若き日の蕪村(四~六)

若き日の蕪村(四)

若き日の蕪村(四)

(四十七)

ここで、「北寿老仙をいたむ」が収載されている『いそのはな』やこの和詩を安永六年とする『蕪村の手紙』の著者(村松友次)の考え方などを紹介したい。著者(村松友次)は、この和詩の「君」と「友」とを分けて解釈する独特のもので、その考え方は賛否両論があるが、それらの解釈の異同なども織り交ぜながら見ていくことにする。著者(村松友次)は次のような「九連詩説」(この和詩十三行を九連に分割する考察)によっている(『蕪村伝記考説(高橋庄次)』などの「八行詩説」と四※印の行の相違がある)。

北寿老仙をいたむ

一 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
  何ぞはるかなる
二 君をおもふ(う)て岡のべに行(いき)つ遊ぶ
  をかのべ何ぞかくかなしき
三 蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲(さき)たる
  見る人ぞなき
四※ 雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞(きけ)ば
五 友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき
六 へげのけぶりのはと打(うち)ちれば西吹(ふく)風の
  はげしくて小竹原(をざさはら)真(ま)すげはら
  のがるべきかたぞなき
七 友ありき河をへだてゝ住(すみ)にきけふは
  ほろゝともなかぬ
八 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々に
  何ぞはるかなる
九 我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず
  花もまい(ゐ)らせずすごすごと彳(たたず)める今宵(こよひ)
  ことにたう(ふ)とき 

釈蕪村百拝書
(口語訳)
一 あなたは、にわかにこの朝、世を去られました。その夕べ、
  私の心は千々に乱れてあなたをしのぶのですが、あなたは何と
  はるかに遠いところへ行ってしまわれたことでしょう。
二 あなたのことを思いながら、岡のべをさまよい歩くのです。
  岡のべはなぜこうも悲しいのでしょう。
三 たんぽぽは黄色に、なずなは白く咲いています。
  しかし、これを見るあなたはいないのです。
四 おや! 雉がいるのでしょうか、いたましい声で、ひたなきに鳴いています。
  聞くとこう言っているのです。
五 「親しい友があった。河をへだてて、共にこの岸に住んでいた。
六  あやしい煙がばっと散ったかと見ると、たちまち西から風がはげしく吹き
  (友の命の緒はたちまち吹き弱り)小笹原も真すげ原も吹き乱れて、
   のがれかくれる所もなかった! ・・・・・・・
七  親しい友があった。河をへだてて、共にこの岸に住んでいた。だが、もう、今日は、
   ほろろとただの一声も鳴かない。」と。(ああ、あの雉も私と同じ悲しみを抱いてい
   るのです。)
八 あなたは、にわかにこの朝、世を去られました。その夕べ、 
  私の心は千々に乱れてあなたをしのぶのですが、あなたは何と
  はるかに遠いところへ行ってしまわれたことでしょう。
九 わが家の阿弥陀仏にともしびを奉る気力もなく、
  花もお供えせず、ただひとりしょんぼりとたたずんで、
  あなたをしのぶ今宵は、
  ことに尊く思われるのです。
              仏弟子蕪村百拝してしるす

(四十八)

『蕪村の手紙』の著者(村松友次)は、「平井氏(註・詩人で俳人の平井照敏)は、この詩の中心部分の解説の諸説を丹念に紹介し、次のように言う」として、平井照敏氏の考え方を紹介している。
○まったく、諸説入りみだれて、どうにも収拾がつかない思いではないか。なんとか、すっきりした結論はつけられないものだろうか。そう思って、尚学図書版『鑑賞日本の古典17 蕪村集』の村松友次氏の解説を見た途端、私ははじめて、久しいしこりが一度に解ける思いを味わったのであった。村松氏の訳は次のようである。
「あやしい煙がばっと散ったかと見ると、たちまち西から風がはげしく吹き
  (友の命の緒はたちまち吹き弱り)小笹原も真すげ原も吹き乱れて、
   のがれかくれる所もなかった! ・・・・・・・
  親しい友があった。河をへだてて、共にこの岸に住んでいた。だが、もう、今日は、
   ほろろとただの一声も鳴かない。」と。(ああ、あの雉も私と同じ悲しみを抱いてい
るのです。)」
 つまり、村松氏は「友ありき・・・」から「ほろゝともなかぬ」までの六行を、雉のことばと考え、作者の思いを重ねているのである。これは、先にあげた中村草田男の解と重なるものである。草田男の場合、「へげのけぶりの・・・」から「のがるべき・・・」までの三行を地の文としていたが、村松氏はその三行を雉のことばと考えたのである。たしかに、このように考えれば、「友ありき・・・」の転調は無理なく解決でき。その友が、鳴いて雉の友の雉なら、「けふハ/ほろゝともなかぬ」の理由も十分に納得できる。河をへだてていつも鳴きかわしていた友の雉なのだから。村松氏はこれだけではなく、この詩全体の構成について、興味ある分析をしている。つまりこの詩はABCDEという五つの面を重ねた構造をしていると考えるのである。A面は、題と「我庵のあミだ仏・・・」、以下、B面が一、二行目と十四、十五行目の「君あしたに去ぬ・・・」という同文の二行ずつ、C面は岡のべの描写で、三行目から五行目までの五行、D面が雉1の独白で、八行目と十二行目、十三行、E面が雉1の独白の中に語られる雉2の最後で、九行目から十一行目までの三行である。この五面の重なりによる立体的構造をもつのがこの詩だとするこの解明はまことにすっきりとこの詩の構造を解いている。
 だが、さきの口語訳で、「あやしい煙」とのみ訳されていた変化のけぶり、これを村松氏は、猟銃の煙だと解いている。そうかもしれない。事実、蕪村に、「雉子うちてもどる家路の日ハ高し」の句かあり、この句を書き添えた絵も存在して、猟師が鉄砲の先に死んだ雉をぶらさげて家路につく姿がえがかれている。なぜ雉2が死んだのか。それをここまで解いてしまうと、詩が透明になりすぎて、しらけてしまう感じである。ここは、蕪村も「へげのけぶり」とだけ書いたように、あやしい煙のままで、いろいろに味わえる不透明な余地をのこしておくべであろう。あるいは先の草田男もそのように解していながら、作家の勘でそう言い切ることを避けたのかもしれない。その点は味読を尊重する俳句実作者の私だが、しかし、村松氏の分析のように、この詩が読めるものとすれば、蕪村の作詩術はなんと新しいものではないか。複雑な構造性のある詩をすでに作っていたのである。もっともそれは、物語的に俳句や詩句を組みあわせた「春風馬堤曲」の作者蕪村には、可能なことだったのであろう。またかれの絵にも、視線を移動させることによって、画面が変化してゆくという多面的な工夫がさまざまにほどこされていた。そしてその近代性は、かれが中国の絵画や詩文に注いだ傾倒のこころのかもし出したところから芽吹いたものだったのかもしれないと思う。

 長い引用になったが、平井照敏氏は、村松友次氏の考え方を是とするということであろう。「その近代性は、かれが中国の絵画や詩文に注いだ傾倒のこころのかもし出したところから芽吹いたものだった」という最後の指摘については、村松氏が指摘する「能の多くの構成」と深く関わっていることも加味しておきたい。

(四十九)

 この村松友次氏の考え方に対して、山下一海氏は次のように一部否定的考え方をしている(村松・前掲書)
○村松友次氏の九行詩説(註・九連詩説)は、詩の中心点のその独特の解説にかかわりがある。すなわち、7に「雉子のあるかひたなきに鳴くを聞けば」とあるのを受けて、8 から13までの六行を雉子の言葉とする。その六行を直接話法として、括弧でくくってていいようなものとするのである。それは雉子が友である別の雉子の最期を語っているのだから、その中の9・10・11の三行によって、別の雉子の代弁をしているのだという。それは能の後ジテが、生前の姿となって登場し、その最期を語り演ずる手法に似ている、ともいう。まことに明快な解釈であり、八連詩説では一括されていた7・8が九行詩説(註・九連詩説)では別々の行として考えられなければならない理由も、あきらかである。しかも、中心部分が8・9・10のさらにその中心ともいうべき「へげのけぶり」に、猟銃の煙という新解を与えて、その解釈を確固たるものにしている。しかし、8から13までを、雉子の言葉として割り切ってしまうことはいかがなものか。能の夢幻劇だといってもそこにあるのは能の詞章ではない。8から13までの文字が雉子の直接話法とすると、はっきりしすぎた寓話劇というようなものに聞こえないでもにい。そこに銃声一発、鉄砲の煙となると、どうも本当にそうなってしまう。従来の解釈によるこの詩の不思議な情緒纏綿生といったものが、雉子の言葉の挿入によって破壊それるような気がする。意味ははっきりするが、かんじんの詩の魅力が薄らいでしまう」。

 これらの村松友次氏の考え方については、先に見てきた『蕪村伝記考説』(高橋庄次著)の「この追悼詩を霊前に捧げたのである」という観点から、この蕪村の和詩を鑑賞していくと、山下一海氏らの従来からの、「8から13までの文字が雉子の直接話法」ではない、という考え方を是としたい。しかし、「北寿老仙を『君』とも呼び『友』とも呼んでいる」ことの疑問(俳人・原裕氏らの意見)は依然として残る。このことについては、『君』は、「北寿老仙その人」を指し、『友』は、雉子の鳴き声で象徴される、「北寿老仙を始め、その北寿老仙に前後して亡くなった、宋阿や潭北らの複数の故人」と、蕪村は、その心中に、区別してのものという理解も、この和詩を鑑賞する、もう一つの視点として許容されるのではなかろうかと、そんな思いもするのである。

(五十)

 『蕪村の手紙』の筆者(村松友次)の「北寿老仙をいたむ」の製作時期を安永六年、蕪村六十二歳とする考え方は、次のとおりである。

一 詩の発想や内部構造が「春風馬堤曲」と酷似する。
二 内容・・・主として季節感・・・が、晋我没後の直後に霊前に手向けたものとは思えない。
三 もし、没後すぐの手向草だとしたら、雁宕その他の結城地方の俳人の弔句も共に残るはずである(『いそのはな』にはそれがない)。
四 安永六年に蕪村は『新花摘』を書き、しきりに往時を回想している。

 これらが、その根拠なのであるが、一については、先にも触れたが、「春風馬堤曲」は安永六年春興帖『夜半楽』に収載されたもので、それは「歌仙(一巻)・春興雑題(四十三首)・春風馬堤曲(十八首)・澱河唄(三首)・老鶯児(一首)」の、いわゆる三部作「春風馬堤曲(十八首)・澱河唄(三首)・老鶯児(一首)」のその一部をなすものである。この三部作の主題は「老いの華やぎ」・「老鶯児の句に見られる老愁」ということであり、それと故人への手向けの追悼詩の「北寿老仙をいたむ」とは、まるで異質の世界である。高橋庄次氏は
「夜半楽三部曲が発句・漢詩・和詩といったさまざまな形式をモザイク状に組み上げたバラード(物語詩)であるとすれば、『北寿老仙をいたむ』はリート(独唱用小歌曲)だと言えるからだ」としているが(『蕪村伝記考説』)、その説を是としたい。
二については、「晋我没後の延享二年正月二十八日は、陽暦に換算して二月二十八日であり、この時期、結城地方は『蒲公英の黄に薺のしろう咲きたる』の季節ではない」(村松・前掲書)としているが、こと、この季節感をことさらに取り上げる必要性はないと考えられる。
三についても、「没後すぐの手向草だとしたら、雁宕その他の結城地方の俳人の弔句も共に残るはずである(『いそのはな』にはそれがない)」ということは、このことをもって、安永六年説(晋我の三十三回忌の追悼集が、何らかの事情で五十回忌まで延びてしまった)の根拠とはならない。それを根拠とするならば、この『いそのはな』にも、晋我と親しかった亡き「雁宕その他の結城地方の俳人」の句も収載されてしかるべきであるが、それがないということは、この『いそのはな』の記載のとおり、「庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る」の記述以外のなにものでもないと解する。
四については、蕪村の『新花摘』は其角の『華(花)摘』に倣い、亡母追善のための夏行として企画されたものであり、それは「しきりに往時を回想している」というよりも、回想録そのものと理解すべきであろう。そして、特記しておくべきことは、この『新花摘』は、その夏行中に、「所労のため」を中絶し、その夏行中の句と、「京都定住以前の若年の回想その他の俳文を収め」、全体として句文集としての体裁をしたものであり、その俳文の手控えのようなものなどから、往時を回想する中で、上記一の『夜半楽』などの構想が芽生えていったということで、そのことと、「北寿老仙をいたむ」の製作時期とを一緒する考え方には否定的に解したい。
(追記)さらに、上記一の『夜半楽』の「安永丁酉春正月 門人宰鳥校」から、「北寿老仙をいたむ」の「釈蕪村」の署名も、「蕪村が京に再帰した宝暦元年(一七五一)からこの跋文(『夜半亭発句帖』)が書かれた同四年頃までに多く見かけられるもの」と、その署名のみに視点を置く考え方に疑問を呈する向きもあるが、この『夜半楽』は、「わかわかしき吾妻(あづま)の人の口質にならはんと」ということで、関東時代の若き日の宰鳥の号が、「宰鳥校(合)」ということで出てきたということで、これと、「北寿老仙をいたむ」の「釈蕪村」との署名とは異質のものであることは付記しておきたい。さらに、この『夜半楽』の「春風馬堤曲」には「謝蕪邨」との記載も見られ、これは、まさに、夜半亭一門の安永六年春興帖と解すべきものなのであろう。

