1 飛ぶ蝶を喰(くは)んとしたる牡丹かな (第一 こがねのこま)
抱一画集『鶯邨画譜』所収「牡丹図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html
飛ぶ蝶を喰(くは)んとしたる牡丹かな (第一 こがねのこま)
牡丹一輪青竹の筒にさして
送られける時
仲光が討て参(まゐり)しぼたんかな (第三 みやこどり)
画賛狂句、彦根侍の口真似
して
さして見ろぎょやう牡丹のから傘ダ (第三 みやこどり)
『屠龍之技』中の「牡丹」の三句である。蕪村にも「牡丹」の佳句が目白押しである。
牡丹散つてうちかさなりぬ二三片 蕪村 「蕪村句集」
牡丹切て気の衰へし夕かな 蕪村 「蕪村句集」
閻王の口や牡丹を吐かんとす 蕪村 「蕪村句集」
地車のとゞろとひゞく牡丹かな 蕪村 「蕪村句集」
抱一の一句目の句は、蕪村の「閻王の口や牡丹を吐かんとす」の句に近いものであろう。二句目の前書きのある「仲光と牡丹」の句は、能「仲光(なかみつ)」を踏まえてのもので、その「仲光」中の、「美女丸」の身代わりになって、「仲光」に打ち首にされる仲光の実子の「幸寿丸 」を「牡丹」に見立てての一句ということになる(下記の「参考」)。
三句目の「彦根侍と牡丹」の句は、「大老四家(井伊家・酒井家・土井家・堀田家)」の文治派・酒井家に連なる生粋の江戸人・抱一の、武断派・井伊家(彦根藩・彦根侍)の風刺の意などを込めての一句と解したい。この「ぎょやう」(ぎょうよう)というのが、「仰々しい(大げさ)」の彦根方言のような感じに受ける。
(参考)
http://www.kanshou.com/003/butai/nakami.htm
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能「仲光」のストリー
【 多田満仲は、一子美女丸を学問の為、中山寺へ預けております。しかし、美女丸は学問をせず、武勇ばかりに明け暮れており、父満仲は、藤原仲光に命じ、美女丸を呼び戻します。ここから能「仲光」は始まります。
「こは誰が為なれば…、人に見せんも某が子と言う甲斐もなかるべし…」これは誰の為であるのか。人に見せても、誰某の子という甲斐もない。親が子を叱る時の、昔も今も変わらぬ心情です。満仲は、憤りのあまり、美女丸を手討にしようとします。更に、中に入って止めた仲光に美女丸を討つよう命じます。
仲光は、主君に何と言われても、美女丸を落ち延びさせるつもりでいますが、頻りの使いに、ついに逃がす事が出来なくなります。「あわれ某、御年の程にて候わば、御命に代り候わんずるものを…」同じ年頃であれば、お命に代ろうものを…と嘆く仲光の言葉を、仲光の子の幸寿が聞きます。幸寿は「はや自らが首をとり、美女御前と仰せ候いて、主君の御目にかけられ候え。」と言います。美女丸も、自分の首をと言い、仲光はついに幸寿に太刀を振り下ろしてしまいます。
満仲は、美女丸を討ったと報告する仲光に、幸寿を自分の子と定めると言います。仲光は、幸寿が美女丸のことを悲しみ、髪を切り出て行ったと言い、自分も様を変え、仏道に入りたいと言います。
比叡山、恵心僧都が美女丸を連れて来ます。満仲もついには許し、めでたい事と僧都に所望され仲光は舞を舞います。「この度の御不審人ためにあらず。かまえて手習学問、ねんごろにおわしませと…。」この度の事は人のせいではありません。これからは、手習学問を熱心にするように…。仲光に言われ、美女丸は恵心僧都と再び帰って行きます。 】
2 としどしや御祓に捨る多葉粉入 (第一 こがねのこま)
3 すずしさは家隆の歌のしるしなり (第一 こがねのこま)
「としどしの御祓に捨る多葉粉入」の句は、神社などで、年始から節分までに行う「厄除け(厄落とし)のお祓い」の句と解したい。この「多葉粉入」(煙草入れ)は、旧年に頂いた厄除けの贈り物の「煙草入れ」などを、火の中に捨てるというようなことなのかも知れない。
この句は、光琳や抱一の主要な画題の、『伊勢物語』の、「禊図」とは関係はない。この句の次に収載されている、次の「すずしさは家隆の歌のしるしなり」は、「夏越しの祓」(ナゴシノハラエ)の句で、こちらは、光琳の「家隆禊図」などと関係する句なのであろう。
抱一画集『鶯邨画譜』所収「禊図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html
尾形光琳の「禊図」は下記のとおり。
尾形光琳筆「禊図」一幅 絹本着色 九七・〇×四二・六cm 畠山記念館蔵
