若き日の蕪村(一~三)

若き日の蕪村(その一)

若き日の蕪村

(一)

○ 尼寺や十夜にとどくさねかづら(元文二年)

 画俳二道を極めた与謝蕪村が、宰町の号をもって始めて世に登場するのは、元文二年(一七三七)、二十二歳のときの、掲出の句(手紙を見る女性像とあわせ)がその初出である。
この蕪村の画と句は、当時、七十歳となる豊島露月の賀集の『卯月庭訓』に寄稿したものである。この句には、「鎌倉誂物」との前書きがあり、「鎌倉誂物」とは、鎌倉へ届けるよう特に注文した品の意である。この掲出句の「尼寺」は、鎌倉尼五山の一つの東慶寺を指し、離縁を望む縁切り寺として知られていた。すなわち、この句意は、「鎌倉の東慶寺にいる尼のところに、ゆかりの男から、そろそろ還俗だねと、さねかづらが届いて、折しも、皮肉なことには、念仏の声が響きわたる十夜の日であった」という、どうにも、その後の蕪村を暗示するような、男と女の世話物の一場面を現出するようなものが、そのスタートなのであった。この句と一緒の、「宰町自画」とある草画(挿絵のようなもの)は、蕪村が最も得意としたもので、その萌芽が、この初出の句と共に、その後の蕪村の画業をしのばせるに十分なものであった。蕪村は、寛保元年(一七一六)に、今の大阪の毛馬(都島区毛馬町)で生まれたということがほぼ定説となっているが、この西国生まれの蕪村が、その二十歳前後には、東国に下っていて、そして、東国の江戸に居て、東国の鎌倉幕府の、その源の、「鎌倉誂物」で登場してくるというのは、これまた、見ようによっては、その生涯が謎につつまれている、いかにも蕪村らしい思いがするのである。

(二)

○ 君が代や二三度したるとしわすれ(元文二年)

 この句は、元文三年(一七三八)正月に刊行された、蕪村の師・夜半亭宋阿(早野巴人)の江戸再帰後の初歳旦帖『夜半亭発句帖』に、宰町名で収載されている句である。句意は、「年に一度の忘年会を、一度ならず、二度も三度もして、これも一重に、天下泰平の、御時世のお陰だ」という、歳旦帖にふさわしいお目出度いものである。この歳旦帖には、宋阿は、「皇都に遊ぶ事凡(およそ)十余年/ことし古園に春を迎〈え〉て」と前書きして、「新しき友の外にも花の春」の句を寄せている。この元文三年の春には、宰町こと蕪村は、その前年の六月頃に、京都より江戸(日本橋本石町三丁目)に帰ってきた宋阿の夜半亭に移り住んでいて、そこで、師匠の宋阿とともに新しい年を迎えたのであろう。そもそも、当時の蕪村の号の「宰町」は、この夜半亭があった日本橋本石町の、その「本石町」を「宰」(とりしきる)というような意味合いも込められているような雰囲気なのである。とにもかくにも、蕪村、二十二・三歳の頃、俳諧宗匠としては、江戸・京都・大阪で活躍して、その名をとどろかせていた夜半亭一世・宋阿の内弟子として、公私ともに、そのお世話をするという立場にいて、こと俳壇においては知る人ぞ知るという環境にはあったのであろう。と同時に、その俳壇の活躍以上に、その主力は、画壇の方に向いていたということも容易に想像ができるところのものである。

(三)

 この夜半亭一世・宋阿が江戸に再帰して移り住んだ、日本橋本石町については、後に、蕪村は次のとおりに記している。次の記事は、下記のアドレスによる。

http://busonz.ld.infoseek.co.jp/kokutyo1.html

与謝蕪村「むかしを今ノ序」(安永三年)より
○ 師や、昔武江の石町なる鐘楼の高く臨めるほとりに、あやしき舎(やど)りして市中に閑をあまなひ、霜夜の鐘におどろきて、老のねざめのうき中にも、予とヽもに俳諧をかたりて、世の上のさかごとなどまじらへきこゆれば、耳つぶしておろかなるさまにも見えおはして、いといと高き翁にてぞありける。
○ 先生は、昔江戸は石町の鐘撞堂が高く見える辺りの、見苦しい家に住み、町中でも閑静なのに満足し、霜夜に響く鐘の音に目を覚まして、老いのため眠れなくて辛いときには、私と共に俳諧の事を語り合い、私が世間の俗事などとり混ぜて申し上げると、聞こえぬふりをして老いぼけたような振りをしていらっしゃって、いよいよ高潔な翁でいらっしゃることだ。
○ 在京十年あまりの巴人が元文二年(一七三七)四 月三十日江戸へ帰着し、旧友豊島露月(本石町住)の世話で、鐘楼下の「夜半亭」に入ったのは六月十日頃。蕪村は早く内弟子として随仕し、薪水の労を助け、俳諧の執筆(しゅひつ)役をつとめた。 
引用・・・『新潮日本古典集成 与謝蕪村集』清水孝之校注。

また、当時の古地図が、次のアドレスに記されている。

http://busonz.ld.infoseek.co.jp/nihonbasi2.html

(四)

 安永三年(一七七四)、蕪村、五十九歳のときの、『むかしの今』(序)は、続いて、次のように蕪村は記している。

○ある夜、危坐して予にしめして曰く、「夫(それ)、俳諧のみちや、かならず師の法に泥(なづ)むべからず。時に変じ時に化し、忽焉として前後相かへりみざるがごとく有るべし」とぞ。予、此の一棒下に頓悟して、やゝはいかいの自在を知れり。
○ある夜、師の巴人先生は、正座して私こと蕪村にはっきりと、「そもそも、俳諧というものは、必ず、師の教えに拘泥するものではありません。時に応じて作風を変えて、前例も後のことなども頓着しないで、瞬時にして作句するということが望まれる」と示されました。私こと蕪村は、禅僧の教えのごとく、この師のお言葉で、少しは俳諧自在ということを悟りました。

 どちらかというと、若き日の蕪村は、いわゆる、若き日の芭蕉がそうであったように、漢詩流の「虚栗」(みなしぐり)調の理屈ぽっい新風を狙っての作風(麦水の「新虚栗」調)をよしとしていたのであろうが、作句するときの座の雰囲気にあわせ、その雰囲気に違和感を与えるようなことではなく、臨機応変にやられるべきものという、いわゆる、「俳諧自在」ということを、この夜半亭で、その師の宋阿と一緒に寝起きして、悟ったということなのであろう。当時の、蕪村こと宰町の発句においては、どちらかというと、師の師にあたる、其角の江戸座風の技巧的な機知を好む洒落風の句が目立つが、いわゆる、俳諧(連句)の付句(その長句と短句)には、当時の若き日の蕪村の作風の多様性ということを垣間見ることができる。

(五)

  発句 染(そむ)る間の椿はおそし霜時雨         雪雄
  脇    汐引〈く〉形(ナ)リに芦は枯臥(かれふす)  宰鳥
  第三 稽古矢の十三歳をかしらにて            宋阿 

 元文四年(一七七五)に巻かれた歌仙「染る間の」の発句・脇・第三の抜粋である。この脇句の作者、宰鳥は、宰町こと蕪村の別号である。宰町を宰鳥と改号したのか、それとも、宰町と宰鳥とを併用していたのかどうかは定かではないが、この元文四年以降になると、宰鳥の号が使われ出してくる。この歌仙には、「宋阿興行」という前書きがあり、宋阿が中心になって、その捌きなどをやられたことは明らかなところである。「客、発句、亭主、脇」で、興行の亭主格の宋阿が、脇句を詠むのが、俳諧(連句)興行の定石であるが、その脇句を、若干、二十三歳の、蕪村こと宰鳥が担当しているということは、名実ともに、師の宋阿に代わるだけの力量を有していたということであろう。この歌仙は、宋阿編の「俳諧桃桜」の右巻(下巻)に収録されており、こと、俳諧(連句)の連衆の一人として、蕪村(宰鳥)が登場する初出にあたるものである。この雪雄の発句は、「芭蕉七回忌」との前書きのある、嵐雪の「霜時雨それも昔や坐興庵」を踏まえてのものであろう。坐興庵とは、嵐雪が芭蕉門に入門した頃の、芭蕉の桃青時代の庵号でもあった。それらを踏まえて、其角・嵐雪の三十三回忌の追悼句集「俳諧桃桜」の右巻(嵐雪追悼編)の歌仙の一つの、雪尾の発句なのである。その発句に対して、若き日の蕪村(宰鳥)は、「汐引(く)形(ナ)リに芦は枯臥(かれふす)」と、蕪村開眼の一句の「柳散清涸石処々(ヤナギチリ シミズカレ イシトコロドコロ)」に通ずる脇句を付ける。そして、夜半亭一門の主宰者・宋阿が、蕪村の荒涼たる叙景句を、「稽古矢の十三歳をかしらにて」と、元服前後の稽古矢に励んでいる人事句をもって、応えているのである。こういう歌仙の応酬の中に、当時の若き日の蕪村の姿というのが彷彿としてくるのである。

(六の一)

  四   豆腐を見れば飛上(トビア)る犬           少我
  五  暮〈れ〉かゝる宿(シュク)をのぞけばつげ(柘植)の月 宰鳥
  六   大(オホキ)な石の露しづかなり           雪尾

 歌仙「染(そむ)る間の」の四句目から六句目の句である。この四句目の少我の句は、三句目の景を犬追物の場と見定めての付けで、その犬が臆病になっていて「豆腐を見ても飛び上がる」という滑稽句である。こういう滑稽句に対して、次の宰鳥は、滑稽句で応酬せず、日暮れの宿場にかかる月という叙景句を付けている。この「つげ(柘植)の月」は、柘植の木の間にチラチラと垣間見える月と柘植の櫛のような三日月とが掛けられているのだろう。そういう技巧的なことは、当時の比喩俳諧の特徴の一つではあるが、それよりも、当時の蕪村(宰鳥)の美意識というものをも感じさせる一句である。こういう美意識は、後の蕪村の唯美主義的傾向の萌芽ともいえるものであろう。続く、雪雄の「大(オホキ)な石の露しづかなり」の句も、宰鳥の前句の美意識を醸し出している雰囲気に合わせ、格調のある付け句という雰囲気である。

(六の二)

 七  山びこに団扇をあげる西の方               少我
 八   無事かと背中つゝく国者                宋阿

 七句目の「団扇(うちは)」は、夏の季語だが、前句が「露」の秋の句で、歌仙のルールに、秋の句は三句以上続けるということからすると、この団扇は、相撲(秋)の軍配団扇の句と解せられる。句意は、「山彦が聞こえる山間地方の相撲の場で、西の方に軍配をあげた。その行司の声が山彦と照応している」ということであろうか。次の八句目は、前句の相撲の場で、国者(田舎者または同郷の人)が、「負けた力士に、大丈夫かと背中をたたきながら、声をかけている」という光景であろう。このように、一句だけの俳句(発句)と違って、連句の鑑賞は、前後の関係から、俳句の鑑賞よりも具体的な光景が読み取れるということを、しばしば経験する。それだけではなく、その連句をやられている連衆(メンバー)の遣り取りなども垣間見ることができる。こういう連句の場で、その中心となる宗匠(捌きをする人)の助手役(執筆)というようなことを、若き日の蕪村(宰鳥)は、夜半亭の宗匠の宋阿(巴人)のもとで、俳諧の修業を積んでいたのであろう。

(七)

 九 小箪笥を是非ともくれるおも(思)ひ病み      雪尾
 一〇  卯月のほこり御所の塗笠             宰鳥
 一一 如意が嶽芥子は散れども雪はまだ          宋阿

 歌仙「染(そむ)る間の」の九句目から十一句目で、この九句目は、雪尾の恋の句である。「おも(思)ひ病み」は、恋患いのこと。この「小箪笥」は化粧道具などを入れるものであろう。前句が、「無事かと背中つゝく国者」ということで、その「国者」(田舎者)が、郭にあがる景のようである。すなわち、「その田舎者は、馴染みの遊女に恋患いをしてしまい、化粧具入れをあげるると言って無理強いをしている」というものであろうか。それに対して、宰鳥(蕪村)は、「卯月のほこり御所の塗笠」ということで、前句の遊女を御所に仕える女房に見立て替えをしている付句である。句意は、「その女性は、御所の塗り笠を被っていて、その塗り笠には、初夏の卯月の埃がかかっている」と、いかにも、後の蕪村の、いわゆる、王朝趣味を漂わせている句である。さらに、その宰鳥の句に、夜半亭一門の宗匠の宋阿が、「如意が嶽芥子は散れども雪はまだ」と、この「如意ヶ嶽」とは、京都東山三峰の主峰のことで、一名「大文字山」、その積雪が白く大の字を現すのを「雪大文字」といい、それが背景にある句である。句意は、「その女性は、塗り笠のふちを上げて、雪の大文字山ともいわれている、如意が嶽を仰いだが、芥子の花が散ったころの夏の季節で、雪のころの風情はなく、今一つ精彩に欠いている」ということであろうか。雪尾(芭蕉門の一人の斎部路通門の京都出身の俳人。若き日の蕪村と交遊関係にあり、蕪村は後に「莫逆の友也」との記述を残している。別号、大夢、毛越)、宰鳥(蕪村)、そして、宋阿(巴人)の、この三人は、この歌仙に出てくる「如意が嶽」が仰ぎ見られる京都と深い関係にあり、この三人の関係、そして、その周辺を探っていくことも、これまた、興味のつきないところである。

(八の一)

 一二  喧嘩の相手見物となる             少我
 一三 青貝の蒸籠一つやきもち(焼餅)屋        宰鳥
 一四  座頭の自剃(ジゾリ)不思議でもなし     ゆきを

 歌仙の十二句目から十四句目は、表(六句)、裏(十二句)の、裏の六句目から九句目に当たる。歌仙の流れの「序(導入)・破(展開)・急(集結)」の流れでいくと、前半の「破」の局面である。少我の「喧嘩の相手見物となる」は、前句の宋阿の「芥子は散れども」から「喧嘩の場面」をイメージして、「喧嘩の仲裁人が何時の間にか喧嘩の当事者となり、喧嘩の当事者の一人が見物人になってしまった」という人事の滑稽句なのであろう。それに対して、蕪村こと宰鳥は、「青貝の蒸籠一つ」と、高価な色彩も鮮やかな螺鈿の蒸し菓子入れの句で、その前句の喧嘩の「ちぐはぐさ」を象徴しての「焼餅屋」の景の句に仕立てている。この句などは、やはり、画家という視点を感じさせる一句である。次の「ゆきを」は「雪尾」で、雪尾は時折この「ゆきを」を用いる。これなども、芭蕉門の路通の晩年の弟子の一人と思われる雪尾が、師の師の芭蕉の「ばせを」をもじっているような感じを抱かせる。さらに、この歌仙「染(そむ)る間の」は、宋阿・雪尾・宰鳥・少我の四吟で四人で興行されているのだが、この少我とは、蕪村の俳詩として名高い「北寿老仙を悼む」(晋我追悼の和詩)の、結城の俳人、早見晋我の「晋我」と関係のある俳人のようにも思われるのである。早見晋我は、宋阿と同じく其角門(後に介我門)で、其角に、其角の別号・「晋子」の「晋」の一字を許されたという著名な俳人でもあった。こうして、点を線としてつないでいくと、若き日の、当時の蕪村の姿がチラチラと見えてくる趣なのである。

