 しばらくの間、本所中の郷(現向島1丁目付近)にいたが、文化元年(1804年)頃に剃髪して、「鞠塢菩薩」の号を名乗った。この頃、向島にあった旗本・多賀氏の屋敷跡を購入し、ここに展示で紹介する著名な文人達より梅樹の寄付や造園に協力を仰ぎ、風雅な草庭を造ったのが百花園の起こりである。園は梅の季節だけでなく、和漢の古典の知識を生かして「春の七草」「秋の七草」や「万葉集」に見える草花を植えたため、四季を通じて草花が見られるようになり、いつしか梅屋敷・秋芳園・百花園などと呼ばれるようになった。園の経営者としても鞠塢の才能はいかんなく発揮され、園内の茶店では、隅田川焼という焼き物や「寿星梅」という梅干しなどを名物として販売。また、園内で向島の名所を描きこんだ地図を刷り人々に頒布して、来園者の誘致を図り、次第にその評判が高まっていった。天保2年(1931年)8月29日に死没。編著書に漢詩集「盛音集」、句集「墨多川集」「花袋」のほか、「秋野七草考」「春野七草考」「梅屋花品」「墨水遊覧誌」「都鳥考」などがある。  】

(追記三)「抱一と河東節」 

【抱一は声曲の中では当時の通人の多くがそうであったように河東節(かとうでし)を好み、しばしば仲間と会を催した。河東の新曲を幾つか作り、「青すだれ」「江戸うぐいす」「夜の編笠」「火とり虫」等、抱一作として後代にのこっている曲も幾つかある。 】(『本朝画人伝巻一・村松梢風』所収「酒井抱一」)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-09-07

(追記) 酒井抱一作詞『江戸鶯』(一冊 文政七年=一八二四 「東京都立中央図書館加賀文庫」蔵)
【 抱一は河東節を好み、その名手でもあったという。自ら新作もし、この「江戸鶯」「青簾春の曙」の作詞のほか、「七草」「秋のぬるで」などの数曲が知られている。平生愛用の河東節三味線で「箱」に「盂東野」と題し、自身の下絵、羊遊斎の蒔絵がある一棹なども有名であった。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説一〇一」(松尾知子稿)」) 




抱一句集『屠龍之技』「第五千づかのいね」(1~5)

1 夕露や小萩がもとのすゞり筥 (第五千づかのいね)


抱一画集『鶯邨画譜』所収「萩図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 この「萩図」の賛(発句=俳句)は、抱一自撰句集『屠龍之技』所収の次の句であろう(句形は異なっている)。

 夕露や小萩がもとのすゞり筥(『屠龍之技』所収「千づかのいね」と題するものの一句)

ここで、抱一自撰句集『屠龍之技』について、下記のアドレスで、「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)の全容を見ることが出来る。

http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186.html

 その「写本」の紹介について、そのアドレスでは、下記のとおり記されている。

【 [書写地不明] : [書写者不明], [書写年不明] 1冊 ; 24cm
注記: 書名は序による ; 表紙の書名: 輕舉観句藻 ; 写本 ; 底本: 文化10年跋刊 ; 無辺無界 ; 巻末に「明治三十一年十二月二十六日午夜一校畢 観潮樓主人」と墨書あり
鴎E32:186 全頁
琳派の画家として知られる酒井抱一が、自身の句稿『軽挙観句藻』から抜萃して編んだ発句集である。写本であるが、本文は鴎外の筆ではなく、筆写者不明。本文には明らかな誤りが多数見られ、鴎外は他本を用いてそれらを訂正している。また、巻末に鴎外の筆で「明治三十一年十二月二十六日午夜一校畢 観潮楼主人」とあることから、この校訂作業の行われた時日が知られる。明治30年(1897)前後、鴎外は正岡子規と親しく交流していたが、そうしたなかで培われた俳諧への関心を示す資料だと言えよう。】

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)の「序」)

 この『屠龍之技』の、亀田鵬斎の「序」は、『日本名著全集江戸文芸之部第二十七巻(追加編二巻)俳文俳句集(日本名著全集刊行会編)』の「屠龍之技」(追加編)を参考にすると、次のように読み取れる。

【 屠龍之技
軽挙道人。誹(俳)諧十七字ノ詠ヲ善クシ。目ニ触レ心ニ感ズル者。皆之ヲ言ニ発ス。其ノ発スル所ノ者。皆獨笑獨泣獨喜獨悲ノ成ス所ナリ。而モ人ノ之ヲ聞ク者モ亦我ト同ジク笑フ耶泣ク耶喜ブ耶悲シム耶ヲ知ラズ。唯其ノ言フ所ヲ謂ヒ。其ノ発スル所ヲ発スル耳。道人嘗テ自ラ謂ツテ曰ハク。誹諧体ナル者は。唐詩ニ昉マル。而シテ和歌之ニ効フ。今ノ十七詠ハ。蓋シ其ノ余流ナリ。故ニ其ノ言雅俗ヲ論ゼズ。或ハ之ニ雑フルニ土語方言鄙俚ノ辞ヲ以テス。又何ノ門風カコレ有ラン。諺ニ云フ。言フ可クシテ言ハザレバ則チ腹彭亨ス。吾ハ則チ其ノ言フ可キヲ言ヒ。其ノ発ス可キヲ発スル而巳ト。道人ハ風流ノ巨魁ニシテ其ノ髄ヲ得タリト謂フ可シ。因ツテ其首ニ題ス。
文化九年壬申十月  江戸鵬斎興  】

 「下谷三幅対」と称された、「鵬斎・抱一・文晁」の、抱一より九歳年長の、亀田豊斎の「序」である。この文化九年(一八一二)は、抱一、五十二歳の時で、抱一の付人の鈴木蠣潭は、二十一歳、鈴木其一は、十七歳で、其一は、この翌年に、抱一の内弟子となる。
 『鶯邨画譜』が刊行されたのは、文化十四年(一八一七)で、この年の六月に、蠣潭が二十六歳の若さで夭逝する。
その抱一が、鶯の里(鶯邨=村)の、「下谷根岸大塚村」に転居したのは、文化六年(一八〇九)、四十九歳の時で、抱一が、自筆句集「軽挙観(館)句藻」(静嘉堂文庫蔵)第一冊目の「梶の音」を始めたのは、寛政二年(一七九〇)、三十歳の時である。
爾来、この「軽挙観(館)句藻」は、抱一の生涯にわたる句日記(三十数年間)として、二十一巻十冊が、静嘉堂文庫所蔵本として今に遺されている。
翻って、上記の亀田鵬斎の「序」を有する刊本の、抱一自筆句集ではなく、抱一自撰句集の『屠龍之技』は、抱一の俳諧人生の、前半生(三十歳以前から五十歳前後まで)の、その総決算的な、そして、江戸座の其角門の俳諧宗匠・「軽挙道人(「抱一」、白鳧・濤花・杜陵(綾)・屠牛・狗禅、「鶯村・雨華庵・『軽挙道人』」、庭柏子、溟々居、楓窓)の、その絶頂期の頃の、「鶯村・雨華庵・『軽挙道人』」の、抱一(軽挙道人)自撰句集のネーミングと解して差し支えなかろう。
 ここで、この自撰句集『屠龍之技』を構成する全編(全自筆句集)の概略は次のとおりとなる。

第一編「こがねのこま」(「梶の音」以前の句→三十歳以前の句?)
第二編「かぢのおと(梶の音)」(寛政二年(一七九〇)・三十歳時から句収載?→自筆句集「軽挙観(館)句藻」第一冊目の「梶の音」)
第三編「みやこどり(都鳥)」(「梶の音」と「椎の木かげ」の中間の句収載?)
第四編「椎の木かげ」(寛政八年(一七九六)・三十六歳時からの句収載? 「庭柏子」号初見。この年『江戸続八百韻』を刊行する。「軽挙観(館)句藻」第二冊目?)
第五編「千づかのいね(千束の稲)」(寛政十年(一七九八)・三十八歳時からの句収載? 「軽挙観(館)句藻」第三冊目? 「抱一」の号初出。)
第六編「うしおのおと(潮の音)」(「千束の稲」と「潮の音」の中間の句収載?)
第七編「かみきぬた(帋きぬた)」(文化五年(一八〇八)、四十八歳時からの句収載? 「軽挙観」の号初出。)
第八編「花ぬふとり(花縫ふ鳥)」(文化九年(一八一二)、五十二歳、自撰句集『屠龍之技』編集、刊行は翌年か? 「帋きぬた」以後の句収載?)
第九編「うめの立枝」

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)の「千づかのいね」)

 「千都かのいね」(「千づかのいね」「千束の稲」)は、『軽挙観(館)句藻』(静嘉堂文庫所蔵・二十一巻十冊)収録の「千づかのいね」(自筆句集の題名)を、刊本の自撰句集『屠龍之技』の第五編に収載したものなのであろう。
 この第五編「千づかのいね」(『日本名著全集江戸文芸之部第二十七巻(追加編二巻)俳文俳句集(日本名著全集刊行会編)』)の六句目「夕露や小萩かもとのすずり筥」が、冒頭の、
抱一画集『鶯邨画譜』所収「萩図」の賛(発句=俳句)ということになろう。
 そして、四句目の「其夜降(る)山の雪見よ鉢たゝき」の前書き「水無月なかば鉢叩百之丞得道して空阿弥と改、吾嬬に下けるに発句遣しける」は、六句目の「夕露や小萩がもとのすゞり筥」にも掛かるものと解したい。
 この前書きの「鉢叩百之丞得道して空阿弥と改(め)」の、「鉢叩百之丞」は、其角の『五元集拾遺』(百万坊旨原編)に出て来る「鉢たゝきの歌」などに関係する、抱一の俳諧師仲間の一人なのであろう。

   鉢たゝきの歌
 鉢たゝき鉢たゝき   暁がたの一声に
 初音きかれて     はつがつを
 花はしら魚      紅葉のはぜ
 雪にや鰒(ふぐ)を  ねざむらん
 おもしろや此(この) 樽たゝき
 ねざめねざめて    つねならぬ
 世を驚けば      年のくれ
 気のふるう成(なる) ばかり也
 七十古来       稀れなりと
 やつこ道心      捨(すて)ころも
 酒にかへてん     鉢たゝき
 あらなまぐさの    鉢叩やな
  凍(コゴエ)死ぬ身の暁や鉢たゝき    其角

 ちなみに、『去来抄』の「鉢扣ノ辞」(『風俗文選』所収)に、「鉢叩月雪に名は甚之丞」(越人)の句もあり、「鉢叩百之丞」は、その「鉢叩甚之丞」などに由来のある号なのであろう。

  水無月なかば
  鉢叩百之丞得
  道して空阿弥
  と改、吾嬬に
  下けるに発句
  遣しける
 夕露や小萩がもとのすゞり筥

 句意は、「俳諧師仲間の鉢叩百之丞が、得度して出家僧・空阿弥となったが、折しも、小萩に夕べの露が下り、その露を硯の水とし、得度の形見に発句を認めよう」というように解して置きたい。

  朝妻ぶねの賛
2 藤なみや紫さめぬ昔筆  (第五 千づかのいね)


 この前書きの「朝妻船(浅妻船)」を画題としたもので、最も知られているものは、英一蝶の「朝妻舟図」であろう。


英一蝶筆「朝妻舟」(板橋区立美術館蔵)

 この一蝶の「朝妻舟」の賛は、「仇しあだ浪、よせてはかへる浪、朝妻船のあさましや、
ああまたの日は誰に契りをかはして色を、枕恥かし、いつはりがちなるわがとこの山、よしそれとても世の中」という小唄のようである。
 一蝶は、この小唄に託して、時の将軍徳川家綱と柳沢吉保の妻との情事を諷したものとの評判となり、島流しの刑を受けたともいわれている。
 朝妻は米原の近くの琵琶湖に面した古い港で、朝妻船とは朝妻から大津までの渡し舟のこと。東山道の一部になっていた。「朝妻舟」図は、「遊女と浅妻船と柳の木の組み合わせ」の構図でさまざまな画家が画題にしている。
 「琵琶湖畔に浮かべた舟(朝妻船・浅妻船)」・「平家の都落ちにより身をやつした女房たちの舟の上の白拍子」・「白拍子が客を待っている朝妻の入り江傍らの枝垂れ柳」が、この画の主題である。
 しかし、抱一の、この句は、「枝垂れ柳」(晩春)ではなく、「藤波・藤の花房」(晩春)の句なのである。この「朝妻舟」の画題で、「枝垂れ柳」ではなく「藤波」のものもあるのかも知れない。
 それとも、この「藤なみ(波・浪)」は、その水辺の藤波のような小波を指してのものなのかも知れない。
 抱一らの江戸琳派の多くが、「藤」(藤波)を画題にしているが、「朝妻舟」を主題にしたものは、余り目にしない。


抱一画集『鶯邨画譜』所収「藤図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html



先に、次のアドレスで、鈴木蠣潭画・酒井抱一賛の師弟合作の「藤図扇面」について紹介した。上記の「藤図」は、その蠣潭の「藤図」と関係が深いものなのであろう。その画像とその一部の紹介記事を再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-24


(再掲)

鈴木蠣潭筆「藤図扇面」 酒井抱一賛 紙本淡彩 一幅 一七・一×四五・七㎝ 個人蔵 
【 蠣潭が藤を描き、師の抱一が俳句を寄せる師弟合作。藤の花は輪郭線を用いず、筆の側面を用いた付立てという技法を活かして伸びやかに描かれる。賛は「ゆふぐれのおほつかなしや藤の茶屋」。淡彩を滲ませた微妙な色彩の変化を、暮れなずむ藤棚の下の茶店になぞらえている。】(『別冊太陽 江戸琳派の美』)

 この抱一・蠣潭の合作の「藤図扇面」の、抱一の賛(発句=俳句)「ゆふぐれのおほつかなしや藤の茶屋」は、抱一句集『屠龍之技』には収載されていないようである。その『屠龍之技』に収載されている句の中では、下記のものなどが、その賛の発句(俳句)に関係があるような雰囲気である。

   文晁が畫がける山水のあふぎに
 夕ぐれや山になり行(く)秋の雲

 この抱一の句は、前書きの「文晁が畫がける山水のあふぎに」(畏友・谷文晁が描いた「山水図」の扇)に、画・俳二道を極めている「酒井鶯邨(抱一)」が、その「賛」(発句=俳句)を認めたものなのであろう。

 当時の江戸(武蔵)の、今の「上野・鶯谷」(「下谷」=「鶯邨」=「鶯村)の「三幅対」といわれた「亀田鵬斎(儒学者・書家・文人)・酒井抱一(絵師・俳人・権大僧都)・谷文晁(絵師=法眼・松平定信の近習)の、この三人の交遊関係は、当時の「化政文化期」を象徴するものであった。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-25


https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-30


(再掲)

ここに登場する「下谷の三幅対」と称された、年齢順にして、「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」とは、これは、まさしく、「江戸の三幅対」の言葉を呈したい位の、まさしく、切っても切れない、「江戸時代(三百年)」の、その「江戸(東京)」を代表する、「三幅対」の、それを象徴する「交友関係」であったという思いを深くする。
 その「江戸の三幅対」の、「江戸(江戸時代・江戸=東京)」の、その「江戸」に焦点を当てると、その中心に位置するのが、上記に掲げた「食卓を囲む文人たち」の、その長老格の「亀田鵬斎」ということに思い知るのである。
 しかも、この「鵬斎」は、抱一にとっては、無二の「画・俳」友である、「建部巣兆」の義理の兄にも当たるのである。
上記の、『江戸流行料理通大全』の、上記の挿絵の、その中心に位置する「亀田鵬斎」とは、「鵬斎・抱一・文晃」の、いわゆる、「江戸」(東京)の「下谷」(「吉原」界隈の下谷)の、その「下谷の三幅対」と云われ、その三幅対の真ん中に位置する、その中心的な最長老の人物が、亀田鵬斎なのである。
 そして、この三人(「下谷の三幅対」)は、それぞれ、「江戸の大儒者(学者)・亀田鵬斎」、「江戸南画の大成者・谷文晁」、そして、「江戸琳派の創始者・酒井抱一」と、その頭に「江戸」の二字が冠するのに、最も相応しい人物のように思われるのである。
 これらの、江戸の文人墨客を代表する「鵬斎・抱一・文晁」が活躍した時代というのは、それ以前の、ごく限られた階層(公家・武家など)の独占物であった「芸術」(詩・書・画など)を、四民(士農工商)が共用するようになった時代ということを意味しよう。
 それはまた、「詩・書・画など」を「生業(なりわい)」とする職業的文人・墨客が出現したということを意味しよう。さらに、それらは、流れ者が吹き溜まりのように集中して来る、当時の「江戸」(東京)にあっては、能力があれば、誰でもが温かく受け入れられ、その才能を伸ばし、そして、惜しみない援助の手が差し伸べられた、そのような環境下が助成されていたと言っても過言ではなかろう。
 さらに換言するならば、「士農工商」の身分に拘泥することもなく、いわゆる「農工商」の庶民層が、その時代の、それを象徴する「芸術・文化」の担い手として、その第一線に登場して来たということを意味しよう。
 すなわち、「江戸(東京)時代」以前の、綿々と続いていた、京都を中心とする、「公家の芸術・文化」、それに拮抗しての全国各地で芽生えた「武家の芸術・文化」が、得体の知れない「江戸(東京)」の、得体の知れない「庶民(市民)の芸術・文化」に様変わりして行ったということを意味しょう。

鈴木其一筆『草花十二ヵ月画帖』(MOA美術館蔵)所収「五月」(紙本著色、十六・七×二一・二㎝)

 この『草花十二ヵ月画帖』のものについては、下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-10-05



鈴木其一筆『月次花鳥画帖』(細見美術館蔵)所収「四月」(藤図・絹本著色、二〇・二×一八・四㎝)

 これらの其一の画帖は、抱一の『鶯邨画譜』(版本)を念頭に置いてのものとうよりも、抱一の『絵手鑑』(肉筆画)に近い、其一の「絵手本」として制作されたものなのかも知れない(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説137(岡野智子稿))。

抱一画集『鶯邨画譜』所収「唐橘図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html


3 百両と書(かき)たり年の関てがた(第五 千づかのいね)

 この句は、植物の「百両(唐橘)」(三冬)の句ではなく、関所手形・往来手形などの句で、「年の関てがた(手形)」の「新年」の句であろう。
 そして、「万両(藪橘)」「千両(草珊瑚)」「百両(唐橘)」「十両(藪柑子・山橘)」「一両(蟻通)」は、何れも秋から冬に赤熟し、「三冬」の季語であるが、正月の飾りものとして、ここでは、「年の関てがた」の「年」に掛かり、「年立つ(新年)」の意を兼ねての用例と解したい。
 この句の主題は、下五の「関てがた」で、その「関所手形」(この句では女性の旅の必須の「女手形」?)の手続きは、「大家→町名主→町年寄→奉行所→江戸城留守居役」の手続きを経て発行されるなど、それらと、この上五の「百両」(そして「唐橘」)が関係しているような、そんなことが、この句の背景なのかも知れない。

 下記のアドレスで、先に、「藪柑子と竹籠図」について触れた。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-10-07


 この「藪柑子(山橘)」は、別名が「十両」で、『屠龍之技』には、「十両」の句は見当たらない。「千両」の句は、下記の句が収載されている。

4 千両で売るか小倉の初しぐれ(第九 梅の立枝)

 しかし、この句は、「万両(藪橘)・千両(草珊瑚)・百両(唐橘)・十両(藪柑子・山橘)・一両(蟻通)」などの植物の句ではない。「初しぐれ(時雨)」(初冬)の句である。この句の「小倉」は、藤原定家が百人一首を編纂した京都の小倉山の麓・嵐山の「時雨殿(しぐれでん)」を指しているのだろう。その「小倉」の「時雨殿」の「初時雨」は何とも風情があり、「千両で売ろうか」との、抱一の粋な洒落の一句ということになる。

5 一文の日行千里としのくれ(第五 千づかのいね)

 この句の前には、「歳暮」との前書きがある。抱一の時代(江戸時代中後期)の「一両」(現代=約七万五千円)は「六千五百文」で、「一文」は「約十二円」とかが、下記のアドレスで紹介されている。

https://komonjyo.net/zenika.html

 「一文の日行千里としのくれ」の「日行千里」は、四字熟語の感じだが、「一文の日行千里としのくれ」は、字義とおりに解すれば、「歳の暮れにあたり、一文無しに近い日々を重ねて、思えば遥かにも千里の道を来たかわい」というようなことであろう。

   鳥既に闇り峠(くらがりとうげ)年立つや (早野巴人『夜半亭発句帖』)

