蕪村の奇想画(一~七)

その一 猫股

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(猫股)

 蕪村が、宝暦四年(一七五四)から七年(一七五七)にかけて寄寓していた京都・丹後・宮津・の見性寺の欄間に張られていたものと伝えられている『蕪村妖怪絵巻』(ブソンヨウカイエマキ)は、通常の蕪村画とは異質の「奇想画」と名付けても差し支えなかろう。
 その第一景は、「榊原の家臣稲葉六郎大夫と猫又(ネコマタ)」である。左側の文字は、「おれがはら(腹)のかわ(皮)をためして見おれ、にゃん、にゃん」とある。
 この「猫股」は、年をとった猫で、尾が二つに分かれ、時に化けて人に害をなすと恐れられている。この蕪村の奇想画は、彼の「戯画・酔画」のうちの、一つの余興的な作品なのであろうが、
蕪村の根っ子のところに、この系譜の「奇想画」に連ねるものが見て取れる。
 蕪村の三大俳詩の一つ「春風馬堤曲」(安永六年)に、破調の発句体の、次の句がある。

〇 古駅三両家猫児(ビョウジ)妻を呼(ヨブ)妻来(キタ)らず

その二 赤子

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(赤子)

 左側の人物が「林一角坊」、そして、「夜更けて数百人の足音して踊る体(テイ)に聞こえける故、襖を押し開け、伺いけるに、数千の赤子あつまりて、一角坊をなやまし」ている図である。この右側は「赤子」(妖怪)の群像である。
 この赤子(妖怪)は、大和国(現・奈良県)に伝わる妖怪らしい。この蕪村の「赤子(妖怪)」系列の、『ばけもの絵巻』(年代・作者不詳)もあるらしい。

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その四 産女の化物

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(産女の化物)

 右側に、「出羽の国 横手の城下 蛇の崎が橋 うぶめの化物」とあり、この図の次に、「関口五郎太夫」の図があり、その図に、「雨ふる夜、此のばけものに出合、力をさづけられるとぞ。其の後ゑぞか嶋合戦の時、其てがらあらわしけるとぞ。佐竹の家中にその子孫有」とある。
 蕪村の自叙伝の『新花摘』(安永六年作)にも、結城や宮津で狸に悪戯された話や、下館の狐の話が出て来るが、それと一緒に、秋田佐田家の家老、「梅津半右衛門ノ尉」(其角門の俳人・其雫=キダ)の四十七士討ち入りのことを報じた手紙の伝来記などが記されている。
 蕪村の「妖怪絵巻」の「産女の化物」は、その秋田佐田家地方の「産女の妖怪」と関わっているようである。
 死んだ妊婦をそのまま埋葬すると、「産女」になるという伝承は、日本の各地で様々な「産女・姑獲鳥(うぶめ・こかくちょう)」の妖怪ものを生んでいる。

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鳥山石燕『画図百鬼夜行』「姑獲鳥(うぶめ・こかくちょう)」

その三 ぬっぽり坊主

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(ぬっぽり坊主)

 「京か帷子が辻、ぬっぽり坊主のばけもの。目は鼻もなく、一つの眼、尻の穴に有りて、光ること稲妻のごとし」とある。
 ここで、蕪村の時代以後の『絵本百物語』((天保十ニ年刊)の「帷子の辻」を紹介して置きたい。それは、どうやら、「腐乱した高貴な女性の死体が見える妖怪談で、その女性が、カラスや犬に食われ、蛆が湧いていく、その様を見た人々が、うつつを抜かし行く」という図と、何やら、繋がっている感じなのである。
 とにもかくにも、この、蕪村の「ぬっぽり坊主」は、蕪村の「原風景」と深く関わるものなのであろう。

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『絵本百物語』所収「帷子の辻」

の五 銀杏の木の化物

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(銀杏の木の化物)

 この図の右側に、「鎌倉若宮八幡いてう(銀杏)の木のばけ者」と記されている。
蕪村のものは、『妖怪百物語絵巻(湯本豪一編著)』によると「老木の精霊を図像化」したものとされている。
 ここで、泉鏡花の「化銀杏(ばけいちょう)」の最終場面を掲載して置きたい。

【 諸君、他日もし北陸に旅行して、ついでありて金沢を過(よぎ)りたまわん時、好事(こうず)の方々心あらば、通りがかりの市人に就きて、化銀杏(ばけいちょう)の旅店?と問われよ。
老となく、少となく、皆直ちに首肯して、その道筋を教え申さむ。すなわち行きて一泊して、就褥(しゅうじょく)の後(のち)に御注意あれ。
 間(ま)広き旅店の客少なく、夜半の鐘声森(しん)として、凄風(せいふう)一陣身に染む時、長き廊下の最端に、跫然(きょうぜん)たる足音あり寂寞(せきばく)を破り近着き来(きた)りて、黒きもの颯(さと)うつる障子の外なる幻影の、諸君の寝息を覗うかがうあらむ。その時声を立てられな。もし咳(しわぶき)をだにしたまわば、怪しき幻影は直ちに去るべし。忍びて様子をうかがいたまわば、すッと障子をあくると共に、銀杏返(いちょうがえし)の背向(うしろむき)に、あとあし下りに入いり来りて、諸君の枕辺(まくらべ)に近づくべし。その瞬時真白なる細き面影を一見して、思わず悚然(しょうぜん)としたまわんか。トタンに件(くだん)の幽霊は行燈(あんどん)の火を吹消(ふっけ)して、暗中を走る跫音(あしおと)、遠く、遠く、遠くなりつつ、長き廊下の尽頭(はずれ)に至りて、そのままハタと留やむべきなり。
 夜(よ)はいよいよ更けて、風寒きに、怪者の再来を慮(おもんばか)りて、諸君は一夜を待(まち)明かさむ。
 明くるを待ちて主翁(あるじ)に会し、就きて昨夜の奇怪を問われよ。主翁は黙して語らざるべし。再び聞かれよ、強いられよ、なお強いられよ。主翁は拒むことあたわずして、愁然(しゅうぜん)としてその実を語るべきなり。
 聞くのみにてはあき足らざらんか、主翁に請いて一室(ひとま)に行ゆけ。密閉したる暗室内に俯向うつむき伏したる銀杏返の、その背と、裳もすその動かずして、あたかもなきがらのごとくなるを、ソト戸の透すきより見るを得(う)べし。これ蓋(けだし)狂者の挙動なればとて、公判廷より許されし、良人を殺せし貞婦にして、旅店の主翁はその伯父なり。
 されど室内に立入りて、その面おもてを見んとせらるるとも、主翁は頑として肯(がえん)ぜざるべし。諸君涙あらば強うるなかれ。いかんとなれば、狂せるお貞は爾来(じらい)世の人に良人殺しの面を見られんを恥じて、長くこの暗室内に自らその身を封じたるものなればなり。渠(かれ)は恐懼おそれて日光を見ず、もし強いて戸を開きて光明その膚(はだ)えに一注せば、渠は立処(たちどころ)に絶して万事休やまむ。
 光を厭(いとう)ことかくのごとし。されば深更一縷(いちる)の燈火(ともしび)をもお貞は恐れて吹消(ふっけし)去るなり。
 渠はしかく活(いき)ながら暗中に葬り去られつ。良人を殺せし妻ながら、諸君請う恕(じょ)せられよ。あえて日光をあびせてもてこの憐むべき貞婦を射殺(いころす)なかれ。しかれどもその姿をのみ見て面を見ざる、諸君はさぞ本意(ほい)なからむ。さりながら、諸君より十層二十層、なお幾十層、ここに本意なき少年あり。渠は活きたるお貞よりもむしろその姉の幽霊を見んと欲して、なお且つしかするを得ざるものをや 】

その六 夜なき婆

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(夜なき婆)

 右側に、「遠州のみつけの宿(現・静岡県磐田)、夜なきばゝ(婆)」とある。その左側に、男と女とが泣いている図があり、そこに、「その家にうれひ(憂い)あらんとする時、此のばけもの(化物)門口に来たりなきけるとなり。人又その声を聞きて思はずなみだ(涙)こぼしけるとぞ。かゝる事二三度に及びて、その家にかならず憂ひごと有りしと也」との文言がある。
 泣き女(なきおんな)または泣女(なきめ)または泣き屋(なきや)は、葬式のときに雇われて号泣する女性である。朝鮮の泣き女は夙に知られている。アイルランドやスコットランドに伝わる女の妖精(バンシー)の泣き声が聞こえた家では、近いうちに死者が出るとされている。

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泣女(妖精・バンシー)

その七 「真桑瓜の化物」と「西瓜の化物」

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(真桑瓜の化物)

 この図の右側に、「山城 駒のわたり 真桑瓜のばけもの」とある。これに対応して、次の「西瓜の化物」が、この絵巻の最終のものである。

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(西瓜の化物)

 この図の右側に、「大阪木津 西瓜のばけもの」とある。

 この両図を見比べると、「山城(京都) 駒のわたり(木津川の渡り)、真桑瓜のばけもの(化物)」と、「大阪(浪速) 木津(大阪市浪速区内) 西瓜のばけもの(化物)」との対比ということになる。

 もう一つ、「天王寺(浪速・大阪)」は、「蕪青(ブセイ・ブショウ・カブラ・カブ)」の産地で名が知れ渡っている。
然らば、この「妖怪絵巻」の作者、「蕪村」は、この「浪速(大阪)の「蕪」の産地の、「天王寺村」生まれに由来があるということを、暗示しているようなのである。

 それを暗示しているのは、国立国会図書館(デジタルコレクション)で公開している、『蕪村妖怪絵巻解説 : 附・化物づくし』(乾猷平著・北田紫水文庫)という貴重な文献である。

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国立国会図書館(デジタルコレクション)






蕪村の絵文字(十一~十六)

(その十一)

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『蕪村全集五 書簡』所収「四三四 安永末~天明三年 二十三日 おとも宛」柿衛文庫蔵

 末尾の「おともどのへ 用事」の「おとも」とは、蕪村の細君である。この書簡の内容は、「きのふより杉月(さんげつ)に居つゞ(続)けいたし」と、三本樹(木)の料亭、杉月楼に居続けて、「少々二日酔(ひ)」だというのである。
 そして、「けふ(今日)は東山へ参(まゐり)候」と、東山の句会に行くということらしい。
それで、「小袖・唐紙・硯箱・机の上の草稿一冊・十徳(俳諧師などが外出用に着した着物)・扇・煙草少々」を「佳棠(書肆汲古堂主人)」の「供寄せ申候」(供の者をそちらに立ち寄らせる)」から、「御越(遣)可被下候」(持たせてやって下さい)というのである。
 蕪村の亭主関白ぶりが目に見えるようである。

  身にしむやなき妻のくしを閨(ねや)に踏(ふむ)  (安永六年作)

 この句は、安永六年(一七七七)、蕪村、六十二歳の時の作とされている。それは几董の『丁酉之発句帖』(安永六年)中の「閨怨」と題する句とされていることに因る。
句意は「秋夜、暗い寝間の片隅でふと踏んだのは亡妻の櫛であった。なぜ今ごろこんな所にあったのだろう。今さらながら秋の夜の独り寝の寒さと無常の思いが身に沁みる。小説的虚構の句」(『蕪村全集一 発句(一八〇八)』)とある。

 蕪村が結婚したのは、丹後から帰洛して画名も漸く高まり、一応生活の安定が得られるようになった宝暦十年(一七六〇)、四十五歳の頃と推定されている。蕪村は晩婚で、蕪村よりもずっと年若の妻であったのであろう。
 名は、上記の書簡のとおり、「とも」といい、「とも」が亡くなったのは、金福寺の過去帳によると文化十一年(一八一四)のことで、蕪村没後三十年余も後のことである。蕪村との間に一女があって、名は「くの」(又は「きぬ(婚家先での名か)」)で、しばしば、蕪村書簡でその名が散見される。
 蕪村書簡によると、「くの」は、安永五年(一七七六)十二月に結婚して、その翌年の安永六年(一七七七)の五月には離婚している。この「くの」の離婚に関連しての蕪村の痛々しいほどの心痛を綴った几董宛ての書簡が今に遺されている。

「(前略) むすめ病気又々すぐれず候で、此方(婚家から蕪村宅へ)へ夜前(昨夜)引取養生いたさせ候。是等無拠(よんどころなき)心労どもにて、風雅(俳諧)も取失ひ候ほどに候。(後略)」(几董宛、安永六年五月)

「是等無拠(よんどころなき)心労どもにて、風雅(俳諧)も取失ひ候ほどに候」と、「風雅(俳諧)」どころではないというのである。蕪村は、この娘が離婚する一か月ほど前の、四月八日から、夏行(夏季に行われる僧侶の仏道修行の一つ)とし、一日十句の発句を作ることを志して、後半の文章篇と併せ自叙伝とも言うべき『新花摘』の執筆に取り掛かっている。
 その前半の発句篇の最後(廿四日)の前書きに、「此(この)日より所労のためよろずおこたりがちになり。発句など案じ得べうもあらねば、いく日(にち)もいたづらに過(すご)し侍る」と、上記書簡の文面と一致するような箇所がある。
 とすると、蕪村の『新花摘』は、其角の亡母追善を意図した『華(花)摘』に倣い、亡母追善(「五十回忌」説)の意図があるとされているが、それだけではなく、この「くの」の結婚そして離婚などと大きく係わっているのであろう(『新潮日本古典集成 与謝蕪村集《清水孝之校注》』所収「解説《『蕪村句集』と『新花つみ』の成立》」)。

 さて、ここで、上記の「小説的虚構の句」とされている「身にしむやなき妻のくしを閨(ねや)に踏(ふむ) 」は、妻「とも」との関連では、まさに、「小説的虚構の句」なのだが、当時、執筆していた『新花摘』の亡母や娘「くの」との関連ですると、薄幸な女性をイメージしてのものという捉え方は十分に成り立つであろう。

 さらに、冒頭の蕪村の亭主関白ぶりの書簡についてであるが、蕪村の芝居好きや茶屋遊びというのも、「老を養ひ候術(すべ)に候故(ゆえ)、日々少年行(漢詩の楽府題の一つ)、御察可被下候」(有田孫八宛・年代不詳・六月八日付)と、画業のスランプの脱出などと密接不可分のような思いを深くする。また、料亭などでの席画や依頼画の制作などで、画室外での作業なども多かったことであろう。

 そういう、当時の、画家そして俳諧宗匠を業として一家を支えている蕪村と、その画料等を唯一の家計としている「とも」との、この両者の信頼関係を抜きにしては、この書簡の真の背景を理解しているとは言えないであろう。

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(『新潮日本古典集成 与謝蕪村集《清水孝之校注》』所収「新花つみ」)
月渓筆「渭北文台ノ主トナレリ」の挿絵
左端 宗匠(点者)となった渭北(右江氏、淡々門、淡々の「渭北」を引き継ぎ、前号は「麦天」)、この宗匠(点者)のスタイルなどが、蕪村書簡の「小袖・唐紙・硯箱・机の上の草稿一冊・十徳」などと関係して来る。宗匠(点者)の前の机が「文台」、そして、宗匠(点者)になったことを証しする儀式のことを「文台開き」と言う。

(その十二)

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『蕪村全集五 書簡』所収「二九九 天明二年一月二十八日 堺屋三右衛門(百池)宛」個人蔵

 この表書きの「さかい(堺)屋三右衛門」は、寺村百池の屋号と通称である。書簡の内容は、なかなか意味深長のものがある。
 この「御細書之(の)おもむき(趣)至極御尤(ごもつとも)之御事二(に)候」の「御細書」とは、次に続く、「しばらく絶誹(俳)可然候」と「其外(そのほか)之遊興御つゝ(慎)しみ第一ニ御座候」とのことを指しているようである。
 この「しばらく絶誹(俳)可然候」とは、百池は、「しばらく俳諧(連句興行・句会の出席など)は止めたい」ということ、そして、「其外(そのほか)之遊興御つゝ(慎)しみ第一ニ御座候」ということは、「茶屋遊びなどは一切しない」ということに、百池の師の蕪村は、「御つゝ(慎)しみ第一ニ御座候」と、それが「尤もである」と、「百池」ならず、「さかい(堺)屋三右衛門」で、書簡を認めている。
 蕪村は享保元年(一七一六)生まれ、百池は寛延元年(一七四八)生まれで、二人の年齢差は、蕪村が三十二歳年長である。因みに、月渓は宝暦二年(一七五二)の生まれで、百池より四歳年下である。この百池と月渓とが、晩年の蕪村の秘蔵子と言っても良かろう。
 ここで、この書簡の日付の天明二年(一七八二)に注目したい。この年の月渓は池田で新年を迎え、剃髪して呉春と改号した年に当たる。そして、この年の五月に蕪村は『花鳥篇』を刊行する(蕪村編集の板下も蕪村が書いている)。
 この『花鳥篇』こそ、次の年が没年となる、蕪村の最晩年の「老いの華やぎ」の一瞬の結晶とも言うべき、そして、それは、束の間の「あだ(徒・婀娜)花」(はかなく散る実を結ばない桜花)のごときものと位置付けることも可能であろう。
 この『花鳥篇』に、晩年の蕪村が親しんだ、愛人とも言われている「小いと(小糸)」と同座して巻かれた連句(十二句)が収載されている。
 その表六句は次のとおりである。

 いとによる物ならにくし凧(いかのぼり)    大阪 うめ
  さそへばぬるむ水のかも河             其答
 盃にさくらの発句をわざくれて            几董
  表うたがふ絵むしろの裏             小いと
 ちかづきの隣に声す夏の月              夜半 
  をりをりかをる南天の花              佳棠 

 この発句の前に、「みやこに住(すみ)給へる人は月花のお(を)りにつけつつ、よき事も聞(きき)給(たまは)んと、いとねたくて 蕪村様へ、文のはしに申(まうし)つかはし侍(はべる)」という前書きがある。
 この発句の作者「うめ」は大阪新地の芸妓で、後に月渓の後妻となった女性である。月渓は、この前年の天明元年(一七八一)三月晦日に愛妻雛路を海難事故で亡くしている。その八月には実父が江戸で客死するという二重に不幸に遭遇し、蕪村の計らいで、蕪村門の長老の田福(京都五条の呉服商で百池の縁戚に当たる)の別舗が池田にあり、その二階を仮の住居として転地療養をしている。
 この『花鳥篇』にも、月渓の名は見られない。
さて、この発句の句意は、表面的には、「凧は大空に自由に高く舞い上がっているようで、実は見えない糸に頼っているというのは憎たらしい」というようなことである。そして、その背後に、四句目の作者「小いと」が蕪村の愛人であることを暗にほのめかしていて、それが、前書きの「みやこに住(すみ)給へる人=小いと」が「いとねたく」、そして、発句の「凧(蕪村様)がいと(小いと)に頼りきっているのは、憎たらしい」ということを利かしている。
 また、この句は、「糸によるものならなくに別れ路の心細くも思ほゆるかな」(『古今集』)の本歌取りの技巧的な句なのである。
 次の脇句の作者「其答」は、蕪村の後継者の「几董」を捩っての、蕪村の「変名」の感じなくもないが、歌舞伎役者沢村国太郎のようである(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著))。
句意は、「人を誘って、凧が舞い上がっている野辺に行くと、賀茂川の水も春らしくなっている」ということで、この「人を誘って」の「人」は、「小いと」を指しているのであろう。
 第三の几董の句は、発句・脇句の「凧の舞い上がる賀茂川の野辺に居て、盃を重ねながら、桜の発句を吟じたい」と、第三の「て留め」だが、実質的に、この句が発句的な意味合いもあるのだろう。
 四句目は、夜半亭一門で蕪村との仲が話題となっている「小いと(小糸)」の句である。「表うたがふ絵むしろの裏」と、俳諧の「表=表面的の世界」と「裏=背後に隠されている世界」と、そして、この句意は、「表の恋模様の絵筵の、その裏は、さてさて、どのようなものなのでしょうか」と、どうにも、手の込んだ句で、おそらく夜半翁(蕪村)が手入れしての一句なのであろう。
 その前句に対して、「ちかづきの隣に声す夏の月」と、ここは月の定座で、「夏の月が空にかかり、何やら近くの親しい隣家の声が聞こえてくる」というのである。この「近づき」は、勿論、この作者の「夜半」と「小いと」との「近づきの仲」を掛けてのものなのであろう
 表六句の折端の句は、茶屋遊びの指南役の佳棠の「南天の花」の「匂い」の付けである。
勿論、「夜半翁と小いととの関係は香しい匂いが立ち込めている」というのであろう。

 この「小いと(小糸)」の名は、安永八年(一七七九)頃の蕪村書簡から散見されるが、蕪村の方が積極的であったことは、天明元年(一七八一)五月二十六日付け佳棠宛書簡の次のような文面からも窺える。

「返す返す小糸もとめならば、此方よりのぞみ候ても画き申たき物に候。右之外之画ならば、何なりとも申し遣し候様御申し伝へ下さるべく候。」

 これは、小糸が「白練」(白の練り絹)に、蕪村の「山水画」を描いてくれと佳棠を仲介にして頼まれたのだが、小糸の着物に私の山水画はどうにも似合わないので、「右之外之画」(それ以外の画)ならば、「何なりとも申し遣し」下さいと「伝え下さるべく候」というのである。
 蕪村の小糸への一通りでない気持ちが伝わって来る。そして、それが次第に周囲の目にも余るものになってきたらしい。蕪村門人で川越候松平大和守の京留守居役の樋口家を継いだ儒学者の道立から諫言され、その諫言に対して、「小糸が情も今日限り候」との蕪村の返信の書簡が今に遺されている。
 さて、冒頭の「天明二年一月二十八日付け堺屋三右衛門(百池)宛て蕪村書簡」を見ると、「百池がしばらく俳諧を止め、茶屋遊びなどの遊興を止め、本業に専心する」ということに対しての、「御細書之(の)おもむき(趣)至極御尤(ごもつとも)之御事二(に)候」という蕪村の書簡は、当時の蕪村自身の、「俳諧は几董に任せ、茶屋遊びなどの遊興を止め、本業(画業)に専心する」という、六十七歳の賀を迎えた老翁・蕪村の実像なのかも知れない。

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『蕪村全集七編著・追善』所収「花鳥篇」=蕪村書・画「花ちりて身の下やみやひの木笠」

 この『花鳥篇』の「花」は「桜」、そして、「鳥」は「時鳥」を指している。もとより、季題の頂点を占める五個の景物(花・月・雪・時鳥・紅葉)の、その「花・時鳥」を書名にしていることは言うまでもない。
 そして、前半の「花桜帖」の末尾に、上記の「花ちりて身の下やみやひの木笠(夜半)」の句と挿絵(蕪村筆)が描かれている。ちなみに、後半は、「ほととぎすいかに鬼神もたしかに聞(きけ)」(宗因)の句ほ発句にして、脇句(蕪村)、第三(几董)と続く、夜半亭一門の歌仙(三十六句)が巻かれている。そして、その末尾に、慶子(中村富十郎)画の「時鳥」の挿絵が添えられている。
 この「花ちりて身の下やみやひの木笠(夜半)」の句には、次の前書きが添えられている。

「さくら見せうぞひの木笠と、よしのゝ旅にいそがれし風流はした(慕)はず、家にのみありてうき世のわざにくるしみ、そのことはとやせまし、この事はかくやあらんなど、かねておも(思)ひはか(図)りことゞもえはたさず、つい(ひ)には煙霞花鳥に辜負(こふ=そむく)するためしは、多く世のありさまなれど、今更我のみおろかなるやうにて、人に相見んおもて(面)もあらぬこゝちす」

 この前書きを踏まえると、芭蕉の「吉野にて桜見せうぞ檜木笠」(『笈の小文』)を踏まえての一句ということが察知される。句意は、「芭蕉から『桜見せうぞ』と呼びかけられた檜木笠は、花が散って、自分自身の陰が作る闇に沈んでいる。見る暇もなく散った花に、私の心はもっと暗い」(『蕪村全集一発句』所収「二二五一頭注」)。

 ここで、冒頭の天明二年(一七八二)一月二十八日の堺屋三右衛門(百池)宛書簡前後から、五月の『花鳥篇』出版までの蕪村の年譜を辿ると次のとおりとなる。

一月二十一日 春夜楼で壇林会(連句・発句会)に出席(几董『初懐紙』)。『夜半亭歳旦帖』の代わりに『花鳥篇』の刊行を計画。
一月二十八日 堺屋三右衛門(百池)宛書簡(百池の「俳諧を暫く休み、遊興を慎む」旨の書簡に返信)。
三月 田福らと念願の吉野の花見の旅をする(『夜半翁三年忌追福摺物(田福編)』、ここに「我此翁に随ひ遊ぶ事久し。よし野の花に旅寝を共にし」とある。また、「雲水 月渓」の長文の前書きを付した発句も収載されている。月渓は蕪村没後「雲水=行脚僧」であったのであろう)。 十七日 吉野の花見から帰洛(梅亭宛書簡)。
四月 金福寺句会(道立宛書簡)。
五月 『花鳥篇』出版

 この『花鳥篇』の前半の「花桜帖」には、「ナニハ うめ(梅女)」「女 ことの(琴野)」「女 小いと(小糸)」「女 石松」と、蕪村の馴染みの芸妓たちの句と共に、「慶子(中村富十郎)」「巴江(芳沢いろは)」「雷子(二世嵐三五郎)」「眠獅(嵐雛助)」「其答(沢村国太郎)」の役者、そして、江戸の「蓼太」、尾張の「暁台」等々と、誠に 華やかな顔触れの句が続き、その造本も凝りに凝った蕪村の趣向が随所に顕われている。
 しかし、この「花桜帖」の末尾を飾る「花ちりて身の下やみやひの木笠」の、この「身の下やみ」の、「蓑笠と身の陰の下の、この漆黒の闇」とは、ここに、蕪村の最晩年の「老いの華やぎ」と、その束の間の「あだ(徒・婀娜)花」と、その背後の、「滅びゆくものの、老愁と、老懶と、そして、寒々とした漆黒の闇」とが察知されるような、そんな思いを深くする。

(その十三)

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『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)』所収「一一八道立宛宛」

[ 青楼(遊里)の御意見承知いたし候。御尤もの一書、御句にて小糸(蕪村なじみの芸妓)が情も今日限(かぎり)に候。よしなき風流(甲斐もなき色恋)、老(おい)の面目をうしなひ申候。禁(きんず)べし。去(さり)ながらもとめ得たる句、御披判(ごひばん)可被下候。
妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ
 これ泥に入(いり)て玉を拾ふたる心地に候。此(この)ほどの机上のたのしびぐさに候。御心切(しんせつ)之段々、忝(かたじけなく)奉存候。
   四月廿五日                    蕪村
道立 君
 尚々(なおなお)枇杷葉湯一ぷく、あまり御心づけ被下、おかしく受納いたし候。 ]

 この書簡中の句、「妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ」は、安永九年(一七八〇)の几董編『初懐紙』に収載されている。そのことから、この書簡は「安永九年」の書簡と推定されている。
 その『初懐紙(几董編)』には、「正月廿日壇林会席上探題」のところに、「琴心挑美人(きんしんもてびじんにいどむ)」の前書きを付して、「妹が垣根三味線草の花咲きぬ」の句形で収載されている。
 この「琴心挑美人(きんしんもてびじんにいどむ)」とは、「司馬相如が富豪の娘で寡婦の卓文君に琴歌に託して意を通じ妻にした故事」(『蒙求・文君当壚』)を裏返し、琴を三味線に転換してのものとの解がある(『蕪村全集一発句』所収「二〇九四頭注」)。また、「昔見し妹が垣根は荒れにけりつばな交じりの菫のみして」(藤原公実『堀河院百首』)を踏まえての句のようである。
 句意は、「恋する人の垣根に、私の恋心を伝えるかのように三味線草の花が咲いている」というようなことであろう。そもそも、この句は小糸とは関係のないものなのだが、この書簡中に置くと、「恋する人の垣根(家)に、私の恋心を伝えるかのように三味線草の花ならず、小糸の三味線の音色が伝わって来る」というようなニュアンスになって来よう。

 そして、この句の創作年次の安永九年(一七八〇)を根拠にして、この書簡も同年のものと即断するのは、必ずしも正当とは言えないであろう。事実、天明二年(一七八二)五月の『花鳥篇』(「小糸と同座しての連句が収載されている」)刊行後の、最晩年の天明三年(一七八三)と推定しているものもある(『戯遊の俳人与謝蕪村《山下一海著》』)。

 ここで、この書簡の宛名の樋口道立について触れて置きたい。

 樋口道立は、元文三年(一七三八)生まれ、文化九年(一八一二)没。本名、樋口道卿、通称、源左衛門。別号に、自在庵・紫庵・芥亭など。明和五年(一七六八)版『平安人物志』の儒者の部に「源彦倫、字道卿、号芥亭、下立売西洞院東ヘ入町、樋口源左衛門」と掲載されている。『日本詩史』の著者江村北海の第二子で、川越候松平大和守の京留守居役の樋口家を嗣いだ。安永五年(一七七六)四月、道立の発企により、洛東金福寺内に芭蕉庵再興が企てられ、写経社会が結成されると管事となっている。蕪村との交遊は二十余年に及ぶが、蕪村門人というよりも蕪村盟友という関係が相応しい。天明元年(一七八一)五月に芭蕉庵は改築再建される。

 ここで、この書簡が出された年次について、金福寺内の芭蕉庵が改築再建された天明元年(一七八一)五月二十八日前の四月二十五日というのが浮かび上がって来る。
それは、この書簡の理解に最も相応しい『几董・月居十番句合(蕪村判)』の「老(おい)そめて恋も切なる秋の暮(几董)」に対する、蕪村が判定を下した次のものに、この書簡のニュアンスが最も近いということに他ならない。

[ 老(おい)初(そめ)て身のむかしだにかなしきといふにもとづき、恋ほど切なるものはあらじといへるに、老が身の事々物々に親切なる、況(いはんや)人のきくを憚るも「年過半百(白)不称意」(年半百ニ過ギテ意ニ称ハズ)といふがごとく、かく老が恋の切なれども、秋のくれのそゞろのものゝかなしき、「眇々悲望如思何」(眇々タル悲望思ウモ如何)ともの字をもて自問自答せるなり。  ]
『蕪村全集四俳詩・俳文』所収「評巻五蕪村判、几董・月居十番句合(天明元年)」

 ここで、前回の「天明二年(一七八二)」の年譜と合作すると次のとおりとなる。

(天明元年=一七八一)
四月二十五日 道立宛書簡(「青楼(遊里)の御意見承知いたし候。御尤もの一書、御句にて小糸(蕪村なじみの芸妓)が情も今日限(かぎり)に候」)。
五月二十八日 芭蕉庵改築再建に際し、芭蕉庵再興記を自筆に記して奉納する。
八月十四日 几董・月居の十番左右句合に判す「老(おい)そめて恋も切なる秋の暮(几董)」(『反古瓢』)。
(天明二年=一七八二) 
一月二十一日 春夜楼で壇林会(連句・発句会)に出席(几董『初懐紙』)。『夜半亭歳旦帖』の代わりに『花鳥篇』の刊行を計画。
一月二十八日 堺屋三右衛門(百池)宛書簡(百池の「俳諧を暫く休み、遊興を慎む」旨の書簡に返信)。
三月 田福らと念願の吉野の花見の旅をする(『夜半翁三年忌追福摺物(田福編)』、ここに「我此翁に随ひ遊ぶ事久し。よし野の花に旅寝を共にし」とある。また、「雲水 月渓」の長文の前書きを付した発句も収載されている。月渓は蕪村没後「雲水=行脚僧」であったのであろう)。 十七日 吉野の花見から帰洛(梅亭宛書簡)。
四月 金福寺句会(道立宛書簡)。
五月 『花鳥篇』出版

老いが恋.jpg

『蕪村全集四俳詩・俳文』(第四巻月報「老が恋・芳賀徹稿」所収)

 上記は、安永三年(一七七四)九月二十三日付大魯宛書簡の後半部分である。『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)』によると、次のとおりである。

[ 狐火の燃えつくばかりかれ尾花 
是は塩からき(趣向・技法の古くさい)様なれど、いたさねばならぬ事にて候。御観察可被下候。
几董会 当座 時雨
 老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな
  しぐれの句、世上皆景気(叙景の句)のみ案(あんじ)候故、引違(ひきちがえ)候ていたし見申候。「真葛(まくず)がはらの時雨」とは、いさゝか意匠違ひ候。
  右いづれもあしく候へども、書付ぬも荒涼に候故、筆之序(ついで)にしるし候。
  余は期重便(じゅうびんをごし)候。頓首
   九月二十三日          蕪村
大魯 様                      ]

 この書簡中の「真葛(まくず)がはらの時雨」というのは、慈円の「わが恋は松を時雨の染めかねて真葛が原の風騒ぐなり」(『新古今・巻十一』)を指し、その「風が吹いて葛が白っぽい裏を見せる、恨み(裏見)で心の落ち着かない恋心」と、「老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな」の「老(おい)が恋」とを、「時雨」が同じだからと言って、同じように取って貰っては困るというようなことであろう。
 とすると、この「老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな」の句は、先に紹介した『花鳥篇』の「花ちりて身の下やみやひの木笠」の「花ちりて」に近いもので、その背後に、式子内親王の「花は散りてその色となく詠(なが)むればむなしき空に春雨ぞふる」(『新古今・春下・一四九』)の、「花は散り=人生の終わり」「むなしき空=虚空」を意識している雰囲気で無くもない。
 同様に、「老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな」の「わすれんとすれば」の字余りは、式子内親王の「花は散りて」の字余りを意識してのものなのかも知れない。

  老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな(安永三年大魯宛書簡)
  妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ
       (安永九年『初懐紙《几董編》』・天明元年道立宛書簡) 
  花ちりて身の下やみやひの木笠(天明二年『花鳥篇』)

 蕪村が「老(おい)が(の)恋」を主題にしたのは、安永三年(一七七四)、五十九歳の頃である。爾来、没する天明三年(一七八三)、六十八歳までの、約十年間の主題であり続けた。
その間、冒頭の天明元年(一七八一)の道立宛書簡のように、「よしなき風流(甲斐もなき色恋)、老(おい)の面目をうしなひ申候。禁(きんず)べし」と自戒の書簡を認めることもあった。
 しかし、その書簡に記すが如き、「妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ」、それが、「泥に入(いり)て玉を拾ふたる心地に候。此(この)ほどの机上のたのしびぐさに候」と、この「老(おい)が恋」は、表面的には形を失せても、内面的には益々、蕪村の主題としてあり続けたのである。
 そして、そのエッポクメーキング(それを示す象徴的なもの)が、天明二年(一七八二)の『花鳥篇』なのである。
 そこに収載されている蕪村(夜半)の句は、「花ちりて身の下やみやひの木笠」、どうにも、「花ちりて」「身のしたやみ(闇)や」と、「名状し難き陰鬱」した「老(おい)が恋」なのである。
 しかし、その「名状し難き陰鬱」した「老(おい)が恋」の、その底流に流れているものが、実は、『花鳥篇』の中に、さりげなく記されている。

[ 寂(さび)・しをりをもはら(専)とせんよりは、壮麗に句をつくり出(いで)さむ人こそこゝろにくけれ。かの伏波将軍(ふくはしやうぐん)が老当益壮といへるぞ、よろずの道にわたりて致(おもむき)を一にすべし。古(いにしへ)、市河(川)栢筵(はくえん)、今の中むら(村)慶子などは、よくその道理をわきまへしりて、年どしに優伎(いうぎ)のはなやかなるは、まことに堪能(かんのう)の輩(ともがら)と云ふべし。  ]
『蕪村全集七編著・追善』所収「花鳥篇」

 ここに出て来る「伏波将軍(ふくはしやうぐん)」とは、『後漢書(馬援伝)』に出て来る馬援のことで、その馬援の言葉の「老当益壮(ろうとうえきそう)=老イテハ当(まさ)ニ益(ますます)壮(さかん)ナルベシ」こそ、蕪村の「老(おい)が恋」の底流に流れているものなのであろう。
 それは、実生活上でのものというよりも、芭蕉俳諧の「さび・しをり」に対して、蕪村俳諧は「壮麗」を目指したいという、蕪村の創作理念とも言うべきものなのであろう。
そして、その「壮麗」の具体例として、立役の名優二代目市川団十郎(俳号栢筵)と女形の名優初代中村富十郎(俳号慶子)の歌舞伎役者を挙げ、彼らは年齢に関係なく壮麗・華麗な優伎を現出させており、それを範とすべきと言うのであろう。

 この「老当益壮」の視点から、冒頭の「道立宛書簡」を読むと、蕪村の真意が明瞭となって来る。

一 「青楼(遊里)の御意見承知いたし候。御尤もの一書、御句にて小糸(蕪村なじみの芸妓)が情も今日限(かぎり)に候。よしなき風流(甲斐もなき色恋)、老(おい)の面目をうしなひ申候。禁(きんず)べし。」 → ご意見承知いたしました。
二 「去(さり)ながらもとめ得たる句、御披判(ごひばん)可被下候。
妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ   」 → 然しながら、その風流で得た句の、「妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ」を、
どうか、ご批判下さい。
三 「これ泥に入(いり)て玉を拾ふたる心地に候。此(この)ほどの机上のたのしびぐさに候。」→ この句は、泥の中から玉を拾ったような気持ちです。外出もせず、画室にて、この句より得た「「老当益壮」の「壮麗なる句そして画」を構想してるのが、今の楽しみであります。

 また、この「尚なお書き」の「枇杷葉湯一ぷく、あまり御心づけ被下、おかしく受納いたし候」からすると、道立の「御意見」というのは、当時の金福寺内の芭蕉庵再興という大きな懸案事項を抱えていて、「健康第一を旨として戴きたい」というようなことが包含されているような感じに受け取りたい。
 それに対して、「多情を戒める枇杷葉湯を頂戴し、これは、まさに俳諧(滑稽)です」というのは、蕪村と道立との信頼関係における成り立つ「遊び心」の表現なのであろう。

(補説一)

 上記の『花鳥篇』の「寂(さび)・しをりをもはら(専)とせんよりは、壮麗に句をつくり出(いで)さむ人こそこゝろにくけれ。(攻略)」について、『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』では、次のように記している。

これは蕪村の手で天明二年に刊行された『花鳥篇』に収める六十七歳の老蕪村の壮麗論である。芭蕉一門の「さび・しをり」に対して、蕪村はここで「壮麗」を対立理念として提唱した。その基本にあるのは「老当益壮」(老イテハマサニマスマス壮(さか)ンナルベシ)ということだ。門人の几董はこういう師の蕪村について、「もとより懶惰(らんだ)なりといへども、老イテハ当(まさ)ニ益々壮(さか)ンナルベシと、つねに伏波将軍の語をつぶやき」と言っている。『後漢書』馬援伝に見える言葉で、伏波将軍とはこの馬援のこと。蕪村の青春の詩は五十代から六十代にかけて花を咲かせた。蕪村が祇園の妓女小糸と、生涯で最も熱烈に恋をしたのは六十五歳から六十八歳の死までである。「老」という人生の喪(ほろ)びを前にした壮麗論だ。それは落日が黄昏(たそがれ)に近いがゆえに限りなく美しかったようにである。老いの喪びゆえに、壮麗な美しさを見せる落日の美学だ。(『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』所収「落日庵蕪村の詩論」)

(補説二)

上記の『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』中の、蕪村の「懶惰(らんだ)」そして「老当益壮」関連については、やはり、蕪村の最高傑作詩篇とされている、安永六年(一七七七)二月の春興帖『夜半楽』の三部作(「春風馬堤曲」・「澱河歌」・「老鶯児」)と、さらに、安永四年(一七七五)作の「うき我にきぬたうて今は又(また)止ミね」の「憂き我・老懶」などの関連で、再構築が必要となって来よう。その再構築(メモ)の一端を下記に掲げて置きたい。

一 蕪村の安永四年(一七七五)の「うき我にきぬたうて今は又(また)止ミね」の句は、芭蕉の「うき我をさびしがらせよかんこどり」(『嵯峨日記』)を、さらには、「砧打(うち)てわれをきかせよ坊が妻」(『野ざらし紀行』)を念頭にあったのことは言をまたない。

二 芭蕉は、「憂い・老懶」に、真っ向から対峙している。「閑古鳥」の鳴き声を、「ある寺に独(ひとり)居て云(いひ)し句なり」と、さらに、「さびしがらせよ」と一歩も退いていない。さらには、「憂い・老懶」の増すなかにあって、「砧を打ちてわれを聞かせよ」と、その「憂い・老懶」の正体を正面から凝視し、傾聴しようとしている。それに比して、蕪村は、日増しに増す「憂い・老懶」の日々にあって、芭蕉と同じように、「うき我にきぬたうて」としながらも、「今は又(また)止ミね」(今は又止めて欲しい)と、その「憂い・老懶」の中に身を沈めてしまう。

三 蕪村の安永五年(一七七六)の「去年より又さびしいぞ秋の暮」の句もまた、芭蕉の佳吟中の佳吟「この秋は何で年寄る雲に鳥」(『笈日記』)に和したものであろう(『蕪村全集(一)』)。芭蕉は、この芭蕉最後の旅にあって、その健康が定かでないなかにあって、「憂い・老懶」の真っ直中にあって、「何で年寄る」と完全な俗語の呟きをもって、「雲に鳥」と、連歌以来の伝統の季題の、「鳥雲に入る」・「雲に入る鳥」・「雲に入る鳥、春也」と、次に来る「春」を見据えている。

四 それに比して、蕪村は、芭蕉の「憂い・老懶」の「寂寥感」に耐えられず、「去年より又さびしいぞ」と、その「老懐」に、これまた身を沈めてしまうのである。そして、蕪村は、その翌年の春を迎え、その春の真っ直中にあって、「春もやゝあなうぐひすよむかし声」と、いよいよ、その「憂い・老懶」に苛まれていくのである。

五 さればこそ、この「憂い・老懶」を主題とする「老鶯児」の一句を、巻軸として、異色の俳詩、「春風馬堤曲」・「澱河歌」の二扁の序奏曲をもって、「華麗な華やぎ」を詠い、その後に、真っ向から、「憂い・老懶」の自嘲的な、「老鶯児」と題する、「「春もやゝあなうぐひすよむかし声」の一句を、この『夜半楽』の、「老い」の「夜半」の「楽しみ」としつつ、そして、いよいよ募る「憂い・老懶」に、「琴心挑美人(きんしんもてびじんにいどむ)」たる、「伏波将軍(ふくはしやうぐん)」の「老当益壮(ろうとうえきそう)=老イテハ当(まさ)ニ益(ますます)壮(さかん)ナルベシ」を以てしたのではなかろうか。

(その十四)

時雨.jpg

『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)』所収「二〇三後旦宛・口絵写真」(野村美術館蔵)

 書簡の全文は次のとおりである。

[ 貴墨辱(かたじけなく)拝覧。まことにきのふはおもひもよらぬしぐれにて、御立寄申候処、ゆるゆる御茶下(くだ)され、相たのしみ候。ことにこゝろよき御茶碗、銘は「霜夜」とやら、折から一しほおもしろく、今更存出候。帰路ますます、
(時雨の絵)
からかさ恩借かたじけなく候。其節の御ホ句おかしく。ワキを付申候。
  小しぐれに借す傘(からかさ)や神無月  後旦
   頭巾まぶかにまこと顔(がお)なる   蕪村
京極黄門の「よのまこと」よりおもひつゞけ候。
  (傘の絵) 御返却いたし候。
余は期拝眉(はいびをごし)可申残候。 以上
  上
後旦 様               夜半亭        ]

 ここに出て来る「後旦」は、京都の俳人で、蕪村が夜半亭を襲号した翌明和八年(一七七一)の春興帖『明和辛卯春(めいわしんぼうのはる)』(蕪村編)に、その名が出て来る俳人である。
 書簡の内容は、「時雨に遭って、思いがけずお寄りしたところ、お茶を頂戴し、その上、傘を借用いたし、有難うございました。その折の発句に脇句を付けました」というようなものである。
 この書簡中の「京極黄門」とは、京極中納言の藤原俊成の別称である。その「よのまこと」とは、「偽のなき世なりけり神無月たがまことよりしぐれそめけん」(『続御拾遺集・冬』)が、その背景にある。

これは、蕪村好みのドラマ(能、そして、歌舞伎の世界)なのである。

(以下)「定家・三番目物 金春禅竹」の記事(参考)


定家   三番目物 金春禅竹

北国に僧一行が、都に上り千本辺りで時雨が降り出し、庵で晴れ間を待つ間女が現れ、ここが定家卿の時雨亭と教え、蔦葛にまとわれた式子内親王の墓に案内する。内親王は定家との秘めた恋が世間に漏れ始めたため、二度と会わずにこの世を去ったが、定家は、思いは晴れず、死後の執心が蔦葛となって墓にまとわりついていると語り、自分こそ内親王と告げ、救いを求めて姿を消す。所の者が僧の問いに答えて定家葛の由来を語り、供養を勧めて退く。

その夜読経し弔っていると、痩せ衰えた内親王の霊が現れ、薬草喩品の功徳で呪縛が解け、苦しみが和らいだと喜び報恩の舞を舞い、再び墓の中に消えると定家葛がまとわりつく。
ワキ・ワキツレ 山より出づる北時雨、山より出づる北時雨、行ゑや定めなかるらん。

ワキ 是は北國より出たる僧にて候、我未だ都を見ず候程に、此度思ひ立都に上り候。
ワキ・ワキツレ 冬立つや、旅の衣の朝まだき、旅の衣の朝まだき、雲も行違遠近の、山又山を越過て、紅葉に殘る眺めまで、花の都に着にけり、花の都に着にけり。
ワキ 急候程に、是ははや都千本あたりにて有げに候、暫く此あたりに休らはばやと思ひ候。

ワキ 面白や比は神無月十日あまり、木々の梢も冬枯れて、枝に殘りの紅葉の色、所々の有樣までも、都の氣色は一入の、眺め殊なる夕かな、荒笑止や、俄に時雨が降り來りて候、是に由有げなる宿りの候、立寄り時雨を晴らさばやと思候。

シテ女 なふなふ御僧、其宿りへは何とて立ち寄り給ひ候ぞ
ワキ 唯今の時雨を晴らさむために立寄りてこそ候へ、扨ここをばいづくと申候ぞ
女 それは時雨の亭とて由ある所なり、其心をも知ろしめして立寄らせ給ふかと思へばかやうに申なり。

ワキ げにげに是なる額を見れば、時雨の亭と書かれたり、折から面白うこそ候へ、是はいかなる人の立置かれたる所にて候ぞ。
女 是は藤原の定家卿の建て置き給へる所なり、都のうちとは申ながら、心凄く、時雨物哀なればとて、此亭を建て置き、時雨の比の年々は、爰にて歌をも詠じ給ひしとなり、古跡といひ折からといひ、其心をも知ろしめして、逆縁の法をも説き給ひ、彼御菩提を御とぶらひあれと、勧め參らせん其ために、これまで顯れ來りたり
ワキ 扨は藤原の定家卿の建て置き給へる所かや、扨々時雨を留むる宿の、歌は何れの言の葉やらん
女 いや何れとも定めなき、時雨の比の年々なれば、分きてそれとは申がたし去ながら、時雨時を知るといふ心を、偽のなき世なりけり神無月、誰がまことより時雨れ初めけん、此言書に私の家にてと書かれたれば、若此歌をや申べき
ワキ 實あはれなる言の葉かな、さしも時雨は偽の、なき世に殘る跡ながら
女 人は徒なる古事を、語れば今も假の世に
ワキ 他生の縁は朽ちもせぬ、是ぞ一樹の陰の宿り
女 一河の流を汲みてだに
ワキ 心を知れと
女 折からに
同 今降るも、宿は昔の時雨にて、宿は昔の時雨にて、心すみにし其人の、哀を知るも夢の世の、實定めなや定家の、軒端の夕時雨、古きに歸る涙かな、庭も籬もそれとなく、荒れのみ増さる草むらの、露の宿りも枯れ/\に、物凄き夕べ成りけり、物凄き夕べ成りけり。

女 今日は心ざす日にて候ほどに、墓所へ參り候、御參候へかし。
ワキ それこそ出家の望にて候へ、頓而參らふずるにて候。
女 なふなふ是なる石塔御覧候へ
ワキ 不思議やな是なる石塔を見れば、星霜古りたるに蔦葛這ひ纏ひ、形も見えず候、是は如何なる人のしるしにて候ぞ
女 是は式子内親王の御墓にて候、又此葛をば定家葛と申候
ワキ 荒面白や定家葛とは、いかやうなる謂れにて候ぞ御物語候へ
女 式子内親王始めは賀茂の齋の宮にそなはり給ひしが、程なく下り居させ給しを、定家卿忍び/\御契り淺からず、其後式子内親王ほどなく空しく成給ひしに、定家の執心葛となつて御墓に這ひ纏ひ、互ひの苦しび離れやらず、共に邪婬の妄執を、御經を読み弔ひ給はば、猶々語り參らせ候はん。

同 忘れぬものをいにしへの、心の奧の信夫山、忍びて通ふ道芝の、露の世語由ぞなき。
女 今は玉の緒よ、絶えなば絶えねながらへば
同 忍ぶることの弱るなる、心の秋の花薄、穂に出初めし契りとて、また離れ/\の中となりて

女 昔は物を思はざりし
同 後の心ぞ、果てしもなき
同 あはれ知れ、霜より霜に朽果てて、世々に古りにし山藍の、袖の涙の身の昔、憂き戀せじと禊せし、賀茂の齋院にしも、そなはり給ふ身なれ共、神や受けずも成にけん、人の契りの、色に出けるぞ悲しき、包むとすれど徒し世の、徒なる中の名は洩れて、外の聞えは大方の、空恐ろしき日の光、雲の通路絶え果てて、乙女の姿留め得ぬ、心ぞ辛きもろともに

女 實や歎く共、戀ふ共逢はむ道やなき
同 君葛城の峰の雲と、詠じけん心まで、思へばかかる執心の、定家葛と身は成て、此御跡にいつとなく、離れもやらで蔦紅葉の、色焦がれ纏はり、荊の髪も結ぼほれ、露霜に消えかへる、妄執を助け給へや
地 古りにし事を聞からに、今日もほどなく呉織、あやしや御身誰やらむ
女 誰とても、亡き身の果ては淺茅生の、霜に朽にし名ばかりは、殘りても猶由ぞなき
地 よしや草場の忍ぶ共、色には出でよ其名をも
女 今は包まじ
地 この上は、われこそ式子内親王、是まで見え來れ共、まことの姿はかげろうふの、石に殘す形だに、それ共見えず蔦葛、苦しびを助け給へと、言ふかと見えて失せにけり、言ふかと見えて失せにけり

<中入>

ワキ・ワキツレ 夕も過ぐる月影に、夕も過ぐる月影に、松風吹て物凄き、草の陰なる露の身を、念ひの玉の數々に、とぶらふ縁は有難や、とぶらふ縁は有難や。
後女 夢かとよ、闇のうつつの宇津の山、月にも辿る蔦の細道
女 昔は松風蘿月に詞を交はし、翠帳紅閨に枕を並べ
地 樣々なりし情の末
女 花も紅葉も散々に
地 朝の雲
女 夕の雨と
同 古言も今の身も、夢も現も幻も、共に無常の、世となりて跡も殘らず、なに中々の草の陰、さらば葎の宿ならで、そとはつれなき定家葛、是見給へや御僧

ワキ 荒痛はしの御有樣やあらいたはしや、佛平等説如一味雨 随衆生性所受不同
女 御覽ぜよ身は徒波の立ち居だに、亡き跡までも苦びの、定家葛に身を閉ぢられて、かかる苦しび隙なき所に、有難や
シテ 唯今讀誦給ふは薬草喩品よなふ
ワキ 中々なれや此妙典に、洩るる草木のあらざれば、執心の葛をかけ離れて、佛道ならせ給ふべし
女 荒有難や、げにもげにも、是ぞ妙なる法のへ
ワキ 普き露の惠みを受けて
女 二つもなく
ワキ 三つもなき。
同 一味の御法の雨の滴り、皆潤ひて草木国土、悉皆成佛の機を得ぬれば、定家葛もかかる涙も、ほろ/\と解け広ごれば、よろ/\と足弱車の、火宅を出でたる有難さよ。この報恩にいざさらば、ありし雲井の花の袖、昔を今に返すなる、其舞姫の小忌衣

女 面無の舞の
地 あり樣やな
女 面無の舞の有樣やな

同 面無や面映ゆの、有樣やな
女 本より此身は
地 月の顏はせも
女 曇りがちに
地 桂の黛も
女 おちぶるる涙の
同 露と消えても、つたなや蔦の葉の、葛城の神姿、恥づかしやよしなや、夜の契りの、夢のうちにと、有つる所に、歸るは葛の葉の、もとのごとく、這ひ纏はるるや、定家葛、這ひ纏はるるや、定家葛の、はかなくも、形は埋もれて、失せにけり
※巻第十一 戀歌一 百首歌の中に忍恋を 式子内親王
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ることの弱る
※巻第四 秋歌上 百首歌に 式子内親王
花薄まだ露ふかし穂に出でばながめじとおもふ秋のさかりを
※第十五 戀歌五 和歌所の歌合に逢不遇戀のこころを 皇太后宮大夫俊成女 異本歌
夢かとよ見し面影も契りしも忘れずながらうつつならねば
※第十 羇旅歌 駿河の國宇都の山に逢へる人につけて京にふみ遣はしける 在原業平朝臣
駿河なる宇都の山邊のうつつにも夢にも人に逢はぬなりけり
※続古今集 小野小町
夢ならばまた見る宵もありなまし何中々のうつつなるらむ 
第八 哀傷歌 六條攝政かくれ侍りて後植ゑ置きて侍りける牡丹の咲きて侍りけるを折りて女房のもとより遣はして侍りければ 大宰大貳重家
形見とて見れば歎のふかみぐさ何なかなかのにほひなるらむ

(その十五)

八半.jpg

『蕪村全集五 書簡』所収「四一七 天明元~三年 夏 百池宛て」

 上記の書簡について、先に(「蕪村の絵文字・その一」)下記の(参考)とおり記した。しかし、『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』では、蕪村の恋の句関連の書簡として、概略、次のとおりの鑑賞をしている。

一 夏山はつもるべき塵もなかりけり

 この蕪村の句は、「君なくて塵つもりぬる床夏(とこなつ)のつゆ打ちはらひ幾夜寝ぬらん」(『源氏物語(葵)』)を背景としている。この歌は「常夏(とこなつ)」に「床(とこ)」を言いかけたもので、これは妻の葵の上を失った源氏の独り寝を「塵つもりぬる床」と表現したものである。
 また、「塵をだにすゑじとぞ思ふ咲きしより妹(いも)とわが寝(ぬ)るとこ夏の花」(『古今集』・巻三)の歌は、「塵のつもりぬる床」の逆で、「塵をだにすゑじ床」の意となる。
 これらの歌を背景とすると、上記の句は、「塵の積もるはずの独り寝の床にあって、その積もるはずの塵さえないほどに、悶々とした日々を送っている」ので、今日の遊びに「御誘引を賜りたい」と続くとの鑑賞のようである。

二 「池」「ち」「千」の羅列は、「百池→百ち→百千→百千鳥」の連想を誘っている

 俳諧入門書の『俳諧独稽古』に「三字中略は千鳥(ちどり)を塵(ちり)と取る」とあるように、「チドリ」の三字を中略して「チリ」を発句としている。蕪村のこの書簡は、この「賦物」形式を利用して、発句に「塵」を詠んで「千鳥」の名を暗示し、そこから、「百池→百ち→百千→百千鳥」の連想を誘っている。
(そして、蕪村の「千鳥」の句には、妓楼の情緒を含んでいるようなニュアンスなのである。以下は、『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』の引用ではなく、『蕪村全集一発句』所収「明和五年(一七六八)作『千鳥』の句」を挙げて置きたい。)

二六四 磯ちどり足をぬらして遊びけり
二六五 打(うち)よする浪や千鳥の横歩き
二六六 湯揚(あが)りの舳先(へさき)に立ツや村衛
二六七 風呂と見て小船漕(こぎ)よる千鳥哉
二六八 風雲のよすがら月のちどり哉
二六九 浦ちどり草も木もなき雨夜哉
二七〇 羽織着て綱もきく夜や河ちどり
二七一 むら雨に音行(ゆき)違ふ衛かな
二七二 ふられたる其(その)夜かしこき川千鳥
二七三 鳥叫(ない)て水音暮るゝ網代かな
二七四 わたし呼(よぶ)女の声や小夜ちどり
二七五 小夜千鳥君が鎧に薫(たきもの)す
二七六 鎧来て粥を汲む夜や村千鳥

 そして、橘南谿の『北窓瑣談』(文政十二年、一八二九)に、「加茂川の西岸三条辺に、冬のころ暫し住みしことのありしに、夜は川千鳥はなはだ多く啼く。久しく京に住みながら、かく千鳥の多きことを始めて知りたり」とあるように、鴨川には千鳥が群をなして鳴いていたのである。そうした鴨川の千鳥の情緒が、祇園の妓楼を包んでいたと言うのである。

※ 「蕪村の絵文字」ということで、「蕪村書簡」中の、「絵が描かれている書簡、謎を秘めているような書簡」などを見て来たが、そのスタート時点の、この書簡からして、上記の『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』のように、どうにも、「謎が謎を生んで行く」気配で無くもない。
 しばらくは「蕪村書簡」(蕪村の絵文字)にはのめり込まないことが肝要なことなのかも知れない(丁度「その十五」は、その「潮時」に相応しいのかも知れない)。

(参考) 蕪村の絵文字(その一)

 「半」を八つ書いて、「八半」=「夜半(蕪村)」の駄洒落。
 「池・ち・千」を「百」(「百」はない。「百」の意に使っているか?)書いて=「百池」の駄洒落。

  夏山やつもるべき塵もなかりけり   蕪村の句

 『蕪村全集一 発句』所収「二六六一の頭注」は、「夏山は澄みきった青空の下、深緑の偉容を見せている。『塵も積もって山となる』などという俗謡とは無縁に」と格調の高い解がなされている。
どうも、書簡の内容からすると、「夏山」を「百池」に見立てて、「百池さんや、夜半は、『塵も積もって山となる』の、その塵(お金)一つない、金欠病にかかっている」という駄洒落の句の感じが濃厚である。
 「雪居」は、百池の一族で、書簡からすると何か貰い物をした蕪村のお礼の文面のようである。
 「佳東」は、「佳棠」のことで、蕪村門の俳人且つ蕪村のパトロンの一人である。「書肆・汲古堂」の大檀那で、蕪村は、佳棠の招待で、京の顔見世狂言などを見物し、役者の克明な芸評などをしている書簡がある。
 蕪村門には、もう一人、八文字屋本の版元として知られている、「八文舎自笑」が居る。
「百墨・素玉・凌雲堂」などと号した。三菓社句会の古参で、蕪村門の長老格である。明和四年(一七六七)に父祖伝来の版権を他に譲渡し、わずかに役者評判記や俳書などを出版していた。蕪村没後の寛政初年(一七八九)の大火で大阪に移住して、文化十二年(一八一五)で没している。
 さて、冒頭に戻って、「池・ち・千」と、書簡の宛名の「百池」を、この三種類の字体で書いたのも、江戸座の「其角→巴人」の流れを汲む、俳諧師・蕪村ならではの、何かしらの謎を秘めている雰囲気で無くもない。どうも、「一文銭・四文銭・十文銭」(一文=二十五円?)とか「銭貨・銀貨・金貨」などと関係していると勘ぐるのは、野暮の骨頂なのかも知れない。


蕪村の絵文字(六~十)

(その六)

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『蕪村の手紙(村松友次著)』所収「一六 あらやかましのはいかいせんぎやな」

 『蕪村の手紙(村松友次著)』では、安永七年(一七七八)十一月十六日付け百池宛ての書簡としているが(上記の西暦=一七五一は誤記)、『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)岩波文庫』では、「暁台・士朗の冬期上洛の年と考え、安永七年と推定」としている。

 また、この書簡は、暁台(百池宛二通)と士朗(百池宛一通)の書簡、定雅の由来書、そして、蕪村筆の「時雨三老翁図」(田福・月渓・百池が時雨の中に立つ像を描き、各人が自筆で句を賛したもの)と共に一軸に合装してある(『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)岩波文庫』では「九七百池宛書簡」「参考資料一定雅由来書」「参考資料二百池宛暁台書簡」「参考資料三百池宛士朗書簡」「参考資料四百池宛暁台書簡」とその全容が収載されている)。

 さて、冒頭の百池宛蕪村書簡は、十一月十六日付け書簡の一部分なのであるが、その書簡中の「所詮、尾(び=尾張の意)と愚老(蕪村)とハ俳風少々相違有之」の「尾(び=尾張の意)」とは「尾張の加藤暁台」を指している。

 さらに、その書簡の中ほどに、「あらやかましのはいかいせんぎやな」(ああやかましい俳諧詮議やな)と、暁台は小うるさく理屈をこねくり回しているとの文言が出て来る。

 この書簡関連の経過は概略次のようなものである。

一 百池と士朗とが文音(手紙のやり取り)で連句を巻くことになり、発句・脇・第三が次のようなものであった。

発句 西山の棚曇りより時雨哉    百池
脇   火棚持出る活草の上     士朗
第三 雀百干飯の中をわたり来て   士朗

二 士朗より、この流れの書簡が来て、そこに、この発句の「哉」留めが、暁台師匠より「まずい」ということで、別途連絡があるということであった。

三 追っ付け、暁台から書簡があって、この発句では「棚曇り・より(方向のより)」の「から」の意に取れず、「棚曇り・より(比較の「より」)・時雨哉(時雨の方が良い)」ということになり、この「哉」を推敲するように指示があった。

四 それで、百池が蕪村の意見を求めたものの、蕪村の返信が上記の書簡なのである。そこで、蕪村は、百池に、次のようなことを伝えるのである。

1 蕪村俳諧と暁台俳諧とは、そもそも俳風が相違する。

2 暁台俳諧は、理屈の俳諧で、そういう指導があったら、「料簡次第に御直し」して置きなさい。

3 「西山の棚曇りより時雨来ぬ」などと直したら、これは「くそ(糞)のごとくニ候」で、「哉」の方が「留まり候事也」だが、「所詮とやかくと理屈をこるねほどの句ニても無之候」と突き放している。

4 しかし、理屈屋の暁台に、こんなことを伝えたら、「とんでもない」ことになるから、他言は「決して御無用」と念を押している。

五 最終的には、暁台と百池とのやり取りがあって、「西山のたな曇りより夕しぐれ」で、暁台の「夕字千金ニ御座候」と、決着するが、蕪村は、武家出身の体面を重んずる業俳(俳諧を業としている)の暁台の本質を見抜いていて、「面従腹背」の姿勢を貫いているのである。

 この蕪村と暁台とが、「芭蕉に帰れ」を旗印とした安永・天明時代の「中興俳諧再興」の数多き諸家の中でも二大支柱とされるのが常であるが、「暁台は遊女の風なり。人に思はるゝの姿をつくしたれと(ど)も、人の思ふ実情薄し」(『無孔笛・鈴木道彦編』)という評価は、蕪村の上記の書簡の評価と重なるものがあろう。

田福・月渓・百池.jpg

蕪村筆「時雨三老翁図」(左より「百池・月渓・田福」)=書簡と合装して一軸となっている。 

(その七)

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蕪村筆「時雨三老翁図」(左より「百池・月渓・田福」)・『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)岩波文庫』

 「時雨三老翁図」の左端の後ろ向きの人物が百池で、その上の百池の句(百池直筆)は「西山の棚曇よりしぐれ哉」、真ん中の人物が月渓で、その上の月渓の句(月渓直筆)は「其夢のかれ野も匂ふ小春かな」、そして、右端の人物は田福で、その上の田福の句(田福直筆)は「薄月夜山は霽(しぐれ)の影法師」である。

 田福(川田氏)は、享保六年(一七二一)の生まれ、蕪村より五歳年少で、蕪村門の長老格である。田福の川田家と百池の寺村家とは姻戚関係にあり、京都五条室町で呉服商を営み、摂津池田に出店があった。俳諧のほか、謡曲・蹴鞠・絵画をよくし、「識度超越・百事を解し・器物の鑑賞に長じていた」(川田祐作居士遺愛碣)と、超一流の教養人であったのであろう。
 月渓(松村氏)は、宝暦二年(一七五二)に京都堺町通四条下ルで生まれ、松村家は代々金座の重役で、月渓も若くして金座の平役を勤めている。後に、明和末年(一七七一)より画・俳共に蕪村に師事した。金座の廃止、妻と父の不慮の死などに遭遇し、天明元年(一七八一)より摂津池田に移り、田福の庇護を受けた。蕪村の信頼は厚く、「篤実の君子」「画には天授の才有之」などの蕪村が月渓を評した書簡が残されている。この上記の剃髪前の大たぶさを結った眉の太い月渓の風姿は、摂津池田に移り、田福の庇護を受けていた頃の雰囲気で無くもない(剃髪前の月渓像は唯一、この「時雨三老翁像」のみである)。
 百池(寺村氏)は、寛延元年(一七四八)に、京都河原町四条上ルの糸物問屋「堺屋」に生まれ、父は巴人門の酒白窓三貫、二代にわたり与謝蕪村に師事した。蕪村の百池に対する信頼はあつく、多くの百池宛書簡が伝わっている。他方、加藤暁台一派とも親しく、蕪村と暁台交友の接点ともなっている。俳諧のほかに、画を円山応挙に、茶を藪内比老斎に学んだ。

 この「時雨三老翁図」の左に「右 夜半亭蕪村翁戯画 門生百池證 印」の端書が書せられている。この蕪村戯画は、蕪村から百池に与えられ、百池が、自分の句を自書し、田福と月渓に、それぞれ句を自書して頂いたものなのであろう。
 蕪村は、田福と月渓の二人には、その横顔を描いて、百池だけは頭巾を被っての後ろ姿だけを描いたのは、これも蕪村の「抜け」(省略)的な俳諧化的な趣向なのであろう。しかし、この百池の後ろ姿だけを見ても、百池が家業にも俳諧にも、若くして棟梁的な雰囲気を漂わせているのは、やはり、蕪村の手練の為せる技なのであろう。

 さて、この百池の句が、安永七年(一七七八)十一月十六日付け百池宛ての書簡に関連する、百池宛士朗書簡(安永七年十一月八日付)に記載するところの、次の発句であることが面白い。
 すなわち、この百池の発句の「哉」を推敲するように指示した暁台とのやり取りで治定した「西山のたな曇りより夕しぐれ」ではなく、蕪村が、この「哉」で良しとする、その句形のままに、蕪村の戯画に、百池が自薦句として自書しているところに興味が惹かれる。

発句 西山の棚曇りより時雨哉    百池
脇   火棚持出る活草の上     士朗
第三 雀百干飯の中をわたり来て   士朗

(その八)

几董宛書簡.jpg

『蕪村の手紙(村松友次著)』所収「一九 へんしう(偏執)多き人心」

 『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)岩波文庫』では、「一三〇几董宛(安永九年)」に、その全文が収載されている。

 上記の書簡中の、「只さへへんしう(偏執)多き人心(ひとごころ)に候」というのは、「只でさえ偏見我執の多いのが人間の常ですが」というような意で、次の「こと更(さら)尾(び)の輩などハ何がな疵(きづ)を見出し候にてあしざまニ沙汰せんと、手ぐすミいたし居(をり)候おもむきニ候」に掛かるのであろう。

 この「尾(び)」とは、暁台の尾張俳壇を指していることは言うまでも無い。暁台と几董では、十歳程度、暁台が年長である。そして、几董は、夜半亭二世蕪村が、その生前に夜半亭三世を継ぐことを宣言している、巴人→蕪村と続く「夜半亭俳諧」の正統な継承者なのである。

 蕪村が没したのは、天明三年(一七八三)十二月二十五日の未明、明けて天明四年(一七八四)の春、几董は、蕪村追悼集『から檜葉(几董編)』を刊行し、その十二月二十五日に、『蕪村句集(几董撰)』を刊行する。

 さらに、天明五年(一七八五)に、夜半亭二世与謝蕪村が、生前に、師の夜半亭一世早野巴人の『一夜松』に倣い『続一夜松』を編纂しようとして叶わなかったことに思いを致し、義仲寺で薙髪して江戸に下り、当時の日本俳壇のトップに位置していた大島蓼太の推薦を得て、夜半亭三世を継承し、その冬に、『続一夜松』(『前集』「序」=蓼太、「跋」=自跋、『後集』「序」=重厚、「跋」=道立、『後集』の刊行=天明六年)を刊行し、それらを北野天満宮に奉納する。

 ここに、名実共に、夜半亭俳諧は、二世蕪村から三世几董へと引き継がれることになる。
この夜半亭俳諧の継承には、蓼太と共に大きな勢力を形成していた暁台との関わりは見られない。その背景には、蕪村の、この冒頭の書簡に見られる、暁台俳諧に対する名状し難き感情の縺れが、蕪村の継承者の几董へと引き継がれている思いを深くする。

 安永二年(一七七三)当時の、蕪村が暁台と初めて接した頃は、蕪村は暁台を「百世の知己」「実にはいかい(俳諧)の伯楽」「丁寧家懇情の人」とまで評価し、期待をかけていたのだが、この書簡の安永九年(一七八〇)の頃には、「へんしう(偏執)多き人心/こと更(さら)尾(び)の輩」と不信感を露わにしている。

 この不信感は、「暁台を批判する蕪村書簡」(大阪俳文学会会報第二十号、昭和六一年九月)になると、「なごや(名古屋)のはいかい(俳諧)けしからぬ物に相成候」「いやみの第一」「むねの悪き事」「目も当らぬ次第にて候」「暁台もいけぬものに候」とまで増大して来る。

 しかし、表面的には、この蕪村の暁台に対する不信感は顕現化せず、天明元年(一七八一)十月には、蕪村は暁台編の『風蘿念仏』の「序」を書き、亡くなる天明三年(一七八三)三月の「洛東安養寺及び金福寺における暁台主催芭蕉百回忌取越し追善俳諧興行」に全面的に支援し、蕪村の夜半亭一門と暁台の尾張一門との交流は絶えることはなかったのである。

 そして、その年の暮れ、十二月二十五日に蕪村が没するや、明けて天明四年(一七八四)一月二十五日、暁台は尾張より急遽上洛して、洛東金福寺の本葬に参列し、追悼の辞を草する共に、夜半亭一門との一順歌仙を霊前に手向けているのである。

 この蕪村の夜半亭一門と暁台の尾張一門との交流の影の立役者は、蕪村と暁台の両巨匠に絶大なる信頼があった、寺村百池の存在を抜きにしては考えられないであろう。それは、蕪村没後も、暁台の信任は厚く、また、蕪村の後継者几董亡き後も、同門中で重きを成している一事を取っても、容易に窺がい知れるところである。

 それは、「堺屋」を背景とする豊富な財力や経営力と共に、自筆の『大来堂句集(十一巻)』に見られる穏健清雅な句風、そして、蕪村の句稿をまとめた「落日庵句集」「夜半叟句集」、さらには、夜半亭一門の句筵控えの「夏より」「高徳院発句会」「月並発句集」「紫狐庵発句集」「耳たむし」などの稿本(『蕪村全集三 句集、句稿・句会稿』に収載されている)などを目にする時、蕪村と蕪村一門の俳諧の中で、百池が果たした役割というのは、想像を絶するものがある。

 百池は、晩年薙髪して「紹賀・大来堂・微雨楼・九隠斎・閑柳亭・竹外」などと号したが、その晩年の百池像は下記のとおりである。

寺村百池肖像2.jpg

(晩年の薙髪後の「寺村百池肖像」=早稲田大学図書館蔵)

(その九)

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『蕪村の手紙(村松友次著)』所収「六 京師之人心、日本第一之悪性」

 『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)岩波文庫』では、「三几董(推定)宛(日付なし)」に、その全文が収載されている。
 この書簡の中ほどに、「名角(なにか)ニ付(つけ)京師之人心(けいしのじんしん)、日本第一之悪性(あくしやう)ニ而(て)候」という文言が出て来る。意味は、すばり「何かにつけて京都の人間の心は日本第一の悪性(悪い性質)であります」と、蕪村の強烈な京都人への痛罵なのであろう。
 この蕪村の書簡は、蕪村が夜半亭二世を襲名し、俳諧宗匠の仲間入りをした、明和七年(一七七〇)三月以降の、その蕪村の夜半亭継承に関連する書簡のようである。
 冒頭の「御細書(さいしよ)御厚意之趣(おもむき)相心得候」というのは、「細々としたお手紙、私(蕪村)に対するお心遣いよく承知しました」ということで、「蕪村が夜半亭二世を継承したのは、若い几董に夜半亭三世を継承させるための繋ぎ役なのだ」ということについては、「夜半亭社中で不満に思っている方がおられますから、その点の御配慮をお願いします」というような、几董の書簡の返信のようなのである。
 それに対して、「社中ニ左様之不平をいだき被申候(まうされさうらふ)仁(じん=人)、たれ(誰)ニ而(て)候哉(や)」と、「その不満をいだいている人とは誰なんだ」として、「京師之人心、日本第一之悪性」という文言が続くのである。
 そして、この書簡の後半に、「何ぞ可焉(かえん)・来川(らいせん)が輩」と、「夜半亭一世(郢月泉)早野巴人」に連なる古参俳人の「可焉(上阪氏)」と「来川(来川庵小川由至)」との名が出て来る。

 ここで出て来る「可焉(上阪氏)」は、現在、早野巴人の唯一の墓(詣墓=まいりばか)である京都の俗称椿寺で知られている昆陽山地蔵院の「宋阿早野巴人墓」の建立者なのである。
 夜半亭宋阿(早野巴人)は、寛保二年(一七四二)六月六日、江戸日本橋石町で没する(享年六十七)。当時、宰鳥を名乗っていた門人蕪村は二十七歳の夏である。宋阿(巴人)は浅草幡随院門前の即随寺に埋葬された。その即随寺は、文政年間の火災及び関東大震災によって打撃を受けて、千葉県市川市に移転していて、過去帳は遺っているようだが、墓碑は不明のようである(『与謝蕪村の俳景―太祇を軸として― 谷地快一著・新典社』所収「京都の早野巴人墓碑覚書―俳諧寺可焉と蕪村」)。
 寛政九年(一七九七)刊行の『誹諧家譜後拾遺』で、可焉について「明和九年(一七七二)九月十三日没 年七十五」とか(『谷地・前掲書)、それで生年を逆算すると、元禄十年(一六九七)生まれ、彭城百川と同じ年ということになる。いずれにしろ、蕪村よりも相当年配な、京都在住時代の早野巴人門下の一人であることは間違いない。
 宋阿(巴人)が江戸を出立して上洛したのは、享保十年(一七二五)の、五十歳の頃で、再び、江戸に帰って来たのは、元文二年(一七三七)、六十二歳の時である。従って、宋阿(巴人)の関西(主として京都)移住は、十二年間程度で、この京都時代に、宋屋(富鈴)と几圭(宋是)とが、巴人門の高足である。
 宋屋は、望月氏、初め百葉泉・富鈴・机墨庵などを号とした。宋阿(巴人)帰東後は一門を率いて、淡々系俳家など他流と広く交際し、京俳壇の一方の雄となっている。門人も多く、嘯山(三宅氏)・武然(望月氏)・蝶夢(睡花堂・五升庵・泊庵)など、宋屋後もそれぞれ一派を成している。
 几圭は、高井氏、庵号は郢月居(巴人の庵号の郢月泉と関係があるか)、薙髪して宋是を名乗る(これも巴人の別号の宋阿と関係があるか)。蕪村の後継者となる几董は、几圭の次男で、几董の初号は雷夫である。
 京都椿寺の地蔵院に在る「宋阿早野巴人墓」の建立者の可焉は、宋屋よりも几圭に近い俳人のように思われるが、蕪村が夜半亭二世を継承した明和七年(一七七〇)当時には、宋屋(明和三年=一七六六没)も几圭(宝暦十年=一七六〇)も亡き京都の巴人門の中では、最古参の俳人の一人だったのであろう。
 そして、蕪村は、「愚老ひろめの事(文台開きの事=宗匠になったことを世間に知らせる儀式)も、滞りなく相済み候間、御安心下さるべく候」(明和七・一七七〇年三月二十二日付の召波宛書簡)と、宋阿(巴人)没後二十八年の後に、夜半亭誹諧が京都で蘇ったのであるが、その夜半亭継承に関連しては、いろいろと複雑なことがあったのであろう。
 この蕪村が夜半亭誹諧を継承した明和七年(一七七〇)から可焉が没した明和九年(一七七二)の、この二年間という短い期間前後に、可焉は、「宋阿(巴人)敬慕の墓守を自らに命ずる意味で俳諧寺を名乗り、詣墓を建てた」とする推測も十分に成り立つであろう(『谷地・前掲書)。
 なお、この可焉について、『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)岩波文庫』では、
「安永三年=一七七四没」「上坂(『誹諧家譜後拾遺』)氏は上阪氏の表記」と、『誹諧家譜後拾遺』とは違った記述をしている。