(五十一)

 ここで、「北寿老仙をいたむ」の製作時期を安永六年とする説の根拠とされる蕪村書簡について紹介しておきたい(口語訳等は村松・前掲書による)。

○・・・春帖近日出(いで)し早々相下可申(あいくだしもうすべく)候。以上 蕪村
正月晦日日
霞夫様
水にちりて花なくなりぬ崖の梅
此句のうち見ニハおもしろからぬ様ニ候。梅と云梅ニ落花いたさぬハなく候。さけど樹下ニ落花のちり舗(しき)たる光景ハ、いまだ春色も過行(すぎゆか)ざる心地せられ、恋々(れんれん)の情有之(これあり)候。しかるに此(この)江頭の梅ハ、水ニ望ミ、花が一片ちれば其まゝ流水が奪(うばい)て、流れ去(さり)さりて一片の落花も木の下ニハ見えぬ。扨(さて)も他の梅とハ替りて、あわ(は)れ成(なる)有さま、すごすごと江頭ニ立(たて)るたゝずまゐ(ひ)、とくに御尋思(ごじんし)候へば、うまみ出(いで)候。御噛〆(かみし)メ可被成(なさるべく)候。
(口語訳)
・・・春帖(『夜半楽』をさす)近日出版し早々にお送りします。以上 蕪村
正月三十二日
霞夫様
水にちりて花なくなりぬ崖の梅
この句、ちょつと見ただけではつまらないような句です。梅という梅に落花しないものはありません。しかし、木の下に落花の散り敷いた光景は、まだ春も過ぎ去ってしまわないのだという心地がして、行く春を恋しがる情があります。それなのに、この川岸の梅は、水に臨んで立っているので、花が一片散ればそのまま流れが奪って流れ去り流れ去りして一片の落花も木の下には見えません。さても他の梅とはちがってあわれなる様子、すごすごと川岸に立っているありさま、ようくお考え下されば、うま味が出て参ります。噛みしめてみて下さい。

 この霞夫(但馬出石の門人)宛ての書簡は、追伸の形で書かれたものだが、この手紙を書いた二日後(安永六年二月二日)に、同じような内容の「水にちりて」の句とその自解の書簡を何来(大和初瀬の門人)宛てにも出している。この二通の書簡中の「すごすご」という文面に、村松友次氏は注目するのである。

(五十二)

○この二通の書簡で私(註・村松友次)が注目することばは「すごすごと」である。霞夫宛には「すごすごと江頭に立(たて)るたゝずまゐ」とあり、何来宛には「すごすごとさびしき有さま」とある。そして管見の限りでは、この時期以外に蕪村書簡に「すごすごと」の語はあらわれない。「北寿老仙をいたむ」(和詩)の末尾に、

 我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず
花もまい(ゐ)らせずすごすごと彳(たたず)める今宵(こよひ)
ことにたう(ふ)とき

とある。私はこの二通の書簡執筆時期と「北寿老仙をいたむ」の創作時期とが近接していると考えるのである。

 この村松友次氏の指摘は、尾形仂著『蕪村の世界』でさらに「北寿老仙をいたむ」の創作時期は安永六年説として、従来の延享二年説を上回る趣なのである。しかも、それだけではなく、新しく発見された安永五年六月九日付の暁臺宛書簡(新出資料)により、

 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
 何ぞはるかなる

の、「千々」のことばが、その書簡中の「夏の月千々の波ゆく浅瀬かな」の句の「千々」に関係するのではないかとして、またまた、新しい展開にも入ったような趣なのである。これらのことに関して、その安永五年六月九日付の暁臺宛書簡(新出資料)が、次のアドレスで紹介されており、その書簡(釈文)を付記しておきたい。

http://ship.nime.ac.jp/~saga/images/letter2.html

 今日菟道辺之風景     
 見え候てのもの之通 貴叟 
 先頃より御在京のよし    
 扨も社中の小児輩一向    
 御上京のさた不仕遺恨    
 之事ニ候 それ故御旅宿   
 御見舞も不申 御ふさた   
 不本意之段 御宥恕     
 可被下候 いまた御滞留ニ候や 
 うけ給りたく候 百池も    
 いつのまにやら一向面会    
 いたさす候 第一百池より   
 御上京のさた早速可致     
 筈之所 等閑之至       
 届さる事ニ御座候 愚老    
 むすめ事なとにて 俗事    
  多く 散分京ニのみ         
 くらし罷在候 ホ句なとも   
 (一向)いつくへやら取失ひ候  
 老耄御憐ミ可被下候 余辺   
 御ゆかしく候まゝ如此ニ御座候  
 いまた御在京ニ候ハゝ得    
 貴意物ニ御さ候 宿之者も   
 くれ~~御伝声申上候 頓首  
   六月九日
  夏の月千々の波
  ゆく浅瀬かな
  愁つゝ丘にのほれは
  花いはら
 よろしからぬ句なれと
 希運付候
 暮雨主盟      蕪村

(五十三)

ここで、『蕪村の手紙』(村松友次著)の『いそのはな』関連について見ていくことにする。

○『いそのはな』は、東都柳塘下七十三叟獅子眠雞口の序文、古晋我(註・北寿老仙)の発句五句、百里立句の百里・晋我(古晋我)両吟歌仙一巻のあとに、
  反古のはしにかく有にまかせて
 水無月の松風売や淡路島      専吟
  麻の頭巾ハ蚊にも笠にも     晋我
 喜雨亭へかねて蛙の内意して    琴風
  あふなきゆふへ弓張にけり    百里
と四吟らしきものの四句目までを出す。次が「北寿老仙をいたむ」である。そして詩の末尾に、
 「庫のうちより見出(みいで)つるまゝ右にしるし侍る」と記している。
ついで結城を中心にしたこの地方の現存俳人約四十名各一句。つぎに、古晋我の句を立句に脇起俳諧一巻、連中は、今晋我(註・桃彦)、雞口(谷口氏)、九皐、泰里(橋本氏)、篷雨の五名。つぎに「東都の好士の句をひろひて冊子の錺となす」として三六人、各一句、跋に相当する文と句を蘿道が書いている。
 百里の没年は享保十二年(一七二六 六二歳)。次の四吟の四句目までのもののうち、琴風の没年は享保十一年(一七二六 六十歳)。したがって、この両吟、および四吟の成った年時は享保十二年、十一年をさらにさかのぼることになる。およその見当で言えば、晋我、五十歳ぐらいの時で、江戸その他から有名な俳人を迎えての歌仙の作であり、大事に保存されたため、七十年ほど後にまで残ったのだろう。その他は「北寿老仙をいたむ」の蕪村を除けば結城地方および江戸の、現存者ばかりである。
 なぜ、晋我没後の結城や下館や宇都宮の俳人たちの弔句をのせなかったのか。五十年前の蕪村のこの俳体詩が残ったのなら、これらの人たちの弔句が残ってもよさそうなのである。
 晋我没後の延享二年正月二十八日は、陽暦に換算して二月二十八日であり、この時期、結城地方は「蒲公英は黄に薺はしろう咲きたる」の気候ではない。
 巴人没後、蕪村は結城に移住するが、それ以前に、
   つくばの山本に春を待
  行年や芥流るゝさくら川    宰鳥
の句が『夜半亭辛酉歳旦帖』にあり、元文五年の暮に「筑波の山本」に行っていることが分かる。この時期に蕪村は晋我に、当然面識をもったであろう。
 この『辛酉歳旦帖』には「結城歳旦」とした筆頭に、
   松かさり落葉もなくて尉と姥  素順
の句が出ている。晋我(素順)が結城俳壇の長老であったことが分かる。
 しかし、それからわずか三年後に蕪村が編集した『寛保四甲子歳旦歳暮吟』(宇都宮歳旦帖)中には晋我の子「もゝ彦」「田洪」の句は各一句あるが、晋我の句はない。この年(寛保四年、延享元年)の七月三日に没した潭北は句を出しているところを見ると、潭北は没前まで元気であり、晋我は寛保元年以後のある時期に発病し、二、三年病臥したのち潭北よりも半年おくれて世を去ったと見られる。すなわち、巴人没後蕪村が結城を中心に活躍する頃、七十二、三歳の晋我はすでに病床にあり、歳旦句すらも作れない状態であり、蕪村と共に「岡のべ」を逍遙する元気はなかったと思われる。
 蕪村が晋我の子の桃彦(蕪村より一歳年下)と親しかったことは桃彦宛(と見られる)書簡(註・先に紹介した)にうかがわれる。桃彦はその家業(酒造業)の関係で京阪地方に来ることもあったが、右の桃彦宛書簡によれば、伏見に桃彦の縁者かなにかがあるように思われる。
 かれこれ勘案して、私は、この詩が晋我三十三回忌にあたる安永六年前後に書かれ、桃彦に届けられたものかという推定を出したい。

(五十四)

 尾形仂著『蕪村の世界』も晋我三十三回忌にあたる安永六年前後に書かれたものとする。以下、その考え方を提示しておきたい(長くなるので、その一、その二、その三に分節する)。

(その一)
○この作品は、「君あしたに去ぬ」と歌い起こし、晋我の亡くなった夕べの思いをイメージも鮮やかに切々とつづり、かつ「釈蕪村百拝書」と署名するところから、従来多く、無条件に延享二年、蕪村三十歳当時の作とされてきた。
 この作品が、その夕べの心情に立って詠まれていることは確かである。だが、「君」という呼びかけや「友ありき」という言いかたは、七十五歳の晋我と三十歳の蕪村、結城俳壇の長老と立机(りっき)したばかり(蕪村が宇都宮で初めて自撰の歳旦帖を刊行したのは、二十九歳の春のことである)の駆け出しの俳諧師との間柄として、はたしてふさわしいかどうか。それに、「岡のべ」「蒲公の黄に薺のしろう咲たる」と、「春風馬堤曲」に見える「堤」「たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に/三々は白し」のイメージの符合、さらに「すごすごと彳(たたず)める」と、安永六年春「水にちりて花なくなりぬ岸の梅」(「澱河歌」の発想の中から生まれた句であることはすでに記した)の句を報じた霞夫宛書簡に見える「すごすごと江頭に立るたゝずまゐ」、同じく何来宛書簡に見える「すごすごとさびしき有さま」といった措辞の類似は、けっして偶然に出たものとはいえないであろう。
 何りも、「水引も穂に出(いで)けりな衣(きぬ)くばり」(宇都宮歳旦帖)、「鶏(とり)は羽にはつねをうつの宮柱」(同上)、「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」(『反古衾』、「釈蕪村」と署名)といった江戸座的な知巧的発想に身をゆだねていた関東遊歴時代の蕪村は、この「北寿老仙をいたむ」のみずみずしく清新な抒情の表現が可能であったとは思われない。この時期の作で後年の蕪村の作風につながるものとされる「柳ちり清水かれ石ところどころ」(『反古衾』)、「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」(宇都宮歳旦帖)などの句にしても、前者は蘇東坡の「水落石出」(『古文真宝後集』巻一「後赤壁賦」)の句によって風雅の名所(などころ)「清水流るる」遊行柳(ゆぎょうやなぎ)の冬の荒寥たる相貌を露呈してみせたところにミソがあり、後者は芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」を裏返して宗匠立机の春を謳歌したものにほかならなかった。
 のみならず、楽府の詩形式を自家薬籠中のものとして哀悼の抒情の展開に縦横に活用したその自在の詩形式、詩中の雉子の「友ありき河をへだてゝ住にき」のリフレーンにくくられた回想の語りに託して、人間の理解を超えた、のがれがたい運命に対する自己の驚愕と悲嘆の思いを吐露するという手法は、「妓ニ代ハリテ」「女ニ代ハリテ意ヲ述ブ」という設定のもとに、妓女や藪入り娘のセリフに託して自己の「実情」を「うめき出た」二つの作品を前提としなければ、とうてい成立し得なかったろう。

(五十五)

