蕪村の絵文字(十一~十六)

(その十一)

とも宛て書簡.jpg

『蕪村全集五 書簡』所収「四三四 安永末~天明三年 二十三日 おとも宛」柿衛文庫蔵

 末尾の「おともどのへ 用事」の「おとも」とは、蕪村の細君である。この書簡の内容は、「きのふより杉月(さんげつ)に居つゞ(続)けいたし」と、三本樹(木)の料亭、杉月楼に居続けて、「少々二日酔(ひ)」だというのである。
 そして、「けふ(今日)は東山へ参(まゐり)候」と、東山の句会に行くということらしい。
それで、「小袖・唐紙・硯箱・机の上の草稿一冊・十徳(俳諧師などが外出用に着した着物)・扇・煙草少々」を「佳棠(書肆汲古堂主人)」の「供寄せ申候」(供の者をそちらに立ち寄らせる)」から、「御越(遣)可被下候」(持たせてやって下さい)というのである。
 蕪村の亭主関白ぶりが目に見えるようである。

  身にしむやなき妻のくしを閨(ねや)に踏(ふむ)  (安永六年作)

 この句は、安永六年(一七七七)、蕪村、六十二歳の時の作とされている。それは几董の『丁酉之発句帖』(安永六年)中の「閨怨」と題する句とされていることに因る。
句意は「秋夜、暗い寝間の片隅でふと踏んだのは亡妻の櫛であった。なぜ今ごろこんな所にあったのだろう。今さらながら秋の夜の独り寝の寒さと無常の思いが身に沁みる。小説的虚構の句」(『蕪村全集一 発句(一八〇八)』)とある。

 蕪村が結婚したのは、丹後から帰洛して画名も漸く高まり、一応生活の安定が得られるようになった宝暦十年(一七六〇)、四十五歳の頃と推定されている。蕪村は晩婚で、蕪村よりもずっと年若の妻であったのであろう。
 名は、上記の書簡のとおり、「とも」といい、「とも」が亡くなったのは、金福寺の過去帳によると文化十一年(一八一四)のことで、蕪村没後三十年余も後のことである。蕪村との間に一女があって、名は「くの」(又は「きぬ(婚家先での名か)」)で、しばしば、蕪村書簡でその名が散見される。
 蕪村書簡によると、「くの」は、安永五年(一七七六)十二月に結婚して、その翌年の安永六年(一七七七)の五月には離婚している。この「くの」の離婚に関連しての蕪村の痛々しいほどの心痛を綴った几董宛ての書簡が今に遺されている。

「(前略) むすめ病気又々すぐれず候で、此方(婚家から蕪村宅へ)へ夜前(昨夜)引取養生いたさせ候。是等無拠(よんどころなき)心労どもにて、風雅(俳諧)も取失ひ候ほどに候。(後略)」(几董宛、安永六年五月)

「是等無拠(よんどころなき)心労どもにて、風雅(俳諧)も取失ひ候ほどに候」と、「風雅(俳諧)」どころではないというのである。蕪村は、この娘が離婚する一か月ほど前の、四月八日から、夏行(夏季に行われる僧侶の仏道修行の一つ)とし、一日十句の発句を作ることを志して、後半の文章篇と併せ自叙伝とも言うべき『新花摘』の執筆に取り掛かっている。
 その前半の発句篇の最後(廿四日)の前書きに、「此(この)日より所労のためよろずおこたりがちになり。発句など案じ得べうもあらねば、いく日(にち)もいたづらに過(すご)し侍る」と、上記書簡の文面と一致するような箇所がある。
 とすると、蕪村の『新花摘』は、其角の亡母追善を意図した『華(花)摘』に倣い、亡母追善(「五十回忌」説)の意図があるとされているが、それだけではなく、この「くの」の結婚そして離婚などと大きく係わっているのであろう(『新潮日本古典集成 与謝蕪村集《清水孝之校注》』所収「解説《『蕪村句集』と『新花つみ』の成立》」)。

 さて、ここで、上記の「小説的虚構の句」とされている「身にしむやなき妻のくしを閨(ねや)に踏(ふむ) 」は、妻「とも」との関連では、まさに、「小説的虚構の句」なのだが、当時、執筆していた『新花摘』の亡母や娘「くの」との関連ですると、薄幸な女性をイメージしてのものという捉え方は十分に成り立つであろう。

 さらに、冒頭の蕪村の亭主関白ぶりの書簡についてであるが、蕪村の芝居好きや茶屋遊びというのも、「老を養ひ候術(すべ)に候故(ゆえ)、日々少年行(漢詩の楽府題の一つ)、御察可被下候」(有田孫八宛・年代不詳・六月八日付)と、画業のスランプの脱出などと密接不可分のような思いを深くする。また、料亭などでの席画や依頼画の制作などで、画室外での作業なども多かったことであろう。

 そういう、当時の、画家そして俳諧宗匠を業として一家を支えている蕪村と、その画料等を唯一の家計としている「とも」との、この両者の信頼関係を抜きにしては、この書簡の真の背景を理解しているとは言えないであろう。

新花摘1.jpg

(『新潮日本古典集成 与謝蕪村集《清水孝之校注》』所収「新花つみ」)
月渓筆「渭北文台ノ主トナレリ」の挿絵
左端 宗匠(点者)となった渭北(右江氏、淡々門、淡々の「渭北」を引き継ぎ、前号は「麦天」)、この宗匠(点者)のスタイルなどが、蕪村書簡の「小袖・唐紙・硯箱・机の上の草稿一冊・十徳」などと関係して来る。宗匠(点者)の前の机が「文台」、そして、宗匠(点者)になったことを証しする儀式のことを「文台開き」と言う。

(その十二)