 ここで、明和七年(一七七〇)の蕪村の夜半亭継承について、別な観点からすると、次のような環境にあったということが言えるであろう。

一 宋阿(巴人)俳諧の継承者の第一は、宋屋であったが、宋屋は、明和三年(一七六六)に没し、その宋屋誹諧は、宋屋の高足の武然(望月氏)に引き継がれている。
二 この宋屋に次ぐ几圭は、宝暦十年(一七六〇)に没しているが、生前に、宋阿(巴人)の別号である「郢月泉」に因んでの「郢月居」を別号としており、その几圭誹諧は、遺児の几董が引き継ぐとすると、几董が、宋阿(巴人)俳諧の、「郢月泉」なり「夜半亭」を継承することは一つの自然の流れであろう。
三 明和七年(一七七〇)当時、宋阿(巴人)の「夜半亭」の継承者としては、江戸と京都の巴人門の中で、蕪村より年長者の結城の俳人雁宕(砂岡氏)が健在であったが(安永二年=一七七三没)、雁宕は江戸俳壇関連の人で、京都俳壇とは極めて遠い存在で、「夜半亭」の継承者としては、やや難点があったことであろう。
四 明和六年(一七六九)に、『江戸廿歌仙』(湖十等編)に比すべく『平安二十歌仙』(三宅嘯山等編)が刊行され、その発句の部(「追加 四季混雑」)で、その筆頭に蕪村の四句が収載されている。この『平安二十歌仙』は、太祇(紀逸門)・嘯山(宋屋門)・随古(巴人門)の三吟二十巻が主たるもので、発句には、太祇(四句)、嘯山(四句)、随古(二十二句)と、最も句数が多いのは随古(湯浅氏)で、この三人が当時の京都俳壇の最右翼に位置していたのであろう。そして、この三人は、当時の蕪村と親交が厚く、特に、太祇は、当時の蕪村の三菓社句会の実質的なリーダー格的な役割を果たしていた。この三人は、蕪村の夜半亭継承に大きな役割を果たしたであろうことは、想像するに難くない。
五 この『平安二十歌仙』の発句の部にも、「可焉・来川」の名は見られない。また、几董の亡父几圭十三回忌を早めて、明和九年(一七七二)に刊行した、蕪村七部集の筆頭を飾る『其雪影(几董編)』にも、その名は見られない。そして、この『其雪影』こそ、夜半亭二世蕪村とその三世を引き継ぐことが約束されている几董とが、世に問うた第一の俳諧撰集ということになろう。

 さて、冒頭の蕪村書簡に戻って、蕪村が「京師之人心(けいしのじんしん)、日本第一之悪性(あくしやう)ニ而(て)候」と痛罵したのは、生粋の京都人の几董宛て書簡の中であり、当時の夜半亭誹諧(三菓社社中)の主だった面々(随古・召波・烏西・峨眉・図大・田福・百池・鶴英・子曳・自笑・鉄僧・杜口・馬南=大魯・維駒・郢里等々)の殆どが、京都人であることに鑑みると、故郷喪失者(「浪速江近きに生を享け、若くして江戸放浪の身となり、京に定住しても余所者意識の強い、帰るべき母郷と決別している「故郷喪失者」)としての、「やるかたなきよりうめき出(いで)たる実情」(安永六・一七七七年二月二十三日付、柳女・賀瑞宛書簡)の吐露に近いものであったという思いを深くする。

早野巴人墓.jpg

京都・俗称椿寺で知られている地蔵院の「宋阿早野巴人墓」
左側=墓碑(正面に「宋阿墓」、碑影に「こしらへて有とはしらす西の奥/俳諧寺可焉建之)
右側=記念碑(側面に「巴人晩年宋阿ト号ス其角ノ門人ニシテ蕪村ノ師ナリ享保ノ中頃京ニ来往後江戸ニ帰リ寛保二年六月六日歿享年六十七/昭和七年七月 藤井紫影)

(その十)

其雪影.jpg

『天明俳諧集(新日本古典文学大系)・岩波書店』所収「其雪影(下巻)」=「巴人・几圭対座像」

 『蕪村七部集』のスタートを飾る『其雪影(几董編)』は、巻首(上巻)と巻尾(下巻)との二巻から成り、明和九年(一七七二)に刊行されている。この俳諧撰集は、宝暦十二年(一七六二)十二月二十三日に没した父几圭の十三回忌追善のために編んだものであるが、几圭の実際の十三回忌は安永三年(一七七四)で、それを二年引き上げている。
 それは、明和七年(一七七〇)三月の、蕪村の夜半亭二世継承と大きく関係していることであろう。この六月より、几董は俳諧修行のため句稿を書き始め、その第一集が『日発句集』(明和七年歳旦より翌八年六月に至るまでの「発句・連句・俳文・紀行等」の記録集)である。
 その『日発句集』の「発端」には、「巴人(夜半亭一世)・几圭(巴人門の高足で几董の父)・蕪村(夜半亭二世)」の三人を、「師祖(巴人)・亡父(几圭)・蕪師(蕪村)」とし、その三人の句を「巻のかしら(頭)」とするということで、その「数十章」の句が列記されている。
 この几董の『日発句集』を目の当たりにすると、蕪村は夜半亭二世を継承する時に、その三世は、「師祖(巴人)・亡父(几圭)・蕪師(蕪村)」の、この「亡父(几圭)」の遺児(几董)にバトンタッチをするということで、蕪村に懇請をされたものであろう。
 几董は、明和七年(一七七〇)七月に、この蕪村の懇請を受けて、夜半亭社中(三菓社中)に、馬南(後の大魯)と共に参加する。蕪村は、将来の夜半亭社中を、この二人に託するという意味合いもあったのであろう。

 当時の夜半亭社中の連衆(会衆)は次のとおりである。

(明和三年三菓社句会の初回からの連衆)
 蕪村・太祇・召波・鉄僧・竹洞・印南・峨嵋・百墨(後の自笑)
(明和三年七月~明和五年七月、蕪村讃岐行のため休会)
(明和五年三菓社句会再開、以降の新参加者)
 鶴英(伏見、明和五年六月~)、田福(明和五年七月~)、五雲(江戸より移住、明和五年十二月~)、図太(江戸より移住、明和六年~)、鷺喬(伏見、明和六年六月~)、竹護(江戸より移住、明和七年六月~)
 几董・馬南(後の大魯)=明和七年七月~
 泰里(江戸より上京)・嘯山(泰里の上京中参加)=昭和七年七月~九月

 蕪村が、夜半亭二世を継承したのは、明和七年(一七七〇)三月であるが、その翌年の明和八年(一七七一)八月に、盟友太祇が没(享年六十三)、秋に伏見の鶴英没、そして、十二月に、召波没(享年四十五)と、悲報が続く。そういう悲報と併せ、上記の三菓社中は夜半亭社中に移行し、三菓社句会は高徳院(知恩院の一院の名)発句会に衣替えをして行く。この高徳院発句会の新参加者は次のとおりである。

(明和八年四月~) 百池、その他几董社中数名
(明和八年八月~) 武燃(宋屋門)、重厚(蝶夢門)、維駒(十一月~)

 この明和八年(一七七一)の春に、蕪村は『明和辛卯春』の春興帖を刊行し、その翌年の明和九年・安永元年(一七七二)、上記で紹介した『其雪影(几董編)』が、単なる几圭追善集ではなく、夜半亭一門の実質的な俳諧撰集として広く世に問うことなる。
 この翌年の安永二年(一七七三)に、几董は「春夜楼」という俳諧結社を結成し、独自に『初懐紙』と称する歳旦帖を出している。すなわち、几董は、蕪村の夜半亭社中から独立して、俳諧宗匠(点者)の道を歩み始める。
 この几董の独立と歩調を併せ、馬南(大魯)が、大阪で「蘆陰社」という俳諧結社を結成する。馬南(大魯)が俳諧宗匠(点者)となったのは、蕪村よりも早く、明和七年(一七七〇)の在京俳諧宗匠(点者)六十余人中、馬南(大魯)は五十七番目、蕪村は六十四番目で、宗匠(点者)としては大魯が先輩格であるが、その業俳(俳諧を業とする)のままに、蕪村の夜半亭社中に参加し、蕪村を師と仰ぐのである。
 そして、この安永二年(一七七三)に、几董と馬南(大魯)の両吟歌仙一巻を筆頭にした、『蕪村七部集』の第二集に当たる『あけ烏(几董編)』が刊行される。この『あけ烏』は、蕉風復興を志向し、俳諧の新風を世に示すものであった。同時に、几董一門の歌仙二巻が収載され、几董の「「春夜楼」俳諧のスタートを意味するものであった。
 これらの夜半亭一門の几董や大魯の動きと並行して、当時、二十二歳の月渓(松村氏)が蕪村の句会に参加している(『耳たむし』)。それは、その翌年の安永三年(一七七四)からスタートする、「高徳院発句会」から「月並発句会」への衣替えと繋がっている。
 この夜半亭一門の「月並発句会」の連衆(会衆)は、従来からの、「蕪村・几董・田福・鉄僧・自笑・百池・佳棠・我則・五雲・維駒」等の他に、「月渓・道立・柳女・賀瑞・正名・東瓦」等が参加して来る。

 さて、冒頭に掲げた『其雪影(几董編)』の「巴人・几圭対座像」について触れて置きたい。

この右上の画像は、巴人像で、その上に、「郢月泉巴人 後以巴人為菴号 更名宋阿 別号夜半亭」(郢月泉巴人、後ニ巴人ヲ以テ菴号ト為シ、名ヲ宋阿ニ更メ、別ニ夜半亭ヲ号ス)と、説明書きがしてある。その左に、次の巴人の句が記述されている。

 啼(なき)ながら川こす蝉の日影哉

 その巴人に対座しての左下の画像は、几圭像で、その右に、「高几圭 後更名宋是 号几圭菴」(高《井》几圭 後ニ名ヲ宋是ニ更メ、几圭菴ト号ス)と説明書きがあり、左上に次の几圭の句が記述されている。

  凩のそこつはあらでんめ(梅)の花

 巴人像の文台の右下に、「夜半亭蕪村画 門人高几董書」とあり、蕪村が画像を描いて、書は几董筆であることが記述されている。

 実は、この「巴人・几圭対座像」の前に、「芭蕉・晋子(其角)・嵐雪像」があり、そこに、次の三句が記述されている。

  古いけや蛙とび込(こむ)水の音   芭蕉翁
  稲妻やきのふは東けふは西      晋其角
  黄ぎく白菊そのほかの名はなくも哉  雪中菴嵐雪

 この「芭蕉・晋子(其角)・嵐雪像」と「巴人・几圭対座像」とにより、蕪村が継承した夜半亭俳諧は、「芭蕉→其角・嵐雪→巴人→几圭」に連なり、「蕪村→几董」に継承されて行くことを示唆している。この「芭蕉・晋子(其角)・嵐雪像」は、次のとおりである。

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『天明俳諧集(新日本古典文学大系)・岩波書店』所収「其雪影(下巻)」=「芭蕉・晋子(其角)・嵐雪像」





蕪村の絵文字(一~五)

(その一)

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『蕪村全集五 書簡』所収「四一七 天明元~三年 夏 百池宛て」

 「半」を八つ書いて、「八半」=「夜半(蕪村)」の駄洒落。
 「池・ち・千」を「百」(「百」はない。「百」の意に使っているか?)書いて=「百池」の駄洒落。

  夏山やつもるべき塵もなかりけり   蕪村の句

 『蕪村全集一 発句』所収「二六六一の頭注」は、「夏山は澄みきった青空の下、深緑の偉容を見せている。『塵も積もって山となる』などという俗謡とは無縁に」と格調の高い解がなされている。
どうも、書簡の内容からすると、「夏山」を「百池」に見立てて、「百池さんや、夜半は、『塵も積もって山となる』の、その塵(お金)一つない、金欠病にかかっている」という駄洒落の句の感じが濃厚である。

 「雪居」は、百池の一族で、書簡からすると何か貰い物をした蕪村のお礼の文面のようである。
 「佳東」は、「佳棠」のことで、蕪村門の俳人且つ蕪村のパトロンの一人である。「書肆・汲古堂」の大檀那で、蕪村は、佳棠の招待で、京の顔見世狂言などを見物し、役者の克明な芸評などをしている書簡がある。
 蕪村門には、もう一人、八文字屋本の版元として知られている、「八文舎自笑」が居る。
「百墨・素玉・凌雲堂」などと号した。三菓社句会の古参で、蕪村門の長老格である。明和四年(一七六七)に父祖伝来の版権を他に譲渡し、わずかに役者評判記や俳書などを出版していた。蕪村没後の寛政初年(一七八九)の大火で大阪に移住して、文化十二年(一八一五)で没している。

 さて、冒頭に戻って、「池・ち・千」と、書簡の宛名の「百池」を、この三種類の字体で書いたのも、江戸座の「其角→巴人」の流れを汲む、俳諧師・蕪村ならではの、何かしらの謎を秘めている雰囲気で無くもない。どうも、「一文銭・四文銭・十文銭」(一文=二十五円?)などと関係していると勘ぐるのは、野暮の骨頂なのかも知れない。

(その二)

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『蕪村書簡集 岩波文庫』所収「一八九 佳棠宛(十二月二十七日)・年代不詳」

 この図柄(絵文字というより素描)は、浄瑠璃「ひらがな盛衰記」第四段、傾城梅ケ枝が、「ア、金がほしいなアー」と手水鉢を無間の鐘に見立てて、柄杓で打てば、「其の金ここに」と、小判三百両が二階の障子の内から、ぱらりと投げ出される。その梅ケ枝の身振りとか(脚注一)。
 書簡の内容は、「此の節季」の「節季」(十二月の年末)に関してのものである。その年末に、「けふはあまりのことに手水鉢にむかい、かゝる身ぶりをいたし候得共、『其の金ここに』、といふ人なきを恨み候」と、新しい年を迎える金がないということと思いしや、「されども此の雪、只も見過ごしがたく候」と、年末の忙しい時に、折りからの雪を見て、「雪見酒」の宴会をやりたいという文面のようである。
 場所は、「二軒茶や中村やへと出かけ可申候」というのである。嵐山は三軒茶屋だが、こちらは、祇園南楼門前の二軒茶屋、東を中村屋、西を藤屋というとか(脚注二)、その中村屋(祇園豆腐が名高いとか)を、御指名している。
 この蕪村書簡の宛名は、「佳棠福人」とある。この「佳棠」は、先(その一)に触れた、書肆田中汲古堂のこと「佳棠」大檀那であり、「福人」という敬称は、「雪見酒の金主を頼む故」のものとか(脚注三)。

 さて、冒頭の蕪村書簡に戻って、その書簡にある図柄(素描)は、「蕪村」その人の風姿なのであるが、当時の蕪村は、明和八年(一七七一)の歳旦帖『明和辛卯春』に、「浪花の鯉長、江戸の梅幸・雷子・慶子」らの俳優連が、それぞれの句を寄せているほどの、その俳優連の熱烈なファンの最たるものだったのである。
 その芝居好きの蕪村の最も良き相方が、この書簡の宛名にある「佳棠」その人である。

 ちなみに、「ひらがな盛衰記」第四段の傾城梅ケ枝の「あらすじ」は次のとおりである。

「勘当された源太と千鳥のその後の運命を綴ったのが四段目の「辻法印」「神崎揚屋」である。源太を養うため千鳥は神崎の廓に身を沈め、梅ヶ枝と名乗る遊女になった。折しも一の谷で合戦が起こり、源太は梅ヶ枝に預けていた産衣の鎧を取りにくる。しかし梅ヶ枝は、源太の揚代を作るため、鎧を質に入れてしまっていた。百計尽きた梅ヶ枝は、小夜の中山の無間の鐘の言い伝えを思い出し、庭の手水鉢を鐘に見立てて柄杓で打とうとした。その時二階から質受けに必要な三百両の金が降ってきた。客に化けていた母延寿の、思いがけない情の金であった。」

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[左から]傾城梅ヶ枝(中村福助)、梶原源太景季(中村信二郎) 平成15年9月歌舞伎座

(その三)

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『蕪村全集五 書簡』所収「四一明和九年一月四日 無宛名」

 書簡の冒頭に、この謎めいた絵文字が出て来る。この右上に書いてある文言は「わたしはお前の兄さんのむすめでござんす」で、左下の文言は、「これはそのほうにたのむ。大事な物じや。かならずかならず失ふな。ナ合点歟。かならずかならず失ふな」と書いてある。
 そして、書簡の出だしに、「『一(わたしはお前の兄さんのむすめでござんす)』の『二(これはそのほうにたのむ。大事な物じや。かならずかならず失ふな。ナ合点歟。かならずかならず失ふな)』の御慶、めでたく申納候。御家内様御揃御平安被成御越年、奉賀候」と続くのである。
 その書簡の末尾には、次の「歳暮」の句が出て来る。

   歳暮
  張子房と云(いへ)る題を探りて
 石公(せきこう)へ五百目戻すとし(年)のくれ(くれ) 蕪村

 この句は、『蕪村全集一 発句(八三六)』に「題 沓(くつ)」で収載されている。句意は、「年末の借銭を返すのに、張良が石公に沓の片方を拾って戻したのに倣い、半分を返して済ますことにしよう。故事の俳諧化」とある。
 この句意を得て、この書簡は、「歳暮(年末)・歳旦(新年)」の挨拶の書簡ということと、やはり、「歳暮の借銭返し」に関連するものという背景が浮かび上がっている。
 『蕪村全集五 書簡』では、「冒頭の絵文字は解読できない」(頭注)とあるのだが、この書簡は、いわゆる、「判じ物」(当時流行していた「絵」を見て「答」を探る「謎々遊び」)のようである。
 そのヒントは、『蕪村全集六 絵画・遺墨』所収「書簡等挿絵・絵文字『五無宛名書簡絵文字(判じ物)』・『六右書簡添句挿絵』」にあるようである。

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『蕪村全集六 絵画・遺墨』所収「書簡等挿絵・絵文字『五無宛名書簡絵文字(判じ物)』・『六右書簡添句挿絵』」

 すなわち、この書簡の冒頭の「絵文字」(謎々は?=『五無宛名書簡絵文字(判じ物)』)の、その答えは、この書簡の末尾の「絵文字」(『六右書簡添句挿絵(答)』)ということになる。

(その四)

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『蕪村書簡集 岩波文庫』所収「二三三 ふくえん宛(十月十五日付)

 この図柄の女性は、表書きに、「十月五日 ふくえんさま ぶそん」とあり、蕪村一門の行き付けの「ふくえん(伏渕)」の女将宛てのものなのであろう。この「日付け」が面白く、この書状は、「十月五日」に書かれたものであるが、この画は、「廿七日夜」に書かれているのである。
 すなわち、十月五日、この文面にあるとおり、「百池・佳棠」と「伏渕」で書状のとおりの「飲み会」となり、その折、その飲み会のお知らせの十五日付けの書状に、宴の半ばにて、その伏渕の女将は、蕪村に画を描くように懇請したのであろう。
 その宴席(十五日)では、蕪村は即座に描かずに、その書状を持ち帰り、「廿七日夜」に、この画を描いて、女将に差し上げたというのが、この「絵」付きの「書簡」の背景ということになる。
 この「廿七日夜」に描いた絵の脇に、「ふくえん/おはぐろつぼへてつきうのおれを入(いれ)るところ」と添書きがしてある。
 この「おはぐろつぼ」は「お歯黒壺」、「てつきう」は「鉄灸」、「おれ」は「折れ」を平仮名で書いている。「ふくえん(伏渕)」の女将は「お歯黒」の美人だったのであろう。

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原書簡の蕪村の筆跡(部分)=『蕪村の手紙(村松友次著)』(表紙画より)=柿衛文庫蔵

(その五)

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『蕪村全集五 書簡』所収「安永七年十月十一日 暁台・士朗宛書簡」(名古屋市博物館蔵)

  この書簡の内容は、以下のようなことである。

一 名古屋俳諧の巨匠・暁台が、士朗・閭毛(りょうもう)を伴って、安永七年(一七七八)十月に上洛するが、慌ただしく帰国する。その早々の帰国は何か気に障るようなことがあったのかと一抹の懸念を伝えている。
二 蕪村門の「道立・我則・月居・維駒」が亭主役になって歌仙を巻く準備していたが、それが出来なくて心残りである。
三 士朗注文の絵を揮毫したこと。また、暁台の庵名の「龍門」の額字が出来たこと。
三 暁台が仲介役になっている名古屋の富商達の依頼品も近日中に揮毫すること。「おくのほそ道」画巻を完成させて近々送付すること。
四 此の書簡は、暁台と士朗のお二人宛てになっているが、閭毛にも御伝声をお願いしたい。
五 日付は、「十月十一日」(安永七年は推定)。
六 宛名は、「暮雨(暁台の別号)主盟(同盟の主宰者)・士朗国手(医者の尊称)」。
七 蕪村は、次の二句を文末に記して、暁台と士朗の意見を徴している。
    茶の花や石をめぐりて道を取(とる)
    道を取(とり)て石をめぐればつゝじ(躑躅)かな
八 その後に、上記の「蕪村写於雪楼中」の落款のある蕪村の戯画が描かれている。

 この戯画中の、「朱樹台」は士朗の別号で、真ん中の人物が士朗であろう。その左の女性と肩を組んでいるのは暁台で、「ヨウ こちのこちの カウモ有(アロ)ウ 尾張名古家(屋)は 士朗(城)でもつ」は、士朗と「口合」(洒落・語呂合わせ)をしていて、「名古屋の暁台俳諧は『士朗』で持っている」というような意であろう。
 真ん中の人物の士朗が、「朱樹台(士朗の別号)を已来(以来)やくたい(「益体も無い遊びに熱中する」の「益体」)と改メマショウ」と、駄洒落を連発して、酒宴を盛り上げている。
 この「久村(暁台の別姓)キヤウトイ キヤウトイ」は、その士朗を見て、「キヤウトイ(気疎し=きやうとし=きやうとい=「えらい・けなげだ」)・キヤウトイ」と名古屋弁で暁台が囃しているのであろう。
 さて、右端の人物は、「歯の痛(いたみ)も とんと忘れた」の文言から、「書簡一九〇に蕪村が歯の痛みに悩んだ記事がある。この戯画の人物は蕪村か」(頭注)と、蕪村としているのだが(『蕪村全集五(三〇四頁)』、これは蕪村ではなく、この時の暁台・士朗と一緒に上洛した閭毛であろう。

 安永七年(一七七八)当時の蕪村は、六十三歳、京都俳壇の大宗匠且つ文人画の大家(この年に最晩年の栄光の画号「謝寅」を使い始める)で名を轟かせている、「画・俳」両道の世界では、最右翼に位置していたと言っても過言でなかろう。
 そして、名古屋俳諧を牛耳っている加藤暁台は、京都俳壇・画壇で名を馳せている与謝蕪村とでは、年齢にして、十六歳も、蕪村が年長ということになる。また、江戸俳壇と京都俳壇の狭間に位置する名古屋俳壇は、まだまだ、新興勢力ということになろう。
 ただ、暁台は尾張藩の武家出身で、諸国を遊歴して、江戸の蓼太(大島氏)と共に門人の数などからすると、蕪村門よりも大きな集団を成していたようである。
 その尾張の暁台門の筆頭が、士朗(井上氏)で、年齢的には、暁台より十歳程度年下である。閭毛については詳細不明だが、士朗に次ぐ暁台門人ということになろう。
 この、上記の「蕪村写於雪楼中」の落款のある蕪村の戯画は、京都俳壇の蕪村と蕪村門の面々(この書簡中にその名がある「道立・我則・月居・維駒」、後に、暁台と親しくなる百池などの面々)の前で、名古屋俳壇の盟主暁台とその高弟の士朗・閭毛が踊りを披露しているのであろう。
 そして、この三人の主役は暁台で、士朗と閭毛は、その師匠の太鼓持ちのような引き立て役を演じている。この酒席の最長老の蕪村が、この踊りの列に加わり、年下の暁台の太鼓持ちのようになって、暁台に媚びているような踊りを披露することは有り得ないことであろう。
 問題は、この右端の閭毛と思われる人物の上の「歯の痛(いたみ)も とんと忘れた」であるが、これは、閭毛の発言と取るのが自然であろう。また、蕪村の発言と取って、この時の閭毛の踊りの恰好や仕草が、「歯の痛(いたみ)も とんと忘れた」ほど面白かったとする解もあろう。
 ちなみに、この暁台と肩を組んでいる女性は、「雪楼」こと祇園「富永楼」の女将「お雪」さんの風姿なのかも知れない。





蕪村と月渓が描いた陶淵明像

 蕪村は、延享元年(一七四二、寛保四年二月二十一日に延享と改元)に、野州(栃木県)宇都宮において、『寛保四年宇都宮歳旦帖』(紙数九枚・十七頁、中村家蔵)という小冊子の歳旦帖を出し、俳諧宗匠として名乗りを上げる。そこに「巻軸」と前書きを付して、「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の自句で締めくくり、それまでの「宰鳥」の号に代わり、初めて「蕪村」の号を用いる。すなわち、この初歳旦帖は、蕪村の改号披露を兼ねてのものということになる(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。

 この「蕪村」の号は、陶淵明の「帰去来兮辞(ききょらいのじ)」の「田園将(まさ)ニ蕪(あ)レナントトス胡(なん)ゾ帰ラザル」に由来し、「蕪は荒れるの意味であり、『蕪村』は荒れ果てた村」の意ということになろう。すなわち、蕪村にとって、生まれ故郷は「帰るに帰れない」、その脳裏にのみ存在するものであった(田中・前掲書)。

 蕪村没後、蕪村の画俳二道の後継者の一人に目せられていた月渓(呉春)が、亡き師の机上にあった『陶靖(せい)節(せつ)(淵明)詩集』に挟まれていた、師自筆の「桐火桶無弦の琴(きん)の撫でごころ」の栞を見付けて、これに画(陶淵明像)と賛(蕪村自筆であることの証文など)を付した「嫁入手(よめいりて)蕪村筆栞・月渓筆陶淵明図」(逸翁美術館蔵)が今に伝存されている。

 この「嫁入手」とは、蕪村の遺児の「婚資捻出のために」、蕪村の「自筆句稿・冊子・巻物・色紙・栞」などに、月渓等の直弟子が画賛などを付して、蕪村の落款(サイン)に代えた作品の題名に便宜上付せられているものである。

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 この月渓の賛(括弧書きは注)は次のとおりである。

[ 師翁(蕪村)物故の後、余(月渓)ひさしく夜半亭(京都の蕪村が没した住居=夜半亭)にありて、机上なる陶靖節(陶淵明)の詩集を閲(えっす)るに、半(なかば)過るころ此(この)しほり(栞)を得たり。これ全(すべて)淵明(陶淵明)のひとゝなりをしたひてなせる句なるべし。 
 天明甲辰(三年=一七八三)春二月(蕪村=二月二十五日未明没)写於夜半亭 月渓(松村月渓=呉春) ]

 この月渓(呉春)の描く陶淵明像は、蕪村の数ある陶淵明像の中で、おそらく、蕪村門の直弟子にあっては、一番身近な「陶淵明像」(『安永三年(一七七四)春帖』中の直弟子の一人「馬圃(まほ)」(芦田霞夫(かふ)/醸造業/俳人) →の「我(あ)とヽもに琴(きん)かき撫(なで)る柳かな」に付した蕪村画の「陶淵明像」)を参考にしていると思われる。

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 そして、この一筆書きのような略画の「草絵」(俳画)の「陶淵明像」は、実に、安永三年(一七七四)の、蕪村、六十三歳時、師の夜半亭二世宋阿こと早野巴人の三十三回忌に当たる年の作である。

 その巴人が没した寛保二年(一七四二)、そして、初歳旦帖を編み「蕪村」の号を使い始めた延享元年(寛保四年=一七四四)の翌年の頃、すなわち、結城・下館在住の頃の、「子漢」と款する「陶淵明山水図」(絹本淡彩三幅対)中の「陶淵明図」がある。これが、まさしく、
無弦琴を奏でている陶淵明図なのである。

 そして、これが文人画家・蕪村のスタートを飾った作品ともいえるものであろう(この「陶淵明山水図・中村美術サロン蔵」が『蕪村全集六絵画・遺墨』の第一番目に登載されている)。

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 この他の蕪村の陶淵明像などを『蕪村全集六』より記しておきたい。

一 絵画・模索期(宝暦八~明和六年)

48 陶淵明図 紙本淡彩 一幅 款「河南超居写」 国立博物館蔵
80 陶淵明聴松風図 双幅 款「東成謝長庚写」「辛巳冬写於三菓軒中謝長庚」 宝暦十
一年 「当市西陣平尾氏、上京井上氏旧蔵品入札」(大正六・四)
163 陶淵明図 淡彩一幅 款「謝長庚」 「倉家並某旧家什器入札」(昭四・六)
164  陶淵明図 淡彩一幅 款「謝長庚」 「大阪市某氏入札」(大十五・三)

二 絵画・完成期(明和七~安永六)

220 五柳先生図 一幅 款「写於夜半亭謝春星」 「第五回東美入札」(昭五四・三)
221 五柳先生図 絹本着色 一幅 款「謝春星写於三菓堂中」 「題不明入札(大阪)」(昭二十九・十) 
437 後赤壁賦・帰去来辞図 紙本淡彩 双幅 款「日東謝寅画幷書」「日東々成謝寅画且 
   書」 逸翁美術館蔵
556 柳下陶淵明図 絹本淡彩 一幅 款「謝寅」 「七葉軒、不老庵入札」(昭四・四)
557 陶靖節図 絹本着色 一幅 款「倣張平山筆意 日東謝寅」 「松坂屋逸品古書籍書画幅大即売会目録」(昭和五十二・六)

その他

山水図(出光美術館)六曲一双 重要文化財 1763年
十便十宜図(川端康成記念会)画帖 国宝 1771年 池大雅との競作。蕪村は十宜図を描く。
紅白梅図(角屋もてなしの文化美術館)襖4面、四曲屏風一隻 重要文化財
蘇鉄図(香川・妙法寺)四曲屏風一双(もと襖) 重要文化財
山野行楽図(東京国立博物館)六曲一双 重要文化財
竹溪訪隠図(個人蔵)掛幅 重要文化財
奥の細道図巻(京都国立博物館)巻子本2巻 重要文化財 1778年
野ざらし紀行図(個人蔵)六曲一隻 重要文化財
奥の細道図屏風(山形美術館)六曲一隻 重要文化財 1779年
奥の細道画巻(逸翁美術館)巻子本2巻 重要文化財 1779年
新緑杜鵑図(文化庁)掛幅 重要文化財
竹林茅屋・柳蔭騎路図(個人蔵)六曲一双 重要文化財
春光晴雨図(個人蔵)掛幅 重要文化財
鳶烏図(北村美術館)掛幅(双幅) 重要文化財
峨嵋露頂図(法人蔵)巻子 重要文化財
夜色楼台図(個人蔵)掛幅 国宝
富嶽列松図(愛知県美術館)掛幅 重要文化財
柳堤渡水・丘辺行楽図(ボストン美術館)六曲一双 紙本墨画淡彩
蜀桟道図(シンガポールの会社) 1778年

(追記)

 平成二十八年十月二十九日(土)~十二月二十一日(日)まで、佐野市立吉沢記念美術館で、「特別企画展 東と西の蕪村―伊藤若冲『菜蟲譜』期間限定公開」が開催された。
 そこで、「陶淵明・山水図」(蕪村筆)が公開されていた。その作品解説は次のとおりである。

[ 最初期の彩色作品で、下館に伝来。「子漢」の款記は本作が唯一。印は捺されない。陶淵明は中国・六朝の詩人で、「帰去来辞」「桃花源記」などが知られる。「蕪村」号は「帰去来辞」の「田園将蕪(マサニアレナントス)」に由来することが有力視されるほか、詩画ともに桃源郷を投影した作品が晩年まで頻出するなど、蕪村にとって重要な詩人。
中幅の陶淵明は、酒に酔う毎に「無弦の琴」を撫でたという故事による。左右幅は「帰去来辞」の「舟は遙々として以て軽くあがり、風は飄々として衣を吹く」「雲は無心に以て峰を出で、鳥は飛ぶに倦きて還るを知る」を描く、明るい光を含んでかすむ海、藍と淡墨の葉を重ねて描かれた風に騒ぐ竹林など、後半の蕪村画の要素が見える。]
(『東と西の蕪村(佐野市立吉沢記念美術館遍)』)

(特記事項)

※ この「陶淵明」図中、左下に、花押のように、小さな「鈴」のようなものが描かれていた。これは、陶淵明の「無弦琴」に関連して、「琴の爪」のようなのである。この「琴の爪」と蕪村の花押(「槌」・「経巻」・「頭陀袋(嚢)」のような、蕪村の謎めいた花押)は、この「琴爪」に、その由来があるような、そんな示唆を受けたことを特記して置きたい。

回想の蕪村(四~六)

回想の蕪村(四~六)

回想の蕪村(四・四十一~四十九)

回想の蕪村(四)

(四十一)

 蕪村の『夜半楽』の「春風馬堤曲」の冒頭に、下記のとおり、「謝蕪邨」との署名が見られる。

※春風馬堤曲
             謝蕪邨

  余一日問耆老於故園。渡澱水
  過 馬堤。偶逢女帰省郷者。先
  後行数里。相顧語。容姿嬋娟。
  癡情可憐。因製歌曲十八首。
  代女述意。題曰春風馬堤曲。
 (余一日(いちじつ)耆老(きらう)ヲ故園ニ問フ。澱水(でんすい)ヲ渡リ
  馬堤ヲ過グ。偶(たまたま)女(じよ)ノ郷ニ帰省スル者ニ逢フ。先
  後シテ行クコト数里、相顧ミテ語ル。容姿嬋娟(せんけん)トシテ
  癡情(ちじやう)憐(あはれ)ムベシ。因リテ歌曲十八首ヲ製シ、
  女(じよ)ニ代ハリテ意ヲ述ブ。題シテ春風馬堤曲ト曰フ。)

 そして、『夜半楽』の奥書に、「門人 宰鳥校」との署名が見られる。この署名に関して、先に、次のことについて紹介した。

※『夜半楽』板行を思い立った六十二歳翁蕪村の胸中には、彼が俳人としての初一歩をしるした日の師と同齢に達した感慨がつよく働いている。春興帖は、その心をこめて亡師巴人に捧げられたものであろう。『門人宰鳥校』として宰町としなかったのは、元文四年の冬にはすでに宰鳥号に改め、宰町はいわばかりの号に過ぎなかったのである」(安東次男著『与謝蕪村』)との評がなされてくる。すなわち、上記の『夜半楽』(序)の「吾妻の人」とは、夜半亭一世宋阿(早野巴人)その人というのである(その関係で、奥書の「門人 宰鳥校」を理解し、この「門人」は、「夜半亭一世宋阿門人」と解するのである)。

 これらのことについては、寛保四年(一七四四)の蕪村の初撰集『宇都宮歳旦帖』の「渓霜蕪村輯」の署名でするならば、この安永六年(一七七七)の蕪村の春興帖の『夜半楽』の署名は「夜半亭蕪村輯」とでもなるところのものであろう。それを何故、「門人 宰鳥校」としたのか、確かに、上記のとおり、「夜半亭宋阿門人」という理解も一つの理解であろう。
しかし、「門人 宰鳥校」の「校」が気にかかるのである。「校」とは「校合」(写本や印刷物などで、本文などの異同を、基準とする本や原稿と照らし合せること)とか「校訂」(古書などの本文を、他の伝本と比べ合せ、手を入れて正すこと)とかのの意味合いのものであろう。「門人 宰鳥撰」とか「門人 宰鳥輯」の、「編集」を意味する「撰」とか「輯」とかとは、やはり一線を画してのものなのであろう。それを遜っての表現ととれなくもないが、この『夜半楽』には、夜半亭一世・宋阿(巴人)の名はどこにも見られず、唐突に、この奥書に来て、この序文の「吾妻の人」を宋阿その人と理解して、「宋阿門人」と理解するには、やや、無理があるようにも思えるのである。ここは、『夜半楽』所収の異色の三部作の「春風馬堤曲」(署名・謝蕪邨)・「澱河歌」(署名なし)・「老鶯児」(署名なし)の、その「謝蕪邨」(この「引き道具」の狂言の座元・作者である「与謝蕪村」を中国名風に擬したもの)を受けて、「吾妻の人」風に「洒落風」に、「(謝蕪邨)門人 宰鳥校」と、蕪村自身が号を使い分けしながら、いわば、一人二役をしてのものと理解をしたいのである。 そもそも、蕪村の若き日の号の「宰町」(巴人門に入門した頃の「夜半亭」のあった「日本橋石町」の「町」を主宰する)を「宰鳥」(「宰鳥」から「蕪村」の改号の転機となった『宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の「鶯」の句に関連しての「鳥・鶯」を主宰する)へと改号したことは、当時の居所の「日本橋石町」から師巴人に連なる其角・嵐雪の師の芭蕉が句材として余りその成功例を見ないところの「鳥・鶯」への関心事の移動のようにも思えるのである。それと同時に、この安永六年の『夜半楽』の巻軸の句に相当する「老鶯児」の理解には、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の、その蕪村の号を初めて使用したところの「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の句と、それ以後の、歳旦帖・春興帖を編むときに、必ず登場してくるところの「鳥・鶯」の句と、同一線上のものと理解をしたいのである。そして、そう解することによって、始めて、この『夜半楽』の「老鶯児」の句の意味と、蕪村の絶吟の、「冬鶯むかし王維が垣根哉」・「うぐひすや何こそつかす藪の霜」・「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」の、この三句の意味合いが鮮明になってくると、そのように理解をしたいのである。

(四十二)

 そもそも、この『夜半楽』は安永六年(一七七七)の夜半亭二世・与謝蕪村の「春興帖」
である。それが故に、その他の蕪村の「歳旦帖」・「春興帖」との関連で見てきた。しかし、それだけでは足りず、より正しい理解のためには、当時の俳壇における「歳旦帖」・「春興帖」との関連で見ていく必要があろう。このような見地での基調な文献として、『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)所収の幾多の論稿がある。ここで、それらのことについて、その要点となるようなことについて、紹介をしておきたい。

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その一)

○ここで蕪村一門の春帖と呼ぶ時、その対象には、蕪村編のもの(『明和辛卯春』『安永三年蕪村春興帖』『安永四年夜半亭歳旦』『夜半楽』『花鳥篇』)、几董編のもの(安永五年『初懐紙』、安永九年『初懐紙』、安永十年『初懐紙』、『壬寅初懐紙』『初卯初懐紙』『甲辰初懐紙』、天明五年『初懐紙』、天明六年『初懐紙』、天明七年『初懐紙』、寛政元年『初懐紙』)、呂蛤編のもの(寛政三年『はつすゞり』他)、紫暁編のもの(寛政五年『あけぼの草子』他)などと、多くの俳書が含まれることになろう。さらに説明を加えるなら、蕪村編の春帖には、この他にも寛保四年(一七四四)に宇都宮で刊行した歳旦帖があるし、また伝存は不明ながら、『紫狐庵聯句集』には「明和辛卯春」「安永発巳」と題した三ツ物や春興歌仙が記録されており、空白の二年の刊行についても刊行が察せられる。また几董編の春帖についても、天明七年の『初懐紙』で几董が、「としどしかはらぬ初懐紙をもよほす事、かぞふれば十余リ五とせになりぬ。其いとぐちより繰返し見れば……」と回顧して、発巳(安永二年)から丁未(天明七年)に至る各年の巻頭発句を列挙するように、今日未確認の『初懐紙』が、安永二・三・四・六・七・八の各年にも刊行されたことが知られる。しかしここでは、伝存の有無にかかわらずその多くを措き、時を蕪村在世中の一時期に絞り、主として『明和辛卯春』と安永五年『初懐紙』の二書をとりあげる。
※ここに紹介されている明和八年(一七七一)に刊行した蕪村編の『明和辛卯春』については先に触れた。この春興帖は、明和七年に亡師巴人の夜半亭を襲号した蕪村が、その襲号の披露を兼ねて、広く夜半亭一門の俳諧を世に問うたもので、夜半亭二世・蕪村の代表的な春興帖である。そして、夜半亭二世・蕪村に継いで夜半亭三世となる几董が、蕪村存命中に、安永六年の『夜半楽』刊行一年前に刊行した春興帖が、安永五年『初懐紙』で、この両者の春興帖としての比較検討が、この「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」の骨子なのである。

(四十三)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その二)

○まず『明和辛卯春』から検討を始めよう。(中略) 現存の弧本は原表紙を欠き、書名は内題「明和辛卯春 / 歳旦」による仮称である。横本一冊。表紙の他にも欠損の丁が多いが、元来は本文全十四丁であった。一見して気付くのは、蕪村板下による書体の風格と匡郭および各行を画する罫の緑色の鮮やかさ(今は退色しているが)である。相俟って壮麗の感を与える。次にその内容をつくと、まず一丁目表は先の内題に続いて、蕪村・召波・子曳による三ツ物一組、一丁目裏は同じ三人による三ツ物二組を収める。(中略) 今これを仮に三ツ物三組形式と呼ぶことにする。この三ツ物三組に続く二丁目以下は、同門あるいは他門の歳旦・歳暮の発句を主とし、その発句群に交えて都合二巻の歌仙が収録されている。すなわち、三丁目裏から始まる「鳥遠く……」の一巻、十二丁目裏から始まる「風鳥の……」の一巻で、巻頭と巻尾の近くに配するが、決して巻頭でも巻尾でもない。(後略)
※この蕪村の『明和辛卯春』は「都市系歳旦帖」(其角・巴人に連なる江戸座などの都市系蕉門の流れによる春興帖)に属するとされるのだが(後述)、ここで、注目すべきことがらは、この春興帖に収録されている二巻の歌仙が、共に、「鳥」を句材としての発句ということなのである。その発句・脇・第三を例示すると次のとおりである。
(春興)
発句 鳥遠く日に日に高し春の水        子曳
脇   人やすみれの一すじ(ぢ)の道     蕪村
第三 紅毛の珍陀葡萄酒ぬるみ来て       太祗
(春興可仙)
発句 風鳥の喰ラひこぼすや梅の風       蕪村
脇   名もなき虫の光る陽炎         田福
第三 明キのかたわするゝ斗(ばかり)春たけて 斗文
 さらに、蕪村は、この『明和辛卯春』で立机を宣言するかのように「夜半亭」の号で次の「鶯」の句を公示している。
(洛東の大悲閣にのぼる)
    鶯を雀歟(か)と見しそれも春    夜半亭
(春興追加)
    鶯の粗相がましき初音かな      夜半亭 
 これらのことは、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の「三ツ物」七組で始まり、その卷軸の蕪村の号の初出の「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」とこの『明和辛卯春』の六年後に刊行する『夜半楽』の「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」と同一線上にあることを、蕪村は明確に公示していると思われるのである。

(四十四)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その三)

○続いて、安永五年(一七七六)『初懐紙』(略)に目を移してみよう。まず半紙本(一冊)という判型が『明和辛卯春』に対照的で、薄茶色の表紙の披いても十七丁の本文には匡郭や罫を見ず、版面の著しい相違にまた驚くのである。同様なことは内容にもあって、巻頭は勿論、書中どこにも三ツ物を見出すことはできない。すなわち、この書の巻頭には一丁分の序があり、続いて端作備わる歌仙(後半を略した半歌仙)を掲げる。端作は「安永五丙申春正月十一日於春夜楼興行」と記し、歌仙は几董の発句に始まり、脇以下を連衆が一句ずつ詠んで一巡するもの。そして歌仙の後には「各詠」と標題されて、連衆の各人一句を列ねた一群の発句が配置されている。言うまでもなく、これは由緒正しい俳諧興行の開式に則るものなのである。各詠発句の後には「其引」と標題した蕪村等(右歌仙に欠座)の発句が並ぶが、『明和辛卯春』では、この「其引」の発句は三ツ物三組の直後に並んでいた。このことから察しても、几董が、正式興行の歌仙と各詠発句を巻頭に配し、これを三ツ物三組に代えたことは疑えないだろう。(中略) このように『明和辛卯春』と安永五年『初懐紙』を比較してみると、俳書の性格において、両書がきわめて鋭い対照を示すことに気付かざるを得ない。すなわち、それは①判型、②匡郭と罫の有無、③巻頭形式(三ツ物三組と正式俳諧興行)、④句の性格(歳旦・歳暮句と春・冬句)、⑤連句の扱い(重視の程度)の五点において、著しく異なっているのである。(後略)
※この「一『明和辛卯春』と『初懐紙』との隔たり」の後、「二 都市系歳旦帖の性格」(略)・「三 都市系俳壇風の『明和辛卯春』」(略)と続き、続く、「四 地方系蕉門色の『初懐紙』」として、次のような記述が見られる。「(前略)また歳旦帖は、長い伝統に培われて、特定俳系の特色を明瞭に示すので、編者の帰属意識をとらえるのに好都合と考えたからである。その検討り結果は右の通りであったが、ここで私は、都市系の性格を帯びた『明和辛卯春』形式の歳旦帖が安永五年(一七七六)以降刊行されず、蕪村によって全く放棄されてしまった事実を、きわめて重く見るのである」(田中・前掲書)。そして、この都市系俳壇風形式の歳旦帖に代わって、蕪村が次に編纂したものこそ、安永六年(一七七七)の『夜半楽』に他ならない。こういう、蕪村の歳旦帖・春興帖の変遷を背景として、その『夜半楽』の次の「序」を見ていくと、「形式的には従前の都市系俳壇風の春興帖形式と当時の一般的な地方蕉門色の春帖形式とを混交させながら、内容的には、より都市系俳壇風に、より自由自在に異色の俳詩などを織り交ぜ、特色ある春興帖を意図している」ということが言えよう。
※※『夜半楽』(序)
祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは
不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず)
蕉門のさびしをりは
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし)
さればこの日の俳諧は
わかわかしき吾妻の人の
口質(こうしつ)にならはんとて
(訳)京都の祇園会のお囃子は秋風の風韻には調和しない。それと同じく、蕉門の寂び撓(しをり)は新春のお目出度い席では避けた方がよい。だから、この日の新春の俳諧は若々しい東国の人の口調に倣っている。

(四十五)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その四)

○ここでようやく『初懐紙』の内容的性格に言及する段階に至った。私は先に、その編纂形式の斬新さを指摘したが、内容的性格はそれ以上に際だってユニークであった。都市系・地方系を問わず、従来の春帖に全く例を見ぬものであった。その特色というのは、集中どこにも歳旦句・歳暮句を収めぬことである。「聖節」「東君」等の題は勿論、「歳旦」「歳暮」の題も見出せぬことはすでに述べたが、題のみならず、元朝を賀し家の春を言祝ぐ類の発句を見ず、年頭の祝意は、わずかに「あらたまのとし立かへる……」という序文に託されるにすぎない。同様に、歳末の生活感情をとらえる句も見当たらぬのである。これに代わるものは、
    早春
 うぐひすや梢ほのめくあらし山    几董
 鶯に終日遠し畑の人         蕪村
といった、春の訪れを喜び春の自然を讃えるみずみずしい情感であり、またそれを表現する句であって、これが『初懐紙』の基調をなす。歳暮句に代わって「冬」の句は少々あるが、『初懐紙』も後年ほどその数を減じ、後には春句のみで編まれる年も出る。つまり『初懐紙』はもっぱら春を詠む俳書として、それも人事の春ではなく自然の春を詠む俳書として登場したのであり、特に早春の初々しい感情が重視される。(後略)
※この几董編の『初懐紙』は、蕪村編の『夜半楽』刊行一年前に刊行されたものである。この『夜半楽』を刊行する三年前の、安永三年(一七七四)の六月に、蕪村は宋阿(夜半亭巴人)三十三回忌の追善法要を営み、追善集『むかしを今』を刊行する。その『むかしを今』は、夜半亭二世蕪村と夜半亭三世となる几董との二巻の歌仙を収めている。それは、宋阿の句を発句とする脇起こし歌仙で、その発句・脇・三十五句目(挙句前の花の句)を例示すると次の通りである。

発句   啼(なき)ながら川越す蝉の日影哉      宋阿居士
脇      行人少(まれ)にところてん見世(みせ) 蕪村
三十五  宋阿仏匂ひのこりて花の雲          几董

発句   啼(なき)ながら川越す蝉の日影哉      宋阿居士
脇      蚋(ぶと)に香たく艸(くさ)の上風   几董
三十五  雲に花普化(ふけ)玄峯に宋阿居士      蕪村

 この蕪村の三十五句目の「普化」は其角、そして、「玄峯」は嵐雪のことである。すなわち、蕪村も几董も、其角・嵐雪、そして宋阿に連なる都市系蕉門に属しているという公示でもある。この二人はその都市系蕉門の中心的俳人の其角崇拝では人後に落ちなかった。蕪村は、其角の『花摘』に倣い『新花摘』を刊行し、几董は、其角の『雑談集』に倣い『新雑談集』を刊行し、其角の「晋子」の号に模して「晋明」の号をも称している。しかし、几董の春帖(歳旦帖・春興帖)の『初懐紙』には、其角・嵐雪・宋阿、そして、蕪村のそれとは違った編纂スタイルをとっているのである。それも、一重に、歳旦帖・春興帖の時代史的な変遷であるとともに、都市系俳壇と地方系俳壇との融合、そして、それがまた、蕪村らの「蕉風復興運動」の文学史的意義であったのだという(田中・前掲書・「蕉風復興運動の二潮流」)。このような大きな流れを背景にして、始めて、蕪村の「諸流を尽シてこれを一嚢中に貯へ」(『春泥句集』序)という意義が鮮明となってくる。ともあれ、蕪村在世中の安永五年の、夜半亭三世となる几董の『初懐紙』の中において、上記の「早春」と題する「鶯」の句を、蕪村と几董とが肩を並べて作句していることが、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の、その蕪村の号を初めて使用したところの「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の句と、それ以後の、歳旦帖・春興帖を編むときに、必ず登場してくるところの「鳥・鶯」の句、そして、安永六年の『夜半楽』の「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」の句と、さらには、蕪村の絶吟の、「冬鶯むかし王維が垣根哉」・「うぐひすや何こそつかす藪の霜」・「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」の句と、またしても交差してくるのである。

(四十六)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その五)

○(前略)『初懐紙』の編纂刊行を几董に任せた蕪村は、安永五年には自編の春帖を持たない。煩わしさも減じたが、一方では、『初懐紙』が地方系蕉門風に傾くのあまり、蕪村にとって飽き足らぬ思いも残った。そこで蕪村が、半ば興じ半ば真剣に、自らの趣味を充分盛り込んで編んだ春興帖が、安永六年(一七七七)の『夜半楽』だったと思われる。したがって同書は、『初懐紙』をモデルとしながら(半紙本一冊。〔序に代わる題辞→春興発句群→巻末の歌仙に代わる仮名詩三編〕という内容構成)、『初懐紙』の世界から『明和辛卯春』の方向に半歩後退し、都市俳諧的趣向性を横溢させながら、しかもなお豊に春景を描き出すものとなる。後退して、かえってそこに独自の作品世界を作り上げ得たのである。それは几董的ではなく、まさに蕪村的な春興集であった。たとえば、巻頭にすえられた歌仙の奇妙な冒頭部、

  歳旦はしたり皃(がほ)なる俳諧師     蕪村
   脇は何者節の飯帒(はんたい)      月居
  第三はたゞうち霞みうち霞み        月渓

をどう解すべきであろうか。それぞれの句頭に「歳旦」「脇」「第三」の語を折り込む趣向には、安永四年まで三ツ物の歳旦句になじんでいた蕪村が、心の隅にかすかな抵抗を覚えながら始めて春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)を巻く、半ば照れ半ばおどけた表情さえ思い浮かぶようである。このように考えると、かの太祗の句を引く「春風馬堤曲」もまた、蕪村らしい趣向に溢れた独自の春景句、しかも郊外散策のそれであった。『明和辛卯春』などと同様に匡郭と罫を刷り込み、巻頭に「…… / わかわかしき吾妻の人の / 口質にならはんとて」と揚言して、巻尾に「門人宰鳥校」と署名する意識には、江戸俳壇で育った蕪村の、京俳壇の新動向の中で独自の道を歩まんとする自負がにじむようである。思えば『明和辛卯春』などの匡郭と罫の緑墨も、画家らしい好みとともに、江戸俳壇の寛闊を伝えるさかしらではなかったか。ともあれ夜半亭一門の春興集は、京の都市民に自然愛の俳諧を供し、同門のその後の俳風を決定づけ、俳壇に長く影響を及ぼすことになったのである。
※これまでに、いろいろな角度から蕪村の異色の俳詩を包含している『夜半楽』を見てきたが、上記の、「安永四年まで三ツ物の歳旦句になじんでいた蕪村が、心の隅にかすかな抵抗を覚えながら始めて春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)を巻く、半ば照れ半ばおどけた表情さえ思い浮かぶようである」という指摘には、全く同感である。そして、それが故に、この『夜半楽』の、巻頭の「…… / わかわかしき吾妻の人の / 口質にならはんとて」との揚言や、巻尾のおどけた調子の「門人宰鳥校」の署名も、「江戸俳壇で育った蕪村の、京俳壇の新動向の中で独自の道を歩まんとする自負がにじむようである」として、十分に頷けるところのものである。また、「春風馬堤曲」の太祗の句の引用も、「江戸俳壇で育った蕪村」を象徴するようなものとして、これまた、蕪村の真意が見えてくるような思いがするのである。その「春風馬堤曲」に続く、「澱河歌」もまた、それらの「若き日の蕪村」(わかわかしき吾妻の人)に連なる「官能的な華やぎのエロス」の「仮名書きの詩」(俳詩)として、それに続く、「老鶯児」の発句の背景と思える「老懶(ろうらん)」(老いのもの憂さ)の前提となる世界のものとして、これまた、十分に首肯できるところのものである。さらに、些事に目を通せば、上記の「春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)」の発句(蕪村)に続く脇(月居)・第三(月渓)の「月居・月渓」が、三十五句目(挙句前の花の句)の几董、挙句の大魯に比して、その、ともすると「地方系蕉門風」の「几董・大魯」に続く、その次を担う夜半亭門の若き俊秀たちであることに注目すると、これまた、蕪村の真意というのが伝わってくる思いがするのである。上記の、「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」において、ただ一つ不満なことは、この『夜半楽』の卷軸の句と思われる「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」について言及していないことなのだが、これは項を改めて触れていくことにしたい。


(四十七)

「郊外散策の流行・蕪村の『春風馬堤曲』(田中道雄稿)」

 『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)所収には「郊外散策の流行」と題する論稿があり、「蕪村の『春風馬堤曲』」という項立ての中に次のような記述がある。

○(前略)蕪村は郊行詩の盛行現象に応じながら、しかもそれを独自の形態で表現した。それこそ俳諧詩「春風馬堤曲」であった。「春風馬堤曲」の郊行詩的性格を、まず伝統的概念から確かめとどうなるか。ある人物が郊外(馬堤)を通行し、その人物が風景を受容して行く過程が描かれる。まずこれが確かめられよう。ただし人物は、詞書中のみ作者、ということになるが、道が細くて曲がることが多い。これは「路(みち)三叉(さんさ)中に捷径(せふけい)あり」「道漸(やうや)くくだれり」から察せられる。詩を詠むことがある、これは詞書中での作者の行為として出る。風景として天象・地勢・植物・家畜家禽・構築物・人はいずれも含まれよう。続いて、安永天明期郊行詩の条件を満たし得るものか。第一の作風の新しさの一として、田園描写の精細があった。「蒲公(たんぽぽ)茎短(みじかう)して乳(ちち)をあませり」の観察は秀抜、「呼雛籬外鶏……」に見る鳥類の母性活写は、「野雉一声覷(うかが)ヘドモ不見(みえず)、菜花深キ処雛ヲ引テ行ク」(『六如庵詩鈔』五五)、「野鳥雛ヲ将(ひきゐ)テ巧に沙ニ浴ス」(『北海詩鈔』三六二)に通うものがあろう。二の田園風景における人為的素材や人はどうか。茶店、老婆、客の行動、猫や鶏など豊に含まれる。三の自然に向かって昂揚する感情は、三、四首目、少女の水辺行動に喜びが溢れよう。第二の素材・用語面での新しさはどうか。一の歩行については、詞書に「先後行数理」、本文では「渓流石点々 踏石撮香芹」と若々しい跳躍姿で描かれる。二の飲食は、茶店の客の「酒銭擲三緡」がそれを暗示しよう。この客もまた野懸け、つまり郊行の人なのである。三の日は「黄昏」がこれに代わる。第三、第四を措いて第五に移ると、冒頭の「浪花(なには)を出(いで)て長柄川(ながらがは)」は都市から郊外への方向性を明示し、作の前半は、都市あるいは世事からの解放の喜びを含む。そして馬堤は「本(もと)をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅」と、二項的把握に立って離郷を嘆く場ともなる。このように見て来ると、本作は、安永天明期郊行詩の条件をもほとんど具備していることになる。なお、『詩語砕金』の「春日郊行」項には「傍堤ツツミニツイテ」とあり、安永中と覚しき百池・几董の三ツ物に「馬堤吟行」の題を見る。本作の郊行詩的性格は、蕪村自らの意図によるのである。(中略) それにしても、郊行詩が詩人たちに清新な感情で迎えられる潮流、”郊外”という新しい場の成立、このことを抜きにして果たしてこの作品は成ったろうか。春日郊行の俳諧は、蕪村の「春風馬堤曲」に極まるのである。
※上記の「郊行詩的性格を伝統的概念から確かめる」の「伝統的概念」というのは、明代の作詩辞典の『円機活法』を指している。その伝統的な「郊行詩」の概念は、一「ある人物(通常作者)の郊行通行という行動を基本に据え」、二「場である郊外は、平野または村落から成り、道は細く曲がることが多い」、三「通行手段は、徒歩・馬・輿」、四「風景は、自然的素材としての天象、人為的素材としての農地・作物・家畜家禽・構築物など」となり、この作詩辞典の『円機活法』や詩語集の『詩語砕金』の「春日郊行」などが、蕪村の「春風馬堤曲」に大きく影響しているというのである。これまで、この「回想の蕪村」のスタートの時点において、「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵稿)を見てきたが、それに、この天明・安永期の「郊外散策の流行」・「郊行詩の盛行」ということを付記する必要があるということなのであろう。すなわち、唐突に、蕪村の異色の俳詩「春風馬堤曲」は誕生したのではなく、当時の漢詩の流行、そして、その影響下における俳諧の流行を背景にして、生まれるべくして、生まれてきた、換言するならば、「春日郊行の俳諧は、蕪村の『春風馬堤曲』に極まるのである」ということなのであろう。
なお、『円機活法』については、下記のアドレスなどが参考となる。

http://sousyu.hp.infoseek.co.jp/ks700/ks700.html

(四十八)

「祇園南海の詩論・影写説」・「中興諸家の場合、ことに蕪村の遠近法」(田中道雄稿)

 若き日の蕪村が、日本文人画の祖ともいわれている漢詩人・祇園南海に傾倒したことについては、先に触れた。

http://yahantei.blogspot.com/2006/07/blog-post_115354603992727424.html

 この祇園南海の詩論・影写説が、少なからず、蕪村の作句などに多くの影響を与えているのではないかとする論稿がある(『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著))。以下、簡単にそれらについて要約して紹介をしておきたい。

○(祇園)南海の影写説が一般に拡まるのは、その没後に刊行された『明詩俚評』によってであった。(中略) 捉え難い情趣(作者主体の考える美的価値)を読者に伝えるため、捉え易い景気・客体の客観的描写を創作の方法として選んだことになる。つまり情趣構成法を示したのである。作品の内なる情趣構成法を示したのである。(中略) ここで著者(註・南海)は、「表」「裏」の対義語を用い、「表」で詠物や叙景を試みる一方、「裏」に寓意を込める作例を示す。また「裏」は、色々の深い意味や感情つまり「余情」を含む部分があると言う。従って詩の解釈は「表バカリ解」して「裏ハ推シテ知ベ」きものであり、反対に「裏」の意を解すると「余情」を失うことになる。この解釈法は創作法にも応用され、詩の創作は心を凝らしてまず「表バカリ作ル」こととなる。(「祇園南海の詩論・影写説」)
○『加佐里那止』(註・白雄の姿情説が説かれている明和八年刊行の著書)の論は、これまで見て来た影写説に極めてよく対応する。「姿」を「表」に「情」を「裏」に置き換えれば、そのまま影写説の理論構造に近づく 影写説は本来姿先情後論に近い理論構造を持ち、それ故に鳥酔らに迎えられたのであろう。ところが『寂栞』(註・白雄の姿情説が説かれている文化九年刊行の著書)は、情先姿後論は論外であり、姿先情後論をも明確に否定する。姿と情を、天・地の如く同列一対に見る。それを「物の姿」と「己の心」とを相対立させる形で置く。ここで注目すべきは、「物の」「己が」という修飾限定の語を伴う点であろう。対象(物)と主体(己)との位相の違いが、ここで明瞭に示される。位相が異なれば、先後は意味を失う。この二極分解を促したのは、おそらくは対象の描写にかかわる意識の発達、主体の表出にかかわる意識の発達だったと思われる。中でも、主体の「情」が相対的に強まったのではなかろうか。そして得られたのが、(「鳥酔系俳論への影響」・「姿先情後論から姿情並立論へ」)
○蕪村こそ、その主客対立の構造を、先駆的かつもっとも鋭く作品に示した人だった。(中略) 蕪村の影写説の影響を思わせるものは、次の二書簡がある。
  鮒ずしや彦根の城に雲かゝる
(中略) (安永六年五月十七日付大魯宛)
  水にちりて花なくなりぬ岸の梅
(中略) (安永六年二月二日付何来宛)
(中略) 蕪村の発想の二重構造は、次の書簡も裏付けてくれる。
  山吹や井手を流るゝ鉋屑
(中略) (天明三年八月十四日付嘯風・一兄宛)
この句、裏に加久夜長帯刀(かくやたちはきのをさ)の能因見参の故事を含みつつ、表は景気として鑑賞すると言う。しかもこの二重鑑賞法は詩の解釈に見るものと言う。やはり影写説に学ぶものと推定できよう。(「中興諸家の場合、ことに蕪村の遠近法」)
※これらの論稿は〔「我」の情の承認-二元的な主客の生成-〕の中のものなのであるが、中興諸家の多くの俳人が、祇園南海の「影写説」の影響を受けていて、その「影写説」が、「姿先情後論から姿情並立論へ」と向かい、そして、その「我」の情の優位が確立し、「情を「己」の側、姿を「物」の側に分けるという、二元的把握の成立だったのである。それは従来の姿―情という関係の内容を、物―己という関係に組み替えるものであった」というのである。そして、蕪村もまた、この「影写説」の影響や主我意識の発達の中で、「風景を一望するため自己の位置を一点に定め、対象に一定の「隔り」を置くという、いわゆる「遠近法」を自家薬籠中のものにしていたというのである。そして、この遠近法が「遠」の詩情の問題に深く関わり、それが、蕪村の浪漫精神に連なっているというのが、この論稿の骨子であった。ともあれ、蕪村の発句の鑑賞や、俳詩「春風馬堤曲」の鑑賞にあっては、この祇園南海の「影写説」などを常に念頭に置く必要があるように思えるのである。

(四十九)

「蕪村の手法の特性 -“ 趣向の料としての実情”― 」(田中道雄稿)

○「蕪村発句の新しい解釈」
(前略)新たな理解は、清登典子氏の、「梅ちるや螺鈿こぼるゝ卓の上」 の解釈にも見られる。(中略) 単なる嘱目句ではなく、古典(註・『徒然草』八十二段)によって奥行きを与えた、趣向ある叙景句なのである。
○「かくされた出典の存在」
(前略)表面上一応の解釈はつくのに、検討を加えると、背景をなす古典の存在が明らかになる、ということであった。それはあたかも、それぞれが映像を持つ二つの透明スクリーンを隔て置き、手前から眺め観る趣きである。つまり二重写し、この出典の発見によって句解も多少変るが、より重要なのは、古典場面の付加によって、一句に新たな情が加わることである。(中略)蕪村が祇園南海の詩論”影写説”を受容していた、という事実に基づく、(中略)表は景気句として味わい、裏では故事を察して味わうという、二重鑑賞の実例を示していた。先の私解三例(省略)は、この鑑賞理論に沿ってみたのであった。
○「景の重層化の意図」(省略)
○「皆川淇園の思想との類似」
蕪村の発句制作において”景の重層化”とも呼ぶべき手法があることを指摘した。蕪村はこれを方法として充分に自覚し、利用にはある意図が存したと考えられる。(中略)私見(註・田中道雄)では、前節(註・「景の重層化の意図」)に見る発句の手法は、その発想が、当時京都の儒学界に新風を起こした、皆川淇園の思想に相似ており、或いは関連を持つかと思われる。蕪村は、この淇園の思想を逸早く受ける立場にあり、恐らく何がしかの影響を受けていよう。(後略)
○「趣向と情との拮抗関係」
(前略)蕪村は、趣向を第一に置き、これに情を付随させる方法、別な言い方をすれば、情がより現れる形での趣向中心主義を採った、と考えられる。これまでの句解例(省略)によれば、第二節(「かくされた出典の存在」)の古典を用いる方法が、何よりもそのことを物語る。裏に典拠を持つというのは、伝統的な趣向の方法であり、これらの句は、そこに基盤を置いて成立している。従って作品の価値は、何よりもこの趣向の面白さにあり、その間ににじみ出る情が評価されるのも、あくまでも趣向に伴っての出現、と理解されていたと思われる。(後略)
○「『春風馬堤曲』の方法」
(前略)当作品の魅力の中心は、浪花から故園に至る少女の道行にある。勿論この少女の設定が、当作の趣向の要である。しかも、この趣向は、それが二重の筋で利くことになる。その一は、第三章(註・「郊外散策の流行・蕪村の『春風馬堤曲』)にも述べたように、当時流行した春日郊行あるいは春日帰家と題する漢詩を念頭に置き、文人好みの郊外という舞台を、文人に代わって藪入りの少女に歩ませる、という趣向である。(中略)その二は、帰郷の少女を望郷の作者の分身として歩ませる、という趣向である。(中略)この二重の意味での趣向は、作者の情を盛り込む上でも、きわめて効果的であった。(中略)こうした本作の趣向の巧みは、その末尾にも現れる。末尾では、道行を終えた少女が漸く生家に近づくが、その場面は突如打ち切られ、代って作者が再登場する。そしてあろうことか、他者の作品を加えて一篇を結ぶ。(中略)当代詩壇では望郷詩が多作され、中には「夢帰故郷」(註・夢ニ故郷ニ帰ル)の題の下、夢中の場面がリアルに描かれることもあった。本作は、蕪村による「夢帰故郷」の詩と見倣し得る。(中略)確かに本作の情は、作者に内発したものであった。しかし作者は、この個人の情の文芸的表現を自ら求めながら、一方、自らの美意識に立ってそのあらわな表現を抑制した。その矛盾を自解に「うめき出たる実情」と滲ませるものの、老練さすがに心得て、「狂言の座元」の如く全体を統制し、実情を趣向に隠し込める形で処理したのである。(後略)
○「”趣向の料としての実情”」(省略)
○「結び」(省略)
※「蕪村の手法の特性」ということでの著者(田中道雄)の論稿を要約すると上記のとおりとなる(句例の解説などを全て省略し、充分にその意図を伝達できないきらいがあるが、その骨格となっているものは、上記のとおりである)。ここで、蕪村は、きわめて「趣向」を重視した画・俳の二道の達人であったということと、「詩を語るべし。子、もとより詩を能くす。他にもとむべからず」(『春泥句集』序)の、漢詩を「かな書き」でしたところの、まぎれもなく、「かな書きの詩人」であったという思いである。この意味において、蕪村をよく知る上田秋成の、蕪村の追悼句ともいうべき、「かな書(がき)の詩人西せり東風(こち)吹て」(『から檜葉』所収の難華・無腸の署名の句)という思いをあらためて反芻するのである。そして、その異色の俳詩「春風馬堤曲」こそ、蕪村の手法が全て網羅されている、蕪村ならではの「かな書き」の詩ということになろう。と同時に、この安永六年(一七七七)の『夜半楽』に収録されている俳詩の、「春風馬堤曲」並びに「澱河歌」は、服部南郭の「影写説」並びに皆川淇園の「景の重層化」の、いわゆる当代の漢詩の詩論の影響下での、蕪村独自の世界の展開といえよう。そして、それは、蕪村のこれらの俳詩の創作の中心となる「写意」ともいうべき「情」を、その「裏」に閉じこめての、華麗なまでにも「表」の「趣向」を現出した、いわば、「趣向詩」とでもいうべき装いを施しているということなのである。この意味において、その「表」の「趣向」よりも、「裏」の蕪村の内なる「情」を綴った、蕪村のもう一つの俳詩、「北寿老仙を悼む」(「晋我追悼曲」)とは、一線を画すべきものとの理解をも付記しておきたいのである。

回想の蕪村(五・五十一~六十五)

回想の蕪村五・五十~六十五

(五十)

安永六年(一七七七)の春興帖『夜半楽』は、「春風馬堤曲」(十八首)、「澱河歌」(三首)そして「老鶯児」(一首)の三部作をもって、あたかも一篇の連作詩篇を構成するかのごとき体裁をとっている。その三部作の「澱河歌」は、「春風馬堤曲」の盛名に隠れて、ともすると、その「春風馬堤曲」の従属的な作品と解されがちであるが、これまた、「春風馬堤曲」と同じく、実に多くの謎を秘めている興味の尽きない、これまた、異色の俳詩である。
この異色の俳詩「澱河歌」は、その初案と思われる、「澱河曲」と題するものと「澱河歌」と題するものとの二つの「扇面自画賛」が今に残されているのである。その二つの「扇面自画賛」は次のとおりである(『蕪村全集六』)。

「澱河曲」自画賛
  紙本淡彩 扇面 一幅 一七・八×五〇・八センチ
  款 右澱河歌曲 蕪村
  印 東成(白文方印)
  賛 遊伏見百花楼送帰浪花人代妓
    春水浮梅花南流菟合澱
    錦纜君勿解急瀬舟如電
    菟水合澱水交流如一身
    船中願並枕長為浪花人
    君は江頭の梅のことし
    花 水に浮て去ること
    すみやか也
    妾は水上の柳のことし
影 水に沈て
したかふことあたはす

「澱河歌」自画賛
  紙本淡彩 扇面 一幅 二三・〇×五五・〇センチ
  款 夜半翁蕪村
  印 趙 大居(白文方印)
  賛 澱河歌 夏
    若たけやはしもとの遊
    女ありやなし
    澱河歌 春
    春水浮梅花南流菟合澱
    錦纜君勿解急瀬舟如電
    菟水合澱水交流如一身
    船中願同寝長為浪花人
    君は江頭の梅のことし
    花 水に浮て去事すみ
    やか也
    妾は岸傍の柳のことし
影 水に沈てしたかふ
ことあたはす

(五十一)

 ここで、もう一度、『夜半楽』所収の「澱河歌」を再掲して置きたい。

  澱河歌三首
○春水浮梅花 南流菟合澱
 錦纜君勿解 急瀬舟如電
(春水(しゆんすい)梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
 錦纜(きんらん)君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟電(でん)ノ如シ)
○菟水合澱水 交流如一身
 船中願同寝 長為浪花人
(菟水澱水ニ合シ 交流一身(いつしん)ノ如シ
 船中願ハクハ寝(しん)ヲ同(とも)ニシ 長ク浪花(なには)ノ人ト為(な)ラン)
○君は水上の梅のごとし花(はな)水に
 浮(うかび)て去(さる)こと急(すみや)カ也
 妾(せふ)は江頭(かうとう)の柳のごとし影(かげ)水に
 沈(しづみ)てしたがふことあたはず

(五十二)

 先に紹介した、「澱河曲」自画賛は、昭和四十三年十月、羽黒山における第二十回俳文学会全国大会を記念して酒田市の本間美術館で開催された「芭蕉と蕪村と一茶展」で、出品されたので、尾形仂著『座の文学』所収の「蕪村」(「澱河歌」の周辺)において、次のように紹介されている。
「この扇面自画賛は、戦前の蕪村関係の諸画集はもとより、戦後催された日本経済新聞社主催の蕪村展(昭和三二)、逸翁美術館の蕪村特別展(昭和三八)、同蕪村総合展(昭和四一)、東京国立博物館の日本文人画展(昭和四〇)、毎日新聞社主催の蕪村展(昭和四一)等の目録にも載っていない珍品として、当時の参会者の注目を引いたので、その図柄を記憶にとどめている人も多かろう。今では森本哲郎氏の『詩人与謝蕪村の世界』(昭和四五)の口絵にカラーで収められて、ひろく一般にも知られている。画は、右手に持った扇子で顔を隠しつつ立ち去り行く遊客と、それをうらめしげに見送る遊女を描く。遊女は「奥の細道」の画巻や屏風に見える市振の遊女と筆意も同じこうがい髷で、元禄袖のうちかけをはおり、右袖で口もとをおおっている。遊客は五分月代(さかやき)の額ぎわを角(すみ)に抜き、髪に元結(もとゆい)を巻きたてた、いわゆる丹前風に頭を結い、羽織のかげからはことごとしい太刀の柄をのぞかせている。この名古屋山三まがいの顔つきは、蕪村の俳画にはめずらしいが、男女いずれも江戸初期の擬古的風姿による戯画で、当代風俗のスケッチではない。女に後を向けた遊客の背中の丸みは、例の「時雨三老像」中の月渓像の艶冶(えんや)を思わせ、その淡彩を施した洒脱な描線は、安永五年八月十一日付几董宛書簡にみずから「はいかい物之草画、凡(およそ)海内に並ぶ者覚無之候(おぼえこれなくそうろう)」と誇示する蕪村俳画をうかがわしむるに十分である。」
 そして、これに続けて、先に紹介した、蕪村真蹟の賛を紹介している。この「澱河曲」画賛は、紛れもなく蕪村の『夜半楽』所収の「澱河歌」の一異文と解して差し支えないものであろう。

(五十三)

 蕪村の『夜半楽』所収の「澱河歌」のミステリーなのは、昭和四十三年十月に新しく世に公表された、その初案とも思われる、扇面に描かれた「澱河曲」自画賛(上記のとおり)の他に、もう一つの、「澱河歌」自画賛(扇面)が出現したということなのである(尾形仂著『蕪村の世界』)。これが、上記で、その全容を紹介したところの「澱河歌」自画賛である。ここでは、「澱河曲」画賛の男女の図柄ではなく、「中央やや右寄りに舟をさす船頭の姿を描き、舟の後部は画面左下にさし出た近景の柳の葉蔭に隠れて見えない」(尾形・前掲書)と、船頭と柳の図柄なのである。そして、和詩の部分の「『江頭』の措辞は初稿の『澱河曲』に一致し、『岸傍』の措辞は『夜半楽』「澱河曲」のいずれとも一致しない。漢詩句が『夜半楽』と一致していることからいって、全体としては「澱河曲」から『夜半楽』所収の定稿に移る中間過程に位置するものといえようか」とし、「注目されるのは、詩題に『澱河歌 春』と見え、さらに画面右の空白部に『澱河歌 夏』として、『若たけや / はしもとの遊女 / ありやなし』の句が配されていることである。「若たけや」の句は『続明烏』(安永五)所収。もと安永四年五月二十一日、几董庵での月並句会の兼題『若竹』によって成った作か。『蕪村遺芳』その他所収の自画賛で名高い。橋本は現京都府八幡市内。当時、淀川に沿う大阪街道の宿駅で、旅籠屋にわずかの宿場女を抱えた下級の遊所があった。付近には竹林が多いが、右の自画賛の画面(註・『蕪村遺芳』)は風にそよぐ竹林の奥に二、三の矛屋を描いたもので、現実の遊所のスケッチとは違う。蕪村が竹林の奥に幻視したものは『撰集抄』に見える『江口・橋本など云(いふ)遊女のすみか』で、橋本の遊女への追憶は『新花摘』に『ほとゝぎす哥よむ遊女聞ゆなる』の追悼の句を捧げた亡母への慕情と遠くつながっていた。竹林の風景は、蕪村にとって、郷里毛馬のなつかしい思い出への通路であったといえる。扇面自画賛(註・「澱河歌」自画賛)か描かれた扁舟は、今、京の春を見返りつつ、橋本より毛馬へと棹さし下そうとしているところだろうか。となれば蕪村は、伏見での送別の場で「澱河曲」(註・「澱河曲」自画賛)が成った後、これを推敲して『夜半楽』に収めるまでのどの時点でか、『澱河歌』の題のもとに、郷愁のモチーフにもとづく淀川の四季の連作詩篇の作成を企画していたことになる。はたして秋・冬の画面には、どんな作が配されていたのか(あるいは配そうとしていたのか)。蕪村の句集をひもときながら、それらをあれこれと思いめぐらしてみることは、私ども後世の読者に託された夜半の楽しみといってもいいだろう」(尾形・前掲書)と続けている。これらの、『座の文学』・『蕪村の世界』所収の「澱河歌」周辺のことなどについて、そのミステリーの部分を、さらに紹介をしていきたい。

(五十四)

○ 送友人帰浪華(友人ノ浪華ニ帰ルヲ送ル)
  今夜到伏水 明朝直帰郷(今夜伏水(フシミ)ニ到ル。明朝直チニ郷ニ帰ラン。)
  舟中作何夢 惜別断我腸(舟中何ノ夢ヲカ作(ナ)ス。別レヲ惜シミテ我ガ腸(ハラワタ)ヲ断ツ。)

