(その十)逸翁美術館蔵の「芭蕉翁立像図」(蕪村筆)
『蕪村・逸翁美術館品目録』所収「107芭蕉翁立像図」(白黒図)
『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「91『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。
絹本淡彩 一幅 九八・二×三二・〇cm
款 「夜半亭蕪村写」
印 「謝長庚」「春星氏」(白文連印)
賛 人の短をいふことなかれ
おのれか長をとくことなかれ
もの云へは唇寒し秋の風
逸翁美術館蔵
この「芭蕉翁立像図」と前回取り上げた許六に倣ったとされる「芭蕉翁図」とは、賛の前書きと発句は同じであるが、前者は細長い竹杖を抱えての旅装の芭蕉像、そして、後者は、空の一方を凝視している吟詠中の芭蕉像と、趣向も構成も異なっているものと解したい。
ここで、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に収録されている十一点について、
これまでに取り上げたものと、今後取り上げていく予定のものを記すと、次のとおりとなる。
① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)→(その七)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)→(その八)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九作。金福寺蔵)→(その六)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)→(その九)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)→(その十一)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)→(その十)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)→(その九)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)→(その十三)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)→(その十三)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)→(その十二)
⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)→ (その一)
これら十一図の芭蕉像(蕪村筆)を、七点の座像と四点の立像を区分けして、「蕪村の
描いた芭蕉(早川聞多稿)」(「国文学解釈と鑑賞837与謝蕪村―その画・俳二道の世界」所収)の中で、次のように指摘している。
「(これらの)七点の座像と四点の立像の間には明らかな相違があるやうに思へてくる。それは端的にいつて、座する芭蕉像がある安定感を醸し出してゐるのに対して、立ち姿の芭蕉像(二図は旅姿、二図は歩く姿)にはどこかに移り行く変化(へんげ)の感が漂つてゐる(注、図4→上記の⑤半身像→「その十一」で取り上げる)」。
そして、さらに、次のように続ける。
「さて四点の立ち姿の芭蕉像を見比べると、そのうちの二点(注、上記の『⑥ 全身蔵』と『⑦ 全身像』)が座像を含めた他の肖像画と大きく異なってゐる」として、その一つに、「賛の句が一句のみで、しかも両図とも同一句であるという点である。その賛とは、『人の短をいふことなかれ/おのれが長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風』といふもので」とし、その内の一点」の、上記の許六に倣ったとされる「⑦ 全身像」(前回に取り上げたもの)に触れている。
そこで、次のような見解を述べられている。
「虚空を見上げる芭蕉の視線の先に、芭蕉の座右の銘であった『人の短をいふことなかれ/おのれが長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風』といふ言葉があれば、見る者は自ずと自らの言動を省みることにならう。そして蕪村はこの芭蕉像を見るのが先づもつて当代の俳人たちであることを承知してゐた筈である。といふことは、蕪村が本図において賛を変へたのは、それが単に芭蕉の尊い人生訓だつたからだけではなく、暗に蕉風復興運動の風潮に対する批判と反省を表すためだつたやうに思われる。」
これらに関して、「蕪村が本図(「⑦全身像」)において賛を変へた」のは、蕪村の「許六と素堂への挨拶句的なことと捩り句的なことを包含した」もので、それは其角・巴人に連なる江戸座の「洒落風俳諧」の一端を利かせているものだということについては、前回で触れた。