百池宛て書簡.jpg

『蕪村全集五 書簡』所収「二九九 天明二年一月二十八日 堺屋三右衛門(百池)宛」個人蔵

 この表書きの「さかい(堺)屋三右衛門」は、寺村百池の屋号と通称である。書簡の内容は、なかなか意味深長のものがある。
 この「御細書之(の)おもむき(趣)至極御尤(ごもつとも)之御事二(に)候」の「御細書」とは、次に続く、「しばらく絶誹(俳)可然候」と「其外(そのほか)之遊興御つゝ(慎)しみ第一ニ御座候」とのことを指しているようである。
 この「しばらく絶誹(俳)可然候」とは、百池は、「しばらく俳諧(連句興行・句会の出席など)は止めたい」ということ、そして、「其外(そのほか)之遊興御つゝ(慎)しみ第一ニ御座候」ということは、「茶屋遊びなどは一切しない」ということに、百池の師の蕪村は、「御つゝ(慎)しみ第一ニ御座候」と、それが「尤もである」と、「百池」ならず、「さかい(堺)屋三右衛門」で、書簡を認めている。
 蕪村は享保元年(一七一六)生まれ、百池は寛延元年(一七四八)生まれで、二人の年齢差は、蕪村が三十二歳年長である。因みに、月渓は宝暦二年(一七五二)の生まれで、百池より四歳年下である。この百池と月渓とが、晩年の蕪村の秘蔵子と言っても良かろう。
 ここで、この書簡の日付の天明二年(一七八二)に注目したい。この年の月渓は池田で新年を迎え、剃髪して呉春と改号した年に当たる。そして、この年の五月に蕪村は『花鳥篇』を刊行する(蕪村編集の板下も蕪村が書いている)。
 この『花鳥篇』こそ、次の年が没年となる、蕪村の最晩年の「老いの華やぎ」の一瞬の結晶とも言うべき、そして、それは、束の間の「あだ(徒・婀娜)花」(はかなく散る実を結ばない桜花)のごときものと位置付けることも可能であろう。
 この『花鳥篇』に、晩年の蕪村が親しんだ、愛人とも言われている「小いと(小糸)」と同座して巻かれた連句(十二句)が収載されている。
 その表六句は次のとおりである。

 いとによる物ならにくし凧(いかのぼり)    大阪 うめ
  さそへばぬるむ水のかも河             其答
 盃にさくらの発句をわざくれて            几董
  表うたがふ絵むしろの裏             小いと
 ちかづきの隣に声す夏の月              夜半 
  をりをりかをる南天の花              佳棠 

 この発句の前に、「みやこに住(すみ)給へる人は月花のお(を)りにつけつつ、よき事も聞(きき)給(たまは)んと、いとねたくて 蕪村様へ、文のはしに申(まうし)つかはし侍(はべる)」という前書きがある。
 この発句の作者「うめ」は大阪新地の芸妓で、後に月渓の後妻となった女性である。月渓は、この前年の天明元年(一七八一)三月晦日に愛妻雛路を海難事故で亡くしている。その八月には実父が江戸で客死するという二重に不幸に遭遇し、蕪村の計らいで、蕪村門の長老の田福(京都五条の呉服商で百池の縁戚に当たる)の別舗が池田にあり、その二階を仮の住居として転地療養をしている。
 この『花鳥篇』にも、月渓の名は見られない。
さて、この発句の句意は、表面的には、「凧は大空に自由に高く舞い上がっているようで、実は見えない糸に頼っているというのは憎たらしい」というようなことである。そして、その背後に、四句目の作者「小いと」が蕪村の愛人であることを暗にほのめかしていて、それが、前書きの「みやこに住(すみ)給へる人=小いと」が「いとねたく」、そして、発句の「凧(蕪村様)がいと(小いと)に頼りきっているのは、憎たらしい」ということを利かしている。
 また、この句は、「糸によるものならなくに別れ路の心細くも思ほゆるかな」(『古今集』)の本歌取りの技巧的な句なのである。
 次の脇句の作者「其答」は、蕪村の後継者の「几董」を捩っての、蕪村の「変名」の感じなくもないが、歌舞伎役者沢村国太郎のようである(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著))。
句意は、「人を誘って、凧が舞い上がっている野辺に行くと、賀茂川の水も春らしくなっている」ということで、この「人を誘って」の「人」は、「小いと」を指しているのであろう。
 第三の几董の句は、発句・脇句の「凧の舞い上がる賀茂川の野辺に居て、盃を重ねながら、桜の発句を吟じたい」と、第三の「て留め」だが、実質的に、この句が発句的な意味合いもあるのだろう。
 四句目は、夜半亭一門で蕪村との仲が話題となっている「小いと(小糸)」の句である。「表うたがふ絵むしろの裏」と、俳諧の「表=表面的の世界」と「裏=背後に隠されている世界」と、そして、この句意は、「表の恋模様の絵筵の、その裏は、さてさて、どのようなものなのでしょうか」と、どうにも、手の込んだ句で、おそらく夜半翁(蕪村)が手入れしての一句なのであろう。
 その前句に対して、「ちかづきの隣に声す夏の月」と、ここは月の定座で、「夏の月が空にかかり、何やら近くの親しい隣家の声が聞こえてくる」というのである。この「近づき」は、勿論、この作者の「夜半」と「小いと」との「近づきの仲」を掛けてのものなのであろう
 表六句の折端の句は、茶屋遊びの指南役の佳棠の「南天の花」の「匂い」の付けである。
勿論、「夜半翁と小いととの関係は香しい匂いが立ち込めている」というのであろう。

 この「小いと(小糸)」の名は、安永八年(一七七九)頃の蕪村書簡から散見されるが、蕪村の方が積極的であったことは、天明元年(一七八一)五月二十六日付け佳棠宛書簡の次のような文面からも窺える。

「返す返す小糸もとめならば、此方よりのぞみ候ても画き申たき物に候。右之外之画ならば、何なりとも申し遣し候様御申し伝へ下さるべく候。」

 これは、小糸が「白練」(白の練り絹)に、蕪村の「山水画」を描いてくれと佳棠を仲介にして頼まれたのだが、小糸の着物に私の山水画はどうにも似合わないので、「右之外之画」(それ以外の画)ならば、「何なりとも申し遣し」下さいと「伝え下さるべく候」というのである。
 蕪村の小糸への一通りでない気持ちが伝わって来る。そして、それが次第に周囲の目にも余るものになってきたらしい。蕪村門人で川越候松平大和守の京留守居役の樋口家を継いだ儒学者の道立から諫言され、その諫言に対して、「小糸が情も今日限り候」との蕪村の返信の書簡が今に遺されている。
 さて、冒頭の「天明二年一月二十八日付け堺屋三右衛門(百池)宛て蕪村書簡」を見ると、「百池がしばらく俳諧を止め、茶屋遊びなどの遊興を止め、本業に専心する」ということに対しての、「御細書之(の)おもむき(趣)至極御尤(ごもつとも)之御事二(に)候」という蕪村の書簡は、当時の蕪村自身の、「俳諧は几董に任せ、茶屋遊びなどの遊興を止め、本業(画業)に専心する」という、六十七歳の賀を迎えた老翁・蕪村の実像なのかも知れない。

