抱一句集『屠龍之技』「第四椎の木かげ」(1~5)

  重陽
 1 太刀懸に菊一(ひ)とふりやけふの床 (第四 椎の木かげ)
 2 見劣(みおとり)し人のこゝろや作りきく (第四 椎の木かげ)

抱一画集『鶯邨画譜』所収「流水に菊」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 「光琳意匠」の代表的な「流水紋様」と「菊紋様」との組み合わせで、これらの全体像は、下記のアドレスに詳しい。

http://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/20/kawaii.html


• い:金井紫雲編『芸術資料』第1期 第11冊,芸艸堂,昭和16(1941)【K231-35】
• ろ:金井紫雲編『芸術資料』第3期 第7冊,芸艸堂,昭和16(1941)【K231-35】
• は:中村芳中画『光琳畫譜』和泉屋庄次郎,文政9(1826)【午-24】
• に:抱一筆『鶯邨畫譜』須原屋佐助,1800年代【か-44】
• ほ:中村芳中画『光琳畫譜』和泉屋庄次郎,文政9(1826)【午-24】
• へ:恩賜京都博物館編『抱一上人画集』芸艸堂,昭和5(1930)【424-52】
• と:金井紫雲編『芸術資料』第3期 第7冊,芸艸堂,昭和16(1941)【K231-35】
• ち:中野其明編『尾形流略印譜』春陽堂,明治25(1892)【15-156】
• り:神坂雪佳『百々世草』山田芸艸堂,明治42-43(1909-1910)【406-32】
• ぬ:法橋光琳画『光琳扇面画帖』小林文七,明治34(1901)【寄別4-3-2-3】
• る:中村芳中画『光琳畫譜』和泉屋庄次郎,文政9(1826)【午-24】
• を:石井柏亭編『浅井忠 画集及評伝』芸艸堂,昭和4(1929)【553-116】
• わ:恩賜京都博物館編『抱一上人画集』芸艸堂,昭和5(1930)【424-52】
• か:池田孤村『池田孤村画帖』写【寄別1-7-2-2】
• よ:金井紫雲編『芸術資料第一期 第三冊』芸艸堂,昭和16(1941)【K231-35】
• た:中村芳中画『光琳畫譜』和泉屋庄次郎,文政9(1826)【午-24】
• れ:中村芳中画『光琳畫譜』和泉屋庄次郎,文政9(1826)【午-24】
• そ:抱一筆『鶯邨畫譜』須原屋佐助,1800年代【か-44】
• つ:帝國博物館編『稿本日本帝国美術略史』農商務省,明治34(1901)【貴7-126】
• ね:新古画粋社編『新古画粋 第9編(光琳)』新古画粋社,大正8(1919)【421-1】


抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)についても、下記のアドレスで、その全体像を見ることが出来る。

http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0001_m.html


http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0015_m.html


 「椎の木かげ」編の「重陽」の二句。上記の「見劣し人のこゝろや作りきく」の後に、一行の空白がある。「重陽」の前書きは、次の菊の二句にかかる。

 太刀懸に菊一(ひ)とふりやけふの床
 見劣(みおとり)し人のこゝろや作りきく

3 菜の花や簇(むら)落(おとし)たる道の幅 (第四 椎の木かげ)    

抱一画集『鶯邨画譜』所収「奈の花図」(「早稲田大学図書館」蔵)

 抱一句集『屠龍之技』の「菜の花」の句に次のような句がある。

  菜の花や簇(むら)落(おとし)たる道の幅 

 この句の情景は、どのようなものなのであろうか。とにかく、抱一の句は、其角流の「比喩・洒落・見立て・奇抜・奇計・難解」等々、現代俳句(「写生・写実」を基調とする)の物差しでは計れないような句が多い。
 しかし、江戸時代の俳句(発句)であろうが、現代俳句であろうが、「季題(季語)・定形。切字・リズム・存問(挨拶)・比喩・本句(歌・詩・詞)取り」等々の、基本的な定石というのは、程度の差はあるが、その根っ子は、同根であることは、いささかの変わりはない。

 ここで、同時代(江戸時代中期=「蕪村」、江戸時代後期=「抱一」)の、同一系統(其角流「江戸座」俳諧の流れの「蕪村・抱一」)の、蕪村の同一季題(季語)の句などを、一つの物差しにして、この抱一の句の情景などの背景を探ることとする。

  菜の花や和泉河内へ小商ひ (蕪村 明和六年=一七六九 五十四歳)

 この「和泉河内」は、現大阪の南部で、当時の「菜種油」の産地である。一面の菜の花畑が、この句の眼目である。抱一の「菜の花や」の「上五『や』切り」でも、「菜種油=一面の菜の花畑」は背後にあることだろう。

  菜の花や壬生の隠れ家誰だれぞ (蕪村 明和六年=一七六九 五十四歳)

 この句の「壬生」は、現京都市中京句で、「壬生忠岑の旧知」である。抱一の句の「道の幅」の「道」も、抱一旧知の「「誰だれ」が棲んでいたのかも知れない。

  菜の花や油乏しき小家がち  (蕪村 安永二年=一七七三 五十八歳)   

 「一面の菜の花畑」は「満地金のごとし」と形容される。その一面の菜の花畑とその菜の花から菜種を取る農家の家は貧しい小家を対比させている。ここには「諷刺」(皮肉・穿ち)がある。抱一の句の「落(おとし)たる」「道の幅」などに、この「穿ち」の視線が注がれている。

  菜の花や月は東に日は西に   (蕪村 安永三年=一七七四 五十九歳) 

 蕪村の傑作句の一つとされているこの句は、「東の野にかぎろひの立つ見えて顧りみすれば月傾きぬ(柿本人麿『万葉集』)の本歌取りの句とされている。しかし、洒落風俳諧に片足を入れている蕪村は、その背後に、「月は東に昴(すばる)は西にいとし殿御(とのご)は真中に」(「山家鳥虫歌・丹後」)の丹後地方の俗謡を利かせていることも。夙に知られている。この句は、蕪村の後を引き継いで夜半亭三世となる高井几董の『附合(つけあい)てびき蔓(づる)』にも採られており、俳諧撰集『江戸続八百韻』(寛政八年=一七九六、三十六歳時編集・発刊)を擁する抱一も、おそらく、目にしていると解しても、それほど違和感はないであろう。

 ここでは、その『附合(つけあい)てびき蔓(づる)』(几董編著)ではなく、『続明烏』(几董編著)の「菜の花や」(歌仙)の「表(おもて)」の六句を掲げて置きたい。

  菜の花や月は東に日は西に    (蕪村、季語「菜の花」=春)
   山もと遠く鷺かすみ行(ゆく) (樗良、季語「かすみ」=春)
  渉(わた)し舟酒債(さかて)貧しく春暮れて(几董、「季語「春」=春)
   御国(おくに)がへとはあらぬそらごと (蕪村、雑=季語なし)
  脇差をこしらへたればはや倦(うみ)し  (樗良、雑=季語なし)
   蓑着て出(いづ)る雪の明ぼの     (几董、季語「雪」=冬)

 この「俳諧」(「歌仙」=三十六句からなる「連句」)の一番目の句(発句)を、抱一の句(俳句=発句)で置き換えてみたい。

  菜の花や簇(むら)落(おとし)たる道の幅 (抱一、季語「菜の花」=春)
   山もと遠く鷺かすみ行(ゆく)      (樗良、季語「かすみ」=春)
  渉(わた)し舟酒債(さかて)貧しく春暮れて(几董、「季語「春」=春)
   御国(おくに)がへとはあらぬそらごと  (蕪村、雑=季語なし)
  脇差をこしらへたればはや倦(うみ)し   (樗良、雑=季語なし)
   蓑着て出(いづ)る雪の明ぼの      (几董、季語「雪」=冬)

 これは、蕪村の発句が、生まれ故郷の「浪華」(「和泉河内」を含む)や現在住んでいる京都(「島原」)辺りの句とするならば、抱一の句は「武蔵」、そして、『軽挙館句藻』に出てくる「千束村(浅草寺北の千束村)に庵むすびて」の「吉原」辺りの句と解したい。
 その上で、当時の抱一に焦点を当てて、これら六句の解説を施して置きたい。

(発句)菜の花や簇(むら)落(おとし)たる道の幅  抱一

 簇(むら)」は、「菜の花の叢(むら・群生)の意に解したい。「道の幅」の「幅」は、「ふち・へり」の方が句意を取りやすい。句意は、「(千束村から吉原に行く)道すがら、その道の両側には、菜の花が、まるで、取り残されたように、群れ咲いている」。

(脇)山もと遠く鷺かすみ行(ゆく)   樗良

 「雪ながら山もと霞む夕べかな(宗祇)/行く水遠く梅匂ふ里(肖白)」(『水無瀬三吟』)を踏まえている。抱一に「菜の花に雲雀図」(「十二ケ月花鳥図・二月」)がある。

(第三)渉(わた)し舟酒債(さかて)貧しく春暮れて  几董

 「詩商人(あきんど)年を貧(むさぼ)る酒債かな」(其角『虚栗』)を踏まえてのものであろう。抱一は、文化三年(一八〇六、四十六歳)の、其角百回忌に際し、「其角肖像百幅」を制作するとの落款(印章)があるほど、其角に私淑していた。

(四)御国(おくに)がへとはあらぬそらごと      蕪村

 抱一は、天明元年(一七八一、二十一歳)に。兄の姫路藩主・忠以に従い上洛し(光格天皇即位の奉賀)、その折り姫路城まで足を伸ばしている。大名家にとっては、「御国替え」というのは、一大事のことであった。

(五)脇差をこしらへたればはや倦(うみ)し     樗良

  寛政九年(一七九七、三十七歳)に出家し、「等覚院文詮暉真」の法名を名乗る前は、酒井雅楽頭家の藩主に次ぐ、次男の「忠因(ただなお)」がその本名であり、脇差は必携のものであったろう。

 もとより、上記のものはバーチャル(仮想の「そらごと」)のものであるが、町絵師風情の蕪村よりも、風流大名家の一員の抱一の世界に、より多く馴染むような、そんな内容の運びであるということを付記して置きたい。

酒井抱一筆「十二ヵ月花鳥図」 絹本著色 十二幅の六幅 各一四〇・〇×五〇・〇
(「宮内庁三の丸尚蔵館」蔵) 右より 「一月 梅図に鶯図」「二月 菜花に雲雀図」「三月 桜に雉子図」「四月 牡丹に蝶図」「五月 燕子花に水鶏図」「六月 立葵紫陽花に蜻蛉図」

酒井抱一筆「十二ヵ月花鳥図」 絹本著色 十二幅の六幅 各一四〇・〇×五〇・〇
(「宮内庁三の丸尚蔵館」蔵) 右より 「七月 玉蜀黍朝顔に青蛙図」「八月 秋草に螽斯(しゅうし=いなご)図」「九月 菊に小禽図」「十月 柿に小禽図」「十一月 芦に白鷺図」「十二月 檜に啄木鳥図」

【 十二の月に因む植物と鳥や昆虫を組み合わせ、余白ある対角線構図ですっきりかつ隙のない構成で描き出す。いかにも自然だと共感できる姿が選び抜かれ、モチーフ相互の関係も絶妙に作られている。多くの十二ヵ月花鳥図の中で、唯一、終幅に「文政癸未年」(文政六年=一八二三)と年紀があり、抱一六十三歳の作とわかる基準作。抱一が晩年に洗練を究めた花鳥画の到達点であり、伏流となって近現代まで生き続ける江戸琳派様式の金字塔である。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説162(松野知子稿)」)

 この「十二ヵ月花鳥図」は、十二の月に因む花と鳥(虫)とを組み合わせた連作もので、上記の「宮内庁三の丸尚蔵館本」の他に、「畠山記念館本」「出光美術館本」「香雪美術館本」「ブライス・コレクション本」「ファインバーグ・コレクション本」などが現存している。  

 これらは、その制作当初はいずれも六曲一双の屏風に貼られていたと推察されている(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「江戸風流を描く(岡野智子稿)」)。そして、「『十二ヵ月花鳥図』は好評を得たらしく、いくつもの作例があるが、なかには構図に締まりのないものや、緊張感の緩んだ筆致も見られる。雨華庵には多くの弟子を抱えた工房を形成しており、『十二ヵ月花鳥図』のような手のかかる作品の注文に、複数の弟子が分担して関与していた可能性は低くない」と指摘している(岡野「前掲稿」)。

 抱一の作品には、最初の弟子(抱一の付き人)の鈴木蠣潭や蠣潭の後継者の鈴木其一などの代筆などか多いことは、夙に知られているところで(『日本絵画の見方(榊原悟著)』)、
この抱一の晩年の頃の『十二ヵ月花鳥図』の連作については、抱一の後継者となる酒井鶯蒲などが深く関わっているのであろう。

 鶯蒲が、抱一、妙華尼の養子になるのは文政元年(一八一八)、抱一、五十八歳、鶯蒲が十二歳の時であった。文政八年(一八二五、抱一、六十五歳、鶯蒲、二十一歳)の抱一の年譜に「鶯蒲とともに扇子を水戸候に献上」とあり、抱一の晩年の頃には、其一以上に、この鶯蒲などの出番が多かったことであろう。

 ここで、抱一の時代(江戸時代)の絵画というのは、チーム(工房など)の共同(協同)制作などをベースにしており、作者に代わって制作するなどの、いわゆる代筆などにおいても、今よりも寛容の度合いは緩やかなものであったということは理解して置く必要があろう。

 これは、当時の俳諧(俳句・連句)の世界においては、絵画の世界より以上に、チーム(座)をリードする主宰者(宗匠=捌き、助手=執筆)の「選別・推敲・一直(手直し)」などが基本になっており、その作者のオリジナル(独創性など)なものは、逆に排除され、最終的な作品は、個々の作品というよりも、そのチーム(座)の、そのメンバー(連衆)の「総意」のようなものが、それこそ「創意」と同一視されるような世界と言っても、決して、過ちでもなかろう。

 そして、このような、「美術(絵画)と俳諧(俳句・連句)」との接点の上で、とりわけ、抱一の、この『鶯邨画譜』を見ていくと、抱一の世界の底流に流れているもの基本的なものが浮かび上がってくるような思いを深くする。

4 黒楽の茶碗の欵(かん)やいなびかり (第四 椎の木かげ)


抱一画集『鶯邨画譜』所収「白椿に楽茶碗図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html


 抱一句集『屠龍之技』には、「白椿」の句は目にしないが、次の「黒楽焼茶碗」の句が収載されている。

  黒楽の茶碗の欵(かん)やいなびかり

 中七の「茶碗の欵(かん)や」の「欵(かん)」は、「親しみ・よしみ」の意なのであろうか。下五の「いなびかり」は、季語の「稲光」で、「雷」が夏の季語とすると秋の季語ということになる。蕪村にも「稲妻」(稲光)の句が多い。

  稲づまや浪もてゆへる秋津島 (蕪村 明和五年=一七六八 五十三歳)
  いな妻の一網うつや伊勢の海 (同上)
  いな妻や秋津島根のかゝり舟 (同上)
  稲妻や海ありがほの隣国   (同上)

 「稲妻」と大景の「秋津島(日本の古称)・伊勢の海・秋津島根(日本の古称)・隣国(中国・朝鮮)」との取り合わせの句であろう。

  稲妻にこぼるゝ音や竹の音  (蕪村 年次未詳)

 視覚的な「稲妻」と聴覚的な「竹の音」との取り合わせの句、何とも感覚的な句作りである。
 抱一の句も、「黒楽焼茶碗」の「黒」と「稲光」の「一閃・閃光」との取り合わせの句と解したい。句意は、「常時慣れ親しんでいる黒楽焼茶碗、一閃の稲光で、その黒さが見事である」というようなことであろう。

  古庭に茶筌花咲く椿哉  (蕪村 明和六年=一七六九 五十四歳)

 この蕪村の句の句意は、「茶室の古庭に茶筌のような椿が咲いている」というようなことであろう。抱一の、上記の「白椿に楽茶碗図」は、「茶室の黒焼茶碗の脇に茶筌のような白椿が活けられている」というような光景であろう。

鈴木蠣潭筆「白椿に楽茶碗図扇面」一幅 紙本著色 一六・〇×四五・六㎝ 個人蔵

 抱一の附人で、抱一の助手として傍に仕えた鈴木蠣潭の「白椿に楽茶碗図」である。この蠣潭は二十六歳の若さで狂犬病により急死した。その跡を継いだのが、当時、二十二歳の鈴木其一である。その其一にも、同じ画題のものがある。

鈴木其一筆「白椿に楽茶碗図」(「諸家寄合書画帖」のうち)一枚(一帖のうち)絹本著色
二五・七×二九・三㎝ 個人蔵
【 黒楽茶碗に白椿の折り枝を取り合わせた小品で、江戸時代後期に活躍した日本各地の漢詩人、書家、画家らの作品計八十三葉を貼り込んだ画帖の一葉である。其一に関係の深い人物としては、師の酒井抱一、谷文晁・文一父子、松本交山、大田南畝などがいる。本作は黒楽茶碗の表現が秀逸で、光を含んだ胴のぬらりとした肌合いを、墨の滲みを効かせたうるおいある筆で表している。また、口造りや腰の部分に見える粗く擦れた筆致は、艶のないかせた肌合いを表現したものと思われ、細部に脂ののった其一の画技が冴える。黒楽茶碗の右端に、隠し落款のように「噲々其一」と金泥で記すところなど心憎い仕掛けである。署名の下に「元長」(朱文壺印)が捺される。  】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手(岡野智子他執筆)』所収「作品解説65(久保佐知恵稿)」)

其一には、掛幅ものの「白椿に楽茶椀花鋏図」もある。また、「鈴木其一書状」の中に、「小絹茶碗椿出来仕り候間御使へ差上申候」と記したものものあり、「茶道や華道に嗜みのある江戸の文化人に好まれた画題であった」のであろう(『岡野他・前掲書』所収「作品解説87」)。

鈴木其一筆「白椿に楽茶碗花鋏図」 一幅 絹本著色 九㈣・六×三二・四㎝ 細見美術館蔵

 こういう、蠣潭や其一の「白椿に楽茶碗図」を見てくると、冒頭の『鶯邨画譜』の「白椿に楽茶碗」の画題というのは、抱一よりも、蠣潭や其一が好んで手掛けたもののように思われる。

 「酒井抱一書状巻」(ミシガン大学本)の中に、次のようなものがある。

「此四枚、秋草、何かくもさつと代筆、御したため可被下候、尤いそぎ御座候間、その思召にて、明日までに奉頼入候  十二日  抱(注・抱一)  必庵 几下 」

 この「必庵」は、鈴木蠣潭の号の一つであり、蠣潭宛てのものと解されているが、其一は、蠣潭から、この号を継受されており、同書状に出てくる「為三郎」(鈴木其一)の号の一つの鈴木其一宛とも解されている(『日本絵画の見方(榊原悟著)』)。

 酒井抱一の画業の背後には、抱一を取り巻く、蠣潭・其一等々の、「雨華庵」工房の優れた絵師たちが、その手足になっていたことは、この書状などから明瞭になって来よう。この『鶯邨画譜』などは、とりわけ、鈴木其一の「雑画巻(一巻)」(出光美術館蔵)などと極めて親近感の強いものであることは付記して置く必要があろう。

抱一画集『鶯邨画譜』所収「梨図」(「早稲田大学図書館」蔵)抱一画集『鶯邨画譜』所収「梨図」
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

5  遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな (第四 椎の木かげ)

 『屠龍之技』の「第七 椎の木かげ」に収載されている、この句の前に、「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」との前書きがある。

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)
http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0017_m.html



この寛政九年(一七八九)、抱一、三十七歳時の「年譜」には、次のとおり記載されている。

【 九月九日、出家にあたり幕府に「病身に付」願い出。十月十六日、姫路藩より、千石五十人扶持を給することに決定する。抱一の付き人は、鈴木春草(藤兵衛)、福岡新三郎、村井又助。(御一代)
十月十八日、出家。西本願寺十六世文如上人の江戸下向に会して弟子となり、築地本願寺にて剃髪得度。法名「等覚院文詮暉真」。九条家の猶子となり準連枝、権大僧都に遇せられる。(御一代)酒井雅樂頭家の家臣から西本願寺築地別院に届けられる。(本願寺文書・関東下向記録類)
十一月三日より十二月十四日まで、挨拶のため上洛。< 抱一最後の上方行き >(御一代) 十一月十七日京都へ到着。俳友の其爪、古櫟、紫霓、雁々、晩器の五人が伴した。(句藻)
十二月三日、「不快に付」門跡に願い出て、京都を発つ。この間一度も西本願寺に参殿することはなかった。(御一代)
十二月十七日、江戸へ戻る。築地安楽寺に住むことになっていたか。(御一代・句藻)
年末、番場を退き払い、千束に転居。(句藻) 】

 遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな 

 この句は、抱一の出家の時の句ということになる。抱一の俳諧日誌『軽挙観句藻』には、この時の抱一の和歌も記載されている。

 いとふとてひとなとがめそ
     うつせみの世にいとわれし
            この身なりせば

 この「いとふ」は「厭ふ」で、「世を厭ふ」の「出家する」の意であろう。「ひとなとがめそ」は、「人な咎めそ」で、「な…そ」は「してくれるな」の意で、「私のことを咎めないで欲しい」という意になろう。「うつせみの世」は、「空蝉の世(儚い世)と現世(浮き世)」とを掛けての用例であろう。次の「いとわれし」は、ここでは、「出家する」という意よりも、「厭われる・敬遠される」の意が前面に出て来よう。
 この全体の歌意は、「出家することを、どうか、あれこれと咎めだてしないで欲しい。思えば、この夢幻のような現世(前半生)では、いろいろと、敬遠されることが多かったことよ」というようなことであろう。
 この出家の際の歌意をもってすれば、前書きのある、次の抱一の出家の際の句の意は明瞭となって来る。 

  遯るべき山ありの實の天窓哉

 この句の表(オモテ)の意は、「出家する僧門の天窓(てんそう・てんまど)には、その僧門の果実がたわわに実っています」というようなことであろう。
 そして裏(ウラ)の意は、「僧門に出家するに際して、天窓(あたま)を、丸坊主にし、『ありの実』ならず『無し(梨)の実』のような風姿であるが、これも『実(み)=身』と心得て、その身を宿世に委ねて参りたい」ということになる。

 抱一の、この出家に際しては、松平定信の寛政の改革、とりわけ、抱一の兄事していた亀田鵬斎らが弾劾される「異学の禁」に対する意見書などを幕府あて提出したなど、さまざまな流言がなされているが、その流言の確たるものは、不明のままというのが、その真相であろう。
 ただ一つ、掲出の、抱一の俳句と和歌とに照らして、抱一の出家は、抱一自身が自ら望んで僧籍に身を投じたことではないことは、これは間違いないことであろう。
 なお、「遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな」の、その「天窓(あたま)」の読みは、抱一の同時代の小林一茶(抱一より二歳年下)の、その文化十一年(一八一四)の、次の句などから明瞭である。

 三日月に天窓(あたま)うつなよほととぎす
  五十婿天窓(あたま)をかくす扇かな
  片天窓(あたま)剃て乳を呑夕涼


(参考:小林一茶『おらが春』・文化十一年)

https://blog.goo.ne.jp/kojirou0814/e/267f5ffa138227d3849117331f82c170

 雪とけて村一ぱいの子ども哉
 御雛をしやぶりたがりて這子(はふこ)哉

五十年一日の安き日もなく、ことし春漸く妻を迎へ、我が身につもる老を忘れて、凡夫の浅ましさに、初花に胡蝶の戯るゝが如く、幸あらんとねがふことのはづかしさ、あきらめがたきは業のふしぎ、おそろしくなん思ひ侍りぬ。

 三日月に天窓(あたま)うつなよほととぎす

千代の小松と祝ひはやされて、行すゑの幸有らんとて、隣々へ酒ふるまひて、

五十婿天窓(あたま)をかくす扇かな
 片天窓(あたま)剃て乳を呑夕涼
 子宝が蚯蚓のたるぞ梶の葉に

抱一句集『屠龍之技』「第三みやこどり」(1)

1 八橋やながるゝとしの畳臺 (第三 みやこどり)


抱一画集『鶯邨画譜』所収「燕子花図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html


 抱一の自撰句集『屠龍之技』には、「燕子花」の句は収載されていないようである。「八橋(やつはし)」の句は、冒頭の句が、その「第三 みやこどり」に収載されている。しかし、この「八橋」は、光琳や抱一が描く「八橋図屏風」などの、『伊勢物語』の、旧東海道池鯉鮒(ちりゅう)宿の「八橋」とは、関係のない一句のようである。

 この句の季語は「ながるゝ年」(年流る)の、押し詰まった年末の句のようである。 この句の主題は、その年末の「畳替え」の「畳台」なのである。その「畳台」が、「八橋」の、「池・小川などに、幅の狭い橋板を数枚、稲妻のような形につなぎかけた」のように見えるという、江戸座の俳諧師・抱一宗匠の見立ての一句ということになる。この句は、蕪村の、次の句に近い。

  行年や芥流る々さくら川    蕪村 「夜半亭」
  行年の脱けの衣や古暦    蕪村 「落日庵」

 ここでは、江戸座(其角・存義座)の俳諧宗匠・抱一の、その句よりも、江戸琳派の創始者・画人抱一の、その流れの「燕子花」図を主眼といたしたい。

  尾形光琳の、「燕子花図屏風」(国宝・根津美術館蔵)・「八橋図屏風」(メトロポリタン美術館蔵)・「八橋蒔絵螺鈿硯箱」(国宝・東京国立博物館蔵)・「伊勢物語八橋図」(東京国立博物館蔵・掛幅)・「燕子花図」(大阪市立博物館蔵・掛幅)そして、尾形乾山の「八ツ橋図」(国(文化庁)・重要文化財(美術品))などについては、次のアドレスで簡単な紹介をしている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-06