【 この図は藤原家隆(一一五八~一二三七)の「風そよぐならの小川の夕暮にみそぎぞ夏のしるしなりける」の歌意を描いたもので「家隆禊図」ともいわれる。左下に暢達(ちょうたつ)した線にまかせて、簡潔に水流の一部を表わし、流れに対して三人の人物が飄逸な姿で描かれ、色調は初夏のすがすがしさを思わせる。「法橋光琳」の落款、「道崇」の方印がある。 】(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編)』所収「作品解説131」)
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尾形光琳は、下記の宗達の『伊勢物語』(第六十五段)の「禊」の場面の「恋せじと御手洗川にせし禊神は受けずもなりにけるかも」に対して、藤原家隆の「風そよぐならの小川の夕暮にみそぎぞ夏のしるしなりける」の歌意を上部に「楢の木」を配して表現している。。
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宗達派「伊勢物語図屏風」の部分図「禊図」(「国華」九七七)
画賛「恋せじと御手洗川にせし禊神は受けずもなりにけるかも」
ここで、『鶯邨画譜』の「禊図」は、「風そよぐならの小川の夕暮にみそぎぞ夏のしるしなりける」(家隆)の「禊」の場面よりも、「恋せじと御手洗川にせし禊神は受けずもなりにけるかも」(『伊勢物語』)の「禊」の場面のように思われる。
4 花びらの山を動すさくらかな (第一 こがねのこま)
抱一の句の夙に知られている句の一つである。下記のアドレスでは、次のようなイメージとして鑑賞されている。
https://manyuraku.exblog.jp/24395245/
「満開の花、風が吹くたびにひらひら散るはなびら。山全体が揺れ動くような酔い心地。」
そして、『花を旅する(栗田勇著・岩波新書)』の、次の一節を紹介している。
「どんな花でも散りますが、なぜ散る桜なのか。満開で強風の時でさえも1枚の花びらが散らないのに、突然わずかな風に舞い上がって桜吹雪になっている。とことんまで咲ききって、ある時期が来たら一瞬にして、一斉に思い切って散ってゆく。
こうした生ききって身を捨てるという散り際のよさが、日本人にはこたえられないのではないでしょうか。そこに人生を重ねて見るんですね。静かに散るのではなく、花吹雪となって散るという生き生きとしたエネルギーさえも桜から感じられるのです。
散ると言っても、衰えてボタンと落ちるのではないのです。むしろ散ることによって、次の生命が春になったらまた姿をあらわす、私は生命の交代という深い意味でのエロティシズムの極地のようなものがそこに見えるのではないかといいう気がします。」
地発句(連句を前提としない発句だけの作品=俳句)としての鑑賞のスタンダードのものであろう。しかし、立句(連句の最初の句=発句)としては、この抱一の句は異色の句ということになろう。
俳諧(連句)の「花」の句の原則(「花の定座」の原則)として、「桜(さくら)」の言葉は使わず(「非正花)、賞美・賞玩の意を込めての「花」(春の正花)の言葉を使うのが原則なのである。この原則からすると、「五・七・五」の十七音字の中に、上五の「花びら」と下五の「さくら(さくら)」とを、二重のように使用するのは、どうにも異色の句ということになろう。
この句に、抱一が其角流の趣向(作為)を施しているとすれば、この下五の、平仮名表記の「さくら」というのがポイントとなって来よう。このような観点から、上記で紹介されている『花を旅する』の「生ききって身を捨てるという散り際のよさ」の、「花は桜木、人は武士」(一休禅師?)などを連想することは、其角流の江戸座のむ俳諧師・抱一の句の鑑賞としては、決して逸脱したものではなかろう。
抱一画集の『鶯邨画譜』には、桜を好み、「桜町中納言」の「藤原成範(しげのり)」が、その画題になっているが、スタンダードな『伊勢物語』(第九段「東下り」)の「在原業平」ではなく、「藤原成範」であるのが、これまた、抱一らの江戸琳派の画人の趣向なのであろう。
抱一画集『鶯邨画譜』所収「桜町中納言図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html
「桜町中納言」については、下記のアドレスで、下記(参考その三)のとおり引用紹介した。
https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-07-29
(参考その三) 藤原成範(ふじわらのしげのり) → (再掲)
没年:文治3.3.17(1187.4.27)
生年:保延1(1135)