花鳥篇2.jpg

『蕪村全集七編著・追善』所収「花鳥篇」=蕪村書・画「花ちりて身の下やみやひの木笠」

 この『花鳥篇』の「花」は「桜」、そして、「鳥」は「時鳥」を指している。もとより、季題の頂点を占める五個の景物(花・月・雪・時鳥・紅葉)の、その「花・時鳥」を書名にしていることは言うまでもない。
 そして、前半の「花桜帖」の末尾に、上記の「花ちりて身の下やみやひの木笠(夜半)」の句と挿絵(蕪村筆)が描かれている。ちなみに、後半は、「ほととぎすいかに鬼神もたしかに聞(きけ)」(宗因)の句ほ発句にして、脇句(蕪村)、第三(几董)と続く、夜半亭一門の歌仙(三十六句)が巻かれている。そして、その末尾に、慶子(中村富十郎)画の「時鳥」の挿絵が添えられている。
 この「花ちりて身の下やみやひの木笠(夜半)」の句には、次の前書きが添えられている。

「さくら見せうぞひの木笠と、よしのゝ旅にいそがれし風流はした(慕)はず、家にのみありてうき世のわざにくるしみ、そのことはとやせまし、この事はかくやあらんなど、かねておも(思)ひはか(図)りことゞもえはたさず、つい(ひ)には煙霞花鳥に辜負(こふ=そむく)するためしは、多く世のありさまなれど、今更我のみおろかなるやうにて、人に相見んおもて(面)もあらぬこゝちす」

 この前書きを踏まえると、芭蕉の「吉野にて桜見せうぞ檜木笠」(『笈の小文』)を踏まえての一句ということが察知される。句意は、「芭蕉から『桜見せうぞ』と呼びかけられた檜木笠は、花が散って、自分自身の陰が作る闇に沈んでいる。見る暇もなく散った花に、私の心はもっと暗い」(『蕪村全集一発句』所収「二二五一頭注」)。

 ここで、冒頭の天明二年(一七八二)一月二十八日の堺屋三右衛門(百池)宛書簡前後から、五月の『花鳥篇』出版までの蕪村の年譜を辿ると次のとおりとなる。

一月二十一日 春夜楼で壇林会(連句・発句会)に出席(几董『初懐紙』)。『夜半亭歳旦帖』の代わりに『花鳥篇』の刊行を計画。
一月二十八日 堺屋三右衛門(百池)宛書簡(百池の「俳諧を暫く休み、遊興を慎む」旨の書簡に返信)。
三月 田福らと念願の吉野の花見の旅をする(『夜半翁三年忌追福摺物(田福編)』、ここに「我此翁に随ひ遊ぶ事久し。よし野の花に旅寝を共にし」とある。また、「雲水 月渓」の長文の前書きを付した発句も収載されている。月渓は蕪村没後「雲水=行脚僧」であったのであろう)。 十七日 吉野の花見から帰洛(梅亭宛書簡)。
四月 金福寺句会(道立宛書簡)。
五月 『花鳥篇』出版

 この『花鳥篇』の前半の「花桜帖」には、「ナニハ うめ(梅女)」「女 ことの(琴野)」「女 小いと(小糸)」「女 石松」と、蕪村の馴染みの芸妓たちの句と共に、「慶子(中村富十郎)」「巴江(芳沢いろは)」「雷子(二世嵐三五郎)」「眠獅(嵐雛助)」「其答(沢村国太郎)」の役者、そして、江戸の「蓼太」、尾張の「暁台」等々と、誠に 華やかな顔触れの句が続き、その造本も凝りに凝った蕪村の趣向が随所に顕われている。
 しかし、この「花桜帖」の末尾を飾る「花ちりて身の下やみやひの木笠」の、この「身の下やみ」の、「蓑笠と身の陰の下の、この漆黒の闇」とは、ここに、蕪村の最晩年の「老いの華やぎ」と、その束の間の「あだ(徒・婀娜)花」と、その背後の、「滅びゆくものの、老愁と、老懶と、そして、寒々とした漆黒の闇」とが察知されるような、そんな思いを深くする。

(その十三)

道立宛書簡.jpg

『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)』所収「一一八道立宛宛」

[ 青楼(遊里)の御意見承知いたし候。御尤もの一書、御句にて小糸(蕪村なじみの芸妓)が情も今日限(かぎり)に候。よしなき風流(甲斐もなき色恋)、老(おい)の面目をうしなひ申候。禁(きんず)べし。去(さり)ながらもとめ得たる句、御披判(ごひばん)可被下候。
妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ
 これ泥に入(いり)て玉を拾ふたる心地に候。此(この)ほどの机上のたのしびぐさに候。御心切(しんせつ)之段々、忝(かたじけなく)奉存候。
   四月廿五日                    蕪村
道立 君
 尚々(なおなお)枇杷葉湯一ぷく、あまり御心づけ被下、おかしく受納いたし候。 ]

 この書簡中の句、「妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ」は、安永九年(一七八〇)の几董編『初懐紙』に収載されている。そのことから、この書簡は「安永九年」の書簡と推定されている。
 その『初懐紙(几董編)』には、「正月廿日壇林会席上探題」のところに、「琴心挑美人(きんしんもてびじんにいどむ)」の前書きを付して、「妹が垣根三味線草の花咲きぬ」の句形で収載されている。
 この「琴心挑美人(きんしんもてびじんにいどむ)」とは、「司馬相如が富豪の娘で寡婦の卓文君に琴歌に託して意を通じ妻にした故事」(『蒙求・文君当壚』)を裏返し、琴を三味線に転換してのものとの解がある(『蕪村全集一発句』所収「二〇九四頭注」)。また、「昔見し妹が垣根は荒れにけりつばな交じりの菫のみして」(藤原公実『堀河院百首』)を踏まえての句のようである。
 句意は、「恋する人の垣根に、私の恋心を伝えるかのように三味線草の花が咲いている」というようなことであろう。そもそも、この句は小糸とは関係のないものなのだが、この書簡中に置くと、「恋する人の垣根(家)に、私の恋心を伝えるかのように三味線草の花ならず、小糸の三味線の音色が伝わって来る」というようなニュアンスになって来よう。

 そして、この句の創作年次の安永九年(一七八〇)を根拠にして、この書簡も同年のものと即断するのは、必ずしも正当とは言えないであろう。事実、天明二年(一七八二)五月の『花鳥篇』(「小糸と同座しての連句が収載されている」)刊行後の、最晩年の天明三年(一七八三)と推定しているものもある(『戯遊の俳人与謝蕪村《山下一海著》』)。