 上記は、几董の『丙申之句帖』(へいしんのくじょう)の中のもので、これらについて、
尾形仂氏は『座の文学』で詳細に論じ、そして、その後の『座の文学』で再度論じて、こ
の几董の漢詩の「送友人帰浪華」の「友人」は、上田秋成(無腸)その人であると特定し
ている。ここのところを、『座の文学』(「学術文庫版付記」)で、氏は次のように記してい
る。

○ 本稿執筆の時点では、「澱河曲」を贈った相手を特定するにいたらなかったが、その後
『丙申之句帖』の記載順序や暦日などを再検討した結果によれば、これは安永五年二月十日、上田秋成送別の宴席で成ったものかと推定される(拙著『蕪村の世界』参照)。

 ここのところを『蕪村の世界』で見ていくと次のとおりである。

○蕪村の題詞の「伏見百花楼ニ遊ビテ」(註・「澱河曲」画賛の「遊伏見百花楼」)と几董の起句の「今夜伏水(フシミ)ニ到ル」、同じく「浪花ニ帰ル人ヲ送ル」(註・「澱河曲」画賛の「送帰浪花人」)と几董の詩題の「友人ノ浪華ニ帰ルヲ送ル」、蕪村の詩句の「舟中願ハクハ枕ヲ並ベ」と几董の転句の「舟中何ノ夢ヲカ作(ナ)ス」、蕪村の和句の「影水に沈てしたがふことあたはず」と几董の結句の「別レヲ惜シミテ我ガ腸(ハラワタ)ヲ断ツ」といった、字句・内容の類似を見れば、両者を同じ時、同じ人を送っての作と断定して、ほぼ、間違いないであろう。そういえば、几董が三月十日の紫狐庵会の「梨花」の兼題に対して、「春の恨(うらみ)梅速くして梨花遅し」(『月並発句帖』)と詠んでいるのも、蕪村の「花水に浮て去ことすみやか也」の詩句の余響を受けたものと解されないではない。両者は、はたして、いつ、だれを送っての作であるのか。(『蕪村の世界』)

(五十五)

○几董の詩は『丙申之句帖』の「上巳」と前書する発句三句と、「三月十日紫狐庵会」と前書する発句三句との間に、「春夜」と題する次の七言古詩とともに記されている。
茅舎寂寥無客来(茅舎寂寥客来無シ)
孤燈不挑夢初回(孤燈挑ゲズ夢初メテ回ル)
読書倦去出窓外(読書倦ミ去リ窓外ニ出ヅレバ)
半月朧朧鐘磬催(半月朧朧鐘磬催ス)
(中略) 「半月」は陰暦七・八・九日または二十一・二十二・二十三日の月をいうが(『滑稽雑談』)、詩の内容と月出時間に照らせば、ここは前者(前者の上弦の場合、月は真夜中過ぎまで空に残るが、下弦の場合、月出は真夜中過ぎになる)。ただし、この年、前年の十二月に閏があったため、三月七日は陰暦の四月二十四日に当たり、もはや「半月朧朧」の空を仰ぐことはできなかったはずだ。歳時記では「朧月」は仲春とするものが多く、(中略)
「春夜」の詩につづく伏見における送別の詩は、「二月十四日菴中会」(句帖でそれ以前の句稿はすべて抹消してある)に先立つ、二月十日前後の作ということになる。ちなみに、「几董句稿」によれば、几董は安永三年には二月十三日(陽暦三月二十四日)、安永六年には二月十四日(陽暦三月二十三日)に伏見の観梅に出掛けており、伏見送別の詩が二月十日(陽暦三月三十日)ごろに成ったとすれば、「春水ニ梅花浮カビ」という蕪村の詩の景況にピッタリ合う(『蕪村の世界』)

(五十六)

○ここで思い合わされるのは、二月十二日付で几董に宛てた書簡に次のように見えることである。
(前略)
美人出帳独徘徊(美人帳ヲ出デテ独リ徘徊ス)
春色頻辞窗下梅(春色頻リニ辞ス窗下ノ梅)
却恨落花浸斂鬚(却ツテ恨ム落花ノ斂鬚ヲ侵スヲ)
一花払去一花来(一花払ヒ去レバ一花来ル)
かくなんいたし申候。此節徘(ママ)情すくなき折ふし、けく(結句)ましならんとも存候。(中略) 此のせつのほ句、二三申遺し候
ん(う)め咲やどれがんめやらむめじ(ぢ゛)ややら
んめ咲て帯買ふ室の遊女かな
(下略)
 南賀の梅の刷り物の出句依頼に対して七言絶句(中略)を作って贈ったことを報じているのは、几董の送別の詩を意識してのことではないか。(中略) 「春夜」の詩との関係からおおよそに割り出した二月十日という想定は、この書簡の日付けから見ても間違っていなかった(『蕪村の世界』)。

(五十七)

○もう一つ、この書簡の巻末に添えた「うめ咲や」の句は、几董編の『蕪村句集』には次のような形で収められている。

あらむつかしの仮名遣ひやな。字儀に害あら
ずんば、アヽまヽよ。
  梅咲ぬどれがむめやらうめじ(ぢ)ややら

 この年、安永五年正月、本居宣長は京都の銭屋利兵衛ほかから『字音仮名用格』を刊行し、その中で”ン”音を “む”と書くべきことを主張した。日本の古代には”ン”という音がなかったというこの宣長の説に対しては、上田秋成が反駁して、宣長との間に書簡の往復を重ね、宣長の『呵刈葭』後篇(写本)に収める論争に発展する。『蕪村句集』の詞書を参看すれば、「どれがむめやらうめじ(ぢ)ややら」の句は、一面満開の梅の花に対する理屈を越えた無条件の賛美を、この両者の論争に対する揶揄の形で表現したるものと見ることができるだろう。ところで、蕪村・几董はみの春、大阪からもと加島(今の西淀川区内)の住人秋成(俳号、無腸)を迎え、面話をとげている。(中略) 秋成の上京に関して、『丙申之句帖』では、二月十八日の記事と二十日が定例の紫狐庵会の発句との中間に、「香島(加島)の隠士無腸をとゞめて夜もすがら風談あるは題を探る」としてその折の自句三句を録しているが、(中略)十八日の時点では秋成はすでに大阪に戻っていた。「一昨夜の楼酒」「からうた一章」「うめ咲や」の句、という脈絡をたどってくれば、二月十日、伏見百花楼で、蕪村・几董が「澱河曲」と五言古詩を競作して「浪華ヘ帰ル」を送った相手は、もしかしたらその秋成ではなかったか(『蕪村の世界』)。

(五十八)

○花柳の巷に出入し「浮浪子(のらもの)」と交わる狂蕩の青年期の体験を持つ一方、和漢の学に詳しく、蕪村からは「奇異のくせ者」(『也哉抄』序)、几董からは「詩をよくし(中略)無双の才子」(東皐宛書簡)と評されるとともに、蕪村の死に際しては「かな書の詩人西せり東風(こち)吹て」(『から檜葉』)と悼んだ秋成ならば、艶冶の趣を帯びた和漢混交の詩篇や五言古詩を贈る相手として、いかにもふさわしい。逆に言えば、送別の相手が秋成だったからこそ、その座の雰囲気の中から、それら異端の作が生み出されたのだ、といえる。(中略)もし送別の相手がはたして秋成だったとすれば、蕪村が扇面に配するに、ことごとしい太刀をたばさんだ、五部月代の丹前風遊冶郎の絵をもってしたことは、「妓ニ代ハリテ」という設定とともに、自分も相手も虚構化し現実の送別の宴席を歌舞伎舞台の一場面へと転化させたものとして、その俳諧的趣向の奔放さには瞠目せざるを得ない。いずれにしても、こうした「澱河曲」が「澱河歌」の前身であり、かつそれが、安永五年二月十日、几董とともに伏見の妓楼で浪花へ帰る友人を送る宴席での即興として成ったものであることが確認される以上、これを娘くのの婚家や蕪村自身の秘められた情事と絡め、もしくは安永六年に成った「馬堤曲」創造の余勢の中から生まれた作として読もうとする従来の鑑賞は、大きな変更を迫られざるを得ないであろう(『蕪村の世界』)。
※蕪村の異色の俳詩「澱河歌」の前身に当たる扇面に描かれた「澱河曲」は、浪花に帰る上田秋成(俳号・無腸)に送る送別の宴席のものであったとする尾形仂氏の論拠を見てきた。もし、それが秋成のものであったとするならば、秋成の蕪村追悼の一句(「かな書の詩人西せり東風(こち)吹て」(『から檜葉』))と重ね合わせて、間違いなく秋成は蕪村の一面(「かな書の詩人」)を正鵠に見抜いていたという思いを深くする。それ以上に、安永六年の春興帖『夜半楽』に収載されている「澱河歌」は、その前身に当たる二葉の扇面の自画賛(「澱河曲」・「澱河歌」)が今に残されていることに鑑みて、蕪村の「春風馬堤曲」に続く、「淀川」幻想詩ともいうべき、蕪村の「淀川」への「かな書の詩」であるという思いを更に深くするのである。

(五十九)

○「澱河歌」の成立については、もう一つ触れておかなければならぬ周辺的事実がある。それは、この前後、几董の句帖の中に、前記二作のほかにもなお漢詩の作の記載が見えることである。すなわち春の部の末尾には「於東山下詩会 鴨河惜春」の詩、四月「金福寺 題残照亭」の詩が録されているが、これは例年にないことであった。(中略)それとともに、二月二十日の紫狐庵会の出句の次に、次のような詩題発句が録されているりも、また見落とせない。(註・「題草廬先生四時歌」を略)。「草廬先生」は、片山北海の混沌社と相対峙して平安に詩名を馳せた幽蘭社の龍公美の号である。草廬は初め徂徠の学をよろこび明詩をきわめたが、のち李・杜・高・岑らの盛唐諸家の風潮に従うべきことを提唱した。「平安四時歌」は、宝暦三年(一七五三)の序・跋をもって『艸廬集』初篇巻之五に収められている。蕪村がかって俳諧の要諦を問われて、答うるに離俗の法をもってし「詩を語るべし」を告げた春泥社召波が、草廬社中の逸足であったことについては、潁原退蔵博士の「召波」(創元選書『蕪村』)の稿に詳しい。(中略)漢詩の高邁を慕った夜半亭一門の人々が、「離俗の則」をつちかうよすがとして、『艸廬集』をひもとくべき機縁は十分に熟していたといっていい(『蕪村の世界』)。
※蕪村は、画・俳二道を極めた特異の俳諧師でもあった。その画はいわゆる南画(中国画)で、いわゆる漢詩と不可分の関係にあり、自ずから、蕪村の俳諧もまた、その「離俗の則」の要諦の「詩(漢詩)を語るべし」を俟つまでもなく、漢詩と密接不可分の関係にあることは言を俟たない。そして、その「詩(漢詩)を語るべし」は、蕪村が最も信頼をおいていた夜半亭門の逸足の春泥社召波に向かって言われた蕪村語録であり、その召波が当時の京都の詩(漢詩)壇の雄であった滝公美(号・草廬)の逸足であり、更に、その草廬が蕪村が私淑して止まなかった荻生徂徠と関係があったということは、蕪村、そして、その一門の夜半亭俳諧というもの見ていくうえで、どうしても避けて通れないキィーポイントのようなものであろう。そして、そのことは、蕪村の『夜半楽』、そして、そこに収載されている、和漢混合の異色の俳詩、「春風馬堤曲」・「澱河歌」を鑑賞するうえで、これまた避けて通れないキィーポイントのようなものであろう。

(六十)

○試みに、几董の跡を追って『艸廬集』初篇をひもとけば、その巻之二「七言古詩」の中に、次のような一篇が見出される。(中略) 「生駒山人」(註・漢詩の中に出てくる「生駒山人ガ舟ニ泛ンデ南ニ帰ルヲ送ル」の「生駒山人」)は、日下世傑(中略)の号、草廬の友人で生駒山の近くに住んでいた。『艸廬集』の右の詩を巻之二「七言古詩」九首中に収めたのは、『唐詩選』巻之二「七言古詩」三十二首中に岑参(しんじん)の詩(詩は省略)を収めるものを襲ったものにほかならない。そして蕪村が「送帰浪花人」詩に「澱河曲」ないし「澱河歌」と名づけたものは、草廬の「澱水歌送生駒山人泛舟南帰」(註・「澱」は異体字で、「ヨドカハ」とのルビがある)のひそみにならったものではなかろうか。「歌」「曲」ともに楽府に発する古詩の一体である。もと民謡に始まり、楽曲を伴う詩として創作された。唐代に至って文人の手により読式詩として擬作されるようになっても、謡われる詩としての心持ちは離れなかったらしく、長短句において著しい発達をとげたという。「澱水歌」(「澱」は異体字)もまた、五言・七言を長短錯雑して用いている。蕪村が「澱河曲」に、五言古詩二章(註・「春水浮梅花南流菟合澱  錦纜君勿解急瀬舟如電」・「菟水合澱水交流如一身 船中願並枕長為浪花人」)につづけ、第三章に五言・六言の詩句を訓読した形の和詩(註・「君は江頭の梅のことし 花 水に浮て去ること すみやか也」・「妾は水上の柳のことし 影 水に沈て したかふことあたはす」)を配したのは、楽府題詩における長短句を下敷にしながら、その新しい変奏を試みたものと見ることができるだろう。心持ちとしては、淀川沿岸の人々の間で謡われた民謡の曲によった、宴席の唄のつもりだったといっていい(『蕪村の世界』)。
○これらの尾形仂氏の一連の考察を見て、『唐詩選』の岑参の漢詩、その漢詩に基づく草廬の漢詩などが、蕪村・几董らの夜半亭一門の面々に影響を与え、その影響下にあって、蕪村の「澱河歌」が誕生したということが、理解されてくる。さらに、尾形仂氏の、これらの考察の前身ともいうべき『座の文学』所収の「『澱河歌』の周辺」の、「『澱河歌』という作品は、いわれるごとく詩人の”晩年の春情”という”ひとり心”の詩であるよりも、より多く、几董らとの漢詩熱の交響という、連衆心の所産として鑑賞されなければならぬことになるだろう」という指摘は、蕪村の「澱河歌」鑑賞上の必須のものであるという思いを深くする。

(六十一)

 先に(「五十六」で)、二月十二日付け几董宛て蕪村書簡(尾形仂氏は『座の文学』で「本書簡の染筆年次は安永五年」としている)中の下記の蕪村作の漢詩に関わることにについて紹介した。

○美人出帳独徘徊(美人帳ヲ出デテ独リ徘徊ス)
春色頻辞窗下梅(春色頻リニ辞ス窗下ノ梅)
却恨落花浸斂鬚(却ツテ恨ム落花ノ斂鬚ヲ侵スヲ)
一花払去一花来(一花払ヒ去レバ一花来ル)
かくなんいたし申候。此節徘(ママ)情すくなき折ふし、けく(結句)ましならんとも存候。(中略) 此のせつのほ句、二三申遺し候

 この漢詩の前に、次のような一節がある。

○今朝いろいろと案じ候も、さのみ新調なく、先刻思案をかへ、李白を客とし、杜子美をさそひて、からうた一章、一作仕候。又、おかしく存候ゆへ、申遣し候。 

 この書簡の「今朝いろいろと案じ候も、さのみ新調なく、先刻思案をかへ」というのは、「今朝いろいろと発句を作ろうとしていたが、どうしても目新しいものが浮かばず、ついつい考えを変え」というような意である。次の「李白」は「白髪三千丈」などで名高い「詩仙」と仰がれている中国盛唐の詩人、「杜子美」は、「国破山河在」などで名高い「詩聖」と仰がれている中国盛唐の詩人「杜甫」のこと。そして、蕪村は、これらの漢詩を「からうた」と称しているのである。当時、夜半亭一門においては、蕪村・几董を始め、俳諧だけではなく、この「からうた」作りにも相当な関心があったということであろう。そして、蕪村にとっては、『夜半楽』所収の「春風馬堤曲」も、はやまた、「澱河歌」も、ほんの余興の「からうた」の変形の和漢混合のお遊びという趣であったのかも知れない。

(六十二)

○蕪村は右の書簡(註・安永五(?)年二月十二日付け几董宛て書簡)で自作を披露するに、「李白を客とし、杜子美をさそひて」と言って、あたかも擬古派の詩人のごとき口吻を弄じている。一つには、蕪村に句をあつらえた南雅(註・上記の書簡に出てくる人物)の師の三宅嘯山を意識するところからきたものであろう。(中略) 嘯山の『俳諧古選』(宝暦一三)における評語が、擬古派の聖典とされる『唐詩選』や『滄浪詩話』から出ていることについては、田中道雄氏の指摘(昭和四五・一〇、俳文学会研究発表)がある。そしてまた、李・杜を宗とすることは、徂徠・南郭の流れを汲みながら、その明詩模倣をしりぞけ、盛唐の詩を絶対視した龍公美(りゅうこうび)の立場とも相通ずるものであった(『座の文学』)。 
※この龍公美とは、先に紹介したところの「草廬先生」こと、幽蘭社の龍公美その人である。先に紹介したところを下記に再掲しておくこととする。
○「草廬先生」は、片山北海の混沌社と相対峙して平安に詩名を馳せた幽蘭社の龍公美の号である。草廬は初め徂徠の学をよろこび明詩をきわめたが、のち李・杜・高・岑らの盛唐諸家の風潮に従うべきことを提唱した。「平安四時歌」は、宝暦三年(一七五三)の序・跋をもって『艸廬集』初篇巻之五に収められている。蕪村がかって俳諧の要諦を問われて、答うるに離俗の法をもってし「詩を語るべし」を告げた春泥社召波が、草廬社中の逸足であったことについては、潁原退蔵博士の「召波」(創元選書『蕪村』)の稿に詳しい。(中略)漢詩の高邁を慕った夜半亭一門の人々が、「離俗の則」をつちかうよすがとして、『艸廬集』をひもとくべき機縁は十分に熟していたといっていい(『蕪村の世界』)。

(六十三)

○だが、蕪村の披露する梅花の詩(註・上記書簡中の漢詩)は、かならずしも李・杜の風潮とは似ない。その艶冶の体は、むしろ白楽天を宗とした公安派の詩風を思わせる。おそらくはきちんと梳(くしけず)り整えた鬢(びん)を意味する「斂鬢(れんびん)」の語は『杜甫索引』『李白索引』『佩文韻府』のたぐいにも見出だすことができない。そうした典拠をもたない造語を自由にまじえて用いているところも、反擬古派的といえるだろう。この年、洛東金福寺境内に芭蕉庵を再興する際の発企者樋口道立は、反擬古派の先駆者清田儋叟(せいたたんそう)の甥であり、江村北海の第二子である。蕪村はみずからものした「魂帰来賦(こんきらいふ)」の末に、芭蕉庵再興のおり儋叟の撰文の一節を添えている。(中略) 高邁と磊落とを標榜する蕪村の立場は自在であった。そうした姿勢は、一方で、もはら蕉翁の風韻を慕いながら、世に跋扈する当世蕉門の徒の「しさいらしき句作り」を排斥し、暁台に対しては「拙老はいかいは敢(あへ)て蕉翁之語風を直ちに擬候にも無之、只心の適するに随(したがひ)、きのふにけふは風調も違ひ候を相楽み」とうそぶき、『夜半楽』序に「蕉門のさびしをりは可避春興盛席」と謳(うた)った、俳諧における自在の姿勢とも共通する(『座の文学』)。
※先に、『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)について見てきたが、そこで、安永六年の『夜半楽』が編纂された頃の、几董の春興帖『初懐紙』との関連について触れた。それらと、今回の尾形仂氏の『座の文学』・『蕪村の世界』とを照合しながら見ていくと、まさに、蕪村の『夜半楽』そして、その異色の俳詩といわれている「春風馬堤曲」・「澱河歌」は、まぎれもなく、尾形仂氏の上記で指摘する「俳諧における自在の姿勢」を強く訴えていることを痛感するのである。ここでも、再確認の意味合いも兼ねて、田中道雄氏の次の論稿を再掲しておきたい。
○(前略)『初懐紙』の編纂刊行を几董に任せた蕪村は、安永五年には自編の春帖を持たない。煩わしさも減じたが、一方では、『初懐紙』が地方系蕉門風に傾くのあまり、蕪村にとって飽き足らぬ思いも残った。そこで蕪村が、半ば興じ半ば真剣に、自らの趣味を充分盛り込んで編んだ春興帖が、安永六年(一七七七)の『夜半楽』だったと思われる。したがって同書は、『初懐紙』をモデルとしながら(半紙本一冊。〔序に代わる題辞→春興発句群→巻末の歌仙に代わる仮名詩三編〕という内容構成)、『初懐紙』の世界から『明和辛卯春』の方向に半歩後退し、都市俳諧的趣向性を横溢させながら、しかもなお豊に春景を描き出すものとなる。後退して、かえってそこに独自の作品世界を作り上げ得たのである。それは几董的ではなく、まさに蕪村的な春興集であった。たとえば、巻頭にすえられた歌仙の奇妙な冒頭部、

  歳旦はしたり皃(がほ)なる俳諧師     蕪村
   脇は何者節の飯帒(はんたい)      月居
  第三はたゞうち霞みうち霞み        月渓

をどう解すべきであろうか。それぞれの句頭に「歳旦」「脇」「第三」の語を折り込む趣向には、安永四年まで三ツ物の歳旦句になじんでいた蕪村が、心の隅にかすかな抵抗を覚えながら始めて春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)を巻く、半ば照れ半ばおどけた表情さえ思い浮かぶようである。このように考えると、かの太祗の句を引く「春風馬堤曲」もまた、蕪村らしい趣向に溢れた独自の春景句、しかも郊外散策のそれであった。『明和辛卯春』などと同様に匡郭と罫を刷り込み、巻頭に「…… / わかわかしき吾妻の人の / 口質にならはんとて」と揚言して、巻尾に「門人宰鳥校」と署名する意識には、江戸俳壇で育った蕪村の、京俳壇の新動向の中で独自の道を歩まんとする自負がにじむようである。思えば『明和辛卯春』などの匡郭と罫の緑墨も、画家らしい好みとともに、江戸俳壇の寛闊を伝えるさかしらではなかったか。ともあれ夜半亭一門の春興集は、京の都市民に自然愛の俳諧を供し、同門のその後の俳風を決定づけ、俳壇に長く影響を及ぼすことになったのである(『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)所収「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容」)。

(六十四)

○ひとしく「俗を離れて俗を用ゆ」る工夫を求めて漢詩熱の交響を楽しみながら、この点(註・俳諧の自在に対する姿勢)がおそらく几董と蕪村とを大きく分かつゆえんだろう。几董があくまでも草廬にならって唐詩の高邁につこうとするのに対して、蕪村はそれを意識に入れながら、あえて艶冶の体を採って磊落の調に遊ぼうとする。伏見百花楼での「澱河曲」の擬作は、あたかも連句の席で連衆に和しつつ相手を言いまかしはぐらかそうとする付合の呼吸にも似た、目に見えない火花を伝えている。几董が「別レヲ惜しシンデ我ガ腸を断ツ」と、唐詩硫の悲哀を表に立ててきまじめに惜別の情を吐露しているのに対して、「妓ニ代ハリテ」という設定を施し、「妾は水上の柳のごとし。影水に沈みてしたがふことあたはず」という纏綿たる妓女の恋情に託して自己の思いを述べたところに、蕪村の俳諧的趣向がある。(中略) 几董が「今夜伏水に到ル、明朝直グニ郷ニ帰ラン」と直叙したところを、(中略) 「錦纜(きんらん)君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟電(でん)ノ如シ」と艶冶の色を点ずる。「菟水澱水ニ合シ 交流一身(いつしん)ノ如シ」とは、すなわち、劉廷芝「公子行」の「与君(君ト)相向(相向カッテ)転(ウタタ)相親(相親シミ)、与君(君ト)双棲(双ビ棲ンデ)共一身(一身を共ニセン)」(『唐詩選』二)や曹子建「七哀詩」の「願(願ハクハ)為西南風(西南ノ風ト為リテ)、長逝(長ク逝キテ)入君懐(君ガ懐ニ入ラン)」(『文選』五)などの詩句を下敷きにしながら、几董の「舟中何ノ夢ヲカ作ス」の「夢」をもどいて散曲ふうに展開してみせたものにほかならない(『座の文学』)。

※ここで、「春風馬堤曲」・「澱河歌」が収められている『夜半楽』の目録と、その歌仙の主立った俳人を再掲すると次のとおりである。

夜半楽

目録
歌仙    一巻
春興雑題  四十三首
春風馬堤曲 十八首
澱河歌   三首
老鶯児   一首

安永丁酉春 初会
歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師     蕪村 表    ※(発句) 
脇は何者節(せち)の飯帒(はんたい)    月居      ※(脇)  
第三はたゞうち霞うち霞         月渓       ※(第三) 
十日の月の出(いで)おはしけり      鉄僧      ※(月)
谷の坊花もあるかに香に匂ふ       道立  裏    ※(花)
かけ的(まと)の夕ぐれかけて春の月    正白      ※(月) 
暁の月かくやくとあられ降(ふる)     維駒 名残の表 ※(月)
花の頃三秀院に浪花人          几董 名残の裏 ※(花)
都を友に住(すみ)よしの春        大魯      ※(挙句) 

 この歌仙でも一目瞭然のごとく、夜半亭二世・蕪村が発句、そして、歌仙一巻中最右翼の役とされている、名残の裏の花(匂いの花)は、夜半亭三世を継承されていることが約束されている几董と、この二人が夜半亭俳諧の主宰・副主宰の関係にある。そして、主宰者たる蕪村が副主宰者たる几董に、蕪村が持っている全てのものを、後継者の几董に伝授しようと、そういう蕪村の意気込みというものを、上記の尾形仂氏の指摘により、まざまざと再確認を強いられるような思いがするのである。ここでも、上記の歌仙にかかわる蕪村と几董との関連などのことについて、下記に再掲をしておきたい。

○ この歌仙(三十六句からなる連句)が一同に会してのものなのか、それとも、回状を回して成ったものなのかどうかは定かではないが、おそらく後者によるものと思われる。この歌仙は、一人一句で、三十六人がその連衆で、夜半亭一門の代表的俳人の三十六歌仙(三十六人の傑出した俳人)という趣である。発句は夜半亭一門の宗匠、夜半亭二世・与謝蕪村で、「歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師」(歳旦の句を快心の作とばかり得意顔の俳諧師である)と、新年祝賀の句を、若き日の東国に居た頃の宰鳥になった積りでの作句と得意満面の蕪村その人の自画像の句であろう。脇句の江森月居が蕪村門に入門したのは安永五年(一七七六)年の頃で、入門早々で脇句を担当したこととなる。当時、二十二歳の頃であろう。続く、第三の松村月渓は、月居よりも四歳年長で、呉春の号で知られている、蕪村の画・俳二道のよき後継者であった。この二人がこの歌仙を巻く蕪村の手足となっているように思われる。この歌仙の挙句を担当した吉分大魯は、夜半亭三世を継ぐ高井几董と、夜半亭門の双璧の一人で、この安永六年当時は京都の地を離れ大阪に移住していた頃であろう。この挙句の前の花の句(匂いの花)を担当したのは、几董で蕪村よりも二十四歳も年下ではあるが、蕪村はこの几董が夜半亭三世を継ぐということを条件として、夜半亭二世を継ぐのであった。もう一つの花の座(枝折りの花)を担当した樋口道立は、川越藩松平大和守の京留守居役の樋口家を継いだ名門の出で、当時、夜半亭一門で重きをなしていた。また、月の座を担当した、鉄僧(医師)、正白(後に正巴)、黒柳維駒(父は蕪村門の漢詩人でもある蕪村の良き理解者であった召波)と、この歌仙に名を連ねている連衆は、夜半亭一門の代表的な俳人といってよいのであろう。そして、それは、京都を中心として、大坂・伏見・池田・伊丹・兵庫と次の春興に出てくる夜半亭一門の俳人の世話役ともいうべき方々という趣なのである
(十九・再掲)。

(六十五)

○「澱河曲」の題名は、蕪村の「懐旧のやるかたなきよりうめき出た」「親里迄の道行」十八首が、これも楽府の名題である「大堤曲」になぞらえて「春風馬堤曲」と名づけられたとき、文字の重複をいとって「澱河歌」と改められ、詞書の「代妓」の文言は、「代女述意」と敷衍されて「馬堤曲」の前文に組み入れられる。それと同時に、「春水梅花浮」(春水ニ梅花浮カビ)を「春水浮梅花」(春水梅花ヲ浮カベ)と改めて、承句の「南流シテ」と主語の統一をはかり、「並枕」(枕ヲ並ベ)の措辞の和臭をきらって「同寝」(寝ヲトモニシ)と改めるとともに「江頭の梅」「水上の柳」の対句を「水上の梅」「江頭の柳」と置き換えるなどの推敲も施された。「代妓」の文言を削っても、連衆たちはその艶冶の体から「馬堤曲」の「代女述意」を「澱河歌」にもかけて読むであろう。また、「送帰浪花人」の詞書を省いても、「澱水歌」の存在を知る同好の人々は、これを送別の擬作と受け取るであろう。「澱河歌」は、説かれるごとく、そのまま「馬堤曲」の反歌とはならない(『座の文学』)。
※尾形仂氏の謎解きであるが、蕪村の「澱河歌」を創作するときの背景として、その謎解きが真実味を帯びてくる。趣向の人・蕪村ならば、これらのことは当然にあり得るという趣でなくもない。とするならば、「『澱河歌』は、説かれるごとく、そのまま『馬堤曲』の反歌とはならない」という指摘についても、「あたかも、この『澱河歌』を、『馬堤曲』の反歌のような趣向をも、蕪村は意識している」と推理することも可能であろう。
○ただし、蕪村は挨拶や月次(つきなみ)の句座の発句を、連作に構成し直すことによって、新しい世界を創造することを得意とした作家である。ここでも蕪村が、「さればこの日の俳諧はわかわかしき吾妻の人の口質(くちつき)にならはんとて」と前書する新春初会の歌仙を巻頭に据え、「春風馬堤曲 十八首」「澱河歌 三首」「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)と配列した『夜半楽』のコンテクストを通じて、「澱河歌」の上に、伏見百花楼の宴席の場におけるとはまた若干異なった色合いを加えようとしているのを閑却することはできぬだろう。「妓」「女」の「意」の上に重ねられた老蕪村の郷愁の情を中心とする鑑賞がそこから生まれる。私はそうした鑑賞を否定しようとは思わない(『座の文学』)。
※蕪村の『夜半楽』所収の「春風馬堤曲」、そして、「澱河歌」がいろいろに鑑賞されてきたのは、一に、蕪村の「挨拶や月次(つきなみ)の句座の発句を、連作に構成し直すことによって、新しい世界を創造することを得意とした作家である」ということに大きく起因している。そして、「春風馬堤曲 十八首」「澱河歌 三首」「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)の、この配列は、「春風馬堤曲 十八首」の反歌として「澱河歌 三首」、そして、「澱河歌 三首」の反歌として「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)と配列しるように思えるのである。と解すると、「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)の持つ比重というのは増してくる。

回想の蕪村(六・六十六~七十)

回想の蕪村六

(六十六~七十)

 これまで、『夜半楽』の三部作、「春風馬堤曲」・「澱河歌」・「老鶯児」のうち、異色の俳詩といわれている「「春風馬堤曲」並びに「澱河歌」を見てきた。ここで、『夜半楽』の巻軸の句(巻物の軸に近い部分。すなわち一巻の末尾。巻中の最も優れた句)の「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)に触れることにする。『蕪村全集(一)』(講談社)の句意等は次のとおりである。

○ 春もやゝあなうぐひすよむかし声

季語=うぐひす(春)。「あな憂」と掛ける。語釈 ○春もやゝ=下に「闌(た)け」を利かせる。○むかし声=老いた声。句意=春もようやく深まった今日このごろ、なんていやらしい鶯よ。すっかりふけこんだ古臭い声でさえずって。老鶯の声に託し、蕉風全盛の今、時代遅れの江戸座的詠風をひけらかしている老年の自分を自嘲的に詠むことで、一四八八(註・次の句)との照応を完成させた。 

○ 祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは
不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず)
蕉門のさびしをりは
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし)
さればこの日の俳諧は
わかわかしき吾妻の人の
口質(こうしつ)にならはんとて

安永丁酉春 初会
歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師

季語=歳旦(春)。歳旦開きに作る句。語釈 ○祇園会=京都八坂神社の祭礼。六月七日から七日間。鉾の上での鉦・笛・太鼓の囃しが名物。○秋風=秋風楽。雅楽曲の一。○音律=雅楽の音の調子。○さび・しをり=蕉門亜流の遵法する俳諧理念。○春興盛席=華やかな初春の俳席。○吾妻の人の口質=江戸座の亡師巴人の詠みぶり。したり皃=得意げな表情。「歳旦をしたり」と掛ける。句意=こんな古くさい掛け詞を織り込んだ歳旦句を、さもうまくやったとばかり得意顔をしている俳諧師よ、蕉門亜流全盛の俳壇を、俳諧本来の笑いの回復をもって一新しようとの抱負を裏返した、自嘲的自画像。

(六十七)

『蕪村全集(一)』(発句)は、尾形仂氏が担当したので、上記の句意等の解説は、尾形仂氏のものと理解して差し支えなかろう。ここで、『蕪村の世界』(尾形仂著)の解説などを見ていくことにする。
○「春もやゝ」の句は、『夜半楽』の総巻軸として、「春もようやく深まった今日このごろ、なんていやらしい鶯よ、すっかりふけこんだ古臭い声でさえずって」と、老鶯の声にかこつけ、蕉風花ざかりの今、時代遅れの江戸座的詠風をひけらかしている老年の自分を自嘲的に詠むことで、巻頭の「歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師」との照応を完成したもの。その巻頭・巻軸の照応を通して、蕉門亜流全盛の俳壇を、俳諧本来の笑いの回復をもって一新しようとする抱負を逆説的に利かせたのである(『蕪村の世界』)。
※蕪村の安永六年の春興帖・『夜半楽』が極めて構成的に編集されていることについては、これまで見てきたところであり、その意味で、「巻頭の『歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師』との照応を完成したもの」という指摘は十分に首肯できる。しかし、その他に、蕪村の脳裏には、蕪村の初撰集の『宇都宮歳旦帖』の軸句に登場する「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の鶯(そして、この鶯は、蕪村のその後の「歳旦帖・春興帖」には陰に陽に登場する)、その鶯との照応もあったことであろう(このことについては、前にも触れたが、ここでも、それらのことについて下記に再掲をしておきたい)。さらに、「その巻頭・巻軸の照応を通して、蕉門亜流全盛の俳壇を、俳諧本来の笑いの回復をもって一新しようとする抱負を逆説的に利かせたのである」という指摘については、これはより多く、「蕉門亜流全盛の俳壇」というよりも、これまでの自分を含めての「夜半亭一門俳諧」についての、安永六年の年頭に当たっての新たなスタート点の確認というような意味合いを有していることも付記しておきたい。
※ これらのことについては、寛保四年(一七四四)の蕪村の初撰集『宇都宮歳旦帖』の「渓霜蕪村輯」の署名でするならば、この安永六年(一七七七)の蕪村の春興帖の『夜半楽』の署名は「夜半亭蕪村輯」とでもなるところのものであろう。それを何故、「門人 宰鳥校」としたのか、確かに、上記のとおり、「夜半亭宋阿門人」という理解も一つの理解であろう。しかし、「門人 宰鳥校」の「校」が気にかかるのである。「校」とは「校合」(写本や印刷物などで、本文などの異同を、基準とする本や原稿と照らし合せること)とか「校訂」(古書などの本文を、他の伝本と比べ合せ、手を入れて正すこと)とかのの意味合いのものであろう。「門人 宰鳥撰」とか「門人 宰鳥輯」の、「編集」を意味する「撰」とか「輯」とかとは、やはり一線を画してのものなのであろう。それを遜っての表現ととれなくもないが、この『夜半楽』には、夜半亭一世・宋阿(巴人)の名はどこにも見られず、唐突に、この奥書に来て、この序文の「吾妻の人」を宋阿その人と理解して、「宋阿門人」と理解するには、やや、無理があるようにも思えるのである。ここは、『夜半楽』所収の異色の三部作の「春風馬堤曲」(署名・謝蕪邨)・「澱河歌」(署名なし)・「老鶯児」(署名なし)の、その「謝蕪邨」(この「引き道具」の狂言の座元・作者である「与謝蕪村」を中国名風に擬したもの)を受けて、「吾妻の人」風に「洒落風」に、「(謝蕪邨)門人 宰鳥校」と、蕪村自身が号を使い分けしながら、いわば、一人二役をしてのものと理解をしたいのである。 そもそも、蕪村の若き日の号の「宰町」(巴人門に入門した頃の「夜半亭」のあった「日本橋石町」の「町」を主宰する)を「宰鳥」(「宰鳥」から「蕪村」の改号の転機となった『宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の「鶯」の句に関連しての「鳥・鶯」を主宰する)へと改号したことは、当時の居所の「日本橋石町」から師巴人に連なる其角・嵐雪の師の芭蕉が句材として余りその成功例を見ないところの「鳥・鶯」への関心事の移動のようにも思えるのである。それと同時に、この安永六年の『夜半楽』の巻軸の句に相当する「老鶯児」の理解には、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の、その蕪村の号を初めて使用したところの「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の句と、それ以後の、歳旦帖・春興帖を編むときに、必ず登場してくるところの「鳥・鶯」の句と、同一線上のものと理解をしたいのである。そして、そう解することによって、始めて、この『夜半楽』の「老鶯児」の句の意味と、蕪村の絶吟の、「冬鶯むかし王維が垣根哉」・「うぐひすや何こそつかす藪の霜」・「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」の、この三句の意味合いが鮮明になってくると、そのように理解をしたいのである(「回想の蕪村」四十一・再掲)。

(六十八)

○ かづらきの帋(かみ)子脱(ぬが)ばや明の春(『明和辛卯春』・巻頭句)
○ 鶯の粗々がましき初音かな(同上・軸句)
○ 出る杭を打うとしたりや柳哉(同上)

 蕪村が五十五歳で夜半亭二世を継いだ翌年の明和八年(一七七一)の、襲号を記念して編んだ春興帖の巻頭句と軸句(二句)である。そして、それから六年後の安永七年(一七七七)の春興帖の巻頭句と軸句は次のとおりである。

○ 歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師(『夜半楽』・巻頭句)
○ 春もやゝあなうぐひすよむかし声(同上・軸句)

『蕪村の世界』(尾形仂著)では、この『明和辛卯春』と『夜半楽』とを視野に入れながら、上記の『夜半楽』所収の巻頭句と軸句との鑑賞を試み(上記六十六・六十七)、さらに、上記の『明和辛卯春』の軸句の一つの「鶯の粗々がましき初音かな」について、次のように鑑賞している。

○初音の鶯がまだホウホケキョウと正しく鳴くことができず、お粗末さまといった鳴き声だという、一見初鶯に優しい愛情を寄せたと取れる句の裏面からは、新参の宗匠として初の歳旦帖を出しは出したが、いかにも不十分な出来でお見苦しい次第だという、謙遜の挨拶の寓意が伝わってくる。

 そして、もう一つの軸句の「出る杭を打うとしたりや柳哉」について、次のような鑑賞文を続けている。

○そうなれば、この句もまた、単なる嘱目ではなく、「打(うた)うと」とする主体は京
俳壇の古参宗匠たち、「柳」に自身を擬した新参宗匠としての挨拶の句、ということになってくる。生意気にしゃしゃり出た邪魔者、エィ、頭をたたいてやれ、というところかも知れませんが、どっこい、私は今芽吹こうとしている柳、大きくなっても、”風の柳”で、けっして皆様方にさからったり邪魔になったりしませんので、何分にもお手柔らかに、どなた様もよろしく、といった具合に。その卑下の挨拶の裏には、むろん、旧套一新、新しい一歩を踏み出そうとの意を寓した巻頭吟(註・「かづらきの帋(かみ)子脱(ぬが)ばや明の春」の句)に応ずる、これから芽吹こうとする者の決意が隠されている。あえて「打(うた)うとしたりや」という民謡調の俗語表現を採ったのも、「かづらきの帋(かみ)子脱(ぬが)ばや」という巻頭吟のおどけた身ぶりに応じ、そうした寓意を笑いに紛らわせようがたるではなかったか。

 蕪村の「歳旦帖」・「春興帖」は、それぞれがそれぞれに呼応し、同じような色調・構成を帯び、そこに収載されている「巻頭句」や「軸句」も、それぞれがそれぞれに呼応し、同じような色調と寓意とを秘めているということであろうか。かく解することによって、安永六年の春興帖『夜半楽』とそこに収載されている二大俳詩の「春風馬堤曲」・「澱河歌」、そして、その最後を飾る総巻軸句の「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」に、蕪村が託した創意というのが見えてくる。

(六十九)

○ 古庭に鶯啼きぬ日もすがら (『宇都宮歳旦帖』軸句・寛保四年)
○  鶯の粗々がましき初音かな (『明和辛卯春』軸句・明和八年) 
○ 春もやゝあなうぐひすよむかし声 (『夜半楽』軸句・安永六年)
○ 冬鶯むかし王維が垣根哉(『から檜葉』臨終三句の第一句・天明三年)
○ うぐひすや何ごそつかす藪の中(『から檜葉』臨終三句の第二句・天明三年)
○ しら梅に明る夜ばかりとなりにけり(『から檜葉』臨終三句の絶吟・天明三年)

 蕪村が、蕪村の号をはじめて名乗ったのは、寛保四年(二十九歳)の『宇都宮歳旦帖』の鶯の句であった。そして、蕪村が、名実共に夜半亭俳諧の総帥として夜半亭二世となり、その翌年の明和八年(五十六歳)の『明和辛卯春』に夜半亭と署名したのも、鶯の句であり、そして、安永六年(六十二歳)に、異色の俳詩二編(「春風馬堤曲」・「澱河歌」)とともに、老鶯児と題しての一句も、鶯の句であった。それから六年の後の天明三年(六十八歳)の臨終三句のうちの二句が鶯の句であり、その二句の鶯の句の後に、「初春」との題をおくように命じての「しら梅に」(白むめの)の句が、その絶吟となったのである。その絶吟を後世に伝えたのが、夜半亭三世・高井几董の『から檜葉』であり、その几董の「夜半翁終焉記」には、その臨終三句について、次のように記している。

○此三句を生涯語の限りとし、睡れるごとく臨終正念にして、めでたき往生をとげたまひけり。(此の三句を生涯の作品の最後として、眠るように臨終を迎え、めでたい往生をとげられたのであった。)

 こうしたものを見ていくときに、これらの鶯は蕪村その人の分身であり、その分身である鶯が、そのエポック、エポックに、蕪村その人の映像として、これらの句に接する者に語りかけてくるように思えるのである。そして、『夜半楽』所収の「老鶯児」と題する鶯の句も、単に、自嘲的自画像(尾形仂著『蕪村の世界』)という理解から、何故か、「老懶(ろうらん)」の「老いていことのもの憂さ」というようなものを語りかけているように思えてならないのである。そして、それは、その前年(安永五年)の「老懐」と題する次の一句と交響しているように思えてならないのである。

○ 去年より又さびしいぞ秋の暮(安永五年正名宛・短冊)

 さらには、その一年前(安永四年)の次の「老懶」の一句と交響しているように思えてならないのである。

○ うき我にきぬたうて今は又(また)止ミね(『続明烏』・『新虚栗』)

(七十)

○ うき我にきぬたうて今は又(また)止ミね(安永四年・『続明烏』・『新虚栗』)
○ 去年より又さびしいぞ秋の暮(安永五年正名宛・短冊)
○ 春もやゝあなうぐひすよむかし声(安永六年『夜半楽』軸句)

 安永四年の「うき我にきぬたうて今は又(また)止ミね」の句は、芭蕉の「うき我をさびしがらせよかんこどり」(『嵯峨日記』)を、さらには、「砧打(うち)てわれをきかせよ坊が妻」(『野ざらし紀行』)を念頭にあったのものであることは言をまたないであろう。芭蕉は、「憂い・老懶」に、真っ向から対峙している。「閑古鳥」の鳴き声を、「ある寺に独(ひとり)居て云(いひ)し句なり」と、さらに、「さびしがらせよ」と一歩も退いていない。さらには、「憂い・老懶」の増すなかにあって、「砧を打ちてわれを聞かせよ」と、その「憂い・老懶」の正体を正面から凝視し、傾聴しようとしている。それに比して、蕪村は、日増しに増す「憂い・老懶」の日々にあって、芭蕉と同じように、「うき我にきぬたうて」としながらも、「今は又(また)止ミね」(今は又止めて欲しい)と、その「憂い・老懶」の中に身を沈めてしまう。安永五年の「去年より又さびしいぞ秋の暮」の句もまた、芭蕉の佳吟中の佳吟「この秋は何で年寄る雲に鳥」(『笈日記』)に和したものであろう(『蕪村全集(一)』)。芭蕉は、この芭蕉最後の旅にあって、その健康が定かでない中にあって、「憂い・老懶」の真っ直中にあって、「何で年寄る」と完全な俗語の呟きをもって、「雲に鳥」と、連歌以来の伝統の季題の、「鳥雲に入る」・「雲に入る鳥」・「雲に入る鳥、春也」と、次に来る「春」を見据えている。それに比して、蕪村は、芭蕉の「憂い・老懶」の「寂寥感」に耐えられず、「去年より又さびしいぞ」と、その「老懐」に、これまた身を沈めてしまうのである。そして、蕪村は、その翌年の春を迎え、その春の真っ直中にあって、「春もやゝあなうぐひすよむかし声」と、いよいよ、その「憂い・老懶」に苛まれていくのである。さればこそ、この「憂い・老懶」を主題とする「老鶯児」の一句を、巻軸として、異色の俳詩、「春風馬堤曲」・「澱河歌」の二扁の序奏曲をもって、「華麗な華やぎ」を詠い、その後に、真っ向から、「憂い・老懶」の自嘲的な、「老鶯児」と題する、「「春もやゝあなうぐひすよむかし声」の一句を、この『夜半楽』の、「老い」の「夜半」の「楽しみ」も、所詮、「憂い・老懶」が増すばかりと、その最後に持ってきたのではなかろうか。

回想の蕪村(一~三)

回想の蕪村(一~十七)

回想の蕪村2006/08/03

(一)

 蕪村には三大俳詩がある。「北寿老仙をいたむ」(晋我追悼曲)、「春風馬堤曲」そして「澱河歌」である。次のアドレスに、それらの三つについて紹介されている。

http://ship.nime.ac.jp/~saga/txtbuson.html

北寿老仙をいたむ

君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき
蒲公の黄に薺のしろう咲きたる
見る人ぞなき
雉子のあるかひたなきに鳴を聞ば
友ありき河をへだてゝ住にき
へげのけぶりのはと打ちれば西吹風の
はげしくて小竹原真すげはら
のがるべきかたぞなき
友ありき河をへだてゝ住にきけふは
ほろゝともなかぬ
君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
我庵のあみだ仏ともし火もものせず
はなもまいらせずすごすごと彳める今宵は
ことにたうとき
                      釈蕪村百拝書

 この「北寿老仙」については、「若き日の蕪村」で見てきたところである。以下のものは、グーグルのブログに再掲したものであるが、参照するときは、エンコードを(Unicode)にして適宜参照していただきたい。この「回想の蕪村」では、この「北寿老仙をいたむ」は従として、その他の二編の俳詩、「春風馬堤曲」並びに「澱河歌」を中心として見ていくことにする。

「若き日の蕪村」(その二)
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_114946097401984177.html

「若き日の蕪村」(その三)
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_06.html

「若き日の蕪村」(その四)
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_08.html

「若き日の蕪村」(その五)
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_09.html

「若き日の蕪村」(その六)
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_11.html

(二)

 蕪村の三大俳詩の「春風馬堤曲」の全文は次のとおりである。

http://ship.nime.ac.jp/~saga/txtbuson.html

春風馬堤曲
             謝蕪邨

  余一日問耆老於故園。渡澱水
  過 馬堤。偶逢女帰省郷者。先
  後行数里。相顧語。容姿嬋娟。
  癡情可憐。因製歌曲十八首。
  代女述意。題曰春風馬堤曲。
 (余一日(いちじつ)耆老(きらう)ヲ故園ニ問フ。澱水(でんすい)ヲ渡リ
  馬堤ヲ過グ。偶(たまたま)女(じよ)ノ郷ニ帰省スル者ニ逢フ。先
  後シテ行クコト数里、相顧ミテ語ル。容姿嬋娟(せんけん)トシテ
  癡情(ちじやう)憐(あはれ)ムベシ。因リテ歌曲十八首ヲ製シ、
  女(じよ)ニ代ハリテ意ヲ述ブ。題シテ春風馬堤曲ト曰フ。)

   春風馬堤曲十八首

○やぶ入や浪花(なには)を出(いで)て長柄川(ながらがは)
○春風や堤長うして家遠し
○堤下摘芳草 荊与棘塞路
 荊棘何無情 裂裙且傷股
(堤ヨリ下リテ芳草ヲ摘メバ 荊(けい)ト棘(きよく)ト路(みち)ヲ塞グ
 荊棘何ゾ無情ナル 裙(くん)ヲ裂キ且ツ股(こ)ヲ傷ツク)
○渓流石点々 踏石撮香芹
 多謝水上石 教儂不沾裙
(渓流石(いし)点々 石ヲ踏ンデ香芹(かうきん)ヲ撮(と)ル
 多謝ス水上ノ石 儂(われ)ヲシテ裙(くん)ヲ沾(ぬ)ラサザラシム)
○一軒の茶見世の柳老(おい)にけり
○茶店の老婆子(らうばす)儂(われ)を見て慇懃に
 無恙(ぶやう)を賀し且(かつ)儂(わ)が春衣を美(ほ)ム
○店中有二客 能解江南語
 酒銭擲三緡 迎我譲榻去
(店中二客有リ 能(よ)ク解ス江南(かうなん)ノ語
 酒銭三緡(さんびん)ヲ擲(なげう)チ 我ヲ迎ヘ榻(たふ)ヲ譲ツテ去ル)
○古駅三両家猫児(べうじ)妻を呼(よぶ)妻来(きた)らず
○呼雛籬外鶏 籬外草満地
 雛飛欲越籬 籬高堕三四
(雛ヲ呼ブ籬外(りぐわい)ノ鶏 籬外草(くさ)地ニ満ツ
 雛飛ビテ籬(かき)ヲ越エント欲ス 籬高ウシテ堕(お)ツルコト三四 )
○春艸(しゆんさう)路(みち)三叉(さんさ)中に捷径(せふけい)あり我を迎ふ
○たんぽゝ花咲(さけ)り三々五々五々は黄に
 三々は白し記得(きとく)す去年此(この)路(みち)よりす
○憐(あはれ)ミとる蒲公(たんぽぽ)茎短(みじかう)して乳(ちち)をあませり
○むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
 慈母の懐袍(くわいほう)別に春あり
○春あり成長して浪花にあり
 梅は白し浪花橋辺(けうへん)財主の家
 春情まなび得たり浪花風流(ぶり)
○郷を辞し弟(てい)負(そむ)く身三春(さんしゆん)
 本(もと)をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅
○故郷春深し行々(ゆきゆき)て又 行々(ゆきゆく)
 揚柳(やうりう)長堤道漸(やうや)くくだれり
○矯首(けうしゆ)はじめて見る故園の家黄昏(くわうこん)
 戸に倚(よ)る白髪の人弟を抱(いだ)き我を
 待(まつ)春又春
○君不見(みずや)古人太祗が句
   薮入の寝るやひとりの親の側

(三)

 蕪村の三大俳詩の「澱河歌」の全文は次のとおりである。

http://ship.nime.ac.jp/~saga/txtbuson.html

澱河歌

  澱河歌三首
○春水浮梅花 南流菟合澱
 錦纜君勿解 急瀬舟如電
(春水(しゆんすい)梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
 錦纜(きんらん)君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟電(でん)ノ如シ)
○菟水合澱水 交流如一身
 船中願同寝 長為浪花人
(菟水澱水ニ合シ 交流一身(いつしん)ノ如シ
 船中願ハクハ寝(しん)ヲ同(とも)ニシ 長ク浪花(なには)ノ人ト為(な)ラン)
○君は水上の梅のごとし花(はな)水に
 浮(うかび)て去(さる)こと急(すみや)カ也
 妾(せふ)は江頭(かうとう)の柳のごとし影(かげ)水に
 沈(しづみ)てしたがふことあたはず

(四)

 「春風馬堤曲」並びに「澱河歌」の鑑賞に入る前に、この世に始めて「俳詩」というものを定着させたところの潁原退蔵著『蕪村』所収の「春風馬堤曲の源流」(『潁原退蔵著作集第十三巻』所収)が、次のアドレスで紹介されているので、その全文を分説して紹介をしておきたい。なお、潁原退蔵氏のプロフィールは次のとおりである。

http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/study/ebarataizo.html

(潁原退蔵プロフィール)

潁原退蔵(えばら たいぞう) 国文学者 1894.2.1 – 1948.8.30 長崎県に生まれる。近世文学ことに与謝蕪村研究に比類なき先駆的業績を積んだ碩学、編著『蕪村全集』は今なお金字塔である。 掲載作は、昭和十三年(1938)以降四編の論文を整備して名著『蕪村』(昭和十八年<1943>一月創元社刊)に所収、初めて「俳詩」という項目の確立された画期的論考として知られる。

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その一)

安永六年(1777)の正月、蕪村は『夜半楽』と題した春興の小冊を出した。その中に「春風馬堤曲」十八首と「澱河歌」三首とが収められてある。それは一見俳句と漢詩とを交へて続けたやうなものであるが、実は必ずしもさうではない。言はば一種の自由詩である。しかも格調の高雅、風趣の優婉、連句や漢詩とはおのづから別趣を出すものがあつて、人をして愛誦せしめるに足る。その体は日本韻文史上にも独特の地位を占むべきもので、ひとり形式の特異といふ点のみでなく、一の文藝作品として確かに高度の完成した美を示して居ると言つて宜(よ)い。而(しか)してこの特殊な韻文の形式を、蕪村はどこから学んで来たのであらうか。それとも全く彼が独創的に案出したものであつたらうか。蕪村にはなほ同様な韻文体の作「北寿老仙をいたむ」の一篇が残されてある。下総結城(しもふさゆふき)の人、早見晋我(しんが)の死を悼んだ曲である。晋我が歿したのは延享二年(1745)のことであるから、曲もすなはち当時の作にかゝるものであらう。それは、

     北寿老仙をいたむ

  君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
  何ぞはるかなる
  君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ
  をかのべ何ぞかくかなしき
  蒲公の黄に薺(なづな)のしろう咲たる
  見る人ぞなき
  雉子(きゞす)のあるかひたなきに鳴を聞(きけ)ば
  友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき
  へげのけぶりのぱと打ちれば西吹風(にしふくかぜ)の
  はげしくて小竹原真すげはら
  のがるべきかたぞなき
  友ありき河をへだてゝ住にきけふは
  ほろゝともなかぬ
  君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
  何ぞはるかなる
  我庵(わがいほ)のあみだ仏ともし火もものせず
  花もまゐらせずすごすごと彳(たゝず)める今宵は
  ことにたふとき
    (晋我五十回忌追善『いそのはな』)

といふので、これには漢語の句は全く含まないけれども、その韻律は極めて自由であり、詞章もまた頗る高雅の気に富んで居る。「春風馬堤曲」の源流が夙(はや)くこゝに存することは、何人(なんぴと)もこれを認めるにちがひない。少くとも蕪村の心にはかうした韻文への創作欲が、若い頃から動いて居たのである。ではこの「北寿老仙をいたむ」の風体を、彼はやはり別に学ぶ所があつて得たのであらうか。問題は更に溯らねばならない。

(五)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その二)

俳諧に於ける韻文の一体といへば、誰しも想ひ到るのは支考一派の間に行はれた所謂(いはゆる)仮名詩である。それは支考が自ら新製の一格として世に誇示した所であるが、要するに漢詩の絶句・律の体に倣ひ、十字を以て五言とし、十四字を以て七言とするやうな規矩を設け、更に五十音図の横列によつて仮名の押韻までも試みようとしたものである。その実作は『本朝文鑑』『和漢文操』等にも、特に類を分ち目(もく)を立てて多く収めてあるから、こゝに詳しく説くにも及ばないが、例へば、

     逍遙遊 五言   蓮二房
  よしあしの葉の中に   寝れば我さむればとり
  鳥さしはさもあれや   かく痩(やせ)て風味なし

     山中尋酒 七言  得巴兮
  門の杉葉に酒をたづぬれば  畚(フゴ)ふり捨(すて)て麦刈にとや
  樽はつれなく店に寝ころびて 臼引音(うすひくおと)の庭にさびしさ

     和漢賞花 五言律
  花はよし花ながら    見る人おなじからず
  ぼたんには蝶ねむり   さくらには鳥あそぶ
  たのしさを鼓にさき   さびしさを鐘にちる
  唐にいさ芳野あらば   詩をつくり歌よまむ

     和漢賞月 七言律
  我日のもとの明月の夜は   もろこし人も皆こちらむく
  詩には波間の玉をくだきて  哥(うた)に木末の花やちるらん
  雪か山陰の友をおもへば   露も更科の姥(うば)ぞなくなる
  さはれ杜子美が閨にあらずも 芋とし見れば物も思はず

の如く八句から成つて居る。に・り・し、ば・や・さ等と、伊列又は阿列の音を句尾に置いて、所謂仮名の韻を押すやうな技巧は、流石(さすが)に支考らしい工案(くあん)ではあるが、ともあれ普通の俳諧とは全く異つた形式を用ゐて、しかもその中に俳味の掬(きく)すべきものがなしとしない。もしこのやうな一体の韻文が、真摯(しんし)な文藝精神の下に展開を遂げたならば、それは俳諧から派生した一の特殊な文藝として、俳文よりももつと注意すべき近世文藝の一分野を占めることが出来たであらう。

(六)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その三)

そして自由な韻律と格調とをもつた新韻文の形式は、明治の新体詩をまたずして十分成長し得た筈である。しかし支考の例のことごとしいあげつらひは、徒(いたづ)らに体制の上に無用の指を立てるやうな事のみに急で、真に文藝的な完成への努力を怠つた。例へば仮名に真名(まな)の韻を用ゐる一格と称して、

     田家ノ恋    蓮二房
  さをとめの名のいかにつゆ(露)けき(濃)
  花もかつみのよしやよ(俗)の中
  浅香にあらぬ沼のかげ(影)さへ(副)
  鏡の山のそこにはづ(慚)かし(通)

の如く、一句の終に特に漢字を宛てて、こゝに押韻(あふゐん)する方法を案じたりした。のみならずこの漢字についても、俗中は日本紀により、影副は万葉に出で、慚通は真字伊勢物語に基くなどと一々勿体をつけて居る。果ては、

     祝草餅    桐左角
  若菜は君が為とよみしかど(廉)  
  蓬はけふの餅につかれしを(塩)
  名も鴬のいろにめでけむ(剣)
  げに花よりと見れば見あかね(兼)

の如きかどを廉にしをを塩に宛てるなど、殆ど遊戯文字と選ぶ所のないやうな作までも試みて居る。こゝに至つては折角の万葉の体も、律法の新製も、その愚や及ぶべからずである。
 美濃派の俳人の間には、その後もなほ仮名詩の作は行はれて居た。同派の俳書を繙(ひもと)くならば、享保以後ずつと後年に至るまで、屡々その作が試みられて居ることを知るであらう。中には見るべきものもないのではない。也有(やいう)の『鶉衣』に収むる「鍾馗画讃」や「咄々房挽歌」等も、また仮名詩の流を汲むものであつた。だからやはり仮名の韻を押し、又毎句末に漢字を宛てたりして居るのであるが、「咄々房挽歌」の如きは、

  木曽路に仮の旅とて別(わかれ)しが
     武蔵野に、長きうらみとは成ぬる(留)
    呼べばこたふ松の風
    消てもろし水の嶇(=正しくはサンズイヘン)
  わすれめや   茶に語し月雪の夜
  おもはずよ   菊に悲しむ露霜の秋
    庵は鼠の巣にあれて   蝙蝠群て遊
    垣は犬の道あけて    蟋蟀啼て愁
      昔の文なほ残    老の涙まづ流
  よしかけ橋の雪にかゝらば
  招くに魂もかへらんや不(イナヤ)

と、句脚に尤(いう)の韻を用ゐる為にかなり無理な点が見られるにもかゝはらず、そのリズムは頗(すこぶ)る自由でしかも一種の高雅な風韻が感ぜられる。又天明・寛政の頃小夜庵五明の門人是胆斎野松は和詩の作を好み、その編した『和詩双帋(わしざうし)』には盧元坊以下の人々の作を集めてあるが、誦するに堪へる佳作も少しとしない。今五明と野松の作一篇づゝを抜いて見よう。

(七)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その四)

  秋香亭の夕顔を題して   小夜庵
  垣根に長く作り垂しは   我が手に墨し窓切らんとや
  月を眺むる便りならねば  いけては壁に花を見る哉

     題雨中の桜        野松
  降りくらす桜の雨     雨匂ふ鐘のおと
  蝶と散るもおしむまじ   鳥と笑むも仇(あだ)なるを
  露深く昼をうらみ     霞に立つ俤(おもかげ)も
  物言はん色と見れば    花にもあらで我が心

 これらは依然として仮名の韻をふみ、支考の製した旧格を守つて居るが、とにかく発句や連句とは異つた形に於いて一種の詩情を味ははしめる。蕪村の「北寿老仙をいたむ」や「春風馬堤曲」が、俳諧から出た韻文の一格と見られるとすれば、結局それは支考一派のかうした仮名詩に因縁(いんえん)を求めねばならないものだらうか。それにしても支麦(しばく)の平俗を甚しく厭つた蕪村の事である。かりに「春風馬堤曲」を仮名詩の展開の中に位置づけるとしても、彼が直接『本朝文鑑』や『和漢文操』に範を得たとは思はれない。さうかと言つて、也有や五明に学んだ点も見られないのである。
 俳諧に仮名詩の一流が長く伝はつたにしても、蕪村の「春風馬堤曲」は恐らくそれとは没交渉に生れたものであらう。彼の孤高な離俗の精神は、支麦の徒が奉じた俳諧理念と相容れる事は出来なかつた。たとひ仮名詩の中に二、三の詩情豊かなものがあつたにせよ、「春風馬堤曲」はやはり蕪村がひとり住む浪漫的な抒情の世界であつた。しかしかの自由な詩の一格は、必ずしも彼の創案になるものではない。実は夙く享保・元文の交から、江戸俳人の間に仮名詩とは全く別趣な一種の韻文が行はれて居たのである。それらの作品の中で、管見に入つた最も古いものは、享保二十一年(1736)三月刊行の『茶話稿』(紫華坊竹郎撰)に載(の)する左の一篇である。

(八)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その五)

     立君の詞   楼川
  よるはありたや   雨夜はいやよ
  ふればふらるゝ   此ふり袖も
  草の野上の     野の花すゝき
  まねきよせたら   まくらにかそよ
  かさにかくれて   ふたりで寝よに
  ござれござれよ   月の出ぬまに

 七七調の連続は仮名詩の所謂十四字七言の体に類するが、これは六句から成つて居て、絶句にも律にも当らない。又特に一定の韻をふんだあとも認められない。詠む所は市井卑俚(しせいひり)の景物を捉へて、しかも賤陋猥雑に堕することなく、一脈幽婉可憐の情趣を掬(きく)せしめるものがある。軽妙の才はあるいは也有の『鶉衣拾遺』に収められた仮名詩「辻君」に一籌(いつちう)を輸(ゆ)するかもしれないが、これは小唄めいた律調を交へて、よく俳諧の境地に即して居る。この一作が支考の新製と全く関する所なくして生れたか否か、それは今日から容易に推定を下すことは出来ない。しかし少くとも楼川(ろうせん)の俳系から考へると、彼が故(ことさ)らに所謂田舎蕉門の顰(ひそみ)に倣はうとする筈もない。晩得の『古事記布倶路』にも右の楼川の作を採録して、「仮名詩のやうなれども少し風流あり」と評して、美濃派の作とは似て非なることを認めて居る。今試みにこのやうな作が生れた一の契機について説くならば、当時江戸俳人の間には、従来俳文の体に賦・説・辞・解等の煩雑な形式的分類が行はれながらも、その実体に変化がなく千変一律なのに倦(あ)いて、何等か新しい一体を得ようとする機運が動いて居たのではあるまいか。江戸俳壇に於けるさうした要求に基く動きは、前掲の『茶話稿』に収められた二、三の文章にも認められる。又かの吉原に関する一の俳文集ともいふべき『洞房語園集』(元文三年<1738>刊)の如きも、従来の分類と同様な序・賛・引・頌・説・記等の名目に従つては居るが、実は必ずしもそれらの名目に捉はれない自由な態度が見られるのである。この間から河東節(かとうぶし)の作者が出たりして居るのも、あるいはさうした曲詞にまで俳諧文章の進出を意味するつもりであつたかも知れない。ともあれ楼川の「立君の詞」は、支考の仮名詩に系を引くものとするよりは、新しい俳文の一体を得ようとする江戸俳人の要求に基いたと見るべきであらう。
 芭蕉俳諧に於けるさびや細みは、それが軽みの理念の十分な理解を伴はない場合、あまりに形式的な枯淡閑寂を強ひる傾(かたむき)を生じた。事実「今の芭蕉風といへる句を察するに、古池やのばせをが句の一図(一途)と聞ゆる也」(不角『江戸菅笠』序)と評されねばならなかつた。このやうな実状の間にあつて、沾洲・淡々・不角等の俗情を脱し、しかも蕉風の形骸的枯淡を厭つて、より豊かな抒情の詩を求める人々は、こゝに何等かの新しい発想の形式を欲したであらう。江戸の俳人が一般に複雑な人事趣味を喜んだのも、蕉風以来の単調を破るべき反動である。だがその人事趣味は叙事的であるよりも常に抒情的であつた。新しい俳文の一体として抒情詩の発想を得る事は、彼等の望むところであつたらう。夙(はや)く元禄・宝永の頃に溯つて、素堂の「蓑虫説」や嵐雪の「黒茶碗銘」の如きには、すでに一種の自由な散文詩とも見るべき形式を具へて居た。支考の仮名詩がむしろ理論的に案出されたのに比して、素堂や嵐雪の散文詩は抒情のおのづからなる発露であつた。だから享保期に於ける江戸俳人の新しい詩の発想形式は、こゝにその源流を求めてもよかつたのである。今率直な立言(りふげん)を試みるならば、楼川(ろうせん)の「立君の詞」は即ち素堂・嵐雪の散文詩に発するもので、蕪村の「春風馬堤曲」はまた楼川の詩心を承けるものだと言へないであらうか。少くともある文藝精神の継承展開としてそれは肯定されるであらう。それにしても楼川と蕪村との作の間に、直接的な交渉を認める為には、今少し明確な論拠を与へねばならない。それには年代の近接と格調の相似とで、両者を必然に繋ぐべきなほ幾つかの作品の存在を知ることが必要である。しかし今はまだそこに十分の資料を提供することが出来ない。これまでに知り得たのは、わづかに次の二つの作にすぎない。その一は寛保元年(1741)十二月刊行の『園圃録』(雪香斎尾谷撰)に載するものである。この書は当時の江戸俳人の発句・連句を集録した乾坤二冊、紙数百余丁の大冊であるが、その中に若干の文章をも収めてある。それらの俳文に伍して、次の如き一篇の韻文を見るのである。

(九)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その六)

    胡蝶歌   尾谷
  賎(しづ)が小庭の菜種の花は
             乳房とぞ思ふ
  梅の薫りを   紅梅はおぼへたるべし
  風のさそひて散行(ちりゆく)花を
   追ふて行身(ゆくみ)も共に花なるや
             羽もかろげなり
   江南の橘の虫の化すとも伝へし
   本朝にては何か化すらん
             妓女が夏衣も涼しげなれば
  夢の周たる歟(か)
   桔梗朝顔の花にたはれて
             老やわすれぬ
   尾花小萩の花にあそびて
             秋もおぼへぬ
   うとく見るらん   松虫は鳴に
   うらぶれてなけ   蝶よ胡蝶よ

 その格調の軽妙自由なのは、楼川の「立君の詞」に比して更に目を刮(かつ)せしめるものがあり、詞章の優雅高逸なのに至つてはもとより遥かに挺(ぬき)んでて居る。今様にあらず、仮名詩にあらず、河東の曲にあらず、別に一体を出して朗々誦するに足るのである。今一つは延享二年(1745)三月、江戸の麦筵(ばくえん)谷茂陵の撰んだ『雛之章』に載せられてある。この書は諸家の雛の句を集めて、終に撰者の独吟歌仙等を添へた小冊子であるが、その中に次の一作が見える。

(一〇)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その七)

  袖浦の歌   依長干行韻  文喬
  けふばかり汐干に見へて
  袖の浦わのうらみ忘れめ
  霞をくゝる山の手の駕籠
  淡かとまよふ海ごしの安房
  烟管くはへて磯より招き
  扇子かざして沖より望む
  君家住何処
  妾住在横塘

 長干行は楽府(がふ)の題であるが、これは唐詩選などに収められた崔かう(景ヘンに頁)の作をさして居り、最後の漢句二句は即ち崔_の、長干行百章の起句と承句とをそのまゝ用ゐたのである。忘・房・望・塘と押韻したのなどは、支考の所謂和詩を学んだやうでもあるが、その趣は全く異ると言つて宜い。品川あたりの汐干の景を叙し、最後に漢詩の句をそのまゝ借り来(きた)つて、桑間濮上の情趣を点じた手法は誠に面白い。蕪村の「澱河歌」と通ずる所が極めて多いことは、何人(なんぴと)も直ちに認めるであらう。
「胡蝶歌」の作者尾谷(びこく)は盤谷(ばんこく)の門であり、盤谷は談林系の人である。もとより俳系上蕪村との交渉は全く無い。しかし『園圃録』に見るその交游の範囲は、当時の江戸俳人の知名の士に亙(わた)り、蕪村が江戸にあつた元文・寛保の頃、親しく識ることを得た人々も少くなかつたと思はれる。それらの人々の間には、尾谷の外にもかうした作の試みがなほあつたかも知れない。ともあれ蕪村は当時尾谷のこの作について、恐らく知る所があつたであらう。「袖浦の歌」の作者文喬については、遺憾ながら今全く知る所がない。『雛之章』には序文をものして居り、その序によれば同書の撰にも与(あづか)つて力があつたらしい。而して『雛之章』に句を列ねた人々は、四時観の系に属するものが多いやうで、これまた俳系上蕪村と直接の関係は認められない。しかし四時観の徒は江戸の俳壇に一種の高踏的な態度を持し、所謂(いはゆる)通(つう)を誇つてむしろ趣味に婬する傾(かたむき)があつたとはいへ、譬喩俳諧の末流や支麦(しばく)の平俗とはおのづから選を異(こと)にして居た。『雛之章』にしてもその装幀は細長形の唐本仕立(じたて)で、見るからに高雅な趣味を漂はせて居る。このやうな好みをもつ人々に対して、蕪村はもとより白眼視しては居なかつたであらう。而して文喬の「袖浦の歌」と蕪村の「北寿老仙をいたむ」とは、殆ど時を同じうして成つて居るのである。楼川から尾谷、文喬、蕪村と、彼等の手に成る一種の韻文を通覧する時、その間に一の系脈の存することを肯定し得ないであらうか。少くともそこにある共通の精神が存することは、これを認めるに何人(なんぴと)も吝(やぶさ)かでないであらう。彼等の諸作の単なる先蹤(せんしよう)として、支考の仮名詩や和詩をあげることは差支(さしつかへ)ない。それは年代的に見て確かに先に現はれたものであり、また江戸の俳人たちはその存在を十分知つて居たのだから。現に紀逸の『雑話抄』(宝暦四年<1754>刊)には、「ちかきころ仮名の詩といふことを人々言出(いひいで)侍るを」とあつて、当時江戸に仮名詩が行はれたことを述べて居るのである。さうして彼自ら「たはぶれに作」と言つてあげた数編の作は、四句一章の形式が全く支考の仮名詩と同一である。しかも彼はそれだけで満足せず、和讃の体で三首の作を示し、更に次のやうな一作をものして居る。

(一一)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その八)

   放鳥辞
 鶸々 籠中の鶸(ひは) 汝久しく籠にこめられて 雲を乞(こふ)るうらみやむ時なし
 我又久しく病に労(いたづき)て 遠く遊(あそば)ざる愁(うれひ) 日々にあり
 鶸々 籠中の鶸 今汝をもて我にあて 我をして汝を思ふにしのびず
 みづから起(たち)て籠を開て 汝をはなさん
 鶸々 籠中の鶸、五柳先生の古郷をしたへるおもひ 慈鎮和尚の籠上にそゝげるなみだ 律のいましめにかなひて みづから起て籠を開て 汝を放さん
 鶸々 籠中の鶸 今幸にして籠の中をのがれ 野外に遊ぶとも
 飢を貪(むさぼつ)てますら雄の網に入(い)る事なかれ 遠く翔(とび)て箸鷹の爪にかゝる事なかれ
 鶸々 籠中の鶸 長く千歳の松にあそびて 共に千歳のことぶきを囀るべし
 鶸々 籠中の鶸

 これは正しく遠く素堂の「蓑虫説」に踵(きびす)を接し、それより更に自在を得た体と言ふべきであらう。紀逸はそれを特に韻文の体とことわつては居ないが、仮名詩や和讃の作につゞけて掲げたのは、やはり普通の俳文とはちがつた作として試みたものだからであると思ふ。即ちこゝにはまた支考の仮名詩の外に、このやうな抒情の発想を求めずに居れない精神があつたのである。それは楼川の「立君の詞」からつゞいた同じ抒情の詩の流(ながれ)であつたらう。
 天明の俳諧が元禄の俳諧に比して特殊とされる性格は、言ふまでもなくそれが近世の新しい浪漫精神に立つ所に求められねばならぬ。その精神はまた芭蕉俳諧に於ける抒情性の新たな発想への要求として動いた。さうした際にあの楼川や尾谷によつて試みられた自由な詩の形が、蕪村の心に大きな魅力となり、また自らさうした詩形の上に彼の新しい抒情を託さうとする誘惑を感じなかつたであらうか。享保以後明和・安永に至るまで、この種の自由詩は少い数ではあるにせよ、これを作り試みる者はなほ絶えなかつたのである。蕪村がそれに倣つて「北寿老仙をいたむ」や「春風馬堤曲」の作をなしたと考へる事は、もはや誤(あやまり)のない推測であらう。それは彼の浪漫精神の現れとして注意されるのみならず、天明俳諧の性格をまた最もよく示す事実でもあつた。蕪村ばかりが作つたのではない。暁台にもまた几董(きとう)の死を悼んだ次の如き一曲の作がある。

(一二)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その九)

    蒿里歌(かうりのうた)
 夜半の鐘の おと絶て めにみるよりも 霜の声 きく耳にこそ しみはすれ 
     友ちどり 呼子鳥 都鳥 はかなし はかなしや みやこ鳥
 きのふ墨水(ぼくすゐ)に杖を曳て
 柳条に月をかなしび
 けふは杖を黄泉に曳て
 弘誓(ぐぜい)の棹哥(たうか)に遊ぶかし
     夜半の鐘の おと絶て むなしき松を まつのかぜ
 聖護院の杜(もり)の空巣には
 妻鳥こそまどふらめ
 難波江の芦の浮巣には
 友鳥こそわぶらめ
     わぶらめやいたいたし   伊丹のいめぢいたいたし
     さらでだもしぐれの雨は降ものを
     心に雲の行かひて晴ぬは誠なるかも
 友ちどり 呼子どり あゝ都鳥はかなしや 都鳥はかなしや

 これまた全く自由な形態と発想とをもつた一篇の抒情詩である。又(松村)月渓が池田に滞在中、同地の名物である池田炭・池田酒・猪名川鮎・呉服祭に因(ちな)んで作つたといふ「池田催馬楽(さいばら)」の如きも、

     魚
 猪名の笹原を 秋風の驚かして 猪名川の鮎は あはれ 落ち尽したり 酒袋の渋や流れけむ あはれ 渋や流れけむ

     炭
 雄櫟(をくのぎ)はつれなしや 兜巾頭(ときんがしら)のかたくなや 雌櫟(めくのぎ)はふすぼりて あはれ 何をもゆる思ひや

     酒
 新搾(にひしぼ)りの にほひよしや 待つらむ君は 君は 花に紅葉に もみぢばを 逃げつゝ行かむ 東路(あづまぢ)に 菰(こも)かぶりて行かむ

     祭
 呉服(くれは)の御祭の 小酒たふべて 舞ひ狂ふや すぢりもぢりて かざしの袖を あや綾服絹(あやはぎぬ) 紅(くれなゐ)の呉服絹(くれはぎぬ)

といふので、催馬楽(さいばら)の調(しらべ)に摸(も)したとはいふものの、実はやはり天明俳人の求めた抒情の新しい詩形であつた。

(一三)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その十)

明治の新体詩はその発生に於いて全く西洋詩の移植であつたのみならず、その展開もまた西洋詩に影響されることが最も多かつた。初めて新体詩といふ名称の下に公にされたかの『新体詩抄』の序には、