(八の二)

一五  はつ花や手向(タムケ)のこりを提(サゲ)て来(クル) 少我
一六   空ふく竹にきれとまる几巾(タコ)          宋阿

 十五句目は、少我の花(はつ花)の句である。花の定座は、十七句目なのだが、ここに引き上げている。花の定座は引き上げることはあっても、その定座の後に出すという、いわゆる「こぼす」ということはない。そして、十四句目は、月の定座なのであるが、この歌仙では、その十四句目の月の定座を、十七句目にこぼしている。この月の定座は、前に持ってくる「引き上げる」ことも、また、後に「こぼす」こともフリーとなっている。このように、定座を引き上げたり、こぼしたりする理由というのは、花の句なり、月の句を連衆にバランスよく担当させるという座の雰囲気の配慮などによるものなのであろう。ここでは、発句を雪尾、脇句が宰鳥で、その関係で、十四句目の雪尾は月の定座をこぼして、先に、少我に、花の句を出すように誘っているのかもしれない。この歌仙の捌き(主宰者)は、おそらく、宋阿がやられているだろうから、雪尾、宰鳥、そして、少我の三人には、捌きの宋阿が、それぞれ、歌仙の流れを見て、それらの配慮を誘引しているということであろうか。もう一つ、この歌仙の一番最後の三十六句目の挙句の作者名が、「筆」となっており、これは「執筆」のことで、この歌仙の連衆(宋阿・雪尾・宰鳥・少我)の他に、もう一人、「執筆」がいるのか、それとも、「雪尾・宰鳥・少我」のうちの誰か一人が、それを兼ねているのかどうか不明である。感じとしては、この挙句の「筆」は、夜半亭に宋阿の内弟子として仕えている宰鳥が、句数の関係などから担当したようにも思われるし、当時の宰鳥の立場からして、そう考えるのが自然なのかもしれない。なお、掲出の十五句目の句意は、「座頭が自分の頭を剃っている前を仏に手向ける初花の残りを提げて来る」ということか。そして、十六句目は、「初花を散らしそうな強い春風のせいだろうか、竹林の竹に糸の切れた凧が引っかかかっている」ということであろう。

(九)

 一七 十日ほど宇治の人なり朧月          雪を
 一八  草履の〆(シメ)を切て投出す       宰鳥
 一九 髪置にうつくしきもの松の霜         宋阿

 この十七句目から十九句目の展開は、裏の十一句目と折端から名残の表の折立の展開である。歌仙三十六句のうち、丁度、前半と後半との折り返しの局面で、句数からすると山場ということになる。その十七句目は、本来は花の定座なのであるが、この歌仙では、十五句目に引き上げられており、そして、本来は十四句目の月の定座をここにこぼしているという異例の展開となっている。その雪尾の月の句は、「十日ほど宇治の人なり朧月」と、『源氏物語』の「宇治十帖」が背景にあるような句で、おそらく、京都から江戸の夜半亭に来て、しばらく滞在している自分(雪尾)をもイメージしてのものなのかもしれない。そして、次の宰鳥(蕪村)の折端の句、「草履の〆(シメ)を切て投出す」の短句(七七句)は、蕪村の五十三歳(明和五年)のときの、「宿かせと刀投出す雪吹(フブキ)哉」を彷彿させるような、ドラマ趣向の、後年の蕪村の一面を如実に感じさせるような句作りなのである。この歌仙が巻かれたのは、元文四(一七三九)年、ときに、宰鳥(蕪村)二十四歳のときで、実に、三十年近くの時間的な経過が、この両者の間には存在する。すなわち、後年の蕪村の作風というものは、この歌仙が巻かれたころの、江戸の日本橋の夜半亭に巴人の内弟子として滞在していたころに、その全ての萌芽があるといえるであろう。さて、十九句目の、宋阿(巴人)の、「髪置にうつくしきもの松の霜」とは、「髪置」(幼児が髪を初めて伸ばす折の儀式で、三歳の陰暦十一月十五日にすることが多い。式は頭に白粉を塗り、白髪綿と呼ばれる綿帽子をかぶせ、櫛で左右の鬢を三度掻くなどし、その後産土の社に詣でるもの)の句で、その髪置の日、庭の松が、その髪置の白髪綿のように美しい霜を戴いているというのである。いかにも、老練な夜半亭一世・宋阿らしい句作りである。

(十)

 二〇  小づかひ帳の役はこしもと           少我
 二一 糸屑の絶ぬたもとは静也             宰鳥
 二二  牛馬の影は七つより前             雪尾

 名残の表の二句目から四句目の展開である。この少我、宰鳥、そして、雪尾とは、年齢的には殆ど同年齢程度なのではなかろうか。この歌仙を巻いた元文四年(一七七五)は、蕪村こと宰鳥は二十三歳なのであるが、京都出身の雪尾は宰鳥よりも若干年齢的には上のようにも思われるけれども、後に、宝暦元年(一七五一)、蕪村三十六歳の、再び、京都に帰ったときのことについて、「名月摺物の詞書」に次のような記述が見られる(大礒義男「評伝蕪村」・『国文学解釈と鑑賞:昭和五三・三』)。

「予、洛に入りて先づ毛越を訪ふ。越、東都に客たりし時、莫逆の友也。」(私は、京都に再帰して最初に毛越(雪尾)を訪ねました。毛越とは、毛越が江戸に居られたときに、意気投合したきわめて親密な友人であります。)

 この毛越こと雪雄の、この毛越という号は、芭蕉の『おくのほそ道』の平泉中尊寺・毛越寺の「毛越」とは関係があるのだろうか。雪尾の師とされている斎部路通は、当初、その奥の細道の随行を予定されていたのであるが、曽良が代わって随行し、その後、路通は不祥事などで芭蕉の怒りを受け、それを避けるため奥羽行脚を決行するのであった。すなわち、芭蕉門でも、こと『おくのほそ道』に関連しては、路通は最も関係している一人といえよう。それをもう一歩進めて、想像を逞しくするならば、その路通の晩年の弟子の雪尾は、この歌仙を巻いているころ、芭蕉や師の路通の奥羽行脚の偲びながら、京都より奥羽行脚を決行して、その行脚の前後の江戸の滞在というのが、今回の、この歌仙の、宋阿や宰鳥との再会(これも推測の域を出ないが)に繋がっているのではなかろうか(このことについては、関連して後で触れていきたい)。掲出の句の句意は、「小づかひ帳の役はこしもと」は、「前句の髪置の子の小遣い帳をとりしきる役は腰元の役です」ということ。「糸屑の絶ぬたもとは静也」は、「その腰元は針仕事に余念がなく、絶えぬ糸屑も散らさず、針を動かしていても静かで手並みがあざやかである」と、そして、「牛馬の影は七つより前」は、「裁縫に励むその女性は、夜を徹して、もう明け方の四時頃となる。通りでは牛馬の影が見られる」というようなことであろう。

(十一)

二三 手入れ菊橋場へ通ふかんこ鳥           少我
二四  あみだへ後(ウシ)ロ向(ムケ)てけんどむ   宋阿
二五 けふは留守きのふはあまり早過る         雪尾

 名残の表の五句目から七句目である。少我の句の「橋場」は、現台東区今戸の橋場で、橋場の渡しで知られている所、その東橋場には火葬場があった。現在のその近辺の地図は次のアドレスの通り。

http://vip.mapion.co.jp/front/Front?uc=1&nl=35/43/20.010&el=139/48/37.486&grp=excite&scl=20000

 句意は、前句の「七つ」を午後の「七つ」(現在の四時頃)と見立て替えして、「その牛馬の影が見えるところは、かんこ鳥が鳴くような侘びしい火葬場のある橋場付近で、その侘びしい所で菊の手入れをしている」というところ。次の宋阿の句は、その菊を手入れしているもの侘びしい人物を、慳貪(盛り切りうどん)を食べている情景と転じて、句意は、「その男は阿弥陀さまに背を向けて、一人もの侘びしく慳貪うどんを食べている」と滑稽句の付句であろう。その宋阿の付句に対して、雪尾は、客人に合わぬ邪険な男に見立て替えして、「その男は、昨日は時刻が早いといい、今日は約束の時に留守をして、どうにも始末が困る」というのであろうか。何とも他愛のない付句の応酬といえばそれまでだが、当時の夜半亭一門を取り巻く環境の一端や、その日常生活などが、これらの付句の応酬の背景を通して透けて見えてくるという雰囲気である。

(十二)

 二六  帋(カミ)に紅葉を包む挨拶         宰鳥
二七 帰るには有明月のたのものしき         宋阿
二八  一人の母をもちし虫売            少我

 名残の表は八句目から十句目の展開である。宰鳥の句は、「紅葉狩りに行った人が、あいにく留守で、手紙に紅葉を添えて置いていった」という光景。さりげなく手紙の句を出して、恋文を連想させ、次の句に恋句を呼び出している、「恋の呼び出し」の句という雰囲気である。次の宋阿の句は、その宰鳥の恋の呼び出しの句を受けての、後朝の恋の句である。前句の紅葉を添えての手紙の送り主を、後朝の別れの女性と見立てて、その女性と早朝の別れをする男性は、「帰途につくのには、早朝の有明の月が丁度良い按配である」というのであろう。二十九句目(名残の表十一句目)の月の定座を引き上げて、有明月の句にしている。次の少我の句は、その帰途につく男性を虫売りの男性と特定して、「その虫売りは母一人待つ家に帰っていく」という光景であろう。紅葉狩りの風雅人から、後朝の別れの王朝風へと転じ、さらに、日常市井の虫売りの景へと、それぞれが、前句を受けて、十分に持ち味を出しているいるという雰囲気である。この歌仙が巻かれた元文四年(一七三九)は、夜半亭宋阿こと、早野巴人は六十四歳で、その三年後の寛保二年(一七四二)の六月六日に六十七歳で亡くなる。この元文四年の、『俳諧桃桜』(左巻「其角追善集」、右巻「嵐雪追善集」)は、宋阿の最後の大きな上梓といえるものであろう。この年、夜半亭宋阿の後継者の一人と目されていた、京都の俳人、宋屋(当時の号は富鈴)は『梅鏡』を上梓し、宋阿はそれに序文を寄せている。しかし、この宋屋は、宋阿亡き後、夜半亭二世を引き継ぐことなく、その二世を引き継ぐのは、明和七年(一七七〇)の、その三十年後の、五十五歳の宰鳥こと与謝蕪村、その人であった。

(十三)

二九  奉公の名におもしろきおぐしあげ        宰鳥
三〇   杭より西のそばたちやさしき        ゆきを 
三一  肴荷に菜の氷つく朝嵐             少我

 名残の表十一句目・折端から名残の裏折立の展開である。宰鳥の句は、前句に対する逆付け(向付け)で、虫売りの女性から御髪上げ(貴人の髪を結うこと)の高家の女性へと転じて、「奉公の名が御髪上げとはこれまたおもしろい」という句意。次の雪尾の句は、「その御髪上げの女性は、西国の領地に住むお方はさすがに東国育ちとは違って上品である」というのであろう。そして、少我の句は、「その高家の台所の肴の荷と一緒の菜には氷がついているような寒い日で、外では朝嵐が吹いている」という光景であろう。京都の俳人、後の毛越こと、ゆきを(雪尾)の師は芭蕉門の斎部路通については先に簡単に触れたが、この路通は、この歌仙が巻かれた前年(元文三年)に九十歳で没している。この路通は、この晩年には京都に多く住んでいたとのことであるが、大阪にも居たようで、もとより一戸を構えての生活ではなく、他家に寄食しての生活で、『猿蓑』での路通の代表句の一つにもされている、「いねいねと人にいはれつ年の暮」というような生涯であったのであろう。
雪雄が、この路通を俳句の師とし、そして、この師の路通が亡くなった翌年に、江戸に出て来て、おそらく、路通とは面識があった宋阿のもとで、この歌仙を巻いているということは、何か興味がひかれるところである。
 なお、斎部(八十村)路通については、下記のアドレスにより、次のように紹介されている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/rotsu.htm

「八十村氏。近江大津の人。三井寺に生まれ、古典や仏典に精通していた。蕉門の奇人。放浪行脚の乞食僧侶で詩人。後に還俗。元禄2年の秋『奥の細道』 では、最初同行者として芭蕉は路通を予定したのだが、なぜか曾良に変えられた。こうして同道できなかった路通ではあったが、かれは敦賀で芭蕉を出迎え て大垣まで同道し、その後暫く芭蕉に同行して元禄3年1月3日まで京・大坂での生活を共にする。路通は、素行が悪く、芭蕉の著作権に係る問題(註・芭蕉が、加賀の門人からの依頼で書いた付け合い十七体を後になって反故にした。これを路通が勝手に使用して公開してしまった。これで芭蕉の勘気をこうむった 。元禄七年、芭蕉の死の床には路通がいた)を出来し、勘気を蒙ったことがある。元禄3年、陸奥に旅立つ路通に、芭蕉は『草枕まことの華見しても来よ』と説教入りの餞の句を詠んだりしてもいる。貞亨2年春に入門。貞亨5年頃より深川芭蕉庵近くに居住したと見られている。『俳諧勧進帳』、『芭蕉翁行状記』がある。

路通の代表作

我まゝをいはする花のあるじ哉 (『あら野』)
はつ雪や先草履にて隣まで (『あら野』)
元朝や何となけれど遅ざくら (『あら野』)
水仙の見る間を春に得たりけり (『あら野』)
ころもがへや白きは物に手のつかず (『あら野』)
鴨の巣の見えたりあるはかくれたり (『あら野』)
芦の穂やまねく哀れよりちるあはれ (『あら野』)
蜘の巣の是も散行秋のいほ (『あら野』)
きゆる時は氷もきえてはしる也 (『あら野』)
いねいねと人にいはれつ年の暮 (『猿蓑』)
鳥共も寝入てゐるか余吾の海 (『猿蓑』)
芭蕉葉は何になれとや秋の風 (『猿蓑』   」

(十四)

三二   棒をつきつきはや桶の供          宋阿
三三  かすがいの額をせがまれ胡粉とく       雪尾
三四   筧のふしん台どころ迄           少我