 また、酒井抱一の、「八橋図屏風」(出光美術館蔵)・「燕子花図屏風」(出光美術館蔵)、そして、『光琳百図』(尾形光琳画・酒井抱一編)所収「燕子花図屏風」などについて、下記のアドレスで紹介をしている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-07-27


 これらの、光琳・抱一の次代の江戸琳派の旗手・鈴木其一の「燕子花」図関連の大作ものは目にしない。しかし、其一には、「雑画巻」(出光美術館蔵)や『草花十二ヵ月画帖』(MOA美術館蔵)などで、その小品ものの「燕子花」図を目にすることが出来る。

鈴木其一筆『草花十二ヵ月画帖』(MOA美術館蔵)所収「五月」(紙本著色、十六・七×二一・二㎝)

 「月次の草花を十二枚に描き、画帖としたもの」の、「五月」の図柄である。この図柄は「藤と燕子花」であろう。其一は、この画帖とは別に、『月次花鳥画帖』(細見美術館蔵)という画帖もあり、その画帖には「燕子花」図はなく、「藤」図が「四月」に描かれている。
 其一には、これらの画帖の他に、「十二ヵ月花木短冊」(個人蔵)、「十二ヵ月花鳥図扇面」(ファインバーグ・コレクション)、「十二ヵ月図扇」(太田記念美術館蔵)など、「四季の花卉」などを「十二ヵ月に描き分ける」という趣向のものが多い。この趣向は、「師の抱一が確立したもので、人気が高く、かなりの需要があったようである」(『鈴木其一 江戸琳派の旗手 図録』所収「作品解説135 十二ヵ月花鳥図短冊」)。
 上記の『鶯邨画譜』所収「燕子花図」は、上記の其一の『草花十二ヵ月画帖』所収「五月」(「燕子花」図)のマニュアル(抱一筆)と解しても差し支えなかろう。
 そして、この「燕子花」図は、「抱一→其一→其明→其玉」と、脈々と受け継がれて行くのである。

中野其玉筆『其玉画譜』(小林文七編・ARC古典籍ポータルデータベース)所収「燕子花図」
www.dh-jac.net/db1/books/results-thum.php?f1=BM-JH398&f12=1&-sortField1=f8&-max=30&enter=portal

抱一句集『屠龍之技』「第二かぢのおと」(1~4)

1 名月や硯のうみも外(そと)ならず (第二 かぢのおと) 


抱一画集『鶯邨画譜』所収「紫式部図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html


 この「紫式部図」は、『光琳百図』(上巻)と同じ図柄のものである。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850491


 光琳百回忌を記念して、抱一が『光琳百図』を刊行したのは、文化十二年(一八一五)、五十五の時、『鶯邨画譜』を刊行したのは、二年後の文化十四年(一八一七)、五十七歳の時で、両者は、同じ年代に制作されたものと解して差し支えない。
 両者の差異は、前者は、尾形光琳の作品を模写しての縮図を一冊の画集にまとめたという「光琳縮図集」に対して、後者は、抱一自身の作品を一冊の絵手本の形でまとめだ「抱一画集」ということで、決定的に異なるものなのだが、この「紫式部図」のように、その原形は、全く同じというのが随所に見られ、抱一が、常に、光琳を基本に据えていたということの一つの証しにもなろう。

尾形光琳画「紫式部図」一幅 MOA 美術館蔵

 落款は「法橋光琳」、印章は「道崇」(白文方印)。この印章の「道崇」の号は宝永元年(一七〇四)より使用されているもので、光琳の四十七歳時以降の、江戸下向後に制作したものの一つであろう。
 この掛幅ものの「紫式部図」の面白さは、上部に「寺院(石山寺)」、中央に「花頭窓の内の女性像(紫式部)」、そして、下部に「湖水に映る月」と、絵物語(横)の「石山寺参籠中の紫式部」が掛幅(縦)の絵物語に描かれていることであろう。
 この光琳の「紫式部図」は、延宝九年(一六八一)剃髪して常昭と号し、法橋に叙せられた土佐派中興の祖・土佐光起の、次の「石山寺観月の図」(MIHO MUSEUM蔵)などが背景にあるものであろう。

http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00001352.htm



抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)
http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0009_m.html


 名月や硯のうみも外(そと)ならず  

 「かぢのおと(梶の音)」編の、「紫式部の畫の賛に」の前書きのある一句である。この句は、上記の『鶯邨画譜』の「紫式部図」だけで読み解くのではなく、光琳の「紫式部図」や土佐光起の「石山寺観月の図」などを背景にして鑑賞すると、この句の作者、「尻焼猿人・
屠龍・軽挙道人・雨華庵・鶯村」こと「抱一」の、その洒落が正体を出して来る。
 この句の「外ならず」は、「外(ほか)ならず」ではなく、「外(そと)ならず」の「詠みと意味」ということになろう。

2 野路や空月の中なるおみなへし (第二 かぢのおと) 

抱一画集『鶯邨画譜』所収「葛図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html


 抱一の代表作は、光琳の「風神雷神図屏風」の裏面に描いた「夏秋草図屏風」(二曲一双)が挙げられるであろう。その左隻の「秋草図」には、「ススキ・オミナエシ・フジバカマ・クズ」が描かれている(下記の左方の「紅白」が「クズ」、その下方に「フジバカマ」、右方の「紅」は「オミナエシ」)。

酒井抱一筆「夏秋草図屏風」の左隻の部分図

酒井抱一筆「月に秋草図屏風」六曲一隻 東京国立博物館寄託

 この「月に秋草図屏風」は、夏目漱石の「門」に出てくる。

「下に萩、桔梗、芒、葛、女郎花を隙間なく描いた上に、真丸な月を銀で出して、其横の空いたところへ、野路や空月の中なる女郎花、其一と題してある。
宗助は膝を突いて銀の色の黒く焦げた辺から、葛の葉の風に裏を返してゐる色の乾いた様から、大福程な大きな丸い朱の輪廓の中に、抱一と行書で書いた落款をつくづくと見て、
父の行きてゐる当時を憶ひ起さずにはゐられなかつた。」(夏目漱石「門」より)

 上記の「野路や空月の中なる女郎花」は抱一の句で、抱一の高弟・鈴木其一が、その句を書き添えているというのであろう。この抱一の句は、抱一の自撰句集『屠龍之技』の「かぢのおと」に、「野路や空月の中なるおみなへし」の句形で収載されている。俳人でもある夏目漱石は、確かに、抱一の自撰句集『屠龍之技』を熟知していて、そして、上記の抱一の「月に秋草図屏風」類いのものを目にしていたのであろう。
 抱一の俳諧の師筋に当たる馬場存義にも、葛の花の句がある。

  鹿野焼や手のうらかえす葛の花     馬場存義

 また、夏目漱石の俳句の師筋に当たる正岡子規や旧知の高浜虚子門下にも、葛の花の句が多い。

  山葛にわりなき花の高さかな      正岡子規
  抱一の観たるがごとく葛の花      富安風生
  堰堤に匍ひもとほれる葛の花      富安風生
  山桑をきりきり纒きて葛咲けり     富安風生
  こぼれつぐ葛の花屑雨の淵       高浜年尾
  流れ継ぐ花葛の色まぎれなし      高浜年尾
  兎跳ね犬をどり入る葛の花       水原秋櫻子
  朝霧浄土夕霧浄土葛咲ける       水原秋櫻子
  渋の湯の裏ざまかくす葛の花      水原秋櫻子
  四五人の無用の客や葛の花       高野素十
  山川や流れそめたる葛の花       高野素十
  木曽馬も花葛も見ず馬籠去る      高野素十
  大学の中に弥生ケ丘葛咲いて      山口青邨
  有耶無耶といふ関葛の花襖       阿波野青畝

  七里濱にて
3 浪に立(たつ)人も馬鹿鳥磯の秋(第二 かぢのおと)


 この前書きの「七里濱」は、相模湾の鎌倉と江の島を結ぶ海岸線であろう。抱一の江の島詣では、その俳諧日誌の『軽挙観句藻』に頻繁に出て来るもので、この七里ガ浜は抱一の馴染みの海辺ということになる。
 「浪に立つ人も馬鹿鳥磯の秋」の季語は、「磯の秋」(三秋)で、「磯遊び」(磯祭/花散らし=晩春)の句ではない。「馬鹿鳥」は、「あほうどり(信天翁・阿房鳥)」のことで、「陸上での歩き方が不器用で人を恐れないことからとも、簡単に捕えられるので名づけられた」ともいわれている。
 句意は、「この漁獲最盛期の実りの秋に、波の上に立って波乗りに興じている輩がいる。ああいう輩は、まさしく馬鹿鳥(あほうどり)の名が一番似合っている」というような、シニカル(風刺的・冷笑的)なものであろう。
 このシニカルさは、相手(サーフインに興じている)に対する者と同時に、「波ばかり飽かず描いている」自分への眼差しでもあろう。

抱一画集『鶯邨画譜』所収「波濤図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html


 尾形光琳の「波濤図屏風」(二曲一隻・メトロポリタン美術館蔵)、酒井抱一の「波図屏風」(六曲一双・静嘉堂文庫美術館蔵)、俵屋宗達の『雲龍図屏風』(六曲一双・フーリア美術館蔵)」、そして、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」(横大判錦絵・メトロポリタン美術館蔵)などについて、下記のアドレスで触れた。そのうちの抱一の「波図屏風」と光琳の「波濤図屏風」関連などを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-04-30


(再掲)

酒井抱一筆「波図屏風」(六曲一双 紙本銀地墨画着色 各一六九・八×三六九・〇cm
文化十二年(一八一五)頃 静嘉堂文庫美術館蔵)
【銀箔地に大きな筆で一気呵成に怒涛を描ききった力強さが抱一のイメージを一新させる大作である。光琳の「波一色の屏風」を見て「あまりに見事」だったので自分も写してみた「少々自慢心」の作であると、抱一の作品に対する肉声が伝わって貴重な手紙が付属して伝来している。宛先は姫路藩家老の本多大夫とされ、もともと草花絵の注文を受けていたらしい。光琳百回忌の目前に光琳画に出会い、本図の制作時期もその頃に位置づけうる。抱一の光琳が受容としても記念的意義のある作品である。 】(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

尾形光琳筆「波濤図屏風」(二曲一隻 一四六・六×一六五・四cm メトロポリタン美術館蔵)
【荒海の波濤を描く。波濤の形状や、波濤をかたどる二本の墨線の表現は、宗達風の「雲龍図屏風」(フーリア美術館蔵)に学んだものである。宗達作品は六曲一双屏風で、波が外へゆったりと広がり出るように表されるが、光琳は二曲一隻屏風に変更し、画面の中心へと波が引き込まれるような求心的な構図としている。「法橋光琳」の署名は、宝永二年(一七〇五)の「四季草花図巻」に近く、印章も同様に朱文円印「道崇」が押されており、江戸滞在時の制作とされる。意思をもって動くような波の表現には、光琳が江戸で勉強した雪村作品の影響も指摘される。退色のために重たく沈鬱な印象を受けるが、本来は金地に群青が映え、うねり立つ波を豪華に表した作品であったと思われる。 】(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「作品解説(宮崎もも稿)」)

 この光琳の「波濤図屏風」の解説中の、「波濤をかたどる二本の墨線の表現」というのは、いわゆる、「二管の筆を同時に握って描く『双筆』という中国由来の伝統的な水墨技法」(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「其一の波濤図―北斎と共有し、光琳・応挙から得たもの(久保佐知恵稿)」)を指しているのであろう。
 そして、「其一の波濤図―北斎と共有し、光琳・応挙から得たもの(久保佐知恵稿)」のサブタイトルの「北斎と共有し、光琳・応挙から得たもの」というのは、これは、其一よりも、その其一の師の「酒井抱一」に、より冠せられるものという思いを深くする。
 特に、光琳の「波濤図屏風」は、抱一の『光琳百図』に収載されており、抱一、そして、其一の「波濤図」関連のものは、すべからく、ここからスタートしていると解して差し支えなかろう。

『光琳百図』(酒井抱一編・筆)所収「波濤図」(「ARC浮世絵データベース」)
https://ja.ukiyo-e.org/image/met/DP266705_CRD


 上記の(再掲)の最初に、抱一の「波図屏風」(紙本銀地墨画着色)を掲げたが、抱一には、「銀地」ではなく「金地」の「波図屏風」(二曲一双)もある。

酒井抱一筆「波図屏風」(二曲一隻・MIHO MUSEUM)
【 光琳の「波図屏風」を見て感銘を受けた抱一だが、本図でき絹地に深い色あいが闇の海を切り取ったかのようで、光琳画の趣を彷彿とさせる。しぶきなどの簡単な描写にも、巧みな筆致が表れ、落款からは、文政後期、晩年の作とみられる。表の緑と裏面は銀地とし、抱一の弟子池田孤邨が千鳥の群れなす図を描いて華やかな風炉先屏風とした。八百善伝来。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

 この「作品解説」中の裏面に「池田孤邨が千鳥の群れなす図を描いて華やかな風炉先屏風とした」の、その孤邨の作は次のとおりである。

池田孤邨筆「千鳥群図」(酒井抱一筆「波図屏風」(二曲一隻・MIHO MUSEUM)裏面)

 この池田孤邨より五歳年長の、抱一の一番弟子の鈴木其一には、次の「松に波濤図屏風」がある。

鈴木其一筆「松に波濤図屏風」(二曲一隻 紙本墨画 一六八・〇×一九・五㎝ 個人蔵)
【 近年関西で発見された其一には珍しい水墨画の大作である。紙は焼けが強く全面に淡褐色に変色しているものの、墨は当初の潤いを保つかのようであり、光が当たると鈍い輝きを放つ。画面の左右のそれぞれの端に丸い引き手跡が残っているため、もとは襖であったと思われる。向かって右側の画面右上、松の生える岩礁に隠れるように、「噲々其一」の署名と「祝琳斎」(朱文大円印)が捺される。書体は「三十六歌仙・檜図屏風」(作品41)に近しく、「噲」のうち第六画以降が崩れて「専」の草書のように、「其」が「サ」と「人」を足したように見える。天保六年(一八三五)という作品41の箱書に従うなら、本作もまた同時期の制作と考えられる。
画面右上から緩やかな対角線上に、松の生える岩礁、海中に横たわる巨岩と小岩が、滲みを効かせた濃墨によって描かれる。もっとも本作の主題は、これらのモチーフの間を縫うように流れるダイナミックな波の動きそれ自体にあるだろう。複雑かつ明晰な水流表現は、其一より一世代前に京都で活躍した円山応挙によって創始された大画面の波濤図に近しい。「噲々」落款時代の壮年における積極的な応挙学習の一端を物語る貴重な作例である。 】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説45(久保佐知恵稿)」)

4 此年も狐舞せて越へにけり  (第二 かぢのおと)


 この句の前に、「青楼」と前書きがあり、これは、年越し大晦日の吉原の「狐舞い」の一句であろう。下記のアドレスで、「大晦日の吉原には獅子舞ではなく、赤熊の毛を付け、錦の衣で美しく着飾った「狐舞ひ」が現れ、笛や太鼓の囃子を引き連れて練り歩いていた」と、この狐舞いについて紹介している。

https://yoshiwara-kitsune.jimdo.com/吉原狐/


葛飾北斎画『隅田川両岸一覧下編』「吉原の終年」

 抱一と吉原、そして、抱一と芳中などについては、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-19


中村芳中画『光琳画譜』所収「高砂」「仕舞」「黒木売」「目隠し鬼」「七福神」
http://kazuhisa.eco.coocan.jp/korin_gafu.htm

  元日やさてよし原(吉原)は静かなり

 この句は、「吉原月次風俗図・正月」(酒井抱一書・画、紙本墨画 一幅 九七・三×二九・二㎝)の中に書かれている抱一の句である。

 これらの「吉原月次風俗図」に触れると、「酒井抱一(江戸琳派)と吉原ネットワーク(吉原文化人ネットワーク)」との密接不可分な世界が浮かび上がって来る。
 そして、その吉原では、若き日の抱一(姫路藩主の弟)は、「ときやうさん」(俳号「杜陵=とりょう」からの命名)と呼ばれ、「つまさん(正しくは駒さん)」の、松江藩主・松平不味の弟・雪川(松平桁親)、「ぶんきやうさん」(狂号=笹葉鈴成からの命名)の、松前候の公子・松前泰卿、この「粋人・道楽子弟」の「三公子」の一人として、スーパースター(著明人)の一人だったのである。
 その吉原のスーパースターの「ときやうさん」(俳号「杜陵=とりょう」からの命名)が、描く、次の、妓楼大字屋の主人二代目村田市兵衛こと「「大文字屋市兵衛像」がある。

酒井抱一画「大文字屋市兵衛像」 一幅 絹本著色 一八・四×一五・一㎝
板橋区立美術館蔵

【 抱一がもっとも懇意にしていた吉原の友人は、妓楼大文字屋の主人二代目村田市兵衛。本図は先代の市兵衛が滑稽な風貌からカボチャむとはやされ、その姿を浮世絵師西村重長が描いた図に依る。その初代に因み、二代目は狂名を加保茶元成と称した。本図は「遊郭抱一戯墨」とあるように、大文字屋で余興に描いたのだろう。画中の「加保茶」の印は、同家に伝わるみのかもしれない。八百善旧蔵。 】
(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「抱の心の拠り所『吉原』」(岡野智子稿)」)

 それに比して、中村芳中が、享和二年(一八〇二)、大阪から江戸に出て来て刊行した『光琳画譜』の奥付に、「享和壬戌のとし 東都旅館の 爐辺にて 芳中写之 (花押)」と記載してあるとおり、江戸に出て三年を経ても、大阪からの出稼ぎ絵師の風情である。
そして、光琳風の自己の絵画の版本に、堂々と『光琳画譜』と名を付け、その「序」に、
抱一(俳号=杜陵 狂歌名=尻焼猿人・屠龍 画号=庭拍手)の「住吉太鼓橋夜景図」に賛をしている「加藤(橘)千蔭」、その「跋」に、江戸千家の祖の川上不白が草している。
 これらの千蔭も不白も、抱一を取り巻く文化人ネットワーク(そして、それは吉原ネットワークと重なる)の一人であり、さらに、当時の抱一は、享和元年(一八〇一)に、先に、下記のアドレスなどで紹介した、「燕子花図屏風」(二曲一隻、「庭拍手」の署名、四十一歳)を制作するなど、大きく琳派様式へと方向転換をしている頃と重なるのである。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/


 これらのことについて、芳中の方からすると、「江戸へ来て芳中が目にしたのは抱一の琳派様式の作品であったかもしれない。芳中にとっては大きな驚きであったと思われる。それでは、ということで対抗的な意味も込めての『光琳画譜』出版であったと解することもできよう」(『光琳を慕う 中村芳中(芸艸社)』所収「中村芳中について(木村重圭稿))という見方も成り立つであろう。

 そして、当時の、抱一と芳中とを結ぶ接点は、俳諧ネットワークの「大伴大江丸・夏目成美・鈴木道彦・馬場存義・前田春来・岡田米仲」等々の「其角・嵐雪」に連なる俳人たち、狂歌・戯作者ネットワークの「大田南畝(蜀山人・四方赤良・寝惚先生)」の率いる「四方連」と「蔦屋重三郎・山東京伝(北尾政演)」等々の「戯作・浮世絵」に連なる面々、さらに、「下谷の三幅対」とも称せられた「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」を主軸とする「詩・書・画を生業とする江戸文化人のネットワーク」の面々と、それらは、「江戸吉原サロン」と深く結びついているということになろう。
 嘗て、次のアドレスで、「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」に連なる名士たちの、その一端に触れた。それらを再掲すると、次のとおりである。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-28


【 松平楽翁→木村蒹葭堂→亀田鵬斎→酒井抱一→市河寛斎→市河米庵→菅茶山→立原翠軒→古賀精里→香川景樹→加藤千蔭→梁川星巌→賀茂季鷹→一柳千古→広瀬蒙斎→太田錦城→山東京伝→曲亭馬琴→十返舎一九→狂歌堂真顔→大田南畝→林述斎→柴野栗山→尾藤二洲→頼春水→頼山陽→頼杏坪→屋代弘賢→熊阪台州→熊阪盤谷→川村寿庵→鷹見泉石→蹄斎北馬→土方稲嶺→沖一峨→池田定常→葛飾北斎→広瀬台山→浜田杏堂 】

 ここで、大阪の中村芳中と江戸の酒井抱一とを結びつける、両者を知る人物を「加藤(橘)千蔭」と仮定すると、その背後の人物とは、やはり、大阪の「木村蒹葭堂」と、江戸の「大田南畝」の、このお二人が浮かび上がってくる。
 ずばり、芳中の『光琳画譜』が出版される一年前の、享和元年(一八〇一)の、太田南畝の年譜に、次のように記載されている。この太田南畝が、キィワードとなる人物のように思われる。

【享和元年(1801年)、大坂銅座に赴任。この頃から中国で銅山を「蜀山」といったのに因み、「蜀山人」の号で再び狂歌を細々と再開する。大坂滞在中、物産学者・木村蒹葭堂や国学者・上田秋成らと交流していた。 】

https://ja.wikipedia.org/wiki/大田南畝


 芳中が、江戸で『光琳画譜』を出版して、再び、大阪に戻ったのは、その出版した年の、享和二年(一八〇二)の年末頃と推定されている。そして、それ以後、文政二年(一八一九)に没するまでの約十八年、芳中は、扇面画を中心として、本格的な琳派作品を精力的にこなしていくこととなる。

(参考一)上記『光琳画譜』(「金華堂守黒」版)の五図(算用数字は登載番号)

14仕舞 → この「能」の「仕舞」(能を演ずる稽古)のようなものが、芳中画の基本にあるのであろう。

16高砂 → この「能」の場面の、「爺・婆」を見ている「童」は、芳中その人かも知れない。

18目隠し鬼 → 芳中の童心が読み取れる、次のアドレスの「象背戯童図」(芦雪)の「戯童」に近い印象を受ける。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-09-28


23黒木売(大原女) → 芦雪の「大原女」に比して、芳中のは「飄逸味・滑味」がある。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-10-07

25七福神 → 芳中の「童子」図も、芦雪の「童子」図と同じような魅力に溢れている。

(参考二)大田南畝(おおたなんぼ)

没年:文政6.4.6(1823.5.16)
生年:寛延2.3.3(1749.4.19)

江戸時代中・後期の戯作者,文人。名を覃、字子耜、通称直次郎、七左衛門といった。四方赤良、山手馬鹿人、蜀山人、杏花園、寝惚先生など、多くの別号を使った。幕府の御徒吉左衛門正智と利世の長男、江戸牛込仲御徒町に誕生。宿債に苦しむ小身の悴南畝は、若年時から学問に立身の夢を賭け15歳で内山賀邸(椿軒)、18歳ころに松崎観海に入門した。幕臣書生らしく和学と徂徠派漢学を修める一方、平秩東作をはじめ、のちの江戸戯作界の中核をなす面々と交わった。 明和3(1766)年、処女作の作詩用語集『明詩擢材』を編み、翌年、平賀源内の序を付して戯作第一弾の狂詩集『寝惚先生文集』を出版。生涯、徂徠派風の漢詩作成にいそしむ一方、狂詩の名手として20代から30代の大半を江戸戯作の華美な舞台のただなかに過ごし、やがて領袖と仰がれた。同門の 唐衣橘洲 らと共に江戸狂歌流行の端緒を開き、『万載狂歌集』(1783)、『徳和歌後万載集』(1785)などを相次いで出版。天明期俗文芸の隆盛を築いた。洒落本,評判記,黄表紙などの戯作も多く綴ったが、天明7(1787)年,田沼政権の崩壊と松平定信による粛正政策の台頭を機に、狂歌界とは疎遠になり、幕吏本来の姿勢を俊敏に取り戻した。寛政6(1794)年、人材登用試験を見事な成績で合格、大坂銅座出役(1801)、長崎奉行所出役(1804)などの勤務をこなし、かたわら江戸文人の代表格として名声をいやましに上げていった。最晩年に『杏園詩集』(1820)など、漢詩、狂歌文などが多く出版された。<著作>浜田義一郎他編『大田南畝全集』(全20巻)<参考文献>玉林晴朗『蜀山人の研究』,浜田義一郎『大田南畝』 (ロバート・キャンベル)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

