(その一)
『蕪村全集五 書簡』所収「四一七 天明元~三年 夏 百池宛て」
「半」を八つ書いて、「八半」=「夜半(蕪村)」の駄洒落。
「池・ち・千」を「百」(「百」はない。「百」の意に使っているか?)書いて=「百池」の駄洒落。
夏山やつもるべき塵もなかりけり 蕪村の句
『蕪村全集一 発句』所収「二六六一の頭注」は、「夏山は澄みきった青空の下、深緑の偉容を見せている。『塵も積もって山となる』などという俗謡とは無縁に」と格調の高い解がなされている。
どうも、書簡の内容からすると、「夏山」を「百池」に見立てて、「百池さんや、夜半は、『塵も積もって山となる』の、その塵(お金)一つない、金欠病にかかっている」という駄洒落の句の感じが濃厚である。
「雪居」は、百池の一族で、書簡からすると何か貰い物をした蕪村のお礼の文面のようである。
「佳東」は、「佳棠」のことで、蕪村門の俳人且つ蕪村のパトロンの一人である。「書肆・汲古堂」の大檀那で、蕪村は、佳棠の招待で、京の顔見世狂言などを見物し、役者の克明な芸評などをしている書簡がある。
蕪村門には、もう一人、八文字屋本の版元として知られている、「八文舎自笑」が居る。
「百墨・素玉・凌雲堂」などと号した。三菓社句会の古参で、蕪村門の長老格である。明和四年(一七六七)に父祖伝来の版権を他に譲渡し、わずかに役者評判記や俳書などを出版していた。蕪村没後の寛政初年(一七八九)の大火で大阪に移住して、文化十二年(一八一五)で没している。
さて、冒頭に戻って、「池・ち・千」と、書簡の宛名の「百池」を、この三種類の字体で書いたのも、江戸座の「其角→巴人」の流れを汲む、俳諧師・蕪村ならではの、何かしらの謎を秘めている雰囲気で無くもない。どうも、「一文銭・四文銭・十文銭」(一文=二十五円?)などと関係していると勘ぐるのは、野暮の骨頂なのかも知れない。
(その二)
『蕪村書簡集 岩波文庫』所収「一八九 佳棠宛(十二月二十七日)・年代不詳」
この図柄(絵文字というより素描)は、浄瑠璃「ひらがな盛衰記」第四段、傾城梅ケ枝が、「ア、金がほしいなアー」と手水鉢を無間の鐘に見立てて、柄杓で打てば、「其の金ここに」と、小判三百両が二階の障子の内から、ぱらりと投げ出される。その梅ケ枝の身振りとか(脚注一)。
書簡の内容は、「此の節季」の「節季」(十二月の年末)に関してのものである。その年末に、「けふはあまりのことに手水鉢にむかい、かゝる身ぶりをいたし候得共、『其の金ここに』、といふ人なきを恨み候」と、新しい年を迎える金がないということと思いしや、「されども此の雪、只も見過ごしがたく候」と、年末の忙しい時に、折りからの雪を見て、「雪見酒」の宴会をやりたいという文面のようである。
場所は、「二軒茶や中村やへと出かけ可申候」というのである。嵐山は三軒茶屋だが、こちらは、祇園南楼門前の二軒茶屋、東を中村屋、西を藤屋というとか(脚注二)、その中村屋(祇園豆腐が名高いとか)を、御指名している。
この蕪村書簡の宛名は、「佳棠福人」とある。この「佳棠」は、先(その一)に触れた、書肆田中汲古堂のこと「佳棠」大檀那であり、「福人」という敬称は、「雪見酒の金主を頼む故」のものとか(脚注三)。
さて、冒頭の蕪村書簡に戻って、その書簡にある図柄(素描)は、「蕪村」その人の風姿なのであるが、当時の蕪村は、明和八年(一七七一)の歳旦帖『明和辛卯春』に、「浪花の鯉長、江戸の梅幸・雷子・慶子」らの俳優連が、それぞれの句を寄せているほどの、その俳優連の熱烈なファンの最たるものだったのである。
その芝居好きの蕪村の最も良き相方が、この書簡の宛名にある「佳棠」その人である。
ちなみに、「ひらがな盛衰記」第四段の傾城梅ケ枝の「あらすじ」は次のとおりである。