名残の裏二句目から四句目の展開である。 宋阿の句の句意は、「その朝嵐の中を棒をつきつき粗末な棺桶の供がやってくる」という光景であろう。雪尾の句は、「その粗末な棺桶の野辺送りの一方、一方では、鎹(かすがい)の額を懇請された画工が胡粉をといている」と場面を転じている。そして、少我は、その鎹の額の作業から家普請の光景に転じて、「筧を台所まで引く家普請の最中である」というのであろう。これらの場面の「はや桶」・「胡粉」・「筧」と、これらは全て当時の風物詩であろう。この歌仙が巻かれた元文四年(一七三九)の頃の、江戸の背景史的な一端は、次のとおりである。

http://homepage2.nifty.com/mitamond/nenpyo/nenpyo_genbun.htm

1736(享保21/元文元)
01月 お半の方、徳川宗春の愛妾となる<天守閣の音>
春 徳川宗春、奇妙なカラクリ使いの香具師と知り合う<天守閣の音>
初夏 加賀藩出頭人・大槻伝蔵、刺客に襲われたところを家士・六兵衛に救われる<虎乱>
六兵衛の子・小市、父に代わって伝蔵に仕える<虎乱>
04月28日 元文に改元
夏 謎の香具師、名古屋城の天守閣に登る<天守閣の音> 雲切仁左衛門、尾張城下で捕らえられる<天守閣の音>
07月02日 荷田春満(68)没
08月12日 大岡忠相、江戸町奉行から寺社奉行となる
11月19日 香林院(大石りく)没
冬 大岡忠相配下の同心・三田村元八郎、将軍宣下に関わる陰謀を追い京へ向かう<竜門の衛> この年 徳川家治の異母兄・下村左源太誕生<将棋大名>
1737(元文2)
04月11日 中御門上皇(37)、没
05月03日 江戸で大火。寛永寺本坊焼失
   22日 徳川家治誕生
11月07日 各地で煙のようなものが吹き出し、火事のように見える[武江年表]
1738(元文3)
02月01日 江戸で夜5時頃、光り物が飛ぶ[武江年表]
   23日 漁師の網に人魚がかかる
04月07日 幕府、大坂に銅座を設置
夏 栗山定十郎、播州の一揆に関係して故郷を追われる<妖星伝>
10月18日 幕府、大筒役を新設
11月01日 幕府、鎌倉で大砲を試射
12月16日 但馬国生野銀山で打壊し
この年 奥丹波の農家の女が京都参詣の帰途、応声虫の病にかかり、腹でものを言い出す[閑田耕筆] 江戸本所の沼を埋め立てようとしたところ、 沼の蝦蟇が老人の姿で現れ、埋め立て中止を進言する[江戸塵拾]
1739(元文4)
01月12日 幕府、尾張藩主徳川宗春に蟄居を命じる
03月08日 青木昆陽、幕府に仕える
09月21日 玉川上水を開いた玉川庄右衛門、水配分に不正ありとして江戸払となる
1740(元文5)
05月 鳥海山噴火
08月03日 後桜町天皇誕生
09月 幕府、青木昆陽を甲信二州に派遣し古文書を採訪させる
この年 芸州の家士五太夫

(十五)

三五  一家中花なき軒もなかり鳧(けり)      宰鳥
三六   四本がゝりの暮遅きあし           筆

 名残の裏五句目から挙句の最終局面である。宰鳥の句の句意は、前句の家普請の景を受けて、「その一族のどの家でも花のない家はなく、その花は爛漫と咲き誇っている」というところであろう。その「一家中」には、この歌仙を巻いている「夜半亭一門」の意味も言外に込められているであろう。そして、執筆の句の句意は、その花爛漫の句を受けて、それを蹴鞠の景に転じて、「その広い屋敷の庭では、蹴鞠の四本掛かりの『松・楓・柳・桜』が植えられていて、春日遅々、蹴鞠に興じている」という光景であろう。そして、この歌仙の最後を飾る挙句には、この歌仙の四吟も終わろうとしている意味合いも込められていて、その意味合いでの「四本がかり」(蹴鞠)を利かせていると解せられるのである。さて、この挙句の作者(執筆)は、この四吟の連衆とは別の他の誰かなのであろうか。それとも、この四吟のうちの誰かが、いわゆる「執筆」(捌きの助手役)を兼ねていたのであろうか?
この歌仙は、夜半亭一門の主宰者の宋阿が、京都から江戸に出て来ている雪尾を囲んでの、宋阿の近辺にいる一門の宰鳥と少我とを誘っての内輪の歌仙興行のように思われ、当時、夜半亭に住み込んで宋阿の内弟子のような境遇にあった、宰鳥こと、若き日の蕪村が、宋阿の手足となって、その執筆の役に当たっていたのではなかろうか?  ここは句数からすると、雪尾九句、宰鳥九句、少我九句、そして、宋阿が八句で、宋阿の挙句が順当なのであるが、当時六十四歳の夜半亭俳諧の宗匠である宋阿が、おそらく、宰鳥(当時二十四歳)と同年齢の若手の雪尾(少我も若手俳人のように思われる)らの、この連衆の中にあって、この歌仙の「あっさりと巻き納める」挙句を担当するであろうか?  ここは、四吟で、順番からすると宋阿の番のようにも思われるけれども、その宋阿が、連衆の一人の、最も当時宋阿の近くに仕えていた、宰鳥に向かって、ここは、「執筆」の名で、「この歌仙の巻き納めをせよ」と、そんな配慮をしたのではなかろうか? これは推測であり、もとよりそれを証しする術もないけれども、ただ一つ、この挙句の季語が、「春遅き」(遅日・遅き日・暮遅し・暮れかぬる・夕長し・春日遅々)であり、この季語の「遅日」こそ、蕪村が生涯にわたって好んで用いたものというのが、その足掛かりのように思えるのである。大正・昭和にかけての近代詩壇の寵児であった、萩原朔太郎が、その著『郷愁の詩人 与謝蕪村』の作品鑑賞の冒頭に持ってきた、次の一句とその解説が、この挙句に接して去来したのである。

○ 遅き日のつもりて遠き昔かな

 蕪村の情緒。蕪村の詩境を単的に詠嘆していることで、特に彼の代表作と見るべきだろう。この句の詠嘆しているものは、時間の遠い彼岸における、心の故郷に対する追憶であり、春の長閑な日和の中で、夢見心地に聴く子守唄の思い出である。そしてこの「春日夢」こそ、蕪村その人の抒情詩であり、思慕のイデアが吹き鳴らす「詩人の笛」に外ならないのだ(萩原朔太郎)。

若き日の蕪村(その二)

若き日の蕪村(その二)

晋我追悼曲の謎

(十六)

   君あしたに去りぬ
   ゆふべの心千々(ちぢ)に何ぞ遙(はる)かなる。
   君を思うて岡の辺(べ)に行きつ遊ぶ
   岡の辺(べ)なんぞかく悲しき

 この詩の作者を名をかくして、明治年代の若い新体詩人の作だと言っても、人は決して怪しまないだろう。しかもこれが百数十年も昔、江戸時代の俳人与謝蕪村によって試作された新詩体の一節であることは、今日僕らにとって異常な興味を感じさせる。実際こうした詩の情操には、何らか或る新鮮な、浪漫的な、多少西欧の詩とも共通するところの、特殊な水々しい精神を感じさせる。そしてこの種の情操は、江戸時代の文化に全くなかったものなのである(萩原朔太郎)。

 『郷愁の詩人 与謝蕪村』(萩原朔太郎著)の冒頭の書き出しの部分である。この著が刊行された当時(昭和十一年)には、朔太郎のいう、この蕪村の新詩体は、この新詩体に出てくる「君」こと、結城の俳人・早見晋我が亡くなった延享二年(一七四五)正月二十八日逝去の追悼のもので、蕪村、三十歳の頃の作とされていた。また、そう解することに何らの疑いも持たれずに、そして、今でもそう解することが当然としてそのように解しておられる方々も多く見かけられる。この蕪村の延享時代の作とする考え方に対して、この作は、ずうと後の、安永六年(一七七七)の蕪村、六十二歳当時の、晋我三十三回忌追悼のものであろうとする考え方が、尾形仂氏によってなされ(『蕪村の世界』所収「北寿老仙を悼む」)、今では、この尾形仂氏の考え方に賛同する方を多く見かけるようになった。ここら辺のところに焦点をあてながら、この蕪村の「北寿老仙を悼む」(別名「晋我追悼曲」)を見ていくことにする。

(十七)

北寿老仙をいたむ

君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
何ぞはるかなる
君をおもふ(う)て岡のべに行(いき)つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき
蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲(さき)たる
見る人ぞなき
雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞(きけ)ば
友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき
へげのけぶりのはと打(うち)ちれば西吹(ふく)風の
はげしくて小竹原(をざさはら)真(ま)すげはら
のがるべきかたぞなき
友ありき河をへだてゝ住(すみ)にきけふは
ほろゝともなかぬ
君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず
花もまい(ゐ)らせずすごすごと彳(たたず)める今宵(こよひ)
ことにたう(ふ)とき 

釈蕪村百拝書

これが「北寿老仙をいたむ」の全文である。この末尾の「釈蕪村百拝書」の「釈」は仏弟子としての姓で、この新詩体(俳詩)に出てくる「君」(北寿老仙)こと、結城の俳人・早見晋我が亡くなつた享延享二年(一七四五)当時は、蕪村(三十歳頃)は結城の弘教寺(ぐきょうじ)に寄寓していて、すでに法体をしていたということであろう。この署名が無ければ、これは、まさしく、萩原朔太郎が、「この詩の作者を名をかくして、明治年代の若い新体詩人の作だと言っても、人は決して怪しまないだろう」ということを実感する。と同時に、この作品を生んだ蕪村という人物は、何ともミステリーな人物に思えてくるのである。

(十八)

この「北寿老仙をいたむ」を、細部にこだわらずに意訳してみると次のとおりとなる。

北寿老仙をいたむ

今朝あなたは突然亡くなってしまった 
今夕わたしの心は乱れに乱れています
どうにもあなたははるか彼方へ行かれたことか
どうにも氣が滅入ってなりません
あなたを偲び 思い出の岡の辺に行きました 
あてどなくさまよい歩きました
何とその思い出の岡の辺は もの悲しいことであつたことか
たんぽぽは黄色に輝き なずなは白く輝いていました
それなのに もう 誰ひとり見る人もおりません
あなたの声でしょうか それとも 雉子でしょうか 
しきりに鳴いています それを聞いています
あなたという友がいて、わたしとあなたは 河をへだてて住んでいました
不思議な煙が一瞬たちこめてきて 西の彼岸の方へ吹く風が
激しく 小笹の原を 真菅の原を 揺さぶり
それでは もう あなたは その雉子は 何処にも逃れる術とてないでしょう
あなたという友がいて、わたしとあなたは 河をへだてて住んでいました
今朝は もう ほろろとも 鳴き声 ひとつしません
今朝あなたは突然亡くなってしまった 
今夕わたしの心は乱れに乱れています
どうにもあなたははるか彼方へ行かれたことか
どうにも氣が滅入ってなりません
わたしは家に引き籠もり 阿弥陀さまに灯明もあげずに  
そして 花もあげずに しょんぼりと 打ち萎れております
なぜか 今宵は ことのほか 阿弥陀さまが 神々しく見えてなりません

この意訳をするに際して、若干、語釈などの留意点をあげておきたい。「去(さり)ぬ」は「去(い)ぬ」・「去(ゆき)ぬ」の詠みもあろう。「何ぞはるかなる」は、「何ぞ杳(はるか)なる」で「何とも暗い」とも解せられるが(『蕪村全集四』)、「何ぞ遙かなる」(距離または年月の遠くへだたっているさま。程度の甚だしいさま。気持の上でかけはなれたさま。気が進まないさま。また、何とも遠い彼岸の人になられてしまった)の意も含ませて意訳したい。「へげのけぶり」は「変化(へんげ)のけぶり」の意に解して(前掲書)、「不思議なけぶり」と意訳したい。「西吹(ふく)風」は、「黄泉・彼岸へ吹く風」の意もあろう。「あみだ仏(阿弥陀仏)」は蕪村が帰依した浄土教の本尊で、この衆生の救済を本願としている阿弥陀仏の賛仰ということは、意訳するうえで心がけておく必要があるように思われる。なお、「千々に」(さまざまに)についても、安永五年六月九日付の暁台宛の書簡(「夏の月千々の波ゆく浅瀬かな」の句あり)などと関連して考察する必要があるのかもしれない。

(十九)

 この「北寿老仙をいたむ」は、蕪村の死後の寛永五年(一七九三)に上梓された、桃彦(二世晋我)編の晋我(一世晋我)五十回忌追善集『いそのはな』に収載されている。早見晋我(一世晋我)は、本名次郎左衛門。下総結城の酒造家で、「北寿」はその隠居号。「老仙」は老仙人の意で蕪村が呈した敬称である。初め、其角、のちに、介我門。結城俳壇の古老として重きをなしていた。蕪村、三十歳の延享二年(一七四五)、七十五歳で没。その妻は、蕪村が二十七歳で師の宋阿と死別後身を寄せた同地の砂岡(いさおか)雁宕(がんとう)の伯母かという(『蕪村全集四』)。これらのことについて、ネット関連のものを調べていたら、次のアドレスで、下記のとおり紹介されており、参考に関連するところを抜粋しておきたい。

http://www.kyosendo.co.jp/rensai/rensai31-40/rensai39.html

※蕪村は享保元年(一七一六)攝津国東成郡毛馬村に生まれた。彼は享保年中(~一七三五)に江戸へ出て来て、二十二才の時に、早野巴人(宋阿)の門に入り俳諧を学ぶと同時に、絵画や漢詩の勉強もしたという。寛保二年(一七四二)、師の巴人が亡くなった後、同門の下総結城の砂岡雁宕(いさおかがんとう)の許に身を寄せ、その後十年、関東、奥羽の各地を廻り歩く。北寿の晋我は結城で代々酒造業を営む素卦家で、通稱を早見治郎左衛門と云い、俳諧は其角の門下で、其角の没後、その弟子の佐保介我に師事したという。晋我は結城俳壇の主要メンバーの一人で、蕪村のよき理解者だったが、延享二年(一七四五)に七十五才でこの世を去った。その時、蕪村は三十才だった。「北寿老仙をいたむ」は、その晋我の追悼詩だが、この詩が実際に世に出たのは、その五十年近く後の寛政五年(一七九三)で、晋我の嗣子、桃彦(とうげん)が亡父の五十回忌に当たり出版した俳諧撰集『いそのはな』の中で、「庫のうちより見出しつるままに右にしるし侍る」と付記があるという。この詩は晋我が死んだ延享二年の作といわれているが、その時、三十才だった蕪村が七十五才の晋我に対して「君」と呼びかけ、「友ありき」などというのは不自然だとして、尾形仂(おがたつとむ)氏は次のような説を述べている。蕪村は三篇の俳詩をものしているが、「北寿老仙をいたむ」以外の二篇、「春風馬堤曲」と「澱河歌」(でんがか)はいずれも安永六年(一七七七)出版の『夜半楽』に収められている。安永六年は晋我の三十三回忌に当たることから、晋我の三十三回忌の記念出版が企てられ、嗣子の桃彦から寄稿の要請を受けて作ったものではないか、というのである。「すでに蕪村は、老境の悲しみを知り、心理的にかっての長上晋我を『友』と遇し『君』と呼んでもそれほど不自然ではない老齢に達していた」(『蕪村俳句集』の解説)、時に蕪村、六十二才である。しかし、その三十三回忌の出版は何らかの理由で中止になり、蕪村の原稿は五十回忌の『いそのはな』の出版時まで桃彦の家の庫の中に収まったまま眠っていた、というのである。なる程、そう考えると、確かに辻褄があう。いずれ、この説が立証されるかもしれない。(上記のネット記事)