さらに、それらに付け加えることとして、「蕉風復興運動の風潮に対する批判と反省を表す」ものというよりも、蕪村の夜半亭二世継承などを巡っての書簡(明和七年頃の几董宛書簡)に出て来る、「京師之人心、日本第一の悪性(京都の人心は日本一の悪性)」などの、一部の慇懃無礼な京都俳人への警鐘の意味合いも、この前書きのある句の賛の背後に潜ませているようにすら思えるのである。
このことは、芭蕉自身、元禄三年(一六九〇)四月十日付、此筋・千川(大垣藩士の蕉門の俳人)宛書簡で、「菰を着て誰人います花のはる」(芭蕉の「歳旦句」)に関連して、「京の者共はこもかぶり(乞食)の句を引付の巻頭に何事にやと申候由、あさましく候。例の通(とほり)、京之作者(京都の俳人)つくし(尽くし=尽きている)たる」との、京都人への非難を、今に遺している。
この芭蕉の、京都俳人への痛烈な非難の思いは、蕪村も等しく抱いていたことであろう。
ここで、『⑦ 全身像』(前回取り上げた)ではなく、「五老井(許六)図・素堂句」と関係の無い、ただ、「人の短をいふことなかれ/おのれが長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」の賛だけが同じの、冒頭の「芭蕉翁立像図」(上記の『⑥ 全身蔵』)を鑑賞すると、次のような総括的な思いを抱くのである。
なお、この「芭蕉翁立像図」は「絹本淡彩」で、他の「絹本淡彩」(「① 座像」「⑤ 半身像)」など)と同じ色調のものなのであろう。
一 蕪村の丹後時代に、その閲覧を渇望した百川筆「芭蕉翁像」(その二で取り上げている)と、その賛が全く同じで、この賛は、百川との関係を抜きにしては片手落ちになる。
二 蕪村の立像(上記の「② 半身像」「⑤ 半身像」「⑥ 全身蔵」「⑦ 全身像」)は、何れも、金福寺の芭蕉庵の再建と関連していて、その意味で、蕪村が金福寺に奉納した、上記の「③ 座像」の「芭蕉翁図」(その六)と何らかの関係を有しているように思われる。
三 上記の「芭蕉翁像」(十一点の座像と立像)は、主として芭蕉忌などにの俳筵興行などのもので、その俳筵の作法と、「人の短をいふことなかれ/おのれが長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」の賛は関係しているようにも思える。また、その背後には、当時の「蕉風復興運動」や「保守的な京都俳壇との葛藤」などの、俳諧師としての蕪村のアイロニカル的な視線も感じられる。
その十一)西岸寺任口上人を訪いての半身像の「芭蕉翁図」(蕪村筆)
『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村』展図録「102 松尾芭蕉図」
『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「90『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。
絹本淡彩 一幅 九六・二×三二・二cm
款 「蕪村拝写」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛
西岸寺任口上人を訪ひて
我きぬにふしみのもゝの雫せよ
ほとゝきす大竹原をもる月夜
はせを野分して盥に雨をきく夜哉
海くれて鴨の声ほのかに白し
あさよさにたれまつしまそかたこゝろ
個人蔵
『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村』展図録「102 松尾芭蕉図」の「作品解説」(石田佳也稿)は次のとおりである。
[ 蕪村が描いた芭蕉像は十点以上が知られるが、図様から座像と立像に大別される。このうち、立像はさらに足元までを描いた全身像と、腰あたりまでを描いた半身像に分けられる。ここでは道服に頭巾を被り、手は袂の中に入れる半身像で、頭陀袋を杖に結んで左肩に担いでおり、旅姿であることが強調されている。芭蕉を追慕する風潮から、俳諧師による旅や行脚が流行したこともあって、旅姿の芭蕉像への需要が高まったと推定されるが、本図の賛として選ばれた芭蕉の句の大半が、旅の途上で詠まれた句であることも注目される。「蕪村拝写と署名があり、「長庚」「春星」(朱白文連印)を捺す。 ]
上記の賛の一句目の前書き「西岸寺任口上人を訪ひて」は、『野ざらし紀行』では「伏見西岸寺任口上人に逢て」である。この任口上人は、東本願寺門下の京都伏見西岸寺第三代住職宝誉上人で、松江重頼門の俳人で、俳号は任口である。
芭蕉が門人千里(ちり)を伴って、『野ざらし紀行』の旅に江戸を出立したのは、貞享元年(一六八四)八月中旬、東海道を下り、伊勢を経て、九月八日に郷里上野に帰る。数日逗留して、大和・吉野・山城を美濃の大垣に谷木因を訪ねる。初冬、熱田に入り、名古屋で『冬の日(尾張五歌仙)』を巻き上げる。十二月二十五日に、再び上野に帰り、郷里で越年する。