 抱一の俳諧の師の馬場存義を介すると、抱一の兄弟子にも当たる与謝蕪村の俳諧の師・早野巴人(馬場存義と同じく其角系の江戸座の俳人)の「年立つや」(年立ちかえる)の一句である。
この句の「鳥(とり)」は「掛けとり・借金とりの『とり(鳥)』」で、大晦日に駆けずり廻り、「大晦日は一日千金」の「掛け売りの借金取り」が、その裏(ウラ)の意のようである。
そして、この「闇り峠」は、松尾芭蕉が奈良から大坂へ向かう途中この峠で、「菊の香にくらがり越ゆる節句かな」を詠んだ、その古道の峠であるが、ここでは大晦日の闇夜の暗がり峠の意をも込めている。
そして、「年立つや」は、「大晦日が過ぎて新しい年を迎えたのであろうか」という意である。
即ち、この巴人の句は、「大晦日の借金取りは、私の所まで手が廻らず、大晦日が過ぎて新年を迎えることが出来れば、また、一年、借金返済の猶予の口実が出来るわい」というようなことのようである。
 抱一の、上記の、「百両・千両・一文」の句などは、間違いなく、この巴人の「年立つや」の句と、同じ世界のものという雰囲気を有している

抱一句集『屠龍之技』「第四椎の木かげ」(1~5)

  重陽
 1 太刀懸に菊一(ひ)とふりやけふの床 (第四 椎の木かげ)
 2 見劣(みおとり)し人のこゝろや作りきく (第四 椎の木かげ)

抱一画集『鶯邨画譜』所収「流水に菊」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 「光琳意匠」の代表的な「流水紋様」と「菊紋様」との組み合わせで、これらの全体像は、下記のアドレスに詳しい。

http://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/20/kawaii.html


• い:金井紫雲編『芸術資料』第1期 第11冊,芸艸堂,昭和16(1941)【K231-35】
• ろ:金井紫雲編『芸術資料』第3期 第7冊,芸艸堂,昭和16(1941)【K231-35】
• は:中村芳中画『光琳畫譜』和泉屋庄次郎,文政9(1826)【午-24】
• に:抱一筆『鶯邨畫譜』須原屋佐助,1800年代【か-44】
• ほ:中村芳中画『光琳畫譜』和泉屋庄次郎,文政9(1826)【午-24】
• へ:恩賜京都博物館編『抱一上人画集』芸艸堂,昭和5(1930)【424-52】
• と:金井紫雲編『芸術資料』第3期 第7冊,芸艸堂,昭和16(1941)【K231-35】
• ち:中野其明編『尾形流略印譜』春陽堂,明治25(1892)【15-156】
• り:神坂雪佳『百々世草』山田芸艸堂,明治42-43(1909-1910)【406-32】
• ぬ:法橋光琳画『光琳扇面画帖』小林文七,明治34(1901)【寄別4-3-2-3】
• る:中村芳中画『光琳畫譜』和泉屋庄次郎,文政9(1826)【午-24】
• を:石井柏亭編『浅井忠 画集及評伝』芸艸堂,昭和4(1929)【553-116】
• わ:恩賜京都博物館編『抱一上人画集』芸艸堂,昭和5(1930)【424-52】
• か:池田孤村『池田孤村画帖』写【寄別1-7-2-2】
• よ:金井紫雲編『芸術資料第一期 第三冊』芸艸堂,昭和16(1941)【K231-35】
• た:中村芳中画『光琳畫譜』和泉屋庄次郎,文政9(1826)【午-24】
• れ:中村芳中画『光琳畫譜』和泉屋庄次郎,文政9(1826)【午-24】
• そ:抱一筆『鶯邨畫譜』須原屋佐助,1800年代【か-44】
• つ:帝國博物館編『稿本日本帝国美術略史』農商務省,明治34(1901)【貴7-126】
• ね:新古画粋社編『新古画粋 第9編(光琳)』新古画粋社,大正8(1919)【421-1】


抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)についても、下記のアドレスで、その全体像を見ることが出来る。

http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0001_m.html


http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0015_m.html


 「椎の木かげ」編の「重陽」の二句。上記の「見劣し人のこゝろや作りきく」の後に、一行の空白がある。「重陽」の前書きは、次の菊の二句にかかる。

 太刀懸に菊一(ひ)とふりやけふの床
 見劣(みおとり)し人のこゝろや作りきく

3 菜の花や簇(むら)落(おとし)たる道の幅 (第四 椎の木かげ)    

抱一画集『鶯邨画譜』所収「奈の花図」(「早稲田大学図書館」蔵)

 抱一句集『屠龍之技』の「菜の花」の句に次のような句がある。

  菜の花や簇(むら)落(おとし)たる道の幅 

 この句の情景は、どのようなものなのであろうか。とにかく、抱一の句は、其角流の「比喩・洒落・見立て・奇抜・奇計・難解」等々、現代俳句(「写生・写実」を基調とする)の物差しでは計れないような句が多い。
 しかし、江戸時代の俳句(発句)であろうが、現代俳句であろうが、「季題(季語)・定形。切字・リズム・存問(挨拶)・比喩・本句(歌・詩・詞)取り」等々の、基本的な定石というのは、程度の差はあるが、その根っ子は、同根であることは、いささかの変わりはない。

 ここで、同時代(江戸時代中期=「蕪村」、江戸時代後期=「抱一」)の、同一系統(其角流「江戸座」俳諧の流れの「蕪村・抱一」)の、蕪村の同一季題(季語)の句などを、一つの物差しにして、この抱一の句の情景などの背景を探ることとする。

  菜の花や和泉河内へ小商ひ (蕪村 明和六年=一七六九 五十四歳)

 この「和泉河内」は、現大阪の南部で、当時の「菜種油」の産地である。一面の菜の花畑が、この句の眼目である。抱一の「菜の花や」の「上五『や』切り」でも、「菜種油=一面の菜の花畑」は背後にあることだろう。

  菜の花や壬生の隠れ家誰だれぞ (蕪村 明和六年=一七六九 五十四歳)

 この句の「壬生」は、現京都市中京句で、「壬生忠岑の旧知」である。抱一の句の「道の幅」の「道」も、抱一旧知の「「誰だれ」が棲んでいたのかも知れない。

  菜の花や油乏しき小家がち  (蕪村 安永二年=一七七三 五十八歳)   

 「一面の菜の花畑」は「満地金のごとし」と形容される。その一面の菜の花畑とその菜の花から菜種を取る農家の家は貧しい小家を対比させている。ここには「諷刺」(皮肉・穿ち)がある。抱一の句の「落(おとし)たる」「道の幅」などに、この「穿ち」の視線が注がれている。

  菜の花や月は東に日は西に   (蕪村 安永三年=一七七四 五十九歳) 

 蕪村の傑作句の一つとされているこの句は、「東の野にかぎろひの立つ見えて顧りみすれば月傾きぬ(柿本人麿『万葉集』)の本歌取りの句とされている。しかし、洒落風俳諧に片足を入れている蕪村は、その背後に、「月は東に昴(すばる)は西にいとし殿御(とのご)は真中に」(「山家鳥虫歌・丹後」)の丹後地方の俗謡を利かせていることも。夙に知られている。この句は、蕪村の後を引き継いで夜半亭三世となる高井几董の『附合(つけあい)てびき蔓(づる)』にも採られており、俳諧撰集『江戸続八百韻』(寛政八年=一七九六、三十六歳時編集・発刊)を擁する抱一も、おそらく、目にしていると解しても、それほど違和感はないであろう。

 ここでは、その『附合(つけあい)てびき蔓(づる)』(几董編著)ではなく、『続明烏』(几董編著)の「菜の花や」(歌仙)の「表(おもて)」の六句を掲げて置きたい。

  菜の花や月は東に日は西に    (蕪村、季語「菜の花」=春)
   山もと遠く鷺かすみ行(ゆく) (樗良、季語「かすみ」=春)
  渉(わた)し舟酒債(さかて)貧しく春暮れて(几董、「季語「春」=春)
   御国(おくに)がへとはあらぬそらごと (蕪村、雑=季語なし)
  脇差をこしらへたればはや倦(うみ)し  (樗良、雑=季語なし)
   蓑着て出(いづ)る雪の明ぼの     (几董、季語「雪」=冬)

 この「俳諧」(「歌仙」=三十六句からなる「連句」)の一番目の句(発句)を、抱一の句(俳句=発句)で置き換えてみたい。

  菜の花や簇(むら)落(おとし)たる道の幅 (抱一、季語「菜の花」=春)
   山もと遠く鷺かすみ行(ゆく)      (樗良、季語「かすみ」=春)
  渉(わた)し舟酒債(さかて)貧しく春暮れて(几董、「季語「春」=春)
   御国(おくに)がへとはあらぬそらごと  (蕪村、雑=季語なし)
  脇差をこしらへたればはや倦(うみ)し   (樗良、雑=季語なし)
   蓑着て出(いづ)る雪の明ぼの      (几董、季語「雪」=冬)

 これは、蕪村の発句が、生まれ故郷の「浪華」(「和泉河内」を含む)や現在住んでいる京都(「島原」)辺りの句とするならば、抱一の句は「武蔵」、そして、『軽挙館句藻』に出てくる「千束村(浅草寺北の千束村)に庵むすびて」の「吉原」辺りの句と解したい。
 その上で、当時の抱一に焦点を当てて、これら六句の解説を施して置きたい。

(発句)菜の花や簇(むら)落(おとし)たる道の幅  抱一

 簇(むら)」は、「菜の花の叢(むら・群生)の意に解したい。「道の幅」の「幅」は、「ふち・へり」の方が句意を取りやすい。句意は、「(千束村から吉原に行く)道すがら、その道の両側には、菜の花が、まるで、取り残されたように、群れ咲いている」。

(脇)山もと遠く鷺かすみ行(ゆく)   樗良

 「雪ながら山もと霞む夕べかな(宗祇)/行く水遠く梅匂ふ里(肖白)」(『水無瀬三吟』)を踏まえている。抱一に「菜の花に雲雀図」(「十二ケ月花鳥図・二月」)がある。

(第三)渉(わた)し舟酒債(さかて)貧しく春暮れて  几董

 「詩商人(あきんど)年を貧(むさぼ)る酒債かな」(其角『虚栗』)を踏まえてのものであろう。抱一は、文化三年(一八〇六、四十六歳)の、其角百回忌に際し、「其角肖像百幅」を制作するとの落款(印章)があるほど、其角に私淑していた。

(四)御国(おくに)がへとはあらぬそらごと      蕪村

 抱一は、天明元年(一七八一、二十一歳)に。兄の姫路藩主・忠以に従い上洛し(光格天皇即位の奉賀)、その折り姫路城まで足を伸ばしている。大名家にとっては、「御国替え」というのは、一大事のことであった。

(五)脇差をこしらへたればはや倦(うみ)し     樗良

  寛政九年(一七九七、三十七歳)に出家し、「等覚院文詮暉真」の法名を名乗る前は、酒井雅楽頭家の藩主に次ぐ、次男の「忠因(ただなお)」がその本名であり、脇差は必携のものであったろう。

 もとより、上記のものはバーチャル(仮想の「そらごと」)のものであるが、町絵師風情の蕪村よりも、風流大名家の一員の抱一の世界に、より多く馴染むような、そんな内容の運びであるということを付記して置きたい。

酒井抱一筆「十二ヵ月花鳥図」 絹本著色 十二幅の六幅 各一四〇・〇×五〇・〇
(「宮内庁三の丸尚蔵館」蔵) 右より 「一月 梅図に鶯図」「二月 菜花に雲雀図」「三月 桜に雉子図」「四月 牡丹に蝶図」「五月 燕子花に水鶏図」「六月 立葵紫陽花に蜻蛉図」

酒井抱一筆「十二ヵ月花鳥図」 絹本著色 十二幅の六幅 各一四〇・〇×五〇・〇
(「宮内庁三の丸尚蔵館」蔵) 右より 「七月 玉蜀黍朝顔に青蛙図」「八月 秋草に螽斯(しゅうし=いなご)図」「九月 菊に小禽図」「十月 柿に小禽図」「十一月 芦に白鷺図」「十二月 檜に啄木鳥図」

【 十二の月に因む植物と鳥や昆虫を組み合わせ、余白ある対角線構図ですっきりかつ隙のない構成で描き出す。いかにも自然だと共感できる姿が選び抜かれ、モチーフ相互の関係も絶妙に作られている。多くの十二ヵ月花鳥図の中で、唯一、終幅に「文政癸未年」(文政六年=一八二三)と年紀があり、抱一六十三歳の作とわかる基準作。抱一が晩年に洗練を究めた花鳥画の到達点であり、伏流となって近現代まで生き続ける江戸琳派様式の金字塔である。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説162(松野知子稿)」)

 この「十二ヵ月花鳥図」は、十二の月に因む花と鳥(虫)とを組み合わせた連作もので、上記の「宮内庁三の丸尚蔵館本」の他に、「畠山記念館本」「出光美術館本」「香雪美術館本」「ブライス・コレクション本」「ファインバーグ・コレクション本」などが現存している。  

 これらは、その制作当初はいずれも六曲一双の屏風に貼られていたと推察されている(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「江戸風流を描く(岡野智子稿)」)。そして、「『十二ヵ月花鳥図』は好評を得たらしく、いくつもの作例があるが、なかには構図に締まりのないものや、緊張感の緩んだ筆致も見られる。雨華庵には多くの弟子を抱えた工房を形成しており、『十二ヵ月花鳥図』のような手のかかる作品の注文に、複数の弟子が分担して関与していた可能性は低くない」と指摘している(岡野「前掲稿」)。

 抱一の作品には、最初の弟子(抱一の付き人)の鈴木蠣潭や蠣潭の後継者の鈴木其一などの代筆などか多いことは、夙に知られているところで(『日本絵画の見方(榊原悟著)』)、
この抱一の晩年の頃の『十二ヵ月花鳥図』の連作については、抱一の後継者となる酒井鶯蒲などが深く関わっているのであろう。

 鶯蒲が、抱一、妙華尼の養子になるのは文政元年(一八一八)、抱一、五十八歳、鶯蒲が十二歳の時であった。文政八年(一八二五、抱一、六十五歳、鶯蒲、二十一歳)の抱一の年譜に「鶯蒲とともに扇子を水戸候に献上」とあり、抱一の晩年の頃には、其一以上に、この鶯蒲などの出番が多かったことであろう。

 ここで、抱一の時代(江戸時代)の絵画というのは、チーム(工房など)の共同(協同)制作などをベースにしており、作者に代わって制作するなどの、いわゆる代筆などにおいても、今よりも寛容の度合いは緩やかなものであったということは理解して置く必要があろう。

 これは、当時の俳諧(俳句・連句)の世界においては、絵画の世界より以上に、チーム(座)をリードする主宰者(宗匠=捌き、助手=執筆)の「選別・推敲・一直(手直し)」などが基本になっており、その作者のオリジナル(独創性など)なものは、逆に排除され、最終的な作品は、個々の作品というよりも、そのチーム(座)の、そのメンバー(連衆)の「総意」のようなものが、それこそ「創意」と同一視されるような世界と言っても、決して、過ちでもなかろう。

 そして、このような、「美術(絵画)と俳諧(俳句・連句)」との接点の上で、とりわけ、抱一の、この『鶯邨画譜』を見ていくと、抱一の世界の底流に流れているもの基本的なものが浮かび上がってくるような思いを深くする。

4 黒楽の茶碗の欵(かん)やいなびかり (第四 椎の木かげ)


抱一画集『鶯邨画譜』所収「白椿に楽茶碗図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html


 抱一句集『屠龍之技』には、「白椿」の句は目にしないが、次の「黒楽焼茶碗」の句が収載されている。

  黒楽の茶碗の欵(かん)やいなびかり

 中七の「茶碗の欵(かん)や」の「欵(かん)」は、「親しみ・よしみ」の意なのであろうか。下五の「いなびかり」は、季語の「稲光」で、「雷」が夏の季語とすると秋の季語ということになる。蕪村にも「稲妻」(稲光)の句が多い。

  稲づまや浪もてゆへる秋津島 (蕪村 明和五年=一七六八 五十三歳)
  いな妻の一網うつや伊勢の海 (同上)
  いな妻や秋津島根のかゝり舟 (同上)
  稲妻や海ありがほの隣国   (同上)

 「稲妻」と大景の「秋津島(日本の古称)・伊勢の海・秋津島根(日本の古称)・隣国(中国・朝鮮)」との取り合わせの句であろう。

  稲妻にこぼるゝ音や竹の音  (蕪村 年次未詳)

 視覚的な「稲妻」と聴覚的な「竹の音」との取り合わせの句、何とも感覚的な句作りである。
 抱一の句も、「黒楽焼茶碗」の「黒」と「稲光」の「一閃・閃光」との取り合わせの句と解したい。句意は、「常時慣れ親しんでいる黒楽焼茶碗、一閃の稲光で、その黒さが見事である」というようなことであろう。

  古庭に茶筌花咲く椿哉  (蕪村 明和六年=一七六九 五十四歳)

 この蕪村の句の句意は、「茶室の古庭に茶筌のような椿が咲いている」というようなことであろう。抱一の、上記の「白椿に楽茶碗図」は、「茶室の黒焼茶碗の脇に茶筌のような白椿が活けられている」というような光景であろう。

鈴木蠣潭筆「白椿に楽茶碗図扇面」一幅 紙本著色 一六・〇×四五・六㎝ 個人蔵

 抱一の附人で、抱一の助手として傍に仕えた鈴木蠣潭の「白椿に楽茶碗図」である。この蠣潭は二十六歳の若さで狂犬病により急死した。その跡を継いだのが、当時、二十二歳の鈴木其一である。その其一にも、同じ画題のものがある。

鈴木其一筆「白椿に楽茶碗図」(「諸家寄合書画帖」のうち)一枚(一帖のうち)絹本著色
二五・七×二九・三㎝ 個人蔵
【 黒楽茶碗に白椿の折り枝を取り合わせた小品で、江戸時代後期に活躍した日本各地の漢詩人、書家、画家らの作品計八十三葉を貼り込んだ画帖の一葉である。其一に関係の深い人物としては、師の酒井抱一、谷文晁・文一父子、松本交山、大田南畝などがいる。本作は黒楽茶碗の表現が秀逸で、光を含んだ胴のぬらりとした肌合いを、墨の滲みを効かせたうるおいある筆で表している。また、口造りや腰の部分に見える粗く擦れた筆致は、艶のないかせた肌合いを表現したものと思われ、細部に脂ののった其一の画技が冴える。黒楽茶碗の右端に、隠し落款のように「噲々其一」と金泥で記すところなど心憎い仕掛けである。署名の下に「元長」(朱文壺印)が捺される。  】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手(岡野智子他執筆)』所収「作品解説65(久保佐知恵稿)」)

其一には、掛幅ものの「白椿に楽茶椀花鋏図」もある。また、「鈴木其一書状」の中に、「小絹茶碗椿出来仕り候間御使へ差上申候」と記したものものあり、「茶道や華道に嗜みのある江戸の文化人に好まれた画題であった」のであろう(『岡野他・前掲書』所収「作品解説87」)。

鈴木其一筆「白椿に楽茶碗花鋏図」 一幅 絹本著色 九㈣・六×三二・四㎝ 細見美術館蔵

 こういう、蠣潭や其一の「白椿に楽茶碗図」を見てくると、冒頭の『鶯邨画譜』の「白椿に楽茶碗」の画題というのは、抱一よりも、蠣潭や其一が好んで手掛けたもののように思われる。

 「酒井抱一書状巻」(ミシガン大学本)の中に、次のようなものがある。

「此四枚、秋草、何かくもさつと代筆、御したため可被下候、尤いそぎ御座候間、その思召にて、明日までに奉頼入候  十二日  抱(注・抱一)  必庵 几下 」

 この「必庵」は、鈴木蠣潭の号の一つであり、蠣潭宛てのものと解されているが、其一は、蠣潭から、この号を継受されており、同書状に出てくる「為三郎」(鈴木其一)の号の一つの鈴木其一宛とも解されている(『日本絵画の見方(榊原悟著)』)。

 酒井抱一の画業の背後には、抱一を取り巻く、蠣潭・其一等々の、「雨華庵」工房の優れた絵師たちが、その手足になっていたことは、この書状などから明瞭になって来よう。この『鶯邨画譜』などは、とりわけ、鈴木其一の「雑画巻(一巻)」(出光美術館蔵)などと極めて親近感の強いものであることは付記して置く必要があろう。

抱一画集『鶯邨画譜』所収「梨図」(「早稲田大学図書館」蔵)抱一画集『鶯邨画譜』所収「梨図」
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

5  遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな (第四 椎の木かげ)

 『屠龍之技』の「第七 椎の木かげ」に収載されている、この句の前に、「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」との前書きがある。

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)
http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0017_m.html



この寛政九年(一七八九)、抱一、三十七歳時の「年譜」には、次のとおり記載されている。

【 九月九日、出家にあたり幕府に「病身に付」願い出。十月十六日、姫路藩より、千石五十人扶持を給することに決定する。抱一の付き人は、鈴木春草(藤兵衛)、福岡新三郎、村井又助。(御一代)
十月十八日、出家。西本願寺十六世文如上人の江戸下向に会して弟子となり、築地本願寺にて剃髪得度。法名「等覚院文詮暉真」。九条家の猶子となり準連枝、権大僧都に遇せられる。(御一代)酒井雅樂頭家の家臣から西本願寺築地別院に届けられる。(本願寺文書・関東下向記録類)
十一月三日より十二月十四日まで、挨拶のため上洛。< 抱一最後の上方行き >(御一代) 十一月十七日京都へ到着。俳友の其爪、古櫟、紫霓、雁々、晩器の五人が伴した。(句藻)
十二月三日、「不快に付」門跡に願い出て、京都を発つ。この間一度も西本願寺に参殿することはなかった。(御一代)
十二月十七日、江戸へ戻る。築地安楽寺に住むことになっていたか。(御一代・句藻)
年末、番場を退き払い、千束に転居。(句藻) 】

 遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな 

 この句は、抱一の出家の時の句ということになる。抱一の俳諧日誌『軽挙観句藻』には、この時の抱一の和歌も記載されている。

 いとふとてひとなとがめそ
     うつせみの世にいとわれし
            この身なりせば

 この「いとふ」は「厭ふ」で、「世を厭ふ」の「出家する」の意であろう。「ひとなとがめそ」は、「人な咎めそ」で、「な…そ」は「してくれるな」の意で、「私のことを咎めないで欲しい」という意になろう。「うつせみの世」は、「空蝉の世(儚い世)と現世(浮き世)」とを掛けての用例であろう。次の「いとわれし」は、ここでは、「出家する」という意よりも、「厭われる・敬遠される」の意が前面に出て来よう。
 この全体の歌意は、「出家することを、どうか、あれこれと咎めだてしないで欲しい。思えば、この夢幻のような現世(前半生)では、いろいろと、敬遠されることが多かったことよ」というようなことであろう。
 この出家の際の歌意をもってすれば、前書きのある、次の抱一の出家の際の句の意は明瞭となって来る。 

  遯るべき山ありの實の天窓哉

 この句の表(オモテ)の意は、「出家する僧門の天窓(てんそう・てんまど)には、その僧門の果実がたわわに実っています」というようなことであろう。
 そして裏(ウラ)の意は、「僧門に出家するに際して、天窓(あたま)を、丸坊主にし、『ありの実』ならず『無し(梨)の実』のような風姿であるが、これも『実(み)=身』と心得て、その身を宿世に委ねて参りたい」ということになる。

 抱一の、この出家に際しては、松平定信の寛政の改革、とりわけ、抱一の兄事していた亀田鵬斎らが弾劾される「異学の禁」に対する意見書などを幕府あて提出したなど、さまざまな流言がなされているが、その流言の確たるものは、不明のままというのが、その真相であろう。
 ただ一つ、掲出の、抱一の俳句と和歌とに照らして、抱一の出家は、抱一自身が自ら望んで僧籍に身を投じたことではないことは、これは間違いないことであろう。
 なお、「遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな」の、その「天窓(あたま)」の読みは、抱一の同時代の小林一茶(抱一より二歳年下)の、その文化十一年(一八一四)の、次の句などから明瞭である。

 三日月に天窓(あたま)うつなよほととぎす
  五十婿天窓(あたま)をかくす扇かな
  片天窓(あたま)剃て乳を呑夕涼


(参考:小林一茶『おらが春』・文化十一年)

https://blog.goo.ne.jp/kojirou0814/e/267f5ffa138227d3849117331f82c170

 雪とけて村一ぱいの子ども哉
 御雛をしやぶりたがりて這子(はふこ)哉

五十年一日の安き日もなく、ことし春漸く妻を迎へ、我が身につもる老を忘れて、凡夫の浅ましさに、初花に胡蝶の戯るゝが如く、幸あらんとねがふことのはづかしさ、あきらめがたきは業のふしぎ、おそろしくなん思ひ侍りぬ。

 三日月に天窓(あたま)うつなよほととぎす

千代の小松と祝ひはやされて、行すゑの幸有らんとて、隣々へ酒ふるまひて、

五十婿天窓(あたま)をかくす扇かな
 片天窓(あたま)剃て乳を呑夕涼
 子宝が蚯蚓のたるぞ梶の葉に

抱一句集『屠龍之技』「第三みやこどり」(1)

1 八橋やながるゝとしの畳臺 (第三 みやこどり)


抱一画集『鶯邨画譜』所収「燕子花図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html


 抱一の自撰句集『屠龍之技』には、「燕子花」の句は収載されていないようである。「八橋(やつはし)」の句は、冒頭の句が、その「第三 みやこどり」に収載されている。しかし、この「八橋」は、光琳や抱一が描く「八橋図屏風」などの、『伊勢物語』の、旧東海道池鯉鮒(ちりゅう)宿の「八橋」とは、関係のない一句のようである。

 この句の季語は「ながるゝ年」(年流る)の、押し詰まった年末の句のようである。 この句の主題は、その年末の「畳替え」の「畳台」なのである。その「畳台」が、「八橋」の、「池・小川などに、幅の狭い橋板を数枚、稲妻のような形につなぎかけた」のように見えるという、江戸座の俳諧師・抱一宗匠の見立ての一句ということになる。この句は、蕪村の、次の句に近い。

  行年や芥流る々さくら川    蕪村 「夜半亭」
  行年の脱けの衣や古暦    蕪村 「落日庵」

 ここでは、江戸座(其角・存義座)の俳諧宗匠・抱一の、その句よりも、江戸琳派の創始者・画人抱一の、その流れの「燕子花」図を主眼といたしたい。

  尾形光琳の、「燕子花図屏風」(国宝・根津美術館蔵)・「八橋図屏風」(メトロポリタン美術館蔵)・「八橋蒔絵螺鈿硯箱」(国宝・東京国立博物館蔵)・「伊勢物語八橋図」(東京国立博物館蔵・掛幅)・「燕子花図」(大阪市立博物館蔵・掛幅)そして、尾形乾山の「八ツ橋図」(国(文化庁)・重要文化財(美術品))などについては、次のアドレスで簡単な紹介をしている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-06


 また、酒井抱一の、「八橋図屏風」(出光美術館蔵)・「燕子花図屏風」(出光美術館蔵)、そして、『光琳百図』(尾形光琳画・酒井抱一編)所収「燕子花図屏風」などについて、下記のアドレスで紹介をしている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-07-27


 これらの、光琳・抱一の次代の江戸琳派の旗手・鈴木其一の「燕子花」図関連の大作ものは目にしない。しかし、其一には、「雑画巻」(出光美術館蔵)や『草花十二ヵ月画帖』(MOA美術館蔵)などで、その小品ものの「燕子花」図を目にすることが出来る。

鈴木其一筆『草花十二ヵ月画帖』(MOA美術館蔵)所収「五月」(紙本著色、十六・七×二一・二㎝)

 「月次の草花を十二枚に描き、画帖としたもの」の、「五月」の図柄である。この図柄は「藤と燕子花」であろう。其一は、この画帖とは別に、『月次花鳥画帖』(細見美術館蔵)という画帖もあり、その画帖には「燕子花」図はなく、「藤」図が「四月」に描かれている。
 其一には、これらの画帖の他に、「十二ヵ月花木短冊」(個人蔵)、「十二ヵ月花鳥図扇面」(ファインバーグ・コレクション)、「十二ヵ月図扇」(太田記念美術館蔵)など、「四季の花卉」などを「十二ヵ月に描き分ける」という趣向のものが多い。この趣向は、「師の抱一が確立したもので、人気が高く、かなりの需要があったようである」(『鈴木其一 江戸琳派の旗手 図録』所収「作品解説135 十二ヵ月花鳥図短冊」)。
 上記の『鶯邨画譜』所収「燕子花図」は、上記の其一の『草花十二ヵ月画帖』所収「五月」(「燕子花」図)のマニュアル(抱一筆)と解しても差し支えなかろう。
 そして、この「燕子花」図は、「抱一→其一→其明→其玉」と、脈々と受け継がれて行くのである。

中野其玉筆『其玉画譜』(小林文七編・ARC古典籍ポータルデータベース)所収「燕子花図」
www.dh-jac.net/db1/books/results-thum.php?f1=BM-JH398&f12=1&-sortField1=f8&-max=30&enter=portal

抱一句集『屠龍之技』「第二かぢのおと」(1~4)

1 名月や硯のうみも外(そと)ならず (第二 かぢのおと) 


抱一画集『鶯邨画譜』所収「紫式部図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html


 この「紫式部図」は、『光琳百図』(上巻)と同じ図柄のものである。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850491


 光琳百回忌を記念して、抱一が『光琳百図』を刊行したのは、文化十二年(一八一五)、五十五の時、『鶯邨画譜』を刊行したのは、二年後の文化十四年(一八一七)、五十七歳の時で、両者は、同じ年代に制作されたものと解して差し支えない。
 両者の差異は、前者は、尾形光琳の作品を模写しての縮図を一冊の画集にまとめたという「光琳縮図集」に対して、後者は、抱一自身の作品を一冊の絵手本の形でまとめだ「抱一画集」ということで、決定的に異なるものなのだが、この「紫式部図」のように、その原形は、全く同じというのが随所に見られ、抱一が、常に、光琳を基本に据えていたということの一つの証しにもなろう。

尾形光琳画「紫式部図」一幅 MOA 美術館蔵

 落款は「法橋光琳」、印章は「道崇」(白文方印)。この印章の「道崇」の号は宝永元年(一七〇四)より使用されているもので、光琳の四十七歳時以降の、江戸下向後に制作したものの一つであろう。
 この掛幅ものの「紫式部図」の面白さは、上部に「寺院(石山寺)」、中央に「花頭窓の内の女性像(紫式部)」、そして、下部に「湖水に映る月」と、絵物語(横)の「石山寺参籠中の紫式部」が掛幅(縦)の絵物語に描かれていることであろう。
 この光琳の「紫式部図」は、延宝九年(一六八一)剃髪して常昭と号し、法橋に叙せられた土佐派中興の祖・土佐光起の、次の「石山寺観月の図」(MIHO MUSEUM蔵)などが背景にあるものであろう。

http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00001352.htm



抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)
http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0009_m.html


 名月や硯のうみも外(そと)ならず  

 「かぢのおと(梶の音)」編の、「紫式部の畫の賛に」の前書きのある一句である。この句は、上記の『鶯邨画譜』の「紫式部図」だけで読み解くのではなく、光琳の「紫式部図」や土佐光起の「石山寺観月の図」などを背景にして鑑賞すると、この句の作者、「尻焼猿人・
屠龍・軽挙道人・雨華庵・鶯村」こと「抱一」の、その洒落が正体を出して来る。
 この句の「外ならず」は、「外(ほか)ならず」ではなく、「外(そと)ならず」の「詠みと意味」ということになろう。

2 野路や空月の中なるおみなへし (第二 かぢのおと) 

抱一画集『鶯邨画譜』所収「葛図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html


 抱一の代表作は、光琳の「風神雷神図屏風」の裏面に描いた「夏秋草図屏風」(二曲一双)が挙げられるであろう。その左隻の「秋草図」には、「ススキ・オミナエシ・フジバカマ・クズ」が描かれている(下記の左方の「紅白」が「クズ」、その下方に「フジバカマ」、右方の「紅」は「オミナエシ」)。

酒井抱一筆「夏秋草図屏風」の左隻の部分図

酒井抱一筆「月に秋草図屏風」六曲一隻 東京国立博物館寄託

 この「月に秋草図屏風」は、夏目漱石の「門」に出てくる。

「下に萩、桔梗、芒、葛、女郎花を隙間なく描いた上に、真丸な月を銀で出して、其横の空いたところへ、野路や空月の中なる女郎花、其一と題してある。
宗助は膝を突いて銀の色の黒く焦げた辺から、葛の葉の風に裏を返してゐる色の乾いた様から、大福程な大きな丸い朱の輪廓の中に、抱一と行書で書いた落款をつくづくと見て、
父の行きてゐる当時を憶ひ起さずにはゐられなかつた。」(夏目漱石「門」より)

 上記の「野路や空月の中なる女郎花」は抱一の句で、抱一の高弟・鈴木其一が、その句を書き添えているというのであろう。この抱一の句は、抱一の自撰句集『屠龍之技』の「かぢのおと」に、「野路や空月の中なるおみなへし」の句形で収載されている。俳人でもある夏目漱石は、確かに、抱一の自撰句集『屠龍之技』を熟知していて、そして、上記の抱一の「月に秋草図屏風」類いのものを目にしていたのであろう。
 抱一の俳諧の師筋に当たる馬場存義にも、葛の花の句がある。

  鹿野焼や手のうらかえす葛の花     馬場存義

 また、夏目漱石の俳句の師筋に当たる正岡子規や旧知の高浜虚子門下にも、葛の花の句が多い。

  山葛にわりなき花の高さかな      正岡子規
  抱一の観たるがごとく葛の花      富安風生
  堰堤に匍ひもとほれる葛の花      富安風生
  山桑をきりきり纒きて葛咲けり     富安風生
  こぼれつぐ葛の花屑雨の淵       高浜年尾
  流れ継ぐ花葛の色まぎれなし      高浜年尾
  兎跳ね犬をどり入る葛の花       水原秋櫻子
  朝霧浄土夕霧浄土葛咲ける       水原秋櫻子
  渋の湯の裏ざまかくす葛の花      水原秋櫻子
  四五人の無用の客や葛の花       高野素十
  山川や流れそめたる葛の花       高野素十
  木曽馬も花葛も見ず馬籠去る      高野素十
  大学の中に弥生ケ丘葛咲いて      山口青邨
  有耶無耶といふ関葛の花襖       阿波野青畝

  七里濱にて
3 浪に立(たつ)人も馬鹿鳥磯の秋(第二 かぢのおと)


 この前書きの「七里濱」は、相模湾の鎌倉と江の島を結ぶ海岸線であろう。抱一の江の島詣では、その俳諧日誌の『軽挙観句藻』に頻繁に出て来るもので、この七里ガ浜は抱一の馴染みの海辺ということになる。
 「浪に立つ人も馬鹿鳥磯の秋」の季語は、「磯の秋」(三秋)で、「磯遊び」(磯祭/花散らし=晩春)の句ではない。「馬鹿鳥」は、「あほうどり(信天翁・阿房鳥)」のことで、「陸上での歩き方が不器用で人を恐れないことからとも、簡単に捕えられるので名づけられた」ともいわれている。
 句意は、「この漁獲最盛期の実りの秋に、波の上に立って波乗りに興じている輩がいる。ああいう輩は、まさしく馬鹿鳥(あほうどり)の名が一番似合っている」というような、シニカル(風刺的・冷笑的)なものであろう。
 このシニカルさは、相手(サーフインに興じている)に対する者と同時に、「波ばかり飽かず描いている」自分への眼差しでもあろう。

抱一画集『鶯邨画譜』所収「波濤図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html


 尾形光琳の「波濤図屏風」(二曲一隻・メトロポリタン美術館蔵)、酒井抱一の「波図屏風」(六曲一双・静嘉堂文庫美術館蔵)、俵屋宗達の『雲龍図屏風』(六曲一双・フーリア美術館蔵)」、そして、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」(横大判錦絵・メトロポリタン美術館蔵)などについて、下記のアドレスで触れた。そのうちの抱一の「波図屏風」と光琳の「波濤図屏風」関連などを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-04-30


(再掲)

酒井抱一筆「波図屏風」(六曲一双 紙本銀地墨画着色 各一六九・八×三六九・〇cm
文化十二年(一八一五)頃 静嘉堂文庫美術館蔵)
【銀箔地に大きな筆で一気呵成に怒涛を描ききった力強さが抱一のイメージを一新させる大作である。光琳の「波一色の屏風」を見て「あまりに見事」だったので自分も写してみた「少々自慢心」の作であると、抱一の作品に対する肉声が伝わって貴重な手紙が付属して伝来している。宛先は姫路藩家老の本多大夫とされ、もともと草花絵の注文を受けていたらしい。光琳百回忌の目前に光琳画に出会い、本図の制作時期もその頃に位置づけうる。抱一の光琳が受容としても記念的意義のある作品である。 】(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

尾形光琳筆「波濤図屏風」(二曲一隻 一四六・六×一六五・四cm メトロポリタン美術館蔵)
【荒海の波濤を描く。波濤の形状や、波濤をかたどる二本の墨線の表現は、宗達風の「雲龍図屏風」(フーリア美術館蔵)に学んだものである。宗達作品は六曲一双屏風で、波が外へゆったりと広がり出るように表されるが、光琳は二曲一隻屏風に変更し、画面の中心へと波が引き込まれるような求心的な構図としている。「法橋光琳」の署名は、宝永二年(一七〇五)の「四季草花図巻」に近く、印章も同様に朱文円印「道崇」が押されており、江戸滞在時の制作とされる。意思をもって動くような波の表現には、光琳が江戸で勉強した雪村作品の影響も指摘される。退色のために重たく沈鬱な印象を受けるが、本来は金地に群青が映え、うねり立つ波を豪華に表した作品であったと思われる。 】(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「作品解説(宮崎もも稿)」)

 この光琳の「波濤図屏風」の解説中の、「波濤をかたどる二本の墨線の表現」というのは、いわゆる、「二管の筆を同時に握って描く『双筆』という中国由来の伝統的な水墨技法」(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「其一の波濤図―北斎と共有し、光琳・応挙から得たもの(久保佐知恵稿)」)を指しているのであろう。
 そして、「其一の波濤図―北斎と共有し、光琳・応挙から得たもの(久保佐知恵稿)」のサブタイトルの「北斎と共有し、光琳・応挙から得たもの」というのは、これは、其一よりも、その其一の師の「酒井抱一」に、より冠せられるものという思いを深くする。
 特に、光琳の「波濤図屏風」は、抱一の『光琳百図』に収載されており、抱一、そして、其一の「波濤図」関連のものは、すべからく、ここからスタートしていると解して差し支えなかろう。

『光琳百図』(酒井抱一編・筆)所収「波濤図」(「ARC浮世絵データベース」)
https://ja.ukiyo-e.org/image/met/DP266705_CRD


 上記の(再掲)の最初に、抱一の「波図屏風」(紙本銀地墨画着色)を掲げたが、抱一には、「銀地」ではなく「金地」の「波図屏風」(二曲一双)もある。

酒井抱一筆「波図屏風」(二曲一隻・MIHO MUSEUM)
【 光琳の「波図屏風」を見て感銘を受けた抱一だが、本図でき絹地に深い色あいが闇の海を切り取ったかのようで、光琳画の趣を彷彿とさせる。しぶきなどの簡単な描写にも、巧みな筆致が表れ、落款からは、文政後期、晩年の作とみられる。表の緑と裏面は銀地とし、抱一の弟子池田孤邨が千鳥の群れなす図を描いて華やかな風炉先屏風とした。八百善伝来。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

 この「作品解説」中の裏面に「池田孤邨が千鳥の群れなす図を描いて華やかな風炉先屏風とした」の、その孤邨の作は次のとおりである。

池田孤邨筆「千鳥群図」(酒井抱一筆「波図屏風」(二曲一隻・MIHO MUSEUM)裏面)

 この池田孤邨より五歳年長の、抱一の一番弟子の鈴木其一には、次の「松に波濤図屏風」がある。

鈴木其一筆「松に波濤図屏風」(二曲一隻 紙本墨画 一六八・〇×一九・五㎝ 個人蔵)
【 近年関西で発見された其一には珍しい水墨画の大作である。紙は焼けが強く全面に淡褐色に変色しているものの、墨は当初の潤いを保つかのようであり、光が当たると鈍い輝きを放つ。画面の左右のそれぞれの端に丸い引き手跡が残っているため、もとは襖であったと思われる。向かって右側の画面右上、松の生える岩礁に隠れるように、「噲々其一」の署名と「祝琳斎」(朱文大円印)が捺される。書体は「三十六歌仙・檜図屏風」(作品41)に近しく、「噲」のうち第六画以降が崩れて「専」の草書のように、「其」が「サ」と「人」を足したように見える。天保六年(一八三五)という作品41の箱書に従うなら、本作もまた同時期の制作と考えられる。
画面右上から緩やかな対角線上に、松の生える岩礁、海中に横たわる巨岩と小岩が、滲みを効かせた濃墨によって描かれる。もっとも本作の主題は、これらのモチーフの間を縫うように流れるダイナミックな波の動きそれ自体にあるだろう。複雑かつ明晰な水流表現は、其一より一世代前に京都で活躍した円山応挙によって創始された大画面の波濤図に近しい。「噲々」落款時代の壮年における積極的な応挙学習の一端を物語る貴重な作例である。 】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説45(久保佐知恵稿)」)

4 此年も狐舞せて越へにけり  (第二 かぢのおと)


 この句の前に、「青楼」と前書きがあり、これは、年越し大晦日の吉原の「狐舞い」の一句であろう。下記のアドレスで、「大晦日の吉原には獅子舞ではなく、赤熊の毛を付け、錦の衣で美しく着飾った「狐舞ひ」が現れ、笛や太鼓の囃子を引き連れて練り歩いていた」と、この狐舞いについて紹介している。

https://yoshiwara-kitsune.jimdo.com/吉原狐/


葛飾北斎画『隅田川両岸一覧下編』「吉原の終年」

 抱一と吉原、そして、抱一と芳中などについては、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-19


中村芳中画『光琳画譜』所収「高砂」「仕舞」「黒木売」「目隠し鬼」「七福神」
http://kazuhisa.eco.coocan.jp/korin_gafu.htm