(参考三)大田南畝と「お賎」

http://www.muse.dti.ne.jp/~squat/ohtananpo.htm



安永4年の7月、南畝は「評判茶臼芸」を、安永5年に洒落本「世説新語茶」、8年(1779)に浄瑠璃の漢訳「阿姑麻」、洒落本「深川新話」「粋町甲閨」を刊行。岡場所話を書くほどだからさんざん遊んだのだろう。またこの時期に狂歌会も盛ん。この年の12月18日に51歳で平賀源内が獄中死去。安永9年、軽井沢の宿場遊女を題材にした洒落本「軽井茶話 道中粋語録」、黄表紙「虚言八百万八伝」を刊行。翌天明元年(1781)に「菊寿草」、天明2年「岡目八目」を刊行。この「岡目八目」で山東京伝「手前勝手 御存知商売物」最上位で褒め、これで京伝の名は一気に広がった。同年12月、蔦谷重三郎に招かれて恋川春町(39)、南畝(34)、京伝(22)ら8名が吉原に登楼。狂歌集「通詩選笑知」「通詩選」を刊行し、まさに一世風靡。日々、招待遊行が盛んになり、京伝も引き立てた。
 さぁ、ここからが佳境だ。もうしばらく辛抱して読んで下さいませ。天明6年(1786)、老中田沼意が罷免され、代わって老中に就いたのが松平定信で寛政の改革が始まった。その年に南畝は吉原松葉屋の遊女・三保崎(みほざき/新造の位=上妓となる見込みのない遊女)との恋情が燃え上がり、ついには身請けして妾とし、「阿賤(おしず)」と名付け、自宅の棟つづき離れに引き取った。妻妾同居で「不良」が本格化(お賤は南畝の世話を8年したが病気がちで30歳で病死)。この間び改革粛清は進み、勘定組頭(実質の勘定奉行)・土山宗次郎が死刑。南畝は土山によって遊興と享楽の味をたっぷり楽しませてもらっていた関係上、自身の首も危うくなって来た。また山東京伝も洒落本が官憲の心証を害し、版元・蔦谷重三郎が財産半分没収、京伝は手鎖50日の処罰。南畝は狂歌作りをやめた。
 童門冬二の小説「沼と河の間に」は、南畝が狂歌から遠ざかる保身の道を取って仲間からひんしゅくを買うシーンから物語をスタートさせている。寛政元年(1789)、北尾政美画で「鸚鵡返武士二道」を出した恋川春町は、松平定信に召喚され、病気を理由に出頭せず、塁が藩主に及ぶのをおそれて自決したらしい…。新宿2丁目の成覚寺の粗末な墓が胸を打ちます。そして南畝はなんと!44歳(寛政4年)にして猛勉強し、第2回学問吟味に応募したが不合格(狂歌他で文名を高め、土山の庇護にあった南畝に反感を時つ者の反対で不合格になったとも言われている。また巷に
「世の中に 蚊ほどうるさきものはなし 文武文武と夜も寝られず」
 の狂歌が南畝による作との評判がたって、これが災いしたとの説も…)。
 童門の小説では、のちに「東海道中膝栗毛」を書く十返舎十九、のにち「南総里見八犬伝」を書く勧善懲悪志向の曲亭馬琴の両青年と保身転向した南畝の三つ巴文学論争を展開させている。
 だが南畝は諦めない。病弱なお賎を文学仲間の住職(お寺)に預けて勉学に励み、寛政6年(1794)の二回目の学問吟味に再挑戦し、年少の受験者に混じって白髪まじりの46歳で見事にトップ合格。遠山の金さんの父・遠山金四郎景晋(かげみち)、後に北方探検家として有名になる近藤重蔵も合格。(※近藤重蔵は退役後に身分不相応な邸宅を建て、公家の娘を妾にしたことから不遜だとお咎めを受ける。また57歳の時に別荘の隣家との境界争いから長男・富蔵が殺傷事件を起こす。そう、八丈島流刑で有名なあの近藤重蔵である)
 この前年、寛政5年(1793)6月にお賎は亡くなった。「お賎」と卑しい名を付けた南畝だったが、身まかってから毎年その祥月命日に供養の書会を欠かさない。お賎の法名は「晴雲妙閑信女」。南畝が詠んだ狂歌は「雲となり雨となりしも夢うつつきのふはけふの水無月の空」。お賎が亡くなって10年後、南畝55歳の日記「細推日記」にもその供養書会を牛込薬王寺町の浄栄寺で催していることが書かれている。おっと、その供養書会には次ぎの妾、島田「お香」も列席している。「お香」は南畝の優しさにホロリとしたに違いない。「あたしはそんな南畝にずっと添って行こう」と…。
 またここで記すべきは、彼は学問吟味の試験から合格御礼までの詳細を記した「斜場窓稿」を刊行していること。しかし、合格はしたものの南畝の四番組徒歩の仕事は相変わらずだった。合格から2年後、母が73歳で亡くなった寛政8年にやっと支配勘定に昇進。祖父の代から続いた微禄もやっと30俵加増。そして突然の松平定信の罷免。また巷にこんな狂歌が流行った。
「白河の あまり清きに耐え(棲み)かねて 濁れるものと田沼恋しき」
 これまた南畝の作と思われた。支配勘定なら大阪の銅座詰という出世コースになかなか乗れない。翌々年、妻・里与が44歳で死去。南畝は俗っぽいと思いつつも「日本中の孝子節婦を将軍が表彰する」という案を提出し、「孝行奇特者取調御用」に任命される。寛政12年、これをまとめた「孝義録」50巻を刊行。従来の漢文による公文書ではなく、和文でかつ文学的な編集で、文人ならではの才を発揮した。これが認められて寛政13年(享和元年)、53歳でやっと大阪銅座出役になった。学問吟味の合格から7年の精励を続けて、やっと大阪出張で出世の道が広がった。大阪でてきぱきと仕事を片付ける切れ者公務員。午後2時が退庁時間で、ここからが文人タイム。見聞と人脈を広げで、ここで「銅」の異名を「蜀山居士(しょくさんこじ)」ということから「蜀山人」なる号を思いつく。この時期に20数年前に「雨月物語」を書いた上田秋成を訪問などし、1年で江戸へ呼び戻される。

(参考四)酒井抱一と「小鸞(しょうらん)」



抱一の、初期の頃の号、「杜綾・杜陵」そして「屠龍(とりょう)」は、主として、「黄表紙」などの戯作や俳諧書などに用いられているが、狂歌作者としては、上記の「画本虫撰」に登場する「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」の号が用いられている。
 『画本虫撰』は、天明狂歌の主要な作者三十人を網羅し、美人画の大家として活躍する歌麿の出生作として名高い狂歌絵本である。植物と二種の虫の歌合(うたあわせ)の形式をとり、抱一は最初の蜂と毛虫の歌合に、四方赤良(大田南畝・蜀山人)と競う狂歌人として登場する。
 その「尻焼猿人」こと、抱一の狂歌は、「こはごはに とる蜂のすの あなにえや うましをとめを みつのあぢはひ」というものである。この種の狂歌本などで、「杜綾・尻焼猿人」の号で登場するもりに、次のようなものがある。

天明三年(一七八三) 『狂歌三十六人撰』 四方赤良編 丹丘画
天明四年(一七八四) 『手拭合(たなぐひあはせ)』 山東京伝画 版元・白凰堂
天明六年(一七八六) 『吾妻曲狂歌文庫』 宿屋飯盛編 山東京伝画 版元・蔦重
「御簾ほとに なかば霞のかゝる時 さくらや 花の王と 見ゆらん」(御簾越しに、「尻焼猿人」の画像が描かれている。高貴な出なので、御簾越しに描かれている。)
天明七年(一七八七) 『古今狂歌袋』 宿屋飯盛撰 山東京伝画 版元・蔦重

 天明三年(一七八三)、抱一、二十三歳、そして、天明七年(一七八七)、二十七歳、この若き日の抱一は、「俳諧・狂歌・戯作・浮世絵」などのグループ、そして、それは、「四方赤良(大田南畝・蜀山人)・宿屋飯盛(石川雅望)・蔦屋重三郎(蔦唐丸)・喜多川歌麿(綾丸・柴屋・石要・木燕)・山東京伝(北尾政演・身軽折輔・山東窟・山東軒・臍下逸人・菊花亭)」の、いわゆる、江戸の「狂歌・浮世絵・戯作」などの文化人グループの一人だったのである。
 そして、この文化人グループは、「亀田鵬斎・谷文晁・加藤千蔭・川上不白・大窪詩仏・鋤形蕙斎・菊池五山・市川寛斎・佐藤晋斎・渡辺南岳・宋紫丘・恋川春町・原羊遊斎」等々と、多種多彩に、その輪は拡大を遂げることになる。
 これらの、抱一を巡る、当時の江戸の文化サークル・グループの背後には、いわゆる、「吉原文化・遊郭文化」と深い関係にあり、抱一は、その青年期から没年まで、この「吉原」(台東区千束)とは陰に陽に繋がっている。その吉原の中でも、大文字楼主人村田市兵衛二世(文楼、狂歌名=加保茶元成)や五明楼主人扇屋宇右衛門などとはとりわけ昵懇の仲にあった。
抱一が、文化六年(一八〇九)に見受けした遊女香川は、大文字楼の出身であったという。その遊女香川が、抱一の傍らにあって晩年の抱一を支えていく小鸞女子で、文化十一年(一八二八)の抱一没後、出家して「妙華」(抱一の庵号「雨華」に呼応する「天雨妙華」)と称している。
 抱一(雨華庵一世)の「江戸琳派」は、酒井鶯蒲(雨華庵二世)、酒井鶯一(雨華庵三世)、酒井道一(雨華庵四世)、酒井唯一(雨華庵五世)と引き継がれ、その一門も、鈴木其一、池田孤邨、山本素道、山田抱玉、石垣抱真等々と、その水脈は引き継がれいる。

補記一 『画本虫撰』(国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288345


補記二 『狂歌三十六人撰』

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007282688-00


http://digitalmuseum.rekibun.or.jp/app/collection/detail?id=0191211331&sr=%90%EF


補記三 『手拭合』(国文学研究資料館)

https://www.nijl.ac.jp/pages/articles/200611/


補記四 『吾妻曲狂歌文庫』(国文学研究資料館) 

https://www.nijl.ac.jp/pages/articles/200512/


補記五  浮世絵(喜多川歌麿作「画本虫ゑらみ」)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-12-27


その十三 江戸の粋人・抱一の描く「その三 吉原月次風俗図(三月・夜桜)」

 前回(「その二 吉原月次風俗図(二月・初午」)に続く、「吉原月次風俗図(三月(夜桜)」というのは、『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』などには収載されていない。
 その同書中の、「花街柳巷図巻」(個人蔵)で、下記の通り、その概要を見ることが出来る(また、同書中の「作品解説(小林忠稿)」は次の通り)。

三月.jpg

抱一筆「花街柳巷図巻」のうち「三月(夜桜)」
【三月(夜桜) 「夜さくらや筥てうちんの鼻の穴 楼上に居續したるあした起よ今朝 うへ野の四ツそ花の雨」の賛と、仲の町に植えられた桜の木と柵の絵」(「作品解説(小林忠稿)」)。】

 この図と、この作品解説だけでは、抱一の「吉原月次風俗図(三月・夜桜)」「花街柳巷図巻(三月・夜桜)」をイメージするのは無理かも知れない。吉原の仲の町通り(メインの大通り)に植えられる桜(開花の時に植えられ、散ると撤去される)と箱提灯(筥てうちん:下図では花魁道中の先頭の人が持っている提灯)は、下記の「東都名所画 吉原の夜桜(渓斎英泉筆)」などによるとイメージがし易い。

英泉・夜桜.jpg

渓斎英泉筆「東都名所画 吉原の夜桜」(太田記念美術館蔵)

   夜ざくらや筥てふちんの鼻の上  (抱一・「三月・夜桜」の賛)

【 三月の図は春の人寄せのイベントである夜桜が描かれます。画賛の一つは「夜ざくらや筥でうちんの鼻の穴」です。春の吉原は、仲之町通りに鉢植えの桜を置きます。この画賛の初案の頭註には、『史記』「周本紀」第四に載る字句「后稷生巨跡」に拠ったとあります。后稷には、母親の姜原が巨人の足跡を踏んで妊娠したという伝説があります。つまり、「筥でうちんの鼻の穴」という小さい穴は、后稷が生まれた巨人の足跡に見立てられています。そこからうまれたものは「夜ざくら」と、描かれない多数の見物客です。つまり、筥提灯の上部の空気穴から光が漏れる。その光に照らしだされた夜桜と多数の見物客が、后稷に見立てられます。ここでは画賛は、夜桜の賑わいを補完する機能を担わされています。 】(「抱一筆『吉原月次風俗図』の背景(井田太郎稿)」)

どうにも、難解な、抱一の師筋に当たる、宝井其角の「謎句」仕立ての句である。この句の前書きのような賛に書かれているのだろうが、『史記』の「后稷(こうしょく)」伝説に由来している句のようである。
「后稷(こうしょく)」伝説とは、「〔「后」は君、「稷」は五穀〕 中国、周王朝の始祖とされる伝説上の人物。姓は姫(き)、名は棄(き)。母が巨人の足跡を踏んでみごもり、生まれてすぐに棄(す)てられたので棄という。舜(しゆん)につかえて人々に農業を教え、功により后稷(農官の長)の位についた」を背景にしているようである。
 ここは、余り詮索しないで、上記の、渓斎英泉筆「東都名所画 吉原の夜桜」ですると、「花魁道中を先導する男衆の持つ箱提灯の上部の穴からの光が、鮮やかに夜桜や人影を浮かび上がらせる」というようなことなのであろう。

  吉原の夜見せをはるの夕ぐれは入相の鐘に花やさくらん 四方赤良(大田南畝)
  廓(さと)の花見は入相が日の出なり  (『柳多留六三』)
  夜桜へ巣をかけて待つ女郎蜘蛛     (『柳多留七三』)
  年々歳々客を呼ぶために植え      (『柳多留六二』)
  里馴れて来ると桜はひんぬかれ     (『柳多留一〇七』) 

 これらの狂歌や川柳(前句付)の風刺的な「捩り」の、抱一の一句と解することも出来るのかも知れない。

  起よ今朝うへ野の四ツぞ花の雨    (抱一・「三月・夜桜」の賛)

 冒頭の作品解説中にある、「夜ざくらや筥てふちんの鼻の上」に続く、「楼上に居續したるあした起よ今朝 うへ野の四ツそ花の雨」の賛も、「(楼上に居續したるあした) 起よ今朝うへ野の四ツそ花の雨」と、「前書き=楼上に居續したるあした=吉原の妓楼に意続けての朝方」・「発句=起よ今朝うへ野の四ツぞ花の雨」と、これも、「朝方四ツ=吉原の朝方十時、うえ野=上野の山、花の雨=花の散りかかる頃の雨」の発句の賛のようである。

  夜ざくらや筥てふちんの鼻の上  (「吉原」の「夜桜」を昨夜はたっぷり堪能した)
  起よ今朝上野の四ツぞ花の雨(起きよ今朝四ツ時ぞ「上野」の「花の雨」の見物だ)

 これは、「吉原の夜桜見物」と、「居続け」にして、「上野の山の昼の花の雨見物」へと、次々と「ハシゴ(梯子)」する、抱一らの「江戸座俳諧」特有の洒落句(滑稽句)としての二句なのかも知れない。

  桜から桜へこける面白さ (『柳多留二五』)
  女房へ嘘つく桜咲にけり (『俳諧觽三』)
  居続けのばかばかしくも能(よ)い天気 (『柳多留三』)
  よくよくの馬鹿吉原に三日居る (『柳多留一八』)

其一・大門図.jpg

鈴木其一筆「吉原大門図」一幅 ニューオータニ美術館大谷コレクション蔵
【 吉原大門からつづく仲の町通りを東から眺め、入ってすぐの引手茶屋「山口巴屋」の様子や、吉原に行き交う人々の諸相をとらえる。花魁、芸者、禿、酔客、按摩、老人、若侍などと、各種の人々を等しく観察し一か所に集めた。其一は群像の表現にもはやくから関心を寄せ習熟していることを示すが、「其一戯画」と意識的な署名をし、他に使用例のない「毀誉不動(毀誉に動ぜず)」印を捺している。この意識は晩年まで続く。】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収「作品解説二〇三(岡野智子稿))

 抱一には、このような「風俗図」「群像図」は余り見られない。その抱一の右腕とも言うべき抱一門の第一人者・鈴木其一は、この種の「風俗図」「群像図」を手掛けている。しかし、上記の解説にあるとおり、この種のものの署名の「戯画」、落款印の「毀誉不動(毀誉に動ぜず)」などからすると、抱一門では、「仏画制作」を主要画業の一つにしているので、この種のものはスタンダードの分野ではないのかも知れない。
 この其一の「吉原大門図」は、抱一・其一時代の「吉原」の情景を的確に描写している。大門を入ってすぐ右手の引手茶屋が最も格式のある茶屋で七軒茶屋と呼ばれ、その筆頭格が「山口巴屋」で、その座敷に、「花魁(簪の数が多い)・新造(部屋持ちと振袖)・禿(少女)・芸者(三味線を持っている)・客人」などが描かれている。
 その大門近くの辻行燈の前に、「箱提灯を持った男衆・花魁・禿・新造」が馴染み客を出迎えるための立って待っている光景、その辻行燈の後方は「番所」(四郎兵衛)で、大門口の見張り(遊女の外出の取締り・一般女子も切手=通行証が必要、男子は自由)などをしている所であろう。その他、酔客・按摩・杖を持った老人、二本差しの侍など、これは、まさしく、典型的な「吉原風俗図」と解して差し支えなかろう。
 それに比して、抱一の「吉原月次風俗図」は、この其一の「吉原大門図」に出て来る「大門・番所・引手茶屋・辻行燈・箱提灯」などの主たる景物も、さらには、「花魁・新造・禿・芸者・幇間・男衆・遊客」などの主たる人物像も、この月次十二図の中には、何処にも出て来ないのである。
 ここで、抱一の、この「吉原月次風俗図」というネーミングは、抱一の意図することを斟酌すると、これは「吉原月次俳画図」ともいう分野のもので、それも、先ず、俳句(発句)があって、その「俳句(発句)」に、「べた付け」(画と句とが「付かず離れず」(響き合う)がベターとすると「べったり付き過ぎる」関係)を、極力排しての「画」作りをしているということなのである。
 ずばり、今回のように、「吉原月次風俗図」の「三月・夜桜」の一幅ものを見ていなくても、その「花街柳巷図巻」の「三月・夜桜」の「賛(前書きと句)」と「画」とにより、それらに接した者が、例えば、渓斎英泉筆「東都名所画 吉原の夜桜」や、鈴木其一筆「吉原大門図」などを連想し得たということならば、恐らく、抱一の、これらの、「吉原月次風俗図」の「三月・夜桜」、そして、「花街柳巷図巻」の「三月・夜桜」を制作した、その抱一の真意の一端に触れていることであろう。



抱一句集『屠龍之技』「第一こがねのこま」(1~4)

https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/ogai/document/15dd5a92-e055-4dcb-a302-1ed3adc3716f#?c=0&m=0&s=0&cv=2&xywh=-995%2C-177%2C7335%2C4375

1 飛ぶ蝶を喰(くは)んとしたる牡丹かな (第一 こがねのこま)


抱一画集『鶯邨画譜』所収「牡丹図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html



 飛ぶ蝶を喰(くは)んとしたる牡丹かな (第一 こがねのこま)
    牡丹一輪青竹の筒にさして
    送られける時
  仲光が討て参(まゐり)しぼたんかな  (第三 みやこどり)
    画賛狂句、彦根侍の口真似
    して
  さして見ろぎょやう牡丹のから傘ダ   (第三 みやこどり)

 『屠龍之技』中の「牡丹」の三句である。蕪村にも「牡丹」の佳句が目白押しである。

  牡丹散つてうちかさなりぬ二三片  蕪村 「蕪村句集」
  牡丹切て気の衰へし夕かな     蕪村 「蕪村句集」
  閻王の口や牡丹を吐かんとす    蕪村 「蕪村句集」
  地車のとゞろとひゞく牡丹かな    蕪村 「蕪村句集」  

 抱一の一句目の句は、蕪村の「閻王の口や牡丹を吐かんとす」の句に近いものであろう。二句目の前書きのある「仲光と牡丹」の句は、能「仲光(なかみつ)」を踏まえてのもので、その「仲光」中の、「美女丸」の身代わりになって、「仲光」に打ち首にされる仲光の実子の「幸寿丸 」を「牡丹」に見立てての一句ということになる(下記の「参考」)。
 三句目の「彦根侍と牡丹」の句は、「大老四家(井伊家・酒井家・土井家・堀田家)」の文治派・酒井家に連なる生粋の江戸人・抱一の、武断派・井伊家(彦根藩・彦根侍)の風刺の意などを込めての一句と解したい。この「ぎょやう」(ぎょうよう)というのが、「仰々しい(大げさ)」の彦根方言のような感じに受ける。

(参考)

http://www.kanshou.com/003/butai/nakami.htm




能「仲光」のストリー
【 多田満仲は、一子美女丸を学問の為、中山寺へ預けております。しかし、美女丸は学問をせず、武勇ばかりに明け暮れており、父満仲は、藤原仲光に命じ、美女丸を呼び戻します。ここから能「仲光」は始まります。
 「こは誰が為なれば…、人に見せんも某が子と言う甲斐もなかるべし…」これは誰の為であるのか。人に見せても、誰某の子という甲斐もない。親が子を叱る時の、昔も今も変わらぬ心情です。満仲は、憤りのあまり、美女丸を手討にしようとします。更に、中に入って止めた仲光に美女丸を討つよう命じます。
 仲光は、主君に何と言われても、美女丸を落ち延びさせるつもりでいますが、頻りの使いに、ついに逃がす事が出来なくなります。「あわれ某、御年の程にて候わば、御命に代り候わんずるものを…」同じ年頃であれば、お命に代ろうものを…と嘆く仲光の言葉を、仲光の子の幸寿が聞きます。幸寿は「はや自らが首をとり、美女御前と仰せ候いて、主君の御目にかけられ候え。」と言います。美女丸も、自分の首をと言い、仲光はついに幸寿に太刀を振り下ろしてしまいます。
 満仲は、美女丸を討ったと報告する仲光に、幸寿を自分の子と定めると言います。仲光は、幸寿が美女丸のことを悲しみ、髪を切り出て行ったと言い、自分も様を変え、仏道に入りたいと言います。
 比叡山、恵心僧都が美女丸を連れて来ます。満仲もついには許し、めでたい事と僧都に所望され仲光は舞を舞います。「この度の御不審人ためにあらず。かまえて手習学問、ねんごろにおわしませと…。」この度の事は人のせいではありません。これからは、手習学問を熱心にするように…。仲光に言われ、美女丸は恵心僧都と再び帰って行きます。  】

2 としどしや御祓に捨る多葉粉入  (第一 こがねのこま)


3 すずしさは家隆の歌のしるしなり (第一 こがねのこま)


「としどしの御祓に捨る多葉粉入」の句は、神社などで、年始から節分までに行う「厄除け(厄落とし)のお祓い」の句と解したい。この「多葉粉入」(煙草入れ)は、旧年に頂いた厄除けの贈り物の「煙草入れ」などを、火の中に捨てるというようなことなのかも知れない。
 この句は、光琳や抱一の主要な画題の、『伊勢物語』の、「禊図」とは関係はない。この句の次に収載されている、次の「すずしさは家隆の歌のしるしなり」は、「夏越しの祓」(ナゴシノハラエ)の句で、こちらは、光琳の「家隆禊図」などと関係する句なのであろう。

抱一画集『鶯邨画譜』所収「禊図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 尾形光琳の「禊図」は下記のとおり。

尾形光琳筆「禊図」一幅 絹本着色 九七・〇×四二・六cm 畠山記念館蔵
【 この図は藤原家隆(一一五八~一二三七)の「風そよぐならの小川の夕暮にみそぎぞ夏のしるしなりける」の歌意を描いたもので「家隆禊図」ともいわれる。左下に暢達(ちょうたつ)した線にまかせて、簡潔に水流の一部を表わし、流れに対して三人の人物が飄逸な姿で描かれ、色調は初夏のすがすがしさを思わせる。「法橋光琳」の落款、「道崇」の方印がある。 】(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編)』所収「作品解説131」)

尾形光琳は、下記の宗達の『伊勢物語』(第六十五段)の「禊」の場面の「恋せじと御手洗川にせし禊神は受けずもなりにけるかも」に対して、藤原家隆の「風そよぐならの小川の夕暮にみそぎぞ夏のしるしなりける」の歌意を上部に「楢の木」を配して表現している。。



宗達派「伊勢物語図屏風」の部分図「禊図」(「国華」九七七)
画賛「恋せじと御手洗川にせし禊神は受けずもなりにけるかも」

 ここで、『鶯邨画譜』の「禊図」は、「風そよぐならの小川の夕暮にみそぎぞ夏のしるしなりける」(家隆)の「禊」の場面よりも、「恋せじと御手洗川にせし禊神は受けずもなりにけるかも」(『伊勢物語』)の「禊」の場面のように思われる。

4 花びらの山を動すさくらかな (第一 こがねのこま)


 抱一の句の夙に知られている句の一つである。下記のアドレスでは、次のようなイメージとして鑑賞されている。

https://manyuraku.exblog.jp/24395245/


「満開の花、風が吹くたびにひらひら散るはなびら。山全体が揺れ動くような酔い心地。」

 そして、『花を旅する(栗田勇著・岩波新書)』の、次の一節を紹介している。

「どんな花でも散りますが、なぜ散る桜なのか。満開で強風の時でさえも1枚の花びらが散らないのに、突然わずかな風に舞い上がって桜吹雪になっている。とことんまで咲ききって、ある時期が来たら一瞬にして、一斉に思い切って散ってゆく。
 こうした生ききって身を捨てるという散り際のよさが、日本人にはこたえられないのではないでしょうか。そこに人生を重ねて見るんですね。静かに散るのではなく、花吹雪となって散るという生き生きとしたエネルギーさえも桜から感じられるのです。
 散ると言っても、衰えてボタンと落ちるのではないのです。むしろ散ることによって、次の生命が春になったらまた姿をあらわす、私は生命の交代という深い意味でのエロティシズムの極地のようなものがそこに見えるのではないかといいう気がします。」

 地発句(連句を前提としない発句だけの作品=俳句)としての鑑賞のスタンダードのものであろう。しかし、立句(連句の最初の句=発句)としては、この抱一の句は異色の句ということになろう。
 俳諧(連句)の「花」の句の原則(「花の定座」の原則)として、「桜(さくら)」の言葉は使わず(「非正花)、賞美・賞玩の意を込めての「花」(春の正花)の言葉を使うのが原則なのである。この原則からすると、「五・七・五」の十七音字の中に、上五の「花びら」と下五の「さくら(さくら)」とを、二重のように使用するのは、どうにも異色の句ということになろう。
 この句に、抱一が其角流の趣向(作為)を施しているとすれば、この下五の、平仮名表記の「さくら」というのがポイントとなって来よう。このような観点から、上記で紹介されている『花を旅する』の「生ききって身を捨てるという散り際のよさ」の、「花は桜木、人は武士」(一休禅師?)などを連想することは、其角流の江戸座のむ俳諧師・抱一の句の鑑賞としては、決して逸脱したものではなかろう。