 コノ書ニ載スル所ハ詩ニアラズ、歌ニアラズ、而シテ之ヲ詩ト云フハ、泰西ノポヱトリート云フ語、即チ歌ト詩トヲ総称スルノ名ニ当ツルノミ。古(イニシヘ)ヨリイハユル詩ニアラザルナリ。

と、明かに泰西の詩に当るべき新体の創始たる事を語つて居る。もとよりその表現が日本語による以上、国語特有の性質––特に韻律的性質を無視することは出来なかつた。だからそのリズムは日本古来の歌謡に普遍な七五、又は五七調がそのまゝ用ゐられたのである。しかもまた、

 コノ書中ノ詩歌皆句(ヴエルス)と節(スタンザ)トヲ分チテ書キタルハ、西洋ノ詩集ノ例ニ倣ヘルナリ。

とあるので、当時いかに出来るかぎりの西洋詩模倣に努めたかは知られるであらう。このやうにして生れた新体詩である。それが明治から大正を経て今日に至るまで、わが国の詩歌の中で最も西洋的な発想法をとつて来たことは当然とも言へる。けれども当初西洋詩のそのまゝの移植であつたにせよ、そして西洋風の培養を多く受けたにせよ、すでに日本の土に根を下したものである。それが日本的な成長を見るべきは、これまた更に当然なことと言はねばならぬ。明治以来のすぐれた詩人たちの詩が、意識的にも無意識的にも日本の詩としての完成へ向つて進んで来たことは、極めて明かな事実である。さうして日本の詩が真に日本の詩であるべき自覚は、今に於いて最も、高度に要求されて居る。所謂(いはゆる)新体詩は、西洋詩の模倣として発生したにちがひないが、今日から回顧すればそれは単に自由清新な詩形を求める動きにすぎなかつた。日本の詩と詩精神はすでに新体詩以前、遥かに古い世から存して居たのである。しかも明治の詩人たちが求めた自由清新な詩形すら、実は決して新体詩以前に存しないのではなかつた。「春風馬堤曲」の源流を探る間に、その事実は文献的に明かにされた。「日本の詩は日本の詩である」といふ厳(おごそ)かな自覚の下(もと)に、天明俳人の賦した一篇の詩は、いかなる意味で省みられねばならないであらうか。今日の詩人の魂を揺り動かすものが、そこには必ず見出されるにちがひないのである。

(一四)

 「春風馬堤曲」の現代語訳を試みたい。

春風馬堤曲
             謝蕪邨

  余一日問耆老於故園。渡澱水
  過 馬堤。偶逢女帰省郷者。先
  後行数里。相顧語。容姿嬋娟。
  癡情可憐。因製歌曲十八首。
  代女述意。題曰春風馬堤曲。
 (余一日(いちじつ)耆老(きらう)ヲ故園ニ問フ。澱水(でんすい)ヲ渡リ
  馬堤ヲ過グ。偶(たまたま)女(じよ)ノ郷ニ帰省スル者ニ逢フ。先
  後シテ行クコト数里、相顧ミテ語ル。容姿嬋娟(せんけん)トシテ
  癡情(ちじやう)憐(あはれ)ムベシ。因リテ歌曲十八首ヲ製シ、
  女(じよ)ニ代ハリテ意ヲ述ブ。題シテ春風馬堤曲ト曰フ。)
(訳)
  私はある日老人を訪ねて故郷に帰った。淀川を渡り
  毛馬堤を歩いて行った。たまたま帰省中の女性に遇った。
  先になったり後になったりして、しばらくして、話し合うようになった。
  容姿端麗の女性で、その端麗さに心を奪われた。
  そんなことで、歌曲十八首を作り、
  その女性の心に託して心情を吐露した。
  題して、「春風馬堤ノ曲」という。

 「謝蕪邨」は与謝蕪村の中国風の表現。「一日」はある日のこと。「耆老」の「耆」は六十歳以上のことで、老人のこと。蕪村は時に六十二歳である。「澱水」は淀川。「嬋娟」は色ぽっいこと。蕪村がこの「歌曲十八首」を「春風馬堤曲」と題したことについては、楽府中の「大堤曲」の曲名に因っており、この詩編が楽府の歌曲スタイルに擬した艶詩であることを示しているという(尾形仂著『蕪村の世界』)。

(一五)

   春風馬堤曲十八首

一 ○やぶ入や浪花(なには)を出(いで)て長柄川(ながらがは)
(訳)藪入りで大阪の奉公先を出て、今長柄川にさしかかりました。
二 ○春風や堤長うして家遠し
(訳)春風の中、堤はどこまでも続き、家ははるか彼方です。
三 ○堤下摘芳草 荊与棘塞路
荊棘何無情 裂裙且傷股
(堤ヨリ下リテ芳草ヲ摘メバ 荊(けい)ト棘(きよく)ト路(みち)ヲ塞グ
 荊棘何ゾ無情ナル 裙(くん)ヲ裂キ且ツ股(こ)ヲ傷ツク)
(訳)堤を下りて芳しい草を摘みますと、棘のある茨が路を塞ぎ、その棘は無情にも裾を裂いて、股を傷つけます。
四 ○渓流石点々 踏石撮香芹
   多謝水上石 教儂不沾裙
(渓流石(いし)点々 石ヲ踏ンデ香芹(かうきん)ヲ撮(と)ル
 多謝ス水上ノ石 儂(われ)ヲシテ裙(くん)ヲ沾(ぬ)ラサザラシム)
(訳)渓流には石が点々とあり、その石を伝わって香りのよい芹を摘む。水上の石に感謝し、そのおかげで裾を濡らさずにすんだのだ。
五 ○一軒の茶見世の柳老(おい)にけり
(訳)一軒の茶店があり、かっての柳も老木になっています。
六 ○茶店の老婆子(らうばす)儂(われ)を見て慇懃に
   無恙(ぶやう)を賀し且(かつ)儂(わ)が春衣を美(ほ)ム
(訳)茶店のお婆さんは、私を見て丁寧に挨拶をして、元気であることを喜び、私の春の晴れ着をほめてくれました。
七 ○店中有二客 能解江南語
   酒銭擲三緡 迎我譲榻去
(店中二客有リ 能(よ)ク解ス江南(かうなん)ノ語
 酒銭三緡(さんびん)ヲ擲(なげう)チ 我ヲ迎ヘ榻(たふ)ヲ譲ツテ去ル)
(訳)茶店には二人のお客がおり、色里の言葉などをよく解していて、酒代を三さしぽんと出して、私に席を譲ってくれました。
八 ○古駅三両家猫児(べうじ)妻を呼(よぶ)妻来(きた)らず
(訳)古い集落で、二・三軒の家があり、雄猫は雌猫を呼んでいるが、雌猫は現れない。
九 ○呼雛籬外鶏 籬外草満地
   雛飛欲越籬 籬高堕三四
(雛ヲ呼ブ籬外(りぐわい)ノ鶏 籬外草(くさ)地ニ満ツ
 雛飛ビテ籬(かき)ヲ越エント欲ス 籬高ウシテ堕(お)ツルコト三四 )
(訳)垣根の外の鶏が雛を呼び、その垣根の外には草が地に満ちていて、雛が垣根を越えようとしていますが、垣根が高く、三・四羽の雛は越えらず落ちたりしています。

 この「春風馬堤曲」は、第一章(第一場)は、発句体の第一首(一)・第二首(二)と漢詩体の第三首(三)・第四首(四)とから成る。第二章(第二場)は、発句体の第五首(五)、漢文訓読体の第六首(六)そして漢詩体の第七首(七)から成り、第三章(第三場)は、発句体の第八首(八・漢詩文調)と漢詩体の第九首(九)から成っている。第一首(一)の「長柄川」は淀川の分流中津川の古称。第二首(二)の「春風」の読みは「しゅんぷう」ではなく「はるかぜ」としたい(尾形・前掲書)。第三首(三)の「無情」は「妬情」が定稿で推敲されてのものという(尾形・前掲書)。第四首(四)の「香芹」は香りのよい芹のこと。第六首(六)の「美(ほ)ム」も「羨む」を定稿で推敲されたという(尾形・前掲書)。第七首(七)の「江南語」は中国の揚子江以南の土地の総称だが、淀川を「澱水」、曾根崎新地を「北里・北州」と中国風に呼ぶと同じような用例で、遊里(郭)言葉のような意も利かしている(尾形・前掲書)。「三緡(ぴん)」は銭百文をつないだものが一緡で、三百文になる。第八首(八)の「古駅」は、古い宿場のこと。

(一六)

一〇 ○春艸(しゆんさう)路(みち)三叉(さんさ)中に捷径(せふけい)あり我を迎ふ
(訳)春草の野路は三つに分かれ、その中の近道が私を迎えてくれました。
一一 ○たんぽゝ花咲(さけ)り三々五々五々は黄に
    三々は白し記得(きとく)す去年此(この)路(みち)よりす
(訳)蒲公英が咲き、三々五々に黄色い花もあれば白い花もあります。去年もこの路を通ったのを覚えています。
一二 ○憐(あはれ)ミとる蒲公(たんぽぽ)茎短(みじかう)して乳をあませり
(訳)懐かしさの余り蒲公英の花を折りとると茎が短く折れて白い乳がでました。
一三 ○むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
    慈母の懐袍(くわいほう)別に春あり
(訳)幼い昔のころがしきりに思いだされ、優しい母の恩が思い起こされてきます。優しい母の懐は、この世のものとは思われいような、別天地の春のようです。
一四 ○春あり成長して浪花にあり
    梅は白し浪花橋辺(けうへん)財主の家
    春情まなび得たり浪花風流(ぶり)
(訳)その別天地の春ような母の恩を受けて成長し、今、大阪に住んでいます。その梅が白く咲いている浪波橋のお大尽さんの家に奉公して、その梅の花のように青春を謳歌し、すっかり大阪っ子の華美な暮らしに慣れ親しんでいます。
一五 ○郷を辞し弟(てい)負(そむ)く身三春(さんしゆん)
    本(もと)をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅
(訳)私は故郷を離れ、弟を家に残して、こうして大阪に出て、もう三年目の春を迎えてしまいました。これはまことに、根の親木を忘れて、末の枝先で花を咲かせているだけの接ぎ木の梅のようです。
一六 ○故郷春深し行々(ゆきゆき)て又 行々(ゆきゆく)
    揚柳(やうりう)長堤道漸(やうや)くくだれり
(訳)何と故郷は春の深さの中にあることか。その春のまっただ中を歩き歩き、また歩いて行きますと、柳並木の長い堤の路となって、ようやく下り坂となります。
一七 ○矯首(けうしゆ)はじめて見る故園の家黄昏(くわうこん)
    戸に倚(よ)る白髪の人弟を抱(いだ)き我を
    待(まつ)春又春
(訳)その坂道を下りながら、首を上げるとまぎれもなく故郷の家が見えるではないか。黄昏れ時で、その故郷の家の戸口に、白髪の人が弟を抱いて、私を待っていてくれたのだ。
何時の春でも、そうして待っていてくれたのであろう。
一八 ○君不見(みずや)古人太祗が句
    薮入の寝るやひとりの親の側
(訳)あなたも知っていることでしょう。今は亡き太祗にこんな句があります。「薮入の寝るやひとりの親の側」(藪入りの子が、ひとりの親のそばで、心おきなく寝入っている。)

 「春風馬堤曲」の第四章(第四場)は、発句体の第一〇首(一〇・漢詩文調)と漢文訓読体の第一一首(一一)とから成り、第五章(第五場)は、発句体の第一二首(一二・漢詩文調)と漢文訓読体の第一三首(一三)・第一四首(一四)・第一五首(一五)とから成る。そして、最終の第六章(第六場)が、漢文訓読体の第一六首(一六)・第一七首(一七)と発句体(一八・前書きあり)とから成る。第一〇首の「捷径」は近道のこと。第一一首の「記得す」は覚えているの意。第一二首の「憐みとる」は慈しんでそっと採ること。第一三首の「懐袍」の「袍」は布子の綿入れの意。「別に春あり」は季節や衣服の春の暖かさとは別の愛情の春の暖かさがあったということ。第一四首の「財主の家」は財産のある家(お金持ち)のこと。「浪花橋」は天満と北浜とを結ぶ難波橋。第一五首の「辞す」は去るの意。第一六首の「揚柳」の「揚」はハコヤナギ、「柳」はシダレヤナギで、蕪村の描く中国風邪の山水図の景。第一七首の「矯首」は首を上げること。第一八首の「君不見(君見ズヤ)」は楽府の詩などにしばしば見られる用例という(尾形・前掲書)。

(一七)

澱河歌の現代語訳は次のとおりである。

  澱河歌三首

○春水浮梅花 南流菟合澱
 錦纜君勿解 急瀬舟如電
(春水(しゆんすい)梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
 錦纜(きんらん)君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟電(でん)ノ如シ)
(訳)春の水は梅の花を浮かべ、南へ流れ、宇治川は淀川と合流する。君、錦のともづなを解かないでください。流れの早さに舟は稲妻のように流されてしまいますから。
○菟水合澱水 交流如一身
 船中願同寝 長為浪花人
(菟水澱水ニ合シ 交流一身(いつしん)ノ如シ
 船中願ハクハ寝(しん)ヲ同(とも)ニシ 長ク浪花(なには)ノ人ト為(な)ラン)
(訳)宇治川は淀川と合流し、交わり流れ一身のようです。舟の中でも共寝をし一身になりたい。そのまま、大阪に下り、一生大阪人で暮らしたい。
○君は水上の梅のごとし花(はな)水に
 浮(うかび)て去(さる)こと急(すみや)カ也
 妾(せふ)は江頭(かうとう)の柳のごとし影(かげ)水に
 沈(しづみ)てしたがふことあたはず
(訳)君は水に浮かぶ花のようで、その花は水に浮かび、慌ただしく去っていってしまうばかりです。私は川辺の柳のように、その水上に影を投げかけ、その影は水に沈んでついてくこともできません。

 「春風馬堤曲」に比し、漢詩体二章と漢文訓読体一章の計三章とシンプルであり、その対比が著しい。しかし、両者とも女性に代わって作をしているということは共通しており、「春風馬堤曲」が淀川土堤のものであれば、「澱河歌」は文字どおり、淀川そのものの作といえよう。「菟」は宇治川、「澱」は淀川の中国風の表現。「錦纜」は錦のともづなのこと。
「春風馬堤曲」も「澱河歌」も、『夜半楽』に収載され、その目次には、「春風馬堤曲 十八首」・「澱河歌 三首」・「老鶯児 一首」の三編が並べて掲げられており、この三編をもって、一つの組詩のような構成をとっている。この最後の「老鶯児」は次の発句一句である。

○ 春もややあなうぐひすよむかし声

 この三編の組詩は、「春風馬堤曲」は十八章三十二行、「澱河歌」は三章八行、「老鶯児」は一章一行で、章数は、「春風馬堤曲」の六分の一が「澱河歌」、その三分の一が「老鶯児」、そして、行数は、「春風馬堤曲」の四分の一が「澱河歌」、その八分の一が「老鶯児」と、
十分に意図されたものであることが理解される。さらに、「春風馬堤曲」は藪入りの少女に代わってのもの、続く、「澱河歌」はその少女の成人した艶冶な女性に代わってのもの、そして、最後の「老鶯児」が、その晩年の老婦人に代わってのものと、即ち、女の一生のようなことをイメージしてのものともとれなくもないのである。

回想の蕪村(十八~二十六)

(一八)

 『夜半楽』は、安永六年(一七七七)、蕪村六十二歳の春に刊行した春興帖である。春興帖は、歳旦・歳暮の吟に限らず、当年の新春初会の作を中心に春季の句を集めて知友間に贈答するものである。『夜半楽』の「夜半」が夜半亭を意味していることはいうまでもないであろう。すなわち、『夜半楽』とは、夜半亭一門の春を言祝ぐ楽曲ということになろう。その構成は次のとおりとなる。

夜半楽

目録
歌仙    一巻
春興雑題  四十三首
春風馬堤曲 十八首
澱河歌   三首
老鶯児   一首

 この「目録」に継いで、次のような序文が記されている。

祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは
不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず)
蕉門のさびしをりは
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし)

さればこの日の俳諧は
わかわかしき吾妻の人の
口質(こうしつ)にならはんとて

 はじめの四行は序詩のような形をとり、「京都の祇園会のお囃子は秋風の風韻には調和しない。それと同じく、蕉門の寂び撓(しをり)は新春のお目出度い席では避けた方がよい」というようなことであろう。それに続けて、「だから、この日の新春の俳諧は若々しい東国の人の口調に倣っている」というのである。

(一九)

安永丁酉春 初会

歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師     蕪村  オ ※(発句) 
 脇は何者節(せち)の飯帒(はんたい)   月居  ※(脇)  
第三はたゞうち霞うち霞         月渓   ※(第三)  
 艤(ふなよそほひ)のとかくしつゝも   自笑  
こゝかしこ旅に新酒を試(こころみ)て   百池  
 十日の月の出(いで)おはしけり     鉄僧  ※(月)
纏頭(かづけもの)給ふぬきでの身の白き  田福  ウ 
 廊下の翠簾(みす)や夢のうきはし    斗文  
目ふたぎて聖の尿(くそ)を覆(おほふ)らん  子曳  
 紀の川上にくちなはのきぬ        集馬  
うの花に萩の若枝(わかえ)もうちそよぎ  三貫  
門(かど)をたゝけば隣家に声す     帯川  
着つゝなれて犬もとがめぬ裘(かはごろも) 致郷  
 貢(みつぎ)の使(つかひ)白雲に入(いる)  士恭  
谷の坊花もあるかに香に匂ふ       道立  ※(花)
 藪うぐひすの啼(なか)で来にけり    晋才  
かけ的(まと)の夕ぐれかけて春の月    正白  ※(月)  
 三本の傘は婿の定紋(ぢやうもん)    舎六   
初がつをあはや大磯けはひ坂       我即  ナオ 
 淡き薬に身をたのみたる        故郷   
暮まだき燭(しよく)の光をかこつらし   嬰夫   
 竹をめぐれば行尽(ゆきつく)す道     舎員
新田に不思儀や水の涌出(ゆしゆつ)して   菊尹
 儒医(じゆい)時に記す孝子の伝(つたへ) 賀瑞
かりそめの小くらのはかま二十年     呑獅
 往来(ゆきき)まれなる関をもりつゝ   呑周
餅買(かふ)て猿も栖(すみか)に帰るらん   柳女
 錫(しやく)と ゞまれば鉢が飛出る    延年
暁の月かくやくとあられ降(ふる)     維駒 ※(月)
 金山ちかき霜の白浪          樵風
つくづくと見れば真壁の平四郎      東瓦 ナウ
 酒屋に腰を掛川の宿(しゆく)      左雀
空高く怒れる蜂の飛去(しびさり)て    乙総
 岡部の畠けふもうつ見ゆ        霞夫
花の頃三秀院に浪花人          几董 ※(花)
 都を友に住(すみ)よしの春       大魯  ※(挙句)  

 この歌仙(三十六句からなる連句)が一同に会してのものなのか、それとも、回状を回して成ったものなのかどうかは定かではないが、おそらく後者によるものと思われる。この歌仙は、一人一句で、三十六人がその連衆で、夜半亭一門の代表的俳人の三十六歌仙(三十六人の傑出した俳人)という趣である。発句は夜半亭一門の宗匠、夜半亭二世・与謝蕪村で、「歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師」(歳旦の句を快心の作とばかり得意顔の俳諧師である)と、新年祝賀の句を、若き日の東国に居た頃の宰鳥になった積りでの作句と得意満面の蕪村その人の自画像の句であろう。脇句の江森月居が蕪村門に入門したのは安永五年(一七七六)年の頃で、入門早々で脇句を担当したこととなる。当時、二十二歳の頃であろう。続く、第三の松村月渓は、月居よりも四歳年長で、呉春の号で知られている、蕪村の画・俳二道のよき後継者であった。この二人がこの歌仙を巻く蕪村の手足となっているように思われる。この歌仙の挙句を担当した吉分大魯は、夜半亭三世を継ぐ高井几董と、夜半亭門の双璧の一人で、この安永六年当時は京都の地を離れ大阪に移住していた頃であろう。この挙句の前の花の句(匂いの花)を担当したのは、几董で蕪村よりも二十四歳も年下ではあるが、蕪村はこの几董が夜半亭三世を継ぐということを条件として、夜半亭二世を継ぐのであった。もう一つの花の座(枝折りの花)を担当した樋口道立は、川越藩松平大和守の京留守居役の樋口家を継いだ名門の出で、当時、夜半亭一門で重きをなしていた。また、月の座を担当した、鉄僧(医師)、正白(後に正巴)、黒柳維駒(父は蕪村門の漢詩人でもある蕪村の良き理解者であった召波)と、この歌仙に名を連ねている連衆は、夜半亭一門の代表的な俳人といってよいのであろう。そして、それは、京都を中心として、大坂・伏見・池田・伊丹・兵庫と次の春興に出てくる夜半亭一門の俳人の世話役ともいうべき方々という趣なのである。

(二十)

春興
うぐひすにうかれ烏のうき世哉         道立
汀より月を動かす蛙(かはづ)かな         正白
もろこしの一里も遠き霞かな           田福
寝んとしては寝ずも居るや春の雨         維駒

墨の香や此(この)梅の奥誰が家       浪花 霞東
春風や縄手過(すぎ)行(ゆく)傀儡師     ゝ  志慶

あたゝかい筈の彼岸の頭巾かな         月居
剰(あまつさへ)松に隣れる柳かな         集馬
雪霜の古兵(ふるつはもの)よ梅の花       自笑

寺に寝て起(おき)おき梅の匂(にほひ)かな  浪花 正名

春雨や隣つからの小豆飯          ゝ 銀獅

遠里に人声こもるかすみかな        ゝ 延年

彳(たたず)めば誰か袖引やみの梅   但出石 乙総
うぐひすや声引(ひき)のばす舌の先    ゝ 霞夫

神風の春かぜさそふ夜明かな          呑獅
蝶々や衛士の箒にとまりけり          呑周
凧引(ひく)や夕がすみたつ処々        声々
うぐひすや茶臼の傍にしゆろ箒         徳野
鶯や折よく簀戸(すど)の明はなし       文革
うぐひすに枕かへすや朝まだき         舞閣
黄鳥(うぐひす)や樹々も色吹(ふく) 真葛原 管鳥
芹喰(くひ)に鶴のをり来る野川哉       春爾

里や春梅の夕と 成(なり)にけり   敏馬浦 士川
夕凪や柳が下の二日月          ゝ  佳則

植木屋の連翹更に黄なる哉           斗文
路斜(ななめ)野ずゑの寺や夕霞        菊尹
梅さくや陶(すゑもの)つくる老が業      舎員
青柳や野ごしの壁の見へがくれ         嬰夫
畠ある屋しき買(かひ)たり梅の花       子曳
二日聞(きき)てうぐひすに今は遠ざかる    柳女
日数経てやゝ痩梅の花咲(さき)ぬ       賀瑞
 一株の梅うつし植てあらたに春を迎ふ 
けさ梅の白きに春を見付(つけ)たり      鉄僧

深屮(くさ)の梅の月夜や竹の闇        月渓
連翹の花ちるや蘭の葉がくれに         晋才

たへず匂ふ梅又もとの香にあらず        旧国

舟遅きおぼろ月也江の南            九湖
比枝下りて西坂本の梅の花           亀郷
培(つちかひ)し樹々の雫や春の雨       万容
梅咲て何やらものをわすれけり         白砧

草臥(くたびれ)てもどる山路の雉子の声  伊丹 東瓦
 尾刕(びしう)の客舎にて
茶売去(さり)て酒売来たり梅の花       百池
黄昏や梅がゝを待(まつ)窗(まど)の人    大魯
白梅や吹(ふか)れ馴(なれ)たる朝嵐     几董   

 夜半亭一門の四十三人の春興の句である。前年の安永五年(一七七六)に、道立の発企により、洛東金福寺内に芭蕉庵を再興して、「写経社会」を結成している。この写経社会の中心人物の道立の句を冒頭にして、その締め括りは、大魯・几董という夜半亭門の双璧の二人の句をもってきている。ここに登場する四十三人衆は夜半亭俳諧の頂点を極めた当時の豪華メンバーと解して差し支えなかろう。この後に、「春風馬堤曲」(十八首)、「澱河歌」(三首)そして「老鶯児」(一首)と続くのである。

(二十一)

 次に続く「春風馬堤曲」については、年次不明二月二十三日付けの柳女・賀瑞宛て蕪村書簡で、この詩を書いた消息を今に残している。

さてもさむき春にて御座候。いかゞ御暮被成候や、御ゆかしき奉存候。しかれば春興小冊漸出板に付、早速御めにかけ申候。外へも乍御面倒早々御達被下度候。延引に及候故、片時はやく御届可被下候。

(訳)さてさて寒い春でございます。いかがお過ごしでございましょうか、お尋ねをする次第です。さて、春興帖小冊、ようやく出版の運びとなりましたので、早速お目にかける次第です。外の方々へもご面倒をおかけしますが早々にお渡しを頂きたく存じます。延引になっておりましたので、片ときも早くお届け頂ければと存じます。

 この柳女・賀瑞は伏見の蕪村門人で、先の歌仙や春興の句にその名が出てくる。そしてこの「春興小冊」こそ、『夜半楽』にほかならない。そして、この『夜半楽』の実際の発行日は二月二十日過ぎで、予定よりも遅れての出版であることが了知されるのである。この年の一月晦日(三十日)付け霞夫宛ての書簡もあり、そこでは、「春帖近日出し早々相下可申候」との文面もあり、蕪村は予定より遅れての出版を気にしていたのであろう。この霞夫宛ての書簡は、「水にちりて花なくなりぬ崖の梅」に関連するもので、当時六十歳を超えた蕪村にとっては、親しい太祗や召波、さらには、絵画のよきライバルであった池大雅を失って、ことのほか老残の思いにかられていたということも察知されるのである。また、それらの親しい人の別れとともに、その前年に、一人娘を嫁がせたみことなどの淋しさをかこっていた書簡なども今に残されているのである。

(二十二)

一 春風馬堤曲 馬堤ハ毛馬塘(つつみ)也。則余が故園也。
余、幼童之時、春日清和の日ニハ、必(かならず)友どちと此堤上にのぼりて遊び候。水ニハ上下ノ船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ。其中ニハ、田舎娘の浪花ニ奉公して、かしこく浪花の時勢(はやり)粧(すがた)に倣(なら)ひ、髪すたちも妓家(ぎか)の風情をまなび、□伝しげ太夫の心中のうき名をうらやみ、故郷の兄弟を恥(はぢ)いやしむもの有(あり)。されども、流石(さすが)故園ノ情に不堪(たへず)、偶(たまたま)親里に帰省するあだ者成(なる)べし。浪花を出てより親里迄の道行にて、引(ひき)道具ノ狂言、座元夜半亭と御笑ひ可被下候。実ハ愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出(いで)たる実情ニて候。
(訳)一 春風馬堤曲 馬堤は毛馬堤です。すなわち、私の故郷です。私が幼童の頃、春日清和の日には、必ず友達とこの堤に登って遊んだものです。水上には上下に往来する船があり、堤には往来する旅人がありました。その中には、田舎娘で、浪花に奉公に出て、健気にも浪花の流行の風姿を真似て、髪かたちも妓楼の風情そのもので、また、繁太夫節の心中物の浮名を羨んだりして、故郷の田舎くさい兄弟を恥じて蔑む者もおりました。けれども、さすがに望郷の念にかられてのことなのか、故郷に帰省する粋な女性でありましょうか、そんな女性にたまたま遭遇したのです。この春風馬堤曲はそんな浪花を出て故郷に帰る迄の道行を述べたものでして、引き道具の狂言、座元夜半亭とお笑いください。実を言えば、これは愚老の懐旧の念のやるかたなき心の奥底から呻き出たところの実情なのです。

 この書簡で、「馬堤ハ毛馬塘(つつみ)也。則余が故園也」と、蕪村の故園(故郷)は毛馬村であることを蕪村自身はっきりと記録に残しているのである。蕪村の出生地について、摂津の天王寺村とか丹後の与謝とかもいわれているが、この書簡からして摂津国東成郡毛馬村と解して差し支えなかろう。そして、このことは、初期の絵画の「浪華長堤四明」とも一致し、蕪村の胸中には、この「春風馬堤曲」の長堤が常に存在していたということは特記しておく必要があろう。さらに、書簡中の「□伝しげ太夫」の「□」は虫食いで、ここを「正」の「正伝」としたり「阿」として「阿伝」(尾形仂)としたり解されているが、「しげ太夫」は、豊後節の「繁太夫節」であることは異論がなかろう。その繁太夫節は「おさん・茂兵衛 道行」とか心中物を得意として(尾形・前掲書)、それらが背景になっていると解したい。そういう背景にあって、「引(ひき)道具ノ狂言、座元夜半亭と御笑ひ可被下候」と、すなわち、「回り舞台の狂言の座元(興行主)こそ夜半亭蕪村」と、「春風馬堤曲」の真相を蕪村自身がはっきりと記録に残していることも、これまた、特記しておく必要があろう。

(二十三)

 さて、この「春風馬堤曲」について、『蕪村の手紙』(村松友次著)の「春風馬堤曲源流考」(補説三)で、次のように記述している。

※「春風馬堤曲」は「北風老仙をいたむ」と共に日本文学史上特筆すべき異色の名作である。このような斬新な詩形の創出はまさに蕪村の天才によるところであるが、全く無から生じたのではなかろう。それではこれに先行するものが何であったか。すでに「北寿老仙をいたむの項(註・補説一)で触れたが、潁原退蔵は支考に源を発する仮名詩の流れを考え、蕪村の青年時代、江戸俳人の間に流行していた小唄、端唄に類したような一種の韻文の存在を指摘する(註・この潁原退蔵の「春風馬堤曲源流考」については先に全文紹介している)。しかし一見類似しているようであるが、読者の心を打つ詩情の直截さ純粋さにおいて蕪村の作は江戸俳人の諸作とは全く異質と言ってよいほどすぐれている。これらの作よりももっと近い影響をもつ文学作品はなかったか。清水孝之は服部南郭の『朝来詞(ちょうらいし)』(いたこことば)と、荻生徂徠の『絶句解』(享保十七序、延享三・宝暦十三版あり)の中の「江南楽八首」(徐禎卿作)を指摘する(鑑賞日本古典文学『蕪村・一茶』および、新潮日本古典集成『与謝蕪村集』)。

 この荻生徂徠の『絶句解』(享保十七序、延享三・宝暦十三版あり)の中の「江南楽八首」(徐禎卿作)の影響(蕪村の「春風馬堤曲」などへの影響)はやはり注目すべきものの一つであろう。

(二十四)

江南楽八首。代内作(江南楽八首。内に代りて作る)

成長して江南に在り 江北に住することを愛せず
家は閶門(しやうもん)の西に在り 門は双柳樹を垂る
陽春二月の時 桃李(とうり)花参差(しんし)
言(こと)を寄す諸姉妹 悪風をして吹(ふ)か遣(しむ)ること莫(なか)れ
郷に環(かへ)る信に自ら楽し 近くして望み転於(うたたを)邑(いふ)す
阿母、児が帰るを見ば 定て自ら儂(わ)れを持して泣(なか)ん
野鳧(やふ)、雛を生ずる時 乃(すなは)ち河沚(かし)の中に在り
憐(あはれ)む可(べ)し羽翼を生じて 各自菰叢(こそう)を恋ふることを
橘(きつ)、江上の洲(す)に生ず 江を過(すぐ)れば化して枳(き)と為る
情性、本と殊(こと)なるに非ず 風土相似ず
人は言ふ江南薄しと 江南信に自ら楽し
桑を采(とり)て蚕糸を作(な)す 羅綺儂(わ)が着るに任す
郎と水程を計るに 三月定て家に到らん
庭中の赤芍薬 爛漫として斉(ひとし)く花を作(なさ)ん
江南道理長し 荊襄(けいじやう)何れの処にか在る
郎が昨夜の語を聞くに 五月瀟湘(せうしやう)に去(さら)ん

 この徐禎卿の「江南楽八首代内作」について、荻生徂徠は次のように解説をしているという(村松・前掲書)。

江南楽……曲ノ名。西曲ニ江陵楽、寿陽楽有リ。後人之ニ擬シテ設ク。
代内…… 其ノ妻ヲ謂フ。
 八首須(スベカラ)ク連続スベシ。意思断続。方(マサ)ニ妙ヲ見ル。

(二十五)

 この荻生徂徠の、徐禎卿の「江南楽八首代内作」についての解説の、「八首須(スベカラ)ク連続スベシ。意思断続。方(マサ)ニ妙ヲ見ル」ということは、まさに、蕪村の「春風馬堤曲」の「十八首須(スベカラ)ク連続スベシ。意思断続。方(マサ)ニ妙ヲ見ル」と置き換えても差し支えないほど、「春風馬堤曲」の本質を言い当てている指摘といえよう。
また、
「江南楽」の「代内作」(内に代りて作る)は、「春風馬堤曲」の「代女述意」(女(じよ)ニ代ハリテ意ヲ述ブ)に、
「江南楽」の「家は閶門(しやうもん)の西に在り 門は双柳樹を垂る」は、
「春風馬堤曲」の「梅は白し浪花橋辺(けうへん)財主の家」に、
「江南楽」の「郷に環(かへ)る信に自ら楽し 近くして望み転於(うたたを)邑(いふ)す」・「阿母、児が帰るを見ば 定て自ら儂(わ)れを持して泣(なか)ん」は、
「春風馬堤曲」の「むかしむかししきりにおもふ慈母の恩」・「慈母の懐袍(くわいほう)別に春あり」・「矯首(けうしゆ)はじめて見る故園の家黄昏(くわうこん)」・「戸に倚(よ)る白髪の人弟を抱(いだ)き我を待(まつ)春又春」に、
「江南楽」の「野鳧(やふ)、雛を生ずる時 乃(すなは)ち河沚(かし)の中に在り」・「憐(あはれ)む可(べ)し羽翼を生じて 各自菰叢(こそう)を恋ふることを」は、
「春風馬堤曲」の「雛ヲ呼ブ籬外(りぐわい)ノ鶏 籬外草(くさ)地ニ満ツ」・「雛飛ビテ籬(かき)ヲ越エント欲ス 籬高ウシテ堕(お)ツルコト三四」に、
「江南楽」の「橘(きつ)、江上の洲(す)に生ず 江を過(すぐ)れば化して枳(き)と為る」・「情性、本と殊(こと)なるに非ず 風土相似ず」は、
「春風馬堤曲」の「春情まなび得たり浪花風流(ぶり)」・「本(もと)をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅」に、
「江南楽」の「江南道理長し」は、
「春風馬堤曲」の「春風や堤長うして家遠し」に、
等々、それぞれの「内容」・「語句」・「気分」などの上で多くの類似点を見出すことができるのである(村松・前掲書)。
 さらに、荻生徂徠の『絶句解』では、この「江南楽」に続いて、「隴頭流水ノ歌」(子を失った女の心を作者が代わって詠んだ……代内作……)の詩が続き、これは、「春風馬堤曲」の後に「澱河歌」を続けている蕪村のそれと、まさに、その配列を同じくしているという(松村前掲書)。また、徂徠の『絶句解』に見られる「衛河八絶」(王世貞作)は、服部南郭の『潮来詞』に影響を及ぼし、その南郭の『潮来詞』が、蕪村の「春風馬堤曲」に影響を及ぼしているだけではなく(清水・前掲書)、この「衛河八絶」は、ストレートとに、蕪村の「春風馬堤曲」に影響を及ぼしているという見方もある(村松・前掲書)。いずれにしろ、蕪村が、『夜半楽』、そして、その「春風馬堤曲」・「澱河歌」を創作した背後には、荻生徂徠の『絶句解』が、常に、蕪村の座右にあったことだけは想像に難くない(村松・前掲書)。

(二十六)

 蕪村が荻生徂徠に傾倒したことについては、先に、「若き日の蕪村」で触れた。

http://yahantei.blogspot.com/2006/07/blog-post_115354603992727424.html

 それは、蕪村が二十歳前後で江戸に出てくる以前の青少年の頃から、そして、この「春風馬堤曲」を執筆する六十歳過ぎての老年期に到るまで、終始、蕪村に大きな影響を与え続けたということは容易に想像できるところのものである。その影響の最たるものは、先に触れた、『蕪村 画俳二道』(瀬木慎一著)の「荻生徂徠の影響」の、次のようなことであった。

○徂徠の学問的立場は、通常「古文辞学」と呼ばれれているように、明の文学における「古文辞」に先例を求めたものであるが、それが単なる復古運動にとどまるものでなかったことは吉川幸次郎の説明によって了解される。
「……精神のもっとも直接的な反映は、言語であるとする思想である。したがって精神の理解は、言語と密着してなすことによってのみ、果たされるとする思想である。」
そこで古典を読むばかりでなく、自分も古典の言葉で書き、考え、そしてその精神を把握することをめざしたわけである。その結果明らかになることは、儒者共の説く人為的な道徳律の虚妄さであり、それを排除するとき「理は定準なきなり」という世界観に到達する。つまり、世界は多様性において成り立っているのであり、そこに生きる人間の個々の機能を尊重するという考え方である。「人はみな聖人たるべし」という宋学の命題とは正反対に、徂徠は、「聖人は学びて至るべからず」という方向を提示し、人が個性に生き、学問によって、自己の気質を充実させ、個性を涵養しうる可能性を強調している。

 この「古典を読むばかりでなく、自分も古典の言葉で書き、考え、そしてその精神を把握する」という徂徠の姿勢を、蕪村ほど生涯にわたって実践し続けた俳人にして画人は殆ど希有であるといっても過言ではなかろう。そして、この「春風馬堤曲」そのものが、その徂徠の『絶句解』所収の「自分も古典(「江南楽八首」(徐禎卿作)など)の言葉で書き、考え、そして、その精神を把握した」、その結果の類い希なる異色の俳詩という創造の世界にほかならない。

回想の蕪村(四・四十一~四十九)

回想の蕪村(四)

(四十一)

 蕪村の『夜半楽』の「春風馬堤曲」の冒頭に、下記のとおり、「謝蕪邨」との署名が見られる。

※春風馬堤曲
             謝蕪邨

  余一日問耆老於故園。渡澱水
  過 馬堤。偶逢女帰省郷者。先
  後行数里。相顧語。容姿嬋娟。
  癡情可憐。因製歌曲十八首。
  代女述意。題曰春風馬堤曲。
 (余一日(いちじつ)耆老(きらう)ヲ故園ニ問フ。澱水(でんすい)ヲ渡リ
  馬堤ヲ過グ。偶(たまたま)女(じよ)ノ郷ニ帰省スル者ニ逢フ。先
  後シテ行クコト数里、相顧ミテ語ル。容姿嬋娟(せんけん)トシテ
  癡情(ちじやう)憐(あはれ)ムベシ。因リテ歌曲十八首ヲ製シ、
  女(じよ)ニ代ハリテ意ヲ述ブ。題シテ春風馬堤曲ト曰フ。)

 そして、『夜半楽』の奥書に、「門人 宰鳥校」との署名が見られる。この署名に関して、先に、次のことについて紹介した。

※『夜半楽』板行を思い立った六十二歳翁蕪村の胸中には、彼が俳人としての初一歩をしるした日の師と同齢に達した感慨がつよく働いている。春興帖は、その心をこめて亡師巴人に捧げられたものであろう。『門人宰鳥校』として宰町としなかったのは、元文四年の冬にはすでに宰鳥号に改め、宰町はいわばかりの号に過ぎなかったのである」(安東次男著『与謝蕪村』)との評がなされてくる。すなわち、上記の『夜半楽』(序)の「吾妻の人」とは、夜半亭一世宋阿(早野巴人)その人というのである(その関係で、奥書の「門人 宰鳥校」を理解し、この「門人」は、「夜半亭一世宋阿門人」と解するのである)。

 これらのことについては、寛保四年(一七四四)の蕪村の初撰集『宇都宮歳旦帖』の「渓霜蕪村輯」の署名でするならば、この安永六年(一七七七)の蕪村の春興帖の『夜半楽』の署名は「夜半亭蕪村輯」とでもなるところのものであろう。それを何故、「門人 宰鳥校」としたのか、確かに、上記のとおり、「夜半亭宋阿門人」という理解も一つの理解であろう。
しかし、「門人 宰鳥校」の「校」が気にかかるのである。「校」とは「校合」(写本や印刷物などで、本文などの異同を、基準とする本や原稿と照らし合せること)とか「校訂」(古書などの本文を、他の伝本と比べ合せ、手を入れて正すこと)とかのの意味合いのものであろう。「門人 宰鳥撰」とか「門人 宰鳥輯」の、「編集」を意味する「撰」とか「輯」とかとは、やはり一線を画してのものなのであろう。それを遜っての表現ととれなくもないが、この『夜半楽』には、夜半亭一世・宋阿(巴人)の名はどこにも見られず、唐突に、この奥書に来て、この序文の「吾妻の人」を宋阿その人と理解して、「宋阿門人」と理解するには、やや、無理があるようにも思えるのである。ここは、『夜半楽』所収の異色の三部作の「春風馬堤曲」(署名・謝蕪邨)・「澱河歌」(署名なし)・「老鶯児」(署名なし)の、その「謝蕪邨」(この「引き道具」の狂言の座元・作者である「与謝蕪村」を中国名風に擬したもの)を受けて、「吾妻の人」風に「洒落風」に、「(謝蕪邨)門人 宰鳥校」と、蕪村自身が号を使い分けしながら、いわば、一人二役をしてのものと理解をしたいのである。 そもそも、蕪村の若き日の号の「宰町」(巴人門に入門した頃の「夜半亭」のあった「日本橋石町」の「町」を主宰する)を「宰鳥」(「宰鳥」から「蕪村」の改号の転機となった『宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の「鶯」の句に関連しての「鳥・鶯」を主宰する)へと改号したことは、当時の居所の「日本橋石町」から師巴人に連なる其角・嵐雪の師の芭蕉が句材として余りその成功例を見ないところの「鳥・鶯」への関心事の移動のようにも思えるのである。それと同時に、この安永六年の『夜半楽』の巻軸の句に相当する「老鶯児」の理解には、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の、その蕪村の号を初めて使用したところの「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の句と、それ以後の、歳旦帖・春興帖を編むときに、必ず登場してくるところの「鳥・鶯」の句と、同一線上のものと理解をしたいのである。そして、そう解することによって、始めて、この『夜半楽』の「老鶯児」の句の意味と、蕪村の絶吟の、「冬鶯むかし王維が垣根哉」・「うぐひすや何こそつかす藪の霜」・「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」の、この三句の意味合いが鮮明になってくると、そのように理解をしたいのである。

(四十二)

 そもそも、この『夜半楽』は安永六年(一七七七)の夜半亭二世・与謝蕪村の「春興帖」
である。それが故に、その他の蕪村の「歳旦帖」・「春興帖」との関連で見てきた。しかし、それだけでは足りず、より正しい理解のためには、当時の俳壇における「歳旦帖」・「春興帖」との関連で見ていく必要があろう。このような見地での基調な文献として、『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)所収の幾多の論稿がある。ここで、それらのことについて、その要点となるようなことについて、紹介をしておきたい。

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その一)

○ここで蕪村一門の春帖と呼ぶ時、その対象には、蕪村編のもの(『明和辛卯春』『安永三年蕪村春興帖』『安永四年夜半亭歳旦』『夜半楽』『花鳥篇』)、几董編のもの(安永五年『初懐紙』、安永九年『初懐紙』、安永十年『初懐紙』、『壬寅初懐紙』『初卯初懐紙』『甲辰初懐紙』、天明五年『初懐紙』、天明六年『初懐紙』、天明七年『初懐紙』、寛政元年『初懐紙』)、呂蛤編のもの(寛政三年『はつすゞり』他)、紫暁編のもの(寛政五年『あけぼの草子』他)などと、多くの俳書が含まれることになろう。さらに説明を加えるなら、蕪村編の春帖には、この他にも寛保四年(一七四四)に宇都宮で刊行した歳旦帖があるし、また伝存は不明ながら、『紫狐庵聯句集』には「明和辛卯春」「安永発巳」と題した三ツ物や春興歌仙が記録されており、空白の二年の刊行についても刊行が察せられる。また几董編の春帖についても、天明七年の『初懐紙』で几董が、「としどしかはらぬ初懐紙をもよほす事、かぞふれば十余リ五とせになりぬ。其いとぐちより繰返し見れば……」と回顧して、発巳(安永二年)から丁未(天明七年)に至る各年の巻頭発句を列挙するように、今日未確認の『初懐紙』が、安永二・三・四・六・七・八の各年にも刊行されたことが知られる。しかしここでは、伝存の有無にかかわらずその多くを措き、時を蕪村在世中の一時期に絞り、主として『明和辛卯春』と安永五年『初懐紙』の二書をとりあげる。
※ここに紹介されている明和八年(一七七一)に刊行した蕪村編の『明和辛卯春』については先に触れた。この春興帖は、明和七年に亡師巴人の夜半亭を襲号した蕪村が、その襲号の披露を兼ねて、広く夜半亭一門の俳諧を世に問うたもので、夜半亭二世・蕪村の代表的な春興帖である。そして、夜半亭二世・蕪村に継いで夜半亭三世となる几董が、蕪村存命中に、安永六年の『夜半楽』刊行一年前に刊行した春興帖が、安永五年『初懐紙』で、この両者の春興帖としての比較検討が、この「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」の骨子なのである。

(四十三)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その二)

○まず『明和辛卯春』から検討を始めよう。(中略) 現存の弧本は原表紙を欠き、書名は内題「明和辛卯春 / 歳旦」による仮称である。横本一冊。表紙の他にも欠損の丁が多いが、元来は本文全十四丁であった。一見して気付くのは、蕪村板下による書体の風格と匡郭および各行を画する罫の緑色の鮮やかさ(今は退色しているが)である。相俟って壮麗の感を与える。次にその内容をつくと、まず一丁目表は先の内題に続いて、蕪村・召波・子曳による三ツ物一組、一丁目裏は同じ三人による三ツ物二組を収める。(中略) 今これを仮に三ツ物三組形式と呼ぶことにする。この三ツ物三組に続く二丁目以下は、同門あるいは他門の歳旦・歳暮の発句を主とし、その発句群に交えて都合二巻の歌仙が収録されている。すなわち、三丁目裏から始まる「鳥遠く……」の一巻、十二丁目裏から始まる「風鳥の……」の一巻で、巻頭と巻尾の近くに配するが、決して巻頭でも巻尾でもない。(後略)
※この蕪村の『明和辛卯春』は「都市系歳旦帖」(其角・巴人に連なる江戸座などの都市系蕉門の流れによる春興帖)に属するとされるのだが(後述)、ここで、注目すべきことがらは、この春興帖に収録されている二巻の歌仙が、共に、「鳥」を句材としての発句ということなのである。その発句・脇・第三を例示すると次のとおりである。
(春興)
発句 鳥遠く日に日に高し春の水        子曳
脇   人やすみれの一すじ(ぢ)の道     蕪村
第三 紅毛の珍陀葡萄酒ぬるみ来て       太祗
(春興可仙)
発句 風鳥の喰ラひこぼすや梅の風       蕪村
脇   名もなき虫の光る陽炎         田福
第三 明キのかたわするゝ斗(ばかり)春たけて 斗文
 さらに、蕪村は、この『明和辛卯春』で立机を宣言するかのように「夜半亭」の号で次の「鶯」の句を公示している。
(洛東の大悲閣にのぼる)
    鶯を雀歟(か)と見しそれも春    夜半亭
(春興追加)
    鶯の粗相がましき初音かな      夜半亭 
 これらのことは、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の「三ツ物」七組で始まり、その卷軸の蕪村の号の初出の「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」とこの『明和辛卯春』の六年後に刊行する『夜半楽』の「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」と同一線上にあることを、蕪村は明確に公示していると思われるのである。

(四十四)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その三)

○続いて、安永五年(一七七六)『初懐紙』(略)に目を移してみよう。まず半紙本(一冊)という判型が『明和辛卯春』に対照的で、薄茶色の表紙の披いても十七丁の本文には匡郭や罫を見ず、版面の著しい相違にまた驚くのである。同様なことは内容にもあって、巻頭は勿論、書中どこにも三ツ物を見出すことはできない。すなわち、この書の巻頭には一丁分の序があり、続いて端作備わる歌仙(後半を略した半歌仙)を掲げる。端作は「安永五丙申春正月十一日於春夜楼興行」と記し、歌仙は几董の発句に始まり、脇以下を連衆が一句ずつ詠んで一巡するもの。そして歌仙の後には「各詠」と標題されて、連衆の各人一句を列ねた一群の発句が配置されている。言うまでもなく、これは由緒正しい俳諧興行の開式に則るものなのである。各詠発句の後には「其引」と標題した蕪村等(右歌仙に欠座)の発句が並ぶが、『明和辛卯春』では、この「其引」の発句は三ツ物三組の直後に並んでいた。このことから察しても、几董が、正式興行の歌仙と各詠発句を巻頭に配し、これを三ツ物三組に代えたことは疑えないだろう。(中略) このように『明和辛卯春』と安永五年『初懐紙』を比較してみると、俳書の性格において、両書がきわめて鋭い対照を示すことに気付かざるを得ない。すなわち、それは①判型、②匡郭と罫の有無、③巻頭形式(三ツ物三組と正式俳諧興行)、④句の性格(歳旦・歳暮句と春・冬句)、⑤連句の扱い(重視の程度)の五点において、著しく異なっているのである。(後略)
※この「一『明和辛卯春』と『初懐紙』との隔たり」の後、「二 都市系歳旦帖の性格」(略)・「三 都市系俳壇風の『明和辛卯春』」(略)と続き、続く、「四 地方系蕉門色の『初懐紙』」として、次のような記述が見られる。「(前略)また歳旦帖は、長い伝統に培われて、特定俳系の特色を明瞭に示すので、編者の帰属意識をとらえるのに好都合と考えたからである。その検討り結果は右の通りであったが、ここで私は、都市系の性格を帯びた『明和辛卯春』形式の歳旦帖が安永五年(一七七六)以降刊行されず、蕪村によって全く放棄されてしまった事実を、きわめて重く見るのである」(田中・前掲書)。そして、この都市系俳壇風形式の歳旦帖に代わって、蕪村が次に編纂したものこそ、安永六年(一七七七)の『夜半楽』に他ならない。こういう、蕪村の歳旦帖・春興帖の変遷を背景として、その『夜半楽』の次の「序」を見ていくと、「形式的には従前の都市系俳壇風の春興帖形式と当時の一般的な地方蕉門色の春帖形式とを混交させながら、内容的には、より都市系俳壇風に、より自由自在に異色の俳詩などを織り交ぜ、特色ある春興帖を意図している」ということが言えよう。
※※『夜半楽』(序)
祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは
不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず)
蕉門のさびしをりは
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし)
さればこの日の俳諧は
わかわかしき吾妻の人の
口質(こうしつ)にならはんとて
(訳)京都の祇園会のお囃子は秋風の風韻には調和しない。それと同じく、蕉門の寂び撓(しをり)は新春のお目出度い席では避けた方がよい。だから、この日の新春の俳諧は若々しい東国の人の口調に倣っている。

(四十五)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その四)

○ここでようやく『初懐紙』の内容的性格に言及する段階に至った。私は先に、その編纂形式の斬新さを指摘したが、内容的性格はそれ以上に際だってユニークであった。都市系・地方系を問わず、従来の春帖に全く例を見ぬものであった。その特色というのは、集中どこにも歳旦句・歳暮句を収めぬことである。「聖節」「東君」等の題は勿論、「歳旦」「歳暮」の題も見出せぬことはすでに述べたが、題のみならず、元朝を賀し家の春を言祝ぐ類の発句を見ず、年頭の祝意は、わずかに「あらたまのとし立かへる……」という序文に託されるにすぎない。同様に、歳末の生活感情をとらえる句も見当たらぬのである。これに代わるものは、
    早春
 うぐひすや梢ほのめくあらし山    几董
 鶯に終日遠し畑の人         蕪村
といった、春の訪れを喜び春の自然を讃えるみずみずしい情感であり、またそれを表現する句であって、これが『初懐紙』の基調をなす。歳暮句に代わって「冬」の句は少々あるが、『初懐紙』も後年ほどその数を減じ、後には春句のみで編まれる年も出る。つまり『初懐紙』はもっぱら春を詠む俳書として、それも人事の春ではなく自然の春を詠む俳書として登場したのであり、特に早春の初々しい感情が重視される。(後略)
※この几董編の『初懐紙』は、蕪村編の『夜半楽』刊行一年前に刊行されたものである。この『夜半楽』を刊行する三年前の、安永三年(一七七四)の六月に、蕪村は宋阿(夜半亭巴人)三十三回忌の追善法要を営み、追善集『むかしを今』を刊行する。その『むかしを今』は、夜半亭二世蕪村と夜半亭三世となる几董との二巻の歌仙を収めている。それは、宋阿の句を発句とする脇起こし歌仙で、その発句・脇・三十五句目(挙句前の花の句)を例示すると次の通りである。

発句   啼(なき)ながら川越す蝉の日影哉      宋阿居士
脇      行人少(まれ)にところてん見世(みせ) 蕪村
三十五  宋阿仏匂ひのこりて花の雲          几董

発句   啼(なき)ながら川越す蝉の日影哉      宋阿居士
脇      蚋(ぶと)に香たく艸(くさ)の上風   几董
三十五  雲に花普化(ふけ)玄峯に宋阿居士      蕪村

 この蕪村の三十五句目の「普化」は其角、そして、「玄峯」は嵐雪のことである。すなわち、蕪村も几董も、其角・嵐雪、そして宋阿に連なる都市系蕉門に属しているという公示でもある。この二人はその都市系蕉門の中心的俳人の其角崇拝では人後に落ちなかった。蕪村は、其角の『花摘』に倣い『新花摘』を刊行し、几董は、其角の『雑談集』に倣い『新雑談集』を刊行し、其角の「晋子」の号に模して「晋明」の号をも称している。しかし、几董の春帖(歳旦帖・春興帖)の『初懐紙』には、其角・嵐雪・宋阿、そして、蕪村のそれとは違った編纂スタイルをとっているのである。それも、一重に、歳旦帖・春興帖の時代史的な変遷であるとともに、都市系俳壇と地方系俳壇との融合、そして、それがまた、蕪村らの「蕉風復興運動」の文学史的意義であったのだという(田中・前掲書・「蕉風復興運動の二潮流」)。このような大きな流れを背景にして、始めて、蕪村の「諸流を尽シてこれを一嚢中に貯へ」(『春泥句集』序)という意義が鮮明となってくる。ともあれ、蕪村在世中の安永五年の、夜半亭三世となる几董の『初懐紙』の中において、上記の「早春」と題する「鶯」の句を、蕪村と几董とが肩を並べて作句していることが、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の、その蕪村の号を初めて使用したところの「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の句と、それ以後の、歳旦帖・春興帖を編むときに、必ず登場してくるところの「鳥・鶯」の句、そして、安永六年の『夜半楽』の「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」の句と、さらには、蕪村の絶吟の、「冬鶯むかし王維が垣根哉」・「うぐひすや何こそつかす藪の霜」・「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」の句と、またしても交差してくるのである。

(四十六)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その五)

○(前略)『初懐紙』の編纂刊行を几董に任せた蕪村は、安永五年には自編の春帖を持たない。煩わしさも減じたが、一方では、『初懐紙』が地方系蕉門風に傾くのあまり、蕪村にとって飽き足らぬ思いも残った。そこで蕪村が、半ば興じ半ば真剣に、自らの趣味を充分盛り込んで編んだ春興帖が、安永六年(一七七七)の『夜半楽』だったと思われる。したがって同書は、『初懐紙』をモデルとしながら(半紙本一冊。〔序に代わる題辞→春興発句群→巻末の歌仙に代わる仮名詩三編〕という内容構成)、『初懐紙』の世界から『明和辛卯春』の方向に半歩後退し、都市俳諧的趣向性を横溢させながら、しかもなお豊に春景を描き出すものとなる。後退して、かえってそこに独自の作品世界を作り上げ得たのである。それは几董的ではなく、まさに蕪村的な春興集であった。たとえば、巻頭にすえられた歌仙の奇妙な冒頭部、

  歳旦はしたり皃(がほ)なる俳諧師     蕪村
   脇は何者節の飯帒(はんたい)      月居
  第三はたゞうち霞みうち霞み        月渓

をどう解すべきであろうか。それぞれの句頭に「歳旦」「脇」「第三」の語を折り込む趣向には、安永四年まで三ツ物の歳旦句になじんでいた蕪村が、心の隅にかすかな抵抗を覚えながら始めて春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)を巻く、半ば照れ半ばおどけた表情さえ思い浮かぶようである。このように考えると、かの太祗の句を引く「春風馬堤曲」もまた、蕪村らしい趣向に溢れた独自の春景句、しかも郊外散策のそれであった。『明和辛卯春』などと同様に匡郭と罫を刷り込み、巻頭に「…… / わかわかしき吾妻の人の / 口質にならはんとて」と揚言して、巻尾に「門人宰鳥校」と署名する意識には、江戸俳壇で育った蕪村の、京俳壇の新動向の中で独自の道を歩まんとする自負がにじむようである。思えば『明和辛卯春』などの匡郭と罫の緑墨も、画家らしい好みとともに、江戸俳壇の寛闊を伝えるさかしらではなかったか。ともあれ夜半亭一門の春興集は、京の都市民に自然愛の俳諧を供し、同門のその後の俳風を決定づけ、俳壇に長く影響を及ぼすことになったのである。
※これまでに、いろいろな角度から蕪村の異色の俳詩を包含している『夜半楽』を見てきたが、上記の、「安永四年まで三ツ物の歳旦句になじんでいた蕪村が、心の隅にかすかな抵抗を覚えながら始めて春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)を巻く、半ば照れ半ばおどけた表情さえ思い浮かぶようである」という指摘には、全く同感である。そして、それが故に、この『夜半楽』の、巻頭の「…… / わかわかしき吾妻の人の / 口質にならはんとて」との揚言や、巻尾のおどけた調子の「門人宰鳥校」の署名も、「江戸俳壇で育った蕪村の、京俳壇の新動向の中で独自の道を歩まんとする自負がにじむようである」として、十分に頷けるところのものである。また、「春風馬堤曲」の太祗の句の引用も、「江戸俳壇で育った蕪村」を象徴するようなものとして、これまた、蕪村の真意が見えてくるような思いがするのである。その「春風馬堤曲」に続く、「澱河歌」もまた、それらの「若き日の蕪村」(わかわかしき吾妻の人)に連なる「官能的な華やぎのエロス」の「仮名書きの詩」(俳詩)として、それに続く、「老鶯児」の発句の背景と思える「老懶(ろうらん)」(老いのもの憂さ)の前提となる世界のものとして、これまた、十分に首肯できるところのものである。さらに、些事に目を通せば、上記の「春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)」の発句(蕪村)に続く脇(月居)・第三(月渓)の「月居・月渓」が、三十五句目(挙句前の花の句)の几董、挙句の大魯に比して、その、ともすると「地方系蕉門風」の「几董・大魯」に続く、その次を担う夜半亭門の若き俊秀たちであることに注目すると、これまた、蕪村の真意というのが伝わってくる思いがするのである。上記の、「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」において、ただ一つ不満なことは、この『夜半楽』の卷軸の句と思われる「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」について言及していないことなのだが、これは項を改めて触れていくことにしたい。


(四十七)

「郊外散策の流行・蕪村の『春風馬堤曲』(田中道雄稿)」

 『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)所収には「郊外散策の流行」と題する論稿があり、「蕪村の『春風馬堤曲』」という項立ての中に次のような記述がある。

○(前略)蕪村は郊行詩の盛行現象に応じながら、しかもそれを独自の形態で表現した。それこそ俳諧詩「春風馬堤曲」であった。「春風馬堤曲」の郊行詩的性格を、まず伝統的概念から確かめとどうなるか。ある人物が郊外(馬堤)を通行し、その人物が風景を受容して行く過程が描かれる。まずこれが確かめられよう。ただし人物は、詞書中のみ作者、ということになるが、道が細くて曲がることが多い。これは「路(みち)三叉(さんさ)中に捷径(せふけい)あり」「道漸(やうや)くくだれり」から察せられる。詩を詠むことがある、これは詞書中での作者の行為として出る。風景として天象・地勢・植物・家畜家禽・構築物・人はいずれも含まれよう。続いて、安永天明期郊行詩の条件を満たし得るものか。第一の作風の新しさの一として、田園描写の精細があった。「蒲公(たんぽぽ)茎短(みじかう)して乳(ちち)をあませり」の観察は秀抜、「呼雛籬外鶏……」に見る鳥類の母性活写は、「野雉一声覷(うかが)ヘドモ不見(みえず)、菜花深キ処雛ヲ引テ行ク」(『六如庵詩鈔』五五)、「野鳥雛ヲ将(ひきゐ)テ巧に沙ニ浴ス」(『北海詩鈔』三六二)に通うものがあろう。二の田園風景における人為的素材や人はどうか。茶店、老婆、客の行動、猫や鶏など豊に含まれる。三の自然に向かって昂揚する感情は、三、四首目、少女の水辺行動に喜びが溢れよう。第二の素材・用語面での新しさはどうか。一の歩行については、詞書に「先後行数理」、本文では「渓流石点々 踏石撮香芹」と若々しい跳躍姿で描かれる。二の飲食は、茶店の客の「酒銭擲三緡」がそれを暗示しよう。この客もまた野懸け、つまり郊行の人なのである。三の日は「黄昏」がこれに代わる。第三、第四を措いて第五に移ると、冒頭の「浪花(なには)を出(いで)て長柄川(ながらがは)」は都市から郊外への方向性を明示し、作の前半は、都市あるいは世事からの解放の喜びを含む。そして馬堤は「本(もと)をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅」と、二項的把握に立って離郷を嘆く場ともなる。このように見て来ると、本作は、安永天明期郊行詩の条件をもほとんど具備していることになる。なお、『詩語砕金』の「春日郊行」項には「傍堤ツツミニツイテ」とあり、安永中と覚しき百池・几董の三ツ物に「馬堤吟行」の題を見る。本作の郊行詩的性格は、蕪村自らの意図によるのである。(中略) それにしても、郊行詩が詩人たちに清新な感情で迎えられる潮流、”郊外”という新しい場の成立、このことを抜きにして果たしてこの作品は成ったろうか。春日郊行の俳諧は、蕪村の「春風馬堤曲」に極まるのである。
※上記の「郊行詩的性格を伝統的概念から確かめる」の「伝統的概念」というのは、明代の作詩辞典の『円機活法』を指している。その伝統的な「郊行詩」の概念は、一「ある人物(通常作者)の郊行通行という行動を基本に据え」、二「場である郊外は、平野または村落から成り、道は細く曲がることが多い」、三「通行手段は、徒歩・馬・輿」、四「風景は、自然的素材としての天象、人為的素材としての農地・作物・家畜家禽・構築物など」となり、この作詩辞典の『円機活法』や詩語集の『詩語砕金』の「春日郊行」などが、蕪村の「春風馬堤曲」に大きく影響しているというのである。これまで、この「回想の蕪村」のスタートの時点において、「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵稿)を見てきたが、それに、この天明・安永期の「郊外散策の流行」・「郊行詩の盛行」ということを付記する必要があるということなのであろう。すなわち、唐突に、蕪村の異色の俳詩「春風馬堤曲」は誕生したのではなく、当時の漢詩の流行、そして、その影響下における俳諧の流行を背景にして、生まれるべくして、生まれてきた、換言するならば、「春日郊行の俳諧は、蕪村の『春風馬堤曲』に極まるのである」ということなのであろう。
なお、『円機活法』については、下記のアドレスなどが参考となる。

http://sousyu.hp.infoseek.co.jp/ks700/ks700.html

(四十八)

「祇園南海の詩論・影写説」・「中興諸家の場合、ことに蕪村の遠近法」(田中道雄稿)

 若き日の蕪村が、日本文人画の祖ともいわれている漢詩人・祇園南海に傾倒したことについては、先に触れた。

http://yahantei.blogspot.com/2006/07/blog-post_115354603992727424.html

 この祇園南海の詩論・影写説が、少なからず、蕪村の作句などに多くの影響を与えているのではないかとする論稿がある(『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著))。以下、簡単にそれらについて要約して紹介をしておきたい。

○(祇園)南海の影写説が一般に拡まるのは、その没後に刊行された『明詩俚評』によってであった。(中略) 捉え難い情趣(作者主体の考える美的価値)を読者に伝えるため、捉え易い景気・客体の客観的描写を創作の方法として選んだことになる。つまり情趣構成法を示したのである。作品の内なる情趣構成法を示したのである。(中略) ここで著者(註・南海)は、「表」「裏」の対義語を用い、「表」で詠物や叙景を試みる一方、「裏」に寓意を込める作例を示す。また「裏」は、色々の深い意味や感情つまり「余情」を含む部分があると言う。従って詩の解釈は「表バカリ解」して「裏ハ推シテ知ベ」きものであり、反対に「裏」の意を解すると「余情」を失うことになる。この解釈法は創作法にも応用され、詩の創作は心を凝らしてまず「表バカリ作ル」こととなる。(「祇園南海の詩論・影写説」)
○『加佐里那止』(註・白雄の姿情説が説かれている明和八年刊行の著書)の論は、これまで見て来た影写説に極めてよく対応する。「姿」を「表」に「情」を「裏」に置き換えれば、そのまま影写説の理論構造に近づく 影写説は本来姿先情後論に近い理論構造を持ち、それ故に鳥酔らに迎えられたのであろう。ところが『寂栞』(註・白雄の姿情説が説かれている文化九年刊行の著書)は、情先姿後論は論外であり、姿先情後論をも明確に否定する。姿と情を、天・地の如く同列一対に見る。それを「物の姿」と「己の心」とを相対立させる形で置く。ここで注目すべきは、「物の」「己が」という修飾限定の語を伴う点であろう。対象(物)と主体(己)との位相の違いが、ここで明瞭に示される。位相が異なれば、先後は意味を失う。この二極分解を促したのは、おそらくは対象の描写にかかわる意識の発達、主体の表出にかかわる意識の発達だったと思われる。中でも、主体の「情」が相対的に強まったのではなかろうか。そして得られたのが、(「鳥酔系俳論への影響」・「姿先情後論から姿情並立論へ」)
○蕪村こそ、その主客対立の構造を、先駆的かつもっとも鋭く作品に示した人だった。(中略) 蕪村の影写説の影響を思わせるものは、次の二書簡がある。
  鮒ずしや彦根の城に雲かゝる
(中略) (安永六年五月十七日付大魯宛)
  水にちりて花なくなりぬ岸の梅
(中略) (安永六年二月二日付何来宛)
(中略) 蕪村の発想の二重構造は、次の書簡も裏付けてくれる。
  山吹や井手を流るゝ鉋屑
(中略) (天明三年八月十四日付嘯風・一兄宛)
この句、裏に加久夜長帯刀(かくやたちはきのをさ)の能因見参の故事を含みつつ、表は景気として鑑賞すると言う。しかもこの二重鑑賞法は詩の解釈に見るものと言う。やはり影写説に学ぶものと推定できよう。(「中興諸家の場合、ことに蕪村の遠近法」)
※これらの論稿は〔「我」の情の承認-二元的な主客の生成-〕の中のものなのであるが、中興諸家の多くの俳人が、祇園南海の「影写説」の影響を受けていて、その「影写説」が、「姿先情後論から姿情並立論へ」と向かい、そして、その「我」の情の優位が確立し、「情を「己」の側、姿を「物」の側に分けるという、二元的把握の成立だったのである。それは従来の姿―情という関係の内容を、物―己という関係に組み替えるものであった」というのである。そして、蕪村もまた、この「影写説」の影響や主我意識の発達の中で、「風景を一望するため自己の位置を一点に定め、対象に一定の「隔り」を置くという、いわゆる「遠近法」を自家薬籠中のものにしていたというのである。そして、この遠近法が「遠」の詩情の問題に深く関わり、それが、蕪村の浪漫精神に連なっているというのが、この論稿の骨子であった。ともあれ、蕪村の発句の鑑賞や、俳詩「春風馬堤曲」の鑑賞にあっては、この祇園南海の「影写説」などを常に念頭に置く必要があるように思えるのである。

(四十九)

「蕪村の手法の特性 -“ 趣向の料としての実情”― 」(田中道雄稿)

○「蕪村発句の新しい解釈」
(前略)新たな理解は、清登典子氏の、「梅ちるや螺鈿こぼるゝ卓の上」 の解釈にも見られる。(中略) 単なる嘱目句ではなく、古典(註・『徒然草』八十二段)によって奥行きを与えた、趣向ある叙景句なのである。
○「かくされた出典の存在」
(前略)表面上一応の解釈はつくのに、検討を加えると、背景をなす古典の存在が明らかになる、ということであった。それはあたかも、それぞれが映像を持つ二つの透明スクリーンを隔て置き、手前から眺め観る趣きである。つまり二重写し、この出典の発見によって句解も多少変るが、より重要なのは、古典場面の付加によって、一句に新たな情が加わることである。(中略)蕪村が祇園南海の詩論”影写説”を受容していた、という事実に基づく、(中略)表は景気句として味わい、裏では故事を察して味わうという、二重鑑賞の実例を示していた。先の私解三例(省略)は、この鑑賞理論に沿ってみたのであった。
○「景の重層化の意図」(省略)
○「皆川淇園の思想との類似」
蕪村の発句制作において”景の重層化”とも呼ぶべき手法があることを指摘した。蕪村はこれを方法として充分に自覚し、利用にはある意図が存したと考えられる。(中略)私見(註・田中道雄)では、前節(註・「景の重層化の意図」)に見る発句の手法は、その発想が、当時京都の儒学界に新風を起こした、皆川淇園の思想に相似ており、或いは関連を持つかと思われる。蕪村は、この淇園の思想を逸早く受ける立場にあり、恐らく何がしかの影響を受けていよう。(後略)
○「趣向と情との拮抗関係」
(前略)蕪村は、趣向を第一に置き、これに情を付随させる方法、別な言い方をすれば、情がより現れる形での趣向中心主義を採った、と考えられる。これまでの句解例(省略)によれば、第二節(「かくされた出典の存在」)の古典を用いる方法が、何よりもそのことを物語る。裏に典拠を持つというのは、伝統的な趣向の方法であり、これらの句は、そこに基盤を置いて成立している。従って作品の価値は、何よりもこの趣向の面白さにあり、その間ににじみ出る情が評価されるのも、あくまでも趣向に伴っての出現、と理解されていたと思われる。(後略)
○「『春風馬堤曲』の方法」
(前略)当作品の魅力の中心は、浪花から故園に至る少女の道行にある。勿論この少女の設定が、当作の趣向の要である。しかも、この趣向は、それが二重の筋で利くことになる。その一は、第三章(註・「郊外散策の流行・蕪村の『春風馬堤曲』)にも述べたように、当時流行した春日郊行あるいは春日帰家と題する漢詩を念頭に置き、文人好みの郊外という舞台を、文人に代わって藪入りの少女に歩ませる、という趣向である。(中略)その二は、帰郷の少女を望郷の作者の分身として歩ませる、という趣向である。(中略)この二重の意味での趣向は、作者の情を盛り込む上でも、きわめて効果的であった。(中略)こうした本作の趣向の巧みは、その末尾にも現れる。末尾では、道行を終えた少女が漸く生家に近づくが、その場面は突如打ち切られ、代って作者が再登場する。そしてあろうことか、他者の作品を加えて一篇を結ぶ。(中略)当代詩壇では望郷詩が多作され、中には「夢帰故郷」(註・夢ニ故郷ニ帰ル)の題の下、夢中の場面がリアルに描かれることもあった。本作は、蕪村による「夢帰故郷」の詩と見倣し得る。(中略)確かに本作の情は、作者に内発したものであった。しかし作者は、この個人の情の文芸的表現を自ら求めながら、一方、自らの美意識に立ってそのあらわな表現を抑制した。その矛盾を自解に「うめき出たる実情」と滲ませるものの、老練さすがに心得て、「狂言の座元」の如く全体を統制し、実情を趣向に隠し込める形で処理したのである。(後略)
○「”趣向の料としての実情”」(省略)
○「結び」(省略)
※「蕪村の手法の特性」ということでの著者(田中道雄)の論稿を要約すると上記のとおりとなる(句例の解説などを全て省略し、充分にその意図を伝達できないきらいがあるが、その骨格となっているものは、上記のとおりである)。ここで、蕪村は、きわめて「趣向」を重視した画・俳の二道の達人であったということと、「詩を語るべし。子、もとより詩を能くす。他にもとむべからず」(『春泥句集』序)の、漢詩を「かな書き」でしたところの、まぎれもなく、「かな書きの詩人」であったという思いである。この意味において、蕪村をよく知る上田秋成の、蕪村の追悼句ともいうべき、「かな書(がき)の詩人西せり東風(こち)吹て」(『から檜葉』所収の難華・無腸の署名の句)という思いをあらためて反芻するのである。そして、その異色の俳詩「春風馬堤曲」こそ、蕪村の手法が全て網羅されている、蕪村ならではの「かな書き」の詩ということになろう。と同時に、この安永六年(一七七七)の『夜半楽』に収録されている俳詩の、「春風馬堤曲」並びに「澱河歌」は、服部南郭の「影写説」並びに皆川淇園の「景の重層化」の、いわゆる当代の漢詩の詩論の影響下での、蕪村独自の世界の展開といえよう。そして、それは、蕪村のこれらの俳詩の創作の中心となる「写意」ともいうべき「情」を、その「裏」に閉じこめての、華麗なまでにも「表」の「趣向」を現出した、いわば、「趣向詩」とでもいうべき装いを施しているということなのである。この意味において、その「表」の「趣向」よりも、「裏」の蕪村の内なる「情」を綴った、蕪村のもう一つの俳詩、「北寿老仙を悼む」(「晋我追悼曲」)とは、一線を画すべきものとの理解をも付記しておきたいのである。

若き日の蕪村(七~九)

若き日の蕪村(七)

(七十六)

ここで、蕪村の絵画の方面について触れてみたい。そもそも、与謝蕪村の出発点は、俳諧師を目指したものなのか、それとも、絵画師を目指したものなのかどうか、これもまた謎である。明治に入って、正岡子規の、いわゆる、俳人・蕪村の再発見以前は、どちらかというと、画人・蕪村という趣であった。すなわち、蕪村は大雅とともに日本の文人画(南画)の大成者として日本画壇の一方の雄として燦然と輝く存在であった。次のアドレスの「日本美術史ノート 江戸中期の絵画 南画 大雅と蕪村」に、その生涯の年譜が紹介されているが、その書画を中心として抜粋すると下記のとおりとなる。

http://www.linkclub.or.jp/~qingxia/cpaint/nihon24.html

(書画)

元文二(一七三七)京から江戸に戻った夜半亭宋阿 (早野巴人)の内弟子となる。画にも親しむ。 服部南郭の講義にも列席。
寛保二(一七四二)恩師宋阿に死別、同門下総結城の雁宕 (がんとう) に身を寄せる。約十年奥羽などを旅の生活。この頃、結城、下館等に画。
延享一(一七四四)宇都宮で処女句集『歳旦帖』、初めて蕪村の号。  
宝暦一(一七五一)宋阿門流の多い京に上る。俳諧より画業に専心。
(1754-57)丹後宮津(与謝郡、母の墓)に滞在。絵による生活も安定。結婚、一女をもうける。四明,朝滄の号で多彩な様式を試みる。 彭城百川に学ぶ。 狩野派・大和絵系、中国絵画や版本類を研究し自己の画風を形成。
宝暦九(一七五九)沈南蘋を学ぶ。 趙居の落款。
宝暦十(一七六〇)この頃、名を長庚、字を春星、また与謝氏を称する。
(1763-66)山水画の屏風を講組織のために盛んに描く。
(1766-68)二度讃岐滞在。俳諧にも次第に熱意。丸亀妙法寺《蘇鉄図》。
明和七(一七七〇)夜半亭二世、宗匠に。  
(1771)春、歳旦帖『明和辛卯春』を出す。〈離俗論〉。詩(漢詩)・画・俳一致、俳諧の理想境に至る方法。《十便十宜図》池大雅合作。〈十宜図〉。
(1772)安永年間、画の大成期。   
(1776)洛東金福寺に芭蕉庵を再興。この頃〈俳諧物の草画〉俳画の完成。
(1778)以降晩年 謝寅 (しやいん) 落款。芭蕉紀行図巻、屏風を多作。
(1779)芭蕉紀行図巻、屏風を多作。
天明三(一七八三)暁台主催の芭蕉百回忌、取越追善俳諧興行。九月宇治田原にきのこ狩に行ったのち病に倒れる。十二月二十五日没、金福寺に葬られる。  

(七十七)