  元日やさてよし原(吉原)は静かなり

 この句は、「吉原月次風俗図・正月」(酒井抱一書・画、紙本墨画 一幅 九七・三×二九・二㎝)の中に書かれている抱一の句である。

 これらの「吉原月次風俗図」に触れると、「酒井抱一(江戸琳派)と吉原ネットワーク(吉原文化人ネットワーク)」との密接不可分な世界が浮かび上がって来る。
 そして、その吉原では、若き日の抱一(姫路藩主の弟)は、「ときやうさん」(俳号「杜陵=とりょう」からの命名)と呼ばれ、「つまさん(正しくは駒さん)」の、松江藩主・松平不味の弟・雪川(松平桁親)、「ぶんきやうさん」(狂号=笹葉鈴成からの命名)の、松前候の公子・松前泰卿、この「粋人・道楽子弟」の「三公子」の一人として、スーパースター(著明人)の一人だったのである。
 その吉原のスーパースターの「ときやうさん」(俳号「杜陵=とりょう」からの命名)が、描く、次の、妓楼大字屋の主人二代目村田市兵衛こと「「大文字屋市兵衛像」がある。

酒井抱一画「大文字屋市兵衛像」 一幅 絹本著色 一八・四×一五・一㎝
板橋区立美術館蔵

【 抱一がもっとも懇意にしていた吉原の友人は、妓楼大文字屋の主人二代目村田市兵衛。本図は先代の市兵衛が滑稽な風貌からカボチャむとはやされ、その姿を浮世絵師西村重長が描いた図に依る。その初代に因み、二代目は狂名を加保茶元成と称した。本図は「遊郭抱一戯墨」とあるように、大文字屋で余興に描いたのだろう。画中の「加保茶」の印は、同家に伝わるみのかもしれない。八百善旧蔵。 】
(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「抱の心の拠り所『吉原』」(岡野智子稿)」)

 それに比して、中村芳中が、享和二年(一八〇二)、大阪から江戸に出て来て刊行した『光琳画譜』の奥付に、「享和壬戌のとし 東都旅館の 爐辺にて 芳中写之 (花押)」と記載してあるとおり、江戸に出て三年を経ても、大阪からの出稼ぎ絵師の風情である。
そして、光琳風の自己の絵画の版本に、堂々と『光琳画譜』と名を付け、その「序」に、
抱一(俳号=杜陵 狂歌名=尻焼猿人・屠龍 画号=庭拍手)の「住吉太鼓橋夜景図」に賛をしている「加藤(橘)千蔭」、その「跋」に、江戸千家の祖の川上不白が草している。
 これらの千蔭も不白も、抱一を取り巻く文化人ネットワーク(そして、それは吉原ネットワークと重なる)の一人であり、さらに、当時の抱一は、享和元年(一八〇一)に、先に、下記のアドレスなどで紹介した、「燕子花図屏風」(二曲一隻、「庭拍手」の署名、四十一歳)を制作するなど、大きく琳派様式へと方向転換をしている頃と重なるのである。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/


 これらのことについて、芳中の方からすると、「江戸へ来て芳中が目にしたのは抱一の琳派様式の作品であったかもしれない。芳中にとっては大きな驚きであったと思われる。それでは、ということで対抗的な意味も込めての『光琳画譜』出版であったと解することもできよう」(『光琳を慕う 中村芳中(芸艸社)』所収「中村芳中について(木村重圭稿))という見方も成り立つであろう。

 そして、当時の、抱一と芳中とを結ぶ接点は、俳諧ネットワークの「大伴大江丸・夏目成美・鈴木道彦・馬場存義・前田春来・岡田米仲」等々の「其角・嵐雪」に連なる俳人たち、狂歌・戯作者ネットワークの「大田南畝(蜀山人・四方赤良・寝惚先生)」の率いる「四方連」と「蔦屋重三郎・山東京伝(北尾政演)」等々の「戯作・浮世絵」に連なる面々、さらに、「下谷の三幅対」とも称せられた「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」を主軸とする「詩・書・画を生業とする江戸文化人のネットワーク」の面々と、それらは、「江戸吉原サロン」と深く結びついているということになろう。
 嘗て、次のアドレスで、「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」に連なる名士たちの、その一端に触れた。それらを再掲すると、次のとおりである。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-28


【 松平楽翁→木村蒹葭堂→亀田鵬斎→酒井抱一→市河寛斎→市河米庵→菅茶山→立原翠軒→古賀精里→香川景樹→加藤千蔭→梁川星巌→賀茂季鷹→一柳千古→広瀬蒙斎→太田錦城→山東京伝→曲亭馬琴→十返舎一九→狂歌堂真顔→大田南畝→林述斎→柴野栗山→尾藤二洲→頼春水→頼山陽→頼杏坪→屋代弘賢→熊阪台州→熊阪盤谷→川村寿庵→鷹見泉石→蹄斎北馬→土方稲嶺→沖一峨→池田定常→葛飾北斎→広瀬台山→浜田杏堂 】

 ここで、大阪の中村芳中と江戸の酒井抱一とを結びつける、両者を知る人物を「加藤(橘)千蔭」と仮定すると、その背後の人物とは、やはり、大阪の「木村蒹葭堂」と、江戸の「大田南畝」の、このお二人が浮かび上がってくる。
 ずばり、芳中の『光琳画譜』が出版される一年前の、享和元年(一八〇一)の、太田南畝の年譜に、次のように記載されている。この太田南畝が、キィワードとなる人物のように思われる。

【享和元年(1801年)、大坂銅座に赴任。この頃から中国で銅山を「蜀山」といったのに因み、「蜀山人」の号で再び狂歌を細々と再開する。大坂滞在中、物産学者・木村蒹葭堂や国学者・上田秋成らと交流していた。 】

https://ja.wikipedia.org/wiki/大田南畝


 芳中が、江戸で『光琳画譜』を出版して、再び、大阪に戻ったのは、その出版した年の、享和二年(一八〇二)の年末頃と推定されている。そして、それ以後、文政二年(一八一九)に没するまでの約十八年、芳中は、扇面画を中心として、本格的な琳派作品を精力的にこなしていくこととなる。

(参考一)上記『光琳画譜』(「金華堂守黒」版)の五図(算用数字は登載番号)

14仕舞 → この「能」の「仕舞」(能を演ずる稽古)のようなものが、芳中画の基本にあるのであろう。

16高砂 → この「能」の場面の、「爺・婆」を見ている「童」は、芳中その人かも知れない。

18目隠し鬼 → 芳中の童心が読み取れる、次のアドレスの「象背戯童図」(芦雪)の「戯童」に近い印象を受ける。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-09-28


23黒木売(大原女) → 芦雪の「大原女」に比して、芳中のは「飄逸味・滑味」がある。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-10-07

25七福神 → 芳中の「童子」図も、芦雪の「童子」図と同じような魅力に溢れている。

(参考二)大田南畝(おおたなんぼ)

没年:文政6.4.6(1823.5.16)
生年:寛延2.3.3(1749.4.19)

江戸時代中・後期の戯作者,文人。名を覃、字子耜、通称直次郎、七左衛門といった。四方赤良、山手馬鹿人、蜀山人、杏花園、寝惚先生など、多くの別号を使った。幕府の御徒吉左衛門正智と利世の長男、江戸牛込仲御徒町に誕生。宿債に苦しむ小身の悴南畝は、若年時から学問に立身の夢を賭け15歳で内山賀邸(椿軒)、18歳ころに松崎観海に入門した。幕臣書生らしく和学と徂徠派漢学を修める一方、平秩東作をはじめ、のちの江戸戯作界の中核をなす面々と交わった。 明和3(1766)年、処女作の作詩用語集『明詩擢材』を編み、翌年、平賀源内の序を付して戯作第一弾の狂詩集『寝惚先生文集』を出版。生涯、徂徠派風の漢詩作成にいそしむ一方、狂詩の名手として20代から30代の大半を江戸戯作の華美な舞台のただなかに過ごし、やがて領袖と仰がれた。同門の 唐衣橘洲 らと共に江戸狂歌流行の端緒を開き、『万載狂歌集』(1783)、『徳和歌後万載集』(1785)などを相次いで出版。天明期俗文芸の隆盛を築いた。洒落本,評判記,黄表紙などの戯作も多く綴ったが、天明7(1787)年,田沼政権の崩壊と松平定信による粛正政策の台頭を機に、狂歌界とは疎遠になり、幕吏本来の姿勢を俊敏に取り戻した。寛政6(1794)年、人材登用試験を見事な成績で合格、大坂銅座出役(1801)、長崎奉行所出役(1804)などの勤務をこなし、かたわら江戸文人の代表格として名声をいやましに上げていった。最晩年に『杏園詩集』(1820)など、漢詩、狂歌文などが多く出版された。<著作>浜田義一郎他編『大田南畝全集』(全20巻)<参考文献>玉林晴朗『蜀山人の研究』,浜田義一郎『大田南畝』 (ロバート・キャンベル)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

(参考三)大田南畝と「お賎」

http://www.muse.dti.ne.jp/~squat/ohtananpo.htm



安永4年の7月、南畝は「評判茶臼芸」を、安永5年に洒落本「世説新語茶」、8年(1779)に浄瑠璃の漢訳「阿姑麻」、洒落本「深川新話」「粋町甲閨」を刊行。岡場所話を書くほどだからさんざん遊んだのだろう。またこの時期に狂歌会も盛ん。この年の12月18日に51歳で平賀源内が獄中死去。安永9年、軽井沢の宿場遊女を題材にした洒落本「軽井茶話 道中粋語録」、黄表紙「虚言八百万八伝」を刊行。翌天明元年(1781)に「菊寿草」、天明2年「岡目八目」を刊行。この「岡目八目」で山東京伝「手前勝手 御存知商売物」最上位で褒め、これで京伝の名は一気に広がった。同年12月、蔦谷重三郎に招かれて恋川春町(39)、南畝(34)、京伝(22)ら8名が吉原に登楼。狂歌集「通詩選笑知」「通詩選」を刊行し、まさに一世風靡。日々、招待遊行が盛んになり、京伝も引き立てた。
 さぁ、ここからが佳境だ。もうしばらく辛抱して読んで下さいませ。天明6年(1786)、老中田沼意が罷免され、代わって老中に就いたのが松平定信で寛政の改革が始まった。その年に南畝は吉原松葉屋の遊女・三保崎(みほざき/新造の位=上妓となる見込みのない遊女)との恋情が燃え上がり、ついには身請けして妾とし、「阿賤(おしず)」と名付け、自宅の棟つづき離れに引き取った。妻妾同居で「不良」が本格化(お賤は南畝の世話を8年したが病気がちで30歳で病死)。この間び改革粛清は進み、勘定組頭(実質の勘定奉行)・土山宗次郎が死刑。南畝は土山によって遊興と享楽の味をたっぷり楽しませてもらっていた関係上、自身の首も危うくなって来た。また山東京伝も洒落本が官憲の心証を害し、版元・蔦谷重三郎が財産半分没収、京伝は手鎖50日の処罰。南畝は狂歌作りをやめた。
 童門冬二の小説「沼と河の間に」は、南畝が狂歌から遠ざかる保身の道を取って仲間からひんしゅくを買うシーンから物語をスタートさせている。寛政元年(1789)、北尾政美画で「鸚鵡返武士二道」を出した恋川春町は、松平定信に召喚され、病気を理由に出頭せず、塁が藩主に及ぶのをおそれて自決したらしい…。新宿2丁目の成覚寺の粗末な墓が胸を打ちます。そして南畝はなんと!44歳(寛政4年)にして猛勉強し、第2回学問吟味に応募したが不合格(狂歌他で文名を高め、土山の庇護にあった南畝に反感を時つ者の反対で不合格になったとも言われている。また巷に
「世の中に 蚊ほどうるさきものはなし 文武文武と夜も寝られず」
 の狂歌が南畝による作との評判がたって、これが災いしたとの説も…)。
 童門の小説では、のちに「東海道中膝栗毛」を書く十返舎十九、のにち「南総里見八犬伝」を書く勧善懲悪志向の曲亭馬琴の両青年と保身転向した南畝の三つ巴文学論争を展開させている。
 だが南畝は諦めない。病弱なお賎を文学仲間の住職(お寺)に預けて勉学に励み、寛政6年(1794)の二回目の学問吟味に再挑戦し、年少の受験者に混じって白髪まじりの46歳で見事にトップ合格。遠山の金さんの父・遠山金四郎景晋(かげみち)、後に北方探検家として有名になる近藤重蔵も合格。(※近藤重蔵は退役後に身分不相応な邸宅を建て、公家の娘を妾にしたことから不遜だとお咎めを受ける。また57歳の時に別荘の隣家との境界争いから長男・富蔵が殺傷事件を起こす。そう、八丈島流刑で有名なあの近藤重蔵である)
 この前年、寛政5年(1793)6月にお賎は亡くなった。「お賎」と卑しい名を付けた南畝だったが、身まかってから毎年その祥月命日に供養の書会を欠かさない。お賎の法名は「晴雲妙閑信女」。南畝が詠んだ狂歌は「雲となり雨となりしも夢うつつきのふはけふの水無月の空」。お賎が亡くなって10年後、南畝55歳の日記「細推日記」にもその供養書会を牛込薬王寺町の浄栄寺で催していることが書かれている。おっと、その供養書会には次ぎの妾、島田「お香」も列席している。「お香」は南畝の優しさにホロリとしたに違いない。「あたしはそんな南畝にずっと添って行こう」と…。
 またここで記すべきは、彼は学問吟味の試験から合格御礼までの詳細を記した「斜場窓稿」を刊行していること。しかし、合格はしたものの南畝の四番組徒歩の仕事は相変わらずだった。合格から2年後、母が73歳で亡くなった寛政8年にやっと支配勘定に昇進。祖父の代から続いた微禄もやっと30俵加増。そして突然の松平定信の罷免。また巷にこんな狂歌が流行った。
「白河の あまり清きに耐え(棲み)かねて 濁れるものと田沼恋しき」
 これまた南畝の作と思われた。支配勘定なら大阪の銅座詰という出世コースになかなか乗れない。翌々年、妻・里与が44歳で死去。南畝は俗っぽいと思いつつも「日本中の孝子節婦を将軍が表彰する」という案を提出し、「孝行奇特者取調御用」に任命される。寛政12年、これをまとめた「孝義録」50巻を刊行。従来の漢文による公文書ではなく、和文でかつ文学的な編集で、文人ならではの才を発揮した。これが認められて寛政13年(享和元年)、53歳でやっと大阪銅座出役になった。学問吟味の合格から7年の精励を続けて、やっと大阪出張で出世の道が広がった。大阪でてきぱきと仕事を片付ける切れ者公務員。午後2時が退庁時間で、ここからが文人タイム。見聞と人脈を広げで、ここで「銅」の異名を「蜀山居士(しょくさんこじ)」ということから「蜀山人」なる号を思いつく。この時期に20数年前に「雨月物語」を書いた上田秋成を訪問などし、1年で江戸へ呼び戻される。

(参考四)酒井抱一と「小鸞(しょうらん)」



抱一の、初期の頃の号、「杜綾・杜陵」そして「屠龍(とりょう)」は、主として、「黄表紙」などの戯作や俳諧書などに用いられているが、狂歌作者としては、上記の「画本虫撰」に登場する「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」の号が用いられている。
 『画本虫撰』は、天明狂歌の主要な作者三十人を網羅し、美人画の大家として活躍する歌麿の出生作として名高い狂歌絵本である。植物と二種の虫の歌合(うたあわせ)の形式をとり、抱一は最初の蜂と毛虫の歌合に、四方赤良(大田南畝・蜀山人)と競う狂歌人として登場する。
 その「尻焼猿人」こと、抱一の狂歌は、「こはごはに とる蜂のすの あなにえや うましをとめを みつのあぢはひ」というものである。この種の狂歌本などで、「杜綾・尻焼猿人」の号で登場するもりに、次のようなものがある。

天明三年(一七八三) 『狂歌三十六人撰』 四方赤良編 丹丘画
天明四年(一七八四) 『手拭合(たなぐひあはせ)』 山東京伝画 版元・白凰堂
天明六年(一七八六) 『吾妻曲狂歌文庫』 宿屋飯盛編 山東京伝画 版元・蔦重
「御簾ほとに なかば霞のかゝる時 さくらや 花の王と 見ゆらん」(御簾越しに、「尻焼猿人」の画像が描かれている。高貴な出なので、御簾越しに描かれている。)
天明七年(一七八七) 『古今狂歌袋』 宿屋飯盛撰 山東京伝画 版元・蔦重

 天明三年(一七八三)、抱一、二十三歳、そして、天明七年(一七八七)、二十七歳、この若き日の抱一は、「俳諧・狂歌・戯作・浮世絵」などのグループ、そして、それは、「四方赤良(大田南畝・蜀山人)・宿屋飯盛(石川雅望)・蔦屋重三郎(蔦唐丸)・喜多川歌麿(綾丸・柴屋・石要・木燕)・山東京伝(北尾政演・身軽折輔・山東窟・山東軒・臍下逸人・菊花亭)」の、いわゆる、江戸の「狂歌・浮世絵・戯作」などの文化人グループの一人だったのである。
 そして、この文化人グループは、「亀田鵬斎・谷文晁・加藤千蔭・川上不白・大窪詩仏・鋤形蕙斎・菊池五山・市川寛斎・佐藤晋斎・渡辺南岳・宋紫丘・恋川春町・原羊遊斎」等々と、多種多彩に、その輪は拡大を遂げることになる。
 これらの、抱一を巡る、当時の江戸の文化サークル・グループの背後には、いわゆる、「吉原文化・遊郭文化」と深い関係にあり、抱一は、その青年期から没年まで、この「吉原」(台東区千束)とは陰に陽に繋がっている。その吉原の中でも、大文字楼主人村田市兵衛二世(文楼、狂歌名=加保茶元成)や五明楼主人扇屋宇右衛門などとはとりわけ昵懇の仲にあった。
抱一が、文化六年(一八〇九)に見受けした遊女香川は、大文字楼の出身であったという。その遊女香川が、抱一の傍らにあって晩年の抱一を支えていく小鸞女子で、文化十一年(一八二八)の抱一没後、出家して「妙華」(抱一の庵号「雨華」に呼応する「天雨妙華」)と称している。
 抱一(雨華庵一世)の「江戸琳派」は、酒井鶯蒲(雨華庵二世)、酒井鶯一(雨華庵三世)、酒井道一(雨華庵四世)、酒井唯一(雨華庵五世)と引き継がれ、その一門も、鈴木其一、池田孤邨、山本素道、山田抱玉、石垣抱真等々と、その水脈は引き継がれいる。

補記一 『画本虫撰』(国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288345


補記二 『狂歌三十六人撰』

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007282688-00


http://digitalmuseum.rekibun.or.jp/app/collection/detail?id=0191211331&sr=%90%EF


補記三 『手拭合』(国文学研究資料館)

https://www.nijl.ac.jp/pages/articles/200611/


補記四 『吾妻曲狂歌文庫』(国文学研究資料館) 

https://www.nijl.ac.jp/pages/articles/200512/


補記五  浮世絵(喜多川歌麿作「画本虫ゑらみ」)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-12-27


その十三 江戸の粋人・抱一の描く「その三 吉原月次風俗図(三月・夜桜)」

 前回(「その二 吉原月次風俗図(二月・初午」)に続く、「吉原月次風俗図(三月(夜桜)」というのは、『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』などには収載されていない。
 その同書中の、「花街柳巷図巻」(個人蔵)で、下記の通り、その概要を見ることが出来る(また、同書中の「作品解説(小林忠稿)」は次の通り)。

三月.jpg

抱一筆「花街柳巷図巻」のうち「三月(夜桜)」
【三月(夜桜) 「夜さくらや筥てうちんの鼻の穴 楼上に居續したるあした起よ今朝 うへ野の四ツそ花の雨」の賛と、仲の町に植えられた桜の木と柵の絵」(「作品解説(小林忠稿)」)。】

 この図と、この作品解説だけでは、抱一の「吉原月次風俗図(三月・夜桜)」「花街柳巷図巻(三月・夜桜)」をイメージするのは無理かも知れない。吉原の仲の町通り(メインの大通り)に植えられる桜(開花の時に植えられ、散ると撤去される)と箱提灯(筥てうちん:下図では花魁道中の先頭の人が持っている提灯)は、下記の「東都名所画 吉原の夜桜(渓斎英泉筆)」などによるとイメージがし易い。

英泉・夜桜.jpg

渓斎英泉筆「東都名所画 吉原の夜桜」(太田記念美術館蔵)

   夜ざくらや筥てふちんの鼻の上  (抱一・「三月・夜桜」の賛)