(二十)

 ここで、「北寿老仙をいたむ」が収載されている『いそのはな』を上梓した、桃彦(二世晋我)宛ての蕪村(三十六歳)の、宝暦元年(一七五一)十一月□二日付けの書簡を紹介しておきたい(□は虫食いなどによる不明箇所。以下、読みのルビなどは新仮名遣いで括弧書き。新字体に直したところには次に※を付する)。

□椹木(さわらぎ)町□屋与八殿迄
右之処※付ニ而(て)御登可被下候(おのぼせくださるべくそうろう)
此書付壁ニ張付被差置(さしおかれ)
無御失念(ごしつねんなく)御登(おのぼ)せ可被下候
平林氏一行もの、或ハれん二三枚御もらい(ひ)可被下候
当※地庵※中ニ掛(かけ)申度候
外ニ風流ヨリ※達而(たって)所望いたされ候
何とぞ二三枚貴公御徳を以(もって)
拝裁(戴)奉願候(はいたいねがいたてまつりそうろう)
一生之御たのミニ御坐候
大黒したゝめ御礼ニ相下可申候(あいくだしもうすべくそうろう)
京都所々廻見(めぐりみ)
さてさて※おもしろく相暮候(あいくらしそうろう)
先頃臥見(ふしみ)ニ参上 滞留いたし候
□の貴公 夜踊ニ御出被成(おいでなされ)候事思ひだし独※笑(どくしょう)仕候
俳かいも折々仕(つかまつり)候
いまだ何かといそがしく 取とゞめ候事も無之(これなく)候
一両年なじミ候ハバ
一入(ひとしお)面白候半(そうらわん)とたのしミ罷有候(まかりありそうろう)
先々平林公の墨跡 かならずかならず※奉頼(たのみたてまつり)候
是非々々相待申(あいまちもうし)候
鴛見(おしみ)
お(を)し鳥に美をつくしてや冬木立
その外あまた有之(これあり)候 略※いたし候
ゆふき田洪いかゞ候や
御ゆかしく候 以上
霜月□二日

(二十一)

□椹木(さわらぎ)町□屋与八殿迄
右之処※付ニ而(て)御登可被下候(おのぼせくださるべくそうろう)
此書付壁ニ張付被差置(さしおかれ)
無御失念(ごしつねんなく)御登(おのぼ)せ可被下候
平林氏一行もの、或ハれん二三枚御もらい(ひ)可被下候

 蕪村は結城・下館・宇都宮を中心に関東遊歴十年の後、宝暦元年(一七五一)八月、木曽路を経て京に再帰した。時に、三十六歳であった。当時は、人生八十年ではなく五十年というスパンであろうから、もはや、中年といってもよいであろう。そういう年齢に達していても、蕪村は未だ独身で、一家を構えることもなく、京に再帰して、「□椹木(さわらぎ)町□屋与八殿」の家に寄寓しているというのであろう。「此書付壁ニ張付被差置(さしおかれ) 無御失念(ごしつねんなく)御登(おのぼ)せ可被下候」とは、「この手紙を壁に貼り付けて、忘れることなく、必ずお返事ください」と、この手紙の宛先の桃彦と蕪村とは、蕪村が兄で桃彦が弟のような、何か身内同士のやりとりのようにも思えるのである。また、事実、そういう関係にあったのであろう。「右之処※付ニ而(て)御登可被下候(おのぼせくださるべくそうろう)」とは、「右の宛名で、ご返事下さい」と、書き出しから、「ご返事下さい」と、そして「平林氏一行もの、或ハれん二三枚御もらい(ひ)可被下候」(平林氏の書の一行もの、あるいは、左右対になっている聯もの二・三枚貰ってください)、そして、それを京都の「□椹木(さわらぎ)町□屋与八殿迄」(蕪村まで)送ってくださいというのである。随分と厚かましい内容の書簡なのである。平林氏とは、「平林静斎」のことで、「父は鍵屋清左衛門。十二歳の時、父に伴われて広沢の門に入る。別名、消日居士、桐江山人、東維軒。王義之、王献子に学び、他に漢、魏、随、唐の名家の書を学んで広沢門下四天王の一人と言われた。門人二千人。宝暦三年、五十八歳没。当時人気の絶頂にあった書家である」(村松友次著『蕪村の手紙』)という。

(二十二)

当※地庵※中ニ掛(かけ)申度候
外ニ風流ヨリ※達而(たって)所望いたされ候
何とぞ二三枚貴公御徳を以(もって)
拝裁(戴)奉願候(はいたいねがいたてまつりそうろう)
一生之御たのミニ御坐候
大黒したゝめ御礼ニ相下可申候(あいくだしもうすべくそうろう)
京都所々廻見(めぐりみ)
さてさて※おもしろく相暮候(あいくらしそうろう)
先頃臥見(ふしみ)ニ参上 滞留いたし候
□の貴公 夜踊ニ御出被成(おいでなされ)候事思ひだし独※笑(どくしょう)仕候
俳かいも折々仕(つかまつり)候

「当※地庵※中ニ掛(かけ)申度候」(この京都の寄寓の壁にその平林静斎の書を掛けたいのです)、「外ニ風流ヨリ※達而(たって)所望いたされ候」(その外、知り合いの風流人から是非にと所望されているのです)。「何とぞ二三枚貴公御徳を以(もって)」(ここは、桃彦さまのご人徳をもって、二三枚)、「拝裁(戴)奉願候(はいたいねがいたてまつりそうろう)」
(手に入れていただきたくよろしくお願いします)。これは、「一生之御たのミニ御坐候」(一生のお願いでございます)。平林静斎の書を送ってくださったときには、「大黒したゝめ御礼ニ相下可申候(あいくだしもうすべくそうろう)」(大黒を描いてお礼にお送りいたします)。この「大黒」とは、いわゆる七福神(恵比寿、大黒、毘沙門、弁財、布袋、福禄寿、寿老人)の大黒様で、それを描いて差し上げますと、やはり、蕪村は画家で、そういうものを、需要に応じて描いて、それで生計を立てていたのであろう。当時、蕪村が描いたと推測されている「大黒絵手本」(『蕪村全集六』所収図版一六)が、下館の中村家(当時夜半亭門の俳人・風篁)に現に所蔵されている。この中村家には、この外に、「子漢」の署名の「陶淵明三幅対」(前掲書所収図版一)、「浪華四明筆」の落款の「漁夫図」(前掲書所収図版三)、「四名」の署名の「三浦大助三幅対」(前掲書所収図版二)、杉戸絵四面の「追羽子図」(前掲書図版八)、さらに、八面貼込の模写絵の「文徴明八勝図」(前掲書図版九)などが所蔵されている。これらの当時の作品群に接すると、蕪村は、主たるウエートを絵画に置き、その絵画と同時併行して俳諧の修業をしていたことが伺える。そして、その関東出遊時代の修業時代を終え、再び、京都に帰って来て、「京都所々廻見(めぐりみ)」(京都の所々を見て回り)、「さてさて※おもしろく相暮候(あいくらしそうろう)」(とにもかくにも面白く暮らしています)と、意気盛んなのである。続いて、「先頃臥見(ふしみ)ニ参上 滞留いたし候」(先日、伏見に行って、しばらく遊んで来ました)。「□貴公 夜踊ニ御出被成(おいでなされ)候事思ひだし独※笑(どくしょう)仕候」(その折、あなたの、何時かの夜、踊りに来た時のことを思い出して、一人で苦笑していました)。「俳かいも折々仕(つかまつり)候」(俳諧の方も忘れずに折に触れては作っています)と、当時の、蕪村の姿が彷彿としてくるのである。

(二十三)

いまだ何かといそがしく 取とゞめ候事も無之(これなく)候
一両年なじミ候ハバ
一入(ひとしお)面白候半(そうらわん)とたのしミ罷有候(まかりありそうろう)
先々平林公の墨跡 かならずかならず※奉頼(たのみたてまつり)候
是非々々相待申(あいまちもうし)候
鴛見(おしみ)
お(を)し鳥に美をつくしてや冬木立
その外あまた有之(これあり)候 略※いたし候
ゆふき田洪いかゞ候や
御ゆかしく候 以上
霜月□二日

「いまだ何かといそがしく 取とゞめ候事も無之(これなく)候」(まだ、何かと忙しく、特に、記録に留めておくようなこともございません)。「一両年なじミ候ハバ」(一・二年この京都におりましたら)、「一入(ひとしお)面白候半(そうらわん)とたのしミ罷有候(まかりありそうろう)」(かならずや、面白いニュースなどもお知らせできると、楽しみにしていてください)。「先々平林公の墨跡 かならずかならず※奉頼(たのみたてまつり)候」
(とにもかくにも、平林静斎の書き物、必ず、必ず、忘れないで、よろしくお願いします)。
「是非々々相待申(あいまちもうし)候」(是非、是非、お待ちしています)。凄い、執心である。
鴛見(鴛見の句)
お(を)し鳥に美をつくしてや冬木立
(鴛鳥に彩色を使い果たしてしまったのか、冬木立は水墨画のような装いである)
「その外あまた有之(これあり)候 略※いたし候」(その外にも、このような句はありますが、省略します)。「ゆふき田洪いかゞ候や」(結城在住の、弟様の田洪はどうしておりますか)。「御ゆかしく候 以上」(とても懐かしく存じます 以上)。
霜月□二日(陰暦十一月□二日)

蕪村が京都に再帰したのは、宝暦元年(一七五一)八月(陽暦十月)のことであり、この書簡の日付からして、この桃彦あてのものは、その二ヶ月後ということになる。当時、桃彦が、結城に居たのか、それとも、江戸に居たのか(弟の田洪が結城に居て、桃彦は、平林静斎の書が手に入るような江戸在住であったのか)、詳しいことは分からない。しかし、こういう無心の書簡を出せるということは、結城の早見晋我・桃彦・田洪の、いわゆる、晋我一族とは、昵懇の間柄であったということは間違いなかろう。

(二十四)

○ 肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)

 この掲出の句は、宝暦元年(一七五一)霜月□二日(陰暦十一月□二日)の桃彦宛ての書簡に前後した頃の蕪村の句である。句意は、「僧に化けた狸が書き写したという木の葉経を己の髪の毛を噛み噛み読誦するかと思えば何とも寒々としてくる」というようなことであろうか。この句碑は現在結城市の弘経寺に建立されている。結城の檀林弘経寺は浄土宗。壽亀山松樹院弘経寺といい、所在は結城市西町、創建は文禄三年(一五九四)と伝える。徳川秀康(家康の孫)の息女松姫が六歳で没したのでその菩提寺として秀康の創建したもの。この寺は、砂岡雁宕の菩提寺で、今も雁宕の墓がある。同寺の過去帳によると、雁宕は弘教寺第二十九世成誉上人血脈である旨記されている。雁宕と同寺との特別な関係から、蕪村もしばしば同寺を訪れ、画作に精進したのであろう。同寺には、襖絵四枚「墨梅図」(『蕪村全集六』所収図版十)、同六枚「楼閣山水図」(前掲書所収図版十一)などが所蔵されている。さて、この掲出の句には、「洛東間人嚢道人釈蕪村」と、俳詩「北寿老仙をいたむ」の署名と同じ「釈蕪村」の署名があるのである。
なお、次のアドレス(蕪村ゆかりの場所:結城)に写真などが掲載されている。

弘経寺については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/gugyoji.html

木葉経句碑については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/konoha.JPG

雁宕句碑については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/gantoku.JPG

雁宕の墓については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/ganto.html

妙国寺(「北寿老仙をいたむ」の詩碑がある)については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/myokoku.html

「北寿老仙をいたむ」詩碑については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/hokujuhi.html

早見晋我の墓については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/shinga.html

蕪村筑波山句碑については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/tsukuba.JPG

(二十五)

この署名の「洛東間人嚢道人釈蕪村」の「釈蕪村」の「釈」は、仏弟子としての姓を意味するということについては先に触れた。そして、終世の俳号となる「蕪村」については、寛保四年(一七四四)の、蕪村初撰集の、いわゆる『宇都宮歳旦帖』において始めて使われた号なのである。その表題には次のとおり記載されている。

寛保四甲子 (かんぽう よん かっし)
歳旦歳暮吟 (さいたん さいぼの ぎん)
追加春興句 (ついか しゅんきょうの く)
野州宇都宮 (やしゅう うつのみや)
渓霜蕪村輯 (けいそう ぶそん しゅう) 

 この「渓霜蕪村輯(編集)」の「渓霜」は姓で、蕪村の本姓の「谷口」(中国風に「谷」)の意と解せられよう。「霜」は、先に触れた歌仙「染る間の」の巻が収載されている『俳諧桃桜』(宋阿撰集)に、宰鳥の名で収載されている発句、「摺鉢(すりばち)のみそみめぐりや寺の霜」の「霜」とも思われ、宰鳥の号の初見も、実にこの発句に置いてなのである(また、この『俳諧桃桜』の版下は、宰鳥こと蕪村その人であろうといわれている)。そして、「蕪村」の号の由来は、蕪村が敬愛した中国・六朝時代の詩人・陶淵明の「帰去来辞」によるものとされている。

帰去来兮 (帰りなんいざ)
田園将蕪 (田園まさにあれんとす)
胡不帰  (なんぞ帰らざる) 

 また、蕪村開眼の一句とされている、この『宇都宮歳旦帖』の上梓の前年あたりに決行した奥羽行脚の遊行柳での、「柳散清水涸石処々」(やなぎちりしみずかれいしところどころ)などの、その北関東や奥州の荒廃した荒れた荒蕪の村々のイメージが、この「蕪村」という号の背後に蠢いているようにも思えるのである。そして、この「洛東間人」の「間人」(荘園制下で、村落共同体の最下層に位置づけられた新来の住民。卑賤視されることが多く、近世にも名称は残存する。亡土とも書く)にも、さらには「嚢道人」の「嚢」(蕪村の絵画の号「虚洞」に通ずる無限の風を生ずるとの老荘思想に由来するもの)や「道人」(これまた老荘思想に関連する「俗世間より遁れて山間に生活する人」の意など)にも、当時の蕪村の「生き様」というのが透けて見えてくるような思いがするのである。

(二十六)

 蕪村の「肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)」の句には、次のような前書きのような一文が添えられている。

「しもつふさの檀林弘経寺といへるに、狸の書写したる木の葉の経あり。これを狸書経と云て、念仏門に有がたき一奇とはなしぬ。されば今宵閑泉亭にて百万遍すきやうせらるゝにもふで逢侍るに、導師なりける老僧耳つぶれ声うちふるいて、仏名もさだかならず。かの古狸の古衣のふるき事など思ひ出て、愚僧も又こゝに狸毛を噛て」
(下総の浄土宗の十八檀林の一つの弘経寺というところに、狸の書写したという木の葉の経文がある。この経文は狸書経と云って、浄土宗においては有り難い奇特のものとされてている。そんなこともあって今晩閑泉亭において百万遍念仏法会が執行せられるに参会いしましたところ、その法会の唱道の師の老僧は耳も聞こえず声も震えていて、仏の名すらも覚束ないありさまでした。この木の葉の経を書写したという古狸の古衣などの昔の事を思い出しまして、愚僧の私もここに、その古狸の毛を噛みなから、一句したためます。)」