(その二)

○一方、「澱河歌」「春風馬堤曲」の二作が、ほぼ単線的な時間の流れに沿って構成されているのに対して(後者の場合には十三首目から十五首目にかけて娘の回想が挿まれてはいるが)、この作品が、「君あしたに去」った衝撃の中に身を置いている「ゆふべ」の時間、それにつづく「岡のべ」の逍遙の時間の中に、雉子の声の現在の時間、運命の一瞬への雉子の回想の時間を二重の入れ子型にはめ込み、草庵の夜の時間と場面で一篇を結ぶなど、より複雑な構成をとっていることも、いっそうそうした疑問をかきたてる。
 「春風馬堤曲」「澱河歌」の二作を収める『夜半楽』の刊行された安永六年は、あたかも晋我三十三回忌に当たっている。六十二歳を迎えた蕪村は、すでに老境の悲しみを知り、心理的にはかっての長晋我を「友」と遇し「君」と呼んでも、それほど不自然ではない年齢に達していた。今は故人を知る数少ない一人、しかも京都俳壇の重鎮ということで、桃彦より追善集への出句の要請を受けていたかも知れない。
 だが、蕪村は娘くのの婚家とそれにつづく空虚感の中で、それに応える暇がなかった。それが、「馬堤曲」より『新花摘』へとつづいてゆく、幼時から青年時への追想・・・なつかしい時間帯の臥遊の夢に誘いおこされて、この近代詩とも見紛う浪漫的諸篇をつむぎ出すことになったのではあるまいか。そして晋我三十三回忌の追善集刊行の企画が何かの事情で流れて、その五十回忌に「庫のうちより身出」される結果となったのではなかろうか。

(五十六)

(その三)

○「君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に」という歌い出しは、晋我の悲報に接した直後のナマナマしい衝撃の中で作られたことを示すものではないかという疑念に対しては、「あした」「ゆふべ」の対句が漢詩表現の常套であることを想起すれば済む。「釈蕪村」の署名も、蕪村が巴人の口質に倣わんことを序文にうたった『夜半楽』の巻尾に、巴人の門下に遊んだ若き日の旧号で「門人 宰鳥校」と奥書きした心意を思い合わせれば、これも懐旧の念から出たものと納得がゆくだろう。その情感の直截性のゆえに、これが三十三年後の作であることを否定する向きには、蕪村が老年に及ぶに伴ってその豊かな想像力によりいよいよみずみずしい青春の花を咲かせた詩人であったことを挙げればよい。
 もし、これを安永六年の作とすることが肯定されてよいとすれば、14・15にくり返された「君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に何ぞはるかなる」の詩句は、次のような意味を重ね合わせて、読み直すことも可能だろう。
・・・あなたは、私の青春の朝(あした)に世を去った。その時のことを思い返せば、今、人生の夕暮れにさしかかった私は千々に乱れ、何とマァ茫漠と暗い思いに誘い込まれることか・・・と(註・「はるかなる」は「杳か」で曇って暗いの意に解している)。そこにまた、やるせない青春への慕情が脈々と波打っている。
 そしてまた、傷心の中で暗闇に仰ぐ弥陀の尊象を「ことにたう(ふ)とき」と言って結んだ最終節は、たとえば「みの虫のぶらと世にふる時雨哉」(小摺物「夜半亭小集」)の句に典型的に示されているような、太祇・召波・鶴英・雁宕らの盟友が次々と世を去ってゆく無常の相を凝視する中で、しどけなく老懶(ろうらん)の境地に居直った晩年の蕪村の、隠された心の奥を覗かせたもの、と読むことができるかも知れない。・・・何事も弥陀のはからいに任せきった・・・。

(五十七)

 これらの、村松友次・尾形仂両先達の論稿の検討に入る前に、また、別の観点からのものを紹介しておきたい。その一つは、詩人・三好達治に親炙した「秋」主宰の俳人・石原八束氏の「北寿老仙考」(『蕪村全集』第六巻月報所収)である。この論稿は氏の遺稿ともいうべきもので、編集部の次の記述が付せられている。
○筆者石原氏は本稿執筆後に病臥され、校正刷りを検討していただくことができませんでした。『いそのはな』の鶏口序文に、晋我は「世を譲(ゆづり)て北寿と呼(よば)れ」とあることに、お考えがある筈ですが本稿に表れていません。執筆前のお話からは、雁宕家廃絶の際に早見家に移った蕪村稿を、桃彦が後に「庫(くら)のうちり見出(みいで)つるまゝ」晋我あてと判断した(それがそのまま序文に出た)、と推測しておられたようです。しかし、そのことを確認できないまま、原文の通り掲載しました。また論旨に影響しませんが、追善集刊行時の桃彦の年齢に関する部分は、同じく序文に「後の晋我と跡を継(つぎ)て、ことし八十一齢となり」とある箇所を見落とされたかと思われます。

(その一)

○蕪村の詩篇「北寿老仙をいたむ」について、八年ほど前の一九八九年一月号「新潮」に同題の論考をすでに発表している。天才型でない蕪村の画も俳諧も、年をとるにしたがって成熟大成していることを検証しながら、その俳句創作の発想と技能の酷似から、この詩篇は蕪村の親友砂岡雁宕の死亡(安永二年七月三十日)の訃報が京都に届いた(これを私は安永二年の晩秋頃と初め考えたが、今は安永三年初春の頃と考えている)ときから数ヶ月をかけ、雁宕追悼詩としてこれを作ったのではないか、というのが拙文の要旨であった。

(五十八)

(その二)

○詩篇と酷似している句として「愁ひつゝ岡にのぼれば花いばら」「花茨故郷の路に似たるかな」「遅き日のつもりて遠きむかし哉」「なの花や月は東に日は西に」とか「雉子啼や坂を下りの駅舎(たびやどり)」など、いずれも安永三年(蕪村五十九歳)の作と思われる句を例証に引いた論証であったことは断るまでもない。
 この詩篇が雁宕追悼の詩であるとすると、当然ながら北寿老仙は雁宕ということになる。多くの先覚が当然のこととしてきた「北寿は晋我」説に異をとなえる不遜な考え方を持ったのではもとよりない。が、詩句発想の推移と成熟を六十年も内省し続けてきた専門俳人の、これは私の勘であるとしか言いようがないのである。もう一つ付け加えると、晋我没後の嗣子桃彦によって編まれた「いそのはな」にこの「北寿老仙をいたむ」を「庫のうちより見出つるままに右にしるし侍る」と付記されている言葉にも、専門俳人の私は早くから疑念をいだいてきたのである。                         
 雁宕は蕪村にとって早野巴人門の先輩であり、結城時代の恩人であり、更に巴人の十七回忌が京都で修せられたときには雁宕は上洛して蕪村とともに修忌の役割を果したりした仲で、その交友は三十年にも及ぶ。晋我とのつきあいはたった三年である。安永二年の蕪村は夜半亭二世の文台をおいて数年、画人としても大成して、つまり人間的にも大きくなっていたから、先輩の雁宕をこそ北寿老仙という敬称で追慕するにふさわしい間柄であったと考えるのが自然ではないかしら。多少先輩てもあり友人であっても立派な仕事を残して死亡したときには、初めてその友人を先生という敬称で呼ぶ伝統は今の文人の世界でもたしかに残っている。

(五十九)

(その三)

○ただ、その後蕪村研究に深入りした訳でもない寡聞の私には、例えば古稀を越えた晋我が北寿を自称している書簡が発見されたとか、北寿で入集している句集が出てきたとかいうことは聞こえていない。晋我の妻女は雁宕の父我尚の妹であったことは右の「新潮」に発表した拙文でも言った。砂岡家の本家の伊佐岡家も早見家も更に下館の中村風篁・大済家なども一所不在の蕪村が逗留して世話になった家は大方結城十人衆の名家である。結城十人衆というのは慶長六年(一六〇一)結城家が福井に六十七万石で国替えになったときに、結城家の墓守を名目に譜代の家臣が豪族としてこの地に残されたのである。殊に伊佐岡家はその筆頭の名家であったことは名刹弘経寺の一等地にある伊佐岡一門の墓を見ればよく解る。雁宕の祖父宗春のときに伊佐岡家から一字格落ちして砂岡家となり、雁宕まで三代は三右衛門と通称した。雁宕の息子は病弱で雁宕に前後して早世・・・妻子はない。その墓は高誉雁宕堅樹居士と並んで堅誉好樹覚定居士として更に二名を加えた一族四名が同一墓石に刻され、四代で廃絶となった砂岡家の墓は本家伊佐岡家の墓所に入れられている。

(六十)

(その四)

○つまり、砂岡家は雁宕とその嗣子の早世によって廃絶しているから、蕪村の追悼詩が雁宕の遺族に送られてきても受取人が無く、親戚の早見家に渡ってオクラになったということは充分考えられるのである。ついでに言えば、雁宕没後二十年、蕪村没後十年、晋我没後四十八年の寛政五年(一七九三)に「いそのはな」を編んで「北寿老仙をいたむ」を初めて世に発表した晋我の嗣子桃彦は、このときいったい幾歳になっていたのであろうか。仮に晋我三十歳のときの子とすれば九十五歳、四十歳のときの子としても八十五歳である。当時それほどの長寿の例があったのであろうか。北寿老仙即雁宕説が浮上してもおかしくない理由はここにもあるのではないか。
 因みに右の本家の伊佐岡家の昭和の当主荘基さんは小誌「秋」の同人で、私どもと一緒に運座(句会)をしてきた仲間であった。もう二十余年も前のこと、一日、尾形仂教授を私とこの荘基さんで結城に東道し、弘経寺の伊佐岡家の墓所にある雁宕の墓とか、蕪村のこの期の襖絵などを見学してもらったことのあったのを思い出す。その荘基さんもすでに道山に帰られて久しい。またいま(平成九年十月)水戸の県立博物館で開かれている大規模の蕪村展を初めに企画され、日頃親しくして下さっていた私どもにまでその相談をもちかけて下さった館長の衛藤駿慶大名誉教授が展覧会実施の直前、八月に急逝されてしまわれたのは痛恨の思いである。そうして盛大にひらかれたこの蕪村展の会場を私は度々徘徊しながら、安永三年作の蕪村句と「北寿老仙をいたむ」詩の酷似に執着し続けているのである。

若き日の蕪村(その五)

若き日の蕪村(その五)

(六十一)

 ここでもう一つ論点を整理する意味合いも兼ねて、谷地快一氏の「『春風馬堤曲』などの和詩には何がひそんでいるのか」(「国文学」平成三年十一月号)の「北寿老仙をいたむ」関連のところを紹介しておきたい。

(その一)

○「春風馬堤曲」に先立つ詩篇「北寿老仙をいたむ」は両者に通ずる性格のために、早くは諸橋謙二・森本哲郎・安東次男氏等を経て、蕪村の若い頃の作という通説に疑念が持たれていた。確かに両者の舞台は川に隣接する岡あるいは堤という点では共通し、そこには蕪村にあまり例がない蒲公英が叙情を添える。他者をかりて心情を吐露するという点も似ているし、「北寿老仙をいたむ」の中の特徴的な形容が安永期の書簡に指摘されたりもする(村松友次説)。最近では、「北寿老仙をいたむ」の逃れ難い運命に対する自己の驚愕と悲嘆の思いは、『夜半楽』所収の「澱河歌」の原型である扇面「遊臥見百花楼送帰浪花人代妓」を前提として成立した可能性もあるという(尾形仂説)。
「北寿老仙をいたむ」は延享二年(一七四五)に七十五歳で没した早見晋我をいたむ挽歌で、蕪村は当時三十歳。謎はそれが蕪村没後十年の寛政五年(一七九三)『いそのはな』刊行まで埋没していたことに始まる。地方俳書とはいえ、その後「北寿老仙をいたむ」の読者を江戸時代の資料に見いだすのはむずかしい。はっきりするのは、引用・合成に巧みであった藤村が明治三十五年六月『海の日本』(太陽臨時増刊)なる雑誌に掲載した詩「炉辺雑興」に受容したのが最初である(佐藤康正『蕪村と近代詩』)。だが、全貌紹介は大正十三年の『俳聖蕪村全集』(水島重治校閲)まで待たねばならなかった。以後、その成立と解釈をめぐってはいくつかの説が対立する。

(六十二)

(その二)

