その七)江東区立芭蕉記念館の「芭蕉翁像」(蕪村筆)
先に(その一で)、蕪村が描いた芭蕉像は、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』では、下記の十一点が収録されていることについて触れた。
① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九作。金福寺蔵)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)
⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)
前回(その六)の金福寺の「芭蕉自画賛」(蕪村筆)は、上記の「③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九作。金福寺蔵)」である。
今回は、「① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)」について触れたい。
なお、『図説日本の古典14芭蕉・蕪村』所収「芭蕉から蕪村へ(白石悌三稿)」によると、上記の、金福寺の「芭蕉自画賛」(蕪村筆)に関連して、蕪村は、同時に、芭蕉像を他に二点ほど描いているということについて触れたが、この他の二点というのは、上記の「① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作)と「② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作)」を指しているのかも知れない。
そして、この三点のうち、①②は円筒型(丸頭巾型)の白帽子、③は長方形型(角頭巾型)の白帽子と、何れも白帽子であることが興味深い。
江東区立芭蕉記念館蔵「芭蕉翁像」(蕪村筆・部分)
『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「86『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。
絹本淡彩 一幅 九三・九×四〇・〇cm
款 「夜半亭蕪村拝写 干時安永己亥冬十月十三日」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛 下掲
安永八年(一七七九) 江東区立芭蕉記念館蔵
(賛)
(上段)
ほうらいに聞はやいせの初便
※花にうき世我我酒白く飯黒し
※ふる池やかはす飛こむ水の音
※ゆく春や鳥啼魚の目は泪
※夏ころもいまた虱をとりつくさす
※おもしろふてやかてかなしきうふね哉
※いてや我よき衣着たり蝉衣
さみたれに鳰のうき巣を見に行む
馬に寝て残夢月遠し茶の煙 ※※
此道を行人なしに秋のくれ
※名月や池をめぐりてよもすから
※はせを野分して盥に雨をきく夜かな
※世にふるもさらに宗祇のやとりかな
曙や白魚白き事一寸
寒きくや粉糠のかゝる臼のはた
としくれぬ笠着て草鞋はきなから
(中段)
杜牧か早行の残夢小夜の
中山にいたりて忽驚く
馬に寝て残夢月遠し茶の煙 ※※
三井秋風か鳴滝の山家をとひて
梅白しきのふや鶴をぬすまれし
伏み西岸寺任口上人をとふ
我衣にふしみのもゝの雫せよ
人の短を言事なかれ
おのれか長をとくことなかれ
もの云へは唇寒し秋の風
(下段)※※
早行残夢の句 一喝三嘆口吟しやむことあ
たはす されははしめに書したるを忘れて
又書す こいねかはくは其再復をとかむる
事なかれ 夜半亭(花押)
(説明)
上記の※の句は、「88『芭蕉像』画賛」にも記されている句である。※※の句は、蕪村が間違って、上段と中段に二度記しているものである。そして、下段の※※で、その間違ったことを記している。
これらの賛が、上記の上に、三段に分けて(上段・中段・下段)、記されている。
(その八)『蕪村(潁原退蔵著・創元選書)』口絵で紹介された「芭蕉翁像」(蕪村筆)
『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』で紹介されている、先に触れた「② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)」は、『蕪村(潁原退蔵著・創元選書)』口絵で紹介されたものである。