 この「愚僧も又こゝに狸毛を噛て」ということについては、その署名の「洛東間人嚢道人釈蕪村」の「釈」(釈迦の弟子であることを表するために、僧侶が姓として用いる語)の姓からして、当時の蕪村その人と解して、上記のように意訳したのであるが、『蕪村全集(四)』においては、「老僧の経は自分の毛で作った筆を噛み噛み書いた木の葉経ではないか」との解である。さらに、この「閑泉亭」については、その頭注において、「あるいは『閑雲亭』の誤読か。閑雲亭とすれば宮津の鷺十の真照寺」とし、「『洛東間人嚢道人』の署名より、宝暦初年の作。あるいは丹後時代(宝暦四~七)か」の「丹後時代(宝暦四~七)」のものの可能性についても触れられている。その「丹後時代のものか」ということよりも、
「『洛東間人嚢道人』の署名より、宝暦初年の作」の、この「洛東間人嚢道人」の署名は、、宝暦初年の頃のものであり、さらに、それに続く「釈蕪村」の署名も、蕪村の宝暦年間のものであり、まして、蕪村が夜半亭二世を継いだ、明和七年(一七七〇)、蕪村、五十五歳以降に、この署名というのは、『蕪村全集』(既刊もの)を見た限りにおいては、目にすることが出来ないのである。とすれは、先に触れたところの、次のネット記事の、安永六年(一七七七)説よりも、延享二年(一七四五)説に、または、それに近い、宝暦年間のものとするのが妥当なのではなかろうか。

「晋我の嗣子、桃彦(とうげん)が亡父の五十回忌に当たり出版した俳諧撰集『いそのはな』の中で、『庫のうちより見出しつるままに右にしるし侍る』と付記があるという。この詩は晋我が死んだ延享二年の作といわれているが、その時、三十才だった蕪村が七十五才の晋我に対して『君』と呼びかけ、『友ありき』などというのは不自然だとして、尾形仂(おがたつとむ)氏は次のような説を述べている。蕪村は三篇の俳詩をものしているが、『北寿老仙をいたむ』以外の二篇、『春風馬堤曲』と『澱河歌』(でんがか)はいずれも安永六年(一七七七)出版の『夜半楽』に収められている。安永六年は晋我の三十三回忌に当たることから、晋我の三十三回忌の記念出版が企てられ、嗣子の桃彦から寄稿の要請を受けて作ったものではないか、というのである。『すでに蕪村は、老境の悲しみを知り、心理的にかっての長上晋我を『友』と遇し『君』と呼んでもそれほど不自然ではない老齢に達していた』(『蕪村俳句集』の解説)、時に蕪村、六十二才である。しかし、その三十三回忌の出版は何らかの理由で中止になり、蕪村の原稿は五十回忌の『いそのはな』の出版時まで桃彦の家の庫の中に収まったまま眠っていた、というのである。なる程、そう考えると、確かに辻褄があう。いずれ、この説が立証されるかもしれない」(先のネット関連記事)。

(二十七)

 蕪村の「肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)」の句に関連する、「木の葉経句文」について、『蕪村全集(四)』の解説・頭注は以下のとおりである。

(解説)
真蹟によって潁原退蔵編『蕪村全集』(大正十四年刊)に収録されたもの。現在、原真蹟の所在不明。「洛東間人嚢道人の署名より、宝暦初年の作。あるいは丹後時代(宝暦四~七)か。老僧の念仏の声がさだかでないところから、古狸ではないかとの幻想をいだき、弘経寺の木の葉経のことを思い起こして、老僧の経は自分の毛で作った筆を噛み噛み書いた木の葉経ではないかと興じたもの。
(頭注)
木の葉経  狸の化身である僧侶が写したといわれる経。言い伝えによれば、飯沼(水海道市)の弘経寺第二世良暁上人の徒弟の良全は仏門に入るために人の姿に化けた狸であったが、正体が露見したのを恥じて、経を遺して死んだので、上人がねんごろにとむらい、その経を寺宝にしたという。それが結城の弘経寺に伝わり、住職のほかは見ることができないとされている。

さらに、潁原退蔵編『蕪村全集』(大正十四年刊)に、次のような頭注がある。

(頭注)
遺草  これは蕪村が京都に西帰して間もなく、即ち宝暦初年の頃書きしものと思はれる。筆跡も晩年のものとはいたく異り。

この潁原退蔵編『蕪村全集』(大正十四年刊)の頭注の「これは蕪村が京都に西帰して間もなく、即ち宝暦初年の頃書きしものと思はれる。筆跡も晩年のものとはいたく異り」は、この「木の葉経句文」の署名の、「洛東間人嚢道人釈蕪村」についても、均しく指摘できるところのものであり、このこともまた、その「釈蕪村」の署名が、「安永六年(一七七七)説よりも、延享二年(一七四五)説に、または、それに近い、宝暦年間のものとする」ところの一つの証しにもなるように理解をしたいのである。

(二十八)

阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探(さぐり)て、一羽烏といふ文作らんとせしも、いたづらにして歴行する事十年の后(のち)、飄々(ひょうひょう)として西に去(さら)んとする時、雁宕が離別の辞に曰(いわ)く、再会興宴の月に芋を喰(くう)事を期せず、倶(とも)に乾坤(けんこん)を吸(すう)べきと、其(その)言をよしとして、翅書(ししょ)さへまめやかにせざりしに、ことし追悼編集の事告(つげ)来(きた)るにぞ、さすがに涙もろく、斎団扇(ときうちわ)の上に酬書(しゅうしょ)し侍る。跋とすやしらず、捨(すつ)るやしらず。 釈蕪村

(わが宋阿師が没して後、しばらくその主の無い家に居て、わが師の遺されたものを調べまして、それらを一羽烏という題にて文集を作ろうとしましたが、何をすることもなくあちこちと歴行をするばかりで十年が過ぎてしまいました。そして、当てもなくこうして京都に再帰するにあたり、兄事していた雁宕の別れの言葉に、再会月見の興宴の時には芋などを喰らっていずに、お互いに天下を一飲みに飲み干そうと言われ、その言葉を肝に銘じて、手紙もこまめにせず過ごしてきましたが、今年、宋阿師の追悼編集の連絡を受けまして、どうにも涙がこぼれてなりません。その追悼の法事に供する団扇に、こうしてその返書をしたためましたが、それが、跋文になるのものやら、それとも捨てられてしまうものやら、とにもかくにも、返書をする次第です。 釈蕪村 )

 これは、雁宕他編『夜半亭発句帖』に寄せられた蕪村の「跋文」である。『夜半亭発句帖』は、宝暦五年(一七五五)に夜半亭宋阿こと早野巴人の十三回忌にその発句(二八七句)を中心にして上梓したものである。この序文は雁宕が宝暦四年の巴人の命日(六月六日)をもって記しており、上記の蕪村の跋文もその当時に書かれたということについては動かし難いことであろう。この宝暦四年(蕪村、三十九歳)に、蕪村は京を去って丹後与謝地方に赴き、宮津の浄土宗見性寺に寄寓し、以後三年を過ごすこととなる。この丹後時代の蕪村の署名は、「嚢道人蕪村」というものが多く、この『夜半亭発句帖』の「跋文」に見られる「釈蕪村」の署名は、蕪村が京に再帰した宝暦元年(一七五一)からこの跋文が書かれた同四年頃までに多く見かけられるものである。そして、「北寿老仙をいたむ」の「北寿老仙」こと早見晋我が没したのは延享二年(一七四五)であり(その前年の延享元年に巴人亡き後の親代わりのような常磐潭北が没している)、それは巴人が没する寛保二年(一七四二)の三年後ということになる。即ち、巴人十三回忌に当たる宝暦四年前の宝暦二年前後が、晋我(また、常磐潭北)の七回忌に当たり、その頃、在りし日の北関東出遊時代のことを偲びながら、当時京都に再帰していた蕪村が、古今に稀な俳詩「北寿老仙をいたむ」を書き、そして、当時こまめに文通していた晋我の継嗣・桃彦宛てに、「釈蕪村百拝書」と署名して送ったもの、それが、「北寿老仙をいたむ」の作品の背景にあるように思えてくるのである。

(二十九)

予、洛に入(いり)て先(まず)毛越(もうをつ)を訪ふ。越(をつ)、東都に客たりし時、莫逆(ばくげき)の友也。曽(かっ)て相語る日、いざや共に世を易して、髪を薙(なぎ)、衣を振(ふるっ)て、都の月に嘯(うそぶか)む、と契りしに、露たがはず、けふより姿改(あらため)て、或は名を大夢(たいむ)と呼ブ。浮世の夢を見はてんとの趣いとたのもし、など往時を語り出(いで)ける折ふし、紅竹(こうちく)のぬし、榲桲(まるめろ)を袖にして供養せられければ、即興。
  まるめろはあたまにかねて江戸言葉   東武 蕪村

(私は、京都に帰って来まして、先ず毛越を訪れました。毛越は、江戸に来ていたときに、意気投合し心の許し合った仲間です。その当時、語り合ったことですが、手を携えて俳壇を改革しょうと、剃髪し、俗塵を脱して、再び、京都で再会したときには、月見の興宴で共に句を吟じようと、その約束通りに、今日から僧形になって、名を毛越から大夢に改め、この現世での希望を現実にするその姿勢に非常に心がうたれるものがあります。このような往時のことを語り合っていますと、俳友の紅竹が、他のものは何も上げることはできないが、せめて花梨のマルメロでも頭を丸めた二人に献じましょうと云われましたので、そこで、即興の一句です。

まるめろはあたまにかねて江戸言葉   
――「まるめろ」は「花梨のまるめろ」と「頭をまるめろ」
とを兼ねた江戸言葉です ――
江戸 蕪村 )

 蕪村が永く歴行していた江戸と関東時代に見切りをつけ京都に再帰したことと、再帰して先ず雪尾こと毛越を訪れたことについては先に触れた。上記がそれらを証しする「まるめろは」詞書(宝暦元年)の全てである。この詞書について、” 大礒義雄氏が昭和五十年ごろに入手した半紙本一冊の写本『聞書花の種』に、「名月摺物詞書」と題し、「東武 蕪村」の名で収められている(「国文学解釈と鑑賞」昭和五十三年三月号)。写真版は『図説 日本の古典 芭蕉・蕪村』(昭和五十三年十月刊)に掲げる。『聞書花の種』は俳文集で、筆録者不明だが、大礒氏によればおそらく京都の人で、あるいはこの文中に名前の見える毛越かと思われるという(「連歌俳諧研究」第五十四号、昭和五十三年一月)。この一文によって、蕪村の上京が名月のころであったことがわかる。句は他に所見がない。” と『蕪村全集(四)』で紹介されている。これらのことに関して、これまでのことと重複するかも知れないが、この京都に再帰した宝暦元年当時の蕪村の署名は、「東武 蕪村」というもので、「釈蕪村」というものは見あたらない。また、これ以前においても、「渓霜蕪村」という、いわゆる『宇都宮歳旦帖』での署名は見るが、これまた、「釈蕪村」の署名というのは見あたらない。これらのことからして、いわゆる、蕪村の俳詩「北寿老仙をいたむ」の創作時期は、北寿老仙が亡くなった延享二年という説は、何か「唐突に、釈蕪村の署名がなされている」という思いがするし、さらに、「蕪村は三篇の俳詩をものしているが、『北寿老仙をいたむ』以外の二篇、『春風馬堤曲』と『澱河歌』(でんがか)はいずれも安永六年(一七七七)出版の『夜半楽』に収められている。安永六年は晋我の三十三回忌に当たることから、晋我の三十三回忌の記念出版が企てられ、嗣子の桃彦から寄稿の要請を受けて作ったものではないか、というのである。『すでに蕪村は、老境の悲しみを知り、心理的にかっての長上晋我を『友』と遇し『君』と呼んでもそれほど不自然ではない老齢に達していた』(『蕪村俳句集』の解説)、時に蕪村、六十二才である。しかし、その三十三回忌の出版は何らかの理由で中止になり、蕪村の原稿は五十回忌の『いそのはな』の出版時まで桃彦の家の庫の中に収まったまま眠っていた」とする、いわゆる安永六年説も、この「釈蕪村」の署名に関連して、何か不自然な推論のように思えてくるのである。ここは、その「釈蕪村」の署名により、その署名が見られる宝暦四年の『夜半亭発句帖』(巴人十三回忌追悼集)の蕪村の「跋文」起草前後、そして、それは、晋我七回忌あるいは十三回忌とかと関連するものと理解をしたいのである。これらの新しい理解を提示するために、以下、稿を改めて、” 大礒義雄氏が昭和五十年ごろに入手した半紙本一冊の写本『聞書花の種』に、「名月摺物詞書」と題し、「東武 蕪村」の名で収められている(「国文学解釈と鑑賞」昭和五十三年三月号)”ことなど、大礒義雄氏の「評伝・与謝蕪村」の関連するところを忠実にフォローして見たいのである。 

若き日の蕪村(その三)

若き日の蕪村(三)

(三十)

「江戸生活その一」(「国文学 解釈と鑑賞」五五六号所収、大礒義雄稿「評伝・蕪村」抜粋)

蕪村が故郷を出て江戸へ赴いたのはいつであろうか。江戸居住の正確な年時の知れるものは元文二年、二十二歳の時である。しかしそれより二、三年さかのぼり享保の末年ではないかというのが従来の推測であり、それらしく思われる。新資料の出現や研究の進展により将来明らかにされるかもしれない。大江丸は蕪村ははじめ「江戸内田沾山に倚り、後に巴人宋阿の門人とな」ったと述べている。しかし、沾山との関係を知るべき資料は何一つ見つからない。又、蕪村ははじめ宰町・宰鳥の俳号で出てくるので、江戸座の足立来川門に西鳥という名で出ている者があり、これが同音から蕪村ではないかという西鳥初号説と来川門人説とがあるが、確実性に乏しくむしろ否定さるべきものである。巴人宋阿は下野
国那須郡烏山の人で、早くから江戸に出て其角・嵐雪の教えを受け江戸俳壇で知られた人であるが、京にのぼり止まること、十年、元文二年四月江戸に帰り、日本橋本石町三丁目の小路にある時鐘のほとりに居を定めて夜半亭と称した。この年内に蕪村が宋阿を訪れて入門したことは、翌元文三年の『夜半亭歳旦帖』に蕪村の出句があることで明瞭である。ただ、どのような縁故関係があって、宋阿門に帰したかは明瞭でない。宋阿の京住時代に交渉があったと見る説は、今後の課題であろう。
(メモ)
元文二年(一七三七) 二十二歳
四月三十日 在京十年の巴人は砂岡雁宕のすすめで江戸に帰り、六月十日頃豊島露月の世話で日本橋本石町三丁目の鐘楼下に夜半亭の居を定め、宋阿と改号。
○間もなく「宰町」が入門、内弟子として夜半亭に同居。大江丸の『はいかい袋』に「江戸内田沾山に倚り、後に巴人宋阿の門人とな」ったという記事が見える。沾山は沾徳の高弟で当時江戸座の一流俳人とされている。
元文三年(一七三八) 二十三歳
○この年刊行の巴人の『夜半亭歳旦帖』に次の句が入集されている。
    君が代や二三度したる年忘れ
続いてこの年夏刊行の、豊島露月が七十歳の賀集として撰した『卯月庭訓』には「宰町自画」として、次の句が見られる。
    尼寺や十夜に届く鬢葛