 ここで、この書簡の宛名の樋口道立について触れて置きたい。

 樋口道立は、元文三年(一七三八)生まれ、文化九年(一八一二)没。本名、樋口道卿、通称、源左衛門。別号に、自在庵・紫庵・芥亭など。明和五年(一七六八)版『平安人物志』の儒者の部に「源彦倫、字道卿、号芥亭、下立売西洞院東ヘ入町、樋口源左衛門」と掲載されている。『日本詩史』の著者江村北海の第二子で、川越候松平大和守の京留守居役の樋口家を嗣いだ。安永五年(一七七六)四月、道立の発企により、洛東金福寺内に芭蕉庵再興が企てられ、写経社会が結成されると管事となっている。蕪村との交遊は二十余年に及ぶが、蕪村門人というよりも蕪村盟友という関係が相応しい。天明元年(一七八一)五月に芭蕉庵は改築再建される。

 ここで、この書簡が出された年次について、金福寺内の芭蕉庵が改築再建された天明元年(一七八一)五月二十八日前の四月二十五日というのが浮かび上がって来る。
それは、この書簡の理解に最も相応しい『几董・月居十番句合(蕪村判)』の「老(おい)そめて恋も切なる秋の暮(几董)」に対する、蕪村が判定を下した次のものに、この書簡のニュアンスが最も近いということに他ならない。

[ 老(おい)初(そめ)て身のむかしだにかなしきといふにもとづき、恋ほど切なるものはあらじといへるに、老が身の事々物々に親切なる、況(いはんや)人のきくを憚るも「年過半百(白)不称意」(年半百ニ過ギテ意ニ称ハズ)といふがごとく、かく老が恋の切なれども、秋のくれのそゞろのものゝかなしき、「眇々悲望如思何」(眇々タル悲望思ウモ如何)ともの字をもて自問自答せるなり。  ]
『蕪村全集四俳詩・俳文』所収「評巻五蕪村判、几董・月居十番句合(天明元年)」

 ここで、前回の「天明二年(一七八二)」の年譜と合作すると次のとおりとなる。

(天明元年=一七八一)
四月二十五日 道立宛書簡(「青楼(遊里)の御意見承知いたし候。御尤もの一書、御句にて小糸(蕪村なじみの芸妓)が情も今日限(かぎり)に候」)。
五月二十八日 芭蕉庵改築再建に際し、芭蕉庵再興記を自筆に記して奉納する。
八月十四日 几董・月居の十番左右句合に判す「老(おい)そめて恋も切なる秋の暮(几董)」(『反古瓢』)。
(天明二年=一七八二) 
一月二十一日 春夜楼で壇林会(連句・発句会)に出席(几董『初懐紙』)。『夜半亭歳旦帖』の代わりに『花鳥篇』の刊行を計画。
一月二十八日 堺屋三右衛門(百池)宛書簡(百池の「俳諧を暫く休み、遊興を慎む」旨の書簡に返信)。
三月 田福らと念願の吉野の花見の旅をする(『夜半翁三年忌追福摺物(田福編)』、ここに「我此翁に随ひ遊ぶ事久し。よし野の花に旅寝を共にし」とある。また、「雲水 月渓」の長文の前書きを付した発句も収載されている。月渓は蕪村没後「雲水=行脚僧」であったのであろう)。 十七日 吉野の花見から帰洛(梅亭宛書簡)。
四月 金福寺句会(道立宛書簡)。
五月 『花鳥篇』出版

老いが恋.jpg

『蕪村全集四俳詩・俳文』(第四巻月報「老が恋・芳賀徹稿」所収)

 上記は、安永三年(一七七四)九月二十三日付大魯宛書簡の後半部分である。『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)』によると、次のとおりである。

[ 狐火の燃えつくばかりかれ尾花 
是は塩からき(趣向・技法の古くさい)様なれど、いたさねばならぬ事にて候。御観察可被下候。
几董会 当座 時雨
 老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな
  しぐれの句、世上皆景気(叙景の句)のみ案(あんじ)候故、引違(ひきちがえ)候ていたし見申候。「真葛(まくず)がはらの時雨」とは、いさゝか意匠違ひ候。
  右いづれもあしく候へども、書付ぬも荒涼に候故、筆之序(ついで)にしるし候。
  余は期重便(じゅうびんをごし)候。頓首
   九月二十三日          蕪村
大魯 様                      ]

 この書簡中の「真葛(まくず)がはらの時雨」というのは、慈円の「わが恋は松を時雨の染めかねて真葛が原の風騒ぐなり」(『新古今・巻十一』)を指し、その「風が吹いて葛が白っぽい裏を見せる、恨み(裏見)で心の落ち着かない恋心」と、「老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな」の「老(おい)が恋」とを、「時雨」が同じだからと言って、同じように取って貰っては困るというようなことであろう。
 とすると、この「老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな」の句は、先に紹介した『花鳥篇』の「花ちりて身の下やみやひの木笠」の「花ちりて」に近いもので、その背後に、式子内親王の「花は散りてその色となく詠(なが)むればむなしき空に春雨ぞふる」(『新古今・春下・一四九』)の、「花は散り=人生の終わり」「むなしき空=虚空」を意識している雰囲気で無くもない。
 同様に、「老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな」の「わすれんとすれば」の字余りは、式子内親王の「花は散りて」の字余りを意識してのものなのかも知れない。

  老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな(安永三年大魯宛書簡)
  妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ
       (安永九年『初懐紙《几董編》』・天明元年道立宛書簡) 
  花ちりて身の下やみやひの木笠(天明二年『花鳥篇』)

 蕪村が「老(おい)が(の)恋」を主題にしたのは、安永三年(一七七四)、五十九歳の頃である。爾来、没する天明三年(一七八三)、六十八歳までの、約十年間の主題であり続けた。
その間、冒頭の天明元年(一七八一)の道立宛書簡のように、「よしなき風流(甲斐もなき色恋)、老(おい)の面目をうしなひ申候。禁(きんず)べし」と自戒の書簡を認めることもあった。
 しかし、その書簡に記すが如き、「妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ」、それが、「泥に入(いり)て玉を拾ふたる心地に候。此(この)ほどの机上のたのしびぐさに候」と、この「老(おい)が恋」は、表面的には形を失せても、内面的には益々、蕪村の主題としてあり続けたのである。
 そして、そのエッポクメーキング(それを示す象徴的なもの)が、天明二年(一七八二)の『花鳥篇』なのである。
 そこに収載されている蕪村(夜半)の句は、「花ちりて身の下やみやひの木笠」、どうにも、「花ちりて」「身のしたやみ(闇)や」と、「名状し難き陰鬱」した「老(おい)が恋」なのである。
 しかし、その「名状し難き陰鬱」した「老(おい)が恋」の、その底流に流れているものが、実は、『花鳥篇』の中に、さりげなく記されている。