【 三月の図は春の人寄せのイベントである夜桜が描かれます。画賛の一つは「夜ざくらや筥でうちんの鼻の穴」です。春の吉原は、仲之町通りに鉢植えの桜を置きます。この画賛の初案の頭註には、『史記』「周本紀」第四に載る字句「后稷生巨跡」に拠ったとあります。后稷には、母親の姜原が巨人の足跡を踏んで妊娠したという伝説があります。つまり、「筥でうちんの鼻の穴」という小さい穴は、后稷が生まれた巨人の足跡に見立てられています。そこからうまれたものは「夜ざくら」と、描かれない多数の見物客です。つまり、筥提灯の上部の空気穴から光が漏れる。その光に照らしだされた夜桜と多数の見物客が、后稷に見立てられます。ここでは画賛は、夜桜の賑わいを補完する機能を担わされています。 】(「抱一筆『吉原月次風俗図』の背景(井田太郎稿)」)

どうにも、難解な、抱一の師筋に当たる、宝井其角の「謎句」仕立ての句である。この句の前書きのような賛に書かれているのだろうが、『史記』の「后稷(こうしょく)」伝説に由来している句のようである。
「后稷(こうしょく)」伝説とは、「〔「后」は君、「稷」は五穀〕 中国、周王朝の始祖とされる伝説上の人物。姓は姫(き)、名は棄(き)。母が巨人の足跡を踏んでみごもり、生まれてすぐに棄(す)てられたので棄という。舜(しゆん)につかえて人々に農業を教え、功により后稷(農官の長)の位についた」を背景にしているようである。
 ここは、余り詮索しないで、上記の、渓斎英泉筆「東都名所画 吉原の夜桜」ですると、「花魁道中を先導する男衆の持つ箱提灯の上部の穴からの光が、鮮やかに夜桜や人影を浮かび上がらせる」というようなことなのであろう。

  吉原の夜見せをはるの夕ぐれは入相の鐘に花やさくらん 四方赤良(大田南畝)
  廓(さと)の花見は入相が日の出なり  (『柳多留六三』)
  夜桜へ巣をかけて待つ女郎蜘蛛     (『柳多留七三』)
  年々歳々客を呼ぶために植え      (『柳多留六二』)
  里馴れて来ると桜はひんぬかれ     (『柳多留一〇七』) 

 これらの狂歌や川柳(前句付)の風刺的な「捩り」の、抱一の一句と解することも出来るのかも知れない。

  起よ今朝うへ野の四ツぞ花の雨    (抱一・「三月・夜桜」の賛)

 冒頭の作品解説中にある、「夜ざくらや筥てふちんの鼻の上」に続く、「楼上に居續したるあした起よ今朝 うへ野の四ツそ花の雨」の賛も、「(楼上に居續したるあした) 起よ今朝うへ野の四ツそ花の雨」と、「前書き=楼上に居續したるあした=吉原の妓楼に意続けての朝方」・「発句=起よ今朝うへ野の四ツぞ花の雨」と、これも、「朝方四ツ=吉原の朝方十時、うえ野=上野の山、花の雨=花の散りかかる頃の雨」の発句の賛のようである。

  夜ざくらや筥てふちんの鼻の上  (「吉原」の「夜桜」を昨夜はたっぷり堪能した)
  起よ今朝上野の四ツぞ花の雨(起きよ今朝四ツ時ぞ「上野」の「花の雨」の見物だ)

 これは、「吉原の夜桜見物」と、「居続け」にして、「上野の山の昼の花の雨見物」へと、次々と「ハシゴ(梯子)」する、抱一らの「江戸座俳諧」特有の洒落句(滑稽句)としての二句なのかも知れない。

  桜から桜へこける面白さ (『柳多留二五』)
  女房へ嘘つく桜咲にけり (『俳諧觽三』)
  居続けのばかばかしくも能(よ)い天気 (『柳多留三』)
  よくよくの馬鹿吉原に三日居る (『柳多留一八』)

其一・大門図.jpg

鈴木其一筆「吉原大門図」一幅 ニューオータニ美術館大谷コレクション蔵
【 吉原大門からつづく仲の町通りを東から眺め、入ってすぐの引手茶屋「山口巴屋」の様子や、吉原に行き交う人々の諸相をとらえる。花魁、芸者、禿、酔客、按摩、老人、若侍などと、各種の人々を等しく観察し一か所に集めた。其一は群像の表現にもはやくから関心を寄せ習熟していることを示すが、「其一戯画」と意識的な署名をし、他に使用例のない「毀誉不動(毀誉に動ぜず)」印を捺している。この意識は晩年まで続く。】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収「作品解説二〇三(岡野智子稿))

 抱一には、このような「風俗図」「群像図」は余り見られない。その抱一の右腕とも言うべき抱一門の第一人者・鈴木其一は、この種の「風俗図」「群像図」を手掛けている。しかし、上記の解説にあるとおり、この種のものの署名の「戯画」、落款印の「毀誉不動(毀誉に動ぜず)」などからすると、抱一門では、「仏画制作」を主要画業の一つにしているので、この種のものはスタンダードの分野ではないのかも知れない。
 この其一の「吉原大門図」は、抱一・其一時代の「吉原」の情景を的確に描写している。大門を入ってすぐ右手の引手茶屋が最も格式のある茶屋で七軒茶屋と呼ばれ、その筆頭格が「山口巴屋」で、その座敷に、「花魁(簪の数が多い)・新造(部屋持ちと振袖)・禿(少女)・芸者(三味線を持っている)・客人」などが描かれている。
 その大門近くの辻行燈の前に、「箱提灯を持った男衆・花魁・禿・新造」が馴染み客を出迎えるための立って待っている光景、その辻行燈の後方は「番所」(四郎兵衛)で、大門口の見張り(遊女の外出の取締り・一般女子も切手=通行証が必要、男子は自由)などをしている所であろう。その他、酔客・按摩・杖を持った老人、二本差しの侍など、これは、まさしく、典型的な「吉原風俗図」と解して差し支えなかろう。
 それに比して、抱一の「吉原月次風俗図」は、この其一の「吉原大門図」に出て来る「大門・番所・引手茶屋・辻行燈・箱提灯」などの主たる景物も、さらには、「花魁・新造・禿・芸者・幇間・男衆・遊客」などの主たる人物像も、この月次十二図の中には、何処にも出て来ないのである。
 ここで、抱一の、この「吉原月次風俗図」というネーミングは、抱一の意図することを斟酌すると、これは「吉原月次俳画図」ともいう分野のもので、それも、先ず、俳句(発句)があって、その「俳句(発句)」に、「べた付け」(画と句とが「付かず離れず」(響き合う)がベターとすると「べったり付き過ぎる」関係)を、極力排しての「画」作りをしているということなのである。
 ずばり、今回のように、「吉原月次風俗図」の「三月・夜桜」の一幅ものを見ていなくても、その「花街柳巷図巻」の「三月・夜桜」の「賛(前書きと句)」と「画」とにより、それらに接した者が、例えば、渓斎英泉筆「東都名所画 吉原の夜桜」や、鈴木其一筆「吉原大門図」などを連想し得たということならば、恐らく、抱一の、これらの、「吉原月次風俗図」の「三月・夜桜」、そして、「花街柳巷図巻」の「三月・夜桜」を制作した、その抱一の真意の一端に触れていることであろう。



抱一句集『屠龍之技』「第一こがねのこま」(1~4)

https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/ogai/document/15dd5a92-e055-4dcb-a302-1ed3adc3716f#?c=0&m=0&s=0&cv=2&xywh=-995%2C-177%2C7335%2C4375

1 飛ぶ蝶を喰(くは)んとしたる牡丹かな (第一 こがねのこま)


抱一画集『鶯邨画譜』所収「牡丹図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html



 飛ぶ蝶を喰(くは)んとしたる牡丹かな (第一 こがねのこま)
    牡丹一輪青竹の筒にさして
    送られける時
  仲光が討て参(まゐり)しぼたんかな  (第三 みやこどり)
    画賛狂句、彦根侍の口真似
    して
  さして見ろぎょやう牡丹のから傘ダ   (第三 みやこどり)

 『屠龍之技』中の「牡丹」の三句である。蕪村にも「牡丹」の佳句が目白押しである。

  牡丹散つてうちかさなりぬ二三片  蕪村 「蕪村句集」
  牡丹切て気の衰へし夕かな     蕪村 「蕪村句集」
  閻王の口や牡丹を吐かんとす    蕪村 「蕪村句集」
  地車のとゞろとひゞく牡丹かな    蕪村 「蕪村句集」  

 抱一の一句目の句は、蕪村の「閻王の口や牡丹を吐かんとす」の句に近いものであろう。二句目の前書きのある「仲光と牡丹」の句は、能「仲光(なかみつ)」を踏まえてのもので、その「仲光」中の、「美女丸」の身代わりになって、「仲光」に打ち首にされる仲光の実子の「幸寿丸 」を「牡丹」に見立てての一句ということになる(下記の「参考」)。
 三句目の「彦根侍と牡丹」の句は、「大老四家(井伊家・酒井家・土井家・堀田家)」の文治派・酒井家に連なる生粋の江戸人・抱一の、武断派・井伊家(彦根藩・彦根侍)の風刺の意などを込めての一句と解したい。この「ぎょやう」(ぎょうよう)というのが、「仰々しい(大げさ)」の彦根方言のような感じに受ける。

(参考)

http://www.kanshou.com/003/butai/nakami.htm




能「仲光」のストリー
【 多田満仲は、一子美女丸を学問の為、中山寺へ預けております。しかし、美女丸は学問をせず、武勇ばかりに明け暮れており、父満仲は、藤原仲光に命じ、美女丸を呼び戻します。ここから能「仲光」は始まります。
 「こは誰が為なれば…、人に見せんも某が子と言う甲斐もなかるべし…」これは誰の為であるのか。人に見せても、誰某の子という甲斐もない。親が子を叱る時の、昔も今も変わらぬ心情です。満仲は、憤りのあまり、美女丸を手討にしようとします。更に、中に入って止めた仲光に美女丸を討つよう命じます。
 仲光は、主君に何と言われても、美女丸を落ち延びさせるつもりでいますが、頻りの使いに、ついに逃がす事が出来なくなります。「あわれ某、御年の程にて候わば、御命に代り候わんずるものを…」同じ年頃であれば、お命に代ろうものを…と嘆く仲光の言葉を、仲光の子の幸寿が聞きます。幸寿は「はや自らが首をとり、美女御前と仰せ候いて、主君の御目にかけられ候え。」と言います。美女丸も、自分の首をと言い、仲光はついに幸寿に太刀を振り下ろしてしまいます。
 満仲は、美女丸を討ったと報告する仲光に、幸寿を自分の子と定めると言います。仲光は、幸寿が美女丸のことを悲しみ、髪を切り出て行ったと言い、自分も様を変え、仏道に入りたいと言います。
 比叡山、恵心僧都が美女丸を連れて来ます。満仲もついには許し、めでたい事と僧都に所望され仲光は舞を舞います。「この度の御不審人ためにあらず。かまえて手習学問、ねんごろにおわしませと…。」この度の事は人のせいではありません。これからは、手習学問を熱心にするように…。仲光に言われ、美女丸は恵心僧都と再び帰って行きます。  】

2 としどしや御祓に捨る多葉粉入  (第一 こがねのこま)


3 すずしさは家隆の歌のしるしなり (第一 こがねのこま)


「としどしの御祓に捨る多葉粉入」の句は、神社などで、年始から節分までに行う「厄除け(厄落とし)のお祓い」の句と解したい。この「多葉粉入」(煙草入れ)は、旧年に頂いた厄除けの贈り物の「煙草入れ」などを、火の中に捨てるというようなことなのかも知れない。
 この句は、光琳や抱一の主要な画題の、『伊勢物語』の、「禊図」とは関係はない。この句の次に収載されている、次の「すずしさは家隆の歌のしるしなり」は、「夏越しの祓」(ナゴシノハラエ)の句で、こちらは、光琳の「家隆禊図」などと関係する句なのであろう。

抱一画集『鶯邨画譜』所収「禊図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 尾形光琳の「禊図」は下記のとおり。

尾形光琳筆「禊図」一幅 絹本着色 九七・〇×四二・六cm 畠山記念館蔵
【 この図は藤原家隆(一一五八~一二三七)の「風そよぐならの小川の夕暮にみそぎぞ夏のしるしなりける」の歌意を描いたもので「家隆禊図」ともいわれる。左下に暢達(ちょうたつ)した線にまかせて、簡潔に水流の一部を表わし、流れに対して三人の人物が飄逸な姿で描かれ、色調は初夏のすがすがしさを思わせる。「法橋光琳」の落款、「道崇」の方印がある。 】(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編)』所収「作品解説131」)

尾形光琳は、下記の宗達の『伊勢物語』(第六十五段)の「禊」の場面の「恋せじと御手洗川にせし禊神は受けずもなりにけるかも」に対して、藤原家隆の「風そよぐならの小川の夕暮にみそぎぞ夏のしるしなりける」の歌意を上部に「楢の木」を配して表現している。。



宗達派「伊勢物語図屏風」の部分図「禊図」(「国華」九七七)
画賛「恋せじと御手洗川にせし禊神は受けずもなりにけるかも」

 ここで、『鶯邨画譜』の「禊図」は、「風そよぐならの小川の夕暮にみそぎぞ夏のしるしなりける」(家隆)の「禊」の場面よりも、「恋せじと御手洗川にせし禊神は受けずもなりにけるかも」(『伊勢物語』)の「禊」の場面のように思われる。

4 花びらの山を動すさくらかな (第一 こがねのこま)


 抱一の句の夙に知られている句の一つである。下記のアドレスでは、次のようなイメージとして鑑賞されている。

https://manyuraku.exblog.jp/24395245/


「満開の花、風が吹くたびにひらひら散るはなびら。山全体が揺れ動くような酔い心地。」

 そして、『花を旅する(栗田勇著・岩波新書)』の、次の一節を紹介している。

「どんな花でも散りますが、なぜ散る桜なのか。満開で強風の時でさえも1枚の花びらが散らないのに、突然わずかな風に舞い上がって桜吹雪になっている。とことんまで咲ききって、ある時期が来たら一瞬にして、一斉に思い切って散ってゆく。
 こうした生ききって身を捨てるという散り際のよさが、日本人にはこたえられないのではないでしょうか。そこに人生を重ねて見るんですね。静かに散るのではなく、花吹雪となって散るという生き生きとしたエネルギーさえも桜から感じられるのです。
 散ると言っても、衰えてボタンと落ちるのではないのです。むしろ散ることによって、次の生命が春になったらまた姿をあらわす、私は生命の交代という深い意味でのエロティシズムの極地のようなものがそこに見えるのではないかといいう気がします。」

 地発句(連句を前提としない発句だけの作品=俳句)としての鑑賞のスタンダードのものであろう。しかし、立句(連句の最初の句=発句)としては、この抱一の句は異色の句ということになろう。
 俳諧(連句)の「花」の句の原則(「花の定座」の原則)として、「桜(さくら)」の言葉は使わず(「非正花)、賞美・賞玩の意を込めての「花」(春の正花)の言葉を使うのが原則なのである。この原則からすると、「五・七・五」の十七音字の中に、上五の「花びら」と下五の「さくら(さくら)」とを、二重のように使用するのは、どうにも異色の句ということになろう。
 この句に、抱一が其角流の趣向(作為)を施しているとすれば、この下五の、平仮名表記の「さくら」というのがポイントとなって来よう。このような観点から、上記で紹介されている『花を旅する』の「生ききって身を捨てるという散り際のよさ」の、「花は桜木、人は武士」(一休禅師?)などを連想することは、其角流の江戸座のむ俳諧師・抱一の句の鑑賞としては、決して逸脱したものではなかろう。

 抱一画集の『鶯邨画譜』には、桜を好み、「桜町中納言」の「藤原成範(しげのり)」が、その画題になっているが、スタンダードな『伊勢物語』(第九段「東下り」)の「在原業平」ではなく、「藤原成範」であるのが、これまた、抱一らの江戸琳派の画人の趣向なのであろう。

抱一画集『鶯邨画譜』所収「桜町中納言図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html


 「桜町中納言」については、下記のアドレスで、下記(参考その三)のとおり引用紹介した。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-07-29


(参考その三) 藤原成範(ふじわらのしげのり) → (再掲)

没年:文治3.3.17(1187.4.27)
生年:保延1(1135)
平安末期の公卿。本名は成憲。世に桜町中納言といわれた。藤原通憲(信西)と後白河天皇乳母紀二位の子。久寿1(1154)年叙爵。平治の乱(1159)でいったん解官,配流されるが許され,平清盛の娘婿であったことも手伝い、のちには正二位中納言兼民部卿に至る。また後白河院政開始以来の院司で、治承4(1180)年には執事院司となり激動の内乱期を乗りきった。一方和歌に優れ、『唐物語』の作者に擬せられている。桜を好み、風雅を愛した文化人でもあった。娘に『平家物語』で名高い小督局がいる。<参考文献>角田文衛『平家後抄』 (木村真美子) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

 また、次のアドレスで、酒井抱一筆の「宇津山図・桜町中納言・東下り」(三幅対)について触れた。そこでの要点も再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-01


(再掲)

ここで、冒頭の「宇津山図・桜町中納言・東下り」の「桜町中納言」(藤原成範)について触れて置きたい。
『伊勢物語』第九段「東下り」(下記「参考」)の「むかし、男ありけり」の、この「男」(主人公)は、「在原業平」というのが通説で、異説として、『伊勢物語』第十六段(「紀有常」)の「紀有常(きのありつね)」という説がある。  
 その主たる理由は、その第九段の前の第八段(「浅間の嶽」・下記「参考」)が、業平では不自然で、「下野権守・信濃権守と東国の地方官を務めた紀有常」の方が、第八段(「浅間の嶽」)と第九段(「東下り」)との続き具合からして相応しいというようなことであろう。
 それに対して、冒頭の「宇津山図・桜町中納言・東下り」の「桜町中納言(藤原成範)」こそ、「藤原通憲(信西)と後白河天皇乳母紀二位の子。久寿1(1154)年叙爵。平治の乱(1159)でいったん解官,配流されるが許され,平清盛の娘婿であったことも手伝い、のちには正二位中納言兼民部卿に至る」の、「配流の地(「下野」)などからして、「桜町中納言(藤原成範)」こそ、最も相応しいというようなことなのであろう。

 さらに、下記のアドレスで、鈴木其一筆「桜町中納言図」(一幅)について触れた。その画像と解説(久保佐知恵稿)のものを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-09


(再掲)

鈴木其一筆「桜町中納言図」 一幅 絹本著色 一一六・八×四九・八㎝
千葉市美術館蔵

【 桜町中納言は、平安時代後期の歌人藤原成範の通称で、桜を殊のほか愛した成範は、自らの邸宅にたくさんの山桜を植え、春になると桜の下にばかりいたと伝わる。能「泰山府君」の登場人物でもあり、短い花の盛りを惜しんだ成範が、その命を延ばしてもらおうと泰山府君に祈ったところ、成範の風流な心に感じた泰山府君が現れ、願いを叶えってやったと云う。本作は、満開の山桜の下でくつろぐ桜町中納言と従者を描いたもので、構図自体は『光琳百図』所載の光琳画をほぼ忠実に踏襲している。「桜町中納言図」は師の酒井抱一にもいくつかの遺品があり、江戸琳派において継承された画題のひとつといえる。(久保佐知恵稿) 】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手 図録』所収「作品解説56 桜町中納言図」)

 ここで、冒頭の抱一画集『鶯邨画譜』所収の「桜町中納言図」(に戻り、これは、まさしく、「抱一筆」とか「其一筆」とかではなく、『鶯邨(抱一の「雨華庵(工房)」の別称)』の「画譜(マニュアル・手本)」の「一コマ」のものという思いを深くする。
 さらに、付け加えるならば、上記の其一筆「桜町中納言図」(千葉市美術館蔵)には、次のような箱書きがある(『日本絵画の見方(榊原悟著)』)。

(箱表) 桜町中納言  竪幅
(箱裏) 先師其一翁真蹟 晴々其玉誌 印

 この「晴々其玉」は、其一の高弟・中野其明(きめい)の子息・中野其玉(きぎょく)であり、この其玉にあっては、その「先師」とは、酒井抱一ではなく、鈴木其一その人ということになる。
そして、この其玉に、『鶯邨画譜』を継受したような『其玉画譜』(小林文七編)があり、次のアドレスで、その全図を見ることが出来る。ここに、まぎれもなく、「其一→其明→其玉」の「其一派」の流れを垣間見ることが出来る。

一 ARC古典籍ポータルデータベース (カラー版)

http://www.dh-jac.net/db1/books/results.php?f3=%E5%85%B6%E7%8E%89%E7%94%BB%E8%AD%9C&enter=portal


二 国立国会図書館デジタルコレクション (モノクロ版)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850329



酒井抱一句集『屠龍之技』(序)周辺

抱一句集『屠龍之技』序(周辺)

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)

http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0001_m.html

【「屠龍之技」の全体構成(上記「写本」の外題「軽挙観句藻」)