「勘当された源太と千鳥のその後の運命を綴ったのが四段目の「辻法印」「神崎揚屋」である。源太を養うため千鳥は神崎の廓に身を沈め、梅ヶ枝と名乗る遊女になった。折しも一の谷で合戦が起こり、源太は梅ヶ枝に預けていた産衣の鎧を取りにくる。しかし梅ヶ枝は、源太の揚代を作るため、鎧を質に入れてしまっていた。百計尽きた梅ヶ枝は、小夜の中山の無間の鐘の言い伝えを思い出し、庭の手水鉢を鐘に見立てて柄杓で打とうとした。その時二階から質受けに必要な三百両の金が降ってきた。客に化けていた母延寿の、思いがけない情の金であった。」
[左から]傾城梅ヶ枝(中村福助)、梶原源太景季(中村信二郎) 平成15年9月歌舞伎座
(その三)
『蕪村全集五 書簡』所収「四一明和九年一月四日 無宛名」
書簡の冒頭に、この謎めいた絵文字が出て来る。この右上に書いてある文言は「わたしはお前の兄さんのむすめでござんす」で、左下の文言は、「これはそのほうにたのむ。大事な物じや。かならずかならず失ふな。ナ合点歟。かならずかならず失ふな」と書いてある。
そして、書簡の出だしに、「『一(わたしはお前の兄さんのむすめでござんす)』の『二(これはそのほうにたのむ。大事な物じや。かならずかならず失ふな。ナ合点歟。かならずかならず失ふな)』の御慶、めでたく申納候。御家内様御揃御平安被成御越年、奉賀候」と続くのである。
その書簡の末尾には、次の「歳暮」の句が出て来る。
歳暮
張子房と云(いへ)る題を探りて
石公(せきこう)へ五百目戻すとし(年)のくれ(くれ) 蕪村
この句は、『蕪村全集一 発句(八三六)』に「題 沓(くつ)」で収載されている。句意は、「年末の借銭を返すのに、張良が石公に沓の片方を拾って戻したのに倣い、半分を返して済ますことにしよう。故事の俳諧化」とある。
この句意を得て、この書簡は、「歳暮(年末)・歳旦(新年)」の挨拶の書簡ということと、やはり、「歳暮の借銭返し」に関連するものという背景が浮かび上がっている。
『蕪村全集五 書簡』では、「冒頭の絵文字は解読できない」(頭注)とあるのだが、この書簡は、いわゆる、「判じ物」(当時流行していた「絵」を見て「答」を探る「謎々遊び」)のようである。
そのヒントは、『蕪村全集六 絵画・遺墨』所収「書簡等挿絵・絵文字『五無宛名書簡絵文字(判じ物)』・『六右書簡添句挿絵』」にあるようである。
『蕪村全集六 絵画・遺墨』所収「書簡等挿絵・絵文字『五無宛名書簡絵文字(判じ物)』・『六右書簡添句挿絵』」
すなわち、この書簡の冒頭の「絵文字」(謎々は?=『五無宛名書簡絵文字(判じ物)』)の、その答えは、この書簡の末尾の「絵文字」(『六右書簡添句挿絵(答)』)ということになる。
(その四)
『蕪村書簡集 岩波文庫』所収「二三三 ふくえん宛(十月十五日付)
この図柄の女性は、表書きに、「十月五日 ふくえんさま ぶそん」とあり、蕪村一門の行き付けの「ふくえん(伏渕)」の女将宛てのものなのであろう。この「日付け」が面白く、この書状は、「十月五日」に書かれたものであるが、この画は、「廿七日夜」に書かれているのである。
すなわち、十月五日、この文面にあるとおり、「百池・佳棠」と「伏渕」で書状のとおりの「飲み会」となり、その折、その飲み会のお知らせの十五日付けの書状に、宴の半ばにて、その伏渕の女将は、蕪村に画を描くように懇請したのであろう。
その宴席(十五日)では、蕪村は即座に描かずに、その書状を持ち帰り、「廿七日夜」に、この画を描いて、女将に差し上げたというのが、この「絵」付きの「書簡」の背景ということになる。
この「廿七日夜」に描いた絵の脇に、「ふくえん/おはぐろつぼへてつきうのおれを入(いれ)るところ」と添書きがしてある。
この「おはぐろつぼ」は「お歯黒壺」、「てつきう」は「鉄灸」、「おれ」は「折れ」を平仮名で書いている。「ふくえん(伏渕)」の女将は「お歯黒」の美人だったのであろう。
原書簡の蕪村の筆跡(部分)=『蕪村の手紙(村松友次著)』(表紙画より)=柿衛文庫蔵
(その五)
『蕪村全集五 書簡』所収「安永七年十月十一日 暁台・士朗宛書簡」(名古屋市博物館蔵)
この書簡の内容は、以下のようなことである。
一 名古屋俳諧の巨匠・暁台が、士朗・閭毛(りょうもう)を伴って、安永七年(一七七八)十月に上洛するが、慌ただしく帰国する。その早々の帰国は何か気に障るようなことがあったのかと一抹の懸念を伝えている。