[ 寂(さび)・しをりをもはら(専)とせんよりは、壮麗に句をつくり出(いで)さむ人こそこゝろにくけれ。かの伏波将軍(ふくはしやうぐん)が老当益壮といへるぞ、よろずの道にわたりて致(おもむき)を一にすべし。古(いにしへ)、市河(川)栢筵(はくえん)、今の中むら(村)慶子などは、よくその道理をわきまへしりて、年どしに優伎(いうぎ)のはなやかなるは、まことに堪能(かんのう)の輩(ともがら)と云ふべし。  ]
『蕪村全集七編著・追善』所収「花鳥篇」

 ここに出て来る「伏波将軍(ふくはしやうぐん)」とは、『後漢書(馬援伝)』に出て来る馬援のことで、その馬援の言葉の「老当益壮(ろうとうえきそう)=老イテハ当(まさ)ニ益(ますます)壮(さかん)ナルベシ」こそ、蕪村の「老(おい)が恋」の底流に流れているものなのであろう。
 それは、実生活上でのものというよりも、芭蕉俳諧の「さび・しをり」に対して、蕪村俳諧は「壮麗」を目指したいという、蕪村の創作理念とも言うべきものなのであろう。
そして、その「壮麗」の具体例として、立役の名優二代目市川団十郎(俳号栢筵)と女形の名優初代中村富十郎(俳号慶子)の歌舞伎役者を挙げ、彼らは年齢に関係なく壮麗・華麗な優伎を現出させており、それを範とすべきと言うのであろう。

 この「老当益壮」の視点から、冒頭の「道立宛書簡」を読むと、蕪村の真意が明瞭となって来る。

一 「青楼(遊里)の御意見承知いたし候。御尤もの一書、御句にて小糸(蕪村なじみの芸妓)が情も今日限(かぎり)に候。よしなき風流(甲斐もなき色恋)、老(おい)の面目をうしなひ申候。禁(きんず)べし。」 → ご意見承知いたしました。
二 「去(さり)ながらもとめ得たる句、御披判(ごひばん)可被下候。
妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ   」 → 然しながら、その風流で得た句の、「妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ」を、
どうか、ご批判下さい。
三 「これ泥に入(いり)て玉を拾ふたる心地に候。此(この)ほどの机上のたのしびぐさに候。」→ この句は、泥の中から玉を拾ったような気持ちです。外出もせず、画室にて、この句より得た「「老当益壮」の「壮麗なる句そして画」を構想してるのが、今の楽しみであります。

 また、この「尚なお書き」の「枇杷葉湯一ぷく、あまり御心づけ被下、おかしく受納いたし候」からすると、道立の「御意見」というのは、当時の金福寺内の芭蕉庵再興という大きな懸案事項を抱えていて、「健康第一を旨として戴きたい」というようなことが包含されているような感じに受け取りたい。
 それに対して、「多情を戒める枇杷葉湯を頂戴し、これは、まさに俳諧(滑稽)です」というのは、蕪村と道立との信頼関係における成り立つ「遊び心」の表現なのであろう。

(補説一)

 上記の『花鳥篇』の「寂(さび)・しをりをもはら(専)とせんよりは、壮麗に句をつくり出(いで)さむ人こそこゝろにくけれ。(攻略)」について、『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』では、次のように記している。

これは蕪村の手で天明二年に刊行された『花鳥篇』に収める六十七歳の老蕪村の壮麗論である。芭蕉一門の「さび・しをり」に対して、蕪村はここで「壮麗」を対立理念として提唱した。その基本にあるのは「老当益壮」(老イテハマサニマスマス壮(さか)ンナルベシ)ということだ。門人の几董はこういう師の蕪村について、「もとより懶惰(らんだ)なりといへども、老イテハ当(まさ)ニ益々壮(さか)ンナルベシと、つねに伏波将軍の語をつぶやき」と言っている。『後漢書』馬援伝に見える言葉で、伏波将軍とはこの馬援のこと。蕪村の青春の詩は五十代から六十代にかけて花を咲かせた。蕪村が祇園の妓女小糸と、生涯で最も熱烈に恋をしたのは六十五歳から六十八歳の死までである。「老」という人生の喪(ほろ)びを前にした壮麗論だ。それは落日が黄昏(たそがれ)に近いがゆえに限りなく美しかったようにである。老いの喪びゆえに、壮麗な美しさを見せる落日の美学だ。(『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』所収「落日庵蕪村の詩論」)

(補説二)

上記の『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』中の、蕪村の「懶惰(らんだ)」そして「老当益壮」関連については、やはり、蕪村の最高傑作詩篇とされている、安永六年(一七七七)二月の春興帖『夜半楽』の三部作(「春風馬堤曲」・「澱河歌」・「老鶯児」)と、さらに、安永四年(一七七五)作の「うき我にきぬたうて今は又(また)止ミね」の「憂き我・老懶」などの関連で、再構築が必要となって来よう。その再構築(メモ)の一端を下記に掲げて置きたい。

一 蕪村の安永四年(一七七五)の「うき我にきぬたうて今は又(また)止ミね」の句は、芭蕉の「うき我をさびしがらせよかんこどり」(『嵯峨日記』)を、さらには、「砧打(うち)てわれをきかせよ坊が妻」(『野ざらし紀行』)を念頭にあったのことは言をまたない。

二 芭蕉は、「憂い・老懶」に、真っ向から対峙している。「閑古鳥」の鳴き声を、「ある寺に独(ひとり)居て云(いひ)し句なり」と、さらに、「さびしがらせよ」と一歩も退いていない。さらには、「憂い・老懶」の増すなかにあって、「砧を打ちてわれを聞かせよ」と、その「憂い・老懶」の正体を正面から凝視し、傾聴しようとしている。それに比して、蕪村は、日増しに増す「憂い・老懶」の日々にあって、芭蕉と同じように、「うき我にきぬたうて」としながらも、「今は又(また)止ミね」(今は又止めて欲しい)と、その「憂い・老懶」の中に身を沈めてしまう。