 抱一画集の『鶯邨画譜』には、桜を好み、「桜町中納言」の「藤原成範(しげのり)」が、その画題になっているが、スタンダードな『伊勢物語』(第九段「東下り」)の「在原業平」ではなく、「藤原成範」であるのが、これまた、抱一らの江戸琳派の画人の趣向なのであろう。

抱一画集『鶯邨画譜』所収「桜町中納言図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html


 「桜町中納言」については、下記のアドレスで、下記(参考その三)のとおり引用紹介した。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-07-29


(参考その三) 藤原成範(ふじわらのしげのり) → (再掲)

没年:文治3.3.17(1187.4.27)
生年:保延1(1135)
平安末期の公卿。本名は成憲。世に桜町中納言といわれた。藤原通憲(信西)と後白河天皇乳母紀二位の子。久寿1(1154)年叙爵。平治の乱(1159)でいったん解官,配流されるが許され,平清盛の娘婿であったことも手伝い、のちには正二位中納言兼民部卿に至る。また後白河院政開始以来の院司で、治承4(1180)年には執事院司となり激動の内乱期を乗りきった。一方和歌に優れ、『唐物語』の作者に擬せられている。桜を好み、風雅を愛した文化人でもあった。娘に『平家物語』で名高い小督局がいる。<参考文献>角田文衛『平家後抄』 (木村真美子) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

 また、次のアドレスで、酒井抱一筆の「宇津山図・桜町中納言・東下り」(三幅対)について触れた。そこでの要点も再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-01


(再掲)

ここで、冒頭の「宇津山図・桜町中納言・東下り」の「桜町中納言」(藤原成範)について触れて置きたい。
『伊勢物語』第九段「東下り」(下記「参考」)の「むかし、男ありけり」の、この「男」(主人公)は、「在原業平」というのが通説で、異説として、『伊勢物語』第十六段(「紀有常」)の「紀有常(きのありつね)」という説がある。  
 その主たる理由は、その第九段の前の第八段(「浅間の嶽」・下記「参考」)が、業平では不自然で、「下野権守・信濃権守と東国の地方官を務めた紀有常」の方が、第八段(「浅間の嶽」)と第九段(「東下り」)との続き具合からして相応しいというようなことであろう。
 それに対して、冒頭の「宇津山図・桜町中納言・東下り」の「桜町中納言(藤原成範)」こそ、「藤原通憲(信西)と後白河天皇乳母紀二位の子。久寿1(1154)年叙爵。平治の乱(1159)でいったん解官,配流されるが許され,平清盛の娘婿であったことも手伝い、のちには正二位中納言兼民部卿に至る」の、「配流の地(「下野」)などからして、「桜町中納言(藤原成範)」こそ、最も相応しいというようなことなのであろう。

 さらに、下記のアドレスで、鈴木其一筆「桜町中納言図」(一幅)について触れた。その画像と解説(久保佐知恵稿)のものを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-09


(再掲)

鈴木其一筆「桜町中納言図」 一幅 絹本著色 一一六・八×四九・八㎝
千葉市美術館蔵

【 桜町中納言は、平安時代後期の歌人藤原成範の通称で、桜を殊のほか愛した成範は、自らの邸宅にたくさんの山桜を植え、春になると桜の下にばかりいたと伝わる。能「泰山府君」の登場人物でもあり、短い花の盛りを惜しんだ成範が、その命を延ばしてもらおうと泰山府君に祈ったところ、成範の風流な心に感じた泰山府君が現れ、願いを叶えってやったと云う。本作は、満開の山桜の下でくつろぐ桜町中納言と従者を描いたもので、構図自体は『光琳百図』所載の光琳画をほぼ忠実に踏襲している。「桜町中納言図」は師の酒井抱一にもいくつかの遺品があり、江戸琳派において継承された画題のひとつといえる。(久保佐知恵稿) 】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手 図録』所収「作品解説56 桜町中納言図」)

 ここで、冒頭の抱一画集『鶯邨画譜』所収の「桜町中納言図」(に戻り、これは、まさしく、「抱一筆」とか「其一筆」とかではなく、『鶯邨(抱一の「雨華庵(工房)」の別称)』の「画譜(マニュアル・手本)」の「一コマ」のものという思いを深くする。
 さらに、付け加えるならば、上記の其一筆「桜町中納言図」(千葉市美術館蔵)には、次のような箱書きがある(『日本絵画の見方(榊原悟著)』)。

(箱表) 桜町中納言  竪幅
(箱裏) 先師其一翁真蹟 晴々其玉誌 印

 この「晴々其玉」は、其一の高弟・中野其明(きめい)の子息・中野其玉(きぎょく)であり、この其玉にあっては、その「先師」とは、酒井抱一ではなく、鈴木其一その人ということになる。
そして、この其玉に、『鶯邨画譜』を継受したような『其玉画譜』(小林文七編)があり、次のアドレスで、その全図を見ることが出来る。ここに、まぎれもなく、「其一→其明→其玉」の「其一派」の流れを垣間見ることが出来る。

一 ARC古典籍ポータルデータベース (カラー版)

http://www.dh-jac.net/db1/books/results.php?f3=%E5%85%B6%E7%8E%89%E7%94%BB%E8%AD%9C&enter=portal


二 国立国会図書館デジタルコレクション (モノクロ版)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850329



酒井抱一句集『屠龍之技』(序)周辺

抱一句集『屠龍之技』序(周辺)

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)

http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0001_m.html

【「屠龍之技」の全体構成(上記「写本」の外題「軽挙観句藻」)

序(亀田鵬斎)(文化九=一八一二)=抱一・四五歳

第一こがねのこま(寛政二・三・四)=抱一・三〇歳~三二歳

第二かぢのおと (寛政二・三・四)=同上

第三みやこおどり(寛政五?~?)=抱一・三三歳?~

第四椎の木かげ (寛政八~十年)=抱一・三六~三八歳 

第五千づかのいね(享和三~文化二年)=抱一・四三~四五歳

第六潮のおと  (文化二)=抱一・四五歳 

第七かみきぬた (文化二~三)=抱一・四五歳~ 

第八花ぬふとり (文化七~八)=抱一・五〇~五一歳

第九うめの立枝 (文化八~九)=抱一・五一~五九歳

跋一(春来窓三)

跋二(太田南畝) (文化発酉=一八一三)=抱一・四六歳   】

『屠龍之技』の「序」(亀田鵬斎)

軽挙道人。誹(俳)諧十七字ノ詠ヲ善クシ。目ニ触レ心ニ感ズル者。皆之ヲ言ニ発ス。其ノ発スル所ノ者。皆獨笑、獨泣、獨喜、獨悲ノ成ス所ナリ。而モ人ノ之ヲ聞ク者モ亦我ト同ジク笑フ耶泣ク耶喜ブ耶悲シム耶ヲ知ラズ。唯其ノ言フ所ヲ謂ヒ。其ノ発スル所ヲ発スル耳(ノミ)。道人嘗テ自ラ謂ツテ曰ハク。誹(俳)諧体ナル者は。唐詩ニ昉(ハジ)マル。而シテ和歌之ニ効(ナラ)フ。今ノ十七詠ハ。蓋シ其ノ余流ナリ。故ニ其ノ言雅俗ヲ論ゼズ。或ハ之ニ雑フルニ土語方言鄙俚ノ辞ヲ以テス。又何ノ門風カコレ有ラン。諺ニ云フ。言フ可クシテ言ハザレバ則チ腹彭亨ス。吾ハ則チ其ノ言フ可キヲ言ヒ。其ノ発ス可キヲ発スル而巳ト。道人ハ風流ノ巨魁ニシテ其ノ髄ヲ得タリト謂フ可シ。因ツテ其首ニ題ス。

文化九年壬申十月  江戸鵬斎興

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)

http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0002_m.html

■抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)

書写地不明] : [書写者不明], [書写年不明]1冊 ; 24cm

注記: 書名は序による ; 表紙の書名: 輕舉観句藻 ; 写本 ; 底本: 文化10年跋刊 ; 無辺無界 ; 巻末に「明治三十一年十二月二十六日午夜一校畢 観潮樓主人」と墨書あり

 鴎E32:186  全頁

琳派の画家として知られる酒井抱一が、自身の句稿『軽挙観句藻』から抜萃して編んだ発句集である。写本であるが、本文は鴎外の筆ではなく、筆写者不明。本文には明らかな誤りが多数見られ、鴎外は他本を用いてそれらを訂正している。また、巻末に鴎外の筆で「明治三十一年十二月二十六日午夜一校畢 観潮楼主人」とあることから、この校訂作業の行われた時日が知られる。明治30年(1897)前後、鴎外は正岡子規と親しく交流していたが、そうしたなかで培われた俳諧への関心を示す資料だと言えよう。(出)

■亀田鵬斎(かめだほうさい);(宝暦2年9月15日(1752年10月21日) – 文政9年3月9日(1826年4月15日))、江戸時代の化政文化期の書家、儒学者、文人。江戸神田生れ(上野国邑楽郡富永村上五箇村生まれの異説あり)。

 父は萬右衛門といい、上野国邑楽郡富永村上五箇村(現在の群馬県邑楽郡千代田町上五箇)の出身で日本橋横山町の鼈甲商長門屋の通い番頭であった。母の秀は、鵬斎を生んで僅か9ヵ月後に歿した。

 鵬斎は6歳にして三井親和より書の手ほどきを受け、町内の飯塚肥山について素読を習った。14歳の時、井上金峨に入門。才能は弟子の中でも群を抜き、金峨を驚嘆させている。この頃の同門 山本北山とは終生の友となる。23歳で私塾を開き経学や書などを教え、躋寿館においても教鞭を執った。赤坂日枝神社、駿河台、本所横川出村などに居を構え、享和元年(1801)50歳のとき下谷金杉に移り住んだ。妻佐慧との間に数人の子を生んだが皆早世し、亀田綾瀬のみ生存し、のちに儒学者・書家となる。亀田鴬谷(かめだおうこく)は孫にあたる。

 鵬斎は豪放磊落(ごうほうらいらく)な性質で、その学問は甚だ見識が高く、その私塾(乾々堂→育英堂→楽群堂)には多くの旗本や御家人の子弟などが入門した。彼の学問は折衷学派に属し、すべての規範は己の中にあり、己を唯一の基準として善悪を判断せよとするものだった。従って、社会的な権威をすべて否定的に捉えていた。

 松平定信が老中となり、寛政の改革が始まると幕府正学となった朱子学以外の学問を排斥する「寛政異学の禁」が発布される。山本北山、冢田大峯、豊島豊洲、市川鶴鳴とともに「異学の五鬼」とされてしまい、千人以上いたといわれる門下生のほとんどを失った。その後、酒に溺れ貧困に窮するも庶民から「金杉の酔先生」と親しまれた。塾を閉じ50歳頃より各地を旅し、多くの文人や粋人らと交流する。

 享和2年(1802)に谷文晁、酒井抱一らとともに常陸国(現 茨城県龍ケ崎市)を旅する。この後、この3人は「下谷の三幅対」と呼ばれ、生涯の友となった。

 文化5年、妻佐慧歿す。その悲しみを紛らわすためか、翌年日光を訪れそのまま信州から越後、さらに佐渡を旅した。この間、出雲崎にて良寛和尚と運命的な出会いがあった。3年にわたる旅費の多くは越後商人がスポンサーとして賄った。60歳で江戸に戻るとその書は大いに人気を博し、人々は競って揮毫を求めた。一日の潤筆料が5両を超えたという。この頃、酒井抱一が近所に転居して、鵬斎の生活の手助けをしはじめる。

 鵬斎の書は現代欧米収集家から「フライング・ダンス」と形容されるが、空中に飛翔し飛び回るような独特な書法で知られる。

  「鵬斎は越後がえりで字がくねり」 川柳

良寛より懐素(かいそ=唐の草書の大家)に大きく影響を受けた。

 鵬斎は心根の優しい人柄でも知られ、浅間山大噴火(天明3年)による難民を救済するため、すべての蔵書を売り払いそれに充てたという。また赤穂浪士の忠義に感じ、私財を投じて高輪の泉岳寺に記念碑を建てている。定宿としていた浦和の宿屋の窮状を救うため、百両を気前よく提供したという逸話も残っている。

 晩年、中風を病み半身不随となるが書と詩作を続けた。享年七十五。称福寺(台東区今戸2丁目5−4。浄土真宗本願寺派寺院)に葬られる。現在鵬斎が書いたとされる石碑が全国に70基以上確認できる。

亀田 鵬斎は、江戸時代の化政文化期の書家、儒学者、文人。江戸神田生れ。 鵬斎は号。名を翼、後に長興に改名。略して興。字は国南、公龍、穉龍、士龍、士雲、公芸。幼名を彌吉、通称 文左衛門。 ウィキペディア

足立区立郷土博物館所蔵 一行書「酔い飽きて高眠するは真の事業なり」。

 「詩書屏風」 亀田鵬斎書 東京国立博物館展示 個人蔵 

https://rakugonobutai.web.fc2.com/296kamedahousai/kamedahousai.html

  • 柳家さん生の噺、「亀田鵬斎」(かめだほうさい) 原題「鵬斎とおでんや」より

下谷金杉の裏長屋に生んでいた亀田鵬斎という方がいました。書家であったが、名人気質があって気にいらないと書を書かないし、気にいれば金額のことなど無視して書いた。

  孫が行方不明になって大騒ぎをしています。

 「御免下さいまし。ごめんください。こちらが亀田鵬斎さん宅でしょうか」、「はい、はい、手前です」、「私はおでん燗酒を商っている平次と申しますが、お宅のお孫さんではありませんか。屋台に寝ています」、「婆さんや、疲れたんだろうから、そっと寝かせてあげなさい。かどわかしでは無いかと大騒ぎしてました」、「吉原田んぼで仕込みしていましたら、子供がワァ~っと泣きじゃくっていたのが、あの子です。色々聞いたら亀田鵬斎とだけ分かって、聞きながらやっとここが分かりました」、「孫が見付かった身祝いに何か差し上げたいが・・・。この生活では・・・」、「そんな事は良いんです」、「そうはいきません」、「子供が泣いていたから連れてきただけ。この汚い家に何も無いのは分かります」、「壊れかかった屋台はお前さんの物か」、「壊れ掛かったとは怒りますよ。これで仕事をしているんです」。

 考えたあげく、屋台の看板になる小障子を外し奥に持って行ってしまった。しばらくして小障子を抱えてきて、行灯に火を入れて小障子をはめ込んだ。『おでん 燗酒 平次殿 鵬斎』と書かれ落款が押してあった。「先生が書いたの。看板屋?貰って良いの」、「お持ち下さい」。

 平次がいつものように吉原田んぼで仕事をしていると、五十年配の大店の旦那然とした御客が来た。「いらっしゃい。何を・・・」、「寒くなったので、熱燗を一本。吉原を久しぶりに冷やかしてきたんだ。冷えたときには熱燗で身体の中から温めるのが一番。クゥ~、クゥ~、クゥ~、ファ~。・・・チョッと聞くが、お前さんの名前は平次さんかぃ」、「どうして判るんですか」、「ここに書いてある。鵬斎として落款が押してある。これは亀田鵬斎かぃ」、「そうですよ」、「知っているのかぃ」、「知っています」、「私は屋台で酒は飲んだことが無いんだ。この字は、『飲みなさいッ』という字だ。ここに鵬斎の書が有るなんて・・・、目の保養をさせて貰いました」、御客は1両を置いてお釣りも取らず、小障子を持って行ってしまった。

 「こんにちは。私は、おでん燗酒は売っていますが、小障子は売っていません。この1両は先生の物ですからお渡しします」、「アレはお前さんにやった物だ。1両はお前さんの物だ」、お互いに譲り合って、話は先に進まない。「では、この1両は預かっておく。新しい小障子を持って来なさい」。同じように、『おでん 燗酒 平次殿 鵬斎』と書いて落款が押してあった。

 半月ほどたった晩に若い武士が店にやって来た。「亀田鵬斎が書いた看板を掲げた店が有ると聞いたが・・・」、「これが亀田鵬斎が書いた看板なんです」、「そうか。ここに5両置く。小障子は貰っていく」、「チョッと、小障子持って行っちゃいけません」。

 「先生、小障子持って行かれました。5両は貴方の物ですから、ここに置きます。おでんも食べず、燗酒も飲まず5両置いて小障子を持って行っちゃったんです」、「分かった。5両は預かっておく。小障子を持って来なさい」。前回と同じように、『おでん 燗酒 平次殿 鵬斎』と書かれ落款が押してあった。

 「殿お呼びですか」、「見て見ろ、経治屋に軸装にして貰った。『おでん 燗酒 平次殿 鵬斎』、良い書だろう。他には無いぞ。酒の支度をしろ。鵬斎が言っている。飲めと」。

 「お客さまです」、「黒田か、こっちに入れ。良いだろう、この書」、「我が殿が2000両用意しているから、譲って貰えと言っています」、「バカモン。この書は他には無いんだ。譲れん」。

 この黒田がお屋敷に帰ってこの話をすると、「この屋台は必ず何処かに出ているはずだ。探せッ」。

 「鵬斎書の小障子がはめてある屋台が見付かりました」。若侍を集めて、この屋台の周りを取り囲み、号令一下屋台を引っ張って持って行ってしまった。25両の金を置いて行った。

 「御免下さいまし」、「どうした?」、「25両で屋台をやられました」、「平次さん、歳は幾つになる。五十か。屋台では身体がキツいであろう。店を持たぬか?足して31両有る」、「その金は借りるので、少しずつ返していきます。そうですね。生まれが四谷ですから、四谷で豆腐屋でも始めましょう」、「店が出来たら、わしが『豆腐屋 平次』と書いてあげよう」、

「それには及びません。それでは家が無くなっちゃう」。

■下谷金杉(したやかなすぎ);近くに有る金杉村とは違って、旧日光街道(現金杉通り)に面した下谷金杉上町と下谷金杉下町が有ります。現在の言問通り交差点・根岸一丁目辺りから北側の三ノ輪交差点辺りまでの街道に沿った細長い町です。

 下谷金杉辺りから吉原田んぼまでは東に約1km位です。

 鵬斎の金杉時代は里俗に中村というところに住んだ。今もある御行松跡の不動堂の北側で、現台東区根岸四丁目14あたり。昭和三十年代まで中根岸の内だった。

 港区に有る、旧浜離宮恩賜庭園の南側を流れる古川(上部に首都高環状線が走る)に架かり、国道15号線(旧東海道)を渡す”金杉橋”とは違います。

■四谷(よつや);四谷見附の有った、五街道の甲州街道があった新宿の手前の街。現在の新宿区と千代田区の区境にある、四ツ谷駅がその地です。千代田区側には番町と麹町が有りますが、四谷は新宿区側で甲州街道に沿った細長い街になって居ます。

 当時は、四ツ谷伊賀町、四ツ谷忍町、四ツ谷御箪笥町、四ツ谷北伊賀町、四ツ谷坂町、四ツ谷塩町、四ツ谷伝馬町、四ツ谷仲町等がありました。

■吉原田んぼ(よしわらたんぼ);ここで平次さんのおでん屋が仕込みと店を出していました。遊郭吉原を取り巻く一帯に有った田んぼ地(台東区浅草3~6丁目と同千束1~3丁目の一部)。その南側が浅草寺。遊郭吉原に行くのに、蔵前の方から近道を行くと、浅草寺の境内を縦に突っ切り、浅草田んぼを行けば、その先に吉原の明かりが見えた。落語「唐茄子屋政談」に出てくる勘当された若旦那が、初めて唐茄子を担ぎなが売り歩き、気が付くとこの吉原田んぼに出て、吉原を遠くに見ながらつぶやく場面があります。若旦那の述懐が何ともほろ苦く遊びの世界と現実の世界のギャップをまざまざと見ることが出来ます。

 吉原と浅草寺の間だの土地を田町と言った。明治14年頃浅草田んぼが埋め立てられて、約2万1千坪が平地となり、その一部が田町という町名になった。安易な町名の付け方ですが、現在この地名はありません。田町とは江戸に(東京にも)同名の町名が他にも有りますが、落語の世界では断りを入れない限り、ここの”田町”が舞台です。

蕪村が描いた芭蕉翁像(十三~十五)

その十三 天明二年(一七八二)の同一時作の「芭蕉翁像」(蕪村筆)

天明二年1.jpg

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』所収「101『芭蕉像』画賛」

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』の「101『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

一幅 
款 「天明歳次壬寅晩冬初十日 蕪村拝写」
印 「長庚」「春星」(白文連印)
賛  後掲
天明二年(一七八二)
『俳人真蹟全集 蕪村』
(賛)
花にうき世我酒しろく飯くろし
夏ころもいまた虱をとりつくさす
はせを野分して盥に雨をきく夜哉
あけぼのや白魚しろきこと一寸
あさよさにたれまつしまそ片こゝろ

 落款の「天明歳次壬寅晩冬初十日」から、「天明二年(一七八二)十ニ月十日」の作ということになる。蕪村が亡くなるのは、翌年の天明三年(一七八三)十ニ月二十五日、丁度、亡くなる一年前の作品ということになる。
 この賛中の芭蕉の五句は、蕪村が精選を重ねての五句ということになろう。晩年の芭蕉が到達した「軽み」の世界というのは、「日常卑近な題材の中に新しい美を発見し、それを真率・平淡に表現する」と要約すれば、これらの作品は、決して晩年の作品ではないが、どの句も「日常卑近の題材」であり、そして、どの句も「真率・平淡な表現」のものということになろう。
 これらの賛の五句が、芭蕉の「軽み」の世界のものとするならば、この蕪村の「芭蕉像」を、顔の表情は実にユーモラスで、先に紹介した「倣暒々翁墨意」の落款のある「芭蕉像」(『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』所収「102『芭蕉像』画賛」)に近いという印象を深くする。

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』所収「102『芭蕉像』画賛」

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』の「102『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

一幅 
款 「蕪村拝写」
印 一顆(印文不明)
賛  後掲
『上方俳星遺芳』
(賛)
花にうき世我酒白く飯黒し
夏衣いまた虱を取つくさす
はせを野分して盥に雨をきく夜かな
おもしろし雪にやならむふゆの雨
あさよさにたれまつしまそ片心

 冒頭に掲げた「芭蕉像」の賛中の五句と同じものではなく、この四句目のみが相違している。また、他の四句も、漢字と平仮名などの句形を異なにしている。しかし、この両者は、この賛などからして、同一時期の作品と解したい。即ち、両者とも、天明二年(一七八二)作と解したい。
 その上で、両者の画像を比較鑑賞すると、前者が、速筆体の「戯画」「酔画」の、「真・行・草」の「草画」的な印象に比して、後者の方は、丁寧な筆遣いで、「真(本)画」的な印象を強く受ける。

 先に、安永末年(一七八〇)から天明三年(一七八三)の間と推定される、大津の俳人、(伊東)子謙宛ての蕪村書簡の一部について触れたが、ここで、より詳しく、その書簡について触れて置きたい。

[ (前略)
〇 杉風が画の肖像も少々俗気有之候故、いさゝか添削を加候。都(スベ)て肖像之画法は、年を寄せ候が能(よく)候。
〇 杉風原本にはしとね(褥)を敷(しき)候へども、是はよろしからず候。仏家之祖師などの像には褥(しとね)をよく候へ共、翁などのごとき風流洒落(しゃらく)にて脱俗塵たる像は、只寒相にて寂しき方を貴(たっと)び申事に候。
〇 愚老むかし関東に於て、許六が画の肖像に素堂の賛有之物を見申候 厳然たる真蹟 伝来正きものに候 其像之面相は 杉風が画たる像とは大同小異有之候 許六が画(えがき)たるも 翁現世の時之画と相見え候 杉風・許六二画の内、いづれが真にせまり候や 無覚束候 愚老が今写する所は、右二子の画たる像を参合して写出候。庶幾(こいねがわくば)其真にせまらん事を。(以下、略)  ]
(『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)』)

 蕪村が描く座像の「芭蕉像」は、多く、杉風の芭蕉像(例えば、義仲寺の芭蕉像)を参考にしているのだろうが、この書簡にあるごとく、ことごとく「添削を加え」(手を入れて修正している)、蕪村の内たる芭蕉像を描出している。
 また、この書簡の、杉風作は「褥を敷(しき)候へ共、是はよろしからず候」と、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』で紹介されている七点の座像ものは、全てが、「褥(しとね=座る時の四角い敷物)は敷いていない。
 さらに、この書簡の、「肖像之画法は、年を寄せ候(年相応に描く)が能(よく)候」と、その顔の表情などは、一枚足りとも同じ表情のものはない。壮年の芭蕉は壮年らしく、老齢の芭蕉は老齢のままに描いている。

 上記の同一時の頃の作と思われる(その賛などからして)二例にしても、前者が「動的・ユーモラス」な芭蕉像とすると、後者は「静的・謹厳実直」な芭蕉像という趣である。そして、画人・蕪村の忠実な後継者である「月渓」の描く芭蕉像などは、蕪村の外面的なものの把握だけで、その内面的なものに迫ろうとする気配は感じられない。
 そして、これまで見てきた「百川・若冲・月渓」の芭蕉像と、蕪村のそれとを比較すると、質・量共に、蕪村に匹敵する画人は見当たらないということを実感する。

その十四 眼を閉じている「芭蕉翁像」(蕪村筆)

 『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に収録されている下記の十一点について、
これまでに、「④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)を除いて、全て、概括してきた。今回、この最後の一枚を見て行きたい。

① 座像(正面向き、褥なし、安永八年作=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)→(その七)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)→(その八)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九作。金福寺蔵)→(その六)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)→(その十四)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)→(その十一)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)→(その十)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)→(その九)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)→(その十三)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)→(その十三)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)→(その十二)
⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)→ (その一)

蕪村遺芳.jpg

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』所収「89『芭蕉像』画賛」

 『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』の「89『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