○諸説の検討には稿を改めるべきだが、安永年間成立説は村松友次氏の「『北寿老仙をいたむ』の解釈ほか」(俳文芸七号)で再燃して、これを支持する傾向が強まっている。村松氏の結論は、晋我の三十三回忌である安永六年正月二十八日の前に、桃彦の依頼によって書かれたが、それが何かの事情で五十回忌まで「庫のうち」に眠ってしまっていたというものである。
その根拠を村松説を中心に要約すると、先掲の類似点に加えて次のようになる。
①「北寿老仙をいたむ」が晋我没後間もなくの成立ならば『いそのはな』にはなぜ先輩格にあたる雁宕らの追悼作がないのか。
②二世晋我を継ぐ桃彦と蕪村は年齢が近く、蕪村の京都移住後も交流があり、安永期に
追悼詩を依頼された可能性が考えられる。
③安永六年の夏には『新花摘』をしたため往時を回想することが多くなっている。
④「君」「友ありき」という呼び方は、四十五歳も離れた晋我にふさわしくないが、安永六年(蕪村六二歳)前後ならば不自然でない。
 しかし、安永年間成立ならば、「釈蕪村百拝書」という署名をどう理解すればいいのか。蕪村は師である巴人没後得度をして、①延享・寛延頃(註・『反古衾』は宝暦二年刊)の発句「うかれ越せ」(『反古衾』)、②宝暦三年(一七五三)『瘤柳』所収発句「苗しろや」、③宝暦二・三年と推定(註・「宝暦初年」)できる句文「木の葉経」、④宝暦四年(一七五四)に認めた『夜半亭発句帖』跋などに「釈蕪村」と名乗る。また、宝永元年の「名月摺物ノ詞書」にも文中に頭を丸めていたことを明言しているのである(註・この「釈蕪村」の署名と晋我十三回忌が宝暦七年前後にあたり、これらのことから「宝暦年間成立説」ということについては先に触れた)。さらにいえば、作品の付記「庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る」を編者桃彦のものとすることに間違いはないのか。この謎めいた付記は何を意味するのか。また、流麗な晩年の蕪村真筆なら何故自筆のまま掲載しなかったか、など疑問は絶えない。

(六十三)

(その三)

○模索の果てに、「北寿老仙をいたむ」の分かち書きを恣意に再構築していよいよ不思議なのは、作品の根幹部分において晋我の死を悼む挽歌とは思えないことである。その構造は村松友次氏の分析の通り、蕪村のモノローグ(君あしたに去ぬ。ゆふべのこゝろ千々に 何ぞはるかなる)というリフレィンを外枠とし、雉子のモノローグ(友ありき。河をへだてゝ住にき)というリフレィンを内枠とする。それは、蕪村が雉子の語りを借りて吐露する「へけのけぶりのはと打ちれバ、西吹風のはげしくて、小竹原真すげはら、のがるべきかたぞなき」が作品の中心部であり、哀しみの焦点であることを明確にする。ここに晋我の死に似つかわしい何かが描かれているだろうか。七十五歳の寿齢果たして「君あしたに去ぬ」というほどにわかな悲嘆であったのか、「へけのけぶりのはと打ち」ることで「のがるべきかた」のないほどミステリアスで不条理な死であったのだろうか。謎は深まるばかりである。
 ともあれ、詩は必ずしも論理的に整序されたものではない。むしろ、その破綻の中に真情を見極めようとする立場もある。俳諧はそうした破綻をもすくいとる器として、こうした詩型を準備していた。

(六十四)

 これまでのものに関連事項などを追加して年譜にすると次のとおりとなる。

蕪村年譜(「釈蕪村」の署名関連・「蕪村」関連主要俳人の没年など)
註 △=関連俳人没年等。○=関連俳人追善集等。□=関連動向等。☆・ゴジック=特記事項等。※=「北寿老仙をいたむ」関連等。

享保元年(一七一六)蕪村・一歳
□この年、摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)に生まれたか。本姓谷口氏は母
方の姓か。宝暦十年頃から与謝氏を名乗る。
享保十三年(一七二八)蕪村・十三歳
□この年、母を失ったか。享保十二年百里が没したため、早野巴人(宋阿)はこの頃江戸を去って大阪に赴き更に京都に上り、十年ほど居住。その間、宋屋・几圭など優れた門人を得。京都俳壇の地歩が固まりかけた頃、元文二年(一七三七)再び江戸に帰る。
享保二十年(一七三五)蕪村・二十歳
□この頃までに郷里を去って江戸に下る(元文二年説もある)。
元文二年(一七三七)蕪村・二十二歳
□四月三十日、在京十年の巴人は砂岡雁宕のすすめで江戸に帰り、六月十日頃豊島露月の世話で日本橋本石町三丁目の鐘楼下に夜半亭の居を定め、宋阿と改号。この頃「宰町」入門か(その前に「西鳥」と号したのではないかとの説がある。享保十九年の吉田魚川撰『桜鏡』など)。
元文三年(一七三八)蕪村・二十三歳
○この年刊行の『夜半亭歳旦帖』に「君が代や二三度したる年忘れ」(宰町)が入集。「宰町」号の初見。豊島露月撰『卯月庭訓』に「宰町自画」として「尼寺や十夜に届く鬢葛」が入集。蕪村の書画の初見。
元文四年(一七三九)蕪村・二十四歳
○十一月、宋阿編、其角・嵐雪三十三回忌追善集『桃桜』(下巻の板下は宰鳥という)に「摺鉢のみそみめぐりや寺の霜」(宰鳥)の句があり、「宰鳥」号の初見。また、宋阿興行の歌仙「染る間の」(宋阿・雪尾・少我・宰鳥)、百太興行の歌仙「枯てだに」(百太・宋阿・故一・訥子・宰鳥)に出座。なお,素順(晋我)興行の歌仙「空へ吹(く)」(素順・宋阿・雁宕・呑魚・安汁・田光・丈羽・東宇・朱滴・鵑児)も収載されている。この頃には晋我と親交があったか。
元文五年(一七四〇)蕪村・二十五歳
□元文年間、俳仙群会図を描く(「朝滄」の署名から宝暦年間の作との説もある)。
寛保二年(一七四二)蕪村・二十七歳
△六月六日 夜半亭宋阿没(享年六十七歳。六十六歳説もある)。
□宋阿没後、江戸を去って結城の同門の先輩砂岡雁宕を頼る。以後、野総奥羽の間を十年にわたって遊行。常磐潭北と上野・下野巡遊の後、単身奥羽行脚を決行。
寛保三年(一七四三)蕪村・二十八歳
○五月 望月宋屋編『西の奥』(宋阿追善集)。
延享元年(一七四四・寛保四年二月二十一日改元)蕪村・二十九歳
○春、初撰集『宇都宮歳旦帖』刊行。宰鳥名のほかに蕪村名が初出(渓霜蕪村)。
☆延享二年(一七四五)蕪村・三十歳
△一月二十八日 早見晋我没(享年七十五歳)。※「北寿老仙をいたむ」はこの年に成っ
たか(延享二年説)。
△七月三日   常磐潭北没(享年六十八歳)。
□宋屋、奥羽行脚の途次結城の蕪村を訪ねたが不在(宋屋編『杖の土』)。
延享三年(一七四六)蕪村・三十一歳
□宋屋、奥羽行脚の帰途、再び結城・下館の蕪村を訪ねたが不在。十一月頃、蕪村は江戸増上寺裏門辺りに住していたか(『杖の土』)。
☆宝暦元年(一七五一)蕪村・三十六歳
□蕪村関東遊歴十年この年京に再帰する。八月末京に入り、毛越を訪ねる。秋、宋屋を訪ね、三吟歌仙を巻く(『杖の土』)。
○毛越編『古今短冊集』に「東都嚢道人蕪村」の名で跋文を寄せる。桃彦宛書簡(宝暦元年と推定の霜月□二日付け書簡)。
(「真蹟」、宝暦初年推定)
しもつふさの檀林弘経寺といへるに、狸の書写したる木の葉の経あり。これを狸書経と云て、念仏門に有がたき一奇とはなしぬ。されば今宵閑泉亭にて百万遍すきやうせらるゝにもふで逢侍るに、導師なりける老僧耳つぶれ声うちふるいて、仏名もさだかならず。かの古狸の古衣のふるき事など思ひ出て、愚僧も又こゝに狸毛を噛て
肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)洛東間人嚢道人 釈蕪村
☆宝暦二年(一七五二)蕪村・三十七歳
○宋屋編『杖の土』に「我庵に火箸を角や蝸牛」の句あり、東山麓に住していたか。雁宕・阿誰編『反古衾』刊行、「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」(釈蕪村)の句など入集。『瘤柳』に「苗しろや植出せ鶴の一歩より」(釈蕪村)の句入集。
☆宝暦四年(一七五四)蕪村・三十九歳
○六月、巴人の十三回忌にあたり、雁宕ら『夜半亭発句帖』(五年二月刊行)を編し、こ
れに跋文を送る。宋屋、宋阿十三回忌集『明の蓮(はちす)』を編んだが、蕪村の名はない。既に丹後に住を移していたか。
(『夜半亭発句帖』跋文)
阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探(さぐり)て、一羽烏といふ文作らんとせしも、いたづらにして歴行する事十年の后(のち)、飄々(ひょうひょう)として西に去(さら)んとする時、雁宕が離別の辞に曰(いわ)く、再会興宴の月に芋を喰(くう)事を期せず、倶(とも)に乾坤(けんこん)を吸(すう)べきと、其(その)言をよしとして、翅書(ししょ)さへまめやかにせざりしに、ことし追悼編集の事告(つげ)来(きた)るにぞ、さすがに涙もろく、斎団扇(ときうちわ)の上に酬書(しゅうしょ)し侍る。跋とすやしらず、捨(すつ)るやしらず。 釈蕪村
宝暦七年(一七五七)蕪村・四十二歳
□宮津に在ること三年、京に再帰。「天橋立画賛」(嚢道人蕪村)。帰洛後氏を与謝と改る。
△晋我・潭北十三回忌か。※「北寿老仙をいたむ」この頃に成ったか(宝暦年間説)。
宝暦八年(一七五八)蕪村・四十三歳
△六月六日、宋阿の慈明忌(十七回忌)にあたり、宋屋主催の追善法要が営まれ、上洛した雁宕とともに蕪村も出座、『戴恩謝』刊行。
宝暦十年(一七六〇)蕪村・四十五歳
△几圭没(享年七十四歳)
宝暦十二年(一七六二)蕪村・四十七歳
□この頃結婚か。
明和三年(一七六六)蕪村・五十一歳
△宋屋没(享年七十九歳)。この頃蕪村京都に不在。
○秋、讃岐に赴く。この年、三菓社を結成する。
明和四年(一七六七)蕪村・五十二歳
○三月、宋屋一周忌に讃岐より京に帰り、再び讃岐に赴く。追善集『香世界』に追悼句入集。
明和七年(一七七〇)蕪村・五十五歳
○三月、夜半亭立机。
明和八年(一七七一)蕪村・五十六歳
△八月九日、炭太祇没(享年六十三歳)。十二月七日、黒柳召波没(享年四十五歳)。
○八月、大雅の十便図に対して十宣図を描く。
安永元年(一七七二年)蕪村・五十七歳
△十二月十五日、阿誰没(享年六十七歳)。
安永二年(一七七三)蕪村・五十八歳
△七月三十日、砂岡雁宕没(享年七十歳余)。
安永三年(一七七四)蕪村・五十九歳
○四月十四日、暁台・士朗の一行賀茂祭を見物。四月十五日、暁台ら歓迎歌仙興行。六月六日、宋阿三十三回忌。『むかしを今』(追善集)を刊行。
安永五年(一七七六)蕪村・六十一歳
○樋口道立の発起により金福寺境内に芭蕉庵の再興を企て、写経社会を結成。安永五年六月九日付け暁台宛て書簡。
☆安永六年(一七七七)蕪村・六十二歳
○新年初会の歳旦『夜半楽』巻頭歌仙興行、二月春興帖『夜半楽』刊行。「春風馬堤曲」(十八章)・「澱河歌」(三章)・「老鶯児」(一句)の三部作。四月八日『新花つみ』(寛政九年刊行)の夏行を発願。一月晦日付け霞夫宛て書簡。二月二日(推定)付け何来宛て書簡。※「北寿老仙をいたむ」この頃に成ったか(安永六年説)。晋我三十三回忌か。
安永七年(一七七八)蕪村・六十三歳
○七月、山水図(戊戌秋七月写於夜半亭 謝寅)を描く。以後「謝寅」号を使用する。
安永八年(一七七九)蕪村・六十四歳
○四月、蕪村を宗匠、几董を会頭とす連句修業の学校檀林会を結成。
☆天明三年(一七八三)蕪村・六十八歳
△十二月二十五日未明、蕪村没(享年六十八歳)。
寛政元年(一七八九)没後六年
△十月二十三日、几董没(享年四十八歳)。
☆寛政五年(一七九三)没後十年
△※結城の早見桃彦『いそのはな』刊行(蕪村「北寿老仙をいたむ」を収載)。晋我五十回忌。
寛政七年(一七九五)没後十二年
△蕪村十三回忌と几董七回忌とをかねた紫暁の追善集『雪の光』成る。
寛政十一年(一七九句)没後十六年
△蕪村十七回忌追善集『常磐の香』(紫暁編)成る。
文化十一年(一八一四)没後三十一年
△蕪村の妻とも(清了尼)没。