その「後記」で、「第二図(口絵の第二図)は蕪村筆の芭蕉翁像で、京都堀井静氏の蔵にかゝる。蕪村の筆になる芭蕉の像は、すでに知られたものがかなり多いが、これは本書によって初めて紹介された作である」と記されている。
初版発行は、昭和十八年(一九四三)一月二十日で、太平洋戦争の真っ只中の頃である。この年の十月、明治神宮外苑競技場で「学徒出陣壮行会」が挙行された年である。
この著の「序」(昭和十七年秋)で、「共に蕪村を語った若い友は、今召されて南支の野にある。もう間もなくこの書も世に出るであらう。友の武運のめでたさを祈りながら、まづ一本を遠く彼の野に送りたいと思つて居る」と記されている。
蕪村が、この「芭蕉翁像」を描いたのは、その落款に「安永己亥冬十月十三日写」とあり、安永八年(一七七九)十月十三日の作で、この落款の日付は、江東区立芭蕉記念館蔵の「芭蕉翁像」の「干時安永己亥冬十月十三日」と、全く同じ日の作ということになる。
さらに、金福寺蔵の「芭蕉翁像」の落款が、「安永己亥冬十月写」で、この三本の作品は、同一時の作品群と解して差し支えなかろう。
それにしても、その一本が、その制作時より一世紀半以上の時の経過の後に、謂わば、学徒出陣の若き学徒に捧げられたということは、名状しがたき感慨が去来して来る。
『蕪村(潁原退蔵著・創元選書)』口絵「芭蕉翁像」
『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「87『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。
絹本淡彩 一幅
款 「安永己亥冬十月十三日写 於夜半亭 蕪村拝」
印 一顆(印文不詳) 「春星」(白文方印)
賛 下掲
安永八年(一七七九)『蕪村』(創元選書)
(賛)
※ほうらいに聞はやいせの初便
※※花にうき世我我酒白く飯黒し
うぐいすの笠落したる椿かな
※※行春や鳥啼魚の目はなみだ
※※夏ころもいまた虱をとりつくさす
ゆふかほや秋はいろいろの瓢かな
※※おもしろふてやかてかなしきうふねかな
この辺目に見ゆるものみな涼し
杜牧か早行の残夢小夜の
中山にいたりて忽おとろく
※馬に寝て残夢月遠し茶の煙
※この道を行人なしに秋のくれ
※※はせを野分して盥に雨をきく夜かな
※※名月や池をめぐりて通宵
※※世にふるもさらに宗祇のやとりかな
海くれて鴨の声ほのかに白し
三井秋風か鳴滝の山家をとひて
※梅白しきのふや鶴をぬすまれし
伏見西岸寺任口上人を訪
※我衣にふしみのもゝの雫せよ
※さみたれに鳰のうき巣を見に行む
粟稗にまつしくもあらす艸の菴
※寒きくや粉糠のかゝる臼のはた
※としくれぬ笠着て草鞋はきなから
(説明)
上記の※の句は、「86『芭蕉像』画賛」にも記されているもの。※※の句は、「86『芭蕉像』画賛」と「88『芭蕉像』画賛」との両方に記されているものである。また、『蕪村(潁原退蔵著・創元選書)』も『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』とも、白黒の写真だが、この画は「絹本淡彩」であり、「86『芭蕉像』画賛」(絹本淡彩)と同じ日に制作されていることに鑑みて、それと同じ色調の淡彩仕上げのものであろう。
(その九)許六に倣った全身像の「芭蕉翁図」(蕪村筆)
『蕪村展(茨城県立歴史館 1997)』)所収「44芭蕉翁図」(蕪村筆)
平成九年(一九九七)十月十日から十一月十三日に茨城県立歴史館で開催された特別展「蕪村展」で、蕪村が渇望した百川筆「芭蕉翁像(「七〇 参考 芭蕉翁像 彭城百川筆 紙本墨画 )が初公開された、その図録中に、それと並列して、この「四四 芭蕉翁図」が収載されている。
その作品解説は次のとおりである
[ 蕪村は、多くの芭蕉翁図を描いたようで、『蕪村事典』(桜楓社) によれば、それらの総数十二点にも及ぶ。これは、蕪村の芭蕉翁図中最も優れた作品である。賛中の「これは五老井か図せる蕉翁の像なり」の五老井とは、森川許六のこと。芭蕉門下の俳人で、狩野派の画技にすぐれ、信頼に足る芭蕉画像を遺したという。その許六の芭蕉翁像に倣ったとあるから、芭蕉の風貌をよく伝える作品ということになる。なおこの作品については、「芭蕉翁図」について(一〇二頁)と、彭城百川が描く芭蕉翁像(七〇)も、併せて参照されたい。百川の描く僧衣をまとった芭蕉翁像に対し、蕪村は、唐服姿の芭蕉像を描いた。ついでながら、本作品とは顔の向きとその風貌のみを異なにし、他の構成をほぼ同じくする作品、「芭蕉翁立像図」(逸翁美術館蔵)が伝わることを付記しておきたい。 ]