三 蕪村の安永五年(一七七六)の「去年より又さびしいぞ秋の暮」の句もまた、芭蕉の佳吟中の佳吟「この秋は何で年寄る雲に鳥」(『笈日記』)に和したものであろう(『蕪村全集(一)』)。芭蕉は、この芭蕉最後の旅にあって、その健康が定かでないなかにあって、「憂い・老懶」の真っ直中にあって、「何で年寄る」と完全な俗語の呟きをもって、「雲に鳥」と、連歌以来の伝統の季題の、「鳥雲に入る」・「雲に入る鳥」・「雲に入る鳥、春也」と、次に来る「春」を見据えている。

四 それに比して、蕪村は、芭蕉の「憂い・老懶」の「寂寥感」に耐えられず、「去年より又さびしいぞ」と、その「老懐」に、これまた身を沈めてしまうのである。そして、蕪村は、その翌年の春を迎え、その春の真っ直中にあって、「春もやゝあなうぐひすよむかし声」と、いよいよ、その「憂い・老懶」に苛まれていくのである。

五 さればこそ、この「憂い・老懶」を主題とする「老鶯児」の一句を、巻軸として、異色の俳詩、「春風馬堤曲」・「澱河歌」の二扁の序奏曲をもって、「華麗な華やぎ」を詠い、その後に、真っ向から、「憂い・老懶」の自嘲的な、「老鶯児」と題する、「「春もやゝあなうぐひすよむかし声」の一句を、この『夜半楽』の、「老い」の「夜半」の「楽しみ」としつつ、そして、いよいよ募る「憂い・老懶」に、「琴心挑美人(きんしんもてびじんにいどむ)」たる、「伏波将軍(ふくはしやうぐん)」の「老当益壮(ろうとうえきそう)=老イテハ当(まさ)ニ益(ますます)壮(さかん)ナルベシ」を以てしたのではなかろうか。

(その十四)

時雨.jpg

『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)』所収「二〇三後旦宛・口絵写真」(野村美術館蔵)

 書簡の全文は次のとおりである。

[ 貴墨辱(かたじけなく)拝覧。まことにきのふはおもひもよらぬしぐれにて、御立寄申候処、ゆるゆる御茶下(くだ)され、相たのしみ候。ことにこゝろよき御茶碗、銘は「霜夜」とやら、折から一しほおもしろく、今更存出候。帰路ますます、
(時雨の絵)
からかさ恩借かたじけなく候。其節の御ホ句おかしく。ワキを付申候。
  小しぐれに借す傘(からかさ)や神無月  後旦
   頭巾まぶかにまこと顔(がお)なる   蕪村
京極黄門の「よのまこと」よりおもひつゞけ候。
  (傘の絵) 御返却いたし候。
余は期拝眉(はいびをごし)可申残候。 以上
  上
後旦 様               夜半亭        ]

 ここに出て来る「後旦」は、京都の俳人で、蕪村が夜半亭を襲号した翌明和八年(一七七一)の春興帖『明和辛卯春(めいわしんぼうのはる)』(蕪村編)に、その名が出て来る俳人である。
 書簡の内容は、「時雨に遭って、思いがけずお寄りしたところ、お茶を頂戴し、その上、傘を借用いたし、有難うございました。その折の発句に脇句を付けました」というようなものである。
 この書簡中の「京極黄門」とは、京極中納言の藤原俊成の別称である。その「よのまこと」とは、「偽のなき世なりけり神無月たがまことよりしぐれそめけん」(『続御拾遺集・冬』)が、その背景にある。

これは、蕪村好みのドラマ(能、そして、歌舞伎の世界)なのである。

(以下)「定家・三番目物 金春禅竹」の記事(参考)


定家   三番目物 金春禅竹

北国に僧一行が、都に上り千本辺りで時雨が降り出し、庵で晴れ間を待つ間女が現れ、ここが定家卿の時雨亭と教え、蔦葛にまとわれた式子内親王の墓に案内する。内親王は定家との秘めた恋が世間に漏れ始めたため、二度と会わずにこの世を去ったが、定家は、思いは晴れず、死後の執心が蔦葛となって墓にまとわりついていると語り、自分こそ内親王と告げ、救いを求めて姿を消す。所の者が僧の問いに答えて定家葛の由来を語り、供養を勧めて退く。

その夜読経し弔っていると、痩せ衰えた内親王の霊が現れ、薬草喩品の功徳で呪縛が解け、苦しみが和らいだと喜び報恩の舞を舞い、再び墓の中に消えると定家葛がまとわりつく。
ワキ・ワキツレ 山より出づる北時雨、山より出づる北時雨、行ゑや定めなかるらん。

ワキ 是は北國より出たる僧にて候、我未だ都を見ず候程に、此度思ひ立都に上り候。
ワキ・ワキツレ 冬立つや、旅の衣の朝まだき、旅の衣の朝まだき、雲も行違遠近の、山又山を越過て、紅葉に殘る眺めまで、花の都に着にけり、花の都に着にけり。
ワキ 急候程に、是ははや都千本あたりにて有げに候、暫く此あたりに休らはばやと思ひ候。

ワキ 面白や比は神無月十日あまり、木々の梢も冬枯れて、枝に殘りの紅葉の色、所々の有樣までも、都の氣色は一入の、眺め殊なる夕かな、荒笑止や、俄に時雨が降り來りて候、是に由有げなる宿りの候、立寄り時雨を晴らさばやと思候。

シテ女 なふなふ御僧、其宿りへは何とて立ち寄り給ひ候ぞ
ワキ 唯今の時雨を晴らさむために立寄りてこそ候へ、扨ここをばいづくと申候ぞ
女 それは時雨の亭とて由ある所なり、其心をも知ろしめして立寄らせ給ふかと思へばかやうに申なり。