(六十五)

(その一)

 先の「蕪村年譜(「釈蕪村」の署名関連・「蕪村」関連主要俳人の没年など)」により、「北寿老仙をいたむ」の成立時期について、「宝暦年間成立説」について説明する。

一 「北寿老仙をいたむ」の署名の「釈蕪村百拝書」の「釈蕪村」の署名は、晋我没年の延享二年前後には見られず、この署名は、宝暦二年刊行の『反古衾』(雁宕・阿誰編)、宝暦四年刊行の『夜半亭発句帖』(雁宕・阿誰編、宋阿十三回忌追善集)および宝暦初年推定「真蹟」の「木の葉経」句文に見られるものである。宝暦八年は宋阿の十七回忌にあたり、その前年あたりが晋我・潭北の十三回忌にあたる。この「釈蕪村」の署名からすると、晋我十三回忌などに晋我の嗣子・桃彦宛てに送られたものと解したい。
二 蕪村が京都に再帰した宝暦元年(十一月□二日)付け桃彦宛ての書簡があり、蕪村と晋我の嗣子・桃彦とは親密な間柄であり当時頻繁に交遊があったことが分かる。その書簡からして、この「北寿老仙をいたむ」は蕪村が京都に再帰して、宋阿十七回忌に前後しての、晋我(さらには潭北)十三回忌に関係することも、後の三十三回忌に関連付ける「安永六年説」と同じ程度に許容できるものと解したい。さらに、それが、晋我五十回忌の折り、その追善集『いそのはな』に収載された経緯などについては、「安永六年説」(そもそもこの作品が追善集に収載されることは前提としていなかったということを含む)と同じ考え方によるということになる。
三 宝暦二年刊行の『反古衾』(雁宕・阿誰編)の収載の「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」とその署名(釈蕪村)のものは、雁宕らの依頼により京都より結城の雁宕らに届けられたものと解せられる。この「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」(『反古衾』)については、「明け行く空も星月夜、鎌倉山を越え過ぎて」(謡曲・六浦)を踏まえてのものなのであろう(『蕪村全句集』)。句意は、「謡曲で朝越えるとされる鎌倉山だが、淋しい夕方の千鳥に浮かれて越えよと呼びかける」。この鎌倉の「くら(暗)」と「夕」が縁語という(『蕪村全句集』)。この句の背景の「朝」と「夕」とは、「北寿老仙をいたむ」の、「君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に何ぞはるかなる」の「あした」と「ゆふべ」と響き合うものと理解をしたい。「釈蕪村」・「あした」・「ゆふべ」の「「北寿老仙をいたむ」の謎を解く三つのキィワードが、この宝暦二年刊行の雁宕・阿誰が編纂した『反古衾』とそれに収載されている「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」の句に隠されているという理解である。
さらに、宝暦四年の宋阿十三回忌の追善集『夜半亭発句帖』(雁宕・阿誰編)の次の蕪村の「跋文」(署名・釈蕪村)は、「北寿老仙をいたむ」の前提となるようなものと理解をしたい。
(『夜半亭発句帖』跋文)
阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探(さぐり)て、一羽烏といふ文作らんとせしも、いたづらにして歴行する事十年の后(のち)、飄々(ひょうひょう)として西に去(さら)んとする時、雁宕が離別の辞に曰(いわ)く、再会興宴の月に芋を喰(くう)事を期せず、倶(とも)に乾坤(けんこん)を吸(すう)べきと、其(その)言をよしとして、翅書(ししょ)さへまめやかにせざりしに、ことし追悼編集の事告(つげ)来(きた)るにぞ、さすがに涙もろく、斎団扇(ときうちわ)の上に酬書(しゅうしょ)し侍る。跋とすやしらず、捨(すつ)るやしらず。 釈蕪村
四 宝暦二年作の「東山麓にト居して」の前書きのある「我(わが)庵に火箸を角や蝸牛」は、「我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず」・「すごすごと彳(たたず)める」と響きあうものが感じられ、さらに、先の『夜半亭発句帖』跋文の「西に去(さら)んとする時」も、その俳詩の「君あしたに去(さり)ぬ」と響きあっている趣でなくもない。また、上記の「ト居(ぼくきょ)」(土地を選定して住む意)は、「肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)」の署名「洛東間人嚢道人 釈蕪村」の「間人」(「故郷喪失者」の意に解する)と響きあっていると理解をしたい(この「嚢道人」の「嚢」を乞食僧の頭陀袋と解する説もあるが、釈蕪村の「釈」が僧の姓を意味する仏教用語と解すると、この「嚢道人」は老荘思想の「虚」に通ずる「虚の嚢」と理解をしたい)。
(付記)上記の「故郷喪失者」ということについて、小高善弘稿「近代ブソニストの系譜」(「国文学」平成八年十二月号)の「故郷喪失者の孤独・・・萩原朔太郎」の次のことを付記しておきたい。
※大阪淀川辺の毛馬の出だという蕪村は、句や俳詩「春風馬堤曲」などに、家郷への限りない郷愁をくり返しうたっているが、実は故郷は心のなかにのみあって、帰るべき家はさだかではなかった。一方、これを論じる朔太郎の出自ははっきりしているが、筆者当人もまた、家郷に入れられず、都会で群衆の中の孤独を味わう一種の故郷喪失者だった。孤独の極限「氷島」のイメージを抱え込む詩人は、また、限りない「郷愁」を心の底に持つ人でもあったのである。そこに、蕪村に通底する心情を見出すことができる。

(六十六)

(その二)

五 安永年間成立説(安永六年説)の下記については先に触れたが、再度ここでも整理して触れておきたい。
(一) 詩の発想や内部構造が「春風馬堤曲」と酷似する。
(二) 内容・・・主として季節感・・・が、晋我没後の直後に霊前に手向けたものとは思えない。
(三) もし、没後すぐの手向草だとしたら、雁宕その他の結城地方の俳人の弔句も共に残るはずである(『いそのはな』にはそれがない)。
(四) 安永六年に蕪村は『新花摘』を書き、しきりに往時を回想している。
 これらの「安永年間成立説」の考え方には異論がある。その一については、「春風馬堤曲」は安永六年春興帖『夜半楽』に収載されたもので、それは「歌仙(一巻)・春興雑題(四十三首)・春風馬堤曲(十八首)・澱河唄(三首)・老鶯児(一首)」の、いわゆる三部作「春風馬堤曲(十八首)・澱河唄(三首)・老鶯児(一首)」のその一部をなすものである。この三部作の主題は「老いの華やぎ」・「老鶯児の句に見られる老愁」ということであり、それと故人への手向けの追悼詩の「北寿老仙をいたむ」とは、まるで異質の世界である。高橋庄次氏は「夜半楽三部曲が発句・漢詩・和詩といったさまざまな形式をモザイク状に組み上げたバラード(物語詩)であるとすれば、『北寿老仙をいたむ』はリート(独唱用小歌曲)だと言えるからだ」としているが(『蕪村伝記考説』)、その説を是としたい。さらに、付け加えるならば、「春風馬堤曲」が「エロス」の世界(生の詩)とするならば、「北寿老仙をいたむ」は「タナトス」の世界(死の詩)のものと理解をしたい。
その二については、「晋我没後の延享二年正月二十八日は、陽暦に換算して二月二十八日であり、この時期、結城地方は『蒲公英の黄に薺のしろう咲きたる』の季節ではない」と、この季節感をことさらに取り上げる必要性はないと考える。
その三についても、「没後すぐの手向草だとしたら、雁宕その他の結城地方の俳人の弔句も共に残るはずである(『いそのはな』にはそれがない)」ということは、このことをもって、安永六年説(晋我の三十三回忌の追悼集が、何らかの事情で五十回忌まで延びてしまった)の根拠とはならない。それを根拠とするならば、この『いそのはな』にも、晋我と親しかった亡き「雁宕その他の結城地方の俳人」の句も収載されてしかるべきであるが、それがないということは、この『いそのはな』の記載のとおり、「庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る」の記述以外のなにものでもないと解する。
その四については、蕪村の『新花摘』は其角の『華(花)摘』に倣い、亡母追善のための夏行として企画されたものであり、それは「しきりに往時を回想している」というよりも、回想録そのものと理解すべきであろう。そして、特記しておくべきことは、この『新花摘』は、その夏行中に、「所労のため」を中絶し、その夏行中の句と、「京都定住以前の若年の回想その他の俳文を収め」、全体として句文集としての体裁をしたものであり、その俳文の手控えのようなものなどから、往時を回想する中で、上記一の『夜半楽』などの構想が芽生えていったということで、そのことと、「北寿老仙をいたむ」の作成時期とを一緒する考え方には否定的に解したい。さらに、上記一の『夜半楽』の「安永丁酉春正月 門人宰鳥校」から、「北寿老仙をいたむ」の「釈蕪村」の署名も、「蕪村が京に再帰した宝暦元年(一七五一)からこの跋文(『夜半亭発句帖』)が書かれた同四年頃までに多く見かけられるもの」と、その署名のみに視点を置く考え方に疑問を呈する向きもあるが、この『夜半楽』は、「わかわかしき吾妻(あづま)の人の口質にならはんと」ということで、関東時代の若き日の宰鳥の号が、「宰鳥校(合)」ということで出てきたということで、これと、「北寿老仙をいたむ」の「釈蕪村」との署名とは異質のものであることは付記しておきたい(それは、「俳諧(連句)」における「捌き」と「執筆」とのような関係と理解をしたい)。さらに、この『夜半楽』の「春風馬堤曲」には「謝蕪邨」との記載も見られ、これは、まさに、夜半亭一門の安永六年春興帖そのものなのである(それはこの「春興帖」を企画した興行主の「捌き」が謝蕪邨(与謝蕪村)であり、その助手役の「執筆」が「宰鳥」(蕪村の前号)との一人二役で刊行した、安永六年のお目出度い春興帖の一趣向と解すべきなのであろう)。

(六十七)

(その三)

六「『君』という呼びかけや『友ありき』という言いかたは、七十五歳の晋我と三十歳の蕪村、結城俳壇の長老と立机(りっき)したばかり(蕪村が宇都宮で初めて自撰の歳旦帖を刊行したのは、二十九歳の春のことである)の駆け出しの俳諧師との間柄として、はたしてふさわしいかどうか」という疑念については、「俳諧師・蕪村」ではなく、釈迦の弟子としての「釈蕪村」が、敬愛する故人・早見晋我に仏前で詠唱する詩経の措辞であって、特に、この「釈蕪村」の「釈」という観点から、これらの措辞を理解をしたい。さらに、この「友」については、特定した『君』から、比喩的な雉子の死という二重構造をとり、その二重構造を通して、『君から亡き数の人への昇華』を連想させるような微妙なニュアンスすら感じさせるものと理解をしたい。なお、明和四年三月、宋屋一周忌の追善集『香世界』の次の句文の「君」についてもこの「北寿老仙をいたむ」の「君」と同一趣向のものと解したい。
(宋屋一周忌追善集『香世界』句文)
宋屋老人、予が画ける松下箕居の図を壁間にかけて、常に是を愛す。さればこそ忘年の交りもうとからざりしに、かの終焉の頃はいさゝか故侍りて余所に過行、春のなごりもうかりけるに、やがて一周に及べり。今や碑前に其罪を謝す。請(ふ)君我を看て他(の)世上(の)人となすことなかれ(註・「願うことはあなたは私を他の世間一般の人と同じように薄情な人とは見ないで欲しい」の意)。
  線香の灰やこぼれて松の花    蕪村
(付記)「北寿老仙をいたむ」の「君」と「友」との理解については、「俳諧」(連句)でいう一種の「見立て替え」(前句の「君」を「友」と見立て替えするところの「談林俳諧」や若き日の蕪村が出座した「江戸座俳諧」などに顕著に見られる「付合」の一手法)と理解をしたい。「君」と「友」を同一人物と鑑賞する仕方、「君」・「雉」・「友」と分けて鑑賞する仕方といろいろな見方ができるのは、その「見立て替え」の鑑賞如何に係わるもので、それぞれの鑑賞があっても、「俳諧」(連句)的な鑑賞としては許容されるところのものであろう。そして、現代の「自由詩」的な鑑賞の仕方での、この「君」と「友」との整序された形での鑑賞というのは不可能であろう。

(六十八)

(その三)