この「作品解説」中の「『芭蕉翁図』について(一〇二頁)」は、「結城下館時代の蕪村について二、三」(茨城県立歴史館学芸員 北畠健稿)の「『芭蕉翁図』について」で、その内容は次のとおりである。
[ (前略) 蕪村書簡に、「愚老むかし関東に於て、許六が画の肖像に素堂の賛有之物を見申候 厳然たる真蹟 伝来正きものに候 其像之面相は 杉風が画たる像とは大同小異有之候 許六が画たるも 翁現世の時之画と相見え候 杉風・許六二画の内、いづれが真にせまり候や 無覚束候 愚老が今写する所は、右二子の画たる像を参合して写出候 (略) 」
と記されている。
ここで言う関東とは、江戸のことか、あるいは江戸以外の関東のことか分からないが、とにかく、関東において見た「芭蕉翁像」の記憶を基にして、今、自分の芭蕉翁像を描くという、非常に興味深い内容である。「芭蕉翁像」といえば、百川が描いた「芭蕉翁像」のことがよく取り沙汰されるが、蕪村は、許六の、さらには杉風の作品をも念頭において、「芭蕉翁像」を制作していたのである。許六は、最も信頼に足る「芭蕉翁像」を遺したことでも知られているから、その意味でも、蕪村の「芭蕉翁像」を再考して見る必要があるように思われる。また、関東時代にこのような優れた作品に接し、いよいよ、画嚢を豊かにしていたことをも窺わせる書簡ではある。 ]
ここに引用されている蕪村書簡は、安永末年(一七八〇)から天明三年(一七八三)の間と推定される、大津の俳人、(伊東)子謙宛てのものであるが、この書簡に出て来る「許六が画の肖像に素堂の賛有之物」は、現存していないようである(『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)』)。
また、「作品解説」中の、「本作品とは顔の向きとその風貌のみを異なにし、他の構成をほぼ同じくする作品、『芭蕉翁立像図』(逸翁美術館蔵)が伝わる」とされているが、この逸翁美術館蔵の「芭蕉翁立像図」は、次回(その十)で取り上げるが、細長い杖を片手に抱えている旅姿の芭蕉像で、この許六に倣ったとされる全身像の「芭蕉翁図」とは、「ほぼ構成を同じくする」ということについては、否定的に解したい。
ただ、賛の前書きと発句とは同じであるが、この許六に倣ったとされる「芭蕉翁図」は、その後書きに、「これは五老井か図せる蕉翁の像なり/句は めい月や池をくりて終夜 也/それを坐右の銘の句に書かへ侍る」とあり(逸翁美術館蔵「芭蕉翁立像図」には無い)、この後書きに、蕪村特有の「遊び心」が見え隠れしているということを付記しておきたい。
それは、蕪村の、この画を描いた許六と、それに賛をした素堂への挨拶句的なことと捩り句的なこととを包含した賛のように理解をしたいのである。
すなわち、「芭蕉翁の高弟・許六先生が描いた空を見上げている『芭蕉翁図』に、翁の盟友・素堂先生が、名月を見ていると解して、『めい月や池をめぐりてよもすがら』の賛をしているが、私(蕪村)は、この許六先生の『芭蕉翁図』に、素堂先生の名月ならず、翁の『座右之銘/人の短をいふことなかれ/おのれが長を説ことなかれの』の前書きがある『もの云へば唇寒し秋の風』の句を、その前書きともども、この図の賛にしたい。その心は、この翁は、『よけいなことをしゃべっている』わいと、ただ、『秋風が吹いて、唇が寒々としている』だけなのです・・・、と、『どうでしょうか、みなさん』・・・」と、其角→巴人→蕪村に連なる「江戸座」の、夜半亭蕪村の賛のように解したいのである。
なお、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「92『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。
紙本墨画 一幅半切 一三六・〇×三五・〇cm
款 「蕪村写」
印 「謝長庚」「春星氏」(白文連印)
賛 人の短をいふことなかれ
おのれか長を説ことなかれ
もの云へは唇寒し秋風
これは五老井か図せる蕉翁の像なり
句は めい月や池をめくりて終夜 也
それを坐右の銘の句に書かへ侍る
『蕪村遺方』