 この年譜の「元文二(一七三七) 京から江戸に戻った夜半亭宋阿 (早野巴人)の内弟子となる。画にも親しむ。 服部南郭の講義にも列席」ということは、現に、柿衛文庫に所蔵されている「俳仙群会図」(画像・下記アドレス)の画賛「此俳仙群会の図は、元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして、ここに四十有余年に及べり。されば其稚拙今更恥べし。なんぞ烏有とならずや」(この俳仙群会の図は、元文の昔、私が若い時描いたもので、それからもう四十年あまりもたってしまった。だからその下手な筆づかいは今さら恥ずかしい。どうしても焼けなくなってしまわなかったのだろうか)なども念頭にあってのことだろう。この「俳仙群会図」について、山下一海氏は、「古今の俳人から、宗鑑・守武・長頭丸(貞徳)・貞室・梅翁(宗因)・任口上人・芭蕉・其角・嵐雪・支考・鬼貫・八千代・園女・宋阿の十四人を選びその像を描いて朝滄と書名し、その上段に任口以外の十三人の代表句を一句ずつ記している。四十余年後の蕪村が、拙いものだから残っていない方がよかったといっているように、蕪村独自の表現とはなり得ていないにしても、簡素ながら丁寧な描出ぶりは、この時期の蕪村の画投への打ち込み方を十分に窺わせるものである」(『戯遊の俳人 与謝蕪村』)と記している。しかし、この初期の蕪村の傑作作品とされている「俳仙群会図」については、尾形仂氏らによって、「『朝滄』の落款から推して、四十代初頭の丹後時代の作」(『蕪村全集四』)と、元文時代(二十二歳~二十五歳の頃)のものではなく、宝暦元年(三十六歳)の京再帰後の、丹後時代(三十九歳~四十二歳の頃)の作とされ、蕪村の俳詩「北寿老仙をいたむ」の制作時期を巡っての論争と同じように、その制作時期については、「元文年間説」と「宝暦年間説」とが対立している。この作品を所蔵している「柿守文庫」は、下記の「参考」のとおり、「元文年間説」の記述なのであるか、やはり、その署名の「朝滄」、そして、「丹青不知老到」(白文方印)からして、ここは、尾形仂氏らの「宝暦年間説」(丹後時代)によるものと解したい。

http://hccweb6.bai.ne.jp/kakimori_bunko/shozo-buson.html

(参考)

 蕪村(ぶそん・一七一六~一七八三)は文人画家として独自の画境を開きました。また、俳諧では「離俗」を理念に、高い教養と洗練された美意識をもって、写実的で浪慢的な俳諧を展開し、芭蕉亡き後の俳壇を導きました。本点は下段に14人の俳仙、宗鑑・守武・長頭丸(貞徳)・貞室・梅翁(宗因)・任口・芭蕉・其角・嵐雪・支考・鬼貫・八千代・園女・宋阿(巴人)の像を集め、中段に任口以外の13人の代表句を記しています。さらに上段には蕪村が後年になって求めに応じて書き加えた賛詞があり、それによると、「元文のむかし」、すなわち蕪村の21歳から24歳のころの作品で、本図が伝存する蕪村筆の絵画の中では最も初期のものであることがわかります。

(七十八)

この「俳仙群会図」については、「柿衛文庫」の創設者の岡田利兵衛氏の『俳画の美 蕪村・月渓』で、その解説を目にすることができる。その紹介の前に、先の「柿衛文庫」の紹介記事中の、岡田利兵衛こと岡本柿衛に関するものを参考までに以下に掲載をしておきたい。

http://hccweb6.bai.ne.jp/kakimori_bunko/okada-rihei.html

(参考)

岡田柿衞は明治二五年(一八九二)八月二七日、江戸時代から続く伊丹の酒造家、岡田正造の長男として生まれました。幼名は真三、二六歳のとき利兵衞(リへえ)を襲名。京都帝国大学文学部国文科卒業。梅花女子専門学校、聖心女子大学、橘女子大学などで教鞭をとるとともに、伊丹町長・市長職を務めました。 郷土の俳人、鬼貫(おにつら)に端を発する俳諧資料の収集は、俳諧史全般へと拡大。学術研究上必要な資料の蓄積を、現在の(財)柿衞文庫に遺しました。『鬼貫全集』『俳画の美』ほか著書多数。中でも『芭蕉の筆蹟』は芭蕉筆蹟学の礎を築いた名著。柿衞は号で、歴代の当主が愛でた岡田家の名木「台柿(だいがき)」を衞(まも)るの意を込めたもの。この柿の実は、文政一二年一〇月、頼山陽が母とともに伊丹を訪れた際、「剣菱」醸造元の坂上桐陰の酒席で、デザートに供され、山陽はあまりのうまさに感激したという逸話が残っています。そのとき、山陽はもう一つと所望しましたが、「岡田家に一本あるだけの柿なのであきらめてほしい」と断られたといいます。柿衞が岡田家伝来品に加え、独自の俳諧資料収集を思い立ったのは昭和一二年、鬼貫の短冊との出合いがきっかけでした。その後終戦前後の一〇年間は積極的に資料を集め、当時の様子を「俳人遺墨入手控」や「俳諧真蹟入庫品番付」に記録しています。番付は相撲好きの柿衞が、前年度手に入れた俳諧関係の真筆資料を相撲の番付に模して作成したもので、たとえば昭和二三年度の東の横綱として「西鶴自画賛十ニケ月」、西の大関として「鬼貫筆にょっぽりと秋の空なる富士の山の一行物」をあげています。柿衞は多趣味で知られ、洋鳥の飼育、写真撮影、高山植物の育成などにも熱中。洋鳥においては、山階芳麿(やましなよしまろ)ら九人で「鳥の会」を結成したり、千坪近い庭に禽舎『胡錦園(こきんえん)」を設けて飼育するほどでした。昭和五七年(一九八二)六月五日、伊丹で没。八九歳でした。柿衞は没するまで、現在の柿衞文庫、伊丹市立美術館、工芸センターの敷地内で暮らし、その家の一部は平成四年一月、「旧岡田家住宅」(店舗・酒蔵)として国の指定文化財となり、阪神・淡路大震災で大きな被害を受けたため、解体修理されています。山陽の愛した台柿(二世)は、柿衞文庫館の庭園で毎秋、独特の実をたくさんつけています。

(七十九)

さて、「柿衛文庫」の創設者の岡田利兵衛氏の『俳画の美 蕪村・月渓』での、「俳仙群会図」の解説は次のとおりである。

右の大きさ(画 竪三五センチ 横三七センチ 全書画竪 八七センチ)の絹本に十四人の俳仙、すなわち宗鑑・守武・長頭丸(貞徳)・貞室・梅翁(宗因)・任口・芭蕉・其角・嵐雪・支考・鬼貫・八千代・園女と宋阿(巴人)の像を集めてえがいている。特に宋阿は蕪村の師であるので加えたもので、揮毫の時点においては健在であったから迫真の像であると思われる。着彩で精密な描写は大和絵風の筆致で、のちの蕪村画風とは甚だ異色のものである。これは蕪村が絵修業中で、まだ進むべき方途が定まっていなかったからであろう。しかし細かい線の強さ、人物の眼光に後年の画風の萌芽を見出すことができる。
中段に別の絹地に左の句がかかる。

元日や神代のこともおもハるゝ           (守武)
鳳凰も出よのとけきとりのこし           (長頭丸)
これハこれハ(註・送り記号)とはかり花のよしのやま(貞室)
手をついで歌申上る蛙かな             (宗鑑)
ほとゝきすいかに鬼神もたしかに聞け        (梅翁)
古池や蛙飛こむ水の音               (芭蕉)
桂男懐にも入や閏の月               (八千代)
古暦ほしき人にはまひらせむ            (嵐雪)
いなつまやきのふハひかしけふは西         (其角)
はつれはつれ(註・送り記号)あハにも似さるすゝき哉(園女)
不二の山に小さくもなき月しかな          (鬼貫)
かれたかとおもふたにさてうめの花         (支考)
こよひしも黒きもの有けふの月           (宋阿)
  任口上人の句ハわすれたり
   平安 蕪邨書  謝長庚印 謝春星印

さらに上段に左記の句文か貼付される。これは紙本である。

此俳仙群会の図ハ、元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして、こゝに四十有余年に及へり。されハ其稚拙今更恥へし。なんそ烏有とならすや。今又是に讃詞を加へよといふ。固辞すれともゆるさす。すなはち筆を洛下の夜半亭にとる。
花散月落て文こゝにあらありかたや
   天明壬寅春三月
    六十七翁  蕪村書 謝長庚印 潑墨生痕印

この三部は三時期に別々にかかれたもの。上段は紙本で明らかに区分されるが、中段と下段はどちらも絹本であってやや紛らわしいかもしれないが絹の時代色が違うのと、謝長庚・謝春星の印記が捺され、この号は宝暦末から使用されるから、これから見て区分は明白である。上段の文意によってもそのことがわかる。
ここで最も重大なことは上段に「元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして、こゝに四十有余年」と自ら記している点である。これは絵が元文期・・・蕪村二十一歳から二十四歳・・・に揮毫されたことを立証している。すなわち現に伝存する蕪村筆の絵画
中の最も早期にかかれたものであり、その点、甚だ貴重な画蹟といわねばならぬ。それに四十有余年後の天明二年に賛を加えよといわれて、困ったが自筆に相違ないので恥じながら加賛したのである。
 この画の落款は朝滄である。この号はつづく結城時代から丹後期まで用いられるものである。また印記の「丹青不知老到」という遊印であるが、この印章は初期に屡々款印に用いられている。すなわち下段の画は元文、中段の句は安永初頭(推定)、上段は天明二年の作である。
 本点上段の句文は『蕪村翁文集』(忍雪・其成編 文化十三年刊)に登載している。原典と異なるところは、句文の前に三行の詞書を加え、本文句中に「何そ・則・斯」の三カ所を漢字に変えている。詞書は下段・中段をはずしたために説明が必要で添付したものであり、原典仮名を改めたのは筆写の手数をはぶくためで、どちらも原典を改変した作為の責めは負わねばならぬ。本点は蕪村最古の絵画として意義深いものであるからカラーで掲げた。

(八十)

この「俳仙群会図」は、この岡田利兵衛氏の解説にあるとおり、「下段の画は元文、中段の句は安永初頭(推定)、上段は天明二年の作」と三時期に別々にかかれたものであるということと、もし、この下段の画が「元文」年間のものとすると、この岡田氏の指摘のとおり、「蕪村最古の絵画」として誠に意義深いものということになろう。ここで、この三時期の、署名と印章などを見てみると、上段は「天明壬寅春三月 六十七翁 蕪村書 謝長庚印 潑墨生痕印」、中段は「平安 蕪邨書 謝長庚印 謝春星印」、そして、下段の画は「朝滄写 丹青不知老到印」ということになる。この上段の天明期の「謝長庚印 溌墨生痕印」は、蕪村の最高傑作の一つとされている、国宝「十宣図」などで見られるもので、「六十七翁 蕪村書」も、天明三年の「恵比寿図」の「六十八翁蕪村写」とその例を見ることができる。中段の安永期の「謝長庚印 謝春星印」は、これまた、重要文化財の「峨嵋露頂図」などに見られるもので、その「平安 謝蕪邨」の「平安」は「洛東芭蕉菴再興記」、そして、「謝蕪邨」についても、『夜半楽』などにその例を見ることができる(この『夜半楽』の二つの署名の「謝蕪邨」と「宰鳥校」については先に触れた)。問題は、この下段の元文期の画の「朝滄写 丹青不知老到印」なのである。この元文期というのは、蕪村の前号の「宰町・宰鳥」期のものであって、そもそも比肩するものなく、わずかに、元文三年の版本挿絵図の「鎌倉誂物」自画賛(『卯月庭訓』所収)から推測する程度と極めて限られてしまうのである(この「鎌倉誂物」自画賛についても先に触れた)。さらに、この元文期に続く、巴人亡き後の、寛保・延享・寛延時代の、いわゆる、結城・下館・宇都宮を中心とする北関東出遊時代の「絵画・俳画・版本挿絵図・遺墨」類などにおいて、「朝滄写」との落款ものは見当たらず(「朝滄印」は目にすることができるが、落款は「四明」が多い)、また、この「丹青不知老到印」は、丹後時代の傑作作品の一つとされている六曲屏風一双「山水図」(寧楽美術館蔵)などに見られるもので、この丹後期以前の作品ではまずお目にかかれないものの一つであろう。そもそも、この「朝滄」という号は、英一蝶の号の「朝湖」に由来があるとされている(河東碧梧桐『画人蕪村』)。そして、この英一蝶は俳号を睦雲・和央といい、蕪村の俳諧の師である宋阿(早野巴人)と同じく其角門の俳諧師でもあった。
後に、画・俳二道を極めることとなる蕪村が、そのスタートにあたってこの英一蝶を目標に置いていたということは想像するに難くない。その英一蝶の影響を察知できるものとしては、これまた、丹後時代の傑作画である「祇園祭礼図(別名・田楽茶屋図屏風)」(落款「嚢道人蕪村」、印「朝滄(白文方印)」・「四名山人(朱文方印)」)などがあげられるであろう。画人・蕪村の絵画として今に残っている最初の頃の作は、巴人亡き後(寛保二年)の、北関東出遊時代の下館(中村風篁家)・結城(弘経寺)に所蔵されているものが、その「蕪村最古の絵画」ということになろう。それより以前に、この「俳仙群会図」が描かれたものとすると、蕪村の丹後時代以前の全半生というものは、ことごとくその歴史を塗り替える必要があろう。即ち、蕪村が江戸に出てきて宋阿門に入ったとされる元文二年(蕪村・二十二歳)当時に、これだけの絵画作品を残していたということは、それ以前に、相当の絵画関連の知識・技能・経験を積んだものということが推測され、蕪村の未だに謎の部分とされている、蕪村の出生の年の享保元年(一七一六年)から江戸に出てきた元文二年(一七三七年)の謎の一角がほの見えてくるという感じでなくもないのである。ここで、
画・俳二道の画を中心として、その蕪村の謎の部分について触れてみたい。

(八十一)

 蕪村が江戸に出てきて宋阿門に入門する元文二年(蕪村、二十二歳)以前のことについては、蕪村自身多くを語らず、逆に、それを隠し続けて、その生涯を終わったという印象を深くする。晩年、「春風馬堤曲」に関連しての蕪村書簡中(年次不明二月二十三日付け柳女・賀瑞宛て書簡)に、「馬堤は毛馬塘(つつみ)也。則余が故園也」とし、「余幼童之時、春色清和の日には、必(かならず)友だちと此(この)堤上にのぼりて遊び候」と記しており、摂津国東成郡毛馬村(大阪市豊島区毛馬町)に生まれたということは、少なくとも、蕪村の意識下にはあったように推測される。この毛馬村説についても確たる確証があるわけではなく、その他に、摂津の天王寺村(大阪市天王寺地区)としたり、丹後の与謝(京都府与謝郡)とする説など実体は謎に隠されているというのがその真相である。何時生まれたかについても、これまた真相は藪の中で、明治十五年(一八八二年)に寺村百池の孫百僊が、蕪村百回忌・百池五十回忌を記念して金福寺境内に建立した碑文などにより、享保元年(一七一六)の生まれという推測がなされている。その碑文では天王寺説をとっており、この碑文の内容自体あやふやのところが多いのであるが、「本姓谷口氏は母方の姓」で「宝暦十年頃から与謝氏を名のる」というのが、その出生に関連するものである。さらに、この出生に関連するものとして、夜半亭二世与謝蕪村の後を継いで、夜半亭三世となる高井几董がその臨終を記録した「夜半翁終焉記」(草稿を含めて)が、蕪村出生の謎をさらに深い霧の中に追いやっている。それは、その草稿の段階においては、「難波津の辺りちかき村長の家に生ひ出て」と記し、さらに、その「村長」を「郷民」と改め、さらにそれを削って、「ただ浪花江ちかきあたりに生ひたち」として、それを定稿としているという事実である。これらのことから、「父は村長で、母はその正妻ではなく、使用人か妾ではなかったか」という説すらまかり通っているのだが、ことさらにこれらの謎をあばきたてて、それらを白日下のもとに明らかにするということは、行き過ぎのきらいもあるし、土台不可能なことという思いを深くする。そういう認識下に立っても、蕪村没後二十三年たった文化三年(一八〇六年)に大阪で刊行され、当時の文学者の逸話を幾つか伝えている田宮橘庵(仲宣)の『嗚呼矣草(おこたりぐさ)』の「夫(それ)蕪村は父祖の家産を破敗し、身を洒々落々の域に置いて」との逸話は、やはり当時の蕪村の一端を物語るものとして、やはり記録に止めておく必要があるように思われる。
 なお、大阪市(都島区)の「与謝蕪村と都島」のアドレスは次のとおりである。

http://www.city.osaka.jp/miyakojima/spot/yd_yosa/index.html

(八十二)

 蕪村が出生した享保元年というのは、八代将軍吉宗が、いわゆる「享保改革」といわれる大改革に乗り出したその年に当たる。当時の徳川幕府というのは経済的にどん底の状態にあり、倹約令を発し続け、さらに、追い打ちをかけるように、特に、農村からの収奪を強化することによって、その改革を進めようとした。それらの改革は時代の空気を陰鬱なものとし、あまつさえ、享保十七年(一七三二年)には、山陽・南海・西海・畿内の西国地方の各地では長雨と蝗の襲来により、減収四万石ともいわれている大凶作に見舞われていた。米価は高騰し、多数の餓死者が出て、各地で強訴や一揆が多発し、その翌年には、江戸をはじめ各地で打ち壊し運動が起こり、騒然とした風潮であった。そのような何もかも変革するような時代風潮の中にあって、田宮橘庵(仲宣)の『嗚呼矣草(おこたりぐさ)』でいう「夫(それ)蕪村は父祖の家産を破敗し、身を洒々落々の域に置いて」という逸話は、単に、蕪村の個人的な遊蕩三昧によって「家産を破敗」したというよりも、この経済環境の激変の高波をもろに引っ被ったその結果であるということが、その真相のように思われる。その「身を洒々落々の域に置いて」ということについては、高井几董の「夜半翁終焉記」に出てくる「此翁(註・蕪村)無下にいとけなきより画を好み」、はたまた、「弱冠の比(ころ)より俳諧に耽り」ということと裏返しのことなのかもしれない。しかし、単なる、「画を好み」・「俳諧に耽り」の結果で、二度と故郷に足を踏み入れることが出来なくなったほどの、世間体を憚る「父祖の家産を破敗」したいうことは、どう考えても不自然なところがある。このことを一歩進めて、蕪村が住んでいた全村が、あるいは、その近隣の全域が「破敗」し、蕪村は文字とおり二度と再び「返るべき故郷」を喪失してしまったという理解の方が、より自然のようにも思われてくるのである。もし、そのような推測が許されるならば、蕪村は、享保十七年の近畿一帯の大飢饉に関連して、当時のその地方の人達が辿ったと同じように、当時の飢饉者の多くかそうしたように、誰一人身よりのない江戸へと移り住んだ、その理由がはっきりしてくる。従来、蕪村が江戸に出てきたのは、享保二十年(一七三五年)頃とされていたが、蕪村の前号の「宰鳥・宰町」以前に「西鳥」と号していたのではないかということに関連して、享保十七年(一七三二年)頃に出てきたのではないかとの見方もなされてきており、あながち、享保十七年の大飢饉に関連して江戸に流入してきたということも、有力な一つの見方であるということは言えそうである。しかし、真相は依然として藪の中であることには変わりはない。なお、享保十七年の大飢饉関連のアドレスは次のとおりである。

(飢饉・享保の大飢饉)
http://www.tabiken.com/history/doc/E/E147C100.HTM

(人権関連の一揆など)
http://www.can-chan.com/jinken/jinken-rekishi.html

(八十三)

 蕪村伝記のスタンダードな『戯遊の俳人与謝蕪村』(山下一海著)の田宮橘庵(仲宣)の『嗚呼矣草(おこたりぐさ)』関連の記述は次のとおりである。

○蕪村没後二十三年たった文化三年(一八〇六)に大阪で刊行され、文学者の逸話をいくつか伝えている田宮橘庵(仲宣)の『嗚呼矣草(おこたりぐさ)』には、「夫(それ)蕪村は父祖の家産を破敗し、身を洒々落々の域に置いて」とある。これも確証はないが、信じたくなる記事である。正妻の子ではなかったにしても、男子であるからには、家督を相続したということもあったのだろう。いつ父が死んだのか、それはわからない。母も幼い頃に先立ったらしい。安永六年(一七七七)に行われた『新花摘』の夏行(げぎょう)を、母の五十回忌追善のものとする説によると、母が亡くなったのは蕪村十三歳のときである。蕪村が家督を継いで家産を蕩尽するまでは、そう長いことではなかっただろう。それは大都市近郊農村の悲劇であった。都市の商人に農地を買いあさられ、土地を手放すかわりに金が入ってくる。そこで農村型の経済生活から都市型のそれに切り替えていかなければならないところだが、農村はそういった情勢に順応できなかったのだろう。せっかく父から譲られた家屋敷も手放さなければならないことになったが、あるいはそこに、父に対する蕪村の反抗の気持ちが多少はあったのかもしれない。それが破産を回避する努力をにぶらせ、破滅の到来をいささか早める結果になったということも、あるいはあったことだろう。

 多かれ少なかれ、蕪村伝記の記述は上記のようなものであるが、上記の「都市近郊農村の悲劇」は当時の時代風潮であり、その時代風潮とあわせ、享保の時代特有の。改革の嵐と大飢饉という異常事態の発生ということは、やはり特記しておく必要があろう。また、上記の記述で、「母が亡くなっのは蕪村が十三歳のとき」ということに関連して、当時は十五歳で元服するのが通常であったろうから、蕪村の家督相続というのは、その元服以後と通常考えられるし、この十五歳から十七歳のときの享保の大飢饉にかけてが、蕪村にとっては大きな曲がり角であったということも特記しておく必要があろう。さらに、蕪村が母を失ったとされる享保十三年(一七二八)の一年前の享保十二年に、蕪村の俳諧の師となる早野巴人(宋阿)が江戸を去って大阪に赴き、さらに京都に上り、十年ほど居住するという、このこともやはり蕪村伝記の記述に当たっては必要不可欠のところのものであろう。

(八十四)

『戯遊の俳人与謝蕪村』(山下一海著)では、蕪村が江戸に出てきたことについて、次のように記述している。

○親もなく家もない故郷にとどまっていることはできない。あるいは、蕪村にとって故郷毛馬村は、積極的な意味で、とどまっていたくないところであったのかもしれない。蕪村のような生い立ちの人間にとって、故郷の家が消滅することは、さっぱりと心地よいことでもあったのだろう。しかしそれだけに、故郷の思いは、かえって深く、心の底に沈殿した。そうして生涯にわたって、そこから沸々と発酵するものがあった。しかしその後、ほんのすぐそばを通っても、蕪村は一度も故郷に足を踏み入れていない。そこに蕪村と故郷の特別の関係が窺われるように思われる。当時の多くの人がそうであったように、そういう事情で故郷を離れたとき目ざすところは、京や大坂ではない。新しい土地江戸である。江戸開府以来百年以上たっているけれども、依然として江戸は京・大坂とは違った新興都市であり、また百年以上もたっているだけに、徳川将軍のお膝元としての権威は確立していた。江戸は当時の青年の気をそそるに足る唯一の都会であった。蕪村は江戸に出て何をしようという方策を、はじめにはっきりと立てていたわけではないだろう。江戸に出れば何とかなる。とにかく江戸に出た。享保末年、二十歳のころのことである。江戸に出ても、生活の方途は定まっていなかったが、俳諧や絵画については、すでにかなりの関心を持っていたようである。あるいはその関係で、江戸出府の手引きをした人物があったのかもしれない。蕪村没後十九年目の享和二年(一八〇二)に刊行された大江丸の『はいかい袋』によると、蕪村は江戸に出て、はじめ内田沾山(せんざん)に学び、ついで早野巴人の門弟になったという。巴人入門は確かだが、沾山入門のことは確実な資料が見当たらないので、いささか疑わしい。ほかに足立来川(らいせん)に学び、西鳥と号したとする説もあるが、今はほとんど否定されている。

 上記の記述で、蕪村が故郷(大阪近郊の毛馬村)を離れ、当時の経済第一の都市・大阪や日本文化の中心都市・京都ではなく、それらの都市に比して新興都市の江戸を目指した指摘については説得力がある。と同時に、「俳諧や絵画については、すでにかなりの関心を持っていたようである。あるいはその関係で、江戸出府の手引きをした人物があったのかもしれない」ということについては、当時の江戸俳壇にその名を留めている、足立来川、内田沾山はたまた早野巴人らに入門するということは、それ相応のルートなり縁というものがあると思われるのだが、その手引きした人物が誰なのかは、これは全くの霧の中である。ただ、注目すべきことがらとして、巴人と親交があり、当時、巴人・百里と並んで享保俳壇の三羽烏の一人とされていた琴風(きんぷう:寛文七年・一六六七~享保十一年・一七二六。生玉氏)が蕪村と同郷の大阪摂津東成郡の人で、その接点というのも選択肢の一つとしてはあげられるであろう。また、当時の大阪・京都の上方俳壇に大きな影響力を及ぼしていた俳人は、松木淡々(たんたん:延宝二年・一六五四~宝暦十一年・一七六一。初号、因角、のち謂北。大阪の人。江戸に出て、初め不角門、のち其角門。巴人と同門。上京して、半時庵を営む。その後、大阪に帰り、上方俳壇に絶大な門戸を張る)で、この淡々門で、のちに、淡々の号・謂北を継ぐ麦天(ばくてん:元禄十六年・一七〇三~宝暦五年・一七五五。右江氏。別号・時々庵。江戸に出て二世青蛾門。享保頃秋田遊歴。元文二年・一七三七に謂北に改号)と蕪村とは親交があり、その麦天の師の淡々と蕪村との接点も注目すべきものがあろう(享保十二年・一七二七、巴人が江戸から京に移り住むのは、当時親交のあった百里・琴風が亡くなり、この其角門で親交の深かった淡々が大きく関与している)。また、巴人門の宋屋(そうおく:元禄元年・一六八八~明和三年・一七六六。望月氏。別号、百葉泉・富鈴房など。京都の人)も巴人門に入る前から蕪村との親交があったものかどうかなども検討に値する一つであろう。なお、上記の山下一海氏のものでは、「巴人入門は確かだが、沾山入門のことは確実な資料が見当たらないので、いささか疑わしい。ほかに足立来川(らいせん)に学び、西鳥と号したとする説もあるが、今はほとんど否定されている」ということについても、「沾山・来川との関係、宰町以前の西鳥を号していたかどうか」などについては、肯定的に解して、その範囲を広めて置いた方が、謎の多い蕪村の解明にはより必要のようにも思われる。

(八十五)

寛保三年(一七四三)の宋屋編『西の奥』(宋阿追善集)に当時江戸に居た蕪村は「東武 
宰鳥」の号で、「我泪古くはあれど泉かな」の句を寄せる。その前書きに、「宋阿の翁、このとし比(ごろ)、予が孤独なるを拾ひたすけて、枯乳の慈恵のふかゝりも(以下、略)」と記しているが、「枯乳の慈恵」とは、乳を枯らすほどの愛情を受けたということであろうから、この記述が江戸での流寓時代のことなのかどうか、その「予が孤独なるを拾ひたすけて」と重ね合わせると、宋阿の享保十二年(一七二七)から元文二年(一七三七)までの京都滞在中の早い時期に、宋阿と蕪村との出会いがあったとしても、決しておかしいということでもなかろう。まして、蕪村が十五歳の頃、元服して家督を相続し、そして、享保十七年(一七三二)の十七歳の頃、大飢饉に遭遇し、故郷を棄てざるを得ないような環境の激変に遭遇したと仮定すると、この方がその後の宋阿と蕪村との関係からしてより自然のようにも思われるのである。尾形仂氏は、「巴人が江戸に帰ったときにいっしょに江戸へ下ったんじゃないかと考えることさえできるんじゃないかと思っているのですが」(「国文学解釈と鑑賞」昭和五三・三)との随分と回りくどい対談記録(森本哲郎氏との「蕪村・その人と芸術」)を残しているのだが、少なくとも、宋阿が江戸に再帰した元文二年に、その宋阿の所にいきなり入門するという従来の多くの考え方よりも、より自然のように思われるのである。一歩譲って、「巴人が江戸に帰ったときにいっしょに江戸へ下った」ということまでは言及せずに、、ということは、あながち、無理な推測ではなかろう。このことは、蕪村が、宝暦元年(一七五一)に、十年余に及ぶ関東での生活に見切りをつけ、京都に再帰することとも符合し、その再帰がごく自然なことに照らしても、そのような推測を十分に許容するものと思えるのである。これらのことに関して、上述の尾形仂氏と森本哲郎氏との対談において、尾形仂氏の「蕪村の京都時代ということの推測」について、「しかしそれはありうることじゃないですか。というのは、彼は関東から京都へ行くわけですが、入洛してすぐに居を定めている。むろん、はしめは間借りだったようですけれども、京都には知人もいたらしいし土地カンもあったように思えます」と応じ、この両者とも、「蕪村は生まれ故郷の大阪を離れ、京都に住んでいたことがあり、少なくとも、巴人の十年に及ぶ京都滞在中に蕪村は巴人と面識があった」という認識は持っているいるように受け取れるのである。

(八十六)

「国文学解釈と鑑賞(昭和五三・三))所収の「蕪村・その人と芸術」(尾形仂・森本哲郎対談)に次のような興味の惹かれる箇所がある。

尾形 ええ。もう一つ京都との結びつきを考えさせられるのは、岡田先生の『俳画の美』という本がございますね、あの中に、京都から池田に下って明和二年に亡くなった桃田伊信という絵師がいて、蕪村が童幼のころ、この伊信について絵の手ほどきを受けたらしいことを、蕪村の三回忌に池田の門人田福が書いているということが紹介されていまして、そうすると、蕪村が少年時代を京都で過ごしたという可能性がまた出てきたことになります。
森本 私もあれを読んで、そうなのか、と思ったんですけれども・・・。池田とはずいぶん関係があったようですね。
尾形 そうですね。後に月居や月渓を池田に紹介したりしているくらいですものね。そもそも田福が百池と親戚で、京都の本店と池田の出店との間を往き来していたところから縁ができたものでしょう。
森本 「池田から炭くれし春の寒さ哉」という句がありますし。その絵の先生というのは後年までずっと?
尾形 明和二年ごろ、つまり伊信の最晩年、蕪村が池田へ下ったとき再会して、昔を語り合ったというのですから、ずっとというわけではなかったのでしょう。ともかく、もと京都にいた伊信に十歳前後のとき絵の手ほどきを受けたのだとすれば、蕪村は何かの事情で郷里を離れ京都へ出て来て、あるいは学僕というような形で伊信なり、巴人なりに師事したという想像もできなくはありませんね。

 これらの対談の箇所は、「蕪村が少年時代を京都で過ごしたという可能性」があるということに関連するものなのであるが、そのこととあわせ、「蕪村はもと京都にいた(桃田)伊信に十歳前後のとき絵の手ほどきを受けた」ことがあるという事実もまた、当時の蕪村を知る上では貴重な情報と思われるのである。先に、蕪村絵画の若描きの頃の落款の「朝滄」ということに関連して、その「朝滄」という号は、蕪村が目標とした画家の一人とも思われる英一蝶の号の一つの「朝湖」に由来するという河東碧梧桐氏のものなどについて触れた。この蕪村と同じく大阪出身の英一蝶は、蕪村が八歳のとき、享保八年(一七二七)に江戸で亡くなっているが、そもそもは狩野派(京都狩野派)の画家で、そして、蕪村が少年時代に絵の手ほどきを受けたという京都の画家・桃田伊信も、当時の画家の多くがそうであったように、いずれかの狩野派の影響下にあったことは想像に難くないし、その意味では、先に触れた蕪村最古の絵画とされる「俳仙群会図」に英一蝶的なものが察知されることと関連して、興味がそそられる点なのである。

(八十七)

「国文学解釈と鑑賞(昭和五三・三))所収の「蕪村・その人と芸術」(尾形仂・森本哲郎対談)には、蕪村の初期絵画の落款の「四明・朝滄」について、次のような箇所がある。

尾形 それから関東に出てくる経緯についてもわかりませんですね。大正十年ごろ出た武藤山治さんの『蕪村画集』というのがございますね。あれに、関東時代から丹後時代にかけて使った四明・朝滄という画号について、四明は比叡山で、朝滄は琵琶湖を意味するという説明が付けられているんです。そうすると蕪村は京都から関東へ出て来たんじゃないか。まあ生まれたのは毛馬だとしても、京都で幼年時代を送って、そして関東へ出てきたんではないだろうか。つまり自分は、大阪生まれだけれども京都人であるという意識があって、そうした号をつけたのではないだろうかなどと推測してみたこともあったんですけれども。しかし、四明が天台、つまり比叡山であるということはよろしいんですけれども、朝滄が琵琶湖だということは、ちょつといろいろと探しても出てこないんですね。字引を引くと、朝滄は、波が集まるという意味だそうですから、なにも琵琶湖でなくて、淀川の下流でも十分意味が通ずるわけなんです。けれども、今度ははたして淀川の下流の毛馬堤から比叡山が見えるかどうか、という疑問になってきましてね。それから戦前に、正木瓜村というかたがいらしゃって、『蕪村と毛馬』という本を書いていらしゃいましたが、あの方にお目にかかりまして伺ってみたんですが、そうすると、自分の子どものころにはたしかに見えたというんです。今からではぜんぜん想像もできないんですけれども、毛馬の堤から朝夕に比叡山が眺められるなら四明と名のってもおかしくないわけで、それで蕪村の京都時代というのことを推測したのが、いっぺんに消えてしまったわけなんですけれども。

 蕪村の元文年間(一七三六~一七四一)、寛保(一七四一~)から寛延(一七四八~)にかけての落款は、「朝滄・子漢・浪華四明・四明・浪華長堤四明・浪華長堤四名山人」などである。このうち、四明が主号のようで、次いで、朝滄、この朝滄は落款とともに印章に用いられており、この印章は、関東出遊時代と後の丹後時代とは異なっていて、先に触れた「俳仙群会図」のものなどについては、関東出遊時代のものではなく、丹後時代のそれではないかということについては、先に触れた。それにあわせ、河東碧梧桐の『画人蕪村』では、この四明については、比叡山に由来があり、朝滄については、英一蝶の朝湖に由来があるということについても、先に触れた。そして、この「子漢」については、別に、「魚君」の号も用いているものもあり、屈原の「漁夫辞」の「滄浪ノ水清(す)マバ」などに由来があり「水に因んでのもの」(淀川に因んでのもの)と「子は午前零時、漢は天の川」(夜の連想に因るもの)との両意のものなどを目にすることができる(仁枝忠著『俳文学と漢文学』所収「蕪村雅号考」)。いずれにしろ、四明は比叡山の最高峰の四明山に由来がある「山」、そして、朝滄は、英一蝶の「朝湖」、あるいは、「琵琶湖」・「淀川」・「宇治川」(「木津川」・「桂川」と合流し「淀川」となる)などに由来がある「川」に関連があるものと解しておきたい(「子漢」についても、初期の落款については、滄浪などの水に由来があるものと解せられるが、後の「春星」などの号に鑑みて、「真夜中の銀漢(天の川)」いう理解に留めておきたい)。その上で、上述の尾形仂氏のものに接すると、その「四明」といい「朝滄」といい、これは朝な夕なに生まれ故郷で目にしていた山・川の「比叡山」であり「淀川」という思いを強くする。とすれば、「浪華四明」・「浪華長堤四明」・「浪華長堤四名山人」などの落款も、消そうとして消せない母郷への想いの一端を語っているもののように思われる。と同時に、全く抹殺したいようなことならば、これらの痕跡すら留めておかないであろうから、これは蕪村個人にとっての何らかの心の奥底に沈殿している「故郷は遠くにありて想うもの」という想いなのであろう。ここで、山下一海氏の次のような記述を再掲しておきたい。

○親もなく家もない故郷にとどまっていることはできない。あるいは、蕪村にとって故郷毛馬村は、積極的な意味で、とどまっていたくないところであったのかもしれない。蕪村のような生い立ちの人間にとって、故郷の家が消滅することは、さっぱりと心地よいことでもあったのだろう。しかしそれだけに、故郷の思いは、かえって深く、心の底に沈殿した。そうして生涯にわたって、そこから沸々と発酵するものがあった。しかしその後、ほんのすぐそばを通っても、蕪村は一度も故郷に足を踏み入れていない。そこに蕪村と故郷の特別の関係が窺われるように思われる。

(八十八)

その他、「国文学解釈と鑑賞(昭和五三・三))所収の「蕪村・その人と芸術」(尾形仂・森本哲郎対談)で、注目すべきことなどについて記しておきたい。

尾形 内田沾山に師事したというのは、同時代の大江丸が言っていることですから、かなり尊重しなければいけませんけれども、巴人との関係のほうが濃厚ですし、その後も巴人の系統の人のところをずっと渡り歩いていますものね。巴人にはかなり長く師事していたんじゃないでしょうか。そうすると、巴人が京都にいた時代にすでに師事していたと考えることも想像としてはできなくないと・・・。
森本 蕪村は師の巴人について、『むかしを今』の序で、「いといと高き翁にてぞありける」というぐあいに、たいへん人格的に傾倒しておりますね。
尾形 そして父親のようにというんですから、かなり年齢の低い時代からついていたんじゃないかという感じがいたしますね。

 このところの、蕪村が内田沾山に師事したということについては、大江丸の『俳諧袋』に記述されていることに由来するのだが、この大江丸は、蕪村より七歳若い大阪の人で、三都随一の飛脚にして、俳諧にも親しみ、淡々とも親交があり、後に、蓼太門に入った。蕪村の後継者の几董との交友関係からして、この大江丸の記述はかなり信憑性の高いものなのであろう。この沾山は芭蕉・其角亡き後の江戸座の主流をなす、沾徳・沾州に連なる俳人で、巴人もまた沾徳・沾州と関係の深い俳人で、巴人が江戸に再帰する元文二年(一七三七)以前に、蕪村が江戸で沾山門に居て、巴人再帰後、巴人門に移ったということもあるのかもしれない。沾山は宝暦八年(一七五八)に没しており、その晩年には蕪村と親交のあった存義らが退座しており、蕪村のこの人への師事はいずれにしても短期間のものであったのであろう。

森本 蕪村は自ら嚢道人と称していますが、とにかく、何から何まで詩、画嚢に貯えて、それが将来花になったということなんでしょうね。しかし、私は彼の作品に接するたびに不思議に思うのですが、いったい彼はどこで、いつ、あのような幅広い教養を身につけたんでしょうね。たとえば、漢籍の素養、唐詩、宋詩についての知識、こういうものは江戸時代にどの程度普及しておったのですかね。最近、今田洋三氏が『江戸の本屋さん』という興味深い本を書かれましたが、当時、どのような本が、どのくらいの値段で、何部ぐらい出たのか、それを知らないと蕪村の教養の源泉も見当がつきませんね。
(中略)
尾形 先生というのは、儒学者に対する一般的な呼び方だそうですけれども、蕪村の場合、南郭先生と言っているのは、そうした一般的な意味でなくて、特殊、つまりかって南郭の講筵に列したか、あるいはすぐその近く、つまり南郭の講筵に列した人を知人に持っていたのではないかということが、かなり実証的に明らかにされてきました。(以下略)

 ここのところの「嚢道人」の理解について、この嚢を乞食僧などの「頭陀袋」の意ではなく、「詩」嚢、「画」嚢の、それらを貯えておく「袋」の意と解する考え方は素直に受容ができる。また、蕪村の、単に、「画・俳」の二道だけではなく、広く、儒学者の服部南郭らの当時の他の分野との交流関係についても、密度の濃いものであったということについては、やはり特記しておく必要があるのであろう。

(八十九)

 先に、蕪村最古の画作とされている「俳仙群会図」について触れた。その一番上段に書かれて画賛は次のとおりである。

※守武貞徳をはじめ、其角・嵐雪にいたりて、十四人の俳仙を画きてありけるに、賛詞をこはれて、此俳仙群会の図ハ、元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして、こゝに四十有余年に及へり。されハ其稚拙今更恥へし。なんそ烏有とならすや。今又是に讃詞を加へよといふ。固辞すれともゆるさす。すなはち筆を洛下の夜半亭にとる。
花散月落て文こゝにあらありかたや
   天明壬寅春三月
    六十七翁  蕪村書 謝長庚印 潑墨生痕印

この「俳仙群会図」について、『蕪村雑稿』(谷口謙著)で次のとおり紹介されている。

○天明壬寅は二年(一七八二年)で蕪村六十七歳の執筆。元文元年(一七三六年)~元文五年(一七四〇年)は蕪村二十歳から二十四歳。この蕪村の賛詞を信ずれば、現存する蕪村の画のなかで最古のものとなり、貴重な資料といえよう。岡田利兵衛氏は蕪村の加えた証詞をそのまま信用し、蕪村の若書きとして「全く後代の蕪村筆と異なり、漢画でもなければ土佐風でもない手法である。しかし子細に見ると着衣の皺法(しゅんぽう)、顔貌、眼ざしに後年の特色は、はやくも認めることができる。静のうちに活気ん゛ある表現である」(『俳人の書画美術五=蕪村』)と評している。これに対し「文学」誌五十九年十月号の座談会「蕪村…絵画と文学」で尾形仂氏は「朝滄」の落款、「丹青老ノ至ルヲ知ラズ」の印章が丹後時代だけに限って使われたものであることを重視し、丹後時代の作品ではないかと推定し、今迄は「俳仙群会図」を蕪村の画歴の最初としてきたが、置き換えた方がいいのではないかと提言している。これに答え佐々木丞平氏はこの画の衣の線を重視して、非常に決った線で、丹後時代になると例えば「三俳僧図」のように衣の線がかなり弛援してくる。つまり崩れを見せ、感覚的になっている。それでやはり「俳仙群会図」を丹後時代の作とするには、いささかためらいが残る、としている。

 この昭和五十九年(一九八四)の座談会の後、平成十年(一九九八)に刊行された『蕪村全集六…絵画・遺墨』(佐々木丞平他編)においては、この「俳仙群会図」は「丹後滞在」時代の中に収録され、その佐々木丞平氏の「解説(蕪村画業の展開)」では「蕪村画業の最初のものとしては、「『俳諧卯月庭訓』(元文三年・一七三八)の中の一句に書き添えられた『鎌倉誂物』の自画賛で、版本の挿図であった」としている。やはり、この「俳仙群会図」は、その印章の「丹青不知老至」からすると「丹後時代」の作品と解すべきなのであろう。
もし、この作品を蕪村の天明二年(一七八二)の画賛のとおり元文年間のものとすると、この「俳仙群会図」の一人に描かれている、蕪村の師の宋阿(早野巴人)の像は在世中のものとなり、はなはだ興味がひかれるのところのものであるが、在世中の師の像を芭蕉らの他の俳仙と一緒にするという奇妙さ(同時に極めて俳諧的でもある)もあり、丹後時代の作品と解する方が、より妥当のようにも思われる。

(九十)

 蕪村の『新花摘』に次のような一節がある。
「むかし余、蕉翁・晋子・雪中を一幅の絹に画(えが)キて賛をもとめければ、淡々、  
もゝちどりいなおふ(ほ)せ鳥呼子どり
 三俳仙の賛は古今淡々一人と云(いふ)べし。今しもつふさ日光の珠明といへるものゝ(の)家にお(を)さめもてり。」
 この「もゝちどりいなおふ(ほ)せ鳥呼子どり」は、『延享廿歌仙』(延享二年刊)に収録されている松木淡々の門弟で蕪村と親交のあった謂北(麦天)の付句である。その句意は、「芭蕉・其角・嵐雪」の三俳人を古今伝授の三鳥「百千鳥・稲追鳥・呼子鳥」に擬したものということであろう。この句を当時の大物俳人の松木淡々が蕪村の画に賛をしたというのである。そして、この「三俳仙図」画は、下野の日光の隣の今市の富豪、斎藤珠明(三郎右衛門益信)の家に納めたというのである(現在、所在不明)。この賛をした淡々は宝暦十一年(一七六一)に八十八歳に没しており、この「三俳仙図」画が何時頃描かれものか定かではないが、蕪村はこの種の「俳仙図」画を多く手がけたということはいえそうである。こういう本格的な「俳仙図」画以外に、例えば、『其雪影』収録の「巴人像」などの版画・略画風のものは、いろいろな形(「俳仙帖・俳仙図・夜半翁俳僊帖など)で今に残されているが、この種のものは、河東碧梧桐氏によると殆ど偽作との鑑定をしている(潁原退蔵稿「蕪村三十六俳仙画)。これらのことに関して、潁原退蔵氏は、「碧氏の如き全面的抹殺説が出るのも、故なきではないわけである。しかし決して真蹟が絶無といふのではなかった。模写や偽作の背後には、その拠つた真蹟の存在が考へられもした。偽作が多く流布して居れば居る程、その間いくつかの真蹟がなほ存して居ることを思はしめるのである」(前掲書)としている。これらのことを背景として、先の「柿衛文庫」所蔵の「俳仙群会図」などは非常に貴重なものであると同時に、その制作時期の如何によっては、他の同種のものの作品に与える影響も決して少なくはないのである。そして、とりもなおさず、これらの「俳仙図」画が、蕪村の絵画の初期の頃に存するということは、蕪村の絵画のスタートが、これらの俳諧関係と大きく関係していたということも、十分に肯けるところのものであろう。

若き日の蕪村(八)

若き日の蕪村(八)

(九十一)

先に触れた、蕪村が十歳前後の頃に桃田伊信という絵師に絵の手ほどきを受けたということについて、「国文学解釈と鑑賞(昭和五三・三))所収の「蕪村・その人と芸術」(尾形仂・森本哲郎対談)で紹介されている『俳画の美』(岡田利兵衛著)のその箇所を見てみたい。
それは、天明五年(一七八五)十一月二十五日に、田福・月渓主催で蕪村三周忌追悼会を池田で催したときの刷り物にある次の田福の詞書によるものであった。

※夜半翁、むかし、池田なる余が仮居に相往来し、呉江の山水に心酔し、且、伊信(これのぶ)といへる画生に逢ひて、四十(よそ)とせふりし童遊を互に語りて留連せられしも、又二十(はた)とせ余りの昔になりぬ。ア丶我此(この)翁に随ひ遊ぶ事久し。(以下略)

 この「蕪村三回忌追悼摺物」の紹介に続けて、次のように記している。

※『池田人物誌』に「桃田伊信」の条がある。すなわち氏は桃田、名は伊信。号は雪蕉堂・好古斎。明和二年三月廿日(「稲塚家日記」)池田で没した。蕪村が来池の時、適々この地へ来遊して邂逅したのではなく、宝暦……蜆子図の日初の賛に庚辰(宝暦十年)の年記がある……明和の頃には池田の荒木町(今の大和町で、一部には絵屋垣内といった所があった)に住み、池田に相当の画作をのこしている。たとえば呉服神社拝殿(宮司馬場磐根氏)
左右四枚の杉戸(各タテ一六九糎ヨコ一三八糎)の芦に鶴(向って右二枚)岩に大鷹(向って左二枚)の図とか、建石町法園寺観音堂天井の龍などはすぐれた大作であり。紙本半切の草画「蜆子図」(今所在不明)などもある。落款には「呉江法稿」とか「法眼伊信」などしるされているから、名実ともにすぐれた画家であったと思われる。その手法はすべて大和絵風を加味した狩野派であるが、その出生も画系も明白ではない。ただし『古画備考』の「御仏絵師」の条に神田宗信なるものがあって、その四代に伊信(明和二、正、廿六没、七十九)なる人があるが、この桃田伊信はそれに該当するのではないか。京都の人らしいがそれがどうして池田へ移ったかについては明らかにできない。もしかすると五代栄信に譲って隠棲したのかもしれない、伊信の墓は池田市桃園町の共同墓地にある。正面に「鋤雲翁法眼桃田伊信墓」、向って左側に「天保戊戌三月建之」また中段台石に「施主町中」とあって伊信没後七十三年に町内有志によって建碑されたことがわかる。        

 この記述によると、蕪村が十歳前後の頃に絵の手ほどきを受けたという絵師・桃田伊信は「京都の人らしい」が、池田在住の画家で、この池田には丹後時代以降の蕪村は何回となく訪れていて、その初期の頃に、この池田にてこの絵師・桃田伊信に再会したというのである。

(九十二)

※さて田福はその時点を「二十とせ余りの昔になりぬ」と記していることを拠点とすると天明五年(一七八五)から二十年前は明和二年(一七六五)となり、「余り」を考慮して宝暦末から明和初頭の頃となる。すなわち明和二年没した伊信の最晩年に当たり、蕪村は丹後遊学から帰って讃岐へ旅する前、五十歳の画俳両芸に名声愈々高まった頃池田へ来遊したことが明らかとなる。なお、田福が「伊信といへる書生に逢ひて四十とせふりし童遊を互に語り」といっている点に注目せねばならぬ。ここで「書生」とあるのは勿論いわゆる青年学徒といった意味でなく、画家とか学者を指したものと解する。また「童遊」は童同士の遊びということではない。伊信は明和二年には上掲の墓石の法眼から推して相当高齢と思われる。蕪村は五十歳で両人の年齢に大分の相違があるから、「四十とせふりし」によって、この童遊は享保九年頃、蕪村の八・九歳の童児の頃であり、伊信は三十余歳であったようである。つまり蕪村の童幼の頃に画家伊信と交わったことを意味する。このことは蕪村にとって重大な歴史の一こまといわねばならぬ。そこで思うのは、蕪村が伊信と画談し。或いは絵の手ほどきをうけたのではなかろうかということである。この頃は十歳になると絵けいこを始める風習があったから、この推定は無理ではない。少なくともこの伊信との童遊によって絵に関心を持ったということはいえるであろう。そうすると蕪村が生涯を画事に託した発端はこの頃にあったと私は思う。その場所はいずれか明らかにし難いが年齢から推して蕪村在郷の時とするべきであろう。これは憶測だが伊信が蕪村の毛馬の家に出入りしていたのではあるまいか。幼時における四十年前の思い出を、計らずも池田で再会し、留連追憶談笑したのであって、これは特筆すべき事実である。蕪村は天性絵が好きであった。それは追悼集『から檜葉』の「夜半翁終焉記」に「抑(そもそも)此(この)翁、無下にいはけなきより画を好(このみ)て」と几董がかいた記載と合致する。そして桃田伊信が蕪村幼童時の絵心に大きな刺激を与えたと考えられるのである。

 岡田利兵衛氏は、「伊信が蕪村の毛馬の家に出入りしていたのではあるまいか」として、し、蕪村の生まれ故郷の毛馬村で、「蕪村の八・九歳の童児の頃」に、「伊信は三十余歳で」、「蕪村の童幼の頃に画家伊信と交わったことを意味する」というのである。しかし、蕪村はその毛馬村のことについては何一つ言い残してはいない。いや、その事実を隠し通そうという痕跡すらうかがえるのである。そして、蕪村の母は蕪村が十三歳の頃に他界している。岡田氏は上記のことを「憶測だが」としているが、「当時、蕪村は京都に居て、その京都で画家伊信と交わった」ということも、「憶測の域」は出ないが十分に考えられるところのものであろう。とにもかくにも、蕪村は十歳前後の頃に、専門絵師との交流があり、「無下にいはけなきより画を好(このみ)て」いたということは、その後の蕪村の生涯を考える上で貴重なことだけは、岡田氏が指摘するごとく、「これは特筆すべき」ことであろう。

(九十三)

岡田利兵衛氏は、その著『俳画の美』でこの桃田伊信と蕪村との出会いについて触れるとともに、『蕪村と俳画』所収の「蕪村の絵ごころ」でも同じようにこの出会いについて記述している。そして、その『蕪村と俳画』の「与謝蕪村小伝」ということで、次のような興味深い記述を続けている。

※蕪村の画の志向は、すでに十歳ならずして萌芽を見せていたのである。画精進の希望をいだきつつ一人旅ができるまで郷里にあって、やっと十七歳(享保十七年・一七三二)の頃、関東下向の本志をとげたのであった。江戸で俳諧は一応内田沾山についたといわれるが、元文二年(一七三七)夜半亭早野巴人が帰江したので、石町の夜半亭の内弟子として侍することになり、翌三年『夜半亭歳旦帖』に宰鳥の号で入集している。あらゆる修業において、蕪村が門下生として仕えたのはこの巴人だけで、画も書もすべて師匠をとらなかった。これは巴人が高潔の士であったからで、どんなにその道に長じても俗人であっては相手にしなかったのである。ところがその巴人が寛保二年(一七四二)に没したので、江戸の宗匠は俗人が揃っているので嫌気を催し、巴人門下の友人であった雁宕らの招きによって、留居十年の江戸を去って野総地方に赴くのである。画修業も江戸で積み重ねていたらしく、十四人の俳仙をかいた「俳仙群会図」がある。天明二年に人から頼まれて自ら書いた書詞が同貼されるが、それに「此俳仙群会図ハ元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして」と記されており、自ら元文の作であめことを証している。朝滄落款で大和絵風の手法、現存する蕪村画作の最古のものである。

 この記述で、「やっと十七歳(享保十七年・一七三二)の頃、関東下向の本志をとげたのであった」ということについては、元文二年説(蕪村二十二歳)や享保二十年説(蕪村二十歳。この頃までに江戸に下るという説)と異なる。それは、上記の「俳仙群会図」(「此俳仙群会図ハ元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして」)の制作時期との関連で江戸下向を早めたということなのであろう。しかし、江戸に来て直ぐに、生存中の師の巴人をその俳仙の一人に入れているというのは不自然に思えることと、その印章の「丹青不知老至」が蕪村の丹後時代のものであることからして、蕪村が丹後宮津行きを決行した宝暦四年(一七五四)以降の作と考えると、蕪村十七歳の頃に江戸に下向したという必然性も乏しいように思われるのである。それよりも、巴人が京都に上洛した享保十三年(一七二八)以降の巴人京都滞在中に面識があり、その面識の後、享保十七年の頃、江戸に下向したということであれば、この享保十七年説も考えられないことではないという思いがするのである。

(九十四)

 蕪村が十歳前後で、専門絵師の桃田伊信に絵の手ほどきを受けたということが事実としても、伊信は蕪村の絵画の師ということではなく、そもそも、蕪村は、画・俳二道の面において、蕪村自身師と仰いだ方は、当時、俳諧師として関東・関西一円に名を馳せていた夜半亭一世・早野巴人唯一人といって過言ではなかろう。そして、その絵画の面においては、画・俳二道の面において著名な英一蝶(画号・朝潮など)・小川破笠などの影響も受けていたのであろうが、なかでも、俳諧にも造詣が深く南画の画人・榊原(彭城)百川の影響は大きなものがあったろう。この百川の簡単なネット記事は次のとおりである。

http://www.sala.or.jp/~matu/matu5.htm

元禄十一年(一六九八)~宝暦三年(一七五三)。
 画人。名古屋の人である。名は真淵。百川、蓮洲、八遷と称した。俳諧をよくした関係上、当初は俳画を得意とした。三十一才のとき、京に出て画業に専念した。博学であって、漢書を解したので、元明の図譜より南宗画(文人画)の画風を会得した。それがその後の彼の南画のもととなった。著作に「元明画人考」がある。高遊外との交遊もあった。江戸中期に活躍した画家の一人である。

 興味深いことは、先に触れた蕪村の丹後宮津行きを決行したのが、この百川が亡くなる一年前の宝暦四年(一七五四)であり、何か百川の死と蕪村の丹後宮津行きとの関連もありそうな気配なのである。なお、この頃の蕪村の作品の「天橋立自画賛」には、次のような賛がしてある。

※八遷観百川は、丹青をこのむで明風(みんぷう)を慕ふ。嚢道人蕪村、画図をもてあそんで漢流(かんりゅう)に擬す。はた俳諧に遊むで、ともに蕉翁より糸ひきて、彼ハ蓮二(註・支考)に出て蓮二によらず、我は晋子(註・其角)にくみして晋子にならず。されや竿頭に一歩をすゝめて、落る処はまゝの川なるべし。又俳諧に名あらむことももとめざるも同じおもむきなり鳧(けり)。されど百川いにしころこの地にあそべる帰京の吟に、はしだてを先にふらせて行(ゆく)秋ぞ わが今の留別の句に、せきれいの尾やはしだてをあと荷物 かれは橋立を前駈(ぜんく)として、六里の松を揃へて平安の西にふりこみ、われははしだてを殿騎(でんき)として洛城の東にかへる。ともに此(この)道の酋長(註・風雅の頭領)にして、花やかなりし行過(註・道行)ならずや。
 丁丑(註・宝暦七年)九月嚢道人蕪村書於閑雲洞中

(九十五)

 蕪村の絵画の面でどういう影響を多く受けていたかということにおいて、桃田伊信・英一蝶・小川破立・彭城百川などを見てきたが、蕪村が「宰町自画」として初めて登場する元文三年(一七三八)に刊行された『俳諧卯月庭訓』の撰者の豊島露月との関係も特記しておく必要があろう。露月は蕪村の師の早野巴人と昵懇の俳諧師でもある。宗因系の露沾の門人で、沾徳、沾涼・露言などと同門で、巴人が元禄二年に京都から江戸に再帰して移り住む江戸本石町に居て、観世流謡の師匠をしながら、総俳書刊行の趣味をもち、多くのものを世に出している。この絵入り版本の一つの『卯月庭訓』に「宰町自画」として、その「鎌倉誂物」が収載されているというのは、元文三年、蕪村が二十三歳の頃、露月の目に留まるほどの絵画の面において実績を有していたということなのであろう。この「宰町自画」の「鎌倉誂物」は、挿絵としての版画であり、その彫師のくせなどもあり、当時の蕪村の画技を論ずることは危険な要素もあろうが、こういう刊行物の一端を担うということは、もうその頃までには、相当の技量を有していたということは言えるであろう。そして、それらのことは、蕪村の俳諧の面ので師の早野巴人はもちろん、その早野巴人を取り巻く夜半亭一門の俳人達は均しく認めるところのものであったのであろう。なお、露月のメモは下記のとおりである。

豊島露月〔本名、治左衛門、貞和。別号、識月・纎月・五重軒〕一七五一(宝暦一)・六・二没<享年八十五歳>・江戸本石町の俳諧師。露沾門下。観世流謡曲師。絵画の家元。撰集に『麻古の手』『江戸名物鹿子』『ひな鶴』『ふたご山』『ふたもとの花』『宮遷集』『倉の衆』など。句に<行年や手拍手にぬぐ腰袴>など。

(九十六)

蕪村は、後に大雅とともに、南画の大成者として日本画壇の中にその名を馳せることになるが、その先駆者としては、荻生徂徠門下で詩文をもってその名をうたわれた服部南郭と土佐の商家に生まれた中山高陽などが上げられる。そして。この南郭と若き日の蕪村に係わりについては、先に、「国文学解釈と鑑賞(昭和五三・三))所収の「蕪村・その人と芸術」(尾形仂・森本哲郎対談)の紹介記事で触れた。そして、この南郭・高陽に次いで、南画に大きな影響を及ぼした、祇園南海と柳沢淇園とについては、次のように紹介されている。

祇園南海

http://www.city.gojo.nara.jp/18/persons/nankai.html

延宝四(一六七六)年生、宝暦元(一七五一)年九月八日没。名は玩瑜、字は伯玉、通称は余一、号は南海、蓬莱、鉄冠道人、湘雲居など。和歌山藩医祇園順庵の長男。江戸で生まれ、元禄二(一六八九)年八月、新井白石・室鳩巣・雨森芳洲らが師事する木下順庵に入門する。父が没した翌元禄一〇(一六九七)年、その跡目を継ぎ、和歌山藩の儒者に二〇〇石の禄で任命され、和歌山に赴く。しかし、元禄一三(一七〇〇)年、不行跡を理由に禄を召し上げあられて城下を追放され、長原村(和歌山県那賀郡貴志川町)に謫居を命じられた。宝永七(一七一〇)年、藩主吉宗に赦されて城下に戻るまで習字の師匠として生計を立てた。正徳元(一七一一)年、二〇人扶持で儒者に復し、新井白石の推挙で朝鮮通信使の接待に公儀筆談を勤め、その功により翌二(一七一二)年、旧禄(二〇〇石)に復し、翌三(一七一三)年、藩校設立に際して主長に任命された。病死して和歌山の吹上妙法寺に葬られた。著作に『南海先生集』、『一夜百首』、『鍾情集』、『南海詩訣』、『南海詩法』、『詩学逢原』、『湘雲鑚語』などがある。

柳沢淇園

http://www.sala.or.jp/~matu/matu5.htm#柳沢淇園

宝永三年(一七〇六)~宝暦八年(一七五八)大和(奈良)群山藩の武人にして画家。曽根家の次男として生まれ、元服時藩主吉里より柳沢の姓と里一字を拝領し名を里恭とした。字は公美、号は淇園、竹渓、玉桂と称した。皆が柳里恭と呼んで慕った。多才多芸の人望家であったようだ。詩書画は勿論、篆刻、音曲、医療、敬仏の精神と万能な武士。いち早く南画を研究し文人画の先駆を成した。(畸人百人一首より)

この南画の先駆者の二人について、「江戸初期文人画 放蕩無頼の系譜」・[士大夫的性格の系譜](儒教的教養をもつ)と位置付け、さらに、「放蕩無頼を以て禄をうばう」「不行跡に付き知行召し放たる」(祇園南海)、「不行跡未熟之義、相重なり」(柳沢淇園)との記事が下記のアドレスで紹介されている。

http://www.linkclub.or.jp/~qingxia/cpaint/nihon24.html

 これらのことと、蕪村没後二十三年たった文化三年(一八〇六年)に大阪で刊行され、当時の文学者の逸話を幾つか伝えている田宮橘庵(仲宣)の『嗚呼矣草(おこたりぐさ)』の「夫(それ)蕪村は父祖の家産を破敗し、身を洒々落々の域に置いて」との蕪村にまつわる逸話とは、何か関連があるのであろうか。それとも、これらのことは単なる偶然のことなのであろうか。どうにも気がかりのことなのである。

(九十七)

この祇園南海と柳沢淇園の「不行跡」のことなどに関して、『南画と写生画』(吉沢忠他著)で、次のような興味のひかれる記述がある。
○南海と同様に淇園も「不行跡」が重なったという理由で処罰されている。これは単なる偶然の一致とは思われない。南海にしろ淇園にしろ、その学問の系統は朱子学であるが、道徳と密接にむすびついている朱子学に拘束されることはなかった。かれらには、詩文、芸術の世界がひらけていた。こうした文人的性格をもっていたがゆえに、絵画の世界に遊び「放蕩無頼」とか「不行跡」とみられたのか、あるいは、「放蕩無頼」「不行跡」とみられるような人物であったから、画を描くようになったのか・・・というより両者のあいだには相互関係があったのであろうが、とにかく日本南画の先駆者として数えられるひとびとが、おおやけにこうした烙印をおされていることは、注目してよかろう。淇園の学系は朱子学であったが、幼時から柳沢家の儒官荻生徂徠の影響を受けていた。そんなことからも朱子学に拘束されなかったのかもしれない。

 蕪村が江戸に出てきた当時、服部南郭に師事したと思える書簡(几董宛て書簡)などに係わる対談記事について先に触れた。そして、この服部南郭は、京都の人で、元禄九年に江戸に出て、一時、柳沢吉保に仕え、後に、荻生徂徠門に入り、漢詩文のみならず絵画(画号は周雪など)にも造詣が深かったということなのである。蕪村の誕生した享保元年というのは、享保の改革で知られている徳川吉宗の時代で、この吉宗時代になると、綱吉時代に権勢を振るった柳沢吉保らは失脚することとなる。そして、その吉保の跡を継ぐ柳沢吉里は、綱吉の隠し子ともいわれている藩主で、その吉宗の幕藩体制の改革とこの柳沢由里と深い関係にある柳沢淇園の「不行跡」との関連、さらには、これまた、その吉宗によって失脚される新井白石とは同門(木下順庵門)である祇園南海の「不行跡」との関連など、何か因縁がありそうでそういう一連の当時の大きな幕藩体制の改革などもその背景にあるようにも思えてくるのである。そして、蕪村が師事したという、服部南郭もまた、淇園・南海と同じく、柳沢吉保並びに荻生徂徠門というのは、これまた何か因縁がありそうで、当時の蕪村の生い立ちや関心事のその背後の大きな要因の一つのように思えてくるのである。なお、服部南郭については、下記のアドレスで、次のように紹介されている。

http://www.tabiken.com/history/doc/O/O302L100.HTM

服部南郭

一六八三~一七五九(天和三~宝暦九)江戸時代中期の儒学者・詩人。詩文に長じ,学識豊かで世に容れられること大であった。通称小右衛門,名は元喬,字は子遷,南郭は号。京都の人。一六九〇年(元禄九)十四歳で江戸に出てきて十六歳で柳沢吉保に仕えた。壮年にして荻生徂徠の『古文辞説』に共鳴して門下となる。資性温稚で詩文の才能が世に知られ,北村季吟の門下であった父の感化もあって和歌も詠み絵画にも関心をもっていた。三十四歳のころ,家塾を開き門人を教授し古文辞の学を世に広めた。徂徠の門弟として,経学の太宰春台に対し詩文の南郭と並び称された。収入は年々百五十両あったと言われる。著書のうち四編四十巻にのぼる『南郭先生文集』は本領を発揮した詩文集。「大東世語」「遺契」にはその学識の広さが見られ,「唐詩選国字解書」「灯下書」「文筌小言」は詩文論として評判を高めた。南郭は政治・経済を弁ずることがない点に特徴があるとされている。

(九十八)

 蕪村は、服部南郭に師事したというのが、それがどの程度のものであったのかは定かではない。南郭は、「政治・経済を弁ずることがない点に特徴がある」とされているが、朱子学の正統的な官学としての流れではない、在野の革新的な流れの荻生徂徠門であるということについては、やはり注目すべきことであろう。そして、従前の蕪村伝記については、これら荻生徂徠の影響ということについては等閑視してきたきらいがなくもない。そういうなかにあって、『蕪村 画俳二道』(瀬木慎一著)は「荻生徂徠の影響」という一項目をあげて、これらについて触れられていることは卓見というべきであろう。ここらへんのところを要約して紹介しながら、関連するようなことを記しておきたい。
○蕪村の学問・教養の基本を成したものがなんであったかについては、本人は明らかにしていない。しかし、かれが大阪の近郊の半農・半工的環境で成長した享保期の学問的状況は判明しているし、また、画俳として身を立ててからの知識の源泉は、その作品から相当程度掘り当てられる。一口に言うならば、それは朱子学のなかの構造論的な系列である。と言えば、直ぐさま念頭に浮かぶのは、荻生徂徠である。徂徠の学問は多岐にわたっているが、その最大の特徴は、政治の世界を道徳とは別のものであると見たこと、そして、文芸・思想においては言語の機能を重視したことに要約できるだろう。それは、道徳的規範を以てすべてを律しようとした従前の文教政策に対する最大の異論であった。
※上記は瀬木前掲書の出だしの部分なのであるが、それに、次のようなことが付記できるのではなかろうか。「蕪村が、その生涯を通して追求して止まなかった、『南画と俳諧』というのは、当時の社会の根底に流れていた、いわゆる朱子学の道徳的規範遵守とは相容れない世界のものであった。ここで、蕪村は荻生徂徠の世界に多くの点で共鳴し、その徂徠門にあって、己が生涯を賭けようとしている『南画と俳諧』の面での先駆者たち(祇園南海・柳沢淇園・彭城百川等)とその先駆者たちと同じ反俗・反権威の清高な気品を保ち続けた俳諧師・早野巴人をその生涯の師とし、それらの師の教示を生涯にわたって実践し続け、その『画俳二道』の頂点を極めた、その人こそ、蕪村であった」と、そんな感慨を抱くのである。

 なお、荻生徂徠のネット紹介記事は以下のとおりである。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~MARUYAMA/tokugawa/sorai.htm

荻生徂徠

綱吉に仕える医師方庵の二男として江戸二番町に生まれる。名は双松、字は茂卿のち茂卿、通称は惣右衛門。はじめ朱子学を学ぶ。伊藤仁斎の古義学を攻撃したが、のち『弁道』『弁名』を著わして、さらにより徹底した古文辞学の立場を確立。1696年(元禄9)以来柳沢吉保に仕え、政治顧問的役割を果たす。 吉保に赤穂浪士の意見を求められ、『擬自律書』を著して処分を上申した。徳川吉宗の内命によって『太平策』『政談』を著し、時弊救済策を述べた。門人に経済理論の太宰春台、詩文の服部南郭らをを輩出し、またその文献学的方法態度は、国学に影響を与えた。元禄・享保時代の社会的変動を思想面に於て最も痛切に受容して、その時代的社会的な問題性と真正面から取り組まんとしたのは、徂徠学である。それはまさしく時代の子であった。さればこそ、成立と共にたちまちにして思想界を風靡し、他派を圧倒するの勢を示したのである。また同時に、時代の子たるが故に、この時代の含む矛盾を自らの中に刻印しており、やがては没落すべき運命をも有していたといえよう。徂徠がその名声を獲得したのは、未だ朱子学者としての立場から古文辞学を打ち樹てたときのことであるが、徂徠学としてのオリジナリティを確立したのは、享保二年の『弁道』及び『弁名』の二書を以てであった。(中略)徂徠学は、一面彼のパ-ソナリティと密接に結びついており、彼のパ-ソナリティは元禄精神の象徴であったとも考えられる。とりわけ、その不羈奔放な豪快さが見られることである。彼は、「熊沢(蕃山)の知、伊藤(仁斎)の行、之に加ふるに我の学を以てせば、則ち東海始めて一聖人を出さん」(先哲叢談)と自負した。故に権門に服するを潔しとせぬ初期からの気風が見られる。徂徠学はなによりもまず政治学たることを本質とする。一面からいえばそれは、徂徠学が修身斉家治国平天下を標語とする儒教思想に属することの当然の結果とも見られるが、他の一切の儒教に於ては政治的なるものは最後的な帰結として現われ、出発点となるのは個人道徳であるに反し、徂徠学では逆に「出発点」をなす。すなわち、政治的価値は常に先行者の地位を占め、個人ないし家族の倫理的な義務の履行という回路を経ないで、端的にその実現が求められた。 彼は問題を二つに分けた。一は、機構の面、他は、これを具体的に運営している人間の面である。そして彼は、この両面から社会病理を追求した。前者について指摘した矛盾は、何よりも第一に、彼が「旅宿の境界」と呼ぶところの武士生活の矛盾であった。(中略)第一には、「旅宿ノ境界」からの武士の脱却をはかること - そのために、武士は領地に帰り、土着して大規模に再生産に従事すること、また戸籍を作成し「旅引」(旅行証明書)を発行して人々の移動を統制することである。第二は、「礼法」を確立して、身分制度を樹立すること。このことは「礼楽」に「道」を求めた徂徠の基本哲学の具体化であり、徂徠学の本来的な思惟方法の発現であって、しばしば誤解されるような「法家」的立場の現われでは決してない。徂徠によれば、朱子学がかかる観念的思弁に陥った論理的要因は、「大極」を「理」としてこれに究極的価値をおくところの儒教的自然法思想に胚胎する。理がいかなる時代にも、またいかなる社会制度にも常にその根底に在って無時間的に妥当しているという考え方、そかもその理は決して現実の社会規範ないし制度を超越せるものではなく、それと必然的な牽連関係を以て、そのような規範に内在するものである以上、かかる理の優位の破壊なくしては、制度的変革を論理的に基礎づけることはできない。つまり「制度ノ立替」と彼がいう場合、その担い手となるのは従来の制度のなかにある人格ではなく、むしろ従来の制度ないし規範から超越した人格である。つまり制度の客体でなくて、それに対し、主体性を有するような人格の予想の下に始めて可能なのである。換言すれば、理の優位でなく、いかなるイデ-をも前提しない現実的具体的な人格を基礎におくことにより、始めて無時間的な理の妥当性が破られうるのである。

(『日本政治思想史講義録』1948 169-180頁 第七章 儒教思想の革命的転回=徂徠学の形成)

(九十九)

『蕪村 画俳二道』(瀬木慎一著)の「荻生徂徠の影響」は次のように続ける。
○徂徠の学問的立場は、通常「古文辞学」と呼ばれれているように、明の文学における「古文辞」に先例を求めたものであるが、それが単なる復古運動にとどまるものでなかったことは吉川幸次郎の説明によって了解される。
「……精神のもっとも直接的な反映は、言語であるとする思想である。したがって精神の理解は、言語と密着してなすことによってのみ、果たされるとする思想である。」
そこで古典を読むばかりでなく、自分も古典の言葉で書き、考え、そしてその精神を把握することをめざしたわけである。その結果明らかになることは、儒者共の説く人為的な道徳律の虚妄さであり、それを排除するとき「理は定準なきなり」という世界観に到達する。つまり、世界は多様性において成り立っているのであり、そこに生きる人間の個々の機能を尊重するという考え方である。「人はみな聖人たるべし」という宋学の命題とは正反対に、徂徠は、「聖人は学びて至るべからず」という方向を提示し、人が個性に生き、学問によって、自己の気質を充実させ、個性を涵養しうる可能性を強調している。

※この徂徠の蕪村への影響は、蕪村をして、当時の絵画の主流であった中国北宗画を基本する狩野派よりも、蕪村が生をうけた享保時代前後に入ってきた反官的立場の南宗画に目を向けさせ、蕪村より八歳年下の大雅とともに、その中国風を払拭して日本独特の南画を樹立していくこととなる。そして、そのことは同時に、当時の御用絵師の狩野派の画人からは「文人趣味の手すさび」と批判され、特に蕪村は、中国的規範を遵守する正統的な南画派の画人からはその俳諧的興趣により「橘にして正ならず」(田野村竹田)との「邪道」ともとれる批判をも甘受することとなる。そして、『蕪村 画俳二道』(瀬木慎一著)の「漂泊の蕪村」において、次のように「蕪村の蕪村たる所以」を記述している。

○蕪村の蕪村たるゆえんは、画俳であることである。俳人であり、画家であり、また、俳人でもなく、画家でもなく、字義どおり「画俳」という以外にはない蕪村。かれをめぐる論議は止むことなく、いつまでも続くとしても、唯一つ明らかなことは、この復元的にして融合的な不定型の個性を測る尺度は、「近代」にはないということである。

※この蕪村の「画俳」二道の「復元的にして融合的な不定型の個性」は、まさしく荻生徂徠とその学派による影響によるものであろうし、そして、この蕪村をして、その個性を測る尺度は、「近代」にはないというよりも、「現代」においてもないといえるのではなかろうか。そして、つくづく思うことは、「近代」・「現代」とを問わず、「画俳」二道の面において、蕪村と同じレベルに達しているという「復元的にして融合的な不定型の個性」を見出すことは不可能なのではなかろうか。これらのことに思いを巡らすときに、蕪村が突如として、西洋の近代詩に匹敵するような古今に稀なスタイルと内容の俳詩「北寿老仙をいたむ」(「晋我追悼曲」)やその絵画化とも思われる「夜色楼台雪万家図」などをこの世に残しているその必然性をも垣間見る思いがするのである。

(一〇〇)

 蕪村はその存命中は俳諧師というよりは画人として名が馳せていた。安永四年(一七七五)・天明二年(一七八二)の『平安人物志』にも、いずれも画家の部にあげられている。

安永四年

http://isjhp1.nichibun.ac.jp/contents/Heian/00065/fr.html

天明二年

http://isjhp1.nichibun.ac.jp/contents/Heian/00110/fr.html

蕪村は、俳諧師として、明和七年(一七七〇)に夜半亭一世宋阿こと早野巴人の跡を継ぎ夜半亭二世となるが、いわゆる、俳諧師としてその生計をまかなうのではなく、あくまでも画人として暮らしを立て、点者(宗匠)として金銭を貪る当時の俳諧宗匠に対して批判的であった。その俳句も絵画的であることが大きな特徴であることは言をまたない。そして、その俳論も、実は当時の中国画論の影響が著しいのである。蕪村の俳論の代表的なものとして、安永六年(一七七七)『春泥句集序』に書かれた「離俗論」がある。

○画家ニ去俗論あリ。曰、画去俗無他法(画ノ俗ヲ去ルニ他ノ法無シ)、多読書則書巻之気上升(多ク書ヲ読メバ則チ書巻ノ気上升シ)、市俗之気下降矣(市俗ノ気下降ス)、学者其旃哉(学者其レ旃(こ)レ慎マンカナ)。それ画の俗を去(る)だも筆を投じて書を読(よま)しむ。況(や)詩と俳諧と何の道遠しとする事あらんや。

 『南画と写生画』所収の「南画の大成……池大雅 与謝蕪村」(吉沢忠稿)で、これらのことに関して次のように記している。

○画に俗気をなくすには、多くの書を読まなければならないとするこの去俗論は『芥子園画伝(かいしえんがでん)』の「去俗」からそのまま引用したものであるが、それを蕪村は俳諧に応用したのである。ここに、蕪村の画俳一致論はその理論的根拠をみいだしたのである。

 そして、この蕪村の画俳一致論は、南画の先駆者の一人である柳沢淇園の、「先(まず)、絵もから絵(唐絵)より学ぶべし。絵をかく人の常に見るべきは芥子園伝也」(『ひとりね』)の影響下にあることは、これまた言をまたないであろう。ことほど左様に、蕪村は、荻生徂徠とその系譜者たちの影響を、その生涯にわたって享受し、そして、それを忠実に実践していったのである。

若き日の蕪村(その九)

若き日の蕪村(その九)

(一〇一)