ワキ げにげに是なる額を見れば、時雨の亭と書かれたり、折から面白うこそ候へ、是はいかなる人の立置かれたる所にて候ぞ。
女 是は藤原の定家卿の建て置き給へる所なり、都のうちとは申ながら、心凄く、時雨物哀なればとて、此亭を建て置き、時雨の比の年々は、爰にて歌をも詠じ給ひしとなり、古跡といひ折からといひ、其心をも知ろしめして、逆縁の法をも説き給ひ、彼御菩提を御とぶらひあれと、勧め參らせん其ために、これまで顯れ來りたり
ワキ 扨は藤原の定家卿の建て置き給へる所かや、扨々時雨を留むる宿の、歌は何れの言の葉やらん
女 いや何れとも定めなき、時雨の比の年々なれば、分きてそれとは申がたし去ながら、時雨時を知るといふ心を、偽のなき世なりけり神無月、誰がまことより時雨れ初めけん、此言書に私の家にてと書かれたれば、若此歌をや申べき
ワキ 實あはれなる言の葉かな、さしも時雨は偽の、なき世に殘る跡ながら
女 人は徒なる古事を、語れば今も假の世に
ワキ 他生の縁は朽ちもせぬ、是ぞ一樹の陰の宿り
女 一河の流を汲みてだに
ワキ 心を知れと
女 折からに
同 今降るも、宿は昔の時雨にて、宿は昔の時雨にて、心すみにし其人の、哀を知るも夢の世の、實定めなや定家の、軒端の夕時雨、古きに歸る涙かな、庭も籬もそれとなく、荒れのみ増さる草むらの、露の宿りも枯れ/\に、物凄き夕べ成りけり、物凄き夕べ成りけり。

女 今日は心ざす日にて候ほどに、墓所へ參り候、御參候へかし。
ワキ それこそ出家の望にて候へ、頓而參らふずるにて候。
女 なふなふ是なる石塔御覧候へ
ワキ 不思議やな是なる石塔を見れば、星霜古りたるに蔦葛這ひ纏ひ、形も見えず候、是は如何なる人のしるしにて候ぞ
女 是は式子内親王の御墓にて候、又此葛をば定家葛と申候
ワキ 荒面白や定家葛とは、いかやうなる謂れにて候ぞ御物語候へ
女 式子内親王始めは賀茂の齋の宮にそなはり給ひしが、程なく下り居させ給しを、定家卿忍び/\御契り淺からず、其後式子内親王ほどなく空しく成給ひしに、定家の執心葛となつて御墓に這ひ纏ひ、互ひの苦しび離れやらず、共に邪婬の妄執を、御經を読み弔ひ給はば、猶々語り參らせ候はん。

同 忘れぬものをいにしへの、心の奧の信夫山、忍びて通ふ道芝の、露の世語由ぞなき。
女 今は玉の緒よ、絶えなば絶えねながらへば
同 忍ぶることの弱るなる、心の秋の花薄、穂に出初めし契りとて、また離れ/\の中となりて

女 昔は物を思はざりし
同 後の心ぞ、果てしもなき
同 あはれ知れ、霜より霜に朽果てて、世々に古りにし山藍の、袖の涙の身の昔、憂き戀せじと禊せし、賀茂の齋院にしも、そなはり給ふ身なれ共、神や受けずも成にけん、人の契りの、色に出けるぞ悲しき、包むとすれど徒し世の、徒なる中の名は洩れて、外の聞えは大方の、空恐ろしき日の光、雲の通路絶え果てて、乙女の姿留め得ぬ、心ぞ辛きもろともに

女 實や歎く共、戀ふ共逢はむ道やなき
同 君葛城の峰の雲と、詠じけん心まで、思へばかかる執心の、定家葛と身は成て、此御跡にいつとなく、離れもやらで蔦紅葉の、色焦がれ纏はり、荊の髪も結ぼほれ、露霜に消えかへる、妄執を助け給へや
地 古りにし事を聞からに、今日もほどなく呉織、あやしや御身誰やらむ
女 誰とても、亡き身の果ては淺茅生の、霜に朽にし名ばかりは、殘りても猶由ぞなき
地 よしや草場の忍ぶ共、色には出でよ其名をも
女 今は包まじ
地 この上は、われこそ式子内親王、是まで見え來れ共、まことの姿はかげろうふの、石に殘す形だに、それ共見えず蔦葛、苦しびを助け給へと、言ふかと見えて失せにけり、言ふかと見えて失せにけり

<中入>

ワキ・ワキツレ 夕も過ぐる月影に、夕も過ぐる月影に、松風吹て物凄き、草の陰なる露の身を、念ひの玉の數々に、とぶらふ縁は有難や、とぶらふ縁は有難や。
後女 夢かとよ、闇のうつつの宇津の山、月にも辿る蔦の細道
女 昔は松風蘿月に詞を交はし、翠帳紅閨に枕を並べ
地 樣々なりし情の末
女 花も紅葉も散々に
地 朝の雲
女 夕の雨と
同 古言も今の身も、夢も現も幻も、共に無常の、世となりて跡も殘らず、なに中々の草の陰、さらば葎の宿ならで、そとはつれなき定家葛、是見給へや御僧

ワキ 荒痛はしの御有樣やあらいたはしや、佛平等説如一味雨 随衆生性所受不同
女 御覽ぜよ身は徒波の立ち居だに、亡き跡までも苦びの、定家葛に身を閉ぢられて、かかる苦しび隙なき所に、有難や
シテ 唯今讀誦給ふは薬草喩品よなふ
ワキ 中々なれや此妙典に、洩るる草木のあらざれば、執心の葛をかけ離れて、佛道ならせ給ふべし
女 荒有難や、げにもげにも、是ぞ妙なる法のへ
ワキ 普き露の惠みを受けて
女 二つもなく
ワキ 三つもなき。
同 一味の御法の雨の滴り、皆潤ひて草木国土、悉皆成佛の機を得ぬれば、定家葛もかかる涙も、ほろ/\と解け広ごれば、よろ/\と足弱車の、火宅を出でたる有難さよ。この報恩にいざさらば、ありし雲井の花の袖、昔を今に返すなる、其舞姫の小忌衣

女 面無の舞の
地 あり樣やな
女 面無の舞の有樣やな

同 面無や面映ゆの、有樣やな
女 本より此身は
地 月の顏はせも
女 曇りがちに
地 桂の黛も
女 おちぶるる涙の
同 露と消えても、つたなや蔦の葉の、葛城の神姿、恥づかしやよしなや、夜の契りの、夢のうちにと、有つる所に、歸るは葛の葉の、もとのごとく、這ひ纏はるるや、定家葛、這ひ纏はるるや、定家葛の、はかなくも、形は埋もれて、失せにけり
※巻第十一 戀歌一 百首歌の中に忍恋を 式子内親王
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ることの弱る
※巻第四 秋歌上 百首歌に 式子内親王
花薄まだ露ふかし穂に出でばながめじとおもふ秋のさかりを
※第十五 戀歌五 和歌所の歌合に逢不遇戀のこころを 皇太后宮大夫俊成女 異本歌
夢かとよ見し面影も契りしも忘れずながらうつつならねば
※第十 羇旅歌 駿河の國宇都の山に逢へる人につけて京にふみ遣はしける 在原業平朝臣
駿河なる宇都の山邊のうつつにも夢にも人に逢はぬなりけり
※続古今集 小野小町
夢ならばまた見る宵もありなまし何中々のうつつなるらむ 
第八 哀傷歌 六條攝政かくれ侍りて後植ゑ置きて侍りける牡丹の咲きて侍りけるを折りて女房のもとより遣はして侍りければ 大宰大貳重家
形見とて見れば歎のふかみぐさ何なかなかのにほひなるらむ