七 次の疑念(Q)についての考え方(A)は以下のとおりである。

(Q)―1
「岡のべ」「蒲公の黄に薺のしろう咲たる」と、「春風馬堤曲」に見える「堤」「たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に/三々は白し」のイメージの符合、さらに「すごすごと彳(たたず)める」と、安永六年春「水にちりて花なくなりぬ岸の梅」(「澱河歌」の発想の中から生まれた句であることはすでに記した)の句を報じた霞夫宛書簡に見える「すごすごと江頭に立るたゝずまゐ」、同じく何来宛書簡に見える「すごすごとさびしき有さま」といった措辞の類似は、けっして偶然に出たものとはいえないであろう。
(A)―1
まず、「安永年間成立説」に比して「延享年間成立説」・「宝暦年間成立説」はいかんせん遺されている作品・書簡等が少なくこの種の推量は限定されてしまうことは歪めない。しかし、その作品・書簡等の成立時期を考慮に入れないでアトランダムに符合するようなものを挙げていくことはそれほど難しいことではない。例えば、「岡のべ」・「蒲公の黄に薺のしろう咲たる」などの「岡」・「数詞」・「リフレーン」・「色彩」などの符合については、「岡野辺や一ツと見しに鹿二ッ」(明和五年)、「行(ゆき)々(ゆき)てここに行(ゆき)々(ゆく)夏野哉」(明和五年)、「若葉して水白く麦黄(きば)ミたり」(年次未詳)など。さらに「すごすごと彳(たたず)める」については、「梨の園に人彳(たたず)めるおぼろ月」(明和六年)など。しかし、それよりも、宝暦二年作の「東山麓にト居して」の前書きのある「我(わが)庵に火箸を角や蝸牛」は、「我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず」と何か響きあうものが感じられ、単に、「釈蕪村」の署名だけではなく、こういう措辞・表現などを通しても、「宝暦年間成立説」というのは動かし難いものという印象を強めるのである。

(六十九)

(Q)―2
何よりも、「水引も穂に出(いで)けりな衣(きぬ)くばり」(宇都宮歳旦帖)、「鶏(とり)は羽にはつねをうつの宮柱」(同上)、「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」(『反古衾』、「釈蕪村」と署名)といった江戸座的な知巧的発想に身をゆだねていた関東遊歴時代の蕪村は、この「北寿老仙をいたむ」のみずみずしく清新な抒情の表現が可能であったとは思われない。この時期の作で後年の蕪村の作風につながるものとされる「柳ちり清水かれ石ところどころ」(『反古衾』)、「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」(宇都宮歳旦帖)などの句にしても、前者は蘇東坡の「水落石出」(『古文真宝後集』巻一「後赤壁賦」)の句によって風雅の名所(などころ)「清水流るる」遊行柳(ゆぎょうやなぎ)の冬の荒寥たる相貌を露呈してみせたところにミソがあり、後者は芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」を裏返して宗匠立机の春を謳歌したものにほかならなかった。
(A)―2
 そもそも、俳人・蕪村こと俳人・宰鳥の出発点は、「摺鉢のみそみめぐりや寺の霜」(元文四年・其角三十三回忌)や「我(わが)泪古くはあれど泉かな」(寛保二年・宋阿追悼句)などの追悼句をもってであるといってもよいであろう。さらに、上記の引用の「釈蕪村」の署名のある「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」(『反古衾』)については、「明け行く空も星月夜、鎌倉山を越え過ぎて」(謡曲・六浦)を踏まえてのものなのであろう(『蕪村全句集』)。
句意は、「謡曲で朝越えるとされる鎌倉山だが、淋しい夕方の千鳥に浮かれて越えよと呼びかける」。この鎌倉の「くら(暗)」と「夕」が縁語という(『蕪村全句集』)。蕪村にとって、鎌倉山を朝越えて行くのは、東国の江戸へ向かっての旅路であろうが、夕べに鎌倉山を越えていくのは、東国十年余の遊歴の後夢破れての西国の京都への再帰への旅路であろう(実際のその再帰の旅路は東海道ではなく中山道だったと思われるが、この句は宝暦元年の頃の作で、宝暦二年刊行の『反古衾』に収載されている)。それよりも、この句の背景の「朝」と「夕」とは、「北寿老仙をいたむ」の、「君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に何ぞはるかなる」の「あした」と「ゆふべ」そのものに照応しているのではなかろうか。「釈蕪村」・「あした」・「ゆふべ」の「「北寿老仙をいたむ」の謎を解く三つのキィワードが、この宝暦二年刊行の雁宕・阿誰が編纂した『反古衾』の若き日の蕪村の「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」の句に隠されている・・・、そのようにこの句を鑑賞したいのである。ここでも、さらに、「宝暦年間成立説」というのは動かし難いものという印象を深くするのである。

(七十)

(Q)―3
のみならず、楽府の詩形式を自家薬籠中のものとして哀悼の抒情の展開に縦横に活用したその自在の詩形式、詩中の雉子の「友ありき河をへだてゝ住にき」のリフレーンにくくられた回想の語りに託して、人間の理解を超えた、のがれがたい運命に対する自己の驚愕と悲嘆の思いを吐露するという手法は、「妓ニ代ハリテ」「女ニ代ハリテ意ヲ述ブ」という設定のもとに、妓女や藪入り娘のセリフに託して自己の「実情」を「うめき出た」二つの作品(註・「春風馬堤曲」・「澱河歌」)を前提としなければ、とうてい成立し得なかったろう。
(A)―3
 ここで、那珂太郎稿「蕪村の俳詩の近代性・・・『春風馬堤曲』をめぐつて・・・」(「国文学」平成十八年十二月号)の次の一節を引用しておきたい。
○「春風馬堤曲」は作者蕪村の懐郷の思ひを主題とした作と、一般に見られてきた。表面上そのことに紛れもないけれど、同時に艶詩的性格であることは、これまでに多かれ少なかれ大方の評家に認められてゐた。しかしこの題名が「艶詩」を指示するならば(註・「尾形仂によれば、『春風馬堤曲』の題名からして楽府中の『大堤曲』の曲名にならったもので、当の『大堤曲』がいづれも艶詩であるところから、『春風馬堤曲』という名目自体が、この作が楽府の歌曲のスタイルに擬した艶詩である」ということ指している)、むしろこの方に真の主題がある、とまでは言はなくとも、少なくとも懐郷と劣らぬ位に、作者のエロスへの思ひがこめられてゐるのは当然であろう。
※この那珂太郎氏の指摘のとおり、「春風馬堤曲」(そして「澱河歌」)は、いわゆる艶詩の世界のものであって、それと追悼詩の「北寿老仙をいたむ」を同一俎上にすることは、どうにも不自然のように思えてくるのである。さらに、「詩中の雉子の『友ありき河をへだてゝ住にき』のリフレーンにくくられた回想の語りに託して、人間の理解を超えた、のがれがたい運命に対する自己の驚愕と悲嘆の思いを吐露するという手法は、『妓ニ代ハリテ』『女ニ代ハリテ意ヲ述ブ』という設定のもとに、妓女や藪入り娘のセリフに託して自己の『実情』を『うめき出た』二つの作品(註・『春風馬堤曲』・『澱河歌』)を前提としなければ、とうてい成立し得なかったろう」ということについては、先に触れた、この俳詩「北寿老仙をいたむ」は、いわゆる、「俳諧」(連句)的手法によって構成されており、そういう視点から、この俳詩を鑑賞すると、決して、「二つの作品(註・『春風馬堤曲』・『澱河歌』」)を前提としなければ、とうてい成立し得なかったろう」ということには疑念を抱かざるを得ないのである。

若き日の蕪村(その六)

(七十一)

(Q)―4
一方、「澱河歌」「春風馬堤曲」の二作が、ほぼ単線的な時間の流れに沿って構成されているのに対して(後者の場合には十三首目から十五首目にかけて娘の回想が挿まれてはいるが)、この作品が、「君あしたに去」った衝撃の中に身を置いている「ゆふべ」の時間、それにつづく「岡のべ」の逍遙の時間の中に、雉子の声の現在の時間、運命の一瞬への雉子の回想の時間を二重の入れ子型にはめ込み、草庵の夜の時間と場面で一篇を結ぶなど、より複雑な構成をとっていることも、いっそうそうした疑問をかきたてる。
(A)―4
この「北寿老仙をいたむ」を、いわゆる、「俳諧」(連句)的手法によって構成されていると解すると、その「俳諧」の「百韻」形式の「初折・表」の八句(首・章・連)のように解せられるのである(大正十四年に刊行された潁原退蔵著『蕪村全集』では、「雑題」の部に「晋我追悼曲 延享二年」として、行間をあけて次の八句(首・章・連)で表記されており、その表記が鑑賞をする上では理解しやすいと解する)。

北寿老仙をいたむ

一 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
何ぞはるかなる・・・・(自他半)

二 君をおもふ(う)て岡のべに行(いき)つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき・・・(自)

三 蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲(さき)たる
見る人ぞなき・・・(場)

四 雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞(きけ)ば
  友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき・・・(場)

五 へげのけぶりのはと打(うち)ちれば西吹(ふく)風の
はげしくて小竹原(をざさはら)真(ま)すげはら
のがるべきかたぞなき・・・(場)

六 友ありき河をへだてゝ住(すみ)にきけふは
ほろゝともなかぬ・・・(他)

七 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる(自他半)

八 我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず
花もまい(ゐ)らせずすごすごと彳(たたず)める今宵(こよひ)
ことにたう(ふ)とき・・・(自) 

 そして、この「俳諧」の「百韻」形式の「初折・表」の八句(首・章)の鑑賞に当たっては、まず、一句を鑑賞し、続いて、一・二句、さらに、二・三句(一句の転じ)鑑賞と、いわゆる、「三句の見渡し、前句・付句の付合の鑑賞」という進め方になろう。この観点から鑑賞していくと、何らの違和感もなく、いわゆる、寺田寅彦氏の「連句モンタージュ説」のように(動画を鑑賞するように)、「三コマを視野に入れて、一コマ又は二コマずつ」を鑑賞するのが基本なのであろう。そして、立花北枝の『附方自他伝』の「人情自・人情他・人情自他・人情なし(場)」(一句の視点の人物が自分か・他人か・自分と他人が半々か、それとも景色の句なのか)という視点からの鑑賞も必要となってこよう(参考までにその視点について上記のとおり括弧書きをした)。その上で、連句全体を見渡して、連続・非連続を見極めながら、全体を味わうということになろう。その結果が、丁度、「この作品が、『君あしたに去』った衝撃の中に身を置いている『ゆふべ』の時間、それにつづく『岡のべ』の逍遙の時間の中に、雉子の声の現在の時間、運命の一瞬への雉子の回想の時間を二重の入れ子型にはめ込み、草庵の夜の時間と場面で一篇を結ぶなど、より複雑な構成をとっている」という感慨を抱くということであって、この一連の作品を、あたかも、現代の「自由詩」の鑑賞のように、その十八行を、一つの連続したものとして鑑賞すると、これはどうにも手が追えないということになってしまうであろう(この十八行から、いわゆる俳諧形式の十八句から成る「半歌仙」形式も考えられるが、ここは、『百韻』形式の『初折・表』」の八句(首・章・連)」と解したい)。
(付記)『西脇順三郎詩集』所収の「旅人かへらず」について、那珂太郎氏の解説に「章から章への移りゆき、章と章との取り合わせの妙は、俳諧連句の附合にも通ふ趣」があるという指摘をしている。その一から一六八の短章のうち、その二章から五章を抜粋して見ると以下のとおりとなる。そして、那珂氏の指摘するように、これらの「章から章への移りゆき、章と章との取り合わせ」という視点での鑑賞が「北寿老仙をいたむ」の鑑賞にも必須のように思われるのである。

旅人かへらず(西脇順三郎)

二   窓に
    うす明りのつく
    人の世の淋しき

三   自然の世の淋しき
    睡眠の淋しき

四   かたい庭

五   やぶがらし

(七十二)

(Q)―5
 「春風馬堤曲」「澱河歌」の二作を収める『夜半楽』の刊行された安永六年は、あたかも晋我三十三回忌に当たっている。六十二歳を迎えた蕪村は、すでに老境の悲しみを知り、心理的にはかっての長晋我を「友」と遇し「君」と呼んでも、それほど不自然ではない年齢に達していた。今は故人を知る数少ない一人、しかも京都俳壇の重鎮ということで、桃彦より追善集への出句の要請を受けていたかも知れない。だが、蕪村は娘くのの婚家とそれにつづく空虚感の中で、それに応える暇がなかった。それが、「馬堤曲」より『新花摘』へとつづいてゆく、幼時から青年時への追想・・・なつかしい時間帯の臥遊の夢に誘いおこされて、この近代詩とも見紛う浪漫的諸篇をつむぎ出すことになったのではあるまいか。そして晋我三十三回忌の追善集刊行の企画が何かの事情で流れて、その五十回忌に「庫のうちより身出」される結果となったのではなかろうか。
(A)―5
先の年譜により、時系列的に「延享年間成立説」・「宝暦年間成立説」・「安永年間成立説」を見ていけば次のとおりとなる。