『南画と写生画』(吉沢忠著・小学館)では、蕪村の「春風馬堤曲」に関連させ、次のとおり独特の蕪村の絵画論を展開している。

○「春風馬堤曲」は、蕪村の故郷毛馬から大阪に出た女が、帰郷して、毛馬の堤にさしかかったときの有様を、漢詩、自由詩、俳句をおりまぜながらうたった、きわめて異色のある詩である。ある意味では、この三種の文体が蕪村の絵画、ことに晩年の謝寅時代の絵画にあらわれている、といえなくもなさそうである。つまり漢詩は、南宗的なものを基調としながら、北宗的なもをまでまじえた蕪村の中国画系統の画、文語体の自由詩は、格調高く迫力にとむ独特の水墨画、そして俳句に対応するものは、俳画を主とした和画系統の画である。

 この漢詩的なスタイルに匹敵する「中国的系統の画」(南画)、自由詩のスタイルに匹敵する「水墨画」(南画と俳画との一体化)、そして、俳句のスタイルに匹敵する「和画系統の画」(「俳画」・「俳諧ものの草画」)の、この三つの蕪村の絵画の区分けは、蕪村の絵画の鑑賞上、大きな示唆を与えてくれる。いや、画俳二道を極めた蕪村の生涯を辿る上での必須のキィワードといっても過言ではなかろう。蕪村が始めて登場するのは、豊島露月が編んだ絵入り俳書、『俳諧卯月庭訓』の「鎌倉誂物」(宰町自画)であった。これは、上記の分類ですると、「和画系統の画」に該当し、それは、二十代前半の江戸時代の蕪村を象徴するものでもあろう。そして、その江戸を後にし、京都に再帰して、丹後に絵の修行に出かけた後、讃岐に赴く。ここで、「階前闘奇 酔春星写」と記した「蘇鉄図襖絵」(現在は屏風に改装)を描く。これは、上記の分類の「水墨画」であり、中国風でもなく、されど、俳画風でもなく、その後の画人・蕪村を暗示するような、丹後・讃岐時代の四十代・五十代前半の蕪村を象徴するようなものであろう。しかし、蕪村のその六十八年の生涯において、上記の分類ですると「中国的系統の画」(南画)が最も多く、それは、当時の時代的な一つの風潮であった、祇園南海・柳沢淇園・彭城百川らの、いわゆる勃興期にあった日本南画の影響を最も多く享受した結果ともいえるであろう。そういう意味で、蕪村は大雅とともに「日本南画の大成者」との名を冠せられるのは至極当然のことではあろう。しかし、上記の分類はあくまでも便法であって、とくに、最晩年の、安永七年(一七七八)以降の落款「謝寅」時代の絵画は、上記の分類を超越して、いわゆる「謝寅時代の絵画」として、上記の分類によることなく、独自に鑑賞されるべきものであろう。そして、この時代のものは、「夜色楼台雪万家図」・「峨嵋露頂図巻」・「春光晴雨図」・「奥の細道屏風」など傑作画が目白押しなのである。まさに、蕪村は晩成の画人であり、俳人であり、そういう意味では、常に研鑽を怠らなかった努力の人であったということを、つくづくと実感する。

(一〇二)

『南画と写生画』(吉沢忠著・小学館)では、蕪村の「春風馬堤曲」に関連させての、「中国画系統の画、水墨画、俳画を主とした和画系統の画」の三区分のうちの「俳画」(俳諧ものの草画)について見ていきたい。
 安永六年(一七七九)と推定される蕪村の几董宛ての書簡に、「はいかい物の草画、凡(およそ)海内に並ふ者覚無之候」との一文があり、蕪村は、この「俳画」(俳諧ものの草画)ということにおいて、相当の自信と相当の覚悟を持っていたことが伺えるのである。その俳画の頂点を極めたものが、芭蕉の紀行文『おくのほそ道』に関連するもので、現在、画巻が三巻、屏風一隻、模写一巻が残されており、それらを年代順に列挙すると下記のとおりである。

一 画巻 右応北風来屯需自書干時安永戌戊(七年)夏六月   夜半亭蕪村
二 画巻 安永戌戊(七年)冬十一月写於平安城南夜半亭自書 六十三翁蕪村
三 屏風 安永己亥(八年)秋平安夜半亭蕪村写
四 画巻 右奥細道上下二巻応維駒之需写於洛下夜半亭閑窓干時
安永己玄(八年)冬十月 六十四翁蕪村
五 画巻(模写) 安永丁酉(六年)八月応佐々木季遊之需書
於平安城南夜半亭中 六十二翁蕪村

 この二番目の図巻は、現在、逸翁美術館蔵のもので、上下二巻の十四面(旅立ち・那須の小姫・須賀川軒の栗・佐藤嗣信らの嫁・塩釜の宿・高館・尿前の関・山刀伐峠・長山重行亭・市振の宿・曽良先行惜別・大聖寺の全昌寺・等栽草庵・大垣近藤如行亭)で構成されている。そして、三番目の屏風が、山形県立美術館蔵のもので、重要文化財に指定されている。この構成は、その六曲に『おくのほそ道』全文を草し、逸翁美術館蔵の図鑑と同じようなスタイルで、九面(旅立ち・那須の小姫・須賀川軒の栗・佐藤嗣信らの嫁・塩釜の宿・尿前の関・長山重行亭・市振の宿・大垣近藤如行亭)が配置され、全体でまるで一つの画を見るように工夫されている。こういうものは、まさに、画・俳二道を極めて、俳聖・芭蕉の『おくのほさ道』を知り尽くした蕪村ならではの傑作俳画の極地と言えるであろう。そして、蕪村はそのスタートにおいて、露月撰の『卯月庭訓』の「宰町自画」とある「鎌倉誂物」の挿絵(版画)に見られる如く、これらのものを自家薬籠中のものにしていた
ということについては、先に見てきたところのものである。そして、これらの蕪村の生涯の業績は、まさに、「はいかい物の草画、凡(およそ)海内に並ふ者覚無之候」という趣を深くするのである。

(一〇三)

先に触れた、柿衛文庫所蔵の「俳仙群会図」(画像・下記アドレス)については、内容的には、古今の俳人から、宗鑑・守武・長頭丸(貞徳)・貞室・梅翁(宗因)・任口上人・芭蕉・其角・嵐雪・支考・鬼貫・八千代・園女・宋阿の十四人の俳人を肖像画的に描き、さらに十三人の代表句も記されており(その画作とは別な時点ではあるが)、俳画の範疇に入るのだろうが、そのスタイルは当時の人物画・肖像画に見られる典型的な筆法(狩野派と土佐派の折衷様式)で、蕪村自身が言っている「俳諧ものの草画」(俳画)とは異質なものであろう。そして、この「俳仙群会図」については、その画賛の「此俳仙群会の図は、元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして、ここに四十有余年に及べり。されば其稚拙今更恥べし。なんぞ烏有とならずや」との元文年間に制作されたものではなく、「『朝滄』の落款から推して、四十代初頭の丹後時代の作」(『蕪村全集四』)ということについては、先に触れたところである。

http://hccweb6.bai.ne.jp/kakimori_bunko/shozo-buson.html

 この「俳諧ものの草画」(俳画)は、一般的には略画・草筆・減筆などともいわれ、簡略な単純化された表現スタイルをとり、この単純化されたスタイルが、丁度、五・七・五と最小の短詩型表現スタイルの俳句と相通ずるものを有している。そして、この略画・草画はしばしば版本となって、この版本が「翻刻・模刻・改刻」などがなされ、いわゆる、蕪村画の「三十六俳仙図」などは、河東碧梧桐によると、「蕪村『俳諧三十六歌仙』は偽作なり」と完全な否定論までなされるに至っている。しかし、まぎれもなく、蕪村はこれらの「俳諧ものの草画」(俳画)では、そのスタートの時点からその晩年の先に触れた「おくのほそ道」関連の図巻などに至るまで、この面においては傑出した画・俳人であり、この流れが、蕪村門下の月渓・九老・金谷などに引き継がれているのである。さらに、蕪村自身、その源流を探ると、英一蝶・野々口立圃・僧古澗明誉・彭城百川などの影響などを受けており、また、渡辺崋山などの別系統のものもあり、この「俳諧ものの草画」(俳画)という世界も、江戸時代を代表する浮世絵と同じく、一つのジャンルを形成していたということも特記しておく必要があろう。そして、この「俳諧ものの草画」(俳画)において、蕪村は自他共に認める第一人者であったことは言をまたない。

(一〇四)

 蕪村の画業の一つとして、この世にその名をとどめている露月撰『俳諧卯月庭訓』の「鎌倉誂物」も版本の挿絵といってもよいものであろう。この蕪村の挿絵は蕪村俳画の源流といえるもので、この挿絵的な俳画が制作された元文二年(一七三七)当時の、蕪村の肉筆画というものは存在しない。そして、その肉筆画が蕪村作としてその名をとどめているものは、その多くが結城・下館のものであって、その作品は以下のとおりである。

○ 陶淵明山水図       三幅対  子漢   下館・中村家
○ 三浦大助・若松鶴・波鶴図 三幅対  四明   同上
○ 漁夫図          一幅   浪花四明 同上
○ 追羽子図        杉戸絵四面 なし   同上
○ 文微明八勝図     紙本淡彩一巻 伝蕪村模 同上
○ 高砂図          三幅対  浪華長堤四明・四明 下館・山中家
○ 人物図          三幅対  浪華長堤四明・四明 下館・板谷家
○ 墨梅図         紙本墨画四枚 なし       結城・弘経寺 
○ 楼閣山水図       紙本墨画六枚 なし       同上

 これらの作品が描かれた年代は定かではないが、蕪村の師の早野巴人が亡くなった寛保二年(一七四二)から京に再帰する宝暦元年(一七五一)の約十年間のものであることは確かなところであろう。その落款の「子漢・四明・浪花四明・浪華長堤四明」などからして、これらの作品以外にも相当数の作品を描いたであろうことも容易に想像されるところではある。そして、上記の結城・下館時代の作品のうち、蕪村模写とされている「文微明八勝図」などは、蕪村が本格的に南画を学ぶ切っ掛けになったものであろうと推測されており、この結城・下館時代が、それまでの方向性のなかった蕪村絵画が南画的な方向に舵取りをされた頃であろうといわれている。これらについて、『蕪村 画俳二道』(瀬木慎一著)では次のように記されている。
○『八種画譜』とは中国の八種の画譜を集めたもので、明末の天啓年間にまとめられて板行され、まもなく、日本にもたらされた。寛文十一年に日本でも困難を克服してようやく翻刻され、さらに宝永七年に再刻された。同じく元禄年間に翻刻された『芥子園画伝』と共に、南画を学ぶものにとっては、それは必要不可欠の教本であった。『芥子園画伝』とは異なり、純粋に南宗的ではないが、それまでよく知られていなかった明画の様式を伝えて、文人墨客に利用され、日本における南画の興隆を促した。関東時代の蕪村は、寛延元年に翻刻されたばかりの『芥子園画伝』の方はまだ見る機会がなかったのではないかと考えられるだけに、『八種画譜』は熱烈に学び、模写をしたことが充分に考えられる。

(一〇五)

 「若き日の蕪村」というのは、年代的には、蕪村が京に再帰する宝暦元年(一七五一)以前の、蕪村、三十六歳以前のこととして概略的に使用している。そして、この「若き日の蕪村」時代の初期の絵画の遺品も、また、俳諧(連句・俳句)関連の作品も共に極めて少なく、蕪村がその画俳の二道において真にその名を世に問うて来るのは、京に再帰して、宝暦四年(一七五四)に丹後の宮津行きを決行する以後ということになろう。すなわち、年齢的には、蕪村、四十歳以後ということになる。この四十歳から亡くなる天明三年(一七八三)、六十八歳までの、後半の蕪村の生涯というのは、前半の蕪村の生涯と比して、その情報量も著しく多く、その足跡を辿るということも容易ではあるけれども、いかんせん、その前半の生涯を辿るということは、凡そ至難なことといっても過言ではなかろう。しかし、その前半生の少ない情報を垣間見るだけでも、巷間公然と言われているようなことについて、「果たしてそれは真実なのであろうか」と、そういう洗い直しが必要なのではなかろうかという思いを深くするのである。そのうちの一つとして、蕪村没後二十三年たった文化三年(一八〇六年)に大阪で刊行され、当時の文学者の逸話を幾つか伝えている田宮橘庵(仲宣)の『嗚呼矣草(おこたりぐさ)』の「夫(それ)蕪村は父祖の家産を破敗し、身を洒々落々の域に置いて」との逸話についても、単に、「洒々落々の『南画』や『俳諧』に身を置いて」のような意味合いで、南画の先駆者たちの、「放蕩無頼を以て禄をうばう」「不行跡に付き知行召し放たる」(祇園南海)、「不行跡未熟之義、相重なり」(柳沢淇園)と同じようなことなのではなかろうかと・・・、そんな思いもしてくるのである。また、蕪村は己の出生について、「何も語らず、むしろ、それは隠し続けた」ということなどについても、先に触れてきたところであるが、上記の結城・下館時代の絵画作品の落款の「子漢・四明・浪花四明・浪華長堤四明」などを改めて見直すと、蕪村は、「摂津の毛馬の馬堤の遠くに比叡の四明峰を仰ぎ見る」所て生まれ、育ったということをはっきりと語りかけているようにも思えてくるのである。(この時点で、一旦、この「若き日の蕪村」の点と線を結ぶ作業を一区切りとして、「回想の蕪村」ということで、また、違った視点での点と線を結ぶ作業に移ることとしたい。)2006/08/02 一応了。

若き日の蕪村(四~六)

若き日の蕪村(四)

若き日の蕪村(四)

(四十七)

ここで、「北寿老仙をいたむ」が収載されている『いそのはな』やこの和詩を安永六年とする『蕪村の手紙』の著者(村松友次)の考え方などを紹介したい。著者(村松友次)は、この和詩の「君」と「友」とを分けて解釈する独特のもので、その考え方は賛否両論があるが、それらの解釈の異同なども織り交ぜながら見ていくことにする。著者(村松友次)は次のような「九連詩説」(この和詩十三行を九連に分割する考察)によっている(『蕪村伝記考説(高橋庄次)』などの「八行詩説」と四※印の行の相違がある)。

北寿老仙をいたむ

一 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
  何ぞはるかなる
二 君をおもふ(う)て岡のべに行(いき)つ遊ぶ
  をかのべ何ぞかくかなしき
三 蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲(さき)たる
  見る人ぞなき
四※ 雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞(きけ)ば
五 友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき
六 へげのけぶりのはと打(うち)ちれば西吹(ふく)風の
  はげしくて小竹原(をざさはら)真(ま)すげはら
  のがるべきかたぞなき
七 友ありき河をへだてゝ住(すみ)にきけふは
  ほろゝともなかぬ
八 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々に
  何ぞはるかなる
九 我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず
  花もまい(ゐ)らせずすごすごと彳(たたず)める今宵(こよひ)
  ことにたう(ふ)とき 

釈蕪村百拝書
(口語訳)
一 あなたは、にわかにこの朝、世を去られました。その夕べ、
  私の心は千々に乱れてあなたをしのぶのですが、あなたは何と
  はるかに遠いところへ行ってしまわれたことでしょう。
二 あなたのことを思いながら、岡のべをさまよい歩くのです。
  岡のべはなぜこうも悲しいのでしょう。
三 たんぽぽは黄色に、なずなは白く咲いています。
  しかし、これを見るあなたはいないのです。
四 おや! 雉がいるのでしょうか、いたましい声で、ひたなきに鳴いています。
  聞くとこう言っているのです。
五 「親しい友があった。河をへだてて、共にこの岸に住んでいた。
六  あやしい煙がばっと散ったかと見ると、たちまち西から風がはげしく吹き
  (友の命の緒はたちまち吹き弱り)小笹原も真すげ原も吹き乱れて、
   のがれかくれる所もなかった! ・・・・・・・
七  親しい友があった。河をへだてて、共にこの岸に住んでいた。だが、もう、今日は、
   ほろろとただの一声も鳴かない。」と。(ああ、あの雉も私と同じ悲しみを抱いてい
   るのです。)
八 あなたは、にわかにこの朝、世を去られました。その夕べ、 
  私の心は千々に乱れてあなたをしのぶのですが、あなたは何と
  はるかに遠いところへ行ってしまわれたことでしょう。
九 わが家の阿弥陀仏にともしびを奉る気力もなく、
  花もお供えせず、ただひとりしょんぼりとたたずんで、
  あなたをしのぶ今宵は、
  ことに尊く思われるのです。
              仏弟子蕪村百拝してしるす

(四十八)

『蕪村の手紙』の著者(村松友次)は、「平井氏(註・詩人で俳人の平井照敏)は、この詩の中心部分の解説の諸説を丹念に紹介し、次のように言う」として、平井照敏氏の考え方を紹介している。
○まったく、諸説入りみだれて、どうにも収拾がつかない思いではないか。なんとか、すっきりした結論はつけられないものだろうか。そう思って、尚学図書版『鑑賞日本の古典17 蕪村集』の村松友次氏の解説を見た途端、私ははじめて、久しいしこりが一度に解ける思いを味わったのであった。村松氏の訳は次のようである。
「あやしい煙がばっと散ったかと見ると、たちまち西から風がはげしく吹き
  (友の命の緒はたちまち吹き弱り)小笹原も真すげ原も吹き乱れて、
   のがれかくれる所もなかった! ・・・・・・・
  親しい友があった。河をへだてて、共にこの岸に住んでいた。だが、もう、今日は、
   ほろろとただの一声も鳴かない。」と。(ああ、あの雉も私と同じ悲しみを抱いてい
るのです。)」
 つまり、村松氏は「友ありき・・・」から「ほろゝともなかぬ」までの六行を、雉のことばと考え、作者の思いを重ねているのである。これは、先にあげた中村草田男の解と重なるものである。草田男の場合、「へげのけぶりの・・・」から「のがるべき・・・」までの三行を地の文としていたが、村松氏はその三行を雉のことばと考えたのである。たしかに、このように考えれば、「友ありき・・・」の転調は無理なく解決でき。その友が、鳴いて雉の友の雉なら、「けふハ/ほろゝともなかぬ」の理由も十分に納得できる。河をへだてていつも鳴きかわしていた友の雉なのだから。村松氏はこれだけではなく、この詩全体の構成について、興味ある分析をしている。つまりこの詩はABCDEという五つの面を重ねた構造をしていると考えるのである。A面は、題と「我庵のあミだ仏・・・」、以下、B面が一、二行目と十四、十五行目の「君あしたに去ぬ・・・」という同文の二行ずつ、C面は岡のべの描写で、三行目から五行目までの五行、D面が雉1の独白で、八行目と十二行目、十三行、E面が雉1の独白の中に語られる雉2の最後で、九行目から十一行目までの三行である。この五面の重なりによる立体的構造をもつのがこの詩だとするこの解明はまことにすっきりとこの詩の構造を解いている。
 だが、さきの口語訳で、「あやしい煙」とのみ訳されていた変化のけぶり、これを村松氏は、猟銃の煙だと解いている。そうかもしれない。事実、蕪村に、「雉子うちてもどる家路の日ハ高し」の句かあり、この句を書き添えた絵も存在して、猟師が鉄砲の先に死んだ雉をぶらさげて家路につく姿がえがかれている。なぜ雉2が死んだのか。それをここまで解いてしまうと、詩が透明になりすぎて、しらけてしまう感じである。ここは、蕪村も「へげのけぶり」とだけ書いたように、あやしい煙のままで、いろいろに味わえる不透明な余地をのこしておくべであろう。あるいは先の草田男もそのように解していながら、作家の勘でそう言い切ることを避けたのかもしれない。その点は味読を尊重する俳句実作者の私だが、しかし、村松氏の分析のように、この詩が読めるものとすれば、蕪村の作詩術はなんと新しいものではないか。複雑な構造性のある詩をすでに作っていたのである。もっともそれは、物語的に俳句や詩句を組みあわせた「春風馬堤曲」の作者蕪村には、可能なことだったのであろう。またかれの絵にも、視線を移動させることによって、画面が変化してゆくという多面的な工夫がさまざまにほどこされていた。そしてその近代性は、かれが中国の絵画や詩文に注いだ傾倒のこころのかもし出したところから芽吹いたものだったのかもしれないと思う。

 長い引用になったが、平井照敏氏は、村松友次氏の考え方を是とするということであろう。「その近代性は、かれが中国の絵画や詩文に注いだ傾倒のこころのかもし出したところから芽吹いたものだった」という最後の指摘については、村松氏が指摘する「能の多くの構成」と深く関わっていることも加味しておきたい。

(四十九)

 この村松友次氏の考え方に対して、山下一海氏は次のように一部否定的考え方をしている(村松・前掲書)
○村松友次氏の九行詩説(註・九連詩説)は、詩の中心点のその独特の解説にかかわりがある。すなわち、7に「雉子のあるかひたなきに鳴くを聞けば」とあるのを受けて、8 から13までの六行を雉子の言葉とする。その六行を直接話法として、括弧でくくってていいようなものとするのである。それは雉子が友である別の雉子の最期を語っているのだから、その中の9・10・11の三行によって、別の雉子の代弁をしているのだという。それは能の後ジテが、生前の姿となって登場し、その最期を語り演ずる手法に似ている、ともいう。まことに明快な解釈であり、八連詩説では一括されていた7・8が九行詩説(註・九連詩説)では別々の行として考えられなければならない理由も、あきらかである。しかも、中心部分が8・9・10のさらにその中心ともいうべき「へげのけぶり」に、猟銃の煙という新解を与えて、その解釈を確固たるものにしている。しかし、8から13までを、雉子の言葉として割り切ってしまうことはいかがなものか。能の夢幻劇だといってもそこにあるのは能の詞章ではない。8から13までの文字が雉子の直接話法とすると、はっきりしすぎた寓話劇というようなものに聞こえないでもにい。そこに銃声一発、鉄砲の煙となると、どうも本当にそうなってしまう。従来の解釈によるこの詩の不思議な情緒纏綿生といったものが、雉子の言葉の挿入によって破壊それるような気がする。意味ははっきりするが、かんじんの詩の魅力が薄らいでしまう」。

 これらの村松友次氏の考え方については、先に見てきた『蕪村伝記考説』(高橋庄次著)の「この追悼詩を霊前に捧げたのである」という観点から、この蕪村の和詩を鑑賞していくと、山下一海氏らの従来からの、「8から13までの文字が雉子の直接話法」ではない、という考え方を是としたい。しかし、「北寿老仙を『君』とも呼び『友』とも呼んでいる」ことの疑問(俳人・原裕氏らの意見)は依然として残る。このことについては、『君』は、「北寿老仙その人」を指し、『友』は、雉子の鳴き声で象徴される、「北寿老仙を始め、その北寿老仙に前後して亡くなった、宋阿や潭北らの複数の故人」と、蕪村は、その心中に、区別してのものという理解も、この和詩を鑑賞する、もう一つの視点として許容されるのではなかろうかと、そんな思いもするのである。

(五十)

 『蕪村の手紙』の筆者(村松友次)の「北寿老仙をいたむ」の製作時期を安永六年、蕪村六十二歳とする考え方は、次のとおりである。

一 詩の発想や内部構造が「春風馬堤曲」と酷似する。
二 内容・・・主として季節感・・・が、晋我没後の直後に霊前に手向けたものとは思えない。
三 もし、没後すぐの手向草だとしたら、雁宕その他の結城地方の俳人の弔句も共に残るはずである(『いそのはな』にはそれがない)。
四 安永六年に蕪村は『新花摘』を書き、しきりに往時を回想している。

 これらが、その根拠なのであるが、一については、先にも触れたが、「春風馬堤曲」は安永六年春興帖『夜半楽』に収載されたもので、それは「歌仙(一巻)・春興雑題(四十三首)・春風馬堤曲(十八首)・澱河唄(三首)・老鶯児(一首)」の、いわゆる三部作「春風馬堤曲(十八首)・澱河唄(三首)・老鶯児(一首)」のその一部をなすものである。この三部作の主題は「老いの華やぎ」・「老鶯児の句に見られる老愁」ということであり、それと故人への手向けの追悼詩の「北寿老仙をいたむ」とは、まるで異質の世界である。高橋庄次氏は
「夜半楽三部曲が発句・漢詩・和詩といったさまざまな形式をモザイク状に組み上げたバラード(物語詩)であるとすれば、『北寿老仙をいたむ』はリート(独唱用小歌曲)だと言えるからだ」としているが(『蕪村伝記考説』)、その説を是としたい。
二については、「晋我没後の延享二年正月二十八日は、陽暦に換算して二月二十八日であり、この時期、結城地方は『蒲公英の黄に薺のしろう咲きたる』の季節ではない」(村松・前掲書)としているが、こと、この季節感をことさらに取り上げる必要性はないと考えられる。
三についても、「没後すぐの手向草だとしたら、雁宕その他の結城地方の俳人の弔句も共に残るはずである(『いそのはな』にはそれがない)」ということは、このことをもって、安永六年説(晋我の三十三回忌の追悼集が、何らかの事情で五十回忌まで延びてしまった)の根拠とはならない。それを根拠とするならば、この『いそのはな』にも、晋我と親しかった亡き「雁宕その他の結城地方の俳人」の句も収載されてしかるべきであるが、それがないということは、この『いそのはな』の記載のとおり、「庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る」の記述以外のなにものでもないと解する。
四については、蕪村の『新花摘』は其角の『華(花)摘』に倣い、亡母追善のための夏行として企画されたものであり、それは「しきりに往時を回想している」というよりも、回想録そのものと理解すべきであろう。そして、特記しておくべきことは、この『新花摘』は、その夏行中に、「所労のため」を中絶し、その夏行中の句と、「京都定住以前の若年の回想その他の俳文を収め」、全体として句文集としての体裁をしたものであり、その俳文の手控えのようなものなどから、往時を回想する中で、上記一の『夜半楽』などの構想が芽生えていったということで、そのことと、「北寿老仙をいたむ」の製作時期とを一緒する考え方には否定的に解したい。
(追記)さらに、上記一の『夜半楽』の「安永丁酉春正月 門人宰鳥校」から、「北寿老仙をいたむ」の「釈蕪村」の署名も、「蕪村が京に再帰した宝暦元年(一七五一)からこの跋文(『夜半亭発句帖』)が書かれた同四年頃までに多く見かけられるもの」と、その署名のみに視点を置く考え方に疑問を呈する向きもあるが、この『夜半楽』は、「わかわかしき吾妻(あづま)の人の口質にならはんと」ということで、関東時代の若き日の宰鳥の号が、「宰鳥校(合)」ということで出てきたということで、これと、「北寿老仙をいたむ」の「釈蕪村」との署名とは異質のものであることは付記しておきたい。さらに、この『夜半楽』の「春風馬堤曲」には「謝蕪邨」との記載も見られ、これは、まさに、夜半亭一門の安永六年春興帖と解すべきものなのであろう。

(五十一)

 ここで、「北寿老仙をいたむ」の製作時期を安永六年とする説の根拠とされる蕪村書簡について紹介しておきたい(口語訳等は村松・前掲書による)。

○・・・春帖近日出(いで)し早々相下可申(あいくだしもうすべく)候。以上 蕪村
正月晦日日
霞夫様
水にちりて花なくなりぬ崖の梅
此句のうち見ニハおもしろからぬ様ニ候。梅と云梅ニ落花いたさぬハなく候。さけど樹下ニ落花のちり舗(しき)たる光景ハ、いまだ春色も過行(すぎゆか)ざる心地せられ、恋々(れんれん)の情有之(これあり)候。しかるに此(この)江頭の梅ハ、水ニ望ミ、花が一片ちれば其まゝ流水が奪(うばい)て、流れ去(さり)さりて一片の落花も木の下ニハ見えぬ。扨(さて)も他の梅とハ替りて、あわ(は)れ成(なる)有さま、すごすごと江頭ニ立(たて)るたゝずまゐ(ひ)、とくに御尋思(ごじんし)候へば、うまみ出(いで)候。御噛〆(かみし)メ可被成(なさるべく)候。
(口語訳)
・・・春帖(『夜半楽』をさす)近日出版し早々にお送りします。以上 蕪村
正月三十二日
霞夫様
水にちりて花なくなりぬ崖の梅
この句、ちょつと見ただけではつまらないような句です。梅という梅に落花しないものはありません。しかし、木の下に落花の散り敷いた光景は、まだ春も過ぎ去ってしまわないのだという心地がして、行く春を恋しがる情があります。それなのに、この川岸の梅は、水に臨んで立っているので、花が一片散ればそのまま流れが奪って流れ去り流れ去りして一片の落花も木の下には見えません。さても他の梅とはちがってあわれなる様子、すごすごと川岸に立っているありさま、ようくお考え下されば、うま味が出て参ります。噛みしめてみて下さい。

 この霞夫(但馬出石の門人)宛ての書簡は、追伸の形で書かれたものだが、この手紙を書いた二日後(安永六年二月二日)に、同じような内容の「水にちりて」の句とその自解の書簡を何来(大和初瀬の門人)宛てにも出している。この二通の書簡中の「すごすご」という文面に、村松友次氏は注目するのである。

(五十二)

○この二通の書簡で私(註・村松友次)が注目することばは「すごすごと」である。霞夫宛には「すごすごと江頭に立(たて)るたゝずまゐ」とあり、何来宛には「すごすごとさびしき有さま」とある。そして管見の限りでは、この時期以外に蕪村書簡に「すごすごと」の語はあらわれない。「北寿老仙をいたむ」(和詩)の末尾に、

 我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず
花もまい(ゐ)らせずすごすごと彳(たたず)める今宵(こよひ)
ことにたう(ふ)とき

とある。私はこの二通の書簡執筆時期と「北寿老仙をいたむ」の創作時期とが近接していると考えるのである。

 この村松友次氏の指摘は、尾形仂著『蕪村の世界』でさらに「北寿老仙をいたむ」の創作時期は安永六年説として、従来の延享二年説を上回る趣なのである。しかも、それだけではなく、新しく発見された安永五年六月九日付の暁臺宛書簡(新出資料)により、

 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
 何ぞはるかなる

の、「千々」のことばが、その書簡中の「夏の月千々の波ゆく浅瀬かな」の句の「千々」に関係するのではないかとして、またまた、新しい展開にも入ったような趣なのである。これらのことに関して、その安永五年六月九日付の暁臺宛書簡(新出資料)が、次のアドレスで紹介されており、その書簡(釈文)を付記しておきたい。

http://ship.nime.ac.jp/~saga/images/letter2.html

 今日菟道辺之風景     
 見え候てのもの之通 貴叟 
 先頃より御在京のよし    
 扨も社中の小児輩一向    
 御上京のさた不仕遺恨    
 之事ニ候 それ故御旅宿   
 御見舞も不申 御ふさた   
 不本意之段 御宥恕     
 可被下候 いまた御滞留ニ候や 
 うけ給りたく候 百池も    
 いつのまにやら一向面会    
 いたさす候 第一百池より   
 御上京のさた早速可致     
 筈之所 等閑之至       
 届さる事ニ御座候 愚老    
 むすめ事なとにて 俗事    
  多く 散分京ニのみ         
 くらし罷在候 ホ句なとも   
 (一向)いつくへやら取失ひ候  
 老耄御憐ミ可被下候 余辺   
 御ゆかしく候まゝ如此ニ御座候  
 いまた御在京ニ候ハゝ得    
 貴意物ニ御さ候 宿之者も   
 くれ~~御伝声申上候 頓首  
   六月九日
  夏の月千々の波
  ゆく浅瀬かな
  愁つゝ丘にのほれは
  花いはら
 よろしからぬ句なれと
 希運付候
 暮雨主盟      蕪村

(五十三)

ここで、『蕪村の手紙』(村松友次著)の『いそのはな』関連について見ていくことにする。

○『いそのはな』は、東都柳塘下七十三叟獅子眠雞口の序文、古晋我(註・北寿老仙)の発句五句、百里立句の百里・晋我(古晋我)両吟歌仙一巻のあとに、
  反古のはしにかく有にまかせて
 水無月の松風売や淡路島      専吟
  麻の頭巾ハ蚊にも笠にも     晋我
 喜雨亭へかねて蛙の内意して    琴風
  あふなきゆふへ弓張にけり    百里
と四吟らしきものの四句目までを出す。次が「北寿老仙をいたむ」である。そして詩の末尾に、
 「庫のうちより見出(みいで)つるまゝ右にしるし侍る」と記している。
ついで結城を中心にしたこの地方の現存俳人約四十名各一句。つぎに、古晋我の句を立句に脇起俳諧一巻、連中は、今晋我(註・桃彦)、雞口(谷口氏)、九皐、泰里(橋本氏)、篷雨の五名。つぎに「東都の好士の句をひろひて冊子の錺となす」として三六人、各一句、跋に相当する文と句を蘿道が書いている。
 百里の没年は享保十二年(一七二六 六二歳)。次の四吟の四句目までのもののうち、琴風の没年は享保十一年(一七二六 六十歳)。したがって、この両吟、および四吟の成った年時は享保十二年、十一年をさらにさかのぼることになる。およその見当で言えば、晋我、五十歳ぐらいの時で、江戸その他から有名な俳人を迎えての歌仙の作であり、大事に保存されたため、七十年ほど後にまで残ったのだろう。その他は「北寿老仙をいたむ」の蕪村を除けば結城地方および江戸の、現存者ばかりである。
 なぜ、晋我没後の結城や下館や宇都宮の俳人たちの弔句をのせなかったのか。五十年前の蕪村のこの俳体詩が残ったのなら、これらの人たちの弔句が残ってもよさそうなのである。
 晋我没後の延享二年正月二十八日は、陽暦に換算して二月二十八日であり、この時期、結城地方は「蒲公英は黄に薺はしろう咲きたる」の気候ではない。
 巴人没後、蕪村は結城に移住するが、それ以前に、
   つくばの山本に春を待
  行年や芥流るゝさくら川    宰鳥
の句が『夜半亭辛酉歳旦帖』にあり、元文五年の暮に「筑波の山本」に行っていることが分かる。この時期に蕪村は晋我に、当然面識をもったであろう。
 この『辛酉歳旦帖』には「結城歳旦」とした筆頭に、
   松かさり落葉もなくて尉と姥  素順
の句が出ている。晋我(素順)が結城俳壇の長老であったことが分かる。
 しかし、それからわずか三年後に蕪村が編集した『寛保四甲子歳旦歳暮吟』(宇都宮歳旦帖)中には晋我の子「もゝ彦」「田洪」の句は各一句あるが、晋我の句はない。この年(寛保四年、延享元年)の七月三日に没した潭北は句を出しているところを見ると、潭北は没前まで元気であり、晋我は寛保元年以後のある時期に発病し、二、三年病臥したのち潭北よりも半年おくれて世を去ったと見られる。すなわち、巴人没後蕪村が結城を中心に活躍する頃、七十二、三歳の晋我はすでに病床にあり、歳旦句すらも作れない状態であり、蕪村と共に「岡のべ」を逍遙する元気はなかったと思われる。
 蕪村が晋我の子の桃彦(蕪村より一歳年下)と親しかったことは桃彦宛(と見られる)書簡(註・先に紹介した)にうかがわれる。桃彦はその家業(酒造業)の関係で京阪地方に来ることもあったが、右の桃彦宛書簡によれば、伏見に桃彦の縁者かなにかがあるように思われる。
 かれこれ勘案して、私は、この詩が晋我三十三回忌にあたる安永六年前後に書かれ、桃彦に届けられたものかという推定を出したい。

(五十四)

 尾形仂著『蕪村の世界』も晋我三十三回忌にあたる安永六年前後に書かれたものとする。以下、その考え方を提示しておきたい(長くなるので、その一、その二、その三に分節する)。

(その一)
○この作品は、「君あしたに去ぬ」と歌い起こし、晋我の亡くなった夕べの思いをイメージも鮮やかに切々とつづり、かつ「釈蕪村百拝書」と署名するところから、従来多く、無条件に延享二年、蕪村三十歳当時の作とされてきた。
 この作品が、その夕べの心情に立って詠まれていることは確かである。だが、「君」という呼びかけや「友ありき」という言いかたは、七十五歳の晋我と三十歳の蕪村、結城俳壇の長老と立机(りっき)したばかり(蕪村が宇都宮で初めて自撰の歳旦帖を刊行したのは、二十九歳の春のことである)の駆け出しの俳諧師との間柄として、はたしてふさわしいかどうか。それに、「岡のべ」「蒲公の黄に薺のしろう咲たる」と、「春風馬堤曲」に見える「堤」「たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に/三々は白し」のイメージの符合、さらに「すごすごと彳(たたず)める」と、安永六年春「水にちりて花なくなりぬ岸の梅」(「澱河歌」の発想の中から生まれた句であることはすでに記した)の句を報じた霞夫宛書簡に見える「すごすごと江頭に立るたゝずまゐ」、同じく何来宛書簡に見える「すごすごとさびしき有さま」といった措辞の類似は、けっして偶然に出たものとはいえないであろう。
 何りも、「水引も穂に出(いで)けりな衣(きぬ)くばり」(宇都宮歳旦帖)、「鶏(とり)は羽にはつねをうつの宮柱」(同上)、「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」(『反古衾』、「釈蕪村」と署名)といった江戸座的な知巧的発想に身をゆだねていた関東遊歴時代の蕪村は、この「北寿老仙をいたむ」のみずみずしく清新な抒情の表現が可能であったとは思われない。この時期の作で後年の蕪村の作風につながるものとされる「柳ちり清水かれ石ところどころ」(『反古衾』)、「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」(宇都宮歳旦帖)などの句にしても、前者は蘇東坡の「水落石出」(『古文真宝後集』巻一「後赤壁賦」)の句によって風雅の名所(などころ)「清水流るる」遊行柳(ゆぎょうやなぎ)の冬の荒寥たる相貌を露呈してみせたところにミソがあり、後者は芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」を裏返して宗匠立机の春を謳歌したものにほかならなかった。
 のみならず、楽府の詩形式を自家薬籠中のものとして哀悼の抒情の展開に縦横に活用したその自在の詩形式、詩中の雉子の「友ありき河をへだてゝ住にき」のリフレーンにくくられた回想の語りに託して、人間の理解を超えた、のがれがたい運命に対する自己の驚愕と悲嘆の思いを吐露するという手法は、「妓ニ代ハリテ」「女ニ代ハリテ意ヲ述ブ」という設定のもとに、妓女や藪入り娘のセリフに託して自己の「実情」を「うめき出た」二つの作品を前提としなければ、とうてい成立し得なかったろう。

(五十五)

(その二)

○一方、「澱河歌」「春風馬堤曲」の二作が、ほぼ単線的な時間の流れに沿って構成されているのに対して(後者の場合には十三首目から十五首目にかけて娘の回想が挿まれてはいるが)、この作品が、「君あしたに去」った衝撃の中に身を置いている「ゆふべ」の時間、それにつづく「岡のべ」の逍遙の時間の中に、雉子の声の現在の時間、運命の一瞬への雉子の回想の時間を二重の入れ子型にはめ込み、草庵の夜の時間と場面で一篇を結ぶなど、より複雑な構成をとっていることも、いっそうそうした疑問をかきたてる。
 「春風馬堤曲」「澱河歌」の二作を収める『夜半楽』の刊行された安永六年は、あたかも晋我三十三回忌に当たっている。六十二歳を迎えた蕪村は、すでに老境の悲しみを知り、心理的にはかっての長晋我を「友」と遇し「君」と呼んでも、それほど不自然ではない年齢に達していた。今は故人を知る数少ない一人、しかも京都俳壇の重鎮ということで、桃彦より追善集への出句の要請を受けていたかも知れない。
 だが、蕪村は娘くのの婚家とそれにつづく空虚感の中で、それに応える暇がなかった。それが、「馬堤曲」より『新花摘』へとつづいてゆく、幼時から青年時への追想・・・なつかしい時間帯の臥遊の夢に誘いおこされて、この近代詩とも見紛う浪漫的諸篇をつむぎ出すことになったのではあるまいか。そして晋我三十三回忌の追善集刊行の企画が何かの事情で流れて、その五十回忌に「庫のうちより身出」される結果となったのではなかろうか。

(五十六)

(その三)

○「君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に」という歌い出しは、晋我の悲報に接した直後のナマナマしい衝撃の中で作られたことを示すものではないかという疑念に対しては、「あした」「ゆふべ」の対句が漢詩表現の常套であることを想起すれば済む。「釈蕪村」の署名も、蕪村が巴人の口質に倣わんことを序文にうたった『夜半楽』の巻尾に、巴人の門下に遊んだ若き日の旧号で「門人 宰鳥校」と奥書きした心意を思い合わせれば、これも懐旧の念から出たものと納得がゆくだろう。その情感の直截性のゆえに、これが三十三年後の作であることを否定する向きには、蕪村が老年に及ぶに伴ってその豊かな想像力によりいよいよみずみずしい青春の花を咲かせた詩人であったことを挙げればよい。
 もし、これを安永六年の作とすることが肯定されてよいとすれば、14・15にくり返された「君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に何ぞはるかなる」の詩句は、次のような意味を重ね合わせて、読み直すことも可能だろう。
・・・あなたは、私の青春の朝(あした)に世を去った。その時のことを思い返せば、今、人生の夕暮れにさしかかった私は千々に乱れ、何とマァ茫漠と暗い思いに誘い込まれることか・・・と(註・「はるかなる」は「杳か」で曇って暗いの意に解している)。そこにまた、やるせない青春への慕情が脈々と波打っている。
 そしてまた、傷心の中で暗闇に仰ぐ弥陀の尊象を「ことにたう(ふ)とき」と言って結んだ最終節は、たとえば「みの虫のぶらと世にふる時雨哉」(小摺物「夜半亭小集」)の句に典型的に示されているような、太祇・召波・鶴英・雁宕らの盟友が次々と世を去ってゆく無常の相を凝視する中で、しどけなく老懶(ろうらん)の境地に居直った晩年の蕪村の、隠された心の奥を覗かせたもの、と読むことができるかも知れない。・・・何事も弥陀のはからいに任せきった・・・。

(五十七)

 これらの、村松友次・尾形仂両先達の論稿の検討に入る前に、また、別の観点からのものを紹介しておきたい。その一つは、詩人・三好達治に親炙した「秋」主宰の俳人・石原八束氏の「北寿老仙考」(『蕪村全集』第六巻月報所収)である。この論稿は氏の遺稿ともいうべきもので、編集部の次の記述が付せられている。
○筆者石原氏は本稿執筆後に病臥され、校正刷りを検討していただくことができませんでした。『いそのはな』の鶏口序文に、晋我は「世を譲(ゆづり)て北寿と呼(よば)れ」とあることに、お考えがある筈ですが本稿に表れていません。執筆前のお話からは、雁宕家廃絶の際に早見家に移った蕪村稿を、桃彦が後に「庫(くら)のうちり見出(みいで)つるまゝ」晋我あてと判断した(それがそのまま序文に出た)、と推測しておられたようです。しかし、そのことを確認できないまま、原文の通り掲載しました。また論旨に影響しませんが、追善集刊行時の桃彦の年齢に関する部分は、同じく序文に「後の晋我と跡を継(つぎ)て、ことし八十一齢となり」とある箇所を見落とされたかと思われます。

(その一)

○蕪村の詩篇「北寿老仙をいたむ」について、八年ほど前の一九八九年一月号「新潮」に同題の論考をすでに発表している。天才型でない蕪村の画も俳諧も、年をとるにしたがって成熟大成していることを検証しながら、その俳句創作の発想と技能の酷似から、この詩篇は蕪村の親友砂岡雁宕の死亡(安永二年七月三十日)の訃報が京都に届いた(これを私は安永二年の晩秋頃と初め考えたが、今は安永三年初春の頃と考えている)ときから数ヶ月をかけ、雁宕追悼詩としてこれを作ったのではないか、というのが拙文の要旨であった。

(五十八)

(その二)

○詩篇と酷似している句として「愁ひつゝ岡にのぼれば花いばら」「花茨故郷の路に似たるかな」「遅き日のつもりて遠きむかし哉」「なの花や月は東に日は西に」とか「雉子啼や坂を下りの駅舎(たびやどり)」など、いずれも安永三年(蕪村五十九歳)の作と思われる句を例証に引いた論証であったことは断るまでもない。
 この詩篇が雁宕追悼の詩であるとすると、当然ながら北寿老仙は雁宕ということになる。多くの先覚が当然のこととしてきた「北寿は晋我」説に異をとなえる不遜な考え方を持ったのではもとよりない。が、詩句発想の推移と成熟を六十年も内省し続けてきた専門俳人の、これは私の勘であるとしか言いようがないのである。もう一つ付け加えると、晋我没後の嗣子桃彦によって編まれた「いそのはな」にこの「北寿老仙をいたむ」を「庫のうちより見出つるままに右にしるし侍る」と付記されている言葉にも、専門俳人の私は早くから疑念をいだいてきたのである。                         
 雁宕は蕪村にとって早野巴人門の先輩であり、結城時代の恩人であり、更に巴人の十七回忌が京都で修せられたときには雁宕は上洛して蕪村とともに修忌の役割を果したりした仲で、その交友は三十年にも及ぶ。晋我とのつきあいはたった三年である。安永二年の蕪村は夜半亭二世の文台をおいて数年、画人としても大成して、つまり人間的にも大きくなっていたから、先輩の雁宕をこそ北寿老仙という敬称で追慕するにふさわしい間柄であったと考えるのが自然ではないかしら。多少先輩てもあり友人であっても立派な仕事を残して死亡したときには、初めてその友人を先生という敬称で呼ぶ伝統は今の文人の世界でもたしかに残っている。

(五十九)

(その三)

○ただ、その後蕪村研究に深入りした訳でもない寡聞の私には、例えば古稀を越えた晋我が北寿を自称している書簡が発見されたとか、北寿で入集している句集が出てきたとかいうことは聞こえていない。晋我の妻女は雁宕の父我尚の妹であったことは右の「新潮」に発表した拙文でも言った。砂岡家の本家の伊佐岡家も早見家も更に下館の中村風篁・大済家なども一所不在の蕪村が逗留して世話になった家は大方結城十人衆の名家である。結城十人衆というのは慶長六年(一六〇一)結城家が福井に六十七万石で国替えになったときに、結城家の墓守を名目に譜代の家臣が豪族としてこの地に残されたのである。殊に伊佐岡家はその筆頭の名家であったことは名刹弘経寺の一等地にある伊佐岡一門の墓を見ればよく解る。雁宕の祖父宗春のときに伊佐岡家から一字格落ちして砂岡家となり、雁宕まで三代は三右衛門と通称した。雁宕の息子は病弱で雁宕に前後して早世・・・妻子はない。その墓は高誉雁宕堅樹居士と並んで堅誉好樹覚定居士として更に二名を加えた一族四名が同一墓石に刻され、四代で廃絶となった砂岡家の墓は本家伊佐岡家の墓所に入れられている。

(六十)

(その四)

○つまり、砂岡家は雁宕とその嗣子の早世によって廃絶しているから、蕪村の追悼詩が雁宕の遺族に送られてきても受取人が無く、親戚の早見家に渡ってオクラになったということは充分考えられるのである。ついでに言えば、雁宕没後二十年、蕪村没後十年、晋我没後四十八年の寛政五年(一七九三)に「いそのはな」を編んで「北寿老仙をいたむ」を初めて世に発表した晋我の嗣子桃彦は、このときいったい幾歳になっていたのであろうか。仮に晋我三十歳のときの子とすれば九十五歳、四十歳のときの子としても八十五歳である。当時それほどの長寿の例があったのであろうか。北寿老仙即雁宕説が浮上してもおかしくない理由はここにもあるのではないか。
 因みに右の本家の伊佐岡家の昭和の当主荘基さんは小誌「秋」の同人で、私どもと一緒に運座(句会)をしてきた仲間であった。もう二十余年も前のこと、一日、尾形仂教授を私とこの荘基さんで結城に東道し、弘経寺の伊佐岡家の墓所にある雁宕の墓とか、蕪村のこの期の襖絵などを見学してもらったことのあったのを思い出す。その荘基さんもすでに道山に帰られて久しい。またいま(平成九年十月)水戸の県立博物館で開かれている大規模の蕪村展を初めに企画され、日頃親しくして下さっていた私どもにまでその相談をもちかけて下さった館長の衛藤駿慶大名誉教授が展覧会実施の直前、八月に急逝されてしまわれたのは痛恨の思いである。そうして盛大にひらかれたこの蕪村展の会場を私は度々徘徊しながら、安永三年作の蕪村句と「北寿老仙をいたむ」詩の酷似に執着し続けているのである。

若き日の蕪村(その五)

若き日の蕪村(その五)

(六十一)

 ここでもう一つ論点を整理する意味合いも兼ねて、谷地快一氏の「『春風馬堤曲』などの和詩には何がひそんでいるのか」(「国文学」平成三年十一月号)の「北寿老仙をいたむ」関連のところを紹介しておきたい。

(その一)

○「春風馬堤曲」に先立つ詩篇「北寿老仙をいたむ」は両者に通ずる性格のために、早くは諸橋謙二・森本哲郎・安東次男氏等を経て、蕪村の若い頃の作という通説に疑念が持たれていた。確かに両者の舞台は川に隣接する岡あるいは堤という点では共通し、そこには蕪村にあまり例がない蒲公英が叙情を添える。他者をかりて心情を吐露するという点も似ているし、「北寿老仙をいたむ」の中の特徴的な形容が安永期の書簡に指摘されたりもする(村松友次説)。最近では、「北寿老仙をいたむ」の逃れ難い運命に対する自己の驚愕と悲嘆の思いは、『夜半楽』所収の「澱河歌」の原型である扇面「遊臥見百花楼送帰浪花人代妓」を前提として成立した可能性もあるという(尾形仂説)。
「北寿老仙をいたむ」は延享二年(一七四五)に七十五歳で没した早見晋我をいたむ挽歌で、蕪村は当時三十歳。謎はそれが蕪村没後十年の寛政五年(一七九三)『いそのはな』刊行まで埋没していたことに始まる。地方俳書とはいえ、その後「北寿老仙をいたむ」の読者を江戸時代の資料に見いだすのはむずかしい。はっきりするのは、引用・合成に巧みであった藤村が明治三十五年六月『海の日本』(太陽臨時増刊)なる雑誌に掲載した詩「炉辺雑興」に受容したのが最初である(佐藤康正『蕪村と近代詩』)。だが、全貌紹介は大正十三年の『俳聖蕪村全集』(水島重治校閲)まで待たねばならなかった。以後、その成立と解釈をめぐってはいくつかの説が対立する。

(六十二)

(その二)

○諸説の検討には稿を改めるべきだが、安永年間成立説は村松友次氏の「『北寿老仙をいたむ』の解釈ほか」(俳文芸七号)で再燃して、これを支持する傾向が強まっている。村松氏の結論は、晋我の三十三回忌である安永六年正月二十八日の前に、桃彦の依頼によって書かれたが、それが何かの事情で五十回忌まで「庫のうち」に眠ってしまっていたというものである。
その根拠を村松説を中心に要約すると、先掲の類似点に加えて次のようになる。
①「北寿老仙をいたむ」が晋我没後間もなくの成立ならば『いそのはな』にはなぜ先輩格にあたる雁宕らの追悼作がないのか。
②二世晋我を継ぐ桃彦と蕪村は年齢が近く、蕪村の京都移住後も交流があり、安永期に
追悼詩を依頼された可能性が考えられる。
③安永六年の夏には『新花摘』をしたため往時を回想することが多くなっている。
④「君」「友ありき」という呼び方は、四十五歳も離れた晋我にふさわしくないが、安永六年(蕪村六二歳)前後ならば不自然でない。
 しかし、安永年間成立ならば、「釈蕪村百拝書」という署名をどう理解すればいいのか。蕪村は師である巴人没後得度をして、①延享・寛延頃(註・『反古衾』は宝暦二年刊)の発句「うかれ越せ」(『反古衾』)、②宝暦三年(一七五三)『瘤柳』所収発句「苗しろや」、③宝暦二・三年と推定(註・「宝暦初年」)できる句文「木の葉経」、④宝暦四年(一七五四)に認めた『夜半亭発句帖』跋などに「釈蕪村」と名乗る。また、宝永元年の「名月摺物ノ詞書」にも文中に頭を丸めていたことを明言しているのである(註・この「釈蕪村」の署名と晋我十三回忌が宝暦七年前後にあたり、これらのことから「宝暦年間成立説」ということについては先に触れた)。さらにいえば、作品の付記「庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る」を編者桃彦のものとすることに間違いはないのか。この謎めいた付記は何を意味するのか。また、流麗な晩年の蕪村真筆なら何故自筆のまま掲載しなかったか、など疑問は絶えない。

(六十三)

(その三)

○模索の果てに、「北寿老仙をいたむ」の分かち書きを恣意に再構築していよいよ不思議なのは、作品の根幹部分において晋我の死を悼む挽歌とは思えないことである。その構造は村松友次氏の分析の通り、蕪村のモノローグ(君あしたに去ぬ。ゆふべのこゝろ千々に 何ぞはるかなる)というリフレィンを外枠とし、雉子のモノローグ(友ありき。河をへだてゝ住にき)というリフレィンを内枠とする。それは、蕪村が雉子の語りを借りて吐露する「へけのけぶりのはと打ちれバ、西吹風のはげしくて、小竹原真すげはら、のがるべきかたぞなき」が作品の中心部であり、哀しみの焦点であることを明確にする。ここに晋我の死に似つかわしい何かが描かれているだろうか。七十五歳の寿齢果たして「君あしたに去ぬ」というほどにわかな悲嘆であったのか、「へけのけぶりのはと打ち」ることで「のがるべきかた」のないほどミステリアスで不条理な死であったのだろうか。謎は深まるばかりである。
 ともあれ、詩は必ずしも論理的に整序されたものではない。むしろ、その破綻の中に真情を見極めようとする立場もある。俳諧はそうした破綻をもすくいとる器として、こうした詩型を準備していた。

(六十四)

 これまでのものに関連事項などを追加して年譜にすると次のとおりとなる。

蕪村年譜(「釈蕪村」の署名関連・「蕪村」関連主要俳人の没年など)
註 △=関連俳人没年等。○=関連俳人追善集等。□=関連動向等。☆・ゴジック=特記事項等。※=「北寿老仙をいたむ」関連等。

享保元年(一七一六)蕪村・一歳
□この年、摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)に生まれたか。本姓谷口氏は母
方の姓か。宝暦十年頃から与謝氏を名乗る。
享保十三年(一七二八)蕪村・十三歳
□この年、母を失ったか。享保十二年百里が没したため、早野巴人(宋阿)はこの頃江戸を去って大阪に赴き更に京都に上り、十年ほど居住。その間、宋屋・几圭など優れた門人を得。京都俳壇の地歩が固まりかけた頃、元文二年(一七三七)再び江戸に帰る。
享保二十年(一七三五)蕪村・二十歳
□この頃までに郷里を去って江戸に下る(元文二年説もある)。
元文二年(一七三七)蕪村・二十二歳
□四月三十日、在京十年の巴人は砂岡雁宕のすすめで江戸に帰り、六月十日頃豊島露月の世話で日本橋本石町三丁目の鐘楼下に夜半亭の居を定め、宋阿と改号。この頃「宰町」入門か(その前に「西鳥」と号したのではないかとの説がある。享保十九年の吉田魚川撰『桜鏡』など)。
元文三年(一七三八)蕪村・二十三歳
○この年刊行の『夜半亭歳旦帖』に「君が代や二三度したる年忘れ」(宰町)が入集。「宰町」号の初見。豊島露月撰『卯月庭訓』に「宰町自画」として「尼寺や十夜に届く鬢葛」が入集。蕪村の書画の初見。
元文四年(一七三九)蕪村・二十四歳
○十一月、宋阿編、其角・嵐雪三十三回忌追善集『桃桜』(下巻の板下は宰鳥という)に「摺鉢のみそみめぐりや寺の霜」(宰鳥)の句があり、「宰鳥」号の初見。また、宋阿興行の歌仙「染る間の」(宋阿・雪尾・少我・宰鳥)、百太興行の歌仙「枯てだに」(百太・宋阿・故一・訥子・宰鳥)に出座。なお,素順(晋我)興行の歌仙「空へ吹(く)」(素順・宋阿・雁宕・呑魚・安汁・田光・丈羽・東宇・朱滴・鵑児)も収載されている。この頃には晋我と親交があったか。
元文五年(一七四〇)蕪村・二十五歳
□元文年間、俳仙群会図を描く(「朝滄」の署名から宝暦年間の作との説もある)。
寛保二年(一七四二)蕪村・二十七歳
△六月六日 夜半亭宋阿没(享年六十七歳。六十六歳説もある)。
□宋阿没後、江戸を去って結城の同門の先輩砂岡雁宕を頼る。以後、野総奥羽の間を十年にわたって遊行。常磐潭北と上野・下野巡遊の後、単身奥羽行脚を決行。
寛保三年(一七四三)蕪村・二十八歳
○五月 望月宋屋編『西の奥』(宋阿追善集)。
延享元年(一七四四・寛保四年二月二十一日改元)蕪村・二十九歳
○春、初撰集『宇都宮歳旦帖』刊行。宰鳥名のほかに蕪村名が初出(渓霜蕪村)。
☆延享二年(一七四五)蕪村・三十歳
△一月二十八日 早見晋我没(享年七十五歳)。※「北寿老仙をいたむ」はこの年に成っ
たか(延享二年説)。
△七月三日   常磐潭北没(享年六十八歳)。
□宋屋、奥羽行脚の途次結城の蕪村を訪ねたが不在(宋屋編『杖の土』)。
延享三年(一七四六)蕪村・三十一歳
□宋屋、奥羽行脚の帰途、再び結城・下館の蕪村を訪ねたが不在。十一月頃、蕪村は江戸増上寺裏門辺りに住していたか(『杖の土』)。
☆宝暦元年(一七五一)蕪村・三十六歳
□蕪村関東遊歴十年この年京に再帰する。八月末京に入り、毛越を訪ねる。秋、宋屋を訪ね、三吟歌仙を巻く(『杖の土』)。
○毛越編『古今短冊集』に「東都嚢道人蕪村」の名で跋文を寄せる。桃彦宛書簡(宝暦元年と推定の霜月□二日付け書簡)。
(「真蹟」、宝暦初年推定)
しもつふさの檀林弘経寺といへるに、狸の書写したる木の葉の経あり。これを狸書経と云て、念仏門に有がたき一奇とはなしぬ。されば今宵閑泉亭にて百万遍すきやうせらるゝにもふで逢侍るに、導師なりける老僧耳つぶれ声うちふるいて、仏名もさだかならず。かの古狸の古衣のふるき事など思ひ出て、愚僧も又こゝに狸毛を噛て
肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)洛東間人嚢道人 釈蕪村
☆宝暦二年(一七五二)蕪村・三十七歳
○宋屋編『杖の土』に「我庵に火箸を角や蝸牛」の句あり、東山麓に住していたか。雁宕・阿誰編『反古衾』刊行、「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」(釈蕪村)の句など入集。『瘤柳』に「苗しろや植出せ鶴の一歩より」(釈蕪村)の句入集。
☆宝暦四年(一七五四)蕪村・三十九歳
○六月、巴人の十三回忌にあたり、雁宕ら『夜半亭発句帖』(五年二月刊行)を編し、こ
れに跋文を送る。宋屋、宋阿十三回忌集『明の蓮(はちす)』を編んだが、蕪村の名はない。既に丹後に住を移していたか。
(『夜半亭発句帖』跋文)
阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探(さぐり)て、一羽烏といふ文作らんとせしも、いたづらにして歴行する事十年の后(のち)、飄々(ひょうひょう)として西に去(さら)んとする時、雁宕が離別の辞に曰(いわ)く、再会興宴の月に芋を喰(くう)事を期せず、倶(とも)に乾坤(けんこん)を吸(すう)べきと、其(その)言をよしとして、翅書(ししょ)さへまめやかにせざりしに、ことし追悼編集の事告(つげ)来(きた)るにぞ、さすがに涙もろく、斎団扇(ときうちわ)の上に酬書(しゅうしょ)し侍る。跋とすやしらず、捨(すつ)るやしらず。 釈蕪村
宝暦七年(一七五七)蕪村・四十二歳
□宮津に在ること三年、京に再帰。「天橋立画賛」(嚢道人蕪村)。帰洛後氏を与謝と改る。
△晋我・潭北十三回忌か。※「北寿老仙をいたむ」この頃に成ったか(宝暦年間説)。
宝暦八年(一七五八)蕪村・四十三歳
△六月六日、宋阿の慈明忌(十七回忌)にあたり、宋屋主催の追善法要が営まれ、上洛した雁宕とともに蕪村も出座、『戴恩謝』刊行。
宝暦十年(一七六〇)蕪村・四十五歳
△几圭没(享年七十四歳)
宝暦十二年(一七六二)蕪村・四十七歳
□この頃結婚か。
明和三年(一七六六)蕪村・五十一歳
△宋屋没(享年七十九歳)。この頃蕪村京都に不在。
○秋、讃岐に赴く。この年、三菓社を結成する。
明和四年(一七六七)蕪村・五十二歳
○三月、宋屋一周忌に讃岐より京に帰り、再び讃岐に赴く。追善集『香世界』に追悼句入集。
明和七年(一七七〇)蕪村・五十五歳
○三月、夜半亭立机。
明和八年(一七七一)蕪村・五十六歳
△八月九日、炭太祇没(享年六十三歳)。十二月七日、黒柳召波没(享年四十五歳)。
○八月、大雅の十便図に対して十宣図を描く。
安永元年(一七七二年)蕪村・五十七歳
△十二月十五日、阿誰没(享年六十七歳)。
安永二年(一七七三)蕪村・五十八歳
△七月三十日、砂岡雁宕没(享年七十歳余)。
安永三年(一七七四)蕪村・五十九歳
○四月十四日、暁台・士朗の一行賀茂祭を見物。四月十五日、暁台ら歓迎歌仙興行。六月六日、宋阿三十三回忌。『むかしを今』(追善集)を刊行。
安永五年(一七七六)蕪村・六十一歳
○樋口道立の発起により金福寺境内に芭蕉庵の再興を企て、写経社会を結成。安永五年六月九日付け暁台宛て書簡。
☆安永六年(一七七七)蕪村・六十二歳
○新年初会の歳旦『夜半楽』巻頭歌仙興行、二月春興帖『夜半楽』刊行。「春風馬堤曲」(十八章)・「澱河歌」(三章)・「老鶯児」(一句)の三部作。四月八日『新花つみ』(寛政九年刊行)の夏行を発願。一月晦日付け霞夫宛て書簡。二月二日(推定)付け何来宛て書簡。※「北寿老仙をいたむ」この頃に成ったか(安永六年説)。晋我三十三回忌か。
安永七年(一七七八)蕪村・六十三歳
○七月、山水図(戊戌秋七月写於夜半亭 謝寅)を描く。以後「謝寅」号を使用する。
安永八年(一七七九)蕪村・六十四歳
○四月、蕪村を宗匠、几董を会頭とす連句修業の学校檀林会を結成。
☆天明三年(一七八三)蕪村・六十八歳
△十二月二十五日未明、蕪村没(享年六十八歳)。
寛政元年(一七八九)没後六年
△十月二十三日、几董没(享年四十八歳)。
☆寛政五年(一七九三)没後十年
△※結城の早見桃彦『いそのはな』刊行(蕪村「北寿老仙をいたむ」を収載)。晋我五十回忌。
寛政七年(一七九五)没後十二年
△蕪村十三回忌と几董七回忌とをかねた紫暁の追善集『雪の光』成る。
寛政十一年(一七九句)没後十六年
△蕪村十七回忌追善集『常磐の香』(紫暁編)成る。
文化十一年(一八一四)没後三十一年
△蕪村の妻とも(清了尼)没。

(六十五)

(その一)

 先の「蕪村年譜(「釈蕪村」の署名関連・「蕪村」関連主要俳人の没年など)」により、「北寿老仙をいたむ」の成立時期について、「宝暦年間成立説」について説明する。

一 「北寿老仙をいたむ」の署名の「釈蕪村百拝書」の「釈蕪村」の署名は、晋我没年の延享二年前後には見られず、この署名は、宝暦二年刊行の『反古衾』(雁宕・阿誰編)、宝暦四年刊行の『夜半亭発句帖』(雁宕・阿誰編、宋阿十三回忌追善集)および宝暦初年推定「真蹟」の「木の葉経」句文に見られるものである。宝暦八年は宋阿の十七回忌にあたり、その前年あたりが晋我・潭北の十三回忌にあたる。この「釈蕪村」の署名からすると、晋我十三回忌などに晋我の嗣子・桃彦宛てに送られたものと解したい。
二 蕪村が京都に再帰した宝暦元年(十一月□二日)付け桃彦宛ての書簡があり、蕪村と晋我の嗣子・桃彦とは親密な間柄であり当時頻繁に交遊があったことが分かる。その書簡からして、この「北寿老仙をいたむ」は蕪村が京都に再帰して、宋阿十七回忌に前後しての、晋我(さらには潭北)十三回忌に関係することも、後の三十三回忌に関連付ける「安永六年説」と同じ程度に許容できるものと解したい。さらに、それが、晋我五十回忌の折り、その追善集『いそのはな』に収載された経緯などについては、「安永六年説」(そもそもこの作品が追善集に収載されることは前提としていなかったということを含む)と同じ考え方によるということになる。
三 宝暦二年刊行の『反古衾』(雁宕・阿誰編)の収載の「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」とその署名(釈蕪村)のものは、雁宕らの依頼により京都より結城の雁宕らに届けられたものと解せられる。この「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」(『反古衾』)については、「明け行く空も星月夜、鎌倉山を越え過ぎて」(謡曲・六浦)を踏まえてのものなのであろう(『蕪村全句集』)。句意は、「謡曲で朝越えるとされる鎌倉山だが、淋しい夕方の千鳥に浮かれて越えよと呼びかける」。この鎌倉の「くら(暗)」と「夕」が縁語という(『蕪村全句集』)。この句の背景の「朝」と「夕」とは、「北寿老仙をいたむ」の、「君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に何ぞはるかなる」の「あした」と「ゆふべ」と響き合うものと理解をしたい。「釈蕪村」・「あした」・「ゆふべ」の「「北寿老仙をいたむ」の謎を解く三つのキィワードが、この宝暦二年刊行の雁宕・阿誰が編纂した『反古衾』とそれに収載されている「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」の句に隠されているという理解である。
さらに、宝暦四年の宋阿十三回忌の追善集『夜半亭発句帖』(雁宕・阿誰編)の次の蕪村の「跋文」(署名・釈蕪村)は、「北寿老仙をいたむ」の前提となるようなものと理解をしたい。
(『夜半亭発句帖』跋文)
阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探(さぐり)て、一羽烏といふ文作らんとせしも、いたづらにして歴行する事十年の后(のち)、飄々(ひょうひょう)として西に去(さら)んとする時、雁宕が離別の辞に曰(いわ)く、再会興宴の月に芋を喰(くう)事を期せず、倶(とも)に乾坤(けんこん)を吸(すう)べきと、其(その)言をよしとして、翅書(ししょ)さへまめやかにせざりしに、ことし追悼編集の事告(つげ)来(きた)るにぞ、さすがに涙もろく、斎団扇(ときうちわ)の上に酬書(しゅうしょ)し侍る。跋とすやしらず、捨(すつ)るやしらず。 釈蕪村
四 宝暦二年作の「東山麓にト居して」の前書きのある「我(わが)庵に火箸を角や蝸牛」は、「我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず」・「すごすごと彳(たたず)める」と響きあうものが感じられ、さらに、先の『夜半亭発句帖』跋文の「西に去(さら)んとする時」も、その俳詩の「君あしたに去(さり)ぬ」と響きあっている趣でなくもない。また、上記の「ト居(ぼくきょ)」(土地を選定して住む意)は、「肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)」の署名「洛東間人嚢道人 釈蕪村」の「間人」(「故郷喪失者」の意に解する)と響きあっていると理解をしたい(この「嚢道人」の「嚢」を乞食僧の頭陀袋と解する説もあるが、釈蕪村の「釈」が僧の姓を意味する仏教用語と解すると、この「嚢道人」は老荘思想の「虚」に通ずる「虚の嚢」と理解をしたい)。
(付記)上記の「故郷喪失者」ということについて、小高善弘稿「近代ブソニストの系譜」(「国文学」平成八年十二月号)の「故郷喪失者の孤独・・・萩原朔太郎」の次のことを付記しておきたい。
※大阪淀川辺の毛馬の出だという蕪村は、句や俳詩「春風馬堤曲」などに、家郷への限りない郷愁をくり返しうたっているが、実は故郷は心のなかにのみあって、帰るべき家はさだかではなかった。一方、これを論じる朔太郎の出自ははっきりしているが、筆者当人もまた、家郷に入れられず、都会で群衆の中の孤独を味わう一種の故郷喪失者だった。孤独の極限「氷島」のイメージを抱え込む詩人は、また、限りない「郷愁」を心の底に持つ人でもあったのである。そこに、蕪村に通底する心情を見出すことができる。

(六十六)

(その二)

五 安永年間成立説(安永六年説)の下記については先に触れたが、再度ここでも整理して触れておきたい。
(一) 詩の発想や内部構造が「春風馬堤曲」と酷似する。
(二) 内容・・・主として季節感・・・が、晋我没後の直後に霊前に手向けたものとは思えない。
(三) もし、没後すぐの手向草だとしたら、雁宕その他の結城地方の俳人の弔句も共に残るはずである(『いそのはな』にはそれがない)。
(四) 安永六年に蕪村は『新花摘』を書き、しきりに往時を回想している。
 これらの「安永年間成立説」の考え方には異論がある。その一については、「春風馬堤曲」は安永六年春興帖『夜半楽』に収載されたもので、それは「歌仙(一巻)・春興雑題(四十三首)・春風馬堤曲(十八首)・澱河唄(三首)・老鶯児(一首)」の、いわゆる三部作「春風馬堤曲(十八首)・澱河唄(三首)・老鶯児(一首)」のその一部をなすものである。この三部作の主題は「老いの華やぎ」・「老鶯児の句に見られる老愁」ということであり、それと故人への手向けの追悼詩の「北寿老仙をいたむ」とは、まるで異質の世界である。高橋庄次氏は「夜半楽三部曲が発句・漢詩・和詩といったさまざまな形式をモザイク状に組み上げたバラード(物語詩)であるとすれば、『北寿老仙をいたむ』はリート(独唱用小歌曲)だと言えるからだ」としているが(『蕪村伝記考説』)、その説を是としたい。さらに、付け加えるならば、「春風馬堤曲」が「エロス」の世界(生の詩)とするならば、「北寿老仙をいたむ」は「タナトス」の世界(死の詩)のものと理解をしたい。
その二については、「晋我没後の延享二年正月二十八日は、陽暦に換算して二月二十八日であり、この時期、結城地方は『蒲公英の黄に薺のしろう咲きたる』の季節ではない」と、この季節感をことさらに取り上げる必要性はないと考える。
その三についても、「没後すぐの手向草だとしたら、雁宕その他の結城地方の俳人の弔句も共に残るはずである(『いそのはな』にはそれがない)」ということは、このことをもって、安永六年説(晋我の三十三回忌の追悼集が、何らかの事情で五十回忌まで延びてしまった)の根拠とはならない。それを根拠とするならば、この『いそのはな』にも、晋我と親しかった亡き「雁宕その他の結城地方の俳人」の句も収載されてしかるべきであるが、それがないということは、この『いそのはな』の記載のとおり、「庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る」の記述以外のなにものでもないと解する。
その四については、蕪村の『新花摘』は其角の『華(花)摘』に倣い、亡母追善のための夏行として企画されたものであり、それは「しきりに往時を回想している」というよりも、回想録そのものと理解すべきであろう。そして、特記しておくべきことは、この『新花摘』は、その夏行中に、「所労のため」を中絶し、その夏行中の句と、「京都定住以前の若年の回想その他の俳文を収め」、全体として句文集としての体裁をしたものであり、その俳文の手控えのようなものなどから、往時を回想する中で、上記一の『夜半楽』などの構想が芽生えていったということで、そのことと、「北寿老仙をいたむ」の作成時期とを一緒する考え方には否定的に解したい。さらに、上記一の『夜半楽』の「安永丁酉春正月 門人宰鳥校」から、「北寿老仙をいたむ」の「釈蕪村」の署名も、「蕪村が京に再帰した宝暦元年(一七五一)からこの跋文(『夜半亭発句帖』)が書かれた同四年頃までに多く見かけられるもの」と、その署名のみに視点を置く考え方に疑問を呈する向きもあるが、この『夜半楽』は、「わかわかしき吾妻(あづま)の人の口質にならはんと」ということで、関東時代の若き日の宰鳥の号が、「宰鳥校(合)」ということで出てきたということで、これと、「北寿老仙をいたむ」の「釈蕪村」との署名とは異質のものであることは付記しておきたい(それは、「俳諧(連句)」における「捌き」と「執筆」とのような関係と理解をしたい)。さらに、この『夜半楽』の「春風馬堤曲」には「謝蕪邨」との記載も見られ、これは、まさに、夜半亭一門の安永六年春興帖そのものなのである(それはこの「春興帖」を企画した興行主の「捌き」が謝蕪邨(与謝蕪村)であり、その助手役の「執筆」が「宰鳥」(蕪村の前号)との一人二役で刊行した、安永六年のお目出度い春興帖の一趣向と解すべきなのであろう)。

(六十七)

(その三)

六「『君』という呼びかけや『友ありき』という言いかたは、七十五歳の晋我と三十歳の蕪村、結城俳壇の長老と立机(りっき)したばかり(蕪村が宇都宮で初めて自撰の歳旦帖を刊行したのは、二十九歳の春のことである)の駆け出しの俳諧師との間柄として、はたしてふさわしいかどうか」という疑念については、「俳諧師・蕪村」ではなく、釈迦の弟子としての「釈蕪村」が、敬愛する故人・早見晋我に仏前で詠唱する詩経の措辞であって、特に、この「釈蕪村」の「釈」という観点から、これらの措辞を理解をしたい。さらに、この「友」については、特定した『君』から、比喩的な雉子の死という二重構造をとり、その二重構造を通して、『君から亡き数の人への昇華』を連想させるような微妙なニュアンスすら感じさせるものと理解をしたい。なお、明和四年三月、宋屋一周忌の追善集『香世界』の次の句文の「君」についてもこの「北寿老仙をいたむ」の「君」と同一趣向のものと解したい。
(宋屋一周忌追善集『香世界』句文)
宋屋老人、予が画ける松下箕居の図を壁間にかけて、常に是を愛す。さればこそ忘年の交りもうとからざりしに、かの終焉の頃はいさゝか故侍りて余所に過行、春のなごりもうかりけるに、やがて一周に及べり。今や碑前に其罪を謝す。請(ふ)君我を看て他(の)世上(の)人となすことなかれ(註・「願うことはあなたは私を他の世間一般の人と同じように薄情な人とは見ないで欲しい」の意)。
  線香の灰やこぼれて松の花    蕪村
(付記)「北寿老仙をいたむ」の「君」と「友」との理解については、「俳諧」(連句)でいう一種の「見立て替え」(前句の「君」を「友」と見立て替えするところの「談林俳諧」や若き日の蕪村が出座した「江戸座俳諧」などに顕著に見られる「付合」の一手法)と理解をしたい。「君」と「友」を同一人物と鑑賞する仕方、「君」・「雉」・「友」と分けて鑑賞する仕方といろいろな見方ができるのは、その「見立て替え」の鑑賞如何に係わるもので、それぞれの鑑賞があっても、「俳諧」(連句)的な鑑賞としては許容されるところのものであろう。そして、現代の「自由詩」的な鑑賞の仕方での、この「君」と「友」との整序された形での鑑賞というのは不可能であろう。

(六十八)

(その三)

七 次の疑念(Q)についての考え方(A)は以下のとおりである。

(Q)―1
「岡のべ」「蒲公の黄に薺のしろう咲たる」と、「春風馬堤曲」に見える「堤」「たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に/三々は白し」のイメージの符合、さらに「すごすごと彳(たたず)める」と、安永六年春「水にちりて花なくなりぬ岸の梅」(「澱河歌」の発想の中から生まれた句であることはすでに記した)の句を報じた霞夫宛書簡に見える「すごすごと江頭に立るたゝずまゐ」、同じく何来宛書簡に見える「すごすごとさびしき有さま」といった措辞の類似は、けっして偶然に出たものとはいえないであろう。
(A)―1
まず、「安永年間成立説」に比して「延享年間成立説」・「宝暦年間成立説」はいかんせん遺されている作品・書簡等が少なくこの種の推量は限定されてしまうことは歪めない。しかし、その作品・書簡等の成立時期を考慮に入れないでアトランダムに符合するようなものを挙げていくことはそれほど難しいことではない。例えば、「岡のべ」・「蒲公の黄に薺のしろう咲たる」などの「岡」・「数詞」・「リフレーン」・「色彩」などの符合については、「岡野辺や一ツと見しに鹿二ッ」(明和五年)、「行(ゆき)々(ゆき)てここに行(ゆき)々(ゆく)夏野哉」(明和五年)、「若葉して水白く麦黄(きば)ミたり」(年次未詳)など。さらに「すごすごと彳(たたず)める」については、「梨の園に人彳(たたず)めるおぼろ月」(明和六年)など。しかし、それよりも、宝暦二年作の「東山麓にト居して」の前書きのある「我(わが)庵に火箸を角や蝸牛」は、「我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず」と何か響きあうものが感じられ、単に、「釈蕪村」の署名だけではなく、こういう措辞・表現などを通しても、「宝暦年間成立説」というのは動かし難いものという印象を強めるのである。