序(亀田鵬斎)(文化九=一八一二)=抱一・四五歳

第一こがねのこま(寛政二・三・四)=抱一・三〇歳~三二歳

第二かぢのおと (寛政二・三・四)=同上

第三みやこおどり(寛政五?~?)=抱一・三三歳?~

第四椎の木かげ (寛政八~十年)=抱一・三六~三八歳 

第五千づかのいね(享和三~文化二年)=抱一・四三~四五歳

第六潮のおと  (文化二)=抱一・四五歳 

第七かみきぬた (文化二~三)=抱一・四五歳~ 

第八花ぬふとり (文化七~八)=抱一・五〇~五一歳

第九うめの立枝 (文化八~九)=抱一・五一~五九歳

跋一(春来窓三)

跋二(太田南畝) (文化発酉=一八一三)=抱一・四六歳   】

『屠龍之技』の「序」(亀田鵬斎)

軽挙道人。誹(俳)諧十七字ノ詠ヲ善クシ。目ニ触レ心ニ感ズル者。皆之ヲ言ニ発ス。其ノ発スル所ノ者。皆獨笑、獨泣、獨喜、獨悲ノ成ス所ナリ。而モ人ノ之ヲ聞ク者モ亦我ト同ジク笑フ耶泣ク耶喜ブ耶悲シム耶ヲ知ラズ。唯其ノ言フ所ヲ謂ヒ。其ノ発スル所ヲ発スル耳(ノミ)。道人嘗テ自ラ謂ツテ曰ハク。誹(俳)諧体ナル者は。唐詩ニ昉(ハジ)マル。而シテ和歌之ニ効(ナラ)フ。今ノ十七詠ハ。蓋シ其ノ余流ナリ。故ニ其ノ言雅俗ヲ論ゼズ。或ハ之ニ雑フルニ土語方言鄙俚ノ辞ヲ以テス。又何ノ門風カコレ有ラン。諺ニ云フ。言フ可クシテ言ハザレバ則チ腹彭亨ス。吾ハ則チ其ノ言フ可キヲ言ヒ。其ノ発ス可キヲ発スル而巳ト。道人ハ風流ノ巨魁ニシテ其ノ髄ヲ得タリト謂フ可シ。因ツテ其首ニ題ス。

文化九年壬申十月  江戸鵬斎興

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)

http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0002_m.html

■抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)

書写地不明] : [書写者不明], [書写年不明]1冊 ; 24cm

注記: 書名は序による ; 表紙の書名: 輕舉観句藻 ; 写本 ; 底本: 文化10年跋刊 ; 無辺無界 ; 巻末に「明治三十一年十二月二十六日午夜一校畢 観潮樓主人」と墨書あり

 鴎E32:186  全頁

琳派の画家として知られる酒井抱一が、自身の句稿『軽挙観句藻』から抜萃して編んだ発句集である。写本であるが、本文は鴎外の筆ではなく、筆写者不明。本文には明らかな誤りが多数見られ、鴎外は他本を用いてそれらを訂正している。また、巻末に鴎外の筆で「明治三十一年十二月二十六日午夜一校畢 観潮楼主人」とあることから、この校訂作業の行われた時日が知られる。明治30年(1897)前後、鴎外は正岡子規と親しく交流していたが、そうしたなかで培われた俳諧への関心を示す資料だと言えよう。(出)

■亀田鵬斎(かめだほうさい);(宝暦2年9月15日(1752年10月21日) – 文政9年3月9日(1826年4月15日))、江戸時代の化政文化期の書家、儒学者、文人。江戸神田生れ(上野国邑楽郡富永村上五箇村生まれの異説あり)。

 父は萬右衛門といい、上野国邑楽郡富永村上五箇村(現在の群馬県邑楽郡千代田町上五箇)の出身で日本橋横山町の鼈甲商長門屋の通い番頭であった。母の秀は、鵬斎を生んで僅か9ヵ月後に歿した。

 鵬斎は6歳にして三井親和より書の手ほどきを受け、町内の飯塚肥山について素読を習った。14歳の時、井上金峨に入門。才能は弟子の中でも群を抜き、金峨を驚嘆させている。この頃の同門 山本北山とは終生の友となる。23歳で私塾を開き経学や書などを教え、躋寿館においても教鞭を執った。赤坂日枝神社、駿河台、本所横川出村などに居を構え、享和元年(1801)50歳のとき下谷金杉に移り住んだ。妻佐慧との間に数人の子を生んだが皆早世し、亀田綾瀬のみ生存し、のちに儒学者・書家となる。亀田鴬谷(かめだおうこく)は孫にあたる。

 鵬斎は豪放磊落(ごうほうらいらく)な性質で、その学問は甚だ見識が高く、その私塾(乾々堂→育英堂→楽群堂)には多くの旗本や御家人の子弟などが入門した。彼の学問は折衷学派に属し、すべての規範は己の中にあり、己を唯一の基準として善悪を判断せよとするものだった。従って、社会的な権威をすべて否定的に捉えていた。

 松平定信が老中となり、寛政の改革が始まると幕府正学となった朱子学以外の学問を排斥する「寛政異学の禁」が発布される。山本北山、冢田大峯、豊島豊洲、市川鶴鳴とともに「異学の五鬼」とされてしまい、千人以上いたといわれる門下生のほとんどを失った。その後、酒に溺れ貧困に窮するも庶民から「金杉の酔先生」と親しまれた。塾を閉じ50歳頃より各地を旅し、多くの文人や粋人らと交流する。

 享和2年(1802)に谷文晁、酒井抱一らとともに常陸国(現 茨城県龍ケ崎市)を旅する。この後、この3人は「下谷の三幅対」と呼ばれ、生涯の友となった。

 文化5年、妻佐慧歿す。その悲しみを紛らわすためか、翌年日光を訪れそのまま信州から越後、さらに佐渡を旅した。この間、出雲崎にて良寛和尚と運命的な出会いがあった。3年にわたる旅費の多くは越後商人がスポンサーとして賄った。60歳で江戸に戻るとその書は大いに人気を博し、人々は競って揮毫を求めた。一日の潤筆料が5両を超えたという。この頃、酒井抱一が近所に転居して、鵬斎の生活の手助けをしはじめる。

 鵬斎の書は現代欧米収集家から「フライング・ダンス」と形容されるが、空中に飛翔し飛び回るような独特な書法で知られる。

  「鵬斎は越後がえりで字がくねり」 川柳

良寛より懐素(かいそ=唐の草書の大家)に大きく影響を受けた。

 鵬斎は心根の優しい人柄でも知られ、浅間山大噴火(天明3年)による難民を救済するため、すべての蔵書を売り払いそれに充てたという。また赤穂浪士の忠義に感じ、私財を投じて高輪の泉岳寺に記念碑を建てている。定宿としていた浦和の宿屋の窮状を救うため、百両を気前よく提供したという逸話も残っている。

 晩年、中風を病み半身不随となるが書と詩作を続けた。享年七十五。称福寺(台東区今戸2丁目5−4。浄土真宗本願寺派寺院)に葬られる。現在鵬斎が書いたとされる石碑が全国に70基以上確認できる。

亀田 鵬斎は、江戸時代の化政文化期の書家、儒学者、文人。江戸神田生れ。 鵬斎は号。名を翼、後に長興に改名。略して興。字は国南、公龍、穉龍、士龍、士雲、公芸。幼名を彌吉、通称 文左衛門。 ウィキペディア

足立区立郷土博物館所蔵 一行書「酔い飽きて高眠するは真の事業なり」。

 「詩書屏風」 亀田鵬斎書 東京国立博物館展示 個人蔵 

https://rakugonobutai.web.fc2.com/296kamedahousai/kamedahousai.html

  • 柳家さん生の噺、「亀田鵬斎」(かめだほうさい) 原題「鵬斎とおでんや」より

下谷金杉の裏長屋に生んでいた亀田鵬斎という方がいました。書家であったが、名人気質があって気にいらないと書を書かないし、気にいれば金額のことなど無視して書いた。

  孫が行方不明になって大騒ぎをしています。

 「御免下さいまし。ごめんください。こちらが亀田鵬斎さん宅でしょうか」、「はい、はい、手前です」、「私はおでん燗酒を商っている平次と申しますが、お宅のお孫さんではありませんか。屋台に寝ています」、「婆さんや、疲れたんだろうから、そっと寝かせてあげなさい。かどわかしでは無いかと大騒ぎしてました」、「吉原田んぼで仕込みしていましたら、子供がワァ~っと泣きじゃくっていたのが、あの子です。色々聞いたら亀田鵬斎とだけ分かって、聞きながらやっとここが分かりました」、「孫が見付かった身祝いに何か差し上げたいが・・・。この生活では・・・」、「そんな事は良いんです」、「そうはいきません」、「子供が泣いていたから連れてきただけ。この汚い家に何も無いのは分かります」、「壊れかかった屋台はお前さんの物か」、「壊れ掛かったとは怒りますよ。これで仕事をしているんです」。

 考えたあげく、屋台の看板になる小障子を外し奥に持って行ってしまった。しばらくして小障子を抱えてきて、行灯に火を入れて小障子をはめ込んだ。『おでん 燗酒 平次殿 鵬斎』と書かれ落款が押してあった。「先生が書いたの。看板屋?貰って良いの」、「お持ち下さい」。

 平次がいつものように吉原田んぼで仕事をしていると、五十年配の大店の旦那然とした御客が来た。「いらっしゃい。何を・・・」、「寒くなったので、熱燗を一本。吉原を久しぶりに冷やかしてきたんだ。冷えたときには熱燗で身体の中から温めるのが一番。クゥ~、クゥ~、クゥ~、ファ~。・・・チョッと聞くが、お前さんの名前は平次さんかぃ」、「どうして判るんですか」、「ここに書いてある。鵬斎として落款が押してある。これは亀田鵬斎かぃ」、「そうですよ」、「知っているのかぃ」、「知っています」、「私は屋台で酒は飲んだことが無いんだ。この字は、『飲みなさいッ』という字だ。ここに鵬斎の書が有るなんて・・・、目の保養をさせて貰いました」、御客は1両を置いてお釣りも取らず、小障子を持って行ってしまった。

 「こんにちは。私は、おでん燗酒は売っていますが、小障子は売っていません。この1両は先生の物ですからお渡しします」、「アレはお前さんにやった物だ。1両はお前さんの物だ」、お互いに譲り合って、話は先に進まない。「では、この1両は預かっておく。新しい小障子を持って来なさい」。同じように、『おでん 燗酒 平次殿 鵬斎』と書いて落款が押してあった。

 半月ほどたった晩に若い武士が店にやって来た。「亀田鵬斎が書いた看板を掲げた店が有ると聞いたが・・・」、「これが亀田鵬斎が書いた看板なんです」、「そうか。ここに5両置く。小障子は貰っていく」、「チョッと、小障子持って行っちゃいけません」。

 「先生、小障子持って行かれました。5両は貴方の物ですから、ここに置きます。おでんも食べず、燗酒も飲まず5両置いて小障子を持って行っちゃったんです」、「分かった。5両は預かっておく。小障子を持って来なさい」。前回と同じように、『おでん 燗酒 平次殿 鵬斎』と書かれ落款が押してあった。

 「殿お呼びですか」、「見て見ろ、経治屋に軸装にして貰った。『おでん 燗酒 平次殿 鵬斎』、良い書だろう。他には無いぞ。酒の支度をしろ。鵬斎が言っている。飲めと」。

 「お客さまです」、「黒田か、こっちに入れ。良いだろう、この書」、「我が殿が2000両用意しているから、譲って貰えと言っています」、「バカモン。この書は他には無いんだ。譲れん」。

 この黒田がお屋敷に帰ってこの話をすると、「この屋台は必ず何処かに出ているはずだ。探せッ」。

 「鵬斎書の小障子がはめてある屋台が見付かりました」。若侍を集めて、この屋台の周りを取り囲み、号令一下屋台を引っ張って持って行ってしまった。25両の金を置いて行った。

 「御免下さいまし」、「どうした?」、「25両で屋台をやられました」、「平次さん、歳は幾つになる。五十か。屋台では身体がキツいであろう。店を持たぬか?足して31両有る」、「その金は借りるので、少しずつ返していきます。そうですね。生まれが四谷ですから、四谷で豆腐屋でも始めましょう」、「店が出来たら、わしが『豆腐屋 平次』と書いてあげよう」、

「それには及びません。それでは家が無くなっちゃう」。

■下谷金杉(したやかなすぎ);近くに有る金杉村とは違って、旧日光街道(現金杉通り)に面した下谷金杉上町と下谷金杉下町が有ります。現在の言問通り交差点・根岸一丁目辺りから北側の三ノ輪交差点辺りまでの街道に沿った細長い町です。

 下谷金杉辺りから吉原田んぼまでは東に約1km位です。

 鵬斎の金杉時代は里俗に中村というところに住んだ。今もある御行松跡の不動堂の北側で、現台東区根岸四丁目14あたり。昭和三十年代まで中根岸の内だった。

 港区に有る、旧浜離宮恩賜庭園の南側を流れる古川(上部に首都高環状線が走る)に架かり、国道15号線(旧東海道)を渡す”金杉橋”とは違います。

■四谷(よつや);四谷見附の有った、五街道の甲州街道があった新宿の手前の街。現在の新宿区と千代田区の区境にある、四ツ谷駅がその地です。千代田区側には番町と麹町が有りますが、四谷は新宿区側で甲州街道に沿った細長い街になって居ます。

 当時は、四ツ谷伊賀町、四ツ谷忍町、四ツ谷御箪笥町、四ツ谷北伊賀町、四ツ谷坂町、四ツ谷塩町、四ツ谷伝馬町、四ツ谷仲町等がありました。

■吉原田んぼ(よしわらたんぼ);ここで平次さんのおでん屋が仕込みと店を出していました。遊郭吉原を取り巻く一帯に有った田んぼ地(台東区浅草3~6丁目と同千束1~3丁目の一部)。その南側が浅草寺。遊郭吉原に行くのに、蔵前の方から近道を行くと、浅草寺の境内を縦に突っ切り、浅草田んぼを行けば、その先に吉原の明かりが見えた。落語「唐茄子屋政談」に出てくる勘当された若旦那が、初めて唐茄子を担ぎなが売り歩き、気が付くとこの吉原田んぼに出て、吉原を遠くに見ながらつぶやく場面があります。若旦那の述懐が何ともほろ苦く遊びの世界と現実の世界のギャップをまざまざと見ることが出来ます。

 吉原と浅草寺の間だの土地を田町と言った。明治14年頃浅草田んぼが埋め立てられて、約2万1千坪が平地となり、その一部が田町という町名になった。安易な町名の付け方ですが、現在この地名はありません。田町とは江戸に(東京にも)同名の町名が他にも有りますが、落語の世界では断りを入れない限り、ここの”田町”が舞台です。

蕪村が描いた芭蕉翁像(十三~十五)

その十三 天明二年(一七八二)の同一時作の「芭蕉翁像」(蕪村筆)

天明二年1.jpg

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』所収「101『芭蕉像』画賛」

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』の「101『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

一幅 
款 「天明歳次壬寅晩冬初十日 蕪村拝写」
印 「長庚」「春星」(白文連印)
賛  後掲
天明二年(一七八二)
『俳人真蹟全集 蕪村』
(賛)
花にうき世我酒しろく飯くろし
夏ころもいまた虱をとりつくさす
はせを野分して盥に雨をきく夜哉
あけぼのや白魚しろきこと一寸
あさよさにたれまつしまそ片こゝろ

 落款の「天明歳次壬寅晩冬初十日」から、「天明二年(一七八二)十ニ月十日」の作ということになる。蕪村が亡くなるのは、翌年の天明三年(一七八三)十ニ月二十五日、丁度、亡くなる一年前の作品ということになる。
 この賛中の芭蕉の五句は、蕪村が精選を重ねての五句ということになろう。晩年の芭蕉が到達した「軽み」の世界というのは、「日常卑近な題材の中に新しい美を発見し、それを真率・平淡に表現する」と要約すれば、これらの作品は、決して晩年の作品ではないが、どの句も「日常卑近の題材」であり、そして、どの句も「真率・平淡な表現」のものということになろう。
 これらの賛の五句が、芭蕉の「軽み」の世界のものとするならば、この蕪村の「芭蕉像」を、顔の表情は実にユーモラスで、先に紹介した「倣暒々翁墨意」の落款のある「芭蕉像」(『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』所収「102『芭蕉像』画賛」)に近いという印象を深くする。

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』所収「102『芭蕉像』画賛」

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』の「102『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

一幅 
款 「蕪村拝写」
印 一顆(印文不明)
賛  後掲
『上方俳星遺芳』
(賛)
花にうき世我酒白く飯黒し
夏衣いまた虱を取つくさす
はせを野分して盥に雨をきく夜かな
おもしろし雪にやならむふゆの雨
あさよさにたれまつしまそ片心

 冒頭に掲げた「芭蕉像」の賛中の五句と同じものではなく、この四句目のみが相違している。また、他の四句も、漢字と平仮名などの句形を異なにしている。しかし、この両者は、この賛などからして、同一時期の作品と解したい。即ち、両者とも、天明二年(一七八二)作と解したい。
 その上で、両者の画像を比較鑑賞すると、前者が、速筆体の「戯画」「酔画」の、「真・行・草」の「草画」的な印象に比して、後者の方は、丁寧な筆遣いで、「真(本)画」的な印象を強く受ける。

 先に、安永末年(一七八〇)から天明三年(一七八三)の間と推定される、大津の俳人、(伊東)子謙宛ての蕪村書簡の一部について触れたが、ここで、より詳しく、その書簡について触れて置きたい。

[ (前略)
〇 杉風が画の肖像も少々俗気有之候故、いさゝか添削を加候。都(スベ)て肖像之画法は、年を寄せ候が能(よく)候。
〇 杉風原本にはしとね(褥)を敷(しき)候へども、是はよろしからず候。仏家之祖師などの像には褥(しとね)をよく候へ共、翁などのごとき風流洒落(しゃらく)にて脱俗塵たる像は、只寒相にて寂しき方を貴(たっと)び申事に候。
〇 愚老むかし関東に於て、許六が画の肖像に素堂の賛有之物を見申候 厳然たる真蹟 伝来正きものに候 其像之面相は 杉風が画たる像とは大同小異有之候 許六が画(えがき)たるも 翁現世の時之画と相見え候 杉風・許六二画の内、いづれが真にせまり候や 無覚束候 愚老が今写する所は、右二子の画たる像を参合して写出候。庶幾(こいねがわくば)其真にせまらん事を。(以下、略)  ]
(『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)』)

 蕪村が描く座像の「芭蕉像」は、多く、杉風の芭蕉像(例えば、義仲寺の芭蕉像)を参考にしているのだろうが、この書簡にあるごとく、ことごとく「添削を加え」(手を入れて修正している)、蕪村の内たる芭蕉像を描出している。
 また、この書簡の、杉風作は「褥を敷(しき)候へ共、是はよろしからず候」と、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』で紹介されている七点の座像ものは、全てが、「褥(しとね=座る時の四角い敷物)は敷いていない。
 さらに、この書簡の、「肖像之画法は、年を寄せ候(年相応に描く)が能(よく)候」と、その顔の表情などは、一枚足りとも同じ表情のものはない。壮年の芭蕉は壮年らしく、老齢の芭蕉は老齢のままに描いている。

 上記の同一時の頃の作と思われる(その賛などからして)二例にしても、前者が「動的・ユーモラス」な芭蕉像とすると、後者は「静的・謹厳実直」な芭蕉像という趣である。そして、画人・蕪村の忠実な後継者である「月渓」の描く芭蕉像などは、蕪村の外面的なものの把握だけで、その内面的なものに迫ろうとする気配は感じられない。
 そして、これまで見てきた「百川・若冲・月渓」の芭蕉像と、蕪村のそれとを比較すると、質・量共に、蕪村に匹敵する画人は見当たらないということを実感する。

その十四 眼を閉じている「芭蕉翁像」(蕪村筆)

 『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に収録されている下記の十一点について、
これまでに、「④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)を除いて、全て、概括してきた。今回、この最後の一枚を見て行きたい。

① 座像(正面向き、褥なし、安永八年作=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)→(その七)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)→(その八)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九作。金福寺蔵)→(その六)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)→(その十四)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)→(その十一)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)→(その十)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)→(その九)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)→(その十三)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)→(その十三)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)→(その十二)
⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)→ (その一)

蕪村遺芳.jpg

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』所収「89『芭蕉像』画賛」

 『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』の「89『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

紙本墨画 一幅 
一〇〇・一×三〇・七cm
款 「夜半亭蕪村拝写」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛  後掲
『蕪村遺芳』
(賛)
蓬莱に聞はやいせの初便
先たのむ椎の木も有夏木立
名月や池をめくりて終宵
海くれて鴨の声ほのかにしろし