平安末期の公卿。本名は成憲。世に桜町中納言といわれた。藤原通憲(信西)と後白河天皇乳母紀二位の子。久寿1(1154)年叙爵。平治の乱(1159)でいったん解官,配流されるが許され,平清盛の娘婿であったことも手伝い、のちには正二位中納言兼民部卿に至る。また後白河院政開始以来の院司で、治承4(1180)年には執事院司となり激動の内乱期を乗りきった。一方和歌に優れ、『唐物語』の作者に擬せられている。桜を好み、風雅を愛した文化人でもあった。娘に『平家物語』で名高い小督局がいる。<参考文献>角田文衛『平家後抄』 (木村真美子) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について
また、次のアドレスで、酒井抱一筆の「宇津山図・桜町中納言・東下り」(三幅対)について触れた。そこでの要点も再掲して置きたい。
https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-01
(再掲)
ここで、冒頭の「宇津山図・桜町中納言・東下り」の「桜町中納言」(藤原成範)について触れて置きたい。
『伊勢物語』第九段「東下り」(下記「参考」)の「むかし、男ありけり」の、この「男」(主人公)は、「在原業平」というのが通説で、異説として、『伊勢物語』第十六段(「紀有常」)の「紀有常(きのありつね)」という説がある。
その主たる理由は、その第九段の前の第八段(「浅間の嶽」・下記「参考」)が、業平では不自然で、「下野権守・信濃権守と東国の地方官を務めた紀有常」の方が、第八段(「浅間の嶽」)と第九段(「東下り」)との続き具合からして相応しいというようなことであろう。
それに対して、冒頭の「宇津山図・桜町中納言・東下り」の「桜町中納言(藤原成範)」こそ、「藤原通憲(信西)と後白河天皇乳母紀二位の子。久寿1(1154)年叙爵。平治の乱(1159)でいったん解官,配流されるが許され,平清盛の娘婿であったことも手伝い、のちには正二位中納言兼民部卿に至る」の、「配流の地(「下野」)などからして、「桜町中納言(藤原成範)」こそ、最も相応しいというようなことなのであろう。
さらに、下記のアドレスで、鈴木其一筆「桜町中納言図」(一幅)について触れた。その画像と解説(久保佐知恵稿)のものを再掲して置きたい。
https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-09
(再掲)
鈴木其一筆「桜町中納言図」 一幅 絹本著色 一一六・八×四九・八㎝
千葉市美術館蔵
【 桜町中納言は、平安時代後期の歌人藤原成範の通称で、桜を殊のほか愛した成範は、自らの邸宅にたくさんの山桜を植え、春になると桜の下にばかりいたと伝わる。能「泰山府君」の登場人物でもあり、短い花の盛りを惜しんだ成範が、その命を延ばしてもらおうと泰山府君に祈ったところ、成範の風流な心に感じた泰山府君が現れ、願いを叶えってやったと云う。本作は、満開の山桜の下でくつろぐ桜町中納言と従者を描いたもので、構図自体は『光琳百図』所載の光琳画をほぼ忠実に踏襲している。「桜町中納言図」は師の酒井抱一にもいくつかの遺品があり、江戸琳派において継承された画題のひとつといえる。(久保佐知恵稿) 】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手 図録』所収「作品解説56 桜町中納言図」)
ここで、冒頭の抱一画集『鶯邨画譜』所収の「桜町中納言図」(に戻り、これは、まさしく、「抱一筆」とか「其一筆」とかではなく、『鶯邨(抱一の「雨華庵(工房)」の別称)』の「画譜(マニュアル・手本)」の「一コマ」のものという思いを深くする。
さらに、付け加えるならば、上記の其一筆「桜町中納言図」(千葉市美術館蔵)には、次のような箱書きがある(『日本絵画の見方(榊原悟著)』)。
(箱表) 桜町中納言 竪幅
(箱裏) 先師其一翁真蹟 晴々其玉誌 印
この「晴々其玉」は、其一の高弟・中野其明(きめい)の子息・中野其玉(きぎょく)であり、この其玉にあっては、その「先師」とは、酒井抱一ではなく、鈴木其一その人ということになる。
そして、この其玉に、『鶯邨画譜』を継受したような『其玉画譜』(小林文七編)があり、次のアドレスで、その全図を見ることが出来る。ここに、まぎれもなく、「其一→其明→其玉」の「其一派」の流れを垣間見ることが出来る。
一 ARC古典籍ポータルデータベース (カラー版)
http://www.dh-jac.net/db1/books/results.php?f3=%E5%85%B6%E7%8E%89%E7%94%BB%E8%AD%9C&enter=portal
二 国立国会図書館デジタルコレクション (モノクロ版)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850329