明けて貞享二年(一六八五)二月に故郷を出て、奈良のお水取りの行事を見たのち、京都・大津に滞在する。二月下旬から三月上旬にかけて、京都(伏見)の任口上人を訪れたのであろう。
三月中旬過ぎに大津を立ち、熱田・鳴海で俳席を重ね、四月十日に鳴海を立ち、名古屋・木曽路・甲州路を経て月末に江戸に帰着する。この貞享元年から二年の九カ月に及ぶ旅の紀行が『野ざらし紀行』(別名『甲子吟行』)である。
上記の五句に創作年次などを付記すると次のとおりである。
西岸寺任口上人を訪ひて
我きぬにふしみのもゝの雫せよ(貞享二年・一六八五、四十二歳、伏見、『野ざらし紀行』)
ほとゝぎす大竹原(藪)をもる月夜(元禄四年・一六九一、四十八歳、嵯峨、『嵯峨日記』)
はせを野分して盥に雨をきく夜哉(延宝九年・一六八一、三十八歳、深川、『武蔵曲』)
海くれて鴨の声ほのかに白し(貞享元年・一六九四、四十一歳、尾張、『野ざらし紀行』)
あさよさにたれまつしまそかたこゝろ(元禄二年・四十六歳、松島を想う、『桃舐集』)
これらの五句を賛した蕪村の芭蕉像のイメージというのは、ずばり、芭蕉の「四十代」をイメージしてのものなのであろう。そして、それは、芭蕉七部集の第一撰集『冬の日』の時代をイメージしてのものなのであろう。そして、上記の五句目での、次の旅の「奥の細道」の「松島」の句を据えて、「漂泊の詩人・芭蕉」をイメージしているのであろう。
ここで、あらためて、この賛の冒頭の前書きの「西岸寺任口上人を訪ひて」の、この「任口上人」に焦点を当てたい。
この「任口上人」についての画像を、蕪村は、元文年間(二十年代前半)の作としている後賛詞(「元文のむかし余若干の時写したるものにして」)のある「俳仙群会図(一幅)」を今に遺している(この作品の制作時期については、丹後時代(四十代前半)とする説もあり、署名が「朝滄」、印が「丹青不知老死」で、丹後時代の作と解するのが妥当であろう)。
いずれにしろ、蕪村の「元文年間(二十年代前半)又は丹後時代(四十代前半)」に描いた芭蕉像(「俳仙群会図」中の芭蕉座像)と、この、蕪村の金福寺の芭蕉庵再興の頃(六十歳代)に描いたと思われる、この「芭蕉立像(半身像)」とは、「任口上人」を介しての、謂わば、姉妹編と解すべきことも可能であろう。
蕪村の「俳仙群会図」の俳人群像は、「守武・長頭丸(貞徳)・貞室・宗鑑・梅翁(宗因)・芭蕉・やちよ・嵐雪・其角・園女・おにつら(鬼貫)・支考・宋阿・任口」の十四人で、これらの俳人は、俳諧の祖の「守武・宗鑑」、そして、江戸前期の「貞門(貞徳・貞室)、貞徳(任口)、談林(宗因)、伊丹派(鬼貫)、蕉門(芭蕉。其角・嵐雪)、蕉門・江戸座(宋阿)、蕉門・美濃派(支考)、女流(園女・やちよ)」と、江戸中期の天明俳壇に位置する蕪村が、生前に面識のある俳人は、内弟子として仕えた蕉門・江戸座の其角系の俳人、宋阿(夜半亭一世・早野巴人)一人ということになろう。
そして、それ以外の面識のない十三人の俳人に関しては、すべからく、師の宋阿などを介しての情報・資料に基づいて、この「俳仙群会図」を描いたのであろう。この任口上人については、宋阿の師・其角の『雑談集』などに因るもののように思われる。
また、宋阿が興した夜半亭俳諧を蕪村が継承した明和七年(一七七〇)当時、京都の伏見には、「鶴英・柳女(鶴英の妻)・賀瑞(鶴英の娘)」などが中心になって、夜半亭俳諧の結社が出来ており、冒頭の「「芭蕉翁図」は、その伏見の連衆に懇望されて制作したものなのかも知れない。
というのは、蕪村没後の天明四年(一七八四)に、夜半亭三世となる几董は、蕪村追悼集の『から檜葉』を刊行するとともに、この任口上人の百年の祥忌に際して、伏見の西岸寺で伏見の俳人たち(賀瑞ら)と歌仙を巻き、それらを『桃のしづく』(半紙本一冊)として刊行している。
これらのことと、冒頭の「芭蕉翁図」、そして、画人蕪村のスタート地点の、芭蕉・宋阿・任口上人の座像を描いている「俳仙群会図」と、何処かしら結びついているような、そんな雰囲気を醸し出しているのである。
「俳仙群会図」(蕪村筆)部分図(柿衛文庫蔵)
右端・芭蕉、右手前・やちよ、中央手前・其角、中央後・園女
左端手前・任口上人、左端後・宋阿(夜半亭一世、蕪村は夜半亭二世)
その十二 暒々翁に倣った「芭蕉翁像」(蕪村筆)
『蕪村・逸翁美術館蔵品目録』所収「18芭蕉翁像」(白黒写真)
『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「102『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。
紙本淡彩 一幅 一一七・〇×三八・二cm
款 「倣暒々翁墨意 謝寅」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛 真率其性風 雅斯宗偉哉 此翁厥声無窮 従三位具選題