紙本墨画 一幅 
一〇〇・一×三〇・七cm
款 「夜半亭蕪村拝写」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛  後掲
『蕪村遺芳』
(賛)
蓬莱に聞はやいせの初便
先たのむ椎の木も有夏木立
名月や池をめくりて終宵
海くれて鴨の声ほのかにしろし

 この「芭蕉像」は白帽子である。「安永八年作=一七七九作」の「① 座像」「② 半身像」「③ 座像」も、白帽子であった。その特徴からする、その「安永八年(一七七九)」の、金福寺に奉納した「③ 座像」と、同一時頃の作品なのかも知れない。
 ここで、「国文学 解釈と鑑賞(特集与謝蕪村)837 2001/2」所収「蕪村の描いた芭蕉(早川聞多稿)」で紹介されている「芭蕉像に賛された発句一覧(句の上の数字は引用回数、句の下に、詠句年齢・出所出典)」を、以下に掲げて置きたい。
 ※は、この賛にある句である。

⑥ 芭蕉野分して盥に雨をきく夜かな (三八歳・茅舎の感)
⑤ 花にうき世我我酒白く飯黒し   (四〇際・虚栗)
⑤ 夏衣もいまだ虱を取り尽さず   (四二歳・野ざらし紀行)
④ 名月や池をめぐりて夜もすがら  (四三歳・あつめ句)   ※
③ わが衣に伏見の桃の雫せよ    (四二歳・野ざらし紀行)
③ 海暮れて鴨の声ほのかに白し   (四二歳・野ざらし紀行) ※
③ 世にふるもさらに宗祇のやどりかな(四三歳・笠の記)
③ おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな (四五歳・鵜舟)
③ 朝夜さに誰がのつしまぞ片心   (四五歳・桃舐集)
③ 行く春や鳥啼魚の目は泪     (四六歳・奥の細道)
③ 物いへば唇寒し秋の風      (四八歳頃・芭蕉庵小文庫)

③ 蓬莱に聞かばや伊勢の初便    (五一歳・真蹟自画賛)  ※
② 馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり  (四二歳・野ざらし紀行)
② あけぼのや白魚白きこと一寸   (四二歳・野ざらし紀行)
② 年暮れぬ笠着て草鞋はきなから  (四二歳・野ざらし紀行)
② 梅白しきのふや鶴をぬすまれし  (四二歳・野ざらし紀行)
② 古池や蛙飛こむ水の音      (四三歳・蛙合)
② いてや我よき衣着たり蝉衣    (四四歳・あつめ句)
② 五月雨に鳰のうき巣を見にゆかん (四四歳・泊船集)
② 寒菊や粉糠のかゝる臼の端    (五〇歳・炭俵)
② この道を行く人なしに秋の暮   (五一歳・書簡)

① 櫓の声(せい)波を打つて腸凍る夜や涙 (三八歳・寒夜の辞)
① 年の市線香買ひに出でばやな   (四三歳・続虚栗)
① おもしろし雪にやならん冬の雨  (四四歳・俳諧千鳥掛)
① 夕顔や秋はいろいろ瓢哉     (四五歳・真蹟懐紙考)
① このあたり目に見ゆるものは皆涼し(四五歳・十八楼の記)
① 粟稗にまづしくもあらず草の庵  (四五歳・笈日記)
① あかあかと日はつれなくも秋の風 (四六歳・奥の細道)
① 初時雨猿も小蓑を欲しげなり   (四六歳・猿蓑)
① 蛍の笠落したる椿かな      (四七歳・真蹟色紙)
① 菰を着て誰人います花の春    (四七歳・真蹟草稿)

① 先たのむ椎の木も有り夏木立   (四七歳・幻住庵の記) ※
① ほととぎす大竹藪を漏る月夜   (四八歳・嵯峨日記)
① 子供等よ昼顔咲きぬ瓜剥かん   (五〇歳・藤の実)
① 稲妻や闇の方ゆく五位の声    (五一歳・有磯海)

その十五 「俳仙群会図」(蕪村筆)上の「芭蕉像」

俳仙群会図.jpg

(蕪村筆)「俳仙群会図」(柿衛文庫蔵)

 平成九年(一九九七)十月十日から十一月十三日に茨城県立歴史館で開催された特別展「蕪村展」図録の「作品解説1」は、次のとおりである

【絹本着色 三五・〇×三七・〇
款記   朝滄写
印章   丹青不知老至(白文方印)
柿衛文庫蔵

後賛詞(上部)
 此俳仙群会の図は元文の
 むかし余若干の時写したる
 ものにしてこゝに四十有余年
 に及へりされは其拙筆
 今更恥へしなんそ烏有と
 ならすや今又是に
 讃詞を加へよといいふ固辞
 すれともゆるさすすなはち
 筆を洛下の夜半亭にとる
 花散月落て
  文こゝに
   あらあり
    かたや
 天明壬寅春三月
 六十七翁蕪村書
 印章 謝長庚印(白文方印) 溌墨生痕
賛(下部)
 元日や神代のこともおもはるゝ(守武)
 鳳凰も出よのとけきとりのとし(長頭丸・貞徳)
 これはこれはとはかり花のよしのやま(貞室)
 手をついて哥申上る蛙かな(宗鑑)
 ほとゝきすいかに鬼神もたしかに聞け(梅翁・宗因)
 古池や蛙飛こむ水の音(芭蕉)
 桂男懐にも入や閨の月(やちよ)
 古暦ほしき人にはまいらせむ(嵐雪)
いなつまやきのふはひかしけふは西(其角)
 はつれはつれあはにも似たるすゝき哉(園女)
 かれたかとおもふたにさてうめの花(支考)
 こよひしも黒きもの有けふの月(宋阿)
 任口上人の句はわすれたり
  平安蕪邨書
 印章 謝長庚(白文方印) 謝春星(白文方印)

 後賛詞「元文のむかし余若干の時写したるものにして」によれば、元文年間、蕪村二十代前半の作で、現存する原本作品中最も古いものということになる。芭蕉を初めとする俳仙に、師・宋阿を加えた計十四人の俳人が描かれている。後賛詞に誤りがなければ、宋阿像は生存中の宋阿を描いたことになる。一方では、この作品の制作時期を、丹後時代とする説もある。描いた年代の記憶は、時と共に曖昧になるのが常だが、自身の師の像を生存中に描いたか否かの記憶は、早々薄れるものではない。したがって、蕪村の後賛詞は信ずるに足るものであると考えられる。人物の表現に関しては、「狩野・土佐折衷様式を持つ江戸狩野の特色が強い」との指摘がなされている。 】

 この「作品解説(北畠健稿)」の基本的な考え方は、「柿衛文庫」の創設者・岡田利兵衛氏の『俳画の美 蕪村・月渓』所収「俳仙群会図」の解説を踏襲している。その解説は次のとおりである。

【右の大きさ(画 竪三五センチ 横三七センチ 全書画竪 八七センチ)の絹本に十四人の俳仙、すなわち宗鑑・守武・長頭丸(貞徳)・貞室・梅翁(宗因)・任口・芭蕉・其角・嵐雪・支考・鬼貫・八千代・園女と宋阿(巴人)の像を集めてえがいている。特に宋阿は蕪村の師であるので加えたもので、揮毫の時点においては健在であったから迫真の像であると思われる。着彩で精密な描写は大和絵風の筆致で、のちの蕪村画風とは甚だ異色のものである。これは蕪村が絵修業中で、まだ進むべき方途が定まっていなかったからであろう。しかし細かい線の強さ、人物の眼光に後年の画風の萌芽を見出すことができる。
中段に別の絹地に左の句がかかる。

 (「賛」の句・落款を省略)

さらに上段に左記の句文か貼付される。これは紙本である。

 (「後賛詞」の句文・落款を省略)

この三部は三時期に別々にかかれたもの。上段は紙本で明らかに区分されるが、中段と下段はどちらも絹本であってやや紛らわしいかもしれないが絹の時代色が違うのと、謝長庚・謝春星の印記が捺され、この号は宝暦末から使用されるから、これから見て区分は明白である。上段の文意によってもそのことがわかる。
ここで最も重大なことは上段に「元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして、こゝに四十有余年」と自ら記している点である。これは絵が元文期・・・蕪村二十一歳から二十四歳・・・に揮毫されたことを立証している。すなわち現に伝存する蕪村筆の絵画中の最も早期にかかれたものであり、その点、甚だ貴重な画蹟といわねばならぬ。それに四十有余年後の天明二年に賛を加えよといわれて、困ったが自筆に相違ないので恥じながら加賛したのである。
 この画の落款は朝滄である。この号はつづく結城時代から丹後期まで用いられるものである。また印記の「丹青不知老到」という遊印であるが、この印章は初期に屡々款印に用いられている。すなわち下段の画は元文、中段の句は安永初頭(推定)、上段は天明二年の作である。
 以下、略 】

 ここで、蕪村の画号の「朝滄」は、蕪村の関東歴行時代(元文元年・一七三六~寛延三年・一七五〇)には見られない(画号は「子漢・四明・蕪村」の三種類だけである)。そして、印章は、「四明山人・朝滄・渓漢仲」で、「朝滄」(二種類)が用いられている。
 問題は、「丹青不知老到(タンセイオイノイタルヲシラズ)」の遊印で、いみじくも、この遊印は、同年齢の蕪村と若冲とが、同じ頃、それぞれが、それぞれの自己の遊印として使用しているという曰くありげな印章なのである。
 即ち、この遊印を捺す作品の中で、制作時期が判明できる最も新しい若冲作は、「己卯」(宝暦九年=一七五九)の賛(天龍寺の僧、翠巌承堅(すいげんしょうけん)の賛)のある「葡萄図」で、蕪村作では、庚辰(宝暦十年=一七六〇)の落款のある「維摩・龍・虎図」(滋賀・五村別院蔵)である。
 この宝暦九年(一七五九)・宝暦十年(一七六〇)というのは、若冲・蕪村が、四十四歳・四十五歳の時で、杜甫の詩に由来のある「丹青(絵画)老イノ至ルヲ知ラズ」は、「不惑ノ年=四十歳=初老」と深く関わっているように思われる(これらのことについては「補記」を参照)。
 蕪村が、不惑の四十歳を迎えるのは、宝暦五年(一七五五)で、その前年に丹後宮津に赴き、以後、この宮津滞在中に「朝滄」の号で多くの画作を残している。こういう観点から、二十歳代の蕪村(「宰町・宰鳥」時代)が、「朝滄」という画号はともかく、「丹青不知老到」という印章を使用するとは、まずもって不自然ということになろう。
 とすると、この「後賛詞」の「元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして」とは、
この「俳仙群会図」の下絵など(「控え帳」などの「縮図」など)を指し、それに基づいて、丹後時代に本絵を仕上げたという意味にも取れなくも無い。
 そして、この「後賛詞」を書いた、亡くなる一年前の天明二年(一七八三)に、蕪村は二枚の表情の異なる「芭蕉翁像」(座像)を描いている(その十三を参照)。それらの「芭蕉翁像」と、この「俳仙群会図」の、この「後賛詞」とは、やはり、何かしら縁があるように思われる。
 いずれにしろ、この「俳仙群会図」中の、無帽の座像の「芭蕉像」は、それが、元文年間の駆け出しの二十歳代のものにしろ、宝暦年間の不惑の年の四十歳代のものにしろ、蕪村の「芭蕉像」の、そのスタート地点のものであることには、いささかも変わりはない。
 そして、蕪村が亡くなる一年前の、六十七歳時の、この「俳仙群会図」の「後賛詞」の末尾に記した、「花散り月落ちて文こゝにありあらありがたや」の、この字余りの破調の句は、「花が散る、月が落ちるように、芭蕉翁、師の宋阿翁をはじめ、皆、俳仙の方々は鬼籍の人となったが、その句文は今に存して、道しるべとなっている。何とありがたいことであることか」というのは、「六十七歳・蕪村翁」の、万感の意を込めてのものであろう。
 この「俳仙群会図」は、蕪村の生涯、そして、蕪村の芭蕉観を知る上での、極めて、重要且つ示唆深い作品の一つということになろう。

俳仙群会図・芭蕉像.jpg

(蕪村筆)「俳仙群会図」(柿衛文庫蔵)「部分図」(芭蕉像)

(補記)「若冲と蕪村の『蝦蟇・鉄拐図』」より「朝滄」と「「丹青不知老(将)至」関連(抜粋)

 上記の「十二神仙図屏風」は、蕪村が不惑の齢を迎えた、その翌年(宝暦五年=一七五五)の頃の作であろうか。この掲出の右隻の第四扇と第六扇とに、杜甫の詩に由来する「丹青不知老(将)至」(丹青=画ハ将ニ老イノ至ルヲ不知=知ラズ)の遊印(好みの語句などを彫った印)を捺している。
ちなみに、この右隻(六扇)の署名と印章は次のとおりである。

第一扇 署名「四明」、印章「馬孛」(白文方印)、「四明山人」(朱文方印)
第二扇 署名「四明」、印章「四明山人」(朱文方印)、「朝子」(白文方印)
第三扇 署名「四明」、印章「四明山人」(朱文方印)
第四扇 署名「四明」、印章「丹青不知老至」(白文方印)、「朝」「滄」(朱白文連印)
第五扇 署名「四明写」、印章「馬孛」(白文方印)、「四明山人」(朱文方印)
第六扇 署名「四明図」、印章「丹青不知老至」(白文方印)、「朝子」(白文方印)

 この署名の「四明」は、比叡山の二峰の一つ、四明岳(しめいがたけ)に由来があるとされている。そして、安永六年(一七七六)の蕪村の傑作俳詩「春風馬堤曲」に関連させて、蕪村の生まれ故郷の「大阪も淀川河口に近い摂津国東成郡毛馬村(現、大阪市都島区毛馬街)」からは「遠く比叡山(四明山)の姿を仰ぎ見られたことだろう」(『蕪村の世界(尾形仂著)所収「蕪村の自画像」)とされている、その比叡山の東西に分かれた西の山頂(四明岳)ということになろう。
 そして、この四明岳は、中国浙江(せっこう)省の東部にある霊山で、名は日月星辰に光を通じる山の意とされる「四明山」に由来があるとされ、蕪村は、これらの和漢の「四明岳(山)」を、この画号に潜ませているのであろう。

 また、印章の「馬孛(ばはい)」の「馬」にも、蕪村の生まれ故郷の「毛馬村」の「馬」の意を潜ませているのかも知れない。事実、蕪村は、宝暦八年(一七五八)の頃に、「馬塘趙居」の落款が用いられ、この「馬塘」は、毛馬堤に由来があるとされている(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。

 そして、この「馬孛(ばはい)」の「孛」は、「孛星(はいせい)=ほうきぼし、この星があらわれるのは、乱のおこる前兆とされた」に由来があり、「草木の茂る」の意味があるという(『漢字源』など)。

 とすると、「馬孛(ばはい)」とは、「摂津東成毛馬」の出身の「孛星(ほうき星)=乱を起こす画人」の意や、生まれ故郷の「摂津東成毛馬」は「草木が茂る」、荒れ果てた「蕪村」と同意義の「馬孛」のようにも解せられる。

 そして、この「孛星(ほうき星)」に代わって、宝暦十年(一七六〇)の頃から「長庚(ちょうこう・ゆうづつ=宵の明星=金星)」という落款が用いられる。

 この「長庚(金星)」は、しばしば「春星」と併用して用いられ、「長庚・春星」時代を現出する。ちなみに、「蕪村忌」のことを「春星忌」(冬の季語、陰暦十二月二十五日の蕪村忌と同じ)とも言う。

 この「春星」は、「長庚」の縁語との見解があるが(『俳文学と漢文学(仁枝忠著)』所収「蕪村雅号考」)、「春の長庚(金星)」を「春星」と縁語的に解しても差し支えなかろう。と同時に、「長庚・春星(春の長庚)」の、この「金星」は、別名「太白星」で、李白の生母は、太白(金星)を夢見て李白を懐妊したといわれ(「草堂集序」)、李白の字名(通称)なのである。

 また、この「朝子・朝・滄」の印章は、「四明」と同じく画号で、蕪村の師筋に当たる宝井其角の畏友・英一蝶(初号・朝湖、俳号・暁雲)の「狩野派風の町絵師」として活躍していた頃の号「朝湖」に由来するものなのであろう。

 関東放浪時代は、落款(署名)がないものが多く、それは「アマチュア画家として頼まれるままに絵を描いているうちに画名が高くなり、やがて専門家並みに落款を用いるようになった」というようなことであろう(『田中・前掲書』)。

 その関東放浪時代の落款(署名)は、「子漢」(後の「馬孛(ばはい)=ほうき星」「春星・長庚=金星」の号からすると「天の川」の意もあるか)、「浪華四明」、「浪華長堤四明山人」、「霜蕪村」の五種で、印章は「四明山人」、「朝滄」(二種)、「渓漢仲」の四種のようである(『田中・前掲書』)。

 こうして見て来ると、蕪村の関東放浪時代と丹後時代というのは、落款(署名)そして印章からして、俳諧関係(俳号)では「蕪村」、そして絵画(画号)では「四明」「朝滄」が主であったと解して差し支えなかろう。

 その中にあって、上記(掲出)の「十二神仙図屏風」右隻の第四扇と第六扇との「丹青不知老(将)至」(丹青=画ハ将ニ老イノ至ルヲ不知=知ラズ)の遊印は、これは、蕪村の遊印らしきものの、初めてのものと解して、これまた差し支えなかろう。

 そして、あろうことか、この「丹青不知老(将)至」(蕪村の遊印には「将」は省略されている)の文字が入っている遊印を、何と、若冲も蕪村とほぼ同じ時期に使用し始めているのである(細見美術館蔵「糸瓜群虫図」など)。

 この遊印を捺す作品の中で、制作時期が判明できる最も新しい若冲作は、「己卯」(宝暦九年=一七五九)の賛(天龍寺の僧、翠巌承堅(すいげんしょうけん)の賛)のある「葡萄図」で、蕪村作では、庚辰(宝暦十年=一七六〇)の落款のある「維摩・龍・虎図」(滋賀・五村別院蔵)である。

 しかし、この蕪村の「維摩・龍・虎図」の制作以前の、丹後時代の宝暦九年(一七五九)前後に、上記(掲出)の「十二神仙図屏風」は制作されており、そして、この「十二神仙図屏風」中の、この遊印の「丹青不知老(将)至」が使用さている右隻の第四扇の図柄などは、この遊印のの由来となっている、杜甫の「丹青の引(うた)、曹将軍(そうしょうぐん)に贈る詩」などと深く関係しているようにも思われるのである。

 すなわち、この右隻の第四扇は、「龍に乗る呂洞寶(りょどうひん)」とされているが(『生誕二百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村』図録)、呂洞寶としても、杜甫の「丹青引曽将軍贈」の詩の二十三行目に、「斯須九重真龍出」と「龍」(龍の語源の由来は「速い馬」)が出て来るし、それに由来して、七行目の「丹青不知老(將)至」の遊印を使用しているということは十分に考えられる。

 さらに、この右隻の第四扇は、呂洞寶ではなく「龍の病を治した馬師皇(ばしこう)」としているものもある(『与謝蕪村―翔けめぐる創意(MIHO MUSEUM編)』図録所収)。確かに、呂洞寶は剣を背にして描かれるのが一般的で、蕪村の描く「十二神仙図押絵貼屏風」中の右隻の第四扇の人物は、病気に罹った龍を治したとされる「馬師皇」がより適切なのかも知れない。

 そして、これを馬師皇とすると、杜甫の詩の「丹青引曽将軍贈」の内容により相応しいものとなって来るし、蕪村の遊印の「丹青不知老至」を、この人物が描かれたものに押印したのかがより鮮明になって来る。

 さらに、この「作品解説」(『与謝蕪村―翔けめぐる創意(MIHO MUSEUM編)』図録所収)で重要なことは、『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM 編集)』図録所収)の「作品解説」の、「大岡春卜の『和漢名筆 画本手鑑』(享保五年=一七二〇刊)の掲載図など、版本の図様を参考にした可能性が指摘されている」を、「右隻第一扇の黄初平図が、享保五年(一七二〇)に刊行された大岡春卜(一六八〇~一七六三)の『画本手鑑』に載る『永徳筆黄初平図』に類似するとの指摘もあり(人見少華『蕪村の画系を訪ねて』『南画鑑賞』八―一〇、一九三九年)、示唆に富む。右隻第四扇の龍も、同書の『秋月筆雲龍図』とよく似ており、こうした版本の図様を参考にした可能性も考えられよう」と、具体的に解説されているところである。



蕪村が描いた芭蕉翁像(十~十二)

(その十)逸翁美術館蔵の「芭蕉翁立像図」(蕪村筆)

逸翁美術館芭蕉立像白黒 .jpg

『蕪村・逸翁美術館品目録』所収「107芭蕉翁立像図」(白黒図)

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「91『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

絹本淡彩 一幅 九八・二×三二・〇cm
款 「夜半亭蕪村写」
印 「謝長庚」「春星氏」(白文連印)
賛  人の短をいふことなかれ
   おのれか長をとくことなかれ
  もの云へは唇寒し秋の風
逸翁美術館蔵

 この「芭蕉翁立像図」と前回取り上げた許六に倣ったとされる「芭蕉翁図」とは、賛の前書きと発句は同じであるが、前者は細長い竹杖を抱えての旅装の芭蕉像、そして、後者は、空の一方を凝視している吟詠中の芭蕉像と、趣向も構成も異なっているものと解したい。
 ここで、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に収録されている十一点について、
これまでに取り上げたものと、今後取り上げていく予定のものを記すと、次のとおりとなる。

① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)→(その七)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)→(その八)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九作。金福寺蔵)→(その六)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)→(その九)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)→(その十一)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)→(その十)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)→(その九)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)→(その十三)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)→(その十三)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)→(その十二)
⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)→ (その一)

 これら十一図の芭蕉像(蕪村筆)を、七点の座像と四点の立像を区分けして、「蕪村の
描いた芭蕉(早川聞多稿)」(「国文学解釈と鑑賞837与謝蕪村―その画・俳二道の世界」所収)の中で、次のように指摘している。

「(これらの)七点の座像と四点の立像の間には明らかな相違があるやうに思へてくる。それは端的にいつて、座する芭蕉像がある安定感を醸し出してゐるのに対して、立ち姿の芭蕉像(二図は旅姿、二図は歩く姿)にはどこかに移り行く変化(へんげ)の感が漂つてゐる(注、図4→上記の⑤半身像→「その十一」で取り上げる)」。
 そして、さらに、次のように続ける。
「さて四点の立ち姿の芭蕉像を見比べると、そのうちの二点(注、上記の『⑥ 全身蔵』と『⑦ 全身像』)が座像を含めた他の肖像画と大きく異なってゐる」として、その一つに、「賛の句が一句のみで、しかも両図とも同一句であるという点である。その賛とは、『人の短をいふことなかれ/おのれが長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風』といふもので」とし、その内の一点」の、上記の許六に倣ったとされる「⑦ 全身像」(前回に取り上げたもの)に触れている。
 そこで、次のような見解を述べられている。
「虚空を見上げる芭蕉の視線の先に、芭蕉の座右の銘であった『人の短をいふことなかれ/おのれが長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風』といふ言葉があれば、見る者は自ずと自らの言動を省みることにならう。そして蕪村はこの芭蕉像を見るのが先づもつて当代の俳人たちであることを承知してゐた筈である。といふことは、蕪村が本図において賛を変へたのは、それが単に芭蕉の尊い人生訓だつたからだけではなく、暗に蕉風復興運動の風潮に対する批判と反省を表すためだつたやうに思われる。」

 これらに関して、「蕪村が本図(「⑦全身像」)において賛を変へた」のは、蕪村の「許六と素堂への挨拶句的なことと捩り句的なことを包含した」もので、それは其角・巴人に連なる江戸座の「洒落風俳諧」の一端を利かせているものだということについては、前回で触れた。
 さらに、それらに付け加えることとして、「蕉風復興運動の風潮に対する批判と反省を表す」ものというよりも、蕪村の夜半亭二世継承などを巡っての書簡(明和七年頃の几董宛書簡)に出て来る、「京師之人心、日本第一の悪性(京都の人心は日本一の悪性)」などの、一部の慇懃無礼な京都俳人への警鐘の意味合いも、この前書きのある句の賛の背後に潜ませているようにすら思えるのである。
 このことは、芭蕉自身、元禄三年(一六九〇)四月十日付、此筋・千川(大垣藩士の蕉門の俳人)宛書簡で、「菰を着て誰人います花のはる」(芭蕉の「歳旦句」)に関連して、「京の者共はこもかぶり(乞食)の句を引付の巻頭に何事にやと申候由、あさましく候。例の通(とほり)、京之作者(京都の俳人)つくし(尽くし=尽きている)たる」との、京都人への非難を、今に遺している。
 この芭蕉の、京都俳人への痛烈な非難の思いは、蕪村も等しく抱いていたことであろう。

 ここで、『⑦ 全身像』(前回取り上げた)ではなく、「五老井(許六)図・素堂句」と関係の無い、ただ、「人の短をいふことなかれ/おのれが長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」の賛だけが同じの、冒頭の「芭蕉翁立像図」(上記の『⑥ 全身蔵』)を鑑賞すると、次のような総括的な思いを抱くのである。
 なお、この「芭蕉翁立像図」は「絹本淡彩」で、他の「絹本淡彩」(「① 座像」「⑤ 半身像)」など)と同じ色調のものなのであろう。

一 蕪村の丹後時代に、その閲覧を渇望した百川筆「芭蕉翁像」(その二で取り上げている)と、その賛が全く同じで、この賛は、百川との関係を抜きにしては片手落ちになる。

二 蕪村の立像(上記の「② 半身像」「⑤ 半身像」「⑥ 全身蔵」「⑦ 全身像」)は、何れも、金福寺の芭蕉庵の再建と関連していて、その意味で、蕪村が金福寺に奉納した、上記の「③ 座像」の「芭蕉翁図」(その六)と何らかの関係を有しているように思われる。