☆延享二年(一七四五)蕪村・三十歳
△一月二十八日 早見晋我没(享年七十五歳)。※「北寿老仙をいたむ」はこの年に成ったか(延享二年説)。△七月三日  常磐潭北没(享年六十八歳)。□宋屋、奥羽行脚の途次結城の蕪村を訪ねたが不在(宋屋編『杖の土』)。
[寛保二年(一七四二)蕪村・二十七歳 六月六日 夜半亭宋阿没(享年六十七歳。六十六歳説もある)。□ 宋阿没後、江戸を去って結城の同門の先輩砂岡雁宕を頼る。以後、野総奥羽の間を十年にわたって遊行。常磐潭北と上野・下野巡遊の後、単身奥羽行脚を決行。]
☆宝暦七年(一七五四)蕪村・四十二歳
□宮津に在ること三年、京に再帰。「天橋立画賛」(嚢道人蕪村)。帰洛後氏を与謝と改る。△晋我・潭北十三回忌か。※「北寿老仙をいたむ」この頃に成ったか(宝暦年間説)。
宝暦八年(一七五八)△六月六日、宋阿の慈明忌(十七回忌)にあたり、宋屋主催の追善法要が営まれ、上洛した雁宕とともに蕪村も出座、『戴恩謝』刊行。
[☆宝暦二年(一七五二)蕪村・三十七歳 ○宋屋編『杖の土』に「我庵に火箸を角や蝸牛」の句あり、東山麓に住していたか。雁宕・阿誰編『反古衾』刊行、「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」(釈蕪村)の句など入集。『瘤柳』に「苗しろや植出せ鶴の一歩より」(釈蕪村)の句入集。☆宝暦四年(一七五四)蕪村・三十九歳六月、巴人の十三回忌にあたり、雁宕ら『夜半亭発句帖』(五年二月刊行)を編し、これに跋文を送る。宋屋、宋阿十三回忌集『明の蓮(はちす)』を編んだが、蕪村の名はない。既に丹後に住を移していたか。]
☆安永六年(一七七七)蕪村・六十二歳
○新年初会の歳旦『夜半楽』巻頭歌仙興行、二月春興帖『夜半楽』刊行。「春風馬堤曲」(十八章)・「澱河歌」(三章)・「老鶯児」(一句)の三部作。四月八日『新花つみ』(寛政九年刊行)の夏行を発願。一月晦日付け霞夫宛て書簡。二月二日(推定)付け何来宛て書簡。※「北寿老仙をいたむ」この頃に成ったか(安永六年説)。晋我三十三回忌か。
[安永元年(一七七二年)蕪村・五十七歳 △十二月十五日、阿誰没(享年六十七歳)。安永二年(一七七三)蕪村・五十八歳 七月三十日、砂岡雁宕没(享年七十歳余)。安永三年(一七七四)蕪村・五十九歳 ○四月十四日、暁台・士朗の一行賀茂祭を見物。四月十五日、暁台ら歓迎歌仙興行。六月六日、宋阿三十三回忌。『むかしを今』(追善集)を刊行。安永五年(一七七六)蕪村・六十一歳 ○樋口道立の発起により金福寺境内に芭蕉庵の再興を企て、写経社会を結成。安永五年六月九日付け暁台宛て書簡。]

 安東次男稿「『北寿老仙をいたむ』のわかりにくさ」(日本詩人選『与謝蕪村』)の中で、「要するに、拠るべき資料が何一つ他に発見されていない現在、この詩は延享二年から安永六年ごろまでの間に書かれたという以外には、確たる証明のしようがないのである」という指摘をしている。そういうことを前提として、上記の三説を見ていくと、その一の「延享二年説」(延享年間説)が、いわゆる通説で、その三の「安永六年説」(安永年間説)が近時「延享二年説」を上回る傾向を示している有力説ということになる。そして、その二の「宝暦七年説」(宝暦年間説)は未だ図書・雑誌の類では目にすることができないほどの少数説ということになる。しかし、この「北寿老仙をいたむ」の「釈蕪村」という署名とその「釈蕪村」と署名された他の蕪村の「句文集」をつぶさに見ていくと、これまでに見てきたとおりに、「延享二年説」の疑問(「この異色の俳詩を誕生させるような環境にあったのかどうか」という疑問)も「安永六年説」の疑問(「この異色の俳詩を他の類似の俳詩のもとに同列して鑑賞する」ことへの疑問)をも半ば折衷するような形での第三の「宝暦七年説」というのも、今後、さらに検討されて、少なくとも、「安永六年説」と同じ程度の根拠を有するもと解したいのである。

(七十三)

(Q)―6
「君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に」という歌い出しは、晋我の悲報に接した直後のナマナマしい衝撃の中で作られたことを示すものではないかという疑念に対しては、「あした」「ゆふべ」の対句が漢詩表現の常套であることを想起すれば済む。「釈蕪村」の署名も、蕪村が巴人の口質に倣わんことを序文にうたった『夜半楽』の巻尾に、巴人の門下に遊んだ若き日の旧号で「門人 宰鳥校」と奥書きした心意を思い合わせれば、これも懐旧の念から出たものと納得がゆくだろう。その情感の直截性のゆえに、これが三十三年後の作であることを否定する向きには、蕪村が老年に及ぶに伴ってその豊かな想像力によりいよいよみずみずしい青春の花を咲かせた詩人であったことを挙げればよい。
(A)―6
上記の「『あした』『ゆふべ』の対句が漢詩表現の常套であることを想起すれば済む」ということについては、この俳詩の発句ともいうべき冒頭の「あした」・「ゆふべ」・「はるかなる」(この「はるか」は「遙か」と「杳か」の両意義に解したい)であり、ここには、萩原朔太郎をして、「常に変化する空間、経過する時間の中で、ただ一つの凧(追憶へのイメージ)だけが、不断に悲しく寂しげに、穹窿の上に実在してゐるのである」(『郷愁の詩人 与謝蕪村』所収「凧きのふの空の有りどころ」の鑑賞視点)といわしめた「蕪村俳句のモチーブを表出した哲学的標句」(萩原・前掲書)と理解すべきであり、単なる「漢詩表現の常套」的なものではなかろう。
次に「『釈蕪村』の署名も、蕪村が巴人の口質に倣わんことを序文にうたった『夜半楽』の巻尾に、巴人の門下に遊んだ若き日の旧号で『門人 宰鳥校』と奥書きした心意を思い合わせれば、これも懐旧の念から出たものと納得がゆくだろう」ということについては、明和七年に夜半亭二世を継承して、画俳二道を極めた、安永年間の蕪村が、よりによって、還俗前の苦難の絶頂の頃の修行僧時代の「釈蕪村」の「姓・号」を「釈蕪村百拝書」と認めることは到底考えも及ばないところであろう(管見では安永年間に「釈蕪村」という署名は見あたらない。なお、『安永六年春興帖』では、「宰鳥」以前の「宰町」を号したものもあり、いわゆる「春興帖」の一趣向の「門人 宰鳥校」と同一視することは危険であろう)。
続く「その情感の直截性のゆえに、これが三十三年後の作であることを否定する向きには、蕪村が老年に及ぶに伴ってその豊かな想像力によりいよいよみずみずしい青春の花を咲かせた詩人であったことを挙げればよい」ということについては、いかに、晩成の蕪村であっても、「青・壮年」時代の「想像力」と六十歳を越えた「老年」時代の「想像力」では、関心の置き所を自ずから異なにするものであり、もし、「その情感の直截性」ということが察知できるとすれば、それは、より「青・壮年」時代のものと理解すべきものなのであろう。

(七十四)

(Q)―7
砂岡家は雁宕とその嗣子の早世によって廃絶しているから、蕪村の追悼詩が雁宕の遺族に送られてきても受取人が無く、親戚の早見家に渡ってオクラになったということは充分考えられるのである。ついでに言えば、雁宕没後二十年、蕪村没後十年、晋我没後四十八年の寛政五年(一七九三)に「いそのはな」を編んで「北寿老仙をいたむ」を初めて世に発表した晋我の嗣子桃彦は、このときいったい幾歳になっていたのであろうか。仮に晋我三十歳のときの子とすれば九十五歳、四十歳のときの子としても八十五歳である。当時それほどの長寿の例があったのであろうか。北寿老仙即雁宕説が浮上してもおかしくない理由はここにもあるのではないか。
(A)―7
このことについては、『いそのはな』の東都柳塘下七十三叟獅子眠雞口の序文「世を譲(ゆづり)て北寿と呼(よば)れ、行年七十五の春を夢となしぬ」からして、(早見)晋我即北寿(老仙)ということになろう。さらに、「巴人の十七回忌が京都で修せられたときには雁宕は上洛して蕪村とともに修忌の役割を果したりした仲で、その交友は三十年にも及ぶ。晋我とのつきあいはたった三年である。安永二年の蕪村は夜半亭二世の文台をおいて数年、画人としても大成して、つまり人間的にも大きくなっていたから、先輩の雁宕をこそ北寿老仙という敬称で追慕するにふさわしい間柄であったと考えるのが自然」ということについては、雁宕と蕪村との関係はそのとおりとして、晋我と蕪村との関係も、宋阿在世中からのもので、宋阿が江戸に再帰した元文二年(蕪村二十二歳)頃から親交があったと思われ、それからするとやはり七・八年の年数とその晋我の嗣子桃彦始めその弟の田洪などとは昵懇の間柄であり、雁宕とは違った家族ぐるみの交遊関係があったことは、蕪村と桃彦との書簡で明らかなところであろう(宝暦元年十一月□二日付けの桃彦宛ての書簡については先に触れた)。さらに、元文四年の宋阿が撰集した其角・嵐雪三十三回忌追善集『桃桜』(その下巻の版下は蕪村の前号の宰鳥といわれている)に、素順(晋我の別号)の興行した歌仙「空へ吹(く)の巻」も収載されており、蕪村が「北寿老仙をいたむ」の追悼詩を手向けることは、これは自然なものと理解ができよう。蕪村の晩年の安永六年の回想録『新花摘』にも晋我は登場し、とにもかくにも、晋我は、蕪村にとって生涯にわたって忘れ得ざる一人であったということはここでも記しておきたい。
しかし、この「北寿老仙をいたむ」が何時の時点で作成されたのかということを考慮するときに、単に、北寿老仙こと晋我に関することだけではなく、其角門で晋我と兄弟弟子の一人でもあった蕪村の師の宋阿やその宋阿門で晋我の縁者でもあり蕪村にとっては切っても切れない関係にあった結城の俳人・雁宕との関係などを探るということは必須のことであろう。そして、先に触れたところの「宝暦年間成立説」においては、雁宕等編の『反古衾』、巴人の十三回忌にあたり編纂した雁宕ら編の『夜半亭発句帖』、そして、雁宕の菩提寺の弘経寺にその句碑がある「木の葉経(このはぎょう)」句文など、すべからく、その署名の「釈蕪村」とともにその根拠になっていることは、ここで重ねて記しておきたい。

(七十五)