(三十一)

「「江戸生活その二」(「国文学 解釈と鑑賞」五五六号所収、大礒義雄稿「評伝・蕪村」抜粋)

宋阿は徳望家で江戸と関東一円および京都に多くの門人を擁し、人材を輩出している。京の望月宋屋などはその中で傑出しており、師に似て徳望家であってその俳諧活動もいちじるしい。この宋屋と蕪村とはやがて親密な間柄となるが、その前に毛越という人物が蕪村と急速に接近している。毛越と蕪村との接触は従来蕪村入洛の宝暦元年、毛越編『古今短冊集』から跡付けられているが、私は先頃、夜半亭において宋阿・蕪村・毛越が一座して歌仙興行をしている事実を突きとめた。元文四年冬十一月宋阿自跋、其角・嵐雪三十三回忌追善集『桃桜』に、宋阿興行とした発句雪尾(ゆきを)、脇宰鳥、第三宋阿、四句目少我の四吟歌仙一巻が載り、その発句「染る間の」の雪尾が毛越その人と考えられるのである。それは寛保二年毛越編『曠野菊』に雪尾斎毛越の名で出ているからである。確定はできないがおそらく同一人であろう。同書に守中菴産川という者が、雪尾斎は洛の産で東武に行ったり、文月の末みちのくあたりに赴いたと述べている(留別辞)。あるいは毛越が平泉毛越寺を訪れての改名かと思われるが、それはともかく巴人庵宋阿と同様な使い分けで同人であろうと思う。この雪尾は又前号雪雄であるらしく、『元文三年夜半亭歳旦帖』の中に京俳人として出句、又、元文四年春三月冨鈴(宋屋)自跋、宋阿序の『梅鏡』の中にも京俳人として出ている。従って毛越は宋阿の在京中の知人で宋屋とも親しかったと思われ、たぶん元文四年中に江戸に下って、宋阿を訪問しているのである。さきの歌仙はあるいはその歓迎句会での興行であったかもしれない。
(メモ)
元文四年(一七三九) 二十四歳
○この年刊行の巴人の『夜半亭歳旦帖』に次の句が入集されている。
   不二を見て通る人あり年の市
○十一月、宋阿編、其角・嵐雪三十三回忌追善集『桃桜』(下巻の版下は宰鳥という)に次の発句が見える。
   摺鉢のみそみめぐりや寺の霜
「宰鳥」号の初見。また、宋阿興行の歌仙に、宋阿・雪尾・少我らと、更に百太興行の
歌仙にも、宋阿。百太・故一・訥子らと一座する。

(三十二)

「関東遊歴と奥羽の旅その一」(「国文学 解釈と鑑賞」五五六号所収、大礒義雄稿「評伝・蕪村」抜粋)

宋阿晩年の門人となった蕪村は、元文三年その歳旦帖に句を見せてから、夏、絵仰書で有名な露月の『卯月庭訓』に自画に句を題して入集。続いて初秋夜半亭臨時の百韻興行に出座。連衆は宋阿をはじめ雪童・風篁・謂北・少我らの十余人。又、九月湯島における一日十百韻に参加、高点句六を得た。翌四年夜半亭・謂北・楼川の各歳旦帖に出句しており、冬になって前述の『桃桜』に発句一、宋阿興行、百太興行の各歌仙に一座している。後者の連衆は宋阿の外、百太・故一・訥子である。翌五年冬筑波の麓に滞在して、来る春を待ったことは『寛保元年夜半亭歳旦帖』によって知られそれに一句を載せるが、翌二年宋阿の逝去に逢うまで、俳書に表われた蕪村の行動の記録は意外に少ない。ただ『新花摘』によれば百万坊旨原から『五元集』の精密な模写を頼まれたこと(蕪村の能筆がわかる)、謂北(麦天)のために奔走して点者の列に入らせたことなどが知られる。さて、宋阿は寛保二年六月六日死亡した。六十六歳。蕪村は時に二十七歳である。宋屋が手向けた追善集『西の奥』(寛保三年)の自序で、蕪村と雁宕とがこれを京師の門弟・旧知に急報したとあり、蕪村はすでに宋阿の愛弟子として夜半亭にしげく出入りし、あるいは同居して薪水の労を取っていた。それだけに悲嘆痛恨は大きく夜半亭に一人籠もり師の遺稿を探って「一羽烏」という文を作ろうしたが果たさず、悄然として江戸を離れ下総結城の雁宕のもとに身を寄せるのである。
(メモ)
元文五年(一七四〇) 二十五歳
○元文年間、俳仙群会図を描く(『蕪村翁文集』所収「俳仙群会の図賛」)。その賛は次のとおり。
守武貞徳をはじめ、其角嵐雪にいたりて、十四人の俳仙を画きてありけるに、賛詞をこはれて
寛保元年(一七四一) 二十六歳
○前年の冬、筑波山麓で春を待った蕪村は、この年上梓の『夜半亭歳旦帖』に宰鳥名で次の句が入集される。
行年や芥流るゝさくら川
寛保二年(一七四二) 二十七歳
○六月六日、春の頃から口中に痛みを覚えていた夜半亭宋阿は、遂にこの日没する。宋屋編宋阿追善集『西の奥』(寛保三年刊)では六十七歳説、丈石編『俳諧家譜』では六十六歳説。(延宝四年出生説をとり、六十七歳説と解する)。

(三十三)

「関東遊歴と奥羽の旅その二」(「国文学 解釈と鑑賞」五五六号所収、大礒義雄稿「評伝・蕪村」抜粋)

雁宕は蕪村より十余歳年長か。宋阿の京在前の弟子でよく蕪村の世話をやき生活をも支えてくれた。彼は砂岡氏、結城の名家でその父我尚は其角門ついで嵐雪門。その没後は介我に師事した。この我尚・雁宕父子の縁続きには俳人すこぶる多く、まず結城俳壇の長老北寿老仙早見晋我は我尚の姉婿と推定され、俳諧は我尚と同系。その二子桃彦・田洪も俳人。雁宕の弟周午も俳人。妹の一人は下館の中村風篁の分家中村大済の妻であり、雁宕の娘は宇都宮の佐藤露鳩の妻であった。我尚の親友に那須烏山の常磐潭北がある。宋阿と同郷で其角門、蕪村に長ずること三十九年の老翁であるが、蕪村に親愛の情を抱き、上野国に同行して処々に宿りを共にしたと『新花摘』にあり、高羅の茶碗や埋れ木などの逸話も語られている。又、五色墨の一人、佐久間柳居と筑波詣でで出会って、俳席を重ねたことも同書に回想されている。奥羽行脚は寛保三年春かららしく、結城を出発して宇都宮から福島にいたり、山形に入り、羽黒を経て日本海側に出、酒田・象潟・秋田の浦々をめぐり能代を経、遠く津軽の外ヶ浜に達し、帰路は青森を経て盛岡にいたり、平泉・松島・仙台・白石・福島とたどって結城に帰着したらしい。辛酸に満ち満ちた旅であった。それ故かあまり句を残していない。寛保四年、宇都宮の露鳩に依頼されて歳旦帖を編集、表紙に「寛保四甲子歳旦歳暮吟追加春興句野州宇都宮渓霜蕪村輯」とある。処女撰集で俳号蕪村の初出の書である。
(メモ)
寛保三年(一七四三) 二十八歳
○五月、望月宋屋編『西の奥』(宋阿追善集)に次の句が宰鳥名で入集される。
   我泪古くはあれど泉かな
延享元年(寛保四年二月改元・一七四四) 二十九歳
○春、宇都宮にあって雁宕の娘婿佐藤露鳩の依頼により歳旦帖を編集、表紙に「寛保四甲子歳旦歳暮吟追加春興句野州宇都宮渓霜蕪村輯」とある。処女撰集で俳号蕪村の初出の書である。俳号蕪村の初出の発句は次のとおり。
    古庭に鶯啼きぬ日もすがら
延享二年(一七四五) 三十歳
○一月二十八日、結城の早見晋我が七十五歳で没する。其角門として晋の一字をゆるされた人物であった。蕪村は「北寿老仙を悼む」(釈蕪村)を手向ける(安永六年説、更に、釈蕪村の署名から宝暦年間説などがある)。
延享三年(一七四六) 三十一歳
○十月二十八日、宋屋は、奥羽行脚の帰途、結城・下館の蕪村を訪れたが不在であった。十一月頃江戸増上寺裏門辺りに住していたという(宋屋編『杖の土』)。
延享四年(一七四七) 三十二歳
○この頃、江戸中橋に夏行中の渡辺雲裡房(青飯法師)を訪ねる。その折の句は次のとおり。
    水桶にうなづきあふや瓜茄子
寛延元年(一七四八) 三十三歳
○大阪在住の江霜庵田鶴樹編『西海春秋』に下総結城の阿誰らと一緒に句を寄せる。その発句は次のとおり。
   川かげの一株づゝに紅葉哉
寛延二年(一七四九) 三十四歳
○麦水、江戸を発ち伊勢山田の麦浪を訪ね、更に京に赴き、稿本『東海道紀行』成る。
寛延三年(一七五〇) 三十五歳
○嵐雪『玄峰集』刊。

(三十四)

「入洛その一」(「国文学 解釈と鑑賞」五五六号所収、大礒義雄稿「評伝・蕪村」抜粋)

寛保四年(延享元年)の歳旦は露鳩一門の集であるが、追加に江戸俳人の句が見えるのは蕪村の斡旋であろう。其角系の祇丞・筆端(買明)・其川(旨原)・蝸名・存義である。蕪村はまた雁宕の紹介であろうが、下総関宿の豪家、箱島阿誰の家に滞在していた。ここで雁宕が江戸の俳友百万(旨原)、李井(存義)に依頼して、阿誰一門の撰集『反古ぶすま』を刊行した。この書には江戸座の重立った俳匠がずらりと顔を並べている。蕪村の江戸における俳環境とでも言うべきものはこうした人達だったらしい。先輩の宋屋は旅を好んだ。延享二年十月奥羽行脚の途次結城に入り、雁宕・大済・蕪村に手紙を送ったが、蕪村は不在で会えなかった。翌三年十月帰途再び結城に立寄って雁宕を訪れ下館に大済らを訪ねたが蕪村は不在、江戸に出ていて芝の増上寺の裏門あたりに住んでいると聞いて江戸でも探したが、遂に行き会えなかった。宋屋がしきりに蕪村に会いたがったのは、宋阿の身近に仕えた蕪村に、文通などによって特別に親しみを抱いていたためである。蕪村は職業画家である。俳人として俳友達から種々の便宜に預かっていたが、生活の資は画から得ていた。小成に甘んじないで画道に精励していた。それ故か延享・寛延頃の俳事はほとんど知られない。蕪村の友人に雪尾斎毛越があることは前述した。毛越の『曠野菊』に蕪村ず出ないのは、この書が祇徳の全面的な支援で成ったこと、この寛保二年が蕪村にとっては悲傷の年であったことなどと無縁ではあるまい。この書に故路通の句が載るのは注目されてよい。毛越は実に路通門人であった。このことは先頃私が入手した写本『聞書花の種』所載「路通十三回忌序跋」によって明らかである。右の『聞書花の種』には蕪村の俳文「名月摺物詞書」を収める。ここに全文を紹介しよう(省略。この「名月摺物詞書」については既に触れた)。蕪村が十七、八年におよぶ江戸と関東各地における生活を切り上げて西帰入洛した年は宝暦元年三十六歳の年であることは、先学諸家の一致した見解で私も同感である。ところがその年のいつかということになると諸説があって一致しないが、近年初冬、続いて晩秋との説が多く私もかって晩秋説を取っていた。それに対して右の一文(註・「名月摺物詞書」)は決定的な解答を用意してくれるものであった。

(三十五)

「入洛その二」(「国文学 解釈と鑑賞」五五六号所収、大礒義雄稿「評伝・蕪村」抜粋)

もともと蕪村入洛の時期については、宝暦元年と推定される霜月□二日付蕪村書簡を基としての推測と思われ、極め手となる文献資料に欠けていた。ただ最近清水孝之氏は「花洛に入て富鈴房に初而向顔 秋もはや其蜩の命かな」の句解において、この句が秋季であるために蕪村上洛の翌二年作とするのは、宋屋の温情援助を考慮すれば不自然故元年であり、秋季の句に仕立てたものかあるいは入洛の時期も秋のうちだったかと疑問を提出され、「晩秋・初冬のころ」とされたようである(『蕪村・一茶』昭五一・角川書店)。『名月摺物詞書』によって入洛の時期は、名月(八月十五日)頃と見るのが穏当であろう。仲秋である。榲桲は晩秋九月の季物であるが、この宝暦元年は六月に閏があり、仲秋は遅れるので、充分榲桲の時期に適合するのである。もう一つ問題は毛越の剃髪の時期が実は夏だったのである。毛越みずから「今年の夏落髪して市中の庵にかくれ、大夢の額をあげて判者と呼るゝ」(「詞集成こと葉書」『聞書花の種』)と言っている。これと蕪村の言う「けふより姿改て、或は名を大夢と呼ブ」とは時期が合わない。あるいは蕪村の入洛は夏かと思わされるが、蕪村自身東都での約束ごとが実現したことの喜びを強調したくてこうした表現を取ったのではあるまいか。「都の月に嘯む」も再会の時期を示す言葉である。毛越は既述のように蕪村に数年遅れて江戸に下り、寛延三年路通の十三回忌を京都で修しているから、少なくとも蕪村より一足早く京に入っているのである。両者の交情を知る初期の資料は乏しいが、蕪村が「莫逆の友也」と言い、「管鮑の交あり」(『古今短冊集』)と言った最上の言葉は、これを端的に示している。又「都の月に嘯む」という言葉からは蕪村は早くから入洛を希望していたことが察せられ、あるいは毛越の勧めなどがそれに与って力があったのかもしれないと思われる。二人が「都の月を嘯」くために、なぜ僧体になることを望み役束したのであろうか。それは日常性の脱却、離俗であって、そのような境遇に身を置いてこそ純粋に俳諧を追求できると考えたのであろうか。蕪村は早く寛保二年宋阿の没後間もなく剃髪したらしいので、毛越との約束はそれ以前のことのように思われ、あるいは宋阿の膝下に在った時のことかもしれない。『桃桜』の歌仙に同座した時のひとなども想起されよう。毛越の職業は分からないが商人のように思われ、なかなか俗務から離れられなかったのであろう。まるめろの句、まるめろという果実の名は、頭に兼ねて頭をまるめろ、に通じ、まるめろよの江戸言葉である。まるめろそのものが丸くて坊主あたまめき、しかも江戸に長く住んでいた者にとっては、耳慣れた江戸の方言を連想させるものである。発想が自然で機知に富み、東都と肩書するにふさわしい、江戸帰り早々の作者のいさぎよい句であろう。ともあれ宝暦元年という初期の句作を一つ加えることができたのは嬉しい。