二 蕪村門の「道立・我則・月居・維駒」が亭主役になって歌仙を巻く準備していたが、それが出来なくて心残りである。
三 士朗注文の絵を揮毫したこと。また、暁台の庵名の「龍門」の額字が出来たこと。
三 暁台が仲介役になっている名古屋の富商達の依頼品も近日中に揮毫すること。「おくのほそ道」画巻を完成させて近々送付すること。
四 此の書簡は、暁台と士朗のお二人宛てになっているが、閭毛にも御伝声をお願いしたい。
五 日付は、「十月十一日」(安永七年は推定)。
六 宛名は、「暮雨(暁台の別号)主盟(同盟の主宰者)・士朗国手(医者の尊称)」。
七 蕪村は、次の二句を文末に記して、暁台と士朗の意見を徴している。
茶の花や石をめぐりて道を取(とる)
道を取(とり)て石をめぐればつゝじ(躑躅)かな
八 その後に、上記の「蕪村写於雪楼中」の落款のある蕪村の戯画が描かれている。
この戯画中の、「朱樹台」は士朗の別号で、真ん中の人物が士朗であろう。その左の女性と肩を組んでいるのは暁台で、「ヨウ こちのこちの カウモ有(アロ)ウ 尾張名古家(屋)は 士朗(城)でもつ」は、士朗と「口合」(洒落・語呂合わせ)をしていて、「名古屋の暁台俳諧は『士朗』で持っている」というような意であろう。
真ん中の人物の士朗が、「朱樹台(士朗の別号)を已来(以来)やくたい(「益体も無い遊びに熱中する」の「益体」)と改メマショウ」と、駄洒落を連発して、酒宴を盛り上げている。
この「久村(暁台の別姓)キヤウトイ キヤウトイ」は、その士朗を見て、「キヤウトイ(気疎し=きやうとし=きやうとい=「えらい・けなげだ」)・キヤウトイ」と名古屋弁で暁台が囃しているのであろう。
さて、右端の人物は、「歯の痛(いたみ)も とんと忘れた」の文言から、「書簡一九〇に蕪村が歯の痛みに悩んだ記事がある。この戯画の人物は蕪村か」(頭注)と、蕪村としているのだが(『蕪村全集五(三〇四頁)』、これは蕪村ではなく、この時の暁台・士朗と一緒に上洛した閭毛であろう。
安永七年(一七七八)当時の蕪村は、六十三歳、京都俳壇の大宗匠且つ文人画の大家(この年に最晩年の栄光の画号「謝寅」を使い始める)で名を轟かせている、「画・俳」両道の世界では、最右翼に位置していたと言っても過言でなかろう。
そして、名古屋俳諧を牛耳っている加藤暁台は、京都俳壇・画壇で名を馳せている与謝蕪村とでは、年齢にして、十六歳も、蕪村が年長ということになる。また、江戸俳壇と京都俳壇の狭間に位置する名古屋俳壇は、まだまだ、新興勢力ということになろう。
ただ、暁台は尾張藩の武家出身で、諸国を遊歴して、江戸の蓼太(大島氏)と共に門人の数などからすると、蕪村門よりも大きな集団を成していたようである。
その尾張の暁台門の筆頭が、士朗(井上氏)で、年齢的には、暁台より十歳程度年下である。閭毛については詳細不明だが、士朗に次ぐ暁台門人ということになろう。
この、上記の「蕪村写於雪楼中」の落款のある蕪村の戯画は、京都俳壇の蕪村と蕪村門の面々(この書簡中にその名がある「道立・我則・月居・維駒」、後に、暁台と親しくなる百池などの面々)の前で、名古屋俳壇の盟主暁台とその高弟の士朗・閭毛が踊りを披露しているのであろう。
そして、この三人の主役は暁台で、士朗と閭毛は、その師匠の太鼓持ちのような引き立て役を演じている。この酒席の最長老の蕪村が、この踊りの列に加わり、年下の暁台の太鼓持ちのようになって、暁台に媚びているような踊りを披露することは有り得ないことであろう。
問題は、この右端の閭毛と思われる人物の上の「歯の痛(いたみ)も とんと忘れた」であるが、これは、閭毛の発言と取るのが自然であろう。また、蕪村の発言と取って、この時の閭毛の踊りの恰好や仕草が、「歯の痛(いたみ)も とんと忘れた」ほど面白かったとする解もあろう。
ちなみに、この暁台と肩を組んでいる女性は、「雪楼」こと祇園「富永楼」の女将「お雪」さんの風姿なのかも知れない。