三 上記の「芭蕉翁像」(十一点の座像と立像)は、主として芭蕉忌などにの俳筵興行などのもので、その俳筵の作法と、「人の短をいふことなかれ/おのれが長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」の賛は関係しているようにも思える。また、その背後には、当時の「蕉風復興運動」や「保守的な京都俳壇との葛藤」などの、俳諧師としての蕪村のアイロニカル的な視線も感じられる。

その十一)西岸寺任口上人を訪いての半身像の「芭蕉翁図」(蕪村筆)

西岸寺芭蕉立像.jpg

『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村』展図録「102 松尾芭蕉図」

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「90『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

絹本淡彩 一幅 九六・二×三二・二cm
款 「蕪村拝写」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛  
 西岸寺任口上人を訪ひて
我きぬにふしみのもゝの雫せよ
ほとゝきす大竹原をもる月夜
はせを野分して盥に雨をきく夜哉
海くれて鴨の声ほのかに白し
あさよさにたれまつしまそかたこゝろ
個人蔵

『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村』展図録「102 松尾芭蕉図」の「作品解説」(石田佳也稿)は次のとおりである。

[ 蕪村が描いた芭蕉像は十点以上が知られるが、図様から座像と立像に大別される。このうち、立像はさらに足元までを描いた全身像と、腰あたりまでを描いた半身像に分けられる。ここでは道服に頭巾を被り、手は袂の中に入れる半身像で、頭陀袋を杖に結んで左肩に担いでおり、旅姿であることが強調されている。芭蕉を追慕する風潮から、俳諧師による旅や行脚が流行したこともあって、旅姿の芭蕉像への需要が高まったと推定されるが、本図の賛として選ばれた芭蕉の句の大半が、旅の途上で詠まれた句であることも注目される。「蕪村拝写と署名があり、「長庚」「春星」(朱白文連印)を捺す。  ]

 上記の賛の一句目の前書き「西岸寺任口上人を訪ひて」は、『野ざらし紀行』では「伏見西岸寺任口上人に逢て」である。この任口上人は、東本願寺門下の京都伏見西岸寺第三代住職宝誉上人で、松江重頼門の俳人で、俳号は任口である。
 芭蕉が門人千里(ちり)を伴って、『野ざらし紀行』の旅に江戸を出立したのは、貞享元年(一六八四)八月中旬、東海道を下り、伊勢を経て、九月八日に郷里上野に帰る。数日逗留して、大和・吉野・山城を美濃の大垣に谷木因を訪ねる。初冬、熱田に入り、名古屋で『冬の日(尾張五歌仙)』を巻き上げる。十二月二十五日に、再び上野に帰り、郷里で越年する。
 明けて貞享二年(一六八五)二月に故郷を出て、奈良のお水取りの行事を見たのち、京都・大津に滞在する。二月下旬から三月上旬にかけて、京都(伏見)の任口上人を訪れたのであろう。
 三月中旬過ぎに大津を立ち、熱田・鳴海で俳席を重ね、四月十日に鳴海を立ち、名古屋・木曽路・甲州路を経て月末に江戸に帰着する。この貞享元年から二年の九カ月に及ぶ旅の紀行が『野ざらし紀行』(別名『甲子吟行』)である。

 上記の五句に創作年次などを付記すると次のとおりである。

 西岸寺任口上人を訪ひて
我きぬにふしみのもゝの雫せよ(貞享二年・一六八五、四十二歳、伏見、『野ざらし紀行』)
ほとゝぎす大竹原(藪)をもる月夜(元禄四年・一六九一、四十八歳、嵯峨、『嵯峨日記』)
はせを野分して盥に雨をきく夜哉(延宝九年・一六八一、三十八歳、深川、『武蔵曲』)
海くれて鴨の声ほのかに白し(貞享元年・一六九四、四十一歳、尾張、『野ざらし紀行』)
あさよさにたれまつしまそかたこゝろ(元禄二年・四十六歳、松島を想う、『桃舐集』)

 これらの五句を賛した蕪村の芭蕉像のイメージというのは、ずばり、芭蕉の「四十代」をイメージしてのものなのであろう。そして、それは、芭蕉七部集の第一撰集『冬の日』の時代をイメージしてのものなのであろう。そして、上記の五句目での、次の旅の「奥の細道」の「松島」の句を据えて、「漂泊の詩人・芭蕉」をイメージしているのであろう。

 ここで、あらためて、この賛の冒頭の前書きの「西岸寺任口上人を訪ひて」の、この「任口上人」に焦点を当てたい。

 この「任口上人」についての画像を、蕪村は、元文年間(二十年代前半)の作としている後賛詞(「元文のむかし余若干の時写したるものにして」)のある「俳仙群会図(一幅)」を今に遺している(この作品の制作時期については、丹後時代(四十代前半)とする説もあり、署名が「朝滄」、印が「丹青不知老死」で、丹後時代の作と解するのが妥当であろう)。
 いずれにしろ、蕪村の「元文年間(二十年代前半)又は丹後時代(四十代前半)」に描いた芭蕉像(「俳仙群会図」中の芭蕉座像)と、この、蕪村の金福寺の芭蕉庵再興の頃(六十歳代)に描いたと思われる、この「芭蕉立像(半身像)」とは、「任口上人」を介しての、謂わば、姉妹編と解すべきことも可能であろう。
 蕪村の「俳仙群会図」の俳人群像は、「守武・長頭丸(貞徳)・貞室・宗鑑・梅翁(宗因)・芭蕉・やちよ・嵐雪・其角・園女・おにつら(鬼貫)・支考・宋阿・任口」の十四人で、これらの俳人は、俳諧の祖の「守武・宗鑑」、そして、江戸前期の「貞門(貞徳・貞室)、貞徳(任口)、談林(宗因)、伊丹派(鬼貫)、蕉門(芭蕉。其角・嵐雪)、蕉門・江戸座(宋阿)、蕉門・美濃派(支考)、女流(園女・やちよ)」と、江戸中期の天明俳壇に位置する蕪村が、生前に面識のある俳人は、内弟子として仕えた蕉門・江戸座の其角系の俳人、宋阿(夜半亭一世・早野巴人)一人ということになろう。
 そして、それ以外の面識のない十三人の俳人に関しては、すべからく、師の宋阿などを介しての情報・資料に基づいて、この「俳仙群会図」を描いたのであろう。この任口上人については、宋阿の師・其角の『雑談集』などに因るもののように思われる。
 また、宋阿が興した夜半亭俳諧を蕪村が継承した明和七年(一七七〇)当時、京都の伏見には、「鶴英・柳女(鶴英の妻)・賀瑞(鶴英の娘)」などが中心になって、夜半亭俳諧の結社が出来ており、冒頭の「「芭蕉翁図」は、その伏見の連衆に懇望されて制作したものなのかも知れない。
 というのは、蕪村没後の天明四年(一七八四)に、夜半亭三世となる几董は、蕪村追悼集の『から檜葉』を刊行するとともに、この任口上人の百年の祥忌に際して、伏見の西岸寺で伏見の俳人たち(賀瑞ら)と歌仙を巻き、それらを『桃のしづく』(半紙本一冊)として刊行している。
 これらのことと、冒頭の「芭蕉翁図」、そして、画人蕪村のスタート地点の、芭蕉・宋阿・任口上人の座像を描いている「俳仙群会図」と、何処かしら結びついているような、そんな雰囲気を醸し出しているのである。

俳仙群会図・部分.jpg

「俳仙群会図」(蕪村筆)部分図(柿衛文庫蔵)
右端・芭蕉、右手前・やちよ、中央手前・其角、中央後・園女
左端手前・任口上人、左端後・宋阿(夜半亭一世、蕪村は夜半亭二世)

その十二 暒々翁に倣った「芭蕉翁像」(蕪村筆)

逸翁・座像.jpg

『蕪村・逸翁美術館蔵品目録』所収「18芭蕉翁像」(白黒写真)

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「102『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

紙本淡彩 一幅 一一七・〇×三八・二cm
款 「倣暒々翁墨意 謝寅」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛  真率其性風 雅斯宗偉哉 此翁厥声無窮 従三位具選題
逸翁美術館蔵

 上記の落款にある「倣暒々翁墨意 謝寅」の「暒々翁」とは、江戸中期の蕪村の次の世代の戯作者・浮世絵師として名高い「山東京伝」(本名は岩瀬醒《さむる》、江戸深川の生まれ、画号・北尾政演等々。錦絵だけではなく多くの戯作・狂言本などに挿絵を描いている)であろう。
 蕪村が享保元年(一七一六)の生まれとすると、山東京伝は宝暦十一年(一七六一)の生まれ、両者の年の開きは四十五歳程度と、この落款の「倣暒々翁墨意」というのは、老翁の「俳諧師・挿絵画家・蕪村」が、新進気鋭の「黄表紙戯作者・挿絵画家・山東京伝(暒々翁)」の、「倣暒々翁墨意」との「新しい感覚」を期待してのものなのかも知れない。
 蕪村の、この落款の「倣暒々翁墨意」の「暒々翁」(山東京伝)には驚かされるが、この賛をした人物の「従三位具選」(岩倉具選)にも驚かされる。
 岩倉具選(ともかず)は、宝暦七年(一七五七)の生まれ、岩倉家七世の祖。公卿としては主に後桜町上皇に仕え、その院別当などを務めた。剃髪号可汲。詩文・書画を能くし、篆刻を、池大雅の朋友、高芙蓉に学んでいる。
 蕪村との年齢差は、四十一歳の開きがあり、具選は山東京伝と同時代の、共に、江戸中期・後期の日本史の一角にその名を占めている人物である。
 この一幅に関係している群像の、「松尾芭蕉・与謝蕪村・岩倉具選・山東京伝」と、実に豪華な顔ぶれなのである。どうしてこういうものが生まれたのか、興味深々たるものがある。
 さて、この岩倉具選は、蕪村没後の天明八年(一七七八)に従三位に達して公卿に列し、寛政八年(一七九六)には蟄居となっている。とすると、この蕪村画に具選が賛をしたのは、天明八年(一七七八)から寛政八年(一七九六)の間ということになる。
 とすると、堂上人・具選と、一介の町絵師兼俳諧師・蕪村とは、同じ京都に住んでいても、活躍する時代も違うことなどからして、面識はなかったと解するのが妥当であろう。
 とすると、この一幅に関係している「松尾芭蕉・与謝蕪村・岩倉具選・山東京伝」の四人は、生前に何らかの面識なり交友関係はなかった解すべきなのであろう。

 では、次に、この蕪村の「倣暒々翁墨意」とは何を意味し、そして、具選は、蕪村の、この落款をどのように解したかという謎なのである。
 これは、江戸期に流行した絵入り娯楽本の「赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻」を背景にしているように思われる。
 「赤本」は、芭蕉の時代(元禄期)に盛んであって、「昔話・絵解き」などの子供向けが多かった。続く「黒本」は。蕪村の時代(延享・宝暦期)に流行し、「軍記物・浄瑠璃・歌舞伎」などで、蕪村は、この「黒本」と次の「青本」とに深く関わっている。
 「青本」(明和・安永期に盛んであった)は、「遊郭・滑稽・諧謔」物が増えてくる。この「青本」は、安永末期から天明期以降、知識層向け文芸作品を主とした「青本」とは別に、「洒落・滑稽・諧謔を交えて風俗・世相を漫画的に描き綴る」ところの「黄表紙」の時代となって来る。
 この「黄表紙」時代のチャンピオンが「山東京伝」に他ならない。続く、「合本」というのは、蕪村は知らない文化元年(一八〇四)の頃から登場する、「黄表紙」の長編化したもので、その代表選手達が、「山東京伝・式亭三馬・十返舎一九・曲亭馬琴、柳亭種彦」等々である。
 さて、この蕪村の「倣暒々翁墨意」とは、「倣暒々翁之『黄表紙』之墨意」と置き換えても良いのではなかろうかという仮説なのである。
 山東京伝の「黄表紙」の挿絵というのは、「狂歌・狂句(川柳)」の言葉尻ですると「狂画(黄表紙)」と名付けても差し支えなかろう。この「狂歌・狂句・狂画」の「狂」とは、「正当」(雅)に対する「異端」(俗)を意味しよう。
 蕪村は、しばしば、落款などに、「戯画・酔画」などの用語を用いているが、それを一歩進めて、「倣暒々翁墨意」とは、微温的な上方の「戯画・酔画」のそれではなく、俗に徹した江戸生まれの山東京伝らの「狂画」の世界をも摂取しようとしている、その心意気を示したものと理解をしたいのである。

 具体的には、冒頭の黒白写真では、それらを判然と指摘することはできないのだが、その顔の表情などを見ると、目は二つの小さな点、それに比して、特徴の鼻など、全体として、ユーモラスの「芭蕉翁像」という印象を受けるのである。
 それに比して、このユーモラスな俗調の「芭蕉翁像」に対する、篆刻の大家である具選の書は、何とも隷書体の高雅の世界のもので、その違和感を醸し出していると共に、また、そのアンバランスが、その画と書との余白と共に、独特の世界を形作っているように思われる。
 ここで、具選は、蕪村の、この「芭蕉翁像」と落款・署名の「倣暒々翁墨意 謝寅」を、どのように解したかということについて触れて置きたい。
 その前に、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に収録されている下記の十一点中、署名が「謝寅」になっているのは、この「⑩ 座像(左向き、褥なし、款『倣睲々翁墨意 謝寅』。逸翁美術館蔵)」だけなのである。
 他の十点の署名は、「夜半亭蕪村」か「蕪村」かである。凡そ、これらの「俳画」(「俳諧物之草画」)の人物画に属する作品の署名は、「蕪村」と署名するのが通例であって、安永七年(一七七八)から没する天明三年(一七八三)の足掛け六年間の蕪村の晩年の栄光の画号である「謝寅」は、所謂、「謝寅書き」と称せられる、蕪村の傑作画に署名されるものというのが、一般的な理解であろう。

 とにもかくにも、蕪村が、この片々たる一幅に、「謝寅」の署名をしたということは、少なくても、下記の十一点の「芭蕉像」の中では、蕪村が最終的に到達した傑作画に該当するものとして理解すべきものなのかも知れない。
 そして、それは、晩年の芭蕉が到達した「軽み」(日常卑近な題材の中に新しい美を発見し、それを真率・平淡に表現する俳諧理念)の世界と軌を一にするものであって、その意味で、この「芭蕉翁像」は、蕪村の新境地の「軽み」の世界のものと鑑賞することも可能であろう。
 そして、具選の賛の芭蕉をして「真率其性風」を、蕪村の、この「芭蕉翁像」の中に、蕪村の「真率其性風」を見て取ったのかも知れない。そして、具選は、この蕪村の署名の「謝寅」に万感の意を感じ取って、己の「真率其性風」の書体を以て賛をしたと解したいのである。
 さらに、具選は、蕪村の落款の「倣暒々翁墨意」の「暒々翁」から、江戸で一世を風靡している「黄表紙」の世界を連想し、その「黄表紙」「青本」の特徴である、挿絵(狂画・戯画)と文(戯作)とが半分半分の体裁を取って、大きな余白を取り、江戸の「黄表紙」ならず、上方の「黄表紙」スタイルを意識してのもののようにも思われる。

① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)→(その七)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)→(その八)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九作。金福寺蔵)→(その六)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)→(その九)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)→(その十一)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)→(その十)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)→(その九)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)→(その十三)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)→(その十三)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)→(その十二)
⑫ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)→ (その一)

(追記)

「『倣暒々翁墨意 謝寅』の『暒々翁』とは、江戸中期の蕪村の次の世代の戯作者・浮世絵師として名高い『山東京伝』(本名は岩瀬醒《さむる》、江戸深川の生まれ、画号・北尾政演等々。錦絵だけではなく多くの戯作・狂言本などに挿絵を描いている)であろう」は、訂正する必要があるように思われる。

 この「暒々翁」は、「松花堂照乗」(一五八四~一六三九)の別号である。「
暒々翁」は、「惺々翁」の誤記のようである。(『逸翁美術館・柿衛文庫編『蕪村(没後220年)』)所収「二五 蕪村筆芭蕉翁図」

松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう、天正10年(1582年) – 寛永16年9月18日1639年10月14日))は、江戸時代初期の真言宗僧侶、文化人。俗名は中沼式部の出身。豊臣秀次の子息との俗説もある。

書道、絵画、茶道に堪能で、特に能書家として高名であり、書を近衛前久に学び、大師流定家流も学び,独自の松花堂流(滝本流ともいう)という書風を編み出し、近衛信尹本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」と称せられた。なお松花堂弁当については、その名が昭乗に間接的に由来するとする説がある

また、その賛の「従三位具選題」についても「銀青光緑大夫」 との括弧書きがある。

蕪村が描いた芭蕉翁像(七~九)

その七)江東区立芭蕉記念館の「芭蕉翁像」(蕪村筆)

 先に(その一で)、蕪村が描いた芭蕉像は、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』では、下記の十一点が収録されていることについて触れた。

① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九作。金福寺蔵)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)
⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)

 前回(その六)の金福寺の「芭蕉自画賛」(蕪村筆)は、上記の「③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九作。金福寺蔵)」である。
 今回は、「① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)」について触れたい。
 なお、『図説日本の古典14芭蕉・蕪村』所収「芭蕉から蕪村へ(白石悌三稿)」によると、上記の、金福寺の「芭蕉自画賛」(蕪村筆)に関連して、蕪村は、同時に、芭蕉像を他に二点ほど描いているということについて触れたが、この他の二点というのは、上記の「① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作)と「② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作)」を指しているのかも知れない。
 そして、この三点のうち、①②は円筒型(丸頭巾型)の白帽子、③は長方形型(角頭巾型)の白帽子と、何れも白帽子であることが興味深い。

芭蕉記念館・芭蕉像(蕪村筆).jpg

江東区立芭蕉記念館蔵「芭蕉翁像」(蕪村筆・部分)

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「86『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

絹本淡彩 一幅 九三・九×四〇・〇cm
款 「夜半亭蕪村拝写 干時安永己亥冬十月十三日」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛 下掲
安永八年(一七七九) 江東区立芭蕉記念館蔵
(賛)
(上段)
ほうらいに聞はやいせの初便
※花にうき世我我酒白く飯黒し
※ふる池やかはす飛こむ水の音
※ゆく春や鳥啼魚の目は泪
※夏ころもいまた虱をとりつくさす
※おもしろふてやかてかなしきうふね哉
※いてや我よき衣着たり蝉衣
さみたれに鳰のうき巣を見に行む
馬に寝て残夢月遠し茶の煙    ※※
此道を行人なしに秋のくれ
※名月や池をめぐりてよもすから
※はせを野分して盥に雨をきく夜かな
※世にふるもさらに宗祇のやとりかな
曙や白魚白き事一寸
寒きくや粉糠のかゝる臼のはた
としくれぬ笠着て草鞋はきなから

(中段)
  杜牧か早行の残夢小夜の
  中山にいたりて忽驚く
馬に寝て残夢月遠し茶の煙    ※※ 
  三井秋風か鳴滝の山家をとひて
梅白しきのふや鶴をぬすまれし
   伏み西岸寺任口上人をとふ
我衣にふしみのもゝの雫せよ
   人の短を言事なかれ
   おのれか長をとくことなかれ
もの云へは唇寒し秋の風

(下段)※※
早行残夢の句 一喝三嘆口吟しやむことあ
たはす されははしめに書したるを忘れて
又書す こいねかはくは其再復をとかむる
事なかれ 夜半亭(花押)

(説明)
 上記の※の句は、「88『芭蕉像』画賛」にも記されている句である。※※の句は、蕪村が間違って、上段と中段に二度記しているものである。そして、下段の※※で、その間違ったことを記している。
 これらの賛が、上記の上に、三段に分けて(上段・中段・下段)、記されている。

(その八)『蕪村(潁原退蔵著・創元選書)』口絵で紹介された「芭蕉翁像」(蕪村筆)

 『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』で紹介されている、先に触れた「② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)」は、『蕪村(潁原退蔵著・創元選書)』口絵で紹介されたものである。
 その「後記」で、「第二図(口絵の第二図)は蕪村筆の芭蕉翁像で、京都堀井静氏の蔵にかゝる。蕪村の筆になる芭蕉の像は、すでに知られたものがかなり多いが、これは本書によって初めて紹介された作である」と記されている。
 初版発行は、昭和十八年(一九四三)一月二十日で、太平洋戦争の真っ只中の頃である。この年の十月、明治神宮外苑競技場で「学徒出陣壮行会」が挙行された年である。
 この著の「序」(昭和十七年秋)で、「共に蕪村を語った若い友は、今召されて南支の野にある。もう間もなくこの書も世に出るであらう。友の武運のめでたさを祈りながら、まづ一本を遠く彼の野に送りたいと思つて居る」と記されている。
 蕪村が、この「芭蕉翁像」を描いたのは、その落款に「安永己亥冬十月十三日写」とあり、安永八年(一七七九)十月十三日の作で、この落款の日付は、江東区立芭蕉記念館蔵の「芭蕉翁像」の「干時安永己亥冬十月十三日」と、全く同じ日の作ということになる。
 さらに、金福寺蔵の「芭蕉翁像」の落款が、「安永己亥冬十月写」で、この三本の作品は、同一時の作品群と解して差し支えなかろう。
 それにしても、その一本が、その制作時より一世紀半以上の時の経過の後に、謂わば、学徒出陣の若き学徒に捧げられたということは、名状しがたき感慨が去来して来る。

選書・芭蕉像.jpg

『蕪村(潁原退蔵著・創元選書)』口絵「芭蕉翁像」


『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「87『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

絹本淡彩 一幅
款 「安永己亥冬十月十三日写 於夜半亭 蕪村拝」
印 一顆(印文不詳) 「春星」(白文方印)
賛 下掲
安永八年(一七七九)『蕪村』(創元選書)
(賛)
※ほうらいに聞はやいせの初便
※※花にうき世我我酒白く飯黒し
うぐいすの笠落したる椿かな
※※行春や鳥啼魚の目はなみだ
※※夏ころもいまた虱をとりつくさす
ゆふかほや秋はいろいろの瓢かな
※※おもしろふてやかてかなしきうふねかな
この辺目に見ゆるものみな涼し
  杜牧か早行の残夢小夜の
  中山にいたりて忽おとろく
※馬に寝て残夢月遠し茶の煙    
※この道を行人なしに秋のくれ
※※はせを野分して盥に雨をきく夜かな
※※名月や池をめぐりて通宵
※※世にふるもさらに宗祇のやとりかな
海くれて鴨の声ほのかに白し
  三井秋風か鳴滝の山家をとひて
※梅白しきのふや鶴をぬすまれし
  伏見西岸寺任口上人を訪
※我衣にふしみのもゝの雫せよ
※さみたれに鳰のうき巣を見に行む
粟稗にまつしくもあらす艸の菴
※寒きくや粉糠のかゝる臼のはた
※としくれぬ笠着て草鞋はきなから

(説明)
上記の※の句は、「86『芭蕉像』画賛」にも記されているもの。※※の句は、「86『芭蕉像』画賛」と「88『芭蕉像』画賛」との両方に記されているものである。また、『蕪村(潁原退蔵著・創元選書)』も『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』とも、白黒の写真だが、この画は「絹本淡彩」であり、「86『芭蕉像』画賛」(絹本淡彩)と同じ日に制作されていることに鑑みて、それと同じ色調の淡彩仕上げのものであろう。

(その九)許六に倣った全身像の「芭蕉翁図」(蕪村筆)

許六倣芭蕉像.jpg

『蕪村展(茨城県立歴史館 1997)』)所収「44芭蕉翁図」(蕪村筆) 

 平成九年(一九九七)十月十日から十一月十三日に茨城県立歴史館で開催された特別展「蕪村展」で、蕪村が渇望した百川筆「芭蕉翁像(「七〇 参考 芭蕉翁像 彭城百川筆 紙本墨画 )が初公開された、その図録中に、それと並列して、この「四四 芭蕉翁図」が収載されている。

 その作品解説は次のとおりである

[ 蕪村は、多くの芭蕉翁図を描いたようで、『蕪村事典』(桜楓社) によれば、それらの総数十二点にも及ぶ。これは、蕪村の芭蕉翁図中最も優れた作品である。賛中の「これは五老井か図せる蕉翁の像なり」の五老井とは、森川許六のこと。芭蕉門下の俳人で、狩野派の画技にすぐれ、信頼に足る芭蕉画像を遺したという。その許六の芭蕉翁像に倣ったとあるから、芭蕉の風貌をよく伝える作品ということになる。なおこの作品については、「芭蕉翁図」について(一〇二頁)と、彭城百川が描く芭蕉翁像(七〇)も、併せて参照されたい。百川の描く僧衣をまとった芭蕉翁像に対し、蕪村は、唐服姿の芭蕉像を描いた。ついでながら、本作品とは顔の向きとその風貌のみを異なにし、他の構成をほぼ同じくする作品、「芭蕉翁立像図」(逸翁美術館蔵)が伝わることを付記しておきたい。  ]

 この「作品解説」中の「『芭蕉翁図』について(一〇二頁)」は、「結城下館時代の蕪村について二、三」(茨城県立歴史館学芸員 北畠健稿)の「『芭蕉翁図』について」で、その内容は次のとおりである。