(三十六)

蕪村関連の俳書などで、「釈蕪村」と署名されているものは、次のとおりである。そして、「北寿老仙をいたむ」の創作年次について、延享二年説と安永六年説とに触れ、これらの署名(釈蕪村)に関連して、蕪村が京都に再帰しての宝暦年間説とでもいうべきことについては先に触れた。ここで、それらのことについて補足をしておきたい。

一 (『いそのはな(寛政五年刊)』所収)

北寿老仙をいたむ

君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
何ぞはるかなる
君をおもふ(う)て岡のべに行(いき)つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき
蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲(さき)たる
見る人ぞなき
雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞(きけ)ば
友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき
へげのけぶりのはと打(うち)ちれば西吹(ふく)風の
はげしくて小竹原(をざさはら)真(ま)すげはら
のがるべきかたぞなき
友ありき河をへだてゝ住(すみ)にきけふは
ほろゝともなかぬ
君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず
花もまい(ゐ)らせずすごすごと彳(たたず)める今宵(こよひ)
ことにたう(ふ)とき 

釈蕪村百拝書

二 (『夜半亭発句帖(宝暦五年刊)』所収「跋」、宝暦四年推定) 

阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探(さぐり)て、一羽烏といふ文作らんとせしも、いたづらにして歴行する事十年の后(のち)、飄々(ひょうひょう)として西に去(さら)んとする時、雁宕が離別の辞に曰(いわ)く、再会興宴の月に芋を喰(くう)事を期せず、倶(とも)に乾坤(けんこん)を吸(すう)べきと、其(その)言をよしとして、翅書(ししょ)さへまめやかにせざりしに、ことし追悼編集の事告(つげ)来(きた)るにぞ、さすがに涙もろく、斎団扇(ときうちわ)の上に酬書(しゅうしょ)し侍る。跋とすやしらず、捨(すつ)るやしらず。        釈蕪村

三 (「真蹟」、宝暦初年推定)

しもつふさの檀林弘経寺といへるに、狸の書写したる木の葉の経あり。これを狸書経と云て、念仏門に有がたき一奇とはなしぬ。されば今宵閑泉亭にて百万遍すきやうせらるゝにもふで逢侍るに、導師なりける老僧耳つぶれ声うちふるいて、仏名もさだかならず。かの古狸の古衣のふるき事など思ひ出て、愚僧も又こゝに狸毛を噛て

肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)
洛東間人嚢道人 釈蕪村

四 (『反古衾(宝暦二刊)』所収)

うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥               釈蕪村 

五 (『瘤柳(宝暦二刊)』所収)

苗しろや植出せ鶴の一歩より              釈蕪村

(三十七)

当時の蕪村の署名を、「社中歳旦帖・俳諧撰集・色紙」等で見ていくと次のとおりとなる。

「関東遊歴と奥羽の旅」時代、そして、それは、蕪村の「若き日の時代」である。この時代の画号(落款等)は、「四明・子漢・魚君・虚洞・趙居・渓漢中・老山・孟溟」など。

一の一 宰町(元文二年・一七三七・二十二歳~元文四年・一七三九・二十四歳)
一の二 宰鳥(元文五年・一七四〇・二十五歳~延享元年・一七四四・二十九歳)
一の三 蕪村(延享元年・一七四四・二十九歳~寛延三年・一七五〇・三十五歳)

そして、京都に再帰して、「京生活・与謝の旅」の「丹後の時代」となる。この時代の画号(落款等)は、「朝滄・嚢道人・魚君・夜半翁」など。

二 蕪村(宝暦元年・一七五一・三十六歳~宝暦七年・一七五七・四十二歳)

再び、京都に帰り、とも女と結婚して家庭を持ったのが宝暦十年(一七六〇・四十五歳)。そして、讃岐へ赴いたのが、明和三年(一七六六・五十一歳)。その讃岐から京都に帰ってきたのが、明和五年(一七六八・五十三歳)。「京生活・讃岐の旅」の「讃岐の時代」である。この時代の画号(落款等)は、「趙居・春星・長庚・三菓軒・霊洞」など。

三 蕪村(宝暦八年・一七五八・四十三歳~明和五年・一七六八・五十三歳)

蕪村が讃岐から帰京したのは明和五年四月末か五月初めで、やがて三菓社中の句会を再開した。その明和七年(一七七〇・五十五歳)三月、先師宋阿の夜半亭の俳号を継承して夜半亭二世となり、新たに京師点者の列に加わった。そして、円熟期の絶頂期を迎え、天明三年(一七八三・六十八歳)十二月二十五日に没する。「夜半亭継承と円熟期」で、蕪村の「晩年の時代」である。この時代の画号は、「謝寅・紫狐庵」など。

四 蕪村(明和六年・一七六九・五十四歳~天明三年・一七八三・六十八歳)

以上、蕪村のその六十八年の生涯を概略四期(「若き日の時代」・「丹後の時代」・「讃岐の時代」・「晩年の時代」)に分けて、蕪村の異色の俳詩「北寿老仙をいたむ」に署名されている「釈蕪村」という署名は、現在、記録に残されているものに限ってするならば、この「丹後の時代」の前半の、宝暦元年(一七五一)から宝暦五年(一七五五)の頃にのみ見られるものなのである。すなわち、北寿老仙こと早見晋我が亡くなった、「若き日の時代」の延享二年(一七四五)当時、さらに、その「晩年の時代」の安永六年(一七七七)当時において、蕪村が、「釈蕪村」という署名の「北寿老仙をいたむ」という俳詩を今に残しているというのは、こと、この署名に限ってするならば、どうにも不自然という印象は拭えないのである。とするならば、ここは、何らの推測も推理もすることなく、単純慨然的に、その署名の「釈蕪村」ということから、これを、蕪村が京に再帰して後の、「丹後の時代」の前半の、宝暦元年(一七五一)から宝暦五年(一七五五)当時のものとするのが、最も自然なものと考えたいのである。

(三十八)

ここで、『蕪村伝記考説』(高橋庄次著)の、この「北寿老仙をいたむ」に関連するところを見てみたい。

○「蕪村」号を披露した寛保四年(延享元年)の翌二年、結城で早見晋我(別号北寿)が亡くなった。享年七十五歳、このとき蕪村は三十七歳の而立の年であった。年齢的に祖父ほどの差のある北寿こと晋我に対して蕪村は「老仙」の敬称を用いた。儒学を学んだ謹厳さと柔和な温かさをもつ晋我老人は、蕪村にとってまさに「北寿老仙」というにふさわしいイメージがあったのだろう。蕪村は北寿老仙を悼むの和詩を書いた。

 この『蕪村伝記考説』は、延享二年説といって良いであろう。

○この和詩は晋我の霊前に捧げられたが、公表されたのは晋我の子早見桃彦の手で編まれた晋我五十回忌追善集『いそのはな』(寛政五年・一七九三)においてである。蕪村の死からちょうど十年後のことだ。「北寿老仙をいたむ」と題されたこの蕪村の和詩の末尾に、「庫(くら)のうちより見出(みい)でつるままに右にしるし侍る」と桃彦が書き添えているから、この詩がいっさい公表されなかったことは間違いなく、文字通り霊前に捧げるためだけに書かれた和詩であったことがわかる。したがって、安永六年(一七七七)に発表を前提にして書かれた夜半楽三部曲(春風馬堤曲・澱河歌・老鶯児)とは本質的に異なる。

 安永六年説の否定と「夜半楽三部曲(春風馬堤曲・澱河歌・老鶯児)とは本質的に異なる」という指摘は素直に受容できる。

(三十九)

○この和詩は「釈蕪村百拝して書す」と署名して結ばれている。「釈蕪村」の釈はもちろ
ん釈迦のこと。僧が俗姓を捨てて釈氏を名乗り、釈迦の御弟子であることを示す姓だ。つまり釈氏は出家僧のこと。したがって「釈蕪村」とは釈迦の御弟子「僧蕪村」のことだ。後年蕪村は『新花摘』にこのころのことを書いているが、それによると、結城の雁宕のもとに滞在していた折、親しくしていた常磐潭北から「むくつけ法師よ」と言われたという。潭北は延享元年七月に亡くなっているから、それ以前にすでに蕪村は「法師」と呼ばれていたことがわかる。また『むかしを今』の序に蕪村は江戸石町の夜半亭で師宋阿から俳諧の教えをうけて「一棒下に頓悟」したと禅僧のようなことを言っているから、夜半亭に二十二歳で入門したときも僧だった。蕪村は故郷を出てから、生家の谷氏の俗姓を捨てて剃髪出家して釈氏を称していたのだ。

 この『蕪村伝記考説』では、「一の一 宰町(元文二年・一七三七・二十二歳~元文四年・一七三九・二十四歳)」・「一の二 宰鳥(元文五年・一七四〇・二十五歳~延享元年・一七四四・二十九歳)」の時代に、既に、「生家の谷氏の俗姓を捨てて剃髪出家して釈氏を称していたのだ」と明快に既述しているが、これらについては文献上は明らかではない。と同時に、宰鳥時代の奥羽行脚の折には、既に法体であったことは、上記の指摘の『新花摘』の既述で明らかなところであるが、その当時、「釈」氏の姓であったかどうかは不明確で、それよりも、晋我が没する前年の延享元年(寛保四年二月二十一日改元)の、蕪村初撰集の、いわゆる『宇都宮歳旦帖』の表紙には、「渓霜蕪村輯」との既述があり、その姓は「釈」というよりも「渓霜」であったことは明らかなところである。

○この『寛保四年歳旦帖』(註・『宇都宮歳旦帖』)の扉には編者の名がこう書かれているからだ。 渓霜蕪村輯(輯は編集のこと) これは何だろう。「渓霜蕪村」と名乗った「渓霜」は霜に覆われた谷のことだ。ここには俗姓の「谷氏」の意がこめられていたはずだ。それは一家離散した谷氏であり、寒々と霜に覆われた故郷の生家である。

 そもそもこの『蕪村伝記考説』は、「われわれはまだ信頼しうる一貫した蕪村の伝記を手にしていない」(「あとがき」)という観点から、著者(高橋庄次)の、これまでの研究成果の総決算ともいうべき、「伝記資料の虚実をどう識別して読み解くか」(「あとがき」)という、大胆な謎解きの書でもある。それが故に、枝葉末節については余り拘泥せずに、その「叩き台づくり」(「あとがき」)ということで、大胆な謎解きをしている箇所が随時に見られるのである。この上述の、「俗姓の『谷氏』」についても、例えば、スタンダードな『蕪村事典』(松尾靖秋他編)では、「本姓谷口氏は母方の姓か」とあり、その「谷口」氏の中国風の一字の姓が「谷」氏とも解せられるが、「蕪村の生家は摂津国東成郡毛馬村の谷氏であったことは断言してよい」(几董著『から檜葉』所収「夜半翁終焉記」・大江丸著『はいかい袋』所収「蕪村伝」)と、説が幾つもあるような箇所においても、そのうちの一つの説を断定して既述しており、何もかも鵜呑みにしてしまうことは、要注意であることは言はまたない。さしずめ、「釈蕪村」の理解などにおいても、「釈蕪村」の署名は、蕪村の、京へ再帰後の、いわゆる「丹後の時代」の前半の、宝暦元年(一七五一)から宝暦五年(一七五五)の頃にのみ見られるものということについては、ここでも再確認をしておきたい。

(四十)

○連作和詩編「北寿老仙をいたむ」は、北寿の亡魂を供養するため「釈蕪村」と署名して己れの心身を僧体(清浄)にし、自作詩を詠唱して読経にかえたのであろう。「百拝して書す」と結んだのは、これは写経文のように浄書して寺に納めたことを示している。それはあくまでも仏の世界に逝った北寿と僧蕪村との密かな語らいだった。

 この『蕪村伝記考説』の、「自作詩を詠唱して読経にかえた」・「これは写経文のように浄書して寺に納めた」・「仏の世界に逝った北寿と僧蕪村との密かな語らいだった」という指摘は、この俳詩(註・連作和詩)に接して同じような感慨を抱く。そして、この感慨は、この俳詩が、晋我没後直後の延享二年に作られたものではなく、ずうと後年の、安永六年に、延享二年当時を回想して創作したものだとする、安永六年説の次の疑問を解きほぐしてくれる一つのキィーポイントと理解をしたいのである。

http://www.kyosendo.co.jp/rensai/rensai31-40/rensai39.html

※蕪村は享保元年(一七一六)攝津国東成郡毛馬村に生まれた。彼は享保年中(~一七三五)に江戸へ出て来て、二十二才の時に、早野巴人(宋阿)の門に入り俳諧を学ぶと同時に、絵画や漢詩の勉強もしたという。寛保二年(一七四二)、師の巴人が亡くなった後、同門の下総結城の砂岡雁宕(いさおかがんとう)の許に身を寄せ、その後十年、関東、奥羽の各地を廻り歩く。北寿の晋我は結城で代々酒造業を営む素卦家で、通稱を早見治郎左衛門と云い、俳諧は其角の門下で、其角の没後、その弟子の佐保介我に師事したという。晋我は結城俳壇の主要メンバーの一人で、蕪村のよき理解者だったが、延享二年(一七四五)に七十五才でこの世を去った。その時、蕪村は三十才だった。「北寿老仙をいたむ」は、その晋我の追悼詩だが、この詩が実際に世に出たのは、その五十年近く後の寛政五年(一七九三)で、晋我の嗣子、桃彦(とうげん)が亡父の五十回忌に当たり出版した俳諧撰集『いそのはな』の中で、「庫のうちより見出しつるままに右にしるし侍る」と付記があるという。この詩は晋我が死んだ延享二年の作といわれているが、その時、三十才だった蕪村が七十五才の晋我に対して「君」と呼びかけ、「友ありき」などというのは不自然だとして、尾形仂(おがたつとむ)氏は次のような説を述べている。蕪村は三篇の俳詩をものしているが、「北寿老仙をいたむ」以外の二篇、「春風馬堤曲」と「澱河歌」(でんがか)はいずれも安永六年(一七七七)出版の『夜半楽』に収められている。安永六年は晋我の三十三回忌に当たることから、晋我の三十三回忌の記念出版が企てられ、嗣子の桃彦から寄稿の要請を受けて作ったものではないか、というのである。「すでに蕪村は、老境の悲しみを知り、心理的にかっての長上晋我を『友』と遇し『君』と呼んでもそれほど不自然ではない老齢に達していた」(『蕪村俳句集』の解説)、時に蕪村、六十二才である。しかし、その三十三回忌の出版は何らかの理由で中止になり、蕪村の原稿は五十回忌の『いそのはな』の出版時まで桃彦の家の庫の中に収まったまま眠っていた、というのである。なる程、そう考えると、確かに辻褄があう。いずれ、この説が立証されるかもしれない。(上記のネット記事)