(Q)―8
安永年間成立ならば、「釈蕪村百拝書」という署名をどう理解すればいいのか。蕪村は師である巴人没後得度をして、①延享・寛延頃(註・『反古衾』は宝暦二年刊)の発句「うかれ越せ」(『反古衾』)、②宝暦三年(一七五三)『瘤柳』所収発句「苗しろや」、③宝暦二・三年と推定(註・「宝暦初年」)できる句文「木の葉経」、④宝暦四年(一七五四)に認めた『夜半亭発句帖』跋などに「釈蕪村」と名乗る。また、宝永元年の「名月摺物ノ詞書」にも文中に頭を丸めていたことを明言しているのである。さらにいえば、作品の付記「庫のうちより見出つねまゝに右しるし侍る」を編者桃彦のものとすることに間違いはないのか。この謎めいた付記は何を意味するのか。また、流麗な晩年の蕪村真筆なら何故自筆のまま掲載しなかったか、など疑問は絶えない。
(A)―8
これらのことについては、いろいろな形で先に触れてきたところである。ただ一つ、「作品の付記『庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る』を編者桃彦のものとすることに間違いはないのか。この謎めいた付記は何を意味するのか。また、流麗な晩年の蕪村真筆なら何故自筆のまま掲載しなかったか」ということについては、やはり一応の考え方を記しておきたい。
 桃彦(今晋我)が編纂した『いそのはな』の前書きは、編纂者が付したものと作者が付したものと二通りが読み取れる。そして、問題の「庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る」は前書きではなく、末尾に付せられている「奥書」の体裁で、この「奥書」を編纂者・桃彦がしたのか作者・蕪村がしたのかは定かではない。何の疑いもなく編纂者・桃彦が「庫(くら)のうちより見出(みいで)つるまゝに右しるし侍(はべ)る」と理解をしていたが、これを蕪村が記したものと解すると、蕪村には、この種の「手控え」」(文書)などがあって、それが出てきたので、「庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る」ということになる。このように解すると、「安永年間作成説」又は「宝暦年間作成説」のどちらかということになろう。そして、この「北寿老仙をいたむ」が、他の俳詩の「春風馬堤曲」・「澱河歌」と類似志向が見られるということについては、それらは、これらの「手控え」」(文書)を参考として、成立したものとも考えられ、時系列的に、『いそのはな』へ寄稿した「北寿老仙をいたむ」の原文は、「宝暦年間作成説」の「宝暦年間」に作成されたものという理解も成り立つであろう。丁度、芭蕉の不朽の名作『おくの細道』が、芭蕉が常々携行していたいわゆる「小文」の集大成で形を為してきたと同じような経過をたどり、いわゆる、蕪村の異色の傑作俳詩「春風馬堤曲」・「澱河歌」は成立していくという理解である。ともあれ、ここでは、この「庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る」は編纂者・桃彦が付したものと理解をしておきたい。 投稿者 yahantei 時刻: 6:15 午前 0 件のコメント: この投稿へのリンク

ラベル: 若き日の蕪村, 蕪村

金曜日, 6月 09, 2006

若き日の蕪村像(『新花摘』・月渓筆)

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次のアドレスに、下記のような呉春(松村月渓)の年譜が記述されている。この年譜の[1784年、蕪村旧稿「新花摘」の挿絵を描き上梓]のとおり、天明四年(一七八四)に、蕪村没後に、蕪村が生前に書き留めていたものを『新花摘』(月渓の跋文では「続花つみ」)として、挿絵七図を配して上梓した(正確には、蕪村の元の冊子を呉春が横巻として挿絵七図を配し、寛政九年に版本として上梓された)。

http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/jart/nenpu/2gs001.html

呉春
[読み] ごしゅん
[始年] 1752-
[終年] 1811年
1774年頃、蕪村に師事するか(蕪村連句集「昔を今」)。
1777年、「羅漢図」(逸翁美)を描く(款記)。
1778年、遊廓島原の名妓雛路を身請けし妻とする。
「騎馬狩猟図」(逸翁美)。
1781年、妻事故死、父江戸で客死、池田に移住。
1782年、姓を呉、名を春、字を伯望とし剃髪。
1783年、師蕪村没す。
1784年、蕪村旧稿「新花摘」の挿絵を描き上梓。
1786年、「芭蕉幻住庵記画賛」を描く。
1787年、応挙に従い大乗寺に描く。
妙法院真仁法親王に召され席画する。
1795年、応挙没す。
1796年、岸駒と「山水図」を合作。
1810年、後妻ウメ女没す。
1811年、没す。
1817年、「流芳遺事」

 この蕪村の『新花摘』の呉春の挿絵は、次のアドレスで紹介されている。

一図(早乙女図) 10丁裏 / Leaf 10 Back・11丁表 / Leaf 11 Front・11丁裏 / Leaf 11 Back
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf10b.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf11f.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf11b.html
二図(蕪村・潭北図) 16丁裏 / Leaf 16 Back・17丁表 / Leaf 17 Front
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf16b.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf17f.html
三図(白石旅舎図) 21丁裏 / Leaf 21 Back・22丁表 / Leaf 22 Front
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf21b.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf22f.html
四図(結城丈羽別荘図) 26丁表 / Leaf 26 Front
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf26f.html
五図(下館中村風篁邸・阿満図) 34丁表 / Leaf 34 Front 
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf34f.html
六図(下館中村風篁邸・三老媼図) 37丁表 / Leaf 37 Front・37丁裏 / Leaf 37 Back
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf37f.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf37b.html
七図(渭北・俳席図) 41丁裏 / Leaf 41 Back・42丁表 / Leaf 42 Front
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf41b.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf42f.html

これらの七図のうち、二図(蕪村・潭北図)は興味深い。この二図について、若き僧の図を蕪村として、老僧の図を潭北とするという理解は、『新花摘』の文面からの理解であり、これらの図に、「蕪村・潭北」との名前を付した文献というものは寡聞にして知らない。しかし、この二図の若き僧こそ、当時、釈氏を称し、法体をしていた、後の、与謝蕪村その人と理解をしたい。

そして、それは、文面からして、「潭北と上野(現群馬県)に同行」していた頃の図ということになろう。この潭北は、「常磐氏。名は貞尚。下野(現栃木県)那須烏山の人。其角・沾徳門。医を業として庶民教育(社会教育)の第一人者であった。延享元年没」で、蕪村の師の夜半亭一世宋阿(早野巴人)と、同郷(那須烏山出身)・同年(巴人は延宝四年、潭北は延宝五年とされているが、同年とする説もある)・同門(其角門)の親しい間柄である。巴人亡き後、結城の砂岡雁宕と共に、蕪村の庇護者となった、蕪村にとっては、忘れ得ざる人ということになる。

この潭北が法体となっているが、これは、呉春は潭北とは面識はなく、呉春の、蕪村の文面を読んでの想像図ということになろう。しかし、『新花摘』の、「潭北はらあしく(注・気短かに)余(注・蕪村)を罵(ののしり)て」、「むくつけ(注・無風流な)法師よ」と怒鳴りつけるなど、眉毛を八の字にして、いかにも、俳諧師で且つ当時の教化指導者の第一人者のうるさ型の潭北像という雰囲気でなくもない。
この常磐潭北の墓は、那須烏山市の善念寺にあり、次のアドレスで、その善念寺と潭北についての紹介記事がある。

http://www11.ocn.ne.jp/~zennenji/1rekisi.html

1 善念寺

善念寺は文禄二年(1593年)の創建以来、那須郡烏山の地にその法灯を護持してきた古刹である。開基の良信住関上人は佐竹氏の出で、玉造伊勢の守の三男として生まれ、後に名超派大沢円通寺良定袋中上人に指南を受けた。本尊は阿弥陀如来像で、他に二十五菩薩や善導大師像、法然上人像を祀っている。
 境内には、子育て地蔵堂、常盤潭北(渡辺潭北)の墓や「放下僧」ゆかりの牧野家墓(牧野山三学院歴代墓地)などがある。

2 常盤潭北

潭北は、延宝5年(1677年)烏山町の渡辺家に生まれ、名は貞尚、字は堯氏、号を潭北または百華と称した。生家は代々名字帯刀を許された郷宿と称する公用旅宿であった。
 潭北と同年に生まれた与謝蕪村の師で竹馬の友の俳人の早野巴人は、早くから伯父の江戸日本橋の唐木屋重兵衛を頼って食客となり、生来好きな俳諧に打ち込み、蕉門随一の榎本其角、服部嵐雪の教えを受けていた。巴人の影響で江戸遊学への志をかきたてられた潭北は、早くから江戸に出て医学を学び、その傍ら巴人と交わりを深め、巴人の手引きで当時江戸俳壇の有名な宗匠のところに出入りするようになり、また其角の弟子となり俳諧を修め、「汐こし」「後の月日」「反古さらし」「としのみどり」などを残した。
 潭北は江戸宗匠群の一人に数えられ、沾州、貞佐など、当時有名だった点者と同列に扱われ、一流の宗匠に格付けられていた。
潭北は、俳諧のかたわら早くから庶民教育の必要を解し常・総・野の諸州を巡廻して、多くの人々に道を説き、村老を集めて郷村団結の必要を教えた。それらの講話の積んで篇をなしたものに「民家分量記」「野総茗話」(民家童蒙解)がある。
潭北が俳人宗匠として諸国を遊歴して庶民と交わり行く先々で行った講説は、農民生活の事実に求め、身近な農村社会の現実に即した処世訓を展開した。潭北は教化活動に専念し日本庶民教育史上に多大なる功績を残した人物である。(善念寺渡辺家墓地)

また、 享保十七年(一七三二)に刊行された『綾錦』(菊岡沾涼編)には次のとおりの記述がある。

[現  常盤百花荘
 潭北・・・・・・
   本土野州那須
  編     汐こし 後の月日 反古さらへ としのみどり
  はい書ノ外 民家分量記 分量夜話 ]

 ここで、潭北の主たる編著を年代別に記すと次のとおりである。

享保元年(一七一六)  四十歳  『汐越』(「汐こし」)刊行。
享保六年(一七二一)  四十五歳 『民家分量記』(内題「百姓分量記」)の稿成る。
享保七年(一七二二)  四十六歳 『今の月日』(『後の月日』)刊行。
享保九年(一七二四)  四十八歳 『婦登故呂故』(『俳諧婦登古呂子』)の稿成る。
享保十年(一七二五)  四十九歳 『百華斎随筆』刊行。
享保十一年(一七二六) 五十歳  『民家分量記』(「百姓分量記」)刊行。
享保十八年(一七三三) 五十七歳 『野総茗話』(「分量夜話」)刊行。
元文二年(一七三七)  六十一歳 『民家童蒙解』刊行。

また、蕪村の『新花摘』の潭北に関する文面は次のとおりである。

・・・・
いささか故ありて(注・寛保二年六月師の早野巴人の死後を指す)、余(注・蕪村)は江戸をしりぞきて、しもつふさゆふきの(注・下総国結城の)雁宕(注・砂岡雁宕)がもとをあるじとして、日夜はいかいに遊び、邂逅にして柳居(注・佐久間柳居)がつく波(注・筑波)まうでに逢いてここかしこに席(注・俳席)をかさね、或は潭北と上野(注・群馬県)に同行して処々にやどりをともにし、松島のうらづたひして好風におもて
をはらひ、外の浜(注・青森県の東岸で、謡曲「善知鳥(うとう)」の伝説で名高い)の旅寝に合浦(注・津軽地方の合浦)の玉のかへるさを忘れ、とざまかうざまとして、既三とせあまりの星霜をふりぬ。
 ・・・・
常盤潭北が所持したる高麗の茶碗は、義士大高源吾が秘蔵したるものにて、すなはち源吾よりつたへて又余にゆづりたり。
 ・・・・
こたび何月某の日は、義士四十七士式家(注・高家の誤記か)の館を夜討して、亡君の うらみを報い、ねんなうこそ泉岳寺へ引とりたり。子葉・春帆など、ことに比類なきは たらき有たり。かの両士は此の日来、我几辺になれて、風流の壮士なれば、わけて意気 感慨に堪ず
 ・・・・
松しまの天麟院は瑞巌寺と甍をならべて尊き大禅刹也。余(注・蕪村)、其寺に客たりける時、長老(注・禅寺で住持または和尚の敬称)古き板の尺余ばかりなるを余にあたへて曰、「仙台の太守中将何がし殿(注・伊達吉村)は、さうなき歌よみにておはせし。多くの人夫して名取河(注・陸奥国名取郡を流れる川)の水底を浚(さぐら)せ、とかくして埋れ木(注・名取川の名産)を堀もとめて、料紙、硯の箱にものし、それに宮城野(注・仙台の萩の名所、歌枕)の萩の軸つけたる筆を添て、二条家(注・和歌の家筋の一)へまゐらせられたり。これは其板の余りにて、おぼろけならぬもの也」とてたびぬ(注・下さった)。
・・・・
重さ十斤(一斤は六〇〇グラム)ばかりもあらん、それをひらづゝみして肩にひしと負ひつも、からうじて白石(注・宮城県白石市)の駅までもち出(いで)たり。長途の労れたゆべくもあらねば、其夜やどりたる旅舎のすの子(注・簀の子)の下に押やりてまうでぬ(帰ってきた)。
・・・・
そのゝちほどへて、結城の雁宕がもとにて潭北にかたりければ、潭北はらあしく(注・気短に)余を罵て曰、「やよ(注・やあ)、さばかりの奇物(注・珍品)うちすて置たるむくつけ(注・無風流)法師よ、其物我レ得てん、人やある(注・誰かいないか)、ただゆけ」と須賀川(注・福島県須賀川市)の晋流(注・須賀川の本陣・藤井半左衛門の俳号。其角門)がもとに告やりたり。
・・・・
駅亭(注・宿屋)のあるじかしこく(注・幸いに)さがし得てあたへければ、得て(注・受け取って)かへりぬ。後、雁宕(潭北から雁宕へ)つたへて「漁鶴」といへる硯の蓋にしてもてり。結城より白石までは七十里余ありて、ことに日数もへだたりぬるに、得てかへりたる、けうの事也(注・非常に珍しいことだ)。

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