逸翁美術館蔵
上記の落款にある「倣暒々翁墨意 謝寅」の「暒々翁」とは、江戸中期の蕪村の次の世代の戯作者・浮世絵師として名高い「山東京伝」(本名は岩瀬醒《さむる》、江戸深川の生まれ、画号・北尾政演等々。錦絵だけではなく多くの戯作・狂言本などに挿絵を描いている)であろう。
蕪村が享保元年(一七一六)の生まれとすると、山東京伝は宝暦十一年(一七六一)の生まれ、両者の年の開きは四十五歳程度と、この落款の「倣暒々翁墨意」というのは、老翁の「俳諧師・挿絵画家・蕪村」が、新進気鋭の「黄表紙戯作者・挿絵画家・山東京伝(暒々翁)」の、「倣暒々翁墨意」との「新しい感覚」を期待してのものなのかも知れない。
蕪村の、この落款の「倣暒々翁墨意」の「暒々翁」(山東京伝)には驚かされるが、この賛をした人物の「従三位具選」(岩倉具選)にも驚かされる。
岩倉具選(ともかず)は、宝暦七年(一七五七)の生まれ、岩倉家七世の祖。公卿としては主に後桜町上皇に仕え、その院別当などを務めた。剃髪号可汲。詩文・書画を能くし、篆刻を、池大雅の朋友、高芙蓉に学んでいる。
蕪村との年齢差は、四十一歳の開きがあり、具選は山東京伝と同時代の、共に、江戸中期・後期の日本史の一角にその名を占めている人物である。
この一幅に関係している群像の、「松尾芭蕉・与謝蕪村・岩倉具選・山東京伝」と、実に豪華な顔ぶれなのである。どうしてこういうものが生まれたのか、興味深々たるものがある。
さて、この岩倉具選は、蕪村没後の天明八年(一七七八)に従三位に達して公卿に列し、寛政八年(一七九六)には蟄居となっている。とすると、この蕪村画に具選が賛をしたのは、天明八年(一七七八)から寛政八年(一七九六)の間ということになる。
とすると、堂上人・具選と、一介の町絵師兼俳諧師・蕪村とは、同じ京都に住んでいても、活躍する時代も違うことなどからして、面識はなかったと解するのが妥当であろう。
とすると、この一幅に関係している「松尾芭蕉・与謝蕪村・岩倉具選・山東京伝」の四人は、生前に何らかの面識なり交友関係はなかった解すべきなのであろう。
では、次に、この蕪村の「倣暒々翁墨意」とは何を意味し、そして、具選は、蕪村の、この落款をどのように解したかという謎なのである。
これは、江戸期に流行した絵入り娯楽本の「赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻」を背景にしているように思われる。
「赤本」は、芭蕉の時代(元禄期)に盛んであって、「昔話・絵解き」などの子供向けが多かった。続く「黒本」は。蕪村の時代(延享・宝暦期)に流行し、「軍記物・浄瑠璃・歌舞伎」などで、蕪村は、この「黒本」と次の「青本」とに深く関わっている。
「青本」(明和・安永期に盛んであった)は、「遊郭・滑稽・諧謔」物が増えてくる。この「青本」は、安永末期から天明期以降、知識層向け文芸作品を主とした「青本」とは別に、「洒落・滑稽・諧謔を交えて風俗・世相を漫画的に描き綴る」ところの「黄表紙」の時代となって来る。
この「黄表紙」時代のチャンピオンが「山東京伝」に他ならない。続く、「合本」というのは、蕪村は知らない文化元年(一八〇四)の頃から登場する、「黄表紙」の長編化したもので、その代表選手達が、「山東京伝・式亭三馬・十返舎一九・曲亭馬琴、柳亭種彦」等々である。
さて、この蕪村の「倣暒々翁墨意」とは、「倣暒々翁之『黄表紙』之墨意」と置き換えても良いのではなかろうかという仮説なのである。
山東京伝の「黄表紙」の挿絵というのは、「狂歌・狂句(川柳)」の言葉尻ですると「狂画(黄表紙)」と名付けても差し支えなかろう。この「狂歌・狂句・狂画」の「狂」とは、「正当」(雅)に対する「異端」(俗)を意味しよう。
蕪村は、しばしば、落款などに、「戯画・酔画」などの用語を用いているが、それを一歩進めて、「倣暒々翁墨意」とは、微温的な上方の「戯画・酔画」のそれではなく、俗に徹した江戸生まれの山東京伝らの「狂画」の世界をも摂取しようとしている、その心意気を示したものと理解をしたいのである。
具体的には、冒頭の黒白写真では、それらを判然と指摘することはできないのだが、その顔の表情などを見ると、目は二つの小さな点、それに比して、特徴の鼻など、全体として、ユーモラスの「芭蕉翁像」という印象を受けるのである。
それに比して、このユーモラスな俗調の「芭蕉翁像」に対する、篆刻の大家である具選の書は、何とも隷書体の高雅の世界のもので、その違和感を醸し出していると共に、また、そのアンバランスが、その画と書との余白と共に、独特の世界を形作っているように思われる。
ここで、具選は、蕪村の、この「芭蕉翁像」と落款・署名の「倣暒々翁墨意 謝寅」を、どのように解したかということについて触れて置きたい。