(六十九)

(Q)―2
何よりも、「水引も穂に出(いで)けりな衣(きぬ)くばり」(宇都宮歳旦帖)、「鶏(とり)は羽にはつねをうつの宮柱」(同上)、「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」(『反古衾』、「釈蕪村」と署名)といった江戸座的な知巧的発想に身をゆだねていた関東遊歴時代の蕪村は、この「北寿老仙をいたむ」のみずみずしく清新な抒情の表現が可能であったとは思われない。この時期の作で後年の蕪村の作風につながるものとされる「柳ちり清水かれ石ところどころ」(『反古衾』)、「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」(宇都宮歳旦帖)などの句にしても、前者は蘇東坡の「水落石出」(『古文真宝後集』巻一「後赤壁賦」)の句によって風雅の名所(などころ)「清水流るる」遊行柳(ゆぎょうやなぎ)の冬の荒寥たる相貌を露呈してみせたところにミソがあり、後者は芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」を裏返して宗匠立机の春を謳歌したものにほかならなかった。
(A)―2
 そもそも、俳人・蕪村こと俳人・宰鳥の出発点は、「摺鉢のみそみめぐりや寺の霜」(元文四年・其角三十三回忌)や「我(わが)泪古くはあれど泉かな」(寛保二年・宋阿追悼句)などの追悼句をもってであるといってもよいであろう。さらに、上記の引用の「釈蕪村」の署名のある「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」(『反古衾』)については、「明け行く空も星月夜、鎌倉山を越え過ぎて」(謡曲・六浦)を踏まえてのものなのであろう(『蕪村全句集』)。
句意は、「謡曲で朝越えるとされる鎌倉山だが、淋しい夕方の千鳥に浮かれて越えよと呼びかける」。この鎌倉の「くら(暗)」と「夕」が縁語という(『蕪村全句集』)。蕪村にとって、鎌倉山を朝越えて行くのは、東国の江戸へ向かっての旅路であろうが、夕べに鎌倉山を越えていくのは、東国十年余の遊歴の後夢破れての西国の京都への再帰への旅路であろう(実際のその再帰の旅路は東海道ではなく中山道だったと思われるが、この句は宝暦元年の頃の作で、宝暦二年刊行の『反古衾』に収載されている)。それよりも、この句の背景の「朝」と「夕」とは、「北寿老仙をいたむ」の、「君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に何ぞはるかなる」の「あした」と「ゆふべ」そのものに照応しているのではなかろうか。「釈蕪村」・「あした」・「ゆふべ」の「「北寿老仙をいたむ」の謎を解く三つのキィワードが、この宝暦二年刊行の雁宕・阿誰が編纂した『反古衾』の若き日の蕪村の「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」の句に隠されている・・・、そのようにこの句を鑑賞したいのである。ここでも、さらに、「宝暦年間成立説」というのは動かし難いものという印象を深くするのである。

(七十)

(Q)―3
のみならず、楽府の詩形式を自家薬籠中のものとして哀悼の抒情の展開に縦横に活用したその自在の詩形式、詩中の雉子の「友ありき河をへだてゝ住にき」のリフレーンにくくられた回想の語りに託して、人間の理解を超えた、のがれがたい運命に対する自己の驚愕と悲嘆の思いを吐露するという手法は、「妓ニ代ハリテ」「女ニ代ハリテ意ヲ述ブ」という設定のもとに、妓女や藪入り娘のセリフに託して自己の「実情」を「うめき出た」二つの作品(註・「春風馬堤曲」・「澱河歌」)を前提としなければ、とうてい成立し得なかったろう。
(A)―3
 ここで、那珂太郎稿「蕪村の俳詩の近代性・・・『春風馬堤曲』をめぐつて・・・」(「国文学」平成十八年十二月号)の次の一節を引用しておきたい。
○「春風馬堤曲」は作者蕪村の懐郷の思ひを主題とした作と、一般に見られてきた。表面上そのことに紛れもないけれど、同時に艶詩的性格であることは、これまでに多かれ少なかれ大方の評家に認められてゐた。しかしこの題名が「艶詩」を指示するならば(註・「尾形仂によれば、『春風馬堤曲』の題名からして楽府中の『大堤曲』の曲名にならったもので、当の『大堤曲』がいづれも艶詩であるところから、『春風馬堤曲』という名目自体が、この作が楽府の歌曲のスタイルに擬した艶詩である」ということ指している)、むしろこの方に真の主題がある、とまでは言はなくとも、少なくとも懐郷と劣らぬ位に、作者のエロスへの思ひがこめられてゐるのは当然であろう。
※この那珂太郎氏の指摘のとおり、「春風馬堤曲」(そして「澱河歌」)は、いわゆる艶詩の世界のものであって、それと追悼詩の「北寿老仙をいたむ」を同一俎上にすることは、どうにも不自然のように思えてくるのである。さらに、「詩中の雉子の『友ありき河をへだてゝ住にき』のリフレーンにくくられた回想の語りに託して、人間の理解を超えた、のがれがたい運命に対する自己の驚愕と悲嘆の思いを吐露するという手法は、『妓ニ代ハリテ』『女ニ代ハリテ意ヲ述ブ』という設定のもとに、妓女や藪入り娘のセリフに託して自己の『実情』を『うめき出た』二つの作品(註・『春風馬堤曲』・『澱河歌』)を前提としなければ、とうてい成立し得なかったろう」ということについては、先に触れた、この俳詩「北寿老仙をいたむ」は、いわゆる、「俳諧」(連句)的手法によって構成されており、そういう視点から、この俳詩を鑑賞すると、決して、「二つの作品(註・『春風馬堤曲』・『澱河歌』」)を前提としなければ、とうてい成立し得なかったろう」ということには疑念を抱かざるを得ないのである。

若き日の蕪村(その六)

(七十一)

(Q)―4
一方、「澱河歌」「春風馬堤曲」の二作が、ほぼ単線的な時間の流れに沿って構成されているのに対して(後者の場合には十三首目から十五首目にかけて娘の回想が挿まれてはいるが)、この作品が、「君あしたに去」った衝撃の中に身を置いている「ゆふべ」の時間、それにつづく「岡のべ」の逍遙の時間の中に、雉子の声の現在の時間、運命の一瞬への雉子の回想の時間を二重の入れ子型にはめ込み、草庵の夜の時間と場面で一篇を結ぶなど、より複雑な構成をとっていることも、いっそうそうした疑問をかきたてる。
(A)―4
この「北寿老仙をいたむ」を、いわゆる、「俳諧」(連句)的手法によって構成されていると解すると、その「俳諧」の「百韻」形式の「初折・表」の八句(首・章・連)のように解せられるのである(大正十四年に刊行された潁原退蔵著『蕪村全集』では、「雑題」の部に「晋我追悼曲 延享二年」として、行間をあけて次の八句(首・章・連)で表記されており、その表記が鑑賞をする上では理解しやすいと解する)。

北寿老仙をいたむ

一 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
何ぞはるかなる・・・・(自他半)

二 君をおもふ(う)て岡のべに行(いき)つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき・・・(自)

三 蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲(さき)たる
見る人ぞなき・・・(場)

四 雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞(きけ)ば
  友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき・・・(場)

五 へげのけぶりのはと打(うち)ちれば西吹(ふく)風の
はげしくて小竹原(をざさはら)真(ま)すげはら
のがるべきかたぞなき・・・(場)

六 友ありき河をへだてゝ住(すみ)にきけふは
ほろゝともなかぬ・・・(他)

七 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる(自他半)

八 我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず
花もまい(ゐ)らせずすごすごと彳(たたず)める今宵(こよひ)
ことにたう(ふ)とき・・・(自) 

 そして、この「俳諧」の「百韻」形式の「初折・表」の八句(首・章)の鑑賞に当たっては、まず、一句を鑑賞し、続いて、一・二句、さらに、二・三句(一句の転じ)鑑賞と、いわゆる、「三句の見渡し、前句・付句の付合の鑑賞」という進め方になろう。この観点から鑑賞していくと、何らの違和感もなく、いわゆる、寺田寅彦氏の「連句モンタージュ説」のように(動画を鑑賞するように)、「三コマを視野に入れて、一コマ又は二コマずつ」を鑑賞するのが基本なのであろう。そして、立花北枝の『附方自他伝』の「人情自・人情他・人情自他・人情なし(場)」(一句の視点の人物が自分か・他人か・自分と他人が半々か、それとも景色の句なのか)という視点からの鑑賞も必要となってこよう(参考までにその視点について上記のとおり括弧書きをした)。その上で、連句全体を見渡して、連続・非連続を見極めながら、全体を味わうということになろう。その結果が、丁度、「この作品が、『君あしたに去』った衝撃の中に身を置いている『ゆふべ』の時間、それにつづく『岡のべ』の逍遙の時間の中に、雉子の声の現在の時間、運命の一瞬への雉子の回想の時間を二重の入れ子型にはめ込み、草庵の夜の時間と場面で一篇を結ぶなど、より複雑な構成をとっている」という感慨を抱くということであって、この一連の作品を、あたかも、現代の「自由詩」の鑑賞のように、その十八行を、一つの連続したものとして鑑賞すると、これはどうにも手が追えないということになってしまうであろう(この十八行から、いわゆる俳諧形式の十八句から成る「半歌仙」形式も考えられるが、ここは、『百韻』形式の『初折・表』」の八句(首・章・連)」と解したい)。
(付記)『西脇順三郎詩集』所収の「旅人かへらず」について、那珂太郎氏の解説に「章から章への移りゆき、章と章との取り合わせの妙は、俳諧連句の附合にも通ふ趣」があるという指摘をしている。その一から一六八の短章のうち、その二章から五章を抜粋して見ると以下のとおりとなる。そして、那珂氏の指摘するように、これらの「章から章への移りゆき、章と章との取り合わせ」という視点での鑑賞が「北寿老仙をいたむ」の鑑賞にも必須のように思われるのである。

旅人かへらず(西脇順三郎)

二   窓に
    うす明りのつく
    人の世の淋しき

三   自然の世の淋しき
    睡眠の淋しき

四   かたい庭

五   やぶがらし

(七十二)

(Q)―5
 「春風馬堤曲」「澱河歌」の二作を収める『夜半楽』の刊行された安永六年は、あたかも晋我三十三回忌に当たっている。六十二歳を迎えた蕪村は、すでに老境の悲しみを知り、心理的にはかっての長晋我を「友」と遇し「君」と呼んでも、それほど不自然ではない年齢に達していた。今は故人を知る数少ない一人、しかも京都俳壇の重鎮ということで、桃彦より追善集への出句の要請を受けていたかも知れない。だが、蕪村は娘くのの婚家とそれにつづく空虚感の中で、それに応える暇がなかった。それが、「馬堤曲」より『新花摘』へとつづいてゆく、幼時から青年時への追想・・・なつかしい時間帯の臥遊の夢に誘いおこされて、この近代詩とも見紛う浪漫的諸篇をつむぎ出すことになったのではあるまいか。そして晋我三十三回忌の追善集刊行の企画が何かの事情で流れて、その五十回忌に「庫のうちより身出」される結果となったのではなかろうか。
(A)―5
先の年譜により、時系列的に「延享年間成立説」・「宝暦年間成立説」・「安永年間成立説」を見ていけば次のとおりとなる。

☆延享二年(一七四五)蕪村・三十歳
△一月二十八日 早見晋我没(享年七十五歳)。※「北寿老仙をいたむ」はこの年に成ったか(延享二年説)。△七月三日  常磐潭北没(享年六十八歳)。□宋屋、奥羽行脚の途次結城の蕪村を訪ねたが不在(宋屋編『杖の土』)。
[寛保二年(一七四二)蕪村・二十七歳 六月六日 夜半亭宋阿没(享年六十七歳。六十六歳説もある)。□ 宋阿没後、江戸を去って結城の同門の先輩砂岡雁宕を頼る。以後、野総奥羽の間を十年にわたって遊行。常磐潭北と上野・下野巡遊の後、単身奥羽行脚を決行。]
☆宝暦七年(一七五四)蕪村・四十二歳
□宮津に在ること三年、京に再帰。「天橋立画賛」(嚢道人蕪村)。帰洛後氏を与謝と改る。△晋我・潭北十三回忌か。※「北寿老仙をいたむ」この頃に成ったか(宝暦年間説)。
宝暦八年(一七五八)△六月六日、宋阿の慈明忌(十七回忌)にあたり、宋屋主催の追善法要が営まれ、上洛した雁宕とともに蕪村も出座、『戴恩謝』刊行。
[☆宝暦二年(一七五二)蕪村・三十七歳 ○宋屋編『杖の土』に「我庵に火箸を角や蝸牛」の句あり、東山麓に住していたか。雁宕・阿誰編『反古衾』刊行、「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」(釈蕪村)の句など入集。『瘤柳』に「苗しろや植出せ鶴の一歩より」(釈蕪村)の句入集。☆宝暦四年(一七五四)蕪村・三十九歳六月、巴人の十三回忌にあたり、雁宕ら『夜半亭発句帖』(五年二月刊行)を編し、これに跋文を送る。宋屋、宋阿十三回忌集『明の蓮(はちす)』を編んだが、蕪村の名はない。既に丹後に住を移していたか。]
☆安永六年(一七七七)蕪村・六十二歳
○新年初会の歳旦『夜半楽』巻頭歌仙興行、二月春興帖『夜半楽』刊行。「春風馬堤曲」(十八章)・「澱河歌」(三章)・「老鶯児」(一句)の三部作。四月八日『新花つみ』(寛政九年刊行)の夏行を発願。一月晦日付け霞夫宛て書簡。二月二日(推定)付け何来宛て書簡。※「北寿老仙をいたむ」この頃に成ったか(安永六年説)。晋我三十三回忌か。
[安永元年(一七七二年)蕪村・五十七歳 △十二月十五日、阿誰没(享年六十七歳)。安永二年(一七七三)蕪村・五十八歳 七月三十日、砂岡雁宕没(享年七十歳余)。安永三年(一七七四)蕪村・五十九歳 ○四月十四日、暁台・士朗の一行賀茂祭を見物。四月十五日、暁台ら歓迎歌仙興行。六月六日、宋阿三十三回忌。『むかしを今』(追善集)を刊行。安永五年(一七七六)蕪村・六十一歳 ○樋口道立の発起により金福寺境内に芭蕉庵の再興を企て、写経社会を結成。安永五年六月九日付け暁台宛て書簡。]

 安東次男稿「『北寿老仙をいたむ』のわかりにくさ」(日本詩人選『与謝蕪村』)の中で、「要するに、拠るべき資料が何一つ他に発見されていない現在、この詩は延享二年から安永六年ごろまでの間に書かれたという以外には、確たる証明のしようがないのである」という指摘をしている。そういうことを前提として、上記の三説を見ていくと、その一の「延享二年説」(延享年間説)が、いわゆる通説で、その三の「安永六年説」(安永年間説)が近時「延享二年説」を上回る傾向を示している有力説ということになる。そして、その二の「宝暦七年説」(宝暦年間説)は未だ図書・雑誌の類では目にすることができないほどの少数説ということになる。しかし、この「北寿老仙をいたむ」の「釈蕪村」という署名とその「釈蕪村」と署名された他の蕪村の「句文集」をつぶさに見ていくと、これまでに見てきたとおりに、「延享二年説」の疑問(「この異色の俳詩を誕生させるような環境にあったのかどうか」という疑問)も「安永六年説」の疑問(「この異色の俳詩を他の類似の俳詩のもとに同列して鑑賞する」ことへの疑問)をも半ば折衷するような形での第三の「宝暦七年説」というのも、今後、さらに検討されて、少なくとも、「安永六年説」と同じ程度の根拠を有するもと解したいのである。

(七十三)

(Q)―6
「君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に」という歌い出しは、晋我の悲報に接した直後のナマナマしい衝撃の中で作られたことを示すものではないかという疑念に対しては、「あした」「ゆふべ」の対句が漢詩表現の常套であることを想起すれば済む。「釈蕪村」の署名も、蕪村が巴人の口質に倣わんことを序文にうたった『夜半楽』の巻尾に、巴人の門下に遊んだ若き日の旧号で「門人 宰鳥校」と奥書きした心意を思い合わせれば、これも懐旧の念から出たものと納得がゆくだろう。その情感の直截性のゆえに、これが三十三年後の作であることを否定する向きには、蕪村が老年に及ぶに伴ってその豊かな想像力によりいよいよみずみずしい青春の花を咲かせた詩人であったことを挙げればよい。
(A)―6
上記の「『あした』『ゆふべ』の対句が漢詩表現の常套であることを想起すれば済む」ということについては、この俳詩の発句ともいうべき冒頭の「あした」・「ゆふべ」・「はるかなる」(この「はるか」は「遙か」と「杳か」の両意義に解したい)であり、ここには、萩原朔太郎をして、「常に変化する空間、経過する時間の中で、ただ一つの凧(追憶へのイメージ)だけが、不断に悲しく寂しげに、穹窿の上に実在してゐるのである」(『郷愁の詩人 与謝蕪村』所収「凧きのふの空の有りどころ」の鑑賞視点)といわしめた「蕪村俳句のモチーブを表出した哲学的標句」(萩原・前掲書)と理解すべきであり、単なる「漢詩表現の常套」的なものではなかろう。
次に「『釈蕪村』の署名も、蕪村が巴人の口質に倣わんことを序文にうたった『夜半楽』の巻尾に、巴人の門下に遊んだ若き日の旧号で『門人 宰鳥校』と奥書きした心意を思い合わせれば、これも懐旧の念から出たものと納得がゆくだろう」ということについては、明和七年に夜半亭二世を継承して、画俳二道を極めた、安永年間の蕪村が、よりによって、還俗前の苦難の絶頂の頃の修行僧時代の「釈蕪村」の「姓・号」を「釈蕪村百拝書」と認めることは到底考えも及ばないところであろう(管見では安永年間に「釈蕪村」という署名は見あたらない。なお、『安永六年春興帖』では、「宰鳥」以前の「宰町」を号したものもあり、いわゆる「春興帖」の一趣向の「門人 宰鳥校」と同一視することは危険であろう)。
続く「その情感の直截性のゆえに、これが三十三年後の作であることを否定する向きには、蕪村が老年に及ぶに伴ってその豊かな想像力によりいよいよみずみずしい青春の花を咲かせた詩人であったことを挙げればよい」ということについては、いかに、晩成の蕪村であっても、「青・壮年」時代の「想像力」と六十歳を越えた「老年」時代の「想像力」では、関心の置き所を自ずから異なにするものであり、もし、「その情感の直截性」ということが察知できるとすれば、それは、より「青・壮年」時代のものと理解すべきものなのであろう。

(七十四)

(Q)―7
砂岡家は雁宕とその嗣子の早世によって廃絶しているから、蕪村の追悼詩が雁宕の遺族に送られてきても受取人が無く、親戚の早見家に渡ってオクラになったということは充分考えられるのである。ついでに言えば、雁宕没後二十年、蕪村没後十年、晋我没後四十八年の寛政五年(一七九三)に「いそのはな」を編んで「北寿老仙をいたむ」を初めて世に発表した晋我の嗣子桃彦は、このときいったい幾歳になっていたのであろうか。仮に晋我三十歳のときの子とすれば九十五歳、四十歳のときの子としても八十五歳である。当時それほどの長寿の例があったのであろうか。北寿老仙即雁宕説が浮上してもおかしくない理由はここにもあるのではないか。
(A)―7
このことについては、『いそのはな』の東都柳塘下七十三叟獅子眠雞口の序文「世を譲(ゆづり)て北寿と呼(よば)れ、行年七十五の春を夢となしぬ」からして、(早見)晋我即北寿(老仙)ということになろう。さらに、「巴人の十七回忌が京都で修せられたときには雁宕は上洛して蕪村とともに修忌の役割を果したりした仲で、その交友は三十年にも及ぶ。晋我とのつきあいはたった三年である。安永二年の蕪村は夜半亭二世の文台をおいて数年、画人としても大成して、つまり人間的にも大きくなっていたから、先輩の雁宕をこそ北寿老仙という敬称で追慕するにふさわしい間柄であったと考えるのが自然」ということについては、雁宕と蕪村との関係はそのとおりとして、晋我と蕪村との関係も、宋阿在世中からのもので、宋阿が江戸に再帰した元文二年(蕪村二十二歳)頃から親交があったと思われ、それからするとやはり七・八年の年数とその晋我の嗣子桃彦始めその弟の田洪などとは昵懇の間柄であり、雁宕とは違った家族ぐるみの交遊関係があったことは、蕪村と桃彦との書簡で明らかなところであろう(宝暦元年十一月□二日付けの桃彦宛ての書簡については先に触れた)。さらに、元文四年の宋阿が撰集した其角・嵐雪三十三回忌追善集『桃桜』(その下巻の版下は蕪村の前号の宰鳥といわれている)に、素順(晋我の別号)の興行した歌仙「空へ吹(く)の巻」も収載されており、蕪村が「北寿老仙をいたむ」の追悼詩を手向けることは、これは自然なものと理解ができよう。蕪村の晩年の安永六年の回想録『新花摘』にも晋我は登場し、とにもかくにも、晋我は、蕪村にとって生涯にわたって忘れ得ざる一人であったということはここでも記しておきたい。
しかし、この「北寿老仙をいたむ」が何時の時点で作成されたのかということを考慮するときに、単に、北寿老仙こと晋我に関することだけではなく、其角門で晋我と兄弟弟子の一人でもあった蕪村の師の宋阿やその宋阿門で晋我の縁者でもあり蕪村にとっては切っても切れない関係にあった結城の俳人・雁宕との関係などを探るということは必須のことであろう。そして、先に触れたところの「宝暦年間成立説」においては、雁宕等編の『反古衾』、巴人の十三回忌にあたり編纂した雁宕ら編の『夜半亭発句帖』、そして、雁宕の菩提寺の弘経寺にその句碑がある「木の葉経(このはぎょう)」句文など、すべからく、その署名の「釈蕪村」とともにその根拠になっていることは、ここで重ねて記しておきたい。

(七十五)

(Q)―8
安永年間成立ならば、「釈蕪村百拝書」という署名をどう理解すればいいのか。蕪村は師である巴人没後得度をして、①延享・寛延頃(註・『反古衾』は宝暦二年刊)の発句「うかれ越せ」(『反古衾』)、②宝暦三年(一七五三)『瘤柳』所収発句「苗しろや」、③宝暦二・三年と推定(註・「宝暦初年」)できる句文「木の葉経」、④宝暦四年(一七五四)に認めた『夜半亭発句帖』跋などに「釈蕪村」と名乗る。また、宝永元年の「名月摺物ノ詞書」にも文中に頭を丸めていたことを明言しているのである。さらにいえば、作品の付記「庫のうちより見出つねまゝに右しるし侍る」を編者桃彦のものとすることに間違いはないのか。この謎めいた付記は何を意味するのか。また、流麗な晩年の蕪村真筆なら何故自筆のまま掲載しなかったか、など疑問は絶えない。
(A)―8
これらのことについては、いろいろな形で先に触れてきたところである。ただ一つ、「作品の付記『庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る』を編者桃彦のものとすることに間違いはないのか。この謎めいた付記は何を意味するのか。また、流麗な晩年の蕪村真筆なら何故自筆のまま掲載しなかったか」ということについては、やはり一応の考え方を記しておきたい。
 桃彦(今晋我)が編纂した『いそのはな』の前書きは、編纂者が付したものと作者が付したものと二通りが読み取れる。そして、問題の「庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る」は前書きではなく、末尾に付せられている「奥書」の体裁で、この「奥書」を編纂者・桃彦がしたのか作者・蕪村がしたのかは定かではない。何の疑いもなく編纂者・桃彦が「庫(くら)のうちより見出(みいで)つるまゝに右しるし侍(はべ)る」と理解をしていたが、これを蕪村が記したものと解すると、蕪村には、この種の「手控え」」(文書)などがあって、それが出てきたので、「庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る」ということになる。このように解すると、「安永年間作成説」又は「宝暦年間作成説」のどちらかということになろう。そして、この「北寿老仙をいたむ」が、他の俳詩の「春風馬堤曲」・「澱河歌」と類似志向が見られるということについては、それらは、これらの「手控え」」(文書)を参考として、成立したものとも考えられ、時系列的に、『いそのはな』へ寄稿した「北寿老仙をいたむ」の原文は、「宝暦年間作成説」の「宝暦年間」に作成されたものという理解も成り立つであろう。丁度、芭蕉の不朽の名作『おくの細道』が、芭蕉が常々携行していたいわゆる「小文」の集大成で形を為してきたと同じような経過をたどり、いわゆる、蕪村の異色の傑作俳詩「春風馬堤曲」・「澱河歌」は成立していくという理解である。ともあれ、ここでは、この「庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る」は編纂者・桃彦が付したものと理解をしておきたい。 投稿者 yahantei 時刻: 6:15 午前 0 件のコメント: この投稿へのリンク

ラベル: 若き日の蕪村, 蕪村

金曜日, 6月 09, 2006

若き日の蕪村像(『新花摘』・月渓筆)

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次のアドレスに、下記のような呉春(松村月渓)の年譜が記述されている。この年譜の[1784年、蕪村旧稿「新花摘」の挿絵を描き上梓]のとおり、天明四年(一七八四)に、蕪村没後に、蕪村が生前に書き留めていたものを『新花摘』(月渓の跋文では「続花つみ」)として、挿絵七図を配して上梓した(正確には、蕪村の元の冊子を呉春が横巻として挿絵七図を配し、寛政九年に版本として上梓された)。

http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/jart/nenpu/2gs001.html

呉春
[読み] ごしゅん
[始年] 1752-
[終年] 1811年
1774年頃、蕪村に師事するか(蕪村連句集「昔を今」)。
1777年、「羅漢図」(逸翁美)を描く(款記)。
1778年、遊廓島原の名妓雛路を身請けし妻とする。
「騎馬狩猟図」(逸翁美)。
1781年、妻事故死、父江戸で客死、池田に移住。
1782年、姓を呉、名を春、字を伯望とし剃髪。
1783年、師蕪村没す。
1784年、蕪村旧稿「新花摘」の挿絵を描き上梓。
1786年、「芭蕉幻住庵記画賛」を描く。
1787年、応挙に従い大乗寺に描く。
妙法院真仁法親王に召され席画する。
1795年、応挙没す。
1796年、岸駒と「山水図」を合作。
1810年、後妻ウメ女没す。
1811年、没す。
1817年、「流芳遺事」

 この蕪村の『新花摘』の呉春の挿絵は、次のアドレスで紹介されている。

一図(早乙女図) 10丁裏 / Leaf 10 Back・11丁表 / Leaf 11 Front・11丁裏 / Leaf 11 Back
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf10b.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf11f.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf11b.html
二図(蕪村・潭北図) 16丁裏 / Leaf 16 Back・17丁表 / Leaf 17 Front
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf16b.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf17f.html
三図(白石旅舎図) 21丁裏 / Leaf 21 Back・22丁表 / Leaf 22 Front
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf21b.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf22f.html
四図(結城丈羽別荘図) 26丁表 / Leaf 26 Front
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf26f.html
五図(下館中村風篁邸・阿満図) 34丁表 / Leaf 34 Front 
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf34f.html
六図(下館中村風篁邸・三老媼図) 37丁表 / Leaf 37 Front・37丁裏 / Leaf 37 Back
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf37f.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf37b.html
七図(渭北・俳席図) 41丁裏 / Leaf 41 Back・42丁表 / Leaf 42 Front
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf41b.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf42f.html

これらの七図のうち、二図(蕪村・潭北図)は興味深い。この二図について、若き僧の図を蕪村として、老僧の図を潭北とするという理解は、『新花摘』の文面からの理解であり、これらの図に、「蕪村・潭北」との名前を付した文献というものは寡聞にして知らない。しかし、この二図の若き僧こそ、当時、釈氏を称し、法体をしていた、後の、与謝蕪村その人と理解をしたい。

そして、それは、文面からして、「潭北と上野(現群馬県)に同行」していた頃の図ということになろう。この潭北は、「常磐氏。名は貞尚。下野(現栃木県)那須烏山の人。其角・沾徳門。医を業として庶民教育(社会教育)の第一人者であった。延享元年没」で、蕪村の師の夜半亭一世宋阿(早野巴人)と、同郷(那須烏山出身)・同年(巴人は延宝四年、潭北は延宝五年とされているが、同年とする説もある)・同門(其角門)の親しい間柄である。巴人亡き後、結城の砂岡雁宕と共に、蕪村の庇護者となった、蕪村にとっては、忘れ得ざる人ということになる。

この潭北が法体となっているが、これは、呉春は潭北とは面識はなく、呉春の、蕪村の文面を読んでの想像図ということになろう。しかし、『新花摘』の、「潭北はらあしく(注・気短かに)余(注・蕪村)を罵(ののしり)て」、「むくつけ(注・無風流な)法師よ」と怒鳴りつけるなど、眉毛を八の字にして、いかにも、俳諧師で且つ当時の教化指導者の第一人者のうるさ型の潭北像という雰囲気でなくもない。
この常磐潭北の墓は、那須烏山市の善念寺にあり、次のアドレスで、その善念寺と潭北についての紹介記事がある。

http://www11.ocn.ne.jp/~zennenji/1rekisi.html

1 善念寺

善念寺は文禄二年(1593年)の創建以来、那須郡烏山の地にその法灯を護持してきた古刹である。開基の良信住関上人は佐竹氏の出で、玉造伊勢の守の三男として生まれ、後に名超派大沢円通寺良定袋中上人に指南を受けた。本尊は阿弥陀如来像で、他に二十五菩薩や善導大師像、法然上人像を祀っている。
 境内には、子育て地蔵堂、常盤潭北(渡辺潭北)の墓や「放下僧」ゆかりの牧野家墓(牧野山三学院歴代墓地)などがある。

2 常盤潭北

潭北は、延宝5年(1677年)烏山町の渡辺家に生まれ、名は貞尚、字は堯氏、号を潭北または百華と称した。生家は代々名字帯刀を許された郷宿と称する公用旅宿であった。
 潭北と同年に生まれた与謝蕪村の師で竹馬の友の俳人の早野巴人は、早くから伯父の江戸日本橋の唐木屋重兵衛を頼って食客となり、生来好きな俳諧に打ち込み、蕉門随一の榎本其角、服部嵐雪の教えを受けていた。巴人の影響で江戸遊学への志をかきたてられた潭北は、早くから江戸に出て医学を学び、その傍ら巴人と交わりを深め、巴人の手引きで当時江戸俳壇の有名な宗匠のところに出入りするようになり、また其角の弟子となり俳諧を修め、「汐こし」「後の月日」「反古さらし」「としのみどり」などを残した。
 潭北は江戸宗匠群の一人に数えられ、沾州、貞佐など、当時有名だった点者と同列に扱われ、一流の宗匠に格付けられていた。
潭北は、俳諧のかたわら早くから庶民教育の必要を解し常・総・野の諸州を巡廻して、多くの人々に道を説き、村老を集めて郷村団結の必要を教えた。それらの講話の積んで篇をなしたものに「民家分量記」「野総茗話」(民家童蒙解)がある。
潭北が俳人宗匠として諸国を遊歴して庶民と交わり行く先々で行った講説は、農民生活の事実に求め、身近な農村社会の現実に即した処世訓を展開した。潭北は教化活動に専念し日本庶民教育史上に多大なる功績を残した人物である。(善念寺渡辺家墓地)

また、 享保十七年(一七三二)に刊行された『綾錦』(菊岡沾涼編)には次のとおりの記述がある。

[現  常盤百花荘
 潭北・・・・・・
   本土野州那須
  編     汐こし 後の月日 反古さらへ としのみどり
  はい書ノ外 民家分量記 分量夜話 ]

 ここで、潭北の主たる編著を年代別に記すと次のとおりである。

享保元年(一七一六)  四十歳  『汐越』(「汐こし」)刊行。
享保六年(一七二一)  四十五歳 『民家分量記』(内題「百姓分量記」)の稿成る。
享保七年(一七二二)  四十六歳 『今の月日』(『後の月日』)刊行。
享保九年(一七二四)  四十八歳 『婦登故呂故』(『俳諧婦登古呂子』)の稿成る。
享保十年(一七二五)  四十九歳 『百華斎随筆』刊行。
享保十一年(一七二六) 五十歳  『民家分量記』(「百姓分量記」)刊行。
享保十八年(一七三三) 五十七歳 『野総茗話』(「分量夜話」)刊行。
元文二年(一七三七)  六十一歳 『民家童蒙解』刊行。

また、蕪村の『新花摘』の潭北に関する文面は次のとおりである。

・・・・
いささか故ありて(注・寛保二年六月師の早野巴人の死後を指す)、余(注・蕪村)は江戸をしりぞきて、しもつふさゆふきの(注・下総国結城の)雁宕(注・砂岡雁宕)がもとをあるじとして、日夜はいかいに遊び、邂逅にして柳居(注・佐久間柳居)がつく波(注・筑波)まうでに逢いてここかしこに席(注・俳席)をかさね、或は潭北と上野(注・群馬県)に同行して処々にやどりをともにし、松島のうらづたひして好風におもて
をはらひ、外の浜(注・青森県の東岸で、謡曲「善知鳥(うとう)」の伝説で名高い)の旅寝に合浦(注・津軽地方の合浦)の玉のかへるさを忘れ、とざまかうざまとして、既三とせあまりの星霜をふりぬ。
 ・・・・
常盤潭北が所持したる高麗の茶碗は、義士大高源吾が秘蔵したるものにて、すなはち源吾よりつたへて又余にゆづりたり。
 ・・・・
こたび何月某の日は、義士四十七士式家(注・高家の誤記か)の館を夜討して、亡君の うらみを報い、ねんなうこそ泉岳寺へ引とりたり。子葉・春帆など、ことに比類なきは たらき有たり。かの両士は此の日来、我几辺になれて、風流の壮士なれば、わけて意気 感慨に堪ず
 ・・・・
松しまの天麟院は瑞巌寺と甍をならべて尊き大禅刹也。余(注・蕪村)、其寺に客たりける時、長老(注・禅寺で住持または和尚の敬称)古き板の尺余ばかりなるを余にあたへて曰、「仙台の太守中将何がし殿(注・伊達吉村)は、さうなき歌よみにておはせし。多くの人夫して名取河(注・陸奥国名取郡を流れる川)の水底を浚(さぐら)せ、とかくして埋れ木(注・名取川の名産)を堀もとめて、料紙、硯の箱にものし、それに宮城野(注・仙台の萩の名所、歌枕)の萩の軸つけたる筆を添て、二条家(注・和歌の家筋の一)へまゐらせられたり。これは其板の余りにて、おぼろけならぬもの也」とてたびぬ(注・下さった)。
・・・・
重さ十斤(一斤は六〇〇グラム)ばかりもあらん、それをひらづゝみして肩にひしと負ひつも、からうじて白石(注・宮城県白石市)の駅までもち出(いで)たり。長途の労れたゆべくもあらねば、其夜やどりたる旅舎のすの子(注・簀の子)の下に押やりてまうでぬ(帰ってきた)。
・・・・
そのゝちほどへて、結城の雁宕がもとにて潭北にかたりければ、潭北はらあしく(注・気短に)余を罵て曰、「やよ(注・やあ)、さばかりの奇物(注・珍品)うちすて置たるむくつけ(注・無風流)法師よ、其物我レ得てん、人やある(注・誰かいないか)、ただゆけ」と須賀川(注・福島県須賀川市)の晋流(注・須賀川の本陣・藤井半左衛門の俳号。其角門)がもとに告やりたり。
・・・・
駅亭(注・宿屋)のあるじかしこく(注・幸いに)さがし得てあたへければ、得て(注・受け取って)かへりぬ。後、雁宕(潭北から雁宕へ)つたへて「漁鶴」といへる硯の蓋にしてもてり。結城より白石までは七十里余ありて、ことに日数もへだたりぬるに、得てかへりたる、けうの事也(注・非常に珍しいことだ)。

若き日の蕪村(一~三)

若き日の蕪村(その一)

若き日の蕪村

(一)

○ 尼寺や十夜にとどくさねかづら(元文二年)

 画俳二道を極めた与謝蕪村が、宰町の号をもって始めて世に登場するのは、元文二年(一七三七)、二十二歳のときの、掲出の句(手紙を見る女性像とあわせ)がその初出である。
この蕪村の画と句は、当時、七十歳となる豊島露月の賀集の『卯月庭訓』に寄稿したものである。この句には、「鎌倉誂物」との前書きがあり、「鎌倉誂物」とは、鎌倉へ届けるよう特に注文した品の意である。この掲出句の「尼寺」は、鎌倉尼五山の一つの東慶寺を指し、離縁を望む縁切り寺として知られていた。すなわち、この句意は、「鎌倉の東慶寺にいる尼のところに、ゆかりの男から、そろそろ還俗だねと、さねかづらが届いて、折しも、皮肉なことには、念仏の声が響きわたる十夜の日であった」という、どうにも、その後の蕪村を暗示するような、男と女の世話物の一場面を現出するようなものが、そのスタートなのであった。この句と一緒の、「宰町自画」とある草画(挿絵のようなもの)は、蕪村が最も得意としたもので、その萌芽が、この初出の句と共に、その後の蕪村の画業をしのばせるに十分なものであった。蕪村は、寛保元年(一七一六)に、今の大阪の毛馬(都島区毛馬町)で生まれたということがほぼ定説となっているが、この西国生まれの蕪村が、その二十歳前後には、東国に下っていて、そして、東国の江戸に居て、東国の鎌倉幕府の、その源の、「鎌倉誂物」で登場してくるというのは、これまた、見ようによっては、その生涯が謎につつまれている、いかにも蕪村らしい思いがするのである。

(二)

○ 君が代や二三度したるとしわすれ(元文二年)

 この句は、元文三年(一七三八)正月に刊行された、蕪村の師・夜半亭宋阿(早野巴人)の江戸再帰後の初歳旦帖『夜半亭発句帖』に、宰町名で収載されている句である。句意は、「年に一度の忘年会を、一度ならず、二度も三度もして、これも一重に、天下泰平の、御時世のお陰だ」という、歳旦帖にふさわしいお目出度いものである。この歳旦帖には、宋阿は、「皇都に遊ぶ事凡(およそ)十余年/ことし古園に春を迎〈え〉て」と前書きして、「新しき友の外にも花の春」の句を寄せている。この元文三年の春には、宰町こと蕪村は、その前年の六月頃に、京都より江戸(日本橋本石町三丁目)に帰ってきた宋阿の夜半亭に移り住んでいて、そこで、師匠の宋阿とともに新しい年を迎えたのであろう。そもそも、当時の蕪村の号の「宰町」は、この夜半亭があった日本橋本石町の、その「本石町」を「宰」(とりしきる)というような意味合いも込められているような雰囲気なのである。とにもかくにも、蕪村、二十二・三歳の頃、俳諧宗匠としては、江戸・京都・大阪で活躍して、その名をとどろかせていた夜半亭一世・宋阿の内弟子として、公私ともに、そのお世話をするという立場にいて、こと俳壇においては知る人ぞ知るという環境にはあったのであろう。と同時に、その俳壇の活躍以上に、その主力は、画壇の方に向いていたということも容易に想像ができるところのものである。

(三)

 この夜半亭一世・宋阿が江戸に再帰して移り住んだ、日本橋本石町については、後に、蕪村は次のとおりに記している。次の記事は、下記のアドレスによる。

http://busonz.ld.infoseek.co.jp/kokutyo1.html

与謝蕪村「むかしを今ノ序」(安永三年)より
○ 師や、昔武江の石町なる鐘楼の高く臨めるほとりに、あやしき舎(やど)りして市中に閑をあまなひ、霜夜の鐘におどろきて、老のねざめのうき中にも、予とヽもに俳諧をかたりて、世の上のさかごとなどまじらへきこゆれば、耳つぶしておろかなるさまにも見えおはして、いといと高き翁にてぞありける。
○ 先生は、昔江戸は石町の鐘撞堂が高く見える辺りの、見苦しい家に住み、町中でも閑静なのに満足し、霜夜に響く鐘の音に目を覚まして、老いのため眠れなくて辛いときには、私と共に俳諧の事を語り合い、私が世間の俗事などとり混ぜて申し上げると、聞こえぬふりをして老いぼけたような振りをしていらっしゃって、いよいよ高潔な翁でいらっしゃることだ。
○ 在京十年あまりの巴人が元文二年(一七三七)四 月三十日江戸へ帰着し、旧友豊島露月(本石町住)の世話で、鐘楼下の「夜半亭」に入ったのは六月十日頃。蕪村は早く内弟子として随仕し、薪水の労を助け、俳諧の執筆(しゅひつ)役をつとめた。 
引用・・・『新潮日本古典集成 与謝蕪村集』清水孝之校注。

また、当時の古地図が、次のアドレスに記されている。

http://busonz.ld.infoseek.co.jp/nihonbasi2.html

(四)

 安永三年(一七七四)、蕪村、五十九歳のときの、『むかしの今』(序)は、続いて、次のように蕪村は記している。

○ある夜、危坐して予にしめして曰く、「夫(それ)、俳諧のみちや、かならず師の法に泥(なづ)むべからず。時に変じ時に化し、忽焉として前後相かへりみざるがごとく有るべし」とぞ。予、此の一棒下に頓悟して、やゝはいかいの自在を知れり。
○ある夜、師の巴人先生は、正座して私こと蕪村にはっきりと、「そもそも、俳諧というものは、必ず、師の教えに拘泥するものではありません。時に応じて作風を変えて、前例も後のことなども頓着しないで、瞬時にして作句するということが望まれる」と示されました。私こと蕪村は、禅僧の教えのごとく、この師のお言葉で、少しは俳諧自在ということを悟りました。

 どちらかというと、若き日の蕪村は、いわゆる、若き日の芭蕉がそうであったように、漢詩流の「虚栗」(みなしぐり)調の理屈ぽっい新風を狙っての作風(麦水の「新虚栗」調)をよしとしていたのであろうが、作句するときの座の雰囲気にあわせ、その雰囲気に違和感を与えるようなことではなく、臨機応変にやられるべきものという、いわゆる、「俳諧自在」ということを、この夜半亭で、その師の宋阿と一緒に寝起きして、悟ったということなのであろう。当時の、蕪村こと宰町の発句においては、どちらかというと、師の師にあたる、其角の江戸座風の技巧的な機知を好む洒落風の句が目立つが、いわゆる、俳諧(連句)の付句(その長句と短句)には、当時の若き日の蕪村の作風の多様性ということを垣間見ることができる。

(五)

  発句 染(そむ)る間の椿はおそし霜時雨         雪雄
  脇    汐引〈く〉形(ナ)リに芦は枯臥(かれふす)  宰鳥
  第三 稽古矢の十三歳をかしらにて            宋阿 

 元文四年(一七七五)に巻かれた歌仙「染る間の」の発句・脇・第三の抜粋である。この脇句の作者、宰鳥は、宰町こと蕪村の別号である。宰町を宰鳥と改号したのか、それとも、宰町と宰鳥とを併用していたのかどうかは定かではないが、この元文四年以降になると、宰鳥の号が使われ出してくる。この歌仙には、「宋阿興行」という前書きがあり、宋阿が中心になって、その捌きなどをやられたことは明らかなところである。「客、発句、亭主、脇」で、興行の亭主格の宋阿が、脇句を詠むのが、俳諧(連句)興行の定石であるが、その脇句を、若干、二十三歳の、蕪村こと宰鳥が担当しているということは、名実ともに、師の宋阿に代わるだけの力量を有していたということであろう。この歌仙は、宋阿編の「俳諧桃桜」の右巻(下巻)に収録されており、こと、俳諧(連句)の連衆の一人として、蕪村(宰鳥)が登場する初出にあたるものである。この雪雄の発句は、「芭蕉七回忌」との前書きのある、嵐雪の「霜時雨それも昔や坐興庵」を踏まえてのものであろう。坐興庵とは、嵐雪が芭蕉門に入門した頃の、芭蕉の桃青時代の庵号でもあった。それらを踏まえて、其角・嵐雪の三十三回忌の追悼句集「俳諧桃桜」の右巻(嵐雪追悼編)の歌仙の一つの、雪尾の発句なのである。その発句に対して、若き日の蕪村(宰鳥)は、「汐引(く)形(ナ)リに芦は枯臥(かれふす)」と、蕪村開眼の一句の「柳散清涸石処々(ヤナギチリ シミズカレ イシトコロドコロ)」に通ずる脇句を付ける。そして、夜半亭一門の主宰者・宋阿が、蕪村の荒涼たる叙景句を、「稽古矢の十三歳をかしらにて」と、元服前後の稽古矢に励んでいる人事句をもって、応えているのである。こういう歌仙の応酬の中に、当時の若き日の蕪村の姿というのが彷彿としてくるのである。

(六の一)

  四   豆腐を見れば飛上(トビア)る犬           少我
  五  暮〈れ〉かゝる宿(シュク)をのぞけばつげ(柘植)の月 宰鳥
  六   大(オホキ)な石の露しづかなり           雪尾

 歌仙「染(そむ)る間の」の四句目から六句目の句である。この四句目の少我の句は、三句目の景を犬追物の場と見定めての付けで、その犬が臆病になっていて「豆腐を見ても飛び上がる」という滑稽句である。こういう滑稽句に対して、次の宰鳥は、滑稽句で応酬せず、日暮れの宿場にかかる月という叙景句を付けている。この「つげ(柘植)の月」は、柘植の木の間にチラチラと垣間見える月と柘植の櫛のような三日月とが掛けられているのだろう。そういう技巧的なことは、当時の比喩俳諧の特徴の一つではあるが、それよりも、当時の蕪村(宰鳥)の美意識というものをも感じさせる一句である。こういう美意識は、後の蕪村の唯美主義的傾向の萌芽ともいえるものであろう。続く、雪雄の「大(オホキ)な石の露しづかなり」の句も、宰鳥の前句の美意識を醸し出している雰囲気に合わせ、格調のある付け句という雰囲気である。

(六の二)

 七  山びこに団扇をあげる西の方               少我
 八   無事かと背中つゝく国者                宋阿

 七句目の「団扇(うちは)」は、夏の季語だが、前句が「露」の秋の句で、歌仙のルールに、秋の句は三句以上続けるということからすると、この団扇は、相撲(秋)の軍配団扇の句と解せられる。句意は、「山彦が聞こえる山間地方の相撲の場で、西の方に軍配をあげた。その行司の声が山彦と照応している」ということであろうか。次の八句目は、前句の相撲の場で、国者(田舎者または同郷の人)が、「負けた力士に、大丈夫かと背中をたたきながら、声をかけている」という光景であろう。このように、一句だけの俳句(発句)と違って、連句の鑑賞は、前後の関係から、俳句の鑑賞よりも具体的な光景が読み取れるということを、しばしば経験する。それだけではなく、その連句をやられている連衆(メンバー)の遣り取りなども垣間見ることができる。こういう連句の場で、その中心となる宗匠(捌きをする人)の助手役(執筆)というようなことを、若き日の蕪村(宰鳥)は、夜半亭の宗匠の宋阿(巴人)のもとで、俳諧の修業を積んでいたのであろう。

(七)

 九 小箪笥を是非ともくれるおも(思)ひ病み      雪尾
 一〇  卯月のほこり御所の塗笠             宰鳥
 一一 如意が嶽芥子は散れども雪はまだ          宋阿

 歌仙「染(そむ)る間の」の九句目から十一句目で、この九句目は、雪尾の恋の句である。「おも(思)ひ病み」は、恋患いのこと。この「小箪笥」は化粧道具などを入れるものであろう。前句が、「無事かと背中つゝく国者」ということで、その「国者」(田舎者)が、郭にあがる景のようである。すなわち、「その田舎者は、馴染みの遊女に恋患いをしてしまい、化粧具入れをあげるると言って無理強いをしている」というものであろうか。それに対して、宰鳥(蕪村)は、「卯月のほこり御所の塗笠」ということで、前句の遊女を御所に仕える女房に見立て替えをしている付句である。句意は、「その女性は、御所の塗り笠を被っていて、その塗り笠には、初夏の卯月の埃がかかっている」と、いかにも、後の蕪村の、いわゆる、王朝趣味を漂わせている句である。さらに、その宰鳥の句に、夜半亭一門の宗匠の宋阿が、「如意が嶽芥子は散れども雪はまだ」と、この「如意ヶ嶽」とは、京都東山三峰の主峰のことで、一名「大文字山」、その積雪が白く大の字を現すのを「雪大文字」といい、それが背景にある句である。句意は、「その女性は、塗り笠のふちを上げて、雪の大文字山ともいわれている、如意が嶽を仰いだが、芥子の花が散ったころの夏の季節で、雪のころの風情はなく、今一つ精彩に欠いている」ということであろうか。雪尾(芭蕉門の一人の斎部路通門の京都出身の俳人。若き日の蕪村と交遊関係にあり、蕪村は後に「莫逆の友也」との記述を残している。別号、大夢、毛越)、宰鳥(蕪村)、そして、宋阿(巴人)の、この三人は、この歌仙に出てくる「如意が嶽」が仰ぎ見られる京都と深い関係にあり、この三人の関係、そして、その周辺を探っていくことも、これまた、興味のつきないところである。

(八の一)

 一二  喧嘩の相手見物となる             少我
 一三 青貝の蒸籠一つやきもち(焼餅)屋        宰鳥
 一四  座頭の自剃(ジゾリ)不思議でもなし     ゆきを

 歌仙の十二句目から十四句目は、表(六句)、裏(十二句)の、裏の六句目から九句目に当たる。歌仙の流れの「序(導入)・破(展開)・急(集結)」の流れでいくと、前半の「破」の局面である。少我の「喧嘩の相手見物となる」は、前句の宋阿の「芥子は散れども」から「喧嘩の場面」をイメージして、「喧嘩の仲裁人が何時の間にか喧嘩の当事者となり、喧嘩の当事者の一人が見物人になってしまった」という人事の滑稽句なのであろう。それに対して、蕪村こと宰鳥は、「青貝の蒸籠一つ」と、高価な色彩も鮮やかな螺鈿の蒸し菓子入れの句で、その前句の喧嘩の「ちぐはぐさ」を象徴しての「焼餅屋」の景の句に仕立てている。この句などは、やはり、画家という視点を感じさせる一句である。次の「ゆきを」は「雪尾」で、雪尾は時折この「ゆきを」を用いる。これなども、芭蕉門の路通の晩年の弟子の一人と思われる雪尾が、師の師の芭蕉の「ばせを」をもじっているような感じを抱かせる。さらに、この歌仙「染(そむ)る間の」は、宋阿・雪尾・宰鳥・少我の四吟で四人で興行されているのだが、この少我とは、蕪村の俳詩として名高い「北寿老仙を悼む」(晋我追悼の和詩)の、結城の俳人、早見晋我の「晋我」と関係のある俳人のようにも思われるのである。早見晋我は、宋阿と同じく其角門(後に介我門)で、其角に、其角の別号・「晋子」の「晋」の一字を許されたという著名な俳人でもあった。こうして、点を線としてつないでいくと、若き日の、当時の蕪村の姿がチラチラと見えてくる趣なのである。

(八の二)

一五  はつ花や手向(タムケ)のこりを提(サゲ)て来(クル) 少我
一六   空ふく竹にきれとまる几巾(タコ)          宋阿

 十五句目は、少我の花(はつ花)の句である。花の定座は、十七句目なのだが、ここに引き上げている。花の定座は引き上げることはあっても、その定座の後に出すという、いわゆる「こぼす」ということはない。そして、十四句目は、月の定座なのであるが、この歌仙では、その十四句目の月の定座を、十七句目にこぼしている。この月の定座は、前に持ってくる「引き上げる」ことも、また、後に「こぼす」こともフリーとなっている。このように、定座を引き上げたり、こぼしたりする理由というのは、花の句なり、月の句を連衆にバランスよく担当させるという座の雰囲気の配慮などによるものなのであろう。ここでは、発句を雪尾、脇句が宰鳥で、その関係で、十四句目の雪尾は月の定座をこぼして、先に、少我に、花の句を出すように誘っているのかもしれない。この歌仙の捌き(主宰者)は、おそらく、宋阿がやられているだろうから、雪尾、宰鳥、そして、少我の三人には、捌きの宋阿が、それぞれ、歌仙の流れを見て、それらの配慮を誘引しているということであろうか。もう一つ、この歌仙の一番最後の三十六句目の挙句の作者名が、「筆」となっており、これは「執筆」のことで、この歌仙の連衆(宋阿・雪尾・宰鳥・少我)の他に、もう一人、「執筆」がいるのか、それとも、「雪尾・宰鳥・少我」のうちの誰か一人が、それを兼ねているのかどうか不明である。感じとしては、この挙句の「筆」は、夜半亭に宋阿の内弟子として仕えている宰鳥が、句数の関係などから担当したようにも思われるし、当時の宰鳥の立場からして、そう考えるのが自然なのかもしれない。なお、掲出の十五句目の句意は、「座頭が自分の頭を剃っている前を仏に手向ける初花の残りを提げて来る」ということか。そして、十六句目は、「初花を散らしそうな強い春風のせいだろうか、竹林の竹に糸の切れた凧が引っかかかっている」ということであろう。

(九)

 一七 十日ほど宇治の人なり朧月          雪を
 一八  草履の〆(シメ)を切て投出す       宰鳥
 一九 髪置にうつくしきもの松の霜         宋阿

 この十七句目から十九句目の展開は、裏の十一句目と折端から名残の表の折立の展開である。歌仙三十六句のうち、丁度、前半と後半との折り返しの局面で、句数からすると山場ということになる。その十七句目は、本来は花の定座なのであるが、この歌仙では、十五句目に引き上げられており、そして、本来は十四句目の月の定座をここにこぼしているという異例の展開となっている。その雪尾の月の句は、「十日ほど宇治の人なり朧月」と、『源氏物語』の「宇治十帖」が背景にあるような句で、おそらく、京都から江戸の夜半亭に来て、しばらく滞在している自分(雪尾)をもイメージしてのものなのかもしれない。そして、次の宰鳥(蕪村)の折端の句、「草履の〆(シメ)を切て投出す」の短句(七七句)は、蕪村の五十三歳(明和五年)のときの、「宿かせと刀投出す雪吹(フブキ)哉」を彷彿させるような、ドラマ趣向の、後年の蕪村の一面を如実に感じさせるような句作りなのである。この歌仙が巻かれたのは、元文四(一七三九)年、ときに、宰鳥(蕪村)二十四歳のときで、実に、三十年近くの時間的な経過が、この両者の間には存在する。すなわち、後年の蕪村の作風というものは、この歌仙が巻かれたころの、江戸の日本橋の夜半亭に巴人の内弟子として滞在していたころに、その全ての萌芽があるといえるであろう。さて、十九句目の、宋阿(巴人)の、「髪置にうつくしきもの松の霜」とは、「髪置」(幼児が髪を初めて伸ばす折の儀式で、三歳の陰暦十一月十五日にすることが多い。式は頭に白粉を塗り、白髪綿と呼ばれる綿帽子をかぶせ、櫛で左右の鬢を三度掻くなどし、その後産土の社に詣でるもの)の句で、その髪置の日、庭の松が、その髪置の白髪綿のように美しい霜を戴いているというのである。いかにも、老練な夜半亭一世・宋阿らしい句作りである。

(十)

 二〇  小づかひ帳の役はこしもと           少我
 二一 糸屑の絶ぬたもとは静也             宰鳥
 二二  牛馬の影は七つより前             雪尾

 名残の表の二句目から四句目の展開である。この少我、宰鳥、そして、雪尾とは、年齢的には殆ど同年齢程度なのではなかろうか。この歌仙を巻いた元文四年(一七七五)は、蕪村こと宰鳥は二十三歳なのであるが、京都出身の雪尾は宰鳥よりも若干年齢的には上のようにも思われるけれども、後に、宝暦元年(一七五一)、蕪村三十六歳の、再び、京都に帰ったときのことについて、「名月摺物の詞書」に次のような記述が見られる(大礒義男「評伝蕪村」・『国文学解釈と鑑賞:昭和五三・三』)。

「予、洛に入りて先づ毛越を訪ふ。越、東都に客たりし時、莫逆の友也。」(私は、京都に再帰して最初に毛越(雪尾)を訪ねました。毛越とは、毛越が江戸に居られたときに、意気投合したきわめて親密な友人であります。)

 この毛越こと雪雄の、この毛越という号は、芭蕉の『おくのほそ道』の平泉中尊寺・毛越寺の「毛越」とは関係があるのだろうか。雪尾の師とされている斎部路通は、当初、その奥の細道の随行を予定されていたのであるが、曽良が代わって随行し、その後、路通は不祥事などで芭蕉の怒りを受け、それを避けるため奥羽行脚を決行するのであった。すなわち、芭蕉門でも、こと『おくのほそ道』に関連しては、路通は最も関係している一人といえよう。それをもう一歩進めて、想像を逞しくするならば、その路通の晩年の弟子の雪尾は、この歌仙を巻いているころ、芭蕉や師の路通の奥羽行脚の偲びながら、京都より奥羽行脚を決行して、その行脚の前後の江戸の滞在というのが、今回の、この歌仙の、宋阿や宰鳥との再会(これも推測の域を出ないが)に繋がっているのではなかろうか(このことについては、関連して後で触れていきたい)。掲出の句の句意は、「小づかひ帳の役はこしもと」は、「前句の髪置の子の小遣い帳をとりしきる役は腰元の役です」ということ。「糸屑の絶ぬたもとは静也」は、「その腰元は針仕事に余念がなく、絶えぬ糸屑も散らさず、針を動かしていても静かで手並みがあざやかである」と、そして、「牛馬の影は七つより前」は、「裁縫に励むその女性は、夜を徹して、もう明け方の四時頃となる。通りでは牛馬の影が見られる」というようなことであろう。

(十一)

二三 手入れ菊橋場へ通ふかんこ鳥           少我
二四  あみだへ後(ウシ)ロ向(ムケ)てけんどむ   宋阿
二五 けふは留守きのふはあまり早過る         雪尾

 名残の表の五句目から七句目である。少我の句の「橋場」は、現台東区今戸の橋場で、橋場の渡しで知られている所、その東橋場には火葬場があった。現在のその近辺の地図は次のアドレスの通り。

http://vip.mapion.co.jp/front/Front?uc=1&nl=35/43/20.010&el=139/48/37.486&grp=excite&scl=20000

 句意は、前句の「七つ」を午後の「七つ」(現在の四時頃)と見立て替えして、「その牛馬の影が見えるところは、かんこ鳥が鳴くような侘びしい火葬場のある橋場付近で、その侘びしい所で菊の手入れをしている」というところ。次の宋阿の句は、その菊を手入れしているもの侘びしい人物を、慳貪(盛り切りうどん)を食べている情景と転じて、句意は、「その男は阿弥陀さまに背を向けて、一人もの侘びしく慳貪うどんを食べている」と滑稽句の付句であろう。その宋阿の付句に対して、雪尾は、客人に合わぬ邪険な男に見立て替えして、「その男は、昨日は時刻が早いといい、今日は約束の時に留守をして、どうにも始末が困る」というのであろうか。何とも他愛のない付句の応酬といえばそれまでだが、当時の夜半亭一門を取り巻く環境の一端や、その日常生活などが、これらの付句の応酬の背景を通して透けて見えてくるという雰囲気である。

(十二)

 二六  帋(カミ)に紅葉を包む挨拶         宰鳥
二七 帰るには有明月のたのものしき         宋阿
二八  一人の母をもちし虫売            少我

 名残の表は八句目から十句目の展開である。宰鳥の句は、「紅葉狩りに行った人が、あいにく留守で、手紙に紅葉を添えて置いていった」という光景。さりげなく手紙の句を出して、恋文を連想させ、次の句に恋句を呼び出している、「恋の呼び出し」の句という雰囲気である。次の宋阿の句は、その宰鳥の恋の呼び出しの句を受けての、後朝の恋の句である。前句の紅葉を添えての手紙の送り主を、後朝の別れの女性と見立てて、その女性と早朝の別れをする男性は、「帰途につくのには、早朝の有明の月が丁度良い按配である」というのであろう。二十九句目(名残の表十一句目)の月の定座を引き上げて、有明月の句にしている。次の少我の句は、その帰途につく男性を虫売りの男性と特定して、「その虫売りは母一人待つ家に帰っていく」という光景であろう。紅葉狩りの風雅人から、後朝の別れの王朝風へと転じ、さらに、日常市井の虫売りの景へと、それぞれが、前句を受けて、十分に持ち味を出しているいるという雰囲気である。この歌仙が巻かれた元文四年(一七三九)は、夜半亭宋阿こと、早野巴人は六十四歳で、その三年後の寛保二年(一七四二)の六月六日に六十七歳で亡くなる。この元文四年の、『俳諧桃桜』(左巻「其角追善集」、右巻「嵐雪追善集」)は、宋阿の最後の大きな上梓といえるものであろう。この年、夜半亭宋阿の後継者の一人と目されていた、京都の俳人、宋屋(当時の号は富鈴)は『梅鏡』を上梓し、宋阿はそれに序文を寄せている。しかし、この宋屋は、宋阿亡き後、夜半亭二世を引き継ぐことなく、その二世を引き継ぐのは、明和七年(一七七〇)の、その三十年後の、五十五歳の宰鳥こと与謝蕪村、その人であった。

(十三)

二九  奉公の名におもしろきおぐしあげ        宰鳥
三〇   杭より西のそばたちやさしき        ゆきを 
三一  肴荷に菜の氷つく朝嵐             少我

 名残の表十一句目・折端から名残の裏折立の展開である。宰鳥の句は、前句に対する逆付け(向付け)で、虫売りの女性から御髪上げ(貴人の髪を結うこと)の高家の女性へと転じて、「奉公の名が御髪上げとはこれまたおもしろい」という句意。次の雪尾の句は、「その御髪上げの女性は、西国の領地に住むお方はさすがに東国育ちとは違って上品である」というのであろう。そして、少我の句は、「その高家の台所の肴の荷と一緒の菜には氷がついているような寒い日で、外では朝嵐が吹いている」という光景であろう。京都の俳人、後の毛越こと、ゆきを(雪尾)の師は芭蕉門の斎部路通については先に簡単に触れたが、この路通は、この歌仙が巻かれた前年(元文三年)に九十歳で没している。この路通は、この晩年には京都に多く住んでいたとのことであるが、大阪にも居たようで、もとより一戸を構えての生活ではなく、他家に寄食しての生活で、『猿蓑』での路通の代表句の一つにもされている、「いねいねと人にいはれつ年の暮」というような生涯であったのであろう。
雪雄が、この路通を俳句の師とし、そして、この師の路通が亡くなった翌年に、江戸に出て来て、おそらく、路通とは面識があった宋阿のもとで、この歌仙を巻いているということは、何か興味がひかれるところである。
 なお、斎部(八十村)路通については、下記のアドレスにより、次のように紹介されている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/rotsu.htm

「八十村氏。近江大津の人。三井寺に生まれ、古典や仏典に精通していた。蕉門の奇人。放浪行脚の乞食僧侶で詩人。後に還俗。元禄2年の秋『奥の細道』 では、最初同行者として芭蕉は路通を予定したのだが、なぜか曾良に変えられた。こうして同道できなかった路通ではあったが、かれは敦賀で芭蕉を出迎え て大垣まで同道し、その後暫く芭蕉に同行して元禄3年1月3日まで京・大坂での生活を共にする。路通は、素行が悪く、芭蕉の著作権に係る問題(註・芭蕉が、加賀の門人からの依頼で書いた付け合い十七体を後になって反故にした。これを路通が勝手に使用して公開してしまった。これで芭蕉の勘気をこうむった 。元禄七年、芭蕉の死の床には路通がいた)を出来し、勘気を蒙ったことがある。元禄3年、陸奥に旅立つ路通に、芭蕉は『草枕まことの華見しても来よ』と説教入りの餞の句を詠んだりしてもいる。貞亨2年春に入門。貞亨5年頃より深川芭蕉庵近くに居住したと見られている。『俳諧勧進帳』、『芭蕉翁行状記』がある。

路通の代表作

我まゝをいはする花のあるじ哉 (『あら野』)
はつ雪や先草履にて隣まで (『あら野』)
元朝や何となけれど遅ざくら (『あら野』)
水仙の見る間を春に得たりけり (『あら野』)
ころもがへや白きは物に手のつかず (『あら野』)
鴨の巣の見えたりあるはかくれたり (『あら野』)
芦の穂やまねく哀れよりちるあはれ (『あら野』)
蜘の巣の是も散行秋のいほ (『あら野』)
きゆる時は氷もきえてはしる也 (『あら野』)
いねいねと人にいはれつ年の暮 (『猿蓑』)
鳥共も寝入てゐるか余吾の海 (『猿蓑』)
芭蕉葉は何になれとや秋の風 (『猿蓑』   」

(十四)

三二   棒をつきつきはや桶の供          宋阿
三三  かすがいの額をせがまれ胡粉とく       雪尾
三四   筧のふしん台どころ迄           少我

名残の裏二句目から四句目の展開である。 宋阿の句の句意は、「その朝嵐の中を棒をつきつき粗末な棺桶の供がやってくる」という光景であろう。雪尾の句は、「その粗末な棺桶の野辺送りの一方、一方では、鎹(かすがい)の額を懇請された画工が胡粉をといている」と場面を転じている。そして、少我は、その鎹の額の作業から家普請の光景に転じて、「筧を台所まで引く家普請の最中である」というのであろう。これらの場面の「はや桶」・「胡粉」・「筧」と、これらは全て当時の風物詩であろう。この歌仙が巻かれた元文四年(一七三九)の頃の、江戸の背景史的な一端は、次のとおりである。

http://homepage2.nifty.com/mitamond/nenpyo/nenpyo_genbun.htm

1736(享保21/元文元)
01月 お半の方、徳川宗春の愛妾となる<天守閣の音>
春 徳川宗春、奇妙なカラクリ使いの香具師と知り合う<天守閣の音>
初夏 加賀藩出頭人・大槻伝蔵、刺客に襲われたところを家士・六兵衛に救われる<虎乱>
六兵衛の子・小市、父に代わって伝蔵に仕える<虎乱>
04月28日 元文に改元
夏 謎の香具師、名古屋城の天守閣に登る<天守閣の音> 雲切仁左衛門、尾張城下で捕らえられる<天守閣の音>
07月02日 荷田春満(68)没
08月12日 大岡忠相、江戸町奉行から寺社奉行となる
11月19日 香林院(大石りく)没
冬 大岡忠相配下の同心・三田村元八郎、将軍宣下に関わる陰謀を追い京へ向かう<竜門の衛> この年 徳川家治の異母兄・下村左源太誕生<将棋大名>
1737(元文2)
04月11日 中御門上皇(37)、没
05月03日 江戸で大火。寛永寺本坊焼失
   22日 徳川家治誕生
11月07日 各地で煙のようなものが吹き出し、火事のように見える[武江年表]
1738(元文3)
02月01日 江戸で夜5時頃、光り物が飛ぶ[武江年表]
   23日 漁師の網に人魚がかかる
04月07日 幕府、大坂に銅座を設置
夏 栗山定十郎、播州の一揆に関係して故郷を追われる<妖星伝>
10月18日 幕府、大筒役を新設
11月01日 幕府、鎌倉で大砲を試射
12月16日 但馬国生野銀山で打壊し
この年 奥丹波の農家の女が京都参詣の帰途、応声虫の病にかかり、腹でものを言い出す[閑田耕筆] 江戸本所の沼を埋め立てようとしたところ、 沼の蝦蟇が老人の姿で現れ、埋め立て中止を進言する[江戸塵拾]
1739(元文4)
01月12日 幕府、尾張藩主徳川宗春に蟄居を命じる
03月08日 青木昆陽、幕府に仕える
09月21日 玉川上水を開いた玉川庄右衛門、水配分に不正ありとして江戸払となる
1740(元文5)
05月 鳥海山噴火
08月03日 後桜町天皇誕生
09月 幕府、青木昆陽を甲信二州に派遣し古文書を採訪させる
この年 芸州の家士五太夫

(十五)

三五  一家中花なき軒もなかり鳧(けり)      宰鳥
三六   四本がゝりの暮遅きあし           筆

 名残の裏五句目から挙句の最終局面である。宰鳥の句の句意は、前句の家普請の景を受けて、「その一族のどの家でも花のない家はなく、その花は爛漫と咲き誇っている」というところであろう。その「一家中」には、この歌仙を巻いている「夜半亭一門」の意味も言外に込められているであろう。そして、執筆の句の句意は、その花爛漫の句を受けて、それを蹴鞠の景に転じて、「その広い屋敷の庭では、蹴鞠の四本掛かりの『松・楓・柳・桜』が植えられていて、春日遅々、蹴鞠に興じている」という光景であろう。そして、この歌仙の最後を飾る挙句には、この歌仙の四吟も終わろうとしている意味合いも込められていて、その意味合いでの「四本がかり」(蹴鞠)を利かせていると解せられるのである。さて、この挙句の作者(執筆)は、この四吟の連衆とは別の他の誰かなのであろうか。それとも、この四吟のうちの誰かが、いわゆる「執筆」(捌きの助手役)を兼ねていたのであろうか?
この歌仙は、夜半亭一門の主宰者の宋阿が、京都から江戸に出て来ている雪尾を囲んでの、宋阿の近辺にいる一門の宰鳥と少我とを誘っての内輪の歌仙興行のように思われ、当時、夜半亭に住み込んで宋阿の内弟子のような境遇にあった、宰鳥こと、若き日の蕪村が、宋阿の手足となって、その執筆の役に当たっていたのではなかろうか?  ここは句数からすると、雪尾九句、宰鳥九句、少我九句、そして、宋阿が八句で、宋阿の挙句が順当なのであるが、当時六十四歳の夜半亭俳諧の宗匠である宋阿が、おそらく、宰鳥(当時二十四歳)と同年齢の若手の雪尾(少我も若手俳人のように思われる)らの、この連衆の中にあって、この歌仙の「あっさりと巻き納める」挙句を担当するであろうか?  ここは、四吟で、順番からすると宋阿の番のようにも思われるけれども、その宋阿が、連衆の一人の、最も当時宋阿の近くに仕えていた、宰鳥に向かって、ここは、「執筆」の名で、「この歌仙の巻き納めをせよ」と、そんな配慮をしたのではなかろうか? これは推測であり、もとよりそれを証しする術もないけれども、ただ一つ、この挙句の季語が、「春遅き」(遅日・遅き日・暮遅し・暮れかぬる・夕長し・春日遅々)であり、この季語の「遅日」こそ、蕪村が生涯にわたって好んで用いたものというのが、その足掛かりのように思えるのである。大正・昭和にかけての近代詩壇の寵児であった、萩原朔太郎が、その著『郷愁の詩人 与謝蕪村』の作品鑑賞の冒頭に持ってきた、次の一句とその解説が、この挙句に接して去来したのである。

○ 遅き日のつもりて遠き昔かな

 蕪村の情緒。蕪村の詩境を単的に詠嘆していることで、特に彼の代表作と見るべきだろう。この句の詠嘆しているものは、時間の遠い彼岸における、心の故郷に対する追憶であり、春の長閑な日和の中で、夢見心地に聴く子守唄の思い出である。そしてこの「春日夢」こそ、蕪村その人の抒情詩であり、思慕のイデアが吹き鳴らす「詩人の笛」に外ならないのだ(萩原朔太郎)。

若き日の蕪村(その二)

若き日の蕪村(その二)

晋我追悼曲の謎

(十六)

   君あしたに去りぬ
   ゆふべの心千々(ちぢ)に何ぞ遙(はる)かなる。
   君を思うて岡の辺(べ)に行きつ遊ぶ
   岡の辺(べ)なんぞかく悲しき

 この詩の作者を名をかくして、明治年代の若い新体詩人の作だと言っても、人は決して怪しまないだろう。しかもこれが百数十年も昔、江戸時代の俳人与謝蕪村によって試作された新詩体の一節であることは、今日僕らにとって異常な興味を感じさせる。実際こうした詩の情操には、何らか或る新鮮な、浪漫的な、多少西欧の詩とも共通するところの、特殊な水々しい精神を感じさせる。そしてこの種の情操は、江戸時代の文化に全くなかったものなのである(萩原朔太郎)。

 『郷愁の詩人 与謝蕪村』(萩原朔太郎著)の冒頭の書き出しの部分である。この著が刊行された当時(昭和十一年)には、朔太郎のいう、この蕪村の新詩体は、この新詩体に出てくる「君」こと、結城の俳人・早見晋我が亡くなった延享二年(一七四五)正月二十八日逝去の追悼のもので、蕪村、三十歳の頃の作とされていた。また、そう解することに何らの疑いも持たれずに、そして、今でもそう解することが当然としてそのように解しておられる方々も多く見かけられる。この蕪村の延享時代の作とする考え方に対して、この作は、ずうと後の、安永六年(一七七七)の蕪村、六十二歳当時の、晋我三十三回忌追悼のものであろうとする考え方が、尾形仂氏によってなされ(『蕪村の世界』所収「北寿老仙を悼む」)、今では、この尾形仂氏の考え方に賛同する方を多く見かけるようになった。ここら辺のところに焦点をあてながら、この蕪村の「北寿老仙を悼む」(別名「晋我追悼曲」)を見ていくことにする。

(十七)

北寿老仙をいたむ

君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
何ぞはるかなる
君をおもふ(う)て岡のべに行(いき)つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき
蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲(さき)たる
見る人ぞなき
雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞(きけ)ば
友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき
へげのけぶりのはと打(うち)ちれば西吹(ふく)風の
はげしくて小竹原(をざさはら)真(ま)すげはら
のがるべきかたぞなき
友ありき河をへだてゝ住(すみ)にきけふは
ほろゝともなかぬ
君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず
花もまい(ゐ)らせずすごすごと彳(たたず)める今宵(こよひ)
ことにたう(ふ)とき 

釈蕪村百拝書

これが「北寿老仙をいたむ」の全文である。この末尾の「釈蕪村百拝書」の「釈」は仏弟子としての姓で、この新詩体(俳詩)に出てくる「君」(北寿老仙)こと、結城の俳人・早見晋我が亡くなつた享延享二年(一七四五)当時は、蕪村(三十歳頃)は結城の弘教寺(ぐきょうじ)に寄寓していて、すでに法体をしていたということであろう。この署名が無ければ、これは、まさしく、萩原朔太郎が、「この詩の作者を名をかくして、明治年代の若い新体詩人の作だと言っても、人は決して怪しまないだろう」ということを実感する。と同時に、この作品を生んだ蕪村という人物は、何ともミステリーな人物に思えてくるのである。

(十八)

この「北寿老仙をいたむ」を、細部にこだわらずに意訳してみると次のとおりとなる。

北寿老仙をいたむ

今朝あなたは突然亡くなってしまった 
今夕わたしの心は乱れに乱れています
どうにもあなたははるか彼方へ行かれたことか
どうにも氣が滅入ってなりません
あなたを偲び 思い出の岡の辺に行きました 
あてどなくさまよい歩きました
何とその思い出の岡の辺は もの悲しいことであつたことか
たんぽぽは黄色に輝き なずなは白く輝いていました
それなのに もう 誰ひとり見る人もおりません
あなたの声でしょうか それとも 雉子でしょうか 
しきりに鳴いています それを聞いています
あなたという友がいて、わたしとあなたは 河をへだてて住んでいました
不思議な煙が一瞬たちこめてきて 西の彼岸の方へ吹く風が
激しく 小笹の原を 真菅の原を 揺さぶり
それでは もう あなたは その雉子は 何処にも逃れる術とてないでしょう
あなたという友がいて、わたしとあなたは 河をへだてて住んでいました
今朝は もう ほろろとも 鳴き声 ひとつしません
今朝あなたは突然亡くなってしまった 
今夕わたしの心は乱れに乱れています
どうにもあなたははるか彼方へ行かれたことか
どうにも氣が滅入ってなりません
わたしは家に引き籠もり 阿弥陀さまに灯明もあげずに  
そして 花もあげずに しょんぼりと 打ち萎れております
なぜか 今宵は ことのほか 阿弥陀さまが 神々しく見えてなりません

この意訳をするに際して、若干、語釈などの留意点をあげておきたい。「去(さり)ぬ」は「去(い)ぬ」・「去(ゆき)ぬ」の詠みもあろう。「何ぞはるかなる」は、「何ぞ杳(はるか)なる」で「何とも暗い」とも解せられるが(『蕪村全集四』)、「何ぞ遙かなる」(距離または年月の遠くへだたっているさま。程度の甚だしいさま。気持の上でかけはなれたさま。気が進まないさま。また、何とも遠い彼岸の人になられてしまった)の意も含ませて意訳したい。「へげのけぶり」は「変化(へんげ)のけぶり」の意に解して(前掲書)、「不思議なけぶり」と意訳したい。「西吹(ふく)風」は、「黄泉・彼岸へ吹く風」の意もあろう。「あみだ仏(阿弥陀仏)」は蕪村が帰依した浄土教の本尊で、この衆生の救済を本願としている阿弥陀仏の賛仰ということは、意訳するうえで心がけておく必要があるように思われる。なお、「千々に」(さまざまに)についても、安永五年六月九日付の暁台宛の書簡(「夏の月千々の波ゆく浅瀬かな」の句あり)などと関連して考察する必要があるのかもしれない。