[ (前略) 蕪村書簡に、「愚老むかし関東に於て、許六が画の肖像に素堂の賛有之物を見申候 厳然たる真蹟 伝来正きものに候 其像之面相は 杉風が画たる像とは大同小異有之候 許六が画たるも 翁現世の時之画と相見え候 杉風・許六二画の内、いづれが真にせまり候や 無覚束候 愚老が今写する所は、右二子の画たる像を参合して写出候 (略) 」
と記されている。
 ここで言う関東とは、江戸のことか、あるいは江戸以外の関東のことか分からないが、とにかく、関東において見た「芭蕉翁像」の記憶を基にして、今、自分の芭蕉翁像を描くという、非常に興味深い内容である。「芭蕉翁像」といえば、百川が描いた「芭蕉翁像」のことがよく取り沙汰されるが、蕪村は、許六の、さらには杉風の作品をも念頭において、「芭蕉翁像」を制作していたのである。許六は、最も信頼に足る「芭蕉翁像」を遺したことでも知られているから、その意味でも、蕪村の「芭蕉翁像」を再考して見る必要があるように思われる。また、関東時代にこのような優れた作品に接し、いよいよ、画嚢を豊かにしていたことをも窺わせる書簡ではある。 ]

 ここに引用されている蕪村書簡は、安永末年(一七八〇)から天明三年(一七八三)の間と推定される、大津の俳人、(伊東)子謙宛てのものであるが、この書簡に出て来る「許六が画の肖像に素堂の賛有之物」は、現存していないようである(『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)』)。
 また、「作品解説」中の、「本作品とは顔の向きとその風貌のみを異なにし、他の構成をほぼ同じくする作品、『芭蕉翁立像図』(逸翁美術館蔵)が伝わる」とされているが、この逸翁美術館蔵の「芭蕉翁立像図」は、次回(その十)で取り上げるが、細長い杖を片手に抱えている旅姿の芭蕉像で、この許六に倣ったとされる全身像の「芭蕉翁図」とは、「ほぼ構成を同じくする」ということについては、否定的に解したい。
 ただ、賛の前書きと発句とは同じであるが、この許六に倣ったとされる「芭蕉翁図」は、その後書きに、「これは五老井か図せる蕉翁の像なり/句は めい月や池をくりて終夜 也/それを坐右の銘の句に書かへ侍る」とあり(逸翁美術館蔵「芭蕉翁立像図」には無い)、この後書きに、蕪村特有の「遊び心」が見え隠れしているということを付記しておきたい。
 それは、蕪村の、この画を描いた許六と、それに賛をした素堂への挨拶句的なことと捩り句的なこととを包含した賛のように理解をしたいのである。
 すなわち、「芭蕉翁の高弟・許六先生が描いた空を見上げている『芭蕉翁図』に、翁の盟友・素堂先生が、名月を見ていると解して、『めい月や池をめぐりてよもすがら』の賛をしているが、私(蕪村)は、この許六先生の『芭蕉翁図』に、素堂先生の名月ならず、翁の『座右之銘/人の短をいふことなかれ/おのれが長を説ことなかれの』の前書きがある『もの云へば唇寒し秋の風』の句を、その前書きともども、この図の賛にしたい。その心は、この翁は、『よけいなことをしゃべっている』わいと、ただ、『秋風が吹いて、唇が寒々としている』だけなのです・・・、と、『どうでしょうか、みなさん』・・・」と、其角→巴人→蕪村に連なる「江戸座」の、夜半亭蕪村の賛のように解したいのである。

 なお、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「92『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

紙本墨画 一幅半切 一三六・〇×三五・〇cm
款 「蕪村写」
印 「謝長庚」「春星氏」(白文連印)
賛  人の短をいふことなかれ
   おのれか長を説ことなかれ
  もの云へは唇寒し秋風
   これは五老井か図せる蕉翁の像なり
   句は めい月や池をめくりて終夜 也
   それを坐右の銘の句に書かへ侍る
『蕪村遺方』


蕪村が描いた芭蕉翁像(四~六)

その四 若冲周辺と若冲の「松尾芭蕉図」

 2015年3月18日(水)~5月10日(日)まで、サントリー美術館で、「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展が開催された。その出品作の一つに、若冲の「松尾芭蕉図」がある。その図と解説記事などを掲載して置きたい。

「102 松尾芭蕉図」(石田佳也「作品解説」)
伊藤若冲筆 三宅嘯山賛 紙本墨画 一幅 江戸時代 寛政十二年(一八〇〇)筆 寛政十一年(一七九九)賛 一〇九・〇×二八・〇
 若冲が描いた芭蕉像の上方に、三宅嘯山(一七一八~一八〇一)が、芭蕉の発句二句を書く。三宅嘯山は漢詩文に長じた儒学者であったが、俳人としても活躍し宝暦初年には京都で活躍していた蕪村とも交流を重ねた。彼の和漢にわたる教養は、蕪村らが推進する蕉風復興運動に影響を与え、京都俳壇革新の先駆者の一人として位置づけられている。
 なお、嘯山の賛は八十二歳の時、寛政十一年(一七九九)にあたるが、一方、若冲の署名は、芭蕉の背中側に「米斗翁八十五歳画」とあり「藤汝鈞印」(白文方印)、「若冲居士」(朱文円印)を捺す。この署名通りに、若冲八十五歳、寛政十二年(一八〇〇)の作とみなせば、「蒲庵浄英像」(作品166)と同様に、嘯山が先に賛を記し、その後に若冲が芭蕉像を描き添えたことになる。しかし改元一歳加算説に従えば、嘯山が賛をする前年の若冲八十三歳、寛政十年に描かれたことになり、若冲の落款を考察する上では重要な作例となっている。
  「爽吾」(白文長方印)    芭蕉
    春もやゝけしき調ふ月と梅
    初時雨猿も小蓑をほしけなり
                八十二叟
                 嘯山書
  「芳隆之印」(朱文方印) 「之元」(白文円印)

若冲・芭蕉像3.jpg

 この若冲の「松尾芭蕉図」の創作年次は、上記の「作品解説」の「改元一歳加算説に従えば、嘯山が賛をする前年の若冲八十三歳(注・嘯山は二歳下で八十一歳だが、賛には八十二叟とある)、寛政十年に描かれた」ものと解したい。
 この若冲の「松尾芭蕉図」は、先に紹介した『知られざる南画家百川(名古屋市博物館 1984 3/10 – 4/8特別展)』図録所収「芭蕉翁肖像 倣杉風筆 丙寅年三月十八日八僊観主人摸写 於洛東双林寺」をモデルにしていることは、一目瞭然である。
 この百川筆と若冲筆とでは、細かい点では異なるが、特に、芭蕉の髭面が、若冲のそれは濃墨で、それに比して、百川のそれは顎髭がやや濃墨なだけで、やはり、それぞれの芭蕉観というのは察知される。
 そして、ここには、当時、最も多くの「松尾芭蕉像」を描いた、若冲と同年齢の蕪村の影響の影は微塵もない。
即ち、若冲に取っての「松尾芭蕉像」は、共に、「売茶翁ネットワーク」(売茶翁を主軸とする連=サロン)の、年齢的に先輩格にあたる彭城百川が描くところの「芭蕉像」ということに他ならない。
即ち、同年齢の、江戸(関東)そして浪速(大阪)出身の、同じ京都の四条烏丸近辺に住む、謂わば、「余所者(よそもの)」の蕪村が描く「芭蕉像」は、若冲の眼中には無いということに他ならない。
そもそも、蕪村書簡というのは、現に五百通以上存在していると言われているが、その書簡中には、若冲を話題にしたものは皆無なのである。おそらく、この二人の直接的な交遊関係というのは存在していなかったというのが正当な見方なのであろう。
しかし、若冲の交遊関係と蕪村の交遊関係と、その枠を拡大して行くと、「池大雅・円山応挙・上田秋成・皆川淇園・木村蒹葭堂」等々と、二人の接点というのはかなりの面で交差して来る。
この冒頭に紹介した若冲の「松尾芭蕉図」に賛をしている三宅嘯山は、若冲より蕪村との交遊関係がより濃密に認められる人物と解して差し支えなかろう。

 先に、宝暦元年(一七五一)の蕪村上洛について、百川を私淑してのものということについて触れたが、蕪村が上洛して最初に訪れた先は、蕪村の師の宋阿(巴人)門の高弟、望月宋屋で、当時、宋屋は六十五歳の高齢で、京都俳壇の古老の一人であった。そして、嘯山は、この宋屋門の俳人なのである。
 即ち、蕪村と嘯山との出会いは、この宋屋を介してのものであろう。嘯山は質商を営む傍ら、宋屋に俳諧を、慧訓和尚に詩を学んだ。後に、京都俳壇で重きをなすが、漢詩人としても『嘯山詩集(十巻)』(現存八巻)を残している。
 その漢学の素養から仁和寺や青蓮院の侍講を勤めた。蕪村(そして若冲)より二歳年下であるが、蕪村との親密な交際ぶりは、百池自筆『四季発句集』に、「滄浪居士(嘯山)の大人(うし=先生)世に在(いま)す頃は老師蕪村叟とは錦繡の交はりにて常に席を同じうす」(『蕪村と其周囲(乾猷平著)』)と記されている。
 蕪村が、宝暦六年(一七五六)に丹後の宮津から京都の嘯山宛てに送った書簡が今に残っている(下記「参考」のとおり)。

 冒頭の、若冲の「松尾芭蕉図」に嘯山が賛をしたのは、寛政十年(一七九八)とすると、蕪村が没した天明三年(一七八三)から十五年後ということになる。若冲も嘯山も、最晩年の頃で、おそらく、嘯山が、当時の京都画壇の最右翼に位置していた若冲に「松尾芭蕉図」を依頼し、その絵図に、「春もやゝけしき調ふ月と梅」(『続猿蓑』)と「初時雨猿も小蓑をほしげなり」(『猿蓑』)との二句の賛をしたのであろう。
 この芭蕉の「春もやゝけしき調ふ月と梅」の句は、許六を画の師と仰いだ芭蕉が、許六と合作した梅月画賛のために詠まれた元禄六年(一六九三)の作で、その芭蕉真筆の自画賛が何点か在り、後世、芭蕉の画賛句として珍重されていることに因るのであろう。
 また、「初時雨猿も小蓑をほしけ(げ)なり」の句は、蕉門の最高峰を成す撰集『猿蓑』の、その巻頭の一句である。これまた、許六の「猿蓑は俳諧の古今集也、初心の人去来が猿蓑より当流俳諧に入るべし」(『宇陀法師』)とを意識してのものであろう。
 とすると、嘯山の芭蕉観というのは、永遠の放浪の旅人を象徴化した許六の動的なイメージの句に対して、やや、この若冲の「松尾芭蕉図」は、京都以外に旅をした経験の皆無の、何処となく、「売茶翁ネットワーク」の百川の「松尾芭蕉図」を、静的なイメージとして、それをモデルとしているという思いが拭えない。
 なお、天明二年(一七八二)版の『平安人物史』上における、若冲と蕪村とに関係する「画家」と「学者」とに搭載している人達は次のとおりである。

(画家の部)

藤応挙 (円山主水)、号(僊斎 一嘯 夏雲 仙嶺)、住所(四条堺町東入町)、(1733~1795)
滕汝鈞 (滕若冲)、号(若冲)、住所(高倉四条上ル町)、(1716~1800)
謝長庚(与謝蕪村)、号(春星・三菓・宰鳥・夜半亭)、住所(仏光寺烏丸西入町)、(1716~1783)
長沢(長沢芦雪)、住所(御幸町御池下ル町)、(1754~1799)
巌郁(梅亭)、住所(高辻新町西入町)、(1734~1810)

(学者の部)

三宅方隆 (三宅嘯山)、号(蒼浪・嘯山・葎亭・滄浪居・橘斎・鴨流軒・碧玉山)、住所(中長者町新町西入町)、(1718~1801)
皆川愿 (皆川文蔵)、号(淇園 有斐斎 呑海子)、住所(中立売室町西入町)、(1734~1807)
源敬義(樋口源左衛門)、号(芥亭・道立・柴庵・自在庵)、住所(下立売釜座西入町)、(1738~1812)
毛惟亮(雨森正廸) 、号(陶丘)、住所(白川橋三条下ル町)
釋慈周(六如)、号(白楼・無着庵) 、住所(安井門前)、(1734~1801)
釋竺常(蕉中・梅荘)、号(大典 蕉中 東湖)、住所(近江神埼郡伊庭)、(1719~1801)

(参考)  蕪村の嘯山宛ての書簡(書簡A)

(書簡A)

書簡A.png

 上記の書簡は、宝暦七年(一七五七)、蕪村、四十二歳時の、丹後の宮津(現・京都府宮津市)から京都の知友・三宅嘯山宛てに、丹後滞在中の近況を報じたものの後半の部分で、その文面は次のとおりである。

「俳諧も折々仕候。当地は東花坊が遺風に化し候て、みの・おはりなどの俳風にておもしろからず候。一両人巧者も在之候。(瓢箪図)先生、嘸老衰いたされ候半存候。宜被仰達可被下候。詩は折々仕候。帰京之節可及面談候。御家内宜奉願候。頓首 卯月六日 蕪村(花押) 嘯山公 」
(訳「俳諧も折々やっています。当地は各務支考の影響に染まっていて、美濃・尾張の俳風で面白くありません。一・二人巧者もおります。瓢箪先生(望月宋屋)、さぞかし、御齢を召されたことと思います。宜しくお伝え下さい。漢詩も時折作っています。京に帰りましたら早速お邪魔したいと思います。奥様によろしく。頓首 四月七日 蕪村 三宅嘯山公」)

 この書簡の宛名の三宅嘯山は、京で質商を営み、仁和寺や青蓮院宮の侍講をしていた。漢詩と中国白話(現代中国語)に通じた多才の人で、享保三年(一七一八)の生まれ、蕪村よりも二歳年下である。
蕉門俳人木節の子孫を娶ったのを機に俳諧を学び、蕪村の早野巴人門の兄弟子に当たる宋屋門に入り、後に点者(宗匠・指導者)の一人となっている。別号に葎亭など、その『俳諧古選』『俳諧新選』などの編著によって、京俳壇等に大きく貢献した一人である。
 蕪村と嘯山との出会いは、宝暦元年(一七五一)に蕪村が上京し、その秋の頃、宋屋と歌仙を巻いており(『杖の土(宋屋編)』)、その上京して間もない頃と思われる。爾来、この二人は、「錦繍の交はりにて常に席を同じうす」(『四季発句集(百池自筆)』)と肝胆相照らす知友の関係を結ぶこととなる。
 この書簡中の、(瓢箪図)先生こと、望月宋屋は、師(早野巴人)を同じくする画俳二道を歩む蕪村を高く評価しており、巴人没後の延享二年(一七四五)の奥羽行脚の際、その途次で結城に立ち寄り蕪村に会おうとしたが、蕪村が不在で出会いは叶わなかった。翌年の帰途に再び結城に立ち寄ったが、またしても、蕪村は不在で、江戸の増上寺辺りに居るということで、江戸でも探したが、そこでも二人の出会いはなかった。
 それから五年の後の二人の初めての出会いである。宝暦元年(一七五一)の蕪村上洛の大きな理由の一つは、この巴人門の最右翼の俳人宋屋を頼ってのものであったのであろう。
 宋屋は、蕪村(前号・宰鳥)について、その『杖の土』で次のように記している。

「宰鳥が日頃の文通ゆかしきに、結城・下館にてもたづね遭はず、赤鯉に聞くに、住所は増上寺の裏門とかや。馬に鞭して僕どもここかしこ求むるに終に尋ねず。甲斐なく芝明神を拝して品川へ出る。後に蕪村と変名し予が草庵へ尋ね登りて対顔年を重ねて花洛に遊ぶも因縁なりけらし。」
(訳「宰鳥(蕪村)の日頃の便りに心引かれるものがあり、結城・下館に行ったおり訪ねたが遭えず、赤鯉に聞いたところ、住所は増上寺の裏門とか。馬を走らせて下僕に捜させたが終に遭えなかった。止む無く、芝の大神宮に参拝し品川を後にした。後に、蕪村と名を改めて、私の草庵を訪ねて来て初めて対顔した。そのまま年を重ねて京都に遊歴しているのも何かの縁であろう。」)

 この宋屋の文面の「日頃の文通ゆかしきに」からして、巴人が在世中の頃から巴人と京都の巴人門との連絡役を蕪村が勤めていて、そんなことが、この両者を取り持つ機縁となっていたのであろう。また、「年を重ねて花洛に遊ぶ」ということは、当時の蕪村が京都に永住するのかどうかは不確かなことで、事実、上洛して三年足らずの、宝暦四年(一七五四)には丹後に赴き、この書簡を送る頃までの三年余を丹後に滞在している。  
 ここで、上記の嘯山宛ての書簡で注目すべき一つとして、蕪村と署名して、その後に、
蕪村の終生の花押となる、何やら、槌のような形をしたものが書かれていることである。
 この花押は、蕪村の十年余に及ぶ関東放浪時代には見られない。おそらく、この書簡が出された丹後時代から使い始めたもののように思われる。
蕪村の落款は、関東放浪時代は無款のものが多いが、「子漢・浪華四明・浪華長堤四明山人・霜蕪村」、印章は「四明山人・朝滄・渓漢仲」などで、これが丹後時代になると、落款は、主として、「朝滄(朝滄子・四明朝滄・洛東閑人朝滄子)」が用いられ、その他に、「嚢道人(囊道人蕪村)・魚君・孟冥」、印章は「朝滄・四明山人・囊道・馬秊」などが用いられている。
これらの落款・印章の「四明」は、比叡山の四明ヶ岳に因んでのもので、当時は蕪村の故郷の摂津(大阪)の毛馬の堤から比叡山が望めたということで、「浪華長堤」(毛馬長堤)と共に望郷の思いを託したものなのであろう。
 そして、この「朝滄」は、蕪村の師筋に当たる宝井其角の畏友・英一蝶(初号・朝湖、俳号・暁雲)の「狩野派風の町絵師」として活躍していた頃の号「朝湖」に由来するものなのであろう。
 宝暦元年(一七五一)に上洛して間もなく、蕪村は「嚢道人」という号を使い始める。丹後時代の大画面の屏風絵(十三点)中、六曲半双「田楽茶屋図」は、英一蝶流の町狩野系統の近世的な軽妙な風俗画として知られているが、落款は「嚢道人蕪村」、印章は「朝滄・四明山人」である。
 上記書簡中の花押は、「囊道人蕪村」の「蕪村」の「村」から作った花押という見解(『俳画の美(岡田利兵衛)』があり、この「囊」は、蕪村が上洛して「東山麓に卜居」していた「洛東東山の知恩院袋町」(池大雅の生家の所在地)の「袋」に因んでのものと、その見解に続けられている。
 この「蕪村」の「村」から作った花押という見解(岡田利兵衛)に対して、「槌」を図案化したものという見解(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)がある。この「槌」を図案化したという見解を裏付ける記述は見られないが、上洛前の寛延年間(一七四八~一七五一)、江戸在住の頃の無宛名(結城の早見桃彦か下館の中村風篁宛て)の書簡(書簡B)に、「槌」を描いたものがあり、それらと関係のある花押という理解なのかも知れない。
そもそも、蕪村が俳人そして画人(挿絵画家)として初めて世に登場するのは、元文三年(一七三八)、二十三歳時の絵俳書『卯月庭訓(豊島露月他編)』に於いてで、そこに「鎌倉誂物」と前書きのある「尼寺や十夜に届く鬢葛」の発句を記した自画賛が収められている。それは立て膝で手紙を読む洗い髪姿の女性像で、そこに「宰町自画」と、蕪村の最初期の号「宰町」で登場する。
この『卯月庭訓』の編者・豊島露月は、蕪村の師・早野巴人と親交のあった俳人の一人で、観世流謡師匠でもあり、その絵俳書の刊行は、享保七年(一七二二)の『俳度曲(はいどぶり)』から延享二年(一七四五)の『宝の槌』まで十一点に及んでいる。
その露月編の絵俳書シリーズの一番目を飾る『俳度曲』は、謡曲名を題として、それに画と句を配したもので、そのトップを飾るのは、今に浮世絵師として名高い鳥居清倍(きよすえ)の画に、蕉風俳諧復興運動の先駆けとなる『五色墨』のメンバーの一人・松木珪琳(けいりん)の蓮之(れんし)の号での句が添えられている。それに続く二番目の画は、英一蝶(二世か?一世英一蝶は蕪村の師筋に当たる其角の無二の知友)のもので、この一蝶画に、『続江戸筏』の編者の石川壺月の句が添えられている。
これらの画人の画には、落款又は花押が施されており、おそらく、蕪村の、槌を図案化したような花押は、この露月の絵俳書のシリーズと深く関係しているように思われる。  
ちなみに、蕪村が宰町の号で登場する『卯月庭訓』は、このシリーズの九番目にあたるもので、この蕪村の自画賛には花押は押されていない。この頃の蕪村(宰町)は全くのアマチュア画家で、落款や花押を施すような存在ではなかったのであろう。

その五 呉春(月渓)の描いた芭蕉像(四画像)

 『呉春(財団法人逸翁美術館)』には、四点ほど「芭蕉像」が紹介されている。

52 呉春筆 芭蕉像 蝶夢賛 絹本墨画 37.5×22
(賛) 禅法ハ仏頂和尚に 参して三国相承 験記につらなり 風雅は西行上人を 
   慕うて続扶桑隠逸 伝に載せぬ
蝶夢阿弥陀仏謹書
(解説) 呉春が芭蕉翁の正面像をクローズアップしてえがき、その上に蝶夢法師が上の賛を記している。呉春は筆意謹厳でしたため、翁の容貌はいつも彼がえがく翁の顔である。蝶夢は僧侶であるが後半は誹諧に執心し、芭蕉顕賞に多くの業績をのこした。寛政七年(一七九五)没。

53 月渓筆 芭蕉像 紙本墨画 82×41

54 月渓筆 芭蕉像 嘯山賛 紙本墨画 127×29
(賛) 海島圓浦長汀唫 
あつみ山吹浦かけて夕すゞみ 汐こしや鶴脛ぬれて海すゞし あらうみや佐渡によこたふあまの河 早稲の香や分入右は磯海
明石夜泊
蛸壺やはかなき夢を夏の月
 このつかい這わたるほどといへば
蝸牛角ふり分よ須磨明石
 右芭蕉翁作           嘯山

55 呉春筆 芭蕉像 紙本墨画 98×28

呉春の芭蕉像.jpg

右上(52 呉春筆 芭蕉像 蝶夢賛 絹本墨画 37.5×22)
右下(53 月渓筆 芭蕉像 紙本墨画 82×41)
中央(54 月渓筆 芭蕉像 嘯山賛 紙本墨画 127×29)
左上(55 呉春筆 芭蕉像 紙本墨画 98×28)

 『呉春(財団法人逸翁美術館)』所収の「呉春略年表」によると、「天明二(一七八二)三一歳 池田で迎春、呉春と改む。剃髪」とあり、「月渓」の号を「呉春」と改めたのは、天明二年(一七八二)ということになる。
 しかし、「月渓」と「呉春」とを併用している期間が、寛政元年(一七八九)の応挙の写生画に完全に転向するまでの間には認められるので、この天明二年(一七八二)から寛政元年(一七八九)までの間のものは、蕪村風(南画風)のものには「月渓」、そして、応挙風(写生画風=円山四条派風)のものには「呉春」と、大まかに使い分けしていると理解して差し支えなかろう。
 このような観点から、上記の芭蕉像のうち、呉春の署名のある「52 呉春筆」と「55 呉春筆」のものは、寛政元年(一七八九)以降の創作と理解したい。そして、月渓の署名のある「53 月渓筆」は、落款に「丙午十月十二日月渓拝写」とあり、天明六年(一七八六)の作で、呉春と改号しているが、月渓の署名でしているものと理解をしたい。なお、この「53 月渓筆」は、安永八年(一七七九)、蕪村が金福寺の芭蕉庵再興(再興は安永五年で、再興後の芭蕉忌に因んでのもの)に際しての掛物の「蕪村筆芭蕉像」をモデルにしてのものであろう。
 さて、この中央の「54 月渓筆 芭蕉像 嘯山賛」のものであるが、この異様な無精髭の、眉の濃い、そして、何処となく旅の疲れで窶(やつ)れている感じの芭蕉像は、この芭蕉像の作者、妻と実父の不慮の死に遭遇して、京都から池田へと隠棲した頃の、月渓の風貌を醸し出している雰囲気で無くもない。
 因みに、天明五年(一七八五)十一月二十五日には、池田で田福主催の夜半亭(蕪村)三回忌が執行され、その折りの月渓は、「雲水月渓」の、「雲水」(行脚僧)の二字を、己が号の「月渓」に冠しているのである。
 その「雲水月渓」の描いた「雲水芭蕉像」の雰囲気でも無くもない。そして、それに賛する、蕪村の畏友の嘯山の芭蕉の選句(「奥の細道・笈の小文」)もまた、その「雲水月渓」の、その当時の月渓を思い巡らしているような雰囲気で無くもない。

その六 金福寺の「洛東芭蕉庵再興記」(蕪村書)と「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)

 安永五年(一七七六)四月、樋口道立の発起により、洛東一乗寺村の金福寺に芭蕉庵が再建された。但し、この時の草庵は天明元年(一七八一)に改築されているから、その実は仮小屋のようなものであったらしい(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。
 この芭蕉庵再建発起を機に、蕪村門の有志が集まって「写経社」という俳諧結社が誕生し、その八月に『写経社集(道立編)』が成り、その巻頭に蕪村の「洛東芭蕉庵再興記」が収載されている。
 これらのことに関して、その蕪村の「洛東芭蕉庵再興記」の末尾の頃に、蕪村は次のように記している。

[ よしや、さは追ふべくもあらず(注・金福寺には芭蕉と関係している書画・文献などは存在しないが)、たゞかゝる勝地に、かゝるたとき名(注・道立の曽祖父の伊藤担庵の知人が「芭蕉」を名乗っていた)ののこりたるを、あいなくうちすておかんこと、罪さへおそろしく侍れば、やがて同志の人々をかたらひ、かたちのごとくの一草庵を再興して、ほとゝぎす待つ卯月のはじめ、をじか啼く長月のすゑかならず此の寺に会して、翁の高風を仰ぐことゝはなりぬ(注・芭蕉の蕉風俳諧を仰ぐ「写経社」会を結成した)。再興発起の魁首は、自在庵道立子(注・樋口道立)なり、道立子の大祖父担庵(注・伊藤担庵)先生は、蕉翁のもろこしのふみ(注・漢学)学びたまひける師にておはしけるとぞ。されば道立子の今此興にあづかり(注・芭蕉庵再興の発起に関係される)給ふも、大かたならぬすくせ(注・前世)のちぎりなりかし。
安永丙申五月望前二日(注・安永五年五月十三日) 平安 夜半亭蕪村 慎記 ]