その前に、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に収録されている下記の十一点中、署名が「謝寅」になっているのは、この「⑩ 座像(左向き、褥なし、款『倣睲々翁墨意 謝寅』。逸翁美術館蔵)」だけなのである。
他の十点の署名は、「夜半亭蕪村」か「蕪村」かである。凡そ、これらの「俳画」(「俳諧物之草画」)の人物画に属する作品の署名は、「蕪村」と署名するのが通例であって、安永七年(一七七八)から没する天明三年(一七八三)の足掛け六年間の蕪村の晩年の栄光の画号である「謝寅」は、所謂、「謝寅書き」と称せられる、蕪村の傑作画に署名されるものというのが、一般的な理解であろう。
とにもかくにも、蕪村が、この片々たる一幅に、「謝寅」の署名をしたということは、少なくても、下記の十一点の「芭蕉像」の中では、蕪村が最終的に到達した傑作画に該当するものとして理解すべきものなのかも知れない。
そして、それは、晩年の芭蕉が到達した「軽み」(日常卑近な題材の中に新しい美を発見し、それを真率・平淡に表現する俳諧理念)の世界と軌を一にするものであって、その意味で、この「芭蕉翁像」は、蕪村の新境地の「軽み」の世界のものと鑑賞することも可能であろう。
そして、具選の賛の芭蕉をして「真率其性風」を、蕪村の、この「芭蕉翁像」の中に、蕪村の「真率其性風」を見て取ったのかも知れない。そして、具選は、この蕪村の署名の「謝寅」に万感の意を感じ取って、己の「真率其性風」の書体を以て賛をしたと解したいのである。
さらに、具選は、蕪村の落款の「倣暒々翁墨意」の「暒々翁」から、江戸で一世を風靡している「黄表紙」の世界を連想し、その「黄表紙」「青本」の特徴である、挿絵(狂画・戯画)と文(戯作)とが半分半分の体裁を取って、大きな余白を取り、江戸の「黄表紙」ならず、上方の「黄表紙」スタイルを意識してのもののようにも思われる。
① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)→(その七)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)→(その八)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九作。金福寺蔵)→(その六)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)→(その九)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)→(その十一)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)→(その十)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)→(その九)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)→(その十三)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)→(その十三)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)→(その十二)
⑫ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)→ (その一)
(追記)
「『倣暒々翁墨意 謝寅』の『暒々翁』とは、江戸中期の蕪村の次の世代の戯作者・浮世絵師として名高い『山東京伝』(本名は岩瀬醒《さむる》、江戸深川の生まれ、画号・北尾政演等々。錦絵だけではなく多くの戯作・狂言本などに挿絵を描いている)であろう」は、訂正する必要があるように思われる。
この「暒々翁」は、「松花堂照乗」(一五八四~一六三九)の別号である。「
暒々翁」は、「惺々翁」の誤記のようである。(『逸翁美術館・柿衛文庫編『蕪村(没後220年)』)所収「二五 蕪村筆芭蕉翁図」
松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう、天正10年(1582年) – 寛永16年9月18日(1639年10月14日))は、江戸時代初期の真言宗の僧侶、文化人。俗名は中沼式部。堺の出身。豊臣秀次の子息との俗説もある。
書道、絵画、茶道に堪能で、特に能書家として高名であり、書を近衛前久に学び、大師流や定家流も学び,独自の松花堂流(滝本流ともいう)という書風を編み出し、近衛信尹、本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」と称せられた。なお松花堂弁当については、その名が昭乗に間接的に由来するとする説がある
また、その賛の「従三位具選題」についても「銀青光緑大夫」 との括弧書きがある。