(十九)

 この「北寿老仙をいたむ」は、蕪村の死後の寛永五年(一七九三)に上梓された、桃彦(二世晋我)編の晋我(一世晋我)五十回忌追善集『いそのはな』に収載されている。早見晋我(一世晋我)は、本名次郎左衛門。下総結城の酒造家で、「北寿」はその隠居号。「老仙」は老仙人の意で蕪村が呈した敬称である。初め、其角、のちに、介我門。結城俳壇の古老として重きをなしていた。蕪村、三十歳の延享二年(一七四五)、七十五歳で没。その妻は、蕪村が二十七歳で師の宋阿と死別後身を寄せた同地の砂岡(いさおか)雁宕(がんとう)の伯母かという(『蕪村全集四』)。これらのことについて、ネット関連のものを調べていたら、次のアドレスで、下記のとおり紹介されており、参考に関連するところを抜粋しておきたい。

http://www.kyosendo.co.jp/rensai/rensai31-40/rensai39.html

※蕪村は享保元年(一七一六)攝津国東成郡毛馬村に生まれた。彼は享保年中(~一七三五)に江戸へ出て来て、二十二才の時に、早野巴人(宋阿)の門に入り俳諧を学ぶと同時に、絵画や漢詩の勉強もしたという。寛保二年(一七四二)、師の巴人が亡くなった後、同門の下総結城の砂岡雁宕(いさおかがんとう)の許に身を寄せ、その後十年、関東、奥羽の各地を廻り歩く。北寿の晋我は結城で代々酒造業を営む素卦家で、通稱を早見治郎左衛門と云い、俳諧は其角の門下で、其角の没後、その弟子の佐保介我に師事したという。晋我は結城俳壇の主要メンバーの一人で、蕪村のよき理解者だったが、延享二年(一七四五)に七十五才でこの世を去った。その時、蕪村は三十才だった。「北寿老仙をいたむ」は、その晋我の追悼詩だが、この詩が実際に世に出たのは、その五十年近く後の寛政五年(一七九三)で、晋我の嗣子、桃彦(とうげん)が亡父の五十回忌に当たり出版した俳諧撰集『いそのはな』の中で、「庫のうちより見出しつるままに右にしるし侍る」と付記があるという。この詩は晋我が死んだ延享二年の作といわれているが、その時、三十才だった蕪村が七十五才の晋我に対して「君」と呼びかけ、「友ありき」などというのは不自然だとして、尾形仂(おがたつとむ)氏は次のような説を述べている。蕪村は三篇の俳詩をものしているが、「北寿老仙をいたむ」以外の二篇、「春風馬堤曲」と「澱河歌」(でんがか)はいずれも安永六年(一七七七)出版の『夜半楽』に収められている。安永六年は晋我の三十三回忌に当たることから、晋我の三十三回忌の記念出版が企てられ、嗣子の桃彦から寄稿の要請を受けて作ったものではないか、というのである。「すでに蕪村は、老境の悲しみを知り、心理的にかっての長上晋我を『友』と遇し『君』と呼んでもそれほど不自然ではない老齢に達していた」(『蕪村俳句集』の解説)、時に蕪村、六十二才である。しかし、その三十三回忌の出版は何らかの理由で中止になり、蕪村の原稿は五十回忌の『いそのはな』の出版時まで桃彦の家の庫の中に収まったまま眠っていた、というのである。なる程、そう考えると、確かに辻褄があう。いずれ、この説が立証されるかもしれない。(上記のネット記事)

(二十)

 ここで、「北寿老仙をいたむ」が収載されている『いそのはな』を上梓した、桃彦(二世晋我)宛ての蕪村(三十六歳)の、宝暦元年(一七五一)十一月□二日付けの書簡を紹介しておきたい(□は虫食いなどによる不明箇所。以下、読みのルビなどは新仮名遣いで括弧書き。新字体に直したところには次に※を付する)。

□椹木(さわらぎ)町□屋与八殿迄
右之処※付ニ而(て)御登可被下候(おのぼせくださるべくそうろう)
此書付壁ニ張付被差置(さしおかれ)
無御失念(ごしつねんなく)御登(おのぼ)せ可被下候
平林氏一行もの、或ハれん二三枚御もらい(ひ)可被下候
当※地庵※中ニ掛(かけ)申度候
外ニ風流ヨリ※達而(たって)所望いたされ候
何とぞ二三枚貴公御徳を以(もって)
拝裁(戴)奉願候(はいたいねがいたてまつりそうろう)
一生之御たのミニ御坐候
大黒したゝめ御礼ニ相下可申候(あいくだしもうすべくそうろう)
京都所々廻見(めぐりみ)
さてさて※おもしろく相暮候(あいくらしそうろう)
先頃臥見(ふしみ)ニ参上 滞留いたし候
□の貴公 夜踊ニ御出被成(おいでなされ)候事思ひだし独※笑(どくしょう)仕候
俳かいも折々仕(つかまつり)候
いまだ何かといそがしく 取とゞめ候事も無之(これなく)候
一両年なじミ候ハバ
一入(ひとしお)面白候半(そうらわん)とたのしミ罷有候(まかりありそうろう)
先々平林公の墨跡 かならずかならず※奉頼(たのみたてまつり)候
是非々々相待申(あいまちもうし)候
鴛見(おしみ)
お(を)し鳥に美をつくしてや冬木立
その外あまた有之(これあり)候 略※いたし候
ゆふき田洪いかゞ候や
御ゆかしく候 以上
霜月□二日

(二十一)

□椹木(さわらぎ)町□屋与八殿迄
右之処※付ニ而(て)御登可被下候(おのぼせくださるべくそうろう)
此書付壁ニ張付被差置(さしおかれ)
無御失念(ごしつねんなく)御登(おのぼ)せ可被下候
平林氏一行もの、或ハれん二三枚御もらい(ひ)可被下候

 蕪村は結城・下館・宇都宮を中心に関東遊歴十年の後、宝暦元年(一七五一)八月、木曽路を経て京に再帰した。時に、三十六歳であった。当時は、人生八十年ではなく五十年というスパンであろうから、もはや、中年といってもよいであろう。そういう年齢に達していても、蕪村は未だ独身で、一家を構えることもなく、京に再帰して、「□椹木(さわらぎ)町□屋与八殿」の家に寄寓しているというのであろう。「此書付壁ニ張付被差置(さしおかれ) 無御失念(ごしつねんなく)御登(おのぼ)せ可被下候」とは、「この手紙を壁に貼り付けて、忘れることなく、必ずお返事ください」と、この手紙の宛先の桃彦と蕪村とは、蕪村が兄で桃彦が弟のような、何か身内同士のやりとりのようにも思えるのである。また、事実、そういう関係にあったのであろう。「右之処※付ニ而(て)御登可被下候(おのぼせくださるべくそうろう)」とは、「右の宛名で、ご返事下さい」と、書き出しから、「ご返事下さい」と、そして「平林氏一行もの、或ハれん二三枚御もらい(ひ)可被下候」(平林氏の書の一行もの、あるいは、左右対になっている聯もの二・三枚貰ってください)、そして、それを京都の「□椹木(さわらぎ)町□屋与八殿迄」(蕪村まで)送ってくださいというのである。随分と厚かましい内容の書簡なのである。平林氏とは、「平林静斎」のことで、「父は鍵屋清左衛門。十二歳の時、父に伴われて広沢の門に入る。別名、消日居士、桐江山人、東維軒。王義之、王献子に学び、他に漢、魏、随、唐の名家の書を学んで広沢門下四天王の一人と言われた。門人二千人。宝暦三年、五十八歳没。当時人気の絶頂にあった書家である」(村松友次著『蕪村の手紙』)という。

(二十二)

当※地庵※中ニ掛(かけ)申度候
外ニ風流ヨリ※達而(たって)所望いたされ候
何とぞ二三枚貴公御徳を以(もって)
拝裁(戴)奉願候(はいたいねがいたてまつりそうろう)
一生之御たのミニ御坐候
大黒したゝめ御礼ニ相下可申候(あいくだしもうすべくそうろう)
京都所々廻見(めぐりみ)
さてさて※おもしろく相暮候(あいくらしそうろう)
先頃臥見(ふしみ)ニ参上 滞留いたし候
□の貴公 夜踊ニ御出被成(おいでなされ)候事思ひだし独※笑(どくしょう)仕候
俳かいも折々仕(つかまつり)候

「当※地庵※中ニ掛(かけ)申度候」(この京都の寄寓の壁にその平林静斎の書を掛けたいのです)、「外ニ風流ヨリ※達而(たって)所望いたされ候」(その外、知り合いの風流人から是非にと所望されているのです)。「何とぞ二三枚貴公御徳を以(もって)」(ここは、桃彦さまのご人徳をもって、二三枚)、「拝裁(戴)奉願候(はいたいねがいたてまつりそうろう)」
(手に入れていただきたくよろしくお願いします)。これは、「一生之御たのミニ御坐候」(一生のお願いでございます)。平林静斎の書を送ってくださったときには、「大黒したゝめ御礼ニ相下可申候(あいくだしもうすべくそうろう)」(大黒を描いてお礼にお送りいたします)。この「大黒」とは、いわゆる七福神(恵比寿、大黒、毘沙門、弁財、布袋、福禄寿、寿老人)の大黒様で、それを描いて差し上げますと、やはり、蕪村は画家で、そういうものを、需要に応じて描いて、それで生計を立てていたのであろう。当時、蕪村が描いたと推測されている「大黒絵手本」(『蕪村全集六』所収図版一六)が、下館の中村家(当時夜半亭門の俳人・風篁)に現に所蔵されている。この中村家には、この外に、「子漢」の署名の「陶淵明三幅対」(前掲書所収図版一)、「浪華四明筆」の落款の「漁夫図」(前掲書所収図版三)、「四名」の署名の「三浦大助三幅対」(前掲書所収図版二)、杉戸絵四面の「追羽子図」(前掲書図版八)、さらに、八面貼込の模写絵の「文徴明八勝図」(前掲書図版九)などが所蔵されている。これらの当時の作品群に接すると、蕪村は、主たるウエートを絵画に置き、その絵画と同時併行して俳諧の修業をしていたことが伺える。そして、その関東出遊時代の修業時代を終え、再び、京都に帰って来て、「京都所々廻見(めぐりみ)」(京都の所々を見て回り)、「さてさて※おもしろく相暮候(あいくらしそうろう)」(とにもかくにも面白く暮らしています)と、意気盛んなのである。続いて、「先頃臥見(ふしみ)ニ参上 滞留いたし候」(先日、伏見に行って、しばらく遊んで来ました)。「□貴公 夜踊ニ御出被成(おいでなされ)候事思ひだし独※笑(どくしょう)仕候」(その折、あなたの、何時かの夜、踊りに来た時のことを思い出して、一人で苦笑していました)。「俳かいも折々仕(つかまつり)候」(俳諧の方も忘れずに折に触れては作っています)と、当時の、蕪村の姿が彷彿としてくるのである。

(二十三)

いまだ何かといそがしく 取とゞめ候事も無之(これなく)候
一両年なじミ候ハバ
一入(ひとしお)面白候半(そうらわん)とたのしミ罷有候(まかりありそうろう)
先々平林公の墨跡 かならずかならず※奉頼(たのみたてまつり)候
是非々々相待申(あいまちもうし)候
鴛見(おしみ)
お(を)し鳥に美をつくしてや冬木立
その外あまた有之(これあり)候 略※いたし候
ゆふき田洪いかゞ候や
御ゆかしく候 以上
霜月□二日

「いまだ何かといそがしく 取とゞめ候事も無之(これなく)候」(まだ、何かと忙しく、特に、記録に留めておくようなこともございません)。「一両年なじミ候ハバ」(一・二年この京都におりましたら)、「一入(ひとしお)面白候半(そうらわん)とたのしミ罷有候(まかりありそうろう)」(かならずや、面白いニュースなどもお知らせできると、楽しみにしていてください)。「先々平林公の墨跡 かならずかならず※奉頼(たのみたてまつり)候」
(とにもかくにも、平林静斎の書き物、必ず、必ず、忘れないで、よろしくお願いします)。
「是非々々相待申(あいまちもうし)候」(是非、是非、お待ちしています)。凄い、執心である。
鴛見(鴛見の句)
お(を)し鳥に美をつくしてや冬木立
(鴛鳥に彩色を使い果たしてしまったのか、冬木立は水墨画のような装いである)
「その外あまた有之(これあり)候 略※いたし候」(その外にも、このような句はありますが、省略します)。「ゆふき田洪いかゞ候や」(結城在住の、弟様の田洪はどうしておりますか)。「御ゆかしく候 以上」(とても懐かしく存じます 以上)。
霜月□二日(陰暦十一月□二日)

蕪村が京都に再帰したのは、宝暦元年(一七五一)八月(陽暦十月)のことであり、この書簡の日付からして、この桃彦あてのものは、その二ヶ月後ということになる。当時、桃彦が、結城に居たのか、それとも、江戸に居たのか(弟の田洪が結城に居て、桃彦は、平林静斎の書が手に入るような江戸在住であったのか)、詳しいことは分からない。しかし、こういう無心の書簡を出せるということは、結城の早見晋我・桃彦・田洪の、いわゆる、晋我一族とは、昵懇の間柄であったということは間違いなかろう。

(二十四)

○ 肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)

 この掲出の句は、宝暦元年(一七五一)霜月□二日(陰暦十一月□二日)の桃彦宛ての書簡に前後した頃の蕪村の句である。句意は、「僧に化けた狸が書き写したという木の葉経を己の髪の毛を噛み噛み読誦するかと思えば何とも寒々としてくる」というようなことであろうか。この句碑は現在結城市の弘経寺に建立されている。結城の檀林弘経寺は浄土宗。壽亀山松樹院弘経寺といい、所在は結城市西町、創建は文禄三年(一五九四)と伝える。徳川秀康(家康の孫)の息女松姫が六歳で没したのでその菩提寺として秀康の創建したもの。この寺は、砂岡雁宕の菩提寺で、今も雁宕の墓がある。同寺の過去帳によると、雁宕は弘教寺第二十九世成誉上人血脈である旨記されている。雁宕と同寺との特別な関係から、蕪村もしばしば同寺を訪れ、画作に精進したのであろう。同寺には、襖絵四枚「墨梅図」(『蕪村全集六』所収図版十)、同六枚「楼閣山水図」(前掲書所収図版十一)などが所蔵されている。さて、この掲出の句には、「洛東間人嚢道人釈蕪村」と、俳詩「北寿老仙をいたむ」の署名と同じ「釈蕪村」の署名があるのである。
なお、次のアドレス(蕪村ゆかりの場所:結城)に写真などが掲載されている。

弘経寺については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/gugyoji.html

木葉経句碑については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/konoha.JPG

雁宕句碑については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/gantoku.JPG

雁宕の墓については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/ganto.html

妙国寺(「北寿老仙をいたむ」の詩碑がある)については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/myokoku.html

「北寿老仙をいたむ」詩碑については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/hokujuhi.html

早見晋我の墓については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/shinga.html

蕪村筑波山句碑については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/tsukuba.JPG

(二十五)

この署名の「洛東間人嚢道人釈蕪村」の「釈蕪村」の「釈」は、仏弟子としての姓を意味するということについては先に触れた。そして、終世の俳号となる「蕪村」については、寛保四年(一七四四)の、蕪村初撰集の、いわゆる『宇都宮歳旦帖』において始めて使われた号なのである。その表題には次のとおり記載されている。

寛保四甲子 (かんぽう よん かっし)
歳旦歳暮吟 (さいたん さいぼの ぎん)
追加春興句 (ついか しゅんきょうの く)
野州宇都宮 (やしゅう うつのみや)
渓霜蕪村輯 (けいそう ぶそん しゅう) 

 この「渓霜蕪村輯(編集)」の「渓霜」は姓で、蕪村の本姓の「谷口」(中国風に「谷」)の意と解せられよう。「霜」は、先に触れた歌仙「染る間の」の巻が収載されている『俳諧桃桜』(宋阿撰集)に、宰鳥の名で収載されている発句、「摺鉢(すりばち)のみそみめぐりや寺の霜」の「霜」とも思われ、宰鳥の号の初見も、実にこの発句に置いてなのである(また、この『俳諧桃桜』の版下は、宰鳥こと蕪村その人であろうといわれている)。そして、「蕪村」の号の由来は、蕪村が敬愛した中国・六朝時代の詩人・陶淵明の「帰去来辞」によるものとされている。

帰去来兮 (帰りなんいざ)
田園将蕪 (田園まさにあれんとす)
胡不帰  (なんぞ帰らざる) 

 また、蕪村開眼の一句とされている、この『宇都宮歳旦帖』の上梓の前年あたりに決行した奥羽行脚の遊行柳での、「柳散清水涸石処々」(やなぎちりしみずかれいしところどころ)などの、その北関東や奥州の荒廃した荒れた荒蕪の村々のイメージが、この「蕪村」という号の背後に蠢いているようにも思えるのである。そして、この「洛東間人」の「間人」(荘園制下で、村落共同体の最下層に位置づけられた新来の住民。卑賤視されることが多く、近世にも名称は残存する。亡土とも書く)にも、さらには「嚢道人」の「嚢」(蕪村の絵画の号「虚洞」に通ずる無限の風を生ずるとの老荘思想に由来するもの)や「道人」(これまた老荘思想に関連する「俗世間より遁れて山間に生活する人」の意など)にも、当時の蕪村の「生き様」というのが透けて見えてくるような思いがするのである。

(二十六)

 蕪村の「肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)」の句には、次のような前書きのような一文が添えられている。

「しもつふさの檀林弘経寺といへるに、狸の書写したる木の葉の経あり。これを狸書経と云て、念仏門に有がたき一奇とはなしぬ。されば今宵閑泉亭にて百万遍すきやうせらるゝにもふで逢侍るに、導師なりける老僧耳つぶれ声うちふるいて、仏名もさだかならず。かの古狸の古衣のふるき事など思ひ出て、愚僧も又こゝに狸毛を噛て」
(下総の浄土宗の十八檀林の一つの弘経寺というところに、狸の書写したという木の葉の経文がある。この経文は狸書経と云って、浄土宗においては有り難い奇特のものとされてている。そんなこともあって今晩閑泉亭において百万遍念仏法会が執行せられるに参会いしましたところ、その法会の唱道の師の老僧は耳も聞こえず声も震えていて、仏の名すらも覚束ないありさまでした。この木の葉の経を書写したという古狸の古衣などの昔の事を思い出しまして、愚僧の私もここに、その古狸の毛を噛みなから、一句したためます。)」

 この「愚僧も又こゝに狸毛を噛て」ということについては、その署名の「洛東間人嚢道人釈蕪村」の「釈」(釈迦の弟子であることを表するために、僧侶が姓として用いる語)の姓からして、当時の蕪村その人と解して、上記のように意訳したのであるが、『蕪村全集(四)』においては、「老僧の経は自分の毛で作った筆を噛み噛み書いた木の葉経ではないか」との解である。さらに、この「閑泉亭」については、その頭注において、「あるいは『閑雲亭』の誤読か。閑雲亭とすれば宮津の鷺十の真照寺」とし、「『洛東間人嚢道人』の署名より、宝暦初年の作。あるいは丹後時代(宝暦四~七)か」の「丹後時代(宝暦四~七)」のものの可能性についても触れられている。その「丹後時代のものか」ということよりも、
「『洛東間人嚢道人』の署名より、宝暦初年の作」の、この「洛東間人嚢道人」の署名は、、宝暦初年の頃のものであり、さらに、それに続く「釈蕪村」の署名も、蕪村の宝暦年間のものであり、まして、蕪村が夜半亭二世を継いだ、明和七年(一七七〇)、蕪村、五十五歳以降に、この署名というのは、『蕪村全集』(既刊もの)を見た限りにおいては、目にすることが出来ないのである。とすれは、先に触れたところの、次のネット記事の、安永六年(一七七七)説よりも、延享二年(一七四五)説に、または、それに近い、宝暦年間のものとするのが妥当なのではなかろうか。

「晋我の嗣子、桃彦(とうげん)が亡父の五十回忌に当たり出版した俳諧撰集『いそのはな』の中で、『庫のうちより見出しつるままに右にしるし侍る』と付記があるという。この詩は晋我が死んだ延享二年の作といわれているが、その時、三十才だった蕪村が七十五才の晋我に対して『君』と呼びかけ、『友ありき』などというのは不自然だとして、尾形仂(おがたつとむ)氏は次のような説を述べている。蕪村は三篇の俳詩をものしているが、『北寿老仙をいたむ』以外の二篇、『春風馬堤曲』と『澱河歌』(でんがか)はいずれも安永六年(一七七七)出版の『夜半楽』に収められている。安永六年は晋我の三十三回忌に当たることから、晋我の三十三回忌の記念出版が企てられ、嗣子の桃彦から寄稿の要請を受けて作ったものではないか、というのである。『すでに蕪村は、老境の悲しみを知り、心理的にかっての長上晋我を『友』と遇し『君』と呼んでもそれほど不自然ではない老齢に達していた』(『蕪村俳句集』の解説)、時に蕪村、六十二才である。しかし、その三十三回忌の出版は何らかの理由で中止になり、蕪村の原稿は五十回忌の『いそのはな』の出版時まで桃彦の家の庫の中に収まったまま眠っていた、というのである。なる程、そう考えると、確かに辻褄があう。いずれ、この説が立証されるかもしれない」(先のネット関連記事)。

(二十七)

 蕪村の「肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)」の句に関連する、「木の葉経句文」について、『蕪村全集(四)』の解説・頭注は以下のとおりである。

(解説)
真蹟によって潁原退蔵編『蕪村全集』(大正十四年刊)に収録されたもの。現在、原真蹟の所在不明。「洛東間人嚢道人の署名より、宝暦初年の作。あるいは丹後時代(宝暦四~七)か。老僧の念仏の声がさだかでないところから、古狸ではないかとの幻想をいだき、弘経寺の木の葉経のことを思い起こして、老僧の経は自分の毛で作った筆を噛み噛み書いた木の葉経ではないかと興じたもの。
(頭注)
木の葉経  狸の化身である僧侶が写したといわれる経。言い伝えによれば、飯沼(水海道市)の弘経寺第二世良暁上人の徒弟の良全は仏門に入るために人の姿に化けた狸であったが、正体が露見したのを恥じて、経を遺して死んだので、上人がねんごろにとむらい、その経を寺宝にしたという。それが結城の弘経寺に伝わり、住職のほかは見ることができないとされている。

さらに、潁原退蔵編『蕪村全集』(大正十四年刊)に、次のような頭注がある。

(頭注)
遺草  これは蕪村が京都に西帰して間もなく、即ち宝暦初年の頃書きしものと思はれる。筆跡も晩年のものとはいたく異り。

この潁原退蔵編『蕪村全集』(大正十四年刊)の頭注の「これは蕪村が京都に西帰して間もなく、即ち宝暦初年の頃書きしものと思はれる。筆跡も晩年のものとはいたく異り」は、この「木の葉経句文」の署名の、「洛東間人嚢道人釈蕪村」についても、均しく指摘できるところのものであり、このこともまた、その「釈蕪村」の署名が、「安永六年(一七七七)説よりも、延享二年(一七四五)説に、または、それに近い、宝暦年間のものとする」ところの一つの証しにもなるように理解をしたいのである。

(二十八)

阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探(さぐり)て、一羽烏といふ文作らんとせしも、いたづらにして歴行する事十年の后(のち)、飄々(ひょうひょう)として西に去(さら)んとする時、雁宕が離別の辞に曰(いわ)く、再会興宴の月に芋を喰(くう)事を期せず、倶(とも)に乾坤(けんこん)を吸(すう)べきと、其(その)言をよしとして、翅書(ししょ)さへまめやかにせざりしに、ことし追悼編集の事告(つげ)来(きた)るにぞ、さすがに涙もろく、斎団扇(ときうちわ)の上に酬書(しゅうしょ)し侍る。跋とすやしらず、捨(すつ)るやしらず。 釈蕪村

(わが宋阿師が没して後、しばらくその主の無い家に居て、わが師の遺されたものを調べまして、それらを一羽烏という題にて文集を作ろうとしましたが、何をすることもなくあちこちと歴行をするばかりで十年が過ぎてしまいました。そして、当てもなくこうして京都に再帰するにあたり、兄事していた雁宕の別れの言葉に、再会月見の興宴の時には芋などを喰らっていずに、お互いに天下を一飲みに飲み干そうと言われ、その言葉を肝に銘じて、手紙もこまめにせず過ごしてきましたが、今年、宋阿師の追悼編集の連絡を受けまして、どうにも涙がこぼれてなりません。その追悼の法事に供する団扇に、こうしてその返書をしたためましたが、それが、跋文になるのものやら、それとも捨てられてしまうものやら、とにもかくにも、返書をする次第です。 釈蕪村 )

 これは、雁宕他編『夜半亭発句帖』に寄せられた蕪村の「跋文」である。『夜半亭発句帖』は、宝暦五年(一七五五)に夜半亭宋阿こと早野巴人の十三回忌にその発句(二八七句)を中心にして上梓したものである。この序文は雁宕が宝暦四年の巴人の命日(六月六日)をもって記しており、上記の蕪村の跋文もその当時に書かれたということについては動かし難いことであろう。この宝暦四年(蕪村、三十九歳)に、蕪村は京を去って丹後与謝地方に赴き、宮津の浄土宗見性寺に寄寓し、以後三年を過ごすこととなる。この丹後時代の蕪村の署名は、「嚢道人蕪村」というものが多く、この『夜半亭発句帖』の「跋文」に見られる「釈蕪村」の署名は、蕪村が京に再帰した宝暦元年(一七五一)からこの跋文が書かれた同四年頃までに多く見かけられるものである。そして、「北寿老仙をいたむ」の「北寿老仙」こと早見晋我が没したのは延享二年(一七四五)であり(その前年の延享元年に巴人亡き後の親代わりのような常磐潭北が没している)、それは巴人が没する寛保二年(一七四二)の三年後ということになる。即ち、巴人十三回忌に当たる宝暦四年前の宝暦二年前後が、晋我(また、常磐潭北)の七回忌に当たり、その頃、在りし日の北関東出遊時代のことを偲びながら、当時京都に再帰していた蕪村が、古今に稀な俳詩「北寿老仙をいたむ」を書き、そして、当時こまめに文通していた晋我の継嗣・桃彦宛てに、「釈蕪村百拝書」と署名して送ったもの、それが、「北寿老仙をいたむ」の作品の背景にあるように思えてくるのである。

(二十九)

予、洛に入(いり)て先(まず)毛越(もうをつ)を訪ふ。越(をつ)、東都に客たりし時、莫逆(ばくげき)の友也。曽(かっ)て相語る日、いざや共に世を易して、髪を薙(なぎ)、衣を振(ふるっ)て、都の月に嘯(うそぶか)む、と契りしに、露たがはず、けふより姿改(あらため)て、或は名を大夢(たいむ)と呼ブ。浮世の夢を見はてんとの趣いとたのもし、など往時を語り出(いで)ける折ふし、紅竹(こうちく)のぬし、榲桲(まるめろ)を袖にして供養せられければ、即興。
  まるめろはあたまにかねて江戸言葉   東武 蕪村

(私は、京都に帰って来まして、先ず毛越を訪れました。毛越は、江戸に来ていたときに、意気投合し心の許し合った仲間です。その当時、語り合ったことですが、手を携えて俳壇を改革しょうと、剃髪し、俗塵を脱して、再び、京都で再会したときには、月見の興宴で共に句を吟じようと、その約束通りに、今日から僧形になって、名を毛越から大夢に改め、この現世での希望を現実にするその姿勢に非常に心がうたれるものがあります。このような往時のことを語り合っていますと、俳友の紅竹が、他のものは何も上げることはできないが、せめて花梨のマルメロでも頭を丸めた二人に献じましょうと云われましたので、そこで、即興の一句です。

まるめろはあたまにかねて江戸言葉   
――「まるめろ」は「花梨のまるめろ」と「頭をまるめろ」
とを兼ねた江戸言葉です ――
江戸 蕪村 )

 蕪村が永く歴行していた江戸と関東時代に見切りをつけ京都に再帰したことと、再帰して先ず雪尾こと毛越を訪れたことについては先に触れた。上記がそれらを証しする「まるめろは」詞書(宝暦元年)の全てである。この詞書について、” 大礒義雄氏が昭和五十年ごろに入手した半紙本一冊の写本『聞書花の種』に、「名月摺物詞書」と題し、「東武 蕪村」の名で収められている(「国文学解釈と鑑賞」昭和五十三年三月号)。写真版は『図説 日本の古典 芭蕉・蕪村』(昭和五十三年十月刊)に掲げる。『聞書花の種』は俳文集で、筆録者不明だが、大礒氏によればおそらく京都の人で、あるいはこの文中に名前の見える毛越かと思われるという(「連歌俳諧研究」第五十四号、昭和五十三年一月)。この一文によって、蕪村の上京が名月のころであったことがわかる。句は他に所見がない。” と『蕪村全集(四)』で紹介されている。これらのことに関して、これまでのことと重複するかも知れないが、この京都に再帰した宝暦元年当時の蕪村の署名は、「東武 蕪村」というもので、「釈蕪村」というものは見あたらない。また、これ以前においても、「渓霜蕪村」という、いわゆる『宇都宮歳旦帖』での署名は見るが、これまた、「釈蕪村」の署名というのは見あたらない。これらのことからして、いわゆる、蕪村の俳詩「北寿老仙をいたむ」の創作時期は、北寿老仙が亡くなった延享二年という説は、何か「唐突に、釈蕪村の署名がなされている」という思いがするし、さらに、「蕪村は三篇の俳詩をものしているが、『北寿老仙をいたむ』以外の二篇、『春風馬堤曲』と『澱河歌』(でんがか)はいずれも安永六年(一七七七)出版の『夜半楽』に収められている。安永六年は晋我の三十三回忌に当たることから、晋我の三十三回忌の記念出版が企てられ、嗣子の桃彦から寄稿の要請を受けて作ったものではないか、というのである。『すでに蕪村は、老境の悲しみを知り、心理的にかっての長上晋我を『友』と遇し『君』と呼んでもそれほど不自然ではない老齢に達していた』(『蕪村俳句集』の解説)、時に蕪村、六十二才である。しかし、その三十三回忌の出版は何らかの理由で中止になり、蕪村の原稿は五十回忌の『いそのはな』の出版時まで桃彦の家の庫の中に収まったまま眠っていた」とする、いわゆる安永六年説も、この「釈蕪村」の署名に関連して、何か不自然な推論のように思えてくるのである。ここは、その「釈蕪村」の署名により、その署名が見られる宝暦四年の『夜半亭発句帖』(巴人十三回忌追悼集)の蕪村の「跋文」起草前後、そして、それは、晋我七回忌あるいは十三回忌とかと関連するものと理解をしたいのである。これらの新しい理解を提示するために、以下、稿を改めて、” 大礒義雄氏が昭和五十年ごろに入手した半紙本一冊の写本『聞書花の種』に、「名月摺物詞書」と題し、「東武 蕪村」の名で収められている(「国文学解釈と鑑賞」昭和五十三年三月号)”ことなど、大礒義雄氏の「評伝・与謝蕪村」の関連するところを忠実にフォローして見たいのである。 

若き日の蕪村(その三)

若き日の蕪村(三)

(三十)

「江戸生活その一」(「国文学 解釈と鑑賞」五五六号所収、大礒義雄稿「評伝・蕪村」抜粋)

蕪村が故郷を出て江戸へ赴いたのはいつであろうか。江戸居住の正確な年時の知れるものは元文二年、二十二歳の時である。しかしそれより二、三年さかのぼり享保の末年ではないかというのが従来の推測であり、それらしく思われる。新資料の出現や研究の進展により将来明らかにされるかもしれない。大江丸は蕪村ははじめ「江戸内田沾山に倚り、後に巴人宋阿の門人とな」ったと述べている。しかし、沾山との関係を知るべき資料は何一つ見つからない。又、蕪村ははじめ宰町・宰鳥の俳号で出てくるので、江戸座の足立来川門に西鳥という名で出ている者があり、これが同音から蕪村ではないかという西鳥初号説と来川門人説とがあるが、確実性に乏しくむしろ否定さるべきものである。巴人宋阿は下野
国那須郡烏山の人で、早くから江戸に出て其角・嵐雪の教えを受け江戸俳壇で知られた人であるが、京にのぼり止まること、十年、元文二年四月江戸に帰り、日本橋本石町三丁目の小路にある時鐘のほとりに居を定めて夜半亭と称した。この年内に蕪村が宋阿を訪れて入門したことは、翌元文三年の『夜半亭歳旦帖』に蕪村の出句があることで明瞭である。ただ、どのような縁故関係があって、宋阿門に帰したかは明瞭でない。宋阿の京住時代に交渉があったと見る説は、今後の課題であろう。
(メモ)
元文二年(一七三七) 二十二歳
四月三十日 在京十年の巴人は砂岡雁宕のすすめで江戸に帰り、六月十日頃豊島露月の世話で日本橋本石町三丁目の鐘楼下に夜半亭の居を定め、宋阿と改号。
○間もなく「宰町」が入門、内弟子として夜半亭に同居。大江丸の『はいかい袋』に「江戸内田沾山に倚り、後に巴人宋阿の門人とな」ったという記事が見える。沾山は沾徳の高弟で当時江戸座の一流俳人とされている。
元文三年(一七三八) 二十三歳
○この年刊行の巴人の『夜半亭歳旦帖』に次の句が入集されている。
    君が代や二三度したる年忘れ
続いてこの年夏刊行の、豊島露月が七十歳の賀集として撰した『卯月庭訓』には「宰町自画」として、次の句が見られる。
    尼寺や十夜に届く鬢葛

(三十一)

「「江戸生活その二」(「国文学 解釈と鑑賞」五五六号所収、大礒義雄稿「評伝・蕪村」抜粋)

宋阿は徳望家で江戸と関東一円および京都に多くの門人を擁し、人材を輩出している。京の望月宋屋などはその中で傑出しており、師に似て徳望家であってその俳諧活動もいちじるしい。この宋屋と蕪村とはやがて親密な間柄となるが、その前に毛越という人物が蕪村と急速に接近している。毛越と蕪村との接触は従来蕪村入洛の宝暦元年、毛越編『古今短冊集』から跡付けられているが、私は先頃、夜半亭において宋阿・蕪村・毛越が一座して歌仙興行をしている事実を突きとめた。元文四年冬十一月宋阿自跋、其角・嵐雪三十三回忌追善集『桃桜』に、宋阿興行とした発句雪尾(ゆきを)、脇宰鳥、第三宋阿、四句目少我の四吟歌仙一巻が載り、その発句「染る間の」の雪尾が毛越その人と考えられるのである。それは寛保二年毛越編『曠野菊』に雪尾斎毛越の名で出ているからである。確定はできないがおそらく同一人であろう。同書に守中菴産川という者が、雪尾斎は洛の産で東武に行ったり、文月の末みちのくあたりに赴いたと述べている(留別辞)。あるいは毛越が平泉毛越寺を訪れての改名かと思われるが、それはともかく巴人庵宋阿と同様な使い分けで同人であろうと思う。この雪尾は又前号雪雄であるらしく、『元文三年夜半亭歳旦帖』の中に京俳人として出句、又、元文四年春三月冨鈴(宋屋)自跋、宋阿序の『梅鏡』の中にも京俳人として出ている。従って毛越は宋阿の在京中の知人で宋屋とも親しかったと思われ、たぶん元文四年中に江戸に下って、宋阿を訪問しているのである。さきの歌仙はあるいはその歓迎句会での興行であったかもしれない。
(メモ)
元文四年(一七三九) 二十四歳
○この年刊行の巴人の『夜半亭歳旦帖』に次の句が入集されている。
   不二を見て通る人あり年の市
○十一月、宋阿編、其角・嵐雪三十三回忌追善集『桃桜』(下巻の版下は宰鳥という)に次の発句が見える。
   摺鉢のみそみめぐりや寺の霜
「宰鳥」号の初見。また、宋阿興行の歌仙に、宋阿・雪尾・少我らと、更に百太興行の
歌仙にも、宋阿。百太・故一・訥子らと一座する。

(三十二)

「関東遊歴と奥羽の旅その一」(「国文学 解釈と鑑賞」五五六号所収、大礒義雄稿「評伝・蕪村」抜粋)

宋阿晩年の門人となった蕪村は、元文三年その歳旦帖に句を見せてから、夏、絵仰書で有名な露月の『卯月庭訓』に自画に句を題して入集。続いて初秋夜半亭臨時の百韻興行に出座。連衆は宋阿をはじめ雪童・風篁・謂北・少我らの十余人。又、九月湯島における一日十百韻に参加、高点句六を得た。翌四年夜半亭・謂北・楼川の各歳旦帖に出句しており、冬になって前述の『桃桜』に発句一、宋阿興行、百太興行の各歌仙に一座している。後者の連衆は宋阿の外、百太・故一・訥子である。翌五年冬筑波の麓に滞在して、来る春を待ったことは『寛保元年夜半亭歳旦帖』によって知られそれに一句を載せるが、翌二年宋阿の逝去に逢うまで、俳書に表われた蕪村の行動の記録は意外に少ない。ただ『新花摘』によれば百万坊旨原から『五元集』の精密な模写を頼まれたこと(蕪村の能筆がわかる)、謂北(麦天)のために奔走して点者の列に入らせたことなどが知られる。さて、宋阿は寛保二年六月六日死亡した。六十六歳。蕪村は時に二十七歳である。宋屋が手向けた追善集『西の奥』(寛保三年)の自序で、蕪村と雁宕とがこれを京師の門弟・旧知に急報したとあり、蕪村はすでに宋阿の愛弟子として夜半亭にしげく出入りし、あるいは同居して薪水の労を取っていた。それだけに悲嘆痛恨は大きく夜半亭に一人籠もり師の遺稿を探って「一羽烏」という文を作ろうしたが果たさず、悄然として江戸を離れ下総結城の雁宕のもとに身を寄せるのである。
(メモ)
元文五年(一七四〇) 二十五歳
○元文年間、俳仙群会図を描く(『蕪村翁文集』所収「俳仙群会の図賛」)。その賛は次のとおり。
守武貞徳をはじめ、其角嵐雪にいたりて、十四人の俳仙を画きてありけるに、賛詞をこはれて
寛保元年(一七四一) 二十六歳
○前年の冬、筑波山麓で春を待った蕪村は、この年上梓の『夜半亭歳旦帖』に宰鳥名で次の句が入集される。
行年や芥流るゝさくら川
寛保二年(一七四二) 二十七歳
○六月六日、春の頃から口中に痛みを覚えていた夜半亭宋阿は、遂にこの日没する。宋屋編宋阿追善集『西の奥』(寛保三年刊)では六十七歳説、丈石編『俳諧家譜』では六十六歳説。(延宝四年出生説をとり、六十七歳説と解する)。

(三十三)

「関東遊歴と奥羽の旅その二」(「国文学 解釈と鑑賞」五五六号所収、大礒義雄稿「評伝・蕪村」抜粋)

雁宕は蕪村より十余歳年長か。宋阿の京在前の弟子でよく蕪村の世話をやき生活をも支えてくれた。彼は砂岡氏、結城の名家でその父我尚は其角門ついで嵐雪門。その没後は介我に師事した。この我尚・雁宕父子の縁続きには俳人すこぶる多く、まず結城俳壇の長老北寿老仙早見晋我は我尚の姉婿と推定され、俳諧は我尚と同系。その二子桃彦・田洪も俳人。雁宕の弟周午も俳人。妹の一人は下館の中村風篁の分家中村大済の妻であり、雁宕の娘は宇都宮の佐藤露鳩の妻であった。我尚の親友に那須烏山の常磐潭北がある。宋阿と同郷で其角門、蕪村に長ずること三十九年の老翁であるが、蕪村に親愛の情を抱き、上野国に同行して処々に宿りを共にしたと『新花摘』にあり、高羅の茶碗や埋れ木などの逸話も語られている。又、五色墨の一人、佐久間柳居と筑波詣でで出会って、俳席を重ねたことも同書に回想されている。奥羽行脚は寛保三年春かららしく、結城を出発して宇都宮から福島にいたり、山形に入り、羽黒を経て日本海側に出、酒田・象潟・秋田の浦々をめぐり能代を経、遠く津軽の外ヶ浜に達し、帰路は青森を経て盛岡にいたり、平泉・松島・仙台・白石・福島とたどって結城に帰着したらしい。辛酸に満ち満ちた旅であった。それ故かあまり句を残していない。寛保四年、宇都宮の露鳩に依頼されて歳旦帖を編集、表紙に「寛保四甲子歳旦歳暮吟追加春興句野州宇都宮渓霜蕪村輯」とある。処女撰集で俳号蕪村の初出の書である。
(メモ)
寛保三年(一七四三) 二十八歳
○五月、望月宋屋編『西の奥』(宋阿追善集)に次の句が宰鳥名で入集される。
   我泪古くはあれど泉かな
延享元年(寛保四年二月改元・一七四四) 二十九歳
○春、宇都宮にあって雁宕の娘婿佐藤露鳩の依頼により歳旦帖を編集、表紙に「寛保四甲子歳旦歳暮吟追加春興句野州宇都宮渓霜蕪村輯」とある。処女撰集で俳号蕪村の初出の書である。俳号蕪村の初出の発句は次のとおり。
    古庭に鶯啼きぬ日もすがら
延享二年(一七四五) 三十歳
○一月二十八日、結城の早見晋我が七十五歳で没する。其角門として晋の一字をゆるされた人物であった。蕪村は「北寿老仙を悼む」(釈蕪村)を手向ける(安永六年説、更に、釈蕪村の署名から宝暦年間説などがある)。
延享三年(一七四六) 三十一歳
○十月二十八日、宋屋は、奥羽行脚の帰途、結城・下館の蕪村を訪れたが不在であった。十一月頃江戸増上寺裏門辺りに住していたという(宋屋編『杖の土』)。
延享四年(一七四七) 三十二歳
○この頃、江戸中橋に夏行中の渡辺雲裡房(青飯法師)を訪ねる。その折の句は次のとおり。
    水桶にうなづきあふや瓜茄子
寛延元年(一七四八) 三十三歳
○大阪在住の江霜庵田鶴樹編『西海春秋』に下総結城の阿誰らと一緒に句を寄せる。その発句は次のとおり。
   川かげの一株づゝに紅葉哉
寛延二年(一七四九) 三十四歳
○麦水、江戸を発ち伊勢山田の麦浪を訪ね、更に京に赴き、稿本『東海道紀行』成る。
寛延三年(一七五〇) 三十五歳
○嵐雪『玄峰集』刊。

(三十四)

「入洛その一」(「国文学 解釈と鑑賞」五五六号所収、大礒義雄稿「評伝・蕪村」抜粋)

寛保四年(延享元年)の歳旦は露鳩一門の集であるが、追加に江戸俳人の句が見えるのは蕪村の斡旋であろう。其角系の祇丞・筆端(買明)・其川(旨原)・蝸名・存義である。蕪村はまた雁宕の紹介であろうが、下総関宿の豪家、箱島阿誰の家に滞在していた。ここで雁宕が江戸の俳友百万(旨原)、李井(存義)に依頼して、阿誰一門の撰集『反古ぶすま』を刊行した。この書には江戸座の重立った俳匠がずらりと顔を並べている。蕪村の江戸における俳環境とでも言うべきものはこうした人達だったらしい。先輩の宋屋は旅を好んだ。延享二年十月奥羽行脚の途次結城に入り、雁宕・大済・蕪村に手紙を送ったが、蕪村は不在で会えなかった。翌三年十月帰途再び結城に立寄って雁宕を訪れ下館に大済らを訪ねたが蕪村は不在、江戸に出ていて芝の増上寺の裏門あたりに住んでいると聞いて江戸でも探したが、遂に行き会えなかった。宋屋がしきりに蕪村に会いたがったのは、宋阿の身近に仕えた蕪村に、文通などによって特別に親しみを抱いていたためである。蕪村は職業画家である。俳人として俳友達から種々の便宜に預かっていたが、生活の資は画から得ていた。小成に甘んじないで画道に精励していた。それ故か延享・寛延頃の俳事はほとんど知られない。蕪村の友人に雪尾斎毛越があることは前述した。毛越の『曠野菊』に蕪村ず出ないのは、この書が祇徳の全面的な支援で成ったこと、この寛保二年が蕪村にとっては悲傷の年であったことなどと無縁ではあるまい。この書に故路通の句が載るのは注目されてよい。毛越は実に路通門人であった。このことは先頃私が入手した写本『聞書花の種』所載「路通十三回忌序跋」によって明らかである。右の『聞書花の種』には蕪村の俳文「名月摺物詞書」を収める。ここに全文を紹介しよう(省略。この「名月摺物詞書」については既に触れた)。蕪村が十七、八年におよぶ江戸と関東各地における生活を切り上げて西帰入洛した年は宝暦元年三十六歳の年であることは、先学諸家の一致した見解で私も同感である。ところがその年のいつかということになると諸説があって一致しないが、近年初冬、続いて晩秋との説が多く私もかって晩秋説を取っていた。それに対して右の一文(註・「名月摺物詞書」)は決定的な解答を用意してくれるものであった。

(三十五)

「入洛その二」(「国文学 解釈と鑑賞」五五六号所収、大礒義雄稿「評伝・蕪村」抜粋)

もともと蕪村入洛の時期については、宝暦元年と推定される霜月□二日付蕪村書簡を基としての推測と思われ、極め手となる文献資料に欠けていた。ただ最近清水孝之氏は「花洛に入て富鈴房に初而向顔 秋もはや其蜩の命かな」の句解において、この句が秋季であるために蕪村上洛の翌二年作とするのは、宋屋の温情援助を考慮すれば不自然故元年であり、秋季の句に仕立てたものかあるいは入洛の時期も秋のうちだったかと疑問を提出され、「晩秋・初冬のころ」とされたようである(『蕪村・一茶』昭五一・角川書店)。『名月摺物詞書』によって入洛の時期は、名月(八月十五日)頃と見るのが穏当であろう。仲秋である。榲桲は晩秋九月の季物であるが、この宝暦元年は六月に閏があり、仲秋は遅れるので、充分榲桲の時期に適合するのである。もう一つ問題は毛越の剃髪の時期が実は夏だったのである。毛越みずから「今年の夏落髪して市中の庵にかくれ、大夢の額をあげて判者と呼るゝ」(「詞集成こと葉書」『聞書花の種』)と言っている。これと蕪村の言う「けふより姿改て、或は名を大夢と呼ブ」とは時期が合わない。あるいは蕪村の入洛は夏かと思わされるが、蕪村自身東都での約束ごとが実現したことの喜びを強調したくてこうした表現を取ったのではあるまいか。「都の月に嘯む」も再会の時期を示す言葉である。毛越は既述のように蕪村に数年遅れて江戸に下り、寛延三年路通の十三回忌を京都で修しているから、少なくとも蕪村より一足早く京に入っているのである。両者の交情を知る初期の資料は乏しいが、蕪村が「莫逆の友也」と言い、「管鮑の交あり」(『古今短冊集』)と言った最上の言葉は、これを端的に示している。又「都の月に嘯む」という言葉からは蕪村は早くから入洛を希望していたことが察せられ、あるいは毛越の勧めなどがそれに与って力があったのかもしれないと思われる。二人が「都の月を嘯」くために、なぜ僧体になることを望み役束したのであろうか。それは日常性の脱却、離俗であって、そのような境遇に身を置いてこそ純粋に俳諧を追求できると考えたのであろうか。蕪村は早く寛保二年宋阿の没後間もなく剃髪したらしいので、毛越との約束はそれ以前のことのように思われ、あるいは宋阿の膝下に在った時のことかもしれない。『桃桜』の歌仙に同座した時のひとなども想起されよう。毛越の職業は分からないが商人のように思われ、なかなか俗務から離れられなかったのであろう。まるめろの句、まるめろという果実の名は、頭に兼ねて頭をまるめろ、に通じ、まるめろよの江戸言葉である。まるめろそのものが丸くて坊主あたまめき、しかも江戸に長く住んでいた者にとっては、耳慣れた江戸の方言を連想させるものである。発想が自然で機知に富み、東都と肩書するにふさわしい、江戸帰り早々の作者のいさぎよい句であろう。ともあれ宝暦元年という初期の句作を一つ加えることができたのは嬉しい。

(三十六)

蕪村関連の俳書などで、「釈蕪村」と署名されているものは、次のとおりである。そして、「北寿老仙をいたむ」の創作年次について、延享二年説と安永六年説とに触れ、これらの署名(釈蕪村)に関連して、蕪村が京都に再帰しての宝暦年間説とでもいうべきことについては先に触れた。ここで、それらのことについて補足をしておきたい。

一 (『いそのはな(寛政五年刊)』所収)

北寿老仙をいたむ

君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
何ぞはるかなる
君をおもふ(う)て岡のべに行(いき)つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき
蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲(さき)たる
見る人ぞなき
雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞(きけ)ば
友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき
へげのけぶりのはと打(うち)ちれば西吹(ふく)風の
はげしくて小竹原(をざさはら)真(ま)すげはら
のがるべきかたぞなき
友ありき河をへだてゝ住(すみ)にきけふは
ほろゝともなかぬ
君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず
花もまい(ゐ)らせずすごすごと彳(たたず)める今宵(こよひ)
ことにたう(ふ)とき 

釈蕪村百拝書

二 (『夜半亭発句帖(宝暦五年刊)』所収「跋」、宝暦四年推定) 

阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探(さぐり)て、一羽烏といふ文作らんとせしも、いたづらにして歴行する事十年の后(のち)、飄々(ひょうひょう)として西に去(さら)んとする時、雁宕が離別の辞に曰(いわ)く、再会興宴の月に芋を喰(くう)事を期せず、倶(とも)に乾坤(けんこん)を吸(すう)べきと、其(その)言をよしとして、翅書(ししょ)さへまめやかにせざりしに、ことし追悼編集の事告(つげ)来(きた)るにぞ、さすがに涙もろく、斎団扇(ときうちわ)の上に酬書(しゅうしょ)し侍る。跋とすやしらず、捨(すつ)るやしらず。        釈蕪村

三 (「真蹟」、宝暦初年推定)

しもつふさの檀林弘経寺といへるに、狸の書写したる木の葉の経あり。これを狸書経と云て、念仏門に有がたき一奇とはなしぬ。されば今宵閑泉亭にて百万遍すきやうせらるゝにもふで逢侍るに、導師なりける老僧耳つぶれ声うちふるいて、仏名もさだかならず。かの古狸の古衣のふるき事など思ひ出て、愚僧も又こゝに狸毛を噛て

肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)
洛東間人嚢道人 釈蕪村

四 (『反古衾(宝暦二刊)』所収)

うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥               釈蕪村 

五 (『瘤柳(宝暦二刊)』所収)

苗しろや植出せ鶴の一歩より              釈蕪村

(三十七)

当時の蕪村の署名を、「社中歳旦帖・俳諧撰集・色紙」等で見ていくと次のとおりとなる。

「関東遊歴と奥羽の旅」時代、そして、それは、蕪村の「若き日の時代」である。この時代の画号(落款等)は、「四明・子漢・魚君・虚洞・趙居・渓漢中・老山・孟溟」など。

一の一 宰町(元文二年・一七三七・二十二歳~元文四年・一七三九・二十四歳)
一の二 宰鳥(元文五年・一七四〇・二十五歳~延享元年・一七四四・二十九歳)
一の三 蕪村(延享元年・一七四四・二十九歳~寛延三年・一七五〇・三十五歳)

そして、京都に再帰して、「京生活・与謝の旅」の「丹後の時代」となる。この時代の画号(落款等)は、「朝滄・嚢道人・魚君・夜半翁」など。

二 蕪村(宝暦元年・一七五一・三十六歳~宝暦七年・一七五七・四十二歳)

再び、京都に帰り、とも女と結婚して家庭を持ったのが宝暦十年(一七六〇・四十五歳)。そして、讃岐へ赴いたのが、明和三年(一七六六・五十一歳)。その讃岐から京都に帰ってきたのが、明和五年(一七六八・五十三歳)。「京生活・讃岐の旅」の「讃岐の時代」である。この時代の画号(落款等)は、「趙居・春星・長庚・三菓軒・霊洞」など。

三 蕪村(宝暦八年・一七五八・四十三歳~明和五年・一七六八・五十三歳)

蕪村が讃岐から帰京したのは明和五年四月末か五月初めで、やがて三菓社中の句会を再開した。その明和七年(一七七〇・五十五歳)三月、先師宋阿の夜半亭の俳号を継承して夜半亭二世となり、新たに京師点者の列に加わった。そして、円熟期の絶頂期を迎え、天明三年(一七八三・六十八歳)十二月二十五日に没する。「夜半亭継承と円熟期」で、蕪村の「晩年の時代」である。この時代の画号は、「謝寅・紫狐庵」など。

四 蕪村(明和六年・一七六九・五十四歳~天明三年・一七八三・六十八歳)

以上、蕪村のその六十八年の生涯を概略四期(「若き日の時代」・「丹後の時代」・「讃岐の時代」・「晩年の時代」)に分けて、蕪村の異色の俳詩「北寿老仙をいたむ」に署名されている「釈蕪村」という署名は、現在、記録に残されているものに限ってするならば、この「丹後の時代」の前半の、宝暦元年(一七五一)から宝暦五年(一七五五)の頃にのみ見られるものなのである。すなわち、北寿老仙こと早見晋我が亡くなった、「若き日の時代」の延享二年(一七四五)当時、さらに、その「晩年の時代」の安永六年(一七七七)当時において、蕪村が、「釈蕪村」という署名の「北寿老仙をいたむ」という俳詩を今に残しているというのは、こと、この署名に限ってするならば、どうにも不自然という印象は拭えないのである。とするならば、ここは、何らの推測も推理もすることなく、単純慨然的に、その署名の「釈蕪村」ということから、これを、蕪村が京に再帰して後の、「丹後の時代」の前半の、宝暦元年(一七五一)から宝暦五年(一七五五)当時のものとするのが、最も自然なものと考えたいのである。

(三十八)

ここで、『蕪村伝記考説』(高橋庄次著)の、この「北寿老仙をいたむ」に関連するところを見てみたい。

○「蕪村」号を披露した寛保四年(延享元年)の翌二年、結城で早見晋我(別号北寿)が亡くなった。享年七十五歳、このとき蕪村は三十七歳の而立の年であった。年齢的に祖父ほどの差のある北寿こと晋我に対して蕪村は「老仙」の敬称を用いた。儒学を学んだ謹厳さと柔和な温かさをもつ晋我老人は、蕪村にとってまさに「北寿老仙」というにふさわしいイメージがあったのだろう。蕪村は北寿老仙を悼むの和詩を書いた。

 この『蕪村伝記考説』は、延享二年説といって良いであろう。

○この和詩は晋我の霊前に捧げられたが、公表されたのは晋我の子早見桃彦の手で編まれた晋我五十回忌追善集『いそのはな』(寛政五年・一七九三)においてである。蕪村の死からちょうど十年後のことだ。「北寿老仙をいたむ」と題されたこの蕪村の和詩の末尾に、「庫(くら)のうちより見出(みい)でつるままに右にしるし侍る」と桃彦が書き添えているから、この詩がいっさい公表されなかったことは間違いなく、文字通り霊前に捧げるためだけに書かれた和詩であったことがわかる。したがって、安永六年(一七七七)に発表を前提にして書かれた夜半楽三部曲(春風馬堤曲・澱河歌・老鶯児)とは本質的に異なる。

 安永六年説の否定と「夜半楽三部曲(春風馬堤曲・澱河歌・老鶯児)とは本質的に異なる」という指摘は素直に受容できる。

(三十九)

○この和詩は「釈蕪村百拝して書す」と署名して結ばれている。「釈蕪村」の釈はもちろ
ん釈迦のこと。僧が俗姓を捨てて釈氏を名乗り、釈迦の御弟子であることを示す姓だ。つまり釈氏は出家僧のこと。したがって「釈蕪村」とは釈迦の御弟子「僧蕪村」のことだ。後年蕪村は『新花摘』にこのころのことを書いているが、それによると、結城の雁宕のもとに滞在していた折、親しくしていた常磐潭北から「むくつけ法師よ」と言われたという。潭北は延享元年七月に亡くなっているから、それ以前にすでに蕪村は「法師」と呼ばれていたことがわかる。また『むかしを今』の序に蕪村は江戸石町の夜半亭で師宋阿から俳諧の教えをうけて「一棒下に頓悟」したと禅僧のようなことを言っているから、夜半亭に二十二歳で入門したときも僧だった。蕪村は故郷を出てから、生家の谷氏の俗姓を捨てて剃髪出家して釈氏を称していたのだ。

 この『蕪村伝記考説』では、「一の一 宰町(元文二年・一七三七・二十二歳~元文四年・一七三九・二十四歳)」・「一の二 宰鳥(元文五年・一七四〇・二十五歳~延享元年・一七四四・二十九歳)」の時代に、既に、「生家の谷氏の俗姓を捨てて剃髪出家して釈氏を称していたのだ」と明快に既述しているが、これらについては文献上は明らかではない。と同時に、宰鳥時代の奥羽行脚の折には、既に法体であったことは、上記の指摘の『新花摘』の既述で明らかなところであるが、その当時、「釈」氏の姓であったかどうかは不明確で、それよりも、晋我が没する前年の延享元年(寛保四年二月二十一日改元)の、蕪村初撰集の、いわゆる『宇都宮歳旦帖』の表紙には、「渓霜蕪村輯」との既述があり、その姓は「釈」というよりも「渓霜」であったことは明らかなところである。

○この『寛保四年歳旦帖』(註・『宇都宮歳旦帖』)の扉には編者の名がこう書かれているからだ。 渓霜蕪村輯(輯は編集のこと) これは何だろう。「渓霜蕪村」と名乗った「渓霜」は霜に覆われた谷のことだ。ここには俗姓の「谷氏」の意がこめられていたはずだ。それは一家離散した谷氏であり、寒々と霜に覆われた故郷の生家である。

 そもそもこの『蕪村伝記考説』は、「われわれはまだ信頼しうる一貫した蕪村の伝記を手にしていない」(「あとがき」)という観点から、著者(高橋庄次)の、これまでの研究成果の総決算ともいうべき、「伝記資料の虚実をどう識別して読み解くか」(「あとがき」)という、大胆な謎解きの書でもある。それが故に、枝葉末節については余り拘泥せずに、その「叩き台づくり」(「あとがき」)ということで、大胆な謎解きをしている箇所が随時に見られるのである。この上述の、「俗姓の『谷氏』」についても、例えば、スタンダードな『蕪村事典』(松尾靖秋他編)では、「本姓谷口氏は母方の姓か」とあり、その「谷口」氏の中国風の一字の姓が「谷」氏とも解せられるが、「蕪村の生家は摂津国東成郡毛馬村の谷氏であったことは断言してよい」(几董著『から檜葉』所収「夜半翁終焉記」・大江丸著『はいかい袋』所収「蕪村伝」)と、説が幾つもあるような箇所においても、そのうちの一つの説を断定して既述しており、何もかも鵜呑みにしてしまうことは、要注意であることは言はまたない。さしずめ、「釈蕪村」の理解などにおいても、「釈蕪村」の署名は、蕪村の、京へ再帰後の、いわゆる「丹後の時代」の前半の、宝暦元年(一七五一)から宝暦五年(一七五五)の頃にのみ見られるものということについては、ここでも再確認をしておきたい。

(四十)

○連作和詩編「北寿老仙をいたむ」は、北寿の亡魂を供養するため「釈蕪村」と署名して己れの心身を僧体(清浄)にし、自作詩を詠唱して読経にかえたのであろう。「百拝して書す」と結んだのは、これは写経文のように浄書して寺に納めたことを示している。それはあくまでも仏の世界に逝った北寿と僧蕪村との密かな語らいだった。

 この『蕪村伝記考説』の、「自作詩を詠唱して読経にかえた」・「これは写経文のように浄書して寺に納めた」・「仏の世界に逝った北寿と僧蕪村との密かな語らいだった」という指摘は、この俳詩(註・連作和詩)に接して同じような感慨を抱く。そして、この感慨は、この俳詩が、晋我没後直後の延享二年に作られたものではなく、ずうと後年の、安永六年に、延享二年当時を回想して創作したものだとする、安永六年説の次の疑問を解きほぐしてくれる一つのキィーポイントと理解をしたいのである。

http://www.kyosendo.co.jp/rensai/rensai31-40/rensai39.html

※蕪村は享保元年(一七一六)攝津国東成郡毛馬村に生まれた。彼は享保年中(~一七三五)に江戸へ出て来て、二十二才の時に、早野巴人(宋阿)の門に入り俳諧を学ぶと同時に、絵画や漢詩の勉強もしたという。寛保二年(一七四二)、師の巴人が亡くなった後、同門の下総結城の砂岡雁宕(いさおかがんとう)の許に身を寄せ、その後十年、関東、奥羽の各地を廻り歩く。北寿の晋我は結城で代々酒造業を営む素卦家で、通稱を早見治郎左衛門と云い、俳諧は其角の門下で、其角の没後、その弟子の佐保介我に師事したという。晋我は結城俳壇の主要メンバーの一人で、蕪村のよき理解者だったが、延享二年(一七四五)に七十五才でこの世を去った。その時、蕪村は三十才だった。「北寿老仙をいたむ」は、その晋我の追悼詩だが、この詩が実際に世に出たのは、その五十年近く後の寛政五年(一七九三)で、晋我の嗣子、桃彦(とうげん)が亡父の五十回忌に当たり出版した俳諧撰集『いそのはな』の中で、「庫のうちより見出しつるままに右にしるし侍る」と付記があるという。この詩は晋我が死んだ延享二年の作といわれているが、その時、三十才だった蕪村が七十五才の晋我に対して「君」と呼びかけ、「友ありき」などというのは不自然だとして、尾形仂(おがたつとむ)氏は次のような説を述べている。蕪村は三篇の俳詩をものしているが、「北寿老仙をいたむ」以外の二篇、「春風馬堤曲」と「澱河歌」(でんがか)はいずれも安永六年(一七七七)出版の『夜半楽』に収められている。安永六年は晋我の三十三回忌に当たることから、晋我の三十三回忌の記念出版が企てられ、嗣子の桃彦から寄稿の要請を受けて作ったものではないか、というのである。「すでに蕪村は、老境の悲しみを知り、心理的にかっての長上晋我を『友』と遇し『君』と呼んでもそれほど不自然ではない老齢に達していた」(『蕪村俳句集』の解説)、時に蕪村、六十二才である。しかし、その三十三回忌の出版は何らかの理由で中止になり、蕪村の原稿は五十回忌の『いそのはな』の出版時まで桃彦の家の庫の中に収まったまま眠っていた、というのである。なる程、そう考えると、確かに辻褄があう。いずれ、この説が立証されるかもしれない。(上記のネット記事)

さらに、上記の『蕪村伝記考説』の指摘に、先に触れた次の事項を再確認をしたいのである。

※阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探(さぐり)て、一羽烏といふ文作ら
んとせしも、いたづらにして歴行する事十年の后(のち)、飄々(ひょうひょう)として西に去(さら)んとする時、雁宕が離別の辞に曰(いわ)く、再会興宴の月に芋を喰(くう)事を期せず、倶(とも)に乾坤(けんこん)を吸(すう)べきと、其(その)言をよしとして、翅書(ししょ)さへまめやかにせざりしに、ことし追悼編集の事告(つげ)来(きた)るにぞ、さすがに涙もろく、斎団扇(ときうちわ)の上に酬書(しゅうしょ)し侍る。跋とすやしらず、捨(すつ)るやしらず。 釈蕪村
(わが宋阿師が没して後、しばらくその主の無い家に居て、わが師の遺されたものを調べまして、それらを一羽烏という題にて文集を作ろうとしましたが、何をすることもなくあちこちと歴行をするばかりで十年が過ぎてしまいました。そして、当てもなくこうして京都に再帰するにあたり、兄事していた雁宕の別れの言葉に、再会月見の興宴の時には芋などを喰らっていずに、お互いに天下を一飲みに飲み干そうと言われ、その言葉を肝に銘じて、手紙もこまめにせず過ごしてきましたが、今年、宋阿師の追悼編集の連絡を受けまして、どうにも涙がこぼれてなりません。その追悼の法事に供する団扇に、こうしてその返書をしたためましたが、それが、跋文になるのものやら、それとも捨てられてしまうものやら、とにもかくにも、返書をする次第です。 釈蕪村 )
※※これは、雁宕他編『夜半亭発句帖』に寄せられた蕪村の「跋文」である。『夜半亭発句帖』は、宝暦五年(一七五五)に夜半亭宋阿こと早野巴人の十三回忌にその発句(二八七句)を中心にして上梓したものである。この序文は雁宕が宝暦四年の巴人の命日(六月六日)をもって記しており、上記の蕪村の跋文もその当時に書かれたということについては動かし難いことであろう。この宝暦四年(蕪村、三十九歳)に、蕪村は京を去って丹後与謝地方に赴き、宮津の浄土宗見性寺に寄寓し、以後三年を過ごすこととなる。この丹後時代の蕪村の署名は、「嚢道人蕪村」というものが多く、この『夜半亭発句帖』の「跋文」に見られる「釈蕪村」の署名は、蕪村が京に再帰した宝暦元年(一七五一)からこの跋文が書かれた同四年頃までに多く見かけられるものである。そして、「北寿老仙をいたむ」の「北寿老仙」こと早見晋我が没したのは延享二年(一七四五)であり(その前年の延享元年に巴人亡き後の親代わりのような常磐潭北が没している)、それは巴人が没する寛保二年(一七四二)の三年後ということになる。即ち、巴人十三回忌に当たる宝暦四年前の宝暦二年前後が、晋我(また、常磐潭北)の七回忌に当たり、その頃、在りし日の北関東出遊時代のことを偲びながら、当時京都に再帰していた蕪村が、古今に稀な俳詩「北寿老仙をいたむ」を書き、そして、当時こまめに文通していた晋我の継嗣・桃彦宛てに、「釈蕪村百拝書」と署名して送ったもの、それが、「北寿老仙をいたむ」の作品の背景にあるように思えてくるのである。

(四十一)

北寿老仙をいたむ

一 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
  何ぞはるかなる
二 君をおもふ(う)て岡のべに行(いき)つ遊ぶ
  をかのべ何ぞかくかなしき
三 蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲(さき)たる
  見る人ぞなき
四 雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞(きけ)ば
  友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき
五 へげのけぶりのはと打(うち)ちれば西吹(ふく)風の
  はげしくて小竹原(をざさはら)真(ま)すげはら
  のがるべきかたぞなき
六 友ありき河をへだてゝ住(すみ)にきけふは
  ほろゝともなかぬ
七 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々に
  何ぞはるかなる
八 我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず
  花もまい(ゐ)らせずすごすごと彳(たたず)める今宵(こよひ)
  ことにたう(ふ)とき 

                  釈蕪村百拝書

○この詩篇の言葉の響きも、美しい音楽を奏でる。全八章中、第二・三・四・五・八章の五章にわたって各章末を「き」で結んで脚韻を踏んでいるのがそれであり、第一・第二章の「キミ」と「ナンゾ」の繰り返しにも頭韻効果がみられる。さらに第二章の「岡の辺」の尻取り句移りや第三章の「蒲公の黄・薺の白」、第五章の「小竹原・真菅原」、第八章の「灯火も・・・せず・花も・・・せず」の繰り返しなどにも快いリズムの効果がみられる。また独特の改行の仕方で音数律を構成しているのも鮮やかな効果を上げており、行末にくる第六章の「今日は」と第八章の「今宵は」にアクセントがかかる効果もその一つだ。

『蕪村伝記考説』の著者(高橋庄次)のライフワークともいうべき「連作詩篇考」的な考察が活きている。

(四十二)

○原文は全十八行が均一に並べられていて、章と章との間を特にあけるような区切り方はしていない。しかし、各章の小主題や旋律・脚韻など総合的に判断すると、八章で構成されていることは誰の目にも明らかだ。夜半楽三部曲(春風馬堤曲・澱河歌・老鶯児)のような各章の頭に○印を付ければ章分けがはっきりしたのだろうが、この和詩篇は均一の形式で首尾一貫した旋律を奏でているので、むしろそうした区切りは詩情の自然な流れのさまたげになる。夜半楽三部曲が発句・漢詩・和詩といったさまざまな形式をモザイク状に組み上げたバラード(物語詩)であるとすれば、「北寿老仙をいたむ」はリート(独唱用小歌曲)だと言えるからだ。

 繰り返しになるが、夜半楽三部曲(春風馬堤曲・澱河歌・老鶯児)と「北寿老仙をいたむ」とは全く異質の世界である。俳詩三部作(「北寿老仙をいたむ」・「春風馬堤曲」・「澱河歌」)として、同時の頃の作とし、また、これらを並列して鑑賞するのには、違和感を覚える。

(四十三)

○この北寿追悼の和詩篇について、それぞれの章の表現を個別に吟味しながら各章のつながり方を検討してみると、一章一章を連作主題でつないでいく発想、つまり八章から成る連作詩篇の基本的発想がそこから浮かび上がってくる。日本の詩歌はまず連作形態で発生し、記紀歌謡、万葉歌以降、連作文芸が古典の基本を形成してきた。北寿追悼の和詩篇がこうした発想による連作詩篇であったからこそ、奇跡的とも思える近代抒情詩篇に成り得た。それだけに、その各章冒頭の詩句を取り出して次に並べてみると、なにか奇妙な感にうたれる。

一 君あしたに去ぬ
二 君を思うて
三 蒲公の黄に
四 雉子のあるか
五 変化の煙
六 友ありき
七 君あしたに去ぬ
八 我庵の阿弥陀仏

これらはみな申し合わせたように主題を構成することばであった。しかも、そのことばはみな横に連繋している。

 この「北寿老仙をいたむ」を、いわゆる「連作詩篇」として鑑賞することの是非はともかくとして、『蕪村伝記考説』の著者(高橋庄次)の指摘は首肯できる。

(四十四)

○この「我庵」(註・第八章)という表現からすると、蕪村は砂岡雁宕宅に寄宿していたのではなく、結城のどこかに草庵を結んでいたと考えなければならない。たぶん寺域内であろうから、結城の浄土宗の寺、つまり砂岡家の菩提寺弘経寺であったにちがいない。さきほど「釈蕪村」の署名あるものとして引用した狸の木葉経の俳文はこの弘経寺の寺宝「狸書経」について書いたものだし、この寺の襖絵も蕪村が描いているからだ。檀家の砂岡雁宕の世話で寺域内の僧庵に釈蕪村はひとり住んでいたと考えられる。釈蕪村は阿弥陀仏の本願を信じ、その願力にすがって自力を支える浄土宗念仏僧として自由自在にふるまうことができた。蕪村は浄土宗の弘経寺(寺領五十石)の僧庵に住み、法華宗の妙国寺(寺領九石)に北寿(晋我)の追善供養としてこの追悼詩を霊前に捧げたのである。

 ここでも繰り返すこととなるが、”「釈蕪村」の署名あるものとして引用した狸の木葉経の俳文はこの弘経寺の寺宝「狸書経」”については、「洛東間人嚢道人 釈蕪村」であり、蕪村が京に再帰した宝暦元年(一七五一)からこの跋文(『夜半亭発句帖』)が書かれた同四年頃までに多く見かけられるものなのである。さらに、”この「我庵」(註・第八章)という表現からすると、蕪村は砂岡雁宕宅に寄宿していたのではなく、結城のどこかに草庵を結んでいたと考えなければならない。たぶん寺域内であろうから、結城の浄土宗の寺、つまり砂岡家の菩提寺弘経寺であったにちがいない”ということについては、後年の回想録の『新花摘』の記述からして、結城の隣の下館の「中村風篁」家(『宇都宮歳旦帖』を始め蕪村絵画などの遺作を今に所蔵している)の屋敷内であったことも推測できるものであり、必ずしも、結城の弘経寺の寺域内であるということは、これまた、推測の域を出ないであろう。
なお、この『蕪村伝記考説』の著者(高橋庄次)が指摘している、先の「これは写経文のように浄書して寺に納めた」というよりも、この記述の「北寿(晋我)の追善供養としてこの追悼詩を霊前に捧げたのである」というように解したい。

(四十五)

○この和詩篇の舞台は、蕪村の草庵があったと考えられる弘経寺と北寿の墓所妙国寺とをめぐって流れる吉田用水路であったと考えられる。結城の古地図には元禄十六年(一七〇三年・『結城市史』第二巻所収)のものと享保十九年(一七三四年・結城市教育委員会写し)のものがあるので、元禄期の古地図を参考にしつつ、ここでは蕪村の結城滞在期の八年前に描かれた享保十九年の古地図を次に示した。これが北寿追悼詩篇の制作された場である。弘経寺と妙国寺が吉田用水に沿って並んでいることがわかろう。またそれらの寺を縫うようにして伸びる御朱印堀は、堀幅七・五メートル、深さ三メートルとのことである。寺領五十石の弘経寺と寺領九石の妙国寺は古地図で見るかぎり寺域は共に広く、両寺にさして大きな差はないように見える。また寺領五十三石の禅宗安穏寺には元禄期の地図には無垢庵が、享保期の地図には無垢庵と寿慶庵が図示されているが、蕪村が結城に滞在していたころには、こうした僧庵が弘経寺にもあったと思われる。蕪村は、この弘経寺の僧庵を拠点に活動していたのだろう。

 この『蕪村伝記考説』の著者(高橋庄次)は、当時の蕪村の活動拠点を弘経寺領域の僧庵としているので、その結果、この記述のとおり、「北寿老仙をいたむ」に出てくる、「友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき」の「河」を、結城市内の「吉田用水」のように解しているのだが、ここは、下館と結城との間を二分するように流れる関東有数の大河「鬼怒川」と解したい。なお、ネット関連では、次のアドレスのもので、鬼怒川と解する説(十九代中村兵左衛門説)に賛同したい。

http://ship.nime.ac.jp/~saga/buson1.html

※結城と下館のあいだに鬼怒川が流れる。下総と常陸の国境である。北寿は雁宕の近親で結城俳壇の長老、早見晋我。蕪村が深く敬愛したこの老人の死に会してなったのが、驚くべき清新の自由詩「晋我追悼曲」こと『北壽老仙をいたむ』である。詩中に「君をおもふて岡のへに行つ遊ふ」「友ありき河をへたてゝ住にき」とあるから、当然、これは鬼怒川を隔てて下館の岡に蕪村は立っているのである、というのが下館の当主、十九代中村兵左衛門氏の説である。一方、結城市内にもなにがしという小さな川が流れその脇に岡があるから、蕪村がいたのは結城であるというのが小暮係長の説であって人情の自然であろう。なお、この追悼詩は碩学潁原退藏先生の「春風馬堤曲の源流」によれば晋我歿の当時の作とされるが、その馬堤曲との詩的連関から後年京都での作とする説もある。

(四十六)

○和詩第五章の一行目は「変化(へげ)の煙(けぶり)のはと打ち散れば西吹く風の」とうたい起こされているが、これは火葬の荼毘の煙とみるほかなく、したがって西方へ吹く風から逃れたくとものがれようがないということ、つまり「のがるべき方ぞなき」とは、煙の行方は西方以外にはありえないということだ。「変化(へげ)」はそうした「生滅(しょうめつ)の法」の万物の変化相をさしている。荼毘は「火化」といい、「焼身」のことだが、浄土信仰や法華信仰が盛んになるにしたがって焼身往生が行われるようになったという。これはわが身を火に投じて供養することで、荼毘はこの焼身往生の思想によるものだ。「変化の煙のはと打ち散れば」の「はと」は、これを鮮やかに表現しているように思われる。

 この「へけ」の解については、これまでにさまざまな解釈がなされている。整理すると次のとおりとなる。
一 へげの詠みで「竈」の古言とするもの・・・潁原退蔵著『蕪村全集』他。
二 へけの詠みで「片器」の訛音とするもの・・・山本健吉著『与謝蕪村集』他。
三 へげの詠みで「木片(こっぱ)」とするもの・・・栗山理一著『蕪村集一茶集』他
四 へげの詠みで「変化」の意とするが、その意味は次のとおり分かれる。
四の一 「仏が極楽浄土へ引摂したまうこの世ならぬ煙」・・・清水孝之著『与謝蕪村集』他
四の二 「煙とも霞ともつかぬもの」・・・山下一海著『戯遊の俳人与謝蕪村』他
四の三 「不思議な」「怪しい」・・・芳賀徹著『与謝蕪村小さな世界』他
四の四 「火縄銃の煙」・・・村松友次『蕪村の手紙』他 
四の五 古典における「変化(へんげ)」の撥音無表記の形「へげ」(実際の発音はヘンゲ)
    を雅語意識のもとにヘゲの発音のままに変化(へんげ)の意に用いたもの。その実体は「四の四」   (猟師の火縄銃の煙)・・・尾形仂著『蕪村の世界』・尾形仂他校注『蕪村全集(四)』他。

この『蕪村伝記考説』の著者(高橋庄次)は、上記の「四の一」と「四の五」の折衷案
のような考え方であろう。とにもかくにも、詩を読み進める上では、上記のような語釈等はあくまでも参考であり、それ以上に、蕪村研究の先達者達がこの蕪村の俳詩に情熱を込めて様々な解を捧げていることに一驚するのである。