 この「芭蕉像」は白帽子である。「安永八年作=一七七九作」の「① 座像」「② 半身像」「③ 座像」も、白帽子であった。その特徴からする、その「安永八年(一七七九)」の、金福寺に奉納した「③ 座像」と、同一時頃の作品なのかも知れない。
 ここで、「国文学 解釈と鑑賞(特集与謝蕪村)837 2001/2」所収「蕪村の描いた芭蕉(早川聞多稿)」で紹介されている「芭蕉像に賛された発句一覧(句の上の数字は引用回数、句の下に、詠句年齢・出所出典)」を、以下に掲げて置きたい。
 ※は、この賛にある句である。

⑥ 芭蕉野分して盥に雨をきく夜かな (三八歳・茅舎の感)
⑤ 花にうき世我我酒白く飯黒し   (四〇際・虚栗)
⑤ 夏衣もいまだ虱を取り尽さず   (四二歳・野ざらし紀行)
④ 名月や池をめぐりて夜もすがら  (四三歳・あつめ句)   ※
③ わが衣に伏見の桃の雫せよ    (四二歳・野ざらし紀行)
③ 海暮れて鴨の声ほのかに白し   (四二歳・野ざらし紀行) ※
③ 世にふるもさらに宗祇のやどりかな(四三歳・笠の記)
③ おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな (四五歳・鵜舟)
③ 朝夜さに誰がのつしまぞ片心   (四五歳・桃舐集)
③ 行く春や鳥啼魚の目は泪     (四六歳・奥の細道)
③ 物いへば唇寒し秋の風      (四八歳頃・芭蕉庵小文庫)

③ 蓬莱に聞かばや伊勢の初便    (五一歳・真蹟自画賛)  ※
② 馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり  (四二歳・野ざらし紀行)
② あけぼのや白魚白きこと一寸   (四二歳・野ざらし紀行)
② 年暮れぬ笠着て草鞋はきなから  (四二歳・野ざらし紀行)
② 梅白しきのふや鶴をぬすまれし  (四二歳・野ざらし紀行)
② 古池や蛙飛こむ水の音      (四三歳・蛙合)
② いてや我よき衣着たり蝉衣    (四四歳・あつめ句)
② 五月雨に鳰のうき巣を見にゆかん (四四歳・泊船集)
② 寒菊や粉糠のかゝる臼の端    (五〇歳・炭俵)
② この道を行く人なしに秋の暮   (五一歳・書簡)

① 櫓の声(せい)波を打つて腸凍る夜や涙 (三八歳・寒夜の辞)
① 年の市線香買ひに出でばやな   (四三歳・続虚栗)
① おもしろし雪にやならん冬の雨  (四四歳・俳諧千鳥掛)
① 夕顔や秋はいろいろ瓢哉     (四五歳・真蹟懐紙考)
① このあたり目に見ゆるものは皆涼し(四五歳・十八楼の記)
① 粟稗にまづしくもあらず草の庵  (四五歳・笈日記)
① あかあかと日はつれなくも秋の風 (四六歳・奥の細道)
① 初時雨猿も小蓑を欲しげなり   (四六歳・猿蓑)
① 蛍の笠落したる椿かな      (四七歳・真蹟色紙)
① 菰を着て誰人います花の春    (四七歳・真蹟草稿)

① 先たのむ椎の木も有り夏木立   (四七歳・幻住庵の記) ※
① ほととぎす大竹藪を漏る月夜   (四八歳・嵯峨日記)
① 子供等よ昼顔咲きぬ瓜剥かん   (五〇歳・藤の実)
① 稲妻や闇の方ゆく五位の声    (五一歳・有磯海)

その十五 「俳仙群会図」(蕪村筆)上の「芭蕉像」

俳仙群会図.jpg

(蕪村筆)「俳仙群会図」(柿衛文庫蔵)

 平成九年(一九九七)十月十日から十一月十三日に茨城県立歴史館で開催された特別展「蕪村展」図録の「作品解説1」は、次のとおりである

【絹本着色 三五・〇×三七・〇
款記   朝滄写
印章   丹青不知老至(白文方印)
柿衛文庫蔵

後賛詞(上部)
 此俳仙群会の図は元文の
 むかし余若干の時写したる
 ものにしてこゝに四十有余年
 に及へりされは其拙筆
 今更恥へしなんそ烏有と
 ならすや今又是に
 讃詞を加へよといいふ固辞
 すれともゆるさすすなはち
 筆を洛下の夜半亭にとる
 花散月落て
  文こゝに
   あらあり
    かたや
 天明壬寅春三月
 六十七翁蕪村書
 印章 謝長庚印(白文方印) 溌墨生痕
賛(下部)
 元日や神代のこともおもはるゝ(守武)
 鳳凰も出よのとけきとりのとし(長頭丸・貞徳)
 これはこれはとはかり花のよしのやま(貞室)
 手をついて哥申上る蛙かな(宗鑑)
 ほとゝきすいかに鬼神もたしかに聞け(梅翁・宗因)
 古池や蛙飛こむ水の音(芭蕉)
 桂男懐にも入や閨の月(やちよ)
 古暦ほしき人にはまいらせむ(嵐雪)
いなつまやきのふはひかしけふは西(其角)
 はつれはつれあはにも似たるすゝき哉(園女)
 かれたかとおもふたにさてうめの花(支考)
 こよひしも黒きもの有けふの月(宋阿)
 任口上人の句はわすれたり
  平安蕪邨書
 印章 謝長庚(白文方印) 謝春星(白文方印)

 後賛詞「元文のむかし余若干の時写したるものにして」によれば、元文年間、蕪村二十代前半の作で、現存する原本作品中最も古いものということになる。芭蕉を初めとする俳仙に、師・宋阿を加えた計十四人の俳人が描かれている。後賛詞に誤りがなければ、宋阿像は生存中の宋阿を描いたことになる。一方では、この作品の制作時期を、丹後時代とする説もある。描いた年代の記憶は、時と共に曖昧になるのが常だが、自身の師の像を生存中に描いたか否かの記憶は、早々薄れるものではない。したがって、蕪村の後賛詞は信ずるに足るものであると考えられる。人物の表現に関しては、「狩野・土佐折衷様式を持つ江戸狩野の特色が強い」との指摘がなされている。 】

 この「作品解説(北畠健稿)」の基本的な考え方は、「柿衛文庫」の創設者・岡田利兵衛氏の『俳画の美 蕪村・月渓』所収「俳仙群会図」の解説を踏襲している。その解説は次のとおりである。

【右の大きさ(画 竪三五センチ 横三七センチ 全書画竪 八七センチ)の絹本に十四人の俳仙、すなわち宗鑑・守武・長頭丸(貞徳)・貞室・梅翁(宗因)・任口・芭蕉・其角・嵐雪・支考・鬼貫・八千代・園女と宋阿(巴人)の像を集めてえがいている。特に宋阿は蕪村の師であるので加えたもので、揮毫の時点においては健在であったから迫真の像であると思われる。着彩で精密な描写は大和絵風の筆致で、のちの蕪村画風とは甚だ異色のものである。これは蕪村が絵修業中で、まだ進むべき方途が定まっていなかったからであろう。しかし細かい線の強さ、人物の眼光に後年の画風の萌芽を見出すことができる。
中段に別の絹地に左の句がかかる。

 (「賛」の句・落款を省略)

さらに上段に左記の句文か貼付される。これは紙本である。

 (「後賛詞」の句文・落款を省略)

この三部は三時期に別々にかかれたもの。上段は紙本で明らかに区分されるが、中段と下段はどちらも絹本であってやや紛らわしいかもしれないが絹の時代色が違うのと、謝長庚・謝春星の印記が捺され、この号は宝暦末から使用されるから、これから見て区分は明白である。上段の文意によってもそのことがわかる。
ここで最も重大なことは上段に「元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして、こゝに四十有余年」と自ら記している点である。これは絵が元文期・・・蕪村二十一歳から二十四歳・・・に揮毫されたことを立証している。すなわち現に伝存する蕪村筆の絵画中の最も早期にかかれたものであり、その点、甚だ貴重な画蹟といわねばならぬ。それに四十有余年後の天明二年に賛を加えよといわれて、困ったが自筆に相違ないので恥じながら加賛したのである。
 この画の落款は朝滄である。この号はつづく結城時代から丹後期まで用いられるものである。また印記の「丹青不知老到」という遊印であるが、この印章は初期に屡々款印に用いられている。すなわち下段の画は元文、中段の句は安永初頭(推定)、上段は天明二年の作である。
 以下、略 】

 ここで、蕪村の画号の「朝滄」は、蕪村の関東歴行時代(元文元年・一七三六~寛延三年・一七五〇)には見られない(画号は「子漢・四明・蕪村」の三種類だけである)。そして、印章は、「四明山人・朝滄・渓漢仲」で、「朝滄」(二種類)が用いられている。
 問題は、「丹青不知老到(タンセイオイノイタルヲシラズ)」の遊印で、いみじくも、この遊印は、同年齢の蕪村と若冲とが、同じ頃、それぞれが、それぞれの自己の遊印として使用しているという曰くありげな印章なのである。
 即ち、この遊印を捺す作品の中で、制作時期が判明できる最も新しい若冲作は、「己卯」(宝暦九年=一七五九)の賛(天龍寺の僧、翠巌承堅(すいげんしょうけん)の賛)のある「葡萄図」で、蕪村作では、庚辰(宝暦十年=一七六〇)の落款のある「維摩・龍・虎図」(滋賀・五村別院蔵)である。
 この宝暦九年(一七五九)・宝暦十年(一七六〇)というのは、若冲・蕪村が、四十四歳・四十五歳の時で、杜甫の詩に由来のある「丹青(絵画)老イノ至ルヲ知ラズ」は、「不惑ノ年=四十歳=初老」と深く関わっているように思われる(これらのことについては「補記」を参照)。
 蕪村が、不惑の四十歳を迎えるのは、宝暦五年(一七五五)で、その前年に丹後宮津に赴き、以後、この宮津滞在中に「朝滄」の号で多くの画作を残している。こういう観点から、二十歳代の蕪村(「宰町・宰鳥」時代)が、「朝滄」という画号はともかく、「丹青不知老到」という印章を使用するとは、まずもって不自然ということになろう。
 とすると、この「後賛詞」の「元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして」とは、
この「俳仙群会図」の下絵など(「控え帳」などの「縮図」など)を指し、それに基づいて、丹後時代に本絵を仕上げたという意味にも取れなくも無い。
 そして、この「後賛詞」を書いた、亡くなる一年前の天明二年(一七八三)に、蕪村は二枚の表情の異なる「芭蕉翁像」(座像)を描いている(その十三を参照)。それらの「芭蕉翁像」と、この「俳仙群会図」の、この「後賛詞」とは、やはり、何かしら縁があるように思われる。
 いずれにしろ、この「俳仙群会図」中の、無帽の座像の「芭蕉像」は、それが、元文年間の駆け出しの二十歳代のものにしろ、宝暦年間の不惑の年の四十歳代のものにしろ、蕪村の「芭蕉像」の、そのスタート地点のものであることには、いささかも変わりはない。
 そして、蕪村が亡くなる一年前の、六十七歳時の、この「俳仙群会図」の「後賛詞」の末尾に記した、「花散り月落ちて文こゝにありあらありがたや」の、この字余りの破調の句は、「花が散る、月が落ちるように、芭蕉翁、師の宋阿翁をはじめ、皆、俳仙の方々は鬼籍の人となったが、その句文は今に存して、道しるべとなっている。何とありがたいことであることか」というのは、「六十七歳・蕪村翁」の、万感の意を込めてのものであろう。
 この「俳仙群会図」は、蕪村の生涯、そして、蕪村の芭蕉観を知る上での、極めて、重要且つ示唆深い作品の一つということになろう。

俳仙群会図・芭蕉像.jpg

(蕪村筆)「俳仙群会図」(柿衛文庫蔵)「部分図」(芭蕉像)

(補記)「若冲と蕪村の『蝦蟇・鉄拐図』」より「朝滄」と「「丹青不知老(将)至」関連(抜粋)

 上記の「十二神仙図屏風」は、蕪村が不惑の齢を迎えた、その翌年(宝暦五年=一七五五)の頃の作であろうか。この掲出の右隻の第四扇と第六扇とに、杜甫の詩に由来する「丹青不知老(将)至」(丹青=画ハ将ニ老イノ至ルヲ不知=知ラズ)の遊印(好みの語句などを彫った印)を捺している。
ちなみに、この右隻(六扇)の署名と印章は次のとおりである。

第一扇 署名「四明」、印章「馬孛」(白文方印)、「四明山人」(朱文方印)
第二扇 署名「四明」、印章「四明山人」(朱文方印)、「朝子」(白文方印)
第三扇 署名「四明」、印章「四明山人」(朱文方印)
第四扇 署名「四明」、印章「丹青不知老至」(白文方印)、「朝」「滄」(朱白文連印)
第五扇 署名「四明写」、印章「馬孛」(白文方印)、「四明山人」(朱文方印)
第六扇 署名「四明図」、印章「丹青不知老至」(白文方印)、「朝子」(白文方印)

 この署名の「四明」は、比叡山の二峰の一つ、四明岳(しめいがたけ)に由来があるとされている。そして、安永六年(一七七六)の蕪村の傑作俳詩「春風馬堤曲」に関連させて、蕪村の生まれ故郷の「大阪も淀川河口に近い摂津国東成郡毛馬村(現、大阪市都島区毛馬街)」からは「遠く比叡山(四明山)の姿を仰ぎ見られたことだろう」(『蕪村の世界(尾形仂著)所収「蕪村の自画像」)とされている、その比叡山の東西に分かれた西の山頂(四明岳)ということになろう。
 そして、この四明岳は、中国浙江(せっこう)省の東部にある霊山で、名は日月星辰に光を通じる山の意とされる「四明山」に由来があるとされ、蕪村は、これらの和漢の「四明岳(山)」を、この画号に潜ませているのであろう。

 また、印章の「馬孛(ばはい)」の「馬」にも、蕪村の生まれ故郷の「毛馬村」の「馬」の意を潜ませているのかも知れない。事実、蕪村は、宝暦八年(一七五八)の頃に、「馬塘趙居」の落款が用いられ、この「馬塘」は、毛馬堤に由来があるとされている(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。

 そして、この「馬孛(ばはい)」の「孛」は、「孛星(はいせい)=ほうきぼし、この星があらわれるのは、乱のおこる前兆とされた」に由来があり、「草木の茂る」の意味があるという(『漢字源』など)。

 とすると、「馬孛(ばはい)」とは、「摂津東成毛馬」の出身の「孛星(ほうき星)=乱を起こす画人」の意や、生まれ故郷の「摂津東成毛馬」は「草木が茂る」、荒れ果てた「蕪村」と同意義の「馬孛」のようにも解せられる。

 そして、この「孛星(ほうき星)」に代わって、宝暦十年(一七六〇)の頃から「長庚(ちょうこう・ゆうづつ=宵の明星=金星)」という落款が用いられる。

 この「長庚(金星)」は、しばしば「春星」と併用して用いられ、「長庚・春星」時代を現出する。ちなみに、「蕪村忌」のことを「春星忌」(冬の季語、陰暦十二月二十五日の蕪村忌と同じ)とも言う。

 この「春星」は、「長庚」の縁語との見解があるが(『俳文学と漢文学(仁枝忠著)』所収「蕪村雅号考」)、「春の長庚(金星)」を「春星」と縁語的に解しても差し支えなかろう。と同時に、「長庚・春星(春の長庚)」の、この「金星」は、別名「太白星」で、李白の生母は、太白(金星)を夢見て李白を懐妊したといわれ(「草堂集序」)、李白の字名(通称)なのである。

 また、この「朝子・朝・滄」の印章は、「四明」と同じく画号で、蕪村の師筋に当たる宝井其角の畏友・英一蝶(初号・朝湖、俳号・暁雲)の「狩野派風の町絵師」として活躍していた頃の号「朝湖」に由来するものなのであろう。

 関東放浪時代は、落款(署名)がないものが多く、それは「アマチュア画家として頼まれるままに絵を描いているうちに画名が高くなり、やがて専門家並みに落款を用いるようになった」というようなことであろう(『田中・前掲書』)。

 その関東放浪時代の落款(署名)は、「子漢」(後の「馬孛(ばはい)=ほうき星」「春星・長庚=金星」の号からすると「天の川」の意もあるか)、「浪華四明」、「浪華長堤四明山人」、「霜蕪村」の五種で、印章は「四明山人」、「朝滄」(二種)、「渓漢仲」の四種のようである(『田中・前掲書』)。

 こうして見て来ると、蕪村の関東放浪時代と丹後時代というのは、落款(署名)そして印章からして、俳諧関係(俳号)では「蕪村」、そして絵画(画号)では「四明」「朝滄」が主であったと解して差し支えなかろう。

 その中にあって、上記(掲出)の「十二神仙図屏風」右隻の第四扇と第六扇との「丹青不知老(将)至」(丹青=画ハ将ニ老イノ至ルヲ不知=知ラズ)の遊印は、これは、蕪村の遊印らしきものの、初めてのものと解して、これまた差し支えなかろう。

 そして、あろうことか、この「丹青不知老(将)至」(蕪村の遊印には「将」は省略されている)の文字が入っている遊印を、何と、若冲も蕪村とほぼ同じ時期に使用し始めているのである(細見美術館蔵「糸瓜群虫図」など)。

 この遊印を捺す作品の中で、制作時期が判明できる最も新しい若冲作は、「己卯」(宝暦九年=一七五九)の賛(天龍寺の僧、翠巌承堅(すいげんしょうけん)の賛)のある「葡萄図」で、蕪村作では、庚辰(宝暦十年=一七六〇)の落款のある「維摩・龍・虎図」(滋賀・五村別院蔵)である。

 しかし、この蕪村の「維摩・龍・虎図」の制作以前の、丹後時代の宝暦九年(一七五九)前後に、上記(掲出)の「十二神仙図屏風」は制作されており、そして、この「十二神仙図屏風」中の、この遊印の「丹青不知老(将)至」が使用さている右隻の第四扇の図柄などは、この遊印のの由来となっている、杜甫の「丹青の引(うた)、曹将軍(そうしょうぐん)に贈る詩」などと深く関係しているようにも思われるのである。

 すなわち、この右隻の第四扇は、「龍に乗る呂洞寶(りょどうひん)」とされているが(『生誕二百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村』図録)、呂洞寶としても、杜甫の「丹青引曽将軍贈」の詩の二十三行目に、「斯須九重真龍出」と「龍」(龍の語源の由来は「速い馬」)が出て来るし、それに由来して、七行目の「丹青不知老(將)至」の遊印を使用しているということは十分に考えられる。

 さらに、この右隻の第四扇は、呂洞寶ではなく「龍の病を治した馬師皇(ばしこう)」としているものもある(『与謝蕪村―翔けめぐる創意(MIHO MUSEUM編)』図録所収)。確かに、呂洞寶は剣を背にして描かれるのが一般的で、蕪村の描く「十二神仙図押絵貼屏風」中の右隻の第四扇の人物は、病気に罹った龍を治したとされる「馬師皇」がより適切なのかも知れない。

 そして、これを馬師皇とすると、杜甫の詩の「丹青引曽将軍贈」の内容により相応しいものとなって来るし、蕪村の遊印の「丹青不知老至」を、この人物が描かれたものに押印したのかがより鮮明になって来る。

 さらに、この「作品解説」(『与謝蕪村―翔けめぐる創意(MIHO MUSEUM編)』図録所収)で重要なことは、『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM 編集)』図録所収)の「作品解説」の、「大岡春卜の『和漢名筆 画本手鑑』(享保五年=一七二〇刊)の掲載図など、版本の図様を参考にした可能性が指摘されている」を、「右隻第一扇の黄初平図が、享保五年(一七二〇)に刊行された大岡春卜(一六八〇~一七六三)の『画本手鑑』に載る『永徳筆黄初平図』に類似するとの指摘もあり(人見少華『蕪村の画系を訪ねて』『南画鑑賞』八―一〇、一九三九年)、示唆に富む。右隻第四扇の龍も、同書の『秋月筆雲龍図』とよく似ており、こうした版本の図様を参考にした可能性も考えられよう」と、具体的に解説されているところである。



蕪村が描いた芭蕉翁像(十~十二)

(その十)逸翁美術館蔵の「芭蕉翁立像図」(蕪村筆)

逸翁美術館芭蕉立像白黒 .jpg

『蕪村・逸翁美術館品目録』所収「107芭蕉翁立像図」(白黒図)

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「91『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

絹本淡彩 一幅 九八・二×三二・〇cm
款 「夜半亭蕪村写」
印 「謝長庚」「春星氏」(白文連印)
賛  人の短をいふことなかれ
   おのれか長をとくことなかれ
  もの云へは唇寒し秋の風
逸翁美術館蔵

 この「芭蕉翁立像図」と前回取り上げた許六に倣ったとされる「芭蕉翁図」とは、賛の前書きと発句は同じであるが、前者は細長い竹杖を抱えての旅装の芭蕉像、そして、後者は、空の一方を凝視している吟詠中の芭蕉像と、趣向も構成も異なっているものと解したい。
 ここで、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に収録されている十一点について、
これまでに取り上げたものと、今後取り上げていく予定のものを記すと、次のとおりとなる。

① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)→(その七)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)→(その八)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九作。金福寺蔵)→(その六)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)→(その九)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)→(その十一)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)→(その十)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)→(その九)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)→(その十三)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)→(その十三)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)→(その十二)
⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)→ (その一)

 これら十一図の芭蕉像(蕪村筆)を、七点の座像と四点の立像を区分けして、「蕪村の
描いた芭蕉(早川聞多稿)」(「国文学解釈と鑑賞837与謝蕪村―その画・俳二道の世界」所収)の中で、次のように指摘している。

「(これらの)七点の座像と四点の立像の間には明らかな相違があるやうに思へてくる。それは端的にいつて、座する芭蕉像がある安定感を醸し出してゐるのに対して、立ち姿の芭蕉像(二図は旅姿、二図は歩く姿)にはどこかに移り行く変化(へんげ)の感が漂つてゐる(注、図4→上記の⑤半身像→「その十一」で取り上げる)」。
 そして、さらに、次のように続ける。
「さて四点の立ち姿の芭蕉像を見比べると、そのうちの二点(注、上記の『⑥ 全身蔵』と『⑦ 全身像』)が座像を含めた他の肖像画と大きく異なってゐる」として、その一つに、「賛の句が一句のみで、しかも両図とも同一句であるという点である。その賛とは、『人の短をいふことなかれ/おのれが長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風』といふもので」とし、その内の一点」の、上記の許六に倣ったとされる「⑦ 全身像」(前回に取り上げたもの)に触れている。
 そこで、次のような見解を述べられている。
「虚空を見上げる芭蕉の視線の先に、芭蕉の座右の銘であった『人の短をいふことなかれ/おのれが長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風』といふ言葉があれば、見る者は自ずと自らの言動を省みることにならう。そして蕪村はこの芭蕉像を見るのが先づもつて当代の俳人たちであることを承知してゐた筈である。といふことは、蕪村が本図において賛を変へたのは、それが単に芭蕉の尊い人生訓だつたからだけではなく、暗に蕉風復興運動の風潮に対する批判と反省を表すためだつたやうに思われる。」

 これらに関して、「蕪村が本図(「⑦全身像」)において賛を変へた」のは、蕪村の「許六と素堂への挨拶句的なことと捩り句的なことを包含した」もので、それは其角・巴人に連なる江戸座の「洒落風俳諧」の一端を利かせているものだということについては、前回で触れた。
 さらに、それらに付け加えることとして、「蕉風復興運動の風潮に対する批判と反省を表す」ものというよりも、蕪村の夜半亭二世継承などを巡っての書簡(明和七年頃の几董宛書簡)に出て来る、「京師之人心、日本第一の悪性(京都の人心は日本一の悪性)」などの、一部の慇懃無礼な京都俳人への警鐘の意味合いも、この前書きのある句の賛の背後に潜ませているようにすら思えるのである。
 このことは、芭蕉自身、元禄三年(一六九〇)四月十日付、此筋・千川(大垣藩士の蕉門の俳人)宛書簡で、「菰を着て誰人います花のはる」(芭蕉の「歳旦句」)に関連して、「京の者共はこもかぶり(乞食)の句を引付の巻頭に何事にやと申候由、あさましく候。例の通(とほり)、京之作者(京都の俳人)つくし(尽くし=尽きている)たる」との、京都人への非難を、今に遺している。
 この芭蕉の、京都俳人への痛烈な非難の思いは、蕪村も等しく抱いていたことであろう。

 ここで、『⑦ 全身像』(前回取り上げた)ではなく、「五老井(許六)図・素堂句」と関係の無い、ただ、「人の短をいふことなかれ/おのれが長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」の賛だけが同じの、冒頭の「芭蕉翁立像図」(上記の『⑥ 全身蔵』)を鑑賞すると、次のような総括的な思いを抱くのである。
 なお、この「芭蕉翁立像図」は「絹本淡彩」で、他の「絹本淡彩」(「① 座像」「⑤ 半身像)」など)と同じ色調のものなのであろう。

一 蕪村の丹後時代に、その閲覧を渇望した百川筆「芭蕉翁像」(その二で取り上げている)と、その賛が全く同じで、この賛は、百川との関係を抜きにしては片手落ちになる。

二 蕪村の立像(上記の「② 半身像」「⑤ 半身像」「⑥ 全身蔵」「⑦ 全身像」)は、何れも、金福寺の芭蕉庵の再建と関連していて、その意味で、蕪村が金福寺に奉納した、上記の「③ 座像」の「芭蕉翁図」(その六)と何らかの関係を有しているように思われる。

三 上記の「芭蕉翁像」(十一点の座像と立像)は、主として芭蕉忌などにの俳筵興行などのもので、その俳筵の作法と、「人の短をいふことなかれ/おのれが長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」の賛は関係しているようにも思える。また、その背後には、当時の「蕉風復興運動」や「保守的な京都俳壇との葛藤」などの、俳諧師としての蕪村のアイロニカル的な視線も感じられる。

その十一)西岸寺任口上人を訪いての半身像の「芭蕉翁図」(蕪村筆)

西岸寺芭蕉立像.jpg

『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村』展図録「102 松尾芭蕉図」

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「90『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

絹本淡彩 一幅 九六・二×三二・二cm
款 「蕪村拝写」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛  
 西岸寺任口上人を訪ひて
我きぬにふしみのもゝの雫せよ
ほとゝきす大竹原をもる月夜
はせを野分して盥に雨をきく夜哉
海くれて鴨の声ほのかに白し
あさよさにたれまつしまそかたこゝろ
個人蔵

『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村』展図録「102 松尾芭蕉図」の「作品解説」(石田佳也稿)は次のとおりである。

[ 蕪村が描いた芭蕉像は十点以上が知られるが、図様から座像と立像に大別される。このうち、立像はさらに足元までを描いた全身像と、腰あたりまでを描いた半身像に分けられる。ここでは道服に頭巾を被り、手は袂の中に入れる半身像で、頭陀袋を杖に結んで左肩に担いでおり、旅姿であることが強調されている。芭蕉を追慕する風潮から、俳諧師による旅や行脚が流行したこともあって、旅姿の芭蕉像への需要が高まったと推定されるが、本図の賛として選ばれた芭蕉の句の大半が、旅の途上で詠まれた句であることも注目される。「蕪村拝写と署名があり、「長庚」「春星」(朱白文連印)を捺す。  ]

 上記の賛の一句目の前書き「西岸寺任口上人を訪ひて」は、『野ざらし紀行』では「伏見西岸寺任口上人に逢て」である。この任口上人は、東本願寺門下の京都伏見西岸寺第三代住職宝誉上人で、松江重頼門の俳人で、俳号は任口である。
 芭蕉が門人千里(ちり)を伴って、『野ざらし紀行』の旅に江戸を出立したのは、貞享元年(一六八四)八月中旬、東海道を下り、伊勢を経て、九月八日に郷里上野に帰る。数日逗留して、大和・吉野・山城を美濃の大垣に谷木因を訪ねる。初冬、熱田に入り、名古屋で『冬の日(尾張五歌仙)』を巻き上げる。十二月二十五日に、再び上野に帰り、郷里で越年する。
 明けて貞享二年(一六八五)二月に故郷を出て、奈良のお水取りの行事を見たのち、京都・大津に滞在する。二月下旬から三月上旬にかけて、京都(伏見)の任口上人を訪れたのであろう。
 三月中旬過ぎに大津を立ち、熱田・鳴海で俳席を重ね、四月十日に鳴海を立ち、名古屋・木曽路・甲州路を経て月末に江戸に帰着する。この貞享元年から二年の九カ月に及ぶ旅の紀行が『野ざらし紀行』(別名『甲子吟行』)である。

 上記の五句に創作年次などを付記すると次のとおりである。

 西岸寺任口上人を訪ひて
我きぬにふしみのもゝの雫せよ(貞享二年・一六八五、四十二歳、伏見、『野ざらし紀行』)
ほとゝぎす大竹原(藪)をもる月夜(元禄四年・一六九一、四十八歳、嵯峨、『嵯峨日記』)
はせを野分して盥に雨をきく夜哉(延宝九年・一六八一、三十八歳、深川、『武蔵曲』)
海くれて鴨の声ほのかに白し(貞享元年・一六九四、四十一歳、尾張、『野ざらし紀行』)
あさよさにたれまつしまそかたこゝろ(元禄二年・四十六歳、松島を想う、『桃舐集』)

 これらの五句を賛した蕪村の芭蕉像のイメージというのは、ずばり、芭蕉の「四十代」をイメージしてのものなのであろう。そして、それは、芭蕉七部集の第一撰集『冬の日』の時代をイメージしてのものなのであろう。そして、上記の五句目での、次の旅の「奥の細道」の「松島」の句を据えて、「漂泊の詩人・芭蕉」をイメージしているのであろう。

 ここで、あらためて、この賛の冒頭の前書きの「西岸寺任口上人を訪ひて」の、この「任口上人」に焦点を当てたい。

 この「任口上人」についての画像を、蕪村は、元文年間(二十年代前半)の作としている後賛詞(「元文のむかし余若干の時写したるものにして」)のある「俳仙群会図(一幅)」を今に遺している(この作品の制作時期については、丹後時代(四十代前半)とする説もあり、署名が「朝滄」、印が「丹青不知老死」で、丹後時代の作と解するのが妥当であろう)。
 いずれにしろ、蕪村の「元文年間(二十年代前半)又は丹後時代(四十代前半)」に描いた芭蕉像(「俳仙群会図」中の芭蕉座像)と、この、蕪村の金福寺の芭蕉庵再興の頃(六十歳代)に描いたと思われる、この「芭蕉立像(半身像)」とは、「任口上人」を介しての、謂わば、姉妹編と解すべきことも可能であろう。
 蕪村の「俳仙群会図」の俳人群像は、「守武・長頭丸(貞徳)・貞室・宗鑑・梅翁(宗因)・芭蕉・やちよ・嵐雪・其角・園女・おにつら(鬼貫)・支考・宋阿・任口」の十四人で、これらの俳人は、俳諧の祖の「守武・宗鑑」、そして、江戸前期の「貞門(貞徳・貞室)、貞徳(任口)、談林(宗因)、伊丹派(鬼貫)、蕉門(芭蕉。其角・嵐雪)、蕉門・江戸座(宋阿)、蕉門・美濃派(支考)、女流(園女・やちよ)」と、江戸中期の天明俳壇に位置する蕪村が、生前に面識のある俳人は、内弟子として仕えた蕉門・江戸座の其角系の俳人、宋阿(夜半亭一世・早野巴人)一人ということになろう。
 そして、それ以外の面識のない十三人の俳人に関しては、すべからく、師の宋阿などを介しての情報・資料に基づいて、この「俳仙群会図」を描いたのであろう。この任口上人については、宋阿の師・其角の『雑談集』などに因るもののように思われる。
 また、宋阿が興した夜半亭俳諧を蕪村が継承した明和七年(一七七〇)当時、京都の伏見には、「鶴英・柳女(鶴英の妻)・賀瑞(鶴英の娘)」などが中心になって、夜半亭俳諧の結社が出来ており、冒頭の「「芭蕉翁図」は、その伏見の連衆に懇望されて制作したものなのかも知れない。
 というのは、蕪村没後の天明四年(一七八四)に、夜半亭三世となる几董は、蕪村追悼集の『から檜葉』を刊行するとともに、この任口上人の百年の祥忌に際して、伏見の西岸寺で伏見の俳人たち(賀瑞ら)と歌仙を巻き、それらを『桃のしづく』(半紙本一冊)として刊行している。
 これらのことと、冒頭の「芭蕉翁図」、そして、画人蕪村のスタート地点の、芭蕉・宋阿・任口上人の座像を描いている「俳仙群会図」と、何処かしら結びついているような、そんな雰囲気を醸し出しているのである。

俳仙群会図・部分.jpg

「俳仙群会図」(蕪村筆)部分図(柿衛文庫蔵)
右端・芭蕉、右手前・やちよ、中央手前・其角、中央後・園女
左端手前・任口上人、左端後・宋阿(夜半亭一世、蕪村は夜半亭二世)

その十二 暒々翁に倣った「芭蕉翁像」(蕪村筆)

逸翁・座像.jpg

『蕪村・逸翁美術館蔵品目録』所収「18芭蕉翁像」(白黒写真)

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「102『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

紙本淡彩 一幅 一一七・〇×三八・二cm
款 「倣暒々翁墨意 謝寅」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛  真率其性風 雅斯宗偉哉 此翁厥声無窮 従三位具選題
逸翁美術館蔵

 上記の落款にある「倣暒々翁墨意 謝寅」の「暒々翁」とは、江戸中期の蕪村の次の世代の戯作者・浮世絵師として名高い「山東京伝」(本名は岩瀬醒《さむる》、江戸深川の生まれ、画号・北尾政演等々。錦絵だけではなく多くの戯作・狂言本などに挿絵を描いている)であろう。
 蕪村が享保元年(一七一六)の生まれとすると、山東京伝は宝暦十一年(一七六一)の生まれ、両者の年の開きは四十五歳程度と、この落款の「倣暒々翁墨意」というのは、老翁の「俳諧師・挿絵画家・蕪村」が、新進気鋭の「黄表紙戯作者・挿絵画家・山東京伝(暒々翁)」の、「倣暒々翁墨意」との「新しい感覚」を期待してのものなのかも知れない。
 蕪村の、この落款の「倣暒々翁墨意」の「暒々翁」(山東京伝)には驚かされるが、この賛をした人物の「従三位具選」(岩倉具選)にも驚かされる。
 岩倉具選(ともかず)は、宝暦七年(一七五七)の生まれ、岩倉家七世の祖。公卿としては主に後桜町上皇に仕え、その院別当などを務めた。剃髪号可汲。詩文・書画を能くし、篆刻を、池大雅の朋友、高芙蓉に学んでいる。
 蕪村との年齢差は、四十一歳の開きがあり、具選は山東京伝と同時代の、共に、江戸中期・後期の日本史の一角にその名を占めている人物である。
 この一幅に関係している群像の、「松尾芭蕉・与謝蕪村・岩倉具選・山東京伝」と、実に豪華な顔ぶれなのである。どうしてこういうものが生まれたのか、興味深々たるものがある。
 さて、この岩倉具選は、蕪村没後の天明八年(一七七八)に従三位に達して公卿に列し、寛政八年(一七九六)には蟄居となっている。とすると、この蕪村画に具選が賛をしたのは、天明八年(一七七八)から寛政八年(一七九六)の間ということになる。
 とすると、堂上人・具選と、一介の町絵師兼俳諧師・蕪村とは、同じ京都に住んでいても、活躍する時代も違うことなどからして、面識はなかったと解するのが妥当であろう。
 とすると、この一幅に関係している「松尾芭蕉・与謝蕪村・岩倉具選・山東京伝」の四人は、生前に何らかの面識なり交友関係はなかった解すべきなのであろう。

 では、次に、この蕪村の「倣暒々翁墨意」とは何を意味し、そして、具選は、蕪村の、この落款をどのように解したかという謎なのである。
 これは、江戸期に流行した絵入り娯楽本の「赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻」を背景にしているように思われる。
 「赤本」は、芭蕉の時代(元禄期)に盛んであって、「昔話・絵解き」などの子供向けが多かった。続く「黒本」は。蕪村の時代(延享・宝暦期)に流行し、「軍記物・浄瑠璃・歌舞伎」などで、蕪村は、この「黒本」と次の「青本」とに深く関わっている。
 「青本」(明和・安永期に盛んであった)は、「遊郭・滑稽・諧謔」物が増えてくる。この「青本」は、安永末期から天明期以降、知識層向け文芸作品を主とした「青本」とは別に、「洒落・滑稽・諧謔を交えて風俗・世相を漫画的に描き綴る」ところの「黄表紙」の時代となって来る。
 この「黄表紙」時代のチャンピオンが「山東京伝」に他ならない。続く、「合本」というのは、蕪村は知らない文化元年(一八〇四)の頃から登場する、「黄表紙」の長編化したもので、その代表選手達が、「山東京伝・式亭三馬・十返舎一九・曲亭馬琴、柳亭種彦」等々である。
 さて、この蕪村の「倣暒々翁墨意」とは、「倣暒々翁之『黄表紙』之墨意」と置き換えても良いのではなかろうかという仮説なのである。
 山東京伝の「黄表紙」の挿絵というのは、「狂歌・狂句(川柳)」の言葉尻ですると「狂画(黄表紙)」と名付けても差し支えなかろう。この「狂歌・狂句・狂画」の「狂」とは、「正当」(雅)に対する「異端」(俗)を意味しよう。
 蕪村は、しばしば、落款などに、「戯画・酔画」などの用語を用いているが、それを一歩進めて、「倣暒々翁墨意」とは、微温的な上方の「戯画・酔画」のそれではなく、俗に徹した江戸生まれの山東京伝らの「狂画」の世界をも摂取しようとしている、その心意気を示したものと理解をしたいのである。

 具体的には、冒頭の黒白写真では、それらを判然と指摘することはできないのだが、その顔の表情などを見ると、目は二つの小さな点、それに比して、特徴の鼻など、全体として、ユーモラスの「芭蕉翁像」という印象を受けるのである。
 それに比して、このユーモラスな俗調の「芭蕉翁像」に対する、篆刻の大家である具選の書は、何とも隷書体の高雅の世界のもので、その違和感を醸し出していると共に、また、そのアンバランスが、その画と書との余白と共に、独特の世界を形作っているように思われる。
 ここで、具選は、蕪村の、この「芭蕉翁像」と落款・署名の「倣暒々翁墨意 謝寅」を、どのように解したかということについて触れて置きたい。
 その前に、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に収録されている下記の十一点中、署名が「謝寅」になっているのは、この「⑩ 座像(左向き、褥なし、款『倣睲々翁墨意 謝寅』。逸翁美術館蔵)」だけなのである。
 他の十点の署名は、「夜半亭蕪村」か「蕪村」かである。凡そ、これらの「俳画」(「俳諧物之草画」)の人物画に属する作品の署名は、「蕪村」と署名するのが通例であって、安永七年(一七七八)から没する天明三年(一七八三)の足掛け六年間の蕪村の晩年の栄光の画号である「謝寅」は、所謂、「謝寅書き」と称せられる、蕪村の傑作画に署名されるものというのが、一般的な理解であろう。

 とにもかくにも、蕪村が、この片々たる一幅に、「謝寅」の署名をしたということは、少なくても、下記の十一点の「芭蕉像」の中では、蕪村が最終的に到達した傑作画に該当するものとして理解すべきものなのかも知れない。
 そして、それは、晩年の芭蕉が到達した「軽み」(日常卑近な題材の中に新しい美を発見し、それを真率・平淡に表現する俳諧理念)の世界と軌を一にするものであって、その意味で、この「芭蕉翁像」は、蕪村の新境地の「軽み」の世界のものと鑑賞することも可能であろう。
 そして、具選の賛の芭蕉をして「真率其性風」を、蕪村の、この「芭蕉翁像」の中に、蕪村の「真率其性風」を見て取ったのかも知れない。そして、具選は、この蕪村の署名の「謝寅」に万感の意を感じ取って、己の「真率其性風」の書体を以て賛をしたと解したいのである。
 さらに、具選は、蕪村の落款の「倣暒々翁墨意」の「暒々翁」から、江戸で一世を風靡している「黄表紙」の世界を連想し、その「黄表紙」「青本」の特徴である、挿絵(狂画・戯画)と文(戯作)とが半分半分の体裁を取って、大きな余白を取り、江戸の「黄表紙」ならず、上方の「黄表紙」スタイルを意識してのもののようにも思われる。

① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)→(その七)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)→(その八)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九作。金福寺蔵)→(その六)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)→(その九)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)→(その十一)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)→(その十)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)→(その九)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)→(その十三)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)→(その十三)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)→(その十二)
⑫ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)→ (その一)

(追記)

「『倣暒々翁墨意 謝寅』の『暒々翁』とは、江戸中期の蕪村の次の世代の戯作者・浮世絵師として名高い『山東京伝』(本名は岩瀬醒《さむる》、江戸深川の生まれ、画号・北尾政演等々。錦絵だけではなく多くの戯作・狂言本などに挿絵を描いている)であろう」は、訂正する必要があるように思われる。

 この「暒々翁」は、「松花堂照乗」(一五八四~一六三九)の別号である。「
暒々翁」は、「惺々翁」の誤記のようである。(『逸翁美術館・柿衛文庫編『蕪村(没後220年)』)所収「二五 蕪村筆芭蕉翁図」

松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう、天正10年(1582年) – 寛永16年9月18日1639年10月14日))は、江戸時代初期の真言宗僧侶、文化人。俗名は中沼式部の出身。豊臣秀次の子息との俗説もある。

書道、絵画、茶道に堪能で、特に能書家として高名であり、書を近衛前久に学び、大師流定家流も学び,独自の松花堂流(滝本流ともいう)という書風を編み出し、近衛信尹本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」と称せられた。なお松花堂弁当については、その名が昭乗に間接的に由来するとする説がある

また、その賛の「従三位具選題」についても「銀青光緑大夫」 との括弧書きがある。