 この道立が再建した芭蕉庵の傍らに、翌年の安永六年(一七七七)、「芭蕉顕彰碑」が建立された。その全文は次のとおりである。

「芭蕉翁以諧歌聞於海内 諧歌即世所謂俳諧者 翁之履歴人往往詳之 盖伊賀人罷仕隠於 江戸 又住江之大津遷於摂而終 翁没七十余年高士韻人与夫諧歌者流思慕稱賛不已」
(芭蕉翁、諧歌を以て海内に聞こゆ。諧歌は即ち世の俳諧と謂ふ所のものなり。翁の履歴は人往々にしてこれを詳らかにす。盖し、伊賀の人、仕を罷めて江戸に隠る。又、江の大津に住み、摂に遷りて終る。翁没して七十余年、高士韻人とその諧歌者の流れ、思慕称賛すること已まず。)

「翁冢所在有之 姪道卿新建於東山詩仙堂南金福寺中 請予銘焉 予義祖伊藤担菴先生亦与翁交 担菴集中有謝翁邀飲詩 亦可以想翁為人矣」
(翁の冢所在にこれ有れど、姪道卿、新たに東山詩仙堂の南金福寺中に建て、予に銘を請ふ。予の義祖、伊藤担菴先生は亦た翁と交はる。『担菴集』中に「翁に謝して邀飲す」の詩有れば、亦た以て翁の人と為りを想ふべし。)

「今之諧歌要有二端 牛鬼蛇神眩耀蒿目 打油釘鉸脂韋莠口 野服葛巾風標如仙 而明人所謂 那白雲常飛卓程屋上」
(今の諧歌、要二端有り。牛鬼蛇神、眩耀して蒿目し、打油釘鉸、脂韋して莠口す。野服葛巾、風標仙の如し。而れば明人の所謂「那白雲常飛卓程屋上」たり。)

「翁作諧歌 清新不俗 澹有骨力 庶幾詩家陶韋 抑又上援杜陵 下伴香山 亦或可擬 世傳翁風 神散朗侯鯖 如茶泓崢 之寄杖□(尸にギョウニンベンと婁) 千里可謂進于技者矣」
(翁の作りし諧歌、清新して俗ならず。澹として骨力あれば、詩家陶韋に庶幾たり。抑又、上は杜陵を援き、下は香山を伴ふ。亦た或は擬ふべし、世に伝ふる翁の風。神散朗として侯鯖、茶の泓崢たるが如し。これ杖□(尸の中ギョウニンベンと婁)を寄せて、千里技に進む者と謂ふべきや。)

「道卿名敬義 予仲氏第二子 出嗣樋口氏 為吾藩同宗川越侯源公知京邸事 慧而不苛 介而能円 多諸技芸 其於諧歌 盖亦有師 受淵源云 道卿与翁生不並 世出處異轍 而心酔不已 至有斯挙 盖有臭味相契於衷者」
(道卿、名は敬義。予が仲氏の第二子なり。出でて樋口氏を嗣ぎ、吾が藩の同宗、川越侯源公が為に京邸の事を知す。慧くして苛せず、介にして能く円かなり。諸ろの技芸を多くす。其れ諧歌に於いては、盖し亦た師有り、淵源を受くと云ふ。道卿、翁と生は並ばず。世に出づるに処は轍を異にすれど、心酔して已まざれば、斯かる挙の有るに至る。盖し臭味有りて、衷に相契る者なり。)

「嗚呼 翁者予義祖所交 而道卿尸祝焉 予豈漠然 銘曰 才□(ニクヅキに叟)貌□(ヤマイダレに瞿) 錦心綉腸 行雲流水 十暑三霜 野老争席 桃李門墻 人与骨朽 言与誉長 勒珉此處 建冢多方 維斯名寺 風水允揚 卜隣高士 魂其帰蔵 雖非桑梓 維翁之郷 越国文学播磨清 絢撰
安永丁酉夏五月      平安處士  永忠原書 」
(嗚呼、翁は予の義祖が交、道卿の尸祝する所なり。予、豈に漠然たらんや。銘に曰く、
  才□貌□[サイシボウク]  錦心綉腸[キンシンシュウチョウ]
  行雲流水[コウウンリュウスイ]  十暑三霜[ジッショサンソウ]
  野老は席を争う  桃李の門墻
  人と骨とは朽つとも  言と誉れとは長ず
  珉を此処に勒り  冢を建つ多方
  維れ斯の名寺  風水允に揚ぐ
  高士を卜隣すれば  魂それ帰蔵す
  桑梓に非ずといえども  維れ翁の郷
越国文学播磨     清絢撰
安永丁酉夏五月    平安処士 永忠原書      )

 この「芭蕉顕彰碑」の碑文の撰者は、「越国文学播磨(越前福井藩儒学者・播磨出身) 清絢(清田絢)撰」で、道立の叔父の清田(せいだ)憺叟(たんそう)である。
明和五年(一七六八)版『平安人物史』「学者」の部には、道立、道立の父・江村北海、そして、この清田憺叟の名も収載されている。
 また、この碑文の書は、その『平安人物志』「学者」と「書家」の項に「永忠原 字俊平号東皋上長者町千本東ヘ入町 永田俊平」で出て来る永田俊平の書である。そして、この二人とも、道立に連なる当時の京都の名士なのである。
 この「芭蕉顕彰碑」の日付の「安永丁酉夏五月」は、安永六年(一七七七)五月で、芭蕉庵が再建された翌年ということになる。 
 そして、翌々年の安永八年(一七七九)に、蕪村は「芭蕉翁自画賛」を描き、それを金福寺に奉納する。これは、頭陀袋を前に掛けた座像で、その上部に芭蕉の発句十五句が加賛されている。その上に、清田憺叟が、上記の「芭蕉顕彰碑」の一部を加賛している。

金福寺芭蕉像.jpg

金福寺「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)

 この金福寺の「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)の下部には、「安永巳亥十月写於夜半亭 蕪村拝」との落款が記されている。この「安永巳亥」は、安永八年(一七七九)に当たる。この時に、蕪村は、同時に、芭蕉像を他に二点ほど描き、その二点には、芭蕉の発句が二十句加賛されているという(『図説日本の古典14芭蕉・蕪村』所収「芭蕉から蕪村へ(白石悌三稿)」)。
 この安永八年(一七七九)は、蕪村が没する四年前の、六十四歳の時で、晩年の蕪村の円熟した筆さばきで、崇拝して止まない、晩年の芭蕉の柔和な風姿を見事にとらえている。
 先に紹介した、月渓の「芭蕉像」(53 月渓筆 芭蕉像 紙本墨画 82×41)は、この蕪村の「芭蕉翁自画賛」をモデルとして描いたものであろう。そして、この両者を比べた時に、蕪村と月渓とでは、その芭蕉に対する理解の程度において、月渓は蕪村の足元にも及ばないということを実感する。
 さて、金福寺の芭蕉庵は、天明元年(一七六一)に改築再建され、この改築再建に際して、蕪村は、先に紹介した安永五年(一七七六)の『写経社集(道立編)』に収載した「洛東芭蕉庵再興記」を自筆で認めて、金福寺に奉納する。
 これらの、上記の「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)と「洛東芭蕉庵再興記」(蕪村書)とが、今に、金福寺に所蔵されている。

(補説)
『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「88『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

紙本淡彩 一幅 一二八・一×二七・九cm
款 「安永己亥冬十月写於夜半亭 蕪村拝」
印 「春星氏」(白文方印) 「東成」(白文方印)
賛 下掲
安永八年(一七七九) 金福寺蔵
(賛)
才□(ニクヅキに叟)貌□(ヤマイダレに瞿) 錦心綉腸 
行雲流水 十暑三霜
野老争席 桃李門墻
人与骨朽 言与誉長
勒珉此處 建冢多方
維斯名寺 風水允揚
卜隣高士 魂其帰蔵 
雖非桑梓 維翁之郷 
 越国文学播磨 清絢撰

こもを着て誰人います花の春
花にうき世我酒白く飯黒し
ふる池やかはす飛こむ水の音
ゆく春や鳥啼魚の目はなみた
おもしろふてやかてかなしきうふねかな
いてや我よきゝぬ着たり蝉衣
子とも等よ昼かほさきぬ瓜むかん
夏ころもいまた虱をとり尽きす
名月や池をめぐりてよもすから
はせを野分して盥に雨をきく夜かな
あかあかと日はつれなくも秋のかせ
いな妻や闇のかたゆく五位の声
世にふるもさらに宗祇の時雨かな
年の暮線香買に出はやな
(口絵)

金福寺芭蕉像・部分.jpg

金福寺「芭蕉翁画賛」(一幅・部分)




蕪村が描いた芭蕉翁像(一~三)

(その一) 蕪村が描いた芭蕉翁像

 さまざまな俳人あるいは画人が芭蕉像を描いている。代表的なものは、芭蕉と面識のある門人の杉山杉風と森川許六、面識はないが芭蕉門に連なる彭城百川(各務支考門)、そして、画俳二道を究めた与謝蕪村(宝井其角・早野巴人門)などの作が上げられる。

 杉風の描いた芭蕉像は、①端座の像(褥に端座・左向き) ②脇息の像(左向き) ③火桶にあたる像(左向き) ④竹をえがく像(左向き) ⑤馬上の像(笠をかぶり右方へ進行)などで、この①のものは「すべての芭蕉像の基盤」になっており、杉風筆像は、温雅で「おもながのおだやかな面相である」と評されている(『岡田利兵衛著作集1芭蕉の書と画』所収「画かれた芭蕉」)。

 蕪村の描いた芭蕉像は、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』には十一点が収録されている。

① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九9作。金福寺蔵)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)
⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)

 しかし、これらは、いわゆる「画賛形式」(画と賛が一体となっている条幅・色紙等)のもののうち、芭蕉単身像の条幅もので(上記の十一点のうち、⑦は一幅半切(紙本墨画)で、他は長さに異同はあるが一幅もので、①②⑤⑥は絹本淡彩、③と⑩は紙本淡彩、④は紙本墨画である。
 これらの芭蕉単身像では無帽のものはなく、宗匠頭巾のようなものを被っているが、それぞれ制作時に関係するのか、それぞれに特徴がある。上記の①②は、円筒型(丸頭巾型)の白帽子、③④⑥が長方形型(角頭巾型)の白帽子、⑤は長方形型(角頭巾型)の黒帽子、⑥は長方形型(角頭巾型)の黒(薄墨)帽子の感じのものである。

 これらの芭蕉単身像のものではなく、「俳仙群会図」などの芭蕉像を加えると次のとおりとなる。

⑫ 座像(「俳仙群会図」=十四俳仙図、絹本着色、款「朝滄」、上・中・下の三段に刷り込んだ一幅。上段に「此俳仙群会の図ハ元文のむかし余弱冠の時写したるもの」とあり、元文元年(一七三五)から同五年(一七四〇)の頃の作とされているが、「その落款・印章によれば、やはりこの丹後時代の作」(『続芭蕉・蕪村(尾形仂著)』)と、宝暦四年(一七五四)から同七年(一七五七)の頃の作ともいわれている。とにもかくにも、蕪村最古の芭蕉像、無帽で右向き、蕪村の師の早野巴人が、芭蕉の左側の園女の次に宗匠頭巾を被り左向きで描かれている。柿衛文庫蔵)
⑬ 座像(「八俳仙」画賛、淡彩、一幅。宗匠頭巾、笠を持ち正面像。「物云へは唇寒し秋の風」。印は「長庚」「春星」。『山王荘蔵品展覧図録』)
⑭ 座像(「十一俳仙」)画賛、紙本墨画、一幅。宗匠頭巾、笠・頭陀袋の正面像。「名月や池をめくりて終夜」。印は「三菓居士」。個人蔵)
⑮ 座像(版本『其雪影』挿図、明和九年(一七七二)刊、宗匠頭巾、正面像。「古いけや蛙とひ込水の音」。)
⑯ 座像(版本『時鳥』挿図、安永二年(一七七三刊)、宗匠頭巾、正面像。「旅に病て夢は枯野をかけ廻る」。)
⑰ 七分身像(版本『安永三年(一七四四)春帖)』挿図、宗匠頭巾、杖、頭陀袋、笠、正面像。)

 さらに、「奥の細道」画巻(安永七年=一七七八作、京都国立博物館蔵)、「奥の細道」屏風(安永八年=一七七九)作、山形美術館蔵)、「奥の細道」画巻(安永八年=一七七九作、逸翁美術館蔵)、「奥の細道」画巻(安永七年=一七七八作、「蕪村遺芳」)、「野ざらし紀行」屏風(安永七年=一七七八作、個人蔵)などに、それぞれ特徴のある芭蕉像が描かれている。

 上記のうちで、唯一、百川筆「芭蕉翁像」と類似しているのは、「⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)」である。

 『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』の作品解説は次のとおりである。

104 「芭蕉像」画賛  一幅  一二二・一×四〇・九cm
款 「応湖南松写庵巨州需 蕪村拝写」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛 「はつしぐれ猿も小みのをほしけ也 はせを」(色紙貼付)
『大阪市青木嵩山堂入札』(昭和四・三)

蕪村・芭蕉像一.jpg

その三 百川周辺と百川が描いた芭蕉像

 彭城百川は、元禄十年(一六九七)の生まれ、没したのは 宝暦二年(一七五二)八月である。蕪村が上洛したのは、宝暦元年(一七五一)の八月で、蕪村と百川との京都での出会いがあったとすると、僅々一年という短い期間ということになる。

 蕪村の上洛の大きな理由の一つに、画・俳両道において名を成していた百川が念頭にあったことは、先に紹介した蕪村書簡(「翁像少之内御見せ可被下」)などからして想像するに難くない。
百川の本姓は榊原、名は真淵、字が百川で、号に蓬洲、僊観、八僊、八仙堂などがある。通称は土佐屋平八郎で、彭城は自称である。俳諧は美濃派の各務支考門で、後に、麦林派の中川乙由に帰依している。

 百川は町人出身の職業画家で、当時の京都の文化人ネットワークの中心人物の「売茶翁」(黄檗宗の僧で還俗後は高遊外、煎茶中興の祖)に倣い、自ら「売画自給」と称し、後に、絵師として法橋に叙せられている。

 同じく日本南画の先駆者とされる武士階級の祇園南海や柳澤淇園は、職業画家ではなくより中国の士大夫階級の余技的な絵画(文人画))という異なる面を有している。また、当時舶載の中国画や画譜類に関する造詣が深く、『元明画人考』『元明清書画人名録』などの著作を有している。

 南海、淇園、そして、百川が日本南画の先駆者とすると、池大雅と与謝蕪村とがその大成者として位置づけられる。そして、この両者も公家・武家階級ではなく町人階級出身で、職業画家という面においては、百川に近い画家ということになろう。

 特に、画・俳両道を志している蕪村にとって、当時の百川は、格好の「プトロタイプ」(原型)という存在であったろう。

 蕪村の芭蕉崇拝は夙に知られているが、百川もまた『八僊観墨なおし』(百川の第三撰集)の「墨直し」(芭蕉忌などに関連し芭蕉碑の墨直しをする儀式)を、延享二年(一七四五)に東山双林寺で修するなど、支考・乙由に連なる蕉門の一員として、やはり、芭蕉崇敬の念は人後に落ちないであろう。

 そして、芭蕉忌などの句筵興行などに際しては、「芭蕉翁像」を掲げることが通例で、百川の、その種のものは、僧衣をまとった祖師形のものに類型化されているという(『蕪村の遠近法(清水孝之)』所収「百川から蕪村へ」)。
 また、同著には、「芭蕉翁肖像」の図録はないが、次の三点が紹介されている。

一 芭蕉翁肖像 倣杉風画 丙寅年三月十一日八日八僊観主人模写於洛東双林寺

 紙本水墨の座像一幅(佐々木昌興氏旧蔵、「南画鑑賞」八ノ四)。顔貌は杉風様式を忠実に写している。この作品は『八僊観墨なおし』の翌延享三年の「墨直し会」の席上に描かれたことに注目される。双林寺の墨直し行事は、百川筆芭蕉像の声価をも高めたものではないか。かなりな数量を描いたらしく、粗放な筆法と形式化が認められる。

二 法衣に袈裟を掛け、杖を手にする芭蕉翁立像(佐々木嘉太郎氏旧蔵、「南画鑑賞」八ノ四)

 紙本水墨。前大徳大順禅師の賛があり、落款は「八僊老人写」とする。前者に比べると格段にすぐれた筆蝕に成り、草体ではあるが、百川独自の顔面描写も美しい。精魂をこめて構想し墨筆を揮ったものとして百川の芭蕉画像の佳品といえよう。(以下、略)

三 松任市の聖興寺所蔵の「八僊逸人写」すところの、僧形芭蕉像。
 これも水墨画の草画で、脇息によって斜め上方を見上げるポーズに動きがある。左上部に「いざ宵やまだ誰々も見えぬうち 尼素園」の賛句がある(日本経済新聞社載、谷信一氏稿)。

 上記の一については、『知られざる南画家百川(名古屋市博物館 1984 3/10 – 4/8特別展)』図録所収「参考図版目録」(かつて佐々木昌與氏のコレクションであった作品で、東京国立文化財研究所提供の写真による)で、下記のとおり紹介されている。

双林寺・芭蕉像.jpg

『知られざる南画家百川(名古屋市博物館 1984 3/10 – 4/8特別展)』図録所収「参考図版目録」
⑱ 芭蕉翁像 一幅 五一・二×二九・一cm
款 「芭蕉翁肖像 倣杉風筆 丙寅年三月十八日八僊観主人摸写 於洛東双林寺」
印 「平安一酒徒」
注 丙寅年=延享三年(一七四六) 

 なお、この作品については、先に紹介した茨城県立歴史館で初公開された「芭蕉翁像」の「作品解説」で、「本図と同じ構図の芭蕉翁像(名古屋市博「百川」展図録⑱)は延享三年の作と明記され、百川の来丹がその前後であることも確実となった」と記されている。

 この延享三年(一七四六)は、百川が五十歳の時で、百川の大作「前後赤壁図屏風」(岡山県立美術館蔵)が創作された年である。また、この八月には売茶翁を訪ね、「売茶翁煎茶図」も創作されていて、百川の頂点に達した頃であろう。

 一方、この頃の蕪村は、北関東の結城に居て、延享二年(一七四五)、三十歳の時に、萩原朔太郎の『郷愁の詩人与謝蕪村』で絶賛された、類い稀なる俳詩「北寿老仙をいたむ」(「晋我追悼曲)を創作した頃である。

 いずれにしろ、百川の「芭蕉翁像」というのは、この延享三年(一七四六)の洛東双林寺で描かれたものがベースになっていて、これは、「かなりな数量を描いたらしく、粗放な筆法と形式化が認められる」(『清水・前掲書』)と、それをより完成したものとした作品の一つに、茨城県立歴史館で初公開された「芭蕉翁像」が位置するという理解で差し支えなかろう。

 その他に、上記の「二・三」の系統のものとか、さらに、義仲寺の『奉扇会』関連の「芭蕉翁画像」(扇子を持つ座像)とか、「知られざる百川筆の芭蕉翁像」とかが、その背後に存在しているのであろう。

その二 蕪村と百川、そして、蕪村渇望の百川筆「芭蕉翁像」

 蕪村は、宝暦元年(一七五一)、三十六歳のときに、関東遊歴の生活を打ち切って、生まれ故郷とされている摂津(大阪市毛馬)ではなく、その隣の京都に移住して来る。以後、丹後時代と讃岐時代の数年間を除いて、死没(天明三年=一七八三=六十八歳)までの約三十年間を京都で過ごすことになる。
 この京都に移住してからの讃岐時代というのは、宝暦四年(一七五四)から同七年(一七五七)九月頃までの足掛け四年間の頃を指す(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。この丹後時代の蕪村についての百川に関する書簡が今に遺されている(『蕪村の手紙(村松友次著)』)。

[ 被仰候八僊観の翁像(オオセラレソウロウ ハッセンカンノオキナゾウ)
 少之内御見せ可被下候(スコシノウチ オミセクダサルベクソウロウ)
 其儘わすれ候得共(ソノママ ワスレソウラヘドモ)
 御払可被成思召候もの(オハライナサルベク オボシメサレソウロウモノ)
 此のものへ御見せ可被下候(コノモノヘ オミセクダサルベクソウロウ)
 他見は不仕候(タケンハ ツカマツラズソウロウ)
 おりしも吐出候発句に(オリシモハキイダシソウロウ ホックニ)
  萩の月うすきはものゝあわ(は)れなる
某(一字破損)屋嘉右衛門 様        蕪村               ]

 この八僊観こと彭城百川の描いた芭蕉像を「少しの間見せてください」と渇望した、その幻の百川筆「芭蕉像」の真蹟が、蕪村が滞在していた丹後の宮津(京都府宮津市)で、蕪村生誕三百年(平成二十八年=二〇一六)の今に引き継がれて現存している(『宮津市史通史編下巻』所収「彭城百川の芭蕉像と宮津俳壇(横谷賢一郎稿)」)。

 この経過をたどると、平成六年(一九九四)に京都府立丹後郷土資料館で特別展「与謝蕪村と丹後」が開催され、それが契機となって、宮津市在住の方から百川筆「芭蕉像」の調査依頼があり、佐々木承平京大教授らによって真筆と鑑定されたとのことである(『蕪村全集第六巻』所収「月報六・平成十年三月」)。
 これらに関して、平成九年(一九九七・九・七「朝日新聞」)に下記のような「芭蕉『幻の肖像』発見」の記事で紹介されているようである(未見)。

[ 江戸期の南画(文人画)の創始者の一人、彭城百川(さかき・ひゃくせん)(1698-1753)が描いた松尾芭蕉の肖像画の掛け軸が京都府宮津市の俳壇指導者宅に保存されていたことがわかった。この絵は、与謝蕪村(1716-1783)が「ぜひ見たい」と懇願した手紙だけが後世に伝わり、絵そのものは所在がわかっていなかった。
 掛け軸は、芭蕉の座像が水墨画で描かれ、「ものいへは 唇寒し 秋の風」の芭蕉の代表句が書き込まれている。佐々木丞平・京大教授(美術史)らが百川の真筆と鑑定した。
 百川は名古屋に生まれ、京都を拠点に活躍した。延享4年(1747年)に天橋立を詠んだ句と絵「俳画押絵貼屏風(おしえはりびようぶ)」(名古屋市立博物館蔵)があり、今度見つかったものも同時期に丹後に滞在中、描いたらしい。
 蕪村は、宝暦4年(1754年)春から3年余り宮津に滞在した間にこの掛け軸を見ることができたとみられるが、はっきりしていない。
 肖像画は宮津俳壇の宗匠(指導者)に約250年間、引き継がれてきたらしい。芭蕉の流れをくむ宗匠で同市内のはきもの商、撫松堂水波(ぶしようどう・すいは、本名・花谷光次)さん(1993年死去)の遺族から、京都府立丹後郷土資料館に問い合わせがあって存在が分かった。 ]

 この蕪村が渇望した百川筆「芭蕉翁像」が、平成九年(一九九七)十月十日から十一月十三日に茨城県立歴史館で開催された特別展「蕪村展」で初公開された。
 その図録に、「七〇 参考 芭蕉翁像 彭城百川筆 紙本墨画 一幅 八五・一×二五・一」と収載されている。その「作品解説」(京都府立丹後郷土資料館 伊藤太稿)は次のとおりである。

[ 賛  人の短をいふことなかれ
     己か長を説(とく)事なかれ
  ものいへは(ば)
      唇寒し
        秋の風
 款記  芭蕉翁肖像 倣杉風図  八僊真人写
 印章  「八僊逸人」(白文方印) 「字余白百川」(手文方印)

 彭(さか)城(き)百川(ひゃくせん)(一六九八~一七五二)は、名古屋に生まれ、後に京都を拠点として活躍した日本南画の創始者の一人と目される画家である。はじめ俳諧の道に入って各務支考の門にあり、俳画にも数々の傑作を残し、俳書をも手がけたその画俳両道にわたる活躍は、まさしく蕪村のプトロタイプと言えよう。蕪村が、この百川に私淑していたことは、「天(てん)橋図(きょうず)賛(さん)」はじめ丹後時代以降のいくつかの作品中に明記されており、注目されてきた。しかしながら、従来は、丹後における百川の実作が未確認のままで、両者の関係を具体的に跡づけることはできなかった。ところが最近になって、二点のきわめて興味深い作品の存在が明らかになった。一つは「天(あまの)橋立図(はしだてず)」を含む延享四年(一七四七)作の「十二ヶ月俳画押絵貼屏風」(名古屋市立博物館)であり、もう一つは初公開の本図である。本図は、宮津俳壇の守り本尊として代々の宗匠に伝えられてきたのであるが、添付された代々の譲状の写しは、百川が当地に来遊の折、真照寺で描いたという鷺(ろ)十(じゅう)の文に始まる。「三俳僧図」に描かれた鷺十は蕪村とともに歌仙を巻き、「天橋図賛」は真照寺で書されたことを想起したい。現在所在不明であるが、蕪村が本図を見せてほしいと懇望する某屋嘉右衛門宛ての書簡の存在も知られている。なお、本図と同じ構図の芭蕉翁像(名古屋市博「百川」展図録⑱)は延享三年の作と明記され、百川の来丹がその前後であることも確実となった(注=原文に「ルビ」「濁点」を付した)。  ]

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