(その十五)

八半.jpg

『蕪村全集五 書簡』所収「四一七 天明元~三年 夏 百池宛て」

 上記の書簡について、先に(「蕪村の絵文字・その一」)下記の(参考)とおり記した。しかし、『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』では、蕪村の恋の句関連の書簡として、概略、次のとおりの鑑賞をしている。

一 夏山はつもるべき塵もなかりけり

 この蕪村の句は、「君なくて塵つもりぬる床夏(とこなつ)のつゆ打ちはらひ幾夜寝ぬらん」(『源氏物語(葵)』)を背景としている。この歌は「常夏(とこなつ)」に「床(とこ)」を言いかけたもので、これは妻の葵の上を失った源氏の独り寝を「塵つもりぬる床」と表現したものである。
 また、「塵をだにすゑじとぞ思ふ咲きしより妹(いも)とわが寝(ぬ)るとこ夏の花」(『古今集』・巻三)の歌は、「塵のつもりぬる床」の逆で、「塵をだにすゑじ床」の意となる。
 これらの歌を背景とすると、上記の句は、「塵の積もるはずの独り寝の床にあって、その積もるはずの塵さえないほどに、悶々とした日々を送っている」ので、今日の遊びに「御誘引を賜りたい」と続くとの鑑賞のようである。

二 「池」「ち」「千」の羅列は、「百池→百ち→百千→百千鳥」の連想を誘っている

 俳諧入門書の『俳諧独稽古』に「三字中略は千鳥(ちどり)を塵(ちり)と取る」とあるように、「チドリ」の三字を中略して「チリ」を発句としている。蕪村のこの書簡は、この「賦物」形式を利用して、発句に「塵」を詠んで「千鳥」の名を暗示し、そこから、「百池→百ち→百千→百千鳥」の連想を誘っている。
(そして、蕪村の「千鳥」の句には、妓楼の情緒を含んでいるようなニュアンスなのである。以下は、『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』の引用ではなく、『蕪村全集一発句』所収「明和五年(一七六八)作『千鳥』の句」を挙げて置きたい。)

二六四 磯ちどり足をぬらして遊びけり
二六五 打(うち)よする浪や千鳥の横歩き
二六六 湯揚(あが)りの舳先(へさき)に立ツや村衛
二六七 風呂と見て小船漕(こぎ)よる千鳥哉
二六八 風雲のよすがら月のちどり哉
二六九 浦ちどり草も木もなき雨夜哉
二七〇 羽織着て綱もきく夜や河ちどり
二七一 むら雨に音行(ゆき)違ふ衛かな
二七二 ふられたる其(その)夜かしこき川千鳥
二七三 鳥叫(ない)て水音暮るゝ網代かな
二七四 わたし呼(よぶ)女の声や小夜ちどり
二七五 小夜千鳥君が鎧に薫(たきもの)す
二七六 鎧来て粥を汲む夜や村千鳥

 そして、橘南谿の『北窓瑣談』(文政十二年、一八二九)に、「加茂川の西岸三条辺に、冬のころ暫し住みしことのありしに、夜は川千鳥はなはだ多く啼く。久しく京に住みながら、かく千鳥の多きことを始めて知りたり」とあるように、鴨川には千鳥が群をなして鳴いていたのである。そうした鴨川の千鳥の情緒が、祇園の妓楼を包んでいたと言うのである。

※ 「蕪村の絵文字」ということで、「蕪村書簡」中の、「絵が描かれている書簡、謎を秘めているような書簡」などを見て来たが、そのスタート時点の、この書簡からして、上記の『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』のように、どうにも、「謎が謎を生んで行く」気配で無くもない。
 しばらくは「蕪村書簡」(蕪村の絵文字)にはのめり込まないことが肝要なことなのかも知れない(丁度「その十五」は、その「潮時」に相応しいのかも知れない)。

(参考) 蕪村の絵文字(その一)

 「半」を八つ書いて、「八半」=「夜半(蕪村)」の駄洒落。
 「池・ち・千」を「百」(「百」はない。「百」の意に使っているか?)書いて=「百池」の駄洒落。

  夏山やつもるべき塵もなかりけり   蕪村の句

 『蕪村全集一 発句』所収「二六六一の頭注」は、「夏山は澄みきった青空の下、深緑の偉容を見せている。『塵も積もって山となる』などという俗謡とは無縁に」と格調の高い解がなされている。
どうも、書簡の内容からすると、「夏山」を「百池」に見立てて、「百池さんや、夜半は、『塵も積もって山となる』の、その塵(お金)一つない、金欠病にかかっている」という駄洒落の句の感じが濃厚である。
 「雪居」は、百池の一族で、書簡からすると何か貰い物をした蕪村のお礼の文面のようである。
 「佳東」は、「佳棠」のことで、蕪村門の俳人且つ蕪村のパトロンの一人である。「書肆・汲古堂」の大檀那で、蕪村は、佳棠の招待で、京の顔見世狂言などを見物し、役者の克明な芸評などをしている書簡がある。
 蕪村門には、もう一人、八文字屋本の版元として知られている、「八文舎自笑」が居る。
「百墨・素玉・凌雲堂」などと号した。三菓社句会の古参で、蕪村門の長老格である。明和四年(一七六七)に父祖伝来の版権を他に譲渡し、わずかに役者評判記や俳書などを出版していた。蕪村没後の寛政初年(一七八九)の大火で大阪に移住して、文化十二年(一八一五)で没している。
 さて、冒頭に戻って、「池・ち・千」と、書簡の宛名の「百池」を、この三種類の字体で書いたのも、江戸座の「其角→巴人」の流れを汲む、俳諧師・蕪村ならではの、何かしらの謎を秘めている雰囲気で無くもない。どうも、「一文銭・四文銭・十文銭」(一文=二十五円?)とか「銭貨・銀貨・金貨」などと関係していると勘ぐるのは、野暮の骨頂なのかも知れない。