さらに、上記の『蕪村伝記考説』の指摘に、先に触れた次の事項を再確認をしたいのである。

※阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探(さぐり)て、一羽烏といふ文作ら
んとせしも、いたづらにして歴行する事十年の后(のち)、飄々(ひょうひょう)として西に去(さら)んとする時、雁宕が離別の辞に曰(いわ)く、再会興宴の月に芋を喰(くう)事を期せず、倶(とも)に乾坤(けんこん)を吸(すう)べきと、其(その)言をよしとして、翅書(ししょ)さへまめやかにせざりしに、ことし追悼編集の事告(つげ)来(きた)るにぞ、さすがに涙もろく、斎団扇(ときうちわ)の上に酬書(しゅうしょ)し侍る。跋とすやしらず、捨(すつ)るやしらず。 釈蕪村
(わが宋阿師が没して後、しばらくその主の無い家に居て、わが師の遺されたものを調べまして、それらを一羽烏という題にて文集を作ろうとしましたが、何をすることもなくあちこちと歴行をするばかりで十年が過ぎてしまいました。そして、当てもなくこうして京都に再帰するにあたり、兄事していた雁宕の別れの言葉に、再会月見の興宴の時には芋などを喰らっていずに、お互いに天下を一飲みに飲み干そうと言われ、その言葉を肝に銘じて、手紙もこまめにせず過ごしてきましたが、今年、宋阿師の追悼編集の連絡を受けまして、どうにも涙がこぼれてなりません。その追悼の法事に供する団扇に、こうしてその返書をしたためましたが、それが、跋文になるのものやら、それとも捨てられてしまうものやら、とにもかくにも、返書をする次第です。 釈蕪村 )
※※これは、雁宕他編『夜半亭発句帖』に寄せられた蕪村の「跋文」である。『夜半亭発句帖』は、宝暦五年(一七五五)に夜半亭宋阿こと早野巴人の十三回忌にその発句(二八七句)を中心にして上梓したものである。この序文は雁宕が宝暦四年の巴人の命日(六月六日)をもって記しており、上記の蕪村の跋文もその当時に書かれたということについては動かし難いことであろう。この宝暦四年(蕪村、三十九歳)に、蕪村は京を去って丹後与謝地方に赴き、宮津の浄土宗見性寺に寄寓し、以後三年を過ごすこととなる。この丹後時代の蕪村の署名は、「嚢道人蕪村」というものが多く、この『夜半亭発句帖』の「跋文」に見られる「釈蕪村」の署名は、蕪村が京に再帰した宝暦元年(一七五一)からこの跋文が書かれた同四年頃までに多く見かけられるものである。そして、「北寿老仙をいたむ」の「北寿老仙」こと早見晋我が没したのは延享二年(一七四五)であり(その前年の延享元年に巴人亡き後の親代わりのような常磐潭北が没している)、それは巴人が没する寛保二年(一七四二)の三年後ということになる。即ち、巴人十三回忌に当たる宝暦四年前の宝暦二年前後が、晋我(また、常磐潭北)の七回忌に当たり、その頃、在りし日の北関東出遊時代のことを偲びながら、当時京都に再帰していた蕪村が、古今に稀な俳詩「北寿老仙をいたむ」を書き、そして、当時こまめに文通していた晋我の継嗣・桃彦宛てに、「釈蕪村百拝書」と署名して送ったもの、それが、「北寿老仙をいたむ」の作品の背景にあるように思えてくるのである。

(四十一)

北寿老仙をいたむ

一 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
  何ぞはるかなる
二 君をおもふ(う)て岡のべに行(いき)つ遊ぶ
  をかのべ何ぞかくかなしき
三 蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲(さき)たる
  見る人ぞなき
四 雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞(きけ)ば
  友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき
五 へげのけぶりのはと打(うち)ちれば西吹(ふく)風の
  はげしくて小竹原(をざさはら)真(ま)すげはら
  のがるべきかたぞなき
六 友ありき河をへだてゝ住(すみ)にきけふは
  ほろゝともなかぬ
七 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々に
  何ぞはるかなる
八 我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず
  花もまい(ゐ)らせずすごすごと彳(たたず)める今宵(こよひ)
  ことにたう(ふ)とき 

                  釈蕪村百拝書

○この詩篇の言葉の響きも、美しい音楽を奏でる。全八章中、第二・三・四・五・八章の五章にわたって各章末を「き」で結んで脚韻を踏んでいるのがそれであり、第一・第二章の「キミ」と「ナンゾ」の繰り返しにも頭韻効果がみられる。さらに第二章の「岡の辺」の尻取り句移りや第三章の「蒲公の黄・薺の白」、第五章の「小竹原・真菅原」、第八章の「灯火も・・・せず・花も・・・せず」の繰り返しなどにも快いリズムの効果がみられる。また独特の改行の仕方で音数律を構成しているのも鮮やかな効果を上げており、行末にくる第六章の「今日は」と第八章の「今宵は」にアクセントがかかる効果もその一つだ。

『蕪村伝記考説』の著者(高橋庄次)のライフワークともいうべき「連作詩篇考」的な考察が活きている。

(四十二)

○原文は全十八行が均一に並べられていて、章と章との間を特にあけるような区切り方はしていない。しかし、各章の小主題や旋律・脚韻など総合的に判断すると、八章で構成されていることは誰の目にも明らかだ。夜半楽三部曲(春風馬堤曲・澱河歌・老鶯児)のような各章の頭に○印を付ければ章分けがはっきりしたのだろうが、この和詩篇は均一の形式で首尾一貫した旋律を奏でているので、むしろそうした区切りは詩情の自然な流れのさまたげになる。夜半楽三部曲が発句・漢詩・和詩といったさまざまな形式をモザイク状に組み上げたバラード(物語詩)であるとすれば、「北寿老仙をいたむ」はリート(独唱用小歌曲)だと言えるからだ。

 繰り返しになるが、夜半楽三部曲(春風馬堤曲・澱河歌・老鶯児)と「北寿老仙をいたむ」とは全く異質の世界である。俳詩三部作(「北寿老仙をいたむ」・「春風馬堤曲」・「澱河歌」)として、同時の頃の作とし、また、これらを並列して鑑賞するのには、違和感を覚える。

(四十三)

○この北寿追悼の和詩篇について、それぞれの章の表現を個別に吟味しながら各章のつながり方を検討してみると、一章一章を連作主題でつないでいく発想、つまり八章から成る連作詩篇の基本的発想がそこから浮かび上がってくる。日本の詩歌はまず連作形態で発生し、記紀歌謡、万葉歌以降、連作文芸が古典の基本を形成してきた。北寿追悼の和詩篇がこうした発想による連作詩篇であったからこそ、奇跡的とも思える近代抒情詩篇に成り得た。それだけに、その各章冒頭の詩句を取り出して次に並べてみると、なにか奇妙な感にうたれる。

一 君あしたに去ぬ
二 君を思うて
三 蒲公の黄に
四 雉子のあるか
五 変化の煙
六 友ありき
七 君あしたに去ぬ
八 我庵の阿弥陀仏

これらはみな申し合わせたように主題を構成することばであった。しかも、そのことばはみな横に連繋している。

 この「北寿老仙をいたむ」を、いわゆる「連作詩篇」として鑑賞することの是非はともかくとして、『蕪村伝記考説』の著者(高橋庄次)の指摘は首肯できる。

(四十四)

○この「我庵」(註・第八章)という表現からすると、蕪村は砂岡雁宕宅に寄宿していたのではなく、結城のどこかに草庵を結んでいたと考えなければならない。たぶん寺域内であろうから、結城の浄土宗の寺、つまり砂岡家の菩提寺弘経寺であったにちがいない。さきほど「釈蕪村」の署名あるものとして引用した狸の木葉経の俳文はこの弘経寺の寺宝「狸書経」について書いたものだし、この寺の襖絵も蕪村が描いているからだ。檀家の砂岡雁宕の世話で寺域内の僧庵に釈蕪村はひとり住んでいたと考えられる。釈蕪村は阿弥陀仏の本願を信じ、その願力にすがって自力を支える浄土宗念仏僧として自由自在にふるまうことができた。蕪村は浄土宗の弘経寺(寺領五十石)の僧庵に住み、法華宗の妙国寺(寺領九石)に北寿(晋我)の追善供養としてこの追悼詩を霊前に捧げたのである。

 ここでも繰り返すこととなるが、”「釈蕪村」の署名あるものとして引用した狸の木葉経の俳文はこの弘経寺の寺宝「狸書経」”については、「洛東間人嚢道人 釈蕪村」であり、蕪村が京に再帰した宝暦元年(一七五一)からこの跋文(『夜半亭発句帖』)が書かれた同四年頃までに多く見かけられるものなのである。さらに、”この「我庵」(註・第八章)という表現からすると、蕪村は砂岡雁宕宅に寄宿していたのではなく、結城のどこかに草庵を結んでいたと考えなければならない。たぶん寺域内であろうから、結城の浄土宗の寺、つまり砂岡家の菩提寺弘経寺であったにちがいない”ということについては、後年の回想録の『新花摘』の記述からして、結城の隣の下館の「中村風篁」家(『宇都宮歳旦帖』を始め蕪村絵画などの遺作を今に所蔵している)の屋敷内であったことも推測できるものであり、必ずしも、結城の弘経寺の寺域内であるということは、これまた、推測の域を出ないであろう。
なお、この『蕪村伝記考説』の著者(高橋庄次)が指摘している、先の「これは写経文のように浄書して寺に納めた」というよりも、この記述の「北寿(晋我)の追善供養としてこの追悼詩を霊前に捧げたのである」というように解したい。

(四十五)

○この和詩篇の舞台は、蕪村の草庵があったと考えられる弘経寺と北寿の墓所妙国寺とをめぐって流れる吉田用水路であったと考えられる。結城の古地図には元禄十六年(一七〇三年・『結城市史』第二巻所収)のものと享保十九年(一七三四年・結城市教育委員会写し)のものがあるので、元禄期の古地図を参考にしつつ、ここでは蕪村の結城滞在期の八年前に描かれた享保十九年の古地図を次に示した。これが北寿追悼詩篇の制作された場である。弘経寺と妙国寺が吉田用水に沿って並んでいることがわかろう。またそれらの寺を縫うようにして伸びる御朱印堀は、堀幅七・五メートル、深さ三メートルとのことである。寺領五十石の弘経寺と寺領九石の妙国寺は古地図で見るかぎり寺域は共に広く、両寺にさして大きな差はないように見える。また寺領五十三石の禅宗安穏寺には元禄期の地図には無垢庵が、享保期の地図には無垢庵と寿慶庵が図示されているが、蕪村が結城に滞在していたころには、こうした僧庵が弘経寺にもあったと思われる。蕪村は、この弘経寺の僧庵を拠点に活動していたのだろう。

 この『蕪村伝記考説』の著者(高橋庄次)は、当時の蕪村の活動拠点を弘経寺領域の僧庵としているので、その結果、この記述のとおり、「北寿老仙をいたむ」に出てくる、「友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき」の「河」を、結城市内の「吉田用水」のように解しているのだが、ここは、下館と結城との間を二分するように流れる関東有数の大河「鬼怒川」と解したい。なお、ネット関連では、次のアドレスのもので、鬼怒川と解する説(十九代中村兵左衛門説)に賛同したい。

http://ship.nime.ac.jp/~saga/buson1.html

※結城と下館のあいだに鬼怒川が流れる。下総と常陸の国境である。北寿は雁宕の近親で結城俳壇の長老、早見晋我。蕪村が深く敬愛したこの老人の死に会してなったのが、驚くべき清新の自由詩「晋我追悼曲」こと『北壽老仙をいたむ』である。詩中に「君をおもふて岡のへに行つ遊ふ」「友ありき河をへたてゝ住にき」とあるから、当然、これは鬼怒川を隔てて下館の岡に蕪村は立っているのである、というのが下館の当主、十九代中村兵左衛門氏の説である。一方、結城市内にもなにがしという小さな川が流れその脇に岡があるから、蕪村がいたのは結城であるというのが小暮係長の説であって人情の自然であろう。なお、この追悼詩は碩学潁原退藏先生の「春風馬堤曲の源流」によれば晋我歿の当時の作とされるが、その馬堤曲との詩的連関から後年京都での作とする説もある。

(四十六)

○和詩第五章の一行目は「変化(へげ)の煙(けぶり)のはと打ち散れば西吹く風の」とうたい起こされているが、これは火葬の荼毘の煙とみるほかなく、したがって西方へ吹く風から逃れたくとものがれようがないということ、つまり「のがるべき方ぞなき」とは、煙の行方は西方以外にはありえないということだ。「変化(へげ)」はそうした「生滅(しょうめつ)の法」の万物の変化相をさしている。荼毘は「火化」といい、「焼身」のことだが、浄土信仰や法華信仰が盛んになるにしたがって焼身往生が行われるようになったという。これはわが身を火に投じて供養することで、荼毘はこの焼身往生の思想によるものだ。「変化の煙のはと打ち散れば」の「はと」は、これを鮮やかに表現しているように思われる。

 この「へけ」の解については、これまでにさまざまな解釈がなされている。整理すると次のとおりとなる。
一 へげの詠みで「竈」の古言とするもの・・・潁原退蔵著『蕪村全集』他。
二 へけの詠みで「片器」の訛音とするもの・・・山本健吉著『与謝蕪村集』他。
三 へげの詠みで「木片(こっぱ)」とするもの・・・栗山理一著『蕪村集一茶集』他
四 へげの詠みで「変化」の意とするが、その意味は次のとおり分かれる。
四の一 「仏が極楽浄土へ引摂したまうこの世ならぬ煙」・・・清水孝之著『与謝蕪村集』他
四の二 「煙とも霞ともつかぬもの」・・・山下一海著『戯遊の俳人与謝蕪村』他
四の三 「不思議な」「怪しい」・・・芳賀徹著『与謝蕪村小さな世界』他
四の四 「火縄銃の煙」・・・村松友次『蕪村の手紙』他 
四の五 古典における「変化(へんげ)」の撥音無表記の形「へげ」(実際の発音はヘンゲ)
    を雅語意識のもとにヘゲの発音のままに変化(へんげ)の意に用いたもの。その実体は「四の四」   (猟師の火縄銃の煙)・・・尾形仂著『蕪村の世界』・尾形仂他校注『蕪村全集(四)』他。

この『蕪村伝記考説』の著者(高橋庄次)は、上記の「四の一」と「四の五」の折衷案
のような考え方であろう。とにもかくにも、詩を読み進める上では、上記のような語釈等はあくまでも参考であり、それ以上に、蕪村研究の先達者達がこの蕪村の俳詩に情熱を込めて様々な解を捧げていることに一驚するのである。